予備知識 Ⅰ 社会の縮図としての都市

横浜市立大学エクステンション講座
パリ史こぼれ話
第2回(11/12) 都市の社会地理学 — ロンドン、パリ、ウィーンの比較 —
横浜市立大学名誉教授 松井道昭
予備知識
A.3都市に共通する要素
(1) 古代ローマ以来の歴史をもつ都市(市民の自負心)
(2) 長いあいだ大国の首都でありつづけたこと(政治の中心地、消費都市)
(3) 大きな河川沿いの都市(広大な平野 <=後背地> の中心、商業港)
(4) 国家経済の中心地だが、産業革命の直接的な影響は小さい(サービス業に特化)
(5) ヨーロッパの代表的文化都市(キリスト教)
(6) 封建制を経験(貴族と平民の身分制)
(7) 近代以降はコスモポリタン的都市になる(多民族共生、国際的都市)
(8) 19 世紀に都市改造を経験(都市問題と近代化)
(9) 二度の世界大戦での被害は比較的小さい(古い建造物が残存)
B.3都市それぞれの特質
(1) 西欧の西端(島嶼:ロンドン)
、中央(大陸西岸:パリ)
、東端(内陸:ウィーン)
(2) 自治都市(ロンドン)
、国権に従属する都市(パリとウィーン)
(3) 早期に城郭を脱した都市(ロンドン)
、城郭が長く存続した都市(パリとウィーン)
(4) 新教都市(ロンドン)
、旧教都市(パリとウィーン)⇒ ルネサンスとバロックの
定着度合いの差
(5) 植民地体制以前:単一民族の都市(ロンドンとパリ)
、多民族都市(ウィーン)
(6) 外敵:仏・蘭・独(ロンドン)
、英・西・普・墺(パリ)
、土・露・仏・普・伊
(ウィーン)
(7) 防御:海軍(ロンドン)
、陸<海>軍(パリ)
、陸軍(ウィーン)
(8) ギルドの圧力:弱体(ロンドン)
、強大(パリとウィーン)
(9) 建材:煉瓦(ロンドン)
、石材(パリとウィーン)
Ⅰ 社会の縮図としての都市
A.中世都市と近代都市の社会地理学上の特質
中世の城館の大広間が主人と召使、一族と家来、家族と他人を一緒に住まわせてい
たように、中世都市は金持ちと貧乏人、貴族と平民、聖職者と俗人をそれぞれ地理的に
きわめて近い状態においた。
一方、近代の家庭が家族の部屋から召使の居所を、また私的区域から公的区域を区
別し隔離しようとつとめたように、近代都市は製造業・金融業・卸売業・小売業・住居
に当てられた地域を組織するようになり、今度はそれぞれの地区が階級と富と職能に従
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って再分割されるにいたった。つまり、近代都市はもともと一体的な集団を、社会的・
民族的・類似点に基づいて同種の人々から成る地区に分離したのである。この社会的分
離は社会悪を育み、都市生活の倦怠感と人工性を助長するものとして共に嘆かわしいも
のと見なされてきた。たとえば、階級と慣習と活動が渾然一体となっている中世都市の
有機的構造と対比してみると、近代都市の欠陥は明瞭になる。たとえば、侘しい郊外住
宅地、
夕方と週末に人影の消える商業地区、
「歩行者天国」
の商店街に分割された都市は、
いわばゲットーの断片的な寄せ集めでしかない。ほとんどの英語圏の都市の特徴となっ
ている階級と活動の分割はほとんど弁護するに値しない。
ただし、このこと(近代都市の社会的地理構図の弊害)をあまり強調するのも考え
ものであろう。というのは、中世都市においても階級・職業・宗教的集団・民族的集団・
経済活動・文化団体などが渾然一体となっているというよりは、すでに明確な地区割り
が進んでいたからだ。ある場所では金銀細工師、ある場所では家具師、またある場所で
は金融業者というように、各通りが同種の職業に割り当てられていた。一定の集団が商
売や居住や娯楽のために特定の場所に群がるということは経済的に理に適うとともに心
理的にもはっきりした理由がある。そして、都市が大きくなればなるほど、特別の目的
をもって再分割の可能性はますます強まる傾向にある。
ある場所が他の場所よりも望ましいと思われるならば、市場経済で最も金銭に恵ま
れ、非市場経済でもっとも現体制に気に入られている集団が、いちばん望ましい地域を
手に入れるのは当然のことである。だれもがヴェルサイユ宮に部屋をもつことはできな
いだろうし、だれもがブッダ城 ― 14 世紀に建てられたブダペスト右岸の丘陵地帯に
ある城 ― 近くのアパートに住宅をもつことはできないだろう。歴史的に重要である
のは、都市の居住者がそれぞれの時代において特定の街路や地区が望ましいことに気づ
いてきたということだ。ロンドンのオックスフォード・ストリートがかつては贅沢品の
店に特に有利な場所と見なされてきたこと、ヴィクトリア時代のチェルシー地区の大部
分が元々はスラム街であったことは、望ましいものと望ましくないものとに対するわれ
われの選好の存在とその基準が何であるかをうかがわせる。
B.地域の「上流化」と「下流化」を分ける要素
地域は「上流化」に向かうところと、
「下流化」に向かうところとに分かれるのがふ
つうである。
「上流化」選好が興味深いのは、それが不動産投機業者の質(たち)の悪さ、
あるいは知的階級の強情さを示しているだけにとどまらない。
「上流化」選好というのは
上流階級に固有のものではなく、どの階層ももつ性向である。実現できるかできないか
の差でしかない。また、
「下流化」が興味深いのは、その地区における建物の老朽化ない
しは流行の変化のせいとのみ決めつけられない。双方ともに、転換期に差しかかった都
市社会が宿命的にかかえる問題の解決策のひとつとして選ばれた結果である。
このことについて、
地域の階層化が進まなかった地域を例に引いて考察してみよう。
地域の裕福な居住者たちは市内の市営住宅を、掃除婦の豊富な供給源として承認してい
るように見える。歴史的にみれば、中流階級の地区は労働者階級の住民を多くかかえて
いた。かつての中流階級の家庭は召使・修理屋・配達人・窓拭き・掃除人として相当数
の労働者階級を必要としたのだ。それとは対照的に、労働者階級の地区はごく少数の中
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流階級の人々 ― 小売商・牧師・医師・社会事業家 ― がいればやっていけた。
現代都市において社会地理学の観点から見て階層分岐が進んだのは、今日の中流階
級が労働者階級を昔ほどに利用しなくなったからである。使用人のいない、家事のすべ
てを自分でおこなう家庭が標準となり、大型冷蔵庫と冷凍庫と自家用車のおかげで遠距
離のスーパーマーケットで週一度の買い物をすれば間にあうようになったとき、路地と
袋小路とみすぼらしい通りをかかえる場所は中流階級の住処としてふさわしくなくなっ
た。
ひるがえって、中世のロンドンやパリに目を向けるとき、ともに商業地区とか住宅
団地とかにきっぱり分割されなかったのは、当時は住民数が限定され、通勤電車やイン
スタント食品、冷凍食品がなかったからだけではない。中世の特権階級は下位者とのあ
いだに空間的距離をおく必要を感じなかったからである。
Ⅱ ロンドン
A.ロンドンで階級間分離居住が早期に進んだ要因
ロンドンの特徴をパリとウィーンとの比較の観点からみてみよう。
(1)面積が広い。
(2)科学技術が進歩し、家庭中心とプライバシーという新しいイデオロギーの影響をい
ち早く受けたため、早い時期に階級間居住地の分離を達成していた。
