Title シェーラーの哲学的人間学 Author(s) 永井, 俊哉 - HERMES-IR

Title
Author(s)
Citation
Issue Date
Type
シェーラーの哲学的人間学
永井, 俊哉
一橋研究, 16(4): 97-117
1992-01-31
Departmental Bulletin Paper
Text Version publisher
URL
http://hdl.handle.net/10086/5923
Right
Hitotsubashi University Repository
9
7
シェ-ラーの哲学的人間学
永
井 俊
哉
M ・シェ-ラー (
1
8
7
4
11
9
2
8
)の哲学的人間学 は彼一代 で終わった とも言わ
れ る。現 に例 えば現代 の代表的な哲学的人間学の研究者 ビンスワンガ-などは,
シェ-ラー にはほ とん ど言及す ることな く,ハ イデガーの現存在分析 に依拠 し
て現象学的人間学 を構築 してい る。 しか しS
/ェ-ラーの仕事 には, このまま忘
れ去 られ るにはお しい優れた洞察 もあるのであって,彼 の受 け継 ぐべ き遺産 を
受 け継 いだ上で 「
人間 とは何か ?」 とい うカン ト以来の問いに答 えることが求
め られ よう。かか る問題意識 に基づいて,本稿 では, シェ-ラーの哲学的人間
学を 〈
哲学的人 一間学) として捉 え返 しつつ,その総括 を試 みることにす る。
第-節
現象 学 的倫 理 学 の基 礎 的構 図
シェ-ラー はもともと人間学的関心 を持 っていた とはいえ,始 めか ら哲学的
人間学 を標傍 したわけではな く,莞 し当 りは恩師 フッサールの現象学 を倫理学
に適用す る仕事 に取 り組 んだO フッサールが,経験論的な心理主義 とカ ン ト的
な形式的規範主義 を退 けて "
実質的アプ リオ リ〝の新 しい領域 を見出 した よう
に, シェ-ラーは,かたや快楽主義/功利主義,かたやカン ト的な形式主義 を
退 けて実質的価値倫理学 を樹立 した, と一般 に言われ る。 しか しこれがカン ト
批判 として正当か どうか とい う前 に, そ もそ もフッサールはこのようなパ ラレ
リテ- トを,つ まり本質直観 とパ ラレルな "
価値直観〝 を認 めえたか どうかが
問題 となろう。 フッサール は v
o
r
s
t
e
l
l
e
n
d
e
s
,a
u
fEr
ke
n
n
t
n
i
shi
mt
e
nd
i
e
r
e
nd
e
s
hme
h
me
nと we
r
t
e
nd
e
s
,a
u
fEr
wa
r
t
u
n
g(
Ge
ni
e
Be
n
)hi
m
St
r
e
be
nである Wa
t
e
n
d
i
e
r
e
nd
e
sSt
r
e
be
nである "
We
r
t
ne
h
me
n"(フッサールの造語) とい う二つ
のs
t
r
e
be
nd
el
nt
e
n
t
i
o
nの間 にパ ラレ リテ- トを認 め(
1
)
,F
論理学研究』における
9
8
-橋研究 第 1
6巻第 4号
Lo
g
i
kの対応物 としての純粋 で形式的 な Axi
o
l
o
gi
e
/
Pr
a
kt
i
kの理念 を打 ち出
o
l
o
ie
g
/
Pr
a
kt
i
kにおいて も,Wt
i
n
s
c
he
nと Wu
ns
c
h,
している(
2
)
。た しか に Axi
Ent
s
c
hl
i
e
Be
nとEn
t
s
c
hl
uB,Ha
n
d
el
n、
と Ha
nd
l
un
gが 作用 と内容 の関係 にある
が,それ らは Emp
f
i
nd
e
nとEmpf
i
nd
u
n
gと同様,ノエ シス とノエマ (この用語
はギ リシャ語 の ≠思惟 Z
/
o符0
・
L{'か ら来 ている)の関係 にはな く, む しろノエマ
の中の区別である(
3
)
O思催 -客観化作用 は,感覚/感情/欲求 を越 えてそれ らを
対象化す る。 「この論理的理性 の全 き支配 は否定で きない」(
4
)
。 してみ ると実質
的アプ リオ リとしての価値が本質直観 され るというよ りも,価値 の概念が, あ
るいは価値間の本質法則が直観 され ると言 うべ きであろう。 フッサール請 う所
の価値法則 とは例 えば,「
価値 Al
,A2
が価値 Wl
,W2の派生的価値で,W.
>W2
な らば AL
>A2
である」 とか,「
Wl
<W2
かつW2
<W。
であるな らば,Wl
<W3
である」といった ものだが(
5
)
oこれ らは何 に関 して も成 り立ったんなる論理法則
である(
6
)
0
他方,弟子の シェ-ラー も Di
s
s
e
r
t
a
t
i
o
nにおいて 「- 厳密 に言 えば (倫理的
知》 な どとい うものはない。知 はそれ自体 において決 して倫理的でない。 ある
のはただ倫理的な ものについての知である」(
7
)
と主張
し
,F形式主義』において
も新 カ ン ト学派 を批判 しつつ 「
論理学 は, それが ≪真理) とい う価値 を扱わな
けれ ばな らないか らといって,価値学 として倫理学や美学 と同格 にす ることは
で きない。 とい うの も一般 に真理 は≪
価値》ではないのだか ら」(
S2,S.1
9
7
)
とい うように主知主義的な観想の優位 を説いている。 シェ-ラー は,後年知識
社会学的研究 に従事す るに至 ってプラグマテ ィズムの相対的な正 しさを認 めつ
,「プラグマティズムのたんなる批判者が よ くするように, この ように[プラ
つ
グマテ ィズム的に]知 に Wo
z
u
?の問い(
8
)
を立 てることを拒否 し,≪
知 のための
知l
as
c
i
e
nc
epo
u
rl
as
c
i
e
n
c
e[ポワンカレ]) を提唱す ることはで きない」(
S
8,S.
2
0
4
)と説 くようにはなる。 とはいえ,シェ-ラーによれ ばプラグマティ
ズムはノエ シス とノエマ を混同 している : 「自然的認識作用 は,たんに精神が
知へ と動 くことに過 ぎない。・
・
・知 自身 は真で も偽で もな く,・
・
・明証的かそ うで
ないか,対象の相在充実 に関 してさらに十全的か非十全的かである。真や偽で
あるのはむ しろただ命題,すなわち我々の判断作用 に内在す るイデア的な意味
相関者だ けである。明証的で最大限十全的な知 の対象の直観的相在 と "
一致 し
」
ている〝時,命題 は真であ り,≠
背反す る0時,偽である (
9
)
。ノエア的真理 ま
S
/ェ-ラーの哲学的人間学
9
9
でを人間学的=知識社会学的に相対化することはシェ-ラーが拒否するところ
であったo「
測 られるものに比例 して収縮する物差 しがいつ も同じ大 きさの日盛
人間学的相対主義的
りを生 じさせ るように,≪
種族意識》という物差 しは ここ[
倫理学]で もまた測 られるべ きものに自分 を常 に合わせるので,〈人間性さが実
S2,S2
7
6
)
。そのよ
際 どれだけ悪 くなっても評価結果 は同じままであろう」(
うな自分 を基準 にする倫理的判断は,「イマ・ココでは私にはか くか くであるよ
うに思われる」 という私念の表明 と同様,判断の名に値 しない判断である。超
越論的主体 はかかる時間的有限性 を ≪
超越さ して,普遍的意識 に至 らなければ
ならないのだが,現象学者 シェ-ラーはカン トのように構成主義的にではな く
て直観主義的に超越 しようとする。
シェ-ラーによれば,ち ょうど意味の担い手 (
言語的表現)や意味の主観的
体験が動揺 して も意味 自体 はシュペチェス的同一性 を保持するように,価値の
担い手 (
財
Gi
i
t
e
r
)や価値の主観的体験が動揺 して も,価値 自体 はシュペチェ
S2,SS3
5
4
0
)
。なるほど例 えば生命
ス的同一性 を保持するとのことである(
の価値 は,その担い手 (
生物) は様々な種類があるが皆等 しく生命 という価値
を持ち, また個々の生物 はやがて生命 を失 うであろうが,だか らといって生命
という価値 自体 は死 なない という点で,当の価値 自体 はその担い手の動揺に係
生命価値」
わ らず 自己同一性 を保持する。だが反面生物 というこの担い手 は,「
呼吸によってエ
という述語以外 に 「
細胞か ら構成 され」「自己再生力があ り」「
ネルギーを作 り」等の他の述語 を持ち, また 「
生命価値」がな くて も生物 は生
物であるという点で,担われる意味契棟の動揺に係わ らず 自己同一 性を保持す
る。価値 は他の付随物が動揺 して も自己同一性 を保つ というのは, まさに全て
の独立的意味に関 してあてはまる極 めて トリヴイアルな主張である。 シェ-ラ
r
kーは 「
≪
善いさの可能的担い手 とその (
たんなる担い手 としての)共通の Me
malを当の価値 自身 と見なす」(
S2,S.
