第1部 持続のリズム的計測、あるいは、いかにして測りえぬものを測るか

第1部 持続のリズム的計測、あるいは、いかにして測りえぬものを測るか?
『意識に直接与えられたものについての試論』(1889年)を読む
「数の縁なき領域においては、いかなる計測の尺度を選んだのかを示さね
ばならない。というのも、これから見ていくことになるが、より繊細な尺度を
、、
見出すことは常に可能だからである」
(アラン・バディウ『数と諸々の数』)
§17. 計測から遠く離れて(第一部の構成)
ベルクソンの処女作には、著者自身が認めた英訳タイトルがある。『時間と自由』である。こ
れは、元のフランス語タイトル『意識に直接与えられたものについての試論』が争点化しようと
していたものを直截指し示している。つまり、意識に直接与えられたものとは、時間と自由で
ある。意識(自我)、時間(持続)、自由(自由行為)というこれら三つの概念の内的連関こそ、
この第一著作においてベルクソンが解明しようとしたものに他ならない。だが、序論で定式化
された私たちの観点からすれば、さらにこう問わねばならないだろう。これら三つのメジャーな
概念が内的連関をもって機能するように、それらを駆動させているマイナーな論理とはいった
いどのようなものであろうか、と。この問いに答えるには、一見目立たない三つのものに注目
する必要がある。それは、リズムであり、数であり、拍=計測である。これから示していくよう
に、私たちが「リズム的計測」(rythmesure)と呼ぶものの論理とその直接化(immédiation)
のプロセスこそが、『試論』の概念装置を準備し構成しているのである。『試論』は、時間の計
りえない性格を強調するだけで満足せず、その計りえないものを計ろうとし、「量的度合い」と
ラディカル
「数」からなる「算術的計測」(mesure arithmétique)の根底的な批判を通して、「質的度合い」
と「潜勢態の数」からなる「リズム的把捉」という不可能な計測を創出することを自らの任務と
している。そこには、カント的な超越論的感性論とは真っ向から対立し、かといって単に心理
、、、
学的・実験的でもない、内在的な感性論が立ち現れる。
このことを別様に言い換えてみよう。『試論』全体を導く問いは、結論中の次の一節に見出
されるように思われる。
私たちとしては、〔カントとは〕逆の問題を提出して、私たちが直接に把握していると思
い込んでいる自我そのものの最も明白な諸状態も、たいていの場合、外界から借りた或
る形式を通して知覚され、その反面、外界は私たちから借りたものをそうやって私たちに
返すのではないかと自問してみる必要があると思われた。(DI 145-146/167)
自我が固有の直接与件と見なしているものの、実際には外界から押しつけられたに過ぎない
「形式」を批判し、質と量、内部と外部、持続と空間、継起と同時性に対して的確な境界画定
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を与えることで係争を解決すること――偽の問題の解消は、カント的「裁判官」(アンチノミー
による解決)だけの強みではなく、ベルクソン的「予審判事」の強みでもある。この問題につい
ては、いずれ立ち戻ることにしよう――、それこそが『試論』の目的である。ここで『試論』を構
成する三章のタイトルを並べてみよう。
第1章 心理的諸状態の強度について
第2章 意識の諸状態の多様性について:持続の観念
第3章 意識の諸状態の有機組織化について:自由
私たちは、これらのタイトルについてすでに先行研究によって言われていることは繰り返さな
い。ここではただ単に目次を見て誰もが気付く三つのこと、つまり1)「心理的諸状態」から「意
識の諸状態」へ、2)その「強度」から「多様性」を経て「有機組織化」へ、3)いかなる新たな概
念も提起されていない一見すると批判的な部分から、「持続の観念」や「自由」といった概念
が展開されているセクションへと進展していることについて、それぞれ言及しておこう。
1)「心理的状態」(état psychologique)と「意識的状態」(état de conscience)の違いとは
何であろうか。第1章の終りで、ベルクソンははっきりと区別しているように思われる。「以下の
章では、われわれはもはや意識状態を相互に孤立させて考察するのではなく、それらの具体
的な多様性に おいて、 純粋な 持続のう ちで繰 り 広げられるか ぎり で、 考察し よう 」(DI
50-51/54)。心理的状態とは、別々に切り分けて取り上げられ観察される結果、意識現象が真
の時間的な相貌――リズムが目立たないものの決定的な役割を果たす相貌――の元に現
れることのない状態である。
2)「強度」(intensité)、「多様性」(multiplicité)、「有機組織化」(organisation)という三つ
の概念は、リズムや数、計測といったものについての、ある種カント的な「批判」を通して、練り
上げられていく。このことは次のことと表裏の関係にある。
3)では、それぞれの章はどのような機能をもち、またいかなる相互連関をもっているので
あろうか。この問いについても、ベルクソンは結論において答えを与えてくれていた。
かくして、自我をその本然の純粋さで凝視するために、心理学は外界の明白な刻印を
帯びたいくつかの形式を除去ないし修正しなければならないだろう。――その形式とはど
のようなものか。〔第1章〕心理状態というものは、それらを相互に孤立させ、その数だけ
の別々の単位として考えると、大小の違いはあれ、強さをもっているように見える。〔第2
章〕次いでそれらの多様性において眺めると、それらは時間のなかで自己を展開し、持
続を構成する。〔第3章〕最後に、それらの相互関係において、またそれらの多様性を通
してある一つの統一性が保たれているかぎりで、それらは相互に決定し合っているように
見える。――強度、持続、意志的決定、これら三つの観念こそ純化すべきものだが、そ
のためには、それらが感覚的世界に侵入されたために、そして一言で言えば、空間の観
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念にとり憑かれたために、身に蒙ることになった一切のものからそれらを解放しなければ
ならない。(DI 146/168. 括弧内の章立ては引用者)
一言でまとめれば、『試論』の三つの章は、純粋自我に到達すべく、1)個々別々に切り離して
