ゴッホ−こころの旅の軌跡

ゴッホ−こころの旅の軌跡
人間社会学部 国際観光学科
1)はじめに
画家フィンセント・ファン・ゴッホはその短い生涯
を移動の中にすごした。彼が画家になろうと決意した
のは27歳のときであるが、それまでに22回も居場所を
変えている。さらに、その時から死に至るまでの創作
活動に明け暮れた10年間にも、10ヵ所の土地に移り住
んでいる。ポリナージュ、ブリュッセル、エッテン、
ハーグ、ドレンテ、ニューネン、アントワープ、パリ、
アルル、サン=レミ、オーヴェール=シュル=オワー
ズと続いた、その移動は、作品にみられる変化に対応
しているといってよい。創作への強い希求から生まれ
たともいえるこの移動の軌跡をたどりながら、作品の
変化を追った。
教授
小
坂
智
子
けたといえる。
4)パリ
1886年、フィンセントは、画商をしていた弟テオを
頼り、パリにゆき、同居をはじめる。当時、華やかに
活動していた印象派の作品を知り、それに続く新印象
派の画家たちに出会い影響を受け、その技法を学ぶ。
同時に、当時フランスで多く流通していた日本の浮世
絵版画からも、強い影響を受ける。浮世絵への賛美
は、模写を試みた作品や《タンギー爺さん》(1887年、
fig.2)などに、明らかに示されている。こうして、
彼は明るい色彩と光に満ちた画風を獲得した。
5)南フランスーアルル、サン・レミ
1888年、フィンセントはさらに「日本の浮世絵にあ
るような明るい光」を求めて南フランスの町アルルに
向かう。この地で、彼は著名な「ひまわり」の作品4
点を描いている。彼が、南フランスに求めたものは、
明るい光だけではなかった。彼は、そこで画家の共同
体を作ることを夢見た。しかし、彼と同居を試みたの
は、画家ポール・ゴーガンのみであった。そして、そ
の共同生活も、フィンセントの精神が次第に変調をき
たし始め、決定的な仲違いへと発展し、悲劇的な「耳
切り事件」で幕を閉じることとなる。
入退院を繰り返した末に、サン=レミの精神病院に
入ることを余儀なくされたフィンセントは、療養生活
を送りながらも、制作を続けた。アルル時代の作品に
みられる明るい光と色彩に満ちた風景や身近な人々を
描いた肖像画は、サン=レミ時代になると、不気味に
うねる糸杉の情景や、不思議な光を放つ星空の表現へ
と変化する。
2)画家への道
フィンセントは、1853年、オランダのフロート・ズ
ンデルトで牧師の息子として生まれた。画商として暫
く仕事をした後、聖職者を目指すが挫折。辛うじて伝
道師となる訓練を受け、炭坑に派遣される。しかし、
ここでも、彼の自己を放棄するほどの献身は、炭鉱で
暮らす人々をかえって気味悪がらせ、自らの健康も損
ねることになった。フィンセントの家系は、一方で、
聖職者を、もう一方では画家や画商を生み出してい
た。彼もその道を相次いで模索したのである。そし
て、彼は、ようやく27歳になって画家を志すことにな
る。ゴッホの旺盛な輝かしい画業はこの後の10年間に
すぎない。
3)オランダ、ベルギー時代
伝道師として暮らしていた時も、彼は底辺に暮らす
人々、辛い労働をする人々への強い共感をもってい
た。それは、絵画にも示される。ことに、農民や苦役
を行う人々に対する視線は、フランソワ・ミレーから
の強い影響と相まって、表現された。ミレーの《晩鐘》
を模写した作品や、《じゃがいもを食べる人たち》
(1885年、fig.1)には、彼のそうしたまなざしが示さ
れている。いわば、彼の画家の修行時代とも言えるこ
の時期に、フィンセントはオランダ、ベルギーの各地
を移動しながら、底辺に暮らす人々への共感を描き続
6)オーヴェール=シュルーオワーズ―最期の日々
パリ近郊のオーヴェール=シュル=オワーズに移り
住んだのは、医師ポール・ガシェがいたからである。
ガシェは自らも絵筆をとり、多くの画家たちを診察す
る一方、その仕事に理解を示していた。フィンセント
は1890年の5月から、ガシェの世話になった。オー
ヴェールに今も残る教会(fig.4)を描いた。《オー
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長崎国際大学公開講座
ヴェールの教会》
(1890年、fig.3)や市役所、そして、
不吉なカラスの群れとぶ麦畑の情景などを、精力的に
描き続けた。しかし、1890年7月27日ピストル自殺を
計り、テオにみまもられて 2日後に死去した。 フィ
ンセントはオーヴェールの墓地に葬られた。フィンセ
ントの作品を理解し、その生活を支え続けた弟のテオ
もほどなくして、この世を去り、オーヴェールの墓地
には二人の墓が並んで立っている。
フィンセントは、パリからさほど遠くないこの村
で、1890年5月からほんの2カ月ほど暮しただけであ
るが、その足跡は、この小さな村のそこかしこに現在
も残っている。あわただしい移動を繰り返した彼の終
焉の地は、日本人をはじめとする多くの観光客を迎え
入れ、いわば、
「ゴッホ巡礼の聖地」ともいうべき土
地となっている。
fig.1
fig.2
fig.3
fig.4
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