平兵士は過去を夢見る - タテ書き小説ネット

平兵士は過去を夢見る
丘/丘野 優
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︻小説タイトル︼
平兵士は過去を夢見る
︻Nコード︼
N7133BT
︻作者名︼
丘/丘野 優
︻あらすじ︼
伝説の勇者たちに率いられ、散っていった平凡な兵士たち。しか
し彼らのうちの一人に奇跡が起こる。
目を開けば、そこは過去滅びたはずの自分の村だった。しかも自分
の体は赤ん坊!?
ひょんなことからもう一度人生をやり直すことになった一人の平兵
士の、おそらくはサクセスストーリー。
※短編﹃平兵士は父を夢見る﹄の連載版です。
1
※書籍化が決まりました。
2
父は息子の夢を追いかける 1
遠い微睡の向こうで、誰かが夢を見ていた。
それは、悲しみと︱︱そして、救いの物語の夢だった。
これは誰の夢だ︱︱俺の?
いや⋮⋮これは⋮⋮。
◆◇◆◇◆
︱︱あぁ、これで世界が救われるんだなぁって。
そう思った瞬間だ。
自分の胸から銀色の鋭い鉄の塊が伸びているのを発見したのは。
﹁⋮⋮え?﹂
驚いて、そんな言葉しか出なかった。
え?
なんて。
もっと気の利いた台詞が出てくるもんなんじゃないのかな、こう
いう時ってさ。
神様だって、こういう時くらい、贔屓してかっこいい台詞を言わ
せてくれてもいいんじゃないか。
そう思う。
3
でもな。分かってる。仕方ないんだよ。
あっけないものなんだ。びっくりして目が飛び出てくるくらいさ。
とんでもなく、あっけないものなんだ。
何年も続いた戦争。
その中で、沢山の知り合いが命を落としていった。
中には、親友だっていたし、結婚しようってプロポーズした相手
もいたんだ。
はじめの頃は、俺たちは絶対に死なないんだって、そう思ってた。
どうしようもないほどの、全能感っていうかさ。今思えば、まず
間違いなく気のせいだったんだろうけど、でもさ。
とてつもなく、明るい時代が来たと思って、浮かれてたんだ。
俺たちは、絶対に勝つって、そう心の中から信じられるほどの。
ある日英雄が、伝説の武器を持って俺たちの国に現れるなんて、
まるで物語の中みたいだって、そう思ったんだ。
勇者、聖女、大魔導、精霊王。
期待したっておかしくない面子だろ?
そりゃあ、期待したさ。
だけど現実は残酷なもんでさ。
彼らがいたって、兵士は死ぬんだ。
メルロも、ヒルティスも、ケルケイロも、もう帰ってこない。
帰ってこないんだ。
4
なのに、俺だけがみっともなく生き残って、最後の最後まで着い
て来て。
復讐心だけ引っさげて血反吐、吐くくらい頑張ってついてきたん
だ。
そうしたら、目の前で見れた。
勇者が、聖剣をもって、人類の悲願を達成するところを。
圧巻だったぜ。
輝いていたんだ。勇者も、剣も、空気もさ。
だから思ったんだ。
︱︱あぁ、これが世界が救われるんだなぁって。
だから、思わなかったよ。
こんなところで敵の残党にぶっ刺されてるなんてさ。
そんなわけで、俺、世界国家連合魔王討伐軍一兵卒、ジョン=セ
リアスは、すっきりさっぱり、死にましたとさ。
はは。笑えないな。
そう思って、俺の記憶は途切れた。
それからしばらくして、明晰なようでいて、ぼんやりとした意識
を取り戻した俺は、思った。
さっきまでのあれは︱︱長い夢だったのかもしれないな、と。
5
空は暗く、世界は闇に包まれ、人は死に、魔が闊歩する。
そんな時代の、かなしい夢で。
だから全ては嘘だったのかも、と。
でも。
ぱちり、と目を開いたそのとき、俺には、はっきりとそれが夢じ
ゃなかったんだってわかった。
分かってしまった。
あれは、確かに存在したことだ。
事実だ。
まるで夢にしか思えない、夢としか思いたくない苦しくてつらい
記憶なのだとしても、確かにあったことなんだ。
そんな風に。
そしてそれは、ある意味では救いでもあった。
だって、そうじゃないと、俺は顔向けができないから。
戦って死んでいった仲間たちに。
命を懸けて守った人々に。
そして、弱いくせにどこまでも死ぬ気で頑張った自分自身にも。
そう。
あれは、あったこと。
確かに存在したこと。
俺はあの伝説の英雄達に率いられ、魔王城に突入し、勇者が魔王
を倒すところを目撃し、そしてその残党にすっきりさっぱり殺され
たんだ。
6
それが、過去存在した、確かな事実だ。
だから、今目の前にある光景は、よく解らない、不思議なものだ。
︱︱どうして魔王軍に破壊された俺の家が今もまだ存在している?
◇◆◇◆◇
﹁︱︱ジョン? どうしたの? そんなまるで狐に摘ままれたみた
いな顔して⋮⋮﹂
不思議そうな顔で俺を見つめているのは、若い娘だった。
しかし、まるで幼馴染のような、と言いたくなるくらいの年齢に
見えるこの人は別にそんな相手ではない。
・・・・
この人は、あの戦争が始まってからは見たこともないくらいに穏
やかに微笑んでいるこの人は、俺の母親だ。
若いころの母さんなんて絵画にでも残しておいてくれなければど
んな顔をしてたかなんて、親父や、じいさんばあさん、それに昔か
らの知り合いの思い出話くらいでしか知りようがないが、こうやっ
て実際に対面すると驚くものだ。
︱︱若いころは綺麗だったのよ!
なんて、まるまる太った母さんから何度も聞いた台詞で、まぁ昔
話で盛るくらいは別にいいだろうと聞き流していた。
小さいころの記憶は遠く、物心ついたころには既にかなりの重量
級の体型をしていた母さん。
しかし、現実にそうなってしまうよりもほんの少し前は、本当に
線の細い御嬢さんだったらしい。
7
まぁ元々、王都で手広くやってる豪商の末娘だったとは聞いたこ
とがあった。
だから、ある意味納得ではあるのだが、それにしてもこれが数年
でああなってしまうのかと想像するとため息が出る。
﹁⋮⋮? 今度はまた随分と厭世的な顔をしてるわね⋮⋮? この
年頃の子ってこんなに表情豊かだったかしら⋮⋮まぁいっか。ほら、
ご飯の時間よ﹂
そう言って、彼女は着ている服の胸元をはだけはじめる、
なぜそれがご飯になるか?
そりゃあ、もちろん。
﹁⋮⋮ばぶぅ⋮⋮﹂
俺が赤ん坊だからだよ。
◇◆◇◆◇
そのことに気づいたのは、目が覚めてからしばらくのことだった。
自分の体の不自由さ︱︱なぜか動かない首、それにいまいち力の
入らない手足︱︱は、俺が魔王軍の兵士に後ろから刺されても奇跡
的に助かったが、なんらかの後遺症が残ったからだ、と少しの間思
っていた。
しかしそれでも、目は見えていたし、ぎょろぎょろと動かせば忙
しなく人が動いているのが分かった。
だからしばらくの間、きっとここは病院か何かで、俺は患者なの
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だろうと、そう思っていた。
重症の患者は戦争の後期になるとほとんどが戦場の理に従いその
場で楽にしてもらうことになっていた。
一兵卒に過ぎない身であれば尚更だ。
だから刺されて気を失った俺の運命もほとんど決まったものだと
思っていたのだが、よくよく考えてみればその対応は物資も人員も
欠ける上、病人の看病などしている暇もないような極限状況だった
からとられていた対応であって、魔王が勇者によって倒されたのな
らとる必要のなくなるものだ。
それに、現実問題として、人間はその数を減らしすぎた。
年頃の男は殆どが徴兵されたし、その道行きの先には余程の強運
の持ち主でなければ死が待っていた。
戦争が始まって以来、人口は減少するばかりであり、その意味で
も人類はジリ貧だったのだ。
だからこそ、死んでいく男と言うのは惜しい存在だった。
戦争が終われば、人を増やすことが国家として必要になってくる
以上、たとえ俺のような一兵卒であっても死なせる訳にはいかない
という判断だったのだろう。
魔王の住む城に向かうにあたり、俺たち世界国家連合魔王討伐軍
は、高価な武器や薬剤を大量に持ってきていた。
それは一兵卒である俺に至ってもだ。
なにせ、総力戦の最後の一手だ。
物資も兵力も状況も、何もかもがこの戦いで敗北すれば人類は終
焉を迎えるという事を物語っていた。
今さら、伝説級であったとしてもアイテムをけちけちして負ける
ようでは結局無駄になるのである。
ならば使ってしまえと、そういうことだったらしい。
9
太っ腹、と言うよりはなりふり構っていられなかったと言うのが
正直なところだったのだ。
まぁ、そういう意味で限界に近かったのは魔族も同様だったが。
だから、つまり俺にはそういう非常に高価で効力の高い薬剤が投
与されたのだと思った。
だからこそ、俺は死なないで済んだのだと。
3級ポーションなんて、平時であれば金貨何枚なんだという物も
信じられないくらいの量が集められていたくらいだし、もう魔族と
の戦なんてないのだと考えれば一兵卒である俺に対して使ってくれ
ることもあるのかもしれなかった。
だから、これは全然おかしくないことで、まぁ、数日もすれば起
き上がれるだろう。
そう思っていた。
けれど、その考えは結果的に間違っていたことを俺はすぐ知るこ
とになった。
それは食事のとき、どこか見覚えのある若い娘が︱︱つまり俺の
母さんが﹁ご飯よ、ジョン﹂と言ったときであり、軽々とその娘に
体を持ち上げられたその瞬間でもある。
果たして、俺の体はこれほどにまで軽かっただろうか?
そんな疑問が発生すると同時に、色々なことが気になり始めた。
目の前の娘は、誰かに似ていないだろうかと。
すごく近しい︱︱そう、いつも鏡を見ると目に入る︱︱俺に何と
なく似てないだろうか。
目元など、そっくりではないか。
いや、そもそも、少しふっくらさせれば、俺の母さんに似ている
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ような⋮⋮?
というか、今俺がいるこの部屋。
ここってなんとなく見覚えがあるんじゃないか?
病院、という感じでもないし、先ほどちらっと目に入った絵は確
か実家に飾られてたものに似ているような。
しかしそこまで考えても、まだ状況を把握するには至らなかった。
目の前にいる娘は確かに母さんにも俺にも似ていたが、いかんせ
ん若すぎるし、部屋も、実家に似てはいるが、俺がつけた筈の傷と
かも見えない。
だから、似ているけどやっぱり違うのだろうと、現実逃避にも似
た気持ちで否定していた。
だけど。
どたどたとした音と共に、部屋に誰かが近づいてくる気配を感じ
た。
足音からして、多分、男だろう。
その人物は部屋の前まで来るとドアを開けて入ってきた。
一体誰が来たのかと、俺は視線を部屋の入口の方へと向けた。
そして、その瞬間、俺は悟った。
ここは︱︱あぁ、ここは、まごうことなき、俺の家なのだと。
﹁おぉ、その子がジョンか! エミリー、俺にも抱かせてくれ!﹂
そんなことを言った男。
その視線は俺に固定されており、なるほど﹁ジョン﹂とは、はっ
きり俺のことを言っているのだと理解できる。
しかも、その顔には、見覚えがあった。
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懐かしい、その顔。
戦争の初期に、砦で戦いそして亡くなったはずのその男。
それは、俺の父親︱︱アレン=セリアスその人に他ならなかった
のだから。
﹁あら、アレン。随分早く帰ってきたのね﹂
母さんが、父さんにそう言って微笑む。
失われた風景。
幸せで、もう戻ってこないはずだったそれ。
俺は涙が抑えられない。
﹁⋮⋮うえーん﹂
﹁お、おい! 俺の顔を見て泣いたぞ!﹂
﹁あなたの顔、怖いから⋮⋮熊みたいだものね﹂
﹁そんな! 俺は父親だぞ!﹂
﹁父親でも熊は熊よ。怖いわ﹂
﹁お前まで⋮⋮﹂
﹁ふふ。ほら、ジョン。泣かないで。お父様よ﹂
﹁そうだ! お前が生まれたからと、休暇をもらって帰ってきたん
だぞ! 泣かないで笑ってくれ﹂
二人は楽しそうに、幸せそうに俺をあやしている。
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そんなことをされればされるほど、涙が止まらなくなってくるの
だが⋮⋮これはもう仕方のないことだろう。
失われた景色が、今ここにある。
どんな奇跡もかすむような事実が、俺の手に。
ふと、俺は自分の手を見てみた。
まるっこい手だ。剣をただひたすらに振り、血豆をつくっては潰
してきたあの固い手ではない、ふわふわのマシュマロのような手が
そこにはあった。
母が撫で、それに続いて父もそれにガラス細工を扱うような手つ
きで触れる。
家族の感触がした。
母の手はさらさらと優しく、父の手はかつての俺の手のようにご
つごつと固い。
父は、兵士だった。
国境に近い魔の森を守護するための砦に務める守り人として、そ
の人生の大半をそこで過ごした人だった。
勤勉であり、また剣の腕も飛び抜けていて、人望もある、そうい
う人だった。
だから俺はその後を追おうと、兵士になった。
俺は、この人に追いつけたのだろうか。
この人に誇れる人間になれたのだろうか。
そんな感情が、本人を目の前にすると湧いてくる。
﹁⋮⋮ばぶ⋮⋮﹂
声にしてみようとしても、そんな言葉にもならない声しか出ない。
仕方があるまい。そうだ。俺は今は⋮⋮まだ喋れない。そういう
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年頃なのだろうから。
ただ、いつか、聞いてみようと思った。
俺のかつて過ごしたあの兵士としての一生は、貴方に恥じないも
のだったのかと。
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父は息子の夢を追いかける 2
これは︱︱誰の夢だ。
一体誰の︱︱。
・・
分からない。
ただ、俺がいる。
俺が、出てきている⋮⋮。
◆◇◆◇◆
生まれてから5年が過ぎ、俺は改めて自分の住んでいる村の美し
さに気づいた。
森を切り開いて作られた、小さく平凡な村。
どこにでもあるけれど、あの時代、どんなところにもなくなって
しまった、平穏な風景。
俺はそのかけがえのなさを知っている。
そんな森の中を、俺は歩いた。
そこらに生えている植物を見ては、元気がなさそうなものに魔法
をかけていく。
そうだ。
俺は魔法が使えるようになった。
前世では使うことのできなかった、回復魔法と浄化魔法をだ。
前世において、それは信仰深い司教たちしか使用することはでき
ず、俺は当然使うことはできなかった。
けれど、彼等に聞いた話を俺は覚えていた。
その使用のための必要条件、それは神を深く信仰すること、祈る
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ことだった。
俺は今世において、その言葉に従い、生まれたときから毎日欠か
さずに祈ってきた。
その結果が、今、出ている。
もちろん、その威力たるやかなりしょぼいものだが、いつかはか
つての司教たちのように、大けがを一瞬で直せるようになりたいも
のだ。
ちなみに、両親たちには内緒にしている。
いつかは明かさなければと思うが、それは今ではないだろう⋮⋮。
そんな風に過ごしていると、よく村人たちに話しかけられた。
子供をあまり遠くに行かせないための配慮だろう。
小さな村だ。
そうやって村ぐるみで子供を育てる。
そんな文化がここにはあった。
ただ、子供たちには遠巻きにされていた。
村の子供の元締たる、ガキ大将的な存在に俺があまり好かれてい
ないからだ。
おそらくは、俺のどこか子供らしくない部分を本能的に感じ取っ
ているのだろう。
いじめる、とかそういう感じではなく、奇妙なものを見るような
目で俺を見ているのを感じる。
前世において、俺は村のガキ大将を務めている男とは酒を飲み交
わす仲になったこともあり、できれば今回も仲良くしたかったのだ
が、こうなってはそれも難しい。
少し寂しい気もするが、しばらくはこのままだろう。
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何か機会があればいいのだが⋮⋮。
ただ、そればかりにもかまけてはいられない。
なぜなら、そういうことよりも大事なことがあるからだ。
俺はこの村を、そして世界を救うつもりなのだから。
かつて滅びた村を、そして国を。
そのために、毎日修練に励むのだ⋮⋮。
強くなれば、親父から森に入る許可も得られる。
親父は俺に言った。
自分に一撃入れることが出来れば、森に入る許可を与えてやると。
そうすれば、できることも増える。
魔法の実験も、したいことがある。
魔法は回復・浄化魔法以外にも色々あるが、一般に攻撃魔法と呼
ばれているものは、ある程度以上の魔力を持たないと使うことがで
きないというのがこの世界での常識だ。
そして、魔力を魔術師として活動できるようなレベルで扱えるよ
うな者は、国の調査により発見され次第、保護され魔法学院へ入れ
られることになる。
俺は前世、そこに入ることは出来なかった。
ただ、今回は違う。
なぜなら、俺は、毎日魔法の訓練をすることにより、生来の魔力
量を魔術師になれる程度まで上昇させることができるという事実を
知っているからだ。
これは現在、世界では誰も知らない、未来の知識である。
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この知識に基づいて、俺は出来るだけ早く魔術の練習をする必要
があり、そのため、俺は出来る限り森に入れるようならなければな
らないのだ。
まさか村で攻撃魔法をばんばんぶっ放すと言う訳にもいかないだ
ろうから。
◆◇◆◇◆
村を散策し、家に帰ると母さんが機嫌よさそうに料理を作ってい
た。
聞けば、親父が帰ってくるらしい。
それは俺も楽しみなことだった。
親父にも母さんにも、俺は返しきれない恩がある。
前世で兵士になったとき、武具を贈られたのだが、王都の鍛冶師
にその出来を尋ねたら、とんでもない業物だと言われたのだ。
あの武具が最後の瞬間まで、俺の命を守ってくれたのは間違いが
ない。
だから、この二人には感謝している。
翌日の早朝、親父は帰ってきた。
二人はその仲の良さを俺にいかんなく見せつけてくれたが、まぁ、
両親の仲がいいのは悪いことではないだろう。
そんな平凡な日常が、俺の現状だ。
涙が出てくるくらい、幸せな日々。
これを、俺は守らなければならないのだ。
そう、思った。
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◆◇◆◇◆
朝食を終えた後、王国支給のミスリル鎧ではなく、自前の魔物皮
の鎧を身につけた親父は俺を森へと連れ出した。
親父は帰宅すると、いつもこうやって森に入り、魔物を狩るのだ。
母もそれを楽しみにしている。
俺もそうだ。
何せ、森に入れるのだから。
ただ、今日森に入ったのは俺と親父だけでなく、もう一人︱︱村
のガキ大将たる少年、テッドも一緒だった。
テッドは村一番の猟師グスタフの息子だが、猟師であるグスタフ
をしても森に足手まといを連れて行くのは出来る限り避けたいらし
い。
森には魔物がいるから、当然のことだが、親父はその点、魔物な
どものともしない実力がある。
だからグスタフも息子を安心して任せられるわけだ。
森は暗く、高く延びた木々が太陽の光を地面まで通さない。
そんな中を歩くのは、親父はともかく、俺やテッドにとってはき
ついものがあった。
ただ、俺はそれでもそういう環境に慣れている。
吐きそうなくらい辛い状況を何度も乗り越えてきた過去がある。
だから、テッドよりは我慢強くはある。
しかし、テッドにはそんな経験があるはずもない。
だから、少しでも気を紛らわせようと話しかけてみた。
すると、やはりテッドは俺を警戒しているようで、何ともいえな
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い表情で返答してくる。
そのぎくしゃくとした様を見ていた親父は、豪快なことに、俺と
テッドに、お前らはお互い気になりすぎてそうなっているのか、つ
きあいたいのかなどと冗談を言い始めた。
さすがにそれはないとテッドと二人で否定したのだが、その際勢
い余って、俺もテッドも、好きな人の名前を叫んでしまう。
しかもその名前というのが二人そろって、村の女の子、カレンで
あり、お互いなんとなく気まずい感じになってしまった。
けれどテッドは、そんな風に秘密を共有することになってしまっ
たから腹がくくれたのだろう。
一緒に秘密を抱えるものとして、友達になるかと手をさしのべて
くれた。
それがうれしくて、俺はつい涙を流してしまう。
テッドは俺をあわてて慰めにかかり、ふっと笑った。
俺はこの際、どうして俺のことを避けていたのか聞いてみようと
思い、
﹁どうして、俺のことを変な奴だと思っていたんだ?﹂
と聞いた。
そうしたら、テッドは驚くべきことを言ったのだ。
20
﹁お前、魔法使えるだろ?﹂
魔法を使えることを隠してきた俺にとって、それはまぎれもなく
爆弾だった。
◆◇◆◇◆
ただ、現実にはテッドの台詞はそこまで心配することでもなかっ
たようだ。
テッドは軽く、今度俺にも魔法を教えてくれよと言ったがそれだ
けだったからだ。
別に陰謀とか考える年でもないのだから、こんなものなのだろう。
そもそも、俺は今後世界を魔族から守るために、自分の秘匿して
いる技術を伝えていかなければならない。
そのことを考えれば、その第一号がテッドであるというのは悪い
選択肢ではないようにも思えた。
彼は、ガキ大将をやるだけあって、口の堅い男だった記憶がある。
だから、別にこのタイミングで、俺が魔法を使える、という事実
を知られても、それは構わない。
ただ、俺の使えるような魔法を教えていいのかどうか、というの
はまた別の話になるが、それはまた後で考えればいいことだ。
ただ、それでも俺が魔法を使える、ということは人に言ってはい
けないことは、しっかりと口止めしようとは思ったが。
なにせ、魔法自体、この時代では多くは国がその秘密を独占して
いる技術なのである。
それを辺境の村の子供が知っている、というのはあまりよろしく
ない事実だろう。
そんなことを考えながら森を歩いていると、突然、親父の怒声が
21
聞こえた。
﹁来るぞっ!﹂
何がとは聞く必要がなかった。
それは魔物以外の何者でもないことは、状況的に明らかだったか
らだ。
ただ、実際にその魔物と相対して、それが予想外だと感じたのは、
その魔物があまりにも大物だったからだ。
﹁クリスタルウルフ⋮⋮﹂
狼を巨大にし、水晶で装飾したようなその魔物を俺はかつて戦場
で幾度と無く見たことを思い出す。
その恐ろしさも、よく知っている。
魔物と魔族は厳密には異なる存在で、かつて人類が争っていたの
は魔族だ。
そしてクリスタルウルフは魔物であり、戦場にたまにやってきて
は、人類魔族両陣営を蹂躙したものだから、複雑な思いがある相手
でもあった。
この場において、目の魔物は敵の位置にいる。
本来ならさっさと逃げるべき状況だ。
けれど、ここには親父がいた。
魔の森の主語兵士たる、親父が。
親父は魔剣士と呼ばれる特殊な技能をもった戦士であり、とてつ
もなく強い。
22
実際、目の前でクリスタルウルフと戦い始めた親父は、拮抗する
戦闘を披露した。
けれど、親父にしてみればその状態こそが予想外だったらしい。
通常ならクリスタルウルフは一撃で親父の剣に沈むはずだったよ
うだ。
にもかかわらず、戦いはなかなか終わらなかった。
そして、ついにクリスタルウルフはその切り札を使う。
クリスタルウルフの体が奇妙な揺らめきと光に包まれ始めたのだ。
それが何と呼ばれるものなのか、俺は知っていた。
スタンピード
魔力暴走と呼ばれる、魔素を持つものすべてを消滅させる荒技で
ある。
けれど、使用するとそのクリスタルウルフは能力が一定期間落ち
ると言うことも未来では明らかになっており、諸刃の剣である部分
もあった。
ただ、この場においてはただただ危険な技でしかない。
そのことに気づいた親父は一瞬で逃げるべきと判断を下し、俺と
テッドを小脇に抱えて走り出そうとした。
けれど俺は知っていた。
これを止められるかも知れない、方法を。
23
﹁⋮⋮止める手段があるなら止めないと﹂
そうして、俺は親父の脇からするりとぬけだし、クリスタルウル
フの前に立って叫んだのだった。
﹁クリスタルウルフ! 聞いてくれ!﹂
24
父は息子の夢を追いかける 3
驚くべき勇気と決断を見せ続けるその少年は、誰だと俺はぼんや
りとした意識の中で思った。
いや、誰なのかは知っている。
知っているが、自分が知っているその人物とはあまりにも違いす
ぎるのだ。
顔は、同じだし、性格も変わっていないように思える。
ただ︱︱何かが、違う。
それだけが分かる。
彼は勇気を見せ続けた︱︱その夢の中で。
◆◇◆◇◆
この時代、魔物には知能などないというのが通説的な考えだった
が、未来においてそれは覆されていた。
大魔導ワイズマン・ナコルルがぶち上げた学説。
それは彼等魔物は魔族と異なる存在であり、かつ高い知能を持っ
ている、というものである。
フェンリル
当初は与太話でしかなかったそれは、勇者と聖女が白神狼と呼ば
れる強大な魔物を仲間に引き入れ、国王の前に連れてきたことによ
フェンリル
って事実として認められた。
白神狼はあろうことか、人間の姿へと姿を変え、そして自らが魔
物であり、魔族と異なる存在であることを国王に奏上したのだ。
25
つまり、その事実によれば、今俺の目の前にいるクリスタルウル
フにも言葉は通じるはずだった。
クリスタルウルフは魔物の中でも上位の存在であり、言葉の通じ
る可能性も高い。
それなりに知能があるはずだからだ。
だから、俺は呼びかけた。
そして、その賭けは成功したのである。
スタンピード
クリスタルウルフは俺の呼びかけに答え、その物騒な魔力暴走を
引っ込めてくれたのだ。
もともと、その技は、自らの子供を守るためにのみ使われるもの。
子供の安全を真摯に訴えかければ話は通じる、と思ったことは成
功だったらしい。
クリスタルウルフはそして、俺に対し、誓約に応じることを求め、
俺はそれに乗った。
誓約は、魔法的契約の一種で、破るとペナルティが生じる。
そのペナルティがどういうものかは、場合によるのだが、クリス
タルウルフとの誓約はかなり大きなペナルティがあるらしいことを
その口調から感じ取れた。
けれど、だからといって、断るわけにはいかない。
要は、裏切らなければいいのだ。
そう思って俺は頷いた。
さらに、その態度をクリスタルウルフは気に入ってくれたらしい。
26
親父からもらった亜竜の宝玉を誓約の証として俺は差しだし、ク
リスタルウルフはその角を折って俺に差し出した。
すると、クリスタルウルフの欠けた角が復活し、亜竜の宝玉の持
つ赤に染まった。
聞けば、彼らクリスタルウルフの角も、宝玉も魔石の一種らしく、
形状の加工は簡単なのだという。
そうして誓約を終えたあと、クリスタルウルフは俺に自らの住処
を告げて、いつでも歓迎することを約束し、去っていったのだった。
テッドはその様を唖然とした表情で見つめていたが、クリスタル
ウルフが完全に見えなくなると、息を吐いて色々叫んでいて、それ
は村に戻っても続いたのだった。
◆◇◆◇◆
森に出る前に、俺はテッドと話した。
内容は、クリスタルウルフとの誓約について、それに魔法につい
てだ。
語ったことの中には現代ではまだ広まっていない知識がいくつか
あり、あまり言いふらされては困る。
なので口止めをした。
すると、テッドは基本的には秘密にしておくことに同意してくれ
たが、どうしても隠しきれない者を数人挙げたきた。
それは、俺とテッドの思い人である少女、カレンに、村の子供集
団の中でもなんとなく他の者と一線を画して子供集団の幹部のよう
27
な扱いになっている数人。
三馬鹿と呼ばれる、コウ、オーツ、ヘイスという少年たちと、視
力矯正魔導具たる眼鏡をいつもかけているフィルという少年だった。
隠したくないと言うより、このあたりにはいくら隠してもいずれ
ばれてしまうだろう、というテッドの言葉に俺はそれもそうだとう
なずき、結果として俺、テッド、カレン、三馬鹿、フィルの七人で
秘密を共有していこうという話に落ち着いた。
三馬鹿は前世でも軍に入り出世したし、フィルも学者兼官吏とし
て王国の中枢に食い込んでいたから、そういうことも含めて彼等は
仲間に引き込んでおいた方がいいだろう。
そう思ってのことでもあった。
村に帰り着くと、テッドの母親であるフレイが野良仕事をしてい
たので、森で狩ってきた魔物を渡した。
その際、フレイが森から獣の叫び声を聞いたというので、それに
ついては安心するようにと親父が説明した。
クリスタルウルフが出たが、すでに倒した。
毛皮類は傷だらけにしてしまったので、持ってくることは残念な
がら出来なかった。
もしかしたら他にも何匹化いるかもしれないが、見つけても絶対
に手を出さないよう、猟師連中に伝えてくれ。
大要そのような台詞で、普通ならそれだけで納得できるような話
ではない。
しかし、親父が言うのならそれで十分なのだろう。
実際フレイはそれを信じてうなずき、よく伝えておくと言った。
28
それから家に戻り、狩ってきた魔物を親父、俺、テッドの三人で
裁いた。
テッドが帰る段になり、親父は改めてテッドに今日のことは秘密
にしておくようにと念押しした。
その際、ソステヌーの学術究理団を引き合いに出して脅していた
が、少し言い過ぎたのかテッドはふるえていた。
学術究理団とは、つまり単純に言えば、いかれた学者の集団のこ
とで、ソステヌーという街をその根城にしている、盗賊すらも恐れ
るような者たちのことだ。
一般的に、悪いことをしたら彼等がくる、というような言い方で
脅しに使われる。
テッドはまさに怯えたのだから、その使い方は正しいのだろう。
それから、テッドが家に帰った後、親父は俺の方を振り向いてい
った。
﹁さて、ジョン。詳しいことを聞かせてくれるだろうな?﹂
やはり、親父の目はごまかせなかったらしい。
一連の数々の出来事が、親父に俺に対する疑問を抱かせたらしか
った。
俺の息は、その瞬間、止まった。
◆◇◆◇◆
一枚板で作られたテーブルを挟み、親父と母さんが対面に座って
いた。
時間は刻々と過ぎていくが、なんといいっていいのかわからない。
29
そしてそれは親父たちも同様らしかった。
母さんが俺に言った。
﹁ジョン。あなたが何を隠しているのかは分からない。けれど、私
たちに話すのがそんなに苦しいことなら⋮⋮無理に言わなくてもい
い。あなたが私たちの息子なのは、たとえどんなことがあっても変
わらないわ⋮⋮﹂
と。
親父もその気持ちは同様のようで、母さんに頷いて同じように謝
罪を口にした。
そんな二人に対して、俺は申し訳ない気分になる。
だって、俺は、秘密を抱えている。
それは、過去において一度、死を迎え、そしてもう一度、この世
界に生まれ直したということだ。
そのことが示すのは、俺が親父と母さんから、俺を育てる楽しみ
を奪ったということに他ならない。
本当なら、俺はもっと手の掛かる子供だったはずだ。
それは、親父と母さんに、大変ながらも子育ての楽しさというも
のを与えただろう。
それを俺は奪った。
そのことがたまらなく申し訳なかった。
何も言えなくなって、俺は立ち上がり、部屋に戻ろうとした。
けれど、母さんの勘の冴えは、この一瞬に猛烈な回転を示した。
母さんはふっと気づくように言った。
30
﹁もしかして、ジョン、貴女⋮⋮私たちを悲しませたくないから話
せない、とか考えているんじゃないの?﹂
それは間違いなく事実だった。
そしてあっけにとられた俺を、親父が捕まえにかかった。
それからの二人は、さきほどまでの憔悴具合が嘘のようだった。
俺が悪いことをしているから、と言う訳ではなく、ただ二人への
気遣いの為に離さなかっただけと理解したからだろう。
俺に爛々と輝く目で秘密の暴露を迫った。
それは、俺がどんな風でも受け入れるという信頼を示してくれた
に他ならなかった。
そんな二人の様子に俺は覚悟を決めて、秘密を伝えることを決意
した。
けれど、そのために俺は一つの提案をした。
親父に対し、俺と戦ってほしいと、そう言ったのだ。
そうすれば、親父はたちどころに俺のことを理解してくれるだろ
うと思ったのだ。
戦士とは、そういうものだ。
親父は俺の提案にうなずき、その日の家族会議は終わった。
次の日の早朝、俺と親父は家の前で準備運動をし、それから戦い
31
に入った。
お互いに構えるだけで、その技量の差が分かる。
親父のそれには隙がなく、そして俺の構えは親父のものと鏡合わ
せのように似ている。
親父はそれを見ただけで、何かを理解したようだった。
﹁⋮⋮昨日までのへっぽこと一緒にしては悪いみたいだな﹂
そう言ったのだから。
俺は昨日まで親父の前では手を抜いていた。
それを、親父ははっきりと見抜いた。
戦いが、始まる。
◆◇◆◇◆
親父と俺の剣術は、この国に伝わる伝統的なものだ。
ルフィニア流と呼ばれるそれは、極めて合理的な思考、技術の集
合体だ。
だからこそ、この国の兵士は皆これを学ぶ。
親父も俺も、それを使って打ち合った。
そして、数合打ち合うだけでお互いの力が正確に分かっていく。
その思考すらをも。
その中で、親父は俺の奇妙さに気づいていった。
32
俺の技術が、動きが、思考が、まるで子供のものではないという
ことに。
俺はそれに対して無言で戦い、切りつけ、親父の思考を加速させ
ていった。
そんな中で、思う。
強い、と。
やはり、親父はただひたすらに強かった。
前世を通して、親父は俺の目標だった。
今でも全く越えられていないどころか、追いつけることすら出来
ていないのだな、と突きつけられるような戦いは、けれど俺に高揚
を運んでくる。
なぜなら、俺はそんな中でも勝機を見失ってはいなかったからだ。
俺には、切り札があるからだ。
何度も打ち合う中、限界に達した俺に、親父は言う。
﹁そろそろウォーミングアップは終わりにするか、ジョン﹂
俺はそれにうなずき、そして過去を思い出しながら、技の中に反
映していく。
怒り、復讐心、絶望、殺気。
33
すべてを体中からかき集めた俺に、親父は一瞬気圧された。
俺は親父に言う。
﹁親父、俺の真実を知ってくれ﹂
と。
親父はそれに答えて、構えた。
﹁⋮⋮来い﹂
俺は剣を握る手に力を入れる。
﹁⋮⋮五十九代剣聖流⋮⋮またの名を、スルト流。⋮⋮いくぜ、親
父﹂
俺の学んだ、前世の︱︱未来の技術。
現代の剣聖は五十八代目だ。
だから親父は俺の口にした単語に目を見開き、何かを聞きたそう
に言葉を紡ごうとした。
けれど俺は殺気を向け、親父の台詞を遮った。
親父はそれを笑って受け、かつての剣聖流開祖の台詞を引用して
構えた。
﹁⋮⋮今は、剣にて語るのみ、か﹂
かつて王国の剣術大会決勝で開祖が対戦相手に言った台詞。
剣以外で語ることは無粋と切って捨てたその言葉。
それこそが、今この場で俺の最も言いたいことに他ならなかった。
34
そうして、俺は向かっていく。
親父はこれが最後と思ったのだろう。
そのとっておきの技を出した。
﹁剣聖流︱︱絶禍の太刀!﹂
それは剣聖流の中でも最強と言われる技だ。
特に、開祖の放ったそれは誰も破ったことのないと言われるほど
のもの。
けれど未来においては⋮⋮。
﹁スルト流、連禍!!﹂
発明された返し技。
歴史の積み重ねがついに辿り着いた方法。
俺は、渾身の力を込めてそれを放った。
俺と親父の剣が交錯する。
それは一瞬のようにも、永遠のようにも感じられた。
けれど、結果は。
﹁⋮⋮驚いたぜ、ジョン﹂
そう言った親父の頬には一筋の切り傷が入っている。
なんとか、一撃入れることには成功したらしい。
けれど、そこまでが俺の限界だった。
限界まで酷使した体は視界を暗くし、足下から力が抜けていく。
35
そうして、俺の意識は暗闇へと消えていったのだった。
36
父は息子の夢を追いかける 4
なぜ、戦っている︱︱
何のために︱︱
そんな疑問が心の中に湧き上がってくる。
けれど、二人とも楽しそうで。
だから、その戦いが決して悪いものだとは思わなかった。
むしろ、それは必要なもので︱︱尊い何かが宿っているのだと、
鈍い頭の働きの中で本能に近いものが教えたような気がした。
そして、夢は進んでいく。
先ほどまでのものとは違う、暗く、悲しい何かに場面が移ってい
く。
そこにな見たことのない、けれどどこか見覚えのある青年が二人
︱︱
◆◇◆◇◆
︱︱お⋮⋮ろ⋮⋮⋮。
⋮⋮?