(3)ロンドンはトルコ軍やユグノーの侵略の恐れがなかった。ロンドンの城壁は7世紀
初めまでにすっかり軍事的役割を終えていたし、郊外への町の拡大を制限すること
もなくなっていた。
(4)ウェストミンスター地区には宮廷と議会と寺院が存在していたために、その方向に
向けてすぐれた建築の発展が促進された。
(5)1530 年代に修道院が解体されたことは、それから2世紀後のフランスで進んだ教
会領の収用(フランス革命による土地没収)と同じ効果を及ぼした。つまり、地主
や投機業者によって相当数の小区画の宅地造成されるのを可能にしたのである。
(6)そして、1665 年から 1666 年にかけて疫病の発生と大火がきっかけとなり、旧市部
の居住者はロンドンの西方の一層広々とした地区に移動したのだった。
(7)王政復古とともに、ロンドンの外側への拡大や土地の売却とか建設用地の賃貸から
得られる利益に与ろうとする地主の熱望にたいして、国王はまともに妨害はしなか
ったため、これによって社会的、職能的に区別された地区に選り分けられだけの十
分な土地空間が得られることになった。
上記(7)にもかかわらず、ロンドンは長いあいだこの機会を利用しなかった。貴族
の数に制限があった[注]のと、建築業者間の競争が激しかったために、ロンドンでは
階級間分離は徐々にしか進まなかった。1776 年にベッドフォード広場で始まった建築開
発によりベッドフォード団地は初めて社会的に同質の郊外住宅地の草分けとなった。
[注]フランスの貴族は大革命なぞなんのその!とばかり、家産の平等相続制のため 3 万以上もいる
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のと対照的に、イギリスでは 160~170 家族しかいない。フランスでは零落してしまい、今や職
人に身をやつしている貴族がいるのに対し、イギリスでは領地をもたない貴族はいない。そのた
め、彼らは土地をけっして手放さない。領地をもつことが貴族の条件でもあるのだ。
ブルームズベリ地区がその建築面で卓越性に釣りあうだけの社会的性格に到達した
のは部分的にして一時的であるにすぎなかった。これよりも華々しく成功したのは、メ
イフェア地区北部のグローヴナー団地であった。しかし、18 世紀にその居住者の多くが
貴族であったにせよ、
この地域は 19 世紀末期になってからようやく居住者が高度の社会
的同質性を獲得したのである。18 世紀中は商店・居酒屋・コーヒーショップは数多くあ
り、住宅の多くは貸間用に再分割された。そして、多数の労働者階級の住民は、主要道
路に通じていない袋小路や抜け道や路地に住んでいた。小売商人はグローヴナー広場と
それに隣接する街路から離れた場所で勢力をふるっており、
『ロンドン概観』は「メイフ
ェアのこの地域が裕福な人々の住む排他的な場所であった、という一般に行きわたっている印象はい
くつかの点でひどく誤解を招きやすい」という結論を下した。
にもかかわらず、メイフェア地区はおそらくウェストエンドの中で最も社会的に同
質の地域であったことだろう。東方ではソーホー、ゴールデン、レスターの各広場の土
地所有者と建築業者がいだいた大望は一時的ではあったが、その居住者によって叶えら
れた。リージェント・ストリートもある程度まではスラム街一掃計画の一部であり、す
ぐ東方の下層階級が住む通りからリージェント・ストリートに通じる出口の数は注意深
く制限された。
ロンドンが、当世風で繁栄するウェストエンドと、貧窮に悩むイーストエンドに分
割されているという考え方はあまりに物事を単純化することになるが、それでもなお、
そうした傾向がないわけではない。ヴィクトリア時代のロンドンで最悪のスラム街は、
ドルーリ・レインから分岐した通りと、1840 年代のニュー・オックスフォード・ストリ
ート、ならびに 50 年代のヴィクトリア・ストリートの建設によって一掃された。
B.18 世紀以降における階級間分離居住の促進策
それまでウェストエンドでは労働者階級の住民や貧困者がいなくなることは一度も
なかったが、18 世紀末の数年のあいだにその数を減少させようとする真剣な努力が始ま
った。ベッドフォード団地がガウー・ストリートとラッセル広場に課した契約条項と、
捨児養育院が 1790 年代にその借地証書に含めた契約条項は以前より厳しく、
建築上の画
一性だけでなく、社会的・職業的画一性を与えることを目的としていた。両契約書はと
もに小売業を完全に排除するよう望んでいた。ベッドフォード団地はグレート・ラッセ
ル・ストリートの北側にあたる地域の大部分から商店をなくすことができた。
西方ではかつてそれほど借地条件が厳しくなかったグローヴナー団地は、1790 年代
から新しい借地証書に、大通りで小売業者や製造業を営むことを禁じる契約条項を書き
加えていた。1835 年代までにはアパー・グローヴナー・ストリートとアパー・ブルック・
ストリートはすべて住宅街になっていた。この団地はベルグレイヴィア地区を当世風の
住宅地となった。ハイドパークの北側と南側にあたる新しい団地の地主と建築業者は古
い団地の場合よりも高度の社会的同質性を達成したのである。
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19 世紀になると社会的・機能的専門化が増大したが、その最も劇的な実例はシテ
ィ・オブ・ロンドンである。1872 年にエドワード・アイアンソンは「毎日、無数の人々の
往来でいっぱいになるシティには・・・居住する住民がほとんどいない」と述べている。以前の
居住者はそこの家屋を貸し出すことによって郊外住宅か、ベルグレイヴィア地区やタイ
パーニア地区の高級アパートに引っ越してしまった。シティの住民が移り住んだ郊外住
宅地区から昼間をシティで過ごす夥しい数の人々が乗合馬車や列車に乗ってやってきた。
つまり、職住の分離が進んだのである。
同質性と近代性が結びつくと、
このような新しい共同体 ― ノッティンガム・ヒル、
ウェスト・ケンジントン、バトニー、バラなど ― は、ジョージ王朝時代末期に起源を
もつ、中心部に近い魅惑的な地区となった。ベッドフォード団地はとりわけこのような
競争に悩まされた。セント・ジョンズ・ウッド地区やベルサイズ・パーク地区や、さら
に遠方の地域が単一の階級の郊外住宅地として開発されるにつれ、ベッドフォード団地
はすっかり住宅に囲まれてしまい、当初の高級団地としての性格を失ってしまう。
互いに競い合う郊外鉄道が発達し、賃貸家屋が市場に溢れたことは中流階級に転居
と選択の自由を与えた。これは、今日の同じ立場に立つ人々から見れば不思議でも驚き
でもない。人が住居を選ぶ際に、職業との関連を少しでも連想させる場所や下層階級の
居住地を連想させる場所は忌避するようになった。ロンドンの小売商人はずっと以前か
ら店の上階には住まなくなっていた。しかも、自分の店から逃れてしまうと、他の店が
並んでいる街路を避けるようになった。
メイフェア地区のグローヴナー団地も新たな競争を免れなかった。上層階級の居住
率は落ち込んだが、そのぶんベルグレイヴィアやケンジントンやタイパーニアの各地区
に移住したのである。1880 年代と 90 年代の広範囲に及ぶ建て替えによってこの傾向は
停止もしくは逆転し、20 世紀初頭までにこの地区はかつてないほど贅沢な私邸に当てら
