日本の果てのエアロゾル -長期観測からみえるもの- 兼保直樹(産業

日本の果てのエアロゾル
-長期観測からみえるもの-
兼保直樹(産業技術総合研究所)
1.辺びな場所での測定はなぜ?
仕事で出かける場所は、船で 25 時間かかる離島や岬の灯台、山の頂上といった辺ぴなと
ころが多いです。そういった、行くのも大変、電源を探すのも大変といった場所で空気を集
め、大気中の微粒子(エアロゾル)の組成や光を吸収する性質を測定しています。これは、ご
く近場から大気汚染物質が発生しているような場所、たとえば大都市などでの測定では”そ
の場所”の特徴を示すデータを取ることはできても、たとえば日本周辺といった広い範囲・
大きなくくりで大気の組成の変化や特徴を知ることにはならないからです。この、日本周辺、
あるいは北西太平洋域といったような広い範囲での大気の組成について調べることにどうい
う意味があるのでしょうか?
1 つには、東京や大阪などでの都市大気汚染を考える際に、都市から排出される汚染物質
濃度がそこに上積みされベースともいうべき濃度(バックグラウンド濃度)として、これを押
さえておく必要があるためです。日本では、長い期間かかって続けてきた公害対策の結果、
工場や自動車などから排出される大気汚染物資の濃度を大きく減らすことに成功しました。
たとえば、SPM と呼ばれる直径が約 10 ミクロン(μm = 100 万分の 1 メートル)以下の微粒子
の濃度は、1990 年代には東京などの大都市では環境基準(人の健康を守るためにこれ以下の
濃度に抑えなさいという基準)を超過している測定局がほとんどでしたが、2000 年代後半に
な る と 環 境 基 準 を 達 成 し て い る 局 が ほ と ん ど に な り ま し た (た だ し 道 路 際 な ど に あ る ” 自 排
局”ではなく住宅地などにある”一般局”では)。ところが、人の健康により直接的な影響が
あると考えられる直径が 2.5 μm 以下のさらに小さい粒子(PM 2.5 とよばれる)に対して環境基
準が昨年に設定されました。このような小さな粒子は大気中での寿命がさらに長いという特
徴があります。このため、後で述べますが、たとえば大都市における PM 2.5 濃度は、都市単
独で排出される大気汚染によるものに対して、より広い範囲での濃度の影響、すなわちバッ
クグラインド濃度の寄与が大きくなります。
もう一つの理由は、アジアからの大気汚染物質の排出量は”日本への影響”にとどまらず、
地球全体の環境、特に気候に対して無視しできないほどの大きな影響を持つようになってき
たことが関係しています。大気エアロゾルが気候に及ぼす影響は、その”量” (多いか少な
いか)と”質”(黒いか白いか、大きいか小さいか)によって決まってくるのですが、これは都
市単独、というより、数 100 km 単位でのより広い範囲での量と質が効いてきます。これを
捉えるために、辺ぴな場所での比較的長期にわたった観測データが重要となってくるのです。
以下で、その例を紹介していきます。
2.離島での観測
離島での観測が国内での大気汚染物質濃度の実態解明に直接関わってくる例をみてみまし
ょう。対馬海流に洗われる長崎県、五島列島の福江島は、長崎から西へ 100 km の東シナ海
に浮かぶ、九州最西端の島です。古くは遣唐使の国内最後の寄港地であったことからも分か
るように、ここは日本からアジア大陸に最も近い場所の一つ、逆にアジア大陸からの影響が
最も早く到達する場所ともいえます。2009 年から新たに大気中濃度の環境基準が設定された
PM 2.5 濃度を、この福江島のほか、長崎市、福岡市においても測定した結果を、月平均濃度と
して図 1 に示します。これはちょっと驚くような結果で、人口 4 万人の福江島と、そこから
190 km 北東にある人口 140 万人の福岡市で、PM 2.5 濃度はほとんど変わらないことがわかり
ました。両地点の間にある長崎市(人口 30 万人)でも濃度はほぼ同じです。
この結果について、大都市であ
る福岡から発生した都市大気汚染
物質が福江島に向かって流れてい
ったのでは、と思うかも知れませ
ん。しかし、PM 2.5 濃度の変動を 1
時間単位でみてみると、ほとんど
の場合には福江島で先に濃度が上
がり、次いで長崎、福岡と濃度が
上がっていくことがわかりました。
つまり、高い濃度の PM 2.5 は福江
島側から福岡側に向かって流れて
図1
福江島、福岡、長崎における PM 2.5 月平均濃度
いる場合が多いのです。福江島に
は大きな汚染発生源はないことから、アジア大陸から流れてきた高い濃度の PM 2.5 粒子によ
り、福江島といった離島と福岡や長崎といった大都市での濃度が年間を通じてほぼ同じにな
っていることがわかります。
もちろん、福岡や長崎から排出される大気汚染物質がまったく寄与していないということ
ではありません。図 1 では、2010 年の夏から初冬にかけて、福岡や長崎のほうが連続して(若
干ですが)濃度が高い状況もみられます。夏には、太平洋高気圧の勢力が優勢となって風が弱
く、気温が高くなりなります。このため、都市で排出された汚染物質は比較的近場に滞留し
やすく、また、その中で光化学反応が起きて、いわゆる光化学スモッグとして粒子が形成さ
れたためと考えられます。
ところかわって、東京から南に 1000 km にある小笠原諸島・父島へ渡るには、船で 25 時
間かかります。ここまで遠くに離れると、アジア大陸から放出された汚染物質はかなり希釈
され、環境基準うんぬんとは無関係なレベルまで濃度が下がります。しかし、夏季の北平洋
