人間胚性幹細胞研究の倫理性に関する考察

人間胚性幹細胞研究の倫理性に関する考察
H。Y。C。(韓国、教養学部)
要旨:最近、 人間胚性間細胞の研究に関して倫理的な議論が活発に行われている。研
究の倫理的な問題、つまり胚芽が生命であるか胚芽が生命して厳かさを持ちそれを尊重す
るべきだとしたら病気で苦しんでいる人の尊厳についてはどう考えるべきであるかについ
て考察する。そして今後の研究に当たり、研究者が持つべき心がけとは何だろうかについ
て考えてみる。
キーワード:人間胚性間細胞(ES 細胞)、生命、尊厳、キリスト教、仏教
0. はじめに
最近、科学技術の中でも生命を扱う技術は急速に発達してきた。その技術はいわば神の
領域に至ったと言ってもいいだろう。しかし、このような技術の発達を単にいいこととし
て受け入れることはできない。人類の歴史でいつも新しい技術は人類により便利でより豊
かな生活を与えると同時にそれに相当することを奪ってきた。蒸気機関の発達により人間
は自然の美しさを失い、コンピューター技術の発達は人間から対話を奪った。つまり、今
の生命科学の技術をどうやって受け入れるかによって人間がより楽な生活を楽しめるか、
むしろ何よりも重要な何かを失うかが決まるのである。だからこそ、生命化学技術に対す
る論議は今活発に行われるべきである。映画「アイランド」(原題
The Island、2005)は
クローン技術が及ぼす可能性のある問題を映画として表し、観客に生命科学技術の発達が
持つ暗い面を考えさせる。今の生命科学系の中でも注目されている分野は胚性幹細胞
(Embryonic Stem cell。以下 ES 細胞)の開発である。この研究にあっての私たちが考え
てみるべき問題について今から述べたいと思う。
1.ES 細胞とは?
まず、幹細胞(Stem cell)とは何か、ES 細胞とはどういう細胞なのかをここで理解す
る必要がある。幹細胞という細胞は簡単に言うといろいろな身体組織に分化することがで
きる能力を持つ細胞である。分化というのは精子と卵子が受精卵を作ってその受精卵とい
うひとつの細胞が骨、心臓、皮膚などの多様な組織細胞になる過程のことを意味する。こ
の幹細胞にも2種類があって胚性幹細胞(ES 細胞)がそのひとつであってもうひとつは成体
幹細胞である。この分類は得られる方法によって分けられる。成体幹細胞はすでに分化し
た組織の中に微量に存在する幹細胞のことで、ES 細胞は言葉通りに胚芽の発生過程で得
られた幹細胞のことを言う。特に ES 細胞というのは初期の胚の細胞を培養して得られる
細胞で、血液、神経、肝臓、膵臓といったさまざまな細胞を作り出すことができる。この
身体を構成するすべての種類の細胞として分化することができる全分可能が ES 細胞と成
体幹細胞が違う最も重要な特徴である。この全分可能の特性より ES 細胞は糖尿病、ガン、
後天性免疫欠乏症(AIDS)、アルツハイマー病、パキンソン病などの難治病治療の最も
効果的な手段として評価されている。世界の数千、数万の人々を難治病から救えるという
ことが ES 細胞の研究を支持する第一の理由であり、難治病で苦しんでいる患者やその家
族に ES 細胞は大きい希望ともなっている。このように ES 細胞の研究により多くの人が
助かることは明らかであるが、問題になるのはこの ES 細胞の研究には倫理的な問題が伴
うことである。その倫理的な問題は ES 細胞を得る過程で胚芽が破壊されるということで
ある。
2.ES 細胞の研究に対する倫理的な論争
アンケートによりES細胞の研究に関する人々の意見を聞いてみた結果、ほぼ 75%にい
たる人がもうES細胞の研究は既に技術の発達のために仕方ないものであり、行うしかない
と思っていた。しかし、反対する側の人々は破壊される胚芽を生命としてみなし生命の尊
厳が犯されると主張している。ソウル新聞によると、法王庁エリオ・スグレシア主教は
「どうやってES細胞を得るために人間胚芽を破壊する特権を‘科学の権利’として要求で
きるのか理解できない。ES細胞も‘殺害’された胚芽の一部である」といっている。その
幹細胞からガン発生の危険性がある点を指摘し、すべての疾病を治せるという主張はうそ
でむしろ免疫拒否反応のために疾病治療に不適合だと言った。そして、「ES細胞とは違い
成体幹細胞は倫理的問題もなく、医学的に有用な対案であり成体幹細胞の研究は今まで相
