テロとリベラル・デモクラシー - 同志社大学 一神教学際研究センター

一神教学際研究 11
テロとリベラル・デモクラシー
―歴史的・文明的視点から―
近藤 誠一
ただいまご紹介いただきました近藤誠一です。外務省に入ってから 42 年間、宮
仕え、即ち政府に務めました。最後の 3 年間は文化庁長官として文化行政、文化
交流を担当しました。パリのユネスコ大使を 2006~2008 年、その後、コペンハー
ゲンにいき、駐デンマーク大使として 2 年を過ごしました。今回、テロ襲撃事件
があった二つの国に勤務したことがあるということもあり、重要なテーマですの
で、この 42 年間で感じてきたことをベースに、後の議論の材料を提供させていた
だければと思います。
今回の一連の事件は、単なる狂信者や、過激派によるテロだということだけで
は済まされない、複雑で、根の深い問題ではないかと思います。第一に申し上げ
たいのは、この問題は長い歴史、ここ数百年の歴史のうねりの中でとらえるべき
ではないかということです。長い歴史の転換点は、ほぼ 400 年前にヨーロッパで
始まった近代化です。科学技術や学問・思想を中心とする近代文明がヨーロッパ
から世界に広がり、それが、民主主義、自由市場主義、人権尊重、法の支配といっ
た価値体系を核とする「近代」という壮大な価値体系を生み出しました。そして
これこそが、人類にとって普遍的な価値体系であり、将来にわたって人類が守っ
ていくべきものだと考えられるようになりました。我々は、それは何ら疑う余地
のないことだと教わり、そういう中で育ってきました。私もそうです。
フランシス・フクヤマという人も冷戦が終わった直後に『歴史の終わり』とい
う本を書き、話題になりました。人類は長い間、どうやって政治を司り、社会を
運営すべきか、いろいろ試行錯誤をしてきたが、最終的にリベラル・デモクラシー、
即ち民主主義や自由経済が一番いい、これこそ人類が到達する最後の望ましいス
テージだということになった。そして最終的なパラダイス、最も望むべき社会の
構築をめざすのが歴史だとすれば、これで歴史は終わった、われわれは最終ステー
ジに到達したのだから、という趣旨だったと思います。共産主義と自由民主主義
という二つの普遍主義が冷戦という形で戦った。そしてついに共産主義が自己崩
壊し、自由民主主義が勝った。それにより自由民主主義の正統性が確立したと誰
もが思いました。ところがその後の 20 年、25 年を見てみると、必ずしも我々が
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信じてきた自由民主主義という体制が完璧なものではないかもしれないと思われ
るようになりました。なぜなら自由民主主義をとる国のあちこちで問題が起こっ
ているからです。よく言われるのは格差の問題です。自由民主主義とは誰もが自
由に活動し、競争して、才能を発揮することで、有限な資源を最も効率的に使え
る、そして皆が豊かになる仕組みであると教わってきました。それは、たとえ格
差はあっても努力すれば貧しい者もチャンスをつかんで上にいけるという仕組み
なのです。その典型が「アメリカンドリーム」で、努力をすれば必ず報われる。
ディズニーやハリウッド映画に出てくるように、正義は必ず勝つ、努力すれば必
ず報われるというものです。
たまたま今教えている同志社大学の関係で、昨年 10 月、パリで開かれたシンポ
ジウムに参加しました。テーマは「幸福とは何か?」。他の幸福論と違い、経済学
者が集まって幸福というものを分析しようという集まりでした。もともと幸福は
主観的なものなので、科学(サイエンス)で分析することはできないと、これま
で世界の科学者は幸福論をあまりやってこなかった。ところが、これだけ民主主
義が広がり、一人ひとりが幸福かどうかを気にするようになったので、政治もビ
ジネスも幸福にもっと注意を払わないといけないと考えて、経済学者が「幸福」
を分析し始めたのです。しかし幸福そのものを直接、経済学、社会学が扱うこと
は難しいということで、そこに出てきた切り口がいくつかありました。例えば、
「人々が幸福と感じることと、その人が住む町の大きさとはどういう関連がある
か」。大きな町と小さな町とどっちが、より幸せと感じるのか。「所得の水準と幸
