The Fitzgerald Club of Japan NEWSLETTER No.17 APRIL 2002

The Fitzgerald Club of
Japan
NEWSLETTER No.17
APRIL 2002
発行者:坪井清彦
編集人:藤谷聖和、清水一夫
発行所:龍谷大学 藤谷聖和研究室(〒600-8268 京都市下京区七条大宮)
phone(ダイヤルイン)075-343-3361 / fax 075-343-4302, e-mail: [email protected])
事務局:龍谷大学 藤谷聖和研究室(〒600-8268 京都市下京区七条大宮)
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文献センター 永岡定夫(〒400-0021 甲府市宮前町 5-5)
郵便振替口座 00950-1-110108 日本フイッツジェラルド・クラブ
ホームページ http://www.let.ryukoku.ac.jp/~seiwa/
(ヤフーJAPAN にて「フィッツジェラルド」の検索でヒットします)
2001 年 5 月 19 日
日本フィッツジェラルド・クラブでの講演(於 学習院大学)
“The Romantic Egoist”から『楽園のこちら側』へ
(From "The Romantic Egotist" to This Side of Paradise)
日本フィッツジェラルド・クラブ会長
坪井清彦(Tsuboi,Kiyohiko)
1 序
『楽園のこちら側』 という作品は無名の文学青年フィッツジェラルドを一躍有名にした処女作であるが、日本
ではあまり有名ではない。アメリカでも批評家たちも未熟でポプリのような小説だとして評価も低く、論ぜられ
ることも少ない。ちなみに永岡定夫氏の労作「日本におけるフィッツジェラルドの文献目録」を調べてみると『楽
園のこちら側』 の名前が論文の題に出ているものは数編しかない(単行本では多かれ少なかれ言及されているが)。
日本語の翻訳は 高村勝治氏の 『楽園のこちら側』(1957 年)があるのみで、それも現在は絶版になっている。
高村氏は何故か 「エゴティスト」 の訳を(意図的なのかどうかわからないが)すべて 「エゴィスト」 と訳し
ている。マルカム・ブラッドベリも The Modern American Novels のなかで The Romantic Egoist (p.84)と書い
ているし、スクリブナーズのパーキンズの手紙にも“The Romantic Egoist”と書かれている
(Corresponcence,p.31)。この二つの言葉は英米でもやや曖昧なのであろう。
高村氏は解説のなかで 「こうして、フィッツジェラルドは 23 歳という若さで文壇に華々しくデビューしたの
だが、この 『楽園のこちら側』 は自伝的要素がこく、主人公のアモリーは作者と同い年で、同じ年にプリンス
トン大学にあがり、同じ年に参戦したりする。しかし、その恋愛遍歴は作者のそれというより当時の青年のそれ
をよくうつしたものであった。酒、ペッテイングなどの大学生活の描写は、当時としては、初めて、しかも、大胆
に行ったもので、子供を大学に送っていたお上品な時代に育った親たちを驚倒させた。また、大学生活を愉しん
でいた青年たちはこの小説をバイブルにしたという。ともかく非常なベストセラーだった」と書いている (pp.
54-55)。
2 成立過程
1917 年の秋 21 歳のフィッツジェラルドはこの小説を書き始めた。前年 1916 年には全て詩の形式で書くことも
考えていたようであるが、
今回は大体散文で書き、
部分的には詩、
劇の台詞を挿入することにした。
そこには Nassau
Literary Magazine や The Smart Set に掲載されていた"Babes in the Woods"が組みこまれていた。 その頃考え
ていた題は “The Romantic Egotist”であり、これは後 『楽園のこちら側』 の第1部となった。10 月の半ばに
1、2 章書き上げ、恩師クリスチャン・ガウスに見せた。老舗スクリブナ-ズに推薦してもらおうと思っていたが、
ガウスはそれを断った。しかし小説は書き続けるよう励ました。ガウスの記憶によれば、第1章は 『楽園のこち
ら側』 の書き初めに似ていたが残りは詩や風刺や逸話をよせあつめにしたようなものだった(West, xiv-xv)。
3 “The Romantic Egotist”
1918 年 3 月に軍隊から休暇をもらってプリンストン大学に帰り “The Romantic Egotist”の第1稿を完成させ、
それをスクリブナーズに送ったが受け入れられなかった。8 月にはセント・ポールに帰っていたフィッツジェラル
ドのもとに改定原稿もそのままでは出版は無理だとの連絡があった。
さて“The Romantic Egotist”は 元来 22 章 あるいは 23 章あり、そのうち4編は詩からなる小説であったよ
うであるが、 現存する原稿は 5 つの章のみで、全てタイプ原稿であり、現在はファクシミリー版で Garland
Publishers から出版されている。
Chapter I --The Egotist Up
航空学校で一人称の語り手ステイ―ブン・パームズ(Stephen Palms)が同僚のオーデイ(O’Day)二等兵に語り
かける会話で始まる。主人公で語り手は小説について次のように述べている。
My form will be very original for it will mingle verse and prose and not vers libre (free verse); and thus interest
the new poets. Here is a great field and I am the man to fill it. (p.263)
Anyway, this is an autobiography which begins in vagueness, passes slowly through clarity and ends up in the filmy
mist of an aviation school. It is the autobiography of the first twenty one years of me. (p.264)
Chapter II--The Egotist Down (サンフランシスコとミネアポリスにおけるスティーブンの学校時代)
Chapter V--The Spires and the Gargoyles (プリンストン大学時代のスティーブン。 『楽園のこちら側』 では
A Damp Symbolic Interlude となっている)
Chapter XII--Eleanor (メアリランドでの詩的幕間劇のようなもので、
『楽園のこちら側』の第 3 章の Young Irony
となっている。
Chapter XIV--The Devil(『楽園のこちら側』 の Devil になる。
『楽園のこちら側』 では“The Romantic Egotist”
の1章 2 章は削除されている。
4 編集者パーキンズ
1918 年の8 月19 日付けの多分パーキンズが書いたと思われるスクリブナーズからの手紙には次のように書いて
ある。
We have been reading “The Romantic Egoist” with a very unusual degree of interest;-in fact no ms. novel has come
to us for a long time that seemed to display so much originality, and it is therefore hard for us to conclude that
we cannot offer to publish it as it stands at present . We generally avoid criticism as beyond our function and as
likely to be for that reason not unjustly resented by the author but we should like to risk some very general comments
this time because, if they seemed to you so far in point that you applied them to a revision of the ms., we should
welcome a chance to reconsider its publication."
(Correspondence, p.31)
原稿は 1919 年の7月から8月にかけて セントポールで書き直され、1919 の 9 月 16 日パーキンズはやっと 『楽
園こちら側』 の出版を受諾した。そして 1920 年 3 月 26 日に出版された。
5 『楽園のこちら側』
“The Romantic Egotist”は一人称の小説だったが 『楽園のこちら側』 の語りは三人称となっている。主人
公の名前もスティーブン・パームズからエイモリー・ブレインに変わっている。"The Spires and the Gargoyle"
は最初大学の文芸誌 Nassau Literary Magazine (1917 年 2 月)に掲載されたが、 『楽園のこちら側』 の A Damp
Symbolic Interlude として生きかえっている。また Nassau Literary Magazine に載った"Babes in the Woods"
も Isabelle として 『楽園のこちら側』 の中で復活している。フィッツジェラルドはその他 Nassau Literary
Magazine や Smart Set に掲載されていたものを書きなおして付け加えた。さらに手紙による中間章と The
Education of a Personage の部分を加えて『楽園のこちら側』を作り上げたのである。
6当時の評価
ブルッコリは「プリンストン大学を題材にしたことが 『楽園のこちら側』 の人気をある程度高めたといえる
し、この小説はアメリカの大学を初めてリアリステイックに描いたものと考えられている。しかもプリンストン大
学が華やかで誰でも入学できない頃のことについて書かれていた。プリンストン大学小説としての 『楽園のこち
ら側』 はアメリカのエリート大学のインサイド情報を欲しがっている若者たちにアッピールし、大学生活の必携
書となった」と書いている(Some Sort, p.127)。しかしフィツジェラルド自身この小説は 「ロマンスと読書リス
トだ」と言っているように、実際エイモリー・ブレインの人格を形成した書物の文献目録とも言える。実際 64 の
本の名前と 98 人の作家の名前があがっている」(Some Sort, p.127)と言っているが、エイモリーと彼の学友は
本当に本好きな文学青年で、今日でもこれほど本好きな人は少ないと思われる。
大人たちの眉をしかめさせた自由闊達な女性フラッパー(Flappers)という言葉もフィッツジェラルドがはや
らせたと言っても過言ではない。そしてこの小説は当時の若い知識階級や大学生、同時代の人々に大歓迎された
(若い女性の意識が改革され、古い体制、伝統に反逆しようとする姿勢はまさに今日の新しい女性論に繋がるも
のである)。
この小説は出版されたとき批評家からは賛否両論であったが、新しい時代の風潮を描いので、保守主義的な 19
世紀ヴィクトリア朝風道徳に反発していた青年男女によっては熱狂的な歓迎を受けた。Hart は Popular Books の
なかで次のように述べている。
the new generation came into its own in 1920 with twenty-four-year old [sic] F. Scott Fitzgerald’s This Side of
Paradise. This novel is ‘a nine days’ wonder with the critics.’