れ、計画的な団地政策によって多くの街路から小売商を効果的に追放し、貧困者を追い
立ててしまった。
第一次世界大戦以後とくに第二次世界大戦以後は多数の召使を念頭において設計さ
れた高層の市内の別邸は財産家にとって維持するのが不可能となった。その多くは格式
のある事務所に改造されたり、アパートに分割されたりしているが、その外観は今も変
わっていない。1960 年にはグローヴナー団地では建坪のほぼ3分の1だけが住居用の目
的で使用されているにすぎず、しかもそのほとんどが新しい共同住宅においてである。
裕福な人々にとってもっと魅力的であったのは市内の別邸の建っている地区と、ジョー
ジ王朝時代末期かヴィクトリア時代初期の労働者小型住宅の台地であり、こうした住宅
は快適さと贅沢という現代の尺度に合わせて改造できた。それでも高級地区にも落差は
ある。
ロンドンにおける社会地理学的な職住の専門化と分離の程度について誇張した言い
方をするのは誤りであろう。市内での専門化ないしは分離よりもはるかに目につく変化
は郊外に現われているからである。同じ社会階層の者の地区に住むことを望む人々 ―
その願望が叶えられるほど裕福であることを条件とする ― はすでにロンドン郊外に移
動してしまっていた。金持ちのなかでロンドンの中心部かその近辺の住宅やアパートに
進んで家賃を払おうとする人々は、都市全体が提供する数々の活動の多様性と混乱状態
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のゆえにロンドン居住を好む者が多かった。
1918 年以降の政府の方針は市営住宅団地の設立を奨励し、抵当金利の支払いにたい
する税金免除を通じて個人の住宅所有への傾向を助長したが、それによって社会的分離
の傾向は強くなった。19 世紀後半ヴィクトリア時代のロンドン子の大部分は貧困ゆえに
居住地の自由選択をおこないえなかったが、今日では合理的な経済予測によって、自宅
所有者も市営住宅の借家人もそのような選択ができるようになっている。
Ⅲ パリ
A.地区内と建物内の諸階級混住を特徴とするパリ
階級差別の意識の点でフランス人はイギリス人ほどに敏感ではないといわれる。イ
ギリス人にとって奇異に思われたことは、パリではひとつ屋根の下に諸階級が混住して
いることであった。エドモンド・テクシエの『パリ絵図』
(1852~53 年)はまさに、こ
のような状況を示す恰好の例としてしばしば引き合いに出される。この絵のなかでは、
階段を登るにつれて生活様式が贅沢から快適 ⇒ 貧困 ⇒ まったく悲惨な状態へと変化
していく。おそらく街路とはいわないまでも、街区(カルティエ)であればどこでも、
社会全体の大まかな断面図を備えているのだ。この絵はまったく正確とはいえないまで
も、フランスとイギリスの差をある程度は表現している。イギリス人にとっては諸階級
が同じ建物内で社交的接触することは信じられないほどであった。
とはいえ、パリでも諸階級間の地理的分離居住を無視するわけにはいかない。中世
以来、分離居住は存在していた。ある地区が人気を博したのは、そこが宮廷に近く、そ
れに関連した歓楽が存在したからである。しかし、パリは独自性を維持した。というの
も、宮廷がヴェルサイユに移ったとき、金持ちで家柄のよい人々は以前の首都パリで引
きつづき私邸(hôtel particulier)を維持したり建造したりしているからである。
その原因が何であれ、18 世紀には富と流行の紛れもなき西方への移動があり、古い
貴族階級はマレー地区を捨て、フォブール・サンジェルマン地区の新築大邸宅に移り住
み、新しい金融界の貴族階級はセーヌの北側に建物を建てた。新たな広壮な住宅地が生
まれたのはセーヌ右岸とサン=ドニ通りの西に連なるグラン・ブルヴァールの両側である。
北西部(Europe 地区)の町外れの街路はフランス革命後も発展しつづけ、込み入った旧
地区から離れたがる中流階級の借家人向けの住宅が建造されていった。その多くは、通
りに面する正面が頑丈な造りであったが、広い裏庭を誇りとしていたのである。
話を戻そう。19 世紀初期までのパリはおしなべて諸階級と都市機能の集中化と混合
がその特色となっていた。卸売業と小売業に加えて、生産は同じ通りの両脇の住処で、
それも、しばしば同じ屋根の下でおこなわれていた。労働者と雇用者と商人は隣接して
暮らし仕事をしていた。それはあらゆる部門の製造業と商業が最も望ましい場所に自分
のための仕事場を見つけようとしたからだった。その場所はサン=ドニ通りとサン=マル
タン通りにできるだけ近いところであった。
19 世紀初めにもっと洗練された商売方法が出現すると、商業に従事する人々は事務
所を西方の証券取引所とフランス銀行の方向に移しはじめた。それはたかだか数百メー
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トルの移動でしかなく、現在のパリ第2区にすっぽりおさまる。重要なのは、移動した
距離よりも、同じ商売の内部での機能的・社会的分離であった。もっと進んだ富裕な商
人は一歩先んじて、グラン・ブルヴァールの北方に位置する新しい街路のひとつに居を
構えたが、そのなかでショッセ・ダンタン通りは外観が最も華やかだった。
B.パリ市民は歓楽街や商業街と隣りあわせに住むのを厭わない
機能分離と居住分離状態がパリにおいても現われはじめた。セーヌ右岸と左岸の両
方において、西側の区(第 8 区と第 17 区、第 7 区)は住宅と中流階級が主要部をなす地
域となった。
サン=ドニ通りの東側では住民は以前よりもプロレタリアートが増えていっ
た。マレー地区ですら労働者地区の色彩が濃厚になっていった。1850 年にイギリス人の
観察者はこう書いている。
古くからの貴族の豪奢な大邸宅のなかで、… 現代の産業が王冠を戴いている … 彩色
をほどこし金箔を張った天井の下には、小売商人の扱う商品が陳列されている。婦人の私
室は正直な商人の会計事務所である。
それでも、旧都心部に上流階級の人々が住む小地区が残されていた。住宅開発はい
つもきまって商店をその中心に引き込んだ。パリの金持ちはロンドン市民とは違って、
商業地域に近接して住むことに嫌悪感をいだかなかった。西側のブルヴァールは生活す
るのに最も望ましい場所であると同時に、商売と娯楽の中心地でもあった。ショッセ・
ダンタン地区とサン=ラザール地区とその近隣地区においてある程度の社会的分離が進
んだ。とはいえ、そうした地区は、商業と歓楽の両方の中心地に近いところで暮らした
がるパリ市民の願望を反映していた。
小売業は 18 世紀ほどには密接に製造業と結びつい
ていなかったが、むしろ以前よりも親密に、ひいきとする顧客と結びついていた。
セーヌ右岸がますます繁栄を極めるにつれ、セーヌ左岸は寂れる一方だった。パリ
南東部(第 12 区と第 13 区、第 5 区も)の宅地は価値が低く、建て込んだ土地はしだい
に借家人を見つけることが困難になるか、さもなければ割に合わない低家賃でしか貸す
ことができなくなった。カルティエ・ラタンに住む、若き住民はパリの他の地域の住民
と一緒になって西側のブルヴァールに歓楽を求めていく。公共馬車輸送が創設されたお
かげで、彼らはカルティ・ラタンから遥か離れた場所で生活と活動を探し求めることが
