フリードリヒ・ヴォルフ 「ドイツ・ファシズムの劇文学」1)

フリードリヒ・ヴォルフ
「ドイツ・ファシズムの劇文学」
1)
Friedrich Wolf: « Die Dramatik des deutschen Faschismus » (1936)
ファシズムが次なる戦争へむけて進めている軍備拡張
が注ぎ込まれたのだ。組織は大戦を前提とし、その
は、物質的な面にとどまらない。
「道徳的」、イデオロ
振る舞いは、フランドルの灰色の軍服を身にまとっ
ギー的な面においても同様なのだ。軍備というとき、そ
て死んでいった青年運動出身者たちと同じように、
れは戦車や航空機、毒ガス弾といった軍需資材だけでは
一糸の乱れもない。
ない。兵器がまさに狙いを定める当の軍需「人材」もま
た、軍備というわけである。砲弾に身をさらす、兵役対
1914 年 10 月末、かの有名な義勇軍、予備連隊 215、
象年齢の若者たち。彼らは若くして死ぬことを、輝かし
245、246 に属する数千の若者が、無能な師団長の名誉
く望ましい体験と思い込まされている。
欲のために無意味な死をとげた「ランゲマルクの犠牲
1935 年、ムルナウの宿営地にあるティングシュテッ
死」。当時は「子殺し」と呼ばれたこのできごとは、ツェ
テ〔ティングの場〕に集まった数千のヒトラー・ユーゲ
アカウレンの『ランゲマルク』〔『ランゲマルクの青年
ントの頭上には、「我々はドイツに身を捧げるために生
たち』〕や『U ボート 116』〔ベンノー・D・フランク〕、
まれてきた!」というスローガンが、巨大な文字で掲げ
そしてリヒャルト・オイリンガー『ドイツ受難劇』など、
られていた。親衛隊(SS)の帽子の上で、あるいは 10
五指に余る戯曲や放送劇のなかで、ドイツの青少年に
歳のヒトラー・ユーゲントたる「少年団員〔ピンプフ〕」
とって人生における最高の目標として書き記され、舞台
たちの旗や三角旗の上で、象徴かつ紋章としての髑髏
にのせられたのだった。「学生連隊」が昼のさなか、銃
が、黒地を背景にして薄ら笑いを浮かべている。そして
剣をつけた銃と翻る旗を掲げて英国の植民地駐留部隊め
ベルリンの SS たちは次のような標語をみずから唱える
がけて突撃した、それが戦術上いかに誤っていたかをこ
のだ。
こであげつらうつもりはない。重要なのは、このような
血なまぐさい凶行愚行、すなわち「ランゲマルクの犠牲
死のごとく邪悪、
死」の上に、ファシスト的戯曲全体の「主題体系〔テマー
苦境において忠実、
ティック〕」が構築されている、ということなのである。
死に際して大胆、
のちに多くの劇曲を生む鋳型となるものを把握するため
それこそが、SS !
にも、この主題上の前提、すなわち「ドイツ受難劇」、
デュッセルドルフ受難劇を、なにより知っておかねばな
10 歳の少年が掲げる「死ぬために生まれた」と書か
らない。というのも、若者たちのこの無意味な犠牲死は
れた三角旗。旗印としての髑髏。「死に際して大胆」と
神秘的な「受難」としてのみ描かれうるのであり、そこ
いうフレーズ……。「死」はファシストの青年にとって、
へはどのような問いも答えも及ばないからだ。ドイツ青
自明かつ追い求めるべき目的なのである。だが彼ら若者
年や 10 歳そこそこのドイツ少年の耳に、おまえたちは
たちは、いったいどのような死を死なねばならぬのだ
じきに前線で死なねばならぬ、という声がくり返し響き
ろう? ヒトラー・ユーゲントの指導者バルドゥーア・
渡るのである。
フォン・シーラハは党公認の著書『ヒトラー・ユーゲン
ト、その理念と形態』の第一章冒頭でこう記している。
ヒトラー・ユーゲントは世界大戦の「灰色の軍隊」
を引き継ぐものである。ヒトラー・ユーゲントはあ
かつての青年運動からヒトラー・ユーゲントはさま
らたな人間像を築き上げた。前線で真っ先に突撃す
ざまなものを引き継いでいる。そしてアードルフ・
る兵士と同様に、十二歳で自らの理念に殉じること
ヒトラーによって、世界戦争の最前線からその中身
のできる若者である。
1)[ 訳注]初出:Internationale Literatur, 8/1936, Moskau. 翻訳に際しては以下を底本とした。Kritik in der Zeit. Antifasistische
deutsche Literaturkritik 1933-1945. Mitteldeutscher Verlag, Halle-Leipzig, 1981.