3
7
)ことをパ リサイ主義であるとして
価値 は常 にそれ白身直観的に与 えられなければな らない」 (
i
bi
d)と主
論難 し,「
張する。た しかにこれは≪自然主義的誤謬)を防 ぐ意味で重要な論点であろ う (10)
が, これだけは 「
価値 は価値である」 というトー トロジーの域 を出ない。価値
の自己同一 性という純粋時間性が事象の差異性へ と超越することが超越論的倫
理学への路ではないのか ? 価値相対主義 を論駁する上で重要なのは,担い手
か ら切 り離された価値の超感性的同一
一性ではな く,むしろ価値 と担い手 との関
1
0
一橋研究 第 1
6巻第 4号
係の同一 性ではないのか ? もちろんシェ Tラーは,価値 と担い手 との関係の
解明-価値の適用基準の記述 -価値判断の正当化 (これ らはすべて同じことで
1)
持続性 C
2
)
分割不可能性 (
3
)
ある)について言及 していないわけではな く,(
基づ け関係 における独立性 (
4)
満足 の深 さ (
5
)
価値感得主体 の非特定性 を
Me
r
khd eとして挙 げている (S2,S1
0
7
)
Oだがハル トマンが指摘するよう
に 「この基準の各々は,道徳的価値が生的価値 よりも高いということを知 るの
に役立つ」だけであって 「
広大な価値のクP スの内部でのより線細な高低の区
別 はこのような方法では分か らない」
(
l
l
)
。か くして We
r
t
r
angor
d
nun
gの作成が
直観主義的倫理学にとって必要 となるが,問題 は価値の高低の決め方である。
mi
e
he
nと後置 Na
dl
S
e
t
Z
e
n」とい
シェ-ラーによれば価値の高低 は「
先取 Vo
う特殊な作用によって統直 される。 この先取/後置 は く経験的先取/後置)で
hl
」か ら区別 されなければならない.「
すべての ≪
選択)は,あ
ある 「
選択 Wa
る行為 と他の行為 との間で生 じる。 これに対 して先取 は何 らかの財 と価値 に関
」「
先取 は ≪
財》か ら独立に価値それ自身の間にすでにある」(
S
しても生 じる。
2,S.
1
0
5
)
。だが このように先取 を現実の行為 (
選択 としての行為 -行為 とし
ての選択)か ら切 り離 してしまうなら,結局 またモノローギッシュなイデア的
価値の観想に戻 ることにならないか。「どの価値が iより高次の価値)であるか
は,先取 と後置の作用によってi O
)
都度新たに統握 されるべ きである。 このた
めには論理的演梓では決 して置換することができない直観的な ≪先取の明証)
S2,S.
1
0
7
)
。客観主義的直観主義は主観的 "
決断主義〝を帰結する
がある」(
ことはここか らも明 らかである。
価値 を行為の合 目的的意味連関によって定義す ることはで きないであろう
か ? シェ-ラーは 「
価値 とは,事物 と事物 に向けられた人間の欲求 との関係
が言葉によって誤 って客観化 された ものである」 と言 うエーレンフェルスに対
して,それならば 「
色 もまた ≠
誤 って客観化 された関係〟 になる」ではないか
S1,S.
那)。「
価値 は関係の基礎 と成 りうるが,赤や青が関係でな
と批判する(
S2,S.
1
4
8
f
)
。 しか し赤や青が物体 と視
いの と同じく価値 は関係ではない」(
覚器官 とのレアールな関係 と人 と人 とのイデア-ルな関係 との関係であるよう
∼ にと
に,価値 を関係 と見なす ことはできないであろうか ? シェ-ラーは 「
っての価値」 (
使用価値)と 「それ自体 における価値」とを区別するが,マルク
スなどは後者 をも人 と人 との関係 に求める。≪
事物 に付着 した価値や色彩さとか
シェ-ラーの哲学的人間学
1
0
1
〈
客観的に存立するイデア的な価値や色彩)などの想定は,≪
1十1- 3〉が誤
謬であるの と同じ意味で誤謬であるわけではな く,むしろパラダイム内在的に
は必然的に真であるのだが,パラダイム超越的には物象化的鍔記 とされるので
2)
。
ある(1
シェ-ラー も,普遍主義の立場 を採 りなが らも,さすがに現代の哲学者だけ
あって倫理/倫理学のパラダイム相対性 を認 めようとす る。「
各時代の価値の形
而上学 は .
-絶対的ではあるが同時 に個別相対的な妥当性 しか もたない認識で
ある。それは [1]古代の善世界絶対主義者が私念 したような実質的で歴史的
に普遍妥当的な認識で もなければ (これは歴史主義者が正当にも決定的に破壊
,[2]絶対的だが単 に ≪形式的》な認識 (
カン ト)で もなければ,[3]
した)
相対主義的歴史主義が私念するような単 に ≪
事実的に〉相対的で時代 と集Bl
ご
とに専 ら く主観的に)妥当す るに過 ぎない認識で もない。最後の歴史主義 は,
当の私念 において歴史的認識 と歴史的存在の絶対性 を最高に素朴 にしてしまっ
S8,S.
1
5
4
)
0
[1]と [2]は,実質栂/形式的 という対立 にも
ているのだ」(
係わ らず, というよりもその対立 を通 して抽象的普遍 という同一の地平 にある。
そこでは実質的な変 ・神の命令 ・完全性等々であれ形式的な定言命法であれ,
ある単一の概念が超歴史的に普遍妥当であるとされる。 しか し実際にはそのよ
うなものはないので, これの裏返 しとして [3]のような不可知論が生 じるo
シェ-ラーはまさにこれ らに共通の地平を否定 して,客観的 ・個別絶対的相対
主義 (
具体的普遍)の立場か ら実質的価値倫理学 -哲学的人間学 -知識社会学
を試みるのである。
第二 前
価 値 的転倒 の現象 学的分析
本質 はその否定によって明確 に認識 されるoシェ-ラーの実質的価値倫理学
を鏡手か ら攻略 してい くことにしよう.一般 に価値的に劣った行為 をし,価値
的に劣 った存在 となる時,価値的転倒が生 じた時,当人 には二通 りの反応が考
えられる :一つは恥 じ入 る場合, もう一つは開き直 る場合。我々はまず前者の
1.蓋恥心について,次 に後者の
2.ルサンチマンについて論 じる。
1.蓋恥心は人間にのみ固有である : 「
人間の本質に身体が属 しているが故
mus
sen) ようにな りうる :そして
にのみ,人間は恥 をかかなければな らない (
このような 〈身体予 と身体か ら生 じうる十切の ものか ら本質的に独立な もの と
1
0
2
一橋研究 第 1
6巻第 4号
kと
)
n
_
してその人格存在 を体験す るがゆえにのみ,
人間は恥 をか くことがで きる(
me
n)ようになることがあ りうるのである」(
SIO
,S.
6
9
)
。汝 なすべ きがゆえに
な しあた う。 もし神 のような存在者であるな らば,常 に完全であるがゆえに恥
をか くことは不必要である (
ni
c
htdi
l
r
f
e
n)
。 もし獣 のような存在者であるなら
ば,完全た ろうとす る理想 がないが故 に恥 をか くことは不可能 であ る (
ni
c
ht
k6
nne
n)
。人間 は神 と獣の中間であるが故 に糞恥心 を持つのである。それ は人間
r
um?の問いを立 て うるの と同 じことで
が知 と無知 との中間であるが故 に Wa
ある。 もし神の ようなすべてを知 る存在者であるな らば,問いを立 てることは
不必要であるが, また もし獣 のような本能 によって生 きる存在者であるな らば,
問いを立 てることは不可能である。例 えば 「このサイコロは 1か ら 6までの目
がちゃん と付 いているのだ ろうか ?」 とい う問いは,主語 に関 しては既知で述
語 に関 しては無知であることか ら生 じる。否定 によって構成 され否定 によって
対 日化 され る不確定性 の領域が地平である。認識的当為 も道徳的当為 もかかる
地平 に定位 している :
Wi
s
s
e
n_
K6nne
n・
Hor
i
zo
nt→ Ps
e
n ode
i
rni
c
htPs
e
i
n?
TunK6
nne
nHor
i
z
ont → Ts
ol
l
e
node
rni
c
htTs
ol
l
e
n?
