2012年11月1日

大阪教育大学地理学会会報
2012 年 11 月1日
第 59 号
目
次
地形図の記号をめぐって(山近博義)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1
平成24年度教室・学会関係行事予定表(含関連行事)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2
平成24 年度地理学研究室教員人事および新専攻生・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・5
平成24年度巡検案内・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・5
教員養成大学に勤務した偶然 ―離任のご挨拶―(今里悟之)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・9
平成 24 年度教員養成課程野外実習報告(3 回生)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・11
地方都市の高校生通学交通からみた鉄道の社会的価値(宮崎しおん)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・15
旅行雑誌『るるぶ』にみる大阪のイメージと変遷(山本恵利加)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・16
戦前期における日本の航空交通(奥野一生)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・17
「雪・花・仙」(占部太)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・25
諸連絡・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・30
地形図の記号をめぐって
山近 博義
最近の地図をめぐる状況をみていると、地図のデジタル化もかなり進んできているように思いま
す。以前から数が少なかったかもしれませんが、紙地図、しかも官製地形図をしげしげと眺める人
など、ますます減っていくのではないでしょうか。このような流れは、長い地図の歴史の中でも、
一つの大きな画期になるかもしれません。
それはさておき、ここでは、デジタルであれ、アナログであれ、地図の大きな特徴の一つである
記号について、若干触れてみたいと思います。地図には、地表面上の選択された特定の情報が、記
号などを用いて表現されています。どのような情報を選択するのか、また、どのような記号を使っ
て描くのかは、国や地域、あるいは時代によってもさまざまです。以下では、具体的な地形図をみ
ながら、地図にみられる情報の取捨選択と記号の多様性を確認したいと思います。
掲載している地形図は、2002 年発行のスイスの官製二万五千分の一地形図「バーゼル」の一部分
です。バーゼルはドイツ、フランスと国境を接するスイス北部のライン川沿いの都市です。バーゼ
ル市の人口は約 16 万人(2005 年)ですが、グローバルに事業展開している複数の製薬会社が本拠
を置くなどしていて、その通勤圏は国境を越えて広がっているようです。掲載している部分は、ラ
イン川沿いの都心部から北東方向の郊外で、スイスとドイツの国境地帯です。ちなみに、スイス側
の自治体名はリーエン、ドイツ側はレラハですが、リーエンはバーゼル都心部から直線距離で約
-1-
平成24年度 教室・学会関係行事予定表(含関連行事)
前期
後期
4
3 日(火)
学部ガイダンス
10
1 日(月)
後期授業開始
月
6 日(金)
入学式
月
6 日(土)~8 日(月)
日本地理学会秋季大会(神戸
9 日(月)
授業開始
5
18、19 日(金土)
月
6
24 日(土)
大学)
20 日(土)
第3回巡検神戸方面
1 日(日)
第4回巡検大阪西部方面
第 1 回巡検(教員養成課程
11
セミナー)桜井市方面
月
教室懇親会
12
9 日(日)
大阪教育大学地理学会
月
25 日(水)
冬休み始まり
月
7
1 日(日)
第2回巡検京都市内方面
1
4 日(金)
授業再開
月
21 日(土)
前期授業終了
月
17 日(木)
第5回生駒山方面
26 日(土)
後期授業終了
8
17 日(金)~20 日(月)
月
17 日(月)~21 日(水)
二部地理学野外調査演習
2
2 日(土)
大学院入試・後期授業終了
(郡上八幡)
月
3 日(日)
卒論修論発表会 謝恩会
教員養成地理学野外実習
(三重県亀山市)
9
8 日(土)
大学院入試
3
24 日(火)
卒業・修了式
月
22~23(土日)
地形学連合秋季大会(天王
月
29(金)~31 日(月)
日本地理学会春季大会立正
大学地球環境科学部
寺キャンパス)
6km の地点に位置し、この間はトラムなどの都市交通機関で結ばれています。
さて、この地形図と日本の地形図とを比較してみると、いくつかの相違点があることがわかりま
す。まず、二万五千分の一レベルの地形図に、日本の地形図にはない国境線が描かれている点をあ
げることができます。陸続きに国が接するヨーロッパならでは、といったところです。破線でトレ
ースした線がスイスとドイツの国境線で、この線より南側がスイスです。見方を変えると、スイス
の官製地形図ですが、国境地帯の地形図には隣接する国も描かれており、それらが市販されている
ことになります。もっとも、隣接する国の部分は、スイスが独自に実測図を作成しているのではな
く、各国作成の地形図により編集しているようです。つまり、掲載図の場合、スイス領内はスイス
の、ドイツ領内はドイツのやり方で描写されていることになります。
その他、リーエンの周辺には農地もひろがっていますが、この地形図には、日本の地形図にみら
れるような田畑の記号がみられません。実は、スイス(ドイツ、フランスも)の地形図には、農地
-2-
2 万 5 千分の 1 地形図「バーゼル」2002 年 swisstopo を一部改変
-3-
関連の記号が日本ほどは多くはありません。数少ない農地関連の記号で、スイス、ドイツ、フラン
スに共通して存在する記号はブドウ園で、各国とも形が似ています。ワイン文化の奥深さが想像さ
れますが、掲載図では、西北部の斜面に、国境をまたいで広がる「¦ ¦ ¦ 」の部分がブドウ園です。
さらには、農地だけではなく、市街地の部分にも記号があまりみられません。日本の地形図では、
学校、役場、病院などの公共施設の記号が多いですが、スイス(ドイツ、フランスも)の地形図に、
これらの記号があまりないためだと思われます。
そのようななかで、
比較的目にする記号の一つは、
教会ではないでしょうか。両国で形が異なりますが、スイスは A 地点などの「▥◉」
、ドイツは B 地
点などの「◉╋、◌╋」の箇所です。両国の記号にみられる「◉」や「 ○」は、教会の塔を表現してい
て、ドイツの「◉」は三角点も兼ねているようです。
さて、この教会のように、スイスとドイツ両国の官製地形図では、しばしば、同じ地物でも、情
報の扱い方や表現の仕方が異なる場合があります。最後に、この点に関して、事例をもう一つあげ
ておきたいと思います。それは、森林の表現です。両国とも原図は多色刷りで、森林の部分には緑
色が塗られています。しかし、掲載図の東半分を占める山の斜面の表現をみると、両国で、表現の
仕方が異なっていることに気づくと思います。ドイツの地形図では、針葉樹と広葉樹を区別する記
号があり、緑色の彩色の上に重ねられています。しかも、記号の形が日本のものと似ています。し
かし、スイスの地形図では、樹種を区別する記号がなく、緑色の彩色のみです。
このように、地図にみられる情報の取捨選択と記号には、日本とヨーロッパとの間、また、ヨー
ロッパ内でも国によって、さまざまな違いがみられます。科学的で堅苦しいように思われる官製地
形図も、各国や地域のさまざまな背景のもとに作られた、社会的、文化的あるいは政治的産物であ
るといえると思います。さまざまな国のいろいろ時代の地形図をじっくりとながめつつ、このよう
な点に思いをいたすのも一興ではないでしょうか。
ちなみに、今回掲載した地形図は、インターネットで公開されています。スイスの地図画像およ
びオル ソ画像 は http://www.mapgate24.ch/
、 スイスの 官製地形図などの詳細 情報は
http://www.swisstopo.admin.ch/ をご覧ください。
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平成 24 年度地理学研究室人事
今里悟之准教授が 9 月 1 日九州大学人文科学院に転出しました。
平成 24 年度の非常勤の先生方は次のとおりです。
人文地理学の基礎・地域と環境・社会(地理I):関口靖之
地誌概論・地域環境論:本岡拓哉
暮らしの環境と地図・地域環境科学研究IIIb・地域環境科学演習II: 金子直樹
平成 24 年度 地理学新専攻生
本年度下記の諸君を新たに地理学研究室に迎えました。
大学院修士課程(社会科教育専攻地理学専修) 2名
遠藤充(本学)、小田悠子(本学)
学部(教員養成課程社会科教育専攻 3 回生)4 名
青木友秀、江口光一、日下育也、松本耕治
学部(教養学科社会文化コース4回生)2 名
下村直大、永元佑実学部
学部(第二部)2名
直松萌、鵜野正裕
平成 24 年度日曜巡検・野外実習
第 1 回巡検 桜井方面(教員養成課程在学生セミナ-)
〔期
日〕 平成 24 年 5 月 18、19 日(金土)
〔集合場所〕 集合場所 JR桜井線巻向駅
〔集合時刻〕 集合時刻 午前 10 時
〔主
題〕 桜井市とその周辺地域における平野の地形と土地利用
〔経
路〕 5/18(金):巻向駅―穴師(簡易測量、土地利用の観察)―巻向川(簡易測量、土
地利用の観察)―三輪そうめん山本工場(見学、昼食)―大西(地形と土地利用の
観察)―三輪(土地利用調査)―万直し旅館
5/19(土)万直し旅館―桜井(土地利用調査)―阿部(土地利用の観察)―桜井駅
〔指
導〕 山田周二
〔地
図〕 2 万 5 千分の1地形図「桜井」
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第2回巡検 京都市内方面
〔期
日〕 平成 24 年 7 月 1 日(日)
〔集合場所〕 JR 琵琶湖線 山科駅改札前(改札は 1 ヵ所のみ)
〔集合時刻〕 午前 10 時
〔主
題〕 琵琶湖疏水を歩く
〔経
路〕 山科駅→天智天皇陵→インクライン→南禅寺(昼食)→若王子神社→疎水記念館
→平安神宮→夷川発電所→京阪三条駅(解散)
〔指
導〕 今里悟之
〔地
図〕 2 万 5 千分の 1「京都東南部」「京都東北部」
〔そ の 他〕 雨天決行。昼食・飲料水持参。天候や進行状況により多少のコース変更あり。資
料は当日配布する。コースの先導は学生が交代で行う。
第 3 回巡検 神戸方面
〔期
日〕平成 24 年 10 月 20 日(土)