― 1 ―
(「デア・アングリフ(攻撃)」1933 年 4 月 2 日号)
ちくしょうめ! やつは敢然と泥にまみれ
〔ゲッベルスが主宰した新聞〕
死者のなか立ち上がるか!
有刺鉄線でできた茨の冠
かつてフランクフルトで演劇批評を行っていたヴェル
耐えねばならぬ、おれは、この受難を!
ナー・ドイベルは、著書『悲劇へのドイツ的道程』の最
後にこう書き記している。
もちろん、犠牲死の要求がただちにファシズム的ドラ
マトゥルギーへとつながったわけではない。民族共同体
英雄的な死とは、語の全き意味において、ドイツ人
という、第三帝国において登場するだろう聖なる福音、
が達しうる最高のものなのだ。
制御不能な福音が、ヒトラーの権力奪取以前にもその音
色を響かせていたのだ。これに関しては次の 3 つの戯曲
戦場での死、それはいまや「ドイツ人」にとって避け
が典型例である。ヒンツェ/グラフ『果てしなき道』、
られぬものであり、なにより「運命」、「運命という沈黙
ハラルト・ブラット『狂人伯閣下』、フォルスター=ブ
の岩」(ヘルダーリーン)なのである。そしてドイツの
ルクグラーフ『皆がひとりに』。
ファシズム的戦争演劇においても、威勢よく無鉄砲な外
『果てしなき道』は強い劇的効果を持つ、技術的にも
見とは裏腹に、犠牲となることは避けられぬという暗い
イデオロギー的にもきわめて精緻に作られた戯曲であ
宿命論がたしかに底流している。古典的な運命悲劇で
り、たとえばシェリフの『旅路の終わり』にも比すべき
は、主人公が運命に対して抗う意志を露わにするのが常
自然主義的前線劇である。シラミがたかり、汚れにまみ
である。その悲劇的な破滅は「打ち砕かれたところに立
れ、飢え、銃創のある「塹壕野郎」の一見即物的かつ自
ち上がる」
。シラーによって運命の刻印を刻まれた人物
然主義的な描写のもとで、ここでは塹壕ロマン主義がそ
となるあのヴァレンシュタインにも、みごとな一文があ
の喜ばしい復活を寿いでいる。この戯曲では塹壕での生
る―「星辰の運命というのは、君自身の胸にこそ宿っ
が、「民衆劇」的な体裁の上で真に迫って描かれている
ている」。それに対してファシズムのイデオロギーは、
ように見える。一方では勇敢で誠実な「前線野郎」、あ
運命に英雄的に抗おうとする我々の意志など、毫ほども
らゆる弱さとシラミをその身にまとい、塹壕の泥と炎の
気に留めぬ。ひどく悲観的、つまりは非英雄的なのであ
なかでもユーモアをたやさぬ名もなき灰緑色の兵士が描
る。数少ないファシズムの理論家のひとりであるクラー
かれ、しかしまた一方で、部下を酷使する将校たち、
「後
ゲスは、「運命とはほぼ常に悲運のことである」と言う。
方兵站基地のロバ野郎」の下劣さが「正当にも」描写さ
あのランゲマルクは暗黒かつ血塗れの地であり、ドイツ
れる。そして第三の前線ともいうべきもの、つまり飢え
のファシズムは自らの若者をそこへ連れて行こうとして
に苦しむ故郷、「コールラビの冬」を耐えている後背地、
いるのだ。帽子の縁と三角旗に髑髏を掲げた、あの青年
くる病の子どもたちの「ジャム足」などは、当然のごと
たちを。
く描かれない。なぜなら、「塹壕の民族共同体」を実証
することにこそ、この戯曲の意義があるからだ。ここで
昼、半陰陽の光、
は兵士と将校が、工場主と労働者が、同志として同じ泥
原初の不安、死への不安…
と炎のなかにいるのである。
没落の支配する国
君はそれを知らないか?