なんだ。何か聞こえる。
37
︱︱起き⋮⋮ン⋮⋮⋮⋮。
だからなんだ。
何が言いたいんだ。
﹁⋮⋮起きろ!! ジョン!!!!﹂
耳元で響いたその巨大な音に、俺の意識は完全に覚醒へと導かれ
た。
びくり、と体が痙攣し、跳ね上がるように体が起きあがる。
ぼんやりとした状況認識のもと、それでいてキンキンと耳鳴りの
聞こえる中、目を開くとそこには見慣れた顔があった。
端正な顔の作りの割にその笑みはどこか悪巧みをしているかのよ
うに思えてしまうその男は、魔王討伐軍の中でもなぜか好んで俺と
連むことが多い変わり者だ。
平民なら何もおかしいことはないのだが、こいつは平時であれば
俺など足下にも寄りつくことの出来ない巨大な一門の総領息子だ。
その癖、どうしてなのかこうして俺みたいな平民上がりと気があ
ってしまう、奇妙な男だった。
﹁⋮⋮ケルケイロ。耳元で大きな声を出すなよ。もっと軽く肩を揺
するとか⋮⋮あるだろ?﹂
言葉遣いだって、もう遠慮はしていない。
最初は声にも色をつけて出来る限り敬って聞こえるように努力し
ていたのだが、この男は何とも言えない気持ち悪そうな顔で﹁鳥肌
が立つからやめろよ、それ。というか頼むからやめてくれ、お願い
します﹂と言い放った。
38
大貴族の思いの外の軽い口調に当初は面食らったくらいだ。
ただ、相手はそれこそ俺など簡単に踏みつぶすことのできる巨大
貴族の総領息子である。
これはおそらくこの方の遊びのようなものなのだと思って、どん
なに下らないことでも一応付き合わなければならないとの悲壮な決
心でもってその時から敬語をやめて、普通の友達のように振る舞う
ことにした。
俺以外の人間にもこの男は同じようなことを言っていたので、余
計にそうしなければならないと思った。
けれど、後々、俺以外の奴らの口調を聞いてみれば、以前と変わ
らぬへりくだった敬語なのだ。
俺だけがこいつに対し不敬にも対等の態度で対等な口を利いてい
て、そんな俺を外の奴らが奇妙な目で見つめているのを、ケルケイ
ロは吹き出しそうな顔で笑っていた。
つまり、俺は田舎者過ぎて気づかなかったのだが、いくら貴族の
方から楽にしろ、とかそんなようなことを言われても本当にそのよ
うな態度をとってはならず、むしろ﹁ありがたき幸せにございます
!﹂などと言いつつも、今までより一層職務に励むのが貴族に対す
る当然の振る舞いであって、それを知らないと言うのは非常にまず
いことであったらしかった。
本来なら打ち首ものらしい俺の所行にそのとき俺は初めて気がつ
いたのだが、意外なことに俺の首は未だに繋がっている。
他の貴族なら、その場で憤慨しただろう俺の態度は、ケルケイロ
にとってはむしろ望ましいものであったらしい。
後に聞いたところによれば、真実、本当にこの男は敬語など使わ
なくていいと思って俺にそういったらしく、だから俺の態度も問題
にならないと、そういうわけらしかった。
39
以来、この男、大貴族の総領息子ケルケイロは、その貴族として
の名前の他に、俺ジョンの親友という肩書きを増やしたのだった。
そんな男が俺を天幕まで尋ねてきて起こしに来た。
いつもならこのまま訓練に誘われるか酒盛りにでも連れて行かれ
るかなのであるが、今日はどうも違うらしい。
ケルケイロは申し訳なさそうな顔で、言った。
﹁ジョン、悪いが、ちょっとついてきてくれ。参謀殿がお呼びなん
だよ﹂
﹁参謀殿が? ははぁ、何か重要な決定でもあるのかな。明日だろ、
魔都シルラーンの攻略は﹂
﹁分からないが⋮⋮俺の貴族としての肩書きが必要らしくてな﹂
﹁お前の支持があれば通らない無茶も通るもんな、大貴族殿﹂
﹁ばっか、茶化すなよ! 俺はなぁ⋮⋮﹂
﹁貴族なんてつもりはない、か?﹂
﹁そうだよ。分かってるじゃねぇか。俺はただの兵士としてここに
いるんだぞ﹂
﹁はっ。馬鹿な奴だぜ。本当なら三年で将軍になれるエリートコー
スに乗れただろうに、わざわざ一般採用で軍に入るなんてよ﹂
﹁うるせぇ。お陰でお前に会えた。俺は満足だ。さ、いくぞ﹂
40
そう言って、ケルケイロは俺を引きずり始める。
その行動が、くさい台詞を言っったことによる恥ずかしさを隠す
ためだと、付き合いの長い俺には分かった。
ケルケイロが向かっているのは、我が魔王討伐軍第5師団の参謀
殿の天幕だ。
俺を連れて行くのは、その参謀殿が俺と顔見知りだから、という
のもあるだろう。
たどり着いた天幕のフェルトをくぐり、俺とケルケイロは敬礼を
して参謀殿に挨拶をした。
﹁魔王討伐軍第5師団第2連隊オーテン大隊所属、ケルケイロ、参
りました!﹂
﹁同じくオーテン大隊所属、ジョン、参りました!﹂
すると、天幕の奥、急造の執務机に腰掛けた小柄な男が振り返り、
ゆったりと笑った。
﹁よくいらっしゃいました。二人とも。今日は折り入ってお二人に
相談事がありましてね⋮⋮内密なもので。そう、だから、お二人以
外にはお話しするわけにはいかないな⋮⋮ちょっと、君﹂
彼の横には参謀補助と思しき男が立っていたが、彼が耳元に口を
寄せて二、三言発すると、敬礼をして天幕を出て行った。
それから、男はゆったりとした笑みを些か品のない、けれど先ほ
どよりもずっと鋭く似合う笑みに変えてから口を開いた。
﹁おう⋮⋮それでお前等、なんで二人で来た。俺が呼んだのはケル
ケイロだけだぞ﹂
41
その男︱︱数少ない俺の同郷出身の出世頭、コウはそう言って俺
を睨む。
とは言ってもそれほど恐ろしい視線ではない。
むしろ親しみすら感じる目線である。
ただ単純に俺まで一緒にきたのが疑問なのだろう。
﹁そう言われても、俺はこいつに引きずられてきただけだぞ。俺が
いるとまずいなら出るが?﹂
俺の言葉に、コウは額を少しもみ、それから言った。
﹁⋮⋮いや、いい。むしろお前にもいてほしい﹂
﹁いいのか?﹂
﹁あぁ⋮⋮﹂
どうも煮え切らない態度だが、それだけ大事な話なのかもしれな
い。
そして、コウは本題に入る。
﹁明日、お前らも知っての通り、魔都へ侵攻する。とは言っても、
ほとんど無人なのもお前らも知ってることだな。あの都にいた魔族
の奴らの大半は俺たち人類の都を攻撃するために出て行った。その
隙を突いての作戦だ。あそこを取れば、人類の勝利へ一歩前進する。
大きな一歩だ﹂
緊張した面もちで、俺とケルケイロはコウの話を聞く。
明日の作戦次第では、今までの劣勢を覆せるかもしれない。
そういう戦いだからだ。
42
けれどコウの顔には、その喜びというか、期待のようなものが伝
わってこない。
なぜだろう。
不思議に思ったのはケルケイロも同じらしく、疑問が口をついて
出た。
﹁その割には嬉しそうじゃねぇな? なんでだ﹂
その疑問に、コウは一枚の地図を出して答えた。
そこには魔都を出た魔族の予想される侵攻場所、及び斥候や各地
に存在する連絡所から届いた魔族の軍勢の目撃情報などが統合され
て描かれている。
それを見るなり、俺の息が止まった。
﹁⋮⋮ジョン。どう見る﹂
コウが、静かにそう言った。
俺には分からない。
地図の内容がじゃない。
なぜ、こいつが、コウがこんなに冷静なのかが、だ。
俺の心臓は、今や早鐘を打つようだ。
この地図が伝えることは想像以上に俺のショックを与えた。
俺は焦るように、懇願するようにコウに言った。
・・・・
﹁コウ⋮⋮これは、嘘だろう!? こんな⋮⋮これじゃ、これじゃ
あ! タロス村が!!!﹂
そう、この地図によれば、後、数日で、タロス村は魔物の軍勢に
飲み込まれる。
43
そうとしか予想ができない︱︱地図は、そんな情報を伝えていた。
なのに、コウは冷静なのだ。
信じられなかった。
何か、タロス村が無事であるという確信があるのだと、そう思っ
た。
けれど、コウはゆっくりと首を振って言った。
﹁もう、あの村はだめだ。あきら﹂
めろ、まで言う前に、俺はコウを殴っていた。
言わせる訳には行かなかった。
俺たちは何のために戦っている。
人類のため?
それは確かにそうだろう。
けれど、何よりも自分の大切な人のために戦ってきたんじゃない
のか。
俺達の身近な人を守ると言う目的の為に。
それが最大の原動力であったはずだ。
それなのに、どうしてそんなことを言える。
それだけは、言ってはいけないんじゃないのか。
たとえ、冷静に考えれば簡単に分かる話なんだとしてもだ。
絶対に、言ってはいけない話だった。
何度と無く、コウを殴り、最後には馬乗りになって。
それから、俺の拳とコウの顔がほとんど血だらけになった辺りで、
肩にケルケイロの手が置かれるのを感じた。
﹁⋮⋮もうやめろ﹂
44
沈痛な声だ。
そこで不思議に思う。
ケルケイロは何で止めなかった。
いくら同郷出身でもコウは上官だ。
こんなことをしたらただではすまないのは俺もケルケイロも同じ
で、普段ならそれを分かって止めるはずだ。
けれど、ケルケイロは言った。
﹁そいつが殴られたそうな顔してたからだ。コウ。起きろ。ジョン
だって手加減してたんだ。こいつも分かってる。ちゃんとな﹂
﹁⋮⋮あぁ﹂
目の周りが青くなった顔で、コウがむくりと起きあがった。
そんな顔だが、なぜか、泣き出しそうな顔をだと思った。
そうだ、少し考えれば分かる。
こいつが悲しくないはずがないのだ。
﹁⋮⋮悪かった﹂
俺の謝罪に、コウは一つも恨み言を言わなかった。
﹁いや、いい。俺が悪いんだ⋮⋮なぁ、ジョン。これからどうする﹂
決まってる。
﹁俺は戻る﹂
﹁どこに﹂
45
﹁タロス村に﹂
そう言って、俺は天幕を出た。
二人の顔は見なかった。
見れなかった。
これは立派な軍法違反だ。
処刑されても文句は言えない。
特に、軍の人員が大幅に減っている昨今の情勢の中では。
けれど、タロス村を見捨てるなんて言う選択は、俺には出来ない。
もちろん俺一人が戻ったって何にもならないことは分かっている。
ただ一緒に死ぬくらいしかできないだろう。
けれどそれでもだ。戻らなければならなかった。
馬に乗らなければ間に合わない。俺は厩舎に向かって走った。
けれど、そんな俺の背中に声がかかる。
﹁⋮⋮ジョン、待て!﹂
振り返ると、ケルケイロだった。端正な顔に、汗が一筋流れた。
﹁止めにきたのか?﹂
﹁いや、違う。そうじゃなくて⋮⋮これを使えと言おうと思ってな﹂
そう言ってケルケイロが差し出したのは、手綱である。
特殊な素材を使ったもので、これを持っているのは特別な人間だ
けのはずだった。
﹁竜騎の手綱じゃないか! こんなものどこで!﹂
46
﹁俺は大貴族様だからさ。いざって時はしっぽ巻いて逃げれるよう
にって、そのための手段を確保させられたんだ﹂
その顔は、決して嬉しそうではない。
そんな選択をしなければならない自分の身分を嫌った顔だ。
人を指揮できる人間は必要だ。
血筋と教育がそういう人間を作る。
ケルケイロはその両方を持った、今の時代には稀有な人間である
から、それくらいは当然だ
ただ、ケルケイロ自身はそんな自分の身の上を好きではないよう
だが⋮⋮。
﹁だが、それが今は役に立つ。ジョン。これを使ってタロス村まで
行こう﹂
﹁けど、俺には魔力が⋮⋮﹂
竜騎の手綱は魔力がなければ扱えない。
するとケルケイロが首を振った。
﹁この手綱には俺の魔力が登録してある。一緒に行くぜ、親友!﹂
﹁だめだ! そこまで迷惑は﹂
﹁誰も迷惑なんざ思っちゃいねぇよ。なぁ、ジョン。俺はお前を親
友だと思ってる﹂
﹁⋮⋮俺もだ﹂
47
﹁親友だったら、いざって時には命賭けてやるのが当たり前だろ?
なぁ?﹂
笑ってそんなことをいうケルケイロに、俺は不覚にも涙腺が緩み
かけた。けれどそんな俺の肩を掴み、ケルケイロは言う。
﹁まだ早いぜ、ジョン。さっさとタロス村に行って、村の奴らを避
難させよう。さっきの地図の情報は頭に入れてきた。魔物の軍勢が
通らない土地に抜けられるルートもあった。今ならまだ間に合う。
行くぞ!﹂
﹁⋮⋮あぁ!﹂
そうして、俺とケルケイロは竜舎へと走った。
竜舎の担当者からは戻るようにと言われたが、昏倒させて竜を奪
って飛んだ。
戻って来たら軍法会議でも何でも来いだ。
どうせ俺たちを死刑にすることも戦えなくなるような傷をつける
こともできないのだから。
そう思って、タロス村までのしばしの空の散歩を楽しんでいたら、
ケルケイロがポケットから何かを取り出し、差し出してきた。
﹁⋮⋮こいつはなんだ?﹂
聞くと、ケルケイロは、
﹁⋮⋮コウからだよ。軍法違反のため罰を与える、だそうだ﹂
﹁早くもかよ﹂
48
﹁あぁ。まぁ、ちょっとした冗談だろ。とはいえ、あんまり冗談と
は言えない代物らしいがな﹂
見ると、それはペンダントのようだった。トップについているの
は七色の輝きを纏った宝玉である。
明らかに魔力的なものが宿っているが、まるで用途が分からない。
ただ、魅入られるような不思議な光がぼんやりと浮かんでいる。
﹁冗談とは言えないってどういうことだ﹂
﹁ソステヌー出身の奴らが造ったっていえば分かるか?﹂
﹁⋮⋮魔導部か﹂
それは軍の中でも悪名高い部署だった。
魔族との戦争が激化していくに連れ、高い品質の魔法武具や戦術
的に有用な魔導具、アイテムを必要とした軍は、その構成の中にそ
んな品々を研究、製造する部門を創設し、多額の予算をかけた。
結果として、そこに集まった人材はソステヌーの学術究理団を中
心とする非常に高い能力を持つ狂える学者たちばかりになり、あり
とあらゆる実験がなされ、結果を出し続けている。
その実験の一つが、軍の人間をその実験体とした人体実験であり、
これは軍に所属している以上断ることができない。
幸い、魔導部の連中は研究馬鹿ばかりである。
嘘はつかない。
彼らが実験が必要だと言えば事実必要なのである。
そして彼らとて、今の時代、人間という資源がどれだけ重要かは
理解していた。
したがって、使い捨てにするようなこともまたしないのである。
だからこそ許された人体実験であり、またそれだけのことをしな
49
ければ人類の劣勢は覆せないと言うことでもあった。
ケルケイロのもっているペンダントは、まさにそんな連中の造っ
たもの。怖くて身につけるのも恐ろしいが⋮⋮。
﹁まぁ、いずれ一般兵士全員に配るらしいからな。いつかつけるな
ら、今つけても同じだろ?﹂
そう言って、ケルケイロはそれを首に通した。
何も起こらないのを見て、俺は安心して同じようにペンダントを
首に通す。
そんな俺の様子を見て、ケルケイロは思うことがあったのだろう。
少し眉をしかめた。
﹁俺を毒味役にするんじゃねぇよ﹂
﹁お前がいつつけても同じだっていったんだろ﹂
﹁まぁ、そうだけどよ⋮⋮﹂
﹁それで、これはどんな道具なんだ?﹂
﹁よく分からん。魔導部の奴らは”皿”って言ってたらしいぞ﹂
﹁皿だぁ? なんで食器なんだよ﹂
﹁分からん。あいつらのネーミングはいつもよく分からんからな。
今回もかって感じだろ﹂
﹁まぁ、確かに。使い方は?﹂
50
﹁つけてるだけでいいんだとさ。ただそれだけで発動するとか何と
か⋮⋮まぁ、よくわからん﹂
﹁なんか、物騒なものなんじゃないだろうな﹂
﹁あいつらの造ったもので物騒じゃないものなんかねぇよ、この間
なんか⋮⋮﹂
そう言ってケルケイロは魔導部の連中の作り出した魔導具によっ
て体が熊のように巨大化してしまった兵士や、片腕が蟹のような奇
妙な腕になってしまった話をして笑わせてくれた。
思えばこれは俺の気を紛らわせるためにしてくれた話のような気
がする。
そうして、俺たちはタロス村へとたどり着いたのだった。
﹁⋮⋮ジョン﹂
鎮痛な面もちで、ケルケイロが俺の肩をつかんだ。
俺は、何も言うことができずに、その場に立ち尽くしていた。
﹁どうして、こんなことに⋮⋮﹂
ケルケイロは辺りを見回して言う。
分かっていた。コウの差し出した地図を見た時点、こうなってい
る可能性も十分に予想できたはずなのだ。
けれど、俺たちはあえてその可能性を無視してここまでやってき
た。
51
そんなことはないのだと、心に言い聞かせて。
けれど、無駄だった。
そうだ。
タロス村は、もう、この世になくなってしまっていた。
辺りに燃えさかる家々の残骸が転がっている。
魔物たちはもう、ここを通り過ぎた後のようで、見あたらない。
変わりにそこら中に転がっているのは、壊れてしまった様々なも
のだ。
死体や骨もそこら中にある。
懐かしい顔もそこにはあった。
﹁ジョン⋮⋮なんて言ったらいいのかわからないが⋮⋮﹂
ケルケイロに言葉を返せない。
俺もなんて言えばいいのか、全く分からなかった。
・・
ただひたすらに、村を歩きながら、その言葉を考える。
だが、それを思いつく前に、俺たちの前にそれは現れたのだった。
どこかに一人でも生き残りがいないかと、ケルケイロと別れて村
を散策していた。
すると、俺の耳にふと、ずるずると、何かを啜るような音が聞こ
えた。
誰か生きているのかと慌てて俺は走っていった。
けれど、そこにいたのは、人類などではなかった。
そこにいたのは、
﹁おやぁ? まだ生き残りがいたのですか。やれやれ。私が美味し
く頂いてあげましょう﹂
52
灰色の顔をした、人に似た存在。
それは、こう呼ばれる︱︱魔族、と。
そしてその口から伸びた長い舌は、その魔族の両手にぶら下がる
ものへと交互に伸びてはその中身を啜っていた。
その魔族の持つ、両手のもの。
それは︱︱
﹁⋮⋮母さん? ⋮⋮カレン?﹂
俺のよく知る、二人の女性の首だった。
その瞬間、俺の喉から、今までの人生で聞いたこともないような
奇声が鳴り響く。
それを聞きながら、目の前の魔族は、ゲタゲタと笑った。
﹁おもしろい、おもしろい! ははは。人が狂うと、こうなるので
すねぇ。ははは。あっはっは﹂
頭が、パンクしそうだった。
いろいろな感情が体の中を駆けめぐっていた。
その中でももっとも強いのは、あの魔族を殺さなければならない
という、復讐心だった。
けれど、俺のもっとも冷静な兵士としての部分が、あの魔族の力
量を正確に見抜き、そんなことは不可能だと告げていた。
どうあっても、俺の復讐は不可能だと。
俺はこの場で殺されると。
ケルケイロがここに来ても同じことだ。
二人がかりでも間違いなく殺される。
53
どうにかして、ケルケイロだけでも生かさなければならない。
ここに来ないでくれ、ケルケイロ。
どうかここには。
そんな奇妙な心が俺の声を奇声に変えていたのだろう。
この声を聞き、そして逃げ帰れケルケイロと。
そんな思いで。
だが、あの男が、俺の親友がそんなことで逃げるはずがないこと
も分かっていた。
どうあっても、ここに来てしまうことを理解していた。
﹁おい、ジョン! どうし⋮⋮﹂
とうとうやってきてしまったケルケイロが、灰色の魔族を見て時
を止めたのと同時に、俺は剣を抜いて魔族に飛びかかった。
どうにかケルケイロの命だけでも救おうと本能が理性よりも早く
俺の身体を突き動かしたのだ。
けれど、魔族は俺よりも早かった。
俺よりも早く、そして魔族は俺ではなく、ケルケイロを狙った。
次の瞬間、魔族の手はケルケイロの首を跳ねていた。
高く、飛んだ。
まるでボールがだれかに蹴られてしまったかのように、高く。
そうして、俺は狂った。
感情の何もかもが、復讐に塗りつぶされていくのを感じた。
絶対に、お前は殺してやるのだと、たとえ殺されたとしても、殺
してやるのだと、それだけの憎しみが俺の中に青く燃えたのを感じ
た。
54
そして、それはやってきた。
︱︱きこえたよ。
︱︱にくしみのこえが。
︱︱きいたよ。
︱︱ふくしゅうのうぶごえを。
︱︱ここにはおさらがある。
︱︱ぼくはぎょうぎがいいからね。
︱︱おさらがないとたべないんだ。
︱︱でも、きょうのぼくはたべるよ、そのごちそうを。
︱︱にくしみも、ふくしゅうもだいこうぶつなんだ。
︱︱おさらもあるし、きれいにたべれるよ。
︱︱だから、きみにあげよう。
︱︱ぼくのちからを。
︱︱くろくそまった、ぼくのちからを。
歌うような声だった。
少女のように無邪気で甘いソプラノ。
それを聞いた瞬間、俺の意識は消えた。
◆◇◆◇◆
気づいたとき、目の前に広がっていたのは、灰色の魔族が口から
血を吐きながらこちらを睨みつけている断末魔の表情だった。
﹁⋮⋮ぐっ⋮⋮ぐふ⋮⋮あなた⋮⋮あなぁたはぁぁぁ!﹂
言葉にならない悲鳴を上げながら、魔族は俺に何かを言おうとし
ていた。
55
けれど、それはきっと不可能なことだった。
一体いつどうやってやったことなのか分からないが、俺の手には
剣が握られていて、その刀身はその魔族の胸元を深く貫いている。
いくら魔族であると言っても、肉体が壊れれば死ぬ。
いかに魔族が人を遙かに超える能力を持っているのだとしても、
魔族も本質的には生き物である以上、この理は変わらない。
よく見れば、目の前の魔族の体中に切り傷があった。
浅い傷も深い傷もあって、その数は数えきれないほどだ。
魔族にこれほどの傷を負わせることが出来るのは、かなりの実力
者でなければできないことのはずだった。
少なくとも、俺に出来ることじゃない。
なのに現実に、俺の剣は確かに魔族の胸元に刺さっているのだ。
魔族が俺を睨んでいるのも、俺がこの魔族を切り刻んだからに他
ならないのだろう。
しかし俺はおそらくあったのだろうそのときのことを、全く覚え
てはいなかった。
俺が魔族を、倒した。
そんなことをしたのだと言われても、とてもではないが信じられ
ない。
なのに、なぜ。
何とも言えない気持ち悪いような、薄ら寒いような感覚を覚えな
がら、けれど俺はその魔族の胸元に刺さった剣を抜き、そしてもう
一度ゆっくりと刺した。
俺の心のうちから沸き上がってくる感情が、その魔族の命をまず
間違いなく絶たねばならないと告げていた。
剣が刺さる瞬間、魔族は一瞬、大きく目を見開いた。
体中が痙攣し、小さく悲鳴を上げた。
けれど、それが最期だった。
56
魔族の目はゆっくりと閉じていき、そして灰となって崩れ落ちた。
﹁⋮⋮一体、どういうことなんだ﹂
全てが終わって、呻くように呟いたそのとき、
﹁⋮⋮!?﹂
明確にどことは言えないが、体の中心あたりから、信じられない
ほど強い疼痛が前進に駆けめぐった。
﹁⋮⋮うぐあぁぁぁ!!!﹂
それは今まで味わったどんな痛みよりも鋭く強い痛みであり、ま
たその範囲も広く、寝転がっても立ち上がっても体を捻ってもどこ
かをつねっても、どんな体勢をとろうとも決して引いてはくれなか
った。
痛い。
信じられないほど。
痛い。
満足に息を吸うことすら苦痛だ。
いくら時間が経とうとも引かないその痛みは、辺りが暗くなるま
で俺の体と心を蝕み続けた。
いっそ、殺してくれと、そう叫びたかった。
けれど、俺を殺してくれる者はここにはいない。あるのは、家々
の残骸だけだ。
そうして、痛みに耐えて、どのくらいの時間が過ぎたのだろう。
永遠に等しいと思えるような拷問の時間がささやかに引いたその
57
とき、銀色の月明かりが村の残骸と俺を照らす中、じっと俺を見つ
める一人の少女が目の前に座っていたことに気づいた。
一体いつからいたのだろう。
始めから?