認識的当為 も道徳 的当為 も,Wi
s
s
e
nkモ
i
nne
n/Tu
n・
k6
nne
nなる自由-超越 の
地平 において可能である。
プラ トンによれ ば人間が知 と無知 の中間 にあって問いを立 てるのは,一方 に
おいて感性界 に属 しなが らも,他方 においてかつて認識 していたイデア界 を想
起す るか らである。エロスに関 して も異性 どうLが相手 を求 めるのはそれ らが
もともと一体 だったか らとされ る(
1
㌔ しか しシェ-ラーによれば,性愛の本質
は全体性 の回復 ではな くて全体性 か らの個別化である(
SI
O
,S.
7
2)
。 もちろん
プラ トンに とってエロスは善 のイデアへの憧憶であって,男女の肉体的愛 は軽
蔑すべ きものである。だが シェ-ラーは,精神的道徳的蓋恥心 を論 じる前 に,
肉体 的性愛的蓋恥心か ら説 き起 こそうとす る。
個体化が未だ進 んでいない (したがって同 じ個体 に雌雄がある)「
植物 は,一
般的 にその生殖器 をあけす けに素朴 に,その存在の絶頂点のように見せび らか
すが,植物 はこの ことによってあたか も自分の現存在の意味 を生殖 に賭 けてい
るとで も言わんばか りである」(
SIO
,S.
7
3
)
Oこれ に対 して動物 は,生殖器 (
そ
れ は同時 に排経巻 で もあ り,異性 に とって魅惑的であると同時 に喧吐 を催す二
シェーラーの哲学的人間学
1
0
3
義性 を帯 びた ≪中間さであ り,そのため蓋恥 の対象 となる) を解剖学的にみて
従属的な位置 に持 ち,最 も個体化 の進 んだ人間にいたっては,衣服 によって隠
蔽 しようとす る。 シェーラーにれば,寒 さな どか ら身 を守 るために服 を着,そ
の結果裸体であることに蓋 恥心 を感 じるようになったのではな くて-
この説
で は,性器 だけを隠 している自然民族が説明で きない- 蓋恥 を感 じる裸体 の
隠蔽 の結果身体か脆弱 になって,事後的 に護身用 に服が着 られ るようになった
(
SIO
,S.
7
4
f
)との ことである。 ここか らシェ-ラーはいか にも現象学者 らし
く「
客観的墓恥 」(
SIO
,S7
5
)について語 るのであるが,我々が性器の露出に
蓋恥 を感 じるのは, それが,人間には特定の発情期がな く, したがって隠蔽 に
よって人為的に生殖行為の解発期 を特定す る必要があるために生 じた社会規範
に違反 しているか らで はないのか ? 蓋恥 はこの限 りで人 一間のメカニズムに
客観的根拠 を持 っていると言 えるか も知れないが,蓋恥 自体 は (
フッサールの
術語で請 えば)志向的内容で はな くて志向的性質 に過 ぎないので はないのか ?
シェ-ラーは差恥が 「
e
na
i
u
s
s
c
hl
i
e
Bl
i
c
hs
o
z
i
al
e
sGe
f
肋1
」ではな くて等根
源的に 「
Sc
ha
mvo
rs
i
c
hs
e
l
bs
t
」であると主張 し, 自分 の身体 を見つめた り触
った りす ることす ら恥ずか し く思 う少女 を例 に出 してい る(
SI
O
,S.
7
8
)
。 しか
しそれは可能的他者/可能的男性 の目を意識 しな くて もであるのか ? シェラーは,暗い無意識 の衝動 を概念 と判断の明 るみに出す ことを蓋恥が阻止す る
と言 うが, この ことはか えって蓋恥 の社会性 を示 しているのではないか ?「
≪自
分が見 られていることを知 ること Si
c
hge
s
e
he
n
wi
s
s
e
n
≫は,それ 自体 ではまだ蓋
SI
O
,S.
7
9
)
。例 えば画家 のモデル としての/医者の患者
恥 を条件付 けない」(
としての/浴場で召使 にか しづかれ る女主人 としての裸婦 は蓋恥 を感 じないの
ではないか, とい うわけであるO蓋恥 はむ しろ≪
Ru
c
kwe
nd
u
n
ga
ufe
nSe
i
l
bs
t
さ
か ら生 じる。愛 す る男 に夢 中になっている女性 も, はた と 〈
我 に返 ると》差恥
を感 じるようになる。ここで社会的意識が経験的自我 を r
t
l
C
kwe
nd
e
nす る と言
えないだろうか ? 先 ほ どの例 の幸
果婦が蓋恥 を感 じないのは,そ こにおいては
着服 しない ことが社会的に承認 されてい るか らであるO もし浴場で裸婦が男 に
覗かれてい ることに気が付 くな らば,彼女が感 じる感情 は蓋恥で はな くて怒 り
である。 -
さらにシェーラー 自身が次 のような例 を挙 げている :ある部族 の
黒人女性 は性器 を隠蔽 しないで も平気であるが,宣教師が無理や りスカー トを
履かせ ると (
ち ょうど文明人の女性がそれ を脱が された時のように)物陰 に障
-橋研究 第 1
6巻第 4号
1
0
4
れ,恥ずか しがって周囲の視線か ら逃れ ようとした との ことである。 シェ-ラ
ーは不可解 にもこれ を蓋恥感情か ら糞恥 を区別す るために引 き合 いにしている
が, この ことはか えって蓋恥 の社会相対性 を示 しているO"客観的蓋恥〝な どと
い うものはない。- 遺稿 『
蓋恥 と蓋恥感情』 は未完であって,精神的蓋恥 に
ついての論及 は若干 の断片で しか残 っていないが,同 じ我々の批判が当てはま
るであ ろう。
2.次 にルサ ンチマ ン (これは恥ずべ きことに対 して恥 じない "
恥 の上塗 り〟
なのだが) について :孟恥心 とルサ ンチマ ンは,謙虚 と高慢の対局関係 にある。
「
高慢 な者, それは絶 えざる ≪
見下 し≫ によって頂点 に立 っているかの ような
錯覚 に陥 る人である。彼 は自分 の人格 の実際上 の どの堕落 をもさらに一段下の
下 を見 ることによって過剰補償 しようとす る。 そ こで高慢 な者 は,実際 には堕
落 しているに もかかわ らず, 自分が上昇 しているように見 えるにちがいない」
(
S3,S.2
0
)
。 これ に対 して謙虚 な人 は,理想が高いが ゆえに上 を仰 ぎ見 る。
ニーチェはキ リス ト教 の謙虚の徳 をルサ ンチマ ンの産物である奴隷 の徳 と考 え
た(
1
4
)
が, シェーラーによれ ばそれ はむ しろ 「
生 まれなが らの主人 の徳」(
S3,
S.25) である。徳 とは現状 を否定 しようとす る努力の持つ犠牲 の価値で ある。
したが ってすでに下 にいる奴隷 に とっては上 に上昇 しようとす る自尊心が徳で
あ り,すでに上 にいる主人 に とっては下へ と遜 ろうとす る謙虚が徳 となる。 こ
の観点か らすれ ば当然 シェ-ラー はカン トのあのキ リス ト教的倫理学 をも擬音
してよさそ うなのだが, しか しシェ-ラーによればカン トの倫理学 は (
1
)
結果
の度外視
(
2)
平等主義 とい う点でJ
t
,
サ ンチマンの産物, との ことである。心情
倫理 は実 は実行力のない無能のルサ ンチマ ンであるというわ けである (S2,
S.
1
3
5
)
。 このようなシェ- ラーのカン ト批判 は,カ ン トに対す る無理解 に基づ
いているとい う以前 に,概念的な混乱 に一因があるので,我々 はまずルサ ンチ
マ ンとは何であるのか, その本質規定か ら手掛 けなければな らない。
「
ルサ ンチマ ン形成 に とって最 も重要な出発点 は,復讐衝動である」(
S3,
S.
3
8
)
。 まず敵か ら何 らかの攻撃 を受 けて 「
恨 み Gr
ol
l
」を持つ。 しか したんに
ある攻撃 に対 してす ぐ反撃す るな らそれは復讐で はない し,恨 みが残 らないか
らルサ ンチマ ンも生 じないので,一定期間反撃の衝動 を抑制 しなければな らな
い, とい うことが まず第-の要件である (S 3,S.39)。「
復讐心 に燃 えて感情
に狩 り立 て られて復讐す る者,憎悪 に満 ちてはいるが,敵対者 に損害 を与 える
シェ-ラーの哲学的人間学
1
05
か,彼 に少 な くとも "
苦情〝 を言 うか,あるいはせめて他人の ところで彼 を罵
S3,S 41
)。 ある人か ら恩 を受 けた
るものは - ルサ ンチマ ンに陥 らない」 (
時,打 って返す ように返報すればいかにも恩着せが まし く見 えて失礼 にあた る
ので, む しろ一定期間置 いてお もむろに答礼す るほうが効果的であるように,
復讐 もしば らくしてか らそれ とな くや ったほうが効果的であるが, その復讐が
で きない場合が ある。復讐で きるに も係わ らず復讐 しない場合 は,相手 に寛容
を示 した ことになるのでルサ ンチマ ンは生 じない (
特権 を行使 しない ことはそ
れ 自体特権 である)。復讐で きない場合,特 に無能であると侮辱 されて復讐で き
ないな ら,無能であることの恨 みはさらに深 まる。例 えばある職場 の若手の有
0
歳だ とい うのにまだ
能 な課長が, 自分 の部下 について同僚 に 「あいつは もう4
係長 だ」 と言 ったのがその部下の耳 に入 った としよう。 その部下 は復讐す るこ
とはで きない。なぜ な ら出世す るためには, その課長の機嫌 を害 してはな らな
o
i
lno
c
hi
mme
r≪
g
ut
eMi
e
n
ez
umbG
s
e
nSpi
e
l
)ma
c
h
e
n.