考察された心理的諸状態の強度、2)それらの分離しえない具体的な多様性において考察さ
れた意識的諸状態の持続、3)意志的決定における「ある一つの統一性」すなわち有機組織
化を「純化」し、これらを「外界の明白な刻印を帯びたいくつかの形式」、とりわけ空間の観念
から解放することである。これである程度、『試論』の構成が明確になったということにしよう。
だが、ベルクソン的批判は、単純に否定的なものを析出し排除するだけでは満足しない。
ベルクソン哲学とは新たな論理の探究である、と私たちは序論で述べた。では、『試論』にお
けるそのような論理とはいかなるものであるか。それは、計測の新たな論理の探究であるよう
に思われる。繰り返しになるが、『試論』は、計りえないものを計り、「算術的計測」「量的度合
い」「数」の根底的な批判を通して、「リズム的把捉」「質的度合い」「潜勢態における数」といっ
た諸要素を提案しようとする著作に他ならない。だからこそ、第1章の重要性を強調せねばな
らないのである。第1章は、ともすれば、長すぎるイントロダクションのようなものとして、心理
学的な事実や実験を豊富に示してはいるが、自我・持続・自由行為という三つのメジャーな概
念の生成に直接的には何ら役立っていないものとして見なされがちである。だが、ベルクソン
にあっては認識論と理論的争点、批判と理論的創設がいつも分離不可能であるとするなら、
第1章は単なる応用的な記述ではあり得ない。実際まったくそのようなものではないことを次
に示していこう。そのためには、まず『試論』第1章の構造を理解しておく必要がある。
「心理的諸状態の強度について」と題された『試論』第1章は、ある意識的状態の強度
(intensité)すなわち計測可能で量化可能な度合いという観念を批判することを目的としてい
る 。 よ り 正 確に 言 えば 、 感 情や 努力 や感 覚 といっ た心 理的 諸状 態の 「強 度的 大き さ 」
(grandeur intensive)は、外的で物理的な原因ないし結果から出発してしか計測可能なもの
とはならず、それらの「強度」は、それ自体としては、「量の質」(82/92)に他ならないということ
を示そうとしている。例えば、「握り拳を徐々に強く握る」(20/18)ための努力の量は計測可能
だと考えられがちだが、実際にそこで計られているのは、筋肉とそれに関係する身体諸部分
の数の増大にすぎない。ベルクソンが第1章で主張しているのは、意識の諸状態は、「強度」
ないし「強度的大きさ」といった概念によるあらゆる計測・数値化からは逃れており、そのこと
自体によって、自らの究極的に質的な性格を明らかにしているということである。彼は「意識
的状態」を形容するのに、繰り返し「計測に反抗的な」(49/53, 151/174)という表現を用いてい
る。心理的諸状態の計測化・量化を模範的な形で推進したのは、精神物理学とその代表者た
るグスタフ・フェヒナーであるが、ベルクソンは、彼に対して、通過することと感覚を混同してい
る、つまり「算術的差異」(46/49)を理解していないと指摘している。
フェヒナーの誤謬は、相次いで起こる二つの感覚SとS’とのあいだに、本当は一方から
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他方への移行しかなく、言葉の算術的な意味での差異などないのに、一つの間隔がある
と信じた点にあった。(47/50)
「規約」、すなわちここでは、「二つの状態を恣意的に、また自分に都合のいいように、二つの
大きさの差異化と同一視するような思考の作用」によって、「虹の色調に似た差異」と、「象徴」
にすぎない大きさの間隔との間の「取り違え」(46/49)が生み出される。かくして、「質的差異」
(45/47)が忘れ去られてしまう。
しかるに、外的事物の測定を可能にするために、その事物から初めに取り除いておいた
この質的要素こそ、まさに精神物理学が引きとどめ、測量したいと願っているものなのだ。
(……)要するに、二つの異なった感覚が等しいと言われうるとすれば、何らかの同じ基
盤がそれらの質的差異が排除された後にも残る場合だけであるように思われる。しかも
他方、この質的差異は私たちが感じるすべてのものなのだから、いったんそれが排除さ
れてしまえば、何が残りうるのか分からなくなるのである。(44-45/47)
質的差異の忘却を批判し、それと量的差異ないし「算術的差異」との混同を批判するベルクソ
ンは、「計測」に対する警戒感を隠していない。
続いて、数に対する同様に批判的な分析が第2章で開始される。数は、その後『試論』全体
を通じて絶えず批判されていくが、この計測批判の象徴的な対象である。数の問いは、第1章
全体から得られた観点とともに、第2章で導入される「持続」という新たな観念に対立させるこ
とで、計測の問いを完成し代表する。したがって、ベルクソンの否定的な態度のうちに、計測
や数に対する彼の最後の言葉を看取したくなったとしても不思議はない。そしてベルクソン哲
学の「欠陥」に烙印を押すだけに飽き足らず、あまつさえ非合理主義のしるしを見てとる者た
ちもいる。近年でもなお、フランソワ・ダゴニェはベルクソンを「科学の敵対者」と名指しで攻撃
していた。
持続の計りえない性格を神秘化しようとしているのでないとしたら、ベルクソンはここで何を
しようとしているのか。むしろ彼は可能な限り明確に、概念的再検討とイメージ使用を通して、
持続を捉え直そうとしているのではないか。そのために、量化作業からは必然的に逃れるし
なやかな本性を癒しがたく損なってしまうことなしに、この計りえないものをその場で、いわば
飛んでいるところをとりおさえられるような概念とイメージの往復作業を創出しようとしている
のではないか。持続が精神物理学の指の間からすり抜けていくことは決して偶然ではない。
持続の計測は、現実的なものに直に「尺度を合わせて」裁ち直されることになる。ここで、ベル
クソンの『方法序説』とも言うべき『思考と動くもの』序論の一節を引いておこう。そこで彼は自
らが歩んできた哲学的な軌跡を振り返っている。
普通われわれが時間というときは、われわれは持続の測定(mesure)を考えるが、持続
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そのものを考えない。しかし科学が除去する持続、思考することも表現することも困難な
持続を、われわれは感得し体験する。その持続が何であるかということをわれわれが求