public of 52,000 book / buyers. Capturing the bittersweet mood of jazz-age youth, Fitzgerald's story of world-weariness,
cynicism, and sophistication among Princeton-bred youths became not only a model for other writers but for great
parts of public that had never read about the antics of his hero, Amory Blaine. A rash of college novels broke
out on (Hart, p.231)
しかし次の"Princeton University is 'the best country club in America' " (Some Sort,p.128.)という文
章は言葉は保守的なプリンストン大学のヒベン学長を怒らせた。
7 現在の評価
ブライアーによれば現在でも 『楽園のこちら側』 『美しく呪われた人々』 『ラストタイクーン』の 3 つの小
説は批評家や研究者から無視され続けている。
Each has been the handful of recent articles and notes. Two pieces identify the numerous obscure and mostly literary
references in This Side of Paradise―Dorothy Ballweg Good's " ' Romance and a Reading List': The Literary References
in This Side of Paradise" and Lynn Haywood's "Historical Notes for "This Side of Paradise". The best of two other
substantial essays on Fitzgerald's first, novel, "This Side of Paradise: The Ghost of Rupert Brooke' "
(Bryer, pp.346-47)
フィッツジェラルドの文章は概して詩的であり、また多くの詩を挿入している。 ソネットさえ書いている。また
引用、言及、作家の名前、文学作品の名前がやたら出てくる。アメリカ知識階級の教養は我々のものとは違うの
は当然であるが、
フィッツジェラルドや同世代のアメリカの大学に学んだ文学青年たちは 19 世紀のイギリス文学、
特にロマンテイックな詩に対する嗜好が強かったようである。
この処女作 『楽園のこちら側』 のなかには、以後のフィッツジェラルド作品の萌芽が見られる。同じ言葉を
何度も色々な作品で繰り返し使う彼の癖も見られる。具体的な例を挙げれば 『偉大なギャツビー』 のなかでデ
イジーが出産に際して “a beautiful little fool”と言っているが、既に 『楽園のこちら側』 では“I’m such
a poor little fool.”(128)という言葉が見られる。
また”The Romantic Egotist”では次のような Keats の “Ode
to a Nightingale”への言及もある。
I can’t read that line of Keats’ about ?
“The mumurous haunt of flies in Summer eves”
without thinking of lying in bed at Aunt Thalies’ and listening to the people walking
about the ruined the tennis court in the evening, and seeing the fireflies glowing
in a tumbler on my bureau. (Garland, p. 270 )
“Ode to a Nightingale”の第 5 スタンザからの 1 行であり、後の小説の題に Tender is the Night という言葉
を選んでいることからも彼のキーツへの傾倒ぶりが分かる。
最初あまり売れないかもしれないと思い、フィッツジェラルドは 1 年に 20,000 冊売れれば良いとスクリブナ-
ズ社で言ったようであるが、実際予想以上に売れている。
ブルッコリによれば初版は 3,000 冊 1920 年 3 月 26 日に. 1 冊$1.75 で売りだされている。1920 年の合計は
41,075 冊で、1 冊 $1.75 であるから単純計算すればスクリブナーズの収入は $718,881.25 であるが、出版費、
人件費その他の引いてもかなりの売上であったと考えられる。もっとも実際すべて売れたかどうかは別問題であ
る。一方フィッツジェラルドは Ledger にその年の小説の印税は $6,200 と書いている。1921 年は小説の総売上が
8,000 冊で$14,000 であるが フィッツジェラルドの Ledger には印税$5,636 と記入してある。1920 年と 21 年でス
クリブナーズは$732,725 収益をあげ、 フィッツジェラルドは $11,836 の印税を貰っている。1923 年以降、印刷
部数は急激に少なくなっているが、次の 『美しく呪われた人人』 や雑誌に掲載した短編からの収入がは入るよ
うになっている(Bibliography, pp.15-22)。
彼の小説は風俗小説(Novel of Manners)であり、自分の体験、自分を取り巻く社会、さらには社交界の風俗、
道徳を彼自身のレトリックで描き出しているものである。しかしこの作品にはすでにフェミニズムやジェンダー
など現代の批評でよく取り上げられる諸問題を提起している。そう言う意味でこの小説は単なる社会的ドキュメ
ントではなく、我々の知的、批評意識をも刺激する小説であると考えられる。
Works Cited
Bradbury, Malcolm. The Modern American Novel. Oxford: Oxford University Press, 1983, Revised, 1992.
Bruccoli, Mathew, J. ed. F. Scott Fitzgerald:A Descriptive Bibliography. Revised Edition.Pittsburgh:
University of Pittsburgh Press, 1987.
Bruccoli, Mathew J., Margaret M. Duggan, eds. Correspondence of F. Scott Fitzgerald.New York: Random
House,1980.
Bruccoli, Matthew J. Some Sort of Epic Grandeur: The Life of F. Scott Fitzgerald. New York: Harcourt Brace
Jovanovich, 1981.
Brucooli, Matthew J., Introduced and Arranged F.Scott Fitzgerald Manuscripts 1, This Side of Paradise,
The Manuscripts and Typescripts Part 2.New York:Garland Publishing, Inc. 1990.
Bryer, Jackson R. ed. Sixteen Modern American Authors, Vol.2: A Survey of Research and Criticism since
1971. Durham: Duke University Press, 1989.
Hart,James D. The Popular Book: A History of America's Literary Taste. Berkeley: University of California
Press, 1963.
West III, James L.W. The Making of This Side of Paradise. Philadelphia:University of Pennsylvania Press,
1983.
West III, James L.W. ed. The Cambridge Edition of the Works of F. Scott Fitzgerald. F. Scott Fitzgerald,
This Side of Paradise. Cambridge: Cambridge University Press, 1995.
高村勝治・龍口直太郎・佐藤亮一(訳)『楽園のこちら側・夜はやさし・雨の朝巴里に死す/他』、東京 荒地出
版社 現代アメリカ文学全集 3 1957
永岡定夫 「日本におけるスコット・フィッツジェラルドー文献目録(1930~1979)」 、昭和大学教養部紀要
第 10 巻 1979
永岡定夫 「日本におけるスコット・フィッツジェラルドー文献目録(1930~1979)・追録版、山梨大学教育学
部研究報告第 34 号 1958
永岡定夫 「日本におけるスコット・フィッツジェラルドー文献目録(1930~ )・追録 2 版、山梨大学教育学部
研究報告第 39 号 1963
永岡定夫 「日本におけるスコット・フィッツジェラルドー文献目録(1930~ )・追録 3 版、山梨大学教育学部
研究報告第 41 号 1990
★なお日本における文献は The Fitzgerald Club of Japan の Home Page にも収録されています。
2001 年 5 月 19 日
Fitzgerald 文学における民族・人種差別
(Racial Discrimination in Scott Fitzgerald's Writings)
日本英文学会第 73 回大会(於学習院大学)
学習院大学 内田 勉
(Uchida, Tsutomu)
F. Scott Fitzgerald の作品においては、人種差別的言辞が珍しくないが、黒人種や黄色人種に対してだけで
はなく、南欧人・ユダヤ人等に対する差別もあった。但し、差別の背後にある作家の意識は、ユダヤ人等に対する
場合と黒人等に対する場合とでは、明らかに異なっているので、前者に対する差別を民族差別、後者に対する差別
を人種差別として分けて論じた方が、それぞれの場合における作家の差別意識の特徴を明らかにできる。
Fitzgerald 文学における民族差別の最初の顕著な例は、This Side of Paradise の中に現れる。第1次大戦への
アメリカの参加に伴う Amory Blaine の昂揚感が、「ギリシャやロシア出身の体臭の強い移民」を見た時に、たちま
ち幻滅感に変じたという場面である。Amory は、更に、平和主義者のことを「ドイツとユダヤの名前を持った臆病
者」と決めつけて、ユダヤ系アメリカ人を誹謗する。This Side of Paradise では、Amory の様々な人間的欠陥や
弱点が批判的に描かれるが、彼が時々露わにする民族差別だけは、一向に、批判の対象にはされていないことを見
ると、Fitzgerald 自身も、Amory と同様の差別意識を持っていただろうと考えられる。
Fitzgerald 文学に見られる民族差別において、一番大きな問題が、ユダヤ人差別である。この問題は、早くから