〔集合場所〕JR 神戸駅改札口付近
〔集合時間〕午前 10 時
〔主
題〕平家ゆかりの史跡巡り
〔コ ー ス〕JR 神戸駅→大輪田泊関連地区(来迎寺、能福寺、和田神社など)→福原京関連地区
(神戸大学医学部附属病院、祇園神社、氷室神社など)→JR 神戸駅前(17 時頃解散予定)
〔指
導〕山近博義
〔地
図〕1 万分の 1「湊川」「長田」
〔そ の 他〕雨天決行(コ-ス変更の可能性も有り)、昼食時は一時解散の予定(弁当持参も可)、
第 4 回巡検 大阪市西部方面
〔期
日〕 平成 24 年 11 月 1 日(木)
〔集合場所〕 JR 塚本駅改札口
〔集合時刻〕 午前 10 時
〔主
題〕 淀川に沿う低地地盤条件を調べる
〔コ ー ス〕 塚本駅→徒歩→阪神電鉄姫島-淀川→徒歩→JR環状線弁天町駅解散
〔指
導〕水野惠司
〔地
図〕 2 万 5 千分の1地形図「大阪西北部」
〔そ の 他〕 その他:雨天決行、雨具持参
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第 5 回巡検 生駒山方面
〔期
日〕 平成 25 年 1 月 19 日(土)
〔集合場所〕 近鉄奈良線石切駅
〔集合時刻〕 午前10時
〔主
題〕 生駒山地山麓の風土
〔コ ー ス〕 石切駅→石切神社→枚岡神社→水走氏館跡→河内寺跡→近鉄瓢箪山駅(昼食)→東
高野街道→縄手神社→心合寺古墳→恩智神社→近鉄恩智駅解散
〔指
導〕関口靖之
〔地
図〕 2 万 5 千分の1地形図「生駒駅」「信貴山」
〔そ の 他〕 デジタルカメラ(携帯電話可)持参
地理学野外実習 三重県亀山市方面
〔期
日〕:平成 24 年 8 月 17 日(金)~8 月 20 日(月)
〔主
題〕三重県亀山市における身近な事象と地形、土地利用、産業、歴史
〔集合場所〕旅館三笠館(JR 関西本線亀山駅より徒歩 5 分)
〔集合時刻〕8/17(金)11:30
〔コ ー ス〕8/17(金):三笠館―亀山橋―歴史博物館―茶畑―三笠館
8/18(土):三笠館―亀山駅―(バス)―シャープ工場―亀山 IC―まちなみ資料館
―関駅―(鉄道)―亀山駅―三笠館
8/19(日):三笠館―東町商店街―旧国道 1 号線―亀山駅―三笠館
8/21(月):三笠館―野村一里塚―三笠館
〔地
図〕1/25000 地形図「亀山」
二部地理学野外実習
〔期
間〕 平成 24 年 8 月 17 日(金)~20 日(月)
〔場
所〕 岐阜県郡上市八幡町、世界分布図センター(岐阜県図書館内)
〔主
題〕 地方小都市における町並み保全、町づくり
〔コ ー ス〕 8/17(金)岐阜県市駅、岐阜県立図書館、17 日(金)~20 日(月)郡上八幡市
〔指
導〕 正木久仁
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平成24年度大阪教育大学地理学会
下記の通り、本年度の大会・総会が開催されます。会員の皆様方のご参加をお待ちしております。な
お、当日は日曜日ですので、大会会場へは恐れ入りますが、正門の方からお入り下さい。また、駐車場
はありませんので、お車でのご来場はご遠慮下さい。
日
場
時:平成 24 年 12 月 9 日(日)11 時より
所:大阪教育大学天王寺キャンパス中央館 212 教室
発表内容:
3 回生野外巡検報告
4 回生卒論中間発表等
西本周平:奈良県大和郡山市の兼業農家の現状と課題
長谷川詩織:大阪教育大学の気温環境
下村直大:兵庫県におけるコミュニティバスの地域間差異
地理教育部会 12 月例会共催予定 (いずれも仮題)
冨田健太郎(清風南海中・高等学校):授業実践報告
奥野 一生(大阪府教育センター附属高等学校):日本島嶼学会参加報告
奈良 芳信(金蘭千里中・高等学校):地理教育部会巡検報告
平成 24年度卒業論文修士論文発表会
日
時:平成 25 年 2 月 3 日(日)13 時より
場
所:大阪教育天王寺キャンパス中央館 212 教室
発表内容:
原田達也:女人禁制に関わる村落住民の意識と空間認識の関連性
廣瀬圭一:小学校社会科のデジタル教材開発
永元佑実:和歌山県串本町におけるダイビング観光地の発展
直松萌:阪神淡路大震災再開発地区のその後
萱村晋也 オーストラリア地誌教材開発
卒業生・修了生予餞会:15:00~15:30
懇親会(送別会)
:参加ご希望の方は、当日会場受付でお申し込み下さい。
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教員養成大学に勤務した偶然 ―離任のご挨拶―
今里悟之
このたび、本年 8 月末をもって大阪教育大学を離任し、九州大学に勤務することとなりました。
大阪教育大学では、松本博之教授の後任として教養学科に所属し、在職 10 年の間(正確には 9 年
11 ヵ月)
、辻本英和教授をはじめとする社会文化講座の先生方に、大変お世話になりました。
社会文化講座の人文地理学ゼミでは、多くの熱意ある楽しい学生に恵まれました。教員としては
未熟であったこともあり、個々の学生への対応については反省すべき出来事が少なからずありまし
たが、お蔭様でおおむね大過なく職務を終えられたことは、誠に感謝すべきことと感じております。
さらに、天王寺の夜間学部担当の正木久仁教授、教員養成課程地理学教室の水野惠司教授・山近
博義教授・山田周二准教授には、野外実習や卒論演習などを通じて様々にご指導をいただきました。
地理学会会報の編集に際しても、前田 昇先生をはじめとする多数の旧教員・卒業生の皆様方にご
助力を賜りましたことに、改めて厚く御礼申し上げます。
私が大阪教育大学に就職できたのは、日本全国の北から南まで応募し続けていた教員採用公募の
一つに、偶々ご縁があったからに過ぎません。偶然とはいえ、教員養成大学に勤務することが決ま
った時には、少々複雑な心境でした。
私は、高校時代まで、大阪のある郊外住宅地で過ごしました。私の世代は子供の数が現在よりも
はるかに多く、教員需要も多かったため、当時はほとんど誰でも小学校や中学校の教員になれたそ
うです。今から思い返すと、なるほど、という先生方も少なからずおられたように思います。大阪
教育大学に就職して以降、教授会など様々な場での大学教員(もちろん地理学関係の先生方は例外
です)の言動に大きな衝撃を受け続けてきましたが、そのような方々が、私が出会ったような小学
校や中学校の先生方を養成されてきたのだと考えると、妙に得心したことも一度ならずありました。
私が育った市では、当時、日教組(といっても現在の学生にはほとんど通じませんが)の力が非
常に強く、私が通った小学校や中学校でも、平和教育や人権教育が盛んに行われていました。ほと
んどの教員は、日教組に加入していたようです。高校進学に際しても、地元集中運動が強く推進さ
れていました。
地元集中運動とは、その中学校の最寄りの新設公立高校(入試の難易度は公立校普通科の底辺に
位置することが多い)に、一定以上の学力のある生徒を半ば強制的に受験させ、定員割れを防ぎつ
つ、地元の公立高校からも大学進学者数を増やそうという、当時の中学校教員による運動でした。
その主な目的は、学区内の公立高校間の格差をなくすことを通じて、日本の学歴社会を解消させる
ことにあったようです。しかしながら、中学校の教員になれたのは他ならぬ学歴のお蔭であるとい
う教員自身の立場を省みることなく、また、学力や大学進学者数の平準化をもって格差が解消した
と考える点では学歴をかえって重視していたことから、今から考えれば、根本的に大きな矛盾をも
-9-
った運動であったと思います。また、多くの場合、生徒を思想的に洗脳する形で、あるいは生徒の
希望を無視する形で進路指導を行っていたという点では、人権上も大きな問題がありました。
私は、この大阪の地元集中運動を思い起こすたびに、中国の文化大革命を連想します。強大な権
力によって強いられた自らの犠牲が、その後の社会のあり方にほとんど何も生かされていない事実
をもし知った時、あまりに多くの名もなき人々が感じたであろう無念は、察するに余りあります。
人権教育を最も重視したはずの日教組が、なぜ人権を最も無視する運動を行う結果となったのか。
この問題は、現在の民主党政権にも日教組が関与していることを考え合わせた時、過去の問題とし
て消去されるべきものではなく、人文社会科学の見地からも今後丹念に「総括」すべき課題だと考
えています。
私が大阪教育大学での授業を通じて触れた、教員養成課程の学生の皆さんの多くは、明朗快活で
勉学熱心でした。小学校や中学校の教員という、あらゆる職業の中でも最も過酷な仕事の一つに自
ら飛び込もうとする志は、尊敬に値します。
しかしながら、現在の教員養成課程の多くの学生は、教育現場に対する社会的要求がますます増
大するにつれて、教員採用試験に合格するためのカリキュラムを、一つ一つこなして行くのに手一
杯であるようにも見受けられます。一見すると教員採用試験とは直接関係のない、例えば教養学科
で開講されるような、広い視野を身につけ自らの頭で考えるような授業、個別の専門的な学問を深
めるような授業、あるいは、それらの集大成である卒業論文の作成には、あまり熱心でないように
感じられます。現状では、教育大学が専門学校化していると言えなくはないでしょうか。
私自身の小中高時代を振り返った時、あるいは自分の子供を小学校や中学校に将来預けることを
考えた時、学校の先生にとって最も必要とされるべきものの一つは、自分自身の頭で考えて育て上
げた思想や見識であるように思います。戦後の日教組が「教え子を再び戦場に送るな」をスローガ
ンに掲げたにも関わらず、全く別の形ではあれ、必要のない「戦場」に多数の教え子を再び送り込
む結果となったのは、なぜだったのでしょうか。
振り返れば、当時の日教組の教員の多くは、自らの頭で深く考えることをせず、組織全体の方針
に無批判に従っていたように思われます。いずれの国、いずれの時代においても、最も危険なのは、
極端なものであれ自らの思想を持った人ではなく、自らの思想や見識を何ら持たない人なのかもし
れません。ここ数年、小学校や中学校の教員採用試験も以前と比べてかなり広き門となり、私の小
中高時代と同様、教員の質については特に注視すべき時代が再来したといえるかもしれません。
とはいえ、私の小中高時代の出来事のどれか一つが欠けても、この大阪教育大学に就職させてい
ただくという巡り合わせはなかったでしょう。大学進学後から今日までの様々な方々との出会いも
なく、これまでの私自身の研究のフィールドとの出会いもなかったと思います。ほんの僅かな方向
やタイミングの違いで、その後の人生が大きく変わることは、ようやく 40 歳を少し越えた私にも
理解できるようになりました。
その意味では、学内外の業務に忙殺され続けた 10 年間であったとはいえ、大阪教育大学に勤務
- 10 -
させていただいたこと、また、新たな研究環境として福岡の地を得ることができたことには、深く
感謝せねばなりません。心残りは、もう少し時間と心のゆとりをもって、学生に接することができ
ればよかったという点です。私が以前から尊敬するある科学者は、人間万事塞翁が馬と語っておら
