から、尾道市庁舎と尾道公会堂についての論考をいただきました。

尾道市庁舎 1960 尾道市公会堂 1963
1.尾道市庁舎
1-1.尾道市の成り立ちと初代市庁舎について
瀬戸内海の島々を南に、わずかな平地を挟み、北にはすぐ急勾配の丘陵地がのびる。東西に町並・家並が連なる地理特性を持
つこの地は、一般にその特異な地形から「山の尾の道」に由来し、尾道という名で知られてきた。
その歴史は古く、平安時代には備後大田荘の船津倉敷地となって以来(1169 年)、港町として繁栄を広げ、江戸時代には山陽
道が通ずるなど、街道が整備されたことで宿場町の機能も備え、海路・陸路の集う枢要地の商都として栄えてきた地である
1)
。
特に現在の行政区域が形づくられた明治時代以降は、1889(明治 22)年に町制を施行し、次いで 1898(明治 31)年 4 月 1 日
には、全国で 37 番目、広島県下 2 番目という早さで市制施行し、尾道市が誕生する。
その行政の中心となった役場・庁舎は、町制施行直後は後地村に置かれていた戸長役場 2)が業務を引き継いでいたと思われる
が、具体的な立地や建築の詳細は把握できていない。現在の市庁舎の立つ尾道市久保 1 丁目 15-1 に町役場庁舎が構えられたの
は(図 1)、市制施行を直前に控えた 1896(明治 29)年のことである。後の解体時に発見された棟札によれば、1896(明治 29)
年 2 月 10 日起工、同年 8 月 31 日に竣工し、建設費は 6,578 円(当時価格)であったという 3)。
竣工直後こそは尾道町役場庁舎であったが、1896(明治 29)年 7 月の町会で決めたという、市制施行を求める稟議書を広島県
知事に提出していることから 4)、それを前提に庁舎を新築していたことが明らかである。そして、この町役場庁舎こそが、初代
尾道市庁舎となる(図 2)。
尾道水道越しにうかがう南東側外観(図 2)から、その建築を見れば、東西方向に長い矩形平面を持つ木造 2 階建の建築で、
1,2 階を明確に分けた漆喰壁に方形の開口部がリズミカルに並ぶ。さらに軒先は軒蛇腹とし、屋根は寄棟屋根の桟瓦葺である。
建物規模は南北方向(短手側)6m、東西方向(長手側)40m といったところであろうか、おそらく北側(図 2 でいう背面側)を
片廊下とし、南側に執務空間を並べた平面構成であったことが想像される。また、北西側に別の建築が近接していることや、東
側の棟が段違いに高くなっていることから、段階的に増築が施されていたのであろう。総じて、本格的な洋式建築の水準にまで
は及び難く受け止められるもので、日本人大工が見様見真似で西洋風に仕上げた、いわゆる「擬洋風建築」に類されるものであ
った。
1-2.尾道市庁舎の建設計画とその経緯
初代市庁舎は、戦後 1958(昭和 33)年まで 63 年間に亘って使用された。手狭な庁舎に代わって、市民サービス向上の名目で
建替を行い、新たに 2 代目庁舎として生み出されたのが、現在の尾道市庁舎となる(図 3)。
尾道市庁舎の建設計画が立ち上がったのは、尾道市議会昭和 32 年第 4 回定例会(1957 年 9 月 25 日/第 3 日目)にて、公会
堂と市庁舎建設についての調査を進めることが承認されていることを端緒とする
5)
。尾道市公会堂については後に詳述するが、
ここでは市庁舎と公会堂が当初から共に建設計画が立ち上がっていたことにふれておきたい。
公会堂市庁舎建設特別委員会も組織され 6)、現在の尾道商工会議所記念館の西隣にあたる尾道警察署跡地 7)が建設候補地とし
て市長から言明された(尾道市議会昭和 32 年第 6 回臨時会、1957 年 11 月 18 日)など、別の敷地も候補に入れて幅広く建設敷
地の選定を進めていたようであるが、
「建築技術員の確保はいろんな方面へ話してもらいたいということを交渉しているが、適
当な人が見つからない状態である」と、1958(昭和 33)年 7 月の時点でなかなかに建設計画は難航していたようである 8)。
千光寺公園
市庁舎
尾道駅
公会堂
尾道水道
向 島
図1
尾道市庁舎・尾道市公会堂 所在地
図2
初代尾道市庁舎(旧町役場庁舎)
9)
図3
尾道市庁舎 南東側外観(2014 年 12 月)
¦1
市庁舎建設計画が実現となるにあたり、本格的に動き出したのは 1958(昭和 33)年 10 月に至ってのことで、この経緯の仔細
を山陽日日新聞記者、後に同紙編集長を務めた森本輝郎氏が『おのみちの戦後の歩み-その光と影に-』
(1992 年)にまとめて
いる。以下、多少長いが該当箇所を抜粋・引用する。
三十三年十月十三日、助役小林巌と、建設部長吉岡栄夫は議会市庁舎建設特別委員長細谷正雄(のち議長、故人)を市長室に招き、京都大学
系の財団法人建築研究協会(増田研究室)に設計を委嘱したいとのべた(市長は公務出張中)
。助役と建設部長が京大卒とあって“身引いきか”
とカンぐられたが、二十九年の瀬戸内観光博や、三十二年建設の原子雲型展望台の設計者、東京の佐藤武夫建築設計事務所が市の“違約”を鳴
らし、全国建設協会で問題にすると、尾道市に書簡を送りつけてきた(既報)経過をみて、協会メンバーに委嘱するのはむずかしい情勢と判断。
建設協会外の設計者に委嘱せざるを得ない事が明らかになったことによる。
また、委員長細谷らが広島の村田・大旗設計事務所を支持していた背景があり、これまでを一切白紙に戻し市に一任した。
更に起債三〇〇〇万円を年度内に使用しなければならず、市としては早く建設への手順を決めたいことや、長江口と西御所の仮庁舎も八-九
分できあがり、あせっていた。
委員長細谷らのグループが村田・大旗組を支持していたのは市庁舎改築の転機に、栗原本通り(今の栗原西一丁目)に県地方事務所があった
ように、あの近辺に市役所を移そうとする下心があった。
その後「菓子箱
乱れ
飛ぶ」と報道されて村田・大旗組と主張できないムードとなっていたからであった。
この当時の細谷は脂ののりきった中堅(三期)で“軍略家”でもあり「知恵マサ」とニックネームのつくサムライ。
市長天野が栗原(桜町)であり、市庁舎の栗原移転に反対しまいとの計算があった。
しかし市長をはじめ職員も久保一丁目海岸の現位置に愛着を抱いていたので細谷の図はあたらなかった。海に面した位置になる。
東京・佐藤武夫建築設計事務所に五十万円の支払いをして“抗議書簡”にカタをつけた市は、市庁舎建設の設計を京大系建築研究協会に委嘱。
旧庁舎解体、同あと地三七四四平方メートルに新築した。当時の町名は十四日町乙五七〇番地である。10)
このことから市庁舎建設について 2 つのことを理解できる。1 つは建設敷地のことで、これには尾道警察署跡地が取り沙汰さ
れていただけでなく、尾道駅北側の栗原西 1 丁目あたりへの新築移転も画策されるなど、現在の久保 1 丁目 15-1(当時は十四
日町乙 570)での建替には限っておらず、市庁舎建設敷地は流動的な状況にあった。それも最終的には、現在地に愛着を抱いて
いた市長・職員により建設敷地の変更は行われることなく、今の鶴屋長江店隣の広場・駐車場のところに長江口仮庁舎を建設し
た他にも、旧広角鉄工所工場を東御所分室とし(現在のしまなみ交流館の位置)、また、ロープウェイ駅内などにも市行政機能
を点在させて 11)、庁舎敷地への新築建替に及んでいる。
もう 1 つは、設計者選定に関わることで、市庁舎建設特別委員会では当初、広島の村田・大旗建築事務所を検討していたこと
が伝わる。この村田・大旗建築事務所とは、広島の戦後復興期に多くの建築設計に携わり、尾道厚生病院(1957 年竣工)を古浜
町(現在は尾道総合病院として平原 1 丁目に移転)に設計するなど、尾道でも実績のある建築設計事務所であった 12)。
これには「菓子箱
乱れ
飛ぶ」として報道された経緯もあったが、尾道市が千光寺公園展望台(「原子雲型展望台」)の設計
を担当した佐藤武夫建築設計事務所(現在の株式会社佐藤総合計画)との間に問題を抱えており、
「建設協会」
(建設業協会より
は建築士事務所協会と推測される)所属建築事務所は難しい情勢を受けて、京都大学系の財団法人建築研究協会に、担当を増田
友也として設計を委嘱することになった。前出の引用箇所に「助役と建設部長が京大卒とあって“身引いきか”とカンぐられた
が」とあるが、
「建設協会」に所属しない建築家・建築士が全くいなかったわけではないだろうから、
「身引いき」とまではいか
ないにせよ、母校・京都大学を頼った結果であったと理解できよう。
このようにして、増田友也の設計で尾道市庁舎の建設計画がさらに前進することになったが、尾道市議会昭和 33 年第 6 回定
例会(1958 年 12 月 23 日/第 4 日目)において、早くも市庁舎新築工事の入札が大林組により 7,166 万 7,000 円で落札となり、
同社との契約が可決されている 13)。1958(昭和 33)年 12 月下旬には実施設計まで完了していたと考えるべきであろうから、わ
¦2
ずか1ヶ月半という、極めて短期間で基本設計から実施設計までに
取り組んでいたことがわかる。なお、設計者である建築家・増田友
也の経歴や作風など、その人物については後に詳述する。
1-3.尾道市庁舎の建設経過と建築概要
尾道市庁舎は、初代市庁舎解体の後(この時に棟札が発見され、
その建設年などが判明している)、1959(昭和 34)年 2 月 24 日に起
工する。設計が急ピッチでまとめられたことにもよるだろうが、着
工後半年が経過した同年 7 月、工期を 1960(昭和 35)年 2 月末か
ら 3 月 31 日へと 1 ヶ月延ばし、請負金額を 7,411 万 7,000 円に増
額し、加えて海岸沿いの軟弱地盤に重量のある鉄筋コンクリート構
造物を据えることに対して、支持層に打ち込む杭の長さを 10m から
12m へと設計変更している 14)。さらに同年 12 月には、1 ヶ月半とい
う設計期間が適切でないことによる見直しと、近隣市庁舎の議場相
当の水準を尾道市庁舎でも備えるための設計変更を行うことによ
り、建築費を 7,628 万 6,000 円に増額することが求められ、市議会
(1959 年 12 月 16 日)で可決されている 15)。
『尾道市政だより』第 95 号(1960 年 4 月 5 日付)は「祝市庁舎
落
成」と題して特集を組んでおり、建設工事の経過がまとめられてい
る(図 4)。これに同紙で断続的に掲載された経過報告(図 5、6)
と合わせて、その建設経過を概観する。
図4
尾道市庁舎の建設経過 16)
図5
尾道市庁舎 鉄筋工事(1959 年 7 月)17)
図6
尾道市庁舎 躯体工事(1959 年 11 月)18)
¦3
市庁舎建設工事は、着工(1959 年 2 月 24 日)の後に試杭の打ち込み荷重試験
などを行い、3 月 2 日から基礎堀工事、4 月 15 日から 7 月 21 日にかけて計 437
本の基礎杭打ち込みを行っている。それに平行して 5 月 30 日から基礎コンクリ
ート打設、6 月 2 日から 1 階土間配管工事、8 月 30 日から 5 日間で1階コンク
リート打設、2階鉄筋組立て工事(図 5)と進め、さらに 2 階を 9 月 24 日から
4 日間、3 階を 10 月 13 日から 4 日間、4 階を 10 月 30 日から 4 日間、5 階を 11
月 16 日から 2 日間、6 階を 11 月 29 日から 2 日間と各階のコンクリート打設を
図7
尾道市庁舎 竣工時外観(1960 年 4 月)19)
経て、ほぼ姿を現わすようになった(図 6)。その後は内装工事が進められ、1960(昭和 35)年 3 月 31 日に竣工を迎えた(図 7)
。
そして、竣工を記念して 4 月 16 日には落成式典を各界より 500 名を集めて盛大に執り行い、後 20 日まで尾道市政展や西日本特
産品展、森谷南人子画伯回顧展など各種祝賀行事を催し 20)、4 月 30 日より市庁舎において行政事務を開始している 21)。市庁舎
西側に隣して議会関係施設を新たに設ける計画であったが
22)
、結果的には、1972(昭和 47)年に執務空間拡張のため、既存建
物と同様の建築意匠で西側に増築を施し、現在に至っている。
以上の経緯をもって完成に及んだ尾道市庁舎の建築概要は次の通りである 23)。設計監理を財団法人建築研究協会とし、担当を
増田友也ならびに京都大学増田研究室、構造設計は横尾義貫・京都大学横尾研究室、岡本剛建築設計事務所、施工は大林組広島
支店によるもので、その他電気工事は中国電気工事株式会社、給排水衛生暖房工事を朝日工業社、エレベーター工事を日本エレ
ベーター製造株式会社、電話工事を日本電信電話公社(NTT の前身)、ガス工事を広島瓦斯株式会社(現広島ガス株式会社)が、
それぞれ担当している。
また、建物規模は敷地面積 3,744.643 ㎡、建築面積 1,066.684 ㎡、延床面積は 5,040.928 ㎡にカーポート 255 ㎡と木造の別館
207 ㎡が付属し、建物高さは軒高(5 階手すり上端まで)18.8m、最高高さ(塔屋まで)24.31m である。後に改めて取り上げる
が、構造・階数は鉄筋コンクリート造地上 5 階一部 6 階建で、工費は当時価格で 1 億 5,385 万 5,150 円に及んだ。
1-4.建築家・増田友也について
1-4-1.増田友也の経歴
尾道市庁舎の建築的特徴を紐解いていくに先立ち、その設計を担った増田友也の経歴や建
築活動(建築論・建築作品)について、特に近年精力的に進められている学術的知見に基づ
き取りまとめる 24)。
増田友也(図 8)は、1914(大正 3)年 12 月に兵庫県三原郡八木村(現南あわじ市)、後