できるようになった。公共輸送機関の発達は人々に集住を促すどころか、拡散させた。
C.住民の移動とその対策 — オスマニザシオンに対する評価 —
都心部の凋落を深刻な現象と受け止めた市当局は、セーヌ左岸から右岸に向かう住
民移動の問題を調べる調査委員を任命した。1845 年に市会議員ランクタンは消費税の廃
止と橋梁の建設、新たな街路網の創設と、サン=ドニ通りとモンマルトル通りの道路幅の
拡幅を提案した。ランクタンは 1841 年に社会的分離を予見し、これを嘆かわしい現象と
みている。
われわれの風俗習慣の現状において市当局の関心、一般の関心、政治家の関心が等しく
求めているのは、住民のあらゆる階級が…パリのあらゆるカルティエに広がり、混ざりあい
ながら生活することである。…これらの階級が分離され、貴族階級のカルティエ、プロレタ
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リア階級のカルティエ、金融関係者のカルティエ、貧困者のカルティエに分けられる…日が
やってくるとき、…公的秩序の本質的基盤は破壊され、わが国にとって恐ろしい惨事に向か
う道が整えられることになるだろう。
1870 年までにパリは確かに 20 年前よりも高度の社会的、機能的な分離を特色とし
ていたが、皇帝ナポレオン三世と知事オスマンの独特の政策がどの程度までそれの原因
となったのかは明らかではない。オスマニザシオンは徹底的な都市の外科的処置ととも
に社会的に差別を設けた郊外住宅地への移住の奨励を必要とした。都市史研究家ジャン
ヌ・ガイヤールによれば、現存する華麗街区(ベル・カルティエ)を西方に拡大し、新
しい地区を同方向に創設することは皇帝の政策の目的のひとつであった。皇帝は皇族と
一緒になって発展途上のパリ西部の不動産に投機していたので、この地域が中流階級の
拠点として成長するのを奨励するに十分な動機をもっていた。
パリ史専攻のピエール・ラヴダンは、発展途上にある西部での街路の改良工事に
ついて、都心部を貫く数々の直線路(ペルセ)の改良工事とはまったく異なる打算から
生まれたことを主張する。
人口過密な商業地区での費用がかさむ土地収用はもはやおこなわれなかった。…ナポレ
オン三世とオスマンは、まだほんの部分的にしか都市化していない建設用地の地価を上げ、
植樹した幅広の大通りを創設し、道路が対称的に放射状に延びる交差点を配置しようと望ん
だのだ。彼らは金持ちがその方面に移住し、豪華な大邸宅を建てることを当然ながら予知し
ていた。これはロンドンのウェストエンドに相当するものとなるはずだった。
ガイヤールは、皇帝の政策は古い都心部から流行ばかりでなく住民と経済成長力ま
でを奪ったと主張する。鉄道が、古いパリの密集した街路のなかに線路を拡張すること
は禁じられた。都市環状線が敷設されて郊外の発展を促進したが、それはとりわけブー
ローニュの森を通過する場所が開発の対象となった。そこが新たに富裕者居住地域とな
った地区(第 16 区)である。ガイヤールはオスマンに対する非難を続ける。すなわち、
オスマンはパリを金持ち街区と貧乏人街区に分離して両者を並置したという。
この論議は結果を意図と混同し、皇帝の政策に不必要な紛糾の種をもち込むもので
ある。それはまた、公共事業の経済的生産性を確保するためにできるかぎり手を尽くす
ことにより、濫費にたいする当時の批難を阻止しなければならなかった政策者の事情を
考慮していない。当時は、民間資本の投入に期待する以外に工事費を引き下げる方法は
なかったのである。具体的にいうと、貫通直線路(ペルセ)が横切る地域の査定価格を
不釣合いなほど引き上げることによってパリ市の支出を抑制し、改良工事の濫費に対す
る非難を和らげるしか方法はなかったのである。オスマンが直面した深刻な批判という
のは、彼の政策が社会的に分離した地区を生んだことではなくて、それが都市と国家を
破産させようとしていたことだった。
D.パリ都市改造は政府主導で進められたのだが …
当の民間資本は、拡大する西部と比較して凋落するパリの中心部を貫く貫通路に沿
って投資をおこなうことに気が進まなかった。ストラスブール大通りが開通してから 18
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か月後をみると、最北端の部分に少しだけ建物が建てられたにすぎなかった。セーヌの
南側となると将来の見通しはもっと暗かった。すなわち、いくつかの新街路が建設業者
を引きつけるのにはさらに長い時間がかかったのだ。オスマン大改造工事が進んだ時ほ
ど、パリの住民が市の北西部の地域に移動する傾向が強まったときはなかった。1855 年
に『建築概観』は次のように書いている。1870 年になっても、新しい街路は商業を左岸
に引きつけることができず、そのあたりは一貫して住宅地のままであった。
一方でわれわれは新しい通りが出現して驚くべき速度でそれが家で覆い尽くされていく
様を見るし、他方ではセーヌ左岸で数年のあいだに開通した貫通路が(たとえばエコール通
りが)最初の新しい家によって生命を与えられるのを待ちつづけている様を目にするのだ。
後世の都市計画家にとって参考となったという意味でオスマンの功績に入れるべき
ことは、
パリ第 16 区に示されるように並木道を建設し、
それらの道路をエトワール広場、
トロカデロ広場、アルマ広場から放射状に延ばしたことである。ガイヤールの非難は当
たらない。1857 年の覚書のなかでオスマンはこう述べている。ブルジョワジアーが居住
するための土地を準備し、商業と製造業を営む富裕な階級が都心部から押し出されて西
部へ移住するのを促進することが必要だからこそ、その計画は正当なものだった、と。
まさしく、それ以外のどんな対策も経済的には愚かしいものになっていたことだろう。
ロンドンにおける地主の役割をパリでは市当局が演じた。ロンドンで賃貸借期間が
満了したとき、地主たちが最大の価値をもたらすような住宅の建設を奨励したように、
パリでは行政当局が中心となって新しい通りに沿って建てられた建造物の査定価格とそ
こから生じる税収入とを最大限にまで引き上げることになった。一方で、パリ市当局は
社会的理由から労働者住宅の建設を奨励したが、短期的にも長期的にも財政上の負担が
伴うことを知りつつそのようなことをしたのである。
ラヴダンとガイヤールが批判しているのは、オスマニザシオンが中流階級への住宅
供給を奨励しただけでなく、それを首都全体に分散させるのではなく、セーヌ右岸の北
西部の区域に集中させたことだった。実はオスマン自身、そのような首都全体への分散
を企てたのだが、それに失敗したのである。もしも成功していたならば、その後の1世
紀半に及ぶ建築史の方向を変えることになっていたであろう。
1852 年よりもずっと前に第 8 区、第 16 区、第 17 区において中流階級が発展を遂げ
る見込みが高いという兆しは十分に現われていた。それと反対に、東部の郊外住宅地
― たとえばタンプル大通りとヴァンセンヌの森に挟まれる地域 ― が中流階級の
居住者たちを引きつける可能性は実際上の困難に直面した。
タンプル大通りは 1850 年代まではもっぱら労働者階級の娯楽地区であったが、
完全
に再建され、シャトードー広場はすっかり再整理され、いくつもの新しい放射状に広が
