福音について- あるギリシャ人との対話

あるギリシャ人との対話
新約単篇
使徒言行録の福音
-福音について-
あるギリシャ人との対話
使徒言行録 17:10-11
この 45 年間ずっと文通しているギリシャ人が二人います。一人は恩師のマ
ルコス・シオーティスさん、もう一人は言語学者のニコス・コンドソプロス
さん。後の人は私と同年輩で、同門の先輩というところです。二人ともヨル
ゴス・クルムリスの弟子だからです。コンドソプロスさんは、現代ギリシャ
語の方言の研究が専門で、クレタ島の方言については世界的権威です。先日
もパリでの言語学会の例会で、その発表をして帰ったところです。彼は日本
語にも興味を持っていて、単語や文法について断片的な知識も持ち合わせて
います。日本の方言についても、自分で色分けして描いた分布図をくれたこ
ともあります。島根県の一部にある「ずうずう弁」のことも知っていて、そ
こだけは(御覧のように)東北方言と良く似た色に塗ってあります。もっと
も、この人の日本語は理論だけでして、話すことはできません。フランス語
はペラペラなんですが……。
ギリシャ人と福音のことを話す機会は滅多にありません。キリスト教につ
いては、知識人の方とも、一般の庶民の人とも語り合うことはよくありまし
た。ギリシャ教会の伝統とか、カトリックやプロテスタントとの違いとかで
す。でも、福音そのものについて語る相手は、なかなか見つかりませんでし
た。確かに、神学部のゼミナールとか、哲学部の講義の後の同級生との歓談
とかで、「こういうギリシャ風のキリスト教とか、ヨーロッパ流儀のキリス
ト教とは別に、聖書の福音そのものがあるのではないか」という話はしまし
たが、それも、「実際に生きた人間に応用して具体化すればギリシャ正教会
になる」という所へ来るのがオチです。
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そういう中で、「銘柄“何じるし”のキリスト教」というのでなく、福音
について、キリスト信仰について話す機会を得たときは、すっかり嬉しくな
ります。この手紙は 4 月 23 日の日付になっていますが、その中に私の福音理
解について語った言葉への彼の感想が、述べられています。
「ギリシャ正教と日本人についてのあなたの言葉には、私は全面的に同意
しています。あなたの考えは、あなたがギリシャにいた時からよく知ってい
たつもりです。そう、グリファダの教会であなたがした説教を今でもよく覚
えていますよ」……その古い原稿を引っ張り出してみました。封筒に入れて
セロテープでとめてあったのに、色が焼けて紙が少し黄色くなっています。
「道具抜きの宗教」という題で、三十年前の
スピーチです。その前置きの所で、「ちょうど下宿の近所のアポロン町で、
日本から来たアメリカ人の古い友人と歩いていましたとき……」というくだ
りがあります。「織田さん、あの看板の、『エクリシアスティカ・イーディ』
ってのは何だ?」


