上下水道工学NO.7

上下水道工学 ノート 7
下水道概論
7.1 下水と下水道
下水とは、人々身のまわりに生
じ、しかも人々が身のまわりから排
除して欲しいと思う水であり、必ず
しも「きたない」水というわけではな
い。具体的には、①汚水と②雨水
に分けられ、汚水はさらに家庭汚
水、工場排水、農業排水などに
分けらる。ただし、農業排水のうち
水田からの潅漑排水は自然水と
みなされ下水とは考えない。下水
道とは下水を排除するために公共
が所有する施設総体を言う。具体的には、
① 下水管渠、マス、マンホール、伏せ越、ポンプ場などの管渠施設と
② 下水処理場(終末処理場とも言う)
から構成される。なお、わが国の「下水道法」では、下水管渠のうち、少なくとも汚水がながれるものは地下埋設
管渠すなはち暗渠でなければならないとしている。
7.2 下水道の機能
① 衛生的な生活環境;
下水道が整備されると、トイレは水洗
化される。汚水は生活空間から速やか
に排除されるので、蚊やハエなどの発
生が防止でき生活空間が快適になる。
② 浸水被害の軽減;
雨水が速やかに排除され、雨天時の交通障害が少なくなる。また、低地帯でも浸水がなくなるので土地の有効
利用を促進する。
(参考)雨水排水の効果都営三田線高島平駅周辺
1991 年 8 月の豪雨
2001 年 7 月の豪雨
荒川
荒川
新河岸川
新河岸川
新高島平駅
新高島平駅
雨水幹線
都営三田線
都営三田線
降雨強度 31 mm/h 総降雨量 220 mm
降雨強度 96 mm/h 総降雨量 109 mm
床上浸水 31 戸 床上浸水 73 戸
床上浸水
0 戸 床上浸水
1 戸
② 公共用水域の水質保全;
下水が直接に流れることがなくなるので河川や湖沼の水質改善に役立ち、これらの水域のリクリエーションの場(親
水空間)としての価値を高め、美的景観の改善にも寄与する。
(参考1)日本の都市河川の水質改善状況
年度
普及率 BOD
(mg/L)
(%)
1970
6
8.4
秋田市
サケの
1998
98
0.7
旭川
生息
1976
13
6.5
日立市
アユ・サケ
1998
100
0.5
鮎川
が生息
1971
38
22.3
東京都
花火大
1998
100
5.1
隅田川
会
1973
14
5.8
金沢市
園遊会
1998
77
1.1
浅野川
年度
高山市
宮川
京都市
鴨川
山口市
一の坂川
北九州市
柴川
1977
1998
1971
1998
1984
1998
1975
1998
普及率
(%)
0
77
65
98
27
97
21
97
BOD
(mg/L)
5.6
1.0
7.1
0.7
19.9
1.2
8.0
0.8
川床飾り
友禅流し
ホタルの
生息
シロウオの
棲息
(参考2)
普及率
普通処理
高度処理
20
90
15
85
実測水質
10
80
環境基準
75
2000
1980
1980
1970
5
下水道普及率(%)
95
25
BOD 濃度( mg/L)
5
神田川の水質は昭和 40 年代以降、下水道普及率
の向上に伴い、徐々に改善されてきた。更に昭和 62
年度の高度処理の導入後は一段と水質改善され、
環境基準が達成されるとともに、あゆの群も遡上する
ようになった。
④ その他;
下水処理水や汚泥汚泥の再利用(コンポスト、消化
ガスによる発電)も可能。また下水管渠の通信回線
用空間としての利用も可能。
年度
7.3 下水道の法的分類
神田川( 一休橋下) 水質の年次変化
法律的に言えば、我が国の下水道は、①下水道法
で定める下水道と、②下水道の類似施設とに大きく分かれる。わが国の場合、狭義の意味の「下水道」は①の下
水道法で定められた国交省管轄下の下水道のことを言う。
①下水道法で定める下水道
●公共下水道
公共下水道は、都市計画区域内の下水を排除し、又は処理するために主として市町村が管理する下水道で 、
(1) 終末処理場を有する単独公共下水道と、
(2)下水管渠のみを整備し、都道府県が整備した流域下水道幹線に接続し、広域市町村の下水を一括
的に処理する流域関連公共下水道
