年間第24主日・諸宗教部門シンポジウム中ミ サ説教

千葉中央宣教協力体・合同堅信式
2016年9月22日、茂原教会
[聖書朗読箇所]
説教
先に、マタイ福音書を引用したいと思います。「そのとき、イエス
は言われた。『あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなく
なれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役
にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。
あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができ
ない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の
上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そ
のように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あ
なたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるよう
になるためである。』」 これから、千葉中央宣教協力体の合同の堅信式が行われます。堅信
の秘跡によって、みなさんは聖霊の賜物をお受けになり、イエス・
キリストへの信仰を力強く証し、述べ伝えることができるようにな
ります。 聖霊の賜物、それは、「知恵と理解、判断と勇気、神を知る恵み、
神を愛し、敬う心」と、今日、これから行われる堅信式の祈りの言
葉の中で述べられております。 今日の第一朗読は、聖霊降臨の場面であります。マリア様を中心と
して集まって、聖霊の賜物を祈り求めていた弟子たちの上に、聖霊
が舌の火の形をして現れました。このときに、わたしたちの教会が
誕生いたしました。 わたしたちは、今、聖霊の時代を歩んでいると言えましょう。わた
したちの日々の生活は、聖霊による生活、聖霊から照らしを受け、
聖霊の導きを受けて、毎日を神様にお捧げする生活であります。 ところで、聖霊は、わたしたちの心の状態に応じて働くということ
もいえます。わたしたちが熱心に祈るならば、聖霊が豊かに注がれ
ます。聖霊の働きを妨げる心の状態があるならば、まず、わたした
ちは深く反省し、心を聖霊の働きに向けるようにしなければならな
いと思います。自分のことばかり考えたり、自分の必要に心が追わ
れていたりすると、聖霊がよく働くことができないのだと思います。
先日、マザー・テレサ、コルコタの聖テレサの列聖の記念のミサが、
東京カテドラルで行われました。そのときに申し上げたことを、今
日も繰り返して申し上げます。 この聖人が、日頃祈っていた、祈りというものがいろいろとあるよ
うですが、一つ、わたしの心に強く迫ってくる祈りがあります。イ
エス・キリストに向かって、次のように祈られたそうです。
どうか、主イエスよ、わたしを解放してください。
人から評価されたいという思いから、わたしを解放してください。
人から重んじられたい、ほめられたい、他の人よりも好ましく思わ
れたい、相談されたい、認められたい、そういう思いから、わたし
を解放してください。 そのように祈っていたそうでありますが、このような心は、わたし
たちの中にもありますね。マザー・テレサも人間として、そのよう
な心の動きを感じていたのかもしれません。 もう一つのことです、最近繰り返して申し上げておりますが、人間
の心というものは、大変厄介なものであります。 仏教では、煩悩と
いうことを言っています。この煩悩の中に、三つの毒があるそうで
す。この三つの毒というのは、次の三つだそうです。 貪(むさぼ)る。欲深いことですね。いろいろなものが欲しくて、
そして、なかなか満足しない。そういう「貪(むさぼ)り」。 それから、次は、憤り、妬むこと、人が自分よりも良い状態にある
と面白くない。あるいは、自分の思い通りに物事が行かないと、怒
りを覚える。そういうことだそうです。 そして、三つ目は、「癡(ち)」という難しい字ですけれども、頭
の中で思い浮かべていただきたいのですが、病気の病の「やまいだ
れ」という字がありますが、この中に「疑(うたがい)」という字
を書くのですね。これを「癡(ち)」と読むのだそうです。 わたしたちがよく知っている字は、「やまいだれ」の中に知識の
「知」ですけれども、元々は「疑(うたがう)」という字だったそ
うです。 一体どういうことかというと、これは、ものがわからない、「無知
である」という意味だそうです。 「わたしたちは、いわば、闇の中に置かれていて、そして光が届か
ないので、本当のことがわからない。自分自身の本当の姿がわから
ない。すぐそばにいる人のことがわからない。その人がどのような
考えを持っているか、どのような思いを抱いているかということも、
察しはしますが、よくはわからない。その他、いろいろなものの道
理がわからない。全くわからないわけではないのですね。よくはわ
からない」といった状態を表しているのだそうです。 イエスは言われました。「わたしは、世の光である。」。わたした
ちの場合は、光を受けて、そして、わたしたちが正しく判断し、正
しく行うことができるように、聖霊がわたしたちを助けてください
ます。聖霊の七つの賜物、堅信のときに授けられる賜物は、「知恵
と理解、判断と勇気、神を知る恵み、神を愛し、敬う心」でありま
す。 堅信を受けられるみなさん、今日からより賢く、そして、より善悪
がよくわかるような人となってください。そのために、よく祈るこ
と、いろいろなことに心を奪われてしまわないで、神様の言葉、主
イエス・キリストの教えに、いつも耳を傾けるように、努力いたし
ましょう。 朝起きたときは、今日一日を神様にお捧げしますと祈り、一日が終
わって寝るときは、今日一日の反省を行い、そして、神様のみ心に
背いたこと、背いたかもしれないことについて、お詫びをするよう
にしてください。
聖書朗読箇所
第一朗読 使徒言行録2:1-11
福音朗読 ヨハネ15:1-8、26-27
(福音本文)
〔そのとき、イエスは言われた。〕「わたしはまことのぶどうの木、
わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ば
ない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、
いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。 わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。
わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながってい
る。 ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶこと
ができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、
実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその
枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっ
ていれば、その人は豊かに実を結ぶ。 わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたし
につながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯
れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。 あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがた
の内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすれ
ばかなえられる。 あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによっ
て、わたしの父は栄光をお受けになる。 わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、す
なわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしに
ついて証しをなさるはずである。あなたがたも、初めからわたしと
一緒にいたのだから、証しをするのである。」
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コルカタの聖テレサ列聖記念ミサ説教
2016年9月19日15時、東京カテドラル聖マリア大聖堂
[聖書朗読箇所]
説教
本日の第二朗読は、ヨハネの手紙であります。
ヨハネは繰り返し、「神は愛である」と述べています。
父である神は御子イエスを遣わし、イエスの御顔によって神の愛、
すなわち神のいつくしみを示されました。誰も神を見た者はおりま
せん。イエスを見る者は、イエスを遣わされた父である神を見るの
であります。
父である神は、御子の生涯によって愛するということを教えてくだ
さいました。
主イエスは、自分が弟子たちを愛した愛、その同じ愛によってお互
いに愛し合うよう、お命じになっております。そしてそうできるよ
うに、イエスの愛を行うことができるように、ご自分の霊である聖
霊をわたしたち教会に注いでくださっているのであります。
ヨハネの手紙が言っておりますように、実に目に見える兄弟を愛さ
ない者は目に見えない神を愛することができません。
わたくしたちは日々、兄弟を、隣人を愛するようにと召されており
ます。
隣人を愛することは、すなわち主イエス・キリストにお仕えし、主
イエス・キリストを愛することに他なりません。
今読まれました、マタイの福音25章は、「最も小さい者の一人にし
たことは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイ25・40)
と述べています。
さて、わたくしどもの教皇フランシスコは、「いつくしみの特別聖
年」を公布する大勅書のなかで、このマタイ福音書25章の教えを引
用しております。
「いつくしみの特別聖年」にあたり、イエスの弟子たちは、より深
く神のいつくしみに触れ、そして、神のいつくしみを実行するよう
に強く求められております。
教皇はいつくしみの技について、身体的な(corporal)行いと精神的な
(spiritual)行いに分けて説明しております。
両者は、はっきり峻別できるものではなく、本来、お互いに通じ合
うものであって、実(じつ)は一つのものであるとは思います。
身体を通して行ういつくしみの御業とは
飢えている人に食べ物を用意すること、
渇いている人に飲み物を与えること、
着るもののない人に衣服を与えること、
宿のない人に宿を提供すること、
病んでいる人を訪問すること、
受刑者を訪問すること、
更に、死者を埋葬すること
と述べられております。
また、精神的なスピリチュアルないつくしみの技と言えば、例えば
次のような行いであります。
疑いを抱いている人に助言すること、
無知な人に教えること、
罪人を戒めること、
嘆き悲しんでいる人を慰めること、
いろいろな侮辱をゆるすこと、
煩わしい人を辛抱強く耐え忍ぶこと、
生者と死者のために神に祈ること
などであります。
この教えは本日の第一朗読イザヤ書58章の教えと一致しております。
わたくしには特に次の箇所が強く心に響いております。
「軛を負わすこと、指をさすこと
呪いの言葉をはくことを
あなたの中から取り去るなら
飢えている人に心を配り
苦しめられている人の願いを満たすなら
あなたの光は、闇の中に輝き出で
あなたを包む闇は、真昼のようになる。」(イザヤ58・9-10)
日々、このような神の愛を生き、神のいつくしみを実行するために
は、自分自身を無にし、たえず古い自分に死に、新しい人として生
まれ変わる努力が必要であり、そのための祈りが献げられなければ
ならないと思います。
たまたま、わたくしは、マザーテレサの祈りという祈りを見つけま
した。長い祈りですがその冒頭の部分だけ紹介いたします。*
イエスよ、どうか、わたしを解放してください。
評価されたいという思いから、わたしを解放してください。
イエスよ、重んじられたいという思いから、ほめられたいという思
いから、他の人よりも好まれたいという思いから、相談されたいと
いう思いから、認められたいという思いから、どうかわたしを解放
し、救ってください。
聖テレサは、この祈りを献げながら、毎日古い人に死に、新しい人
として生まれる努力をしておられたのではないかと思います。
わたくしは、同じようにこの祈りの趣旨をもっと深く理解し、そし
て自分自身のための祈りとして大切にしていきたいと思いました。
*祈りの英語原文の全文は以下のとおりです。
“Deliver me, O Jesus:
From the desire of being esteemed
From the desire of being loved
From the desire of being honored
From the desire of being praised
From the desire of being preferred to others
From the desire of being consulted
From the desire of being approved
From the desire of being popular.
Deliver me, O Jesus:
From the fear of being humiliated
From the fear of being despised
From the fear of being rebuked
From the fear of being slandered
From the fear of being forgotten
From the fear of being wronged
From the fear of being treated unfairly
From the fear of being suspected
And, Jesus, grant me the grace
To desire that others might be more loved than I
That others might be more esteemed than I