いか らである。Ers
しか し思 えばこの ように復讐 で きない無能 さが復讐 した くなる原因であったわ
けで ある。二重 に自分の無能 を思い知 らされた係長 は,「出世 だけが人生 じゃね
え」 と赤ち ょうちんでぼや くしか ないだろう。彼 は無能か ら有能 になることに
よってで はな くて, 自分 を無能た らしめている価値基準 その ものの転倒 によっ
て 自己 を防御 しようとす る。 これがルサ ンチマ ンである。 それ は無能 に基づ く
i
d
」であ り,おのれ を高 めようとはしない 「
他人 の不幸 を喜
がゆえに 「
嫉妬 Ne
c
ha
de
nf
r
e
u
de
」である。今の係長 の場合,恨 み と嫉妬 の対象 は課長
ぶ気持 ち S
あるいはせいぜい自分 の上司 と限定 されているが,無能や欠陥が甚だ しい場合,
当の対象 は無限定的 になる。不具者 は周囲のなにげない振舞 (
視線 を向 けるこ
と ・こそ こそ話 をす ること ・笑い等々) にひ どく心 を痛 めるOだがその一つ一
つ にいちいち復讐す ることはで きない。恨 みの対象 は世界全体 にまで広が り,
そ してその相関者である自己 にまで及ぶ。
慢性化 し欝横 したルサ ンチマ ンは「
陰
mi
s
c
hke
i
t
」となる。Gr
o
l
l- Ne
i
d-Sc
ha
de
n
f
r
e
ud
e- H宜
mi
s
c
hkei
tこ
険 Ha
れが深 ま りい くルサ ンチマ ンの症状である。
ルサ ンチマ ンの人 は,確か にシェ-ラー も言 う通 り,嫉妬 の対象 となる人 に
対 して復讐で きない。だがルサ ンチマ ンによる価値転倒 は, その相手の価値 を
定 める という点で一輝 の復讐 にな りうることは明 らかである。 ルサ ンチマ ンが
自己防衛 の機制である とす るな らば, その本質 はエゴイズムであると言 える。
-梼研究 第 1
6巻第 4号
1
0
8
踏なキ リス ト教的ルサンチマ ン論 は,"
神々の闘争〟を直視 して, 自らの規範/
価値の基礎付 けへ とおのれの課題 を変質させる。
第三 節
実 質 的価 値 倫 理 学 の人 間 学 的 帰結
シェ-ラーはキ リス ト教的に精神的価値 と肉体的価値 とを分 けたうえで,節
者が後者 に下降 したことに気が付 くことを蓋恥, この下降を下降 と認めない転
倒の転倒 をルサンチマンとするわけだが, これに対 して前節で我々は,蓋恥 を
ある価値パ ラダイム内部での違反の意識, ルサンチマンを対立する価値パラダ
イムの相互誹譲 として捉え返 した。我々の目指す ところはシェ-ラーのかかる
直観主義的な価値の ヒエラル ヒ-を目的論的に捉 え返す ことである. シェ-ラ
ーの哲学 においては,価値倫理学 ・哲学的人間学 ・知識社会学 は三位一体 を成
してお り,価値の ヒエラル ヒ-が同時 に人間構造のヒエラル t
:-であ り, また
社会類型のヒエラル ヒ-で もあるという対応が見 られる :
価値
能力
共同体
人格価値 (
聖/那)・--・
・
・
-・
精神・
・
・
・
・
--・
人格共同体 (
教会等)
精神価値 (
真善美/偽悪醜)・
-知能-・・
・
・
-文化共同体 (
大学等)
Ge
me
i
ns
c
haf
t
)
生命価値 (
健康/病気)-・
・
-・
本 能 ・習慣-共同社会 (
快楽価値 (
快/不快)-
・
-・
感 情衝迫・
--利益社会 (
Ge
s
e
l
l
s
c
haf
t
)
以下 このヒエラル ヒ-を逐一検討 してい く。
1
)
まず 「
感情衝迫 Ge
f
i
i
hl
s
dr
a
ng」という心的なものの最下位の段階か ら始め
(
。
o
bj
e
kt
l
osな
よう。感情衝迫 は最下位 の生物である植物 にすで に見 られ る 「
Lus
tと Le
i
de
nが,それ [
植物]の唯一 の二 つ の状 態性 で あ る」(
S 9,S.
1
3
)
。植物 には感覚,即 ち一つの中枢への器官/運動状態の遮帰的通報 (
Rt
l
C
k-
me
l
dung)とこの通報 による運動の変容可能性が欠けている。「それゆえに生命
が本質的に く
権力への意志》ではな く,生殖 と死への衝迫がすべての生物の庶
S9,S.
1
4)
。Ma
c
ht
s
ys
t
e
m
衝迫であることを,植物が最 も明確 に示 している」(
がない ところには Sy
s
t
e
mvomEmpf
i
ndunge
nも欠けている。この意味で植物
ks
t
at
i
s
c
h」(
S9,S.
1
5
)である。だが感覚 を持たない
の感情衝迫 は 「
忘我的 e
忘我的な植物 になぜ快 と苦 という二つの状態性があるのか ? シェ-ラーは感
1
0
6
-橋研究 第 1
6巻第 4号
価値 Wl
とW2の うち,自分が Wl
ではな くW2を所有 しているとい う理 由で,あ
るいは Wl
<W2
の方が 自分 に とって都合が よいか ら,W2を v
o
r
z
i
e
he
nL,Wl
をn
a
c
h
s
e
t
z
e
nす ることがルサ ンチ マ ンであると定義 で きる。 これはシェーラ
ーの主張 しない ところである。 シェ「ラーは 「あるものを, それが実現 され る
ためによ り多 くの力 ・骨折 り ・労働等 を要求す るか らと言 って,価値 あるもの
とみなす ことはルサ ンチマ ンに基 づ くまった く典型 的な価値錯誤 であ る」(
S
2,S.
2
3
5
)と言 う。 シ1-ラーによれば,イ ソップ物語の狐が,葡萄が採れな
いか ら葡萄がすっぱい と価値 を定 めてあきらめた ことを典型的なルサ ンチマ ン
である。 しか し今の引用文 に従 うな ら, その葡萄 を獲得す ることは,狐 の能力
より 「
多 くの力 ・骨折 り ・労働等 を要求す る」が故 に 「その葡萄 はうまい/価
値がある」 と言 うことがルサ ンチマ ンであることになる。-
これは明 らかに
おか しい。それゆえ引用文 の 「よ り多 くの力 ・骨折 り・労働等」 の前に 「
私 の」
とい う限定 を付 けなければな らない。 シェ-ラーは 『
形式主義』の脚注で 「
経
済学的な費用 [
犠牲価値]理論がルサ ンチマ ンにその起源 を持 っているか どう
か はここで は保留 してお く」 と記 しているが, それはルサ ンチマ ンと何の関係
もない (し,実際 この論点 は後 に論 じられ ることはなかった)。ルサンチマ ンの
本質 はエゴイズムにある(
1
5
)
のであって,低 い価値 を高い価値 と取 り違 えること
ではないか らであるo シェ- ラーはさらに 「
徳 は, あるものを犠牲 にしなけれ
ばな らないか ら, そ してその犠牲 にしなけれ ばな らない分だけ価値があるので
あって,徳が何かを もた らすか らではない」(
K5,S,
2
7
8
)とい う一文 を引用
して, カン トの倫理学がルサ ンチマンであると批判 するが, これが誤解である
ことを もう詳論するまで もない。
以上 の我々のルサ ンチマ ン理解 の観点か ら, シェ-ラーのキ )ス ト教擁書 を
検討 しよう。「
全 く特徴的な ことにキ リス ト教 の言語 は≪
Li
e
bez
u
rMe
n
s
c
h
he
i
t
さ
とい うものを知 らない。 その根本概念 は 《
N五
c
h
s
t
e
nl
i
e
be
)である」(
S3,S.
