1 奈良学ナイトレッスン 平成26年度 第4夜 ~ わたしたちの聖地、吉野

奈良学ナイトレッスン 平成26年度 第4夜
~ わたしたちの聖地、吉野 ~
日時:平成 26 年 7 月 30 日(水)
19:00~20:30
会場:奈良まほろば館 2 階
講師:池田淳(吉野町教育委員会 主幹学芸員)
内容:
1.天女が舞い降りる場所
2.大和国で2番目に「正一位」となった神社
3.川底から潮水が湧く
4.吉野はなぜ聖地に見えるのか
5.聖地は私たちの暮らしの近くにある
1.天女が舞い降りる場所
聖地という言葉、なかなか概念の難しい言葉です。神仙境、仙境、いろいろな言い方も
あるようですが、今回は聖地という言い方でお話を進めていこうかと思います。
吉野という場所が、古代、例えば『万葉集』や『懐風藻』が作られた時代に、聖地、な
いしは神仙境であると考えられていた。これはいろいろな文献を読んでみるとほぼ間違い
ないでしょう。例えば、吉野といって最初に出てくるのは「よき人の
しと言ひし
芳野よく見よ
よしとよく見て
よ
よき人よく見」という有名な天武天皇の万葉歌です。
これは、天武天皇が皇后の鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)を連れて草壁皇子
を始めとする6人の有力な皇子を集めて、吉野宮で盟約を結んだ。「お前たちはそれぞれ、
親を異にする者もいるけれども、これからは皆私の子どもと同じ。仲良くしなさいよ」と
胸襟を開いて言った。
その時に、「よき人のよしとよく見てよしと言ひし」、いいところだと言った吉野をよく
見なさいよ、と。つまり、この「よき人」は誰かというと、さらに前の天皇である雄略の
ことではないかという説がありますが、
「見なさいよ、6人の皇子たちよ」という歌い掛け
をしたものだろうと言われている。
つまり、非常によいところだ。それが、吉野という地名、まさに「よき野」であるとこ
ろからもご了解いただけるだろうと思っております。
さらに『万葉集』を見ていきますと、仙柘枝(やまひとつみのえ)の歌三首というのが
出てまいります。
あられふり吉志美(きしみ)が嶽(たけ)を険(さが)しみと草とりはなち妹(いも)
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が手を取る(『万葉集』巻三・385)
という歌があって、二首歌が続いています。
これは、吉野川に住んで暮らしていた美稲(うましね)という漁師が、吉野川で梁(や
な)を、つまり漁をしていたら、その梁に美しい柘枝(つみのえ)がかかった。これを手
にとってみたら、なんと、木の枝が天女に変身した。江戸時代の名所図絵である『西国三
十三所名所図会』には、柘枝(つみのえ)と美稲(うましね)が描かれています。あばら
屋風のところに腰蓑を着けて座っているのが美稲。枝の中から煙とともに出てきたのが天
女の柘枝ということになっております。
これは典型的な日本の天女伝説の形をとっています。天女が舞い降りてきて、そこで水
遊びをしている。天女が降りてきて、山へ行きました、という話はないので、基本的には
水遊びをする。羽衣伝説はたいがいそうですね。水遊びをするから、羽衣を脱ぎ、それを
取られて天に帰れなくなったというシチュエーションが一般的です。
柘枝の物語がその後どうなったのかは、『万葉集』からだけではよくわかっていません。
一首目、「あられふり吉志美が嶽を険しみと」の歌は、「吉志美が嶽」のところを「杵島山
(きしまやま)」に換えて、『肥前国風土記逸文』に同じ歌が載っています。杵島山は、歌
垣で有名な場所です。従って、男女の求愛の歌だろうと考えられますから、2人は結ばれ
たという解釈が昔からされています。
『西国三十三所名所図会』は江戸時代になって作られたものですけれど、あばら屋は美
稲の家で、ここへ連れてきた、というお話になっています。
同じような内容が、
『懐風藻』に収められた紀男人の「吉野川に遊ぶ」にあります。こう
いう万葉歌や『懐風藻』があるということは、吉野は天女が舞い降りてくるにふさわしい
場所だと古代には信じられていた。『万葉集』では歌の後の但し書きに、「但し、柘枝伝を
見るに、この歌あることなし」と書いてありますから、柘枝伝という物語まで作られてい
たことがわかる。つまり、
『万葉集』の編纂当時にはそういうものがあった、あるいは、確
認をした、ということになりますから、それほど有名な天女伝説だったはずです。
最初に結論を言ってしまったようですけれども、吉野は古くから神聖な場所、聖地であ
るということは、古代の人々にとっては、
「なるほど吉野ならば」と思われていたのでしょ
う。
それでは話が終わってしまいますので、今回は皆さんに、なぜ聖地なのか、ということ
をお話していきたい。
聖地、神仙境の話は、なぜそうなのかという解明が難しい。もちろん、いろいろな要因
はあるのだろうと思います。私が住んでいる家が聖地になることはあり得ないことですね。
何か他と違っている、このことが吉野を神仙境だ、聖地だと人々に信じさせた。そこのと
ころを今回、お話したいと思います。
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2.大和国で2番目に「正一位」となった神社
私ども吉野町にお越しいただくには、いろいろな方法がありますが、近鉄の大和上市駅
から入るのが一般的です。近鉄の終点から2つ前の駅です。そこでは、ちょうど吉野川(紀
ノ川)と出合うことになります。
航空写真で大和上市駅のあたりを見ますと、吉野川の流れが真っ直ぐに流れている。皆
さんも吉野を訪れたときに上市から吉野川を見ていただくと、非常に面白いことがわかり
ます。
大和上市あたりから吉野川に向かって立っていただくと、何本も橋が架かっているのが
見えます。どの橋でも結構です。一番上流が桜橋、上市橋、吉野大橋、美吉野橋、見える
範囲に3つ4つ並んでいる。どれかの橋の真ん中に立って、上流を見て、下流を見て、
「な
るほど」と思っていただける景観に出合っていただけると思います。
下流を見ると、吉野川がとうとうたる大河に見えます。上市あたりから下流を見れば、
川が真っ直ぐに流れているわけですから、ずっと向こうまで流れているのが見える。おま
けに川幅も比較的広くて、川原も形成されている様子がよくわかります。
『万葉集』ではこの真っ直ぐに流れるあたりを「六田(むつた)の淀(よど)
」と詠んだ。
淀というのは水が淀んでいる、ゆっくり流れているということだと思いますから、「うま
い!