とがある。
●流域下水道
各市町村が各々に終末処理場を有するよりも、隣接する市町村の汚水を広域的に処理した方が効率的な場
合、汚水処理を都道府県が一体的に排除、終末処理、維持管理を行う事業をいう。対象市町村は、流域関
連公共下水道事業、又は流域関連特定環境保全公共下水道事業を行う。
●特定公共下水道
公共下水道、特定環境保全公共下水道は、家庭等からの下水を処理することを対象としているのに対し、特定
公共下水道は、特定の工場や事業場からの排水を処理することを対象にしたものである。この公共下水道は
1970 年代にコンビナートを誘致した鹿島市に作られて以降は作られていない。
●特定環境公共下水道
特定環境保全公共下水道は、都市計画区域外にあっても農村や漁村の大きな集落、温泉地、観光地などに
おける生活環境改善、河川、湖沼などの水質汚濁を防ぐ目的として下水道整備ができるようにしたもので、公共
下水道と同じく主として市町村が管理する下水道で 、終末処理場を有する単独の特定環境保全公共下水道
と、下水管渠のみを整備し、都道府県が整備した流域下水道幹線に接続し、広域市町村の下水を一括的に
処理する流域関連特定環境保全公共下水道がある。
●都市下水路
主として市街地の雨水を排除し、浸水を防ぐための下水道であり、市町村が整備、維持管理を行いる。公共下
水道との違いは、排水施設の構造が主として開水路であり、雨水のみを対象とし、処理場がないことで
②下水道法によらない下水道
●集落排水施設
農林水産省が管轄する集落排水
区分
処理人口
対象地域
施設には、農業集落排水施設、
特定環境保全公共下水道
1,000∼10,000 人
都市計画区域外
漁業集落排水施設、林業集落排
概ね 1,000 人以下
農業振興地域
水施設などがある。集落排水施設 農業集落排水施設
100∼5,000 人
漁港の後背集落
は、各々の産業振興地域での水 漁業集落排水施設
20 戸以上
林業振興地域
質保全、機能維持を図ることを目 林業集落排水施設
的として、同地域内の集落排水を集めて処理する。特定環境保全公共下水道との計画規模の比較は、概ね
上の表のとおりである。
●地域し尿処理
地方公共団体、公社、公団等の開発行為による住宅団地等に設置される汚水処理施設であり、設置、維持
管理は市町村が行う。
●合併浄化槽
合併処理浄化槽は、下水道事業計画区域外、また区域内であっても下水道管への接続までに年数がかかる地
域で設置され、個々の家庭単位で設置するもので、トイレだけでなく台所や風呂からの汚水を対象としています。
浄化槽のしくみは、下水処理場と同じく微生物の活動を利用して汚濁物質を除去するが、微生物の活動に必
要な酸素の供給、発生汚泥の処分などの維持管理が必要になるため、年 1 回の清掃、数回の検査とその費用
がかる。
7.4
合流式と分流式
技術的には、下水道は、排除方式
によって、分流式下水道と合流式
下水道に分けられる。
分流式下水道では、雨水と汚水
が別々の管で集められ、汚水は汚
水管を通して、下水処理場に運ば
れ、そこで処理された後に、河川な
どに放流される。 雨水は雨水管を
通して流され、通常はそのまま河川
などへ放流される。
一方、合流式下水道は、雨水と
汚水とを同一の下水管(合流管とい
う)を通して流され、大量の雨が降った場合には、途中に設けられた雨水吐き室という設備で分流され、一定以下
の量は下水処理場に、また、それ以上の量は河川に流される。
<晴天時>
<雨天時>
汚水だけなのですべて下水処理場へ 一定量までは下水処理場に送られ、
流れ処理される。
それを超えた雨水は河川へ流す。
建設費としては、二系列の下水管を必要とする分流式のほう
が圧倒的に高く、また工事も難しい(個人所有の家屋において、
雨水と汚水の分別を徹底させる必要がある)。このため、もっぱ
ら下水排除だけを目的としていた時代に下水道を建設しはじめ
た東京などの大都市では、合流式を採用した。しかし、合流式
下水道においては、大量の降雨のある天候下では、汚水の一
部が、雨水に希釈されているとは言え、未処理のまま河川など