れますが、残りの何十年かをどう活かすかによって、私自身の前半生の自己評価も今後また大きく
変わるだろうと思います。10 年間、本当にありがとうございました。
平成 24 年度教員養成課程野外実習報告:三重県亀山市
青木友秀・日下育也・松本耕治(教員養成課程社会科教育専攻)
2012 年 8 月 17 日からの 4 日間の日程で、平成 24 年度地理学野外実習が行われた。参加者は教
員一名と学生四名(学部生三名、院生一名)で、調査地は三重県亀山市であった。亀山市は三重県
の北部に位置する市で、今回調査を行ったのは、その中でも中心部の亀山と、関町の周辺であった。
事前にこれらの町(ここではそれぞれ亀山と関と称する)について調査したところ、まずいずれも
昔は亀山宿、関宿として五街道の一つ、東海道の宿場町であった、ということがわかった。歌川広
重の東海道五十三次には亀山宿、関宿の絵も含まれている。また、亀山は同時にかつての亀山城の
城下町でもあり、今も本丸町や西丸町など地名にその名残を見ることができた。一方、近年では JR
の駅を要すると同時に国道 1 号線や名阪国道が通っている、という特徴があった。そのため付近に
は規模の大きい工場やそれに付随する工業団地が多く見られ、その中でも特にシャープ亀山工場は
- 11 -
非常に有名である。これらの調査から、古くから今に至るまで亀山市が交通の要所として発展して
きた、ということが予想でき、亀山市を調べる上で交通は一つのポイントになる、と予想できた。
今回の野外学野外実習の目的は、亀山と関の現在の町並みを調査し、これらの町がどのようにして
発展してきたのか、ということを考察することである。
(日下)
8 月 17 日(初日)
11 時 30 分 教員養成課程 3 回生 3 名、院生 1 名、教員 1 名、計 5 名の実習参加者は、今回の
実習でお世話になる旅館三笠館に集合した。さっそく旅館に荷物を預けた一行は、巡検を開始する。
初日の調査内容は主に亀山市一帯の段丘崖の比高の計測と土地利用についてである。まず一行は亀
山橋へと向かった。亀山橋は亀山駅のすぐ西側にかかる橋で、鈴鹿川に架かっている。橋の上から
は、鈴鹿川による自然堤防を観察できた。
今度は亀山城跡方面へと向かう。道中では早速、本日の目的である段丘崖の比高の計測が行わ
れた。2 手にわかれた一行は各々、ハンドレベルとコンベックスを用い、段丘面の高低差を計測し
ていく。計測結果を互いに比べてみると、どうやら誤差の範囲のよう。計測はひとまず成功だろう。
その後、何度かの計測を行いながら、足を進める。亀山城跡を横目に見ながら、一行がたどり着い
たのは、亀山市歴史博物館である。 この博物館は亀山市の歴史資料などが展示されており、亀山
城や城下町について学ぶことができる。そこでは、亀山城下町の模型が一行の目を引いた。なるほ
ど細かく作りこみをされており、一行が歩いてきた街や段丘崖の様子がよくわかる。博物館でしば
しの休息をとった一行は、歴史博物館を後にする。
15 時 博物館を出発した一行は、8 月の猛烈な日差しに体力を奪われながらも本日の最終目的
地である茶畑を目指した。道中では、行き交う自動車の合間を縫うようにしながらも、懸命に測定
を続ける。そうこうする内に、茶畑にたどり着いた。 三重県はかぶせ茶という日本茶が有名らし
い。茶葉が青々と茂る茶畑が広がっていた。そこで、茶畑について学んだ一行は、旅館三笠館へと
帰路に就いた。
18 時 三笠館へと戻った一行は、風呂
で一日の疲れを癒した後、食事を摂る。
食後に、一日の成果の確認と明日に向け
ての打ち合わせをおこない、初日の夜は
早々と床に就いた。
(青木)
8 月 18 日(2 日目)
8 時 30 分 初日の疲れも取れぬま
ま、2 日目の巡検が始まった。2 日目か
らは、蔵、町屋、信号、小売店といった
身の回りの 12 の事象の分布を調べてい
く。
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亀山といえば、
「世界の亀山モデル」といわれたシャープのテレビの生産で有名である。三笠館
を出た一行は、バスに揺られること十数分、シャープ亀山工場にたどり着いた。
シャープ工場の周りは工場地帯で今回調査すべき事象はほとんど見受けられなかった。30 分ほ
どで工場の外周を歩き終わり、亀山インターチェンジへと足を進める。亀山ICの出口付近でもサ
ービスエリアのような店はあるものの調査物はあまり見受けられない。調査手法に疑念を抱きつつ
歩いていると、本日の目玉である関宿にたどり着いた。その瞬間、一行は驚嘆の声を漏らす。
関宿は、東海道五十三次の 1 つで亀山
宿の西側に位置する宿場町であった。この
関宿は、亀山宿とは異なり、町屋保存地区
ということで、
宿場町の趣が残されている。
関宿の入口にたどり着いた一行の前方、
道の両側には果てしなく町屋が続いている。
我々はこの町屋一軒一軒を調査しなければ
ならないのだ。
12 時 30 分 関宿の調査が始まった。
町屋の調査担当の学生は町屋一軒一軒を見
て回り、建築様式や駐車場の有無などを野帳に記録していく。他の学生も町屋を生かしながら行わ
れている小売店や飲食店について、屋号や業種を記録していった。
途中、亀山名物の味噌焼きうどんに舌鼓を打ち、まちなみ資料館で町屋内部を見学しながら、
調査を進めていく。そして、4 時間ほどかけて、関宿の 200 余りもの町屋を調べ上げた。
17 時 関から亀山までは電車で一駅。三笠館に着くと、風呂、食事を済ませて、調査結果の報
告会。明日の予定を確認した後、この日も早々と就寝した。
(青木)
8 月 19 日(日)
午前8時、三笠館を出発しJR亀山駅
周辺の調査を開始した。亀山駅前には食料
品や化粧品などを扱う小売店が見られた。
また、2日目の亀山IC周辺には40台近
くの自動車を収容できる大型のホテルがあ
ったのに対して、亀山駅前には駐車場を持
たない小さな旅館が数件見られた。このよ
うな違いは利用者が亀山ICや亀山駅前を
訪れる際に利用する交通手段の影響を受け
ていると考える。
亀山駅前の調査を終えた後、我々は旧
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国道1号線方面へと歩みを進めた。旧国道1号線沿いには大型スーパーやコンビニエンスストア、
全国チェーンの飲食店が複数見られた。旧国道といえども自動車の交通量は多く、道沿いに並ぶ店
には自動車で来店する利用者のために駐車スペースを用意している店がほとんどだった。
テンポよく旧国道1号線沿いの調査を終えた我々は、本日のメインである東町商店街へと向かっ
た。訪れる前からある程度の予測はしていたが、東町商店街は活気に満ちあふれている状態からは
程遠かった。およそ 400m の東町商店街には30軒以上の店があったが、シャッターの下りている
店も同じ軒数程見られた。日曜日にも関わらず歩行者は少なく、亀山市の商業の中心地がかつては
東町商店街であったが、現在は旧国道1号線沿いへ移っていることは一目瞭然だった。
東町商店街の調査後、付近の住宅地を調査した我々は昼食を取るため一度旧国道1号線沿いへ
引き返し、スーパーマーケット Echo 内にあるラーメン屋へ立ち寄った。その後、スーパーマーケ
ット内を散策し、味噌の種類や米・野菜などの食材の産地を調査した。赤だし用の味噌を多く揃え
ている点は大阪のスーパーマーケットと比べて特に大きな違いと言える。
予定していた時間よりも早く調査を終えそうだったため、調査経路を大幅に変更し、当初より
も広い範囲の調査をする事を決めた我々は、再び先の住宅地を中心に調査した。調査前に住宅地周
辺には地蔵がいくつかあるのではないかと我々は予測していたが、地蔵は全く見られなかった。ま
た少数ではあるが住宅地内に小売店や病院を発見することができたが、それらは各々が点々とあり、
何か理由があってそこにあるのかどうかはっきりとはしなかった。
スーパーマーケットを出て約3時間の調査を済ませた我々は、三笠館へと戻った。素早く風
呂・食事を済ませた我々は、本日の調査で発見したことについて各自で地図にまとめ発表した。そ
の後、卒業論文のテーマについてどのような考えを持っているのか、意見を交換した。そして、午
後10時を過ぎた頃、各自の部屋へ戻り最終日の準備をし、早めに睡眠を取った。
(松本)
8 月 20(日)
長く感じた亀山市周辺の野外調査も本日が最終日である。起床後、食事を済ませた我々は調査
終了と同時に素早く帰宅出来るように準備を済ませ、午前8時半ごろ野村一里塚方面へと調査を開
始した。 野村一里塚へ向かう途中には、2日目に訪れた関駅周辺程ではないが町屋が多く並んで
いた。また、最終日まで全く発見できなかった石灯籠もあった。少ないが飲食店や小売店も数件あ
り、骨董喫茶や自然レストランといった珍しい店もあった。
野村一里塚を見学した後、旧国道1号線沿いを東へと歩き三笠館へと戻った。途中で有名な亀
山ろうそくの店に立ち寄ろうとしたが、開店時間まで時間があり閉まっていたため、残念ながら見
学を諦めた。三笠館に到着した我々は帰宅の準備を済ませ、1時間に1本という電車の時間もあり、
すぐに JR 亀山駅へと向かった。改札前で解散し、ホームに止まっていた電車に乗り込み帰宅した。
今回の亀山市周辺の野外調査では、5月に行った桜井市の巡検と比較しても調査項目が多く、
苦労したことも多かったが納得のできる調査ができたと思う。後期の授業ではこれらの調査結果を
地図にまとめ、野外調査期間中には気付くことができなかったことを発見したいと思う。
(松本)
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地方都市の高校生通学交通からみた鉄道の社会的価値
平成 23 年度卒業研究要旨 宮崎しおん(教養学科社会文化コース)
年齢や経済など、多くの制約下にある高校生は交通弱者と呼ばれる存在である。特に地方都市に
おいては、鉄道利用者の多くは通学の高校生であるが、高校生の通学交通に限定した研究はほとん
どされていない。しかし、日本全国で赤字ローカル線の廃止・縮小が進められている。鉄道の存廃
問題を考える上では、鉄道の採算性だけを見るのではなく、鉄道の「社会的価値」の評価・認識が
重要である。 本研究の目的は、地方都市に暮らす高校生の通学交通の現状を明らかにし、地方都
市の高校生の通学交通からみた鉄道がもつ社会的価値を考察することである。事例は、深刻な経営
赤字の改善を目指し、新たな経営体制へ移行した伊賀鉄道である。方法としては、啀鉄道沿線の高
校生の通学手段の現状と、鉄道の有無や通学手段の利便性が生徒の高校選択に及ぼす影響などに関
するアンケートを実施した(表は結果の一部)
。その結果、地方都市における通学手段の分類から、
通学手段の選択には高校と最寄駅との距離が関連していることが確認できた。また、通学での鉄道
利用が、通学満足度や通学利便性と高校選択の関係性などに大きく影響を与えることがわかった。
また、高校生からみた鉄道の社会的価値としては、鉄道がなくなったと仮定した場合の通学負担の
増大や、教育機会の狭小化から高校生を守るという意味での地域貢献力を見出すことができた。