さすが万葉歌人」です。
ところが上流を見ると、山の中に川が吸い込まれて、消えていくように見えてしまうの
です。少し上流に大名持神社の社叢の森が川の真ん中に立って、上流はそこで川が途切れ
ているように見えます。
大名持神社の社叢の森こそ、歌舞伎や人形浄瑠璃のお好きな方ですと、
『妹背山婦女庭訓
(いもせやまおんなていきん)』の山の段の雛鳥さんのお屋敷があったほう、と言うと、
「あ
そこね」と思っていただけると思います。
地図でも確認できますが、上市から上流を見たら、大名持神社のところで吉野川が大蛇
行をしています。というよりは、吉野川はもっと南から流れてきて、上市の上流あたりで
急に真っ直ぐ流れ始めるということなのです。
大蛇行をしているために、吉野川の上流に行くと、妹山がどんと鎮座している。つまり
ここだけ見ると、ぶちっと川が途切れたように見える。
さらに大名持神社から上流を見てみると、それまで真っ直ぐだった吉野川が蛇行を始め
るのです。これは私だけが気がついたのではなく、松本清張さんの遺作になりました『神々
の乱心』という作品があります。その『神々の乱心』にこう書いてあります。
宮滝遺跡を東へ過ぎると吉野川は急激な曲りで蛇行していた。県道も宮滝で二つに
分れ、一つは北上して大宇陀から榛原方面へ行き、あとの一つは南下して川上村を通
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り、紀州の熊野路へ向かう。タクシーの運転手は前者の道を走った。
急なカーブをくりかえすこのへんの吉野川は、南北から突き出る山地に挟まれた渓
谷で、道も川岸に沿っている。おりから深山の植物は紅葉が早く進み、渓流にそれが
映えてうつくしかった。(松本清張『神々の乱心』)
これはかなり始めの方にある一節です。宮滝を東に過ぎると、道が二手に別れていて、
前者を通った。川に沿って「急なカーブをくりかえす」というこの表現。これは、まさに
その通りです。つまり、吉野川が、大名持神社を境にして上流と下流で全く違う様相にな
ってくる。
元禄9(1697)年刊行の貝原益軒『大和めくりの記』に、
上市より下ハ河のわたり広し上市より上ハ両山の間を流れて河のわたりせハし、両山
おくの方甚高し、山間に淵多し
つまり、両側に山が迫っていて、この山がだんだん険しくなっていく。「山間に淵多し」
というふうに書かれております。
貝原益軒は、江戸時代の本草学者です。本草学を勉強していますから、いろいろなとこ
ろを旅行するわけですね。そして地誌を書きます。
『大和めくりの記』では、こういう記載をしている。なるほど地図の通りだと、ご了解
いただけると思います。
つまり、大名持神社のところで吉野川の様相は一変する。一変するところにある大名持
神社は、古代史がお好きな方はよくご存知の延喜式内社。
『延喜式』神名帳という資料があ
ります。神名帳には、
『延喜式』が編纂された当時の古社、神威があらたかであるとされた
神の各座が書かれている。私ども吉野郡でいうと、吉野郡十座となっており、大社が五つ、
小社が五つ、全部で十座ある。
吉野水分(よしのみくまり)神社、吉野山口神社、大名持神社、丹生川上(にうかわか
み)神社、金峯(きんぷ)神社、高桙(たかほこ)神社、川上鹿塩(かわかみかしお)神
社、伊波多(いわた)神社、波宝(はほう)神社、波比売(はひめ)神社、これだけある。
この中で大社が、吉野水分神社、吉野山口神社、大名持神社、丹生川上神社、金峯神社
だと書かれています。
特に、大名持神社と丹生川上神社と金峯神社は、名神大社(みょうじんたいしゃ)であ
ると。古来、たいへん神威あらたかな神社であると知られている。
吉野水分神社は、吉野山蔵王堂を過ぎて、さらに山を登って上のほうに行くと、たいへ
ん美しい神社があります。なぜ美しいかというと、この前、屋根のご修理が終わったとこ
ろだからです(笑)。
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山の中で屋根が檜皮葺(ひわだぶき)ですから、管理にはご苦労をされていらっしゃい
ます。檜皮は年を経ますと、腐葉土と変わらなくなってしまう。そこへ山からいろいろな
植物の種が飛んでくる。腐葉土と化した屋根で、ぽんと発芽していくのですね。吉野水分
神社さんは、毎年屋根のお掃除といって、屋根の上にあがって、引き抜くと穴が空いてし
まうので、パチンパチンと切っていく。しかしどうにもならなくなって、この前、ご修理
が終わったところです。まだ今ですと、きれいな姿でご覧頂くことができます。
吉野山口神社は、龍門岳の麓にあります。古くは、吉野山の勝手神社が吉野山口神社と
言われていましたが、今日では、この龍門山の麓にある吉野山口神社が『延喜式』神名帳
に載る吉野山口神社であろうと考えられております。
丹生川上神社は、現在、上、中、下の三社ありまして、どれかというのが問題になって
おります。いろいろな学説があり、それぞれになるほど、と思わせる理由があります。
丹生川上神社の上社、今の吉野郡川上村にあるものは、ダムができる関係で、社殿が上
へ移されました。その時に発掘調査をしたら、平安時代の初めごろまで、同じ方向に向け
て、同じ規模の社殿がずっと建っている。発掘調査を担当された方が、社殿のところに立
って対岸を見てみたら、対岸の川岸のところに巨大な露頭があった。つまり、依り代のよ
うな大岩があったのです。この大岩と社殿を結ぶ線の延長線上を見ると、円錐形の山が見
えた。かつ、社殿の下の川の石が赤茶色に変色していた。これが丹生(にう)、水銀をイメ