それとも、俺が痛みで苦しんでいる中、どこかから現れたのか。
聞いて、納得したかった。
その少女はあまりにも場違いで、そして奇妙だったから。
けれど、その疑問を尋ねるべき喉は、未だにその機能を発揮しよ
うとはしない。俺はどうにかして少女に対し何か言葉を発しようと
するが、喉に力を入れるとその瞬間、全身を針で刺すような苦痛が
駆けめぐるのだ。
これではとてもではないが会話など出来ない。
そんな俺の様子を理解してくれたのか、その少女は自ら口を開い
た。
﹁んー、いきてる?﹂
物凄く軽く、そう聞かれた。
だから俺は言葉にせず、体に痛みがこれ以上広がらないように十
分に注意しながら、頷いた。
それはただの確認のようであったが、その少女にとっては何か意
味のある質問だったらしい。
少女は不思議そうな顔で、頷く俺を見つめ、そして意外そうな声
を上げた。
﹁おー、たしかに、こわれてない。ちゃんときこえてるんだね。ぼ
く、びっくりしたよ﹂
58
そう言って目を見開いた少女は、よく見ればおそろしいほどに整
った顔立ちをしていた。
これが人間の顔なのかと不思議に思えてくるくらいに。
着ているものは真っ黒の布地の上に銀糸で精緻な縫い取りのなさ
れた美しいがひらひらとした服で、何かに似ているな、と思ったと
ころで頭の中に蝶の記憶が過ぎった。
そうだ、この少女の着ているものは、蝶に似ている。ひらひらと
して美しく、そして深い闇をはらんでいるような。
少女は俺を指先で触れたり、つついたりしながら、確かに動くこ
と、反応することを確認しては驚きの声を上げた。
そして全ての確認を終えたらしい少女は、深く頷いて、俺にゆっ
たりとほほえむ。
﹁よくこわれなかったね。にくしみは、たしかにきみのこころをあ
おくもやしたはずなのに﹂
一体この少女はなんなのだろう。
何を言っているのだろう。
そんな疑問が浮かんでくると同時に、俺は大事なことを忘れてい
たことに気がついた。
そうだ。
ケルケイロは、どうなった。
母さんは、カレンは。
口に出したかは分からない。
ただ、そう思ったのは間違いない。
すると、少女は首を傾げ、
﹁あぁ、きになるんだね?﹂
59
と言って唐突にどこかへと歩いていき、そしてしばらくしてから
軽い足取りでひょっこりと戻ってきた。
それから、まるで果物でも扱うような軽い手つきで、俺の目の前
に、三つのそれを置いたのだった。
彼女は続ける。
﹁きみのさがしているのは、これかな。それともこっちかな﹂
ぽんぽんと、それの上部を撫でながら、少女は笑う。
歪んだ笑みだった。
明るさはあるが、それは明らかに狂気の類に属するものだった。
月が、彼女の姿を妖しく照らしていた。
﹁ねぇ、どれ?﹂
かわいらしく首を傾げた彼女の持ってきたもの。
母さんとカレンとケルケイロを探す俺に、彼女が持ってきてくれ
たもの。
それは、どう見ても、俺の探す三人の首だった。
60
1
神に、祈っていた。
この世界を作り出したという創世の神に。
手を組み、ひざまずいて、ただひたすら、俺は神に祈った。
あなたはなぜ、こんなことをするのかと。
あなたはどうして、この世に痛みと苦しみなどというものを作り
出してしまったのかと。
しかし、いくら尋ねても、誰も応えない。
魔王討伐軍の礼拝用の天幕の中では、静かにゆらゆらと蜜蝋で作
られた蝋燭の火が燃えているだけだ。
だから俺は祈りの内容を変える。
友よ、どうか安らかにと。
そう祈って、俺は立ち上がった。
すると、
﹁⋮⋮お祈りは、もう終わりましたの?﹂
背後から高い少女の声が聞こえた。
こんな、最前線の軍勢の張った天幕になど似つかわしくない、汚
れを知らぬ美しい声が。
その声にはしかし、聞き覚えがあった。
そして今一番聞きたく、また一番聞きたくない声がそれだったこ
61
とを、俺は脳裏に焼き付いた強烈な記憶と共に思い出す。
なぜ、君がここに。
声に出たのだろうか。出たとしても、きっと引きつっていただろ
う。俺は彼女の顔を、まともにみれる気がしなかった。
俺は、奪ったから。
彼女の大切にしていたものを、奪ったから。
﹁⋮⋮なぜ、と言われましても。遺体を引き取らねばなりませんも
の。父は別の地域で魔族と戦っておりますから、どうしても来れま
せんの。家族として、妹として、私が参らねばとの思いでここまで
来ました。それに、どうしてかしら。私、あなたに会いたかったの
ですわ、ジョン⋮⋮﹂
そう言って、彼女は︱︱ティアナは、ぽふり、と俺の胸の中に飛
び込んできた。
本来美しく波打っているはずの金の髪は、よほど急いでここまで
きたのだろう、普段の美しさなど見る影もなくぼさぼさになってい
る。着ている服も、上等なものなのだろうが、土と泥と血で汚れて
いて、無惨なものだ。そうだ。彼女はかなり後方にいたはずだ。こ
こまで来るのに、無傷でいられるわけがない。彼女か、それとも彼
女の護衛か。魔物や魔族との交戦を経て、こんな風になったのだろ
う。気づいて彼女の体に傷がないか確かめるが、どうやら見える場
所にはないように思えて安心する。
﹁⋮⋮よかった﹂
そんな声が、俺の口からでた。ケルケイロを失い、彼女まで失っ
たら、俺は何を守ればいいのだろう。先ほどまでの絶望と憎しみに
62
染まっていた心が、彼女の顔を見て、少しずつ解れてきた気がする。
それが果たして許されることなのかはわからない。けれど、俺には
まだ彼女がいる。そのことだけが、俺のこの世へのよすがとなって
くれているように思えた。
そのとき、俺の顔は少し、柔らかくなったのかもしれない。
俺の胸の中で少し顔を上げたティアナは、まっすぐに俺の目を見
つめて、それから少し顔を伏せてから、話し出す。沈鬱だが、決し
て俺を攻撃するような声ではなかった。彼女は、俺のことを恨んで
はいないようだった。俺が一番恐れていたことは、現実にはならな
かったらしい。
ティアナはそんな俺の心を知ってか知らずか、悲しそうに、だが
励ますように言った。
﹁お兄さまのことで⋮⋮自分をお責めにならないでください﹂
﹁⋮⋮だが、ケルケイロは俺のせいで⋮⋮﹂
﹁違います!﹂
ティアナは顔を上げて、俺のことを強く抱きしめて言った。
目には少し涙が滲んでいて、額を俺の胸につけると同時に一筋の
滴が流れ落ちる。
﹁⋮⋮違います⋮⋮お兄さまは、ジョンにそんな風に自分のことで
苦しんでほしいなどと思ってはいませんわ! お兄さまは⋮⋮きっ
と、覚悟の上で、ジョンに着いていったのです⋮⋮私、わかります。
だって、私もお兄さまも、ジョン、あなたのことが大好きなのです
から⋮⋮あなたのためなら、何を捨てても構わないと、そんな風に
思えるほどに、大好きなのですから⋮⋮﹂
﹁でも⋮⋮だったら、俺は、何をすればいい。俺はあいつのために、
何をすれば⋮⋮俺は⋮⋮﹂
63
ケルケイロはもういない。
魔族に首を飛ばされ、そして死んだのだ。
俺が何も考えないでタロス村に舞い戻ったせいで、俺の無謀のせ
いで。
そんな俺があいつに何をしてやれる。
あいつの死後の世界での安寧を祈り、またこの世で自分を責め続
けていきることしか、俺には許されていないのではないか。
そうでないとするなら、一体俺に何が許されているというのか。
唇を噛みしめ、血が滲んでいく。
目頭が、熱くなる。これはいったい何の涙なのだろう。悲しいの
か、苦しいのか、悔しいのか、辛いのか。わからない。俺には何も
⋮⋮。
そんな俺の頬を、ティアナは優しく包んだ。
それから、涙を拭い、顔を近づけてくる。
彼女は俺の唇に滲んだ血を舐め、それから優しく口づけを重ねた。
ゆっくりと離れていくとき、彼女の顔は泣き笑いのような表情を
していた。
﹁⋮⋮きっと、幸せになること、ですわ﹂
﹁そんなこと⋮⋮許されるはずが﹂
﹁ジョン、あなたは何のために戦ってきたのですか。これから何の
ために戦うのですか。なぜ魔族を殲滅し、魔王を滅ぼそうとしてい
るのですか。そのことを、あなたは決して忘れてはならないはずで
す﹂
﹁なんの、ために⋮⋮﹂
﹁昔⋮⋮あなたは言ってましたわ。親父のような兵士になって、み
んなの幸せを守るんだって。ねぇ、ジョン。あなたのするべきこと
64
は、幸せを守ることなのですわ。昔も今も、それは変わりませんわ
⋮⋮﹂
確かに、そんなことを言った記憶がある。
俺はずっと親父のようになりたかった。それは親父が強いからだ
けじゃない。親父は、守る兵士だったからだ。魔の森の浸食から国
を守り、ひいては国に住む人々の生活を、小さな幸せを守る、そん
な兵士だったからだ。
だから、俺はケルケイロとティアナとお茶を飲みながら、どうし
て兵士を目指しているのかと聞かれたときに、答えた。
﹁俺は、親父みたいな兵士になりたい。みんなの幸せを守れるよう
な兵士になりたい﹂と。
それを、ティアナは覚えていたのだろう。
あんなつまらない話を、この少女は真面目に聞いていてくれたの
だ。
会って間もないはずの、俺みたいな平民の話を、真剣に。
﹁⋮⋮私、あのとき思いましたわ。きっと、この方は素敵に兵士に
なるのだわって。この国の兵士すべてが、この方のような志を持っ
ていてくれたら、いいのにって。⋮⋮思えば、私はあのときから、
あなたのことが⋮⋮﹂
﹁ティアナ⋮⋮﹂
名前を呼ぶと、びくり、とティアナは肩を震わせる。
それから、彼女は目をつぶり、こちらを見上げてきた。
俺は彼女の顔にゆっくりと自分の顔を寄せていき⋮⋮
◆◇◆◇◆
65
がばり、と俺は驚いて目を覚ました。
あたりを見渡すと、そこには揃いのローブを身に纏った少年少女
の姿が見える。
その向こう側には教員が正装をして立っており、正面の壇上には
魔法学院の院長であるナコルルが新入生に向かって学生生活の心得
を延々と語っている。
その姿はドワーフのものではなく、変化したエルフのものであり、
美しく大変威厳のある様子だ。詐欺である。
そんな光景の広がっているここは、魔法学院の講堂。
今日は、とうとう念願の魔法学院の入学式である。
そして俺はそんな入学式の最中に、盛大に居眠りをしてしまった
わけである。神聖な式の最中に大変申し訳なく、しかもその間に見
た夢の内容が内容だった。
少し前までは、体が子供だったからか、恋心、のようなものをあ
まり強く感じなかったし、前世でのそれもあまりうまく思い出せず、
恋というものがどういうものだったのかも感じられていない節があ
った。
けれど、最近、どことなく、その恋心、らしきものを顕著に感じ
るようになってきたような気がしている。
たしかに、こういうものだったような気がすると、前世の記憶も
その感覚が正しいと告げている。
だからだろう。そういう夢を見ることも増えてきた。
さきほどの夢も、その一つである。
66
今考えると、戦争の最中に俺は何をやってたんだという気もしな
いでもないが、死の危険に毎日さらされていると、恋愛事に対して
日頃感じていたはずの躊躇のようなものが一切取り払われて、素直
な心を吐露できるようになってしまうのだ。
だから、戦争中はむしろ普段よりもカップルの出来上がる確率と
頻度は高かった。
戦争後半になってくると、そもそも人口が減ったり、完全にそん
なことをする余裕が消滅してしまって恋愛どころではなくなってい
たところもあったが、それでも少なからずカップルは生まれたし、
軍の奴らはそういう者を祝福した。
それが、人間として当然の営みであり、そして、俺たちにあるは
ずの、未来、というものを感じさせてくれることだったからだ。
新しいカップルができる度、俺たちはそいつらの未来を切り開い
てやらなければと言う決意で戦えた。俺たちのしていることは、人
類の未来に繋がっているのだと信じられた。
きっと色々なものが、あのころの俺たちを支えていた⋮⋮。
そんな物思いに耽っていると、どうやらナコルルの長い話が終わ
ったようである。
壇上から降りていくナコルルの姿が見えた。
一瞬、こちらに視線が飛んだような気がするが、気のせいだろう。
そう思って、俺は次に壇上でスピーチをする人間の姿を見ようと
首を伸ばした。
けれど、誰もそこにはあがらない。
奇妙に思ってきょろきょろしていると、拡声魔道具から、ナコル
ルの声が聞こえてきた。
どうやら、式次第を読み上げているらしい。
67
﹁⋮⋮では次に、入学生を代表する挨拶、主席フラー=エルミステ
ール、壇上へ﹂
あぁ、そういう名前の人が主席なのか⋮⋮。と、ぼんやりとナコ
ルルの声を聴く。
ここで言う主席とは、つまり魔力量の最も大きい者のことなのだ
ろう。筆記試験も実技試験もなかったし、それ以外で判断しようが
ない。
一般兵士の採用試験では戦闘の実技と、王国法の理解とが試され
る筆記とがあった。
魔法学院で勉強をしていけば、一般兵士のときのようにそのうち
順位をつけられたりするのだろうか⋮⋮。
これからの学生生活を楽しみにしつつ、俺はそんな風にぼんやり
と入学式を過ごした。
68
2
魔法学院には様々な授業があるが、当然学ぶべき基本は魔法とい
う事になる。
しかしナコルル式魔法が普及していない以上そこで学ぶのは旧式
魔法と呼ぶべき魔法である。
そのための授業として、座学と実技が存在するが、実技授業の中
で問題が起きた。
俺、ジョンの魔法学院で出来た初めての友人であるノール・オル
フル。
彼は背の高い、赤髪の精悍な少年であるのだが、特に裕福と言う
訳でも貴族と言う訳でもない。
そんな出自故か、それとも単純に目がついたからか、彼をいじめ
の対象にしようとした生徒がいたのだ。
実技授業を担当する教師は、モラード・ガラクルシアと言う強大
な老魔術師であり、その実力はナコルルが認めるほどのもので、実
際、彼が魔法学院にいるのは彼女が勧誘したからである。
実技授業で見せてくれた魔法の制御技術は、その名に違わず非常
に高度で洗練されており、俺は感心したのだった。
そして、彼に魔術の見本を見せてもらったのち、生徒たちが実際
に魔術を使用する段になって、ノールの﹁や、やめろ!﹂という声
が響いた。
何が起こったのかと振り返った俺の目に入ってきたのは、一人の
生徒がノールを追い回して魔法を放とうとしている様子であり、非
常に危険なことだった。
69
モラードが止めてくれないかと一瞬期待したが、彼は少し遠いと
ころにいて、間に合いそうもないと感じた俺は急いで止めるべくノ
ールとその生徒の間に立ちふさがった。
貴族らしきその生徒はそんな俺の態度が気に入らなかったらしく、
魔術を放ってきて、しかもその後、魔力の制御に失敗して苦しそう
にしていた。
早く魔術を解除しろと俺は言ったのだが、彼はそれすらも出来な
いようで、このままではまずい状態になると思ったところ、モラー
ドがやってきて彼の魔術を何らかの方法で停止させたのだった。
それから、振り返ってノールに大丈夫かと聞くと、大丈夫だと答
えたので、俺は安心する。
けれど、ノールに襲い掛かってきた生徒の魔術で多少傷ついてい
た俺を心配した俺を、ノールは無理矢理医務室に連れて行ったのだ
った。
その後、そのときの顛末をお昼を食べながらカレンとテッドに話
したところ、もっとどうにかできただろうと呆れられてしまう。
実際、この二人ならなんとか出来そうだから俺としてはぐうの音
も出ないところである。
昔からこういう要領の良さについて、俺はあまり持ち合わせがな
い。
生まれ変わっても変わってないあたり、少し悲しい気もするが、
仕方ないだろう。
放課後、寮に帰るために歩いていると、おかしな三人組に話しか
けられた。
その中でも最も偉そうな一人が、
70
﹁ベルナルドにちょっかいを出したのはお前か?﹂
と聞くので首を傾げた。
詳しく聞けば、あのノールをいじめようとしていた生徒がベルナ
ルドだったらしく、その点についていくつか質問をしてきたので答
えた。
それによって判明したのは、彼はベルナルドに嘘をつかれたらし
く、ベルナルドの方がちょっかいをかけられたのだ、という話を聞
いていたらしい。
事実が分かり彼は頷いていた。
ただ、ベルナルドも彼も、それなりの貴族であり、嘗められるわ
けにはいかないという。
そのために一発殴られろということなのだろう。
ジョンの腹に一撃、膝蹴りをかまして去っていったのだった。
結局それから貴族におかしな視線を向けられることもなく、その
一件はそこでおしまい、ということになるだろう。
そのまま俺は日常に戻っていった。
その日、俺は召喚術の授業を見学していた。
魔法学院には選択授業があるのだが、それを選ぶためにいくつか
の授業を見学することが許されているのである。
その一環だった。
ただ見ているだけ、それだけのはずだったが、俺は召喚術の授業
のなかで不思議な声を聴くことになった。
︱︱でぐちがあるね。
71
彼女の声が、そう言ったような気がした。
そのまま何もなければ良かったのだが、現実はうまくはいかない。
事件は起こった。
ある日のこと、俺はベルナルドに絡まれた。
ただそれだけならよかったのだが、彼はカレンの持っていたはず
の首飾りを差し出して、自分に着いてくるように言ったのだ。
彼が俺を連れて行ったのは、王都中心部に位置するスラム街。
過去、そこには身分の高いものが住んでいたが、歴史が下るにし
たがって徐々に彼らは外側へと逃げていくように住居を移した。
その結果、王都中心部にある家々は古く、脆く、そして汚いもの
だけだ。
ただ権利は移っていないらしく、未だにそこに自らの持ち家を所
有している貴族は少なくない。
そしてそこはスラム街の住人が勝手に使用している、というわけ
だ。
そんな館のうちの一つに、ベルナルドは俺を誘った。
カレンがそこにいる。
俺はそう思ったから、ベルナルドに従った。
しかし、館に着き、中に入って判明したことは、そこにカレンは
いないということである。
しかも、ベルナルドは俺に言った。
﹁魔法実技の続きだ。お前は俺の的になれ﹂
と。
小さい男だと思った。
72
結局彼は、俺に復讐がしたかったわけだ。
本来なら彼を打ちのめして反省させてやってもいいところだが、
彼は子供である。
あまり酷いことをしてトラウマにするのも可哀想だと思った俺は、
仕方なく彼の攻撃を黙って受けてやることにする。
子供の魔術である。
大したことないと思ったし、死ぬこともないだろうと思った。
それにあの時代を生き延びた俺が、その程度の痛みに耐えられな
いはずがないとも。
実際、ベルナルド、それに彼の連れてきた手下二人はその年にし
ては優秀な魔術師で、高度な魔術や召喚術を操って俺を傷つけたが、
俺はそれで心を折られたりすることはなかった。
全身傷だらけにされながら、全く問題なく立っている俺を、彼ら
二人は恐怖し始めたらしい。
怯えて、最後に強力な魔術を、首筋に向かって放ってきた。
まさかそこまでのことをするとまでは思っていなかった俺は、け
れどその死の予感を敏感に察知して避けようとした。
だが、その直前で雷撃の魔法を食らわされ、若干鈍っていた神経
がその回避の可能性を奪った。
まずい、避けられない、とまぬけにも思ったそのとき。
声が聞こえた。
︱︱あいかわらずうっかりしてるね。だから、たすけてあげるよ、
ジョン。おだいは、かれらからもらおう。
それは、明らかにあいつの声だった。
73
そして彼女は現れた。
見れば、ベルナルドの手下の一人が持っていた召喚魔法具を媒介
にするという器用な方法でもって、この世に再度現界した彼女。
銀糸で精緻な縫い取りのされたその蝶のようにひらひらとした真
っ黒な衣服を身に纏う少女は、懐かしくもあり、また会いたくもな
かったと様々な感情を俺の胸に去来させた。
けれどこの場で現れたことは僥倖である。
彼女は俺に向かって放たれた魔術を霧散させ、その上でベルナル
ドたちに襲い掛かった。
命を長らえさせてくれたことはありがたかったが、それ以上を俺
は望んでいない。
彼女に人を攻撃させることは極めて危険であることを知っていた
俺は、叫んだ。
・・・・
﹁やめろ! 食べるな! ファレーナ!﹂
だが、人の言うことなど聞く存在ではない。
彼女は、ファレーナは俺の言葉を無視して、彼ら三人の魂を貪り、
そして彼らの精神を破壊したのだった。
三人の子どもの魂を味わい切った彼女は、しかし不満足な顔をし
て言った。
﹁やっぱりこどものはおいしくないな﹂
おぞましいその姿。
74
そんな彼女に、俺は話しかける。
彼女は前世から、いた。
ただ、俺はもう一度やり直しているのだから、彼女は前と違う存
在である筈だった。
なのに、彼女の返答は明らかに一つの可能性を示していた。
彼女が、前世の俺のことを知り、その魂を食べたことを証言した
のだ。
彼女は、俺についてきたのだということだ。
それから彼女は、腹が減ったと言い、どこかへと飛んでいく。
止めようとしたが、やはりいう事は聞かなかった。
ファレーナがごはんをたべる、と言うのは非常に危険なことだ。
それは魂を食べるという事だからだ。
俺は早急にその対策を立てるべく、必要な人物に連絡をとること
にする。
その場に倒れて苦しんでいるベルナルド達の手当の事も考えなが
ら。
ちなみにカレンはその後すぐ、無事であることが判明し、問題は
ファレーナについてだけだ、ということになる。
連絡を取った相手はナコルルであり、すぐに何が起こったのかを
説明し、協力を求めた。
それは、あの危険な都市、ソステヌーの幻想爵への連絡をとって
くれ、というものだった。
75
ファレーナのような存在について、研究していた者が過去、あの
街にいたということを俺は知っているからだ。
ナコルルはファレーナの危険性を聞き、早急な対策の必要に同意
してくれ、すぐに連絡を取ってくれた。
返答が返ってくるのも早かった。
それこそ、見てすぐ、に近いだろう。
ナコルルが魔術によって送った手紙を、即座に返信し、しかも着
の身着のままここに向かっているらしいことも分かった。
ナコルルも、それを見て流石はソステヌーの人間じゃ、とあきれ
ていた。
ただ、飛竜にやってくるにしてもソステヌーからでは王都までは
距離がある。
来るまでの間、俺はすこし学院長室のベッドで仮眠させてもらう
ことにした。
その夜、俺は夢を見た。
過去の夢だ。
あの戦争の頃の、暗い夢だった。
ファレーナに取り憑かれて少し経った頃の夢だった。
夢の中で、俺はコウに呼ばれて、参謀の天幕の中にいた。
そこには俺以外にも何人か兵士がいて、そこには何らかの共通点
があるらしかった。
76
それからしばらくして、コウに紹介された人物は、ブルバッハ、
と呼ばれる人間で魔導部の人間であると言う。
ソステヌーの幻想爵でもあるらしき彼は、突然、﹁うしろにいる
んでしょう?﹂と言い、俺を驚かせた。
そこにはファレーナがいるからだ。
そしてそれは他の兵士たちも同じだったらしい。
それでわかった。
その場に集められたのが、ファレーナのような何かに取りつかれ
た者たちであるという事が。
実際、彼らの背後には何者かの気配があった。
ブルバッハに請われ、一人の兵士がその存在に話しかけ、姿を現
してもらったときのブルバッハの喜びようと言ったらなかった。
古文書が正しかっただのなんだのと言っていた。
それから契約は可能かと聞いた。
その兵士は彼に取り憑いているらしき巨大な狼に尋ねる。
そして帰って来た答えは可能だというものだった。
俺もファレーナに聞くが、やはり可能だと言う。
楽しそうに、けいやくする?と質問されたところで、その夢は途
切れた。
目が覚めると、そこは学院長室だった。
ナコルルに起こされたらしく、目の前にナコルルが緊迫した表情
で立っていた。
77
ブルバッハが着いたのか、と思いきやそうではなく、事件があっ
たらしい。
それは、ファレーナの起こしたらしきもので、その確認のために
起こされたのだった。
実際、見に行けばそれは間違いなくファレーナの餌食になったと
思われる人物がそこにいた。
精神の破壊された人の抜け殻がそこにはあった。
ただ、その人物は犯罪を犯しかけていたらしく、悪人と呼んで差
支えない人物だった。
それを見て、どうやら前世、ファレーナと俺との間で結ばれた契
約が未だ有効であるらしいことをしった。
それをナコルルに説明する。
けれど、その契約が極めてあいまいなもの︱︱罪人は食べていい、
というものだと聞き、彼女は眉をしかめる。
当然だろう。
法に違反した者、ではなくファレーナの基準で罪人、ということ
になっていたのだから。
結局、事態は思った以上に危険であることを確認し、それから学
院長室に戻ることになった。
すると、そこには懐かしい人物がいた。
ブルバッハ幻想爵である。
・・・・
前世と変わらない物凄い喋り方で俺とナコルルを出迎えた彼は、
早速自分の実験対象がどこにいるか聞き始めた。
78
それに対し、俺は流して、自分の要望を彼に伝える。
それは魔導具“皿”を作ってほしいというものだ。
彼はなぜ俺がそれを知っているのか驚いていたが、そのこと自体
に対した興味は無いようで、作れるなら作りたいと口を尖らせた。
そんな彼に、俺は“皿”の制作方法で、分かる部分を伝えた。
すると彼はそれなら作れると言い、作業室に走っていったのだっ
た。
それから数日、疲れ果てた顔だが満面の笑みを浮かべて彼は“皿
”を差し出した。
どうやらできたらしく、俺はすぐにファレーナを呼ぶべくその魔
導具を首にかける。
どうやって使うか、それを俺はよく知っていた。
ただあのころの憎しみを、絶望を思い出せばいい。
それだけだ。
そしてそれは成功した。
輝き始めた“皿”に轢かれるように現れたファレーナ。
俺は彼女に以前よりも厳しい契約条項を突きつけ、承諾をとる。
その際に、俺もまた彼女にかなり厳しい条件を付けられた。
竜をいずれ狩れ、というものだ。
しかしそれは理不尽なものではなく、ファレーナの身体の維持の
ためにはどうしても必要らしい。
しかたなく承諾し、そして契約は成ったのだった。
79
それから日常は戻ってきて、俺は普通の学院生活に戻った。
その中でも特筆すべきは授業の一つとして設けられている迷宮探
索実技である。
迷宮探索はパーティで行うことが決められており、パーティメン
バーを探すことが必要だったのだが、俺とノールと言うのは決まっ
ていても、他の二人を誰にするかというのは難しい問題だった。
悩んでいるうちに次々とパーティは組まれていき、そして俺とノ
ールは余ってしまった。
けれど運よく、同じくあまり組になりかけていた女の子二人をパ
ーティメンバーに誘うことが出来た。
ダークエルフ
一人は銀髪の黒貴種トリス・メルメディア、そしてもう一人は種
族がら背丈の低く幼い容姿のフィー・ドルガンティアである。
二人とも異種族︱︱祖種︵ヒューマンではない者︶︱︱であるた
めに、クラスでは微妙に浮いていたらしく、だから余ってしまった
らしい。
けれど実力は確かであるし、俺もノールもそう言ったことを気に
するタイプではない。
話はすぐにまとまり、俺たちは彼女たちとパーティを組んで迷宮
探索をすることに決まったのだった。
迷宮は極めて不思議な空間であり、何とも説明しがたい。
迷宮というものは、どんなものであれ俺たち人類が住んでいる通
常空間とは異なる“ここではないどこか”に存在しているものであ
ると言われており、その内部は基本的に異界であるとされているも
のだからだ。
その大きさも様々で、非常に広いものも、それなりのものもあり、
80
共通点を拾う事は難しいが、とにかくどの迷宮も言えることは、人
類の住む通常空間とは別の場所にある、ということである。
そんなところに、俺達四人は飛び込んでいった。
迷宮に入るまでには何週間か時間があったため、その中で連携の
確認など、訓練をいくつかしたおかげか、迷宮における戦闘はさし
て苦も無く行うことが出来た。
途中、カレンとその友人らしき高位貴族の女の子で構成されたパ
ボスモンスター
ーティに出くわしたが、変わったことは、そのことと、目的地であ
る泉にいた守護者が非常に厄介だったことくらいで概ね問題なく迷
宮をクリアすることが出来た。
迷宮を出て、担当教官であるベルノー女史に褒められたことは、
非常に名誉なことだっただろう。
彼女の言によれば、俺たちに課せられた今回の任務は非常に難易
度が高いものだったらしく、そのことを知らされた他のクラスメイ
ト達は驚いていた。
そうして、俺たちの学院生活は順調に進んでいく。
これからもまた、楽しいものになるだろうと思って、学院までの
帰り道、足がはずんだのだった。
81
カレン?
開いた口が塞がらないとはこのことだ、とぼんやりとした頭で私
は考えた。
私︱︱つまりはタロス村のカレンとしては、だ。
迷宮部の部屋の前の掲示板に掲示された成績表。
それには、この間に行われた迷宮探索の成績が順位をつけた形で
評価され掲示されている。
そこではクラスは関係なく学年全体の順位が表示されているため、
当然私たちのパーティの名前もある。
それほど悪くはないだろう。むしろ上位の方である。学院に入っ
てまだ数か月しか経っていない状況で組んだパーティでこれだけの
成果を残せたのだから十分に満足すべき順位であると言えた。
だけど、当たり前の話だが一位ではない。
一位ではないのだ。
学年一位など、そんなに簡単にとれるものではないのだから、当
然だ。
そのはずだった。
﹁⋮⋮カレン、どうしましたの?﹂
呆然として立ち尽くす私の後ろから、少し気位の高そうな、けれ
ど決して居丈高ではない気遣うような声がかかった。
振り返ると、そこにいたのは私のクラスメイトであり、同時に迷
宮探索時のパーティメンバーでもあるエレオノーラ=カサルシィが
82
立っていた。
少し不安げな表情は彼女にしてはかなり珍しく、かなり近い関係
でなければ見ることは叶わないものだ。
なにせ、彼女は普段、もっと高飛車で威張り腐った態度をとって
おり、さながらクラスの女王と言った雰囲気の少女だからだ。
にもかかわらず、彼女がこうやって私を気遣う理由は簡単。
それは私と彼女が友達だからに他ならない。
私は気遣ってくれた友人に微笑みかけ、それから順位表を指さし
て言った。
﹁ほら、あれ⋮⋮少し、驚いちゃったんだよ。一位⋮⋮﹂
﹁ジョン=セリアス⋮⋮ですか。お知り合いですの?﹂
﹁幼馴染だよ。そして、アレン=セリアスおじさんの息子﹂
﹁アレン=セリアスの!? なるほど、英雄の⋮⋮でしたらあの順
位も納得ですわね⋮⋮﹂
顎に手を当てて自分に言い聞かせるようにそう呟くエレオノーラ
︱︱エルは、年相応に可愛らしい。普段の態度からは想像できない
少女らしさだ。しかしそれを指摘すると恥ずかしそうにするので置
いておくことにし、私は話を続ける。
エルの驚きはわかりやすいものだ。アレンおじさんが凄い人だか
ら、その息子も才能を継いでいると考えている。だからこんな順位
でもおかしくないのだと、そう考えている。
けれど、それは間違いだ。私は知っている。いや、私だけじゃな
い。タロス村の出身者はみんな知っている。ジョンは、アレンおじ
さんの才能を何一つ受け継いでいないということを。ジョン自身で
すら、そのことを深く理解していて、アレンおじさんもそうである
ことを否定しない。
ジョンが受け継いだのは、アレンおじさんの心根だけ。力も、魔
83
力も、ジョンは大して持っていやしないのだ。
それなのに、彼はやってのけた。そのことにどれだけの価値があ
ることか⋮⋮。
しかしそんなことをエルに言っても首を傾げられるだけなのは分
かっていた。
だから私はエルの言葉に頷いて、
﹁⋮⋮そうだね﹂
と一言言った。
本当は、ジョンがどれだけ頑張ったかを、彼自身が持つ凄さを説
明して理解させたかった。けれどそういうわけにはいかない。
ジョン自身が、それを認めないからだ。
彼の持つ力は、今はまだ広める時期ではないからだ。
それは私にとって歯噛みするほど悔しいことだ。
誰よりも凄いのに、誰よりも努力しているのに、それを誰も見な
いということは。
いっそ大声で触れ回りたいくらいなのに、それを一番嫌がるのは
ジョンなのだ。
だけど、それでもいい。
私は知っている。
いずれ、彼はこの世界で最も有名な人間になる。
そのことを私は知っているのだから。
だから今は口を噤もう。
そして、そのいつかのために、少しでも彼の力になれる様に努力
84
をしよう。
どんな努力をするのかって?