めたらどうであろう。一つの意識が測定などを試みずに持続を見ようと欲し、その際持続
を止めずにつかまえようとし、つまり意識自身を対象にとろうとし、観察者と行動者、自発
と反省を兼ねて、固定する注意と逃げていく時間をぴたりと合うまで近づけようとする際
に、持続はその意識にどう見えてくるか。これが問題であった。(PM 1255/4)
計測せずに見ること、止めることなしに捉えること、それは一つの「計測するとは異なる仕方で」
であり、既存のあらゆる計測の外で計測する新たな方法を発明しようと試みることに他ならな
い。「これから見るように、区別するという動詞は、一方では質的な、他方では量的な二つの
意味を有している。ところが、われわれが思うに、これら二つの意味は、数と空間との諸連関
を扱ったすべての人々によって混同されてきたのである」(DI 52/56, n.1)。持続に対応する直
接与件とは、したがって、何らかの言いえない神秘的な経験から直接に由来するものではな
く、量的に計測可能な時間である「物理学者たちの時間」の批判を通して、もっと正確に言え
ば、計測・数・度合いといった諸概念の根底的な鋳直しを経て、見出されるものなのである。さ
もなければ、ベルクソンが「自由の度合い」と呼んでいるものをどのように理解すればいいだ
ろう。彼は『試論』第3章でこう言っているのである。「この意味で、自由は唯心論が時折それ
に 帰 してき た絶対 的な性格を 呈す るこ とは ない 。自由は複 数の度合いを 容 れる 」( DI
109/125)。文字通りにとるならば、直接与件(données immédiates)の「直接」という言葉がフ
ランス語において「間接的でない im-médiates」と表現されていることは示唆的である。「意
識に直接与えられたもの=間接的でない仕方で与えられたもの」の分析プロセスは、こうして、
あらゆる媒介を排除しようとする現象学的還元に似ていなくもない方法に基づいて遂行され
る。持続/空間の差異化はまさに、このような「計りえぬものを計る」ことに関する新たな概念
-イメージ装置である。ここから「数の科学」という通常の意味での数論(arithmologie)ではな
く、ベルクソン的な数リズム論(arythmologie)を解明する必要が生じてくる。
ドゥルーズは、「ベルクソンの多様性理論」に関する講義の中で、次のように述べていた。
「もちろん、二つの多様性に関するこの区別の下に、空間と持続の区別を認めることはたや
すいことです。けれども大切なのは、『直接与件』の第2章において、持続-空間のテーマは、
二つの多様性という前もって提示された、より深いテーマに応じる形でのみ導入されていると
いうことです」。私たちはこれに付け加えて、二つの多様性のテーマは、『試論』の第1章にお
いて、数・計測・度合いのテーマに応じる形で準備されている。さらに言えば、第2章において
リズム的数論が展開され、第3章で「自由の度合い」が提示されることを勘案するなら、『試論』
全体の構造は、数・計測・度合い(リズム)論→多様性論→持続-空間論と概念化されている
と考えるべきではないだろうか。こうして第1章からどのように読み進めていくべきか、その大
まかな方針が得られたことになる。
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§18. 「心理的諸状態」の類型論(『試論』第1章の構造)
『試論』は、ある常識について自問するところから始まる。それは、《感覚や感情、情熱や努
力といった意識の諸状態は、増大したり、減少したりする》という常識である。当時、「精神物
理学者」と呼ばれていた人たちは、ある感覚は、同じ種類の別の感覚より二倍強い強度を持
つといったことを計りうるとさえ主張していた。では、純粋に内的な二つの意識状態(この場合
は感覚)のあいだで、どのように量的な差異を打ち立てるのだろうか? 含むものと含まれる
ものとの関係が成り立ちえないところで、なぜ量と大きさについてなおも語り続けるのだろう
か? 外延的なものと内包的なもの、拡がりを持つものと拡がりを持たないものとの間にどの
ような共通項がありうるのだろうか? これが、『試論』を開始させた問いである。『試論』第1
章を要約し、その構造を理解するためには、『試論』の共訳者の一人である平井靖史氏によ
って提唱された心理学的諸状態の分類を想起しておくことが有益である。
複合状態(états complexes)――[A]深い感情(sentiments profonds)
(例)情念、希望、喜び、悲しみ、美的感情、道徳感情
[B]表層的努力(efforts superficiels)
(例)筋肉努力
[C]中間的状態(états intermédiaires)
(例)注意、激しい情動
単純状態(états simples)――[D]情緒的感覚(sensations affectives)
(例)快苦
[E]表象的感覚(sensations représentatives)
(例)音、熱、重さ、光
ベルクソンが「複合状態」と「単純状態」を区別するのは、次の点においてである。「われわれ
はここまで、感情や努力を取り上げるにとどめてきたが、感情(sentiments)や努力(efforts)
は複合的な状態で、その強度は必ずしも外的な原因に依存してはいない。それに対して、感
覚(sensations)は単純状態としてわれわれに現れる」(DI 24/23)。その強度が必ずしも外的
原因に依存しない心理的な複合状態(感情や努力、[A]-[C])と、外的原因の意識的等価物と
見なされる意識の単純状態を分かつもの、それは明らかに外的原因との関係である。
さまざまな複合状態(感情と努力)間の区別についても同様である。ベルクソンは第1章を、
「もはや外的な原因からではなく、われわれ自身から発するような深層の心理的事象」(DI
7/4)、つまり「深い喜びや悲しみ、反省された情念、美的な情動」といった、「事の真偽はとも
かく、われわれにはそれ自身で自足しているように見えるいくつかの魂の状態」(DI 9/6)のあ
いだに、われわれが確立する強度の差異を検討することから始めている。こうして彼が「深い
感情」[A]から始めるのは、「いかなる外延的な要素もそこに介入していないかに見えるこうし
た単純な事例において、純粋な強度はより簡単に定義されるはずだ」(id.)からである。ここで
「外的な原因」ないし「外延的な要素」を構成しているのは、「物理的・身体的な諸条件」(id.)
