ベトナム反戦運動とイラク反戦運動 運動規模・認識度・ならびに影響力から見た比

ベトナム反戦運動とイラク反戦運動
運動規模・認識度・ならびに影響力から見た比較分析
ポール・ジョーゼフ(タフツ大学教授)
1967年10月21日、10万人を超える人たちが首都ワシントンのリンカーン記念堂
の前に集まりました。演説や音楽を数時間にわたって聞いた後、彼らはアーリントン記念
橋をわたって行進を始めました。その時突然、その行進のしんがりにいた数百人の攻撃的
な連中がデモ参加者の列から離れて柵を倒して国防省の建物に向かって走り出しました。
その後すぐに、この一団に大勢が加わり、午後遅くには3万人近い数の人たちが国防省の
建物を文字通り取り囲み、その結果、陸軍常備隊とにらみ合う形となりました。
国防省の建物の中では、ロバート・マクナマラ国防長官が自分の事務室の窓ぎわに立って
この群衆を眺めていました。ベトナム戦争に攻撃用地上部隊を送り込んでからほぼ3年経
っていたこのとき、いまだ国民の大多数がジョンソン大統領の政策を支持していたとは言
え、その意見が変わりつつあったときでした。この数週間後には、国防長官は、北爆を停
止し、南ベトナムに配備する兵員数に制限を導入するよう大統領に助言することになりま
す。大統領の別のアドヴァイザーもまた、この提案は「ほとんどアメリカの民意だけを判
断して行うもの」であると述べました。
マクナマラは、このデモを目にしたことで自分の気持ちに矛盾を感じたのです。彼は、一
方では、好戦的な大統領に忠実でありながら、個人的には、アメリカはベトナム戦で勝利
できないという判断に達していました。しかし彼は、彼の家族同様、この矛盾を自分の心
の中だけに閉じ込めておきました。マクナマラの妻、マーガレットも息子のクレイグも重
い胃潰瘍に苦しみました。ジョンソン政権の政府高官の中には、自分の子供たちがデモに
加わっている者もいました。その後数ヶ月の間に、反戦運動活動は高まり続け、戦争は間
違いであったと考える人たちの数が少数派から多数派に変わり、北爆停止の要求の声が出
るようになり、リンドン・ジョンソンは大統領再選を求めないと突然発表しました。
2003年2月15日は、冷たい風が気温を氷点下にするという寒い冬の日でした。そん
な悪天候にもかかわらず、ニューヨーク市では、ブッシュ政権がイラクで始めようとして
いた戦争に反対するために、50万人という人たちが集まりました。デモ参加者たちはフ
ァースト・アベニュー街の道路沿いの20ブロック以上にわたって据え付けられた柵の中
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に押し込まれましたが、長く続くいくつもの演説や催し物に耳を傾けている間、極めて平
和的にふるまいしました。同様の大規模なデモがワシントン、ソルト・レーク・シティ、
シカゴ、サンフランシスコ、ロサンゼルスなどでも行われました。これらのデモは、戦争
が実際に始まる前に動員された大衆の数としては歴史上最大のものであるとして大歓迎さ
れました。
その1ヶ月後、
「イラク自由作戦」が開始され、すぐにサダム・フセインは打ち倒されまし
た。作戦が短期間では成功したとはいえ、反戦運動に加わっていた多くの人たちは、自分
たちの運動が将来高まるであろうと楽観的に考えていました。戦争の公的な口実であった
イラクが大量破壊兵器を保有しているというのは、間違っていたことが明らかとなりまし
た。新しい形態の抵抗が現れてきてアメリカ軍に死傷者を出すようになり、イラクの人た
ちも占領の最初の1週間に見られたようなアメリカ兵を歓迎するという態度を示さなくな
りました。1年後にはファルージャやイラクの他の場所で激烈な戦闘が行われました。ア
ブグレーブ刑務所での愕然とするようなスキャンダルが起こり、自国の兵員たちが拘留中
の捕虜たちを虐待し拷問までしている写真を目にすることになりました。ベトナム戦争の
場合と同様に、戦争は間違いであったと考える人の割合が多くなっていきました。しかし、
重要な違いもありました。それは、時間が経つごとに、全国で見られたデモの数は少なく
なり、それほど頻繁には行われなくなりました。2008年3月の戦争開始5周年記念で
は、全国的規模のデモは全く見られませんでした。いったい、どうなったのでしょうか?
なぜベトナム反戦運動があれほどまでに大きく、活発で、強い影響力をもったのに対し、
イラク反戦運動は、最初はひじょうに有力なものに思えたのに、その規模、活力、影響力
のどの面でもなえてしまったのでしょうか?