そう︱︱たとえば、公爵家の令嬢と仲良くなる、とか、そういう
ことかな。
◆◇◆◇◆
今でこそエリート養成校である魔法学院に在籍しているが、私は
元々タロス村のただの村娘だった。
今でも気分としては村娘のままで、たとえば国のために自分が力
になるとか、そういうことを身近なものとして考えることは難しい。
授業で教授たちが言うには、魔術師というのは選ばれし者のみが
なることのできるエリートであり、その力は国のために捧げられる
べきで、だからこそたとえ平民だったとしても貴族に準じた扱いを
されるのは当然のことである、とのことだった。
魔術師になりさえすれば、平民も貴族と同じものとして扱われる
らしい。その性質上、一代貴族のようなものらしく、子供が出来て
も継がせることはできない地位らしいが、それでも十分な優遇であ
る。功を上げれば継がせることの出来る爵位も頂けるらしく、その
可能性も一般兵士に比べればかなり高いとのことだった。
そのことがどれほどの優遇措置なのか、村娘でしかなかった私に
ははじめ、理解できなかった。
村を出る前に、ジョンは私たちに、貴族には決して逆らってはな
らない、という話を何度も何度もした。
けれど、村にはそのような人物はいなかったから、どうしてピン
と来なくて、結局そのままの状態で学院までやってきてしまった。
学院には確かに貴族、と呼ばれる人物が何人もいたが、そのどこ
が私達と異なっているのか理解することは出来なかった。
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同じ人間にしか見えず、そして実際、同じ人間でしかなったのだ
から。
ただ、何日か学院で過ごしていると、その違い、というものが理
解できるようになってきた。
彼らは総じて貴き血の誇り、と呼ばれるものを持っているという
ことに価値を感じているようで、それを他の誰もが崇め奉るものだ
と信じてやまないらしい。
彼らに対して、貴い血を汚すような行動に出た人間は罰を与えら
れて当然であり、そのような人物に罰を与えることは自分たちの権
利であると同時に義務であると感じているらしい。
全く頭のおかしいことである。
なぜ同じ人間なのにそこに優劣があるのか。
貴い血、などと言われても、そんなものは外から見ることはでき
ない。
本当に貴いのであれば、それに見合う力を見せてもらいたいもの
だと思ったが、授業や実技で見る彼らの能力はそれほどでもないよ
うだった。
確かに、他の平民の生徒たちと比べれば彼らは総じて成績がよか
った。それは認める。
けれど、その理由は彼らが学院に入る前から学問においても武術
においても魔法においても教師をつけ、学んできたからに他ならな
い。事実、時間が経つにつれ、意欲の高い生徒たちに徐々に抜かれ
ていく貴族が増えてきて、そのような貴族は“貴族の恥”などと呼
ばれて未だ上位にいる貴族に唾棄されるような扱いを受けるように
なっていった。
だけどそれでも、貴族は貴族らしく、そのような貴族が平民から
血を汚されるような行いをされた場合には、上位にいる貴族も怒り
狂ってその平民に罰を与えるのだ。
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一体貴族であるということの何がそれほどまで重要なのか、私に
は理解できなかった。
ただ、その光景を私はどこかで見たことがあるような気がした。
何かと似ている、そんな気がしていた。
そして、ふと気づいた。
あぁ、これはつまり、見栄なのだなと。
村には貴族はいなかった。
けれど、子供の間で力を持つ者とない者が明確に分かれ、前者は
後者に対し居丈高な態度を取りがちだった。
そのことと、きっとこれは同じなのだと私は思った。
村の友人たち︱︱テッドやコウ、それにフィルと言った者は前者
に属し、ジョンは後者に属していて、今のように仲良くなる前は、
テッドたちとジョンは対立しがちだった。
対立と言っても、テッドたちがジョンを邪険にしていただけで、
ジョンは何も気にしないで一人遊びをしていただけなのだが、それ
がまたテッドたちは気に入らなかったらしい。
あいつは生意気であると事あるごとに言っていたものである。
今は決してそんなことはしないのだが、あの頃は誰もかれも子供
だったと言うことだろう。今も子供であることは間違いないのだが、
自分の感情を少しでも抑えることができなかったのだ。ただ何度か
のぶつかり合いを経て、お互いに分かり合えるようになった。相手
の持つもどかしさを、テッドたちとジョンは理解した。
だからテッドたちとジョンは和解し、そして友人となった。
私はと言えば、テッドたちの側にも、ジョンの側にも属さないで
好き勝手に両者と遊んでいた。それは、テッドたちの行動の原動力
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となっているもの︱︱今思えばそれは見栄だった︱︱が私には意味
が感じられないものだったからだ。
同じ村に育った者たちである。仲良くすればいいのに、どうして
わざわざ分裂するのか。
そう思いながら、私は彼らと接した。その結果分かったのは、彼
らには譲れないものがあり、それが見栄であって、乗り越えるには
時間やきっかけがどうしても必要なのだという事だった。
だから私は、彼らを和解させるために様々なことをやった。
お互いのいいところを吹き込んだり、何をやったのかを話したり、
また同じ場所に引っ張り出してみたり。
そういうことをする中で、彼らの気持ちが徐々に近づいていくの
を私は感じた。
何のことはない。お互いがお互いを気にしているのは私には火を
見るより明らかな事実だった。
テッドとジョンがアレンおじさんと一緒に森に出かけてからは、
何となく仲良くなったように見えたが、それでもまだお互いに踏み
込めていない部分があるように感じれた。
だから、二人のお互いに対する興味が限界に達していると感じた
頃、私はテッドとジョンを戦わせるように仕向けた。
それほど仲が険悪でない今、その関係を固定しようと思ったのだ。
以前から、テッドはジョンを生意気だと思うと同時に、得体の知
れないものを感じているという事を私は知っていた。テッドたちの
作る集団にうまく入れない子供と言うのはジョン以外にも存在した。
けれどそういう子供は引っ込み思案だったり、うまく話せないこと
が理由であって、そう言う場合、テッドたちは面倒見の良さを見せ、
誘いに言ったり、その子供が興味を持つような遊びを考えたりして
自らの集団の中に引き入れていた。
けれど、ジョンはそういう子供たちとは明確に違った。
88
まずジョンは誰と話すときも変わらない。年上のテッドと話すと
きも、年下の子供と話すときも、大人と話すときも、その雰囲気、
喋り方に一切の変化が見られない。誰とでも対等に口を利く。そん
な子供は、他に誰一人としていなかった。内容は子供らしいのだが、
態度の端々から感じられる堂々とした雰囲気はぬぐえなかった。大
人は気づかなかったようだが、子供から見るとそれは異常だった。
だから、テッドたちはそれを気味悪く思っていたのだろう。
それに、ジョンは強かった。アレンおじさんがたまに開く剣術道
場に村の子供、特に男の子はみんな参加するのだが、その際に模擬
戦をさせたりもしていたので、誰が強いかは周知の事実だった。そ
の中で、テッドとジョンが飛び抜けて強かった。その次にコウたち
やフィルがつけ、その後は団子になっているような状態だった。
そして、ジョンは毎回テッドとの模擬戦で負けていた。何のこと
はない。テッドの方が強いのだ、とみんな考えていたが、実際に戦
ったテッドは違う感想を持っていたらしい。ジョンは、手を抜いて
いるとそう思っていたようなのだ。そして、ジョンは自分よりもお
そらく遥かに強いのだろうとも。
テッドの感じていたジョンに対する得体の知れない何かは、もし
かしたら恐怖だったのではないかと思う。自分の目の前に、牙を剥
けない猛獣が目の前にいるような、そんな感覚。その猛獣とはたま
に喧嘩するが、決して負けることはない。けれど、猛獣は牙も爪も
決して使おうとはしないことを自分は知っている。あれを使われた
ら、自分はまけるのだと。
だが、私は思った。
目の前に猛獣がいること自体をテッドは恐れているのではなく、
その猛獣がトラなのかライオンなのかわからないことをテッドが恐
れているのではないかと。
正体がはっきりすれば、それはその正体に従って扱えばいい。
けれど、相手は正体を明かすつもりがないという事に、もどかし
89
さを感じているのではないかと。
だからこそ、私はジョンに一度本気でテッドと戦ってもらう必要
があると考えた。
そうすれば、きっとすっきりする。テッドとジョンの仲も良くな
るだろうと。
だから、私はジョンを無理やり、テッドとの勝負の場に引きずり
出した。
ジョンが敗北するとは思わなかった。
早朝、私はジョンがアレンおじさんと対等に戦っているところを
見ていた。テッドと模擬戦をするときとは明確に異なるその剣技。
そのときの私には剣のことは分からなかったけれど、それでもは
っきりと理解できる程度に、ジョンの剣は速かった。
だから、私はジョンに言った。見ていたことを。ジョンが強いと
いう事を私が知っているという事を。
手加減はしないでほしいという牽制でもあった。ジョンは自分の
強さを隠そうとしている節があったから、すでに知っている人間が
いれば、躊躇しないのではないかと思った。
実際は、はじめジョンは手加減して戦っていた。けれどテッドが
手加減をするなと怒鳴ってからは、本気になっていた。今までの模
擬戦ではそんなことを言われても本気になったりはしなかったから、
私の言葉が後押しになった部分もあったのではないかと思う。
そして、本気で戦ったテッドは、負けた。
意外だったのは、ジョンも負けたという事だ。
自分で吹き飛ばした剣に頭をぶつけるという無様な形で。
それから、ジョンとテッドは、はっきりと親友になった。聞けば
一応少し前に森に一緒に入ったころから友人にはなっていたらしい
90
のだが、何かくすぶるものもあったようで、それが戦う事ですっき
りしたらしい。
テッドは負けたのにすがすがしそうな顔をしていたし、ジョンも
ジョンで何かほっとしたような顔をしていた。
ジョンの意外な油断というか、うっかりな性質と言うか、そうい
うものを見ることができたのも大きいだろう。
結局、ジョンも普通の人間に過ぎない、ということにテッドは納
得したのだ。
周りの子供たちも同様で、それからは素直にジョンのことを評価
できるようになった。
これで村の子供たちはみんな仲良しになって、平和になる。
私はそんなことを思いながら満足した気分で毎日を過ごすように
なった。
それまでのジョンとテッドたちとの少し緊張感のある雰囲気は、
あんまり好きではなかったから。
けれど、ジョンを巡るエピソードはこれだけでは終わらなかった。
それは、テッドがアレンおじさんとジョンと森に入った話を私に
したことから始まる︱︱
91
カレン?
男というものは極めて単純である。
あれほどいがみ合っていたくせに、殴り合いの喧嘩をした程度で
すっかり晴れ晴れとしていい笑顔で肩を組み合ったりするのだから。
女ではこうはいかない。たとえ子供であろうとも、女は女で、仲
が悪いと言うのはかなり深刻な事態を意味する。
だから彼ら男の単純さがたまにうらやましい。
テッドはジョンに模擬戦で敗北したわけだが、そのときにジョン
の力、というか剣術の高い技術にすっかり男の子連中は惚れ込んで
しまい、ジョンにその技術を教えてほしいと頼み込んでいた。
ついこの間まで仲が悪かったのに、力を見せたらそんな風にすり
寄ってくるのだから私から見ればそれは非常にみっともないという
か、情けない掌返しだと思ってしまうのだが、彼らにはそんな感情
は一切ないようだった。
ジョンはジョンでそんな風な考えなど思い浮かば無いようである
し、ジョンに頼み込んだりジョンの剣術すげーとか言いながら興奮
気味の男の子たちもジョンを利用しようとかそういう感じではなく
単純にジョンに好意をもって近づいているらしいのだ。
こういうところがうらやましい。
女なら、そういう掌返しをする者は明確に邪険にされるし、表面
上は微笑んで接してはいてもその張り付いた笑みの裏側では憎しみ
と嫌悪が渦巻くものである。
彼ら男にはそういうところがまるでないのだ。
92
単純。
本当に、単純である。
ただ、そういうところこそが男の子の愛すべき美点であり、私の
母も父を見つめながら私が思っているような事と似たような台詞を
言っていたりする。
父が村の男たちと酒を飲んで楽しそうにしていたり、たまに殴り
合いの喧嘩に発展したり、その三十分後には肩を組んで歌を歌いあ
っていたりするのを、﹁まったく。馬鹿なんだから⋮⋮﹂とため息
をつきながら優しい微笑みを浮かべる母が、私は好きだ。
村の女友達に聞けば、彼女たちの両親も同じようなものらしく、
いつかはああいう家庭を持ちたいものだとよく話している。
そんな訳で、村での生活は至極平和で、そのままずっと平和に過
ぎていくはずだった。
けれど、実際はそうはならなかった。
テッドがジョンに敗北した日の次の日、村の子供たちを集めてジ
ョンが剣術を指導する許可をアレンおじさんにもらったことを告げ
た日。
ジョンはテッドと、コウたち、フィル、そして私を呼んで内緒話
を始めたのだ。
何か面白いことでもやる気かな、とぼんやりと考えていたのだが、
ジョンの口から飛び出た内容は私の予想とは全く違っていて、本当
に開いた口が塞がらなかった。
彼は言ったのだ。
93
﹁それじゃ、お前らには特別訓練だ⋮⋮魔法を、教える。大人には
絶対内緒だ﹂
と。
◆◇◆◇◆
ジョンがやっぱり普通ではなかった。
そのことが明確に明らかになったのが、この特別訓練からだ。
剣術の強いことは才能、で片づけることが出来る。実の父である
アレンさんがあれだけ強い剣士なのだから、その息子が強いのも納
得しやすい。
けれど、ジョンは全く新しい技術を私たちに伝授し始めたのだ。
魔法について、私たちはあまり詳しくは無かったけど、フィルが
基本的なことは大体理解していたので、常識的な魔法とジョンの教
える魔法との違いを事あるごとに説明してその異常性を教えてくれ
た。
ジョンから魔法を教えられるにつれ、フィルに通常の魔法との違
いを説明されるにつれ、ジョンの魔法がどれだけ強力で便利なもの
なのかを理解できるようになった。
ジョンの魔法は詠唱をしなくても使用することができる。
持って生まれた適性など関係なくあらゆる属性を誰でも使用する
ことができる。
魔法の射出速度は極めて早く、集中がある程度散漫であったとし
ても、一語だけ詠唱すれば使用することができる。
それは恐ろしいほどの有用性だ。
94
ジョンが言うにはこれは敵と戦うために最も合理的なものとして
考案した魔法であるという。
事実、フィルの言う通常魔法の欠点と言われる部分をほとんど全
て排除してその体系は作られていたのだ。
これを、こんなものをどうしてこんな辺境の村の子供に過ぎない
ジョンが編み出せたのか。
ジョンは天才だと、ジョンに特別訓練を受けた者のほぼ全員が思
った。
けれど、フィルだけは違った。
彼が言うには﹁ジョンは天才じゃない﹂とのことだった。
何をもってそんなことを言うのか、と私は内心少しだけ怒りなが
ら思っていたが、訓練を続ける中で、フィルの言う事は正しいのか
もしれないという気がしてきた。
ジョンは、すごく上達が遅かった。
ジョンが剣術や魔法を教える中、誰もがものすごい速度で上達し
ていった。
私は強くなることにそれほど熱心ではなかったからそれなりだっ
たが、他のみんなはめきめきと力をつけていった。
ジョンはジョンで、こつこつ毎日訓練して少しずつその力を上げ
ていたのだが、みんなの上達に比べると、それは亀のようにゆっく
りとしていて、本気でやっているのか、と首を傾げたくなるような
ものだった。
もちろん、みんなが初心者で、ジョンは中級者ないしは上級者の
腕前をもっていたからそんな風に上達に差が出ているのかもと考え
ないではなかったが、それにしても⋮⋮という気はずっとしていた。
訓練を続けていく中で、明かされた秘密がいくつかある。
95
その中でも私にとって重要なのは、いつかジョンとテッドがアレ
ンおじさんに連れられて森に入った時の話だった。
今でもその三人はたまに一緒になって森に入り魔物を狩ってくるの
だが、そのたびにジョンとテッドはなぜかほくほくとした癒された
顔をして帰ってくるのが気になっていた。
だから遠回しにそのことについて尋ねてみたら、その理由が発覚し
たのだ。遠回しに尋ねたのは正面から聞くと隠し事をしそうな気が
したからだ。テッドとジョンは私に何か隠そうとするときがあるの
で、そう言う場合はそれとなく尋ねることにしている。
すると、テッドはジョンに話していいか、と許可を得てまぁいいだ
ろう、ここにいる奴らにならと言われてから話し出した。
それは森の中でクリスタルウルフに遭遇した際の逃走と、ジョンの
勇気ある対話の話であり、コウたちやフィルは楽しそうにしてその
話を聞いていた。
魔物が言葉を理解する、というのは驚きで、そんなクリスタルウル
フと話をしに森へ行くのだという話をするに従い、私はだから彼ら
はあんなに楽しそうに森に向かい、そして帰ってくるとほくほく顔
なのかと納得しかけた。
けれど、話はさらに別の方向へと転がっていく。そのことが、私の
人生に大幅な影響を与えたのは言うまでもない。
テッドは言った。
﹁それでさ、そのクリスタルウルフの子供たちがまた可愛いんだよ
な。もふもふしてて⋮⋮じゃれてきたりして。肉球なんかぷにぷに
しててさわりごこちが最高だったぜ。子供たち同士で転がるみたい
にじゃれあったりしてるのを見てても癒されるな⋮⋮あぁ、話して
たらまた行きたくなってきたぜ﹂
﹁おい、テッド!﹂
ジョンは、テッドの話が進むにつれ、私の表情をちらちらと見始
96
め、さらにクリスタルウルフの子供の可愛さを語る段になって私の
眼の色が変わり始めたのを理解したのか、慌ててテッドの話を止め
た。
しかし、止めるのが少し遅かっただろう。
私は二人にクリスタルウルフの子供につき、洗いざらい吐かせ、
私をその場所に連れて行き、クリスタルウルフに私を紹介して一緒
に遊ぶ許可を得ることを約束させた。
後に、そのときの様子を後ろの方で怯えながら見ていたコウが語
った。
﹁⋮⋮あれは手慣れた尋問官よりも堂に入った尋問ぶりだったぜ。
話を逸らそうとしたらすぐに本筋に戻す、と思いきや自ら別の話を
振ったりして安心させて、と思いきやその話は本筋の裏付けのため
の罠だった、っていう風に⋮⋮二人に同情したな﹂
別にそんなつもりは全然なかったのだけど、聞くべきことは聞か
なければならない。
女というものはみな、可愛いものが好きなのである。
もふもふしたものが好きなのである。
それに独占的に会える権限をひけらかすような者に尋問じみたこ
とをして何が悪いか。
甚だ狂気的だが私は実際そのときそんなことを考えていた。
それから、渋々ながらテッドとコウはアレンおじさんに今度私を
連れて森へ行っていいかとお伺いを立てに行ってくれた。
なんだかんだ言いつつ、私がかわいいものが好きだということを
二人は知っている。私の部屋には何体かのぬいぐるみがあり、それ
97
を私がきわめて大事にしているという事実を知っているのだ。だか
らこそ、今回そのつもりがなかったとしても除け者にしたような感
じになってしまったことを少し悪く思っているらしく、私のほとん
ど我儘に近い要求を二人はそろって受け入れてくれたのだった。
これで私ももふもふに会いに行ける!
楽しみ!
とおもってその日が来るのを楽しみにしていたのだが、この期待
は残念なことに裏切られることになった。
意外にも︱︱今考えれば意外でもなんでもないが︱︱アレンおじ
さんから不許可の申しつけがなされてしまったためだ。自分で自分
の身を守れない奴が森に入るのを許すわけにはいかないという至極
真っ当な理由である。特にそれが女の子ならば余計に、と付け加え
られた。
それならアレンおじさんに連れてってもらえば、と一瞬思わない
ではなかったのだが、アレンおじさんがジョンとテッドを連れて森
に入るのは理由あってのことだ。テッドは猟師の息子として森に親
しむため、ジョンはいつかアレンおじさんの村での仕事︱︱森での
魔物の狩り︱︱を継ぐためという明確な理由が。私にはそれがなか
った。だからアレンおじさんに頼むわけにはいかない。大体、アレ
ンおじさんもたまにしか村にはいない。そんなに暇ではないし、そ
もそも休暇で村にいるのだ。それを私がクリスタルウルフの子供に
会いたいからと毎回引っ張り出すわけにはいかない。
そんな話をして、ジョンに相談したら、
﹁⋮⋮毎回引っ張り出すわけにはいかない? つまり定期的に会い
に行く気なんだな⋮⋮﹂
98
とげんなりした顔をしてため息をつかれた。
何を当たり前の話を改めて確認しているのだろうと私は首を傾げ
たが、ジョンはもうそのことについては触れずに、提案を始めた。
﹁だったら強くなるしかないだろ。自分の身を守れるくらいに﹂
と。
魔物から身を守るのは大変なことだ。魔物を倒せる人間と言うの
は極めて少なく、国の騎士や兵士、それに冒険者に限られ、その他
の普通に生活している人間にはできないことだ。特に女がそれをや
るのは極めて大変なことだった。
けれど、今の私の状況でそれが出来るようになるのか、と聞かれ
ればおそらくなるだろうと答えられる。
ジョンが教えてくれている魔法にはそれだけの潜在力がある。ジ
ョンの教えてくれる剣術はその魔法と合わせて運用できるもので、
村の森の魔物から身を守るくらいの実力にはたどり着けそうだった。
ただ、当然ながらそれは簡単なことではない。
普通にやっていたら、五年、いや十年かかるかもしれないと思っ
た。
けれどそういうわけにはいかないのだ。
私は、もふもふに会いに行く。
絶対に、そう、三年以内に。
それが私の決意だった。
そう決めてから、ジョンたちとの特別訓練は血反吐を吐く様なも
のへと変化した。
99
別にジョンがそれくらいやれと言ったわけではない。
けれど私は死ぬ気でやった。剣を振り、血豆を何度も潰しては、
腕がだるくなっても剣を振り続けた。魔法も無詠唱で出来るように
なるまで、ひたすらにトレーニングを続けた。魔力が尽きたら魔法
の性質や運用法の思索に時間を振り、回復したらまた訓練を続けた。
﹁⋮⋮何がお前をそこまで駆り立てるんだ⋮⋮﹂
ジョンが訓練をする私を見て、そう言ったことは一度や二度では
ない。
何がって、もふもふがに決まってるでしょうがと何度も叫んだも
のだ。
そうやって訓練を続けていたら、なぜかテッドたちが焦り始めた。
私があまり根を詰めないで特別訓練をしていたときに開いていた
彼らとの実力差が、気づいたらもうほとんどなくなっていたことに
気づいたからだ。
小さいころは腕っぷしでもテッドに勝てていたが、最近はめっき
り勝てなくなっていた私。もちろん、勝てないことは分かっていた
から喧嘩は売らずに、勝ち逃げのままだったのだが、このころ私は
好んでテッドたちと模擬戦をするようになった。強くなるためには
実際に戦わなければならないと思ったからだ。そして気づいた。負
けることも勿論あったが、かなりの確率で私が勝てるようになって
いるということに。
私に実力で負けていると理解したテッドたちはそれから私と同じ
ように死に物狂いで訓練をするようになった。模擬戦では勝ったり
負けたり。ジョンだけは誰にも負けることは無かったが、それでも
実力差は縮まってる気がした。やっぱり、ジョンの上達は私たちに
比べてかなり遅い。それでもジョンが遠くにいることは間違いない
のだけど。追いつける日はそれほど遠くは無いのかもしれない。そ
100
んな気がした。
力がついたと感じる度、私はアレンおじさんに挑んだ。
﹁森に入るに十分な実力がついたと判断できれば、許可をやる。方
法は、俺との模擬戦だな。何、別に本気で戦いやしねぇ。が、必要
以上の手加減もしねぇからな﹂
と言うからだ。
初めてアレンおじさんと戦った時は、そのあまりの強さに愕然と
したものだ。
これで本気ではないと言うのかと、そう思って。
こんなものに勝てる人間など存在するのかと感じるくらいに、ア
レンおじさんは強かった。
けれどそんなおじさんとジョンが戦うと、ジョンが勝つのだ。
ジョンの方が強いというわけではなく、おじさんが手を抜いてい
るから勝てているだけで、この程度の強さになれば森に入ってもい
いと言うデモンストレーションに過ぎなかったのだが、本当に私は
ここまでの強さを得られるのかと不安に思った。
だけど、訓練は私を裏切らなかった。
何度もおじさんに挑むにつれ、見えなかった剣線が見える様にな
り、受けられなかった剣が受けられるようになり、振る事すらでき
なかった剣を振る余裕まで生まれてきたのだ。
自分は、強くなっている︱︱
おじさんとの模擬戦は、そう確信できる楽しい時間だった。
そうして、二年が経ち、森の魔物から身を守れる、と自信を持っ
て言えるくらいの実力が付き始めた頃、私はおじさんに再度挑んだ。
101
私がそんなことを言い始めるとテッドも挑むと言い始め、じゃあ
二人同時に相手してやるとおじさんが言い始めたので、そうしても
らうことにした。
そんな風にまとめて相手をしてもらうことも今まで何度かあった。
不思議なのは、というかおじさんが凄い人なのだと改めて思うの
はそういうときだ。
一人で挑んでいるときも、二人、三人で挑んでいるときも、手ご
たえが全く変わらないのだ。
どんなときも、おじさんは同じように手ごわく、同じような実力
で私たちをあしらった。
人数が増えれば対処も難しくなるはずなのに、しかも私たちは普
通の魔法ではない、ジョンの魔法を使用しているのに、おじさんは
すぐにそれに対処してくるのだ。
一体どれほどの実力を秘めているのだろうと、いつかこの人が本
気で戦っているところを見てみたいと、何度も思った。
だから、
﹁⋮⋮合格だ﹂
私の放った魔法がうまいことアレンおじさんの足元をぐらつかせ、
そのタイミングに完璧に合わせたテッドの一撃がおじさんに入った
時、そうおじさんが呟いた瞬間、これは夢ではないかと思ったもの
だ。
二年。
本来は三年かけるつもりだった目標を、私は一年短縮することが
102
できた。
自分の力だけで達成できたとは思わない。
ジョンやテッドたち、それにアレンおじさんの力があってこそだ。
目標を持って切磋琢磨して訓練し続けたからこそ、これほどの実
力を手に入れられたのだ。
いくらみんなに感謝しても足らないほどの素晴らしい時間だった。
だから私はこれから待っている時間も、心の底から楽しまなけれ
ばならないのだと思う。
そう、私を待っているもの。
至福の空間。
クリスタルウルフの、モフモフワールドを!
つまりは、女にも単純な部分はあるということだ。
可愛いものに関して、私は極めて単純である。
103
カレン?