指摘されており、Milton Hindus というユダヤ人研究者が、既に 1947 年に、The Great Gatsby における Meyer
Wolfshiem の描き方を問題にして、この作品を“anti-Semitic document”と批判し、他方で、The Last Tycoon の
Monroe Stahr にも言及して、そこに Fitzgerald の変化を認めている。私にとって意外なのは、Fitzgerald 文学に
おけるユダヤ人差別を扱った研究では、殆どの場合、Wolfshiem が取り上げられ、結果的に、Hindus による批判と
同じパターンになっていることである。確かに、Wolfshiem の描き方には、ステレオタイプ的なところがある。しか
し、Wolfshiem は暗黒街の顔役なので、それが彼を他者にしてしまう最大の理由となってしまい、そのため、ユダ
ヤ人であるが故の他者性という問題が、Wolfshiem の場合には、見えにくくなっているのではないか。従って、彼が
ユダヤ人であることは、作品の中で、本質的な意味を余り持たない、ということになるのではないだろうか。
私には、Fitzgerald 文学におけるユダヤ人差別の問題を扱かう時に、最重要、かつ、不可欠な人物は、The
Beautiful and Damned に登場する Joseph Bloeckman だろうと思う。この作品は、上流階級に属する Anthony Patch
が、自分の妻 Gloria を奪おうともくろむ Bloeckman と対決する物語なので、Gatsby における三角関係と非常に似
た結構を持っているが、Gatsby とは逆に、Bloeckman は終始敵役にすぎない。しかし、この作品においては、
Bloeckman がユダヤ人であることが、プロット構成上の要になっており、主人公 Anthony の敵役が、なぜ、ユダヤ
人でなければならなかったのかを考える意味がある。
The Beautiful and Damned 第 1 部第 2 章冒頭のパラグラフは、白人社会がピラミッド型の階層を成し、ユダヤ人
は、たとえ金持ちであっても、ユダヤ人社会の中でしか mobility がないことを表しているが、これが、この作品の
中で前提されている社会秩序である。しかし、この作品は、同時に、この秩序が揺らぎ始めていると、上流階級に、
危機感をもって、強く意識され始めた時代であることも描いている。Gloria の主催するディナーの席で、Anthony
と彼の Harvard 以来の友人たちの前に初めて立ち現れた Bloeckman は、Anthony たちの冷たい視線を浴びるが、そ
れは、Bloeckman が学歴も家柄も持たないユダヤ人であるという徹底した他者性故であった。そして、他者であり
ながら、成り上がり者として上流社会に侵食し、上流を脅かす存在、そういう存在の典型としてユダヤ人が恐れ
られ、また、忌み嫌われたということである。
ユダヤ人に対するそうした強迫観念は、
Anthony と Gloria の恋愛関係の中にも不気味な影を落とす。Anthony は、
突如として、Bloeckman を自分のライバルとして意識し、Bloeckman が、自分に代わって、Gloria と結婚する可能
性を思い、驚愕する。後に、貧窮のどん底に落ちた Anthony が、酒に酔った勢いで、Bloeckman に金を借りに行った
ところ、醜悪な口論になってしまい、Anthony が、これまで抑えに抑えていた禁句を遂に口にしてしまう場面があ
る。面と向かって、“you Goddam Jew”と言われた瞬間に Bloeckman も切れてしまい、これまでの紳士然としたポー
ズをかなぐり捨て、Anthony を殴り倒し、それでも怒りは収まらず、「この浮浪者(this bum)」を「外に放り出せ」と命
じている。
The Winding Road to West Egg を著した Roulston は、The Beautiful and Damned について、大きな読み違えを
している。彼は、Anthony と Bloeckman との最後の対決場面に言及し、「Anthony に Goddam Jew と言われた時、
Bloeckman は、dignity を以って立ち向かった」と述べているが、この対決場面では、両者とも、dignity を失ったと
いうのが、
テクストの正しい読み方である。Bloeckmanを過大評価するRoulstonは、
また、
BloeckmanとMonroe Stahr
との類似点を強調する。二人とも、たたき上げのユダヤ人で、映画プロデューサーとして成功を収めたのだから、一
見、確かによく似ている。しかし、肝腎なことは、この二人は、内実が全く違うということである。Bloeckman の映画
製作は、金が目的であり、また、非常に陰険・酷薄な性格の持ち主である。Bloeckman を生み出したユダヤ人観と、
Monroe Stahr を創造できるユダヤ人観とは、同じ作者のものとは言え、本質的に異なる、と考えざるを得ないの
である。
Tender Is the Night ではユダヤ人問題は出て来ないが、この novel と非常に関わりの深い
“The Hotel Child”という短編の中で、Fitzgerald は、ユダヤ人問題に関し、画期的な新しい方向を打ち出した。
この作品で、Fitzgerald は、初めて、ユダヤ人を主人公にして、差別される側に身を置く形で、ユダヤ人の心性を、
内側から表出することを試みたのである。18 歳の Fifi Schwartz は、母親と兄との 3 人で、ヨーロッパのホテル
を転々としているが、母親が、アメリカに帰ると言い出した時、 Fifi は“everybody is so bigoted there”とア
メリカを手厳しく批判し、帰国を拒む。Schwartz 家が長逗留しているホテルでは、この後、盗難事件と火事が続け
ざまに起きるが、盗難で被害にあったのが Schwartz 家であるにも拘わらず、ホテルの支配人は、Fifi の兄を犯人と
疑い、火事については、Fifi が放火したのではないかと疑う。そして、この作品は、一人のユダヤ女性が、ここヨー
ロッパにおいても、自分がユダヤ人であるが故に差別されていたことを自覚することにより、自己幻想を断ち切り、
自らの判断力と行動力で、盗難事件の真犯人が、自分がすんでの所で駆け落ちする筈であったハンガリー貴族であ
ることを突き止め、自己救済と一家の名誉回復を果たす物語になっている。Fitzgerald の作品におけるこのような
ユダヤ人像の変貌と、それに伴う創作方法の転換は、やがては、The Last Tycoon における Monroe Stahr へと結
実することになる。
Fitzgerald 文学における人種問題は、黒人差別が大部分である、と言ってよいが、This Side of Paradise の
中には、殆ど出て来ない。これは、黒人差別が無かったのではなく、This Side of Paradise に現われる黒人は、見
えない人間 Invisible Man になっているからである。
The Beautiful and Damned における例としては、アメリカが第1次大戦に参加し、Anthony が応召した後、妻の
Gloria が、赤十字の看護婦に志願しようと思ったものの、黒人の体を洗ってやらなければならないという話を聞い
て、急速に愛国心がうせてしまった、という個所を挙げることができる。この作品でも、Gloria のモラルと行動が
様々に批判されるが、彼女の人種差別的振る舞いが問題にされることは、ただの一度もないのである。
The Great Gatsby では、既に何人かの研究者が指摘した同じ個所から引用する。
As we crossed Blackwell’s Island a limousine passed us, driven by a white chauffeur, in which sat three modish negroes,
two bucks and a girl. I laughed aloud as the yolks of their eyeballs rolled toward us in haughty rivalry (p. 55).
上記で問題にされてきたことは、二つあり、一つは、buck という差別語の使用、もう一つは、黒人の表情の描き方
がステレオタイプ的ということである。この buck という言葉が、当時の白人にも問題視されるほどの差別語であ
ったことは、Scott Donaldson が明らかにしている。しかし、この個所で、私に一番問題と思われることは、語り手
Nick が、声を出して笑ったということである。Nick が笑った直接の理由は、ライバル意識を露わにした黒人の驚
愕の表情がおかしかったからであろうが、その背後にあるものは、Nick の感覚では、黒人が白人を運転手にして、
高級車を乗り回しているということ自体が、滑稽以外の何ものでもないということである。つまり、この作品にお
いて語り手が想定している the American Dream というものは、言わば、the White American Dream とも言うべき
もので、現在の political correctness による批判に耐えうるような概念ではないのである。
Tender Is the Night においては、黒人の取り扱い方が、変わったかなという印象がある。この作品では、
Fitzgerald の novel において初めて character と呼びうる黒人が、パリで起きた一連の事件の中で登場する。事
の発端は、Abe North が盗難事件の被害者になったことであるが、この結果として、Freeman という黒人が逮捕され、
又、犯人探しに Abe に協力した別の黒人 Jules Peterson は、Freeman 誤認逮捕へ関与した故に、仲間の黒人たちに
命を狙われる羽目になる。責任を感じた Abe は、Freeman を救出しようと思い、また、Peterson を保護しようとす
るが、Peterson の死体がホテルの Rosemary Hoyt の部屋で発見されるところから、物語は全く意外な方向に進む。
女優としてこれからという、その大切な時に、Rosemary がスキャンダルで台無しにされるのを恐れた Dick は、妻
Nicole にも手伝わせて、必死になって、死体隠しに努めるのである。Abe North と黒人との間に、これまでの
Fitzgerald 作品には、特に novel においては、殆ど存在しなかった新しい人間関係が成立するのかと期待させた
エピソードは、結局、Dick Diver の甚だしい黒人蔑視を露わにする形で終わるのである。Tender Is the Night の
第 1 部は、Nicole の狂気が再発するところを Rosemary が目撃するという衝撃的な場面で終わるが、再発のきっか
けになったのは、Nicole が、黒人の死体を隠す手助けを、Dick に強いられたことにあったのである。
黒人差別に関わる個所として、Tender Is the Night からもう一つ、Diver 夫妻が、Mary North の再婚相手 Conte
di Hosain Minghetti の城に招かれ、ディナーの後、自分たちの部屋に戻って、二人だけで話をしている場面を挙げ
る。ここでは、Dick がディナーの席で、spic という差別語を使ったことが Nicole に咎められ、彼は弁明する。「口
が滑ったんだ。smoke と言いたかった」。smoke は、黒人を意味する差別語である。白人に対する差別語はまずい
けれども、黒人に対する差別語はかまわないということなのであろうか。Dick の最後の台詞"Excuse me again" (p.
