1 2015 年ペンテコステ説教

2015 年ペンテコステ説 教
「カラフル な助け」
私は、いつも礼拝の説教で 、どんな事 を語っているのかと言えば 、ひとこと で言えばそ
れは、「神様とはどんなお方 か」という 話をしているのではないか と思います 。けれども、
今朝のペンテコステは、そ の「神様と はどんなお方か」というこ とを考える と同時に、特
に、「神様はどこにおられる のか」を考 える時です。
クリスマス、イースター、 そして今朝 のペンテコステが、キリス ト教会での 三大記念日
なのですけれども、今朝の ペンテコス テは、その中では一番知ら れていない 、一般的に一
番なじみのない、キリスト教の記 念日 なのだと思います。けれども逆に、本当 のところは、
このペンテコステこそが、 実はクリス マスよりも、イースターよ りも、もっ と 私たちに深
く関係があります。
なぜなら、クリスマスには 、イエス・ キリストの誕生が記念され 、イースタ ーには、同
じくイエス・キリストの十字 架の死から の復活が記念されます。そし てペンテコ ステには、
主イエスが別の助け主が来 ると言われ た聖霊が、私たちそれぞれ の内側に注 がれ ました。
つまり、ペンテコステには 、主イエス の誕生と十字架と復活を指 さしていた 指が、自分自
身に向くのです。ペンテコ ステに聖霊 が私たちの内側に注がれ、 この私たち は既に、その
聖霊を受け取っています。
この事態は、こうい う言葉で言い換え ることもできます。聖霊が降される前 は、イエス・
キリストは、私たちの「た めの」、私の 「ための」、救い主でした。 けれどもペ ンテコステ
以来、イエス・キリストは聖 霊において 、私と「共に」、私たちの「 中で」働か れる神にな
られた。パウロ は力強く語りま した。
「 生きているのは、もはやわたし ではあ りません。キ
リストがわたしの内に生き ておられる のです。」
こんなことが本当に可能な ので しょう か? 私たちは日々聖書を読 む時に、ま た毎週礼拝
に集うごとに、今週こそ聖 書の言葉に 従って生きていこうと思う のだと思い ます。けれど
も実際には、多くの部分で 御言葉通り に生きることができないと いう 現実に 直面します。
私たちはいつも、「したい」 と「できな い」の狭間に置かれて、「さ あ明日から は、変わろ
う!」と思ったその決意が 、無惨にも 、誓った自分自身によって 崩されてし まうというこ
とを経験します。そういう 意味では、 聖書を読むたびに、自分の 不徹底に気 付かされなが
ら、私たちは歩んでいるよ うなところ があるのですけれども、し かし 、そん な私たちのこ
の内側が、神様の霊の送り 先でした。
どうしてでしょうか?助け るためにで す。こんな私たちだからこ そ、聖霊を 送っていた
だく必要があります。それ によって始 めて、私たちが、 御言葉に 従って生き る 私たちにな
っていく。一気にゼロから 100 に変わる のではありません。これが聖 霊なる神様 の導きの、
大事なところです。主イエ ス・キリス トは 100%聖い、罪のない 、完璧に御 言葉に従って
生きる神の御子でした。し かしそのキ リストの霊である聖霊は、 完成へと導 く霊です。最
終的には私たちを完成に至 らせてくだ さる。でも決していきなりではな い。少しずつ、色々
な失敗や成功の経験の積み 重ねを通し つつ、だんだんと私たちを 、内側から 完成へと導い
てくださるのが聖霊です。
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今朝の御言葉の 1 頁前に、聖霊の力 を 受けた者は、どうなるのかというこ と が記されて
いますので、 1 頁前に 戻って、 213 頁 の使徒言行録 1 章 8 節を読みたいの で すけれども、
そこにはこうあります。
「あなたがたの 上に聖霊が降ると、あなたがたは力を 受ける。そし
て、エルサレムばかりでな く、ユダヤ とサマリアの全土で、また 、地の果て に至るまで、
わたしの証人となる。」これ が、聖霊が注 がれることによって起こる ことです。聖 霊の力は、
その力とは、救いであり、 命のことで もあり、人生を 神様と一緒 に生き抜き 、走り切る力
だと言ってもよいものです けれども、 その力にあずかる者は皆、 主イエス・ キリストの証
人となる。証人とは、自分 の見たこと や経験したことを人に向か って証言す る人のことで
す。その人は、自分はキリ ストと関係 がある。その命を受けて、 その救いで 救われたとい
うことを、世界中で、世界 に向けて、 現す 人になる。
そしてこの次の 9 節で主イエ スは天に 昇られます 。私たちが この礼拝でも 使 徒信条を通