︱︱そこには神の国があった。
村の森の最も奥地、柔らかな光輝を発している神聖な大樹が中心
に聳えたまるで広場のような空間に四体の魔物が存在していた。
そのうちの一体は見上げるほどの巨体を持った、透明な水晶と赤
い水晶の角を一本ずつ生やした狼だった。クリスタルウルフと呼ば
れる強大な魔物。初めて間近で見たその姿は極めて美しく、精霊樹
の下に伏せ、人間とは明らかに異なる強烈な意思を秘めている知性
ある眼光をこちらに向けている様子は、まるで一幅の絵画のようで
すらある。
魔物にも関わらず私達と敵対する様子は一切なく、むしろ優しい
目をしていて、魔物は凶暴で人となれ合う事は決してないと言う一
般的な知識の間違いをそれだけで理解できた。
なれ合う事は、ないのかもしれない。けれど分かり合えないわけ
ではない。そんな気のする、心穏やかな目であった。
けれどそれでも、私の心の中に恐ろしさ、というものが一切宿ら
なかったという訳ではない。
あれは優しい獣だ。けれど、人間とは違うものだ。そうも思った
のだ。
人を一撃で死に至らしめられる牙と爪と肉体を持つあの獣は、そ
の全てを今はしまっておいてくれている。ただそれはあの獣の好意
に過ぎない。やろうと思えばいつでも私たちを物言わぬ肉塊へと変
えることができる、そういう力を持つものなのだと。
だから私は動けなかった。
ジョンに事前に、クリスタルウルフ自身が許可を与えてくれるま
104
ではその子供に触れようとしたりするなと注意してくれたけれど、
とんでもない。
その存在だけで、私の足は止まってしまった。
赤い角を持つクリスタルウルフの足元には、幾分かサイズを小さ
くしたクリスタルウルフの子供が三体、じゃれたり嘗めあったりし
ながらころころ転がっていて、もだえるほどに可愛らしく、今すぐ
にそのもふもふワールドに飛び込みたい衝動に駆られたが、その衝
動をもってしてすら、私の足は動こうとはしてくれなかった。
よく分かっていると思っていたことだが、こうやって突きつけら
れて初めて分かることもある。あの獣と拮抗するレベルで戦ったと
言うアレンおじさんの実力に改めて驚いた。
ジョンは足を止めた私とは異なり、なんでもない様子でクリスタ
ルウルフに近づき、挨拶して私のことを紹介した。
私はと言えば、何の覚悟もない状態でそうやって紹介されて、血
の気が引いた。
自分で言ったこととは言え、どれだけ凄いことをジョンに頼んで
しまったのだろうと、少しだけ後悔した。
けれど、そんな感情もすぐに霧散する。
クリスタルウルフは、優しかった。
その温かい目と同じような穏やかな声で私に子供たちと触れる許
可を出してくれた。
張りつめていた緊張がふっと解ける。
そんな私の様子を見てジョンが笑っていたが、のちに確認すると
それは私がずっと手をわきわきしていたことに対してのものだった
105
らしい。
そんな意識など全くしてなかったのだが、あれだけ怖がっていた
のに私の体はもふもふに反応していたようだった。自分に少し驚い
た。
私は許可をもらうと同時に走り出してクリスタルウルフの子供た
ちのもとへと飛び込む。
彼らは結構な勢いで走り込んできた私を避けようともせず、丸く
なって三匹でクッションのようになって私を迎えてくれた。
すごいもっふもふである。
柔らかな白い毛に包まれて至福の時間を私は過ごした。
不思議と花のような匂いがして、なぜなのかと親クリスタルウル
フに聞けば、子供たちは森のどこかにあるらしい花畑がお気に入り
でそこで転がっていることが多いからだろうと返事が返ってきた。
いい匂い、もふもふ、あったかい。
私はそこに神の存在を感じた。こんな時間を与えてくれた運命を
操る何者かに私は心からの感謝を込めて祈った。それが果たして通
じたのかどうか分からないが、何となく何かが自分の身に宿った気
がした。ただの気のせいかもしれないが。
それから、クリスタルウルフたちに名前が無いことを知り、名前
をつけさせてもらった。
親クリスタルウルフ︱︱ジョンがユスタと名付けた︱︱が言うに
は、名づけと言うのは一種の誓約らしい。
私と、名前をつけたクリスタルウルフの子供︱︱グランダとリー
ディの間には、確かになんとも言い難いぼんやりとした繋がりのよ
うなものが出来たように感じられた。
彼らの感情がなんとなく伝わってくるような、そんな細い糸が繋
がれたような。
106
それが誓約、というものらしかった。
そしてそれが結ばれた以上、彼らはその相手方である私のために
力を貸すだろうと言っていた。
クリスタルウルフは強力な魔物だ。その力を借りれるのは喜ばし
いことだが、そのこと自体よりも、私はいつかこの子供たちと話を
出来る様になることの方が楽しみだった。
クリスタルウルフは魔力の扱いを覚えたら人語を解するようにな
るらしい。今でも言葉を理解できていないというわけではないらし
いのだが、発声ができないらしく、犬のように鳴き声で感情を表す
ことしかできないようだった。
それでもかわいいことには違いはない。私は帰る時間が来るまで、
心行くまでモフモフワールドを楽しんだのだった。
その日、家に帰り着くと、擦り傷がいくつか出来ていることに気
づいた。
森を歩いて、しかも魔物と戦ったりしたのだから、当然のことだ。
﹁⋮⋮痕になっちゃうかなぁ⋮⋮﹂
そんなことを呟きながら布団に入りつつ、そういえばジョンが治
癒魔法を使えたという事を思い出した。
明日、それを使って綺麗に治してもらおうと思った。そうすれば、
痕にならないかもしれないから。
それから、眠気が来るまで、ジョンがどんな風に治癒魔法を使っ
ていたのかを思い出しながら、自分の腕に治癒魔法をかけるふりを
していたら、いつの間にか眠っていた。
次の朝、目が覚めると、腕にあったはずの傷が消えていた。
首を傾げて顔を洗うと目が徐々に覚めてきて、昨日、眠る前に自
107
分に治癒魔法をかけるふりをしていたことを思い出す。
﹁⋮⋮まさか﹂
そう思って、まだ残っている傷跡を服を捲って剥き出しにし、そ
こに昨日と同じように念じる様に手を添えてみた。
﹁⋮⋮治って﹂
すると、ぼんやりとした光が私の手元に発生して、傷跡が少し輝
く。
﹁治癒魔法⋮⋮﹂
私は驚く。それはまさにジョンが使っていたそれと全く同じ現象
だったから。
光の大きさは私のものの方が遥かに小さいが、それでも確かにこ
れは治癒魔法だった。
なぜこんなことが突然出来るようになったのか。
そう思って色々考えてみると、治癒魔法は神を信じる者に発現し
やすい、という話をジョンがしていたことを思い出す。
そう言えば、私は昨日、もふもふの神に心から祈ったような︱︱
そんなもので使えるようになってしまうのか、と思うと同時に、
確かにあれだけ本気で祈れば使えるようになってもおかしくないの
かもしれない、とも思った。
もしかしたら全く別の原因なのかもしれないが、事実として使え
るようになったのだ。理由などなんでもいい。
ただ、私は頑なに信じていた。
108
これは絶対もふもふのお陰である、と。
私のもふもふへの信仰はそうして加速していった。
止まることのない狂信である。
それは治癒魔法すらをも獲得せしめるほどのものだ。
ジョンへは、とりあえず秘密にしておこうと思った。
いつか言うにしても、今のところは内緒で。
だって流石にはずかしいではないか。
あまりにももふもふが良かったから神に本気で祈ってしまった、
なんて理由を説明するのは。
ただ、使える様になった以上は才能は伸ばさなければならないと
この二年間の訓練で身についた哲学が私に治癒魔法の習熟を求めて
いた。
だから遠回しにジョンに、治癒魔法について説明してもらった。
それによると、一度目覚めれば信仰がなくなろうともなんだろう
と、使えなくなるということはないらしい。習熟の方法はただひた
すらに使うこと。弱い治癒なら念じ、祈るだけで発現するらしく、
キー
特殊魔法の中に分類される魔法だということだ。ジョンの魔法理論
に基づく一語詠唱用の起動語もいくつか教えてもらった。
ジョンはひたすら首を傾げ﹁なんでそんなこと聞くんだ?﹂と言
っていたが、いつか使えるようになりたいからと言うと、なるほど
と頷いて教えてくれた。
だましているようで申し訳ない気分になったが、そのうち明かす
つもりであるから許してもらう事にしよう。なにか、目覚めたきっ
かけとして恥ずかしくない理由を考えておかなければ。
109
そんなことを思いながら私は治癒魔法を訓練する。
もふもふの神様。
本当にありがとうございます。
◆◇◆◇◆
それからの日々は怒涛のように過ぎていった。
まずある日突然、不思議な人がやってきた。
ローゼンハイム=ナコルルという黒髪の少女で、森の外で魔物に
襲われかかっていた。
ジョンとテッドが結局魔物を倒してしまったので怪我一つなかっ
たが、実はそのナコルルは魔法学院の院長だったらしい。
ローズちゃんと自分を呼べと言うので、私はそうすることにした
が、他のみんなはナコルルと呼んでいた。少し顔を膨らませていた
が、幼い容姿をしているので可愛らしくしか見えなかった。
そんな彼女が、ある日突然村の広場で魔術師適性調査を始めた
ジョンが言うには時期がおかしいということで、それを追及され
たローズちゃんは冷や汗を流しながらも苦しい言い訳で言い逃れを
していた。
結局ジョンが折れたが、この件でローズちゃんがかなり適当な性
格をしていることが知れた。前の日でも大体明らかだったその事実
だが、村中に広まったと言う意味である。
結果として、私達、ジョンの特別訓練を受けていた者たち、そし
てジョンは問題なく適性調査に合格し、学院に通うことが決まった。
自分の適性のある属性なんて、ジョンの魔法を使っている私には
110
関係のないことだったから気にしたことなど無かったが、改めて確
認して見るとなんとなくうれしいものである。
私の適性は水と風。二属性に適性のある魔術師は珍しいらしい。
三属性、四属性もいるにはいるが、適性のある属性が増えていくに
つれ、その絶対数は減っていくとのことだった。
実際のところ、私は全属性の魔法を使用できるのだが、水と風に
適性がある、と言われるとなんとなく好んで使っていたのはこの二
つかもしれないと思う。
そういう無意識での好み、というものも適性にでるのかもしれな
いと思った。
適性調査に合格した私たちはその後、ローズちゃんから学院につ
いての説明を受けて、王都に向かう日までその準備に奔走すること
になった。
とは言え、そんなにもっていくものがあるわけではない。
学院は至れり尽くせりで、家賃も食費も教科書代も授業料もただ
であるらしい。
服ですら支給されるようで、やろうと思えば一銭も持っていなく
ても生活ができる。
とは言え、嗜好品や遊びに行ったりするお金というものまで無料
になるわけではなく、そうなるとどうしたって先立つものが必要に
なる。
村ではお金の稼ぎようがないし、向こうに行ってからどうしよう
かと思っていたのだが、そんな心配はする必要がなかったことが学
院への旅立ちの日に明らかになった。
私達は、ジョンから伝授された魔法技術と鍛えた剣術で魔物を狩
って村の収入にしていたのだが、そのお金が一銭も使用されないで
私たちのために貯められていたことが明らかになったからだ。私達
としては修行を兼ねて、少しでも村の役に立とうと思ってやってい
111
たことだから、自分の懐に入れようとは思っていなかったのだが、
大人からするとそれは当然私たちの収入になるべきものだという話
だった。ただ、あまり大金を子供に渡すのも、と考えて貯めていた
という。そして、王都に行くのならばお金も必要になるだろうと、
渡すタイミングは未だと言うことで、それを等分にして私たちに手
渡してくれたのだ。
それに加えて、アレンおじさんから、旅立つ私達全員︱︱ジョン
やテッドたち、それに私以外にもう一人、村から魔術師適性調査に
合格した子が出たが、彼にも︱︱に魔力触媒が贈られた。どれも衣
装やついている宝玉が異なっているが、明らかに逸品であることは
分かる。どれだけの金額がかかっているものかと震えるほどに。こ
んなもの受け取るわけにはいかないとみんなで固辞したのだが、し
かしアレンおじさんは材料は自前だし、加工費も負けさせたからと
言って取り合わなかった。それぞれに合わせて作らせたものだから、
受け取ってもらわなければ全くの無駄になると言われるに至っては
もはや断ることもできない。
いつか必ずこの恩は返すと言うのが精いっぱいだった。
私たちはそんな風にして村を出た。
感無量、とはこのことを言うのだろう。
必ず立派になって帰ってくると誓った。
全員、同じ気持ちだった。
だからこのあまりにも立派過ぎる魔力触媒が騒動の種になるとは
このとき、夢にも考えていなかった。
112
カレン?
私の魔力触媒は一点ものだ。
既製品ではなく、材料の選別から私のためだけにされた完全なる
オーダーメイド。
こんなものは一流の魔術師になった人間がその俸給のほとんどを
叩いてはじめて購入が叶うもので、私のような未だ学生でしかない
者が持てるような品ではない。
しかし、それにも関わらず、私がこんなものを持てているのは、
全てジョンのお父さんとお母さん︱︱アレンおじさんとエミリーお
ばさんのおかげだ。
私達タロス村出身の魔術師候補生たちのために、アレンおじさん
はその能力を使って材料集めを、そしてエミリーおばさんはその伝
手を辿って最高の鍛冶師に魔力触媒の製造を依頼してくれたのだ。
材料も、そしてそれを製作した鍛冶師も、聞けば目が回るような
存在であって、私たちはそれの内実を自らの両親、そしてジョンに
聞いて驚いたものだ。
おそらく、どれだけのお金を積もうとも、同じものを手に入れる
ことは二度とできない。
そう思わせるほどの逸品。
それが私達タロス村出身者の持つ魔力触媒である。
私の触媒は、黒いワンド部分に、水色の魔石のはめられているも
のだ。
ワンド部分には当然の如く美しい彫刻と文様が彫られており、魔
石も加工されてキラキラとした輝きを放っている。
とは言え、外見的にはそれほど派手なものではない。
113
よくよく見てみると、まるで吸い込まれてしまいそうなほど美し
く精巧な造りであることが徐々に分かってきて、気づいたらもう二
度と手放したくない、というような気持ちになるのだが、ぱっと見
は他の生徒の持っている魔力触媒と大して変わらない。
なぜなら、魔力触媒は魔術師の公式な場での正装の中に含まれて
おり、そのためにある程度の装飾がなされていて当然という事情が
あるからだ。
特に杖型の魔力触媒は他の形︱︱指輪型とか、イヤリング型とか
︱︱と言ったものと比べて見栄えがするので、多くの生徒がこの形
の魔力触媒を持っているという事もあり、タロス村出身者たちの魔
力触媒はそう言ったものにまぎれて目立たないのである。
ただ、それでも見るものが見れば、まず間違いなくその価値の違
いが分かる。
ローズちゃん︱︱ナコルルなどは、一目見た瞬間に﹁みみみ見せ
てくれその触媒!﹂と言って目を充血させながら近寄ってきたくら
ウンディーネ
いで、手渡すと矯めつ眇めつうっとりとした様子で撫でていたのが
印象的だった。
ナイトロードスケルトン
ブラックタイタン
﹁⋮⋮ワンド部は夜皇骸骨の大腿骨か⋮⋮おぉ、水精霊の涙でコー
チィエーロドラゴン
ティングしてあるぞ⋮⋮外界との接続部は闇巨人の足音を使ってお
るのか⋮⋮信じられん⋮⋮それに、魔石とワンドの接続は天竜のた
め息じゃと⋮⋮魔石は⋮⋮含有魔力から察するに風と水の混合魔石
か⋮⋮あるとは聞いていたが初めて見たぞ⋮⋮どこにあるのじゃこ
んなもの! 個人で収集できるものなのか、これは⋮⋮。わしでも
厳しいぞ⋮⋮いや、無理じゃ。無理無理なのじゃ。大体、集められ
たとして誰が加工できると言うのじゃ⋮⋮神代の御業か? 奇跡じ
ゃ⋮⋮奇跡がここにある! 欲しい⋮⋮﹂
などと言っていたのを覚えている。返してもらうときナコルルの
114
手の力が中々抜けず、物凄く物欲しそうな目で見ていたので申し訳
ない気分になった。
ナコルルの言っていたのは、つまり私の触媒の材料となった魔物
の素材であるが、どれもこれも化け物と言っていい存在である。
ウンディーネ
それを、アレンおじさんは倒すなりなんなりして収集したと言う
ナイトロードスケルトン
のだからあの人こそ人間ではない。
ブラックタイタン
夜皇骸骨はスケルトン系最高の魔物の一体であるし、水精霊の涙
チィエーロドラゴン
などその協力を得なければ採取することなど出来ない。闇巨人など
ほぼ絶滅種に近く、探すだけでも一苦労であるし、天竜などドラゴ
ンである。倒すことなど英雄でなければ不可能だ。
私の触媒だけではない。
タロス村出身者の触媒は全て、似たような材料を使って作られて
いる。
その全てをアレンおじさんが集めたと言うのだから、ため息しか
でない。
断言してもいいだろう。あの人は人間を辞めている。
ただ、ナコルルも言っているように、私たちの持っている触媒は
極めて珍しい特殊なものだ。こんなものを持っている者など、ほと
んどいないと言っていい。
あえて他に持っている者を挙げるのなら、かなり長い歴史を持っ
た家で代々受け継がれている品であるとか、迷宮の深部で得られた
品であるとか、そういう場合であろう。
金を積んだだけではどうやっても手に入れることができない。そ
ういう品なのである。
だからこそ、欲しがる人間がいてもおかしくないし、むしろ当然
だと言えるだろう。
ただ、高価な魔力触媒など、私達だけでなく、平民でも持ってい
115
る者も少なくない。
実家が商家である者などはその典型で、逆に貴族でも大した触媒
を持たない者もいる。
学院に来て驚いたのが、財力と身分と言うのは意外と比例しない
場合が少なくないという事である。
経済力のある平民と言うのがいる一方で、困窮する高位貴族とい
うのも存在するのだ。
このうち、私があまり関わり合いになりたくないと考えているの
は後者である。
なぜなら、前者は身分的には同等であるから対等に話しても問題
は生じにくいが、後者はそうではないために色々難しいからだ。
特に居丈高に身分を笠に着られると非常に面倒臭い。
だからジョンに事前に言われた通り、そういうのからは遠ざかっ
ていたのだが、難しいものである。
私がそういう風にしていても、問題というものは向こうの方から
やってくるらしい。
◆◇◆◇◆
それは、実技の授業が終わった直後のことだった。
授業では旧式魔法について、私のクラスを担当する教導魔術師か
ら講義を受け、何度か魔法を行使した。
その際、私がぽんぽんと魔法を成功させ、しかもその制御が生徒
の中ではうまい方だったのだが、そのことに眼をつけた貴族がいた。
そいつは授業が終わってから私に近寄ってきて言ったのだ。
﹁おい、お前。そこの平民、お前だ﹂
平民などそこら中にいるので誰のことを言っているのかしら、私
にはわからない⋮⋮いう風を装ってみたのだが、それは通じないら
116
しい。
その貴族男子はだんだんといらついた声になっていき、ついには
私の肩を掴んで彼の方を向かせようとした。
﹁聞いているのか⋮⋮お前だ!﹂
しかし、私はその肩を掴もうとした手をひらりと何気なく避けて
別の方向へとあるいていったので、空振りする。
随分な力を込めたようで、大幅に体の体勢を崩したその貴族男子
はこけそうになったが、魔法学院にくるだけのことはあるのだろう。
バランスよく体勢を引き戻して倒れずに済んでいた。
それからその貴族男子は私をもう一度つかむことにチャレンジす
るのはやめて、私の前に立ち、指を指して私に言った。
﹁お前だ!﹂
ここまでされてはもはや知らんぷりは出来ない。
私の周りにいたはずの平民たちはそそくさとどこかに去って行っ
てしまっている。
素早いことで、平民の事なかれ精神と言うものに感動を覚えた。
まぁ私も同じようなことをしていたし、こうやって面倒事から逃
げることが上手でなければ学院ではすぐにトラブルに見舞われるの
だから平民に身についていて当たり前の技能なのだが。
ため息を吐きたい気分になりながらも、そんなことをしては明ら
かに目の前に立つ貴族男子の機嫌を損ねるのは明らかなので、微笑
みながら首を傾げる。
そんな私に貴族男子は少し頬を赤くして、﹁うっ﹂という顔をし
た。
初心なことである。扱いやすそうな気配を感じた私はそのまま笑
117
顔を維持して聞く。
﹁私に何か御用ですか?﹂
私のような者に貴族の方が関心を持たれるような要素はないと思
いますが、と言うような顔をして言った私に、その貴族男子は言う。
﹁分は弁えているみたいだな⋮⋮まぁ、確かに貴族がお前のような
平民に用があるなど滅多にないことだが、今回は例外だ。トラン男
爵の御子息であるロラン様がお前に御用があるとのことだ。来い!﹂
男爵。まぁ学院にいる貴族の中では中堅どころと言ったところだ
ろう。
公爵及び侯爵、伯爵家の子女はかなり数が少ない。
その理由はそこまで高位貴族になってしまうと子供を魔法学院で
学ばせるのではなく、自らの手元に置いて一流の家庭教師をつけて
学ばせることの方が多くなるからだ。
その方がきめ細かく、能力に見合った学び方をすることが出来る
し、それに魔法学院では貴族としての在り方や領地の経営方法など
教えたりはしない。
大家であればあるほど領地経営などにはそれなりの才能と教養が
必要になってくる以上、魔法学院で遊ばせるわけにもいかないのだ。
したがって、魔法学院にいるような貴族は高位貴族であれば次男
や三男であったり、またはあまり領地など持たない低位の貴族であ
るのが基本である。
男爵はそのあたり微妙なところで、広大な領地を持っている男爵
もいれば、その辺の地方豪族と変わらない程度の領地しか持たない
男爵もいる。
今、私の眼の前にいる貴族の言う、トラン男爵はその点、比較的
118
広めの領地を持っている方で、力ある貴族の一人だと言えるだろう。
だから正直あまり関わり合いになりたくないのだが、名指しで呼
ばれてはそうもいかないのが平民の悲しいところである。
ここは腹を括ってできるだけさっさと見限ってもらえるように振
る舞うしかあるまい。
私はそう心に決めると、そんな心のうちを披露することなどなく、
さも非常に光栄であるかのような微笑みを顔に張り付けて言うのだ
った。
﹁承りました。すぐに向かわせていただきます﹂
119
カレン?
そこは一種のサロンだった。
魔法学院には様々な部屋があり、個人で借りることの出来る区画
も存在している。
たとえば、学院の教授が教授という地位に付随して与えられる研
究室が手狭になったり、他に物置が欲しい、というときに学院に申
請すれば借りられるような用途のためにである。
また学院には貴族がいる。彼らはまだ爵位を継いでいなかったり
その可能性のかなり低いただの次男三男であったりするのだが、そ
れでも親の影響を受け仲のいい貴族悪い貴族、というものがあり、
必然、派閥が形成されている。
そしてそれらの派閥が学院内で顔を合わせるといがみ合って諍い
が起きたりするため、学院としては出来る限り敵対しているような
貴族が遭遇する機会が少なくなるようクラスや時間割を整理してい
る。
ただ、もちろんそれでも完全とは言えない。
他のクラスに学院生徒が出かけることはきわめて日常的な現象で
あるし、それを止める正当な理由は学院にはない。諍いが起こるか
ら、というのは基本的に目立つところでぶつかろうとはしない貴族
子女には中々通用しない言い訳なのだ。
ただ、そうは言っても、そもそも貴族子女たちにしてもわざわざ
諍いを起こしたくないと言う部分もある。
顔を合わせれば体面や誇りという私から見ればどうでもいいもの
のためにお互い意地を張らざるを得ないようだが、そうしないで済
むならその方がいいというのは人間として当然の感情だろう。
学院はそのための一つの方策として、休み時間や放課後にクラス
120
内で敵対貴族同士が顔を合わせて牽制しあう事態を避けるための部
屋というのを作った。
もちろん、学院は学院生徒の扱いについて平等を謳っているため、
貴族にはただで部屋を与える、というわけにはいかないから、貸与
という形をとり、金銭の支払いを求めているため、そんなものはい
らないと言われればそれまでなのだが、貴族たちはこぞってこの部
屋を借り、それぞれの派閥のサロンとしているのである。
賃料については彼らの親が支払っているようで、その点を見ると
親の方も学院の状況というのは理解しているということだろう。
子供に面倒なことを起こして欲しくないと言う心もあるようであ
る。
敵対している貴族とはいっても、子供の暴走でよく分からずに上
位の貴族に危害を加えたりされる事態を恐れているのだろう。
ぶんべつ
むしろ、貴族子女たちを素のまま放置していたらその可能性は高
そうだ。
あえて分別する学院と貴族の親たちの思慮は正しい。
私が今来ているのはそんな貴族派閥の一つ、トラン男爵子息であ
るロラン=トランが盟主を務めるサロンである。
サロンにいる人間の内訳は男爵子息数名に子爵子息数十名という
感じか。
最上級生までいるので結構な人数である。ロランはどうやら最上
級生らしく、着ている服にそのことを示すバッジがつけられていた。
大体十六、七歳ということだろうか。
それなりに余裕が見え、まぁ、貴族としての威圧感というか、高
貴さというかそういうものが感じられないでもない。
言い換えると偉そうな態度をしている、であるが。
私はそんなことを考えていることなど表に出さず、サロンに入り、
ロランの前にひざまづき言った。
121
﹁お初にお目にかかります。ロラン様。私はタロス村のカレンと申
します﹂
すぐにでも用件は何だ、さっさと帰らせてくれと言いたいところ
だったが、こういう高級なイスにふんぞり返っているタイプはあま
り早く話を進めたがらないということを私は学院に来て知った。
こういうタイプにさっさと話を始めろと急かして逆ギレされてい
る平民を何度か見たからだ。
なんて面倒くさいのだろうと思うが、これが彼らのもつ美学とい
う奴なのだろう。
仕方なく、私は自己紹介してからロランから話し始めるのを待っ
た。
そんな私の様子にロランは満足したらしい。
その貴族的な顔によく似合っているにやにやとした笑みを浮かべ
ると、立ち上がって彼は話し出した。
﹁ふむ⋮⋮タロス村、か。寡聞にして聞いたことがないがね、いい
村なのかね﹂
世間話を始めるのか。
なんて面倒くさいのだろう。
﹁ええ、とてもいい村ですよ。とは言っても、田舎に過ぎないので
王都に比べれば何もないと言っていいところかもしれませんが⋮⋮﹂
適当に返答しつつ、思う。タロス村を知らない、という事実がロ
ランのダメさを表しているような気がする。
タロス村それ自体は確かに大したことのない村なのはその通りだ
が、あの村にはアレンおじさんがいる。
122
あの人は王国ではそれと知られた剣士であり、魔の森の浸食から
王国を守る守護兵士でも指折りの存在である。
当然ながらその住む村というのも知っている者は知っているのだ。
情報収集が彼ら貴族にとって非常に重要なものであり、それが立
身出世に大きな役割を果たすものであるということを私はジョンと
フィルに聞いて知った。
テッドはそれを聞きながら﹁村のガキを纏めるのと大して変わら
ねえんだな﹂と言っていたし、コウたちは何か思いついたかのよう
にニヤニヤと笑っていたのを覚えている。コウたちのそんな様子を
見て﹁目立つことはやめろよ!﹂とジョンが釘を刺していたが、コ
ウたちに何を言っても基本無駄なことは村にいたときから明らかな
ことだ。今さらどうしようもないのであきらめるのが賢いと思うの
だが、ジョンはどうにか制御したいらしい。それほどに貴族の持つ
権力というのは危険なもののようだった。
話がずれたが、つまり情報収集を怠るような貴族はダメ貴族だと
いうことである。その内実が善であれ悪であれ、有能な貴族は情報
収集に余念がないものだということだから。
したがって、今私の目の前にいる貴族︱︱ロランはあまり有能で
はない。そこまで考えた私は今後どうするべきかをぼんやりと頭の
中に思い描く。
最近、学校の授業も暇になってきていた。
あまりにも簡単だからだ。
ジョンの教えてくれた知識は学校で教わるものとは言葉の意味か
らして違っていたが、それでも理解を助けてくれた。
むしろ学校で教えている内容が間違っている場合も多くあったが、
そのことについて指摘することはない。ジョンから禁じられている
123
からだ。
だからぼんやりと聞き、間違っていることについては間違ったま
ま暗記し、けれど自分がその理論を使うときはジョンの理論を元に
して汲み上げるという非常に面倒な手順で魔法を使う羽目になって
いた。
そして、それでも学校の授業は簡単で、暇なのだ。
だから、私は暇つぶしがしたい。
このロラン達を使って、何かおもしろいことが出来るのではない
だろうか。
﹁⋮⋮? なにかおもしろいことでもあったのかね?﹂
ロランが私の表情を見て、つぶやいた。
たぶん、私は笑っているのだろう。
﹁いえ、この部屋がとてもすてきなもので⋮⋮つい、ほころんでし
まいました﹂
そうお世辞を言うと、ロランは、
﹁おぉ、そうかねそうかね! では、存分に見るといい。この絵画
はだね⋮⋮﹂
楽しそうに調度品の説明を始めた。きっと親に買ってもらってそ
ろえているのだろう。
何人もの貴族子息を纏めているのだから、非常に扱いにくい人間
かもしれないと思っていたのだが、むしろ正反対らしい。
124
それを理解して、私の笑顔は明るくなる。
そうして、私はそのサロンでそれなりに厚遇されたあと、何の問
題もなく寮に返された。
ロランは最後に思い出したかのように﹁その触媒はどこで手に入
れたのかね?﹂と聞いてきたので素知らぬ顔で﹁これはなにか珍し
いものなのですか?﹂と聞き返すと﹁いや、普通の触媒に見えるが
ね⋮⋮﹂と言うので﹁両親がツテを使って手に入れたようです﹂と
答えるとすぐに興味を失ったような表情になったのが奇妙だった。
もしかしたら、彼自身が、というより他に私の触媒について気に
なっていた者がいたのかもしれない。
しかしそれが誰なのかは分からない。
調べなければ⋮⋮そう思いつつ、私は寮に戻る。
媚びを売るだけ売った結果だろうか。ロランにはいつでもサロン
に来て構わない、と言われたので、しばらく入り浸ろうかな、と思
った。
125
カレン?
魔法学院はその生徒全てが寮生活をしている全寮制である。
これについては例外が無く、貴族も皆、寮に入らなければならな
い。
たとえどれだけ身分が高くても、それは変わらないのだ。
もしも王族が入ってきたらその理は曲げられるかもしれないが、
今現在学院内に王族はいない。
したがって、例外も起こってはいないというわけだ。
つまり、ロランのサロンを出た私の行き先は、授業が全て終わっ
ている時点で基本的に寮であるということになる。
たまに図書室に行ったりもするが、今日は何か書物を、という気
分でもないのだ。
寮は学院建物から少し歩いた場所にある。
結構な大きさなのは、学院生徒がそれなりの人数がいるから当然
だろう。
また、貴族は確かに寮生活をしているが、その部屋は優遇、とい
うか上乗せ料金を支払ってグレードの高い部屋に変えてもらってい
る。
私は全額無料というローズちゃんーーナコルルの言葉に従ってこ
こにいるわけであるから、上乗せ料金など払うはずが無く、最もグ
レードの低い、一般的な部屋に住んでいる。
これは、二人一部屋であるため、同室に住人と馬が合わなければ
かなりきつい学生生活が待っている。
私の場合、同室の住人は悪くはなかった。
貴族ではなく平民の女の子で、性格も特に問題があるわけではな
126
い、控えめな子だ。
だから、今のところ仲良くやっていけてるし、これからも問題な
いと思っている。
ただ、それでも村育ちの私にとって、誰かと一緒にいる狭い空間
というのがたまに無性に息苦しくなる瞬間というものがあった。
別に同室のその女の子が悪いわけではない。
そうじゃなくて、開けた場所で、一人で、ゆっくりと息を吸いた
い。
無性にそう思うときがあるのだ。
村では、人というのが王都のように沢山はいなかった。
だから、望めばいつまでも静かな場所に出ることが出来たし、も
ちろん、何か危険な人物に襲われる心配もする必要がなかった。
けれど、王都は違う。
夜になったら人攫いが跋扈する。
特に若い女の子とくれば、危険は男の子より遙かに増大するし、
人の数も尋常ではないから一度浚われれば簡単には見つからない。
危険がいっぱいなのだ。
だから必然的に外に出ること、特に夜に外出することはできない
し、学院からも禁じられていて、寮では日が落ちてからは外出は原
則禁止されていた。
それでも、私は自分の部屋にいるのが息苦しい瞬間があったから、
どうにかできないかと模索し続けた。
そして、発見した。
127
私の部屋は、五階建ての寮の最上階、つまりは五階にある。
そこには大きな窓があって、開け放つことが出来るのだ。
そこから紐を垂らして下に⋮⋮とやってしまうと、間違いなく下
の階の住人に見つかってしまうからそれはやらなかった。
そうではなく、私は上を目指したのだ。
最上階の窓から外に出て、上に。
そこには屋根があった。
あまり傾斜がきつくなく、それほどの労力を割かなくても登れる
ように思えた。
だから、私は実際に登ってみた。
屋根は歩きやすく、剣術で鍛えたバランス感覚はここから落ちる
ことはまずないと言うことを伝えている。
強風でも吹かない限り、いや、仮に吹いたとしても問題がないこ
とが理解できた。
なので私は屋根の中程まで行き、そこに腰掛けた。
辺りは暗く、静かだった。
時間は日が落ちてから、かなり経っていることからもう真夜中近
いことがわかる。
空には星が瞬いていて、きれいだった。
王都から見る星空と、タロス村から見るそれは、変わりなく、星
の位置も同じだった。
128
部屋で感じていた息苦しさが、少しずつ解れていく。
しばらくこうしていれば、戻ってゆっくり眠れそうだと思った。
しかし、そんな時間は突然の闖入者にじゃまされることになる。
屋根の端の方から、人が来るのが見えたのだ。
もしや寮の管理人かと身構えるも、来ているものを見ればそれは
寝間着のようだった。
つまり、私と同じだ。
あれは生徒であると理解して、安心する。
しかし、いったい誰がこんな屋根に登るなどという無謀を行った
のだろう。
相当なおてんばなのではないか、と自分のことは棚に上げて考え
る。
それから、その人物は屋根に先客として存在していた私に驚いて
目を見開くと、そのまま近づいてきて言った。
﹁⋮⋮隣、空いてて?﹂
どことなくプライドの高そうな、ツンとした声だった。
ただ、そこまで嫌な感じはしない。
むしろ、そうやって色々なものに虚勢を張っていないと生きてい
けないような内面が透けて見える気がした。
だからだろう。
私は素直に言った。
129
﹁空いてるよ。座る?﹂
誰なのかは知らない。
ただ、わざわざこんなところまで登ってきて一人になろうとする
子だ。
私と同じように、何かに、息苦しさを感じていたのだろう。
それが私と同じ理由なのかどうかはわからないが、何とも言えな
い共感を感じたのも確かである。
だから、特に名乗らずとも、そして何も言わなくても、いいよう
な気がした。
気まずさも、そこにはなかった。
辺りにはぽつぽつと灯る街の家々の窓と、それから月の柔らかに
照らす空に光るいくつもの星々があるだけで、それ以外は何もない。
そんな景色をぼんやりと見つめながら、息をゆっくりと吸う。
ほどけていくものがある。
そんな時間がどれくらい経っただろう。
そろそろ戻ろうか、と思った矢先、隣に腰掛けていた少女が、口
を開いたので、上げた腰を元に戻した。
﹁⋮⋮ここ、見てくださる?﹂
そう言って、屋根の一部分を指したので、見てみる。
するとそこには何か文字が掘ってあるようだった。
﹁⋮⋮1305年度入学生E⋮⋮1290年度入学生N⋮⋮他にも
いくつか書いてあるね。これは⋮⋮?﹂
130
﹁かつて、私たちのようにここに登った学生がいたということでし
ょうね﹂
﹁なるほどね⋮⋮﹂
﹁知らないでここに登りましたの?﹂
少女は不思議そうにそう聞いてきた。
なので私は答える。
﹁知らなかった。ただ部屋にずっと籠もってるのが少しだけ息苦し
くてね。だから外出出来ないか、と思ったんだけど、紐を垂らして
下に降りたら下の階の生徒に丸見えでしょ? そういうわけにもい
かないから、だったら上かなって﹂
﹁合理的⋮⋮なのかしら? わからなくはないけど﹂
﹁貴女は?﹂
﹁私は、お姉さまに聞いたの。つらくなったら、登るといいわって。
そのために、部屋は最上階にしてもらった⋮⋮﹂
してもらった、ということは学院に希望を出してそれが通ったと
いうことだ。
部屋割はランダムで決まる、という話だったが別に希望を出すこ
と自体が認められていないとは言われてはいない。
もしかしたら希望を出せば他に希望者がいなければそれが通るも
のなのかもしれなかった。
しかしそれにしてもお姉さまに聞いた、とは。
姉妹そろって魔法学院に通っているということだろうか。
優秀なのか、それとも⋮⋮。
﹁お姉さんも魔法学院を?﹂
﹁ええ。卒業生ですわ。厳密に言うと、姉、ではなく、親戚なので
すが、妹のように可愛がってもらってますの。だから、ここのこと
131
も教えてくれて⋮⋮﹂
﹁ふーん。それで、つらいのは収まった?﹂
そう聞くと、少女は、はっとした顔でこちらを見つめる。
私は、私の顔に穴が空くんじゃないか、と感じられるほど凝視さ
れたので首を傾げる。
﹁どうしたの?﹂
﹁そんなこと聞かれるとは思っても見なかったので⋮⋮少し驚きま
した﹂
﹁だって、つらいときにのぼれって言われて、ここに来てるんでし
ょう?﹂
﹁貴女には遠慮というものがないのですか?﹂
﹁遠慮、遠慮ねぇ⋮⋮村ではそういうものを持ってるとめんどくさ
いことになるからね﹂
そう。
ジョンみたいに。
思えばジョンのあれは全て遠慮から来ていたように思う。
遠慮して、それでうまく事を納める人間というのは確かにいるが、
ジョンはそう言うタイプではない。
ジョンは不器用で、だから遠慮なんかしてるとどんどん泥沼には
まっていく感じだ。
だからこそ、周りはこんなにも遠慮のない人間だらけになってし
まった。
私、テッド、フィルにコウたち。
誰一人として、今ではジョンに遠慮していない。
そんなもの、するだけ無駄だとわかっているからだ。
﹁村、ですか。貴女はどこかの村から?﹂
132
村、という単語が目の前の少女にとっては新鮮だったようで、少
女はそんなことを聞いてくる。
魔法学院では貴族が幅を利かせているから、田舎の出身というこ
とを大々的に吹聴するような人間はあまりいない。
けれど、別に隠すようなことではない。
私はタロス村の出身だと言うことをほこりに思っているので、正
直に言う。
﹁タロス村って知ってるかな。そこから来たの﹂
﹁タロス村⋮⋮聞いたことがあるような気がしますわね。しかし、
どこでだったか⋮⋮?﹂
少女は頭を押さえてうーんうーんと唸っていたが、結局思い出せ
ないようであきらめてしまった。
ただ、引っかかりを覚えていただけ、この少女の方がロランより
よほど優秀だろう。
おそらくこの少女は貴族だとこの時点で私は予想していた。
言葉遣いが丁寧にすぎるし、見た目も典型的な貴族のものだ。
さらに言うなら来ている寝間着の質が恐ろしいほど良い。
総合すると、経済的にもかなり裕福な貴族であるという事になる。
それは力のある貴族であるという事だった。
とはいえ、魔法学院においては貴族とか平民とか言う身分差は無
視される。
それを考えていると模擬戦や実技訓練が難しくなってくるからだ。
だから私も本人から言い出さない限り、そのことに触れる気はな
く、結局少女はその日、屋根を降りるまで自分の身分について語る
ことはなかった。
133
それから、私とその少女は屋根の上で何度も会った。
だまって星を見上げ、街を見て。
それから少しだけ、他愛もない話をして。
それだけの関係だったが、ずいぶんといやされる時間を過ごした
ような気がする。
これからもこんな時間が続けばいいなと思った。
けれど、人生というのはうまくいっている、と思った矢先に急転
直下、色彩ががらりと変わってしまうものだということを、私はそ
のとき知った。
ロランのサロンに入り浸り、その人間関係やら何やら色々調べる
つもりだったのだが、そんなことも言っていられない自体になった
のだ。
それは、ある日のこと⋮⋮。
134
カレン?