福はどう関連しているか」。更に所得水準が増える場合と、増えない場合、幸福度
にどのような影響があるか。細かい角度で分析しながら、かつ国際比較をしまし
た。日米仏英の主要 4 カ国での比較分析がされました。その中の一つに「幸福度
と経済格差はどういう関係にあるか」というものがあります。結論を申しあげま
すと、日本人、フランス人は格差を気にする。ところがアメリカ人は格差をほと
んど気にしない。幸福の度合いと格差はほとんど関連がないというのが分析の結
果でした。
ところがオバマ大統領が今、一番気にしていることの一つが「格差の拡大」で
す。ウォールストリートでも若者たちが格差の拡大に抗議してデモをしました。
経済格差は今までは自由体制のもとでは許容されていました。努力をすれば下の
者も上に上がることができる限り、それは許されたのです。競争すれば勝ち負け
が出ますから、当然、格差自体があってもいい。自由に上下に移行できさえすれ
ばいい。それはアメリカではできると「アメリカンドリーム」が信じられてきま
した。しかし最近は違う。いくらあがいても浮かび上がれない。アメリカンドリー
ムはウソではないかという気持ちがアメリカ人の間にも出てきたようです。経済
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格差を一つの代表例として、これまで信じてきた「自由民主主義体制が、必ずし
も完璧なものではないのではないか」という疑問が沸いてきていると思います。
この自由民主主義はどのようにしてできてきたのか。17 世紀頃から近代化が始
まり、戦争や大恐慌を経て戦後、アメリカ、ヨーロッパを中心に民主主義、自由
経済、人権尊重、法の支配がセットとなって近代主義、近代合理主義として、最
も望ましい、少なくとも最も害の少ないシステムとして認識され、発展してきた
わけです。そこでは、ヨーロッパが理念をつくって、実践に移し、産業革命を経
て経済発展をしてきた。そこでヨーロッパ人は自信をもったのです。
「俺たちが人
類を引っ張ってきた。俺たちが最もすばらしいシステムをつくった」と一種の
「ヨーロッパ至上主義」がヨーロッパ人の頭の中に、意識する、しないにかかわ
らず、定着しているように思います。それは言い換えれば、彼らは絶対に認めま
せんが、一種の「人種差別」につながるんですね。
「俺たちはすばらしいアイディ
アを出してきた。他の地域の人々にはそれを教えてやろう」。そのような上から目
線がヨーロッパ人には見え隠れしてきたと思います。私もヨーロッパに 13 年勤務
いたしました。直接、話をしていて、それを面と向かって感じたことはありませ
んが、彼らの言動を見ていると「ヨーロッパ至上主義はあるな」と感じざるをえ
ません。それは植民地主義という具体的な形をとった。アフリカ、中東、アジア
に植民地をつくり、そこから収奪し、自分たちがいい生活をする。奴隷貿易まで
したわけです。やがてそれはよくないことだとなって、だんだんと修正していき
ます。しかし依然として人種差別は心の奥にある。そこは否定できない。もちろ
んヨーロッパ人は表に出さないし、大人げないことだと考えています。
「文明人は
差別をしない」と自分達に言い聞かせていますが、時々ポロッとホンネが出てし
まいます。植民地主義というのは大変な傷跡を残したわけですね。
「勝者が歴史を書く」とインドのネール首相が言いました。確かに日本の場合
も「正史」は政権についた者が書いてきたわけです。しかし負けた者もいる。歴
史は勝者が書くけれども、敗者は歴史にないことを記憶しているわけですね。そ
の記憶が語り伝えられていく。教科書には勝った者の歴史が書いてある。自分に
とって都合のいいことが書いてありますが、負けた者は虐げられたことを歴史に
は書けないけれども、口から口へ伝わって子孫に継承される。それが「歴史の記
憶」であり、恨みである。おそらくヨーロッパ人の植民地支配で辛い目にあった
アフリカ、中東、アジアの人々の中には、多かれ少なかれ、それが残っていると
思います。そして中国。最近の中国の発展ぶりと、やや傍若無人な行動に出てい
ますが、それと併行して出てきたものに「中国の夢」というスローガンがありま
す。中国は一時期世界一の GDP を誇った国であったが、アヘン戦争以降、ヨーロッ
パに散々侮辱されたという屈辱の歴史がある。いよいよ今、第二の経済大国になっ