この疑問に答える前に、両方の戦争に対するアメリカ世論の変容を簡単にふりかえってみ
たいと思います。
(配布のグラフをご覧下さい。
)
ご覧になってお分かりのように、二つの戦争に関する世論の動きの全体像はよく似ていま
す。両方とも、最初は大多数が戦争を支持しています。ところが、アメリカは間違いを犯
したという意見に賛同する割合が多くなるにつれて、世論は反戦へと方向を変えます。グ
ラフからお分かりのように、イラク戦争は間違いであるという世論の割合が、ベトナム戦
争の時より常に高くなっていますが、このことによって世論がベトナム戦争期より戦争に
対してずっと批判的であることが分かります。ベトナム戦争のときには、戦争が間違いで
あったという世論が大多数を占めるのに3年以上かかりました。9・11事件ならびにブ
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ッシュ政権によって作り出された恐怖観念(さらには欺瞞政策)にもかかわらず、イラク
戦争の場合には世論が変わるのに1年少々しかかかりませんでした。世論調査によれば、
両方の戦争の場合、時間が経つごとに反戦意見が強まっています。にもかかわらず、反戦
運動の動きは違った様相を呈しています。ベトナム戦争の場合には、世論の動きと平行す
る形で反戦運動が高まりました。運動の規模は時間が経つごとに強まりました。しかし、
イラク戦争の場合には、反戦運動が世論の動きと逆方向になっています。世論が戦争に対
してより批判的になっていくのに、反戦運動の動きは沈滞して行きます。
その理由について考える前に、反戦運動の規模の問題についてもう少し詳しく見てみまし
ょう。ベトナムに対するアメリカ政府の介入に反対する運動は、1965年の首都ワシン
トンにおける3万人という参加者数の比較的大きな規模のデモで始まりました。南ベトナ
ムに送り込まれる兵員の数が増えるにつれて反戦運動は強まり、1969年10月と11
月のワシントンのデモに参加した数はほぼ30万人にまで増えました。これとは対照的に、
イラク反戦運動の場合には、最初は大規模な運動で始まりました。しかし、その後は、た
まに見られる全国的な運動の場合を除いて、反戦運動は萎縮してしまいました。
何千人という数の活動家が反戦運動を存続させようと一生懸命頑張ってきましたし、彼ら
の努力が失敗であったなどとは思えませんので、反戦運動が完全に消滅したなどと私は言
おうとしているのではありません。実際、運動を組織する彼らのやりかたは、おそらくベ
トナム戦争期よりずっと洗練されており、政治的にも慎重なものになっていますし、とり
わけ一般市民をむやみに離反させないという目的からすればそういうことが言えます。い
くつかの団体の連合が生まれました。それらの各団体の中に数多くのグループがメンバー
として加わっています。UJP「正義と平和のための連合」には650以上のグループがメ
ンバーとして加わっていますし、もっと急進的な ANSWER(
「戦争と人種偏見を停止する
ために今活動を」
)には150以上のグループが加わっています。しかし反対運動に政治的
意見の相違があることは常に想定されることで、イラク戦争の場合にも、ベトナム戦争期
と同じくらい強い政治的意見の違いがみられました。2003年と2004年、UJP と
ANSWER は一緒に運動するか、少なくともお互いに邪魔をしないで活動したため、ワシン
トンとニューヨークであれだけ大規模なデモを組織できたのです。したがって、大規模な
反戦運動における政治的葛藤がベトナム戦争期との違いを生み出したとは私は考えません。
社会運動のほとんどは、多くの下部レベルの運動によって構成されていますし、平和活動
もその例外ではありません。ベトナム戦争期には、大学や市町村、さらには軍事基地また
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はカリフォルニアのオークランドやサンディエゴの港、東海岸ではブルックリン海軍港湾
といった軍事動員の拠点となる場所で、数多くの地域レベルの運動が行われました。それ
らの地域住民が反戦運動を動かす様々な機会を提供しました。例えば、基地の近くに喫茶
店を開く、軍事研究に反対する、
(ナパーム弾や枯れ葉剤を製造していた)DOW 化学製造
会社から大学に就職斡旋にやってくる者に反対する、国家兵員選抜制度の支部事務所にデ
モをかける、平和活動家の裁判を支援する、といったように、これらは全て、その地域ご
とで、同時にまた首都ワシントンで反戦運動を進めて行く機会を作り出しました。その結
果、多くの活動家が反戦運動に加わりました。
これとは対照的に、現在のイラク反戦運動は、ベトナム戦争期のように数多くの地域的組
織を巻き込めないでいます。ブッシュ大統領の農場の外で野宿して有名になったシンディ
ー・シーハン(息子をイラク戦争で失った母親)の場合は例外と言えます。もっとも、こ
の場合は、ある特定地域が自主的に運動を始めたと言うよりは、首都ワシントンでの行動