9
7
)
。 この点 キ リス ト教の ≪隣人愛≫ は,「
人間性」 とい う量的 ・無差別的な集
合体 をルサ ンチマ ンに基づいて尊重す るA ・コン トや J・ベ ンサムなどの近代
実証主義者が説 く≪愛》とは異 なる。「
近代の平等性理論一般 は,・
・
・明 らか にル
サ ンチマ ンの成せ るわ ざである。- 純粋 に合理的な理念 としての "
平等性〝の
理念 は,決 して意志 ・意欲 ・情緒 を活性化 しえないO よ り高次の価値 を喜んで
見 ることので きないルサ ンチマ ンは, しか しなが ら "
平等性〝 の要求 にその本
シェ-ラーの哲学的人間学
1
0
7
性 を隠 しているのだ !」(
S3,S.
1
2
1
)
。確か に所謂悪平等 はルサ ンチマ ンの産
物である。だが競争 の条件 の平等 ・機会均等 は悪平等ではない。高 い地位/身
分 にいる無能が,有能 だが低 い地位/身分 にいる者 と対等 に "
平等 に〟競争す
ることを拒 み,ルサ ンチマ ンによって実力 よ りも地位/身分 の高低 にこだわ る
ことだってあるので はないか。平等な溌争 に勝 ち抜いて主人の地位/身分 を守
ることが主人 -強者 の道徳 とい うものである。 しか るにキ リス ト教 は主人 に遜
ることしか命 じない。シェ-ラーに言わせれば,キ リス ト教が否定的な もの (
弱
者 ・病気 ・貧困) に同情 を寄せ ること (
愛 ・犠牲 ・救済) は,否定的な ものの
中に肯定的な ものを兄いだす ことであって,肯定的な ものの中に否定的 なもの
を兄いだすルサ ンチマ ンとは異なる(
S3,S.
7
8
)
。だが この肯定的/否定的は
いかなる価値基準 に基づいているのか ? もしキ リス ト教的な価値観 を初 めか
ら肯定す るな らば,キ リス ト教がルサ ンチマ ンの産物で はな くて, その反対が
価値 的に転倒 したエゴイズムであるとい うのは当然 の ことであろう。 しか しい
まや その前提 を疑わなけれ ばな らない。
先 ほ どの係長 の例 に戻 ろう。 この係長 は出世が後れている無能で, したが っ
て これ を正 当化す る価値観 はルサ ンチマ ンの産物 と見 なされた。 だが もしかす
るとこの係長 は性格 は善 い人 なのか もしれない。 そして逆 に若手 の課長 は,仕
事 は有能 にや るが,人間的な魅力 に欠 けた心 の冷たい人 なのか もしれない。す
るとあの課長の悪 口は係長の人気 を妬 んでなされた 自己防衛であったのか もし
れない。 こうなるとどち らがルサ ンチマ ンなのか判 らな くなって くるであろう。
有能/無能 と人間性 の豊か さ/貧 しさの どち らが真正で, どち らが転倒 した価
値観であると誰がいかなる権利で もって認識す るのか ? 価値 の本質直観の明
証性 によって ? 直観 の明証性 を引 き合 いに出す ことは, しか し正当化の断念
の宣言 に他 な らない。我々 はルサ ンチマ ンを,価値 W lとW 2
の うち,自分が W l
ではな くW2を所有 しているとい う理 由で, あるいは W l<W2
の方が 自分 に と
って都合が よいか ら W2
をv
o
r
z
i
e
he
nL,W.
をn
ac
hs
e
t
z
e
nす ることと定義 し
たが,その際た また ま 「自分」が W .
で はな くW 2
を所有 していた とい うよ り
ち,む しろ Wl
<W2
の価値観 に基づいて意図的にそれ を所有 した ということの
方が よ くある場合である。 その場合 「自分」 はそれがルサ ンチマ ンであること
を認 めないで あろう。 「自分」はまさに十全的な ≠
本質直観〝によってそれを観
取 した と主張す るに違 いない。か くして 自分 の価値観 を前提 にして他 を裁 く高
シェーラーの哲学的人間学
1
1
1
まり連合諸法則 はほぼ老衰的精神薄弱 に対 して妥 当す る)
。これ と平行 して,感
覚 は老年期 において "
純粋〝感覚 の刺激比例的な性格 に近付 く。身体的有検体
が生 の流れ とともに相対的な機械組織 をます ます産出 していき,死 にお よんで
全面的 にその ような ものへ と沈下す るの と全 く同様 に,我々の心的生 も諸表象
と諸行動様式 の純粋 に習慣適合的な結合 をます ます産 出す る。つ まり人間 は老
年期 に至 って,いっそう習慣 の奴隷 となる」(
S9,S 2
4
)
a
この 1
e
be
ns
p
hi
l
o
s
o
p
hi
s
c
hなホー リズム は, シェ-ラーの哲学 に とって基本
的な ものである。本能的行為 にせ よ,習慣的行為 にせ よ,あるいは知能的行為
にせ よ,行為 とは 「
行 いにおいてこの [目標である]事態 を実現す ることの体
塗 ,すなわち全てのそ こに屑す る客観的な因果的経過 な らびに行為 の結果か ら
全 く独立 した一つの現象的統一体 としてあるこの特殊 な体験統一体である」(S
2,S.
1
4
2
)
。例 えば帽子 をかぶ ろうとす る時,私 はかぶ ることを意欲するので
あって,かぶ る運動 を意欲 してl
/
)るわ けで はない(
1
7
)
。行為 においては,物理的
な経過である身体 の運動や, それ に付帯 している感情や さらにそれに付帯 して
いる快楽が EI
指 されているわけではない し, またそのような ものの機械的な合
成か ら行為が成 り立 っているわ けで はない。「それゆえ行為意欲 の源泉 は第一次
的には感情状態で はな く(
ち ょうど感情状態が意欲 の目標で はない ように),莱
践 的客体 や純粋意欲 に対 す る ≪
事 象) の体験 され た抵抗 で あ る」(
S2,S.
。そして この抵抗 の克服が衝動活動 の目標 となる。「
感性的感情状態の経過
1
5
1
)
は,既 に衝動活動 に依存 している」(
S2,S.1
7
0
)派生的な ものに過 ぎない。
感性的感情,なかんず く快楽 は行為 の結果であって決 して動横ではない.「ひ と
は ≪差 し当 り≫財 を目指 しているのであって,財 にお ける快 を目指 しているの
ではない」(
S2,S.
2
5
1
)
。快 を目標 とす る時 には e
i
nekt
i
ns
t
l
i
c
heEi
n
s
t
e
l
l
u
n
g
が必要である。「
純粋 に快 に向けられた生の態度 は,個人 の生 について も民族 の
生 について もまざれ もない老年期現象 を表 してい るのであって,それ は "しず
くをなめる〝年老いた酒飲 みやエ ロチ ックな領域での これ に類 した現象が実例
を示 している ところである.I
-それゆえ く
快楽原理)は,感覚主義の同族た る
快楽主義者が考 えるように根源的 なものではな く,連合的知性が進 んだあげ く
の成 りの果てである」(
S9,S.
2
7
)。バ ラバ ラなセ ンスデーター,バ ラバ ラな
快楽, そしてそれ を結合 してカオスに形式 を与 える矛盾律 の能力 としての論哩
的悟性-
これ はシェ-ラー をはじめ総 じて現象学者が退 ける構図であった。
シェ-ラーの哲学的人間学
1
0
9
倍 を 「1.感性的感情 またはカール ・シュ トウンプフが謂 う所の ≪
感覚感情〉,
2. (
状態 としての)身体感情 と (
機能 としての)生命感情 ,3.純粋 に心的な
人格性感情 )
」(
S2,S.3
3
4
)の四つに分
感情 (自我感情), 4.精神的感情 (
i
bi
d) と言 う。
け, これ らが 「
我々の全人間的な実存の構造 に対応 している」 (
段階の順番か らして
1.の 唾 竪
塞感情さ は感情衝迫 とoうことになるが, こ
れは矛盾である。そこで我々 としては 「
対象のない o
b
5
e
kt
l
o
s
」という限定 を重
f
hd
uc
hke
i
t
J
(
1
6
)
に引 き付 けて
視 して,感情衝迫 をハイデガーの謂 う「
情状性 Be
理解することにしよう。情状性 はあれが快い とか これが不快であるとかいうよ
h
t
i
s
c
hな意識で はな くて,現存在の被投性 を o
n
t
ol
o
is
g
c
hに開示す る根
うな o
本機構である (もちろん人間以外の存在者 は情状性 を存在論的に対 白化するこ
とはないのだが)。 シェ-ラーにおいて も以下 に確認するように, ばらばらな
快/不快 は人間存在や生命一般 にとって決 して根本 を成すエレメン トではない
のである。
ns
t
i
n
kt
」で あ る。本 能 的行 為 は(
》
(
a
)
心 的 な もの の第 二 段 階 は 「
本能 I
s
i
r
mmaBi
gつ まり自他の生 に対 して t
e
l
e
o
kl
i
nで,②固定的で恒常的 な .
