中国最古の歴史書【史記】よると三皇の一人である神農が一 日に百草を

中国最古の歴史書【史記】よると三皇の一人である神農が一
日に百草をなめ、七十の毒に合いながらも身体にどのような反
応が現れるか自分自身で確かめ、医薬の基礎を築き上げたとさ
れている。本草学の始祖と言われ、その名を冠した【神農本草
経】は後世の書である。
漢時代の墓では漢方薬(桔梗・藁木・辛夷など)の包みを握っ
た貴婦人のミイラが発見され、また、
【五十二病法】
、
【陰陽十一
脈灸経】と名づけられた医学関係の書物も見つかっている。
【五
十二病法】
は 52 種の病気に対して 270 あまりの処方が載ってい
る。
薬物療法が主であるが灸法や呪方も併用されていた。
また、
【神
中国医学の三大古典といわれている【黄帝内経(コウテイダイケイ)】
農本草経】
【傷寒雑病論(ショウカンザツビョウロン)】はこの時期に成立し
た。
【黄帝内経】は、多くが失われたが完成当時は全十八巻から
成る基礎医学と鍼灸医学の書である。
【神農本草経】は 365 種
類の動・植・鉱物薬の薬効を記載している中国最古の薬物学書
である。
【傷寒雑病論(ショウカンザツビョウロン)】は散逸と発見を繰り返
し、現在では 2 部に分かれ、傷寒(急性熱性病)については【傷
寒論】
、雑病(慢性病)については【金匱要略(キンキヨウリャク)】とし
て伝わっている。後漢時代には華陀(カダ)が全身麻酔薬である麻
沸散(主に大麻か曼荼羅華か?)を作り、開腹手術を行ったと伝え
られている。
道教が広まった三国時代以降、不老長寿に関する錬金術が発
達した。仙人になるための修行法を説いた 【抱朴子(ホウボクシ)/渇
洪(カッコウ)著】では不老長寿の妙薬として丹薬(硫化水銀と金を合
成)を紹介している。
唐の時代になると国交が盛んになった。
【新修本草(シンシュウホンゾ
ウ)】は中国最初の公定薬学書でチベットやペルシャ、インドな
どの薬物も含め 850 種が収められており、日本にも伝えられて
広く読まれた。
金・元時代に入ると後に金元四大家といわれ、
【黄帝内経】の
理論を元にした新しい治療学派が生まれ活躍をした。
劉完素(リュウカンソ)は、六気(風・湿・燥・寒・熱・火)の内、特に
火熱を重視し体の熱を冷ます方法を研究しました。彼が作った
防風通聖散(当帰、芍薬、川きゅう等)は現在でも広く使われて
いる。
張子和(チョウシワ)も寒冷の薬物を多く用いたが、邪気の侵入が病
の根源であるとして、それを排出するために発汗・吐瀉・瀉下
の三法を用い、特に下剤を汎用した。
李東垣(リトウエン)は、風寒などの邪気によって起こされる外傷と
不摂生や精神不安などによって起こされる内傷があるとし、特
に内傷を重視した。内傷の疾患は脾胃にその原因があるとし、
補剤を多く用いた。このような中から、胃腸の働きを良くし体
力を回復する補中益気湯(人参・黄耆・蒼朮)が生まれた。
朱丹渓(シュタンケイ) も劉完素と同じく火熱を重視したが、体内の
熱は体内の水分が不足するから生じるのであり、体内に水を補
うことによって熱を冷ますとし、治療法としては穏やかな薬を
多く用いた。大補陰丸(黄柏・知母ほか)は彼の創製。
明時代に李時珍が【本草綱目】を著す。続いて、趙額敏(チョウガ
クビン)が【本草綱目】の不備と未収録の薬物を補った【本草綱目
拾遺】を著した。
現在では中国医学、西洋医学が共存している。
【古事記】の中で、神産巣日之命(カミムスビノミコト)が大国主命(オオクニ
ヌシノミコト)の火傷を治すのに、アカガイとハマグリの黒焼きを用い
たという記事が見られる。また、因幡の白兎の話で広く知られ
ている蒲の穂(蒲黄)も漢方の一つである。
このように古代の日本においてもまじないとは別に、原始的
な薬物療法が存在したであろうことは察しがつく。
中国医学は朝鮮半島を経由して入ってきていたが、7 世紀初
頭から直接日本に伝来するようになり、8 世紀には遣唐使が幾
度となく日本、唐の間を往復し医学・薬学も盛んに渡来した。
753 年、鑑真(ガンジン)が多くの医書や薬を持ち込み、また薬物
の真贋を誤りなく鑑別したといわれている。
984 年には丹波康頼(タンバヤスヨリ)が【医心方(イシンポウ)】を著した。
これは現存する日本最古の医書で、内容はほとんど中国からの
引用であるが、出典を明らかにしており、現在失われた医書の
内容が多く含くまれている。
室町時代に入ると豊臣秀吉が朝鮮出兵の際に持ち帰った活版
印刷機の普及で医書も多く刊行され庶民に広がり、それまでの
中国医学から日本独自の理論や診断法も生まれた。売薬が始ま
ったのもこの頃である。
江戸時代になり西洋からの新しい医学が入ってくると共に
様々な試みが行われるようになった。山脇東洋が日本最初の人
体解剖を、華岡清洲が経口麻酔剤の通仙散(主に曼荼羅華と附
子)別名麻沸散を初めて作り、これを用いて全身麻酔科での乳癌
摘出手術に世界で初めて成功した。また、本間棗軒も日本初の
大腿部切断手術を成功させている。
【本草綱目】が日本で読まれるようになったのは、1607 年、
林羅山(道春)が長崎で手に入れ幕府に献上したのが始まりと
言われている。この本は江戸時代の薬草に大きな影響を与え
日本独自の本草学の発展と博物学の誕生に貢献した。
1672 年に
は貝原益軒が【和名入本草綱目】を、1714 年には稲生若水が【新
校正本草綱目】をそれぞれ著している。
明治になると急速な西洋化の流れの中で漢方医学は凋落の一途
をたどった。明治 7 年医制発布、同 8 年医術開業試験実施をし
たが西洋科目のみで漢方だけの習得で医師になることはできな
くなった。
1976 年、漢方エキス剤が薬価基準に収載され、診療保険に適
用されるようになり漢方が利用されるようになった。
出典:
「入門漢方薬ノート」海東常敏著