る大通りの中心となった。その大通りのなかにはマジェンタ大通り、トローヌ広場と連
結するプランス・ウジェーヌ大通り(現ヴォルテール大通り)
、そしてレピュブリック大
通りがあった。マルタン運河上に建設されたリシャール・ルノワール大通りもそれに加
えていいだろう。公園についていえば、ヴァンセンヌの森に施された改良工事はブーロ
ーニュの森の工事に匹敵する規模と性質のものであったし、
新しいビュット=ショーモン
公園は第 8 区のモンソー公園よりも広大で壮観だった。
9
東・西の新地区に建設された街路設備・規模・設計・造園法・建築様式の点で互い
に似通っていたし、両者の間に差別が設けられたのではない。庶民の不満は差別に対し
てふり向けられるどころか、元々の地区の特徴と無関係に規格化された画一性にあった。
それゆえ、旅人はどこへ行っても同じ高度の石造住宅、見事な広場、同じ緑の公園、同
じ樹木の植えられた街路に出くわすことに奇異に感じるほどだった。
このような物理的な魅力を豊富に備えていたにもかかわらず、グラン・ブルヴァー
ルの東側と北東側の地域は裕福な人々や中流階級を引きつけることができなかった。街
路だけでなく、ふんだんに公園や緑地の計画がおこなわれていたとしても、結果は同じ
であっただろう。かくて、東部および北東部は歓楽や商業ではなく、製造業と労働者・
職人を引き寄せることになった。
流行の西方への移動はオスマンが就任する以前に始まっていた。シャンゼリゼ大通
りを一直線にしたことは西方の周辺部をさらに魅力を与えることになった。その西側で
はパシーやオートゥイユが東部のサン=マンデやシャラントンの魅力を霞ませるほどの
魅力をふり撒いていた。
1907 年にアメリカ人のエドワード・R・スミスは、オスマンがパリを西方に推し進
めることに協力したよりも、それに対しどれほど抵抗したかに強い印象を受けたと書い
ている。オスマンは新都心部を飾り立てることよりも、シテ島および隣接地区を「記念
碑的都心」として保存することに腐心した。スミスは、シャトレ広場のすぐ北側に位置
する大十字路の交差点を経済的現実にたいする情操の勝利とみなした。
わが国の容赦ない市政に慣れているアメリカの学者や建築家は、広大な首都が歴史的な変
容の時代に入り、対立する営利本位の動機に立ち向かう様を想像することに困難を覚えてい
る。だが、それこそまさにパリで起こったことなのだ。
アメリカの都市のニューヨーク、シカゴ、サンフランシスコと比較すると、パリお
よびロンドンならびにウィーンがいかに安定していたかということがわかる。これらア
メリカの大都市では流行の地区は別の時代になるとスラム街となるのがふつうである。
17 世紀に栄えた、パリのヴォージュ広場はマレー地区の衰退を防止できなかったが、住
民が西部へ移住を開始したのは、その広場が建設されてから少なくとも1世紀後のこと
である。ニューヨークでは1世紀間に住宅の流行はブロードウェイの下手からはるばる
59 番地まで移動し、あとにはその中間にかつての居住者が放棄したいくつかの地区がそ
っくりそのまま残されたのである。
話をパリに戻そう。第二帝政時代の改造工事はセーヌ右岸と左岸の格差を減じるこ
とができなかった。セバストポル大通りの南方への延長部分(今日のサン=ミシェル大通
り)は右岸の貫通路とまったく同じぐらいの雄大な規模で建設された。右岸の東西貫通
路リヴォリ通りに相当するものは左岸ではサン=ジェルマン大通りだが、
それは壮麗な街
路であった。レンヌ通りはセーヌ川まで到達しなかったとはいえ、モンパルナス駅に通
じていたし、リュクサンブール地区にはいくつかの新しい街路ができた。地価と家賃は
上昇したが、それでもなお、セーヌ右岸ほど急速でもなければ高騰もしなかった。
都心部の改良工事による取り壊しと家賃高騰のため、そこを離れた労働者たちが左
岸の第 5 区と第 6 区に移動してきたため、ブルジョアジーは南方のリュクサンブール地
10
区に向かって移動。それより西方のアンヴァリードの付近に、ブルジョアジーの大邸宅
が建ち並ぶ新しい町ができた。それはセーヌ川対岸の大邸宅に対応するものだった。
左岸はもともと学生・判事・司祭・小売商人が住む地区であり、そこでの生活は平
穏で敬虔で、小市民的で、古い時代の雰囲気をとどめていた。それとは対照的に、右岸
はもっと陽気で、積極的で、営利本位で、歓楽と激しい金銭欲を湛えていた。左岸に大
きな動きがないのと対照的に、右岸は西方に向かってグイグイ押し進みつづけていた。
E.1860 年の周辺部合併の結果
パリ都市改造でもっとも重要な変化は都心部と郊外の相違であろう。オスマンがス
ラム街を取り壊し、新しい並木道に沿って贅沢な共同住宅の建設を奨励したことは都心
部での家賃高騰を促し、労働者階級は 1860 年に併合された周辺地区(小郊外)と、さら
に新市域を超えた地域(新郊外)に移動することになった。その結果は、不釣り合いな
ほどに中流階級が多く住むパリであり、その周囲は、製造業に従事する労働者・職人が
住む環状の郊外で囲まれるようになった。今日ではその郊外が同じく労働者の住宅団地
(grands ensembles)の集団で囲まれているのだ。ロンドンで中流階級が郊外に逃げ去
り、プロレタリアートが都心部に残ったのとは対照的に、パリでは労働者階級が郊外に
逃げ去り、ブルジョアジーが都心部に残ったのだ。
そこで問題になるのは、オスマンがプロレタリアートの郊外への移動を意図的に促
したかどうかだ。それはある程度まではそうであろう。オスマンが知事に就任する前か
ら移動は始まっていたが、ともかく労働者・職人は市内の共同住宅に住んでいたのだ。
オスマン就任から十年間に次第に著しい相違が生じてきた。1861 年の『ビルディング・
ニュース』はこう述べる。
パリはまもなく石造りの建物が建ち並ぶブルヴァールの街路網となり、それは一群の狭
くて不潔な通りを覆い、貧困者の不快な住宅を隠すことであろう。… 取り壊された住宅か
ら追い出されたあらゆる労働者階級がどこへ行くのかを口にするのは難しい。… 彼らは新
しい住宅に住むことはできない。あまりにも家賃が高いからである。
1860 年に合併された周辺地区は性格上、労働者階級のものである。ささやかな小売
商人ですら、そこで店を開くのをためらった。標準的な建造物は地方都市の労働者階級
のそれと似ていた。
裕福な人々をひとつ屋根の下に集結させることにより、恵まれた地区のあらゆる新
街路に建ち並ぶようになった豪華な共同住宅は、以前において同じ建物内にあった社会
的混住を消滅させる方向に作用する。
サン=ドニ通りではかつて同業の卸売商人と職人が
同じ建物で暮らし、お互いに利益を得ていた。だが、この習慣は、商人が西方の独立し
た地区に移るにつれてしだいに薄れていった。
多くの建物に労働者とプチ=ブルジョアが混住していたとはいえ、
これをあまり強調
しないほうがよいかもしれない。両者のあいだで接触がたびたびおこなわれたことを証
明する資料は多くない。
「混住」をいうのであれば、建物内での「混住」よりもむしろ、
隣接する通りのあいだの「混住」といったほうが適切だろう。つまり、ブルジョアジー
が多く住む街路の裏手には、労働者が多く住む通りが並んでいた。豪華な街路沿いの豪
11
奢なアパートの居住者は下の階に住み、その使用人や寄食者は上階に住んでいた。その
裏手の街路沿いにある非常に数多くの建物は、一階の店舗を除いてすべて資力の乏しい