を一時的にテキサスに舞台を移したケースと言えます。AFSC(「アメリカ友情奉仕委員
会」
・クエーカー教の社会奉仕団体)は、戦争で亡くなった人を象徴させるために軍靴を並
べるという地域運動を組織しましたし、夜の平和集会とかその他の形での市町村での運動、
とりわけ戦争で犠牲者を比較的多く出した町における地域運動には重要な実例があります。
田舎や保守的な地域で集会やデモ行進を行う小さなグループは、ときどき彼らのそうした
運動に反対する人たちに出くわしますが、しかし同時に驚くほど強い支援も受けています。
こうした戦争反対運動の多くが、帰還兵の治療の必要性ついて注意を促そうとしています。
帰還した兵士や海兵隊員の1/6から1/3が、将来あるいは現在既に、PSD を含む精神
的障害に苦しんでいます(現在の数字では、これまでイラクまたはアフガニスタンで従軍
した180万人の中の30万人から60万人)
。
国家的な問題だけではなく国際的な問題についても解決策について議論し、それに関して
地域的な民主主義を実践するために町で集会を持つというニューイングランドの伝統につ
いて、お聞きになったことが皆さんの中にはおられるかもしれません。ヴァーモント州は
こうした努力をすることでしばしば注目を集めますし、ベトナム戦争でも、また核兵器凍
結運動家が自分たちの主張を広く知らせるためにも町での集会が使われた地域です。20
05年には、ヴァーモント州の246の町の1/5がイラクからのアメリカ軍撤退を求め
る地方決議に賛同する投票を行いました。わずか4つの町だけが戦争支持でした。これは
たいへん積極的に評価できることですが、しかし1980 年代には核兵器凍結の決議案に賛
成した町の数はこの3倍ほどあったことを述べておかなくてはなりません。大学や都市部
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では、大部分が何ら声を上げませんでした。私の住んでいるマサチューセッツ州のレキシ
ントンで毎週行われていた「夜の平和集会」はなくなり、反戦運動を続けたい人は近隣の
町で行われている集会に出かけていかなくてはなりません。私の大学の大部分の学生も教
職員も戦争には反対していますが、しかしなにか見える形で反戦運動に加わるように促す
のはひじょうに難しい状況です。
ベトナム反戦運動では、軍隊内における反対が運動にとってひじょうに重要な要素の一つ
でした。1971年、士官が『軍隊ジャーナル』に次のような記事を書くことができまし
た。
「現在ベトナムに駐留している我が陸軍は崩壊状態に近づきつつある。各部隊が戦闘を
避けたり拒否したりしており、上官や下士官を殺し、薬漬けになってやる気をなくしてい
る。ベトナムにおけるアメリカ軍の状態は、反乱を起こすまでには至っていないが、しか
し、今世紀では1916年から17年に崩壊した帝政ロシアのツアーの陸軍の崩壊だけが
その上をいく例である。
」
この記述によって、軍内部の抵抗が、単なる命令拒否にとどまるものではなく直接的な反
抗行動の形をとっていったことが明らかとなります。部下の兵隊の命を危険にさらして自
分だけ助かろうとする士官が寝ているテントに破砕性手榴弾をころがし入れる行為、すな
わち軍隊隠語でいわゆる「フラッギング(ころがし入れ)
」と呼ばれる事件の数が、196
9年から70年には数百件にのぼりました。ベトナムの多くの地域で、いつどこで戦闘を
行うかを決める力を持っていたのは、実は士官ではなくて、こうした兵隊たちであったの
です。抵抗は、敵前逃亡、カナダへの亡命、海軍の船上での反乱、航空交通コントローラ
ーが爆撃機に攻撃目標を教えるのを時々拒む、といったような様々な形をとりました。
現在も軍隊内での抵抗には重要なものがありますが、形は全く違っています。良心的拒否
という主義に基づいた実例は、イラクへの派兵命令を拒否した最初の士官であるアーレ
ン・ワタダ大尉のケースのように、いくつかあります。しかし、軍隊内部の抵抗の大部分
はベトナム戦争時代より、もっと抑えられた形のものとなっています。
「平和のための帰還
兵と戦争に反対するイラク帰還兵」、「声を上げる兵士の家族」、
「声を上げる金星勲章兵士
の家族」など、重要な組織がありますが、これらの組織は一般市民と軍人家族社会との間
にある文化的ギャップを認めて、ベトナム時代とは異なった、それほど敵対的ではない形
の抵抗運動という形をとりました。ベトナム時代ともう一つ違っているのは、アメリカ国
旗が反戦抗議運動でしばしば掲げられることです。
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軍隊内部での疑念と複数回数にわたる派兵にもかかわらず、ほとんどの兵員が命令に忠実
な態度をとっています。重要なことは、軍部指導者、とりわけ最近退役した軍人の中にイ
ラクでの戦争に反対する人が多いことです。しかし、彼らの反対は、戦争反対と言う原則