ここ、手榴弾の炸裂する音のなか、
われわれは皆、同胞だ、
ゴットフリート・ベンはこのように予言するのだが、
貧しき者も富める者も
いささか調子外れである。ファシズム的な死/破滅/犠
死に際しては区別なし。
牲のイデオロギーは、あの古代神話(「氷の時代、狼の
時代…」)と、「ほぼ常に悲運」であり、ついにはキリス
この精緻な「民衆劇」、この誠実顔の目くらましは、一
ト教的とも言うべき犠牲死にいたる運命の前で非英雄的
連の似たような前線劇すべての手本となる。
にひざまづくこととのあいだを、ふらふらとゆれ動くの
だ。典型は、「帝国大臣ゲッベルス博士によって国家図
「民族共同体」を示威宣伝するためのより市民的な
書賞年間最優賞を授けられた」オイリンガーの『ドイツ
ジャンルを代表するのが、ツェッペリン伯とエヒター
受難劇』にある例の詩節である。戦死した兵士たちをめ
ディンゲンで炎上した彼の最初の飛行船の運命を描く舞
ぐるその第 1 部の結末:
台、ハラルト・ブラット『狂人伯閣下』である。1911
― 2 ―
年、「狂気の」伯爵ツェッペリンは皇帝ヴィルヘルムと
こでのナポレオンは皇帝でも汎ヨーロッパ主義者でもな
将軍たちのもとへ金の無心に訪れるが、彼らは肩をすく
い。この重要な作品『百日』では、ナポレオンはいわば
めて「そのような絵空事のお遊びに出す金は、一文たり
民主主義的ハムレットであって、議会による統治と軍事
ともない」と言う。そこで伯爵は「民衆」に目を向ける。
独裁とのあいだをゆれ動く。彼は自分の指導者〔フュー
富める者にも貧しき者にもお願いする、たとえ一文でも
ラー〕的人格を信じていないがゆえに、破滅してゆく。
けっこうなので、どうか「ご寄付」を、と。するとどう
ここにこそ、彼の悲劇的な罪が見て取れるというのだ。
だろう、民衆は理解を示し、寄付し、その力によって次
そしてこの作品の意図も、そこにある。つまり、危機に
なるあらたなツェッペリン号が建造される……。民族共
ある民族民衆〔フォルク〕は百人議会によってではなく、
同体のデマゴーグたちによって選ばれた、それ自体けし
独裁者の、「指導者〔フューラー〕」のこぶしによっての
て悪くはないテーマ。皇帝と将軍たち、つまりは後方の
み救われる、というのである。ところでこの作品は、ベ
兵站基地を「批判」する、また別の「民衆劇」。この機
ルリンにおいてはその意図とはまったく逆に、どのよう
軸を、ハンス・ヨーストが戯曲『シュラーゲター』でさ
な帝国的独裁をも疑問視するもの、と受け取られたらし
らに先鋭化させて提示する。ヨーストはこの作品で、時
い。意図せぬリアリズムが「ひとり歩き」し、ゲーテの
代に先んじて孤独に闘うシュラーゲターに、シュライ
『魔法使いの弟子』に登場するホウキのように持ち主に
ヒャーを思わせる将軍と体制側である社民党の知事を、
刃向かいはじめることは、近年散見される現象である。
敵役として対置する。
イギリスのことわざにあるように「事実はみずからのこ
フォルスター=ブルクグラーフ『皆がひとりに、ひと
とばで語りはじめるもの」なのだ。
りが皆に』では、
「民族共同体」のテーゼを、歴史上の
現在ベルリン国立劇場では、数年前にグナイゼナウ元
類似性に即しつつ、指導者の問題と結びつけている。の
帥を描く作品を書いたヴォルフガング・ゲッツによるビ