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である。つまり、ベルクソンは、物理的・身体的要素を排除することから始めている。「喜びや
悲しみが強まっていく場合、その強度は何に存しているのか。これを、いかなる身体的な徴候
も介入しないような例外的な事例において摘出すべく試みてみよう」(11/8)。「われわれの意
識状態の未来の方向への方位づけ」として「内的な喜び」を、あるいは「過去へ向けての方位
づけ」として「悲しみ」(id.)を規定することで、強度概念の批判を準備し、それによって持続概
念へと向かう道を開くためには、身体の偶然的だが決定的な影響をひとまず分離する必要が
あったのである。だが、身体とほぼなんら接触を持たない純粋状態の分析は、次いで、身体と
密接な関係をもつ混合状態の分析によってさらに磨き上げられねばならない。この「表層的な
努力」[B]、とりわけ筋肉努力の分析への移行は、したがって、次に「中間的状態」[C]を見て
いくための、「心理的諸事象の系列の反対の極」(DI 17/15)への移行である。かくして、深い
感情は、表層的な努力とは異なり、外的原因との関係(むしろ関係を持たないこと)によって
規定されることになる。
同様の規則が、さらに、「単純状態」に対して、しかしながら、いわば逆向きに、適用される。
というのも、ベルクソンは、情緒的感覚と表象的感覚に関する問いに対して、次のような仕方
で答えているからである。「実際、感覚がその情緒的性格を失って、表象の状態に移行する
につれて、それがわれわれの側に喚起していた反応的運動は消え去る傾向にある。しかし、
われわれはまた、感覚の原因である外的な対象を覚知してもいる」(DI 31/31)。情緒的感覚
[D]は、外的作用ないし反応の欠如によって、表象的感覚[E]から区別される。こうして、『試
論』第1章の構造がおおよそ明らかになったとしよう。すると、次に取り組むべきは、私たちが
ここまで確認してきた構造([A]~[E])に基づいて、それぞれについてごく駆け足で、その意
義を確認していくという作業である。
[A]美的感覚の分析における「リズム」(以下§§19-21)
[B]筋肉努力の分析における「手」(§22)
[C]中間状態の分析における「注意」(attention)と「緊張」(tension)(§23)
[D]情緒的感覚の分析における苦痛の「コンサート」(§24)
[E]音感覚の分析における「音楽の表現的あるいはむしろ示唆的な力」(§25)
§19. 呼びかけ1:リズムと共感(美的感情の分析1)
ベルクソン哲学の核心には、持続と空間の区別があるとよく言われる。その分割線は、カ
ントにおけるように、互いにはっきりと分離された、感性のア・プリオリな二つの形式としての
時間と空間のあいだを走っているわけではない。ベルクソン的な持続は生きられた時間であ
り、量的に計測不可能な時間、質的多様性によって構成された時間であり、その意味で、量
化・計測化の場所として規定される空間からは逃れている、と言われる。量的多様性によって
構成された空間は、したがって、持続から逃れるものを表象していることになる。だが、だとす
るなら、持続と空間の間に走るこの区別を下支えしているのは何なのか。ある一つの運動で
ディファレンシャル
もって、質と量を、それらの還元不可能な差異のうちに産み出す差動装置のような何かがあ
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るのではないか。
持続と空間の二元論的な一元論をかたちづくる力動的関係を解明するために、私たちはこ
こで、いささか特殊に思われるかもしれない観点を採用することにする。私たちは、ベルクソン
の著作の中であまり目立たず、ひょっとすると似たような言葉と思われているかもしれないが、
実のところ異なる次元で作動している二つの語、つまりリズムと拍=計測(mesure)から出発
する。リズムという観念は、とりわけ美学的・音楽学的その他の領域における概念的な豊饒さ
を越えたところで、持続の本性を露わにしてくれる。そして、それは、ほかでもない、リズムの
数的な論理を通じてのことである。少なくともピュタゴラス派以来言われてきた、rhuthmosと
arithmos、リズム的なもの(rythmique)と算術的・計算的なもの(arithmétique)のあいだの
伝統的な融合を想起してみてもいい。他方で、拍=計測という観念――持続と空間のベルク
ソン的差動装置の中で機能しているかぎりでの――において賭けられているのは、ある新た
な次元、ある開けを産み出す隔たりであり、間隔であり、間隔化(espacement)である。ここで
は、「計測」ないしmetronに関するハイデガー的な語源学を想起してもいいだろう。したがって
ベルクソンのうちに見出すべきは、ある特異なリズム的数論(arythmologie)であって、これ
はとりわけ汎リズム主義(panrythmisme)と混同されてはならない。先に、序論において、ベ
ルクソン的転義学がもし存在するとして、それは「生きた隠喩」を称揚するような積極的・肯定
的なものではなく、しばしばステレオタイプでさえある複数の直喩・隠喩・イメージを駆使し、そ
の「あいだ」に哲学的直観をつかのま現出せしめようとするようなものであり、したがって、「否
定神学」(théologie négative)に倣って、「否定的転義学」(tropologie négative)と呼ばれる
べきである、と述べた。ここでも事態は同様である。創造的自由としてのリズムへの喜びに満
ちた純真無垢な讃歌と、あらゆる計測的=拍的拘束に対する憎しみによって特徴づけられる
ような汎リズム主義は、ベルクソン哲学とはいささかのかかわりも持たない。まさにそのような
メ ト ロ フ ォ ー ブ
ク リ シ ェ
汎リズム主義的で計測嫌悪的 な紋切型 に抗して、ベルクソン的な数=リズム=計測論
(arythmétrologie)が産み出すものを見定めねばならないのである。そう信じられているのと
は逆に、ベルクソンは、一貫して計測や空間を悪魔化しようとする誘惑には屈していない。む
しろ逆に、持続のリズムの潜在的な数性を開示することで、計測・空間概念の再練り上げ、持
続の「内部」ないしerewhon、生命の記憶と間隔化の場所と、非空間的な仕方で向き合うこと
を可能にする概念的な鋳直しを遂行しているのである。
この問題構成に入っていくための最良の方法の一つは、「美的感情」と題された『試論』の
ほとんど冒頭に置かれたセクション(DI 11-17/9-16)において、「リズム」と「拍=計測」という
語が並んで現れる(そこにはすでに、持続のリズムにおいて身体がいかなる役割を果たすの
かも見てとることができる)最初の例を取り上げることである。先に確認したように、ベルクソン
は『試論』冒頭で、外的・身体的影響を欠いた「深い感情」を分析し、「質的進展」(13/10)の観
念を導入していたが、美的感情はここでは、その「最も驚くべき」例として置かれている。美的
