平成 26 年 9 月吉日 「翼よ よみがえれ」(新中国空軍建設に貢献した日本

平成 26 年 9 月吉日
「翼よ よみがえれ」(新中国空軍建設に貢献した日本兵士の物語)取り扱いに当たって
各位
平素は格別のご厚情を賜り厚くお礼申し上げます。
2012 年当会事務局に土屋氏より、
「中国帰国者友好会初代会長の林弥一郎氏のドキュメンター
小説を書きたい」旨の連絡を頂き、資料紹介等行う中、昨年 5 月東京で土屋氏と非常に有意義
な意見交換ができました。土屋氏は「人間はすべて理解しあえるということ、人間はその時々
で最善を尽くせば成功したと言えなくてもそれでよいのだということ、隣国大国中国とはうま
くやっていける」事を伝えたいと言っていました。しかし小説が完成したが、残念ながら書店
では取り扱っていません。
この小説は、史実に基づき戦争終結後に勝者と敗者、被害者と加害者、管理者と捕虜、人民
軍と帝国陸軍等まったく異なる境遇にいた人たちが、
「新中国空軍創設」に向け感情的対立を乗
り越え、一致協力する事で相互理解と共にプロジェクトは完成できる事を示しています。
現在日中両国の関係は非常に厳しく、日中双方の国民感情は日中国交回復後最悪の状況にあ
ります。この様な時こそ、秘話を広く知ってもらい、民間レベルでの日中相互理解に役立てる
事が、当会の使命と捉え本小説を取り扱う事にしました。
著者土屋龍司氏の「あらすじ」を参照してください。現在手元に 100 冊あり、当面会員希望
者への配布及び販売を開始します。是非とも一読お願い申し上げます。
関西日中平和友好会
会長 見本重宏
「翼よ
よみがえれ!」 あらすじ
土屋龍司著
2008 年、北京オリンピックの年、酒井亮太は祖父酒井孝志を連れてオリンピックを見に北京
に行く。北京の軍事博物館を訪れたとき、祖父は展示してあった日本陸軍の九九式高等練習機を
見て涙を流す。酒井孝志は満州にいた時、第 4 練成飛行隊という部隊で隼の整備士をしていた。
死ぬ前にもう一度中国を見たいと孫の酒井亮太にせがみ北京に来たのだが、そこで自分が整備し
ていた九九式高練を思いがけなく見て涙を流したのであった。第4練成飛行隊の隊長は林田与一
郎といって、部隊は中国共産軍に頼まれて部隊ごと中国空軍の建設に協力したのだという。孫の
酒井亮太は始めて知るこの話を、どうしてそのようなことになったのか、どのような顛末となっ
たのか一つの物語にした。
林田の第 4 練成飛行隊は瀋陽近くの奉集堡飛行場で終戦を迎え、ソ連軍に武装解除されるのを
待っていた。その時、南の方に日本人が育てた稲がありそれを難民となっている日本人の食糧に
すれば大勢の日本人を助けることができると聞き、飛行隊ごと南に向かう。しかし途中で部隊ご
と中国共産軍の捕虜となる。中国共産軍は林田の部隊が飛行隊であると知り、東北部の総司令官
であった林彪らが林田に航空学校を建設する協力を要請する。林田は部隊の者と話し合いこれを
受け入れる。
林田たちは共産軍の者と協力し、まずは日本軍の遺棄した航空機材集めから始め、これを修理、
組み立てて 1946 年 6 月、東北航空学校を設立する。航空学校は中国国共内戦の中、国民党軍の
進撃により何度も移転するが、資材不足、食糧不足、酷寒などの壁に突き当たる。中でも大きな
壁となったのは、日本軍の犠牲となった家族、友人を多く抱える学生や村人たちの敵対感情であ
った。しかし敵対感情持つ者たちも、林田たちの情熱を傾けた教育と、中国共産党の空軍を創る
ためには技術を持った日本人が必要だと言う説得を理解し、敵対感情は無くなっていく。国共内
戦が共産党有利に展開していくとともに東北航空学校の教育も進み、自前の一人前のパイロット
が養成されていく。
1949 年の中国建国大式典では北京の天安門広場上空を観閲飛行が行われたが、飛行士の多く
は林田たちの東北航空学校で育った飛行士であった。また、朝鮮戦争でソ連製ミグ-15 ジェット
戦闘機を操縦し、アメリカの F-86F ジェット戦闘機と互角に戦った中国空軍の飛行士の多くも
林田たちの養成した飛行士であった。
林田たちは朝鮮戦争終了後帰国するが、その多くは共産中国に協力したとして就職もままなら
ず、生活に苦労する。日中国交回復後、林田たちは中国空軍に招かれ、中国空軍司令官、中国空
軍副司令官となったかつての教え子たちと再会した。
著者土屋龍司氏の紹介
1951 年
静岡県裾野市生まれ
1975 年
防衛庁(現防衛省)
在英国大使館参事官・防衛庁国際企画課長・防衛庁人事1課長
大阪防衛施設局長・札幌防衛施設局長等
2008 年
防衛庁退職
著書:
「雪の曙-幕末に散った松前藩士たち」(2009 年柏艪舎)
訳書:
「国防の変容と軍隊の管理」(ディビット・チューナー著.2003 年朝雲新聞社)