ちのスウェーデン王グスタフ・ヴァーサは貴族に対抗
スマルク劇、『宰相』が上演されている。この戯曲に関
し、みずから農民服を身につけて「普通の男」たる農民
しては、均質化=ナチ化〔グライヒシャルテン〕された
たちを率いた。伝説によると彼は進軍の途中、ある裕福
新聞紙上において、年老いたビスマルク伝記作家を装う
な貴族の未亡人の暮らす居城を訪れる。未亡人は、所有
形で、さまざまな議論が展開されてきた。この記念碑的
する森林から木材を伐採し農民に与えることを拒む。す
生ける屍に、「ザクセンの森の古老」に、誰が「責任を
るとグスタフは未亡人を打ち殺し、必要な木材を所領の
負う」べきだったのか? 若き皇帝なのか、それとも社
貧しい農民に配るのである。ここにあるのは、いわゆる
会主義者鎮圧法をけちらした労働者か、それとも封建的
社会的言辞というやつだ。つまり、公益は私益に優先す
なユンカーたるビスマルク自身か? 回答:その責任は、
るということを、歴史的類似性を接点としつつ、指導者
二重支配にあった。いや、皇帝・ビスマルク・議会(民
の原理あるいは民族共同体の原理に接続させるのであ
衆)という三重支配の構造にあった。回答:完全なる
る。この戯曲の作者フォルスター=ブルクグラーフは
「指導者〔フューラー〕」だけが、完全なるファシズム的
1933 年秋、ミュンヘン国立劇場の監督になった。
独裁者のみが、嵐の時代において民衆を救いうる……。
見るところ、演劇の分野においても、ファシズムはその
これらの戯曲ではどれも、太鼓を連打する音がその底
に鈍く響けば響くほど、逆に社会的問題としての民族共
テーゼに地下室=取調べ室を設けようと試みているよ
うだ。
同体が主題として立ち現れてくるのだが、ファシズム
演劇の第二のカテゴリーでは、様相がまったく異なる。
さて、ここに至って登場するのが、掛け値無しの「好
そこではナポレオンやビスマルクの姿を支配するのは、
戦的な戯曲」である。その始まりは、「ヴェルサイユ体
「英雄」の悲劇的かつ残虐な幻影だ。あるいは攻撃のファ
制から離脱せよ!」「ポツダムをめざせ!」「ボリシェ
ンファーレが公然と鳴り響き、戦場での犠牲死が最上の
ヴィズムから西を守れ!」「ウクライナの、ヴォルガの、
愛国的目標として賛美されるのである。悲劇的英雄とし
バルトの同胞を解放せよ!」と主張する「自主独立の演
ての、自ら先んじてしまった彼らの短き時代の犠牲者と
劇」である。
しての、ナポレオンとビスマルク!
まず第一列を進軍するのは、ヨースト『シュラーゲ
ムッソリーニとフォルツァーノの戯曲『百日』は、
ター』、バイヤー『デュッセルドルフ受難劇』、ヨーゼ
ヴェルナー・クラウス主演によりベルリン国立劇場と
フ・クレーマース『マルヌの会戦』と『ライン河畔の
ウィーン・ブルク劇場で上演されたが、この作品はナポ
フランス』、ツェアカウレン『ランゲマルク』、そして
レオンという悲劇的英雄の弁護的批判をなしている。こ
『U ボート 116』。映画では『曙光』、
『黒バラ』、『フリー
― 3 ―
スラントの困窮』、
『亡命者』。そして先駆者として、ヴォ
ことでしょう! 早急にお考えを変えることですね、
ルフガング・ゲッツ『グナイゼナウ』
、シェーファー
敬愛なるあなた! ハイル・ヒトラー!