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た。ここで中華民族は本来の力を発揮すべき時がきたんだ、世界を支配しようと
はしないまでも、アメリカ中心の支配に対してチャレンジしていく、それがこの
150 年の屈辱を晴らす一つの方法だという認識があると思います。
そして日本も 150 年前に明治維新で鎖国を解き、戦後は、経済を最優先にしな
がらアメリカを中心とした西側の一員であることをずっとめざしてきた。民族
的・地理的には非西欧ですが、形式的には欧米・西側の仲間として国際関係の体
制派に入れてもらったのです。ところがその後からきた国々は、それを潔しとし
ていないわけですね。OECD という、私も勤めたことがある国際経済機関がパリ
にあります。先進国の集まりで最初は 16 カ国、やがて 20 カ国に増えましたが、
創設当初は米欧中心の構成でした。そこに 1964 年、オリッピックの年に日本は入
れてもらったんですね。90 年代になると韓国とメキシコが入りました。つまり欧
米ではない国が努力をして経済発展したら OECD に入る、西側の一員になること
はよいことだ、世界に認知されるんだというメンタリティだったと思います。日
本も韓国もメキシコも、喜んだわけです。
「我々の努力が実った。これで世界の先
進グループ、主流の優等生グループの一員になった」ということでした。
ところが最近、よく言われる BRICs、ブラジル、ロシア、インド、中国。彼ら
は OECD に入ろうとしないんですね。彼らにとって OECD はあくまでヨーロッパ
中心の「植民地帝国」の砦なのですから、いくら世界的地位が高まるとはいえ、
そこに入ることを潔しとしないのです。むしろ実力を蓄えて欧米とは異なる新し
い道をつくっていくという意識がある。人間は 400 年の間にヨーロッパを中心に
進歩し、近代が世界に広がりましたが、それは決して一枚岩ではないのです。そ
れをひっぱってきた国と、その間に彼らから見れば踏み台にされた、犠牲にされ
たというメンタリティの国が、両方ある。これは見逃しがちです。誰もが経済開
発によって豊かになるという目標をもち、ヨーロッパとアメリカが先行していて、
後からきた国々は、それをめざして一直線だと思っていたが、実はそうではない
ことを感じざるをえないというのが私の経験でした。
ユネスコという国際機関がパリにあります。国連の機関ですが、教育、科学、
文化、コミュニケーションを担当しているところです。そこでは政治、経済は抜
きです。政治、経済はどうしても対立が生まれる。それを抜きにして文化、教育
で互いに人間性を養って平和をつくっていこう、そういうことで戦後すぐにつく
られた機関です。日本が戦後、最初に参加させてもらったのはユネスコです。平
和を志向する機関なのだから、旧敵国であっても、国連本体に未加盟であっても
いい。平和を志向する限り、入れようということで加盟が実現しました。その意
味で日本ではユネスコは高く評価されています。ユネスコの日本政府代表部で大
使として 2 年間勤務しました。文化はすべてを乗り越える、政治対立、経済対立
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を乗り越え、民族対立を乗り越えて、文化の多様性を重んじ、相互理解をしてい
くんだというタテマエで議論していますが、一旦何かが起こると、どうしても途
上国の方から植民地時代の恨み、つらみが出てくる。アラブとイスラエルの間も
同様です。ニューヨークの国連本部では先進国対途上国の対立が厳しいと聞いて
いましたが、ユネスコですら、それがあるのかとびっくりしました。
たとえば「世界遺産条約」が 1972 年にできました。ユネスコの平和の理念を追
求していく上で、いろいろ国がもっているすばらしい文化遺産、自然遺産を皆で
守っていこうというものです。人類にとってかけがえのない価値を、国を超え、
体制を超え、国が豊かか貧しいかを超え、皆で守っていこうという信念のもとに
つくられたのが世界遺産条約です。絶対に失ってはいけないものをリストアップ
して皆で守る。遺産をもっている国が貧しければ皆で経済援助してそれによって
遺産を守っていこうというものです。途上国にもたくさんの遺跡があります。中