335)は、smokeと言おうとしたこともまずかった、
と言い直した、
と解釈してもよいのだろうか。
Tender Is the Night
における Dick の黒人差別には、甚だしいものがあるが、作者のポジションは、The Great Gatsby におけるように、
あっけらかんとした、無自覚の差別とは異なる。Dick に黒人差別をさせながらも、同時に、差別の問題性が、
Fitzgerald には、意識されている書き方であると思う。
結局、Fitzgerald にとって、黒人とは、どういう存在として意識されていたか。これを端的に表わしている作
品が “A Nice Quiet Place”である。この作品では、夏休暇を田舎で過ごす女子学生 Josephine Perry が、美男
子の Sonny Dorrance に出会い、すぐに恋に落ちる。Josephine に慕われて、迷惑に思った Dorrance が、彼女を諦め
させる為に使った手段が、自分には黒人の妻がいる、という嘘であった。しかも、Fitzgerald は、このプロットを、
一種の笑い話の文脈の中で使っている。いかに甚だしい黒人蔑視が、このプロットに含まれているかということ
に、Fitzgerald が全く気付いていないのは、明らかである。
ところが、The Last Tycoon になると、黒人の扱い方が大きく変化するのである。最後の Fitzgerald hero であ
る Monroe Stahr が、どういう意味で新しい hero なのかと言えば、作者が、本格的にその内面から描こうとしたユ
ダヤ人である、ということだけではなく、Fitzgerald 文学の中で、初めて、黒人を対等の存在と認めた唯一人の人
物ということである。
Stahr と Kathleen が、サンタモニカ近辺の海岸に面した家で初めて結ばれた後、不思議な輝きに誘われて浜辺
に出た時、Stahrは、
grunionを拾い集めている黒人と出会い、
話を始めるが、この黒人は、Emersonの愛読者で、
Stahr
が映画製作者と知ると、手厳しい映画批判を始める。注意したいことは、黒人の批判を受けた後の Stahr の反応で
ある。Kathleen は、これまでの Fitzgerald 作品の登場人物と同様に、黒人を差別語(Sambo)で呼ぶが、Stahr は、
そのような呼び方を拒否する。そして、彼は、この黒人の映画批判を真剣に受け止め、最近の自分の映画製作を省
察し、その結果、製作予定を大幅に変更したのである。ここが、人種差別を克服する過程での、Fitzgerald 文学の
到達点であった、と言えるのではないか。
次に考えたい問題は、6 年前の Tender Is the Night に比べても、黒人の扱い方が、The Last Tycoon では、あまり
にも違いすぎる、ということである。突如として、黒人を人間として対等に扱かう作品を書いた、という印象が強
いのである。
Fitzgerald は、1930 年代に、彼が黒人差別的な姿勢を変化させつつあった、ということを実証するようなエッセ
イを二つ書いている。その一つは、“One Hundred False Starts”で、挫折寸前の Fitzgerald が、「事態が非常
に悪くなって、出口無しというような時、あなたならどうするか」と、アラバマの老いた黒人にアドバイスを求めた
ところ、「そういう時には、私は仕事をします」という答えに感銘を受けたことを記している。もう一つは、“Handle
with Care”で、その最後のパラグラフにおいて、Fitzgerald は、自分の現状を黒人の苦境になぞらえている。こ
の二つのエッセイに共通することは、Fitzgerald 自身の生の困窮の深まりが、彼をして、黒人理解を深める方向に、
向かわせていることである。こうした方向転換の延長上に、The Last Tycoon における、新しい黒人観が生じるの
は理解できるが、それだけに、こうした転換を示唆するような作品が、The Last Tycoon まで、全く書かれなかっ
たとしたら、むしろ不思議、と思わざるを得ないのである。
Fitzgerald 文学における人種差別を扱った研究では、これまで議論されて来なかった事柄が二つある。このこ
とと上記の疑問とが深く関係していると思われるので、まず、その一つ、黄色人種差別の問題から考えてみたい。
“Myra Meets His Family”という初期 Fitzgerald の短編では、Myra と婚約した Knowleton Whitney という金持
ちの青年が、Myra に結婚を断念させる為、入念なトリックを使うが、そのトリックの目的は、彼女に、彼の曾祖母
が中国人と思い込ませることであった。前述した“A Nice Quiet Place”と、プロットの要がよく似ている。
Fitzgerald の文学においては、金の問題が、愛や結婚を阻む壁になるという形で、数多くの議論がなされたが、その
壁が、どんなに厚く、また高く立ちはだかっていても、それは相対的なものである。結婚を阻む絶対の壁は、人種
差別の壁なのである。Fitzgerald 文学における人種差別は、ユダヤ人差別とは異なり、異人種間の結婚は全くの論
外という形であらわれる。そして、この点では、Fitzgerald にとって、黒人種と黄色人種との間に、本質的な差は
無かった、と考えてよいように思える。
Fitzgerald は、Zelda とアラバマ州 Montgomery まで車で旅行した時の体験を基に“The Cruise of the Rolling
Junk”という旅行記を著したが、その中で、アメリカ南部の黒人をタスマニア人に譬えていることが興味深い。The
Beautiful and Damned の中でも、Anthony が、冗談として、沿岸警備隊員の見事に日焼けした肌に魅惑された金持
ちの娘が、駆け落ちした後で、その隊員にタスマニア人の血が入っている事を知った、と言って噴き出す場面が
あるけれども、これが、冗談になるのは、貧富・階級の差ではなく、人種の違いこそが結婚を不可能にするという
暗黙の了解があるからである。Fitzgerald には、黄色人種も黒人種も、白人とは完全に隔絶した、本質的には同類
の有色人種としてイメージされていたと考えられる。
Fitzgerald 文学における人種差別との関わりで、議論されて来なかったもう一つの事柄とは、Fitzgerald の全
著作物に対する、ただ一人の著作権者であった Scottie によるテクスト隠しの問題である。Bruccoli は、1979 年
に、Fitzgerald の未収録の短編全てを集めて The Price Was High: The Last Uncollected Stories of F. Scott
Fitzgerald を出版したが、この時、著作権者の意見により、質が劣るという理由で 8 編の作品が除外され、更に、
収録された2作品において、一部削除がなされた。この 2 作品とは、“Two for a Cent”と“Zone of Accident”
であるが、2000 年始めに刊行された Cambridge 版 Flappers and Philosophers は、“Two for a Cent”の初出を
初めて復元し、一部削除については、テクストの人種差別的言辞の故であったろう、と記している。私は、1999
年の学習院大学文学部研究年報で、この問題に触れ、2 作品において一部削除が施されたのは、人種差別的言説を隠
蔽することが目的であったこと、更に、除外作品に関しても、そのいくつかについては、著作権者の同じ動機が
働いていることを論じた。
著作権を行使して、
これまでの Fitzgerald 研究にいくつかのコントロ-ルを試みてきた Scottie という人の思
想や行動は、Scottie の娘 Eleanor Lanahan の書いた伝記によって、今では、具体的に知ることが出来る。この伝
記によると、1976 年、巨額の著作権料を手にした Scottie は、二つの事業に乗り出す。一つは、彼女の両親
Fitzgerald と Zelda の再埋葬であるが、このことと除外作品との関係については、ここでは触れない。
もう一つの事業とは、人種差別主義者として名高い George Wallace が大統領選挙に出馬したために、Scottie が
始めた反 Wallace キャンペーンである。元々、民主党員として、反人種差別運動に積極的に関わっていたが、
Fitzgerald の娘ということで、常に、特別な存在として扱われてきた Scottie にしてみれば、こうした政治活動に
関わる時に、人種差別的な言葉の頻出する Fitzgerald の作品が、新たに人の目に触れるような機会はできるだけ避
けたいと考えたとしても、不思議ではない。除外された作品の内、“Shaggy's Morning”は、犬の視点で人間社会
を観察した興味深い短編だが、 「いくら犬だからといっても、nigger を主人にしたりはしない」 というような差別
的言辞がある。
同じく除外された“The Honor of the Goon”は、白人学生たちに差別されるマレー人の女子学生の復讐物語だ
が、注意したいことは、Fitzgerald の意識が、差別される側に置かれているため、差別語を使われる側の心の痛み
と憤りの大きさ、又、差別語を使う側の無神経さとが、対比的に、ありありと分かるように書かれていることであ
る。除外作品の中で一番注目すべきは “The Passionate Eskimo”である。この短編は、白人文明社会に入り込
んで来たエスキモー Pan-e-troon がパライアとして差別され、犯罪を疑われるに至るが、最後には自らの知恵と
力を発揮して、白人の真犯人を捕らえ、自らの名誉を挽回する物語で、“The Hotel Child”によく似た結構を持
っている。確かに、この作品における白人のエスキモーに対する差別感には甚だしいものがあるが、作者は、明ら
かに、差別する側にではなく、差別される側に立って、白人支配のアメリカ社会を見ている。だからこそ、“The
Hotel Child”において Fifi にアメリカ社会の偏見を批判させたように、Pan-e-troon には、エスキモーの視点か
ら、アメリカの過剰な消費文明を批判させたのである。
上記 2 作品において、Fitzgerald は、人種差別される側に視点を移して、新しい文学の試みをしたと言えるが、
ここで、Fitzgerald には、黒人種と黄色人種は本質的に同じイメージで捉えられていたことを重ね合わせると、The
Last Tycoon において初めて示された、新しい黒人観に至る道は、既にはっきりと付けられていたと言えるのではな
いか。
Fitzgerald の文学は、出発点からして、パライアの文学であった。しかし、Tender Is the Night までは、富や地
位を持つ階級に疎外感を抱くという意味でのパライアである。1930 年以降、Fitzgerald が連続して経験した不運
や挫折は、彼に、自己と社会に対する認識の変革を迫ったが、これを契機に、アメリカ社会における本当のパライ
アに対する認識をも改めていったのではないだろうか。“The Hotel Child”や“The Passionate Eskimo”は、
Fitzgerald が、初期に顕著であった民族差別・人種差別的姿勢を後期に至って、転換させたことを示している。
こうしたプロセスを経て、アメリカ社会における本当のパライアを取り込んだ文学として構想されたのが、The
Last Tycoon だったと言えないだろうか。The Last Tycoon は、未完に終わったが、民族・人種差別問題に関し、
Fitzgerald が最後に、どちらの方向をめざしていたかは、明らかにできたと思う。
Bibliography
Primary Sources
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Fitzgerald, F. Scott. Tender Is the Night. New York: Scribners, 1934.