の問題や、イラク自由作戦での大損害が軍隊自体の機能に及ぼしている影響(さらには、
アフガニスタンにもっと重要な軍事的任務があると大部分の軍指導部が考えているのに、
そのことが顧みられないでいること)といった事実とは関連がありません。簡潔に言うな
らば、戦争が軍隊を壊してしまったということです。派兵の回数と期間が長くなっており、
任務の合間にもらえる休暇が少なくなっており、全員志願兵から構成される軍隊の新兵補
充数の目標を達成するためには、質の悪い新兵も受け入れなければならないという状態に
なっています。陸軍副参謀長のリチャード・コーディー将軍は最近、連邦議会で次のよう
に証言しています。
イラクならびにアフガニスタンにおいて現在アメリカ軍に要求されていることは、持続で
きる供給レベルを超えており、他の事態が起きた場合には、十分備えのできている軍隊を
送り込むだけの我々の能力の限界を超えています。兵員、その家族、支援制度、設備はみ
な限界にきており、ストレスでいっぱいです。全般的にみて、戦争に備えて準備するもの
が、そのかたはしから消費されていくというのが現状です。
今や、犯罪歴のある者を兵隊として受け入れ、体重や年齢制限も緩和され、能力テストで
以前では合格しなかった最低限の点数以下の者もしばしば受け入れるということが行われ
ています。また、性的暴力の経歴をもつ者、アリファナやその他の薬物を最近使った経歴
のある者も同様です。これらの兵隊たちは、逃亡と違法行為を犯す率が高い連中です。
軍務につかないというのは、重要な進展であり、純粋な平和運動のやり方とはみなされな
くても、一種の「抵抗」とみなすことができます。いずれにせよ、政治ならびに軍事権力
組織はこのことをひどく心配しています。最近、共和党の上院議員、リチャード・ルーガ
ーは、軍務につきたい若者が青年層の1割しかおらず、この数字は調査を始めてから最低
のレベルであるという、合同広告市場調査研究プログラムの調査結果について触れていま
す。61パーセンンの回答者が、
「絶対に軍隊には行かない」と答えています。この数字は、
1年も経たないうちに7パーセントも増加しており、ルーガー議員によれば、
「イラク政策
に直接起因している」とのことです。イラク戦争が始まってから、陸軍内におけるアフリ
カン・アメリカンの割合もまた減少していますが、これはアメリカの社会背景の中でより
確実な人種平等を推進してきた組織としての軍隊の第2次大戦後の役割に対して突きつけ
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られた難題ともともいえます。
ベトナム戦争の最終段階では、帰還兵たちが軍事行動を自分たちで検討するということを
やっており、その中では愕然とするような内容の戦争犯罪の記録も含まれています。今年
3月、イラク戦争の帰還兵たちが、ベトナム戦争期に行ったと同じような「冬の兵隊の取
り調べ」を自分たちで行いました。この調査の最重要点の一つは、一般市民がいる場所で
の軍事力使用制限に関する、もともとはひじょうに厳格な戦闘規則が守られなくなってし
まったということです。最初は、もしイラク人が、即席の爆発物を仕掛けていると疑われ
るような重い鞄やスコップを運んでいるのを目にしたならば、海兵隊員はその人物を司令
部まで連行しなければならず、発砲する前に許可を求めなければならなかったのです。何
回も派兵され死傷者が増えたことが、こうした基準を変えてしまったのです。3回派兵さ
れたジェイソン・レミウックス海兵隊軍曹は次のように証言しています。
「戦闘規則は今や
おおざっぱに決められており、しかもいいかげんに実行され散るだけ………。もしこれと
違ったことを言うなら、そいつは嘘つきか、そうでなければ馬鹿である。そんな規則は徐々
に存在しなくなってきているのだ。
」
ベトナム戦争時代の兵士による自己調査は、新聞記者たちによってかなりよく報道されて
いました。戦闘帰還兵が、反戦行為として、自分に授与されたメダルをホワイトハウスの
塀越しに投げつける有名な写真は、多くの新聞に掲載されました。さらに重要なことは、
残虐行為は、少数の兵隊が個人的にやったことではなく、命令系統に沿って行われたこと
であり、戦争の本来の性質の問題であるということです。もっと最近行われた調査は、あ
まり報道の注目を浴びておらず、目に見える形で報道されているものも、特定の部隊の具
体的な行動を、軍事占領が持っているもっと広い意味での性質に関連させて報道するとい
うことがなされていません。
さて次に、影響の問題に移ります。平和運動は、批評家たちが考えるより、また平和運動
を支持する人たちが考えるよりも、ずっと影響力のある運動です。ジョンソン大統領は、
公の場で、反戦運動家は自分の決断になんら影響を与えないと主張しました。1969年
の(北爆)一時停止要求デモの時、ニクソン大統領は、彼がワシントン・レッドスキンの
フットボールの試合をテレビで見ることでデモの間の時間を過ごしていたということを国