ある日の放課後、ロランのサロンを訪ねると、その部屋の中は異
様な雰囲気に包まれていた。
とは言っても決していやなものではない。
むしろ、静かな興奮、というのが一番近かったかのかもしれない。
そんな、どことなく喜びに満ちたような空間で、サロンに所属す
る生徒たちがひそひそと噂話をしていた。
誰もが笑顔であり、満足げで、これは何かいいことがあったのだ
ろうと私は思った。
だから、サロンに来て、まず、ロランに話しかけて何が会ったの
かを尋ねることにした。
﹁ロラン様、サロンの方々がみな、どこか興奮されているように感
じるのですが何かあったのですか?﹂
すると、ロランは楽しそうに説明してくれた。
彼が言うには、今日の昼頃、廊下でロランの派閥とあまり折り合
いのよくない派閥が運悪く出くわし、しかもその際にぶつかってし
まったらしく、どっちがぶつかってきたか、という点についての言
い争いが始まったらしい。
その時点で私は、非常にどうでもいいことで喧嘩になるのだなと
思ったのだが、その争いはものすごくつまらないことが原因である
にも関わらず徐々にヒートアップしていったということだ。
ぶつかったぶつからない、の話をしていたのは初めは両者二人ず
つだったらしいのだが、徐々に人数も増えていき、気づいた頃には
五、六人ずつになっていたという。
そしてそれくらいの人数になり、口での言い争いで勝負がつかな
135
いとなれば、最終的には手が出る展開になるのが普通だ。
そのときもそうなりかけたらしい。
けれど、貴族の争いには、作法というものがあるのだという。
単なる言い争いならともかく、手が出るような展開になった場合
には、何も言わずに殴り合いを始めたりするのではなく、”決闘”
を申し込み、相手方の同意を得て戦いを始めるべき、というものだ。
そのため、そのときもやはり五、六人ずつ入り乱れての喧嘩にな
ったわけではなく、当事者である初めからいた四人のうち、ロラン
のサロンに属する側が、相手方に”決闘”を申し込んだのだという。
”決闘”をするとどうなるか。
これは、大人同士の、それこそロランたちの親のような貴族とし
ての権利義務を完全に保持しているような人間同士が行えば、あり
とあらゆるものを賭けて行うことができ、相手側にいかなる要求を
もしうる大変なものなのだが、子供同士のものとなるとその様相は
少し異なる。
ある程度の要求は可能だが、それにはしっかりと限界が画されて
おり、それは学院が取り決めているため、生徒にそのような制度を
認めてもそれほど大きな問題にはならない。
本来、貴族同士の制度だが、学院が取り決めている関係で平民も
巻き込まれる可能性があるのだが、今はそれはおいておこう。
とにかく、学院生徒同士の”決闘”は本来はそれほど大事に至ら
ない、子供の争いにすぎないもののはずだった。
けれど、そうはならなかったという。
”決闘”自体は、通常通り行われた。
つまり、審判として、学院の教員が入り、そのすべてを監督する
形で行われ、通常通り、魔法や刃のつぶされた模造刀などを使って
けがも出来るだけしないように治癒魔術師まで横に控えた状態で行
われた。
136
その戦いは熾烈を極めた。
というのはこの戦いに参加した本人たちの言葉らしいのだが、今
年の入学生同士で行われたもののようなので、レベルは低いもので
あり、熾烈といっても初級魔法がちょろちょろ飛び交うようなもの
だっただろう。
しかし本人たちは真剣に戦った。
結果として、ロラン側が勝利を収め、相手側に要求を呑ませるこ
とになった。
このとき、彼らが相手側に呑ませた条件は、一定期間︵学院の取
り決めによれば三ヶ月が限界だという胃︶、ロラン派閥に属する貴
族を廊下で見かけた場合、道を必ず譲ること、だった。
きわめてかわいらしい、そしてつまらない要求のように感じたが、
これは相手にとってきわめて屈辱的であり、しかもプライドも満足
する非常にすばらしい要求なのだという。
本当か、という気もするが、語るロランは大まじめなのであるか
ら、本当なのだろう。
しかし、彼はそれを語ってもまだ笑っていた。
まるでほかにもまるでなにかあるような顔で。
だから私は聞いた。
なにか、あるのですか、と。
するとロランは秘密の宝箱をそっとあけて見せるかのような表情
で、教えてくれたのだ。
”決闘”における表向きの要求はそれだった、と。
つまり裏の要求があるわけだ。
ロランは続けた。
137
”決闘”に挑むに当たって、まず先に本来の要求を決めた。
それから、学院に申請して学院の基準に従った”決闘”を行い、
その敗者は表向きと裏向きの要求の二つを呑まなければならない、
ということにしたのだと。
﹁その裏向きの要求ってなんですか?﹂
そう聞くと、ロランはにやにやと笑い答える。
じんき
﹁王都の東に広がる森があるだろう。あそこは”人鬼の森”と呼ば
れる魔物の住処なんだが⋮⋮あそこで一夜を明かすこと、を要求に
したんだよ。しかも、相手のーー彼女たちの盟主である、カサルシ
ィ家の娘を連れて、ね﹂
カサルシィ家の娘。
それは学院にいる高位貴族の中でも最も高い地位にいる生徒のこ
とだった。
未だ接触したことはなかったが、いつかは話しかけてみようと思
ってもいた。
もちろん、性格によってはそうしないことも考えてはいたが。
しかし、そんな人間をそのような罠にはめようとするなど、いっ
たいロランは何を考えているのだろう。
あまり賢い行動とは思えない。
おそらくこの様子だと、ロランの家なりその関係する家なりがカ
サルシィ家と敵対的に関係にあるのだと思われるが、だからといっ
て公爵令嬢を死の危険のある場所に連れて行くなどと言う真似は許
される範囲を超えているように思われる。
けれどロランは自信ありげに言った。
138
﹁おびえているのかい? だけど大丈夫だ。なにせ、我々が”決闘
”で要求したのは、あくまで道を譲ること。そのほかに何か事件が
起こったとしても、我々にはもともと関係のない話だ。そうだろう
?﹂
そうして、笑う。
つまり彼は、今回のことでカサルシィ家の令嬢がたとえ死ぬこと
になったとしても、その原因は勝手にそんな危険な場所に連れて行
った人間本人にあるのであり、ロランたちがそのような指示などし
たという事実を確認することはできないのだから、責任も問われる
ことはないとそういいたいらしい。
たしかに、通ってほしくはないが論理としては明快で筋が通って
いる。
そういわれると、反論するのは難しい。
これを覆すには目撃者なりなんなりが必要だが、裏向きの要求を
する際には細心の注意を払ったらしく、実際に森へカサルシィ家の
令嬢を連れていった二人の少女しかいないときを狙って行い、しか
もほかに聞き耳を立てている人間がいないことをしっかりと確認し
た上で行ったというのだから底意地が悪いことこの上ない。
ひどいことをするものだ、と思ったものの、ここまで事態が詰ん
でいては手の出しようがないだろう。
運良く生きて帰ってくることを祈るしかないのではないだろうか
と思った。
サロンを出たらひっそりと教師に連絡し、助けを出してもらおう
と思った。
けれど、私はふと気になった。
なぜなのかはわからないが、何か引っかかりを覚えたのだ。
カサルシィ家は公爵家、相当な大家であり、その娘もまた裕福で
139
あろう。
そこまで考えて、あっ、と思ったのだ。
私はあわてて聞いた。
ただし、顔は冷静な表情を崩さない。
﹁ロラン様、そのカサルシィ家の令嬢の顔、絵などはありますか?﹂
﹁絵? ふむ⋮⋮誰か持っていたか?﹂
そういってロランがあたりを見回すと、脇に控えていた貴族少年
の一人が映像水晶を持って差し出した。
それはローズちゃんーーナコルルが作った映像水晶の簡易版であ
り、動画を撮ることはできないが静止画を何枚も保存することがで
きるというものだった。
発売されてまもなく、最新の技術であるために値段はそれなりに
張るのだが、流石貴族の子供というべきだろうか。
高いはずのそれを持っていて、そこにカサルシィ家の令嬢の顔を
保存しているらしかった。
指名手配書か何かなのかそれはと突っ込まずにはいられない。
ともかく。
見せてもらったそれに、私は確信を新たにする。
そこに写っていたその顔。
それは、あの屋根の上で出会った彼女だったのだ。
そして、気づいたときには私は走っていた。
無詠唱で魔法を使う。
ジョンの教えてくれた、あの魔法を。
140
フォルティキーギ
フォルトプレーナ
︵耐久強化⋮⋮筋力強化!︶
魔法はしっかりと発動し、私の身体能力を確かに高める。
ジョンの教えてくれた身体強化魔法のいいところは、一度発動さ
せると基本的に効果が切れることはないと言うところだ。
もちろん、魔力が途切れれば効果もまたなくなるのだが、そうで
ない限り永遠に維持し続けることが可能なのだ。
また、出力も流す魔力の量によって変えることができ、より多く
の魔力を流せば強い力が得られるようになっている。もちろん、そ
の場合、魔力の減りは早くなるから、その辺のバランス調整は簡単
ではない。
ただ、数年の修行を経て、私はそのバランス調整をしっかりと身
につけた。
未だに甘いところもあるが、それでも十分実用に耐えるレベルに
あると自負しているし、アレンおじさんからも低位の魔物であれば
問題なく戦えると太鼓判を押されているのだ。
じんき
その私が、全力で人鬼の森へ向かっている理由。
それはもちろん、あの少女を救うためにほかならない。
ジョンの魔法は隠さなければならない。
けれど、緊急の場合はその限りでない。
今こそが、私にとっての緊急だった。
それをきっとジョンは許してくれる。
そう、私は信じている。
だから私は急いだ。
魔法学院に来て初めての、村の子供以外の友達を、助けるために。
141
カレン?
王都の東に広がる森、人鬼の森。
その場所は人の手の入らない魔物達の住処であった。
用があるのは魔物の討伐をその専門とする冒険者達や、人鬼の森
に存在する特殊な素材を回収する必要のある錬金術師、薬師など、
特殊な職業に就いている者たちのみであり、一般的な人間はその深
い暗闇の底に住処を構える凶悪な魔物達を恐れ、まず近づくことは
ない。
しかし、今、そんな場所に向けて私は走っていた。
あの星空望む屋根の上で幾度となく話をした、名も知らぬ大切な
友人を救うために、私は走る。
体に通る魔力の流れ。
ジョンの魔法によりそれは途切れることのない身体強化魔法へと
効果を変えていく。
辺りの景色が物凄い速度で流れて行くのが見える。
魔法によって強化された私の足は、人にはおよそ望むべくもない、
とてつもない速度で地をかける権能を私に与えてくれていた。
走りながら、人鬼の森に着くまでの少しの間、私の友人がその命
を長らえていることを願う。
運が悪ければ、立ち入った瞬間に魔物の群れに襲われ、その身体
はただの肉の塊と見られて彼らの腹の中に収まることだろう。
そんな事態は、想像もしたくは無かった。
けれど、魔物と相対するという事は、彼らの住処に足を踏み入れ
ると言うことはつまりそう言うことに他ならない。
そのことを想像も出来ないような輩は、魔物の住処に等入るべき
142
ではないのだ。
ロランたちは考えたのだろうか。
いや、考えてもいないに違いない。
ただ嫌がらせをしようと、その程度の感覚でこんな大それたこと
をしたに決まっている。
そして全てが起こってしまった後に顔を蒼白にし、そして言うこ
とだろう。
こんなつもりでは、なかったのだと。
それはただの馬鹿だ。
想像力の無い阿呆だ。
そんな者たちのくだらない陰謀に、友人の運命を潰えさせるわけ
にはいかなかった。
◆◇◆◇◆
そうして、私はやっとのことで人鬼の森に辿り着く。
深い森だ。
森と、王都にまで続く平原との境界には、まるで一枚の壁がある
かのように雰囲気がまるで異なっていることにまず肌をぞっとさせ
られた。
あの向こう側に広がるのは、人の世界ではないという事を否が応
でも理解させられるからだ。
それに、タロス村の森とも異なっていた。
村の森は、あくまで村人の生活に欠かせない場所として、人間に
も開かれていたような覚えがある。
もちろん、その中に入ることが出来るのは狩人やアレンおじさん
のような高い技量を持った戦士のみであったが、それでも人間を拒
143
絶するような気配はあの森には存在していなかった。
それなのに、この森は、人鬼の森はどうだ。
明らかに、人間を拒絶している。
森のそこここから放たれる気配は人を獲物とのみ見ている魔の眷
よこし
属のものだろう。
邪まで暗い人の敵対者たる彼らはあの森の中で日夜その牙を人類
を襲うためにだけ砥いでいるのだ。
そんな空間の中にいま、あの娘はいる。
そのことを考えると胸が張り裂けそうだった。
もしかしたら、今にもあの娘は魔物に襲われてその命を散らすと
ころかもしれない。
そんなことはとてもではないが許せることではなかった。
森を目にして、その邪悪を感じた私は、しかしそのまま足を止め
ることなく、躊躇せずに森の中に突入したのだった。
森の中は、暗かった。
今にも沈もうとしている太陽の光は少しも森の中には入ってこよ
うとはしない。
それは暗黒が支配しているその異様なる空間を、太陽すらも避け
ようとした結果なのかもしれなかった。
視界が悪く、人どころか周りに生えている木々の姿すらも視界に
捉えることが難しい森の中では、普通なら人探しなど出来るはずも
ないに違いない。
ただ、私にはジョンの魔法があった。
この世界に一般的に広まっている詠唱式の、ジョンが旧式と呼ん
144
でいるその魔法よりも遥かに効率的で合理的な魔力使用方法。
それは人探しすらも容易にする特殊な術式などにも及んでいる、
広大な魔法体系だ。
もちろん、私はその全てを知っている訳ではないが、いつか役に
立つときも来るだろうと、人探しの魔法はジョンに教わっていた。
厳密にいうなら、生物の気配を魔力を使って探知する特殊魔法の
一つであり、森を歩くにはそれなりに重宝するものだ。
ただ、この魔法を使って人や魔物を見つけられるかどうかには個
人差があり、魔法に合わせて視覚を使って確認したり、さらには魔
物についてはその縄張りや行動範囲の知識などを活用することによ
ってその発見確率が上下する。
テッドなどは猟師の息子らしく、もともと勘もよかったのかこの
魔法によって森での探索については誰よりも得意になっていたから、
個人差はかなり大きいとみていいだろう。
私はと言えば、村の仲間たちの中で言うなら、平均的なところだ
ろうか。
テッドやジョンよりもうまくはないが、フィルやコウたちよりは
うまい。
その程度だ。
とは言え、それで不十分という事もないだろう。
頻繁に場所を移動するような素早い魔物達を追いかけるにはまだ
まだと言わざるを得ない技能も、人間の、それも小さな女の子を探
すには十分な力を発揮する。
実際、私は魔法を発動して森の中を走り回った結果、三十分もし
ないうちに彼女を見つけることができた。
三十分。
それが早いか遅いかは状況的に何とも言えないところだ。
145
魔物が人を襲って食い散らかすには十分な時間だと評価できる時
点で、遅い、と言われても仕方がないかもしれない。
けれど、ジョンやテッドたちを呼びに行っている暇もなかったし、
探して呼ぶ時間をかけるくらいなら自分で探した方が早いような気
もした。
これはもしかしたら結果論になるかもしれないが、それでも今回
に限ってはその判断は間違ってはいなかったという事になるだろう。
私が見つけた彼女︱︱カサルシィ家の令嬢は、そのとき、今しも
巨大な魔物に襲われかかって腰を抜かしかけているところだった。
あくまで腰を抜かしかけて、なのはその両脇に二人の少女をを庇
って魔物と相対しているからだ。
そのぐりんぐりんに巻いた特徴的な髪型をしている金髪の少女は、
思いのほか度胸があるらしい。
オーク
巨大な魔物︱︱二本足で立つ、豚と人の融合したような醜悪な見
グランドオーク
た目をしている魔物、豚鬼の上位個体、さらに巨大な体躯を誇る、
大豚鬼と呼ばれる人鬼の森の支配者の一匹を目の前にしてすら、彼
女はその貴族の大家の令嬢としての矜持を失うことなく、毅然とし
て背後にいる少女たちを守っていた。
グランドオーク
その手には触媒が握られており、今にも魔術を放とうと、魔力光
に輝いて大豚鬼に向けられている。
﹁この子たちはやらせませんわ⋮⋮絶対に!﹂
その背後にいる少女たちこそが彼女をこんな事態に陥れることに
なった原因そのものであると言うのに、そう言い切る彼女の顔には
美しさすら感じる。
貴族はひどいものが多い、とジョンやフィルは言っていたが、良
い意味で誇り高いそれというものもいるではないかと私は場違いに
146
も感心していた。
しかし感心してばかりもいられない。
早く助けに入らなければ、あの少女も、そしてその後ろにいる少
女たちもその命を散らすことになるだろう。
瞬間、私は自分の体に流れる魔力量を調節し、大量の魔力を一瞬
グランドオーク
流して超加速すると、その手に持った棍棒らしきものを振り下ろそ
うとする大豚鬼と少女たちの間に割り込んで、無詠唱で風の魔法を
叩き込んだ。
ブロヴェーゴ
ジョンの魔法、その中で私の最も得意な属性、風の魔法﹃突風﹄。
その魔法は確かに私の魔力により発動し、目の前の巨大な魔物に
大気の圧力を殺到させ吹き飛ばすことに成功する。
草むらの向こうへと消えていき、おそらくは倒れ込んだだろうそ
の魔物の行く末を確認することなく、私は後ろに振り返って、そこ
で呆けた顔をしている三人の少女たちに急いで言った。
﹁逃げるよ!﹂
もしかしたら頑張れば勝てるのかもしれないが、今はそんなこと
より重要なことがあった。
とにかく、彼女たちの命を守ることだ。
言われて、一番初めに我に返ったのは、やはりカサルシィ家の彼
女だった。
﹁わ、わかりましたわ! 二人とも、行きますわよ!﹂
金髪の巻髪の台詞にやっとのことで自分を取り戻した二人は、頷
いて体の硬直を解いた。
それから私は三人を先導して走り出す。
147
無我夢中で走っているようなので、これなら、と思いこっそりと
ジョンの身体強化魔法をかけ、その速度を上昇させた。
やはり、というべきか軽い興奮状態にあるらしい彼女たちはその
グランドオーク
ことに気づかずに、ただひたすらに森を抜けるために走った。
オーク
これなら、あの大豚鬼に追いつかれることもないだろう。
豚鬼の特徴として、足が鈍い、というのがある。
それはその上位個体とは言え、変わりはない。
だからこそ、走って逃げる、という方法が最も合理的なのだ。
そうしてしばらく足を止めずに走り抜けた結果、私たちは森を何
物にも出くわすことなく抜けることができたのだった。
森を抜けてしばらく歩き、完全に問題がないと確認して、地面に
へたり込んだ三人の少女たち。
疲れ切っている彼女たちを、体力がないなぁという目で見ている
とカサルシィ家の令嬢が私をまじまじと見つめていった。
﹁あ、ありがとうございます⋮⋮助かりました⋮⋮﹂
はじめに出てきたのは感謝の言葉だ。
後ろの二人も同様の気持ちのようで、同じく切れた息の中、無理
をしてでも言わねばならぬと言う謎の使命感を感じさせて同じよう
に感謝の言葉を伝えられる。
意外と礼儀正しく、ロランたちよりよほど好感のもてる対応だっ
た。
﹁ううん。気にすることないよ。助けたくて助けたんだから。怪我
はない?﹂
そう言うと、カサルシィ家の令嬢は自分と、それから後ろの二人
148
を確認していった。
グランドオーク
﹁どうやら、何の怪我も無いようで⋮⋮大豚鬼などに出くわしたの
に、全く運のいいことですわ﹂
息切れも治ったようで、貴族令嬢らしい、上品な口調でそう言っ
た。
けれど冷静になって改めて恐ろしくなったらしい。
彼女は少し震えて言う。
﹁あなたが⋮⋮あなたが来なければ、一体今頃私たちはどうなって
いたことか。それを考えるだけで、恐ろしさに体が飲み込まれそう
です。改めて言わせてください。本当に、本当にありがとうござい
ます⋮⋮!﹂
泣き出しそうな顔でそんなことを言われた。
三人で深く頭を下げられ、なんとも言い難い妙な空気になる。
耐えられなくなった私は、空気を変えようとことさら明るく手を
振りながら言う。
﹁だから、いいって。ほら、なんていうかな⋮⋮私とあなたは、そ
う、友達じゃない?﹂
﹁⋮⋮友達、ですか?﹂
なんとなく言ってみたその言葉なのだが、カサルシィ家の令嬢は
奇妙な表情で聞いてきた。
何か間違ったことを言ったのか、と思った私は首を傾げて聞く。
﹁あれ⋮⋮違ったっけ?﹂
149
すると、彼女は物凄い勢いで首を振った。
﹁いえ⋮⋮いえ! そう言っていただけるとは思っても見なくて。
屋根の上だけの仲かとおもってましたから⋮⋮学校ではあまり話し
かけて頂けませんでしたし﹂
﹁それはいっつもその二人と一緒にいたから、邪魔するのも悪いか
なって﹂
そう言うと、彼女の後ろの二人もまた凄い勢いで首を振って、そ
んなことは全くない、と言い切った。
その目には気のせいか、妙な迫力のようなものが宿っているよう
に感じられ、少しだけ怖い。
その光はカサルシィ家の令嬢の瞳の中にも感じられた。
なので、これはこの場をすぐに離れた方がいいのではないかとそ
んな気までし始めた。
だから私は提案する。
﹁じゃ、じゃあ⋮⋮そろそろ帰る?﹂
﹁いえ、その前に、お礼をさせていただきたく⋮⋮王都にちょうど
いいカフェがありまして、そこで少しお茶をしましょう。二人もそ
れでいいですわよね?﹂
カサルシィ家の令嬢はそういって振り向く。
連れの二人も全く否やはない様で、ぶんぶんと首を振って同意を
示した。
断りずらい雰囲気に、私は仕方なく彼女たちに連れられて、王都
に戻り、カフェへと連れられて行ったのだった。
それからは大したことは何もない。
後でジョンに友人を助けるためにジョンの魔法を使ったことを話
150
した。
その際には、魔法を使った状況について細かく聞かれた。
ただ、それはどのような魔法をどのような態様で使用し、そして
それをどの程度見られたか、ということであり、つまりそれはジョ
ンの魔法理論が看破されたかどうかの確認だった。
けれど、ジョンの魔法はそんなに簡単に使える様になるようなも
のではない。
ジョンから直接の講義を受け、基礎理論を学び、その上で詠唱の
意味を理解して、実践を幾度も経なければ使い物にならないような
ものだ。
ただ見たことがある、程度で使えるようになどなるわけがない。
つまり、今回のことで披露したジョンの魔法については、
﹁まぁ、それくらいなら問題ないだろ﹂
という話になったということだ。
実際、カサルシィ家の令嬢たちは混乱していたからか、私の使っ
た魔法が通常のものと異なるという事にすら気づいていなかった。
詠唱していたかいなかったか、などということなどに気を遣って
いられるほど状況は甘くは無かったからだろう。
結果として、ジョンにはただ友達を助けるために使った、と説明
することになり、どのような人間と仲良くなったか、つまり公爵家
の令嬢とお友達になった、という点については話せなかったのだが、
いつか話す機会もあることだろうということでよしとする。
最近、ジョンは非常に忙しそうで、いつもローズちゃんや、最近
学院の教授になったブルバッハ幻想爵という謎の人と話し込んでい
るから、あまり接触する機会がないのだ。
せいぜい、食事時くらいで少しさびしい気もするが、ジョンには
151
何かやりたいことがあるらしいということは村にいるときから感じ
ていたから、仕方のないことだろう。
その後、私の触媒を巡る事件が起こったりもしたのだが、これを
解決したのは私ではないので、その説明はまたいつかに譲ろう。
そんな風にして、私の学院生活は過ぎていく。
友達も増え、順風満帆であった。
152
フィル?