に流されることになり、公共用水域の水質汚濁防止の観点からは好ましくない。このような観点から、今日、新た
に下水道を建設する都市においては、原則として分流式下水道の採用を義務づけている。
雨天時における汚水起源の汚染物質の流出は、合流式下水道の大きな欠点であり、東京などの大都市におい
ては、雨天時において下水処理場で受け入れる下水量を増加させる、雨天時の下水を一時的に地下に設けた
貯留用大口管に貯留するなどの工夫によって、この問題を解決しようとしている。
7.5
下水道の歴史
≪世界篇≫
1 古代諸文明
住居近辺や道路から雨水を排除するための溝渠の構築は、人間が定住生活をはじめ、都市を形成したときか
ら行なわれていたと思われる。しかし、下水道のもう一つの機能、すなはち汚水排除
を目的とした溝渠の建設は、それほど普遍的な営みではなく、たとえば、ギリシャ本
土の古代都市には、そのような溝渠があった形跡がない。
古代において最も早く、今日的な意味での下水道を構築した都市は、BC3000
年前後にインダス河畔に栄えたモヘンジョ・ダロで、この都市には各戸ごとに便所と風
呂があり、それは雨水排除を兼ねた溝渠に接続されていた。モヘンジョ・ダロの人々
に劣らず衛生的な生活をした古代人は、BC3000-BC1000 にクレタ島で栄えたミノア
帝国の人々で、ミノアの住居も「合流式下水道」に接続され、そこに流れ込む汚物
は下水幹線で都市の外まで運ばれていた。
2 古代ローマ
Bath area in a house of
Mohenjo-Daro
古代における下水道技術のひとつの頂点に到達したのは古代ローマ人である。
Public water supplies in L/capita/day
彼らはとりわけ清潔好きな民族だったようで、
Year
50BC
AD100
1820
1835
1936
各戸に便所・風呂を設け、都市内にも沢山
Rome
750
1140
150
の公衆浴場を作った。古代ローマ人の水使 Paris
10
-----London
10
150
135
用量は現代人にも勝るもので(右表参照)、
Edinburgh
30
200
彼らはこの水を得るために何本もの「ローマ Leipzig
75
Frankfurt
150
水道」(Aqueduct)を作った。
Munich
210
大量の水を消費すれば、必ずそれ相応 New York
455
*) Contemporary Tokyo residents consume ca. 400 L/capita/day
の不用水が生じ、下水道が必要になるが、
including the use for urban activities.
古代ローマは何条もの小川が流れる谷間に
構築されたので、彼らはその小川の幾つかを整備・覆蓋化することによって、「下水道」とした。このうち、最も有名
なのは、Forum(公共広場)の下に設けられた大下水渠(Cloaca Maxima)で、枝線を除いた延長距離は約1km、
断面は最大で幅 3.2 m×高さ 4.2m であった。この下水渠は雨水と水道余水(註:ローマ時代の水道は開水路で
あり、使用量に応じて水量を調整することは出来なかった)とを排除する目的で整備されたものであるが、実際には
汚水も流されたようである。
Central Area of Ancient Rome
Roman Street
The ancient Romans learned street making from
neighboring Etruscans whom they conquered.
古代ローマの都市内道路には、雨水排除用の側溝が備わり、歩道は一段高かった上に、雨天時の道路横断の
便宜を考え、ところどころに横断用の踏み石が設けられていた。彼等は、この道路建設技術を征服したエトルリア
人から学んだと言われている。
3 中世ヨーロッパ
4世紀のローマ帝国の崩壊によって欧州世界
は略奪の時代に入り、商工業は衰え、都市と
Guardez l'eau!
Guardez l'eau!
