朝鮮出兵 - CoREF

朝鮮出兵
秀吉が明を征服する事を計画した理由は、かつて仕えた織田信長の支那征服構想を継い
だとも 、武士や足軽の人数が過剰になっており将来の内乱や反乱を誘発する可能性を憂
慮したためとも、国内の統一戦争の延長として考えていたとも言われている。
15 世紀中頃から日本は長い内戦状態(戦国時代)にあったため、豊臣秀吉の指揮下に
は実戦で鍛えられた 50 万人の軍隊がいる状態となっており、これは当時のアジアで云わ
ば最大の軍隊であった。また日本ではポルトガルから持ち込まれた火縄銃で武装するよう
になっていた。当時の貿易取引書からの推計で戦国時代末期には日本は 50 万丁以上を所
持していたともいわれ、当時世界最大の銃保有国となっていた。
室町時代~戦国時代の日本は内乱状態であったため、朝鮮側は日本を(倭寇の断続的脅
威はともかくとして)大きな軍事的脅威とは見做していなかった。
1592年
豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄の役)
1591 年(天正 19 年)9月に、秀吉は諸将に対して準備命令を出した。12 月には、秀吉
は朝鮮の役に専念するため関白を辞し、豊臣秀次を関白とした。
1592 年(文禄元年)1月、諸将に出陣を命じた。2月、朝鮮に最後の使者を送ったが、
返報はなかった。3月 12 日、日本は約15万の大軍で朝鮮を攻めた(文禄の役)。さらに、
徳川家康・前田利家・上杉景勝・伊達政宗らは、10余万の兵で名護屋に布陣した。豊臣
秀吉自身も渡海の意思を示していた。
朝鮮軍は鉄砲を持たず、防衛体制も整っていなかったため、5月1日に朝鮮国王は漢城
をすて、平壌へ向かった。3日に日本軍が漢城に入った時には、朝鮮の退却軍に火をかけ
られて焦土と化していた。
日本軍は、漢城から手分けして各地の制圧に向かった。旧都の開城を落とし、平壌も戦
わずして手中にした。
日本軍に大きく押された李氏朝鮮であったが、海岸移動を行っていた日本船団に対して
李舜臣率いる朝鮮水軍は陸上の戦いに比べて日本軍に対して優位を占めていた。
秀吉は6月3日、明に向かっての進撃体制を整えるため、軍の編成を改めた。ここにい
たって、明は、朝鮮もしきりに援軍を要請してくることから、軍隊を救援に向かわせた。
明軍は朝鮮北西部の国境を越えて南下、7月 16 日には平壌を襲ったが、日本軍はこれを
撃退した。
8月 30 日、講和派の小西行長は講和使節の沈惟敬と50日間の休戦協定を結んだ。1593
年(文禄2年)1月5日、明はあらたに4万の大軍で平壌の小西行長を囲み、小西行長は
陣を引いた。開城の軍も漢城へ引き、漢城へ明軍がせまると、邀撃してこれを破った。ま
た、漢城では飢饉のため兵糧が欠乏し、講和の気運が高まった。小西行長・石田三成・増
田長盛の三奉行は、4月 18 日に明の使者を伴って撤収し、5月 15 日に名護屋に戻った。
1597年
豊臣秀吉の二度目の朝鮮出兵(慶長の役)
1592 年(文禄元年)の豊臣秀吉による一度目の朝鮮出兵(文禄の役)は、明国軍が朝
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鮮を援助して戦線が膠着し、飢饉のため兵糧が欠乏したため、講和交渉が行われたが、小
西行長はなんとしても講和を結ぼうと策謀を用い、秀吉の意図が明国王にそのまま伝えら
れず、それを知って激怒した秀吉は再度遠征の命令をくだした。1596 年(慶長元年)9
月2日のことである。
翌 1597 年(慶長2年)に、日本は、再度、約14万の大軍で朝鮮へ攻め込んだ(慶長
の役)。今回は、朝鮮側の防備ができており、戦線は再び膠着し、1598 年(慶長3年)に