ージさせる赤茶色。色からするとそうなのです。結果としては、そうではないのですが(笑)。
ここは、炭酸塩泉が湧いている、つまり、地中の鉄分が酸化するのです。それが浸みだし
てくるので岩が赤茶色に変色するのです。
今は、成分分析をするからわかるわけで、川に赤い土がついているというのは、当然、
当時としては丹生と信じさせるに足る。それが平安時代初期からということになると、人
が祀る場所、露頭、つまり依り代があって、その先に円錐形の山、これは神奈備に見える、
という話になります。
丹生川上神社の中社。本殿の中に丹生社と書かれた平安時代の古い灯籠があります。丹
生社と書いてあるわけですから、平安時代には丹生社なのです。なるほど、これもしかる
べし。という話になって、今のところ、どれがというのは、よくわかっていません。これ
は判断が難しいところだろうと思います。古代史がご専門の先生でもご意見が分かれてお
ります。ですから、これ以上、私は立ち入らないことにしておきます(笑)。
金峯神社は吉野町の水分神社のさらに上にあります。高桙神社は、山口神社の横にお祀
りをされています。川上鹿塩神社は、樫尾という集落が宮滝の上流にあり、そこにあった
神社であろうと比定されています。あとのものは、吉野町からは少し外れておりますが、
吉野郡内にある神社です。
式内社の大名持神社は、現在の大名持神社に比定されて、多くの皆様が間違いなくここ
だろうとおっしゃっています。吉野郡に五つしかない大社で、名神(みょうじん)とされ
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た大社の中の一つだと。『日本三代実録』の貞観元(859)年正月27日の記事ですが、
各地の神様の神階を進めたことがあります。その時に、
「大和国従一位大己貴神正一位に叙
す」。つまり、それまで従一位だったのを正一位にした。
神様にも位があります。私たち人間にも、特に私は公務員でありますから位がございま
す。今、比較的下のほうです(笑)
。神様も神階というのがあって、人間に功徳をしてくだ
さると、神様の位が進んでいきます。
一番上が正一位です。次が従一位、その次が正二位、従二位、正三位、従三位。そこか
らは上下に分かれて、正四位の上、正四位の下、従四位の上、従四位の下と続きます。
この時に、大名持神社が正一位になったということは、ひとつ手前の従一位には、貞観
元年以前の段階でなっていた。これが正一位になった。正一位というと、お稲荷さんによ
く立っている幟にありますね。私どもの大名持神社が正一位になったのは、貞観元年です
から、かなり古く、早くになっている。
どれくらい早いかというと、大和国一宮になる大神神社の大物主の神が正一位を授けら
れるのが貞観元年2月1日です。つまり、大名持神社より数日遅れる。逆に言ったら、大
名持のほうが三輪山より早く正一位になっている。
「大和は国のまほろば」というくらいで、
古社がたくさんあります。例えば、三輪山、石上(いそのかみ)、葛城のほうにもたくさん
古社があります。それらを抑えて大名持神社が正一位になった。貞観元年正月27日以前
に正一位の位を貰っているのは、奈良県内では春日さんだけなのです。つまり、二番目に
正一位になっている。並み居る名神を押しのけて。
吉野川の大蛇行が始まる瞬間に鎮座する神様が、大和国で二番目という早さで神階正一
位をもらっているという話です。
3.川底から潮水が湧く
ここまで吉野川の話をして、何を言いたいかというと、この曲がり角の意味。曲がり角
の神様の神階が、非常に早くあがっていくことを考えると、何か意味があるのではないか、
と考えられる。つまり、曲がり角に意味があるのではないか。
それほど神階が早くあがった大名持神社の名前を、実は私ども吉野に住んだ人たちは、
室町時代になるとけろっと忘れてしまいます。
『大頭入衆日記(おおとうにゅうしゅうにっ
き)』という奈良県の指定文化財を見ると、大汝神主(おおなんじかんぬし)とある。大汝
という宮の名前に変わってしまうのです。地元の人は皆、あれは大汝宮だと。江戸時代の
灯籠を見ても、ほとんどは大名持神社とは書いてありません。大汝宮とあります。
江戸時代の『大和名所図会』などは、大名持神社と漢字では表記していますが、わざわ
ざ「おほなんぢ」とルビを振っています。同じく江戸時代の地誌である『大和志』は「オ
ホナンヂ」とルビを振っています。つまり、漢字では確かに大名持と書いたのでしょう。
ところが、地元の人に何と読むか聞いてみると、
「おおなんじのみや」ですと。大名持とい
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うのは、
「おおなんじ」とは読みにくい。ところが地元の人は、見事に式内社の名前を忘れ
て、「おおなんじのみや」だと言っているのです。「おおなんじ」とは何か。
戦国時代、ポルトガルからたくさんキリスト教の宣教師が来ます。人々にキリスト教を
伝道するためには、自分の言っていることを日本語に訳して伝えなければいけない。する
と辞書が必要になる。日本語とポルトガル語の辞書が作られる。この辞書が『日葡辞書』
で、慶長8(1603)年から9年頃に作られたと考えられています。室町末期の日本語
を調べる上では非常に重要な辞典です。ところが残念なことに、私はまったくポルトガル
語には堪能ではないのです。何が書いてあるのかわからない。そうすると、偉い方がいら
して、辞書をまた邦訳してくださる。そこを見ると、「Nanji」が出てきて、意味は、「難
き事
危険な、すなわち厄介な事」だと書いてある。つまり、大汝宮というのは、どうや