最近ジョンはとても忙しそうだ。
ナコルル学院長と一緒に何かの研究を行っているようなのだが、
それがなんなのかは僕ら一般生徒には知らされていない。
ただ、それは少し不満だった。 なぜなら、僕は他の一般生徒とは違う。
ジョンとは村にいたときからの幼馴染であり、その魔法の研究に
も協力してきたのだ。
だからこそ、僕にもジョンの行っている研究に参加させてほしい、
そう思う。
けれどそう言った僕に、ジョンは言ったのだ。
﹁今やってる研究は魔法の研究とは厳密に言うと少し違うんだ。だ
から、これについては俺とナコルル、そしてブルバッハ幻想爵だけ
で完成させないとならない。フィル、お前はその間にこの世界の魔
法について、俺の魔法とどれだけ違うのか、しっかり確認しておい
てくれ。いずれお前に頼る日も来る﹂
こんな風に言われたら、僕︱︱タロス村のフィルとしても、無理
に一緒に研究させてくれとは言いにくかった。
そもそも、ジョンの魔法は、ジョンの好意で教えてもらったに過
ぎない。
ジョンにはその魔法を誰にも教えないと言う選択も出来たのだ。
それをしないで僕に教えてくれ、魔術師としての道を開いてくれ
ただけでも、僕はジョンに感謝すべきだ。
そして実際に僕はたぶん、村から来た他の幼馴染五人よりもずっ
と、感謝をしているだろう。
なぜかと言えば、それは、僕が王都に来るきっかけを作ってくれ
153
たからだ。
僕はずっと村を出たかった。
別に、村が嫌いだったわけじゃない。 あの村はそれなりに豊かだったし、のんびりとした生活も決して
嫌いではなかったからだ。
けれど、僕にはそんな村でゆっくりと暮らし、そして死んでいく
という選択は出来なかった。
僕には知りたいことがあった。
この世界の在り様について。
なぜ、この世界には魔法があり、迷宮があり、精霊がいて、魔物
がいるのか。
それをどうしても僕は僕の人生が終わるその前に明らかにしたい
と、物心ついた時からずっと思っていたのだ。
なぜそう思ったのか、今も変わらずその思いが消えないのか、そ
れは分からない。
けれど、僕のその感情は、ほとんど妄執に近い。 どこにいても、何をしていても、その気持ちが消えることはない。
いくら忘れようとしても、頭の隅でそのことについて思索し続け
ている自分に気付き、諦めようとしても、次の日起きるとまたその
ことについて考えようとしている自分の行動に苦笑するのだ。
仮に僕がこの人生に何か目標があるのか、と聞かれたら僕は迷わ
ず応える。
この世界の在り様を解き明かすこと。
それだけが、僕のこの世界に生まれてきた目的だと今は思ってい
154
る。
そのためには、少なくとも村は出なければならない。
あの小さな村にいたのでは、僕は何も知ることが出来ない。
家にある本は片っ端から読んだし、それを全て終えたら、村に存
在する書物を皆把握して読んだ。
それでも、僕の目標は達成できなかった。
そんなとき、僕は思いついたのだ。
世界を解き明かす、この世の何もかもを。
探求を人生とし、人生を探求とする、そんな存在が、この世界の
どこかになかっただろうかと。
そんな場所の名を、僕は、良く知っていた。
子供なら誰もが一度は泣かされるあの都市の名を。
学術都市ソステヌー。
それこそが、この世のすべての知識の殿堂であり、僕が目指すべ
き地であると、思いついた。
だから、僕はジョンに魔法を学ぶまでずっと、ある程度の年齢に
なったらソステヌーに行こうと、そう考えていた。
ただし、両親に馬鹿正直にそんなことを告げれば止められる。
そんなことは分かっていたから、方法は色々考えていて、その中
に、王都で行われる官吏登用試験を受けて王都に身を移したのち、
しばらくしたらソステヌーに行こうかと、そんなことを考えていた
のだ。
ただ、その選択は結局実行に移されることは無かった。
155
ジョンが僕に魔法を教えてくれ、魔術としての力を与えてくれた。
実際に知ったその力は、何かこの世界の不思議の一端に触れてい
るようで、僕はこの力を知る事こそが、この世界の根源の理解へと
つながるのではないかと考える様になっていた。
だからこそ、魔法学院へと来たのだ。
ソステヌーではなく。
その選択がよかったのか悪かったのかは、分からない。
ただ、それでも村にいるときより遥かに多くの事に触れられるよ
うになっている。
知識が増えていくにつれ、僕は近づいていると思っている。
この世界の、源へ。
なぜこの世界があるのかについて。
そんなところに。
ただ、それでも、僕のソステヌーへの興味は尽きなかった。 学問の都、学術都市、そう言われるあそこならば、僕の知りたい
ことを知っている人がもしかしたら既にいるかもしれない。
そんな気がするからだ。
僕があの人に会ったのは、そんな風に、自分の選択について学院
の図書室で本を読みながら、ぼんやりと物思いに耽っていた時のこ
とだった。
◆◇◆◇◆
﹁やややぁ。君が、ふぃ、フィル君だね⋮⋮?﹂
そう、話しかけられて僕は振り向く。
156
すると、そこにいたのは、漆黒のローブととんがり帽子を被った、
痩せ形の男だった。
どこか不吉な印象のする暗いオーラを感じさせる妙な男で、こち
らを見つめるその目にも何か狂気のようなものが宿っているように
感じられた。
﹁⋮⋮そうですが、なにか僕に用でも?﹂
とは言え、ナコルルが学院全体に結界を張っているため、学院に
不審人物など入ってこれるわけがなく、そうである以上は目の前に
いるこの男はこの学院の関係者であるという事になる。
だから僕は不審に思いつつも、返事をした。
すると男は僕の対面の椅子に腰かけ、言ったのだ。
﹁あ、あぁ。じじ実は、じょ、ジョンに聞いてね。きき君が、ソス
テヌーにき興味を抱いていると。せ説明してくれと、頼まれたんだ﹂
⋮⋮ジョンが。
つまり目の前のこの男はジョンの知り合いだという事だ。
そして、ソステヌーについて説明できると言っている。
ソステヌーについての関係者であり、ジョンの知り合いと言えば、
それは一人しかいない。
﹁⋮⋮ブルバッハ幻想爵?﹂
思いついた名前に、目の前の男はぶるんぶるんと首を振ると微笑
んだ。
﹁そそそうだ。私は、ぶぶブルバッハ。そ、ソステヌーで幻想爵を
いい頂いている、平凡な、おお男だよ﹂
157
ソステヌーで幻想爵と言えば、最高位の称号だと本で読んだこと
がある。
そしてそんな爵位を与えられる存在は、ソステヌーにおいてかな
り少数であり、文字通りソステヌーの支配者の一人であるとも。 そんなものに任じられるような人間が、平凡な男とは聞いてあき
れる。
僕がそんな風に思っていることを呼んだのか、ブルバッハは言っ
た。
﹁わ、私はね、げげ幻想爵、などというものをな名乗っているはい、
いるが、ソステヌーの、しし支配者は私などでは、ななない﹂
﹁⋮⋮? ソステヌーの最高位は幻想爵では? 本でそう読みまし
たが﹂
僕がそう言うと、ブルバッハはにやりと笑い、しかしゆっくりと
首を振って答えた。
﹁そそそれは、間違ったち、知識だ。そそソステヌーの支配者は、
げ幻想爵などではなく、お、≪王≫だ﹂
﹁≪王≫⋮⋮?﹂
ソステヌーにそんなものがいるなどという話は初耳だった。
どんな本にもそんなことは書いてはいなかった。 だから、他の誰が言ったとしても、僕はこの話を信じられなかっ
ただろう。
けれど、目の前にいるのは、ソステヌーの人間であり、しかもそ
の最高位にまで登り詰めている学者である。
嘘をついているようには見えなかったし、その必要もあるとは思
えなかった。
158
だから、僕は続きを聞きたくなった。
﹁それは、なんですか? どうして、本には書いていないのですか
?﹂
﹁だだ誰も、い、言わないからだ。そそソステヌーに来た者は、み
みみ皆、いずれ、ソステヌーに呑みこまれるからだ。わ、私もかつ
ては、ソステヌーに偶然足を踏み入れただけの、ひひ一人の農民に
すす過ぎなかった⋮⋮﹂
﹁⋮⋮まさか、子供を怖がらせるあの話の類は、真実だと言うので
すか?﹂
ソステヌーに関する逸話の数々、それ全てが嘘だとは思っていな
かった。
けれど、誇張や誤解も多分に含まれている話だと、僕は今までず
っと思っていた。
なにせ、ソステヌーに行けば人格が変わるだの、それまで全く学
問に興味がなかった人間がそれ一色に染まるだの、いかにも眉唾臭
い話だろう。
それが真実だと、一体誰が信じると言うのか。
ソステヌーに対し、国家が手出ししないのも、他に何らかの理由、
たとえば学問の都だけあり、非常に都合の悪い歴史的事実を事細か
に知っているとか、そんな理由ではないかとすら考えていたくらい
だ。
なのに、ソステヌーに住む目の前の男は、そんな逸話を全て事実
だと言っている。
﹁ああの街は、おかしい。ふ不思議だ。そそそう言われて、一体ど
のくらいのつ、月日が過ぎ去ったことか。そのお、おかしさは、遥
か昔から、≪王≫がくく君臨し、あの街を、し、支配してきたから
だ﹂
159
﹁遥か昔から⋮⋮?﹂
﹁げ幻想爵よりも上の存在が、あああの街にはいて、あの街のす、
すべてを支配し、しているのは、≪王≫なのだ﹂
﹁それは、一体どのような人物なのですか?﹂
﹁わ、わからない。ただ、たたまに、こ声が聞こえるのだ。ソステ
ヌーにあ、足を踏み入れた者、そそ素質のある者には、あの方の、
こ声が聞こえる。私もか、かつて聞いた⋮⋮﹂
﹁声⋮⋮﹂
ブルバッハの話に僕は強い興味を覚えてた。
ソステヌーがなぜあるのか、その理由に迫っているような気がし
たからだ。
そしてそう考えたら、なおのこと僕はあの街に行ってみたいと言
う意欲が強くなった。
どうにかして、そう、魔法学院を卒業したら、ソステヌーに言っ
て学者になるという道もあるのではないか⋮⋮。 そう思ったのだ。
けれど、目の前のブルバッハは、そんな僕の肩を突然がっと掴ん
だ。
凄い力で、僕は驚く。
肩に熱を感じるほど、手が熱かった。
それから、彼は全くどもらずに、言ったのだ。
﹁君は、来ては、いけない。ジョンと、共に、探求するのだ⋮⋮﹂
それだけ言って、ブルバッハは図書室を出て行ってしまった。
肩には、彼の掌の残した熱さが残っている。
ソステヌー。
160
結局、その時のブルバッハの話からは何も分からなかった。
ただ、ブルバッハはそれから頻繁に図書室に来るようになった。
そして、それはどうやら僕と話すためのようだった。
ジョンから言われたからと、まるでお使いを頼まれた子供のよう
な素直さで僕と会話しにくる彼。
魔法について聞けば、難解な理論を極めて詳細に語ってくれる彼
だが、その性格はまるで疑いを知らない子供のようだった。
不思議だった。
ただ、話すのは楽しく、僕はそれからなんどもブルバッハと会っ
た。
そのうち、ブルバッハが学院に研究室を与えられていることが分
かり、それからは、わざわざ研究室に招いてくれたりもした。
ソステヌーについての話は、それからあまり出来ずに、そのまま
になっていた。
聞きたくはあった。
けれど、聞くのが少し恐ろしくなったのだ。
だから、今は聞かないでおこう。
そう思うようになった。 そんなころだ。
僕のところに、テッドが血相を変えてやってきたのは。
161
フィル?
﹁フィ、フィル! 大変だ!﹂
たち
血相を変えてやってくるテッドに、僕はなんとなく珍しいものを
感じた。
ガキ大将をやっていただけあって、彼はかなり腹が据わってる質
である。
そうそう慌てたりはしないし、どちらかと言えばずっしり構えて
手下に色々やらせてうまいこと解決を付けるタイプの性格をしてい
るのだ。
なのに今日はそうではない。
これは非常に珍しいことで、僕は首を傾げる。
﹁どうしたんだ、テッド。そんなに慌てて⋮⋮君にしては珍しいじ
ゃないか﹂
そんな風に尋ねたのも、いつものように彼らしい冷静さでもって
何が起こったのかを説明してくれた方が事態を把握するのにいいと
思ったからだ。
けれど、彼から改めて話を聞いて、そんなことを言っている場合
ではなさそうであり、テッドが汗だくになりながらわざわざやって
くるのも分かるとすら思った。
彼の話は驚くべきもので、早急に手を打たなければならない、そ
んなものであったからだ。
それは、僕たち、タロス村の住人にとって非常に重要な話だった。
僕たちタロス村出身の魔法学院生全員が、ジョンのご両親の好意
と協力を持って手にした、もっとも大きな財産。
162
特別製の魔力触媒の話だったのだから。
◇◆◇◆◇
﹁触媒を盗まれただって?﹂
僕がそう尋ねると、テッドは首を縦に振ってその問いに肯定を示
した。
﹁あぁ⋮⋮カレンがな⋮⋮﹂
改めて話をして、少し落ち着いたらしいテッドの口から出てきた
名前に意外なものを覚える。
なぜなら、カレンはタロス村の出身者の中ではもっともそつがな
い性格をしているイメージがあるからだ。
滅多に失敗はせず、いつの間にか周りを巻き込んで、もっともい
い形に着地させてしまうような、そういう要領の良さを生まれつき
持った娘なのだ。
それなのに、そんな彼女が、みすみす誰かに魔力触媒を奪われた
りするものなのか、そう思った。
けれど、よくよく話を聞いていくと、それも仕方がないのかも知
れないと感じた。
テッドの話によれば、どうも最近のカレンは非常に忙しいという
か、あわただしい日々を送っていたらしい。
それは静かに授業と魔法の考察に時間の大半を費やしてきた僕と
は異なり、波瀾万丈というか、どうやったらそこまでやっかいなこ
とになるのかと聞きたいくらいの日々だ。
貴族のサロンに出入りしたり、公爵家の令嬢と仲良くしたりと、
そんな平民にはあまりないめまぐるしい毎日を過ごしていたような
163
のである。
ただ、それだけなら、かつて険悪だったジョンとテッドたちとの
間をうまく泳いだ彼女の世渡り上手な性質により事態は丸く収まっ
たかも知れない。
けれど、その貴族のサロンの人間たちと、公爵家の令嬢との間が
カレンの知らぬ間におかしな方向にこじれてしまい、結果としてカ
レンは片方ーー公爵家の令嬢の方に肩入れせざるを得ない事態に陥
ったのだという。
じんき
そのために、”人鬼の森”にまで単身乗り込む羽目になり、そこ
からの脱出劇というおよそ学院に入ってあまり日が経っていない生
徒が行うようなものではない強烈な経験をする羽目になったという
ことだが、その際に、あまりに急いでいたため、自前の魔力触媒を
寮の自室に置きっぱなしで出ていったらしい。
触媒なしで魔法を使用したということは、それはつまりカレンが
ジョンの魔法を人前で使ったという事である。
本来、あれはできる限り秘密にすべきもの、ということで僕らタ
ロス村出身の生徒の間では話がついていたはずだ。
しかし、どうしようもないとき、使うべきと感じたときにまで温
存しておく必要はないということでも合意していたことだ。
つまり今回、カレンはそういう、ジョンの魔法を使わなければ収
集が着かないほどの事態に巻き込まれてしまった、ということだろ
う。
そして、それほど急いでいた、事態が切迫していたという事なら、
触媒に気を払えなかったと言うのも仕方がない話だと言える。
事実、詳しく話を聞くに、その公爵令嬢は相当危険な状況に陥っ
ていたようであるし、一歩間違えれば、というかカレンの到着があ
164
と数分遅れていたら、おそらくは重傷か、最悪の場合は死亡してい
たということも考えられないではなかったらしいのだから、その切
迫性に疑うべき点はないと言っていいだろう。
それに、カレンが自らを省みずにしたその選択は、決して悪いも
のではなかっただろう、と僕は話を聞いて思った。
たとえその場において考える時間が十分に与えられていたとして
も、カレンはそうすべきであったのではないかとすら思う。
なぜなら、カレンは今回のことでその公爵令嬢に対する多大なる
影響力を手に入れたと言って間違いないからだ。
カレンのことである。
もしかしたらそれほど黒いことは考えてはいなかったかもしれな
い。
もちろん、多少そういう下心もあったかもしれないが、かといっ
てそれが全てではなく、おそらくはその行動に出た理由の七割方は
正義感やそれに類する感情に基づいているものと考えられる。
そして、そういう無償の善意こそが人の心を強く動かすものなの
である。
事実、カレンとその公爵令嬢の中は現状、かなり良いらしく、む
しろカレンに依存し賭けているような状態にあるようである。
公爵令嬢とパイプができる、と言うのは、これからのことを考え
ると非常に望ましく、ジョンの魔法を広めたり研究するに当たって
大きく作用することだろう事は間違いない。
だから、カレンの行動は正しい。
したがって、彼女を攻める必要はない。
165
僕はそう考え、カレンの行動には拍手を送っておくことにする。
あとの問題は、彼女の魔力触媒をどうやって取り返すか、この一
点に尽きるのだが、そのためには一体誰がそれを盗んだのか、とい
うところから調査しなければならない。
そこまで考えて、そのあたりはすでに判明しているのかにつき、
僕はテッドに質問する。
﹁触媒をとられたことそれ自体は仕方がない。カレンを責めるのも
話を聞く限り筋違いみたいだしね⋮⋮でも、すぐに取り返さなけれ
ばならないのも間違いないことだ。僕らの触媒は特別製だから⋮⋮
分解してしかるべきところで売ればいいお金になるし、そうなって
しまったらもう二度と取り戻すことは出来ないような一点物だから
ね。⋮⋮そのためには、テッド、盗んだのが誰なのか探さなければ
ならないけど、それは分かっているのかい?﹂
僕の質問にテッドは答えた。
﹁あぁ。そのあたりについては今調べているところだ。話の経緯か
らして、怪しいのは間違いなくカレンの出入りしていたサロンの奴
らの誰か、だからな。その盟主から、カレンは一度触媒について尋
ねられたらしい⋮⋮﹂
まだカレンの触媒が盗まれてからそれほどの時間は経っていない。
なのに、すでに調べはじめているところに、僕はテッドの有能さ
を感じた。
こういうことについての手回しは昔からいいから、彼はガキ大将
なんてやってこれたのだろう。
実際に調べているのは誰なのか、といえば今回のこの問題の詳細
166
を明かせる者がタロス村の住人しかいないことからして明らかであ
る。
﹁ということは、そのサロンの盟主が犯人?﹂
一番怪しいのはそこだろう。
カレンの行動を監視していた可能性もある。
けれどテッドは首を振って、別の可能性を提示した。
﹁いや、たぶん違う。そいつは聞いてはみたが、それほど興味はな
い様子だったらしいからな⋮⋮それよりも、そいつに近い誰かが犯
人、という可能性が高いと俺は思う。確証はない。ただの勘だから、
裏はとらないとならないが⋮⋮﹂
そんなことを話しているテッドの後ろから、今度はコウとオーツ
がやってきた。
テッドは彼らが来たことに微笑み、そして尋ねた。
﹁おう。来たって事は、分かったのか? 犯人が﹂
そんな風に。
テッドが実際に調査させていたのは彼らだったのだろう。
タロス村出身者の中でそういうことが得意なのは彼らをおいて他
にいないからだ。
特にヘイスが人に取り入るのが非常にうまいことは昔からである。
コウが指示してヘイスが入り込み、オーツが細々としたサポート
を行う。
昔から変わらない三馬鹿の手管である。
魔法学院においてもその手腕には少しのかげりもないらしく、テ
ッドの質問に、コウがにやりと笑いながら答える。
167
﹁まだ確実じゃねぇが、糸口は掴んだ﹂
その言葉に、僕とテッドは身を乗り出して興味を示す。
コウはそんな僕たちに囁くようにして報告した。
﹁今、ヘイスが例のサロンに入り込んでるところでな⋮⋮盟主の男、
ロランという奴な、こいつはやっぱり白だ﹂
テッドの予測通り、というわけである。
ヘイスが明らかにした事実によれば、ロランは平凡な貴族子息で
あり、それなりの権威はあるのは確かだが、だからといって積極的
に悪事に手を染めるようなタイプでもなく、平民に対する差別意識
すらほとんど持っていないという。
この差別意識がほとんどない、というのは差別しない、というこ
とではなく、そもそもその存在に対して何も思うところがない、と
いうことだ。
石ころに気を払う人間はいないということである。
それはそれで非常に問題がある気はするが、今重要なのはそこで
はない。
つまりロランはそのような人間であり、平民の杖を盗む、という
ような手で来るのではなく、もし必要だと思ったなら直接差し出さ
せるだろうということだ。
今回、彼はカレンとかなり近づいていたのであり、そういうこと
はやろうと思えば可能だった。
やったとしても、カレンは断っただろうし、学院の一応の規則と
して平民も貴族も同権であるというのがあるから、その主張は通る
ことになっただろうが、それでも彼はやるときはやる。
けれど、彼はやらなかった。
168
だから、彼は犯人ではないと言ってほぼ間違いないだろう、とい
うことであった。
では、誰が犯人か、ということについて、コウは興味深い事実を
述べた。
﹁⋮⋮ロランは犯人じゃない。じゃあ、誰が犯人なのか。この点に
ついてだが⋮⋮ロランがカレンにどうしてその所有する触媒につい
て尋ねたのか、ということが問題だ。と言っても簡単な話なんだけ
どな。ロランはサロンの他の奴に、触媒について尋ねるように言わ
れたんだよ。あれは良い触媒ですから、製作者でもお尋ねになって
は? ってな⋮⋮﹂
魔力触媒の質は、製作者の技量と材料の質で決まる。
この時代、材料というのは金を払えば手に入るものであり、問題
となるのはそ製作者の腕であることが多い。
もちろん、今タロス村出身者たちが持っている触媒は材料からし
て金をいくら積もうとも手にはいるようなものではないのだが、一
般論を述べるなら、そうだ、という話である。
そしてその観点からすれば、製作者の名を尋ねるというのは、い
い職人を知ると言うことであり、魔術師として大成するためには重
要な情報を得ると言うことに他ならない。
だからこそ、その提案にロランは軽く乗ったのだろう、というこ
とだった。
であれば、そんな質問をさせた者が犯人である可能性が高いので
はないか。
何せ、タロス村出身者たちの持つ触媒は、その実質はともかく、
外装としては一般的な魔力触媒と大差ないものだ。
169
ナコルルのように、長く深く魔術に携わっている者ならともかう、
魔法学院生徒くらいの、未だ魔術師としてひよっこであると言って
もいいような者にその善し悪しが分かるようなものではないのであ
る。
にもかかわらず、その質を見抜いた眼力、というのは中々将来有
望なものと言えるし、そして滅多にいないとも言えるものである。
つまり、カレンの触媒を見て、普通とは違う特別なものだから、
製作者について尋ねたらどうか、と聞けるような人物がその辺にご
ろごろ転がっているはずはなく、盗んだ者はその触媒の価値を分か
っている者であ留と考える以上は、その提案者こそが犯人であると
考えるのが論理的に正しいと言えるのではないか。
コウが言うのはつまりそう言う話だった。
ただ、当然のことながら、それはただの推論にすぎない。
裏付けがない推論に証拠としての価値はないのである。
それを理由に触媒をどこにやったのか、と尋ねても答えない可能
性が高い。
だからこそ、裏付けが必要だった。
そうコウに言うと、彼は言った。
﹁それは全くその通りだな。⋮⋮だから、ヘイスが今、それを探し
ている。とは言っても、ほとんど決まりなんだが⋮⋮﹂
﹁それは、誰なんだ?﹂
先をもったいぶるコウに、僕が尋ねると、コウは答えた。
170
﹁ロランのサロンの中で比較的ロランに近しかった奴が一人、つい
さっきロランのサロンを抜けて他の派閥のサロンに移ったらしい⋮
⋮おそらくは、こいつが犯人だろう。盟主にばれる前にとんずらっ
てことだろうな。いくら温厚そうな盟主だろうと、利用されてたっ
て分かったら怒るぜ。にもかかわらず、そんなことをしたってこと
は、理由も自ずと分かるってもんだ﹂
そんなコウの言葉から、僕は推論する。
わざわざロランをだしにして魔力触媒を手に入れようとするその
やり方、そしてそんなことをした以上、ばれればそのサロンにいら
れなくなることは明らかだ。
にもかかわらずそう言った危険を冒して、しかもばれる前にさっ
さと逃げるようなことをする⋮⋮。
つまりそれは、はじめからそのつもりでロランのサロンに入った
という事だ。
そしていかに平等を語っている学院とは言え、貴族の集合体に面
と向かって逆らえるのは、対立組織の貴族の集合体だけ。
﹁つまりその逃げた奴というのは、ロランのサロンではない、別の
サロンに元々所属していたか何かして、そこから指示を受けてカレ
ンの触媒を狙ったという事かな⋮⋮?﹂
僕のその答えに、コウは満足そうに頷いた。
﹁その通りだ。多分な。確証は⋮⋮﹂
そう言ったそのとき、部屋にヘイスがやってきたのだった。
﹁やっぱりだったよ﹂
171
その一言が、確証に他ならなかった。
172
フィル?
やっぱりだった、と告げるヘイスの言葉。
その場にいた面々はその言葉に強い興味を引かれたのは言うまで
も無く、ヘイスがそのまま語るのに任せて話を聞き始めた。
それによれば、やはり、コウや僕が推論した通り、カレンの魔力
触媒を盗んだらしいその人物はロランのサロンに所属していた者で
あった。
事実としては、その人物はついこの間まではロランのサロンに籍
を置いていたのだが、カレンの魔力触媒を手に入れた後、すぐにロ
ランのサロンを辞して他のサロンに所属を移したのだと言う。
つまり初めから辞めるつもりでロランのサロンに所属していた、
ということらしい。
﹁よくそんなやり方で入り込めたな﹂
テッドが呆れたようにそう呟いたのは、普通、貴族のサロンの派
閥と言うのはそう簡単に移れるものではないからだ。
それぞれの派閥には多くの貴族子女が所属していて、敵対してい
たり協力関係にあったりとかなり複雑な関係を築いている。
そのため、﹁入れてくれ﹂﹁はいわかりました﹂では済まない面
倒臭さがそこにはある。
けれどロランのサロンについてはその辺りの常識が少し異なるら
しい。
ヘイスが言う。
﹁確かに貴族のサロンを渡り歩くのは︱︱僕を除いて、非常に難し
いことなんだけど、ロランのサロンだけは別なのさ﹂
173
その台詞にテッドが首を傾げて﹁と言うと?﹂と訪ねる。
ヘイスはふぁさり、と自分の髪を掻き上げて続けた。
﹁盟主のロラン、彼がかなり大らかな性格をしている関係で、来る
者拒まず去る者追わずのサロン運営を行っているんだよ。本来なら
あまり好ましくないのだけど、どのサロンにも属せない貴族子女と
か、他のサロンから追い出された貴族子女とか、いわゆる厄介者の
身の置き場と言うのは結構問題らしくてね。そういう部分を一手に
引き受けることによって、彼はそのやり方で他のサロンとは大きく
敵対しないでやっていけているんだ。とは言え、だからこそと言う
べきか、他のサロンに喧嘩を売るような者も少なくないのが問題な
んだけど、そういうところの処理も非常にうまくてね。ロランは学
院に追及されてもどうにかできる逃げ道を常に確保しているある意
味でかなり有能な人物という訳だ﹂
仲間外れになった貴族子女を集めてサロンをやっている、の辺り
ではなんとなく慈愛に満ちているのか、と思わせたロランであるが、
根回しや保身がうまいという辺りはある意味で最も貴族的な人物と
も感じさせた。
カレンとカサルシィ家の令嬢との一件についても、ロランは理屈
では何が起こっても自分にまでは追及がやってこない方策を立てた
うえでサロンに所属する貴族子女に決闘をさせている。
学院は個人主義的な場所であるから、仮にそのときにカサルシィ
家の令嬢が大けがを負ったり、究極、死亡していたとしても、実際
に決闘を行った本人たちまでで追及は止まっただろうと考えられる
あたり、悪質であるとも言えた。
なんとも評価に迷う人物であるが、平民であるカレンに対して高
圧的だったり、貴族であることを笠に着た態度に出たりせず、終始、
174
友人のように接していた辺り、本質的には悪人ではないのだろう。
敵対しない限りは、問題なさそうな人物に思え、その点について
はヘイスも同感のようだった。
彼は頷いて言う。
﹁僕もそう思う。だからロランのサロンには簡単に入り込めたし、
事情を聞くのも容易かった、というわけだね。その中で明らかにな
ったのが、さっき言った一人の貴族子女の話だが、事情を聞いたあ
と、控えめにサロンを辞することを告げたときも、ロランは特に引
き留めたりはせずに、それどころかまた来たくなったらいつでも来
るといいとまで言ったからね。彼とは仲良くしておいてもいいかも
しれないとすら思った⋮⋮と、それはいいとして、カレンの魔力触
媒を奪った者についてだ。僕はそのあと、その人物が所属するサロ
ンにも行ってみたのさ。そこで僕は驚いたね﹂
どうしてだと思う?
そう、聞かれて僕は首を傾げる。
それは、あまりヘイスが驚いているとき、と言う事態を上手く想
像することができないからだ。
たとえば、ジョンにジョンの魔法を教えてもらったときや、あの
村の森の中で彼の友人だと言う巨大な魔物に出会った時には、それ
はもう驚いたのだが、魔法学院と言う空間で出会うものについて、
いわばほとんど予想できるものについて、彼が驚くと言うことがあ
るのだろうかと思ってしまう。
そんな僕の逡巡を理解したのか、ヘイスはふっと笑って答えた。
﹁そんなに難しいことじゃなかったんだけど。⋮⋮そのサロンはロ
ランのサロンと同様に、上級生が盟主を務めている、何の変哲もな
いサロンだったんだけどね、そこには言わずと知れた僕らの学年の
175
首席であらせられるフラー=エルミステール殿がいらっしゃったか
らさ﹂
その言葉に、テッドも僕も目を見開く。
フラー=エルミステールと言えば、ジョンと同じクラスに所属し
ている貴族であり、今年最優秀でこの学院に入学した存在である。
少なくとも、僕らの学年で彼の事を知らない者はいないし、僕も
テッドも当然知っていた。
ヘイスは続ける。
﹁もちろん、フラーがいた、ただそれだけじゃ驚きやしない。彼は
貴族だから、どこかのサロンに属しているのは普通のことさ。とこ
ろが問題は、彼が噂のその人物、カレンから触媒を奪った人物と親
しげに話していて、その内容が﹃うまくいったのか?﹄﹃それはも
ちろん﹄なんていう物凄くお粗末な会話をしていたからだよ﹂
﹁⋮⋮どうやってそんな話が聞ける位置まで近づいたのか聞きたい
ところなんだけど﹂
僕がそうやってジト目でヘイスを見ると、彼は﹁それは企業秘密﹂
と笑って答えなかった。
サロンに入ったことそれ自体もどうやったことか謎だが、そこま
でフラーに近づいて彼に何も言われないと言うのもまた謎である。
ヘイスにはそういう、不思議な特技があったが、どうやってそん
なことを実現しているのか聞いても応えてくれたことは一度もない。
これからも応えてくれないのだろうが、もしそこに何かタネがあ
るなら知りたいと深く思った。
とは言え、今はそんなことを追及している場合ではない。
カレンの触媒が今どこにあるのか、それは僕らで果たして取り戻
176
すことができるのか。
その点が問題なのである。
僕がそれについて尋ねると、ヘイスは答えた。
﹁あぁ、それはもちろん。フラーに近づいた彼、窃盗の実行犯たる
貴族の名前はアナイシトス・ターミアという少年だったんだけど、
彼がフラーに語るには今、カレンの触媒は彼の実家にあるらしい。
寮に置いておかないのはばれるとまずいと理解しているからだろう
ね﹂
その言葉に、僕は絶望的なものを覚えた。
貴族の実家と言ったら、それは領地のことである。
つまり、そこに送られてしまっているという事は、もはや取り戻
すのがほとんど不可能な状況にあるという事に他ならない。
しかしヘイスは、はっと気づいたかのように言った。
﹁おっとすまない⋮⋮言葉足らずだった。アナイシトスの⋮⋮と言
うか、ターミア家の実家、と言ってもそれは領地のことじゃないよ。
ターミア家は王都に一件、家を持っていてね。今彼のお父上は王都
での用事があるためにそこに滞在されているそうなんだが、カレン
の魔力触媒もそこにあるのだという話だよ。つまり⋮⋮僕らがやる
べきことは﹂
その先に続く言葉が分からないわけがない。
それはつまり、相当危ない橋を渡るほかないという事だ。
けれど、あの魔力触媒は、僕らにとって本当に、命の次に大事な
ものといってもいい、大切な贈り物だ。
それを奪われたカレンの心情は慮ってあまりあるもので、魔力触
177
媒を取り返すために多少の危ない橋を渡ることも、それが必要なら
決してできない決断ではない。
だから、僕は言った。
﹁人の家に忍び込むなんて⋮⋮僕はやったことないけど、ここには
そういうことのプロたちがいっぱいいるからね。あてにさせてもら
うよ﹂
続いて、テッドが言う。
﹁タロス村では何度もやったからな⋮⋮任せておくといいぜ。フィ
ル、お前の家にも何度か忍び込んで、寝てるお前を驚かせたりした
もんだ⋮⋮懐かしいな﹂
言われて、確かにそんなこともあったなと思い出す。
村では大体の人間が知り合いであり、そこには悪人と呼べるべき
性格の人間はいない、というのが共通認識であって、もし仮にいて
もジョンの父親アレンという強大な武力的威嚇が存在する関係で犯
罪など起こりようがないというところもあり、戸締り、というもの
に対して気を遣っていなかった。
そのため、人の家に忍び込む、というのは非常に簡単であり、そ
のことを利用してテッドやコウたちはよくそんなことをしていた。
ターゲットになった人物は数知れずだが、男の子だけしかやらな
かったあたり、彼らなりのルールがあったのだろう。
今となってはいい思い出であり、僕も恨みなど抱いていないから、
テッドの言葉に対して笑うことができる。
ただ、今回忍び込まなければならないのは貴族の屋敷だ。
村のぼろい家とは警備のレベルが違う。
だからこそ、村にいたときのように簡単にそれが成功するとは考
178
えるべきではない。
﹁忍び込むには相当な情報収集と計画が必要だけど、大丈夫かな?﹂
フィルが懸念を口にすると、コウが笑った。
﹁おいおい、俺たちを嘗めるなよ⋮⋮ヘイス﹂
言われて、ヘイスが前に出てばさり、と何かを取り出して近くに
ある机の上に広げた。
それを見て、僕は驚く。
﹁これは⋮⋮家の間取り図?﹂
﹁あぁ⋮⋮ちょっとした伝手で手に入れた。王都にあるターミア家、
まさにその家の詳細について描かれた地図がここにある。これで忍
び込めなかったらそれこそ嘘だ﹂
ヘイスがそう言って笑った。
一体どうやったらこんなものを手に入れられるのか、と聞きたい
ところだが、やはり聞いても応えてくれそうもなさそうだ。
ただ、これがあることは、今回の計画にとってまず間違いなくプ
ラスである。
だからこそ、僕は言った。
﹁⋮⋮これで成功間違いなしだね。頑張ろうか、みんな﹂
そんな僕の言葉に全員が迷いなく頷く辺り、頼もしくもあり、ま
た心配にもなる。
179
彼らは失敗したとき何が起こるのか理解しているのだろうか。
そんな風に思うからだ。
けれど、僕も、そして彼らも、王都、そして魔法学院に入り、貴
族と平民の違いと言うものを肌で知った。
そこから考えると、今回のことは危ない橋どころではなく、こと
によっては死刑になる可能性もあると理解できないはずがない。
だから、覚悟してみんなこんなことを言っているのだろう。
その決意に、覚悟に、この計画は必ず成功させなければならない
と心に決め、それから僕たちは細かな実行計画を練り始めることに
したのだった。
180
フィル?