豊臣秀吉が死去して日本は撤退した。この戦乱により、多くの人命が失われ、朝鮮の田畑
が荒廃した。儒者や陶工・活字印刷などの技術者が日本に連れ去られた。
朝鮮半島に渡った部隊は、8月には全羅道を攻撃した。また、忠清道で明の軍隊と戦い
これも破ったが、漢城(現在のソウル)にはすでに明軍が入っていたため、近づき難かっ
た。
また、朝鮮の水軍が、ふたたび李舜臣を起用すると、日本の水軍は敗北が続いた。
明軍の攻撃と、寒冷期が近づき兵糧に欠乏をきたしたため、日本軍は朝鮮半島南部へ移
動した。
翌 1598 年(慶長3年)3月になると、一部の軍に帰国が命じられ5月 29 日に撤兵した。
秀吉は、病により8月 18 日に死去したが、喪はしばらく伏せられ、朝鮮からの撤兵が
行われた。8月 25 日、徳川家康と前田利家は、2人の使者を朝鮮半島に送り、諸将をし
て和を講じ、軍を撤収させることを命じた。
朝鮮の水軍は撤収する日本軍を襲撃したが、李舜臣の戦死によって襲撃はやんだ。
12 月 10 日に最後の軍が日本に帰国した。
【朝鮮出兵が与えた影響】
文化面で朝鮮半島に多大な影響をもたらした。南蛮貿易により日本にもたらされた唐辛
子は、文禄・慶長の役の日本軍によって朝鮮半島にももたらされ、キムチ等の韓国・朝鮮
料理の礎を築いた。
日本では、留守中の大名領地に太閤検地が行われ、豊臣政権の統治力と官僚的な集団が
強化された。しかし戦後にはこの戦争に過大な兵役を課せられた西国大名が疲弊し、家臣
団が分裂したり内乱が勃発する大名も出るなど、かえって豊臣政権の基盤を危うくする結
果となった。一方で、諸大名中最大の石高を持ちながら、関東移封直後で新領地の整備の
ために九州への出陣止まりで朝鮮への派兵を免れた徳川家康が隠然たる力を持つようにな
った。西国大名が出兵で疲弊した一方で、損耗を免れたことが徳川家康が後に天下を取る
要因の一つとなった。
また、出兵に参加した大名たちによって連れてこられたり、大名と雇用関係を結んだり
して自ら来日した朝鮮人から様々な技能が伝えられた。 朝鮮人儒学者との学問や書画文
芸での交流、そして陶工が大陸式の磁器の製法、瓦の装飾などを伝えたことで日本の文化
に新たな一面を加えた。
明にとっては、膨大な軍事費の支出及び戦死者を出したことと皇帝万暦帝の奢侈は明の
国力を悪化させ 17 世紀前半の女真の強大化に耐え切れないほどの、明の急速な弱体化の
重要な原因となったと考えられている。
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兵農分離
太閤検地
豊臣秀吉は、1582 年から検地を行っており、1591 年に関白位を豊臣秀次に譲るまでは
太閤ではなかったが、1591 年以降は秀吉自身が「太閤」の称号を好んで使用したことも
あり、1591 年以前の検地も含めて「太閤検地」と言う。これを企画発案したのは石田三
成で、検地奉行として事実上の施行者となった。
秀吉は、各地を征服するごとに検地を行い、征服地を確実に把握して全国統一の基礎と
した。また、太閤検地では全国的な規模で統一された方法で行われ、それまでの複雑な土
地所有関係を整理し、土地制度を一新した。これにより、荘園制度は完全に崩壊すること
となる。さらに、物差し、升を統一して行われたため、度量衡の統一がなされた。この太
閤検地の実施により兵糧を絶やすことなく小田原城を約 20 万の兵で囲み、北条氏を滅亡
させた(小田原の役)のは有名な話である。
もっとも、全国統一完成前の検地においては、秀吉に服従したばかりの地方の有力大名
に対しては必ずしも太閤検地の諸原則を貫徹できなかった。このため、1591 年になって
秀吉は全国の大名に対し、国郡を基準とした石高帳(一国御前帳)の作成を命じた。ここ