)ズム
に従 って,③類型的に繰 り返 される状況 に反応 し,個体 にではな くて種の生に
S9,S.1
8
f
) ことを
とって有意義であ り,④試行の回数 とは無関係である (
Me
r
kma
lとす る。① に対 して, シェーラーは 「人間の所謂 ≪衝動的)行為 は,
全体的に見て (
例 えば麻薬常用癖のように) まった く無意味でありうるという
点で,本能行為の正反対である」(S9,S.20)と言 うが, もし走性なども本能
の内に入 るならば,本能行為 もまた 「
飛んで火に入 る夏の虫」な どに見 られる
ように,生にとって反日的的-無意味な行為 に成 りうるのではないのか ? と
疑問を持つ向きもあろう。確かにシェ-ラーが主張するほどに衝動行為 と本能
行為 は区別 されえなOのだか,③ にある通 り本能は,全体的統計的に種全体 に
e
l
e
o
kl
n
i であればそれで有意味 ということになるのである。
とって t
シェ-ラーは一方で 「
本能行動 は,前一知識 と行為 との不可分の統一 を表 し
ている。・
.
・
それゆえ本能 においては・
-く
生得的表象》 を語 ることは無意味であ
旦」(S9,S21f) と言いなが ら,他方
「
動物が表象 し,感覚することができ
るものは生得的本能 と環境構造 との関係 によってアプ リオ リに支配 され規定さ
S9,S.1
9) とも言っている。 これは矛盾 しているように見 える
れている」(
が,シェ-ラーは要す るに,本能以上の能力を持たない動物 も表象を持つが,
1
1
0
一橋研究 第 16巻第 4号
表象 を表象 として対 白化することができない, と言お うとしていたのであろう。
表象は否定 によって媒介 されなければ成立 しない.植物 は忘我的であるがゆえ
に,その生の運動が外界 によって抵抗 を受 けても,その情報 (
感覚)を還帰的
通報 によって表象 として自分の前に立てる
(
a
l
sVo
r
s
t
e
l
l
u
n
gvo
r
s
t
e
l
l
e
n
)こと
アールな否定の意識なの
ができない。逆に言えば感覚表象 とは,抵抗 というレ
である : 「
実在的存在 とは,対象存在すなわち全ての知的作用 において同一な
相在の相関者ではな く,むしろいかなる種類の意欲 ・注意 において も同一であ
S8,S363)
。本能 は求心系神経路
る根源的自発性 に対する抵抗存在である」(
か ら来 る特定の感覚表象に対 して特定の指令情報 を遠心系神経路に送 り込む。
その際刺激 に対する反応 は本能によって先天的一義的に決 まってお り, したが
ってⅤをするべきか Vをするべ きでないかが当の個体 によって問われないOつ
まり表象Ⅴは,∼Ⅴというイデア-ルな否定によって媒介 されていないので,
選択の自由-超越の余地が全 くないのである。「
動物 は聞いた り見た りする。し
かし聞いた り見た りしていることを知 ってはいない。動物の魂 は機能 し,生 き
ている。だが動物 は心理学者や生理学者 で はあ りえないのだ !」 (S 9,S
34f
)。超越 には個体の超越が必要なのである。
(
3) 第三段階の心的形式 は習慣,すなわち 「
連合 ・再生 ・条件反射の事実の
総体」(S9,S.22)であ り,第四段階のそれは知能である。注意 しなければな
らないのは, この習慣や知能 は感情衝迫な習慣 という全体的生の分解の産物で
2)
の② に謂
あって, より下位の単純な能力の複合ではないということである。(
)ズム」 とは生命の非機械的本性の ことで, シェう所の 「固定的で匝常的な 1
ラーに言わせれば,本能 は (
無条件)反射の単なる組合わせではないし,学習
(
習慣)は条件反射の単なる組合わせではない。「それゆえ心的発展の根本的経
S9,
過は,創造的分解であって適合や (
ブン トが謂 う)≪
総合)ではない」(
。
S.
2
1
)「
概ね純粋な連合 はおそらく思考の上位の決定因子が欠落 した全 く特定
の現象,例 えば観念奔逸
(
I
d
e
e
n
f
l
u
c
h
t
)の状態の場合 における語の外的音響連
合 においてのみ見出されよう。 こうした結合の仕方は発生的に基本的なもので
は全 くないのであって,心的な表象経過 はむしろ老年期 に至って初めて (
衝動
生の勢力の減退 と分化の低下の結果 として)連合型への接近の度 を強めると言
えるほどである。高年齢 に見 られる書法や描写や画法や語法の変化 はこれを証
拠立ててお り,それ ら全てはます ます累加的 ・非統合的性格 を帯びて くる (
つ
1
1
2
-橋研究 第 1
6巻第 4号
「ヒュ-ムの 自然 は,存在 するためにカン トの悟性 を必要 とした し,ホ ップス
の人間 は,前者 と同様 に自然 な経験 に戻 るつ もりな ら,カ ン トの実践理性 を必
要 とした」(
S2,S.
8
5
)
。現象学者 は現象の中にイデア-ルな秩序 を兄いだそ
うとするO シェーラー に言わせれ ば,カン トの 「自律 Au
t
o
no
mi
e
」は理性 によ
る 「
理律 Lo
go
t
o
ml
e
」 とい う点で,He
t
e
r
o
n
o
mi
ed
e
rPe
r
s
o
nである (
S2,
S.
3
8
2
)
。 ここか ら明 らかな ように,シェ-ラーは人格 と論理的主語 を区別 して
(
S2,S.
3
8
2
)「
人格 の存在 をその行 いか ら理解 しよう (
・
・
.
) とす る,所帯一
種の ≪
行為主義的》な人格 の理解」(
S2/S.
3
8
3
)を,つ まりカン ト的な人格
の理解 を拒否す る。 そ こで シェ- ラーの人格 は, フッサール調 う所の潜在的な
生 の地平 を も含 むコギ トに相 当す ると考 えられ る。
人格の行為 は統一的な体験 である。物理的な身体行動 ・感情状態 ・抽象的な
快・
表象 としての目的 は事後的な反省 によって派生す る契機 に過 ぎない。「
努力
す る意識 か ら表象す る意識への ≪
後退》の現象 において,努力 において与 えら
れ る目標 内容 を表 象 す る統 握 において初 めて 日的意識 が生 じる」(
S2,S.
6
0
)
。努力す る人格 は作用の中で生 きていてそれを反省 しない。彼 に とって行為
とは,まさに Ha
nd
e
l
nであって Ha
n
d
l
u
n
gで はない。緊張 して危険な仕事 をし
ている時 には,怪我 をして もそれに気が付かない ものだが,「
企画 とその実現過
程 に完全 に埋没 していることが大胆 な行動家 に特有 な態度で ある」(
S2,S.
7
9
)
0「"
偉人〝論の著者 は決 して偉人 ではな く,常 に もっぱらその傍観者であっ
た」(
S2,S8
1
)
。偉人 は過去ない し他人 の Kt
)
nn
e
n(
正確 には d
a
sGe
ko
n
nt
e
)
に対 す る意識 を菩ぶので はな くて, 自分 の今 の Kt
)
n
n
e
nの意識 を喜ぶ のであ
るo それ は e
i
n
eLus
ta
m Tund
e
s
s
e
n,wa
sw
irkO
n
ne
nではな くて e
i
neLus
t
1
8
)
。 しか しシェーラーは生 に内在す るだけの
a
m K6
nn
e
ndi
e
s
e
sTun
sであ る(
人 ではなか った。
(
4) 知能 は賢 いチンパ ンジーにすでに見 られるので,宇宙 にお ける人間の特
殊地位 を示す もので はないo ところが人間 は,知能 をも含 めた これ までの全 て
の心的能力 を超越 することがで きる。 ここに至 って人間 と動物 との相違 を単 な
る程度上 の もの以上 にす る新 たな原理が登場す る。 ギ リシャ人 はかつて これ を
「理性」 と名付 けたが, i
/エーラーはさらに包括的な (
つ ま り単 に思惟 だけで
な く,直観 ・意志 ・情緒 を も含 む)「
精神」 をその名称 に選ぶ。「それゆえ ≪
精
神的≫存在者 は, もはや衝動 と環境世界 に拘束 されず,≪
環境世界》か ら自由で
シェ-ラーの哲学的人間学
1
1
3
あ り, ・
・
・≪
世界開放 的≫である。 そのような存在者 は ≪
世界》 を持 ち, さらに
彼 に も根源的 に与 え られた,彼 の環境- 動物 はそれをただ持 っているだけで,
そ こに忘我的 に投入 してい る-
の ≪
抵抗さ と反応の中心 を ≪
対象さ にまで高
めることがで き,この対象の So
s
e
i
nを原理的に自分で統握す ることがで きるの
である」 (S9,S.3
2
)
。精神 とは 「
理念化 の作用 Ak
tde
rl
d
e
i
e
r
u
n
g」(
S9,
S.