その日、ターミア家においてはパーティが開かれていた。
特に特別な日、という訳ではないが、王都の貴族と言うものはこ
うやって何かに付けては夜会やパーティを開き、その人脈を広げ、
また交流をし、情報を集め、噂を流すのが仕事なのである。
領地にいるときには決して集められない重要で貴重な情報が集ま
るため、貴族たちは領地から王都に足を延ばしたときは必ずこうや
って夜会を開くのだ。
そんなターミア家の夜会の行われている会場︱︱つまりはターミ
ア家の屋敷の大広間において、三人の、少しばかり浮いている人間
が主催者であるターミア家当主ロッテルラン=ターミアと会話をし
ていた。
ロッテルランは既に年齢は40半ばに入っているが、その体形は
未だ若々しく、文武両道で鳴らしていると評判の貴族の一人である。
白髪の混じっている髪も、教養の宿った瞳と共に眺めてみればそ
れは苦労の後ではなく知性の証のようにも見え、堂々たる主催者と
して見栄えがすると言えた。
そんな彼と会話しているのは、
﹁こ、こ今晩はお招きい、いただき、ま誠にありがとうごございま
す⋮⋮﹂
青白いその肌と、特徴のある喋り方がトレードマークと言ってい
い男、ブルバッハ幻想爵。
それに、その横で、ブルバッハが話すと同時にゆっくりと頭を下
げたのはヘイス、それに僕︱︱フィルであった。
181
なぜこんな布陣で所謂敵地にあたるターミア家の夜会などに参加
しているかと言えば、ここに入り込める日が今日をおいて他に見当
たらなかった、というのが大きい。
あれからみんなで何度かターミア家の間取り図を眺めながら会議
を重ねたのだが、物語のように簡単に突破点が見つかるほどこの家
の戸締りはざるではなかった。
そのため、仕方なく正攻法で挑むことにしたわけである。
つまりそれは、誰かが先に屋敷に合法的に入り込み、のちに内側
から侵入路を開いて仲間を招き入れると言う極めて正当な方法で、
である。
その際に、合法的に入り込む方法として、近々ここで行われる夜
会の情報をヘイスが仕入れていた訳だが、当たり前の話だけど僕ら
平民の子どもたちだけで貴族の夜会などに入り込めるはずがない。
だから協力者が必要になった。
ナコルルが一番適切だ、とすぐに考えた訳だが、彼女はどうして
も外せない用事があるようでどうにもならなかった。
では誰が、ということで次点に来たのが意外や意外、ブルバッハ
幻想爵であったというわけである。
彼に夜会における立ち振る舞いと言うものが果たして身について
いるのか、みんなが心配したのだが、意外にも彼はソステヌーの外
交に携わる機会も少なくないために、それなりにそういう場での立
ち振る舞いというものが身についているとの自己申告があった。
疑わしい、と今日が来るまで信じ切れていなかったのだが、実際
には彼は今、かなりうまくやっている。
もともと招待されていない夜会だったが、そこはナコルルの人脈
の力でどうにかねじ込んでくれた。
僕とヘイスはブルバッハ幻想爵の付添としてついてくることを許
182
され、そして今ここにいるというわけである。
そして、ここまで来ることが僕らの計画では最も難関であった以
上、計画の成功はほとんど間違いないと確信している。
あとやるべきことは、外からテッドとコウを招き入れて、共に魔
力触媒を探すだけだ︱︱
そう思った僕は、ブルバッハ幻想爵に、少し席を外す旨を告げる。
なぜ外すのか、とはブルバッハ幻想爵にも、そして彼と話をして
いる主催者たるロッテルラン=ターミアにも聞かれはしなかった。
こういう場合にはトイレに行くという事だ、という了解があるの
が普通で、その場所については夜会の会場である大広間入り口に立
っている執事から聞くことになっているのである。
﹁⋮⋮申し訳ありません﹂
そう声をかけるだけで、入口に立つターミア家執事はにこやかに
洗練された仕草で僕にトイレのある場所を教えてくれた。
彼がわざわざついてこないのは、招待客を信用しているというこ
とであり、またそんなことせずとも問題は無い、という警備に対す
る信頼でもあるのだろう。
確かに今、この屋敷にはそれなりの数の警備兵がいるが、それで
も僕らに対する対策としては十分ではない。
僕は大広間から出て、事前に打ち合わせして決めていた場所︱︱
屋敷の中の特定の窓に向かい、その窓を静かに開けて、外にいるだ
ろうテッドとコウに合図する。
それは窓の外に見える様に手を振る、という単純なものだったが、
二人はすぐに気づいて影のように滑らかに屋敷の中に入ってきた。
183
﹁⋮⋮うまくいったみたいだな﹂
そう言ってテッドが笑った。
﹁これからが問題だってこと忘れんなよ、テッド。⋮⋮じゃ、フィ
ル、行こうか﹂
コウがそう言って、歩き出す。
その足取りには一切の迷いがなく、こいつは自分の家でも歩いて
いるつもりか、と聞きたくなるほどである。
しかし実際には、その進んでいる道は事前に警備兵の位置を確か
めた上で、丁寧にそれを避けるように定められたものである。
なぜそんな道が分かるのか、と言えば、それはジョンの魔法を遠
慮なく使っているというのが大きい。
足音や空気の振動で人の動きを把握できるその魔法は、魔力によ
って探査する方法と異なり、相手に魔力を感知されると言うことが
無く、こういう仕事にはうってつけ、というわけである。
悪用すれば相当荒稼ぎできそうな魔法だが、そういう用途に使用
することはジョンに厳に禁じられているため、そんなことはしない。
今回のことも見ようによっては不法侵入だから悪いことになるの
かもしれないが、その目的は不法に奪われた品の取り返しなので許
されるだろう。
そうやってしばらく歩いていくと、僕らはついに目的地にたどり
着く。
﹁あそこで合ってるの?﹂
僕がそう尋ねると、コウが頷いて答えた。
184
﹁あぁ、地下の宝物庫が一番怪しいって話だからな⋮⋮﹂
見ると、視線の先のある一点から下に向かって階段がらせん状に
伸びていた。
夜の暗がりの中ではそれはどこまでも続いて地獄まで続いている
ように見える恐ろしげな闇のように見えた。
けれど、実際にそんなことがあるはずはない。
当たり前に地下に続き、そして当たり前に宝物庫がそこにあるは
ずだった。
﹁ただ、問題があるな⋮⋮﹂
テッドがそう言って頭を抱える。
そう、僕らの視線の先には、その問題と言う奴が鎮座していた。
鉄鎧を身に纏った、見るからに恐ろしげな大柄な男がそこに立っ
ていたのだ。
明らかに宝物庫を守るためにそこにいますと言わんばかりの分か
りやすい警備兵である。
﹁どうすんだよ、あれ⋮⋮﹂
﹁どこかにいくのを待つか?﹂
テッドとコウが頭を抱えながらそう話した。
けれど僕は懐からあるものを取り出してコウに手渡す。
﹁こいつは⋮⋮なんだ?﹂
﹁睡眠薬。即効性。劇薬﹂
185
端的に答えて、僕はコウに笑いかける。
コウは引き攣った笑みを浮かべて、
﹁⋮⋮本当のところ、お前がカレンの次に怖い奴だよ⋮⋮﹂
と言いながらジョンの魔法の中で、何かをピンポイントで飛ばす
ときに便利な風の魔法を使い、その劇薬を大柄の鎧門番の鼻先に飛
ばした。
その効果は劇的なもので、ほんの少しの間、不思議そうな顔をし
ていたが、がしゃん、と音を立ててその場に転がってしまった。
﹁⋮⋮まさか、死んでねぇよな?﹂
あまりの効き目に心配そうにテッドがその大男に近づいてその息
を確かめる。
僕とコウは固唾を呑んでその様子を見守ったが、テッドが、
﹁大丈夫だ。ちゃんと息してる。さっさと宝物庫に行こうぜ﹂
と言ったので目的を思い出して階段を下りて行った。
◆◇◆◇◆
宝物庫は宝物庫と言うだけあって、様々な宝物が所狭しとひしめ
き合っていた。
絵画や宝飾品はもとより、剣や槍などの武具も多くある。
僕たちはここで間違いないだろうとそれで確信し、目的の魔術触
媒︱︱つまりはカレンの杖を探した。
そしてそれはあっけないほど簡単に見つかる。
186
﹁⋮⋮あった!﹂
発見したのは僕だった。
黒いワンド部分に、水色の魔石の嵌められたそれは、その装飾と
合わせて間違いなくカレンのものだ。
﹁おし、ずらかるぞ!﹂
テッドがそう言ったので、僕は宝物庫の出口に向かう。
しかしなぜかコウが中々出てこない。
不思議に思って戻ってみると、そこにはまだコウがいた。
手には水晶を持っていて、しばらく立ち尽くすようにしてそこに
いたので、僕はあわてて声をかけた。
﹁何してるんだ、コウ! 早く!﹂
コウはその言葉に振り返り、そしてやっと出口の方に歩いてきた。
﹁おう、悪いな⋮⋮行くぞ﹂
そう言って、先ほどまでが嘘のような速度で宝物庫から出て階段
を登っていく。
そしてそのままテッドとコウは入ってきた窓から外に出て、杖を
持って去っていったのだった。
僕は改めて夜会の場に戻り、ブルバッハ幻想爵のお付きとしてヘ
イスと共にそつなく過ごし、そのまま帰ったのだった。
計画は成功した。
このときはそう確信してやまなかった。
187
◆◇◆◇◆
暗い部屋の外を窓から覗いている男がいる。
彼の顔を見れば、フィルならこういったことだろう。
あぁ、彼は、ロッテルラン=ターミアその人に他ならない、と。
少し休憩をと、屋敷の二階の自室に戻ってワインを飲んでいた彼。
ふと窓の外を見ると、面白いものが見えた。
今、彼の視線の先にあるのは、長い棒状の何かを布で包んだもの
を持って、逃げる様にターミア家の屋敷から遠ざかっていく二人の
少年の姿だ。
テッドとコウ。
彼はそれを見ていた。
けれど彼はその場で糾弾することなく、部屋に戻っていく。
なぜか。
それはあとで学院において糾弾し、彼らの罪を暴けばそれでいい
と考えているからだ。
いずれ、二人の少年を学院から追放することになるだろう明日の
ことを考えて、ロッテルランは機嫌よく元の夜会の場へと戻ってい
った。
◆◇◆◇◆
次の日、僕らは学院長室に呼び出された。
その理由は、“先日ターミア家で起こった盗難事件について聞き
たいことがある”である。
完璧だと思った。
188
何の問題もないと思った。
けれど、実際にはばれていたのだ。
僕はそのことに悔しい想いを感じながら、学院長室に足を踏み入
れる。
開けたドアの先には、すでにテッド、コウが立っていた。
ヘイスとブルバッハがいないのは、彼らはとぼけ切ったか、テッ
ドとコウが名前を挙げなかったかだろう。
部屋には他にも人がいて、ナコルル、それにロッテルラン=ター
ミアと、その息子アナイシトス=ターミアが良く似た表情でにやに
やとこちらを見つめていた。
勝利宣言、というやつだろうか。
極めて腹立たしいが、しかし僕らは負けたのである。
﹁さて、役者がそろったところでお話を始めましょうか。テッド君、
・・
コウ君、それに、フィル君。君たちは先日、我が家に入り込み、宝
物庫内から我が家の家宝である杖を盗み出しましたね? これはし
っかり確認が取れてることですよ⋮⋮とぼけても無駄です﹂
そう言って、逃げ去るテッドとコウの後姿を移した静止型の映像
水晶を出して見せてきた。
ここまで証拠が揃っていたら、もう開き直ることも出来ない。
僕は完全に負けた⋮⋮と思い、謝ってどうにかなるものではない
がとりあえず謝ろうとした。
ナコルルも、
﹁事実なら⋮⋮まず謝罪せねばなりませんね⋮⋮﹂
と擁護すべき言葉が見つからないようだ。
明らかにカレンの杖を奪い返しただけなのだが、それについて調
189
査しろ、とか言っても貴族相手に通る議論ではない。
そういうやり方は出来ない。
そのため、どうしようもないのだ。
少なくとも僕はそう思ったし、テッドもコウもそう思っている、
と考えていた。
僕らは負けたのだ、と。
けれどうつむいた顔をあげてコウとテッドの表情を見てみればそ
の顔は吹き出しそうな笑顔に染まっていて、まるで不安そうなとこ
ろがない。
そして何をするのかと思えば、突然コウは胸元から映像水晶を取
り出し、そして再生しだした。
そこに映っていたのは、あの宝物庫の様子である。
﹁確かに俺たちはここに忍び込んだ⋮⋮そしてここから杖を奪った﹂
﹁ほう⋮⋮認めると言うのか。なるほど、ここは確かに我が家の宝
物庫︱︱ッ!?﹂
うんうん、と頷いていたロッテルランの顔が突然歪む。
それを目ざとく見つけたコウが、笑って聞いた。
﹁へぇ⋮⋮ここがターミア様のお家の宝物庫なんですか。だったら
俺たちは泥棒ですねぇ⋮⋮でも、ターミア様もそうなんじゃないで
すか?﹂
ずばり、と切り込むようにそう言ったコウの話が僕には理解でき
なかった。
190
しかしナコルルは違ったようだ。
喉から枯れたような声で言った。
﹁こ、これは⋮⋮ユキトスの“星の営巣”⋮⋮ナベールの“水を汲
む女”⋮⋮タタリアの“魔術的論理”⋮⋮全て、盗難の被害に遭っ
て未だどこにあるのか不明のはずの美術品ではないですかッ!?﹂
そう言った瞬間のロッテルランの表情の変わりようと言ったらな
い。
﹁は、はは⋮⋮そ、そうだね⋮⋮確かに、そのようだ。いや、これ
は我が家の宝物庫ではなかったようだね﹂
などと言い繕っている。
そしてコウは攻めるのをやめようとしなかった。
﹁そうですか? でも俺たちが先日忍び込んだのは確かにここでし
たよ。ほら、ここに映っている杖。これを盗んできたんです。そし
て俺たちが忍び込んだのはここだけなんですよねぇ⋮⋮あれ、おか
しくないですか? 俺たちが忍び込んだのってターミア様のお屋敷
だったんじゃ?﹂
﹁い、いやっ⋮⋮どうも、それは間違いだったようだね! いやい
やいや、済まない、こんなことに巻き込んでしまって。あぁ、私は
用事を思い出したよ。いやいや、領地に帰らねば⋮⋮さて、アナイ
シトス。お前も領地に戻る準備をしなさい。すぐにだ。早く!﹂
﹁お、お父様!?﹂
そう叫んで二人は逃げる様に学院長室から去っていった。
191
残された僕たち。
僕とナコルルはため息をついて、その場にへたり込む。
テッドとコウはまだ笑っていた。
酷い奴らである。
絶対に勝てると分かっていたのに、そのことを教えてくれなかっ
たのだから。
﹁⋮⋮全く寿命が縮むと思ったぞ。まぁ、それは良いか。それより
コウ。さっきの映像水晶、本物か?﹂
ナコルルがそう尋ねた。
そうだ、重要なのはそれだ。
もしそれが事実なら、あのターミア家は美術品の盗難、横流しに
関わっているという事になる。
コウは頷いた。
﹁俺も見つけたときはびびったぜ。ヘイスに美術品の目利きを教え
てもらってて本当によかった⋮⋮それで、これは映像水晶に映して
おけば、のちのち役に立つだろうと思ってな。実際、役に立ったぜ﹂
﹁先に言ってほしかったよ⋮⋮﹂
僕がそう言うと、
﹁そうしたら詰まんないだろうが。フィルの怯えた顔、中々乙なも
んだったぜ!﹂
ははは、とテッドとコウ二人で笑うものだから、こいつら村にい
たときの悪がき時代から本質は全く変わってないなと深く思ったの
192
だった。
そうしてカレンの魔力触媒はちゃんとカレンのもとに戻り、一件
落着、というわけである。
余談であるが、ターミア家はのちに美術品盗難の件について捜索
の手が入り、御取り潰しと相成った。
コウを敵に回すと恐ろしい。
悪巧みはコウが最も巧みである。
その事実を改めて知った一件であった。
193
父は息子の夢を追いかける 5︵前書き︶
人知れず置き換えていた第一章﹃父は息子の夢を追いかける﹄の続
きです。
サイドストーリーみたいなものです。
昼の十二時付近に更新するのはこちらの﹃父は息子の夢を追いかけ
る﹄シリーズになりますのでよろしくお願いします。
内容としてはアレン視点での話になりますが、本編とどの程度リン
クするのかは微妙です。
色々矛盾点などもあるかもしれませんが、こちらはこちらで独立し
たものとして読んでいただけると幸いです。
ちなみに内容には本編のダイジェストも含まれています。
次話を投稿するタイミングで場所を本来のところに移す感じになり
ますのでよろしくお願いします。
また、本編については二月六日の夜の十二時付近からの更新を目指
しております。
宜しくお願いします。
ついでですが三章のダイジェストはまだ書いてます。
申し訳ない。
194
父は息子の夢を追いかける 5
﹁⋮⋮ッ!?﹂
衝撃とともに、俺は目を覚ました。
酷い夢だった。
幸せな部分もあっただけに、他の部分の陰鬱さ、苦しみ、絶望が
際だつような、そんな夢だった。
しかも、俺はあの夢を見ていたのだろう人物のことを知っていた。
あれは俺の︱︱
かぶり
そう思って頭を振ると、視界に奇妙な光景が目に入った。
﹁⋮⋮そういやぁ、ここはどこだ⋮⋮﹂
ぶつぶつと呟きつつ、俺は確認する。
先ほどまで、俺は寝ていた。
たった今起きあがったわけだが、自分が眠っていた場所を見れば
周囲の床よりも高くなった祭壇のような場所であることが分かった。
材質は、石材だろうか。
もしかしたら金属かもしれない。
そんな、どちらとも知れない奇妙な材質の物体であった。
ただ、そんなことはどうでもいいだろう。
問題は、いったい俺はどんな状況に置かれているのか、というこ
となのだから。
そう、俺︱︱アレン・セリアスはいったいどんな状況に置かれて
いるのか、ということが。
195
﹁⋮⋮記憶はどこで途切れている⋮⋮﹂
思い出す数々の記憶。
ヒューマン
その最新の部分に近づくにつれて、絶望が深まっていく自分の記
憶。
いや、この時代に生きる祖種は、みな似たようなものだろう。
むしろ俺は幸せな方かもしれないとすら思う。
何せ、息子も、妻も、そして故郷も未だに失われていないのだか
ら。
普通ならすべて失っているだろうものを、俺は今でもすべて持っ
ている。
そのことを喜ぶべきなのだろうが、未来のことを考えればそうも
言っていられなかった。
そして、そう考えると同時にもっとも最近の記憶が引き出された。
﹁そうだ⋮⋮こんなところにいる場合じゃねぇ⋮⋮砦はどうなった
⋮⋮あの魔族は⋮⋮!﹂
思い出す。
俺の職場であった魔の森の砦へと襲いかかってきた灰色の表皮を
した魔族のことを。
周囲をとてつもなく強い力でもって蹂躙していった、あの悪魔の
ことを。
居ても立ってもいられず、俺は自分が寝ていた台から飛び降り、
そして壁に立てかけられていた剣をしょってその部屋から飛び出そ
うとした。
俺は今すぐに向かわなければならない。
あの、砦へ。
196
そう思ったからだ。
けれど。
﹁⋮⋮おい、出口はどこだよ⋮⋮?﹂
走り出しておきながら、間抜けなことに出口がどこにも見当たら
ない。
周囲三百六十度、すべてを見回してもどこにもないのだ。
すべて、完全に閉じた部屋であって、もしかしたら天井が⋮⋮と
思って上を見てみたり、階段か⋮⋮と思って地面を観察してみたり
したが、やはり出口と思しき場所は存在しない。
﹁⋮⋮まぁ、そうだな。そういうことなら他にやりようもあるか⋮
⋮﹂
ないものはない。
これは仕方ない。
そして、ないものは作ればいい。
ただそれだけの話だと俺は即座に頭を切り替えて背中に背負った
剣を引き抜き、そこに魔力を通していく。
身体強化魔術もかけた。
何のために?
それはもちろん、壁を壊すためだ。
﹁建物の持ち主には悪いが、俺に分かるように扉を作らなかったの
が悪いんだぜ⋮⋮﹂
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そうぽつり、と呟く。
軍の施設である可能性はないだろう。
仮にそうだったとしても、起きたのに説明一つしない方が悪いの
だ。
躊躇なく剣を降りかぶり、そして、
﹁うおりゃぁぁぁぁぁぁ!!﹂
⋮⋮振り切った。
轟音とともに斬撃が壁に襲いかかる。
幾多の魔物、幾多の魔族を切り倒してきた攻撃である。
たかが建物の壁くらい、仮に金属で出来ていたとしても破壊でき
ないはずはない。
それくらいの武名は築いたし、事実としてその程度のことは出来
る自信が俺にはあった。
けれど。
実際にはそんな自信は粉々に砕かれることになる。
なぜなら、俺の剣が命中したはずのその壁は壊れたりなどするこ
とはなかったのだから。
それどころか、近づいてみてみると恐ろしいことが分かった。
壁をさすってみるとそれがはっきりと分かる。
﹁⋮⋮おいおい、自信がなくなるな。傷一つついてねぇ⋮⋮﹂
妙につるつるとした壁だと思っていたが、ひっかき傷一つついて
いないのは新しいからだ、というくらいにしか思っていなかった。
しかし、そうではなく、単純に耐久力が恐ろしく高いからなのか
も知れないと考えを修正する。
俺が身体強化をし、さらに武具に魔力を通して攻撃したにも関わ
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らずいっさいの傷がつかない、そんな存在に出会ったことなどつい
ぞなかったからだ。
あの魔族どもすら、俺の攻撃の前にダメージを食らわないことは
なかったのだ。
それなのに、である。
俺は改めて周囲を見渡した。
﹁⋮⋮こいつぁ、だめだな。周り全部おんなじ材質だ。壊せねぇ。
詰んだ﹂
そう言ってため息を吐くくらいしか出来ることは残されていなか
った。
自らの渾身の一撃を軽々と耐えきられてしまったのだ。
少なくとも、もう打つ手はない。
何か新たに発想の転換とかでアイデアを思いつくしかないが、俺
はそういうタイプではない。
努力とか積み重ねとかでどうにかするタイプで、新たな何かをぱ
っと生み出せるような頭脳はない。
基礎が分かってれば応用も利かせられるが、ゼロを一にすること
は出来ない。
そう言う人間なのだ。
しかし、そうは言ってもずっとここにいるわけにはいかない。
助けに行くとか状況を確認するとかそういうレベルの問題でなく、
単純に生理的な問題として。
いくら強力な戦士であるとか英雄であるとか言われていても、食
事しなければ死ぬのだ。
人として生まれた以上、当たり前の摂理である。
そして、この部屋に食べ物があるようには見えない。
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はじめに眠っていた祭壇と、よく分からない管があたりを通って
いるだけで、有機物のかけらも存在していない。
飲まず桑図で三日過ぎれば死ぬことになるのははっきりとしてい
た。
﹁⋮⋮殺すならもっとひと思いにさっくりやってほしかったもんだ
が⋮⋮﹂
はじめに眠っていた台にいそいそと戻り、俺は天井を見ながらそ
う呟いた。
剣は脇に置こうかと思ったが、使っても事態を打開できないのだ
から何の役にも立たない。
壁に立てかけておくことにした。
寝転がりながら考える。
ここはどこなのだろうか、と。
軍の施設なのだろうか。
それとも、魔族の牢獄か何かか。
いや、どちらでもないのかもしれない。
魔族にこんなものを作れる技術力があるのなら、彼らの都や砦も
同じ材質で作ればいいのだし、そうしなかった以上、彼らの建物で
はないだろうと考えることが出来る。
軍だって同じだ。
こんな夢の材質を発明したというのなら、即座に活用すべきだろ
う。
そうしてこなかったのは、そもそもそんなものを発明できていな
いからだ。
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つまり、ここは軍でも魔族の所有でもない、第三の勢力が持って
いる建物だ、ということになる。
﹁⋮⋮第三の勢力? はっ。自分の思いつきなのに笑えてくるぜ。
そんなものがいたなら、戦争はそいつの勝ちで終わってんだろうが
⋮⋮﹂
考えてみたが、そんなものがいるはずないというのは分かってい
る。
こんな技術を持っている何かがいて、戦争に介入してきたらそこ
で戦争は終了だ。
何せ、勝ちようがない。
攻撃をいっさい通さない素材を作れるのだ。
それで何かしらの移動型兵器を作ればおしまいだろう。
しかし、現実にそんな存在が戦争に現れることはなかった。
つまり、そんなものはいないのだ。
ということになるはずだが、実際に俺はこんな訳の分からない部
屋に閉じこめられている。
意味が分からない。
﹁⋮⋮せめて、誰か説明してくれよ⋮⋮﹂
ぽつり、と呟いた独り言だった。
しかし、その言葉は意外な効果をもたらした。
﹁分かったわ⋮⋮落ち着いたようだし、そろそろ説明して差し上げ
ましょう﹂
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とどこからともなく声が聞こえてきて、俺が驚くど同時に、部屋
の一点に光が集中し始めたからだ。
そして数秒経過すると、部屋の中心あたりに一人の女が立ってい
た。
現実感のない、変わった女だった。
銀色の髪に、青い瞳をしている。
夢見るような焦点の合っていないぼんやりとした表情をしている
が、じっと見つめていると徐々に得体の知れない焦燥感が背筋に走
ることに気づく。
その瞬間、俺は台から起きあがり、そして壁の剣のところまで走
って構えた。
しかしそれでも何も解決した気がしない。
そうではなく、ただ思った。
︱︱なんだ、こいつは⋮⋮!?
それがそのときの俺の正直な心情だった。
たとえどんな相手が自分の正面に立っていようとも、恐れたこと
はなかった。
自分よりも遙かに強いだろうという敵を前にしたことも若い頃は
少なくなかったが、それでも俺は怯えたりはしなかった。
ただ強い相手と戦えることに喜びを感じ、そしてそんな敵を打ち
倒す未来を夢想して、ただ喜びの中で剣を抜く。
それがいつもの俺の心の動きだった。
そのはずだ。
なのに、今の俺の心情はどうだ。
ただただ、恐ろしい。
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なぜこんなものがここにいるのか、どうにかこの場所から逃げ出
・・・
すことは出来ないのかとそれだけを考えている自分に俺は気づいて
しまった。
こいつは、やばい奴だ。
今までであった何よりも、危険⋮⋮かどうかは分からないが、ま
ずい相手なのは間違いない。
そんなものと何の手だてもなく向かい合っているこの状況は、よ
ろしくないと言うほかない。
無意識にじりじりと後ろに下がっている自分がいるが、しかし冷
静になってみれば分かる。
そんなことをしても無駄だ。
部屋に出入り口はないし、あの女は出現した場所から動きもしな
い。
俺がどんな動きをしようとも対応できるという自信か、それとも
俺の動きなどに興味はないのか。
分からない。
何も。
そしてだからこそ得体の知れないその女に俺は恐怖を覚えている
のだろう。
﹁⋮⋮お前は、何だ? どこから現れた? いや、そもそもお前は
⋮⋮お前が、俺をここに閉じこめてる張本人なのか?﹂
俺の質問に、女は笑った。
花のように、とはこのことだろうと感じるような美しい笑い方だ
った。
けれどやはりそこには何もなかった。
がらんどうの⋮⋮枯れた花を眺めているようなおかしな感覚がす
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るだけだ。
この気持ちがどこから来るのか、それは俺にも分からない。
だから、この場で俺に出来ることは女の返答を待つことだけだっ
た。
俺に視線を向け、少しの間微笑みながらも無言だった女は、口を
ゆっくりと開いて言った。
﹁私の名はディアナ。貴方の質問に答えると︱︱確かに私が貴方を
ここに閉じこめたモノ、ということになるかしら﹂
思いのほか、その女は正直に答えた。
もしかしたら嘘をついているかもしれないとは思ったが、おそら
く俺の生殺与奪の権利はこの女が握っている。
嘘を吐く意味は薄いだろう。
それに、なんと表現するべきか分からないが、俺は直感したのだ。
この女は嘘をつかない、と。
﹁⋮⋮だったら早く俺をここから出せ。まぁ、お前が魔族に与する
者でないなら、という話にはなるがな﹂
馬鹿にしたような口調で俺はそう言った。
これで怒るようならその程度の存在と言うことだし、反応によっ
てこの女がどちらに与する者なのか、もしくはどちらにも肩入れし
ない者なのかが分かる。
そう思っての台詞だった。
目下、俺の一番の目的はここを出ること、そしてすぐに職場であ
った砦に向かうことだ。
それが出来ないなら、軍に合流することでもいい。
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とにかく、一切の資源を無駄に出来ないこの状況で、俺というた
った一人の人的資源も無駄にはすべきではない。
たとえ、全体から見れば微々たる力であってもだ。
だからこそ、俺はなりふり構っていられない。
ここから出られるなら、そのためにはどんな手段も講じる覚悟が
あった。
もしかしたら次の瞬間、俺は消し炭にされるかもしれない可能性
もないではなかったが、女はそんな俺に対し、予想していなかった
反応をした。
彼女は、声を立てて笑ったのだ。
﹁あはははは! なにそれ、挑発? もしそうだというなら私の見
込み違いだったかも知れないわ。貴方は、あのジョン・セリアスの
尊敬すべき父親だというのに︱︱意外と、平凡なのね?﹂
すべてを見透かしたような声だった。
ジョン・セリアス。
俺の息子。
その単語が、俺の身のうちから強い怒りの感情を引き出す。
俺の息子について、何を知っているというのだ。
何かしたというのか。
俺は女に声をぶつけた。
﹁⋮⋮お前、何かしたのか! あいつに⋮⋮俺の大事な息子に!﹂
ありったけの怒気をぶつけたつもりだった。
殺気もだ。
普通であれば、これだけの威圧をすれば多少は怯むものだ。
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少なくとも、どんな騎士でも、軍人でも、俺からこれだけの威圧
を受けて平常心を保っていられる者はいなかった。
けれど、女は違った。
女は、微笑みを絶やさないまま、俺に言ったのだ。
・・・・・・・・・
﹁私は何もしてないわ。いえ、誰も何もしていない、と一応は言え
るかしら。ただ、彼は行ってしまった︱︱もう誰の手も届かないと
ころへね﹂
何を言っているのか、正確なところは理解出来なかった。
しかし、最後の一言が意味することは、一つだった。
こいつは、子の女は、俺の息子が死んだと言っている。
たぶん、そういうことだと思った。
俺の心は、その瞬間真っ暗になった。
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PDF小説ネット発足にあたって
http://ncode.syosetu.com/n7133bt/
平兵士は過去を夢見る
2015年2月4日12時26分発行
ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。
たんのう
公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ
うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、
など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ
行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版
小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流
ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、
PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル
この小説の詳細については以下のURLをご覧ください。
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