東、イラクにもあるし、エジプトにもあります。そういうものを皆で守っていこ
うという、すばらしい目的をもった条約です。そのもとに世界遺産委員会があり
ますが、そこでも最近、途上国が先進国に対してもっている恨み、つらみが表面
化するんですね。特に世界遺産は先進国の方が圧倒的に多い。日本は 17 件ですが、
ヨーロッパのイタリア、フランスなどは 40 いくつもあります。他方途上国はなか
なか増えません。途上国は「先進国が勝手に自分の価値観で基準をつくり、自分
の価値観で解釈しているから俺たちの方に回ってこない」という気持ちが高まっ
て、最近、世界遺産委員会ですら、政治化するという状況です。
先進国も途上国もタテマエ上は、平等に、対話の努力で問題解決しているよう
ですが、根底には過去の西欧支配に対する深い恨みがあります。西欧による支配
は途上国が独立した後も、いろいろな形で続いている、そういう被害者意識も強
いようです。それは当然、イスラーム諸国にもあるし、中国にもある。日本は植
民地にされなかった。アメリカ軍に数年占領されたが、それは負けたからしょう
がない。征服されたわけではない。日本人は歴史的・感情的な恨み、つらみを知
らずにきた幸せな国民だと、ヨーロッパにいますと如実に感じます。経済発展、
物質的な豊かさ、冬は暖かく、夏は涼しく過ごせる近代文明の物質的な豊かさに
途上国は憧れてきたわけですが、経済発展がある程度のレベルになると歴史上の
恨みが表面化します。そして、実際にヨーロッパに住んでみると分かるのですが、
厳然と存在する人種差別、自分の能力が思うように発揮できない、学校にいって
も、いい点がとれない。いい就職もできない、何となく疎外されているという被
害者意識が頭をもたげ、それが歴史と結びついて、次第にまとまって、イギリス
やフランスの悪口を言い出すということになりがちです。そういうところに今回
のような事件が起こると、一挙に火がつくのだろうと思います。今回の一連のテ
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ロは、現実を離れた狂信者が昔のオウム真理教のように一時的にやったというこ
とでは決してない、長い、長い歴史のうねりがあると感じざるをえません。勝者
が書いた歴史とは違う歴史を彼らは記憶しているわけですね。それが折りにふれ
て噴出するということだと思います。
もう一つ上げておきたいのは西欧が 400 年の間につくってきた、リベラル・デ
モクラシー(自由民主主義)は非常に物質主義的だということです。科学技術が
発達したことから産業革命が起こって物質的な文明ができた。その一種の反動と
して精神性とか宗教を、必要以上に否定しているような気がします。私が日本文
化と西欧文化の違いを言う時、
「日本人は精神性を大事にする。物質的に豊かであ
るとか、経済的に価値があるとか、ではなく、人々の心が充実している、満足し
ている、人に優しい、そういう精神性を日本人は大事にする」ことに触れます。
欧米人は物質主義、科学主義に走る傾向があるということをいつも言うんですが、
精神性のことを英語で「スピリチュアリティ」と言うと何となく彼らは怪訝な顔
をします。
「こいつは宗教じみているな、怪しげだ」と思われてしまう。仏教も精
神的なものを重んじます。したがって彼らは仏教が怖いんですね。仏教がもって
いる「無」という概念は、英語では何もない、ナッシング、という言葉で説明せ
ざるを得ないのですが、この「無」という言葉は空恐ろしいらしい。したがって
物質文明の道を歩み続ける一方、仏教は嫌うのです。その結果、反宗教、反精神
性が広がり、宗教一般を我々からみれば必要以上に毛嫌いをしている、そういう
ところが今回のような風刺事件が起こる背景にあります。イスラームを信じてい
る人の気持ちを無視して、ムハンマドを揶揄するようなマンガを平気で描く。ヨー
ロッパには「表現の自由」に代表される自由に対する大変な憧れがありますから
「表現の自由」を武器として使いながら、反宗教的な気持ちを出してくる。した
がってよその神さまを侮蔑するようなことが平気でできるようになってしまった
のでしょう。
もう一つヨーロッパを中心に進めてきたリベラル・デモクラシー、フランシス・
フクヤマが「最終到達地点」と表現した体制そのものが、あまりうまく機能して