に多くの建築作品を手掛けることになる徳島県鳴門市と鳴門海峡を挟んで向き合う淡路島
の南西側に生まれている。1935(昭和 10)年に京都帝国大学工学部建築学科に入学し、1 年
留年の上、後に尾道市庁舎で構造設計を担うことになる横尾義貫(1914-2007)と共に 193
9(昭和 14)年に卒業した(横尾は病気、増田は「遊びすぎた」とされる)。
卒業後は、満州炭鉱工業会社に就職する。国内就職が難しい時世で、大陸・満州に渡ると
いうのも決して少なくなく、加えて戦時体制が刻々と激化していく中で、いつ召集を受ける
図8
増田友也(1959 年撮影)25)
かもわからないという情勢であった。京都大学の同期で、増田とも親しかったという馬場知己(1916-1986 京大卒業後は鉄道省
入省、戦後は国鉄、次いで中部大学教授を歴任)26)が、関東軍主計部中尉として軍事輸送船となる「関東軍コンクリート造船」
の研究開発の任務にあたっていたことにより、増田は技術者として招かれ、試験を繰り返す 3 年間を過ごしたことで(完成には
及ばなかったとされる)
、結果的に戦地に送られることはなかった。ただ、敗戦後にシベリア抑留を受け、極めて過酷な肉体労
働に 5 年間という長い期間に亘って抑圧を被った。ロシア寒冷地の自然の猛威、そして非人間的で熾烈な生活を強いられたこと
は、決して安穏として戦時を過ごしたわけではなかったし、次々と周囲の人間が力尽きていく中で、その死生観や人生観に大き
¦4
な影を落としたであろうことは想像に難くない。それでいて現代の平穏な生活の中にある我々には、正確にその心情を推し量る
こともまた、限りなく難しい。
増田友也は生還した。1950(昭和 25)年 8 月 15 日付をもって恩師・森田慶一(1895-1983)と村田治郎(1895-1985)27)の
招聘により、(新制)京都大学工学部建築学科講師に着任する。助教授、次いで教授となり、研究ならびに設計活動、そして後
進の教育に務め、1978(昭和 53)年に京都大学を退官、同大名誉教授となり、福山大学に着任(1980 年)して間もない 1981(昭
和 56)年 8 月に 66 歳で逝去した。
1-4-2.増田友也の研究・思索
増田友也は、プロフェッサー・アーキテクトとして、旺盛な研究活動に取り組んだことで知られ、とりわけ難解な哲学的思考
に基づく建築論が有名である。市川秀和博士によれば、増田の研究・思索は 3 期に整理できるという(表 1)。
空間論:1950(昭和 25)年~1964(昭和 39)年の前期思索
市川秀和博士はここまで踏み込んではいないが、
「前期思索」の期間も大きく前半期、後半期に分けられると見られ、前半期
は「空間形成」の原初追求、それは「未開民族の建築的な形成」
(オーストラリア:Arunta、インド:Todas)に着目し、博士論
文『建築的空間の原始的構造 Arunta の儀場と Todas の建築との建築学的研究』(1955 年)にまとめられる 28)。後半期は、終戦
直後の外国人建築家の来日によって、注目が高まった日本建築の伝統的な空間構成を「西欧的思考」で捉え直そうと試みたもの
で、これは「家と庭との空間構成についての覚書」29)(1958 年)、次いで『家と庭の風景‐日本住宅の空間論的考察‐』30)(1964
年)にまとめられた。これも市川秀和博士によると「日本人は、風景とも建築化したのである。あるいはヨーロッパ的概念での
建築を風景の中に解体した」と、増田が見極めたとされる 31)。本稿が取り上げる尾道市庁舎・尾道市公会堂は、この「前期思索」
の特に後半期にあたるため、後にこれらの論考と実作を照らし合わせての考察も試みたい。
風景論:1964(昭和 39)年~1971(昭和 46)年の中期思索
「中期思索」として、増田の思索が展開されたのは「風景論」であるという。これは『Ethnos の風景・素描-生活環境の構成
表1
増田友也の思索の道 32)
¦5
について』33)(1971 年)に象徴され、建築することが破壊を孕む両義性を超えて、環境・風景のために建築家の持つべき道義性
morality の必要性を説き、そして「本来的に人の住みつくその場所 ethnos」を規定し、それは建築が出来た時ではなく、人が
住まうことで建築されゆくことを示唆した。
存在論:1971(昭和 46)年~1981(昭和 56)年の後期思索
そして晩年となる「後期思索」として整理されたのが、増田友也がよく知られるところの難解な哲学的思想がそれにあたる「存
在論」である。これはハイデガーの哲学思想を下敷きに建築とは何かを問い、
『建築以前(退官講義)』34)(1978 年)や『建築に
ついて』35)
(1978 年)にまとめられるが、体系化に行き着く前に歩みを終えた感があり、市川秀和博士は、その「思索の道 Leben
und Denkweg」こそが増田の独自性であると説く 36)。
1-4-3.増田友也の建築作品と作風の概要
京都大学退官を記念して編まれた『増田友也先生退官記念 著作・作品目録』によると、増田友也の建築作品は 84 作で、内訳
は実施作 61 作、計画案 23 作であるという 37)。全年代を通じて共通して見られる作風の特徴としては、長岡大樹氏が増田の言論
に基づき、3 つの設計態態度(作風)の抽出を行っている。
<建築と絵との体質的な差異について>、1967 年 8 月の言葉。<建築は絵画や彫刻のように何ものかを再現しようとしていません
林檎とか風景とか人体とかはもちろんのこと 樹の青 海の蒼をも再現しようとはしていません
が本来の建築なのです
線と面と光と翳
それだけが建築の単語なのです
それは
それは理想的に白一色の大理石ででも作るの
建築と言う考えが成立した当初はまさにこの通りだったのです>。
38)
文脈から察するに、増田自らの設計思想を論じた文章とは異なるため、ここから設計態度(作風)を導き出すことが適切であ
るかは、議論の余地があり、それでいていくらか恣意的な印象を感じなくもないが、
「A:建築は何ものかを再現するものではな
い。B:一種類の材料(色彩)で作ることが本来の建築である。C:建築の単語は「線と面と光と翳」だけである」とまとめており、
これを ①建築が矩形を基調とし、過度な形態操作をしない(A) ②コンクリート打放し仕上げが大部分を占める(B/58 作が鉄
筋コンクリート造で、うち 50 作品が打放し仕上げ) ③陰影を線・面の構成で建築を表現する と整理する 39)。
とりわけ建築意匠面での特徴として、長岡大樹氏は ③陰影を線・面の構成で建築を表現する に注目しており、壁の造形表現
の移り変わりを見ることで増田の作風を捉えることができるとして、論文発表されているのが「増田友也の建築と壁の造形」40)
(2011 年)である。
この研究論文では、「庇・屋根・壁」の有無と組み合わせと造形的特徴から、次のように 8 種類の「壁面の構成手法」として
整理を行っている(図 9、10、表 2)。
①
張出し庇:庇が壁体からキャンティレバーで張出し、ファサードに水平の帯を与える。
②
壁面全体の門型枠:庇の役割を果たす屋根スラブと両サイドの袖壁が、壁面全体を門型(
③
屋根の持ち上げ:屋根を壁から持上げて、壁の輪郭(特に壁の上辺)を際立たせる。
④
柱梁による方形架構:建物の骨組である柱・梁の方形架構を壁面全体に表出させる。
⑤
重厚な一枚壁:一枚の重厚な壁を建物の正面に据え内外を隔てる。
⑥
バルコン(バルコニー)のルーバー分割:外壁からガラスを後退させて設えたバルコンに垂直にルーバーを並べる。
⑦
垂直ルーバー壁:GL から軒まで届く垂直ルーバーを壁体に組み込む。
⑧
雁行型屈折壁:隣り合う室を雁行型にずらして並べ、屈折する壁面を構成する。
型)に枠づける。
¦6
図9
増田友也作品における壁面の造形手法(8 種類)41)
図 10
増田友也作品における壁面の造形的性格分析例類 42)
表2
増田友也作品における壁の造形的性格 43)
この 8 種類の「壁面の構成手法」に加えて、手すりなど「壁の
付加要素」、壁面の凹凸となる「外壁面の断面形状」、ガラス・壁
・手すりなどの前後関係である「壁面要素の前後関係」を検討材
料に、増田友也の建築作品における壁の造形を 7 つのパターンと
4 期に区分・整理を行っている。
庇の時代
Ⅰ期:初期・1957 年~1959 年
・梁の延長体である張出し庇がファサードをめぐり、各層ごとに
水平の帯が走る(図 9-①)[Ia 型]
・方形架構と横架材による日型のパタンが壁面全体を覆う(図 9
-④)[Ib 型]
Ⅱ期:前期・1960 年~1963 年
・袖壁を屋根スラブがファサード全体を門型に枠づけている(図
9-②)[Ⅱ型]
屋根と壁の時代
Ⅲ期:中期:1963 年~1971 年
・壁はコーナーで回り込まずに袖壁として余分に伸び、「一枚の
壁」として明確に分節化している(図 9-⑤)[Ⅲa 型]
・コンクリート壁の懐に深く入り込んだバルコン(バルコニー)
を垂直ルーバーが区画するため、壁面には彫りのある矩形が並
ぶ(図 9-⑥)[Ⅲb 型]
¦7
壁の時代
Ⅳ期:後期・1968 年~1980 年
・
(垂直ルーバー壁によって)中期の彫塑的な壁から転じて、
「開きつつ閉じる」半透明の相をした壁を実現している(図 9-③、
⑦)[Ⅳa 型]
・部屋の数だけ屈折する壁面がファサードを形成している。さらに上階の部屋を下階から後退して、屋上庭園(ルーフテラス)
を設けることも多い(図 9-⑧)[Ⅳb 型]
以上の分析考察に基づき、増田友也の壁の造形に見られる作風を「ファサードの全体的構図を重んじる造形方針と壁のモチー
フに応じてマッシブな表現をアレンジしていく造形展開は、全期に渡って一貫しており、壁を重視した増田の制作態度のあらわ
れ」とまとめている。
さらに長岡大樹氏は、別の論考において市川秀和博士が区分した「前期思索」の「空間論」にあたる言論と「庇の時代」
(初
期・前期)の作品を対象に建物配置とそのアプローチの関係から、壁の造形に見てきた立面的な考察に対して、いわば平面的な
考察に取り組んでいる。これを(図 11~13、表 3)にまとめた上で、その該当箇所を引用して次に整理する 44)。
・1950 年代後半は、方向軸の定着が顕著で frontality と directional の空間現象が具体化された …(中略)… 視線と方向
軸がきわめて相即しやすい一対の建築が実践された。
・60 年代になると方向軸の定着が減り、radial な空間が増える。
これらの方向軸と領域的空間のもつ特質と傾向を踏まえて、
「増田の建築意匠は空間知覚の発生的型式に依拠している」と、
言論と作品の間に連関性があることを述べている。
本節では多くの紙幅を割いて、尾道市庁舎・公会堂の設計者・増田友也の経歴ならびに建築活動(建築論・建築作品)をまと
め、先行研究からその作風の把握を行った。これらの学術的知
見に基づき、引き続き尾道市庁舎、次いで尾道市公会堂の建築
表3
増田友也作品の方向軸の定着と領域的空間の形成 48)
的特徴を論じる。
図 11
領域的空間の発生形態 45)
図 12
アプローチの
方向と建物の知覚面 46)
図 13
方向軸の定着と領域的空間の分析例 47)
¦8
1-5.尾道市庁舎の敷地と建物配置について
尾道市庁舎は、尾道駅から東方 1.5 ㎞ほどの尾道水道に面した海岸沿いに、南面を海に、北面を街路に向けて、東西方向に長
い敷地に立っている。所在地は尾道市久保 1 丁目 15-1 である(図 1)。
近隣には、昭和戦前期の頃に建てられた近代建築が並び、歴史・文化の香りを強く残す町並が見られるが、
『尾道市街名勝案
内新図』(1901 年、図 14)
、『尾道市街圖誌』(1928 年、図 15)からは、第六十六銀行(後に芸備銀行)
、尾道銀行(現おのみち
歴史博物館)、住友銀行(同行初の支店、現尾道市労働センター)が軒を連ねており、「銀行浜」の名で呼ばれた金融街として、
尾道の行政・経済の中心を担ってきた地域であった。さらに遡れば、江戸時代中期の尾道を伝える『中国行程記』
(1760 年、図
16)にも、後の尾道市庁舎建設地は本陣(「笠岡や作衛門」(小川家))の近くに位置し、古くから港町・尾道の中心地であった
ことがわかる。
現在の尾道市庁舎のアプローチは、矩形形状の長手側に北面して設けられている(図 1)。長岡大樹氏による方向軸の分析で
「frontality」と形態分類のされるもので、1950 年代後半における増田友也の建築作品に見られる共通性をよく伝えるもので
ある 49)。これは東西に細長い敷地にあって、大胆な試みを行う余地がなかったことにもよるが、行政事務部分と議会部分を 1 つ
のボリュームに収め
50)
、その足下にエントランス 2 か所を置き、南側にも同じように 2 か所のエントランスを設けていること
で、尾道水道への通り抜けを可能とする。後に駐車場不足を補うために埋め立てられたことで、海岸まで距離に余裕が生じてい
るが、竣工時は尾道水道に直面しており、その視界は今よりずっと明快であったと想像される。まさに「ぽっかり浮んだ“海の
お城”」51)と映るものであっただろう。
設計を担った増田友也は、尾道市庁舎の竣工に寄せて「この建物があの壮大な厳島神社と対比し得る記念的建築物になるよう
に、設計者は衷心から祈っているのであります」52)と述べている。
しかしイツクシには、また端正もしくは端麗という意味もある-対岸の山上から見る宮嶋の全貌は、まことに端正であり、端麗でもあって、
恰もそれは、その言葉のとおりの王朝的な、一つの理想的な、形姿をもつものである。53)
1965(昭和 40)年頃と、年代的には幾分か下るが、増田友也はこのように書いている。向島から尾道市街を臨むのであるか