では、地方の大名に対しても太閤検地の基準に沿ったより精密な報告が求められた。これ
によって秀吉は全国の土地を統一した基準の下に掌握するとともに翌年に関白である秀次
が発した人掃令とともに兵農分離の方針を確立させることになった。
太閤検地によって、各地の石高が確定されたことは、その後江戸時代の幕藩体制の基礎と
なる石高制の基となり、江戸時代においてもこれに倣って検地が行われた。これ以前にも、
織田信長によって大規模な検地(指出検地とも呼ばれる)が行われており、太閤検地の原
型になったといわれている(一部の者はこれを「信長検地(しんちょうけんち)」と呼ぶ)。
刀狩
豊臣秀吉が発した刀狩令は次の 3 か条からなる。
1
百姓が刀や脇差、弓、槍、鉄砲などの武器を持つことを固く禁じる。よけいな武器
をもって年貢を怠ったり、一揆をおこしたりして役人の言うことを聞かない者は罰す
る。
2
取り上げた武器は、今つくっている方広寺の大仏の釘や、鎹にする。そうすれば、
百姓はあの世まで救われる。
3
百姓は農具だけを持って耕作に励めば、子孫代々まで無事に暮せる。百姓を愛する
から武器を取り上げるのだ。ありがたく思って耕作に励め。
刀狩の展開では没収された武器類を方広寺大仏殿の材料とすることが喧伝された。中世
社会では、信仰の形として刀を仏にささげる行為が一般化しており、鎌倉時代には執権北
条泰時が鎌倉市中の僧侶の帯刀を禁じた際に、没収した刀を鎌倉大仏に寄進すると述べて
いる。
また、多聞院英峻(興福寺僧侶)による『多聞院日記』などでは、政策の主目的が一揆
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(盟約による政治共同体)の防止であったと記されている。つまり、百姓身分の者が一揆
を結成して政権に異議申し立てをする物理的実力たる惣村を武装解除し、一揆の結成その
ものを抑止しようとしたというのである。当時の百姓身分の自治組織である惣村は、自検
断権に基づき自ら司法権とその保証となる軍事警察力たる武力を持ち、膨大な武器を所有
していた、また、相互に一揆の盟約を結んで団結して、領主の支配に対して大きな抵抗力
を持つ存在ともなっていたのである。秀吉は 1585 年には先行して根来衆や雑賀衆から武
器没収を行っており(第二次太田城の戦い、刀狩)、また織田氏家臣の柴田勝家も越前国
の一向一揆の鎮圧のために刀狩政策を行っている。
ただ、実際には、刀や脇差の上納と没収が名目上で展開されたのみで、その他の槍、弓
矢、鉄砲、祭祀に用いる武具や害獣駆除のための鉄砲などは所持を許可されるなど、刀狩
の展開後も農村には大量の武器が存在したままだった。すなわち、秀吉の刀狩令によって
惣村の完全なる武装解除が達成されたわけではない。また、刀狩の展開の多くは村請すな
わち惣村の自検断権に基づいて実行されたケースが多い。
中世を通じて武器の所有は広く一般民衆にまで浸透しており、成人男性の帯刀は一般的
であった。また、近隣間の些細なトラブルでさえ暴力によって解決される傾向にあった、
そのため、秀吉は刀狩と並行して武器の使用による紛争の解決を全国的に禁止(喧嘩停止
令)し、この施策は江戸幕府にも継承された。
以上のことから、秀吉の刀狩令は百姓身分の武装解除を目指したものではなく、百姓身
分から帯刀権を奪い、武器使用を規制するという兵農分離を目的としたものであったとす
る学説が現在では有力である。
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大阪城
天正 11 年(1583)、秀吉は石山本願寺跡に大坂城の普請(築城工事)を開始した。一般