ら「やっかいな宮」という名前になっている。
何がやっかいなのだろう。何が危険なのだろう。大汝宮が鎮座している場所こそ、吉野
川が蛇行し始めた瞬間なのです。蛇行して川が淵を作っていきます。当然、淵がある所は
危険だということになります。
大名持神社の上流にある宮滝の大蛇行。多少足元が濡れることを前提に吉野川に入ると、
今でも「南無阿弥陀仏」という名号が刻まれた石を見ることができます。これだけの蛇行
です。筏流しの人たちが失敗をすると、大惨事になる。何人もの筏乗りたちがここで亡く
なったということで、そこに名号が刻まれているのを見ることができます。吉野川上流は
危険な場所が続くのです。
大名持神社というたいへん素晴らしい古名は、室町時代になると忘れ去られて、危険な
宮=大汝宮という名前が定着をしてくる。おまけにこの大汝宮の下には大きな淵がありま
した。それが潮淵(しおぶち)、潮生淵ともいいます。
潮淵については、『大和志』に出てくるものが一番古い。
大名持神社在妹山属河原屋村、域内有大海寺、社前有潮生淵毎歳六月晦日潮水涌、涌
故名(『大和志』)
潮淵は、潮が生まれる淵です。毎年6月の晦日になると、ここに潮水が湧くと『大和志』
には書かれています。ところが、潮水が湧くのは、6月の晦日だけではありません。ほぼ
恒常的にいつでも湧いていた。
民俗学的には、ここが特別な場所だと表すためにはよくある事例です。任地のことです
から、ここを調査しました。
あるおじいさんに出会って、いとも簡単に私に、
「あそこは潮が湧いているよ」と言いま
す。「え、そうなんですか?」「うん。あそこは、潮淵という大きな淵がすり鉢型になって
いて、子どもの頃からそこに泳ぎに行く。下に川藻がたくさん生えていて、そこに小魚が
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いっぱい泳いでいる。子どもの頃は楽しかった。一番楽しいのはね……」と、教えてくれ
たのです。
小石を持ってそこに泳ぎに行く。淵の真ん中あたりに行って小石をぽとんと落とす。小
石が沈んでいく。そうすると下から泡がわいてきて、その時に口を開けていると、顔に泡
があたり、いくつかは口に入る。そうすると、サイダーのような味がした。塩からかった。
だから、あそこは潮が湧いているよと言う。
私はこの話を聞いたときに「ん?」と思いまして、それから、この周辺で水が湧いてい
るところ、温泉の調査をしたのです。そうしたら、このあたりの温泉は全部炭酸塩泉でし
た。湧いていたのは、潮水ではなく、炭酸塩泉。海の水ではないけれども、やはり、塩か
らかった。塩からい水が湧いていた。
だから私に教えてくれたおじいさんは、いとも簡単に「ずうっと湧いているよ」という
ふうに言ったわけです。そういう淵があった。
つまり、本当は真水で味わうことができない塩分が味わえる淵、これはあってはならな
いことだと考えられた。
吉野川上流域の温泉の塩分はかなりきつい。例えば、津風呂湖(つぶろこ)温泉があり
ます。それから中荘(なかしょう)温泉、宮滝温泉、入之波(しおのは)温泉。入之波温
泉に至っては、江戸時代の記録によれば、
「泉の味鹹(か)らし」と記録されているほどで
すし、今でも吉野に来てこの温泉に泊まっていただくと、翌朝の朝食は白粥です。この白
粥は、温泉で炊いている。そうすると、見事に塩味の粥になるのです。とても美味しいで
す。私は一度食べさせてもらったことがあります。泊まっていないのですけれど(笑)。
それを考えると、吉野のこのあたりの塩分はかなりきつい。真水の川の中できつい塩分
の湧く場所、これも不思議な場所です。だからそれは、危険な宮にふさわしい場所だとい
う話になる。
江戸時代になると、吉野の方はまったくしないのですが、大和盆地の皆さん、例えば明
日香村、桜井市、宇陀市、橿原市あたりの皆さんがお祭をする時に、ここに禊(みそぎ)
にくるのです。潮水だから。
『大和名所図会』の妹背山と書かれたところをよく見ると、妹山の前の川原に入り込ん
だ淵があります。
「汐ふち」と書かれた大きな淵があります。それを何人もが見下ろしてい
る様が描かれています。この潮淵(しおぶち)は吉野の方にとっては全く関心のない淵な
のです(笑)。なぜならば、ここで禊をしないから。
吉野では、潮淵で石を拾ってはいけない。間違って拾ってしまったら目が潰れるから、
後ろ向きに捨てなければいけないと言われています。これも、神聖な場所の裏返しの条件
の一つなのだろうと思います。逆に、明日香村や橿原の宮座(神社の祭祀組織)の人たち
は、お祭りの前にここで禊をする。
今でも伝えられているところで言うと、奈良県橿原市の膳夫という集落がありますが、
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その皆さんの古い写真が残っています。潮淵で水を汲んで、石を拾い水を汲んで帰ってく
る。自分たちの集落に戻って、村の小川の上流にこの吉野川の水を流す。流したら、下流
に行って裸になり、川に浸かるのです。そうすると、皆が吉野川の潮水で禊をしたのと同
じことになる。
さすがにもう裸になって水に入ってはいませんが、今でもこの集落では、お祭りの最初
の時には、潮淵で汲んできた水で手を洗ってから神事が始まります。
石舞台古墳に近い明日香村の阪田という集落では、お祭りの前に潮淵から拾ってきた石
を湯釜の中に入れて、湯たて神事をします。湯たて神事はご存じですよね。湯を沸かして、
神主さんか巫女さんがその中に笹を一度入れてから振る。これはまさに禊です。それはな
ぜ?