人々に賃貸された。このように、社会的分離は街区(カルティエ)ごとに、というより
は建物ごとに、街路ごとに進行していたのだ。各階級は必ずしも同じ建物や街路で混ざ
りあうことはないにしても、物理的には隣接していた。
ブルジョア地区内でも明確な社会的・経済的区別が存在していた。アメデ・セスナ
(1864 年)とアドルフ・ジョアンヌ(1870 年)がそれぞれ書いた旅行案内書は貸間に
ついての助言のなかで地区を比較した家賃表を記載したが、それは当時の貴重な証拠と
なった。
セスナは家具付きアパートを探している金持ち家族に対してリヴォリ通りのルーヴ
ルホテルの西側、リシュリュー通りの西側の各ブルヴァール、そしてサン=ラザール通り
に至るまでの北方の各街路に限定するよう推奨する。それ以外ではシャンゼリゼ大通り
の近くか、マルゼルブ大通り沿いに適当な宿泊施設が見つかるだろうと述べる。セスナ
はまた、金持ちでも経費を抑える必要を感じる家族に対してはフォブール=サン=ジェル
マンを勧める。そして、静かで経済的な貸間はサン=ルイ島、マレー地区、リュクサンブ
ール公園近辺にあるという。それよりさらに経費節減をしなければならない家族にはマ
ドレーヌ広場近辺、パレ・ロワイヤル近辺、旧オペラ座(ペルティエ通り)を取り巻く
街路を勧めている。
アドルフ・ジョアンヌは普仏戦争の勃発直前に、西側の各ブルヴァールで歓楽を求
める人々ばかりでなく、商用でパリを訪れる商人に対しても助言を与える。そして、セ
ーヌ右岸の中心部を特定の商売の専門街に分割された状態がどの程度まで維持されてい
るかを明らかにしている。木綿プリント地・宝石・金物類を扱う商人はサン=ドニ通りと
サン=マルタン通り、セバストポル大通りおよびその近辺に宿をとるよう勧める。織物や
レースを扱う商人にはクレリ通り、ミュールーズ通り、サンティエ通り、サン=フィアー
クル通りとマイ通りに行くよう説いた。
F.パリの「ドーナツ化」
パリ周辺部への最初の移動は、そのほとんどが労働者階級によるものであったが、
19 世紀末~20 世紀初には中流階級のある部分が古い都心部から移っていった。
20 世紀初期になると、シャンゼリゼ大通りが住宅地としての性格を失った。そこは
贅沢品店、劇場、ホテルが個人の大邸宅に取って代わったのである。流行の最先端を行
くホテル、自動車のショールーム、毛皮店、洋裁店、婦人用下着店がそれである。
凱旋門の先ではランペラス(皇后)大通り(後のブーローニュ大通り、ついでフォ
ッシュ大通りと改名)はその威信をいささかも失っていなかった。それは大金持ちのた
めの住宅街であり、そこにはホテルも店も、仕事や商売を連想させる他のなにものもな
かった。1930 年にポール・コーエン=ポートハイムは次のように書いている。
その大通りは古い貴族のパリではなく、ましてや俄か成金(nouveaux riches)のパリので
もなかった。この大通りに最も近い類似物はロンドンのパーク・レーンであり、戦前のベルリ
ンのティエールガールテン通りである。…これらの身なりをきちんと整えた女性たちの夫は、
その大部分が金融業・株式取引所・製造業・政治家などであった。…マルソー大通り、イエー
12
ナ大通り、クレベール大通りを行くと、洒落た住宅地区が続いている。ヴィクトル・ユゴー大
通りは今や独占的なショッピングセンターとなっており、パシーとオートゥイユに通じている
が、これらの地区は同様に繁栄しているとはいえ、社会的な地位はそれほど高くない。ここに
住んでいるのはかなりの数のブルジョアジーであり、彼らは社交界にも国際的な上流社会にも
属していない。
最後に、1960 年代になるとわれわれは、首都圏を構成するあらゆる単位のなかで最
も社会的に分離した具現物に、つまり新たに建造された住宅団地に到達する。そこの住
民は伝統的カルティエの住民のように、長期間に及ぶ緩やかな成層化の結果として現わ
れたり、孤立した運動の付加物として誕生したりしたのではない。それはひとまとめに
して、あるいは大きな波として突然やってきたのだ。これら新しい衛星団地の共同体は
あらゆる技術的かつ量的観点から見て、居住者が以前に住んでいたスラム街よりも遥か
に高級な住居を供給した。しかし、その代償がないわけではない。パリの映画館・劇場・
競技場などの存在する地区と比較すると、住宅団地の設備が最も目立つのはおそらくレ
ジャー施設であろう。この新しい環境のなかでの都心部との遠距離、孤立ぶり、生活の
単調さは挫折と分離の感情に結びつく懼れがあった。
パリ西部の上流化は第1~4区の行政区を一変させた。マレー地区はひとつの博物
館となり、元の住民が分散して都心周辺部(grandes banlieues)に移り住むと、中流
階級の知識人たちがそれに取って代わり、グラン・ゼコールを卒業したばかりの若いテ
クノクラートがそこに住む。サン=ルイ島は億万長者のためのものであり、狭い中之島
にもかかわらず、その中心街に美術館さえある。
かつては階、建物、街路、カルティエを対比させる問題であったものが、今やパリ
とその首都圏との差異問題に変わりつつある。パリそのものはますます中流階級化し、
その周辺地域には ― 西部と南西部の郊外住宅地を除けば ― 圧倒的に労働者階級が住
んでいる。しかし、その傾向が顕著になるまでにはまだしばらく時間があり、パリ中心
部に残っている社会的混合の程度はパリの魅力のひとつでもある。
Ⅳ ウィーン
A.ウィーンの社会地理学上の安定性
ロンドン、パリと比較してウィーンの社会地理学は際立って安定している。すなわ
ち、最初の区域 Bezirk(旧市部と環状道路)から郊外(Vorstadt)へ、郊外から町外れ
(Vorolt)へと移動するにつれ、社会的上層居住区から下層居住区へと変わっていく。
①旧市部は宮廷と貴族に居所を与え、②環状道路は専ら上層中流階級の居住地であり、
③城壁外の郊外はブルジョアジーと職人の住む新開地、④城壁外の郊外は ― シェー
ンブルンとウィーンの森に近い郊外を除き ― 大部分がプロレタリアートの居住する
区域である。それは過去にそうであったし、現在もそうである。
こうした社会的地理は専制政治と反宗教改革がプロテスタントのブルジョアジー
(商人が多い)に対して勝利をおさめた 17 世紀に遡る。廷臣と貴族たちは旧市部で多く
13
の地所を得ることになったので、バロック式の大邸宅や共同住宅は、古くて狭い破風造
りの市民階級の住宅に改造された。小売商人と職人は郊外に移動し、大通り沿いの地区
か、まったく新しい住宅団地のどちらかに定住した。1750 年から 1850 年までの 1 世紀
間に、旧市部と環状郊外住宅地との「社会的距離」はかつてなかったほどに大きなもの
となっていた。
だが、旧市部も郊外も完全に同質であるというわけではなかった。旧市部の内部で
はそれぞれの街区は地区のあいだで顕著な相違があった。ドナウ運河沿いの地域は社会
階層的に低かったのに対し、
王宮の近辺、
特にヘレン通りは上流貴族の居住地であった。
贅沢品の小売商は今と同じように、グラーベン通りとシュテファン広場に、また、ケル
ントナー通りとローテントゥルム通りの沿道に集中していた。
郊外はどうか。郊外は旧市部よりも社会的地理はさらに多様だった。17 世紀末から
貴族は郊外のぶどう園を購入し、そこに豪奢な別荘を建てはじめた。高騰する一方の家