表 通学満足度の調査結果(上野高校 2 年生)
通学方法
鉄道利用者
満足度
理由
1
○時間通りに通学でき便利
2
○自分に負担になっていない。○帰りの時間帯に電車が一応ある。○満足しているが連絡
悪い時不便。
3
○帰りの鉄道がダイヤの都合上合わず時間がかかる。○本数が少ない。○電車が一時間に
一本しかない。○時間がかかる。○本数が少ないしすごく混む。○鉄道が遅い。○時間が
かかる。○自動車の倍の時間がかかる。○本数が少ない。電車は人がいてすぐくつろげな
い。○距離のわりに運賃が高すぎる。○朝の満員電車がしんどい。
4
○本数が少なく。時間によっては連絡も悪い。○時間があまりなくて不便。○本数が少な
く、学生ばかりでうるさい、終電が早い。○伊賀線が金額的にも本数も良くない。
鉄道非利用
1
○好きな時間に登下校できる。○お金かからない。
者
2
○いつでも帰れるから。
3
○学校から遠く時間がかかる。
出典:アンケート回答より筆者作成。満足度は、1:満足、2:どちらかと言うと満足している、3:どちらかとい
うと満足していない、4:満足していない、を示す。 理由は、○ごとに一件の回答を示す。
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旅行雑誌『るるぶ』にみる大阪のイメージと変遷
平成 23 年度卒業研究要旨 山本恵利加(教養学科社会文化コース)
大阪は、他地域の人々に強烈なイメージを与えることが多い。例えば、
「がめつい・しぶちん・
功利的・活動的・ど根性・創意工夫がうまい・ユーモアに富む」と考えられている。しかしそのよ
うな大阪のイメージは、何から生まれたのであろうか。先行研究においてガイドブックが世の中に
与える影響は大きいとされていることから、本稿では旅行雑誌『るるぶ大阪』の 1989~2012 年版
の 23 冊を対象に、大阪のイメージとその変遷を分析する。
『るるぶ大阪』を表紙のキャッチフレー
ズ・表紙の写真・表紙の色・目次のキャッチフレーズから分析した。すると、頻繁に登場する地域
は、ミナミ・キタ・ベイエリアで、場所は、アメリカ村・梅田・難波等であることが分かった。さ
らに、頻繁に登場するマスコットは、くいだおれ太郎・づぼらやのふぐの看板・グリコの看板であ
ることが分かった。これらのこと以外に、
『るるぶ大阪』の表紙の派手さと乱雑さが「大阪イコー
ル派手」というイメージに起因するものではなく、
『るるぶ』の編集者が書店で目立たせるために
全国的に派手な色づかいをしている、と推測できた。同様に、初期から後期にかけて目次のキャッ
チフレーズ数が減少していくことも、
『るるぶ』の編集者が、より大阪のイメージの強い場所を絞
り込んだ結果減少傾向になった、と推測した。さらに、新名所については、新しい名所ができると
『るるぶ』に取り上げようとするのは、
『るるぶ大阪』だけではないことが明らかとなった。
表 表紙キャッチフレーズに多く登場する場所
地域
場所(登場回数)
登場合計数
ミナミ
なんば(17)、アメリカ村(16)
、道頓堀(16)
、心斎橋(11)
、新世界(10)
、鶴橋(9)
、天王
120
寺(9)
、通天閣(6)、南船場(船場を含む)(3)、堀江(2)、ヨーロッパ村(2)、法善寺横丁(2)
キタ
梅田(17)、中之島(7)、天神橋筋商店街(6)、曽根崎(4)、茶屋町(4)、淀屋橋(3)、新地(3)
59
ベイエリア
ユニバーサル・スタジオ・ジャパン(15)、天保山(6)、海遊館(5)、南港(4)
36
ヒガシ
大阪城(6)、京橋(4)、OBP(3)、玉造(2)、本町(2)
17
南部
帝塚山(4)、泉北(2)、りんくう・プレミアム・アウトレット(2)
8
北部
江坂(3)
3
0
東部
『るるぶ大阪』の 1989~2012 年を元に筆者作成。注:同一の年の表紙に複数回登場するものもカウントした。各地
域の合計には、表紙に一度しか登場していない場所の数も含んでいる。なんば、梅田、京橋には、それぞれ吉本の「花
月」を含む。ユニバーサル・スタジオ・ジャパンには、ユニバーサル・シティウォーク大阪と大阪ユニバーサルシテ
ィ駅を含む
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戦前期における日本の航空交通
Air transportation of Japan at the prewar period
奥野一生
1.はじめに
筆者は、過去に、東京・大阪・名古屋からの国内航空交通、沖縄・九州・中国・四国・北陸・東
北・北海道・離島の航空交通について、いずれも戦後期を中心に論考を執筆、公刊した1)。そこ
で今回は戦前期の日本の航空交通を取り上げ2)、航空交通の成立と発達過程、航空路線の特色と
その後への影響等について報告する。
2.戦前期における日本の航空交通の成立
最初の定期航空輸送を行ったのは、日本航空輸送研究所で、1922年に堺(大浜)から徳島及び高松
への路線を水上機で開設、当初は郵便貨物のみで旅客は同乗扱いであった。陸上飛行場未整備と、
短距離路線だが競合する航路より時間短縮効果が大きいことが路線設定の要因であった。翌1923年
には、朝日新聞社の東西定期航空会が、東京から大阪への路線を陸上機で開設し、その後も路線開
設が続くが、機材と飛行場の水準が低いため欠航や事故が多く、また便数も当初は少なく(週1~
3便程度)、運賃も高額であり、旅客も少なく、赤字であった。政府の政策(民間による航空輸送
発達を促す・補助金の支給)、とりわけ郵便事業(航空局が逓信省の所管で航空郵便逓送業務委託
し費用を負担)で成り立っていた。
3.戦前期の国内航空路線(内地路線)の発達過程
発達過程は、次のように時期区分ができる。また、それに対応して、時刻表に掲載された3)。
第一期(1922~28年)は揺籃期で、小規模な運航者による、郵便・貨物を中心とした航空輸送であ
った。前述の日本航空輸送研究所の大阪(堺)を起点とした瀬戸内海路線、東西定期航空会による東
京を起点とした大阪と仙台への路線、日本航空(川西)による大阪を起点とした九州方面等の路線、
安藤飛行機研究所による名古屋を起点とした伊勢湾方面路線等である。この時期の末期である昭和
期(3年)になってから、ようやく、旅客が正式輸送開始(有償旅客扱い)となり、目立つように
なった。
第二期(1929~33年)は過渡期で、本格的な旅客航空輸送を行う日本航空輸送が設立され、東西定
期航空会と日本航空(川西)の路線を引き継いで東京~大阪~福岡間の幹線の本格的な運航を行う
とともに、東京航空輸送が東京(大森)を起点として下田・清水への路線、日本海航空が城崎を起点
として鳥取・松江等への路線開設があり、種々の航空企業と路線が並立する時期であった。
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第三期(1934~38年)は最盛期で、日本航空輸送が航空輸送の中心をなすこととなり、中長距離の
ローカル線へも進出して路線を充実、日本航空輸送研究所と東京航空輸送が短距離とされて存続し
た。
第四期(1939~45年)は終焉期で、国策会社の大日本航空が設立されて航空輸送の一本化が図られ
たものの、外地との連絡にかかわらない内地路線は休止となり、戦中期に入って軍用以外の利用が
できなくなって、民間航空輸送は終焉を迎える。
4.戦前期の国内航空路線(内地路線)の特色
内地ローカル線は、西南日本において(特に大阪を中心として)水上機路線が多く、そのため、
波の穏やかな内海(高松・今治・松山・別府などの瀬戸内海)・河口(木津川尻など)・湖面(宍
道湖など)・内湾(博多湾など)が発着場所となった。運航も欠航が多いため、観光利用が中心と
なり、水上機の発着できる温泉地(別府・城崎・白浜など)が目立った。それに対して、東北日本
においては、東京を中心とした陸上機が中心であった。それは、新潟や富山は地元の熱意から飛行
場を建設(東京~富山線は山岳景観が観光客の人気を呼んだ)、青森と札幌は農民の失業対策土木
事業により飛行場を建設、いずれも東京からの陸上機路線が開設され、地域振興政策の側面が濃厚
である。日本海側の島根県松江も熱心で、補助金を支出し、短期間ではあったが、隠岐離島路線が
運航されたのは特筆に値する。太平洋海域における魚群探知飛行も重要な業務であった。また福岡
や米子は、外地との連絡路線経由地として、航空路線上重要な位置を占めていた。
5.戦前期国内航空交通が戦後期国内航空交通に与えた影響
戦前の路線の多くが、戦後の早期に開設されており、日東航空(のちに合併、日本エアシステム
を経て、現在の日本航空)等は、戦前と類似した水上機路線を開設した。日本最初の定期航空路線
の大阪~徳島・高松は、かつて、最短距離ジェット路線(離島を除く)であったことなど、路線展開
の随所に影響を見ることができる。戦前に日本航空輸送研究所を開設した井上長一氏は、戦後に極
東航空の設立に参画し、のちに合併、現在の全日本空輸につながる。
戦前の民間航空で使用された飛行場で、戦後も民間航空の空港として使用された例は比較的少な
い。羽田は度重なる拡張で使用されている代表例で、まさしく、翼は羽田と共にである。伊丹・新
潟・那覇を加えた4例が使用例である。しかし、札幌(千歳海軍飛行場と札幌陸軍飛行場を使用)・
青森(三沢海軍飛行場と八戸陸軍飛行場を使用、現空港は新設)・仙台(陸軍飛行学校を使用)・富山
(新設)・金沢(小松海軍飛行場を使用)・名古屋(陸軍小牧飛行場を使用)・米子(美保海軍飛行場を
使用)・福岡(蓆田陸軍飛行場を使用)の8箇所の陸上飛行場は、戦後、異なる飛行場となった。こ
れは、軍用飛行場も含めて、米軍に接収され、返還の際に、飛行場として継続か転用かで異なった。
これは、当時の飛行場としての立地条件の適否が大きく影響している。すなわち、敷地・地形・気
象や周辺環境、都市からの距離である。勿論、伊丹のように、その後の周辺環境の激変が、更なる
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適地を求める方向となったことは、承知のとおりである。ちなみに、水上機路線が開設された、高
松(陸軍・旧空港)・徳島(海軍)・松山(海軍)・高知(海軍)の四国4空港は、軍用飛行場を使用した。
さらに、戦前期に航空路は開設されなかったが、女満別(海軍)・中標津(海軍)・帯広(陸軍・旧空
港)・山形(海軍)・大島(陸軍)・八丈島(海軍)・北九州(陸軍・旧空港)・長崎(海軍)・大分(海軍・
旧空港)・熊本(陸軍・旧空港)・宮崎(海軍)・鹿児島(海軍)・南大東(海軍・旧空港)・喜界(海軍)・
宮古(海軍)・石垣(海軍) ・与那国(旧空港)の17空港は、軍用飛行場を使用した例である。この
ように、30もの空港が軍用飛行場を使用した。1950年代に航空路が開設された空港は、離島空港
を除いて、すべて戦前期の飛行場を使用している。飛行場に関しても、戦前期が戦後期に大きな影
響を与えていることは、重要である。
注:
1)拙稿(1999):東京からの国内航空交通「地理學報」大阪教育大学地理学教室、34:107-127.