That in the opinion of the world, others may increase and I decrease
That others may be chosen and I set aside
That others may be preferred to me in everything
That others may become holier than I, provided that I, too, become
as holy as I can.”
(Mother Theresa, A Simple Path)
聖書朗読箇所
第一朗読 イザヤ 58・6-11
第二朗読 ヨハネの手紙1 4
7-16
福音朗読 マタイ 25・31-40
(福音本文)
〔その時、イエスは言われた。〕「人の子は、栄光に輝いて天使た
ちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国
の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、
彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。
そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福
された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている
国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べ
させ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸
し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねて
くれたからだ。』
すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつ、わたしたちは、
飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられる
のを見て飲み物を差し上げたでしょうか。 いつ、旅をしておられる
のを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。
いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねし
たでしょうか。』
そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟である
この最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなの
である。』」
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年間第24主日・諸宗教部門シンポジウム中ミ
サ説教
2016年9月11日、カトリック金沢教会にて
[聖書朗読箇所]
説教
金沢の教会の皆様、おはようございます。わたくしどもは日本カト
リック司教協議会で諸宗教部門を担当しております司教、司祭、そ
して協力者の一団でございます。昨日から大変お世話になっており
ます。ありがとうございます。
ご存知のように、わたくしたちは教皇様のご意向に従いまして、
「いつくしみの特別聖年」を祝っております。今年の11月20日で終
了いたしますが、改めて神のいつくしみを考えて、そして人々に仕
えることができますようお祈りし、そしてさらに深く学んでいきた
いと思います。
「いつくしみ」という言葉は、わたくしどもキリスト教の教えであ
るだけでなく、恐らくすべての宗教も「いつくしみ」ということを
教えていると思います。毎年、この諸宗教部門による勉強会、シン
ポジウムを行っておりまして、他の宗教の先生にお越しいただいて、
お話しを伺っております。
去年のことを言うのは恐縮ですけれども、同勉強会が埼玉県の大宮
教会で開かれました。「平和」ということについて話し合ったので
ございます。どの宗教も、平和ということを大切にしております。
平和を乱すものは何であるかというと、そのときにお話しくださっ
た仏教の方のお話でありますが、人間の心には平和を乱す三つの毒、
三毒というものがあるのだそうです。
難しい漢字ですけれども「貪(とん)・瞋(じん)・癡(ち)」と
いいます。「貪(とん)」とはむさぼるということ、「瞋(じん)」
というのは怒る、嫉む心、「癡(ち)」というのは人間の心が闇に
潰されていて、物事がよくわからない状態、愚かである、無知であ
ることだそうです。
さて、今読まれましたルカの15章の福音、この箇所はまさに「いつ
くしみの特別聖年」の精神を示しており、非常に大切な教えでござ
います。
特に、「放蕩息子」の話は、神様がいかに、どんなにいつくしみ深
い方かということを教えています。まだ生きているお父さんに向かっ
て、自分が将来もらうことになる遺産の分け前をくださいという、
なんと親不孝な身勝手な願いでしょうか。そういう願いを出してお
金をもらって、遠いところに行って全部使い果たしてしまう。
この息子の心の中には、仏教でいう三つの毒が大いに働いているよ
うな気がします。
仏教では「煩悩」というそうですけれども、この煩悩というのは、
自分のことしか考えない、自分がしたいようにしたい、そして人の
悲しみや迷惑を考えない、そういう人間の状態です。それは多かれ
少なかれ、多少わたしたちが陥っている問題ではないでしょうか。
自分がどんなにかみこころに背いた状態であるか、ということを知
らない。仏教では「無明」-光がない―というのでしょうか。でも、
そういう人間を神様は見捨てないどころか、心から大切に思ってく
れています。心配してくださっています。そういう子どもであるわ
たしたちのために苦しんでいます。
お父さんは、息子が帰ってくるのを見つける、まだ遠くにいたのに
すぐに気がついて、喜んで息子を迎え入れました。立派な服を着せ、
指輪をはめさせ、靴を履かせ、自分の息子としての待遇をして喜ん
で迎え入れました。
どんなに間違った状態にあっても、どんなに罪深い状態にあっても
神の子であることに変わりありません。仏教ではすべての人には仏
様が宿っていると教えているようであります。
わたしたちは神の子であります。たとえ罪を犯しても神の子である
ことがなくなるわけではない。神様が被造物としてお造りになった
人間であります。
そこには神様のいつくしみ、神様のすばらしさが宿っている。それ
が曇ったり、歪んだりしてしまうことがあるし、完全に輝き渡ると
いうことは難しいのでありますけれども、神様にとっては愛おしい、
なくてはならない大切な人間であります。
「あわれむ」という日本語は誤解されがちですね。いわゆる上から
目線、上から下にいる者に恵んであげるという意味に捉えられがち
であります。
神様の恵みはそういう恵みではないと思います。心から大切に思っ
てくださる、そして、いわば対等な向き合った関係であって、そし
て人間が自由に自分から神様の方に向かっていくまで待ってくださ
る。
また、どんなにあなたが価値のある尊い存在であるかということを
悟るように心から願ってくださいます。
「いつくしみ」というのは誰かが誰かに物を与えたりする関係では
なくて、お互いに相手を大切な存在として認め合い、分かち合うと