いえる規模の集落はほとんどなくなった。封建
領主達は堅牢な「城」を築いたが、その便所は
garderobe と呼ばれる宙空に突出した部分に
設けられ、汚物はそのまま外部に「自由落下」
するようになっていた。11 世紀前後の王権の
拡張により、西欧世界にも再び秩序が戻り、
それに伴い小規模の都市が形成されるように
なった。しかし、これらの都市の住居には便所
はなく、人々は戸外(路上)で用を足すか、も
しくは可搬式の室内便容器(chamber pot)を
用いて排便をした。便容器の汚物は街角に設
けられた便溜め甕(cesspit)に運ぶように義務
づけられてはいたが、実際には、窓から
guardez l’eau ! (「水にご注意!」)と叫びな
がら路上に捨てる行為が後をたたなかった。都市内の主要道路には、その中央もしくは両側に溝渠が作られ、雨
水はここに流集したが、当然、汚物もここに蓄積した。このような生活環境であったので、疫病の流行は後をたたず、
とりわけ 14 世紀―16 世紀に襲った「黒死病」(ペスト)の流行は 2500 万人(当時の欧州全体の人口の4分の1)
の命を奪ったと言われている。
4 近代下水道の構築
(フランス)
欧州諸国の為政者が多少とも(とりわけ)首都の整備と公衆衛生に注意を払うようになったのは絶対王権が確
立した 14 世紀以降のことである。フラ
ンスの首都パリの発端であるシテ島は
セーヌ川の中洲であるので、その限り
では、雨水排除にも汚水排除にも問
題はなかったが、市域がシテ島外に広
がるに従い、市街地の排水が問題に
なり、1370 年にはモンマルトル地区の
雨水をセーヌ河へ排除するために自
然排水路に蓋をかぶせて暗渠の雨水
路とする工事が行なわれた。ローマの
Cloaca Maxima と同様にこの雨水
路にも人々は汚物も捨てるようになっ
たが、Louvre 宮はこの雨水路のセー
ヌ河放流口近くにあったため、16 世紀のなかば、Francois I の王妃はあまりの悪臭に耐えかねて郊外の Tuillerie
宮に待避したと言われている。また、1539 年には、パリで新築される住宅はすべて戸別に便溜め甕(cessspit)を備
えなければならないとの条例が制定された(英国においても、16 世紀後半に同様の法律が作られた)。これらの便
溜め甕の内容物は作業人を使って夜間に郊外に搬出されることになってはいた。しかし、実際には道路上の排水
溝に流出し、その悪臭を緩和するために、排水溝には次第に蓋がかぶせられるようになった。当時の排水溝は路
床勾配などの掃流力を配慮をせずに作られていたので、その詰まりを防ぐためには頻繁に清掃をすることが必要で
あったのであるが、下水路の安易な覆蓋化はこの清掃作業を難しいものにした。詰まりによる汚水の溢流を防ぐた
めに、パリ行政と当局は王令によって覆蓋下水路の清掃をその近くの家屋所有者に義務付けたが、それがかえっ
て下水路の私物化を促進し、人々は人間の排泄する汚物だけでなく、動物の死骸のような粗大なゴミまでをも下
水路に捨てるようになり、下水路の目詰まり問題はいっそう悪化した。このような経緯から、ついには、パリの行政当
局は地下の下水路は人間が中に入って容易に清掃できる規模のものでなければならないと考えるようになり、実
際、19 世紀初頭から巨大な下水路を建設しはじめた。この巨大下水路網(全長 500km)の建設は 1910 年前後
に一応の完成をみたが、そのあまりの不経済さに他の欧州都市がこれにならうことはなかった。
(イギリス)
世界の各大都市が過去に建設し、また現在も建設している下水道の手本は、パリの下水道よりもむしろロンドン
の下水道にあると言える。
雨が降ると道路の中央もしくは側に自然発生的に出来ていいた水路を覆蓋化して雨水排水路とした点はロンド
ンもパリとは変わらない。また、18 世紀以降のロンドンの住宅は地下に便溜め槽(cesspool)を備えていたが、それ
が溢れて道路の排水路に流出した点もパリの場合と同様である。ロンドンの市域が狭かった時代には、この便溜め
槽の内容物は郊外の農家が買い取って肥料として用いていたが、18 世紀後半から市域が急速に拡大するとそれ
が困難になり、当局は 19 世紀なかば(1847)に便溜め槽と道路の排水路との接続が認めた。