拙稿(2001):名古屋からの国内航空交通「地理學報」大阪教育大学地理学教室、35:33-51.
拙稿(2005):大阪からの国内航空交通「地理學報」大阪教育大学地理学教室、36:81-111.
拙稿(2002):沖縄の航空交通「大阪教育大学地理学会会報」大阪教育大学地理学会、43:8-59.
拙稿(2003):北海道の航空交通「大阪教育大学地理学会会報」同上、45:9-36.
拙稿(2004):九州の航空交通「大阪教育大学地理学会会報」 同上、47:7-42.
拙稿(2005):中国・四国の航空交通「大阪教育大学地理学会会報」同上、49:7-56.
拙稿(2006):東北・北陸の航空交通(前編)「大阪教育大学地理学会会報」同上、51:15-42.
拙稿(2007):東北・北陸の航空交通(後編)「大阪教育大学地理学会会報」同上、53:8-39.
拙稿(2008):離島の航空交通(その1)「大阪教育大学地理学会会報」同上、55:16-25.
拙稿(2009):離島の航空交通(その2)「大阪教育大学地理学会会報」同上、56:14-21.
拙稿(2010):離島の航空交通(その3)「大阪教育大学地理学会会報」同上、57:19-25.
拙稿(2011):離島の航空交通(その4)「大阪教育大学地理学会会報」同上、58:15-22.
なお、戦前期における日本の航空交通については、下記の拙稿がある。
拙稿(1997):戦前期における日本の航空交通「日本地理学会発表要旨集」日本地理学会、51:266-267.
2)戦前期における日本の航空交通に関する文献としては、拙稿以外に、下記のものがある。
高橋重治(1936):『日本航空史 乾巻』航空協會、1157p.
高橋重治(1936):『日本航空史 坤巻』航空協會、1264p.
日本航空協會(1956):『日本航空史 明治・大正編』日本航空協會、851p.
郡捷・小森郁雄・内藤一郎編(1960):『日本の航空50年 1910年-1960年』酣燈社、231p.
日本航空調査室(1964):『日本民間航空輸送小史』日本航空、259p.
小森郁雄(1964):羽田飛行場の草分け物語「航空情報」酣燈社、No.182、74-79.
小森郁雄(1964):関西飛行場物語「航空情報」酣燈社、No.184、74-77.
小森郁雄(1964):続・関西飛行場物語「航空情報」酣燈社、No.185、74-77.
小森郁雄(1965):続々・関西飛行場物語「航空情報」酣燈社、No.186、72-75.
小森郁雄(1965):堺飛行場一代記「航空情報」酣燈社、No.188、66-69.
日本航空協會(1966):『日本民間航空史話』日本航空協會、554p.
伊藤良平編 (1975):『航空輸送の歩み昭和二十年迄 大日本航空社史』日本航空協會、685p.
日本航空協會(1975):『日本航空史 昭和前期編』日本航空協會、982p.
近代日本輸送史研究会編(1979):『近代日本輸送史』運輸経済研究センター、620p.
毎日シリーズ出版編集部(1979):『別冊1億人の昭和史 日本航空史』、毎日新聞社、306P.
平木国夫(1980):『日本ヒコーキ物語 北海道編』冬樹社、226p.
日本航空協会(1981):『日本航空史年表 証言と写真で綴る70年 』日本航空協会、384p.
朝日新聞社年鑑編集部(1983):『日本の航空史(上)1877年~1940年』朝日新聞社、256p.
朝日新聞社年鑑編集部(1983):『日本の航空史(下)1941年~1983年』朝日新聞社、256p.
平木國夫(1983):『イカロスは翔んだ 日本航空界の先駆者たち』国際情報社、235p.
清水馨八郎編(1984):『日本のエアポート』電気通信共済会発行 日本交通公社発売、232p.
高知県企画部輸送課(1984):『高知空港史』高知県、339p.
運輸省航空局飛行場部監修(1987):『日本の空港』㈱大阪日日新聞社、256p.
位田正一(1988):『年表 小松の空』自費出版、186p.
旅編集部 (1989):『昭和の旅 雑誌「旅」にみるなつかしの旅行史』日本交通公社、256p.
野沢正解説(1989):『日本航空機辞典〔上巻〕明治43年~昭和20年』㈲モデルアート社、384p.
航空情報編 (1989):『航空情報別冊 昭和の航空史』酣燈社、166p.
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鶴田雅昭(1992):昭和初期の航空会社の事業展開をめぐって「大阪春秋」No.69、pp.44-50.
鈴木五郎(1993):『昭和の日本航空意外史』グリーンアロー出版社、206p.
石川潤一(1993):『旅客機発達物語』グリーンアロー出版社、239p.
佐藤英達(1993):大阪の空港物語「大阪春秋」No.71、pp.105-109.
佐藤英達(1994):大浜飛行場をめぐる二○年「大阪春秋」No.75、pp.85-87.
月刊エアライン編集部編(1994):『全国空港ウォッチングガイド』イカロス出版、362p.
吉川康夫(1996):『航空の世紀』技報堂出版、276p.
横森周信(1998):『年表世界航空史 第一巻』エアワールド、243P.
横森周信(2000):『年表世界航空史 第ニ巻』エアワールド、302P.
航空情報編(2000):『生きている航空日本史外伝(上巻)日本の航空ルネサンス』酣燈社、220p.
平木國夫(2000):『すばらしき飛行機時代』アトラス出版、159p.
月刊エアライン編集部編(2002):『全国エアベースウォッチングガイド』イカロス出版、225p.
佐藤一一(2003):『日本民間航空通史』国書刊行会、388p.
帆足孝治・阿施光南(2005):『日本の航空機クロニエル』イカロス出版、177p.
平木國夫(2006):『空気の階段を登れ 黎明期にはばたいた民間飛行家たち』三樹書房、588p.
曽我誉旨生(2008):『時刻表世界史』社会評論社、511p.
イカロス出版編集部(2010):『羽田空港』イカロス出版、161p.
イカロス出版編集部(2011):『関西3空港』イカロス出版、161p.
イカロス出版編集部(2011):『東海3空港』イカロス出版、161p.
イカロス出版編集部(2012):『九州の空港』イカロス出版、160p.
3)戦前期の時刻表に掲載された事例として、一部を掲載した。
本格的な航空旅客輸送の開始は、昭和4年(1929年)7月15日の日本航空輸送の東京(立川)~大阪(木津川尻)~福岡(太刀洗)
線旅客輸送開始からとされる。その直前の、旅行案内社発行「汽車汽船旅行案内」昭和4年5月号では、日本航空輸送の東京~大阪
~福岡線「航空線路及航空機發着時間表」が掲載されているものの、航空郵便・航空貨物輸送として扱われている。そして、ほぼ1
年が経過した、日本旅行協會発行「汽車時間表」昭和5年10月号では、「旅客航空輸送」として、日本航空輸送の東京~大阪~福岡
~蔚山~京城~平壌~大連線のみが掲載されている。満州事変勃発前の、旅行案内社発行「汽車汽船旅行案内」昭和6年6月号では、
日本航空輸送の東京~大連線航空旅客輸送以外、東京航空輸送の東京~伊東~下田~沼津~清水線旅客郵便貨物航空輸送が掲載され
ている。
満州事変勃発、満州国成立、満州航空設立後の、JTB(日本旅行協會)発行「汽車時間表」昭和9年12月號では、日本航空輸送
の東京~大連線と東京航空輸送の東京~下田~清水線(昭和6年8月から伊東・沼津抜航)以外、満州航空の大連~奉天~新京~ハ
ルビン~チチハル~ハイラル~満州里、新義州~奉天、新京~吉林~敦化~竜井村~圖們等と、日本航空輸送研究所の大阪~高松~
松山線が掲載されている。旅行案内社発行「汽車汽船旅行案内」昭和10年10月号では、日本航空輸送の東京~大連線と東京~富山線、
東京航空輸送の東京~下田~清水線、日本航空輸送営業所(日本航空輸送研究所)の大阪~高松~松山~別府線と大阪~南紀白濱線、
日本海航空の城崎~鳥取~松江~隠岐黒木~隠岐西郷線、そして満州航空線が掲載されている。
大日本航空設立後の、JTB(日本旅行協會)発行「汽車時間表」昭和14年9月號では、大日本航空の東京~大連線、福岡~那覇
~台北線、他の外地路線、満州航空路線、内地路線では大日本航空の東京~仙臺~青森~札幌線、大阪~金澤~富山~長野~東京線、
日本航空輸送研究所の大阪~高松~松山~別府線、大阪~南紀白濱線、日本海航空の大阪~城崎線が掲載され、大日本航空の東京~
長野~新潟線、大阪~徳島~高知線、大阪~鳥取~松江線と東京航空の東京~下田線は時刻が掲載されているが、當分休航と記され
ている。JTB(日本旅行協會)発行「汽車時間表」昭和15年10月號では、大日本航空の東京~大連線、東京~米子~京城線、福岡
~那覇~台北線、他の外地路線、満州航空路線、内地路線では大阪~米子線、東京~仙臺~青森~札幌線、大阪~徳島~高知線、大
阪~高松~松山~別府線とが掲載され、大日本航空の東京~長野~新潟線、大阪~金澤~富山~長野線と東京航空の東京~下田線は
時刻が掲載されているが、當分休航と記されている。実際は、この昭和15年10月から内地のみの路線は休航となった。
真珠湾攻撃直前の、旅行案内社発行「汽車汽船旅行案内」昭和16年11月号では、従来、華北交通會社線・華中鐵道會社線と航空便
が掲載されていたページが削除され、「ニ七七頁より三○○頁まで削除 右御諒承願います」と記され、掲載されなくなった。
戦前期における日本の航空交通史年表
奥野一生 編
1920(大正9)年8月1日 陸軍省所管の航空局 発足
1922(大正11)年6月4日 日本航空輸送研究所 設立(井上長一氏により)
堺市大浜海岸に、水上飛行場開設
11月
立川陸軍飛行場 完成
11月12日 日本航空輸送研究所 堺(大浜)~和歌山(和歌の浦)~徳島線 開設
週1便〔1924年(大正13年)まで運航し、同年廃止。〕
横廠式イ号甲型改水上機・伊藤式28型飛行艇を使用
11月15日 日本航空輸送研究所 堺(大浜)~高松線 開設
週3便〔1925年(大正14年)5月20日に今治まで延航、1927年(昭和2年)に大分まで延航、
大分までは1928年(昭和3年)年度まで運航し、廃止。〕
横廠式イ号甲型改水上機・伊藤式28型飛行艇を使用
12月22日 航空局 日本航空輸送研究所に奨励金8000円を交付
1923(大正12)年1月10日 東西定期航空会 設立 (朝日新聞社により)
1月11日 東西定期航空会