には日本のお城のシンボルは天守閣であるが、空にそびえる大天守が初めて作られたのは
織田信長の安土城である。信長の後継者を自認する秀吉は、安土城をモデルとしながらも、
すべての面でそれを凌駕することをめざした。
秀吉創建の大天守は外観 5 層で、鯱瓦や飾り瓦、軒丸瓦、軒平瓦などに黄金をふんだん
に用いた。また、秀吉は自ら好んで多くの来客に本丸内を案内してまわり、金銀の装飾に
あふれた奥御殿の内部、大天守の各階に納められた財宝の山など、空前の富の集積を誇示
して来訪者を驚嘆させた。 完成に 1 年半を要した本丸は、石山本願寺跡の台地端を造成
し、石垣を積んで築かれたもので、巧妙な防衛機能が施された。秀吉が死去するまでに二
の丸、三の丸、総構えが建設され、3 重の堀と運河によって囲むなどの防衛設備が施され
た。
秀吉の大坂城は、秀吉が存命した 15 年の全期間をかけて、徐々に難攻不落の巨城
に仕上げられた。また、城づくりと同時に町づくりが行われ、秀吉時代の大坂は近世城下
町の先駆けとなった。 領主の邸宅である城を中心とした広大な領国の首都、そして政治
・経済・軍事・文化の中心都市とし
大坂城天守閣の復元イメージ図
て城下町大坂が建設されたのである。
天守は、絵画史料では外観 5 層で、
「大
坂夏の陣図屏風」や「大阪城図屏風」
では外壁や瓦に金をふんだんに用い
た姿で描かれており、それに則した
復元案が多くある。大坂城の普請中
に秀吉を訪問し、大坂城内を案内さ
れた大友宗麟は、大坂城を三国無双(さ
んごくぶそう)と称えた。
(桃山文化)
16世紀末,豊臣秀吉が全国統一をなしとげたころにさかえた文化。
織田信長や豊臣秀吉が国内統一を進めた安土桃山時代には,新しく勢力をのばした大名
や海外貿易で活躍した大商人の気風を反映して,雄大・豪華で活気にみちた文化がさかえ
た。仏教文化の色あいがうすれて,人間中心の傾向が生まれ,南蛮文化の影響も受け,庶
民の文化が広まるようにもなった。
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姫路城の写真
〔文化の内容(ないよう)〕
(1)建築・絵画
支配者の権威をしめす壮大な
城である安土城(織田信長の居
城)・大阪城・伏見城・姫路城など
がきずかれ,高くそびえる白壁の
天守閣がつくられた。書院造りを
とりいれた聚楽第(豊臣秀吉が京都
にたてた壮大な邸宅などの建物に
は,狩野永徳,長谷川等伯らによ
って豪華な障壁画(ふすま・屏風
などにかかれた絵)がえがかれ,花鳥の彫刻もほどこされた。また,当時の風俗を写し
た風俗画や南蛮屏風もかかれた。
(2)茶道・芸能…千利休によって,茶の湯が茶道として大成され,湯のみなどの陶器が
各地でつくられ,豊臣秀吉の朝鮮出兵で日本へつれてこられた朝鮮の陶工によって有
田焼(佐賀県)などが生まれた。いっぽう,出雲大社の巫女(みこ)の出といわれる
阿国が京都で歌舞伎踊りを始めて人気を集めた。また,小歌が流行し,このころ生ま
れた三味線(琉球からつたわった三線(さんしん)をもとにつくられた)を伴奏とす
る浄瑠璃(じょうるり)や,三味線や浄瑠璃に合わせ人形をあやつる人形浄瑠璃もお
こって,多くの人々によろこばれた。
狩野永徳 唐獅子図屏風
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3つの政策に寄せる秀吉の思い
(
兵
農
分
離
)年(
)組(
)番・氏名(
)
学習メニュー
1.前時の学習の確認
3.意見交換(ブレスト)(エキスパート班)
【授業の記録】
朝
鮮
出
兵
大
坂
城
築
城
《1位》:
順
位
《2位》:
付
け
《3位》:
2.資料分担作業(ジグソー班)
4.秀吉の思い(ジグソー班)