潮淵の石だからです。潮水に洗われた石だからです。
残念なことに、潮淵は見られなくなってしまいました。伊勢湾台風の時に消滅してしま
ったのです。しかも、地元の方にあまり関心がなかったので、映像・記録が残っていない。
地元に写真がない。潮淵を記録した画像は、
『大和名所図会』しかないのです。非常に貴重
な絵でございます。
ここまでの話で何を言いたかったかというと、古代から、この潮淵の曲がり角はちょっ
と大事な場所だと思い続けられていた。古代の人にとっては、それが神階正一位という形
で現れてくるし、室町時代の人にとっては、大汝宮の所在地ということでそれが意識され
ている。
そこは、吉野川の流れが急に変わって、危険になって、真水の吉野川なのに潮水が湧く
場所という不思議さも相まって、人々にこの場所は覚えておかなければならないという場
所になっていった。従ってこの曲がる瞬間が、吉野川を考える上では非常に重要になって
くるのだろうと思います。
松本清張さんが書いて、貝原益軒が書いた吉野川の様相の変化というのは、単に景色が
変わっただけではなくて、古代には、その変わったことによって、人々に何らかの啓示を
与えたのだろうと私は考えております。
4.吉野はなぜ聖地に見えるのか
古代の人たちは、柘枝姫(つみのえひめ)が天女として舞い降りてきたような場所だと
言ったのですから、そう見えたのです。なぜそう見えたのか。
吉野川の流れが一変する、それだけなのだろうか。松本清張さんも貝原益軒も書いてい
ますけれども、山がだんだん高くなる。その通りなのです。
『大和名所図会』を見ると、妹背山より下流では川がまっすぐ流れています。そこの吉
野川の流れは低く描かれている。ところが同じ『大和名所図会』で、宮滝のところを見る
と、吉野川の流れがきつく描かれているのです。そして貝原益軒が言っている通り、淵が
多くなります。淵が多くなった吉野川を、古代の人々がどう見ていたかということを考え
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てみたいと思います。
『懐風藻』に載っている丹治比廣成(たじひのひろなり)という方の漢詩です。
高嶺嵯峨奇勢多く、長河渺漫廻流を作(な)す。
鍾池超潭凡類を異にし、美稲(うましね)が仙に逢ひしは洛州(らくしゅう)に同(お
や)じ。
この漢詩の前段、「高嶺嵯峨奇勢多く、長河渺漫廻流を作す」は、意味としては、「吉野
の山々は険しくそばだって変化に富み、吉野川は限りなくとうとうと流れ、あるいは曲が
りくねって流れている」。廣成の表現は、両山の間を流れて、曲がりくねって淵を作って、
という貝原益軒が表現した景観とぴたっと合います。
宮滝の集落から見ると、吉野川を挟んで両方にきれいな山があります。宮滝から南を向
いて右側が象山(きさまや)、左側が三船山。象と書いて「きさ」と読む、日本では非常に
珍しい地名です。そう読むのは、この象山と象潟(きさがた)ぐらいしかないと思います。
もともと「きさ」とは「橒」という字らしく、象牙の模様なのだそうです。日本人は本
物の象を見たことがなくて、象牙だけ見ているので、象と書いて「きさ」と読むようにな
る。今の象山の山容が象牙の模様と同じに見えたのかもしれません。
象山の下を流れている小川を象(きさ)の小川と言います。小川の蛇行がきさに見えた
のでしょうか。
象山は、なかなか険しい山です。今は、山の麓に細い道がついていますが、その道から
下を見ると、川岸がありません。
宮滝の写真があります。川岸が屏風のようにそそり立っています。普通は川があって、
川岸があって、道路があって、集落があってとなっているのですけれども。宮滝のあたり
には川岸がないのです。
その上、川が蛇行して川に挟まれているように見える。衛星写真をごらんいただきます
と、三方を川に挟まれているように見えるということをご了解頂けると思います。そして、
山は険しい。『大和名所図会』に描かれた宮滝は、現在の景観とぴたっと合っていきます。
廣成は、宮滝の景観を見てか、伝え聞いてか、
「高嶺嵯峨奇勢多く、長河渺漫廻流を作す」
だと思ったのでしょう。それは、「鍾池(しょうち)超潭(ちょうたん)」と同じように、
「凡類」、ありふれた普通の景色とは違っている。だから、美稲が柘枝姫と会ったのは、
「洛
州に同じ」ことだと続けたのです。
『三国志』の英雄、曹操の五男に曹植という方がいます。お父さんは軍略に長けた方で
したが、曹植は、李白・杜甫以前における中国を代表する文学者。詩聖(しせい)といわれ
ているのだそうです。それくらい彼の詩は素晴らしい。
その人が、洛水のほとりで仙女と出会ったという詩があり、それを引用したのが「洛州
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に同じ」になります。
つまり、廣成の詩を見ると、「高嶺」山が高くて「嵯峨」険しく、「奇勢多く」変わった
景色が多いということになります。
「長河」は吉野川のことだろうと言われています。吉野
川は、「渺漫」川幅が広く大きくて、確かに、山の中の川としては川幅が大きい大河です。