東京(洲崎埋立地)~浜松(三方ケ原)~大阪(城東練兵場) 線 開設
中島式5型を使用 第1期運航 3月末まで、毎週水曜日1往復
3月31日 航空局は陸軍省から逓信省に移管
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4月
日本航空(川西) 設立(川西竜三氏により)
7月10日 木津川飛行場 開場
7月15日 日本航空(川西) 大阪(木津川尻)~小豆島~高浜~別府 線 開設
横廠式ロ号改造水上機使用 週1~2往復(1925年に週3往復)郵便貨物新聞輸送
8月14日 東西定期航空会 東京~浜松~大阪線再開 中島式5型を使用 第2期運航 連日郵便飛行実施
9月1日 関東大震災 救援・連絡活動に 航空機が活躍
東西定期航空会、立川飛行場に移転(洲崎埋立地被災による)
1924(大正13)年4月
日本航空(川西) 大阪~別府~福岡 線 開設 福岡延航
1925(大正14)年4月20日 逓信省 航空郵便逓送業務 東西定期航空会・日本航空(川西)が受諾
東西定期航空会 東京(立川)~大阪(木津川尻)間 週3往復サルムソン2A2複葉機 使用
日本航空(川西) 大阪(木津川尻)~福岡(入船町)間 週3往復
川西K-7型水上旅客機(客席4席)・横廠式ロ号甲型水上機使用
5月20日 逓信省 航空郵便逓送業務 日本航空輸送研究所が受諾
日本航空輸送研究所 堺(大浜)~今治 間 週3往復 堺(大浜)~高松~徳島間 週1往復
ハンザ・ブランデンブルグ単葉水上機・横廠式水上機 使用
1926(大正15)年4月
東西定期航空会 東京~大阪 間 東京発は月・水・金に、大阪発は火・木・土に。
東京~仙台(宮城野)間開設 週1便 定期郵便輸送
9月13日 日本航空(川西) 大阪~京城~大連 線 定期郵便飛行開始
川西K-7B型輸送機・川西K-10型輸送機(客席4席)使用(日本初の国際定期航空輸送)
1927(昭和2)年6月1日 航空法 施行
7月
東西定期航空会 東京~大阪 間
川崎製ドルニエDo-Cコメ-ト単葉輸送機(客席4席) 使用開始
夏期
安藤飛行機研究所 名古屋(新舞子)~南紀新宮町間 週1往復 定期航空実施 計8名輸送
8月25日 日本航空(川西) ドルニエ・ワール飛行艇(客席11席)の運航を開始
1928(昭和3)年5月1日 日本航空輸送研究所 堺(大浜)~高松~今治~大分線 旅客貨物定期輸送開始
夏期
安藤飛行機研究所 名古屋(新舞子)~蒲郡~二見浦間 週1往復 定期航空実施
8月27日 東西定期航空会 東京~大阪 間 旅客貨物定期輸送開始
川崎製ドルニエ・コメート単葉輸送機(客席4席) 使用
(週3往復・12月26日まで・旅客輸送は満席の盛況・運賃片道35円)
8月29日 東西定期航空会 東京~仙台 間 旅客貨物定期輸送開始 (週1往復・12月26日まで・旅客輸送
は満席の盛況・運賃片道30円) 川崎製ドルニエ・コメート単葉輸送機(客席4席)使用
両線は以前より郵便物輸送は行われており旅客は同乗扱いであった。
9月
東京航空輸送(のちの東京航空<昭和11年春より>)設立
10月20日 日本航空輸送 設立
1929(昭和4)年1月7日 東西定期航空会 旅客貨物定期航空輸送 再開(3月31日まで)
2月13日 日本航空輸送研究所 堺(大浜)~高知線 ユンカースF-13型水上機(客席4席) 初就航
3月30日 日本航空(川西) 大阪~福岡 線 日本航空輸送に譲渡
3月26日 航空郵便規則 公布
3月31日 東西定期航空会(朝日定期航空会に)と日本航空(川西)は解散
4月1日 日本航空輸送 東京~大阪(1日2往復)大阪~福岡(1日1往復)
山~京城(汝矣島)~平壌(陸軍飛行場)~大連(周水子)
週3往復各線 郵便・貨物輸送開始 サルムソン2A-2型機使用 日曜休航
東京(立川)飛行場・大阪(木津川)飛行場(陸上・水上機)
・福岡(名島)飛行場(水上機)開設(正式発足・最初の公共用飛行場)
日本航空輸送研究所 堺(大浜)~高松~松山 線 開設(継続開設)
1日1便(日曜は休航)ユンカースF-13型水上機就航
6月1日 日本航空輸送研究所 発着を堺(大浜)から木津川尻大阪飛行場に変更
6月5日 安藤飛行機研究所 新舞子~蒲郡~二見 間 運航開始
6月21日 日本航空輸送 福岡(太刀洗)~蔚山 間 の 郵便・貨物輸送開始
東京~大阪~福岡~蔚山~京城~平壌~大連線完成
三菱MC-1輸送機・愛知AB-1輸送機 使用
7月1日 日本航空輸送 大阪~福岡 線 水上機路線開設郵便・貨物輸送開始
サルムソン2A-2型機 使用 週3便
7月15日 日本航空輸送 東京(立川)~大阪~福岡(太刀洗)線 1日1便
旅客輸送開始フォッカー・スーパー・ユニバーサル(客席6席)使用
8月15日 朝日定期航空会(朝日新聞社航空部内)
東京(立川)~新潟(万代島新飛行場)線 開設 1週3便
定期旅客輸送開始(11月2日まで) 川崎製ドルニエ・コメート単葉輸送機(客席4席) 使用
9月10日 日本航空輸送 福岡~蔚山~京城~平壌~大連 線 を 開設
フォッカーF7b/3m 3発輸送機使用 週3便 旅客輸送開始
日本航空輸送 東京(立川)~大阪 間 1便増便 1日2便に
11月17日 東京航空輸送 東京(大森)~下田 間 開設 週1便 アブロ複葉水上機・ハンザ単葉水上機使用
1930(昭和5)年4月1日 東京航空輸送 東京~下田~清水 間 開設(清水延港)週2便
4月1日 日本航空輸送 福岡~蔚山~京城~平壌~大連 線 1日1便に増便
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6月30日
9月
10月1日
11月
1931(昭和6)年3月5日
3月18日
4月1日
5月末
6月1日
7月22日
7月27日
8月3日
8月25日
9月1日
9月18日
10月
12月
12月28日
1932(昭和7)年2月27日
3月1日
5月11日
5月12日
9月26日
11月3日
1933(昭和8)年6月
6月9日
6月11日
7月5日
7月12日
11月1日
1934(昭和9)年5月15日
7月3日
10月1日
10月28日
12月
1935(昭和10)年1月1日
4月1日
5月4日
5月15日
5月19日
6月5日
6月6日
8月
9月15日
東京~京城 間 毎日 即日連絡に
日本航空輸送 大阪~福岡(名島)線 1日1便 水上機路線開設
旅客輸送開始 フォッカー・スーパー・ユニバーサル水上機使用
朝日定期航空会 東京(立川)~新潟(沼垂埋立地市営焼島飛行場)
線 再開 1週3便(月水金・10月末まで)
新潟市営飛行場 開場(現・新潟空港)朝日定期航空会 寄航
東京~神戸 間 に 特急「燕」運転開始 所要時間約9時間
日本航空輸送 瀬戸内線の営業開始(ドルニエ・ワール飛行艇使用)
東京航空輸送 日本初のエア・ガール(スチュワーデス)採用
中島飛行機 フォッカー・スーパー・ユニバーサル 国産1号機完成
東京航空輸送 日本初のエア・ガール(スチュワーデス)乗務開始
東京~伊東~下田~沼津~清水 間 週3往復に増便 愛知AB-1水上輸送機(客席6席)就航
羽田東京飛行場 工事完成
朝日定期航空会 東京~新潟 線 上田寄航
城崎飛行場(水上機発着)開場
日本海航空 城崎飛行場、遊覧飛行開始。(鳥取・松江・米子でも)
三菱式MC1型複葉水上旅客機使用(客席5席)
羽田東京飛行場 開場
日本航空輸送 羽田東京飛行場での定期便発着開始(立川から移転)
清水トンネル完成 上越線開通
満州事変勃発
東北・北海道の冷害深刻化
日本航空輸送 軍用定期航空運航開始 鮮満国境新義州に飛行場急設 フォッカー・スーパー・ユ
ニバーサル 使用 (新儀州~奉天~長春~ハルビン~チチハル等)週3便
日本航空輸送 東京~大連 線 の 一部を新義州に寄港開始
日本航空輸送 瀬戸内線 ドルニエ・ワール飛行艇 運航停止
満州国 建国宣言
日本海航空 城崎~鳥取(湖山池) 線 開設 1週1便
日本海航空 城崎~天橋立 線 開設 1週1便
満州航空 設立
満州航空 営業開始(日本航空輸送と満州航空
新義州と大連で旅客郵便貨物の日満連絡航空輸送を開始)
盾津飛行場(現・大阪府東大阪市)開設
札幌飛行場 完成(現・札幌市北区役所付近)北海タイムス社札幌飛行場を含めて建設
青森飛行場(油川町) 完成(式典開催)
日本海航空 城崎~松江(宍道湖畔) 線 開設 1週1便
松江水上飛行場 開場
日本航空輸送 東京~大阪 間 夜間定期郵便飛行を開始
(中島式P-1郵便機使用)<昭和12年中止>
日本航空輸送 東京~富山(倉垣) 線 開設 (10月まで)
フォッカー・スーパー・ユニバーサル(客席6席)使用
名古屋飛行場(旧) 開場 (名古屋港10号埋め立て地)
日本航空輸送 東京~大阪 線 名古屋寄港開始
千歳飛行場 竣工
DC-2(双発引込脚旅客機)輸入、中島飛行機で国産化へ
日本航空輸送研究所 大阪~白浜 線 開設 週3便
ガス電KR-1型水上機・海軍14式水上機 就航
日満航空相互乗り入れ協定成立
日本航空輸送 東京~大連 間 郵便即日到達に
大阪~大連 間 旅客即日到達に(運航時刻変更)
東京~大阪間に大阪~大連間旅客便接続の郵便機運航
新義州にて、満州航空 新義州~奉天~新京線 接続 即日到達に
日本航空輸送研究所 大阪~高松~松山~別府 線 開設 別府延航
週1便 愛知AB-1水上輸送機(客席6席)就航
日本航空輸送 東京~富山 線 再開 (10月まで)
フォッカー・スーパー・ユニバーサル(客席6席)使用
日本航空輸送研究所 別府と白浜で事故 白浜線と遊覧飛行一時中止
朝日定期航空会 大阪(木津川尻大阪飛行場)~富山~新潟 線
郵便・貨物輸送開始(10月16日まで)2週1便 新潟で東京便と連絡
モノスパーST4型機 使用
日本海航空 大阪(木津川尻大阪飛行場)~松江 線 開設
1週1便(9月15日まで)
鉄道省と日本航空輸送・満州航空 鉄道・航空連絡輸送を開始
日本海航空 松江(宍道湖畔)~隠岐(黒木水上飛行場) 線 開設
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1週1便 (年度末まで運航)
10月8日 日本航空輸送 福岡~那覇~台北 線 週1便 郵便・貨物輸送開始
フォッカーF7b/3m 3発輸送機 使用
陸上機による海上航空路として当時は世界最長
10月14日 日本航空輸送 鉄道省 空陸連帯切符発売開始