4
0
)であ り, この理念化 としての 「
昇華 Su
bl
i
mi
e
mn
g」こそが, フッサール
が謂 う現象学的超越論的還元 に他な らない (
S9,S 4
2
)
0
これ までシェ-ラーは生哲学的な観点か ら,人間の習慣的行為や知能的行為
を有機的統一性 を持 った動物の本能的行為の老衰的末期的な堕落形態 として,
そしてその限界概念 を "
観念奔逸〟 として見な して きた。 ところが精神 とい う
新たな原理 に定位す るや否や,動物 と人間の地位 の間に逆転が生 じて来 る。「
突
然 ここに, それか らあそ こへ と飛 び移 る猿 は,言わば純粋 に剃郡的な忘我状態
nl
i
a
ut
e
rp
un
kt
ue
l
l
e
nEks
t
a
s
e
nにある. (
人間で言えば病的な観念奔逸)」(
S
9,S 3
5
)
。「動物 は自分の環境 に忘我的 に埋没 して生 きてお り,ち ょうどかた
つむ りが 自分 の家 を持 ち運ぶ ように, どこへ行 こうともその環境 を構造 として
持 ち運ぶ。≪
環境世界》をこの ように固有 の仕方で遠 ざけ,距離 を とり(
1
9
)
,≪
世
界》 ない し世界の象徴 にす ること,人間には可維 なこの ことを動物 はす ること
がで きないのである」(
S9,S.
3
4
)
。人間は 「
Ⅹは私 の右側 にある」 とい う客
観的な言明 を語 ることがで きる。 もし 「Ⅹは右側 にある」 と言 った ら, それ は
主観的な言明である。なぜ な らある他人 に とってはⅩは左側 にある, とい うこ
とが あ りうるか らである。 しかるに人間 は方向の特殊性 を対象化 された自己存
在 の特殊性 に置換す ることがで きるのである。「- 自分の環境 と自分の全心的物
理的存在 と両者の因果関係 を対象化す ることがで きることか ら,人間の一連 の
堕墾 堕が理解で きる」(
S9,S.
3
6
)
C してみると人間の宇宙 における特殊地位
は,人間が宇宙 におuて特殊地位 を持 たない ことを認識 している点 にあるとい
うことになる。 これ はパ ラ ドックスで はないのか ? 「
人間が科学で,宇宙 にお
ける自分 の偶然的位置 [
特殊地位], 自分 自身 と自分の全物的心的装置 を, さな
が ら他の事物 と厳密 な因果関係 にある他 の事物であるかのようにつねに包括的
に考慮 に入れ る ことを学 び,か くして次第 に世界 の像 [
ハ イデガー を想起せ
よ !] 自身 を獲得す る術 を心得 るようになることは人間の科学の偉大 な ところ
である」(
S9,S.
3
8
)
。 しか しその偉大 な科学が教 えるところによれば,人間
1
1
4
-席研究 第 1
6巻第 4号
は少 しも偉大で はない。他 の動物 とは違 って理性的 と自負す る近代人がその能
力 を最大限発見 した結果得た科学の結論 は,人間 は他 の動物 と同様 DNA戦略
の一環た るタンパ ク質 に過 ぎない とい うことであった0人間 は有能 になること
によって無能 となったのであるOこのパ ラ ドックスは, フッサール謂 う所 の 「
人間的主観性 のパ ラ ドックス :
世界 に対す る主観存在 である と同時 に世界 の中での客観存在 であること」(
H
6,S.1
8
2)
か ら来 ている■
。すなわち経験的人間は特殊地位 を持たないが,持た
ない と認識す る超越論的な精神 はその超越 のゆえに特殊地位 を持つのである。
もちろん人間の超越 は時間的に相対的であるが,かか る時間的相対性 -変化 を
認識 しうることは,超越論的な精神が時間 としての超越 であることを示 してい
る。 シェ-ラーは一方で 「
全ての非現象学的な経験,例 えばレアールな事物の
」 (S2,S.70) と
自然 な知覚 は原理的 にその直観的な内容 を ≪
超越 してい る〉
Tr
ans
z
e
ndi
e
r
e
n》 は,我々の言葉 で言 えば超越 的超越 である。
言 うが, この ≪
これに対 して 「
人間 は自分 白身 と自分の生 と全ての生 を超越 する事物 であ る。
人間の本質的な核 は ・
-まさにかの運動,自己を超越 す るとい うかの精神的作用
なのである」 (
S2,S.
2
9
3
) と言 う時の ≪
Tr
a
ns
z
e
ndi
e
r
e
n≫は,我々の言葉で
言 えば超越論的超越 である。感情衝迫 を時間 としての超越,本能/習慣/知能
を時間的多様 にお ける超越 とす るな らば,本節で これ までフォロー して来たシ
ェ-ラーの哲学的人間学 -超越論的倫理学 に ≪
①時間か らの超越 を ②時間 と
しての超越 が ③ 時間的多様 において超越 しつつ ④ 時間的多様 か ら超越 す
る》 なる "
超越論 的哲学 の公式〟 があてはまることは容易 に見 て取れ よう(
2
0
)
。
しか し哲学的人間学 にお ける宿題論的超越 は,人 一間の自己反省 の学でなけれ
ばな らない し,蓋恥やルサ ンチマ ンといった価値 の問題 において もそうである。
独我論的直観主義 に留 まる自称超越論的哲学的人間学 は,それ 自体哲学的人 一
間学 によって超越 されなけれ ばな らないのである。
姓
(1) Hus
s
e
r
l
i
a
n
a,Ni
J
ho
f
f
,Bd4
.S.1
0
,
.
(2) Hu
s
s
e
r
l
i
a
na,Bd.2
8
.S.4
(3) フッサールは,感性的感情は (
感覚や欲求 と同様)志向的体験ではな
a
r
s
t
e
l
l
e
nd
el
n
hal
t
eであるとしながらち,ブレンタ-ノに
く,たんなる d
倣って Ge
f
al
l
e
n
/Mi
J
3
f
a
l
l
e
nには志向性を認めているが,だからといっ
シェ-ラーの哲学的人間学
1
1
5
て理論 と実践 を対等-パ ラレルにしているわけではない : 「ここでは二
つの志向性が重な り合っているD基づける志向性 は表象対象を,基づけ
られた志向性 は感情対象を与 える ;前者は後者か ら切 り離 されるが,級
者 は前者か ら切 り離されない」(
Hus
s
e
r
l
i
a
na
,Bd 1
9
,S 4
0
3
)
。つまり
「
気 に入っている」 は 「
確信 している」や 「
慮っている」などと同じ志
向的性質 に過 ぎないのである。
(4) Hu
s
s
e
r
l
i
a
na,Bd.2
8
.S.5
9
d,SS.9
0
・
1
0
1
.
(5) i
bi
(6) プレンタ-ノは,
t
L
, 2.B6
s
e
.
+Bと
i
s
e
2
<B〔
I
s
e
.
1.Gut
l
十Gut
2
>Gu
などの加算法則 を挙 げる (
F.Br
e
nt
a
no
;Vo
m Ur
s
pr
u
ng s
i
t
t
l
i
c
h
e
r
Er
ke
n
ne
t
n
i
s
,2
.
Au
f
l
a
ge
,
hr
s
gYo
n0 Kr
a
us
,
Le
i
pz
i
g1
9
2
1
,
S.
2
4
)
。フ
ッサール もこれを承認 している (
Hu
s
s
e
r
l
i
a
na
,
Bd.2
8
,SS.9
0
・
9
4
)
。シェ
-ラーは, このような公理 は 「
算術的命題の価値事物への,いやそれ ど
ころかたんに記号それ自身への適用に過 ぎない」(
Ma
xSc
he
l
e
rGe
s
a
mme
l
t
eWe
r
ke
,
Fr
a
nc
keVe
r
l
a
gBe
r
nun
dMt
l
n
c
he
n,
Bd2
,
S.