だから江戸時代になると筏流しができる。
そして、
「廻流」蛇行している。まさに貝原益軒や松本清張さんが気づいた通りです。古
代の人たちもまた同じことに気がついていた、と考えてよいと思います。だからそれは、
「鍾池超潭」、中国で有名な淵や池だと同じように「凡類を異にし」、他の場所とは違う。
だからこそ、そこでは美稲が仙女と出会えたのだと歌っているということは、
「高嶺嵯峨奇
勢多く、長河渺漫廻流を作す」という景観こそ、人々をこここそ神仙境だと思わせた原因
になっている。この歌を素直に読む限り、そう考えていいと思っています。
ではどうして、
「高嶺嵯峨奇勢多く、長河渺漫廻流を作す」という地形ができたのか、少
しだけお話をしておきます。
『万葉集』や『懐風藻』の時代より遙か昔、一般的に地質学者の多くの方は5千万年前
と言っていますが、このあたりは大平原の一部でした。平原で、どうやら水際だったらし
い。平らなところに水が流れると、川が蛇行していきます。川が蛇行していきますので、
吉野川の上流域の蛇行の後は、非常に古い河道(かどう)が残っている。
平らなところに水が流れて、削られれば、上が平らになって残るのですが、そうはなっ
ていない。実はもう一つ要因がある。ここに、のちに中央構造線ができるのです。日本で
最大の断層の一つです。中央構造線ができたときに、それより南側、紀伊半島の真ん中よ
り南側は、中央構造線の外側になります。これは、中央構造線の西南日本の外帯といいま
す。ここは、今でも隆起しています。
つまり、
「高嶺嵯峨」として、山のほうがどんどん隆起してしまうのです。それも、地質
的にはかなりのスピードで隆起しています。地質学者の方によると、明治の測量図と比較
すると1センチくらい隆起しているそうです。だから、険しくなる。
実は、紀伊半島の南部は、山の稜線がずっと揃うのです。世界遺産になっている大峯奥
駈道(おおみねおくがけみち)のいくつかの山の頂上に行くと、川原の丸石が残っていま
す。紀伊半島の南部には、「紀伊山地の霊場と参詣道」という世界遺産がありますけれど、
時々、平らな平原が出現する。一番実感できるのは、高野山です。高野山に行くときは、
登るときはぐうっと登って行きます。登ってみると、あとは奥の院まで平らです。高野町
に入って、息を切らして歩いたという経験はないと思います。つまり、紀伊半島が平らだ
った頃の遙か遠い記憶なのです。
私ども、吉野・大峯の山上ヶ岳(さんじょうがたけ)もそう。大峰山寺がある上は、近
くにお花畑がある。どうして山の上にこんなに平らな所があるのだろうと思うほどです。
準平原というのだそうです。
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つまり、吉野川が大名持神社のあたりで中央構造線に出合うのです。中央構造線の両側
では地質が違うのですね。西南日本の内帯と外帯の異なった地質がぶつかっているわけで
す。地質が違うから、当然そこはもろくなる。もろくなったところを見てみたいとおっし
ゃるのでしたら、高見峠を越えた向こうに月出の露頭があります。この露頭、見事に地質
の色の違うところがきれいに見えます。まっすぐ中央構造線の線が見えます。早く見ない
と、たいへんですよ。なにせもろいところですから、どんどん崩れてくる。
中央構造線というのは、そういう大断層なのです。大きな地図で見たら、吉野川は上市
から下流はほぼ真っ直ぐに和歌山まで流れいきます。昔は、三十石船が通っていた。三十
石船といったら、大阪と京都をつないでいる船と同じです。そのぐらいの船が上下して行
き来するくらい緩やかな川になるのです。
この景観を産みだしたのは、中央構造線ということになるわけです。上流は中央構造線
に至る前ですから、古い河道がそのまま残った。おまけに上流になにがあるかといえば、
大台ヶ原があるわけです。日本でも最大の多雨の地帯です。みなさん、大台ヶ原の雨はす
ごいですよ。私も一度遭ったことがありますけれども、ずぶ濡れという状態ではないです
から。ほぼ、お風呂にそのまま浸かったという状態になりますから(笑)。半端じゃない。
南から湿気を大量に含んだ空気を海流がはこんで来て、紀伊半島の山地に近づくので、ど
んどん雨になって落ちていくわけです。すごい雨になる。その雨水が吉野川に流れ込むわ
けで、川はどんどん底を削っていきます。山は隆起しているわけですよね。当然、
「高嶺嵯
峨奇勢多く、長河渺漫廻流を作す」という地形になる。
この地形、景観を見て、古代の人々は、だから神仙境だ、聖地だというふうに考えた。
私はこういう条件はきちんと考えていかなければいけないと思っています。あそこは聖地
だ、神仙境だと言う。なぜそうなのか。それを考えていかなければならない。この廣成の
歌を読む限り、吉野は神仙境である、吉野は聖地であるということを古代の人々に考えさ
せた大きな要因は、高く険しい山々と蛇行する吉野川だろうと考えております。これで一
つ、最初の美稲と柘枝の話の結論が出るわけです。
とはいいながら、吉野のような景観は他にないか。他に比べるものがないほど変わった
景観か?