(福岡~京城間利用者増に)
10月16日 朝日定期航空会 大阪~富山~新潟 線 この日をもって運航終了
東京~新潟 線 のみ 日本航空輸送で継続
日本航空輸送研究所 大阪~白浜 線 再開 週1便
1936(昭和11)年1月2日 日本航空輸送 福岡~那覇~台北 線 定期旅客輸送開始 週1便
フォッカーF7b/3m 3発輸送機(客席8席)就航
1月
中島飛行機 国産DC-2 1号機完成
3月28日 日本航空輸送 福岡~那覇~台北線 機種変更 DC-2就航(客席14席)週3便(火・木・土)
福岡で東京~福岡線に接続 東京~台北 即日連絡に
4月1日 日本航空輸送研究所 大阪~高松~松山~別府 線 週3便(月・水・金)に増便
4月11日 那覇飛行場 開場 1933(昭和8)年海軍小禄飛行場として完成
4月15日 日本航空輸送 東京~富山 線 再開 (9月24日まで)
5月27日 福岡第一飛行場(雁の巣) 開場
6月1日 福岡第一飛行場(雁の巣) 定期便 発着開始
8月1日 日本航空輸送 台北~台中~高雄 線・台北~宜蘭~花蓮港 線
運航開始 フォッカー・スーパー・ユニバーサル 就航 週3便
8月
日本海航空 大阪(木津川尻大阪飛行場)~城崎 線 開設 1週2便(10月まで)
9月25日 日本航空輸送 東京~青森~札幌~帯広 間 臨時運航
陸軍特別大演習のため(10月10日まで)
10月1日 日本航空輸送 東京~新潟 線 開設 1日1便
フォッカー・スーパー・ユニバーサル陸上旅客機使用
東京~富山~大阪 線 開設 1日1便(大阪延航)
東京~鳥取~松江 線 開設 1日1便
フォッカー・スーパー・ユニバーサル水上旅客機使用
大阪~徳島~高知 線 開設 1日1便
フォッカー・スーパー・ユニバーサル水上旅客機使用
11月7日 恵通航空公司 設立 華北~満州 間 の 航空路開設
11月14日 日本航空輸送研究所 大阪~高松~松山~別府 線
スーパーマリン・サザンプトン飛行艇「きりん」号初就航(客席19席)
1937(昭和12)年4月1日 日本航空輸送 東京~仙台(霞目)~青森~札幌 間
定期便開設(1日は郵便物のみ・2日から旅客輸送)
フォッカー・スーパー・ユニバーサル就航(後、エンボイ機に変更)
4月4日 日本航空輸送 東京~サイパン~パラオ 線 運航開始 川西式4発飛行艇を使用
4月8日 日本航空輸送研究所 大阪~高松~松山~別府 線
大阪商船とタイアップして連絡切符発売(空船自由選択)
5月8日 日本海航空 大阪~城崎 線 再開 1週2便(土・日)
5月20日 国際航空 設立
6月1日 日本航空輸送 東京~京城~新京 線、京城~大連 線 急行便開始
中島式AT-2型機使用(客席8席)
恵通航空と提携して 東京~天津 間 運航開始
7月
日本航空輸送 エア・ガール採用 10月より乗務開始
(東京・大阪・福岡・京城・大連・台北に各2名配属)
7月7日 日中戦争 始まる
7月10日 日本航空輸送 東京~仙台~青森~札幌 線 1便増便 1日2便に(9月30日まで)
7月14日 日本航空輸送 東京~新潟 線 ・ 東京~富山~大阪 線 一時休止(航空機の軍徴用による)
8月1日 日本航空輸送 福岡~那覇 線 1日1便に増便
9月
日本海航空
運航休止
10月2日 日本航空輸送 福岡~上海 間 陸軍軍用定期航空開設 DC-2就航(余席は一般利用可に)
1938(昭和13)年1月
日本航空輸送 福岡~青島~北京 間 陸軍軍用定期航空 開設 DC-2就航
1月31日 航空局 逓信省の外局となる
4月
阪神飛行場(現・八尾飛行場)完成
5月30日 日本航空輸送 ロッキード14W-G3スーパー・エレクトラ 輸入機 組立完了
6月
米子飛行場 完成(両三柳、現・陸上自衛隊米子駐屯地)
8月1日 日本航空輸送 東京~新京 線 機種変更 スピードアップ
ロッキード14W-G3スーパー・エレクトラ就航(客席10席)
日本航空輸送 台北~宣蘭~花蓮港~台東~高雄~台南~台中~台北
循環航空路線開設 1日1便
9月21日 日本航空輸送 台南~馬 線 開設 当分の間 郵便・貨物のみ輸送
9月30日 日本航空輸送 DC-3 輸入機 組立完了 試験飛行実施
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10月1日 長野飛行場 完成 ・ 金沢(愛国)飛行場 完成
日本航空輸送 東京~長野~新潟 線 開設
東京~長野~富山~金沢~大阪 線 開設
日本航空輸送 京城~清津 間 開設 1日1便
10月5日 日本航空輸送 東京~福岡 線 DC-3就航 1日2便に増便
10月15日 日本航空輸送 福岡~京城~青島~北京 福岡~上海~南京 線
定期運航開始 DC-3就航
12月1日 大日本航空設立(日本航空輸送と国際航空合併、国策航空会社設立)
12月16日 中華航空設立(恵通航空解消・日本航空輸送中国大陸内航空路委譲)
1939(昭和14)年1月17日 大阪第二飛行場(伊丹) 開場・陸上機は伊丹に、
木津川尻の大阪飛行場は水上機専用飛行場になる
4月1日 大日本航空 横浜~サイパン~パラオ 線 運航開始 月2便
8月1日 日本航空輸送研究所 大阪~高松~松山~別府線 松山~別府 休航
10月10日 大日本航空 大阪~米子 線 開設
10月31日 日本航空輸送研究所 この日限りで業務を閉じる
11月1日 大日本航空 大阪~高松~松山~別府 線 開設 1日1便
14式水上機 就航(日本航空輸送研究所の路線を引き継ぐ)
1940(昭和15)年4月1日 大日本航空 東京~米子~京城 線 開設 米子にて大阪線接続
6月10日 大日本航空 東京~(福岡~台北~広東~ハノイ~ツーラン~サイゴン)~バンコク線 運航開始(三菱双
発機使用)
7月9日 大日本航空 札幌線 無期限運休となる。
7月
大日本航空 東京~大阪 線 名古屋寄港中止
10月1日 大日本航空 大阪~福岡線・京城~清津線以外のローカル線全面休止
12月5日 大日本航空 ハノイ~ツーラン~サイゴン~バンコク 線 運航開始
12月20日 日本海航空 解散
1941(昭和16)年1月9日 大日本航空 パラオ~淡水 線 運航開始
3月11日 横浜飛行場(水上飛行場) 完成
4月1日 大日本航空と満州航空 東京~新京 間 日満連絡直行便 運航開始
三菱MC-20型機使用(客席11席) 週2往復運航 大日本航空 南洋島内線
(パラオ~トラック~ポナペ~ヤクート・トラック~サイパン) 開設
大阪伊丹飛行場 拡張により DC-3機離着陸可能に
9月20日 大日本航空 日本航空輸送以来のエア・ガール乗務を全線で廃止
10月
名古屋飛行場(新)開場 (名古屋港11号埋め立て地)
11月25日 大日本航空 パラオ~チモール島 線 運航開始 復航便で実質終了
12月8日 日本 対米英宣戦布告 日本海軍真珠湾攻撃
1942(昭和17)年9月15日 勅令により 軍隊組織として 南方航空輸送部編成
1943(昭和18)年11月1日 運輸通信省(逓信省と鉄道省が合併)発足 航空局は同省内局に
1944(昭和19)年3月14日 旅行制限開始
12月7日 東海地方大地震、愛知航空機・三菱名古屋航空機製作所・中島航空機
大被害で機能停止
1945(昭和20)年5月19日 運輸省 発足 航空局は同省内局に
8月15日 日本 無条件降伏 第2次世界大戦終結
9月12日 連合軍総司令部(GHQ) 羽田飛行場その他の各地飛行場を接収
9月14日 緑十字飛行実施(終戦連絡事務飛行・10月9日まで)
9月21日 羽田飛行場隣接穴守一帯住民に48時間以内立ち退き命令
10月31日 大日本航空 解散
11月18日 GHQ覚書発令 12月31日限り 日本の航空活動および組織を禁止
本稿は、1997年度日本地理学会春季学術大会(於:東京都立大学)「戦前期における日本の航空交通」の報告をもとに、その後の資
料を加えてまとめたものである。
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「雪 ・ 花 ・ 仙」
占部 太
「雪・花・仙」と標題して、地球の中の北アルプスにつき考察してみようと、今、思い立った。
実際、読むにつけ、知るにつけ、私に北アルプスを説く資格があるのか、痛切な不安を覚える。も
とよりただの登山愛好家である。それも入山したのはわずか3回、野麦峠の位置を知ったのも最近
かんなん し ん く
に至って初めてであり、艱難辛苦の女工達には、誠に合わすべき顔を持ち合わせない。しかし、今
後私に、山に関し実地の知見を深める機会が、どの位残されているか知れず、ともかくも、私の一
里塚として、浅学を顧みず今後の人達の何かの道標になればと思い、私の力量のありのままを記し
てみたいと思う。北アルプスの地元の方々には、土足で踏み込む無礼を、ただただお詫びするが、
これも、私の自然への感謝の表出となれば、それはそれで意味を持つ。
ただ勇気を持って、筆耕の門をたたいてみるところである。
〈1〉北アルプスとはどんな地域か。
一言で北アルプスと言っても、そこは長野、富山、岐阜の三県に境し、入山の門戸は広い。私の
住む神戸に於いても、六甲山という同種の断層性の山地があり、ここも又、毎日登山という多くの
愛好家を持つ。つまりは、親しみ易さの点ではあたかも銀座の如くである。ただその最高峰、奥穂
高は、3190mの巨座であり、そう容易くは人を寄せつけないのも確かであり、あなどるなかれ、一
たび山が怒れば大変な事になるのも事実である。今でこそ、空輸補給の手段があるが、かつては強
力(ごうりき)達が薪炭、食料の積み上げ、そして、廃棄物の積み降ろしを、その足で担った。
北アルプスで特徴的なのは、雪食(nivation)であり、その為、一般に森林限界より上は腐食が
いわゆる
せいたいどじょう
流れ脱け、土壌はあまり黒くない。所謂、成帯土壌としての、チエルノーゼム土とは異なり、植物
の生育には厳しい。しかし尚、エンドモレーン付近の「お花畠」では、融氷水により雪田植物群落
が形成されている。
せんい
普通湿原では、低温湿潤の地に形成され、遷移を為し、放置すれば温帯では200年~300年で陰樹
林の極相(climax)を迎える。私達が山で見かけるのは、あくまでも遷移の途中のFLORA(植物相)
であり、うすい泥炭層の上に、あたかも弥陀浄土かの様な一時の楽園を見出し得るのである。
くがい
人は、山に登るとケルンを作りたがる。精神史的に公界であるのは、例えば、ラマ教徒による五
