1 100年戦争の背景(出典:ウィキペディア) 1. ペスト 14世紀の大流行

100年戦争の背景(出典:ウィキペディア)
1. ペスト
14世紀の大流行
中世ヨーロッパにおけるペス
トの伝播472年以降、西ヨーロ
ッパから姿を消していたが、
14世紀には全ヨーロッパにま
たがるペストの大流行が発生
した。当時、モンゴル帝国の
支配下でユーラシア大陸の東
西を結ぶ交易が盛んになった
ことが、この大流行の背景に
あると考えられている。1347
年10月(1346年とも)
、中央ア
ジアからイタリアのシチリア
島のメッシーナに上陸した。
ヨーロッパに運ばれた毛皮に
ついていたノミが媒介したと
される。
1348年にはアルプス以北のヨ
ーロッパにも伝わり、14世紀末まで3回の大流行と多くの小流行を繰り返し、猛威を振るっ
た。全世界でおよそ8,500万人、当時のヨーロッパ人口の三分の一から三分の二、約 2,000
万から3,000万人が死亡したと推定されている。ヨーロッパの社会、特に農奴不足が続いて
いた荘園制に大きな影響を及ぼした。
1377年にベニス(ベネツィア)で海上検疫が始まった。当初 30日間だったが、後に40日に
変更された。イタリア語の40を表す単語からquarantine(検疫)という言葉ができた。
イギリスでは労働者の不足に対処するため、エドワード3世がペスト流行以前の賃金を固定
することなどを勅令で定めた(1349年)ほか、リチャード2世の頃までに、労働集約的な穀
物の栽培から人手の要らないヒツジの放牧への転換が促進した。
2. ジャックリーの乱
ジャックリーの乱(Jacquerie) は、1358年に百年戦争中のフランスで起こった大規模な農
民反乱。反乱の名前は当時の農民を貴族が指すときの蔑称ジャック(Jacques)に由来すると
され,それは当時の農民が短い胴衣 jaques を着ていたことに由来する[1].当時の年代記
1
作者によって、当初、指導者名がジャック・ボノムと誤って伝えられたことに由来すると
いう異説もある。
1358 年 5 月 末 に サ ン = ル ー = デ ス ラ ン 村
(Saint-Leu-d'Esserent) の事件をきっかけと
して始まり、ピカルディ、ノルマンディー、シ
ャンパーニュなどフランス北東部で広範に発生
した。叛乱した農民たちはそれぞれに指導者を
選んで破壊や略奪行為に及んだが、その全体を
統率したのがギヨーム・カルル (Guillaume
Carle/姓はカール Kale、カイエ Caillet、カ
レ Callet ともいわれる) であった。
カルルは、
パリで叛乱を起こしたエティエンヌ・
マルセルとの共闘を目指したが、カルル自身は 6月10日にナバラ王シャルル (Charles le
Mauvais) に敗れ、処刑された。カルルの処刑のあと、反乱は急速に鎮静化に向かった。
この反乱の原因は、農民の窮状とそこから発した領主への不満に求められることが多いが、
参加したのが農民だけでなかった点などから、単なる農民反乱の一種と見るべきではない
といった指摘も出されている[要出典]。
領主による農民を保護する機能の低下が反乱の底流として指摘できよう.すなわちこの乱
は,農民の自己の共同体慣行と文化,日常的生存を守ろうとする自衛の蜂起であり,領主
権力の衰退と農村共同体の自立(成長)の反映と見ることができる[2].
3. エティエンヌ・マルセル
エティエンヌ・マルセル(Étienne Marcel, 1315年 - 1358年)は、フランス王国の市民指
導者、パリ市長。百年戦争の間に一時的にパリを支配下に置いた。後世からは「中世のダ
ントン」と呼ばれる。
生涯
衣類商の一族に生まれ、祖父の代には商圏は全ヨーロッパにまで広がっていた。父の没後
の1333年から自身も一族の商売に携わり、1350年からはノートルダム大聖堂の参事会長に、
そして1354年からは実質的なパリ市長の地位である「パリ商人頭」になった。
当時のフランスは百年戦争のさなかにあったが、フランス国王ジャン2世は対英戦費調達の
ために三部会を1355年に招集した。この際に、エティエンヌは国王と対立的な立場をとり、
税収を管理する委員会の設置を提案した。
1357年にジャン2世がポワティエの戦いで捕虜とされると、エティエンヌは租税徴収・軍隊
召集・休戦調印などに関して三部会の承認の必要性などの国政改革を骨子とする「大勅令」
の作成に中心的役割を果たす。この際に、
「大勅令」の尊重を拒否する王太子兼摂政のシャ
ルル(後のシャルル5世)と対立し、王位を狙っていたナバラ王カルロス 2世(エヴルー伯
2
シャルル)がアルルの城から脱獄するとこれと協力して、王太子の追い落としを図った。
王太子シャルルがパリを離れると、エティエンヌはパリの防衛を固めるとともに、 1358年
にはジャックリーの乱の指導者ギヨーム・カルルと提携した。しかし、この反乱が6月に鎮
圧されると、エティエンヌの人気と勢力は瓦解し、フランドルやさらには敵国であったイ
ングランドの支援をも求めようとしていた。最期の時期には、当初の目的意識から外れて、
自身の保身のためにフランス王を望むナバラ王カルロス2世の利益を支援したといわれる。
7月にカルロス2世を迎え入れる準備をしている時に守備隊長の1人に暗殺された。マルセル
の一党は逮捕され、王太子シャルルがパリに招きいれられた。
4. ワット・タイラーの乱
ワット・タイラーの乱(Peasants' Revolt, Great Rising)は、1381年にイギリスで起きた
農民反乱である。指導者は、神父のジョン・ボールや屋根屋のワット・タイラー。 また起
きた年が1381年であることから単に「1381年の農民反乱」と言われることもある。 前代未
聞の規模の反乱であったが、どこまで組織化された反乱であったかは分かっていない。
反乱の背景には、まず1338年に始まる百年戦争がある。
この戦争が長期化するにつれ、イギリスの国家財政は
大幅な赤字を抱えた。これに対処すべく、王は農民に
対し人頭税などの課税強化を行った。
次に、当時黒死病と呼ばれたペストが大流行したため、
労働力不足に悩んだ領主が農民の移動の自由を奪い
農奴制を強化していった。
これらの背景から、農民の反乱が急速に拡大し、指導
者のワット・タイラーはケント地方から徒党を組んで
ロンドンに向かい、ついにはロンドンを占領した。反
乱集団は土地証書を焼却し、カンタベリー大司教兼大法官であった サイモン・オブ・サド
ベリーを殺害するなど暴力行為を行った。
反乱軍は、リチャード2世に謁見を求めた。1回目にロンドン郊外のマイル・エンドで行わ
れた会見では、国王が農奴制廃止や反乱参加者への恩赦など反乱軍の諸要求を全面的に認
める姿勢を示したため、一部の勢力は反乱から離脱した。しかし、引き続き会見を求めた
勢力と2回目の会見がスミスフィールドで行われ、さらに教会財産の分配などを要求した。
この際、王の傍にいたロンドン市長ウィリアム・ウォルワースがタイラーを斬りつけ殺害
してしまった。その後、国王は反撃に転じ、ジョン・ボールなどその他の指導者も相次い
で絞首刑にされ、反乱は鎮圧された。
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