いないことに注目すべきです。一言で言えば、モラルの問題です。自由経済、民
主主義は一人ひとりが自由であること、個人は皆、自由に欲望を満たそうとして
いいんだということを教えます。自由に競争することで資源を効率的に使える。
皆が豊かになり、幸せになるという思想体系です。その下で、これだけ世界経済
は発達し、日本経済も発展しました。しかし自由には義務が伴う、
「モラル」の支
えがあってはじめて自由は力を発揮するということが抜け落ちてしまって、あま
りにも権利、権利、自由、自由となってしまい、それが社会をばらばらにしてい
るところがあると思います。国際金融であれば、機関投資家がレバレッジを使っ
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て、大変な額のお金で世界を動かす。それがあるところで破綻して実体経済に甚
大な影響を及ぼす。これも、大事にしてきた自由が、あまりにも行きすぎた結果
です。自分の欲望をいくら果たしてもいいというのが行きすぎて、モラルやエシッ
クス、倫理が、ないがしろにされている。その結果として富める者はどんどん富
み、貧しい者はどんどんおいていかれる、という格差問題が深まっている。これ
まで我々が信じてきた最終的な到達点、パラダイスだと思ってきた自由民主主義
体制が、実はうまく使い切れていないのです。あまりにも自由を尊重しすぎて、
モラルの教育を忘れているため、自由というものが社会全体にとってマイナスに
なってしまっている。自由民主主義体制を車にたとえてみましょう。トヨタのレ
クサス、これはあくまで中立的なメカニズムであって、どう運転するかは運転者
の問題です。運転者がちゃんと運転免許証をとってルールを守り、マナーを守っ
て運転すれば、すばらしい車です。でも酔っぱらったり、危険ドラッグを吸って
運転すれば、いかにすばらしいトヨタの車でも事故を起こします。同じようなこ
とが自由民主主義体制についても言える。制度はすばらしいが、人間がそれをう
まく使っていないのです。その結果自由民主主義体制そのものに対する不信感、
絶望感が生まれてくるという皮肉な状況になりつつあると思います。
先進国の若者が、なぜイスラム国に流れるのか。単なる興味本位だけでしょう
か。今まで自分たちが教わってきた自由民主主義というものはすばらしいと思っ
ていたが、全然そうではない、格差は広がっている、犯罪は増えている。職につ
けない、これはおかしいじゃないか、言っていることと現実は違うじゃないかと
いう絶望感、失望感が高じて「何か全く違う価値体系の下で、そこに生き甲斐を
見出せるかもしれない」とイスラム国にいく。これまで主流と思っていたものに
チャレンジしていくという要素もあるのではないかと思います。もちろん彼らに
インタビューしたわけではないので、断定はできませんが。
イスラーム過激派が起こしたテロ。もちろん暴力はいけません。徹底的に非難
すべきです。しかしそれだけでは済まない。その奥に我々の側の問題、自由民主
主義側の体制をとってきた我々の方にも問題があるということです。過去、結構
悪いことをしてきたヨーロッパにも、問題の根っこがあります。そこを語らずし
て今回の問題を語ることはできないのではないかということを強く感じている次
第です。
ではどうしたらいいか。日本はその意味では果たすべき役割があると思います。
一神教というのは、どちらかと言うと普遍主義ですね。自分が信じている神さま
が唯一絶対であるのと同様に、民主主義というシステムは世界に普遍的に適用さ
れるべきものだという自信が、ヨーロッパにはあります。日本人は相対主義で「私
には私のやり方があるが、他の人にそれを押しつけません」という考え方です。
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そういう相対主義的な発想をもたないと、これから異なる文明、過去に対して異
なる解釈をもっている人々が共存することはできないのではないかと思います。
その意味では日本が果たすべき、果たしうる役割はあるのではないかということ
を申し上げて、とりあえず私の最初の発表とさせていただきます。どうもありが
とうございました。
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