2014 年 7 月 20 日 日曜集会(要旨) 聖書研究会 神戸集会所 マルコ

2014 年 7 月 20 日 日曜集会(要旨)
聖書研究会
マルコによる福音書 10章32~45節
神戸集会所
石井田 直二
<朗読個所>
32 さて、一同はエルサレムへ上る途上にあったが、イエスが先頭に立って行かれたので、
彼らは驚き怪しみ、従う者たちは恐れた。するとイエスはまた十二弟子を呼び寄せて、自
分の身に起ろうとすることについて語りはじめられた、33「見よ、わたしたちはエルサレ
ムへ上って行くが、人の子は祭司長、律法学者たちの手に引きわたされる。そして彼らは
死刑を宣告した上、彼を異邦人に引きわたすであろう。34 また彼をあざけり、つばきをか
け、むち打ち、ついに殺してしまう。そして彼は三日の後によみがえるであろう」
。
35 さて、ゼベダイの子のヤコブとヨハネとがイエスのもとにきて言った、
「先生、わたした
ちがお頼みすることは、なんでもかなえてくださるようにお願いします」
。36 イエスは彼ら
に「何をしてほしいと、願うのか」と言われた。37 すると彼らは言った、
「栄光をお受けに
なるとき、ひとりをあなたの右に、ひとりを左にすわるようにしてください」
。38 イエスは
言われた、
「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていない。あなたがたは、わ
たしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることができるか」。39 彼らは「で
きます」と答えた。するとイエスは言われた、
「あなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わ
たしが受けるバプテスマを受けるであろう。40 しかし、わたしの右、左にすわらせること
は、わたしのすることではなく、ただ備えられている人々だけに許されることである」。41
十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネとのことで憤慨し出した。
42 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた、
「あなたがたの知っているとおり、異邦人
の支配者と見られている人々は、その民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力を
ふるっている。43 しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。かえって、あ
なたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、44 あなたがたの間でかしらに
なりたいと思う者は、すべての人の僕とならねばならない。45 人の子がきたのも、仕えら
れるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与え
るためである」
。
<リーダーシップ>
今日の箇所で、イエスはリーダーシップについて教えています。全ての人がリーダーにな
るわけではありませんが、たとえば会社に勤めていても、最初は平社員から、主任、係長
…と位が上がり、何人かをまとめる立場に立たされます。人間は、時としてリーダーにな
らないといけないことがあります。しかし、リーダーになることは容易ではありません。
たとえば、あなたが子供や友人、お年寄りを連れて海岸に遊びに来ていたと考えて下さい。
津波警報が出ました。何分後に津波が到達するのかわかりません。目の前には、頑丈そう
な3階建ての建物があり、5百メートル先には高台があります。さて、あなたはどちらに
逃げようと思いますか?
ここで「みんな好きな道を行きなさい」「多数決で決めましょう」という方法もあります。
これは責任逃れで、議論している間に津波が来るし、足の弱いお年寄りだけでは避難でき
ません。最も生き延びる確率が高いのは、あなたがどちらに避難するかを決断し、全員で
そこに行く方法です。
全員が助かれば、あなたは「すばらしいリーダーだ」と誉めてもらえます。しかし、その
選択が裏目に出て、津波に巻き込まれたら、みんなから「なぜそんな所に逃げたのか」と
非難されます。それがリーダーというものです。
リーダーも当然、迷いますが、どこかで決断を下さなければなりません。その精神的プレ
ッシャーは非常に大きなものがあります。
だから、書店に行くとリーダーシップに関する本がたくさん並んでいます。私は、中小企
業家同友会でも、リーダーシップについて学びましたが、リーダーシップと一口に言って
も、非常に奥が深いです。様々なタイプのリーダーがあっていいのです。カリスマで人を
引っ張っていく、理詰めで動かす人、粘り強さでリードする人、様々です。今日の個所で、
イエスは弟子たちにリーダーシップのあり方を指導し、リーダーの手本を示しました。
<受難予告>
33節以降には、受難と復活の予告があります。イエスはここに来るまでに二度ほど、自
分が十字架につけられて殺される運命にあることを弟子たちに説明しています。これは、
旧約聖書の「預言書」と呼ばれる書にあります。「人の子」はメシア、救世主の別名なので
すが、メシアに関する預言には、不思議なことがありました。
それは、メシアが人々の罪を負わされ殺される、という預言と、メシアが栄光の姿で現れ
てイスラエルの敵をやっつけるという預言です。弟子たちは栄光のメシアを期待していた