して告白しましたように、 キリストは 天に昇り、 神の右に座され ました。か つては、馬小
屋で生まれられ、十字架に 架かって黄 泉に下られ、低い状態を歩 まれたキリ ストが、 つい
にここに至って、文字通りの神と 等し い存在として、天国に君臨なさる。そし てそこから、
人々に聖霊を降し、聖霊を 受ける人々 を力づけ、支え、導いてく ださるの で す。
主イエスが、イースターに 復活して弟 子たちに現れられたあと、 この使徒言 行録の中で
語られた初めの言葉は 、これはとても 意外な言葉だと思うのです が、
「出て 行 ってわたしの
証人となれ」という言葉 ではなく、そ れは、
「 ここで待て! 」という言葉でし た。主イエス
は、 1 章 4 節で、弟子たち に、 このエ ルサレムから離れずに、 し ばらく待っ ていなさい。
まだ動くなと言われます。 まだ用意が できていない からです。そ してその状 態で、 丸腰の
ままでは、主イエスは弟子 たちを 行か せはしないのです。 そして 、まず私が 天に昇り、そ
の後わたしの霊である聖霊 があなたが たに 降ったら、そこでスタ ートせよ、 そこからわた
しの証人となれと、主イエ スは言われ て、まず御自分が天に昇ら れて全世界 を上から見下
ろされる位置に着かれて、そののちに 、今朝の 2 章でペンテコス テが起こっ て、聖霊の力
を受け取った弟子たちが、 ここから 全 世界に出ていくのです。
これは大きな転換です。神 様は、主イ エスの次に、また主イエス のような 救 い主や、あ
るいは旧約聖書の預言者や 士師たちの ような、 一歩抜きんでたリ ーダーを送 って、その人
の力で救いを押し進めると いうやり方 は、もうされません。逆に ペンテコス テから は、み
んながリーダーだと、神様 は、聖霊を 私たちに遣わすということ によって、 今私たちを造
り変えて、この私たちを用 いて、この 地上に救いを広め るように され ました 。宗教改革者
のルターは、
「キリスト に従う者は、皆 、小さなキリストになる 」と言いまし たが、聖霊を
受ける者は皆、ある意味主 イエスの分 身になったのです。 そして その小さな キリストは、
主イエスが為されたことと 同じこと を する。
ペンテコステ以降、弱いこ のわたした ちの内側が、しかし神の住 みかとなり 、私たちの
それぞれが、神様の救いの歴 史を推し進 めていく、その最前線に立つ ようにされ たのです。
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そしてペンテコステの日に 、聖霊は、 炎のような舌のかたちをし て、 分かれ 分か れに現
れ、一人一人の上にとどま りました。 今朝は特に、一人一人の上 に、聖霊が 分かれてとど
まったという点に特に着目 したいと思 います。
説教題に、カラフルという 言葉を入れ ましたが、この言葉は、聖 霊なる神様 の働きを表
す、とても良い言葉だと思 いました。
今市販されている色鉛筆の 中で、 一番 大きな 色の種類が多い色鉛 筆には、 500 色 もの色
が納められているそうです けれども 、 その商品には、次の謳い文 句がついて いました。そ
こには、「 500 の色、 500 の 名前、 500 のストーリー。」とありまし た 。この点 は、 全くこ
の私たち人間と同じで、私 と全く同じ 人間はどこにもいませんの で、そこで は 人間の数だ
け、様々な色があり、様々 な名前があ り、そして人間の数だけ、 様々なスト ーリーがあり
ます。私の色 、あなたの色は 、その中 で 何色でしょうか?名前が違 い、人生の 歩みも違う。
言葉も違い、立場も違い、 考え方も 、 過去も未来も違う。むしろ 、違う方が いい。そうい
う別々の一人一人の上に、 そういう一 人一人を目指して、聖霊な る神はとど まってくださ
います。そして私たち皆は 、それぞれ 違う言葉 で、違う方法で、 違う場所で 、 神の偉大な
業を語り、神さまを証しす る のです。
ちょうど先週の木曜日、聖 書を読む会 で、創世記 11 章のバベ ルの塔の御言 葉を分かち
合いました。そこでは、人 間の一致が 、罪へと向かい、神様 に対 して反逆す るという意味
での悪い一致となってしま った。そこ で 神様は、言葉をバラバラ にされて、 人間を世界の
各所に散らばせられました 。言葉がバ ラバラにされたことで、人 はかつて分 裂したのです
けれども、今朝の 2 章 9 節で は、その 様にして人がバラバラにさ れて散らさ れていった世
界各所からの人々が、ひと つに集めら れて 、神様についてのひと つのメッセ ージを聴いた
ということが語られていま す。ペンテ コステの日には、本来 私た ちをバラバ ラにさせるよ
うな違いが、かえって大切 な、色彩の 豊かさとして、聖霊なる神 様によって 、 うまく用い