このように汚物が流れれば必然的に排水路は悪臭を放ち、それを防ぐためにその排水路を地下化していくことはパ
リの場合と同様である。問題は、この地下の下水路の詰まりをどう防ぐか、ということである。パリはこれを清掃人が
入れる規模の下水路にすることによって解決したが、英国の場合には、管渠の材料・断面と埋設勾配に工夫を加
えることによってこの問題を解決した。管渠の材料について言えば、それまでの材料は石造りないしレンガだけで管
渠を作っていたが、流れを滑らかにするためにレンガ造りの管渠内面をモルタルで被覆する工夫を行なった。また断
面について言えば、流量が少ない場合でも流速が確保できるように卵型の断面を考案した(註:パリの下水路は
馬蹄型断面である)。勾配などの水理的配慮については、雨水の場合には 0.9 m/s、汚水の場合には 0.6 m/s と
いう今日わが国でも利用されている最低流速規定はこの時代の英国の試行錯誤的な研究・検討の結果であ
る。
このような個別の要素技術の開発への貢献もさることながら、ロンドンの下水道がその後の下水道建設の手本に
なったのは、市全域をカバーする統合的な下水道を整備したことにある。19 世紀前半にロンドンではかなり大きな
下水路が建設されたが、それらはすべてロンドンの各地区が個々に立案して作ったものであった。結果として、それ
らの下水路はテームズ河へ向かうように配置され放流口もテームズ河の市内部になっていた。テームズ河は干潮河
川であり、満潮時にはほとんど流れがなく汚物が水面に漂っていた。この様な非衛生的な環境が当時何回となくこ
の都市を襲ったコレラの蔓延と関係があるのであろうという指摘がなされていたが、それ以上に河から立ち上ってくる
悪臭が人々を悩ませたようである。とりわけ、1856 年の夏に起きた大悪臭災害(”Great Stink”)はひどく、その悪
臭のために会期中の国会が2日にわたって中断したほどだったそうである。
このような悪状況を解決するためにいろいろな案
が提出されたが、王立下水処分問題委員会が採
択したのは土木技術者 Joseph Bazalgette の遮集
放流計画案である。この計画案は何本もの遮集幹
線でロンドン市内に発生する下水のすべてをロンド
ン郊外のテームズ北岸と南岸に設けた貯留池まで
導き、ここでテームズ河の引き潮を利用して下流に
運ばせようというものである。ロンドンの中心地はテー
ムズ河の高潮位よりも低いのでこの案の実施には巨
大なポンプを必要としたが、当時すでに Watt の蒸気
機関が完成していたのでこの案の実施が可能であっ
た。この建設工事は 1858 年に開始され 1863 年に
完工した。この工事の難所はテームズ北堤下に設
けた遮集幹線のシールド掘削工事(これはシールド
が下水道建設に用いられた最初の例である)であっ
たようで、このシールド掘削工事で何人もの命が失
われた。
この全長 130km にわたる遮集下水道の完成によって、ロンドンの下水処分問題は一応の解決を得た。これ以降、
この都市に疫病禍が襲うことはなくなった。また、当時、水洗便所が普及しはじめていたが、ロンドン行政当局はこ
の下水道の完成によってトイレの水洗化を奨励できるようになった。しかし、Bazalgette の下水道は、問題をロンド
ンから遠隔化・視外化するkとに成功しただけで、テームズ河の水質汚濁問題を抜本的に解決したものではない。
ロンドンが下水処理を本格的に開始したのが 1960 年以降であることを考えると、Bazalgette の成功はテームズ河
汚濁問題の解決を遅らせた要因とも言える。
(アメリカ)
欧州の大都市の下水道は、①舗装化にともなって道路の雨水排水路を整備→②そこに人々が汚物を流す→
③悪臭の発生を防止・緩和するために暗渠化する、という形で誕生したが、この事情は欧州人の植民都市であっ
た米国東部の都市でも同様であった。ボストンやニューヨークでは富裕階級の住宅地域には 19 世紀初頭より下
水管が埋められていたが、それらの下水管を利用しながら市域全域をカバーする下水道網の整備が開始されたの
は 1870 年代以降であったようであう。中部の比較的に新しく成長した都市では、全く新しく下水道を整備すること