『10 月 18 日』
(1813 年のライプツィヒ諸国民戦争)、ア
ンガーマイヤー『飛べ、チロルの赤鷲よ』(アンドレア
国民社会主義は、巨大な祝祭劇を、大衆のための奉献
ス・ホーファー劇)……以上挙げたのは、代表的なもの
劇を、「合唱劇」を作り出そうと試み、失敗したのだっ
のみである。
た。授賞の栄に浴したオイリンガーの『ドイツ受難劇』
われわれはすでに、「指導者〔フューラー〕」と「民族
は、その構成において、その細部にいたるまで、『ファ
共同体」のテーマに即して『シュラーゲター』に言及し
ウスト』のみじめな剽窃である。すでに前書きの「指示
たが、しかし実際のところこの戯曲は、国民社会主義の
書き」にしてからが、グロテスクなパクリだ。
あらゆる要理をその核に抱いている。なにより、ヴェル
サイユ体制とフランスという「宿敵」に対するナショナ
触れ役の場面は迷宮的に切り刻むべし。ここでは音
リスティックな闘争を、その懐に抱え込んでいる。ヨー
響的なトリックが、その正当性を粉々に踏みにじる
スト最上の戯曲であるのは間違いないこの『シュラーゲ
ことが必要だ。テンポはナンセンスなまでに上昇さ
ター』は、「11 月の犯罪者」に対するたんなる告発では
せよ……。架空のフェルマータを前にして、群衆の
なく、またデュッセルドルフでの失敗に終わった破壊工
ウーという叫びは絶叫のさなかにかき消されるべ
作の罪でフランスのラインラント地方占領軍による軍事
し! 不快な時代精神が、みずから響かせる音のな
裁判の末に射殺された英雄シュラーゲターへの、たんな
かできわめてアクチュアルに呼び覚まされる! 下
る激烈な挽歌でもない。この戯曲は同時に、比類なき復
品にならぬよう、地獄のごとき耐えがたさで!
讐の叫び声なのである。初版のタイトルページには「総
統〔フューラー〕に捧ぐ」と記されている。事実この
これは、ゲッベルスにより賞を授けられた『ドイツ受
『シュラーゲター』は、権力掌握のあとのファシズム的
難劇』のほんのお味見、というところか。印象的なのは、
ドイツの「ザ・戯曲」だったのであり、1933 年 10 月な
失業者の問題が「宿敵」というナショナリスティックな
かばまで、あらゆる舞台で上演されたのだった。1933
テーマと結びつけられて、戯曲それ自体のなかに深く組
年 10 月、それはヒトラーがジュネーヴ会議の扉を後ろ
み込まれていることだ。
手にばたんと閉じて劇的な急展開を演出し、同時に彼一
流のやりかたで、好戦的な『シュラーゲター』のさらな
失業者:おれたちゃ海だ、灰色の海
る上演を禁じるとともにクレーマースの『ライン河畔の
嵐に波打ち、不幸に沈み
フランス』の稽古を中断させた、その時である。平和を
ドイツがついにくたばろうってとき
愛するヒトラー! 気骨ある男ヨーストは、ベルリン国
やつらはなにも見ないふり!
立劇場のチーフ・ドラマトゥルク職をこれみよがしに辞
羽のベッドで手足を伸ばし
すると、世界旅行へと旅立ったのであった。
銃剣のうえにうずくまり
パウル・バイヤーの『デュッセルドルフ受難劇』は民
コンクリでせっせとバリケードづくり。
族民衆〔フォルク〕のための野外用の合唱劇として執筆
やつらの頭にゃそれっきり。
されたのだが、この戯曲も、買収された部下の裏切りに
向こうににやけた黒人ポアルー〔Poalu〕
よって死ぬシュラーゲターの「犠牲死」を扱っている。
立ってこちらをみてやがる〔schaut zu〕!