体投地でも知られ、モンゴルに於ける翻旗による葬りにも現れている。つまり山は、人々の心にと
ほこら
って霊的であり得るのだ。奥穂高の山頂には 祠 があり、小槍の上に孫槍があるのは、そういう寸
法なのである。
いずれにせよ、北アルプスは、氷河地形の見られる、日本での数少ない山体であることは確かで
ある。
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槍沢という、梓川上流には見事な氷食のU字谷が見られる。又、野口五郎、黒部五郎には、その
カール付近に可憐なお花畠が生育するのだ。この別天地では、石一つ、葉一枚、採取することは出
来ないが、そこは登ってからのお楽しみに大切にしておこうではないか。
たいせき
ここには又、堆石(moraine)とドラムリン(drumlin)という、直交する氷食の跡があって、残
雪がお花畠に補水する。
北アルプスに於ける氷食と比較されるのが例えば黒部川の十字峡という先行性の河川による浸
けんこく
食である。梓川にしても大正池のある上高地という堆積地を持ち、沢渡(さわんど)等の険谷を持
かこくさよう
つ以上、後に述べる隆起運動よりも速い下核作用があった事だろう。ここは、日本一長い信濃川の
最上流であるが安房峠を分水界に持ち、河川争奪(stream pirate)から免れている。これは、兵
庫県の氷上に於ける谷中分水嶺とよく対比される。
あるいは、黒部ダム建設資材搬入の為設置された、黒部峡谷鉄道に乗って、黒部川扇状地と、そ
して富山平野の散村の民家(ここは風が強く、防火の点から、カイニョと呼ばれる防風林を持つ民
家が、散村を形成する。)を確認するのもよい。
〈2〉北アルプスの風土
北アルプスは植生分布の点から言うと、ブ十帯である。そして、ケッペンによると、その気候は
冷帯湿潤気候である。又、文化史的には、東アジアという森林文化圏の一角を形成する。
こし
今、ここで、地球的な視野で、この地の気候を考えてみたいと思う。富山の夏は暑い、越の国は
豪雪地帯であるという常識は、一体どこからもたらされたのか。暑い、と言えばBW地域、そして、
降水量の点ではチェリカブンジー等が世界の極である。地球という回転体を考えてみれば、最も日
射の多い地帯は、即ち、太陽光線を吸収する地帯は、赤道付近である。仮に今、地球の自転を度外
視すれば、ここに上昇気流が起こる。つまり、上空では赤道から極へ向かって、そして、地表では
極から赤道へ向かって、大きな風が出来る。その筈である。しかし実際には、地球は球体であり、
両極を軸に東へ東へと回転している為、南北緯30°付近に上空の大気溜りができ、そこから下降気
流が生ずる。これが中緯度高圧帯である。この下降気流は転向力(ユリオリの力)の影響を受け、
高緯度側で東向きへと、低緯度側で西向きへと、風向が屈曲する。それ故地上付近には、これが
ちしょうふう
地衡風として現われ、鉛直的にはハドレーセルが現れるのである。
この風系(大気の大循環)は、障害物がなければ、より一層風力を増す。トルデシリャス条約
(Tordesillias)に基きポルトガルから西へ出帆したマゼランが、「 roaring 40°」との恐威を
感じつつ太平洋へと向かった勇敢は、不滅の栄光であるが、南半球に於いてはこの様に偏西風の猛
威が甚だ厳しいのである。それに比べて北半球では、特に沿海では、左程の困難を伴わない。海民
としてイネを受容した日本の幸運は、この様な自然環境と無縁ではないのだ。華僑の東南アジアへ
の移住を可能にしたのも、季節風と沿海という自然条件の寄与が大きい。英雄シンドバッドを旗主
とするイスラム圏の航海も又、貿易風なくしては語れない。
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それはさておき、ここで言う富山の夏の暑さの要因は、一体何であろうか。先に地球の大気の大
循環のメカニズムをざっと述べたが、風には、局地的に地形、植生、海洋等の影響を受ける小規模
のものもある。それが地方風と呼ばれるもので、多くは固有名詞を持つ。例えば、ローヌ河谷を吹
送する寒冷なミストラルという風があり、これはフランス地中海沿岸(Provence)の人々に、特急
き あ つ けいどりょく
列車にも名付けられて、心地よい疾風として広く親しまれている。又、サハラの強い気圧傾度力が
もたらす、シロッコという高湿多湿の風が、アルプス越えをしてフェーン(foehn)をもたらすこ
とはよく知られている。このフェーンは、既によく紹介され術語的意義を持つが、モンスーン地域
こし
である日本では、越の国の地域にこのフェーン現象が頻発するのである。現在の上越市高田城下が
がんぎ
雁木の街として知られるのも、夏、冬のモンスーンと無縁ではない。
夏の季節風に限って見れば、小笠原気団(これは高温で熱帯性のもの)が日本の東南海に優越し、
ここから南東の風が吹く。これが越後山脈から両白山地に至る中央高地に遮られるのである。個の
風は多湿であるから、この地域の山系を越える時、湿潤断熱変率に従って、およそ100m上昇する
せんねつ
につれ、0.6℃気温が低下する。飽和水蒸気量が多いから、潜熱としてたくわえられ、気温の逓減
率が小さいのである。この気団は、風上側で夏降水をもたらすが故に、八ヶ岳、霧が峰付近は俗に
言う「ガスる」霧雨におおわれるのである。そして、この風が、風上で湿度をおとし、日本海岸に
吹き降ろす時、こんどは乾燥しているから、乾燥断熱変率に従って、気圧を増しつつ、100mあた
り約1℃の気温上昇をもたらすのである。乾燥しているから、ボイルシャルルの法則に従いつつ、
気圧の上昇とともに、そのまま気温を上げて降下するのである。これが日本に於けるフェーン現象
の正体なのだ。
うおづ
しんきろう
魚津に蜃気楼が見られるのは上暖下冷の気団の境界面が、あたかもマジックミラーであるかの様
な働きをするからであり、この様な空気の寒暖による境界面の作用は逃げ水としても現われる。又、
となみ
砺波平野に散村が見られるのは疾風による類焼を防ぐ、防火の観点からである。
この様に高地特有の様々な自然現象と、それに基く生活が、ここ北アルプスには見られるのであ
る。
(次号に続く)
- 27 -
黒部五郎カール。エスカー上に地衣類群落
五色ヶ原湿原。
- 28 -
表銀座からの小槍。右は北鎌尾根、ガリーに残雪
三俣蓮華付近雪田群落。
- 29 -
諸連絡
1.会報 60 号の原稿募集について
会報 60 号の原稿を募集しています。論文、短報、地理授業紹介、巡検記録、エッセイ、文献紹介
など奮って投稿してください。投稿される原稿は、テキスト形式、マイクロソフトワード、一太郎、
などによって B5 用紙、行数 34、一行 43 文字のフォーマットで、8 枚以内を電子メールや CDROM で
送ってください。写真や図表も可能ならデジタル形式でお願いします。締め切りは平成 25 年 8 月末
日とします。
2.地理教育部会案内
地理教育部会では地理教育の研究会・巡検などの活動を行っております。地理教育研究のための
例会は、毎月第2土曜日に主に附属天王寺中学校で行っております(3、 8 月は休み)
。教材研究・
資料交換・指導方法の研究などを、各例会において1~2名の発表をお願いし、それをもとにした
討論をおこなっております。最近ではパソコン利用の情報交換も行われております。巡検も定例化
され、年間3回程度行っております。また Web(http://chirikyouiku.net/)上での活発な議論もあり
ます。 地理教育部会の活動についてのお問い合わせは、下記までしてください。
奈良芳信 自宅 072-853-4743
3.会費納入についてのお願い
本号に会費納入用の振替用紙を同封します。平成 24 年度の会費(2000 円)を同封の振替用紙(振
替 00940-6-49251 大阪教育大学地理学会あて)
で納入してくださいますよう、
お願い申し上げます。
4. 平成 23 年度(2011 年度)学会役員
会長(教官)
・・・・・正木久仁
顧問(元教官)
・・・・前田昇、守田優、石井孝行
理事(教官 3 名)
・・・・辻本英和(会計監査)
、山近博義、山田周二(総務)
、水野惠司・今里悟之
(編集)
理事(卒業生 2 名)
・・磯高材、奈良芳信
理事(学生 3 名)
・・・・委員長(学部)
:井上彰信 委員(院)
:山内省吾、会計(学部)
:矢野啓
太
学生委員(4 名)
・・・・四回生:小田悠子、山本あずみ、 三回生:廣瀬圭一、長谷川詩織
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5. 平成 24 年度(2012 年度)学会役員案
会長(教官)
・・・・・・正木久仁
顧問(元教官)
・・・・・前田昇、守田優、石井孝行
理事(教官 3 名)
・・・・辻本英和(会計監査)
、山近博義、山田周二(総務)
、水野惠司(編集)
理事(卒業生 2 名)
・・・磯高材、奈良芳信
理事(学生 3 名)
・・・・委員長(学部)廣瀬圭一: 委員(院)
: 萱村晋也
会計(学部)
: 長谷川詩織
学生委員(4 名)
・・・・四回生:原田達也、下村直大
三回生:青木友秀、江口光一
6.地理卒業生就職先、進学先一覧
〔教員養成課程〕
井上彰信(本学大学院)
、上田和佳(大阪市小学校)
、遠藤充建(本学大学院)
、小田悠子(本学大学
院)
、勝田研介(大阪市小学校)
、河原仁志(未定)
、田中千恵(大阪府小学校)
、中西俊輔(大阪府
小学校)
、根井玲英奈(未定)
、矢野啓太(未定)
〔大学院〕
黒田翔(大阪府小学校)
、浦崎裕太(附属天王寺高校)
、増田彩(大阪府高校)
、山内章弘(大阪府高
校)
〔教養学科〕
小谷博昭(代々木ゼミナール)
、櫻井葉子(尼崎市役所)
、平田七江(ローソン)
、益永雄太(大阪府
中学校)
、宮崎しおん(フジクリーン工業)
、山本あずみ(啓林館)
、山本恵利加(がんこフーズ)
〔第二部〕
有田智也(大阪市小学校講師)、鈴木孝博(大阪教育大学科目等履修生)
、濱田尚久(小学校講師)
7.編集後記
今年度 59 号はホームページ上でも見ることができます。アドレスは以下の通りです。
http://www.osaka-kyoiku.ac.jp/~shakai/chiri/kaihou/kaihou59.pdf
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