民のみんなが知るようにしました。しかし、実際にはジョンソン大統領もニクソン大統領
も反戦運動の動きを詳しく追跡調査しており、運動がもたらす結果をひじょうに恐れてい
たのです。例えば、北ベトナムの首都ハノイを直接空爆したほうがよいとコンピューター
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が計算の結果はじき出した時、ジョンソン大統領は次のように答えました。「コンピュータ
ーのお前に一つだけ質問したいことがある。もし大統領がそんなことをしたら、50万人
の怒れるアメリカ市民が、ホワイトハウスのあそこに見える壁をよじ上って入り、大統領
を絞め殺してしまうまでに、どのくらいの時間がかかるか計算できるか?」ニクソン大統
領はデモのことがあまりにも心配で夜中に起き出して、デモ参加者と話すために首都ワシ
ントンのショッピングセンターの中を歩き回ったのです。トム・ウエルズがベトナム戦争
反対運動に関する膨大な研究の中で言っているように、
「誤算と深い分裂のために自分たち
の運動の本当の力を理解していなかったけれども、反戦運動はひじょうに重要な時期にニ
クソン大統領がそれ以上戦争を拡大させないような働きをした。
」
市民運動は必ずしも自分たちの力を正しく理解しているとは限らないのです。1967年
の「民主的社会のための学生」の集会は、大規模行進を「公衆のたんなる意見表明」と見
なして、無視してしまいました。実際、運動は自分たちが要求していること全てを獲得す
ることが最も困難なときに大規模な動員をかけるため、その効果を正しく評価することが
しばしば難しいのです。ベトナム反戦運動は大きく進展しましたが、アメリカ政府の政策
を変更させ、ベトナムから撤退させることはできませんでした。同じように、イラク反戦
運動もブッシュ政権をして占領から引き上げさせるという点では、ほとんど効果がありま
せん。いったん軍事力が投入されてしまうと、なにか一つの行動ですぐにその結果を出せ
ると期待し、平和運動の展開が国の政策に直接の影響を与えると期待することはとても危
険なことです。市民運動がその望むところを直接実現させることはまれにしかありません。
同時に、平和運動は、他の形で、それほど直接的ではないがしかしひじょうに重要な影響
力を政策決定に対して及ぼすことができます。ベトナム反戦運動は、ジョンソン政権の末
期に、北爆を停止させ、地上部隊に投入する兵員の数を制限させる上で、重要な役割を果
たしました。運動の強みは、激しく分裂している政治組織の執行部を統合させる上でも貢
献しました。事実、1968年半ばまでには民主党のほとんどの人たちが軍事力で戦争に
勝つことはできないことを認めるようになりましたし、もしもフーバート・ハンフリーが
大統領に選出されていたならば、1969年にはハノイ政府と平和条約を締結できていた
はずで、そのあと4年も待たなくともよかったと私は考えます。また、これほど重要では
ないとしても、1970年5月のカンボジア侵攻の責任者を辞任に追い込むことで、ニク
ソン政権内に分裂を起こしたことにも影響がありました。これは、イラク戦争の軍隊への
自己破壊的な影響をめぐっての政権内の高まる不和という、現在の状況の前例とも言える
ものです。市民の反対運動はまた、ビジネス界にベトナム戦争反対を作り出す下地にもな
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りました。これは倫理的な原則から生まれたものではなく、戦争がインフレーション、ド
ルの価値の低落、ヨーロッパや日本の企業との競争力の低下につながるという懸念を強め
る上で影響があったからです。
市民の反対運動は、ニクソン/フォード政権を弱体化し、1975年の北ベトナム側から
の攻勢に応酬するような命令を出せなくさせてしまったウォーターゲート事件の中心とも
なりました。レーガン政権のときには、中央アメリカをめぐる政策や核兵器政策をめぐる
スキャンダルもアメリカ政府に影響を及ぼしました。大規模な市民運動が、いつも必ず政
府の高官を困らせる政治スキャンダルにつながるとは限りません。大統領がどのくらい偏
執症にかかっているかといった要素を含め、様々な介在的な要因が働いているため、こと
はそれほど直結的ではありません。しかし、しばしば、軍事作戦が秘密裏に保たれねばな
らないときや秘密政策が暴露される可能性が常にあるときには、その政策が国民の目から
隠されてしまうような方向に平和運動が働いてしまうことがあります。
最後に、ベトナム反戦運動は極めて重要な長期にわたる文化的影響をもたらしました。す
なわち、戦争を始めることに市民がもっと懐疑的になる傾向を強めたこと、戦争に必要な
費用にもっと敏感になったことです。しかし、イラク戦争を最初は国民が支持し、200
4年にブッシュ大統領を再選した事実をとりあげて、この私の意見に疑問を抱かれる方が
おられるのではないかと思います。このベトナム反戦運動から受け継いだ重要な問題につ
いては、あとで皆さんと議論できればと願っています。