中心部の北太平洋高気圧から吹き出す清浄な気団に支配されたときは、さらに非常に清浄な
空気に覆われますので、これと冬季から春季にアジア大陸を起源とする大気汚染物質を含む
気団に支配されたときの汚染物質濃度のコントラストが大きいのが特徴です。
このような場所での観測にはどういう意味があるのでしょうか? 1 つには、アジア大陸で
大気汚染物質の発生量が今後変わっていったとき、西部北太平洋域でエアロゾル濃度がどの
ように変化するのか、といったことを予測するため、”数値モデル”を用いてコンピュータに
より計算することがあります。このような計算がどの程度合いそうなのか、といった点を検
証するうえで、離れた場所での実
測データは重要となります。また、
モデルの検証以前に、ここまで離
れた場所で長期観測を行うと、現
在、世界最大のエアロゾル排出地
域となっているアジア大陸からの
発生量の変化そのものを見ること
ができと期待されます。図 2 には、
父島での大気中の”すす”の濃度が
ここ 10 年間でどのように変化し
図2
父島における、輸送シーズン(10~ 5 月)と、非輸送
たのかを、晩秋~冬~春の”輸送シ
シ ー ズ ン(6~ 8 月 )に わ け た 、 各 年 の 大 気 中 の ”す す ”の 平
ー ズ ン ”と 夏 の ”非 輸 送 シ ー ズ ン ”
均濃度。非輸送シーズンの傾き: 2.8 ng m -3 y -1 下限 95%
にわけて年平均値を示します。非
SL : - 0.96 ng m -3 y -1 , 上限 95% SL : 6.6 ng m -3 y -1
輸送シーズンは、小笠原付近が太
平洋高気圧に覆われて、アジア大陸方面からの物質輸送が起こりにくいため、輸送シーズン
に比べて濃度が 1/3 程度と低いですが、それでも、この 10 年間には輸送シーズンともども僅
かな増加傾向があるように見えます。また、注目されるのは 2008 年から濃度が減っているよ
うにみえることです。これは中国での発生源対策が進んだからなのでしょうか。あるいは、
エル・ニーニョなどによる全球規模の輸送経路の変化のためかもしれません。この真偽が明
らかになるのは、もうしばらく観測結果が蓄積されてからでしょう。
2.富士山頂
自由対流圏(風が吹くときに地面との摩擦の影響がほとんどなく流れることができる高度)
に突き出す富士山頂は、大気エアロゾルの大陸間輸送など超長距離輸送(主として自由対流圏
を経由する)や長期にわたる変動などを捉えるのに好適です。特に、アジア大陸の影響を受け
る北西太平洋地域における自由対流圏の高度のデータは少なく、あったとしても航空機観測
により散発的に得られたものが中心となります。
そこで、富士山頂にあった富士山測候所職員のご協力を得て、約 2 年にわたって、大気エ
アロゾルの捕集や、光吸収性の測定を行いました。このなかで、2003 年 5 月にシベリアで発
生した大規模な森林火災の煙が日本上空に到達し、各地で全天日射量低下を引き起こした際
に、富士山頂が煙に覆われ、森林火災による煙エアロゾルの比較的詳細な特性を得ることが
できました。特に、森林火災によるエアロゾルの光吸収特性、特に光の各波長に対する吸収
の強さの変化が、都市で通常測定されるものと
は大きく異なり、長い波長での光吸収が弱いこ
とが分かりました(図 3)。森林火災エアロゾルは、
自由対流圏でのバックグラウンド・エアロゾル
の 1 つとして重要であり、また、人工衛星から
エアロゾルを検出する(リモートセンシング)と
きの基礎データとしても利用価値のあるデータ
を得ることができました。森林火災のエアロゾ
ルは、アメリカやカナダなどではしばしば地上
を広く覆うことがあり、それを調べれば簡単じ
ゃないか、と思うかも知れません。しかし、地
上付近は水蒸気量が多いため、自由対流圏にあ
ったときとは特性が変わってしまっている可能
図3
富士山頂で測定したシベリア森林火
災エアロゾルの光の波長 550 nm に対する
相対的な光吸収係数。光の波長 λ の-1 乗の
線は、一般的な都市大気汚染中のエアロゾ
性が高く、本来欲しかった情報とはいえないも
ルの特性
のになっていると考えられます。
このように、富士山頂など高い高度での観測では、シベリアからやってきたエアロゾルが
比較的変質が少ない状態で見られるなど、超長距離の物質輸送をみるには大変有利な条件に
あります。しかし、財政難から気象庁は富士山測候所の有人観測を 2004 年に止め、名古屋大
学も乗鞍岳の観測施設を閉鎖してしまうなど、高所でのエアロゾル観測にとって厳しい状態
となってきています。
3.おわりに・・・観測的研究の意味とは
現在、若い研究者のなかで数値モデルによりコンピュータ内での模擬実験に従事する人が
大変多くなり、観測的研究に携わるメンバーは大気エアロゾル研究に限らず「高齢化」が進
んでいます(笑)。測定結果もグラフが数枚作れるだけと華やかなものでなく、条件を次々と
変えて計算すればどんどん論文を書ける、というわけでもありません。政府等の委員会でも、
観測的研究というものは「いつまでも似たようなことをやっていてなかなか進展しない」と
評判がよろしくないことが多く、「もうモデル計算だけでいいんじゃない?」という人もいま
す。しかし、多くの場合、数値計算は未知の現象を扱うこと、ましてや予測することはでき
ません。私は、観測的研究では「今まで知られていなかった事実を新たに明らかにする」と
いう研究の醍醐味を、他のどんな研究にも負けずに味わえると思っています。今後、若い方
が多く参入してきてくれることを期待しています。