感情に関するこのセクションは、それがベルクソンにとって「目に見える新たな要素が次々と
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根本的な情動のうちに介入し、実際にはその情動の本性を変容させているだけなのに、外見
的には情動の大きさを増大させているかに思える、そのような事例の中でも、さらに際立った
パラディグマティック
事例」(11-12/9)を提供しているかぎりで、『試論』第1章全体にとって 範 例 的 なものである。
本節を含む以下三節(§§19-21)は、『試論』の当該セクションの分節に応じて、次のように
分節される。第一段階として(§19)、ベルクソンは、諸々の美的感情の中でも「最も単純」なも
のである「優雅さ」の観念を分析する。その幾つかの段階を質的に見分け、その強度の度合
いの違いを量的以外の仕方で計測するという文脈の中で、リズムと拍=計測は、そのほとん
ど催眠的な効果とともに現れる。しかも、ただ単に「優雅さ」の感情の第三にして最後の段階
を完成する媒体(médium)としてのみならず、「身体的共感」から「精神的=道徳的共感」(DI
12/10)へと移行させる媒介(médiation)としての機能も果たしているのである。第二段階とし
て(§20)、催眠暗示が、そのリズム的計測(rythmesure)の効果とともに、美的感情のみなら
ず、あらゆる感情の質的進展におけるさまざまな段階を見分けるための不可欠の装置として
機能しているのを確認する。「以上の分析から帰結するのは、美の感情は何か特別な感情で
はないということであり、また、われわれが抱く感情ならどれでも、それが因果的に惹起され
たものではなく、暗示されたものであったならば、美的な性格を帯びるだろう、ということだ」
(15/12)。だが、これですべてではない。美的感情分析の第三にして最終の段階として(§21)、
もはや美的感情の強度ではなく、その深さが問題となるとき、催眠暗示とリズム的計測は、そ
れらの消失自体によって、水平的で継起的な相互浸透と、垂直的で凝集的な相互浸透、言い
換えればリズム的有機組織化と、記憶的有機組織化という二つの根本的に異なる軸の閾な
いし接続をしるしづける。これこそ、リズムが「ある美的感情の進展において区別される諸段
階」、その「強度の度合い」(DI 15/13)という観念を引き出す際にある役割を演じているという
事実が持つ真の意義である。
では、ベルクソンが優雅さの感情を分析し始める第一段階から始めることにしよう。そこで
彼は三つの段階を区別する。1)優雅さは最初のうち、外的な運動におけるある種の容易さの
知覚である「心地よさ」(aisance)にすぎない。2)次いで、ベルクソンが用いている言葉を取り
上げ直すなら「予見」(prévision)、しかし優雅さの明かしえぬ性格をよりよく表現し、来るべき
態度を予告し、「指示し、いわばあらかじめ形成するような」(12/9)ものとしての「予感」
(pressentiment)がある。3)そして最後に、優雅さの第三の構成要素が来る。少し長いが、
引用しておこう。
優美な運動が或るリズムに従い、音楽がそこに伴ってくると、第三の要素が介入してくる。
すなわち、リズム(rythme)と拍子(mesure)は、芸術家[舞踏家]のなす運動をいっそう
よく予見させることで、今度は我々がその運動の主(あるじ)であると思わせることになる
のである。芸術家が採ろうとする態度を我々はほぼ予想してしまうので、芸術家がその
態度を実際に採ると、彼は我々に従ってそうしているように見えるのである。リズムの規
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則性(régularité du rythme)は、彼と我々との間に一種の交感(communication)を打
ち立て、拍子の周期的回帰(retours périodiques de la mesure)は、その一つ一つが見
えない糸のように、我々にこの想像上の操り人形[舞踏家]を操らせる。それどころか、拍
子が一瞬止むとすれば、我々の手は我慢できずにこの人形を押そうとばかりに動いてし
まう。それは、運動のリズムが我々の思惟と意志のすべてとなってしまっており( le
rythme est devenu toute notre pensée et toute notre volonté)、それで当の操り人形
をこの運動のただ中に置き直そうとするかのごとくなのだ。したがって、優美の感情の中
には一種の身体的共感(sympathie physique)が入り込んでくるのだが、この共感の魅
力を分析してみれば、それがひそかに精神的共感(sympathie morale)の観念を暗示し
ており、身体的共感があなたを喜ばせるのは、精神的共感との親近性によってなのだと
いうことが分るだろう。[…]こうして、美的な感情の増大する強度も、ここではその強度と
同じだけのさまざまな感情に帰着する。その感情の各々は、それに先立つ感情によって
すでに告知されていたもので、やがてその中で顕著になり、次いでそれを決定的に覆い
つくしてしまう。この質的な進展(progrès qualitatif)を、我々は大きさの変化の意味に解
釈してしまうのである。(DI 12/9-10)
想起しておくべきは、美的感情だけでなく、深い感情一般もまた、いかなる「外延的要素」も、
いかなる「身体的条件」も、さほど介入するように思われない、範例的な事例と見なされてい
るということである。だが、にもかかわらず、このまったく内的で内包的な感情の核心部分に、
優雅さの第三の最終的な段階として、「一種の身体的共感」が現れる。この身体性はいかな
る特徴を持つものであるのか? むろんそれは、「外延的要素」ないし「身体的条件」に見出さ
れる身体性ではありえない。だとすれば、この文脈でリズム的経験のうちに現れるかぎりでの
身体性とは、音的素材とその欠如が外から私たちに与えるものではなく、私たちがおのれの
うちで受け取り、覚知するものに関わるものでなければならない。それは、単に根源的身体性
であるだけでなく、またある種の統合的有機化の様態でもある。受動性ないし受容性であると
同時に、能動性ないし非-超越論的な統覚であるというこの二元性は、持続の根本特徴のうち
に見出されるものであり、以下に見るように、ベルクソンの内在的感性論を決定づけるものと
なる。だが、さしあたりは、リズム的共感の最初の特徴である根源的身体性を指摘するだけ
で満足しておくことにしよう。
二つ目の特徴に関しては、リズムと拍子の解きほぐしがたい関係に関する分析を深めてい
くうちに確認される。「リズムの規則性」と「拍子の周期的回帰」は、優雅さの第三段階である
「高次の優雅さ grâce supérieure」へと私たちを導き、「一種の身体的・物理的な共感」を与
えつつ、それによって「精神的・道徳的な共感」の観念を「巧みに暗示してくれる」(DI 12/10)。
したがって、優雅なものの感情のうちに一種の身体的共感が入ってくる。そして、この共