賃のために旧市部を去らねばならなかった職人を住まわせる目的で、聖・俗両方の地主
が新開地を造成した。また、18 世紀末に外国人職人が住む特権的な地区が創設された。
19 世紀になると、上記とは異なる郊外住宅地区が特定の社会的特質を帯びる。たと
えば、ヨーゼフシュタット地区は著しくブルジョア的であったが、アルザー通りとヴェ
ーリンガー通りの間にある地区は中流階級の居住地、南側と南東側の郊外は労働者居住
地になっている。マリアヒルファー通りとアルトレルヒェンフェルダー通りの中間には
職人の新開住宅地がつくられた。
B.環状道路の建設はウィーンの社会地理学にどのような影響を与えたか
旧城壁が壊され、その跡地に環状道路が走ったことは、古い社会地理的特色を確実
にするとともに強化した。環状道路地帯は旧市部に対するライヴァルというよりも、そ
れを拡張し補足する区域として、その社会的威信と経済的価値を高める区域として役立
ったのだ。旧市部と環状道路のあいだに王宮が存在していたことは両者の魅力をともに
保証することになった。雄大かつ壮麗な建築物が建ち並ぶ環状道路は、そこに移り住ん
できた居住者にとってあらゆる文化施設(宮廷・歌劇場・劇場・大博物館・公園・贅沢
品店)を直ちに利用できるようになった。それは、パリにおいて都心部の市民が去って
第 8 区、第 16 区、第 17 区へ移動した結果、そのあとには主要な文化施設と娯楽施設が
取り残されたのと対照的である。
こうして古い貴族も新しい貴族も、製造業や金融業の指導者も挙って環状道路沿い
の建築用敷地を手に入れた。彼らは建物の2階全体のフロアを自分用の邸宅とすると、
上階のそれほど立派ではない部屋や一階の商店を他の者に貸し出した。上層ブルジョア
ジーと新貴族たちは、環状道路が自らの地位にふさわしい生活様式を実践するのに理想
的な場所であると信じた。建築上の賃貸用大邸宅(ミートバラスト)は、その所有者が
貴族的伝統の象徴に愛着をもっていることを示している。
ロンドンとパリを比較の視座においてみよう。
シティで金持ちとなって新たに支配階級に仲間入りしたロンドン子は田舎の地所を
買って、土地を所有するジェントルマンとして身を立てることをめざした。たとえロン
ドンに邸宅を構えても、グローヴナー広場に住宅を借りても、商人の手垢を拭い去るこ
14
とはできなかった。だからこそ、成金たちは進んで郊外に出たのである。
また、フランスの貴族はルイ十三世治下ではマレー地区に、ルイ十五世治下ではサ
ン=ジェルマンに、第三共和政時代にはシャンゼリゼとその先まで移動した。
一方、ウィーンでは旧市部に居住することは貴族的な生き方と矛盾するどころか、
そのために絶対的に不可欠であった。
環状道路沿いの新たな建築は旧市部を模倣し、物理的な壮麗さで旧市部を凌駕した
とはいえ、威信の点では旧市部に匹敵しなかった。貴族のなかには環状道路の魅力に根
負けしてそこに住みつく者さえ現われた。特にシュヴァルツェンベルク広場の周囲がそ
うである。また、自ら住まなくても環状道路沿いの地所に投資する者もいた。
それでもなおひきつづき、旧市部は古くからの伝統と貴族の権力を象徴していた。
環状道路はたしかに魅力的であり、良家の血筋の若者たちに住居を与えたり、新婚夫婦
のためにふさわしい住居を見つけてやったりするには適していたが、それでも、この道
路は新興ブルジョアジーの連想で“汚されて”いたのだ。旧市部の大邸宅を所有してい
る貴族にとっては、それを軽々しく放棄すべきものではなかったのだ。
環状道路は旧支配階級と新支配階級の交流の場として役立った。環状道路は新興貴
族を旧い貴族に、金銭を血統に、能力を地位に、芸術と学問を政治と行政に結合したの
である。その意味でこの道路はハプスブルク帝国の末期に見られる社会的混交を象徴し
ていた。しかし、環状道路を同質のものと見てはいけない。シュヴァルツェンベルク広
場は高位貴族を、オペルリングは財政官と官僚貴族を、市庁舎近隣地区は製造業者と金
融業者を、ヴォティーフ教会の周囲(病院があったため)は医者を、ドナウ運河沿いの
繊維工業地区は弁護士と小売商人をそれぞれ引き寄せた。ただし、これは明確な区画で
はなく、諸階層が混住していたのはいうまでもない。
C.建物の内部と外観
パリでは建物の内部で上階に昇るにつれてアパートの部屋の大きさと家賃が縮小し
たが、この差は建物の外観(正面)には反映せず、軒蛇腹に至るまで同じ装飾が階ごと
に繰り返された。主要階段は 5 階までずっと続いており、屋根裏に住む使用人や貧乏人
だけが裏会談を使わなければならなかった。
これに対し、ウィーン環状道路沿いの建物には内部と外観の両面で地位の差別が残
っていた。主階段は貴族の階(Nobel Stock)までしか通じていないか、あるいはせい
ぜい3階までであった。それより上階は裏階段を使わなければならなかった。かくて、
階段で下々の階級と出くわすことはこのようにして回避されたのである。18 世紀になっ
て機械式エレベーターが出現すると、やっとこうした差別が不要になった。召使の部屋
と家族のそれは裏手に追いやられたが、それは主要な部屋(兼客間)から街路をひとき
わ見渡せるようにするためだった。
1865 年から 80 年までの会社設立ブーム時代
(Grunderzeit)
の標準的な建物正面は、
それぞれ異なる階を使用する、明確に区別された階級制を表わしていた。豪華に装飾さ
れた2階の窓は、その内側に建物所有者の住む宮殿のような部屋があることを暗示した。
D.経済的発展の圧力の影響(19 世紀後半~第一次世界大戦)
15
環状道路と旧市部が最も豊かな者、高い学識者、才人、美しいものを引き寄せたの
に対し、郊外と町外れは残りもので間に合わせなければならなかった。首都の周辺部に
向かって移動するにつれて見られる社会的、経済的、美的な凋落は 19 世紀の前半と後半
を通して顕著だった。とはいえ、ロンドンやパリと較べ、ウィーンでは旧市部の文化的
財宝は住民すべてにとって容易に接することができた。
郊外住宅地沿いには1階か2階建ての画一的な建物が並んでいた。しかし、最もみ
すぼらしい住居ですら清潔さが傑出している。
地価と家賃の全般的な上昇が中流階級を無理に城壁内の場末地区に押し込め、そこ
から彼らが労働者階級を城壁外の郊外に追放したのとすれば、今度は上流階級が銀行、
保険会社、企業本社によって旧市部と環状道路から強引に追い出される運命に遭った。
金融中心地としてロンドンにこそ及ばなかったにせよ、ウィーンは中欧の経済的中心地
として地位を高め、居住者を都心部から追放し、事務所をつくった。新しい建物をつく
るのではなく、共同住宅を改造し、商業は古い建物を引き継いだのである。
環状道路もまったく同じ過程を辿った。この地域の大多数の建物は3つ以上の下階
を専ら商業用にあて、建坪の 60%以内を住居として使用していた。完全な住居用の建物
は全体の8%に過ぎなかった。この場合でも1階が店舗であるのがふつうだった。住居
から事務所への流れは 1914 年まで続く。
繊維工業地区は住居としての機能が最も大きく
失われ、市庁舎地区は住居としての機能が最も色濃く残った。
事務所への転換に抵抗がなかったわけではない。そこに住む富裕な住民はこの圧力
に激しく抵抗し、最終的に勝利をおさめたのである。かくて、都心部の貴族的住宅地と