もあり、その際に問題になったのは、合流式と分流式の選択であった。Waring は分流式下水道の熱心な提唱
者で、メンフィス市は彼の計画案に従い分流式下水道を建設したが、管渠径が余りに小さく、また、マンホールも
少なかったこともあって、詰まりによる維持管理の難しさに悩まされ、結局、工事をやり直した。合流式と分流式の
選択基準を示したのはその問題解決のために欧州の下水道を視察したフィラデルフィア市の Hering で、彼は、
① 雨水排除が必要な都市中心地は合流式が好ましく、
② 郊外においては、雨水は側溝などで排除するだけで、汚水管だけを暗渠にする分流式が好ましい、
との基準を提示した。
米国の大都市の下水道整備は欧州の大都市に遅れたが、下水処理の実施に関しては欧州よりも早く、たとえ
ば、ミルウォーキーやシカゴなどは 1920 年代にすでに市内で発生する汚水の 70%以上を活性汚泥法による高級
下水処理で処理していた。ロンドンがそのレベルに達したのは 1960 年代であり、パリは 1980 年代である。
≪日本篇≫
年号
主な出来事
奈良時代
平城京に下水渠ができる。
平安時代
野玄式便所(日本式水洗トイレ)が高野山にできる。
安土桃山
大阪城下町に下水道ができる。
明治時代
1875 年
銀座大火ののち街路の下水設備ができる。
1879 年
コレラの流行
1885 年
東京神田に汚水排除も含めた近代下水道ができる。
1900 年
下水道法が制定される。
大正時代
1922 年
東京の三河島処理場運転開始(散水ろ床法)
昭和時代
1930 年
わが国最初の活性汚泥法による処理が名古屋で始まる。
1958 年
新下水道法が制定される。
1963 年
第一次下水道整備五箇年計画始まる。(現在は八次計画実施中)
1967 年
流域下水道工事着手(大阪府寝屋川流域下水道)
1970 年
「公共用水域の水質保全」を下水道の目的に加える。
2002 年
下水道処理人口普及率が 67%を突破
●川屋(厠)
縄文時代遺跡の近くの川の岸辺には人間の排泄物の
化石が集中して残っている。もちろん、「のぐそ」も行なわ
れていただろうが、いやなものは水に流すという日本人の
習性はすでに縄文時代からあった。藤原京や平安京の
濠渠や城内を流れる河川には人間の排泄物の遺物とと
もに「木ベラ」が残っており、紙がまだ伝来していなかったこ
の時代の人はフンの始末を木片で行なっていたと推定されている。
いずれにせよ、この時代の大部分の人は自然流水を便所として
用いていたようである。
平安時代の貴族の館である寝殿造りには便所に相当するものが
ない。すだれで仕切られた樋殿(ひどの)と呼ばれる畳一畳ほどの
スペースに清筥(しのはこ)もしくは虎子(おおつぼ)と呼ばれた木
製の「おまる」を使って用を足していた。用後の清筥は召使が屋
外に持ち出し川の流水で洗浄した。
● ポットントイレ
わが国にポットン・トイレ(汲み取り便所)を備えた家屋が登場するのは
比較的に新しく、鎌倉時代になってからである。近く欧州諸国は農業
肥料を家畜糞尿に依存していた。一方、家畜の少ない日本では、鎌
倉時代より人糞を農業肥料とし使い始め、農業生産力を高めた。し
たがって、人糞は換金価値をもつほどに貴重で、中世の日本人には人
糞を接に川に流したり道路に捨てるという習慣はなかった。京都や大
阪などの上方の都市には「辻便所」という公衆便所が設けられ、その
人糞も農家に売却されていた。江戸には「辻便所」は比較的に少なか
ったそうであるが長屋には共同使用のポットン・トイレがあり、そこから得
られる収入は長屋の大家の収入になっていた。このような「資源循環再生型社会」が形成されていたために、中近
世日本の都市は同時代の西欧都市に比べると清潔であったらしく、たとえば、戦国時代にポルトガルから来た宣
教師などは賞賛の言葉を書き残している。
わが国においては、このような人間の排泄物を肥料とするの農業形式が 1950 年代まで継続し、それがわが国の下
水道を遅らせる要因にもなった。しかし、人糞の農業利用が理想的な資源循環であったかというと、そうではない。
人糞(し尿)の農業利用は回虫病をもたらすが、ごく最近(1950 年代)まで日本人はこの回虫病とそれにともなう