F. Scott Fitzgerald. “Shaggy’s Morning.” Esquire Ⅲ (May 1935).
F. Scott Fitzgerald. “The Passionate Eskimo.” Liberty 12 (8 June 1935).
F. Scott Fitzgerald. “Zone of Accident.” The Saturday Evening Post 208 (13 July 1935).
F. Scott Fitzgerald, “The Honor of the Goon.” Esquire Ⅶ (June 1937).
Fitzgerald, F. Scott. The Crack-Up. Ed. Edmund Wilson.New York: New Directions, 1945.
Fitzgerald, F. Scott. Afternoon of an Author. Ed. Arthur Mizener.New York: Scribners, 1958.
Fitzgerald, F. Scott. The Basil and Josephine Stories. Ed. Jackson R. Bryer and John Kuehl. New York:
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Fitzgerald, F. Scott. The Cruise of the Rolling Junk. Bloomfield Hills, Mich. & Columbia, S. C.:Bruccoli
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Fitzgerald, F. Scott. The Price Was High: The Last Uncollected Stories of F. Scott Fitzgerald. Ed. Matthew
J, Bruccoli. New York: Harcourt Brace Jovanovich, 1979.Fitzgerald, F. Scott. The Short Stories of F. Scott
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Fitzgerald, F. Scott. The Great Gatsby. Ed. Ruth Prigozy. New York: Oxford University Press, 1998.
Fitzgerald, F. Scott. Flappers and Philosophers. Ed. James L. W WestⅢ. Cambridge: Cambridge University
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Secondary Sources
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New Essays on F. Scott Fitzgerald’s Neglected Stories, ed. Jackson R. Bryer (Columbia: University of
Missouri Press, 1996).
Donaldson, Scott. Fool for Love: F. Scott Fitzgerald. New York: Congdon and Weed, 1983.
Forrey, Robert. "Negroes in the Fiction of F. Scott Fitzgerald." Phylon: The Atlantic University Review
of Race and Culture 28
(1967): 293-98.
Hindus, Milton. "F. Scott Fitzgerald and Literary Anti-Semitism: A Footnote on the Mind of the 20's."
Commentary June 1947: 508-16.Lanahan, Eleanor. Scottie The Daughter of ...: The Life of Frances Scott
Fitzgerald Lanahan Smith. New York: Harper Collins, 1995.
Margolies, Alan, "The Maturing of F. Scott Fitzgerald." Twentieth-Century Literature 43 (1997), pp. 75-93.
Roulston, Robert and Roulston, Helen H. The Winding Road to West Egg: The Artistic Development of F. Scott
Fitzgerald. Lewisburg: Bucknell University Press, 1995.
フィッツジェラルド風、南仏旅行(A Trip to Riviera)
日清製油
川辺秀人(Kawabe, Hideto)
「いや、違うねえ。いろんなとこへなんかぜんぜん行けやしないねえ。全くようすが違っちまうよ」ホールデ
ン・コールフィールドが僕に対してそう予言したのは、17 年前のことだ。南仏に出かけるにあたって、僕は彼の
予言どおり色々なところへ電話をかけ、ボストンバックに荷物をしこたま詰め込んで階段を下りるということに
なった。
16 歳の時に読んだサリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』の中で、主人公ホールデンが好感を持っていると
書かれていた事がきっかけで、僕はフィッツジェラルドと出合った。荒地出版社の短編集を買って来て、何度も読
み返した。角川文庫から『夜はやさし』の翻訳本が限定復刻されると、嬉々として買いに出かけ、取り憑かれた
ように一気に読みあげた。物語についての記憶は少しずつ薄れていくけれど、すごい感動に襲われた記憶だけは、
未だに心に焼き付いている。それは、とても切なく、やるせなく、哀しい小説だった。そしてそんな哀しさは、何
十年も前に書かれた小説の中の出来事であるにもかかわらず、僕たちの周りにいくらでも転がっていて、僕自身
がちっぽけな人生をやりくりする中で、幾度となく感じてきた哀しさでさえあるように思えた。なんとすごい小説
なのだろうと思った。そして、この小説を書き上げたフィッツジェラルドとはどんな人間なのだろうかと。そうし
て、いつの間にか僕にとって何某かの意味を持つ事になった場所が二つ。第一にエンパイアステートビル、そし
てリヴィエラ、アンチーブ岬だ。
長年の楽しみであった南仏旅行の実行にあたり、まずナンシー・ミルフォードの『ゼルダ』やカルヴィン・ト
ムキンズの『優雅な生活が最高の復讐である』、また刈田元司編『フィッツジェラルドの文学』等の記述を頼り
に、訪れるべき場所のちっぽけなリストを作ってみた。と、同時に自分が詳細な情報を何一つ持っていない事が
良くわかった。手掛かりを探してインターネットをさまよう内に、フィッツジェラルドクラブのホームページに
巡り合った事がきっかけで、坪井会長、藤谷先生より丁寧なアドバイスと情報を頂く事ができた。そうしてやっ
とこさこの旅行を実現することができたのである。
今回、フィッツジェラルドの単なる一ファンに過ぎない僕がこのような旅行記を書かせて頂く事となった。大
変恐縮する思いであると同時に、この旅行はフィッツジェラルドが見つめたのと同じ景色を見、彼が暮らしたヴ
ィラが残っているならばその前まで行ってみたい、という極めて私的な感傷の旅に家族旅行を強引にマッチング
させた為に、「フィッツジェラルドの足跡をたどる旅程」としては極めて不十分な内容となっている事をお断り
しておかなければならない。
ニースへ
黄金週間の渡仏にあたっては、数ヶ月に渡るキャンセル待ちの末、エール&JAL の共同運航便を利用した。朝、
関空を出てパリを経由、ニースに到着するのは現地の 20 時を回った頃。夕暮、藍色の空の中、眼下には桃色の街
頭を散りばめた濃紺の天使湾(ニース湾)の夜景が拡がる。小型の飛行機は少しばかり機体を揺らしながら、ゆっ
くりと空港へ降りて行く。素敵なバカンスの予感にしばしの幸福感に満たされる最高の時間だ。しかし、ニース
空港で僕たちを待っていたのは、爆弾テロの疑いによる待避要請だった。自分たちが乗ってきた飛行機の荷物が
怪しいというのだ。結局爆弾は無かったのだが、荷物を受け取る事ができたのは 24 時過ぎだった。単なる積み忘
れでロストバゲージとなった人も相当数いたが、他に透明の巨大なビニール袋に入った(不審物とみなされて破壊
されたのだろう)鞄の中身とおぼしき日用品を渡される、哀れな白人青年が一人。ただならぬバカンスの幕開けで
ある。
プロヴァンス(アルル、タラスコン)へ
翌朝、ホテルを出て国鉄の特急でアルルへ。アルルへ向かったのは家内のお気に入り、ゴッホの「夜のカフェ
テリア」の実風景を眺めたいが為。フィッツジェラルドに絡めれば、リヴィエラからプロヴァンスへ向けて車を走