さてそれでは次に、イラク戦争に反対する運動は、運動を拡大させるような要素、例えば、
増加する死傷者、増大する経済的費用、成功するという欺瞞的約束、でっちあげられた情
報、戦争犯罪の証拠、国家安全保障に対する逆効果など、が明らかに存在したにもかかわ
らず、なぜゆえにベトナム戦争期と同じような多種にわたる「間接的」影響を発生させな
かったのか、という問題を考えてみましょう。
一つの重要な違いはベトナム戦争期には徴兵制度があったのに対して、現在はそれがない
ということです。徴兵拒否、徴兵をめぐってのカウンセリング、良心的戦争拒否、カナダ
への亡命援助など、これらはすべて重要な反戦活動を形作っていました。これらの運動全
てが今も存在しますし、とりわけ労働者階級の子供が通う高校での入隊勧誘反対運動は重
要です。しかし、これらを集合的に見てみると、運動の規模はとても小さいものです。1
973年以来、アメリカは全て志願兵に依存していますので、若者やその家族が、自分や
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息子が人気のない戦争に連れ出されるのではないかという心配はもはやありません。徴兵
制度はまだ合法的ですし、再導入することは政治的に可能ですが、ほとんどの国民は自分
が軍務につくということはもはやないだろうと考えています。9・11事件の後、徴兵適
齢期の大学生の間に愛国心が強くなっており、軍隊を支持する割合が高くなっていること
を新聞社は発見しました。2001年10月のヒューストン大学の学生の意識調査では、
9割の学生がアフガニスタンに軍事介入してタリバンを打倒することに賛成ということが
分かりました。2002年5月の全国調査では、79パーセントの学生がサダム・フセイ
ンを力づくで政権からおろすことを支持していることが分かりました。にもかかわらず、
ヒューストン大学のわずか20パーセントだけが徴兵制度の再導入に賛成でした。国家の
政治リーダーが、アメリカ社会の最も中心部分がテロの脅威にさらされていると主張した
にもかかわらず、こうした結果が出ています。全国調査では、もし徴兵制度が再導入され
たらなんとかして逃げると答えた者が37パーセントもいました。わずか1/3が「どこ
であろうと喜んで出かけて行って闘う」と答えました。2007年6月のニューヨークタ
イムズの意見調査では、87パーセントが徴兵制度に反対で、わずか9パーセントが賛成
という結果が出ており、世論は相変わらず徴兵制度に強く反対し続けていることが分かり
ました。
第二には、ベトナム戦争期には、アメリカが戦争をしている相手の人たちは自分たちの支
援を受ける資格がある、あるいは少なくともアメリカの介入を受ける必要がない、と平和
運動家たちが論ずることができたことです。こうした姿勢をとることは、現在は不可能で
す(ベトナム解放戦線とアルカイダは同じではありません)
。反戦運動家はパリやハノイで
ベトナム人と顔を合わせることができ、他の場所でも、信頼し合って連絡をとることがで
きました。現在は、当然の理由から、こうしたことは想像することも不可能です。
第三の重要な違いは、ベトナム戦争時代の変革に向けてのムードと積極的な期待感に関す
るものです。その当時は、反戦運動は、市民権、黒人闘争、学生運動、初期の女性と環境
運動を含む、大きな社会のうねりの一部でした。1968年には、こうした様々な運動が
一体となって国際的な政治的、文化的危機を作り出し、権力に対する感情的且つ政治的に
重要なチャレンジを産み出したのです。ベトナム反戦運動は、この危機の中心をなすもの
であり、明確な答えを要求した運動だったのです。社会抵抗運動にとってひじょうに重要
な期待感と影響力という要素は、現在は比較的弱く、市場原理に基づくグローバル化に対
する反対運動だけが例外となっています。
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これと関連しているもう一つの点は、1960年代に多くの人たちがもっていた高い社会
的期待感と、現在のもっと個人的な利益の追求を求める傾向との対照的な状況です。20
06年の国民調査によると、1970年には大学一年生の79パーセントが「意味のある
人生哲学を開発すること」が自分たちの目的であると述べ、金持ちになることが重要と応
えた学生は36パーセントにすぎませんでした。この25年後には、75パーセントの大
学一年の学生が、「金銭的に豊かであること」を最も重要な目標にあげています。確かに、
高校生と大学生の間にボランティアを重要視する傾向が高まってはいますが、こうしたボ
ランテイィア活動は、学生たちが良い大学に入学するために有利になるからやるのだと皮
肉な見方をする人たちもいます。彼ら若者たちは自分たちの履歴のために活動するのに忙
しいのかもしれません。放課後の課外活動としてのボランティア活動に忙しいのでしょう。
抵抗運動をするのには、みんな忙しすぎるのでしょうか?