《;》

エクリシアスティカ・イーディは「教会用具」とでも訳しますか、ギリシ
ャ正教会で使う祭壇とか祭服、祭具、聖器物の類いを陳列している店です。
まあ、我々の所へも韓国のメーカーから祭壇や教卓、椅子などのカタログが
来ますけれど、ギリシャ正教やロシア正教会では、祭具はもっと色々あって、
例えば、イコンを立てる枠とか、位によって違う司祭と主教の祭服とか、映
画で御覧になったかも知れませんが、きらびやかな祭具が無数にあるのです。
たまたま鹿屋のマルコス(マーク)・マクセイさんが、「織田君、あれは何
屋さんだ?」とお聞きになったのを話の枕にしまして、「祭具や祭服抜きの
キリスト教」「聖書と体だけあればできる信仰生活」と言うようなスピーチ
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をしたのです。
その原稿を、いつものように古い友人のニコスに見てもらって、ギリシャ
語としてなるべく自然に聞こえるように直してもらったのですが、彼はその
「道具」という言葉が、あまりピッタリ来ないと言うのです。何か鋸とか金
槌とか工具を連想させる。じゃ何と言えばいいのかと言うと、適当な言葉が
ない。「でも、この言葉を省いたら、君の講話のポイントが生きて来ないか
ら……まあ、このままで行くか」ということになって、「道具抜きの宗教」
《》はアテネ市グリファダのキリストの教会
の主日説教として語られたのでした。彼はギリシャ正教徒なので、当日自分
の教会に出たのではないか……と思います。
その先月もらった手紙の中の彼の言葉です。「織田さんの信仰に関する考
え方は、織田さんがギリシャにおられた時からよく知っていました。」その
彼の言葉で初めて思い出したのですけれど、ニコスさんは私の原稿の語学モ
ニターをして、朱を入れてくれただけじゃなかったのです。あれを全部読ん
で考えていてくれた。嬉しかったですね。グリファダの教会へ来て僕のスピ
ーチを聞いた聴衆より、本気で読んで分かってくれていた。ところでその、
「ギリシャ正教と日本人についてのあなたの言葉には、私は全面的に同意し
ています」という彼のコメントを説明する必要がありますね。これは、今年
の 1 月 24 日の私の手紙から……。
「宣教師ニコライ・カサトキンについての特集記事を有り難う。当地では
東京のニコライ堂のニコライとして、また中井木莵麻呂と共訳の新約聖書『日
本正教会訳』でも知られています。私は牛丸康夫さんの『日本正教会史』で
も読みました。もっとも今の日本人にとっては、ニコライ堂が観光名所とし
て記憶に残るだけでしょう。残念ですが、この国ではキリスト教の文化に関
心を寄せる人はいても、キリストと福音に興味を持つ人は寥々たるものです。
由緒ある教会堂とか、宗教音楽、キリスト教の文学や芸術に首を突っ込む人
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は多いですし、西洋のキリスト教の習慣や教会での結婚式まで、人はやりた
がります。でも、キリスト御自身は要らないのです。そんな中で私たちは、
このキリストに人々が目を開いてくれるように、小さな努力をしています。」
「コンドソプロスさん、ギリシャとギリシャ人をこれだけ愛している私が、
ギリシャ正教という宗教に、どうして愛着と熱意を持たないのか不思議に思
われるでしょうね。宣教師としてのニコライ・カサトキンに対しては、日本
人をあれだけ愛して、日本に福音を伝える事業に一生を献げてくれた、自分
たちの恩人として感謝もし、心から尊敬の念をも抱いています。ニコライの
炎は私の中にも灯されて、燃えているのです。パウロ式に言えば、『日本の
人たちに福音を伝えることこそが、私の切なる願いと負い目』と感じていま
す。ただ、その『負い目』というのは、私の同胞に『復活であるキリスト』、
『命そのものであるキリスト』を伝えることにあって、この国にもう一つの
セットになったキリスト教文化を移植する気は全くないのです。仮にそれが
世界で最も美しい伝統を保存しているとしても。」―ギリシャ正教を暗に
指しています。
私の手紙の続きです。「日本にはすでに十分な数の、西欧的キリスト教の
類型が氾濫しています。ドイツのもの英国のもの、アメリカの西部時代から
の改革運動まで含めて、キリスト教の類型や流儀は食傷するほど豊富に輸入
されています。私はその中へ見本をもう一つ展示する気はありません。私は、
そういう宗教的伝統や道具を省略した、ナマのキリストと裸の人間の関わり
を紹介したいだけなのです。そういう意味で、あのベレアのユダヤ人を手本
に、御言葉だけを受け入れて、それが「果たしてその通りかどうか
()聖書を調べています(使
17:11)……大阪府の片隅で、ほんの二十数人の仲間と一緒に。」―ここ
までが私の言葉……
「あなたの言葉には、私は全面的に同意しています。あなたのお考えは、
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あなたがギリシャにいた時からよく知っていました」という言葉はそれを読
んだ彼の返事でした。「ギリシャ正教会と聖書にある主の言葉や使徒たちの
言葉とをはっきり区別して考えるあなたの考えは、正しいと思うだけではな
く、これは私自身が、すでに何年も前から近所の親しい司祭たちにも語って
きたものですが、教会関係の人たちには、なかなか分かってはもらえないよ
うに思います。」その後にこうありました。
「あなたの言われる『日本にもう一つのキリスト教文化や慣例を付け加え
たくはない』という言葉は至言です。特に『すでに食傷するくらい欧米の何々
流儀のキリスト教というのは、みんな揃っている』というのは面白いと思う
し、私も全く同意見です。あなたは覚えているかどうか……あのグリファダ
の教会でされた説教の内容は、私は今もはっきりと覚えていますよ。」これ
は嬉しかったです。その後に彼はこう付け加えました。「ただ、こういう伝
統的な教会の有形の要素は、私たちギリシャ人にとっては、やはり、歴史的
に貴重な価値を持ち、民衆の心理的な台座の働きをしていること、これは、
あなたも認めてくれるでしょう。」
こういう話をギリシャ人との間で交わせるとは、私は思ってもいなかった
ので、とても感動しました。私たちの持っている聖書とキリストへの素朴な
取り組みの姿勢というものは、外の世界の人にも伝わることがある。少なく
とも、そういうものに耳を貸すだけの準備のできた人たちがいる、というこ
とは嬉しいことです。
(中略―最初の講述から一部を削除)
「あるギリシャ人との対話」で始まりました。「ギリシャ正教の人にこん
なこと言っても通じる筈はない」と投げてしまえば、コンドソプロスさんの
手紙を読む感動は味わえなかったでしょう。でも、あの感動の陰には、何十
通もの手紙のやりとりと、アテネでの交流と、彼が二度日本に来たときの、
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あるギリシャ人との対話
大東と奈良での交わりと、お互いの知的努力の全部と祈りのすべてが基礎に
なっているのです。
その交流がなければ、あの内容は私たちの間で交わすことはできなかった
でしょう。でも、時間さえ掛ければ誰とでもそんな交流が成立するとは限り
ません。ただ、神の憐れみによってそんな貴重な交わりが成立し、「ああ、
あなたもベレアの人なんだ!」という発見[表題の下に掲げた新約聖書 使徒
行伝 17 章の言葉から]をする喜びは格別です。
この絵葉書はそんな霊的内容の伝達とは違って、「今パリを発ってアテネ
に帰る。パリでは日本レストランで二回食事した」という、他愛もないもの
ですが、そんなちょっとした合間に、私のことを考えて、パリ市オデオン局
の消印で投函してくれたことが、嬉しいのです。
(1997/07/02 OBS チャペル)
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