のですが、その前にイエスは人々の罪を負って死ぬ必要がありました。それを知りつつ、
イエスは意を決してエルサレムに向かいます。並行個所であるルカ9:51には「イエス
が天に上げられる日が近づいたので、エルサレムへ行こうと決意して、その方へ顔をむけ
られ」と書かれています。これは並々ならぬ決意だったのでしょう。
弟子たちが驚いたのは、イエスの決意だけではありませんでした。「イエスが先頭に立って
行かれたので、彼らは驚き怪しみ、従う者たちは恐れた。」という32節の言葉から、重要
な事が分かります。いつもイエスは先頭に立って歩いておられなかったのです。イエスは、
弟子たちを訓練するために、いつもは彼らを先に歩かせていました。弟子たちを先に歩か
せれば、人々がやって来た時に、真っ先に弟子たちが対応することになります。どう対応
するかを、イエスは後ろから観察できます。実際、10章13節では、弟子たちの対応に
ついてイエスが注文をつけておられます。
しかし、危機的な状況の中で、イエスは先頭に立って歩かれました。すると、弟子たちは
驚き、とても不安を感じました。
「驚き怪しみ」は、ギリシャ語では24節に出て来る単語
と同じ「サムバオ」です。イエスは弟子たちの実力をよく知っていて、彼らが十字架の意
味について理解できていないことも、わかっておられて、弟子たちの不安を察知し、彼ら
を呼び集めて緊急ミーティングをされたのです。そして、今度はより具体的に十字架の死
について教えられました。
<上位になろうと争う弟子たち>
しかし、弟子たちはイエスの苦難をあまり理解せず、メシアが栄光を持って来られること
ばかりを考えていました。9:33以下では、弟子たちが「誰が一番偉いか」と議論して
いて、イエスが一度、彼らの思い違いを正したのに、弟子たちはまた同じことをやってい
ます。ここでは、ヤコブとヨハネとが出て来て、イエスの「右大臣、左大臣」にしてくれ
と言い出しました。マタイ20:20を読むと、どうやら母も一緒に来ていたようです。
これに対して、イエスが「何を言っている。十二弟子はみな平等だ」と言っておられない
事に注意して下さい。イエスの右、左にすわる人は確かにおり、十二弟子の中でさえ、役
割の違いがあるのです。しかもそれが、父のご計画であり、イエスの一存では決まらない
という、驚くべきことが示されています。
そしてイエスは、ヤコブとヨハネに「わたしが飲む杯」と「わたしが受けるバプテスマ」
にあずかるように求めます。これは、洗礼の意味ではなく、苦難を意味していると解され
ています。使徒 12:1-2 を読むと、ヤコブは最初に殉教者となりました。ヨハネは長生きし
たと言われていますが、彼の人生は決して楽なものではなかったのです。
このやり取りがあったあと、イエスは再び弟子を呼び集めてミーティングをされています。
短い時間で二度のミーティング。こうして、丁寧にグループをまとめて行く、イエスの細
やかな神経のリーダーシップはさすがです。イエスは、自分がいなくなることがわかって
いるので、弟子たちのチームワークを非常に重視しておられたのです。一堂に会して話し
合うことは、単なる情報伝達以上の深い意味があります。
<イエスの作ったチームワーク>
そしてイエスは、上に立つ者が仕えるものだと教えられました。この教え自体は、読めば
わかるとてもシンプルなものです。全ての人は平等ではありません。仕えられる人と、仕
える人がいるのです。しかし、
「偉い人」が仕える人なのだと、イエスは教えているのです。
リーダーは、権勢をふるうためでなく、人々に仕えるために選ばれた人々です。選ばれる
ことは決して容易なことではありません。しかし、誰かが選ばれる必要があります。
弟子たちが「誰が偉いか」と争っていたことは、決して悪い事ではありません。イエスは
十二弟子として、わざとそういう人々を集めました。リーダーになりたくない人間を十二
人集めたら、きっと、PTA役員や町内会長の選任のように、みんなでリーダーの役目を
押し付け合ったことでしょう。でも、弟子たちは偉くなりたかったのです。そして、そう
いうモチベーションの高い人々に、イエスは「仕える」ことを求めました。
この集団が、十二弟子とイエスの計13人だけでなかったことに注意して下さい。この個
所では、聖書の訳にもよりますが、
「弟子」と「従う者たち」の二種類の人々がいたようで
す。リーダーたちだけでなく、それに従う人々がいなければ、チームはできません。モチ
ベーションや能力の度合いによって、様々なレベルの人がいて初めて、チームが出来て、
そのチームが人々に仕えられるのです。
イスラエルの選びも、クリスチャンとしての選びも、レベルの違いはありますが原理は同
じです。選ばれることは決して楽なことではないのですが、人々に仕えるという目的のた
めに選ばれたことを覚え、それぞれの賜物に応じて人々に仕えて行く必要があります。
<あながい>
最後にイエスは、彼自身が仕えるために来たことを説明しておられます。
「多くの人のあが
ないとして、自分の命を与える」ということは、常識では理解できません。しかし、メシ
アの死と復活という、理解不能の行為を通じて、私たちは変えられ、世界は変えられたの
です。私たちのリーダーであるイエスは、消えたわけではありません。
イエスは「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいるのである」と言
っておられます。彼に従いつつ、歩んで行こうではありませんか。