ら、立ち位置こそ逆であるが、大宝山・摩尼山・瑠璃山が後ろに連なる風景を宮島・弥山に重ね合わせ、増田は尾道市庁舎に厳
島神社の姿を投影していたのであろう。
1-6.尾道市庁舎の平面構成
尾道市庁舎が東西に長い矩形形状、すなわち長方形平面であることは既にふれた。その規模は、東西方向(長手側)48m、南
北方向(短手側)18m で、その外周に東西方向は 6m 間隔で 9 本、南北方向は中央 3.6m 幅、両側を 7.2m 幅の 2:1:2 の比率で 4 本
の打放しコンクリート柱が割り付けられている 54)(図 17)。
図 14
尾道市庁舎 周辺地図(1901 年)55)
図 15
尾道市庁舎 周辺地図(1928 年)56)
図 16
尾道市庁舎 周辺地図(1760 年)57)
¦9
この尾道市庁舎に対して実施された耐震診断結果によれば(表
4)、東西方向(長手側)は鉄筋コンクリート造で一般的なスパン
でもあり、1~3 階では公共建築での Is 値の基準値 0.75 を下
回ってこそいるが、0.6 以上は保有しており、著しく低い数値と
までは言えないが、南北方向(短手側)は、概ね 0.3 を下回る数
値が出ており、7.2m スパンによる影響が生じた結果と映る。
尾道市庁舎を特徴づけているのは、現在では一般的なコアシス
テムを導入していることで、南北方向の中央列 3.6m 幅のところ
を、それぞれ東西方向 2 スパン部分に(中央に向かってすぼまっ
た台形形状をした)階段室を 2 か所、中央 2 スパン分をトイレ、
エレベーターとしてコアとした、いわゆるセンターコア形式とし
ており、これを最上階まで通じる耐震壁として外周の柱列と共に
主体構造とする。
コアシステムとは、「機械室・階段・エレベーターなどの共用
施設を中央部にまとめ、居室区域を周囲に配置する方式」
(『大辞
泉』)となるものだが、管見の及ぶ限りでは、日本近代建築史学
の視点から学術研究がなされた形跡はなく、その詳しい系譜はま
とめられていない。そこで試みに諸々の文献から紐解いてみると、
コアの考え方そのものは古く、マンハッタン市営ビル(ニューヨ
ーク市庁舎、マッキム・ミード&ホワイト設計、1914 年)
(図 18)
やクライスラービル(W.V.アレン設計、1930 年)、エンパイヤ・
ステート・ビルディング(R.H.シュリーブ、W.F.ラム、A.L.ハー
モン設計、1931 年)
(図 19)といったニューヨークの摩天楼を代
表する草創期の超高層ビルに、大正から昭和戦前期の頃には早く
も萌芽がうかがえる。それは日本国内において、大阪ビルヂング
第 1 号館・第 2 号館(渡邉節設計(担当:村野藤吾)
、第 1 号館:
1925 年、第 2 号館:1931 年)
(図 20)や朝日ビルヂング(竹中工
務店設計(担当:石川純一郎)、1931 年)(図 21)などに先駆的
に取り入られているが、この時には「コア」という呼称はなく、
図 17
表4
尾道市庁舎 各階平面図(竣工時)
58)
尾道市庁舎 耐震診断の結果(Is 値)59)
コアシステムの概念が形成されるには至っていなかったと見ら
れる。
日本国内において、コアの概念が生じたのは住宅からであっ
た。ファンズワース邸(ミース・ファン・デル・ローエ設計、1950
年)
(図 22)とガラスの家(F.ジョンソン設計、1949 年)
(図 23)
の 2 作品から影響を受けたものであり、これらはいずれも四方
ともガラス壁面とし、いわゆる水回り(トイレ・浴室など)を壁
で囲んで「核(コア)」として設計したもので、そのセンセーシ
ョナルなデザインは、居住性はさておき、世界の建築史上におい
て高い知名度を得てきた住宅建築である。
¦ 10
図 18
マンハッタン市営ビル(ニューヨーク市庁舎) 外観・各階平面図 60)
図 19
エンパイヤ・ステート・ビルディング 外観・各階平面図 61)
図 22
ファンズワース邸
外観・平面図 64)
図 20
大阪ビルヂング第 1 号館・第 2 号館
図 21
朝日ビルヂング 外観・基準階平面図 63)
図 23
ガラスの家 外観 65)
外観・1 階平面図 62)
図 24
コアのある H 氏の住まい 外観・平面図 66)
¦ 11
第 2 次世界大戦敗戦後の資材不足・住宅不足の中で、いかに省空
間で小規模な、つまり機能的であり、合理的であり、経済的な住宅
をいかにつくりあげるかが求められた時勢の中で、建築家が設計し
た小住宅の中に「コア型平面」と呼べる事例が生じた。池辺陽(19
20-1979)による住宅 No.15(1953 年)
、増沢洵(1925-1990)によ
るコアのある H 氏の住まい(1953 年)
(図 24)などで、特に池辺は
「住宅デザインにおけるコアの意義」(1954 年)も著しており、コ
アシステムという概念が生じ、認知されつつあったことを理解でき
る。
図 25
日活国際会館 基準階平面図 67)
もっともオフィスビルにあっては、昭和戦前期の頃からコアシス
テムに通じる平面構成が採り入れられてきたわけであるから、住宅
に導入されたコアを経由したかまではわからない。例えば、日活国
際会館(竹中工務店設計(担当:伴野三千良)、1952 年)
(図 25)に
も形式上はセンターコアが採られており、昭和戦前期からのオフィ
スビルの系譜が受け継がれているように見えるのである。ただ、オ
フィスビルの平面構成を計画する上でコアシステムに言及する著述
が、本城和彦・青江邦良「社会の進歩と対応するコア」(『国際建築』
1954 年 2 月)
、高山英華「コアという考え方」
(『建築と社会』1954
年 9 月)、丹下健三「空間の秩序と自由-コア・システム」(1955 年
『人間と建築-デザインおぼえ書き』所収)、沖種郎「コア・システ
ム-空間の無限定性」(『新建築』1955 年 1 月)のように 1954(昭和
29)年頃から見られるようになり、尾道市庁舎の完成した 1960(昭
和 35)年前後には、東京都第一庁舎(丹下健三設計、1957 年)(図
26)、新潟市庁舎(佐藤武夫設計、1958 年)、呉市庁舎(坂倉準三設
図 26
東京都第一庁舎 外観・基準階平面図 68)
計、1962 年)
(図 27)など、多くの庁舎建築に採り入れられるよう
になっており、コアシステムが一般的に浸透しつつあった潮流を見
出すことが可能である。
少なくない紙幅を割いてしまったが、このようにコアシステムの
有用性の高まりが認められるようになった中で、尾道市庁舎はコア
システム、特に東京都第一庁舎(図 26)と同じセンターコア形式で
設計されており、当時の庁舎建築(オフィスビル)の潮流をよく汲
み入れたものであったことを理解できる。
尾道市庁舎は 5 階一部 6 階建になるが、その平面構成を竣工時
(図 17、28)
、そして現状(図 29)と併せて整理する。なお、文中
番号は(図 28)中の番号と一致する。
1 階は中央のコア(エレベーター、トイレ)を挟み、コの字型に
ホールを備える(③)。竣工当時はコの字型の両端が背面(南側)
に外部へと通じていたが、現在東側は執務スペース(市民課)として
塞がれている。
図 27
呉市庁舎 外観・1 階平面図 69)
¦ 12
図 29
尾道市庁舎 各階配置図(現状)71)
竣工当時の東側には、宿日直室(⑤)、用務員室
(⑥)、食堂(⑦)が置かれていた。現在、食堂は
なくなり、中央コア南側にあった電気室・ボイラ
ー室と共に市民課の執務空間へと置き換わり、加
えて南側外部に張り出して男子トイレが増築さ
れている。
1 階の大部分は竣工時において、ホールや食堂、
休憩室など行政業務とは直接関係しない用途と
して計画されているが(図 17)、西側は執務空間
として福祉事務所(②)、保健所(①)が置かれて
おり、それぞれ社会福祉課、高齢者福祉課となっ
て今に至っている。また、機械室・ボイラー室は
地下に置かれることが一般的と思われるが、海岸
沿いの立地による悪影響を鑑みて 1 階に配して
いたものと理解できよう。
2 階は、中央コアを挟むように南北にカウンタ
ーが備え付けられ、間仕切壁のないワンフロアの
執務空間となっている。竣工時の各課配置は、北
側に税務課(②)、東側に国民健康保険課(③)、
図 28
尾道市庁舎 各階配置図(竣工時)70)
南側に市民課(④)、市金庫(⑤)
、収入役室(①)
¦ 13
が配されている。なお、現在の各課配置は、北側に資産財政課と保険年
金課、東側に市民税課、南側には収納課、市金庫とあり、1972(昭和 47)
年の増築部分にわたって、会計課、会計管理者室、監査事務局が置かれ
ている。市民課が 1 階に移っている以外は税務・財務に関わる各課が配
されており、平面構成ともに大きく変わりがなかったことを理解できる。
3 階は中央コア周りにロの字型に廊下を巡らし、その周りに間仕切壁
で隔てて各課を配置する構成である。それはすなわち、北側から第 2 会
図 30
尾道市庁舎 断面図 72)
議室(②)、選委事務局(③)、調査室分室(④)、商工観光課(⑤)、そ
して東側にかけて農林水産課(⑥)、さらに南側には水道部(⑦)、監理
課(⑧)、土木課(⑨)、建築課(①)と並ぶ。現在も建築課・土木課な
どが残るが、各課・配置ともに大きく違えている様子がうかがえる。
4 階も基本構成は 3 階と同じで、中央コア周りに廊下を巡らし、その
周囲に間仕切壁を備えて各課を置くというもので、現在の平面構成と大
きくは変わっていないことがわかる。北側から第 1 会議室(②)、大会議
室(③)、調査室(④)教委会議室(⑤)と並び、東側には教育委員会
(⑥)、南側には財務課(⑦)、総務課(⑧)、助役室(⑨)、応接室(⑩)、
そして西側に市長室(①)が置かれている。今も財務課・総務課が残っ
ているが、同じフロアでも配置は変わっており、市長室も西側増築部分
(1972 年)に移っていることから、3 階同様に各課・配置ともに大きく
変更が認められる。また、トイレに関しては、竣工時は男女の別がなかっ
たように見えるが、現在は 3 階を女子トイレに、4 階を男子トイレとし
図 31
倉敷市庁舎 外観・断面図 73)
図 32
益田市庁舎 外観・断面図 74)
て分けて使用しており、設備面の不便さを少なからず感じさせる。
5,6 階は、西側より 3 スパン、4 スパンの部分に中央コアをまたいで
議場(⑫)を置く。議場は天井高さにおいても大空間とすべく 6 階まで
吹抜けとし、議場に張り出すように傍聴席(6 階-④)、階段を南北に挟
むように会議室(6 階-③)、教養娯楽室(6 階-①)を備えていたが、
現在は西側に増築部分が接続され、農林水産課・農業委員会事務局が置
かれている。
5 階は中央に議場があるため、廊下の形状こそは複雑に見えるが、西
側には第 1,2 委員会(5 階-①、②)、南側は記者室(5 階-③)、電話
交換室(5 階-④)、監査事務局(5 階-⑤)、そして東側から南側に向け
て、第 1~3 議員控室(5 階-⑥~⑧)、正副議長室(⑨)、応接室(兼図
書室、5 階-⑩)、市議会事務局(5 階-⑪)となっており、各室用途の
独立性が高いことから、大きく不便を被るまでには及んでいなかったで
あろうことが想像できる。なお、現在は西側増築部分にスペースが拡張
されているが各室の配置や平面構成については大きく変容がないことが
わかる。
このように幾分か仔細にわたって尾道市庁舎 1~6 階までの平面構成、
そして各課・各室の配置構成を見てきた。全体的には西側に増築部分が
加えられたことにより(1972 年)、その平面構成に少なからず変化がう
図 33
呉市庁舎 断面図 75)
¦ 14
かがえたが、それを除くと 1 階の南東側から南側にかけての改変(食堂・機械室・ボイラー室から市民課への変更)のほかは概
ね原形を留めているように受け止められるものであった(後にふれるが、内装の改変はこれに限るものではない)。
これを踏まえて、尾道市庁舎を各階単位で、その機能に応じて大まかに捉える。すなわち、1 階は市民にも開いたオープンス
ペース(現在は市民課が移り、市民へのサービスフロアへと変容)、2 階は市民へのサービスフロア、3 階は外部向けの専門部署・
部局、4 階は市政内部向けの各課、5,6 階は市議会フロアとなるだろう 76)。
通常市民サービスを担う各課は、市民のアプローチが容易い 1 階に配されるが、尾道市庁舎では 2 階に置かれている。具体的
な計画内容は知り得ないが、当初案において外部から階段で直接 2 階にアプローチできるものであったらしく
77)
、さらに増田
が言うには、コアシステムの採用は配管や空間の単純さによる経済性、合理性を目すもので「第二階の平面を見ると四八米×一
八米(二六一坪)の全面床がコアを中心にもつ一室である。このように単純明快な平面をもつ建物はいまだ嘗くないのでありま
す」78)と、この 2 階こそが尾道市庁舎の平面構成を特徴づけるものとして考えられていた。
尾道市庁舎は下層から上層に向けて、広く不特定多数の市民を対象とするところから次第に狭まり、内向きになっていくが、
最上階に議場を置くことで再び外向きに開くのを基本構成とする。このことは敷地・建物配置の節でふれてきたように、敷地の
形状・大きさに伴う制限があることに対して、行政事務部門と議会部門を 1 つのボリュームに収めることに解を求めたことによ
る。つまり、尾道市庁舎は 1~4 階までは行政事務部門とし、横(平面)にも縦(断面)にも逸脱したボリュームとなり、配置
の難しい議場を市庁舎内に収めるため、5、6 階を議会部門として積層することで、解決を図ったのである(図 17、30)。
こうした議会部門を行政事務部門に積み重ねる方法は、尾道市庁舎に限ったものでもなく、倉敷市庁舎(丹下健三設計、1960