らせ、途中で乗り捨てた行程を辿るのも良かれと思うも、鉄道にも乗りたかったので、ここはローズマリーよろ
しくインターシティのファーストで行く。コンパートメント形式ではなく、成田エキスプレスに似た車両であり、
数人の乗客が犬を連れているのが目に付く。パリでもタクシーの助手席によく犬がすわっているけれど、さすが
に綺麗な特急の車内のそこかしこに犬が座っている光景は、なんとも奇妙だ。しかし犬たちのしつけは相当行き
届いており、吼えない、粗相しない、走り回らない、と、実にパブリックである。そういえば、フィッツジェラ
ルドがペットを飼っていたという話は聞かない。頻繁な引越しと千のパーティーに明け暮れる日々では、それは
不可能だったからか。
The Romantic Egoists を見ると、ご当地のサン・ルイ荘で2羽の子うさぎを抱いたスコットが、ゼルダととも
に楽しそうに写真に収まっている他、1929 年の自動車旅行では、カワユイ犬っころを相当熱心に弄ぶ姿がある。
うさぎの写真はぼやけている為に". . . and the RABBITS"というキャプションが無ければそれが複数のうさぎで
あるとはすぐにはわからない。はたしてこのうさぎは彼らのペットだったのだろうか?それともただの通りすが
りのうさぎだろうか?はたまた晩のおかずなのだろうか?カワユイ犬っころについても、その自動車旅行のみの
登場である。
[“夜のカフェテラス”カフェ・ヴァン・ゴッホとアルルの円形闘技場。
右:シエスタ中のタラスコンの商店街]
僕たちはアルルに一泊し、翌日隣町のタラスコンへ出かけた。タラスコンは中世の街の城郭や城が残っている鄙び
た田舎街だ。日中はシエスタが励行され、12 時~15 時まではパン屋からスーパーまであらゆる商店がシャッター
を下ろして閉店、人々は家にこもる。まるで狼でもやって来るかのような静けさだ。欧州の村でシエスタの中に
ただ一人取り残される度に、僕は何故か古い童話をリアルに感じてしまう。
サン・ポール・ド・ヴァンス
ニースへ戻り、翌朝ハーツで車を借りてサンポール・ド・ヴァンスへ。坪井会長の「サン・ポール・ド・ヴァ
ンスへはレンタカーが便利でしょう」というアドバイスの実行だが、初めての左ハンドル、右車線、おまけに天
気は雨である。初めは大変緊張し、交差点で右左折もできない。助手席の家内には「車に慣れるまで練習!」と
嘘をつき、プロムナード・デザングレ前を西に向かってひたすら真直ぐ何処までも何処までも何処までも・・・
直進の実に心地よいプジョー306 である。
サン・ポールは、最も有名な鷲ノ巣村の一つである。鷲ノ巣村とは 8 世紀以降に海を越えてやって来る蛮族、サ
ラセン人の攻撃から身を守る為、断崖の上に築かれた城砦都市の俗称である。崖っ淵の僅かな空間に密集して築
かれた村はロケーションもさることながら、構造自体がエキゾチックで興味深い場所だ。今でも普通に人が住ん
で生活しているが、過疎になった例もある一方で、裕福な人がセカンドハウスとして活用し、都会を離れたいと
移住してくる人も増えているそうだ。
[中央の写真がコロンブドール。村の造りは中世の面影を残すが雰囲気は観光地丸出しである]
コートダジュールは言ってみれば神戸と六甲山の関係の如き地形で、海岸のすぐ背後には 1500 メートル級の山が
連なっており、それこそあちらこちらにこの鷲ノ巣村がある。サン・ポールはフィッツジェラルド夫妻が遊びに出
かけたくらい古くからリゾート地として栄えた経緯があり、今でもニースやカンヌから車やバスを利用して気軽
に立ち寄れる典型的な鷲ノ巣村として栄えている。たくさんのレストランやいくつかのプチホテルがあり、街中
は絵画やガラス工芸品、アロマグッズ、雑貨小物などを扱う店が文字通り所狭しと並び、観光客であふれ返って
いる。少し変わっているのは、喧騒を呈しているのはまさに城壁の中だけ、という点。言ってみれば遊園地の様
だ。
『ゼルダ』によれば、フィッツジェラルド夫妻はマーフィー夫妻とサン・ポールのレストランで夕食をとり、
その際スコットに腹を立てたゼルダが階段から飛び降りるなどして問題を起こしたとある。「コロンブドール」
という由緒正しいホテルのレストランであると聞いていたので、立ち寄って食事でもと思ったが満席との事であ
きらめた。
結局小さなレストランの観光客向けのムニュ(定食)で我慢した。落差が大きいが、まあ、仕方ない。僕は肉、家
内は魚のムニュ。僕の肉は、なんだこりゃ、という具合の繊維たっぷりのゴワゴワした牛肉。家内のお魚は、巨
大なずるずるの白身魚の切身にホワイトソースを大量にかけてオーブンで焼き、これまた大量のマッシュポテト
を付け合わせたという物体。なんとか食べていた家内も 1/3 でダウン。お肉を既に半分以上食べていた僕に「あな
た狂牛病になるわよ」と、辛らつな一言。右側のテーブルには国内から観光に出かけてきたらしき老夫婦がいて、
我々の行いを最初から最後まで孫でも見るような暖かいまなざしで、ジーと見つめている。「メニューの文字は
ちゃんと読めるのかい?ナイフなんか使えるのかい?」と今にも聞かれそうな勢いで、ちょっと照れてしまう。
驚いたのは左側に座ったイカしたカップルの華奢な女性。同じ白身魚の料理をワインと共にペロリと平らげ、巨
大なフロマージュを追加した。最後には立派なアップルパイまで難なくこなし、仕上げに悠然とコーヒーである。
昼間からこの食欲には恐れ入る。
さて、ある旅行ガイドブックによれば、村の歴史博物館にはフィッツジェラルドをはじめ、この村を訪れた有
名人の写真が展示されていると紹介されており、是非ともその展示の前でピースして記念撮影を、と訪ねてみた。
残念ながらエンツォ・フェラーリの写真はあったのだが、フィッツジェラルドを見つけることはできなかった。
モナコ
『夜はやさし』でダイバーが暮らしたダイアナ荘は、コルニッシュ街道の遥か上、エズ近郊にあったサミュエ
ルバーローの別荘と、アンチーブ岬にあるマーフイーのアメリカ荘をモデルに描かれたと言われる。翌日、エズ
近郊の雰囲気を楽しみつつ、ついでにモナコへ行ってF1のコースを走ってみたいなと、ニースのカルフールで
ミシュランの地図を買い込み、エズへ。地中海を見下ろす断崖を走る街道は絶景の連続でなかなかお奨めのコー
スである。予想通り沿線はヴィラだらけで、どれがダイアナ荘のモデルなのか想像だにできない状態だったが、
地中海を見下ろす高台という雰囲気を楽しむことができ、それなりに満足した。
[左:エズ遠景。左上端の山頂の凸凹がそれ。右下端に海岸道路が見える。右:モナコ]
モナコの印象は巷で言われるままであった。港を擁するからか、お昼を告げるサイレンが長々と響いていたの
を覚えている。国境を越えて坂を成り行きに任せて下れば、すぐ F1 のコースである。グランプリを間近に控え、
道路脇には観客席やタイヤバリアがあり、頭上にはブリッジが作られている。あふれ返るような渋滞さえなけれ
ばムード満点のサーキットだった。
アンチーブ
モナコ観光もそこそこに、高速道路 A8 を飛ばしてアンチーブへ向かう。A8 は眺めや道路のアップダウン、くね
り具合などについて、宝塚から中国道、山陽道を経由して岡山へ向かって行くようなイメージに良く似ている。た
だ、周りの車が 130km以上で高速コーナーを吹っ飛ばして行くので結構スリリングだ。(当地のドライバーはと
にかくスピードを出してそこらじゅうを吹っ飛ばしている)
アンチーブはある程度背の高い建物の目立つ小さな街である。ごちゃごちゃとした市街を港の方へ抜け、少し
ばかり走るとすぐに静かでのどかなアンチーブ岬に入る。岬の中央を通る道沿いには、大きな門を構えたヴィラ
が続く。敷地が広すぎて、門から覗いても母屋が見えない家も幾つか。マーフィーのアメリカ荘を見つけられな
いかと車を停めてカメラ片手にウロウロすると、すれ違う人達から怪訝な視線を浴びる。誘拐の下調べでもして
るように見えるのだろうか。早々に引き上げてガループ海岸へ向かった。一応灯台の真下あたりでしょぼい「平
屋根」のヴィラの
[↑間違い]
[↑本物]
写真を撮った。後に藤谷先生から送って頂いたアメリカ荘の写真を見て想像どおり実物は相当ご立派である事が
判明した。
続いてガループ海岸を訪れた。ガループはコートダジュールでも屈指の美しさを誇る海岸ということになって
いる。その理由は、波の少ない静かな入り江にあり、なにより白砂のビーチであるという点だ。
ニースのプロムナード・デザングレ前の海岸は、こぶし大の石ころでできた河原のような、だだっ広いだけの
海岸なので、それと比べれば確かに風情がある。しかし水は透明で綺麗だが、ネコの額ばかりのちっぽけな砂浜
と岩場、ありふれた岬の眺め、そしてわざとらしい海の家と棕櫚の木という情景は、言うほど凄くないなあとい
うところか。これといった特徴の無い、普通の入り江で、砂浜の大部分はプライベートビーチ(海の家の独占と
いった雰囲気)で占められている。まあ、ジェラルド・マーフィーもガループだけが気に入ったからアンチーブ
に住んだ訳でもないだろう。いずれにしろ 75 年前に、時代をときめく幾人かのアメリカ人たちが(おそらくはフ
ィッツジェラルドも)遊んだビーチなのだ。たとえ、僕たちにしてみれば、打ち上げられた大量のカラス貝のせ
いで鼻が曲がりそうなほど塩臭い浜辺に過ぎなかったとしても。
岩場伝いには松の木立の並ぶ静かな遊歩道があり、