もう一つ関連している事柄は、いわゆる「黄色いリボン」の影響です。ベトナム戦争後、
アメリカにおける軍事的傾向は、平和運動家たちが軍人たちを嫌悪したという誤解を産み
出しました。帰還兵たちが空港で唾をかけられたという話が頻繁に聞かれました。こうし
た話は間違っていますが、この誤解が、誤解であることを証明するのが難しい神話となっ
てしまったのです。兵隊を支援したいという要望は、ベトナム戦争後、とりわけ重要にな
りました。第一次湾岸戦争の時には、黄色いリボンが木に結びつけられたり、自動車の後
ろに貼付けられたりして、兵隊たちを支援している姿勢を示すということが行われました。
現在、平和活動に関わっている人たちは、イラクに関する誤った政策を兵隊たちのせいに
して非難するということはほとんどしません。しかし、海外派兵にかり出された兵隊たち
を支援するという暗黙の了解が、兵隊たちをそのような立場に追い込んだ政策にあからさ
まに反対するのを難しくしているのかもしれません。
さらには、ベトナム戦争中とは報道の面でも重要な違いがあります。現在、新聞を読む人
は少なくなっており、テレビを見る人が増えています。テレビに関しては、伝統的なチャ
ンネルよりは新しいケーブル・ステーションを見る人が多くなってきている傾向にありま
す。そうした有料ケーブルの一つであるフォックス・テレビは、本当の意味での報道はや
っておらず、ブッシュ政権のための似非独立ステーションという役割を務めています。ベ
トナム戦争中に多く見られ、
「茶の間」の一部分ともなった、赤裸々な戦争シーンをテレビ
で見るということは今は少なくなっています。代わりに、戦争のイメージは今や清浄化さ
れた形で提供されています。報道関係者たちは昔より臆病にもなっており、なにか問いた
だすということをしなくなっています。ベトナム戦争中には、
「ペンタゴン報告」がニュー
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ヨークタイムズ紙やワシントンポスト紙の第一面で取り扱われたのに、2002年7月の
段階ですでにブッシュ政権は戦争を始めることを決めており、そのための立て前として国
連を利用したということを記録した「ダウニング街メモ」がほとんどニュースにならなか
ったのはなぜでしょうか?
反戦運動を報ずる点でも報道には変化が見られます。大手新聞をはじめ新聞社は大規模な
人数を動員する反対運動をもはや「ニュース」とは見なさなくなっています。全国規模に
しろ地方的なものにしろ、ベトナム戦中に報道された類いの反戦運動活動は今やほとんど
無視されています。昨年10月の「国民の行動日」には11の都市で反戦行動がありまし
たが、ごくわずかしか報道されませんでした。私の住むボストンでは1万人がコモンズ公
園に集まりましたが、ボストン・グローブ紙には、デモ行進が行われる前には関連記事は
全くなく、翌日の新聞の「都市部」の紙面にごく小さな短い記事が載せられただけです。
ベトナム戦争時代とのさらにもう一つ重要な違いは、マイクロチップス革命とヴァーチャ
ル世界の出現に関連するものです。こうした技術発展は豊かな「情報環境」を作り出し、
アメリカ国内でも国外でも、社会運動ネットワークの中でのコミュニケーションを促進し
ました。この二つの技術革新とも、社会運動を高める可能性の増大につながるもとと見ら
れました。戦争を管理する人間が情報の流れを完全に支配できるなどとは誰も言えなくな
りました。一例を挙げれば、イラク・ボディー・カウント(イラク死体数計算)というウ
ェッブサイトは、イラクにおける市民の死傷者の詳細な推計を提供しており、以前はいわ
ゆる「二次的損害」という名前で片付けられていた問題に対抗する情報を提供しています。
他の多くの面でも、ブロッグや、フリーのレポーターや写真家などが主流のメディアとは
違ったメディアを形成しています。違った意見や反対意見を表明する新しい機会が増えて
います。
インターネットは社会運動間でさらにもっと国際的な協力ができるような機会を提供して
います。世界に広がるフェミニスト運動、それに1999年の「シアトル闘争」から毎年
開かれている世界社会フォーラムに到る、グローバル化の新自由主義に対抗する運動がそ
うした具体例です。平和運動の場合にも、地雷禁止、劣化ウラン弾や最も最近ではクラス
ター爆弾に対する強い反対運動を展開する上で、インターネットが活動家たちを連結させ
るという点からすれば、
「エレクトロニック脊髄」とでも呼べるような重要な役割を果たし
ています。
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残念なことに、ヴァーチャル世界にはもう一つ別の側面があります。それは、もっと目に