感の魅力を分析してみれば分かることだが、この共感がわれわれの気に入るのは、それ
10
が精神的・道徳的共感と親縁性をもち、その観念を巧みに暗示してくれるからである。共
感というこの最後の要素――他の諸要素もこの最後の要素をいわば告げ知らせた後に
は、それと一体になってしまう――によって、優雅の抗しがたい魅力が説明される。〔…
…〕しかしながら、本当のところは、きわめて優雅なものなら、どんなものの中にも、動性
の徴しである軽快さ〔1.心地よさ〕に加えて、われわれに対する可能的な運動〔2.予感〕
――潜在的な共感、それどころか現に生まれつつある共感〔3.共感〕――への指示を
見分けることができるとわれわれは思う。この動的共感は常に今にも与えられる寸前の
状態にあるのだが、それこそが高次の優雅さの本質なのである。(DI 12/10)
この文脈において、ベルクソンはほとんどリズムと拍子(mesure)を区別していない。mesure
はここでは「テンポ」や「区切り」といった意味で用いられており、「測定」の意味では用いられ
ていない。とすると、ここでの「拍子」はすでに「リズム的」であって「計量的」ではないのかと思
われるかもしれない。だが、ベルクソンがこのリズムと拍子の例を導入している文脈を子細に
見るならば、テンポとしての拍子と測定としての拍=計測は、思いがけない、逆説的ですらあ
るような様相を帯びる。身体的諸条件を排除した後で、「身体的・物理的共感」のうちにある種
の根源的な身体性が現れたのと同様に、量的区別を排除した後に、ある種の度合いが現れ
る。それは三つの段階の間のみならず、まさに第三段階自体のうちにも現れる。さもなければ、
「身体的共感」から「精神的共感」へのなおも連続した一種の上昇をいかに理解することがで
きるだろうか? そこから、この共感的リズム性の第二・第三の特徴が明らかになる。
マ
シ
ナ
ル
第二の特徴とは、その単調な規則性にもかかわらず、いやむしろこの機械的な=無意識の
反復のおかげで、リズムと拍子は、ここでほとんど催眠的な、さらには夢遊病的な(優雅に動
く舞踏家を「想像上のマリオネット」と見なし、つい操ろうとしてしまう「こらえ性のない我々の
手」)抗しがたい魅力を獲得するに至る。リズム-拍子は、奇妙に一方通行的で非対称的な、
ほとんど独白的な「ある種の交流関係」へと私たちを招じ入れる。「リズムはわれわれの思考
と意志のすべてであることになる」(DI 12/10)。この機械的・無意識的で魅力的な反復性こそ、
リズム的共感の第二の特徴をなす。
第三の特徴として、優雅さの三段階(心地よさ・予感・共感)の間のみならず、共感そのもの
のうちにも、身体的共感から精神的共感への移行という形で、質的進展がある。身体的共感
の魅力を分析することで、精神的共感の観念が巧みに暗示される以上、この移行は、たしか
に幾分か中間的である。にもかかわらず、この「潜在的な、それどころか現に生まれつつある
共感」「この動的で、常に今にも与えられる寸前の状態にある共感」こそが、「高次の優雅さの
本質そのもの」をなすことで、優雅さの質的進展全体を保証してくれるものである以上、この
移行はやはり決定的なものであり、次のような論の骨子を保証するものである。
こうして、美的な感情の増大する強度も、ここではその強度と同じだけの様々な感情に還
11
元される。この感情の各々は、それに先立つ感情によってすでに告知されていたもので、
やがてこの先行的感情のうちで顕著になり、次いでこれを決定的に凌駕してしまう。この
質的な進展を、われわれは大きさの変化の意味に解釈してしまう。なぜなら、われわれ
は単純な事物を好んでいるし、われわれの言語は心理学的分析の機微を言い表すには
不都合だからである。(DI 13/10)
私たちが優雅さのリズム的共感のうちに見出した三つの根本特徴をここでまとめておこう。1)
根源的身体性、2)「抗しがたい魅力」を発する無意識的・機械的反復性、3)質的進展、の三
つである。ここで重要なのは、拍子がリズムと同様に扱われ、リズム化しているというだけで
はなく、リズムが量性ではなく、まさにある種の尺度(mesure)を与えられることで、リズムと拍
子の結合体、私たちが「リズム的計測rythmesure」と呼んだものを通じて、拍子化していると
いうことである。リズム的計測は、心理的かつ身体的な次元において、aisthesisないし美的=
感性的感情の、感覚的であると同時に精神的であるという二元性を表している。厳密にこの
意味で、「美的感情」に関するこのセクションのみならず、『試論』第1章全体が、カントの超越
論的感性論の対極にあって、決して経験的・実証的・心理学的次元と完全に手を切らない一
種の内在的感性論として読まれうるのである。言い換えれば、ある感情は、単に量的段階な
いし状態の変化という観点から見られうるのみならず、ある尺度という観点からも見られうる。
というのも、もはや外側から計測過程を覚知し綜合する主体はない以上、このプロセスそのも
のが内側から自らを捉えると考えるしかないからである。これこそが、「量の質」(82/92)という
表現のうちに理解されねばならないことである。こうして、ベルクソンは、拍子=計測=尺度
の概念的な鋳直しを通じて、強度概念を批判し精錬する。
§20. リズムと催眠(美的感情の分析2)
こうして私たちは、リズム的計測=拍子の反復的でほとんど物質的な側面と、魅力的でほ
とんど「催眠的」な側面とを強調した。だが、美的感情の分析はまだ最後まで辿られたわけで
はなかった。優雅さの感情の分析のうちに質的強度の観念を導入した後で、ベルクソンは次
のような言葉で話を続ける。「いかにして美の感情それ自体が複数の度合い〔彼はもう少し先
で、どのような度合いが問題となっているのかを明確にすることになる〕を伴いうるのかを理
解するためには、この感情を詳細に分析してみなければなるまい」(13/10)。この第二段階の
目的は、したがって、ここまでの分析で得られた帰結を、美的なるもの一般の感情にまで押し
広げることである。ベルクソンはまず、芸術の目的とさまざまな手法を規定する。
、、
芸術の目的は、われわれの人格の能動的な、というよりもむしろ反抗的な諸能力を眠ら
、
、、、、
せ、われわれを完全に従順な状態に導いて、それが暗示する観念をわれわれに実現さ
、、、、、
せ、こうして表現された感情にわれわれを共感させる ことにあるということだ。芸術の
、、、、
数々の手法のうちには、通常は催眠状態を得る際に用いられるような手法が、弱められ、
12
、、、、、、、、、
洗練され、いわば精神化された形態において見出されるだろう。(13/11. 強調引用者)
先に見た美的感情分析の第一段階とは異なり、催眠と暗示の形象は、ここでははっきりと前
面に出てきている。ここではベルクソンにおけるこれらのモチーフを直接取り上げる代わりに
スピリティスム
スピリチュアリスム
――後に、「テレパシー」や「千里眼」といった心霊論との関係で、ベルクソンの 唯 心 論 につ