年)
(図 31)、益田市庁舎(石本建築事務所設計、1961 年)
(図 32)、呉市庁舎(坂倉準三設計、1962 年)
(図 27、33)など、同
時期に竣工した庁舎建築に類例が見出されるもので、この点もまた、当時の庁舎建築に共通して見られる特徴をよく汲み取って
いたと理解できる。
以上のことから、尾道市庁舎を織り成す平面構成(コアシステムの採用、議場の最上階配置)は、1960 年代の庁舎建築のもつ
一般的特性を有し、当時の時流を確実に反映させたものとして成立を見たものであった。名実ともに尾道における高度経済成長
期の一時代を象徴する記念碑であったといえるだろう。
さらに内部意匠にも踏み込みたいところではあるが、実見に及んでいないことから、ここでは竣工当時の雑誌(『新建築』1960
図 34
尾道市庁舎 1 階ホール 79)
図 37
尾道市庁舎 議場(前方)82)
図 35
図 38
尾道市庁舎 1 階 EV ホール 80)
尾道市庁舎 議場(側面)83)
図 36
図 39
尾道市庁舎 2 階執務室 81)
尾道市庁舎 議場(後方傍聴席)84)
¦ 15
年 8 月、
『建築と社会』1960 年 9 月)に掲載された各種部材を並べ、内観を伝える写真を併せて添えるに留める(図 34~39)。
[各階]
壁・梁:鉄筋コンクリート造打放し仕上げ
ボーレックス吹付(防水材)
[議場]
壁:アラスカ桧厚板竪羽目透し張り化粧釘打ちワックス拭き 一部テラカッタタイル貼り(淡黄土色)
天井:リソイドかき落し
高窓:スチールサッシュスリガラス入り
床:アスタイル貼り(青)
傍聴席手摺:アラスカ桧寄木ワックス拭き
傍聴席端隠し:コンクリート打放し
長岡大樹氏によると、
「増田の建築は外貌の建築といえる。ドラマティックな内部空間は極めて少ない。内部の多くは外皮の
裏返しに過ぎず縹渺とした空間が広がる」85)という。これに従えば、内部意匠の考証をせずともよいというように受け止められ
なくもないが、そこまで割り切ってよいかは少なくない躊躇を感じるところである。尾道市庁舎の内部意匠を論じることは、今
後の課題として残しておきたい。
1-7.尾道市庁舎の外観意匠
尾道市庁舎の竣工当時(1960 年 4 月)に新聞に掲載された遠景写真(図 40)を見ると、まだ周囲を棟高の低い家並が取り囲
んでおり、市庁舎の建物高さには際立つものがある。
「九万市民のシンボル」86)として、その堂々とした威容を誇示していたこ
とであろう。
今でこそ周囲の建物高さが高層化したことで、さほど違和感は感じないが、その上で効果的であるのが、外観に水平に走った
5 層の庇(バルコニー)であり、尾道市庁舎の有する量塊性・垂直性を和らげ、周囲の町並・家並のコンテクストに調和した表
情を織り成している(図 41)。まさに増田が、その竣工時に寄せた「われわれは目さきの奇抜さを追うよりも、時間という厳し
い批判にたえ、長く生き残るものをねがっている」87)の通りであり、時間さえもデザインしたと言ってもよい、その先見さには
驚かされる。
この各階に巡らされた庇(バルコニー)は、先行研究に言うところの「張出し庇」を纏ったものであり、増田友也の壁の造形
(作風)にあって「梁の延長体である張出し庇がファサードをめぐり、各層ごとに水平の帯が走る」という[Ia 型] に類される
もので、
「庇の時代」の特に初期作品(1957~1959 年の間に設計した建築作品)に共通して見られる意匠である 88)。尾道市庁舎
は、増田友也の建築作品において、実施全 61 作品の中でも 5 作目にあたる初期作品の 1 つであり、その作風を特徴的に備えて
いたことがわかる。
庁舎建築も含めたオフィスビルは、一定規模の執務空間を保有するために直面してきた数々の課題がある。明治時代から昭和
戦前期までは、いかに採光を得るかであり(そのため戦前のオフィスビルは、光庭・中庭を有するものが主流である)
、戦後か
ら 1960 年代頃までは、執務空間の環境整備(冷暖房など)、それ以降は柱の少ない無柱空間化と高層化、さらには IT 化への適
図 40
尾道市庁舎 遠景 89)
図 41
尾道市庁舎 北西側外観
図 42
香川県庁舎 外観
¦ 16
応というものである。これらは人工照明や機械空調(エアコン)の浸透、つまり、
環境負荷を伴うエネルギーを惜しみなく投入することによって課題の解消を経て
きた系譜にあるが、戦後から 1960 年代頃は、まだ不十分な空調設備を補うために
周囲にバルコニーを巡らし、直射日光の制御、そして自然換気によって執務空間
における環境整備を行ってきた。
先に尾道市庁舎は、増田友也の初期作品に共通して見られる「張出し庇」を外
周に巡らすことによる水平性をもつことにふれてきたが、前後して竣工している
香川県庁舎(丹下健三設計、1958 年)(図 42)、呉市庁舎(坂倉準三設計、1962
年)(図 27、33)など、周囲にバルコニーを巡らす類例は少なくなく、増田の建
築作品に限って見られたというよりは、1960 年代の庁舎建築(オフィスビル)の
外観意匠を全国的に特徴づけていたものを尾道市庁舎も同じく携えていたと見る
方が正確であろう。
しかし、この庇には他作品に見出せない、増田友也にあって尾道市庁舎特有の
図 43
尾道市庁舎 軒裏詳細
建築意匠が込められている。1 階庇は 1.2m幅とし軒裏の梁材を露わしとして、
手すりの高欄幅を薄くし、2 階庇は 2.4m幅とし、1 階同様に軒裏の梁材を露わしとするが、手すりの高欄幅は 1 階より厚くす
る。3~5 階は 2 階同様に 2.4m幅、手すりの高欄幅を 2 階と同一にするが、軒裏は塞いで覆い隠す。それに合わせて壁面にも操
作を加えており、1,2 階の下層部分(ならびに 6 階)はガラス壁面を柱心に備えた真壁、3~5 階の上層階は柱外周側にカーテ
ンウォールでガラス壁面を張り出した、いわゆる大壁の表現として、その対比をなしている。上下階で庇・壁と外観意匠をあえ
て段階的に違える操作をなぜ施したのであろうか。全て同じ規格で統一したデザインとさせるのが建築家という「人種」であろ
う。
このことについて、尾道市庁舎の竣工当時に増田友也が次のように述べている。
それは日本と西洋との建築伝統への反省と、これらをしっかり踏まえた新らしい両者の融合への意欲ともいえよう。日本建築の中にみられる
情緒に溺れることなく、西洋建築の伝統を形づくる秩序の精神を評価する。90)
ここから庇・壁の操作を汲み取れば、[1、2 階(6 階)庇:軒裏の露出=日本
西洋
壁:真壁=日本][3~5 階
庇:軒裏の被覆=
壁:大壁=西洋]というボキャブラリーで構成されており、それも 2 階庇の手すり形状と張出し幅を上階(3~5 階)と合
わせることで、下から 日本 → 西洋 と段階的に表現を移ろわせ、これを鉄・ガラス・コンクリートという近代建築を構成する
建築材料で、その全体を機能性・合理性に基づき組み上げ、モダニズム建築の原理の中で融解させる 91)。ここでいう西洋とはギ
リシャ・ローマのようなヨーロッパの古典というよりは、日本伝統の建築意匠とは異なる、明治時代以降に到来した新しい様式・
意匠という総体的な意味であろう。日本の伝統的意匠を象徴させた庇もまた、1 本の柱の両側に 2 本、1 スパンに 4 本(東面・
西面の中央部分は 2 本)を片持ち梁として張り出し(図 43)、端部に垂直に立てた鉄筋コンクリート板を庇下まで延ばして鼻隠
板状の納め方でまとめており(このため庇端部に集中荷重がかかり、構造的には合理的ではなかったと映る)
、いわゆる伝統建
築の斗栱とは趣の異なる省略・意訳された意匠であり、「和様」というよりは「和風」というべきものであった。
コアシステムの採用によって、あたかも五重塔と同じように、その外部に現れる肢態が明らかに分節化し、甚だ軽妙な印象を与え、それが鉄
筋コンクリートの打放し仕上げと相まって伝統的な日本的性格を強く打ち出しているのであります。92)
つまり、増田はこれらの「日本」「西洋」の要素をもって、尾道市庁舎における建築意匠の骨格を形成するに、中央のコアシ
¦ 17
ステムを心柱に見立て、仏教寺院の仏塔のイメージを投影していたとい
える。加えて、日本の伝統建築が素木のまま露わしとする特質を伴うこ
とから、鉄筋コンクリート打放し仕上げであることにもまた、日本の伝
統を見ていたことも読み取れるだろう。
そして、外周は鉄筋コンクリート造による柱・梁で組まれたラーメン
構造で固める。このことに増田による言及は見出せないが、市庁舎竣工
に寄せた青山俊三市長の言葉に「この市庁舎は鎌倉時代の剛健な建築様
式を基調とした斬新な設計」93)とあり、増田もしくは設計関係者がこの
ように説明していたと想像できる。すなわち柱・梁の剛接合による貫架
構と受け止め得るものとして、日本の伝統建築のイメージから想起され
ていたと見ておきたい。
図 44
薬師寺東塔 外観、立面・断面図 94)
それにしてもこの 5 層の楼閣は決して華美なものではない.なにかをねらったというところも少ない.じみな外観はこの地方の倉を思わしめ
て嬉しい.作者は決して薬師寺の東塔をねらったのではなくて、当麻の東塔になったのだと思うし、またそれは決して浄瑠璃寺の塔になるもの
でもなかった.95)
尾道市庁舎に向けて、広島大学の佐藤重夫が寄せた批評文の一節である。佐藤が建築歴史・意匠を専門とすることから、薬師
寺東塔でもなく、當(当)麻寺東塔であり、それでいて浄瑠璃寺三重塔でもないとする。
これらはいずれも国内に残る最古級の三重塔で、薬師寺東塔(730 年/天平 2 年)は、天平文化の華やかな造形美をなすもの、
當麻寺東塔は、奈良時代末期の建立で、2 層 3 層が幅 2 間となり中央に柱を立てる事例が他になく、大陸伝来の仏塔の起源を伝
えるもの、そして浄瑠璃寺三重塔は、平安時代後期に移築され、日本風に洗練された和様の意匠を纏うものである。
この批評で佐藤が尾道市庁舎に見たことは、當麻寺東塔が薬師寺東塔とも、浄瑠璃寺三重塔とも異なるということで、それは
すなわち華美さこそないが本質を備えた堅実な作品であるといったところだったのだろう。
ただ、気にかかることがある。
「5 層の楼閣」と述べていれば、五重塔を例に説きそうなものであるが、なぜ三重塔に例えたの
だろうか。
尾道市庁舎の 1 階庇は 1.2m幅と、2 階以上の 2.4m幅に比べてひと回り狭い造作となっている。これは仏塔に見られる裳階
の表象であったと考えられ、増田は尾道市庁舎のモチーフを、その造形美で高名な薬師寺東塔(図 44)に求めていたのであろ
う。おそらく佐藤はこのことを何らかの形で耳にしており、それを踏まえてこの批評文の一節を寄せていたと考えられる。
以上のことから、尾道市庁舎の外観意匠は薬師寺東塔をモチーフに、下層から上層に向けて庇と壁の操作により、日本 → 西
洋 と段階的に移ろわせつつ、近代建築の材料(鉄・コンクリート・ガラス)と機能性・合理性に基づくモダニズム建築の原理
で全体をまとめ上げたものであるという 1 つの見方に至った。
はっきり言えることは、増田友也が尾道市庁舎の設計にあたって、明確に日本と西洋、それぞれの建築の伝統を視野に捉えて
いたことである。
その動機を増田の言論から直接的に見出すことは難しいが、おそらく伝統論争に遠因があったのではないかと考える。
伝統論争 96)とは、1955(昭和 30)年から 2,3 年ほどの間に突発的に沸き起こったもので、1955(昭和 30)年 1 月、
『新建築』
紙面に丹下健三による「現在日本において近代建築をいかに理解するか-伝統の創造のために」が発表されたことを端緒とし、
これにおいて 2 つの方法が示されている(同時に「岩田和夫」名義で、同誌編集長であった川添登が「丹下健三氏の日本的性格
-とくにラーメン構造の発展をとうして」を発表し、丹下論文を内容的に補完している)。
¦ 18
1 つは「伝統の形がなくとも伝統の精神は踏まえているとする態度」、もう 1 つは「精神ではなく、具体的な形において伝統を
生かす方向」で、丹下自身は後者として、モダニズム建築のデザインの中に日本の伝統性を込めようとする姿勢を表明したとい
う内容のものであり、それを象徴する作品というのが、香川県庁舎(1958 年)(図 42)であった。
論争というからには、少なくない建築家が自らの主張を様々に展開したはずだが、その多くは今になって耳にすることは少な
い。その唯一といえるものが、白井晟一による「縄文的なるもの」
(『新建築』1956 年 8 月)で、これは丹下が先の論文に次いで
発表した「現代建築の創造と日本建築の伝統」(『新建築』1956 年 6 月)で、伊勢神宮と桂離宮に日本建築の伝統を見たのに対
し、これらが白井に言わせると「弥生」の系譜にあたり、それでいて「縄文的なるものの生命力」を説いたものであった。
この伝統論争において、それこそ増田友也の存在が挙げられたことはないが 97)、博士論文『建築的空間の原始的構造 Arunta
の儀場と Todas の建築との建築学的研究』
(1955 年)をまとめて間もないタイミングであるし、後には「家と庭との空間構成に
ついての覚書」
(1958 年 1 月)、さらには「ここ 10 年近く筆者が京都大学において欧米からの留学生たちに対して行ってきた日
本の伝統的住宅の室内構成についての講義の基本的部分を概説的に整理したものである」98)という『家と庭の風景-日本住宅の
空間論的考察-』
(1964 年)がある。先にふれてきたように、市川秀和博士によれば、これらは「自国の伝統的な空間構成を敢
えて「西欧的思考」で以て捉え直そうと試みた」99)もので、尾道市庁舎に向けて増田が添えた「日本建築の中にみられる情緒に