見えやすい反対意見の表示方法の代用となってしまうことです。MoveOn.org というサイト
は参加者から署名と寄付金を集める大規模ではあるが静かな運動のごく一部です。イギリ
スのインターネットの活用を研究したある二人の社会学者によれば、インターネットは戦
争反対派と賛成派の間の「象徴的闘争」として役立っているとのことです。しかし、こう
したヴァーチャル運動は、これまでのような伝統的な運動方法と同じような力を発揮する
のでしょうか?新しいウェッブは、もっと目に見える具体的な反対運動形式の代わりとな
りうるのでしょうか?運動は、献身的活動家の努力に依存します。実際に闘争活動すると
いう努力を、E メール・リストに情報を配信する仕事で取り替えることができるのでしょう
か?活動家たちの間での「個人的なネットワーキング」は、組織形態がうまく整っていな
くても情報の円滑な流れを促進するということなのでしょうか?以前の時期の運動の展開
においてはたいへん重要だった、友達同士の繋がり、職場や教会の集まりでの繋がりはど
うなったのでしょうか?この質問に対する確かな答えを私は持ち合わせていませんが、ヴ
ァーチャル運動が、ベトナム戦争時代の運動と違っていることは確かです。
国民の反戦意識と運動展開を変化させ、それによって外交軍事政策を新しい方向に向けさ
せるということは常に難しいことでした。ベトナム戦争の場合には、戦争政策があまりに
も不人気のために大統領が実際に辞任すると決めた後、平和条約が結ばれるまでに5年も
かかりました。反戦運動は、ユージン・マカーシーやロバート・ケネディーのような反戦
の大統領候補者を、戦争に変わる政策を掲げて選挙に出るような後押しとなりました。反
戦運動は、連邦議会で批判的な公聴会を開き、最終的にはベトナム戦争ための戦費使用を
停止する期限について票決をとる足場を築くことができました。
イラク戦争に反対する国民の意見と運動もまた、民主党の反戦候補者を勇気づけました。
2004年、ハワード・ディーンの大統領候補は、彼の反戦の立場ゆえに、当初予想して
いたより多くの人たちを引きつけました。2006年には、戦争に反対して投じられた票
のゆえに、民主党は下院において過半数をとりました。
残念なことには、ブッシュ政権が犯した過ちによってチャンスがあったにもかかわらず、
民主党は戦争に正面から反対してリーダーシップをとるということを一般にしませんでし
た。その意味で民主党がとった行動はがっかりしたものでした。しかし、2008年大統
領候補氏名争いでバラック・オバマ上院議員がヒラリー・クリントン上院議員に勝ったそ
の理由を考えてみたいと思います。多くの批評家たちが、人種、性別、政治的なスタイル
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などの役割について意見を述べました。ヒラリーはオバマよりも横柄であり、自分を過大
評価し、投票者を十分尊敬しなかったと言えるかもしれません。選挙対策専門家たちは、
クリントンはオバマほどうまく支援者を動員することができず、戦術を欠いていたと言っ
ています。しかし、もう一つ別の重要な説明は、ヒラリーがイラク戦争開戦に賛成の票を
投じたことであり、後になってもそのことについて再考することを拒んだということです。
これとは対照的に、オバマは2002年から戦争に明確に反対してきたことが、投票者を
引きつけ、数多くのボランティアが選挙運動に加わった理由です。実際、多くの州でクリ
ントンが支持者を動員できなかったのは、反戦活動家たちが地方議員を占めていたことを
彼女の選挙運動が認識していなかかったことの反映なのです。州ならびに地方の党組織を
十分動員できなかったことが、彼女の敗北へとつながったのです。反戦意見を表明する方
法は変わったにもかかわらず、いまだに戦争反対の運動には影響力があり、国民の反戦意
識は重要なのです。
イラク戦争反対運動の有効性について多少批判的な見解を出しましたが、しかし、とりわ
け社会の表面の下に存在する要素に目を配り、社会運動の間接的で長期的な形態を考慮に
入れるならば、希望はあると言えます。さらにつけ加えれば、政治的打算とは無関係に、
多くの献身的な人たちの思いが、強い反戦の立場をとらせるのです。戦争に反対すること
は倫理的に優先すべきことです。広島市民の皆さんの中に私はこの思いを常に見いだし、
同じ目的に向かって皆さんと一緒に努力して行ける機会を与えていただいたことに心から
感謝いたします。
(訳:
田中利幸)
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