当な量の肯定的な成果を蓄積している」と言って、ES細胞の研究に対する反対の態度を明
確にした i 。つまり、キリスト教は人間の胚芽細胞をひとつの生命として認める代表的な集
団であり、そのひとつの生命を人為的に操作することで他の生命を救うための手段として
使うのは一つの生命を破壊する行為であり、生命の尊厳に逆らうことだと主張している。
このような反発にかかわらず、韓国ではファンウソク教授の研究チームが国家的な支持を
受けながらその研究を続けてきた。もちろん、韓国でのES細胞の研究は国家的な利益を前
提としたプロジェクトであったので国内で倫理的な議論が十分行われたとは思えない。し
かし、ファン教授の研究を支持する韓国の高僧、ジグァンが新聞社とのインタビューで東
洋と西洋の倫理が違うのにキリスト教は西洋の倫理をそのまま持ってきて韓国に適用しよ
うとするといいながら韓国内でのES幹細胞に反対するキリスト教を批判した ii ことに注目
したい。 仏の教えを伝える仏経の中では「仏はひもじくて、ぼろをまとって、病む三つ
の苦しみの中で一番耐えられないのは痛いことだ」 iii といっているので痛みで苦しんでい
る衆生を助けるために仏の教えに従って研究することは恥ずかしいことでも何でもないと
いうことが韓国内での仏教系の立場である。キリスト教の主張とは対立するこの主張は注
目すべきところがある。それは歴史や慣習などがその地域の倫理観に影響を与えるという
ことで西洋と東洋はすでに違う倫理観を持っている。西洋と東洋の違った倫理観から見た
とき、国際的に研究を進めようとすると必要になる共通な倫理基準は両方の倫理観をでき
るだけ満たすような基準を考えるべきである。西洋に由来したキリスト教が倫理的に否定
する問題を東洋に由来した仏教の観点から見ると何の問題もないということから宗教的な
観点からみてES細胞の研究が全く非倫理的な研究ではないということが言えるだろう。
3.生命、またその厳かさに関する考察
1) 生命の基準は?
ES細胞研究に関する論争はまるで技術の発展と倫理または生命の尊厳のうち、どちらを
より重要であると考えるべきかの問題であるかのように見える。そういう見方も間違いと
は言えないが、それより重要な観点をここで提示したいと思う。それはES研究を進めると
き破壊される胚芽の尊厳とES研究より救われることができる患者たちの尊厳のうち、どち
らを選ぶかという観点である。この観点から考える前にまず、ES細胞の研究が倫理的に問
題となる根本的なところから考えたら研究で使われる胚芽を生命として認めることができ
るのかという問題がある。まずはそれについて述べたいと思う。多くの人は精子と卵子が
受精したときからその受精卵をひとつの生命として考えるべきであると主張している。こ
ういう主張は論理的な主張というよりも信念から来た考え方だといえる。つまり、生命の
基準というのは各個人の信念から決まり、その基準も人によって違ってくるわけだが、こ
れをここで論理的に受精したばかりの受精卵は生命でないなどの主張を述べてもその人々
の考え方を変えるのは無理だろう。そういうことで、私はここで人間の発生過程でどの時
点から生命として認められるかについての色々な主張を紹介してその中でES細胞の研究を
進めるときに倫理的な心構えとして受け入れるべき主張は何かを考えてみたいと思う。
まず、過去の生物学ではDNAと自己複製能力を持った構成体を生命と呼んでいた。しかし、
この定義からは胚芽が生命であるかを判断することには無理がある。キリスト教で主張す
ることは受精したひとつの生命が誕生するということである ⅳ 。しかし、ES細胞の研究を
支持している科学者たちは受精してから 14 日後の胚芽を生命としてみている。この 14 日
という期間は受精卵が胎に着床して原始線(Primitive streak)ができるまでの時間であ
る。つまり、科学者たちは原始線の形成以前の胚芽を生命体として認められないと主張し
ていることである。しかし、筆者はこの二つの主張とは違う考えを持っている。筆者が考
える生命は生きていこうという意志を持っているべきだと思う。つまり、自分の生存にあ
って危ない状況に直面したときそれから逃げ出すなど、そういう状況を克服しようとする
努力を見せないことは生命のような形をしていようと生命ではおないということだ。例え