ということは、当然、考えてみなければいけない。富士山くらいですと、二つ
とない山ですから、なるほどね、という話になります。では、吉野のような景観が他にな
いのか。
私は実は、あるのではないかと思っています。ではなぜ、並み居る強豪の中から、吉野
が神仙境と考えられるようになったのか。このことを考えなければ、他のところはなぜ聖
地にならなかったのか、という結論が出てこない。
5.聖地は私たちの暮らしの近くにある
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『日本書紀』応神天皇19年10月条に、「今国樔土毛(いまくずひと)」という文章が
あります。私たち吉野町に国栖奏(くずそう)という芸能がありますが、この起源伝承に
なっているところです。国栖奏は、今でも毎年、旧暦正月15日にやっております。県の
無形民俗文化財になっていますので、機会がありましたらぜひ一度お越しください。私も
しばしば行っております。理由は2つありまして、指定文化財だから行くということと、
舞っておりますのはほとんど私の上司でございます(笑)。
国栖奏の起源伝承は、応神天皇が吉野を訪れた時の話です。
『日本書紀』応神天皇19年
を見ると、
今国樔土毛献る日に、歌訖りて即ち口を撃ち仰ぎ咲ふは、蓋し上古の遺則なり(中略)
其の土は、京より東南、山を隔てて吉野河の上に居り。峯嶮しく谷深くして、道路狭
く巘し、故に京に遠からずと雖も、本より来朝ること希なり。
(後略)
(『日本書紀』応
神天皇19年冬10月条)
「其の土(くに)は」は吉野のことです。
「京より東南、山を隔てて吉野河の上(ほとり)
に居り」これからも吉野という場所は、吉野川のほとり、つまり近くにあったとわかりま
す。「峯(みね)嶮(さが)しく谷深くして、道路(みち)狭(さ)く巘(さが)し」、こ
れはまさに「高嶺嵯峨」と同じです。
『日本書紀』の編纂者も吉野はそういう所だと思っていた。
「故に京に遠からずと雖も、」
ここは、下線を引いておきましたので、大事ですよという所です。
つまり、吉野は都から遠くないという話になっています。確かにそうです。当時の王権
の基盤の地は、飛鳥です。飛鳥と吉野は峠を隔てた背中合わせなのです。
神仙境とか聖地という特別な場所は、比較するものがなければいけない。どこと比べて
そうか、という話なのです。
飛鳥、広々とした平らな田園地帯が広がっています。伝飛鳥板蓋宮跡(でんあすかいた
ぶきのみやあと)のところに立って、周りを見る。この景観を頭の中に刻みつけた上で、
車を走らせて吉野に来ると、「やはり違うな」とおわかりいただけるだろうと思います。
伝板蓋宮跡に立つと、なだらかな所が広がっている。甘樫丘(あまかしのおか)は有名
な丘ですが、とはいいながら、登るのに息が切れるほどではない。あれは、吉野では丘と
言ってはいけない(笑)。その向こうにある雷丘(いかづちのおか)に至っては、明日香の
方がいらしたら怒られるかもしれないけれども、岩か?(笑)というくらいの話です。
つまり、飛鳥というのは平らで、だから、王権の経済的な基盤になるわけです。王宮を
建てるにせよ、稲作をするにせよ、非常に適した場所。それと隣り合わせにある吉野は、
「高嶺嵯峨」として、という話になってしまう。
山の次に川はどうか。飛鳥を代表とする川をどこに設定するかは難しいところですが、
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まずは飛鳥川というところだと思います。斉明天皇の時に、蘇我蝦夷が雨乞いをして失敗
したあとに、斉明天皇が雨乞いをする、そのお話の時に出てくるのが稲渕、飛鳥川の上流
です。飛鳥川は、単に農業用水だけでなくて、王権にとっても非常に重要な川であった。
この川と吉野川を比べてみましょう。まず、吉野川は蛇行をしている。飛鳥川もミニ吉
野川と言っていいほど蛇行している。全然違わない。ただ、飛鳥川を写真に撮る時に有名
なのは、飛び石ですよね。丸い飛び石が5つか6つあると、向こうに渡れる。それぐらい
の川です。
ところが吉野川は、丹治比廣成の言う通り「渺漫」としています。吉野川で飛び石と同
じくらいに置いたら、川岸の比較的近いあたりで落ちなければいけない。つまり、吉野川
は渺漫としているが、飛鳥川は渺漫としていないのです。
飛鳥川は飛び石で渡れるくらいです。
ここは大事なところです。つまり、飛鳥から来た人たちにとって、そこは見慣れた日常
的な景観とは非常に違う場所が、遠からぬところに広がっていた。一つ峠を越えたら、そ
の景観は、自分たちが日頃見知って、彼らの王権の基盤となる景観とは違っていることに
気がつくわけです。
となると、人々は、あの王権の基盤の地、比較的なだらかな丘陵が続く飛鳥、水量は豊
かで、蛇行はしているけれども、小さな細い小川である飛鳥川と違う世界が広がっている。
飛鳥が王権の地ならば、吉野は何だろう。我々が住む世界とは違う世界なのだから、吉野
こそ神仙境だ、聖地だという考え方が生まれてくる。
この応神天皇19年冬10月の、都に遠からずといえども、という認識は、吉野を考え
る上では、非常に重要な古代人の発言だろうと私は思っております。
最後に、新潟県西蒲原郡吉田町で採集された昔話、「ネズミ浄土」をご紹介します。「ネ