いて考える際に、この「催眠暗示」の問題に再び立ち戻ることにしよう――、芸術の催眠暗示
的特性の特徴を三つ指摘しておこう。
第一に、「眠らせる」「共感させる」といった特徴は絶えず例の根源的身体性の次元に向け
て合図を送っており、このことは「いわば精神化された」という表現によってさらに強化されて
エ
ス
テ
テ
ィ
ッ
ク
いる。芸術的な、あらゆる意味で美学的=感性的な領域は、身体と精神の間、先に「身体的
共感」から「精神的共感」への移行として描写されたある種の精神化の道の半ばに置かれて
いる。第二に、催眠暗示は、ここでの美学的な例に関する比喩的用法においても、深くリズム
計測的な性格を保持している。
、、、、、、
〔音楽〕こうして、音楽では、リズムと拍子は、われわれの感覚と観念の通常の流れを一
、、、、、
時中断し、われわれの注意をして複数の固定点のあいだを揺れ動かせ、きわめて大き
、、
な力でわれわれを捕える〔……〕。音楽の音が、自然の音よりもわれわれにより強く働き
、、、、、
かけてくるのも、自然が感情を表現するにとどまるのに対して、音楽のほうはわれわれに
、、、、
その感情を暗示するからである。(13-14/11. 強調引用者)
われわれの注意を複数の固定点のあいだで揺れ動かすことで、リズムと拍子は、そのほとん
ど無意識的・機械的な規則性をもって、あたかも催眠術師が揺らす懐中時計のように、私た
ちの意識を宙吊りにするに至る。こうして、私たちは、わずかな音の変化によってさえ、きわめ
てたやすく揺り動かされ、あるいはむしろ魅了されるのである。ここで重要なのは、ベルクソン
の美学思想としての適切さという観点からこの一節を評価することではない。音楽に対しての
みならず、芸術一般に対して彼がリズムないしリズム的拍子=計測を見出しているという事
実を確認しておくことである(以下、続く引用内の強調はすべて引用者による)。
〔詩〕詩の魅力はどこからやってくるのか。詩人とは、感情をイメージへ、イメージそれ自
、、、
体を今度は言葉へと、それもリズムに忠実な言葉へと発展させて、感情を言い表そうと
する、そのような人物である。これらのイメージがわれわれの眼前に浮かび上がるのを
見るなら、詩人ならざるわれわれも、これらのイメージのいわば情動的な等価物であった
、、、、、、、、、、
感情を抱くことになるだろうが、しかし、リズムの規則的な運動がなかったとしたら、それ
らのイメージがこれほどの強度でわれわれに対して実現されることはなかっただろう。リ
、、、、、、、、、、、、、、
ズムによって、われわれの魂はあやされ、眠らされ、夢心地で我を忘れて、詩人とともに
13
ものを考え、ものを見ることになるわけだ。(14/11)
、、、
〔造形芸術〕これと同種の効果を、様々な造形芸術は、生に突如として固定性を課すこと
、、、、、、
、、、、、、、
で得るのだが、この固定性は身体的な感染によって鑑賞者の注意へと伝達されていく。
、、、、、、、、、、、、、、、
古代の彫像の諸作品が、軽やかで、そよ風のように作品上をかすめる だけの情動を表
、、、、、、
現しているのに対して、石のもつ蒼白の不動性は逆に、そこに表現された感情やそこで
、、、、、、、
開始された運動に、得も言われぬ何か決定的で永遠なものを付与し、われわれの思考
、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
はそこに吸収され、意志もそこで消失してしまう。(14/11-12)
想起しておけば、優雅さの感情の、最終段階にあって、「リズムはわれわれの思考と意志の
すべてであることになる」(DI 12/10)と言われていた。
、、、
〔建築〕建築においても、ひとをはっとさせるこのような不動性の只中に、リズムの効果に
、、、
、、、、
似た効果がいくつか見出されるだろう。形態の対称性や同じ建築的モチーフの無際限な
、、
、、、、、、、、、、、、、、、、
反復によって、われわれの知覚能力は、同じものから同じものへと揺れ動くことを強いら
れ、日常の生において常にわれわれを自分の人格についての意識へと連れ戻すところ
、、、、、
の不断の変化と絶縁することになる。そうなるともう、ある観念が指示されるだけで、たと
えそれが軽微な指示であっても、その観念がわれわれの魂の全体を満たすには十分で
ある。(14/12)
以上のまとめとして、ベルクソンは芸術一般をある種の催眠的リズム性によって定義する。
〔芸術〕このように、芸術は様々な感情を表現する(exprimer)ことよりも、感情をわれわ
、、
れのうちに刻印する(imprimer)ことを目指す。芸術はわれわれにこれらの感情を暗示
、、
するのだが、自然の模倣よりも効果的な手段が見出されるのであれば、自然の模倣なし
、、
、、、
で済ますことも厭わない。自然も芸術と同じく暗示によって事を運ぶ。ただし、リズムを自
在に操ることはない。(13-14/11-12)
大切なのは、リズムがここでは一種の機械的かつ誘惑的な反復形態の同義語として現れて
いるということである。ここでもまた、リズムは単に気息性・周期性・対称性を備えているだけ
ではない。芸術作品と私たちを結ぶ統合者として、リズムはまた芸術家と私たちの間に、そし
コミュニカシオン
コ ミ ュ ニ オ ン
てそれによって私たち自身のうちに、交流関係を、ときには芸術的な感情的融合さえも打ち立
てる。リズムはここで、身体的・物理的領野を精神的領野へと、またその逆へと変換するため
の装置として機能している。これがリズム的催眠としての芸術の第二の特徴である。
第三の特徴に関して、ベルクソンが催眠暗示のうちに見出したのは、根源的身体性だけで
14
はなく、深いリズム性だけでもなく、とりわけ漸進的で継起的な多様性であった。
実際、暗示された感情が、我々の経歴を成す心理的諸事象の緊密な織り目をなかなか
中断させることができない場合もあれば、我々の注意をそれらから引き剥がすところまで
はいくが見失わせるまでには至らない場合もあれば、最後に、この感情が心理的諸事象
に置き換わってしまって我々を呑み込み、魂全体を独占してしまう場合もある。したがっ
て、催眠状態においてもそうであるように、一つの美的感情の進展には複数の互いに区
別される局面があるわけだ。(15/13)
ここで催眠暗示は、前段階のリズム的共感同様、単に美的感情の例として、美そのものの経
験が可能になるその前提としてのみ積極的な位置を与えられているだけではない。それ以上
のことが示唆されようとしているのだ。
以上の分析から帰結するのは、美の感情は何か特別な感情ではないということであり、
また、我々が抱く感情ならどれでも、それが惹起された(causé)ものではなく、暗示された
(suggéré)ものであったならば、美的な性格を帯びるだろう、ということだ。そうなれば、美
的な情動がなぜ、強度(intensité)の複数の度合いを、そして高揚(élévation)の複数の
度合いをも容れるものとしてわれわれに現れるのかも了解されるだろう。(15/12-13)
『試論』冒頭で少なからぬ頁数を占めているという戦略的位置を考えれば、そもそも美的感情