ば、植物の場合には幹が伸びていくとき岩や硬い何かによって伸び道が防げられたりする
とそれを突き抜いたり横に幹を伸ばしたりする強い生命力を見せる。また、胎の中の成熟
した胎児を中絶しようとする場合がある。その時、子宮の中に機械を入れてその胎児を殺
すようなやり方をする。しかし、この時胎児は自分を殺そうとする機械から逃げようとす
ることが見られる。これは胎児がその機械に対して危ないという判断をするほどは成熟し
ていないが、本能的に自分の身が危ない状況に当たっていることを感じてそういう動きを
見せているのである。こういう例に比べて胚芽に関して考えてみると胚芽は生命として認
めるにはまだ未成熟な存在だと思われる。このように胚芽が生命であるかどうかについて
の議論も活発であるが、むしろ生命という概念に境界を決めようとする試みに対しては警
戒すべきだという仏教系内の主張は面白いと思う。韓国ドングク大学のキムジョンウク教
授(仏教学科)は「仏教的観点から生命のはじめと最後を決めることはできない」と言い、
「生命体として曖昧である胚芽を問題とするより“生きていく”というのは何だろうかと
いう高次元的な問題を考え、研究の目的が変質しないようにすることが大事だ」と主張し
ている ⅴ 。この主張に注目したいのはこの生命の基準に関する見解は人の数ほど多く、そ
れぞれ微妙に違うからである。しかもこういう見解は自分の信念と結び付けられる問題で
あって、一つの考え方を押し付けることも無理である。このような状況では自分が正しい
と主張する議論も無意味だとも言えるだろう。だとすれば、それよりも根本的で高次元的
な問題を考えようとする主張は相当有効なものだと思う。
2)生命の尊厳-胚芽の尊厳と病気で苦しんでいる人の尊厳
多くの人が胚芽を研究のために破壊するのは生命の尊厳を犯すものであると主張する。
ここで考えてみたいもうひとつは難治病で苦しんでいる人々の生命との尊厳である。生き
物を殺すことだけが生命の尊厳を犯す唯一の行為ではない。生命のあるものを傷つけたり、
傷ついている生命体を見捨てたりするのも生命の尊厳を犯す行為の一つである。今、病人
は病気で、身体の障害で普通の人間のように生活することができないというのはいうまで
もないし、たまには人間としての待遇さえ保証されない場合も少なくない。このような
人々またその家族には ES 細胞の研究が唯一の希望と言っても言い過ぎではないぐらいで、
実際、韓国で ES 細胞の研究のために必要な卵子を得るために提供者を募集したとき多く
の患者とその家族が自発的に提供しようとした。ES 細胞の研究をやめるのは完全に生命
として成熟し、健康な人生を生きていく権利があるこの病を持つ人々の尊厳を見捨てるの
だともいえるだろう。生命として曖昧である胚芽と自分の健康な人生を求め続けている患
者の尊厳がそれぞれあったとしてその中でより大事にするべきものを選ぶとしたら生き続
けるために頑張る患者の厳かさが尊重されるべきだろう。
5.むすび
ES 細胞の研究が倫理的議論を引き起こす根本的な問題は胚芽を生命として認めるかど
うかの問題であり、この問題に関しての議論は自分の信念を主張する議論であるからこそ
双方が合意した一つの結論は出せないだろう。だとしたら、この曖昧な問題にこだわって
いるよりは ES 細胞の研究を進めて現在われわれの目の前で苦しんでいる真の生命を助け
るべきではないだろうか。しかし、胚芽はそのまま置いたら生命へと発展する可能性を持
っている限り、また、その胚芽を生命と主張する人々がいる限り、この ES 細胞の研究は
生命を破壊する研究としてのイメージが残るはずである。研究者たちはいつも自分たちが
扱っている対象が生命になる可能性を持った胚芽であることを考えながら自分たちのやる
べきことはその研究を通じてより多くの病人を助けることであると自覚しているべきであ
る。また、われわれも研究が持つ両面性を忘れてはならない。
註
ⅰ 서울신문 2005.12.29、原文韓国語、筆者和訳
ⅱ 문화일보 2005.12.04、原文韓国語、筆者和訳
ⅲ 仏経 法網経、原文韓国語、筆者和訳
ⅳ アンケートに答えた人々の 67%もこのような考え方を持っていた。
ⅴ http://blog.naver.com/knightblack?Redirect=Log&logNo=13882967、原文韓国語、
筆者和訳