少しばかり歩いて見たのだが 10 分も行くと雨が降り始めた。
木陰で雨宿りを試みるも勢いは激しくなる一方で、ついに断念して車に戻った。そして「岬ホテル」のある、岬
の突端へと向かった。
[ガループ海岸。殆どがプライベートビーチ。岩場もある↑]
「オテル・ド・カプ(岬ホテル)」はアンチーブ岬の端っこにあり、『夜はやさし』の「ガウスホテル」のモデ
ルとされるホテルだ。
フランス領リヴィエラの海岸で、ほぼマルセイユとイタリア国境の中間に、堂々たるばら色の大ホテルがある。き
らきら輝くその正面には棕梠の木立がうやうやしくかしずき、ホテルの前にはせまくてまばゆい浜辺がひろがっ
ている。
『夜はやさし』はこんな描写から始まる。とても印象深いプロローグだ。街道を岬の突端に向かって走っていく
と、"HOTEL DU CAP"と名前のある看板がさりげなく置かれているのに気付く。
(The Romantic Egoists より)
その先に車寄せがあり、さほど巨大でもないが、しっかりした建物が見える。「岬ホテル」である。車を止め
て写真を撮っていると、ドアマンがガラス扉越しにこちらを伺っているのが分かる。現在でも世界中の名士が訪
れるホテルであり、是非僕も、と思っては見たが、旅程(と財布)の都合から今回は外から覗くだけに留めた。
通りから見える外観上はなんてことはないリゾートホテルであり、「堂々たるバラ色の大ホテル」という描写は
どうか、といった印象を受けた。色がバラ色ではないし、棕櫚なんてどこにも無い、いや、建物の右端にしょぼ
いのがあるといえばあるなといった程度。短絡思考で「フィッツジェラルドは小説にする段階で見事な脚色を行
なったのだろう」とひとりごちて数枚写真を撮ると早々に引き上げ、最大の目的地である「オテル・ベル・リー
ブ」へと向かった。今から思えばトイレの一つも借りておくべきだったのだが、そこに気づくのは、帰国してか
らずっとたってからのことだ。
オテル・ベル・リーブ
ベル・リーブはアンチーブ岬のカンヌ寄りの付け根、ジュアン・レ・パンの繁華街の外れの海岸道路脇にある。
フィッツジェラルド夫妻が 1926 年 6 月から年末まで住んでいたヴィラ・サン・ルイを増改築してできたホテルで
ある。出発前に坪井会長や藤谷先生からそれを教えていただいた時には大変気分が高揚した。なにしろ、お金さ
え払えば「フィッツジェラルドの家」に泊まれちゃうというのだから。(普通ならせいぜい門扉の前でピースし
て写真撮って帰る位が関の山だ)。 興奮冷め遣らぬ勢いに乗り、四苦八苦してホテルとコンタクトをとり、「フ
ィッツジェラルドが見ていた景色が見られるなど、何かしら彼に関連した部屋でお薦めのヤツを一つ」、とか何
とか注文をつけて予約を確保。あてがわれたのは分不相応な「高級ホテル」の「スーペリアツイン」。お値段も
それなりで「・・・なんかこれ、ボラレてんとちゃうやろか?」という気がしなくもなかった。
ホテル前にはフェラーリがさりげなく路上駐車されていたりしたが、レンタルした大事なプジョー306 に傷でもつ
いては困る。僕は路上駐車はゴメンなので、一応コンセルジュに聞いてみると、「いいですよ、そこ(路上)に止
めといて下さい。キーを預かります」という返事だった。(翌朝プジョーは濃紺のフェラーリといっしょに松の葉
っぱと松ぼっくりをたっぷり浴びた状態で、全く同じ場所・・・路上に放置されていた。う~ん)
ジュアンの繁華街はまさに目と鼻の先、つまりフィッツジェラルドの家はカジノまで歩いて5分というロケー
ションだった。海岸沿いには公園があり、近所の老人たちはペンタクに興じ、町はたくさんの観光客でにぎわっ
ている。歩道にはカンヌよろしくジャズ・ミュージシャンの手形のプレートが埋め込まれていた。
(ベルリーブの向かい側にはこんな看板が↑)
ベル・リーブはフィッツジェラルドが住んだ 1926 年当時と比べると、大幅に改装が加えられている。階数も増
え、海岸から見て右翼の客室部分が増築、左翼も左半分の客室部分が増築されたか、もしくは部屋数を増やす為
に中央が仕切られたようだ。僕の部屋は、フロントの女性の「素晴らしいお部屋ですよ。あ、私には、素晴らし
いと思えるお部屋ですよ」とのコメント付の左翼中央よりの3階の部屋。帰国後、ベル・リーブのHP上の古い
写真を見ると、当時 3 階があったかどうか、今ひとつはっきりしない。しかし右翼の客室部分はあきらかに無い
ことを考えると、良い部屋をあてがってくれたようだ。黄色をベースにした室内の内装も素晴らしく、窓からは
ジュアン・レ・パンの海岸線から対岸のゴルフ・ジュアン、岬の端までが遠く見渡せる。そして、そこに横たわ
るのは、フィッツジェラルド夫妻が見つめたのと同じ、海の藍なのだ。ホテル脇の GALLICE 港桟橋の突端には小
さな灯台があり、夜になると「緑色の灯り」が燈るのが、部屋から良く見えた。
深夜、一人で漆黒の海にともる灯台や対岸の灯を眺めていると、フィッツジェラルドがここで暮らしていた 1926
年という年は、彼にとってそれほど素晴らしい年ではなかったのではないかという想いがよぎる。『ギャツビー』
で成功こそしていたが、短編の執筆も滞り、ゼルダは恋愛事件の後、盲腸を患うなど人生の暗い面が少しばかり
顔を覗かせ始めた年なのではなかったろうか。
[窓からの眺め。右端は長時間露光による深夜のゴルフ・ジュアン↑]
その夏の彼の自己破壊的行動については、良く知られるところであるが、敬愛するマーフィーにアメリカ荘への
立ち入りを禁止された夜は、どんな思いでこの海を眺めたのだろうか。カジノでゼルダとバカ騒ぎをして帰宅し
た夜は、どんな思いでベッドに横たわったのだろうか。想像できるのは、そこにも僕が見つめるのと変わらぬ漠
とした漆黒の海と、故郷を遠く離れたフランスの田舎、アンチーブの深夜の静寂が広がっていたのだろうという
ことだけだ。翌朝、コンセルジュにフィッツジェラルド夫妻がここで撮った有名な写真を見せ、「これと同じよ
うな写真を撮りたいが、何処がお勧めか?」と尋ねた。「ああ、この写真。フロントにも飾ってありますよ。当
時とは大分建物の構造が変わっていて、全く同じ場所は残念ながらありません。例えば、この木の手摺はもう
The Romantic Egoists より
The Romantic Egoists より
有りません。でも、私が思うには、バーへの入り口が、一番ではないかと・・・」というわけで、バーの入り口
で同じポーズで記念写真をパチリ。これで悲願達成、言うこと無しである。ベル・リーブはレストランも含めて
とても心地の良いホテルだった。(レストランのメニューには「子うさぎのラヴィオリ」の文字が・・・)
エデンロック~帰国
この日はニース背後の山の中にある鷲ノ巣村「リュセラム」へ行く予定なのだが、先の岬ホテルのすぐそばあ
る「ナポレオン記念館」に立ち寄った。ナポレオンの展示には全く興味無いのだが、ここの庭からとなりのホテ
ルのプライベートビーチが覗けるという噂を聞いていたので、トライすることにしたのだ。なるほど、隣のエデ
ンロックのプライベートビーチが良く見える。そして驚いたことに、そこには遊泳区域を示す「浮かべられたブ
イ」と「いかだ」があった。まさに『夜はやさし』のローズマリー登場のシーンを彷彿とさせる眺めではないか。
しばしの間、なんとも説明しがたい不思議な幸福感に包まれていくのを感じさせる眺めだった。
そして、僕たちはそんなささやかな幸福感を胸に抱きつつ、最後の目的地である鄙びた鷲巣村「リュセラム」
へと、夢の岬「カプ・ダンティーブ」を後にした。
実は帰国後相当たってから、このエデンロックなる施設、「岬ホテル」の一部分であることが分かった。さら
にこのホテルのホームページを調べたところ、僕が街道側から見た建物(本館)の海に面した側の壁はどうやら
ピンク色に見えるし、さらに、棕梠の大木まで写っている。(やはりトイレを借りておくべきだったのだ)しか
し「いかだ」だけでも拝めたことで、良しとしようではないか。当時の面影は知るよしもないのだが、数枚の写
真を参考にすると、このエデンロックは岩場が中心であり、小説にあるようなパラソルをいくつも立てられる浜
辺は見当たらない。フィッツジェラルドがモデルとした砂浜は、ガループ海岸なのかもしれないし、ヴィラ・サ
ン・ルイ前の浜辺なのかも知れない。現在の岬ホテルのプライベートビーチには砂浜は無く、ガループからはカ
ンヌは見えない。『夜はやさし』の舞台には、なかなかたどり着くことができない。けれども、いつの日か、蜃
気楼のように霞んでいくカンヌの遠景を眺め、砂色の雲の合間に薄れゆく意識の中、うたた寝をする日を夢みる
こととしたい。
関空に帰ると、またもやエールがパリで荷物を積み忘れたとのアナウンス。高い確率でエールは荷物をパリに
置き忘れているが、幸い僕らの荷物は届いていた。
引用
野崎孝訳『ライ麦畑でつかまえて』白水社
谷口睦男訳『夜はやさし』角川文庫
参考文献
刈田元司編 『フィッツジェラルドの文学』荒地出版社
ナンシー・ミルフォード,大橋吉之輔訳『ゼルダ』新潮社
カルヴィン・トムキンズ,青山南訳『優雅な生活が最高の復讐である』リブロポート
M.J.Bruccoli, Scottie Fitzgerald Smith, and Joan P.Kerr, eds. The Romantic Egoists. New York: Scribners,
1974.