溺れることなく、西洋建築の伝統を形づくる秩序の精神を評価する」100)というのと通ずるものである。直接加わった形跡はな
かったにしても、増田が伝統論争に強い関心を抱いていたことが明らかに浮かび上がってくるものである。つまり尾道市庁舎は、
増田友也がモダニズム建築において日本の伝統性をどのように捉え、表現するかという命題に向き合った造形として、結晶化さ
せたものであったと考えられるだろう。
本節の最後に外観意匠を織り成す素材とその移り変わりに目を向ける。雑誌に掲載された尾道市庁舎の外観に関わる仕上げ材
料は次の通りである。
軸
部(柱・梁など):コンクリート打放し
手
摺:現場打ちコンクリート打放し
ボーレックス吹付け
軒
裏:1,2 階コンクリート打放し
3,4,5 階ドロマイトプラスター塗り
犬走り:鉄平石方型乱貼り
ボーレクッス吹付け(防水材)
101)
現在の尾道市庁舎は、1972(昭和 47)年に西側に増築部分が加えられてはいるものの、外観そのものは 1960(昭和 35)年の
竣工時とほとんど変わらないように映る。開口部に嵌め込まれたスチールサッシ、3~5 階の庇軒裏のドロマイトプラスター塗
り、犬走りの鉄平石貼りも変わらずに残っており、外部唯一の
表5
尾道市庁舎 コンクリート状況の結果 102)
更新箇所は打放しコンクリート壁面に白色系の塗装が施されて
いる程度であろう。
耐震診断に合わせて把握されたコンクリートの状況は、圧縮
強度は全体的に設計基準強度 17.6 N/㎟を超え、25 N/㎟程度を
確保しており、中性化深さも 1 階(31.2 ㎜)を除き、20 ㎜ほど
に留まる概ね良好な状態であった(表 5)。塗装による補修を施
していたことによりコンクリート性能が守られてきたのであろ
うから、壁面塗装による外観の変化は些末なことに過ぎないも
のだろう。このように創建時の姿がよく維持されてきており、
極めて良好な保存状況であることは特筆に値するものである。
¦ 19
2.尾道市公会堂
2-1.尾道市公会堂の建設計画の経緯
尾道市において公会堂建設が持ち上がったのは古く、1933(昭和 8)年の市議
会に「公会堂建設に関する意見書」が議決されたことに始まり、さらに 1950(昭
和 25)年頃には建設計画が具体化されたこともあったという 103)。つまり、尾道
市公会堂は長きに亘って尾道市民が完成を待ってきた待望の建築であったことが
わかる。
公会堂の設置・建設は、その後も課題として継続しており、尾道市議会昭和 32
年第 3 回定例会(1957 年 7 月 6 日/第 4 日目)において、「尾道市公会堂早期実
現に関する請願」が提出され 104)、同年第 4 回定例会(1957 年 9 月 25 日/第 3 日
図 45 尾道市公会堂 南西側外観(2014 年 12 月)
目)では、先述してきた市庁舎と共に建設についての調査を進めることが承認
されている 105)。公会堂市庁舎建設調査特別委員会も組織され 106)、公会堂は尾道市庁舎と同時に建設計画が進められていたこと
がわかる。これは市制 60 周年の記念事業として、総工費 9,825 万円(当時価格)にて、尾道警察署跡地(現在の尾道商工会議
所記念館の西隣)への計画で具体化したが、この時も財政再建計画などの理由で一時延期となったという 107)。
その建設が実現に向けて再び動き出したのは、市庁舎が竣工してからであった。尾道市議会昭和 35 年第 2 回定例会(1960 年
6 月 28 日/第 2 日目)において、公会堂建設に関わる請願書の提出、そして公会堂建設特別委員会が設置されている。さらに一
般質問に対する答弁の形で、公会堂敷地がまだ決まっていないことが記録に残っている 108)。
結果として尾道市公会堂は、市庁舎東隣の陸地に向かって窪んだように海が入り込んでいた船着場(尾道市久保 1 丁目 15-
1、竣工当時は久保町字築地丙 644)(図 14、15)を埋め立てて建設地を新たに造成する方針となり、1961(昭和 36)年 5 月 22
日に漁協の了承を得て、認可となった 109)。つまり、現在公会堂の立つ敷地は 50 年前までは海だったのである。
こうして建設計画は進み、市議会昭和 36 年第 4 回臨時会(1961 年 8 月 22 日/第 1 日目)で土地の埋立・造成を出光興産が
入札したことにより、その業務を委託し 110)、同年第 6 回臨時会(1961 年 11 月 20 日/第 1 日目)において、総工費 1 億 8,292
万 4,000 円(内訳:公会堂建築費 1 億 5,493 万 4,000 円、敷地造成費 1,850 万円、事務所移転費 1,920 万円、設計現場監督・地
質調査委託料 610 万円、漁協補償 147 万円)を、昭和 36、37 年度 2 か年の継続事業として支出すること 111)のそれぞれが可決
されている。設計と施工は、市庁舎建設の時と同じく、設計を財団法人建築研究協会、担当を増田友也とし、施工は建築主体工
事を大林組(請負金額 1 億 2,470 万円)、冷暖房衛生設備工事を朝日工業社(請負金額 2,998 万円)、電気設備工事を中国電気工
事株式会社(請負金額 1,622 万円)がそれぞれ担当することになった 112)。
施工は 1961(昭和 36)年 12 月に入札を行い、尾道市議会昭和 36 年第 7 回臨時会(1961 年 12 月 27 日/第 2 日目)において
議決確認を経て決定しているが
113)
、設計者がいつ決まったかについては具体的な日時はうかがい知れない。後に雑誌に設計者
(増田友也か建築担当の土井崇司と思われる)が寄せた説明によると、「最初市庁舎設計の時には海面の埋立てなどは思いもよ
らなかったので、公会堂には別の場所が予定されていた …(中略)… 最初に庁舎設計を始めてから 6 年、公会堂にかかわって
すでに 5 年、その間、敷地のみならず、建築条件も二転三転して、今日に見られるようなものになった」114)とあることから、
尾道市庁舎の建設中となる 1959(昭和 34)年の内に公会堂設計を担うことになっていたのであろう。
2-2.尾道市公会堂の建設経過と建築概要
尾道市公会堂は、1962(昭和 37)年 2 月 4 日に起工した。建設敷地は上述の通り、市庁舎東隣となる船着場を埋め立てて造成
するもので(図 1、14、15)、着工時には市庁舎別館、県税事務所、カーポート(市庁舎建設に合わせて 1960 年に新設)があっ
たが(図 46)、これらを移転・撤去して、市庁舎との間に「綜合広場」を設ける計画とし
115)
、完成予想図(図 47)には市庁舎
との間に屋根のついた通路が描き込まれている。
建設工事の経過は、
『広報おのみち No.121』
(1963 年 3 月)に「公会堂建設の歩み」と題して簡易的にまとめられており、こ
¦ 20
れに同紙(No.113 1962 年 7 月、No.118 1962 年 12 月)での経過報告と合わせて建設経過を概観する。
まずは新たに埋め立てることになった敷地の造成から始まり(図 48)、これが 1962(昭和 37)年 7 月までと半年間を要してい
る(図 49)。翌月から基礎工事が始まるが(図 50)、
「予想外に困難な地盤」116)での難工事を経て、1963(昭和 38)年 1 月には
躯体工事がほぼ終わり(図 51、52)、そして内装工事等を終えた 1963(昭和 38)年 3 月 25 日に竣工を迎えた(図 53)
。翌 26 日
に落成式を執り行い、以降 31 日まで 6 日間にわたり、日本舞踊やピアノ・リサイタルなど各種催しや成人式など祝賀行事が行
われた 117)。
以上の経緯をもって、完成に及んだ尾道市公会堂の建築概要は次の通りである
118)
。設計監理を財団法人建築研究協会とし、
担当を京都大学増田研究室(指導:増田友也、建築担当:土井崇司(現滋賀県立大学名誉教授)
、設備担当:原田武男、監理担
当:馬淵栄一)
、施工は大林組、電気工事は中国電気工事株式会社、給排水衛生暖房工事を朝日工業社がそれぞれ担当し、建物
規模は敷地面積 2,330.32 ㎡、建築面積 1,662.84 ㎡、延床面積 2,369.83 ㎡、高さは軒高(折板部パラペットまで)10.49m、最
高高さ(フライタワーまで)17.68m であった。また、構造・階数は鉄筋コンクリート造折板(版)構造一部ラーメン構造で、一部
地下 1 階地上 2 階建、収容人数は固定席 720 席、移動席 426 席の計 1,146 席である。
そして総工費(当時価格)は、設備衛生附帯工事を含まずに 1 億 8,292 万 4,000 円で、これには公会堂積立金 1 億 1,792 万
4,000 円、警察署跡地売却などによる財産収入 2,800 万円に加えて、建設募金 5,700 万円(内訳:建設費の一部として 3,700 万
円、附属設備・内部整備費として 2,000 万円)が目標額として加えられていた 119)。その寄付総額は把握できていないが、
『尾道
戦後の歩み-その光と影-』(1992 年)に内訳の一端がまとめられており、次頁に整理する。
図 46
図 48
尾道市公会堂 建設予定図 120)
尾道市公会堂 建設経過(埋立)122)
図 51 尾道市公会堂 建設経過(躯体)125)
図 47
図 49
尾道市公会堂
尾道市公会堂 建設経過(埋立完了)123)
図 52 尾道市公会堂 建設経過(屋根)126)
完成予想図 121)
図 50
尾道市公会堂 建設経過(基礎工事)124)
図 53
尾道市公会堂 竣工時外観 127)
¦ 21
・昭和 15 年の青山源七 10 円、井上利右衛門 2 円
80 銭が最初の寄付
・日立造船向島工場が 700 万円を寄付
・尾道造船、久保田鉄工、広島銀行が各 500 万円
を寄付
・金尾馨(尾道商工会議所会頭)
、大林組、向島船
渠が各 300 万円を寄付
・中国銀行、広川(株)
、宮地弘商事が各 200 万
円を寄付
・本多里二商店(現北洋本多フーズ)が 150 万円
を寄付
・山陽日日新聞社が 1 万 5,460 円を寄付
・漁業組合が 735 万円(敷地の埋立・造成による
漁業補償費から半額)を寄付
・各漁協から尾道 29 万 4,000 円、吉和 18 万 3,000
円、向島町 14 万 7,000 円、歌浦 11 万 2,000 円
を寄付
・尾道市職員組合 1,056 名が 1958(昭和 33)年
から 2 年間月給 2%分を寄付
・文化連盟から 23 万 3,260 円を寄付
このように市民・企業だけでなく、尾道市
職員からも寄せられた多額の寄付もあって
尾道市公会堂は建設されていた。
2-3.尾道市公会堂の建物配置と平面構成
尾道市公会堂は、上述してきたように市庁
舎東隣に広場を挟み、西面して配されている。
現在は南側に市庁舎から続く駐車場が置か
れているが、これは後年における埋立・造成
によるものである。
図 54
尾道市公会堂 建物配置図・各階平面図 128)
公会堂の建築は、短手側(南北方向)33m、
長手側(東西方向)54.7m で 130)、市庁舎と同
じく東西に幾分か長い矩形形状で、ボリュー
ムに関して言えば、周囲の町並・家並のコン
テクストにそぐうものである。長岡大樹氏の
分析に従えば、アプローチを短手側に向けた
方向軸を備える「directional」にあたり、特
に「1960 年代になると方向軸の定着が減り、
図 55
尾道市公会堂 断面図 129)
radical な空間が増える」という傾向を照ら
¦ 22
し合わせれば、多少時期を遡る特徴を有するものと理解できる
131)
。長手側にアプローチを備える市庁舎に比べて対照的な様相
を示すが、これは市庁舎との間に設けられた広場を介してアプローチさせるという設計意図に基づいたものであろう(図 54)。
その平面構成(図 54)は、エントランスを通じて、まずはホワイエを置き、その後方にホール(客席・舞台)を連ねる。1 階
ホワイエは、幅 4.8m より奥側を迫り上がる 2 階客席部分下部に潜り込ませて(図 55)、天井高さを確保するために半地下に掘
り下げて男女トイレを置いている。共に幅 5m としているため、男子トイレに限っては極端に広いスペースに映る。また、その
両側にホール出入口を構え、両袖の通路を介して客席中列・前列に至る形とする。通路を挟み入れることで外壁とホール内部を
切り離しており、遮音性能の向上に効果があったと推察される。
ホールにはホワイエ両脇の階段を昇り、2 階ホワイエからも客席後方に通じているが、特に 2 階には映写室が置かれているこ
とからも 700 席の固定席を有するホールにしては、1、2 階ともに全体的にホワイエは余裕に乏しい印象である。これは前面に
置かれる広場ならびにファサードに延びるバルコニーと一体的に使用することを前提とした計画であったのかもしれない。
内部意匠は、柱・梁の打放しコンクリート、床のタイル敷など、概ね創建当初の設えが維持されていると見るが、エントラン
スのドアハンドル、ホール出入口のドア、階段下への小室の付加など、ごく微細にその改変が把握できる(図 56~58)。
ホールの客席もまた、前方を掘り下げ、およそ 9m を平土間とし、その後方から勾配をつけて迫り上げ、2 階ホワイエに接続す
る。この平土間部分は移動椅子としており、用途に応じた可変性を備えているという
132)
。ホールの内観には、後にふれる折板
構造の造形が天井に反映されており、両側の壁面はフランス積のレンガ壁を彷彿とさせるような目を引く意匠が施されている
が、壁体そのものは平板で、全体のホール室形はシューボックス型とする(図 59、60)。なお、この両側面の壁は後に改修され
ており、現在は木調の設えになっている。