ズミ浄土」と言うとわかりにくいかもしれませんが、俗に言う「おむすびころりん」です。
もちろん皆さんご存じでしょう。
お爺さんがお婆さんに「今日は柴刈りに行って来る」
。柴ですから、山で小さな枝を集め
てくる。お婆さんが夕飯を作る時の燃料にするわけですね。ということは、お爺さんは暗
くなる前に家に帰って、その柴でご飯を作ってもらわないといけないわけです。
お婆さんが言います。「じさ、じさ、きょうは、おひるにだんごをしてやるで」。という
ことは、朝出発をしたお爺さんは山で柴刈りをして、お昼ご飯を食べるくらいの所にいる。
ものすごく遠くに行ったわけではないのです。柴を取り終わって、団子を食べようと思っ
たら、手から団子がころりと落ちて、ネズミの穴に落ちていった。するとネズミが出てき
て、
「お団子をありがとう」とお礼を言う。お礼にネズミの浄土へ連れていくから、おれに
ぶさってくれや、と、あとは「おむすびころりん」の通りです。帰ると言ったら、小さな
葛籠と大きな葛籠が出てきて、小さな葛籠をもらって帰ってみたら金銀財宝が出てきた。
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後で欲深いお爺さんが行って大きな葛籠がいいと言ったら中から……という話になってい
ます。
「ネズミ浄土」という話は、浄土ですから、神仙境であり、我々にとってはたいへんな
宝がある場所、聖地なのです。その聖地が、お爺さんが行って、お昼ご飯を食べて帰って
くる程度の所にあったという話です。つまり、ネズミの浄土は、決してお爺さんの家から
遠くはない、むしろ近い。
「ネズミ浄土」で語られている聖地観こそ、日本の聖地を考える
上で、重要な示唆を我々に与えてくれます。
この考え方は、宮崎駿さんの『千と千尋の神隠し』の冒頭部分にもよく現れています。
引っ越しをする主人公のお父さんとお母さんは、曲がる場所をちょっと間違えて湯婆婆(ゆ
ばーば)の世界に来てしまった。決して、とんでもない旅をして湯婆婆の世界に行ったわ
けではないのです。神仙境はいつも私たちの近くにあります。トトロが「隣の」トトロで
あるのと同じことです。メイと五月さんのお家からすぐそこの森にトトロが住んでいるの
です。
しかし、いつも行けるわけではない。たまたまお団子を落としたからお爺さんは行けた
のです。神仙境、聖地というのは、私たちの暮らしの非常に近いところに時々、ぼわんと
穴を開けて我々をそこに導いてくれる。
一番近くにある聖地は何か。少し尾籠な話をして恐縮ですが、敢えて言わせていただき
ます。
昔の溜め式のトイレですと、夜、用を足す時、下から手が出てきてお尻を触られた、と
いうような話がよくされました。数年前に植村花菜さんが『トイレの神様』という歌を大
ヒットさせました。トイレを掃除するときれいになれるんやで、とおばあさんに言われて
いるのです。このシュチュエーションもよくあります。トイレをきれいに掃除すると、き
れいな子どもが生まれる。
トイレの神様は、日本の神様の中で数少なく出産のその瞬間に立ち会える神です。なぜ
かというと、赤ちゃんという別の世界の人がこの世に来る、その場所、つまり出入口に鎮
座している神だから。家の中のトイレですから、我々の近いところに神仙境の出入口が存
在している。神仙境の出入口が近いから、時々神仙境側から手だけが出てきて、お尻を触
られる。
昔、新潟県に今から四十数年前に男の子が1人いました。この男の子は用を足そうと思
った時に失敗して、片足をトイレに落としてしまいました。
「わーっ!」と言う声を聞いて、
お祖父ちゃんが出てきました。お祖父ちゃんはその男の子の首根っこを摑んで、そのまま
小川に連れて行って、じゃぼんとその子を水に下ろしました。男の子は冷たいと思いまし
たが仕方がないので足を洗いました。その時にお祖父ちゃんはその男の子にぼそっと言い
ました。「まあ、足だけだから、名前を変えなくていいか」と。
トイレに落ちた人は名前を変えなければならないという伝説も、実は全国に広がってい
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ます。なぜかというと、トイレに落ちるということは、別の世界に行くということですか
ら、名前を変えなければいけません。千尋さんが千と名前を変えられたのと同じです。そ
の男の子が片足だけだったから、「ま、いいか」という話。
名前を変えなければいけないような異界が家の中にも存在する。その出入口が家の中に
も存在する。
これらを考えて、もう一度皆さんに『日本書紀』応神天皇19年冬10月「都から遠か
らず」を見ていただきますと、都から峠を隔てて遠くない所にあった吉野、そこに美しい
山河が広がっている。飛鳥にはない山河が広がっている。それを見た人々が、そここそ神
仙境だと思ったのだろうと思っております。
丹治比廣成や『日本書紀』の編纂者たちが見た、詠んだ吉野の山河は、今でもそこに広
がっております。これはかけがえのない吉野の財産だろうと私は思っております。皆さん
にそのことをお伝えしたくて今回、ここに来た次第であります。
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