られています。
私たちの間に生まれる違い は、しばし ば私たちを分裂させ るので すけれども 、 私たち一
人一人に宿ってくださる聖 霊なる神様 は、ここは中心で、ここは そうでない とか、あなた
の国籍や、あなたが喋って いる言葉は 重要だけど、その他の人は 重要ではな いとか、そう
いう線引きを決してなさり ません。聖 霊なる神様は、 中心もへき 地も作り出 さず、仲間外
れも生み出さない、無限の 色合いを も ってはたかられる、カラフ ルな霊です 。
さらに、しかもそこには、 一致がある 。先週韓国グムホ教会か ら 16 名のチ ームが来て
くださいましたけれども、 彼らも、聖 霊の力を受けて、力強く世 界中に出て いくキリスト
の証人として、板宿に来て くださった 方々でした。 チームの方々 は、 韓国語 しか話せない
方ばかりでした。そして私 の方も 韓国 語が話せませんので、 ソジ ョンさんや ハン神学生の
通訳なしでは、特に細かい ところでの コミュニケーションが取り づらい場面 は、あったに
はあったのですけれども、 でも不思議 と、 それだけの言葉の壁が あったにし ては、 私たち
は通じ合えていたなと思い ます。 身振 り手振りやアイコンタクト を通して、 何よりも、本
当に言葉を超えた聖霊の力 のようなも のが、彼らの内側から、こ ちらにも強 く伝わって来
て、心が同じ方向を向いて いるという ことを 、とても深い次元で 共有できた 。特に一緒に
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祈った時には、祈りの心が ぴったりと 重なって いるのが実感でき た。先週ま での あの一週
間は、言語や文化や国籍の 違いを超え た、 深い一致と信頼を味わ うことがで きた 、とても
恵まれた時間だったと、今 振り返 るこ とができます。まさに そこ に実現して いたのは、 ペ
ンテコステ的な、同じ聖霊 を受けてい ることによる、 言葉を超え た、 霊的な 次元での一致
だったと、言うより他にな いと思いま す。
ペンテコステの日は、教会 の誕生日だ とも言われます。教会とは 何でしょう か? 今朝の
御言葉は、この問 いへの答えです 。私た ちは、
「ひとつの 」キリスト の霊を内に 持っている、
「違う」人間の集ま りです。人 の数だけ 、名前の数だけ 、人生の数だけ 、多彩な 色がある。
そういう、カラフルな色鉛 筆のような 私たちは皆、それぞれの色 に合わせて 与えられてい
る、鉛筆の芯に当たるよう な聖霊を 、 心の芯に 内に宿している。 私たちの個 性は、それぞ
れなりの色で、思い思いの 絵を描くの ですけれども、聖霊なる神 様は、私た ちの 中で、ま
た私たちお互いの間で働い てくだ さり 、私たちの色彩を重ね合わ せて、美し い一つの絵を
描いてくださいます。
旧約聖書のヨエル書にあり ましたよう に、息子や娘は預言し、老 人は夢を見 、若者は幻
を見る。預言の言葉や、夢 や、幻と、 私たち 描くものはそれぞれ 違うのです けれども、 し
かしそれらは、一人の神様 の霊 という 、ひと つの大きな源泉から 導き出され るビジョンで
す。
このペンテコステの記念の 日曜日を経 て、 私たちは、今週もここ からまた新 しく歩み出
します。このカラフルに働 く聖霊を、 私たちは、既に自分の内側 に受けてい ます。私たち
はこれから、この礼拝堂か ら出ていき ますが、 それぞれが歩いて いく方向は 違います。仕
事も違います。大きい仕事 があり、 小 さい仕事もあります。その 背後に は、 家事もありま
すし、介護や育児という仕 事もありま す。時に、その私たちの持 ち場は、 他 の人には見え
にくく、それはとても小さ い働きのよ うに見えますし、こういう 風に生きて いる自分の毎
日に、意味があるのだろう かと考え込 んでしまうということも、 全ての人が 経験すること
です。しかしたとえ人間の 目には、ど んなに小さく見えたとして も、けれど もその 私たち
の持ち場は、聖霊なる神様 が、私の色 を用いて、この世界をキャ ンバスにし て描こうとさ
れる大きなビジョンにとっ て、決して 欠かすことのできない一部 分です 。
今朝私たちは、ここから、 ひとりで踏 み出すのではなく 、聖霊な る神様と共 に 歩み出し
ましょう。そして自分にし か描けない 歩みを、さらに、私たちみ んなが 一緒 に描く、この
教会の証しを、今週も描い てゆきまし ょう。 今週も、聖霊なる神 が、 私たち を、内側から
助けてくださいます。その 助け中で、 私たちはこの週を、 実際に 生きるので す。
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