舞台は、プロセニアムアーチを持つ一般的な形式で、間口 17m、奥行 9m、高さ 6m で、上部にフライタワーを備えている。舞
台裏は 1 階に機械室と管理室、2 階は楽屋が並ぶ、いわゆるバックヤードとして構成されている。なお、この楽屋には、会議室、
展示室等に幅広く利用できるように可動式のパーテーション(movable partition)を備えていたということである 133)。
図 56
尾道市公会堂 1 階ホワイエ(創建時)134)
図 59
図 57
尾道市公会堂 1 階ホワイエ(現状)
尾道市公会堂 ホール内観(創建時)135)
図 60
図 58
尾道市公会堂 2 階ホワイエ(現状)
尾道市公会堂 ホール壁面意匠(創建時)136)
¦ 23
2-4.尾道市公会堂の外観意匠と構造形式
尾道市公会堂は市庁舎東隣に位置し、共に増田友也によって設計された市庁舎・公会堂が同一敷地に並ぶ。今治市庁舎・公会
堂(丹下健三設計、1958 年)など、こうした類例はごく限られており、少なからず建築史学上における歴史・文化的価値を認め
得るものであるし、尾道水道に面して市庁舎と公会堂が並んでいることに郷土・尾道の誇りと愛着を抱く市民も少なくないこと
であろう。
その両建物は、市庁舎は上述してきたように 5 層の庇(バルコニー)による水平性を強調した線的な建築意匠(図 3)、公会堂
は
型の枠で縁取られているとはいえ、量塊性のある面的な建築意匠(図 45)となっており、両者に統一感や整合性があるかと
いうと意見の分かれるところであろう。個人の見解では、市庁舎と公会堂を取り巻く外観意匠の開きは大きいと見えて、それぞ
れ個別の作品として、理解しておきたいところである。
尾道市公会堂が面的な建築としてあるのは、折板構造を採ることによる。この折板構造は古く 1920 年代初期(大正 10 年代)
には見出されており、主にドイツで研究蓄積がなされてきた。戦後になってからはアメリカに輸入されて広く認められるように
なり 137)、ユネスコ本部第 1 会議場(M.ブロイヤー、B.ゼルフェス、P.L.ネルヴィの共同設計、1958 年)が先駆的な事例として
知られる。国内でも福島県教育会館( MID 同人設計(担当:大高正人)、1956 年)(図 61)にいち早く採られ、世田谷区民会館
(前川國男設計、1959 年)、群馬音楽センター(A.レーモンド設計、1961 年)
(図 62、63)など、1960 年前後に類例が集中して
いる。その特徴は屏風を開いたような蛇腹状のコンクリート壁を構築することで耐圧・耐震性を高め、柱を使用せずに、加えて
柱・梁によるラーメン構造よりコンクリート量が少なくて済むことから、合理的・経済的に大空間を形成できるというものであ
り、実施事例も公会堂、ホール、講堂が多い。
尾道市公会堂に折板構造が採られたのは、導入事例が増えつつあった時代の潮流を受けてのことでもあっただろうが、「海面
を埋立てた敷地でもあり、地盤がよくないので、集中荷重をできるだけ排除し、またできるだけ軽くするために常套手段ながら
折版造を採用した」138)という、至極現実的かつ合理的な理由からであった。
その外観意匠は、壁・屋根ともに折板構造による蛇腹状の壁面も特徴であるが、それと共に短手側(東面・西面)に大きく、
長手側(北面・南面)に 9 分割されて縁取られた
型の配列が全体の形状をボックス状に納めていることが重要である(図 45)。
折板構造では、斜めに入れ違いに配列されるコンクリート壁面の面的表現を活かして、折板の接合部分を鋭角に切り立てて、ソ
リッドなフォルムとしてまとめる事例が多いが(図 61~63)、尾道市公会堂ではそれを厭い、無難とも見えるボックス状の造形
に表現を抑えている。そのことにより折板の造形が内部を抉ったような形となって表われており、いわば「マイナスの表現」と
も言えるようなデザインとなって表層している。
これは市庁舎との建築意匠上の調和を図るためのものであったのだろう。それは「市庁舎とは、平面、立面双方にわたり同一
module をとった。これは庁舎との間に生まれる、形質の相異から来る、緊張感およびその統一を実現するための手段であった」
139)
ということからも、その姿勢を読み取ることが可能であり、加えてこのことは、公会堂の南北面を構成する折板 1 枚分が市
庁舎の南面・北面(東西方向)の柱スパンと同じ 6m 幅としていることにより、その同一幅の配列のことを示していると考えら
れる。なお、短手側(東面・西面)とのモジュール(寸法規格)は読み取り難いが、市庁舎と対峙する方向であることからして、
特に企図されてはいなかったのではないだろうか。
図 61
福島県教育会館
図 62
群馬音楽センター 正面外観
図 63
群馬音楽センター 鳥瞰 140)
¦ 24
西面となるファサードであるが、先にふれたように全体を大きく門型のフォルムとして形成し、そこに入れ子状に小規模な門
型のフレームを備え、市庁舎と同一デザインになる手すりを携えたバルコニーを兼ねたエントランスする(図 45)。これは先行
研究が言うところによる「袖壁と屋根スラブがファサード全体を門型に枠づけている」という[Ⅱ型]に類されるもので、「庇の
時代」の特に前期作品(1960~1963 年の間に設計した建築作品)に共通する意匠である 141)。尾道市公会堂もまた、市庁舎同様
に増田友也の建築作品において、実施作 61 作品の中の 15 作目となる前期作品の 1 つとして増田の作風の特徴を備えており、さ
らに尾道市庁舎が纏う「張出し庇」による水平性の表現という、初期作品からの移り変わりを対照的にかつ象徴的に示す好事例
といえるだろう。
尾道市公会堂の構造形式には折板構造と共に、一部にラーメン構造が採られている。それは折板構造により全体を大空間とし
て形成し、内部構造及び空間を補うものとしてラーメン構造が 3 箇所に組み入れられている(図 55)。1 つは正面(西側)に備
えられており、迫り上がる 2 階客席下部を支え、2 階ホワイエの床(ホワイエの 1 階天井)、そしてファサードに張り出したバル
コニーを形づくる。2 つ目は舞台後方の機械室、楽屋を構成する部分で、背面側(東側)にもファサード同様にバルコニーとし
て張り出し、ラーメン構造を採ることを巧みに、その外観を彩る造形表現として還元していることは、増田友也(ならびに建築
担当の土井崇司)のデザイン手腕の確かさを伝えているところであろう。
そしてラーメン構造となる 3 つ目の箇所は、舞台上部に突出したフライタワーである。公会堂・ホールにおいて、大きくボリ
ュームとして屹立するフライタワーは、舞台機能上設ける必要があるとはいえ、外観意匠面においては逸脱したスケールを持つ
だけに、その処理が難しい部分である。これも尾道市公会堂では、南北面をそれぞれセットバックさせることで、壁面ボリュー
ムの圧迫感を緩和させる工夫を施しており、このあたりも巧みなデザインと映る。
尾道市公会堂を形づくる外壁は、竣工当時から全面的に打放しコンクリート仕上げであり、これは現在まで改変されることな
く、とりわけ 1960 年代までに顕著な杉小口板材の型枠により写し取られた杉木目の美しさがよく残されている。50 年の風雨に
さらされてきたために所々は補修がなされているが、全体的にはコンクリート壁面は良好な状態が維持されているように見受け
られる(ただし、尾道市公会堂については耐震診断・コンクリート状況調査を行っていないことから、実際の状況は不明である)。
なお、フライタワーは白く塗られているが(防水もしくは壁面維持のためと推察する)
、さほど違和感のない丁寧なメンテナン
スがなされてきたと見えて、好ましいものである。
この他、竣工時にエントランス脇に設けられていた切符売場が撤去されているものの、全体的には内外ともに最低限の改変に
留められてきており、創建当時の状態が極めて良好に維持されてきたことは、歴史的建造物保存の観点からすれば賞賛に値する
もので、尾道市公会堂の歴史・文化的価値を高める 1 つの「美徳」として認められるものであろう。
3.尾道市庁舎と尾道市公会堂の歴史・文化的価値
3-1.尾道市庁舎・尾道市公会堂の建設経緯(概要)
市庁舎が立つ敷地(尾道市久保 1 丁目 15-1)は、江戸時代には近隣に本陣が置かれていたなど、古くから港町・尾道の中心
となってきた地であり、また、1896(明治 29)年には今の地に町役場が建設され、以来 120 年近くに亘って尾道行政の中枢を担
ってきた地域である。
現在の尾道市庁舎は、1898(明治 31)年に広島県下 2 番目に市制施行したことに伴い、初代市庁舎となった元々の町役場庁舎
を建て替えたものである。設計は、京都大学で教育に携わる傍ら、研究・設計にも幅広く活躍したプロフェッサー・アーキテク
トである増田友也(1914-1981)により、そして施工を大林組によって、1960(昭和 35)年 3 月 31 日に竣工した。
一方、尾道市公会堂は 1933(昭和 8)年から設置・建設が求められてきた市民待望の建築で、市庁舎竣工後の 1960(昭和 35)
年 6 月から本格的に建設計画が進められるようになった。市庁舎東隣の船着場を埋立・造成して新たに敷地を設けたことによ
る、尾道警察署跡地(現在の尾道商工会議所記念館西隣)からの計画変更を経て、市庁舎同様に増田友也の設計、大林組の施工
¦ 25
表6
尾道市庁舎・尾道市公会堂 年表
¦ 26
により、1963(昭和 38)年 3 月 25 日に竣工した(表 6)。
以来、尾道市庁舎と尾道市公会堂は 50 数年に亘り、「市民のモニュメント」・「郷土文化の殿堂」となる尾道の「顔」として、
その風景を織り成してきた歴史・文化資産である。
3-2.尾道市庁舎の歴史・文化的価値
本節では、上述の内容を踏まえて尾道市庁舎に認められる歴史・文化的価値についてまとめる。なお、ここにまとめたものは、
建築史学の学識を通じて見出し得る歴史・文化的価値であり、尾道の地域における歴史・文化への貢献については、この限りに
ないことを申し添える。
1.庁舎建築としての当時代性
尾道市庁舎では、①コアシステム(センターコア形式)の導入 ②庇(バルコニー)の各層全方位配備 ③議場の最上階配置 を
採り入れており、1960 年前後の庁舎建築(オフィスビル)を取り巻く時流に乗じた、当時代の一般的要素を備え、全体的には機
能性・合理性に基づいた設計・計画とする。1950~60 年代の庁舎建築が失われつつある時世を踏まえると、その希少性はこれか
らの時代とともに高まっていくと考えられる。
2.増田友也による最初期の建築作品であり、作風の特徴を備えている
増田友也(1914-1981)は、京都大学にて後進の教育を担う傍ら、研究・設計活動においても多くの足跡を残し、特に全 84 作
品(実施 61 作、計画 23 案)の建築作品を手がけ、国内でも広く名の知られた建築家であった。このうち尾道市庁舎は、増田の
実施作品の中で 5 番目となる最初期の作品であり、各層に張り出した庇(バルコニー)による水平性を表現した作風を象徴的に
伝えている。
3.増田友也によるモダニズム建築に込めた伝統表現を顕現し、言論に見る哲学思想との相補関係を示す
増田友也は、尾道市庁舎において 3~5 階の上層階は庇の軒裏を覆い隠し、ガラス壁面を柱外周にカーテンウォールとして大
壁の表現とすることで(明治時代以降に新たに入り込んできた西洋の古典様式から後の新様式まで全てを内包する意味での)
「西洋」を装い、1~2 階の下層階は庇の軒裏にある梁材を露わしとし、かつ柱心にガラス壁面を配して真壁の設えとすること
で、日本の伝統表現を併存させた。さらにコアシステム(センターコア形式)による構造形式を心柱、1 階の狭幅の庇を裳階に
見立て、薬師寺東塔のその美しい造形を投影し、これを鉄・ガラス・コンクリートの近代建築材料、そして合理性・機能性に基
づくモダニズムの構成原理の中で融和させ、日本建築の伝統性を表象させたモダニズム建築として尾道市庁舎を顕現させた。さ
らに尾道を囲む山々(大宝山・摩尼山・瑠璃山)を背景に尾道水道に面して臨む様から、厳島神社のもつ端正であり、端麗な風
景を尾道市庁舎に込めていたものと考えられる。
その設計期間に時世を賑わしていた伝統論争に、増田が与した形跡はこれまで知られていなかったが、
「家と庭との空間構成
についての覚書」(1958 年)や『家と庭の風景‐日本住宅の空間論的考察‐』(1964 年)の思索と時期を同一にしており、尾道
市庁舎は、増田がモダニズム建築における日本の伝統性をいかに捉え、いかにその造形を紡ぎ出したかを端的に伝えており、実
作と言論との相補関係を示す。哲学・思想家の顔を併せ持つ不世出の建築家である増田友也を明瞭に象徴づける建築作品と認め
られる。
3-3.尾道市公会堂の歴史・文化的価値
尾道市庁舎に次いで、本節では学術上、尾道市公会堂に認められる歴史・文化的価値についてまとめる。なお繰り返すが、尾
道の地域において尾道市公会堂が果たしてきた歴史・文化への貢献については、この限りではない。
¦ 27
1.公会堂建築としての当時代性
尾道市公会堂は、船着場を埋め立てて新たに造成した軟弱地盤に建設することから、集中荷重を避け、躯体を軽量化するため
に折板構造により全体の大空間を形成し、内部空間の構築を補うものとしてラーメン構造を部分的に併用してつくり上げられた
シューボックス型の公会堂建築である。全体を通じて機能性・合理性が徹底して貫かれており、モダニズム建築の構成原理に基
づき設計されたものであった。
尾道市公会堂が竣工した 1963(昭和 38)年頃には、その注目の高さから折板構造の実施例が国内各地で完成を見ていたこと