に関する分析は、質的差異の析出方法を提示する、一種のパラダイムとして持ちだされてい
ることは明らかである。リズム性と催眠性は、「新たな目に見える心的要素の、根本的な情動
への漸進的介入」(11/9)を説明する理論装置として導入されているのだ。
§21. 強度と深さ(美的感情の分析3)
ここまでの分析からいったい何が帰結されるのだろうか?帰結されるのは、美的感情は
「何か特別な感情ではないということであり、また、我々が抱く感情ならどれでも、それが惹起
された(causé)ものではなく、暗示された(suggéré)ものであったならば、美的な性格を帯びる
だろう、ということ」である。美的感情の分析はaisthesisの本質とその深く催眠的な性格とを最
もよく露わにする。したがってもし「ある美的感情の進展のうちに、催眠状態におけるのと同様、
区別される諸段階〔例えば、優雅さの三段階〕がある」とするならば、「美的な情動がなぜ、強
度(intensité)の複数の度合いを、そして高揚(élévation)の複数の度合いをも容れるものと
してわれわれに現れるのかも了解される」ということになる(15/12-13)。「強度」と「高揚」という
この区別を強調せねばならない。なぜなら美的感情の強度的分析は、美のあらゆる側面を説
明するわけではないからである。
15
芸術作品の美点は、暗示された感情が我々を領するその力強さ(puissance)によってよ
りもむしろこの感情そのものの豊かさ(richesse)によって測られる。換言すれば、強度
(intensité)の度合いに加えて、我々は深さ(profondeur)あるいは高揚(élévation)の
度合いを本能的に区別しているのだ。この後者の概念を分析してみれば、芸術家が
我々に暗示する感情や思考が、彼の経歴の一部を多かれ少なかれ表現し、要約してい
るのが分かるだろう。(15/13)
ここでは心的状態の「強度・強さ」と「深度・深さ」が区別されている。とりわけリズムのモチーフ
が登場しなくなること、深度が人格の歴史や記憶の広がりに対応していることが注目される。
ある感情・感覚の強さ・強度とは、意識の単純な諸状態の本性の差異・変化・継起であり、深
さ・深度とは、意識の複合的な諸状態の(質的な)度合いの差異・(潜在的な)数の大小・凝縮
である。
彼[芸術家]が我々を引き込む際の外枠となる感情が、より多くの観念に富み、より多く
の感覚と情動で肥大していればいるほど、表現される美もよりいっそう深さや高揚を得る
だろう。したがって美的感情の継起する強度は、我々のうちに不意に生じる状態の変化
に対応し、深さの度合いは根本的情動のうちに漠然と見分けられるような要素的な心的
諸事実の数の大小に対応するということになる。(16/14)
たしかに、感覚しか与えない芸術がある。たとえ、語のあらゆる意味で「センセーショナル=感
覚的」な作品が強度に満ちた感覚を私たちに与えてくれるとしても、それはやはり低次の芸術
である。なぜなら、「ある感覚を分析してみても、その感覚以外のものを取り出せないのがし
ばしばだから」(15/13)である。逆に、ベルクソンによれば、ある感情がより豊かに観念や感覚、
情動によって満たされていればいるほど、すなわち芸術家が私たちに示唆する感情や思考
や彼の人格や生涯の一部を凝集するのに成功していればいるほど、そこで表現されている
美は、深さないし高揚をもつに至る。リズムは、強度(身体的共感)の次元へのアクセスを開
き、高揚ないし深さ(精神的共感)の次元が始まるまさにその場面で止まる。ベルクソンは、
「持続のリズム」という言葉は用いても、「記憶のリズム」という言葉は用いない。リズムは私た
ちを、意識の諸状態の多様性のところまで連れていき、その深さの有機的組織化、つまり自
我の表現的な自由の諸々の度合いを「巧みに暗示する」のだ。「強度」は第二章の持続の「多
様性」で、「深度」は第三章の自由の「有機化」で展開されることになる。第二章における持続
の自己展開と第三章における自由の有機組織化はいかなる関係にあるのか、という問いに
対する答えは、すでに第一章に示されていたのである。
ここからさらに先に進むために、表現しえぬものを表現するためには、日常生活の論理、
常識の論理、日常言語ないし分析的言語の論理を迂回しつつ、身体の論理を把握せねばな
らない。
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したがって、こうした情動の各々は、その類において唯一の状態であり、定義不能であっ
て、その複雑な独自性を捉えるためには、その情動を感得している当人の生を生き直さ
ねばならないかに思える。しかしながら、芸術家は、われわれをかくも豊かで、かくも人格
的で、かくも新奇な情動へと導いて、了解させようもないものをわれわれに感得させるこ
とを目指している。したがって芸術家は、自らの感情がまとう諸々の外的顕現のうちでも、
、、、、、、、、
、、、、
、
われわれの身体がそれに気づくや否や、わずかなりとも機械的に(machinalement)模
、、、、、、
倣してしまうような顕現を選んで固定し、そうすることで、これらの顕現を喚起した定義し
がたい心理的状態の中へと、もう一度われわれを一挙に移行させる。芸術家の意識とわ
れわれの意識とのあいだに、時間と空間が設けていた障壁は、こうして崩れ落ちるだろう。
(15-16/13-14)
ベルクソンが「身体の論理」ということでいずれ(『物質と記憶』において)語ることになる定義
的な言明は、次のようなものである。「身体の論理は、ほのめかし(sous-entendus)を許容し
ない。身体の論理は、求められた運動に同時的に随伴する諸部分すべてが一つ一つ示され、
次いで一つに再構成されるのを要求する。ここでは、どんな細部も疎かにしない完全な分析と、
何も要約されない現実的な総合とが不可欠となる。幾つかの生まれつつある筋肉感覚からな
るイマージュ的想像図式は、素描にすぎなかった。現実にそして完全に感じ取られた筋肉感
覚がこの図式に色合いと生命を与えるのだ」(MM 257/123-124)。この身体の論理に依拠す
ること、芸術家ないし文学者を範例とすること、そして隠喩や類比を駆使することは、どれもみ
な、ベルクソン哲学に固有の方法論に属する。それはつまり、具体的な一つの生から出発し、
その中で生を説明することであり、たとえその生を外から生き直すことは端的に不可能だとし
ても、そこへと無限に近づいていこうと試みることである。
こうして、リズムと拍子は、強度の計測的・計算的な硬直性から溢れ出していく。次節以降
では、リズムと拍子が、それぞれ異なる仕方で、様々な領野においてもたらしたものを見届け
ることで、持続のリズムと空間の拍子=計測という概念へと向かうことにしよう。むろん、それ
らを切り離された形で追うのではなく、持続と空間の差動装置という私たちの導きの糸を手放
すことなく、である。(続く)
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