第49号 バタフライ効果

“バタフライ効果”
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本市には、学校教育を支えてくれる地域の方々や関係団
体の方々が実に多い。と言うよりも、
“地域の子どもは自分
たちの手で育て教育する”という篤い思いを持った人達が
本当にたくさんいると思う。
早朝や放課後、市内のどの地域でも、通学路の至る所で
登下校する子どもたちに温かな目を注ぐ多くの見守り隊の
方々が立っている。雨の日も、凍てつく寒い朝も、また、
放課後児童会の下校時までも・・・・。
しかも、
その大半は、現在の成熟した社会を築き上げ次世代にバトンを渡した高齢の方々である。
自治会、老人会、育成会等々、様々な立場を越えて、“自分が住む町の子どもたちのため”にと頑
張ってくれているのである。
市内どの地域に出向いても、
“おらが村の子どもたちは、地域総がかりで見守り育てます”とい
う温かな声が聞こえてくる。こうした思いに応え、ここ数年、放課後や週休日に地域の行事に参加
する先生方の姿が多くなったと思う。河内長野は、本当に人に優しく、心癒される優しい空気に満
ちた町だと思う。この豊かな土壌で教育に関わる生活が送れることに感謝している。
仕事柄、そうした方々と話す機会も多い。総じて、本市の学校や教育に対しては好意的で、子ど
もたちの姿や学校の取り組みを高く評価する言葉が多く聞かれる。
つい先日も、見守り隊の一人で、既に社会の一線を退いた方の話を聞いて驚いた。それは、下校
時にいつも顔を合わしている子どもの姿がいないので、
その家庭にわざわざ確認に行ったという話
である。すると、その子は、その日は決められた通学路を通らずに道草をしながら帰っていたとい
うことが分かり、ホッと胸を撫で下ろしたというのである。
戦後 70 年、
“個人”を大切にする指導に重心を傾け、今では、国際社会に胸の張れる実に多彩
な考えを持った、しかも、自己肯定感を持つたくましい人達が多く見られるようになった。戦後教
育の大きな成果である。そうした意味では、教育行政や各校の学校運営に対して、様々な価値観を
もとに非難や苦情を呈しても当然である空気の中で、このような心温まる声が多いと言うことは、
私たち教育関係者の明日への活力につながるものである。
ただ一方で、こういう声を聞くこともある。
学校の先生は挨拶一つしない。私たちが見守り隊の服を着ているから分かるはずなのにとか、
「お
っちゃん、何ぼもらってんの?」と子どもから言われた等である。内実はともかく、そうした子ど
もの傍にいる保護者や先生の平素の言動が実に気になる。
また、一学期末の猛烈に暑い日、学校訪問で出逢った先生との話も頭に焼き付いている。
市は 10 年近く前、厳しい財政の中ではあったが、子ども達の教育環境が少しでも向上すればと
扇風機を全教室に設置した。その先生は、そのことに触れ、「すごく涼しくなりました!」と感想
の心を漏らした。ところが、傍にいたもう一人の先生の言葉は、「エアコンの方が涼しい」であっ
た。
人それぞれの思いを否定する気はない。ただ、エアコンが完備された環境で子どもたちの授業を行
うことが出来ればと市民の誰しもが願っていることである。学校も行政も思いは全く同様である。
まずは、その思いを感じ取り、
「現状に感謝するのが先でしょ」と思うのは私だけであろうか。つ
い愚痴が洩れてしまった。
公教育を担う教職員も、教育行政の職員も、また、子ども達の育ちに関わる関係者それぞれが、
それぞれの立場において、極めて重要な教育パートナーである。そのことを思えば、まずは現状を
評価し、その上に立って様々に思いを出し合い、そして、気持ちを一つにして、子ども達の教育水
準、教育環境をより良くしていくという道を辿りたいと思う。
個別の課題の是非はともかく、現状の姿に対して不平不満だけを公然と、また、口いっぱいに言
うのが組織人ではない。互いの立場をも察し、理解し、まずは感謝の心を最優先し、配意を持って
次の一歩を踏み出していくのが社会人であると思う。見守り隊の人たちとの関係も同じであろう。
些細なことではあるが、そうした心根を大事にして子ども達の前に立ちたいものである。特に、今
の時期、こうした姿勢に心掛けてほしいと思う。
なぜなら、河内長野が他市に先駆け、学校・地域・家庭それぞれの責任の下で行動連携をしよう
という土壌を構築し始めている時期だからである。
コミュニティ・スクール制度の究極の課題は、学校と地域の関係を“批判し合う関係”から“不
足を補う関係”にいかに高めるかである。
今、動きはじめている本市の教育改革の成否を握るのは、まさに、人と人の篤い思いに裏打ちさ
れた“つながり”である。学校は今、地域という教育パートナーとの関係を着実に構築し続けなけ
ればならない。そうした時にこそ大切にしなければならないものは、“互いを認め合う心”である。
無責任なコメンテーターであってはならない。
『バタフライ効果』という自然現象での変化の法則がある。SF 小説の『ジェラシック・パーク』
の登場人物である数学者が、「バタフライ効果」によって事件の結末を説明したことで、一時、「カ
オス理論」とともに流行ったことを記憶している方も多いと思う。
もとは、
「ブラジルの 1 匹の蝶の羽ばたきがテキサスで竜巻を引き起こす」という気象学者エドワ
ード・ローレンツの講演タイトルから生まれた言葉である。
その正否については講演でも先送りされたが、
“非常に小さな事象が、因果関係の末に大きな結果
につながる”という考え方で、大事はほんの些細なことから起こるという「千丈の堤も蟻の一穴」
という格言に通じるものである。
ミクロの揺らぎがマクロの挙動を生じさせる恐れのあることを、この時期にいる私たちはしっか
りと肝に銘じておかなければならない。
大げさに聞こえるかも知れないが、見守り隊への挨拶の一言、扇風機を涼しいと素直に感謝でき
る一言、その心配りが、学校教育の様々な場面で子どもたちの教育効果に飛び火することがあり得
るのである。
バラバラの人間がバラバラのままでうまくやっていかなければならない価値観の多様化した社会
に求められるコミュニケーションは、自分の思いを押し殺して他者に寄り添う“協調性”ではない。
そうした世界で必要とされるのは、高度な“社会性”である。そして、それは、自己を的確に表
現する力と同時に、場の空気を察した言動や他者を第一人称にした対話の出来るスキルであること
に留意したいものである。