1
0
4
) とし
て,量的な価値の大小 と質的な価値の高低 を区別することを主張するO
だがプt
/ンタ-ノの公理は価値の正負 (
これは大小や高低か らも区別 さ
れる)に関 してさえその妥当性が怪 しい。なぜなら例 えば, 1
.「他人の
成功」 と 「自尊心」は正の価値を持つが,両者が結合することによって
「
他人の成功 に対する嫉妬心」 という負の価値 を持 った全体が形成 され
る。 もっともそのような自らを高めようとしない括弧付 きの "自尊心I
'
は,はじめか ら正の価値 を持たない とも考 えられるであろう。だがそれ
なら,Gu
t
+B6
s
e>B6
s
eという別の公理 (
Br
e
n
t
a
no
,
i
bl
d
;
Hus
s
e
r
l
i
a
na
,
Bd2
8
,
S,
9
3
)に達反する。 2.「
額人」は負の価値 を持つが,それが二
つ合わさると 「
殺人の処刑」 という正の価値 を持つようになる。- こ
のように全体 は部分のたんなる算術的総和ではない, ということは倫理
学 に固有のことではない。例 えば,無色の Ag+イオン水 に同じく無色の
Ⅰ
一イオ ン水 を加 えるとさらに無色 になるのではな くて黄色の AgIが生
じる等々。プレンタ-ノやシェ-ラーは,全体価値が部分価値の総和以
上 (
ないし以下)であるというテーゼに対 して直観主義を唱 えるであろ
うが,かかる直観主義的絶対主義 は懐疑論的相対主義 と表裏一体である。
我々は部分か ら全体へ wI
S
S
e
nS
C
ha
f
t
l
i
c
hに超越 しなければならない。
(7) Ma
xSc
h
e
l
e
rGe
s
a
mme
l
t
eWe
r
ke
,
Bd
.
1
,
S.
9
2
.
以下 このシェ-ラーの
全集 をSと略 し,本文中に巻数 と貢数のみを記す。
(8) シェ-ラーは,知をそれが何を目標 としているかにしたがって, 1.
Be
h
e
r
r
s
c
h
un
gs
wI
S
S
e
S 2.Bi
l
d
un
g
s
wI
S
S
e
n 3.Er
l
t
)
s
u
n
gs
is
w
s
e
nに分
b
j
e
kt
i
v
e Ra
n
go
r
d
類 し,かつ三者の間にはこの順 に価値が高 くなる o
S8,S.
2
0
5
)
。 このヒエラル ヒ-は本稿第三節に図
n
un
gがあると言 う(
1
1
6
一橋研究 第 1
6巻第 4号
示 しておいた生命 (
快楽)価値/精神価値/人格価値の階層に対応 して
/
いるが, しか しまた知 を技術的認識関心に基づ く「
経験的分析的科学」
相互主体的理解の認識関心に基づ く「
歴史的解釈科学」
/解放的認識関心
に基づ く 「
批判的社会科学」に区分 した現代 ドイツの某社会哲学者の知
Vgl
.
J
t
l
r
g
e
nl
i
a
b
e
r
ma
s
;
Te
c
h
n
i
ku
n
dWi
s
s
e
n
s
・
の階層を紡沸 させる。(
c
h
a
f
ta
l
s
)I
d
e
o
l
o
i
ge(
,Fr
a
n
kf
u
r
ta
m Mai
n
,S
u
h
r
k
a
mp1
9
6
8
,SS
1
5
5
・
1
5
9
)
錯誤 T註
u
s
c
h
u
n
g
」と間
(
1
0
) これ と相即的に,直接的直観的認識に関わる 「
r
r
t
u
m」が区別 され
接的認識,特に推論 にその本来の箭域 を持つ 「
誤謬 I
る (
S3,S2
2
2
)
。真理のこの区別 に関 してはさらに He
i
d
e
g
g
e
r
;Se
i
n
u
n
dZei
t
,
SS.
3
2
・
3
4を参照されたい。
l
(
l) 「
善 は定義できない」というテーゼはプラ トン以来であるが,先行のプ
E.ムー
レンクーノや後続のハル トマンによって も,またイギ 1
)スの G.
アによっても主張されたo この論点 に関 してムーアは r
倫理学原理lの
序論でプレンタ-ノに言及 し,シェーラーは F
形式主義」の第二版序論
Et
hi
k,S.2
8
6
)し
でムーアに言及 し,ハル トマンもシェ-ラーに言及 (
ている。
(
1
2
) 必然的な物象化的錯譲 と偶有的な錯誤の相違に蘭 しては,庚松渉 「
物
岩波書店1
9
8
3
年)1
2
9
11
3
9
貢参照。
象化論の構図」 (
(
1
3
) プラ トン r
饗宴」におけるア リス トパネスの発言 (
1
8
9
C1
9
3
E)に見 ら
れる考え。
(
1
4
) キリス ト教 は思惟の地平的相対性 を利用 している。ニーチェは 「
奴隷
道徳 [
キ リス ト教]はその成立のためにいつもまず もって反対の世界Ni
e
t
z
s
血e
;
Ge
n
e
a
l
o
gi
ed
e
rMo
r
al
,
1Ab
h
a
n
d
・
外的世界 を必要 とする」(
l
u
n
g
,1
0
.Ab
s
c
h
n
i
t
t
)と言 うが, この彼岸の想定が現世の価値地平 を相
対化するのである。
(
1
5
) 他者の利己主義 を指摘 してそれを批判することは,それ自体が (自分
の利益 につながるという点で)利己主義である。 したがってルサンチマ
ンが利己主義であるとすれば,キリス ト教をルサンチマンとして批判す
るニーチェ自身 も利己主義であるとい うことになる。ニーチェはキ リス
ト教 に映っている自分の利己主義 を批判 しているのである。一般に他人
の欠点が気 になるのは,自分 もその欠点 を持 っているか らなのであって,
例 えば他人の功績の誇示に反感 を持つ人に限って名誉欲が強いし,アベ
ックを冷やかす人 に限って恋人に飢 えているものである。ゲーテは 「
人
はやっと脱却 したばか りの欠陥に対 しては最 も厳格である」 と言ったが,
それはその人の関心が,当の欠陥 とその否定 という く
地平)に留 まって
いるか らである。
(
1
6
) He
i
d
e
g
g
e
r
,Se
l
れu
n
dZei
t
,
SS.1
3
4
1
4
0
(
17) フッサールはこれ とパラレルに 「
私 は色の感覚を見ているのではな く
1
1
7
シェ-ラーの哲学的人間学
て色の着いた事物 を見ているのだ」(
Hus
s
e
r
l
l
ana,Bd.1
9
,S 3
8
7
) とい
う。シェ-ラーやフッサールのこれ らのテーゼは 「
示 され うることは語
ることができない」(
Wi
t
t
ge
ns
t
el
n,
Tr
ac
t
at
usLo
gic
o・
Phi
l
os
o
phi
cu
s
,
4.
1
2
1
2
) というウィ トゲンシュタインの命題 を想い起 こさせる。 もっとも
フッサール もシェ-ラー もこのような自然的態度 を放棄 して現象学的還
元に走 るのだが。 フッサールはシェーラーの当の主張 とは反対に 「
意欲
することを意欲する」(
Hus
s
e
r
l
l
ana,
Bd.2
8,
S.
1
2
5
) ことについて語る。
この I
t
e
r
a
t
i
onは必ず しも無意味ではないC例 えば異性 を欲するが,異性
を欲することを女々 しいこととして欲 しない場合があるか らである。「
知
覚 を見 る」 とかさらに 「
知覚 を見ない」などといったこともある哲学的
な態度ではあ りうることである。
sK6nne
nと dasGe
konnt
eとの区別か ら,さらにS
/ェ-ラー
(
1
8
) この da
は「
権力 Ma
c
ht
」と 「
暴力 Ge
wal
t
」を区別する :「
何 らかの点で最 も多
くく
権力) を持っている人 とは,他の存在者に対 して自分の意志を押 し
通すのに最 も少ない暴力 しか必要 しない人である」(
S2,S2
41
)
。では
暴力を使 う必要のない従順な召使の所有者 は,反抗的な国民を暴力で鎮
圧 しなければならない国王 よりも権力があるというのだろうか ?
(
1
9
) 周知のようにハイデガーは,Ent
f
e
r
ne
nが Ent
・
f
e
r
ne
n=N鼓
he
r
nで も
ある (日本語で言 えば 「
遠 ざける」 「
遠さを避 ける 「
距離」 「
離ヲ
距ツ」で もある)ことを指摘 し,「
現存在の存在様式 としての En
t
f
e
mung」
をたんなる Ab
s
t
a
ndか ら区別 している (
He
i
de
gge
r
;Se
i
nundZei
t
,S.
1
05
)
。認識 の身体性 を説 くフ ッサール も,I
c
hpolが その Be
z
i
e
hungf
e
r
nungとそ うで はない Abs
t
andを区別 して
s
p
u
nkの一 つである Ent
いる (
Ha
s
s
e
r
l
i
a
na,Bd.SS.2
2
92
30
)
. このように生の現事実性 を直視
する現象学者 にとって,オプティミスティックに対象化や客観化 を語 る
シェ-ラーの "超越論的哲学〝 はさぞナイーブに見 えたことであろう。
(
2
0
) 以上の超越論的哲学の定式化 に関しては,拙稿 「カントの超越論的哲
学における く
超越)の問題」 (
r
一橋研究J第 1
6
巻第 3号)参照乞。
-
」
,
-