栄養失調に悩まされ続けた。≪腹の虫が治まらぬ≫という言葉、このような回虫を腹にかかえていた時代の名残り
である。
● 明治時代から戦前まで
中近世における西欧の都市と日本の都市との際立ったは相違は人口密度の相違である。西欧や中国の都市は
城塞都市として発達したために中世より高い人口密度を持っていた。日本の場合にも、城下町などの中心地は
高い人口密度であったが、全体としてみればそれほど高い人口密度ではなく、たとえば武家屋敷などには雨水を
吸い込ませるに十分な庭地が備わっていた。第二の相違は道路舗装の相違である。西欧においては15世紀より
馬車が交通手段として使われはじめ、これが都市内主要道路の舗装とそれに伴う雨水排水路の発達を促したが、
日本には明治になるまで馬車は導入されなかったために、本格的な道路舗装の必要性が低く、これが雨水排水
路の発達をも遅らせた。
明治時代の文明開化ととも大都市中心地の道路は舗装されるようになり、それに伴って、そこの部分だけは暗渠
による雨水排除が行われるようになった。明治初期(1879)のコレラ禍(日本全体で 25 万人が死亡)を機に汚水
排除をも含めた下水道整備も検討されたが、富国強兵・殖産繁興の旗印のもとに水道の近代化策が採択され
ただけで、最も民生的なトイレの水洗化と(汚水排除を含めた)下水道の整備は東京の中心地などのきわめて限
られた一部の地域で実施されただけで、その状態が第二次世界大戦直後(1945)まで続いた。
● 「資源循環再生型社会」の終焉
第二次世界大戦は日本の社会にさまざまな影響を及ぼしたが、人糞利用の伝統的農業形式の崩壊もその一つ
である。この理由はいくつもある。一つは戦争によって人糞を運搬するだけの農業労働力がなくなったこと、それに対
応するように安価な化学肥料が得られようになったこと、人々が新鮮生野菜を使う欧米型食生活を望むようになっ
た、などである。いずれにせよ、この人糞利用農業の崩壊によって、日本の諸都市はきわめて深刻な衛生危機に
陥いった。各家庭の汲み取り便所に溜まる人糞には引き取りてがなく、結果として、それが路上に溢れだした。英
国で 19 世紀初頭に起きた状況がちょうど 1 世紀半を隔てて日本に起きたのである。各都市はバキューム・カーで
人糞を汲み取り、それを山河・海湾に捨てるなどの緊急策をとって急場をしのいだ。この問題は、その後(1955 年)、
「し尿収集処理」というわが国独自のシステムを作りだすことによって、一応は解決された。
このような事件があったにもかかわらず、その後もしばらく、下水道の整備は看過されていた。昭和 33 年(1963 年)
に「新下水道法」が制定されたが、この時点では、道路舗装化=雨水排除の要求は強かったもののトイレの水洗
化=下水処理を含めた下水道の整備を望む国民レベルの要求は少なかった。実際、この時代に出来た下水道
の大部分は汚水を集めてもほとんど処理をしないまま公共用水域に流していたのである。
● 下水道整備の本格的な開始
わが国の下水道整備の紀元は昭和 45 年(1970)に行なわれた「新下水道法」の改訂にあると言っても過言では
ない。この改訂は、下水道整備の目的に「水質汚濁防止」を加えたものであるが、その背景には 1950 年代以降
の急激に進行した水環境の悪化(水質汚濁)があった。とりわけ、この時代には、水俣病事件などの水汚染にか
かわる事件が頻発したが、水質汚濁の元凶は工場廃水の垂れ流しだけではなく、生活汚水の垂れ流しにあること
も人々が理解するようになり、トイレの水洗化などの衛生環境の改善とともに水質汚濁問題を改善する上でも下
水道整備が望まれるようになった。
わが国の下水道普及率はいまだ 67%であり(註:右図
表のデータは 1999 年のものでやや古い)、西欧諸国や
米国に比べると下水排除施設の整備の点では遅れて
いる。しかし、わが国の場合には、下水道の普及によっ
て集めた下水はしかるべき技術の処理方法(活性汚泥
法)で処理されるものとしている。下水道整備先進都
市であるロンドンですら活性汚泥法処理を開始したの
は 1960 年代であり、パリに至っては、ようやく 1970 年代
に活性汚泥法処理を開始したに過ぎない。この意味で
は、わが国の下水道技術は欧米諸国と同時代的に進
行していると言える。