あるジャーナリストがこの大仰な駄作を少々批判したと
きには、ドラマトゥルク部長バイヤーはかのジャーナリ
「やつら」とはずばり「フランス人」だ……ドイツの
ストに次のような断固たる自己弁護の「公開書簡」を送
「失業者」にとっても。このフランス人たちは羽布団で
りつけた。
手足を伸ばし、バリケードを作る。フランス人かつ「ポ
アルー、にやけた黒人」、つまりは宿敵かつ下等な人間
『デュッセルドルフ受難劇』は今後もクライスト的
(劣等種族)。なんとも効果的 ! もしこのばかげた扇動の
激情の炎に燃えさかるのです。そのことをあなたが
効果が、現在に至るまでこれほど悲劇的な経過をたどっ
信じようとなさらないなら、こう忠告いたしましょ
ていなかったのなら、このインチキ外国語、ドイツ語式
う。次の公演では舞台上ではなく観客席をご覧なさ
に「zu ツー」と韻を踏ませた「Poalu ポアルー」など、
い、と! あなたがそこで目にするだろう憤激は、
うまい冗談として笑い飛ばすこともできたろう。この
あなたのなかにクライスト的心持ちを沸き立たせる
「放送劇」は、
『ファウスト』をまるまる剽窃しつつ、
「邪
― 4 ―
悪な霊」「善い霊」「英霊たちの合唱」が登場し、次のよ
る「ドイツの同胞」を解放せねばならない!……ウー
うなフィナーレへと至る。
ファの映画『死刑執行人、女性たち、そして兵士たち』
(バルト三国映画)、そして『黒バラ』(フィンランド解
母親: (動揺しつつ、しかし強気に)
放)もまた、その矛先をソヴィエト連邦へと向けている。
‌幸いなるかな、身を全うせしものたち、
辛苦から解き放たれて。
ドイツのファシズムが、「民族共同体」、完全なる「指
‌幸いなるかな、生きてあるものたち、時
はかれらのものなれば。
導者〔フューラー〕」、第三(ゲルマン的)世界帝国とい
うテーゼをドラマトゥルギーにおいても土台に据えよう
‌
(母たちのすすり泣き。そのすすり泣く
と巧みに執拗に試みてきたにもかかわらず、それを代表
声のなかへ、地上の行進歌が押し迫って
すると言えるような、芸術的と呼べるような作品はこれ
くる。)
までひとつも生まれなかった。ゲッベルスは、そしてプ
邪悪な霊:‌あんなものまで来やがった! さっさと
はじけてしまえ!
ロイセン文化相ルストは、新たな「ドイツの」文学は荒
廃しているといくども嘆いている。シラー賞は、もはや
それにしてもそんなものがあるのだろう
見出されるべき「若き才能」ではまったくなかったヨー
2)
ストが二度目の受賞者になるまで、1 年また 1 年と先送
か、第三帝国なんてものが!!?!!
りされたのだった。国民社会主義の若き劇作家を、「ベ
「邪悪な霊」の最後の台詞、「第三帝国」には、たくさ
んの感嘆符と疑問符が添えられている。賛歌なのか?
ルリン劇場スケジュール」の 1936 年 3 月 19 日版に探し
てみよう。
それとも、パロディ?