しての性格は以前と同じように存続することになった。第一次大戦で敗北したことによ
り貴族的特権は色褪せたが、同時に商業上の圧力も消失した。事務所用の場所を求める
要求は弱まり、以前の部屋は住居用共同住宅にふたたび改装された。しかも、貴族階級
とブルジョアジーの経済的地位が下落したため、その広壮で豪奢な共同住宅は小さな単
位に分割されることになった。こうして、ウィーン全体の人口が 1918 年以降、急激に減
少するのと対照的に、環状道路と旧市部の人口は却って増大したのである。
1920 年代に始まる公共住宅の大規模な建設と 1955 年以降の民間建設産業の復活に
より、大多数の住民にとって住宅水準は向上し、裕福な都市中心部と遠隔の地区とのあ
いだに見られた生活空間と快適さの相違が縮小したにもかかわらず、ウィーンの社会地
理学は今日でも 1914 年の首都とそれほど変わらない。
それほどヨーロッパ内におけるウ
ィーンの地位が落ちたのである。城壁内の地区から城壁外の地区にかけてアパートの平
均的規模は縮小傾向にあり、東方と南東方の町外れは今でも貧しいままである。
エリザベト・リヒンテンベルガーは都市の凋落と郊外の不規則な広がりを伴う戦後
のアメリカの都市と 1945 年以降のウィーンの地理の安定性を対比させている。
首都は会社設立ブーム時代(Gründerzeit)と両大戦間のあいだに占めていた地域を越え
て拡大しようとしていない。それどころか、その発展の法則は、現存する古い建物をもよう
替えし、空所を満たすことを求めている。さらに、その人口統計上の停滞は…他の急速に成
長する首都と比較して、あらゆる発展が今後も比較的緩慢におこなわれることを示している。
… 北アメリカの諸都市に見られる<商業地区>と地元の<ショッピングセンター>をもつ
<郊外住宅地区>とのはっきりした分割は、ウィーンの土地において、様々に異なる経済活
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動を空間的に住居と結合させていることとは著しい相違を示している。
旧市部と郊外は社会的な意味で互いに明白に区別されるにせよ、ともに住居と商業
と製造業が職能的に混合した状態にある。それぞれが近辺の居住者の社会的、経済的現
状にふさわしい店舗をもっているのだ。グラーベン通りはウィーンのボンド・ストリー
トであり、マリアヒルファー通りはウィーンのオックスフォード・ストリートである。
また、城壁外の主要大通りは小売商の生き生きとした活動の様子を示す。重工業は城壁
外の南と東とドナウ川越しの郊外に集中しているが、製造業の作業場は中流階級の住宅
街の背後にある中庭に処狭しとばかり並んでいる。オーストリアが 18 世紀後半から 20
世紀にかけて大幅な生活水準が向上したにもかかわらず、このような統合された都市構
造が存続してきたことは驚嘆すべきことである。
建築評論家アントニー・サットクリフは、パリにおけるオスマン改良工事がセーヌ
右岸の都心部に新たな活力を与えようとめざしたかぎりにおいては失敗だと見なす。居
住者が旧都心部から移動し、そこから離れた地域に商業が栄えるにいたったこと、民間
資本が流行後れの古い建物をとり替えられなかったこと、サン=ドニ通りとサン=マルタ
ン通り界隈がパリの経済において以前のような支配的地位を失ったことは彼の解釈の正
当性を裏書きする。
このサットクリフの見解をウィーンに当てはめるとすれば、環状道路は傑出した成
功例であるといえよう。たしかに、ウィーンの居住人口は 150 年前と較べると減少傾向
にあり、近年は事務所を広げる必要から大企業が旧市部から本社を移動させることにな
ったが、旧市街地区(Altstadt)と環状道路地帯が結合した地域はまさしくウィーンで
ある。
大改良工事計画がそれぞれ開始される以前の 1850 年における二つの都市の状況は
確かに著しく異なっていた。
セーヌ右岸の都心部は 18 世紀にその当世風の居住者の大部
分を失っており、1830 年より 20 年間にその中流階級の住民を北西方の新しい地区で失
っていたが、ウィーンの旧市街地区はひどく混雑していたとはいえ、そこにはスラム街
もなければ、無力化すべき反抗的なプロレタリアートもいなかった。その混雑は上流階
級と公共施設にかかわるもので、それは環状道路がその周辺に供給した豪華な大邸宅、
広々とした遊歩道、どっしりした公共建築物によって十分に補われることになった。
まとめ — 都市の比較研究を通して確認できること —
(1) 都市は歴史・伝統を引きずり、過去の痕跡は都市景観に消しがたく残る
ロンドン:不囲繞 ⇒ 広幅道路、市街地・郊外の境界不明確、City & Westminster と
いう2つの都市核、テムズ川交易
パ
リ:7 度の“脱皮”
、狭い街路、緑地不足、文化・経済・政治の地区割、大規模
な都市改造、上・下流化
ウィーン:絶対王権の長期存続、社会地理の安定性、都心部狭小、環状道路建設、ブ
ルジョアジーと貴族の共生
17
(2) 偉大な都市となるには、機能性・美観・娯楽・衛生・アメニティの結合が条件
ロンドン:世界金融センター、Thames 河畔と Piccadilly Circus、いち早い下水設備、
公園・緑地の豊かさ
パ
リ:ヨーロッパ経済(交通)の中心、Seine 河畔と史跡、美術館・絵画・音楽、
下水設備、大中小の公園
ウィーン:中欧の中心、都心部・環状道路界隈・ドナウ河畔、ワルツと楽劇、下水設
備、斜堤・公園プロムナード
(3) 都市改造が成功するには、中央政府の主導と民間資本の協力関係が必須
ロンドン:1666 年大火後の都市計画と建築条例、下水設備、鉄道駅の分散、史上初の
都市ゾーニング制
パ
リ:オスマニザシオン(交通・美観・娯楽・衛生・アメニティを一挙に実現)
、
第二次大戦後の郊外開発
ウィーン:環状道路の建設、富裕者による郊外開発、自然の保存
(4) 社会地理は支配階級が庶民との間に結ぶ関係によって規定される
ロンドン:制限王制・貴族=上層ブルジョアジー同盟・中=下層ブルジョアジー・労働
者各々が分散居住、郊外志向が大
パ
リ:諸階級混住、西部の「上流化」と東部の「下流化」傾向は有、労働者の郊
外への追放(赤いドーナツ)
ウィーン:都心=貴族と上層ブルジョアジー、環状道路沿道=ブルジョアジー、郊外
と町外れ=職人・労働者
(5) 社会地理は土地所有(および賃貸)制度によっても規定される
ロンドン:大土地所有制にもとづく 99 年または 999 年借地制⇒市部の安普請の賃貸住
宅⇒間借人の郊外志向
パ
リ:仏革命の教会財産売却に発する小土地所有制にもとづく自宅または賃貸住
宅、階ごと所有(占有)権
ウィーン:土地所有者は貴族とブルジョアジーに限定され、郊外宅地の開発は彼らに
よってなされた
(6) 北半球の都市に特有の現象として市中心部の西北への遷移が見られる
ロンドン:煤煙を避けるため上層階級は西方をめざす、文化施設も西北に多い、Thames
の南側は工場地帯
パ
リ:市内西北部で「上流化」が顕著なのはロンドンと同じだが、文化施設は旧
都心部に残ったまま
ウィーン:旧都心部は「上流化」を維持、街の発展は西へ向かう、東側を流れるドナ
ウ川が街の発展を阻害
(c)Michiaki Matsui 2015
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