いう、そういう心の働きが「いつくしみ」ということではないかと
思うのであります。なかなか難しいことだと思います。
わたしたちは兄弟姉妹、大切な人の中にイエス・キリストがおられ
るということを心から信じ、そしてイエズス様にお仕えできるよう
に、謙遜に仕え務め通すことができますようにお祈りしましょう。
聖書朗読箇所
第一朗読 出エジプト記32・7-11、13-14
第二朗読 テモテへの手紙1・12-17
福音朗読 ルカ15・1-32
(福音本文)
〔そのとき、〕徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄っ
て来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人
は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだし
た。 そこで、イエスは次のたとえを話された。「あなたがたの中に、
百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九
十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らな
いだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰
り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、
一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このよう
に、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十
九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」
「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を
無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を
入れて捜さないだろうか。そして、見つけたら、友達や近所の女た
ちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜ん
でください』と言うであろう。言っておくが、このように、一人の
罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」
また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。弟の方が父
親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前を
ください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。
何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅
立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。
何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼
は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところ
に身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。
彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ
物をくれる人はだれもいなかった。 そこで、彼は我に返って言った。
『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンが
あるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。
ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天
に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と
呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』
そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。 ところが、まだ遠
く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄っ
て首を抱き、接吻した。息子は言った。『お父さん、わたしは天に
対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼
ばれる資格はありません。』 しかし、父親は僕たちに言った。『急
いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめ
てやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて
来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き
返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を
始めた。
ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りの
ざわめきが聞こえてきた。そこで、僕の一人を呼んで、これはいっ
たい何事かと尋ねた。僕は言った。『弟さんが帰って来られました。
無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたので
す。』兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。
しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さ
んに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。そ
れなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれ
なかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦
どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子
牛を屠っておやりになる。』 すると、父親は言った。『子よ、お前
はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。
だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなってい
たのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前では
ないか。』」
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