ヨーゼフ・クレーマースは戯曲『ライン河畔のフラン
国立劇場では、ゲーテ『エグモント』とモレート『ド
ス』において、フランスによる占領と青年の犠牲死の
ンナ・ディアナ』。ドイツ座では、ショー『カンディダ』。
テーマを、作劇上まったく異なるやりかたで、ずっと巧
ザールラント通り劇場では、ハウプトマン『ミヒャエ
みに、冷静に、政治的=戦略的に、扱っている。主な場
ル・クラーマ―』。ルネサンス劇場では、ズーダーマン
面を大本営の地図の前で演じさせた『マルヌの会戦』も
『蝶々合戦』。シラー劇場では、笑劇〔シュヴァンク〕
『彼
それは同様である。あの戦争に負けたのは将軍たちや役
はふざけてなんかいない』。ノレンドルフ劇場(前ピス
人たちだ、「民族民衆〔フォルク〕」なら勝てたはず、民
カートア劇場)では、『風上と風下に、愛』。コメディ劇
族民衆とともに、次回こそ、われわれは勝利しようでは
場では、ジャック・デュヴァル『同志』。
ないか……というのが、その伝えんとするところなので
ある。王の政策に逆らって勝利する、あるいはオースト
ベルリンの十指に余る著名な劇場において、輝かしい
リア皇帝の裏切りによって敗れる民族民衆戦争、という
第三帝国の 3 年目にして、国民社会主義の戯曲がひとつ
線上に、愛国的な戯曲『グナイゼナウ』『10 月 18 日』、
もないのだ! カギ十字の劇作家たちがますますなりを
そしてアンドレアス・ホーファー劇たる『飛べ、チロル
潜めているのは、確かなようだ。だが、ドイツには圧倒
の赤鷲よ』がある。そこでは明確な「言外の意味」がそ
的かつ極めて恐ろしいテーマがごろごろしているでは
こかしこに聞こえてくる。来たるべき民族共同体におい
ないか。たとえば 1934 年 6 月 30 日(「長いナイフの夜
て、「指導者〔フューラー〕」のもとでの民族民衆戦争に
事件」)、ゲスターポの地下室、ベルリン/ハンブルク/
おいて、われわれはフランスを粉々に打ち砕くのだ、そ
ヴッパータール裁判の英雄たち、強制収容所の英雄た
して東方・南方(オーストリア=チロル)の同胞を解放
ち、宗教戦争をめぐる悲喜劇と 75%の生物学的「北方
するのだ……。この線上には、かつての映画『ヨーク』
人種化」のための「保護育成所」をめぐる悲喜劇、帝国
も含まれる。主人公ヨークは民族主義的な衝動から、契
議会炎上事件とディミトロフ裁判、そしてユダヤ人迫害
約の書かれた「紙切れ」と王の命令とに反する行動を取
についての沈黙。これら真のドラマ素材は、精神的ドイ
る。さらには近年の映画『亡命者』や『フリースラント
ツが今日存在するところ、国境の外、亡命地において、
の困窮』。そこにあるのは、アルフレート・ローゼンベ
しかしすでに着手されているのである。もはや周知のこ
ルクのテーゼだ。いわく、ドイツ語が聞こえるところ、
とだろうが、ヒトラーのドイツというテーマをめぐる劇
そこがドイツである! われわれはソヴィエト連邦にい
文学が、今やドイツ人亡命者たちの手によって舞台や映
2)訳は池田浩士『虚構のナチズム』(人文書院、2004 年、337 ページ)より引用
― 5 ―
画、ラジオにおいて制作されている。自分たちの国の、
のか。なぜ、権力を掌握して以降は真に演劇的な作品が
苦しみに耐えるその雄々しい真のかんばせを、ドイツで
ひとつとして生まれないのか。その理由は、あきらかな
も勤労者に示せるようになる、その日のために。
のではないか? いつの時代でも演劇の核心をなす要素
は主役と敵役の存在なのに、現在のファシズム演劇にお
ファシズムの演劇人は、みずからの国にある暴力的か
いて、それはどうして存在し得よう?
つ悲劇的な軋轢を提示することはできないし、許されて
主役と敵役、それはいずれドイツの舞台に戻ってくる
もいない。きわめて暴力的に不毛へと突き動かされつつ
だろう。しかしまずは、100 年前にハインリヒ・ハイネ
あるなかで、沈黙を、空疎な言葉を、余儀なくされてい
が書いているように―「ドイツで上演される芝居にく
る。闘うことは許されない。できるのは、我が身を「犠
らべれば、フランス革命など牧歌のごとく思えるだろ
牲に供する」ことだけだ。髑髏の旗印のもと、犠牲にな
う」……われわれはこの「芝居」に参加したのちに、わ
ることだけなのだ。この無抵抗かつ意志を欠いた宿命論
れわれ自身の芝居も提示しようではないか、ハイネが
は、あらゆる悲劇的、英雄的情勢を消し去ってしまう。
100 年前に夢想した、そのドイツにおいて。
なぜ、国民社会主義的演劇は近年ますます消えつつある
― 6 ―
(訳:本田雅也)