からも、当時代の公会堂建築における特徴的な構成要素を有するものである。
2.増田友也の前期作品の 1 つであり、その作風の特徴を備える
尾道市公会堂は、増田友也の実施作品 61 作の中で 15 番目にあたる前期作品の 1 つで、この時期に特徴的に見出せる袖壁と屋
根スラブがファサード全体を門型に枠づけるという増田友也の作風をよく伝え、特に最初期の作品である尾道市庁舎との対比に
おいて、作風の移り変わりを象徴的に示す好事例である。
3.共に増田友也の設計であり、尾道市庁舎と並び立つことに見出せる歴史・文化的価値
尾道市公会堂は、増田友也の作風の移り変わりを端的に伝えるに限らず、尾道市庁舎と向き合って建設されたことにより、同
一建築家の設計による建築作品が一体となって、その景観を織り成している。こうした類例は今治市庁舎・公会堂(丹下健三設
計、1958 年)など全国的にも限られており、その希少性が認められる。
尾道市公会堂は折板構造による面的な建築意匠、一方、市庁舎は外周に巡らされた庇(バルコニー)による線的な建築意匠と、
対照的な造形を示し、これは当初から隣接して建設する計画になかったことからも、両作品の建築意匠には大きな隔たりが認め
られる。折板構造の類例の多くが、折板の接合部分を鋭角に切り立て、その存在感を強調するのに対し、尾道市公会堂は市庁舎
と同一モジュールになる門型のフレームで縁取ることでボックス状に収める控えめな建築意匠として、尾道市庁舎との調和・整
合を図る。加えて、正面に備えた広場を介してのアプローチとし、市庁舎との共有空間としても包含的に全体の計画を描き出し
たものであった。
単作として増田の哲学・思想が込められた尾道市庁舎に対し、尾道市公会堂は直面する状況に即して機能性・合理性に基づき、
その解決方法を見出したものであり、それぞれに建築家・増田友也の異なる表情を象徴的に伝える点で、尾道市公会堂独自の歴
史・文化的価値のみならず、尾道市庁舎・尾道市公会堂の両作品が併存することの意味を充分に示し、その歴史・文化的価値を
認め得るものである。
4.あとがきに代えて
本稿は、共に増田友也が設計した尾道市庁舎・尾道市公会堂の歴史・文化的価値を紐解き捉えるために、建築史家にある筆者
の「学僕」としての責務と、学者としての純粋な学術的興味・関心から自発的にまとめた所見である。
原稿に取り組んだきっかけは、尾道市庁舎・公会堂を将来に伝え残したい志を持つ方々にお声掛けをいただいたからであり、
その存続が危ぶまれるからこそ筆を取った次第である。広く建築を愛おしみ、歴史・文化を慈しむ 1 人であるので、自然と尾道
市庁舎・公会堂を守り伝えることを展望した上での文章になっているはずである。
歴史的建造物を伝え残すことも、そこに新たな建築をつくろうとすることも、それぞれの視点・立場から、それぞれに豊かな
尾道の姿を思い描いた形であろうし、尾道市庁舎・尾道市公会堂が完成した 50 数年前も、その理想を求めた先が今となって至
っているのである。このことを文末でふれるのも、この期に及んでという気にもなるが、公平な視点でお目通し願い、それぞれ
に尾道市庁舎・尾道市公会堂の将来を考える一助になれば、筆者としては望外の喜びである。
筆者自身、尾道という土地に縁はないので、尾道市庁舎・公会堂が、地域にとってどのように貢献し、どのように想われてき
たのかはわからない。本稿でまとめた歴史・文化的価値は、広く建築史学の学術上に認められるだけに過ぎないものであるし、
¦ 28
この所見に臨んだからには、尾道市民が尾道市庁舎・尾道市公会堂にどのような眼を向けているのかを知りたいし、そして見届
けたいと思っている。
建築とは、その土地だからこそ、その土地にあってこそ、そのように築き上げられ、日々の営みの中で人々の風景の一部にな
ってきたのである。大所高所からの高説も学術上においては必要だが、個々の人間がそうであるように、建築もまた 1 つ 1 つに
多彩な物語と歴史の積み重ねがある。そして自身としては、常に唯一それ 1 つの歴史・文化に丁寧に目を向けたいと思ってやま
ない。
本稿の最後に、増田友也が尾道市庁舎・尾道市公会堂を完成させた先、1975(昭和 45)年に著した文章から引用する。
....
それぞれに 生きつつ 住まう その スミカ ethos も また 存在的に 風土 と 名づけられる あるもの の 存在論
.....
..
..
的に 歴史的な ありどころ にほかならぬ。したがって そのもの が たしかに もの として ある かぎり つまりは 風土なるもの
..
が 風土 なる もの と なりうる かぎり,その 土地 の いわゆる 地理 や 歴史 や 季候 や 景観 など それらの ありと
....
..
.....
あらゆる あるもの を それ自身 に 集摂しつつ,その もの の ありどころ なる ひろがり を 民族 の 故郷 なる クニ
諸民族の
ethnos
として
空ける
的に 生きはじめ
のである。それ故に
たどる 道すじ を
のではない,或いは
単に
生きつつ,生きる
まさに
人
地理学的な
国土
を
宿命的に
与えられて
そこ
で
生物として
生態学
操作的人間 homo-faber として 人間学的に その 国土 を 開発し 破壊
..
しつつ 生きている のではない,そうではなくて 人 は ある そのこと の 贈遺する ごとき 命運 に 委ね それを 引きうけつ
.. ...
つ,民族 の したがって 当然に その人 の 自己自身 として ある ために 実存しうる そのこと を賭けて,その 歴史的命運
の
生き終る
人は
は
そのこと
として
そのそこ
を
建設しつつ
そのそこ
に
死ぬ
ほかない
ので
ある。142)
これが増田友也の文章である。難解な面もあるだろうが、あえて意訳は添えずに各々の感じ方に委ねるものとしたい。尾道に
とって豊かな 1 歩とは何だろうか。そして踏み出した 1 歩が、確かな 1 歩であることを望みたい。
注
1)
2)
尾道市教育委員会文化振興課編:尾道市歴史文化基本構想、尾道市、
田・大旗建築事務所、大旗連合建築事務所の代表として旺盛な建築設計活
2011.3、pp.11‐12
動を展開した人物である。なお、村田・大旗建築事務所の活動の詳細につ
尾道市公報委員會編:尾道市政だより、第 85 号、尾道市役所、1958.11、
いては、李明:被爆都市ヒロシマの復興を支えた建築家たち、宮帯出版社、
pp.1
3)
2012.8 に詳しい。
森本輝郎:おのみち戦後の歩み‐その光と影‐、私家版、1992.6、pp.30
13) 前掲注 5 尾道市議会 100 年史(記述編) pp.694
4)
青木茂:新修尾道市史(第三巻)、尾道市役所、1973.12、pp.387
14) 前掲注 5 尾道市議会 100 年史(記述編) pp.703
5)
広島県尾道市議会編:尾道市議会 100 年史(記述編)、1998.3、pp.675
15) 前掲注 5 尾道市議会 100 年史(記述編) pp.708
6)
前掲注 5 尾道市議会 100 年史(記述編) pp.676 より、1957(昭和 32)
16) 尾道市公報委員會編:尾道市政だより、第 95 号、尾道市役所、1960.4、
年 10 月 5 日の第 5 回臨時会の時には、公会堂市庁舎建設特別委員会が組
織されていたことがわかる。
7)
宮地三保松:尾道市街圖誌:最新實測訂正増補、宮地玉文堂、1928 国際
日本文化研究センター所蔵の同地図を参照して把握した。
pp.2
17) 尾道市公報委員會編:尾道市政だより、第 89 号、尾道市役所、1959.7、
pp.1
18) 尾道市公報委員會編:尾道市政だより、第 91 号、尾道市役所、1959.11、
8)
前掲注 5 尾道市議会 100 年史(記述編) pp.690
9)
財間八郎、朝井柾善:ふるさとの想い出写真集 明治大正昭和 尾道、国書
19) 前掲注 16 尾道市政だより、第 95 号、pp.1
刊行会、1979.3.30、pp.68
20) 尾道市庁舎落成 盛大に式典! 各界五百人参集し、山陽日日新聞、
10) 前掲注 3 おのみち戦後の歩み‐その光と影‐、pp.29
11) 尾道市公報委員會編:尾道市政だより、第 86 号、尾道市役所、1958.12、
pp.1 ならびに 同第 87 号、1959.1、pp.13
pp.1
1960.4.17、pp.1
21) 前掲注 16 尾道市政だより、第 95 号、pp.2
22) 建築と社会、第 44 集 6 月号、社団法人日本建築協会、1963.6、pp.12
12) 村田・大旗建築事務所とは、村田正(1914-1989)が 1946(昭和 21)年
23) 前掲注 16 尾道市政だより、第 95 号、pp.2 新建築、第 35 巻第 8 号、
に立ち上げた暁設計事務所を母体に、その所員であった大旗正二(1913‐
新建築社、1960.8、pp.34-39 ならびに 建築と社会、第 40 集第 9 号、
2009)が共同代表となる形で 1949(昭和 29)年 6 月に開設した建築設計
社団法人日本建築協会、1960.9、pp.23-25 以上 3 つの文献資料を整理
事務所である。なお、村田正は 1914(大正 3)年に広島県に生まれ、広島
して尾道市庁舎の建築概要をまとめた。
市立広島工業学校(現広島市立広島工業高等学校)に学び(1933 年卒)
、
24) 本節をまとめるにあたり、主に参照した先行研究は次の通りである(増田
渡辺仁建築工務所勤務などを経て、暁設計事務所を 1946(昭和 21)年に
友也に関する研究論文はまだ多いとは言えないが、ここに掲載したもの
設立、その後、村田・大旗建築事務所、村田相互建築事務所の代表として、
だけに限るものではない)。
戦後広島の建築界を牽引した人物。また、大旗正二は 1913(大正 2)年に
長岡大樹:増田友也の建築と庇の意匠‐東山会館までの RC 造建築作品に
島根県に生まれ、横浜高等工業学校(現横浜国立大学)に学び(1934 年
ついて、日本建築学会大会学術講演梗概集 F-2、pp.243-244、2009.8
卒)、満州鉄道株式会社に勤める。戦後帰国して暁設計事務所入所し、村
小野育雄:増田友也の建築思想-〈生活世界への還帰〉の発端、日本建築
¦ 29
学会大会学術講演梗概集 F-2、pp.791-792、2010.9
長岡大樹:増田友也の建築と壁の造形、日本建築学会技術報告集、第 17
巻第 36 号、pp.735-738、2011.6
長岡大樹:方向軸の定着と領域的空間の形成-空間現象の構造と増田友
44) 前掲注 24 方向軸の定着と領域的空間の形成-空間現象の構造と増田友
也の建築、特に引用箇所は pp.216 に掲載される。
45) 前掲注 24 方向軸の定着と領域的空間の形成-空間現象の構造と増田友
也の建築、pp.216 掲載の 図 1 領域的空間の構造と発生形態 を転載した。
也の建築、日本建築学会大会学術講演梗概集 F-2、pp.215-216、2011.8
46) 前掲注 24 方向軸の定着と領域的空間の形成-空間現象の構造と増田友
小野育雄:増田友也に於ける存在することと建築することとの思索、日本
也の建築、pp.216 掲載の 図 2 アプローチの方向と建物の知覚面 を転載
建築学会大会学術講演梗概集 F-2、pp.787-788、2011.8
市川秀和:増田友也の生涯と思索の道、日本建築学会近畿支部研究報告
集、計画系 53 号、pp.905-908、2013.6
市川秀和:森田慶一と増田友也を中心とした京都学派の建築論に関する
基礎的研究、科学研究補助金研究成果報告書、2014.3
長岡大樹:見ること・現わし出すこと・あらしめること-増田友也の建築
と立面の両義性、日本建築学会大会学術講演梗概集 F-2、pp.411-412、
2014.9
25) 増田友也:増田友也著作集Ⅱ 建築的空間の原始的構造、ナカニシヤ書店、
した。
47) 前掲注 24 方向軸の定着と領域的空間の形成-空間現象の構造と増田友
也の建築、pp.216 掲載の 図 3 分析例 を転載した。
48) 前掲注 24 方向軸の定着と領域的空間の形成-空間現象の構造と増田友
也の建築、pp.216 掲載の 表 1 建築作品における方向軸の定着と領域的
空間の形成 を転載した。
49) 前掲注 24 方向軸の定着と領域的空間の形成-空間現象の構造と増田友
也の建築、pp.216
50) 前掲注 23 建築と社会、第 40 集第 9 号、pp.24
1999.3 所収 ちょうど尾道市庁舎の設計に関わっていた 1959(昭和 34)
51) 前掲注 18 尾道市政だより、第 91 号、pp.1
年に京都大学のアトリエにて撮影された写真であるという。
52) 前掲注 16 尾道市政だより、第 95 号、pp.1
26) 矢部眞:馬場知己先生を憶う、オペレーションズ・リサーチ:経営の科学、
31 巻 10 号、オペレーションズ・リサーチ学会、pp.660
27) 森田慶一は、1895(明治 28)年に三重県に生まれ、東京帝国大学を卒業
53) 増田友也:建築のある風景 11.厳島 古代以前の風景か-今日の空間構成
に参考-、日刊建設通信、1964.7-1965.1 前掲注 28 増田友也著作集
Ⅰ 建築・空間・表現に収載、引用部分は pp.233-234
の後(1920 年)、1921(大正 10)年から京都大学、次いで東海大学におい
54) 前掲注 23 新建築、第 35 巻第 8 号、pp.34 設計者(増田友也)が寄せ
て建築設計ならびに研究教育に関わり、『ウィトル‐ウィウス建築書』
た文章の中に尾道市庁舎の設計に際し、1 つのモジュロールを導入したと
(1979 年)の翻訳などで建築史学に大きな足跡を残した。1983(昭和 58)