**その他インターネットアドレス**
・岬ホテルHP(エデンロックとなっている為、岬ホテルの検索ではヒットしづらい。写真あり)
http://www.edenroc-hotel.fr/
・ベル・リーブHP(古い写真あり)http://www.bellesrives.com/
・アンチーブ関連HP http://www.lecapdantibes.com/
(アンチーブに関する旧時代の物も含めて豊富な写真あり。ジュアンのカジノの古い写
真あり))
http://www.riviera.fr/ (フィッツジェラルドに関する記述あり)
文献目録(※印は補遺または再録を示す、2002 年 3 月)
文献センター 永岡定夫
松村延昭 シナリオ作家としての Fitzgerald 主流(同志社大学英文学会)61 2000. 3. 10 、pp.99-116
稲垣浩二 F. Scott Fitzgerald は「神の子」か?The Great Gatsby の曖昧さ 武蔵大学人文学会 31(2) 2000. 2.
21 pp.136-121
加藤好文 北部と南部の隔絶?フィッツジェラルド「氷の宮殿」を読む 愛媛大学法文学部論集人文学科編 8
2000. 2. 25 pp.97- 114
スザンヌ・ロドリゲス=ハンター(山本博監訳 山本やよい訳)ロスト・ジエネレーションの食卓一偉大な作家・
芸術家たちは何を食べたのか早川書房 2000. 4. 3(F.スコット・フイッツジェラルドとサラ・マーフィー--海
辺にて(pp.243-252)、ゼルダ・フイッツジェラルド---真珠のスープ(pp.305-315)の章
池上永一 書棚の中の「女」③ 文藝春秋「本の話」9月号 2000. 9. 1. The Great Gatsby の「実況中継」(p.37)
今村楯夫 ロスト・ゼネレーションの作家?フイッツジェラルド「グレ-ト・ギャツビー」ロスト・ゼネレーショ
ンー失われた世代 1920-1929 毎日新聞社、2000. 7. 3 p.9
永岡定夫 Fitzgerald 国際学会報告----二一ス苦行の旅 英語青年 146-6 No.6、2000. 9. 1 p.390
坪井清彦 ウルフとフイッツジェラルド---類似と相違 古平隆・常本浩編 人間と世界---トマス・ウルフ論集
2000 金星堂 2000. 10. 3 pp.49-65
村上春樹・柴田元幸 翻訳夜話 文春新書 129 pp.236-239(カポーティーとフイッツジェラルド)の項ほか
岡本紀元・高山吉張訳 友情の網渡り---新フイッツジェラルドとヘミングウェイ あぽろん社 2001. 1. 20 388pp.
+xx Matthew J. Bruccoli: Fitzgerald and Hemingway: A Dangerous Friendship(1994)の邦訳
永岡定夫 「灰の谷」考---F. Scott Fitzgerald 研究余滴(2)帝京大学文学部紀要・米英言語文化 32 2001. 1.
31 pp.45-55
グッドウィン・W・ドナルド(小山昭夫訳) アルコールと作家たち 現代企画室 2001. 1. 15「私F.スコッ
ト・フイッツジエラルド、悪名高きアルコール中毒」、pp.55-73
青山南・篠目清美訳 ゼルダ・フィッツジェラルド全作品 新潮社 2001. 3. 20 Matthew J. Bruccoli(ed.) The
Collected Writings of Zelda Fitzgerald(1991)の訳
斎藤英治 「作家ゼルダ」の妖しい魅力 波 2001 年 4 月号 新潮社 2001 pp.56-57 前掲害の書評
藤本純子 F. Scott Fitzgerald のパリ ありす:英米文学研究(東京女子大学大学院同人誌)20 2001. 3. 1
pp.1-20
The Great Gatsby に示された Jazz Age---F. Scott Fitzgerald と 1920 年代、甲南女子大学英文学
岡本紀元
研究 37 2001. 3. 11 pp.29-58
Sawazaki, Yukiko(澤崎由起子) Can the Flapper Speak?: A Socio-cultural Discourse and Daisy Buchanan
The
Fitzgerald Club of Japan Newsletter No. 16 2001. 4 pp.17-27
武藤脩二 アイリッシユ・アメリカンの文学 中央大学人文科学研究所編 ケルト復興 2001. 3 ブラック・ア
イ
リッシユ--フイッツジエラルドの場合の項
pp.507-526
上西哲雄 ウイルソンとアメリカ同時代の小説---フィッツジェラルドヘの肩入れの理由(わけ) 英語青年 147-3
2001. 6. 1 pp.159-161
山本博 F. Scott Fitzgerald 作品における〈乗り物 〉という装置 福岡女学院大学人文学
研究所紀要 人
文学研究4
2001. 3 pp.227-249
※--- 意識下への遡源---『偉大なギャツビィ』の<語り手>について 福岡女学院
短期大学紀要 19 1983.
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馬場雅典
"Absolution"--Schwartz 神父の Idealism 九州女子大学紀要 37-3 2001. 3、pp.53-64
日下隆司 判断を留保すること-The GREAT Gatsby における写真と語り、日本アメリカ文学会東京支部 、ア
メリカ文学 62 2001. 6. 1 pp.22-32
※両角千江子 「思い違い」のモチーフを通して見た The Great Gatsby 宮城学院女子大学学芸学部英文学
会 英文学会誌 12 1984. 3. 10 pp.12-30
※村尾純子 On "A Short Trip Home":Meeting with the Shadow--The Psychological Development of the
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--- A Study of the Psychological Theme of "The Rich Boy" 関西大学大学院英語英米文学研究会 POIESIS
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---“The Rich Boy”の心理的テーマ 千里山文学論集 64 2000. 9. 1. pp.41-63
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森慎一郎 机の上の原稿--『夜はやさし』における精神科医の破滅について、英語青年 147-7 2001. 10. 1
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大橋千秋(訳)植物 大阪教育図書 2001. 9. 17 166pp.
※西村千稔 "The Diamond as Big as the Ritz"における Fitzgerald の意図について” 、小樽女子短期大学研
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澤崎由起子 フラッパーは語れるか─ 消費社会文化とジェンダー 関西大学大学院文学研究科、千里山文学論集
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村尾純子 Evylyn Piper とカットグラスの鉢 同上 pp.95-115
澤崎由起子 異本(VERSION)としての Trimalchio─ディアスポラ、市場論理、ネイティヴィズム 「文学と評論」
3-1 2001.
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※深谷素子 消費社会の寓話─フィッツジェラルドの『美しく呪われた人々』再読、早稲田大学英文学会英文
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※宮内華代子 『バビロン再訪』私論 青山学院女子短期大学紀要 41 1987. 11 pp.17-33
--- F. スコット・フィッツジェラルド論─「冬の夢」の中の「新しい女」 青山
学院女子短期大学紀要 44、
1999. 11、 pp.1-18
--- 「失われた世代」の作家たち─ フィッツジェラルドとヘミングウェイの絆、青山学院女子短期大学総合文
化研究所年報 3、1995. 12 pp.11-22
村上春樹
ジャズ・エイジの旗手 週刊朝日百科『世界の文学』39 名作への招待 / 南北
アメリカ① 朝
日新聞社 2000. 2. 20 pp.274-278
今村盾夫 フラッパーの誕生 同上 p.271
※鈴木規子 The Great Gatsby にみるロマンとエゴイズム 英米文学(戸板女子短大英米文学研究会)26 、1975.
9. 10
pp.26-27
Nishimura, Akiyo(西村明代)
Ethnicity in F. Scott Fitzgerald's Fiction 日本女子大学大学院文学研
究科紀要 8 3 pp.29-44
藤谷聖和 F. Scott Fitzgerald と大衆雑誌─The Saturday Evening Post から Esquire へ、龍谷大学論集(龍谷
学会)458
号、2002. 7 pp.40-60
後記
・新学期が始まりました。異動などで落ち着かない時期です。異動のあった方は事務局までお知らせ下さい。
・ニューズレター17 号を送ります。今回は論文と文献目録に加えて、旅行記「フィッツジェラルド風、南仏旅行」
を掲載しております。作品では読んでいても、なかなかその場所に行くことができませんが、川辺氏が長年の夢
を実現されましたので、書いて頂きました。ここでは予算の都合上、モノクロ写真で掲載しておりますが、ホー
ムページではカラー写真で掲載しております。是非ご覧下さい。
・今年は第 6 回国際学会が St. Paul にて 9 月 19 日~21 日の期間、開催されます。The F. Scott Fitzgerald Society
のホームページ(http://www.fitzgeraldsociety.org/papers/index.html)で St. Paul へのアクセスや宿泊につ
いての情報が得られます。
またF. Scott Fitzgerald Walking Tour of St. Paul, MN では、
St. Paul の街でFitzgerald
ゆかりの場所を前もって見ておくことができます。
・The Foreign Critical Reputation of F. Scott Fitzgerald: an Analysis and Annotated Bibliography 第 2
版出版(著者 Linda Stanley 教授、2002 年 10 月出版予定)のために、ご発表論文、業績等に関しての英文要旨
をお願い致しましたところ、多くの方々からお送りいただき有難うございました。さっそく、Stanley 教授に原稿
を送りました。ご協力に深く感謝致します。Stanley 教授からの謝辞が届いておりますので掲載致します。
To the members of the Fitzgerald Society of Japan,
I have been working on this current project on Fitzgerald's foreign reputation for a decade now. If all
scholars around the world were as efficient and generous as all of you are, I would have finished it long
ago.
Thank you so much for your time, effort, and generosity,
Linda Stanley