いうが、
「それはあくまで事故に対してみずから課したものである。自立
年逝去。
の枠での追及こそ秩序を産みえるであろう」とあることから、建築そのも
村田治郎は、森田と同じ 1895(明治 28)年に山口県に生まれ、京都帝国
のには表出する類のものではないと理解するのがよいのであろうか。判
大学を卒業の後(1923 年)、南満州鉄道株式会社を経て、1937(昭和 12)
年から母校・京都帝国大学にて研究教育に関わり、主に東洋建築史の分野
での研究に多大な貢献を果たした。1985(昭和 60)年逝去。
28) 増田友也の言葉を借りて「再治」したという同論文が、晩年に刊行された。
前掲注 25 増田友也著作集Ⅱ 建築的空間の原始的構造 に所収
29) 増田友也:家と庭との空間構成についての覚書、日本庭園、1958.1 同論
文は、増田友也:増田友也著作集Ⅰ 建築・空間・表現、ナカニシヤ出版、
1999.3 に所収されている。
30) 増田友也:家と庭の風景‐日本住宅の空間論的考察‐、私家版、1964 同
論文は、増田友也:増田友也著作集Ⅲ 家と庭の風景 日本住宅の空間論的
考察、ナカニシヤ出版、1999.3 に所収されている。
31) 前掲注 24 増田友也の生涯と思索の道、pp.907
32) 前掲注 24 森田慶一と増田友也を中心とした京都学派の建築論に関する
基礎的研究、pp.53 掲載の 図 15 増田友也の思索の道(空間論→風景論
→存在論) を転載した。
33) 増田友也:Ethnos の風景・素描-生活環境の構成について、21 世紀の国
民生活と風土 に所収、SD、1971.4 同論文は、前掲注 29 増田友也著作
集Ⅰ 建築・空間・表現 に所収されている。
34) 増田友也:建築以前(退官講義)
、講義録、1978.3 増田友也:増田友也
著作集Ⅴ 建築以前 建築について、ナカニシヤ出版、1999.3 に所収され
ている。
35) 増田友也:建築について、新入生歓迎講演録、1978.4 前掲注 34 増田
友也著作集Ⅴ 建築以前 建築について に所収されている。
36) 前掲注 24 増田友也の生涯と思索の道、pp.908
37) 前掲注 24 増田友也の建築と壁の造形、pp.735 関連する注釈によれば、
読が困難な箇所である。
55) 宮地三保松:尾道市街名称案内新図、1901.9 (図 14)は、尾道市庁舎
周域をトリミングした上で掲載した。
56) 前掲注 7 尾道市街圖誌:最新實測訂正増補 (図 15)は、尾道市庁舎周
域をトリミングした上で掲載した。
57) 有馬喜惣太:中国行程記、1760 (図 16)は、
(図 14、15)に合わせて、
後の尾道市庁舎建設地周域をトリミングして掲載した。
58) 前掲注 22 建築と社会、第 40 集第 9 号、pp.24
59) 尾道市総務部総務課:第 1 回尾道市庁舎整備検討委員会資料・議事要旨、
2013.7.5、pp.9
60) 写真は Wikimedia Commons より David Shankbone 氏撮影による。各階平
面図は、Mckim Mead & White:The Architecture of McKIM,MEAD & WHITE、
Dover Publications、1990.11、pp.320
61) 写真は Wikimedia Commons より David Shankbone 氏撮影による。各階平
面図は 藤村朗、本多二郎:高等建築學第 16 巻・建築計書 4、常盤書房、
1935.12、pp.49
62) 渡辺節追悼誌刊行実行委員会編:建築家 渡辺節、社団法人大阪府建築士
会・渡辺節追悼誌刊行実行委員会、1969.8.10
63) 前掲注 61 高等建築學第 16 巻・建築計書 4、pp.196-197
64) 写真は Wikimedia Commons より Elekhh 氏撮影による。平面図は クレア・
ジマーマン:ミース・ファン・デル・ローエ、タッツェン・ジャパン、
2007.4、pp.64
65) 写真は Wikimedia Commons より Staib 氏撮影による
66) 五十嵐太郎監修:戦後日本住宅伝説-挑発する家・内省する家、新建築社、
2014.7、pp.22、pp.24
これは京都大学工学部建築系教室増田研究室記念事業会編:増田友也先
67) 日本建築学会編:建築設計資料集成 3、丸善出版株式会社、1952、pp.184
生退官記念著作・作品目録、私家版、1978 により、最初期の住宅作品は
68) 丹下健三、藤森照信:丹下健三、新建築社、2002.9、pp.201、pp.207
除いたものであり、かつ、京都大学退官後に計画・竣工した鳴門東幼稚園、
69) 日本建築学会編:建築設計資料集成 3、丸善株式会社、1964.6、pp.134
島田小学校・幼稚園は掲載されていないとのことである。
70) 前掲注 16 尾道市政だより、第 95 号、pp.2
38) 前掲注 24 見ること・現わし出すこと・あらしめること-増田友也の建
築と立面の両義性、pp.411
39) 前掲注 24 見ること・現わし出すこと・あらしめること-増田友也の建
築と立面の両義性、pp.411
40) 前掲注 24 増田友也の建築と壁の造形
41) 前掲注 24 増田友也の建築と壁の造形、pp.736 掲載の 図 1 壁面の構成
手法(8 種類)を転載した。
42) 前掲注 24 増田友也の建築と壁の造形、pp.736 掲載の 図 2 分析例(壁
の造形的性格)を転載した。
43) 前掲注 24 増田友也の建築と壁の造形、pp.737 掲載の 表 1 壁の造形的
性格 を転載した。
71) 尾道市:市庁舎総合案内よりを転載した
72) 前掲注 23 新建築、第 35 巻第 8 号、pp.38
73) 断面図は 前掲注 69 建築設計資料集成 3、pp.132 による
74) 益田市建設部建築課所蔵の青図、1959.11 (図 32)の断面図はトリミン
グした上で掲載した
75) 前掲注 69 建築設計資料集成 3、pp.134
76) 前掲注 16 尾道市政だより、第 95 号、pp.2 によると、竣工時は別館に
水道部技術員控室、水圧試験室(1 階)、総務課輸送係員控室、大工控室
(2 階)があった(図 28)。また、現在は教育会館に教育委員会部局等、
分庁舎に観光課、商工課が入っている。
77) 前掲注 23 新建築、第 35 巻第 8 号、pp.37
¦ 30
78) 前掲注 16 尾道市政だより、第 95 号、pp.1
108) 前掲注 5 尾道市議会 100 年史(記述編) pp.717
79) 前掲注 23 新建築、第 35 巻第 8 号、pp.36
109) 前掲注 3 おのみち戦後の歩み‐その光と影‐、pp.79
80) 前掲注 23 新建築、第 35 巻第 8 号、pp.36
110) 前掲注 5 尾道市議会 100 年史(記述編) pp.731
81) 前掲注 23 建築と社会、第 40 集第 9 号、pp.25
111) 前掲注 5 尾道市議会 100 年史(記述編) pp.734 総工費の内訳は、前掲
82) 前掲注 23 新建築、第 35 巻第 8 号、pp.39
注 103 公報おのみち、No.109、pp.2 によった。
83) 前掲注 23 建築と社会、第 40 集第 9 号、pp.25
112) 前掲注 103 広報おのみち、No.109、pp.2
84) 前掲注 23 新建築、第 35 巻第 8 号、pp.39
113) 前掲注 5 尾道市議会 100 年史(記述編) pp.734
85) 前掲注 24 見ること・現わし出すこと・あらしめること-増田友也の建
114) 前掲注 22 建築と社会、第 44 集 6 月号、pp.12
築と立面の両義性、pp.411
86) 前掲注 20 尾道市庁舎落成 盛大に式典! 各界五百人参集し、山陽日日
新聞、1960.4.17、pp.1
87) 前掲注 23 新建築、第 35 巻第 8 号、pp.34
88) 前掲注 24 増田友也の建築と壁の造形、pp.737
89) 前掲注 20 尾道市庁舎落成 盛大に式典! 各界五百人参集し、山陽日日
新聞、1960.4.17、pp.1
90) 前掲注 23 新建築、第 35 巻第 8 号、pp.34
115) 前掲注 103 広報おのみち、No.109、pp.2
116) 尾道市公報委員会編:広報おのみち、No.118、尾道市役所、1962.12、pp.2
117) 前掲注 103 広報おのみち、No.109、pp.4 にその詳細が一覧表になって
掲載されている。
118) 前掲注 22 建築と社会、第 44 集 6 月号、pp.13 ならびに 待望の公会堂
落成、山陽日日新聞、1963.3.27、pp.1
119) 前掲注 116 広報おのみち、No.118、pp.2 に目標額として掲げられた内
訳による
91) 漏れのないように 6 階も表記したが、
庇よりは屋根と理解すべきであり、
120) 前掲注 103 広報おのみち、No.109、pp.3
増田も一貫して 6 階のことにはふれておらず、これを除いた上で考察を
121) 前掲注 103 広報おのみち、No.109、pp.1
行うことが適切であると考える。
122) 尾道市公報委員会編:広報おのみち、No.121、尾道市役所、1963.3、pp.2
92) 前掲注 16 尾道市政だより、第 95 号、pp.1
123) 尾道市公報委員会編:広報おのみち、No.113、尾道市役所、1962.7、pp.4
93) 前掲注 16 尾道市政だより、第 95 号、pp.1
124) 前掲注 122 広報おのみち、No.121、pp.3
94) 日本建築学会編:日本建築史図集 新訂第二版、彰国社、2009.2.10、pp.18
125) 前掲注 122 広報おのみち、No.121、pp.3
95) 前掲注 23 新建築、第 35 巻第 8 号、pp.36
126) 前掲注 122 広報おのみち、No.121、pp.3
96) 伝統論争については、藤森照信:伝統論争、新建築臨時増刊「現代建築の
127) 前掲注 122 広報おのみち、No.121、pp.1
軌跡」
、1995.12、pp.214-215 に引用箇所と共に参照した。
128) 前掲注 22 建築と社会、第 44 集 6 月号、pp.15
97) 宮田和明、今掛壽大、岡河貢:
「伝統論争」における参加建築家の伝統表
129) 前掲注 103 広報おのみち、No.109、pp.2
現に関する研究、日本建築学会大会学術講演梗概集 F-2、2007.8、pp.635-
130) 前掲注 103 広報おのみち、No.109、pp.2
636 によれば、
『新建築』誌上で伝統論争の主張のあった建築家は、丹下
131) 前掲注 24 方向軸の定着と領域的空間の形成-空間現象の構造と増田友
健三、池辺陽、大高正人、白井晟一、吉村順三、清家清の 6 名であるとい
う。
也の建築、pp.216
132) 前掲注 22 建築と社会、第 44 集 6 月号、pp.12
98) 前掲注 30 家と庭の風景‐日本住宅の空間論的考察‐、1964 における
133) 前掲注 22 建築と社会、第 44 集 6 月号、pp.12
「はしがき」から引用。増田友也著作集Ⅲ 家と庭の風景 日本住宅の空間
134) 前掲注 22 建築と社会、第 44 集 6 月号、pp.13
論的考察 に所収。
135) 前掲注 22 建築と社会、第 44 集 6 月号、pp.14
99) 前掲注 24 森田慶一と増田友也を中心とした京都学派の建築論に関する
基礎的研究、pp.49
136) 前掲注 22 建築と社会、第 44 集 6 月号、pp.14
137) 折板(版)構造の系譜については、小村敏、則武邦具:折板構造に関する既
100) 前掲注 23 新建築、第 35 巻第 8 号、pp.34
往の研究について(上)
、コンクリートジャーナル、Vol.9 No.12、1971.12、
101) 前掲注 23 新建築、第 35 巻第 8 号、pp.35
pp.71-79 に依った。
102) 前掲注 59 第 1 回尾道市庁舎整備検討委員会資料・議事要旨、pp.9
138) 前掲注 22 建築と社会、第 44 集 6 月号、pp.12
103) 尾道市公報委員会編:広報おのみち、No.109、尾道市役所、1962.2、pp.1
139) 前掲注 22 建築と社会、第 44 集 6 月号、pp.12
104) 前掲注 5 尾道市議会 100 年史(記述編) pp.673
140) Wikimedia Commons より PYONCHI 氏撮影による
105) 前掲注 5 尾道市議会 100 年史(記述編) pp.675
141) 前掲注 24 増田友也の建築と壁の造形、pp.737
106) 前掲注 5 尾道市議会 100 年史(記述編) pp.676 より、1957(昭和 32)
142) 増田友也:建築的思惟について-存在論的建築論のために(二)、人間・
年 10 月 5 日の第 5 回臨時会の時には公会堂市庁舎建設特別委員会が組織
建築・環境六書、第 6 巻、歴史と未来、彰国社、1975.12 本論文は、増
されていたことがわかる。
田友也:増田友也著作集Ⅳ 風景論 存在論的建築論、ナカニシヤ出版、
107) 前掲注 103 広報おのみち、No.109、pp.1
1999.3 に所収されている。
2015 年 1 月 11 日
初版
千葉工業大学 工学部 建築都市環境学科 准教授
藤木竜也
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