2014年 5月 とめさんの愛

2014年
5 月 10 日
第 266 号
発行所 石 井 記 念 友 愛 園
宮崎県児湯郡木城町椎木 644 番地
ゆうあい通信
〒884-0102 ℡ 0983-32-2025
とめさんの愛
園長 児嶋草次郎
雑草という名の植物はないとおっしゃったのは昭和天皇だったと思いますが、
庭周辺に芽を出す1本1本の植物達が美しく見える4月でした。私達が雑草と呼
んでいる植物達にもそれぞれに名前がつけられ、彼らも存在を誇示するように葉
を広げ芽を伸ばし始めます(ただし5月以降は、これらの雑草との戦いとなりま
すが―)
。
この大自然はこれらのすべての植物達との共生の中に成り立っているのだと
感じさせられる4月でもありました。いや昆虫、動物、人間界も同じでしょう。
そのバランスの中に世の中は成り立っているのです。そのバランスを保っている
のは人間ではなく天であり、人間は常に思い上がらないように自戒しなければな
らないと思いますし、まさに「天は父なり、人は同胞なれば互いに相信じ相愛す
べきこと」
。そんな気持ちで新年度再スタートしているところに一通の封書が舞
い込みました。4月 21 日でした。
差出人は岡山の藤田満弘氏。この方からのお手紙は実は2通目で、最初に届い
たのは3月末(消印 27 日)でした。全くお付き合いのない方です。藤田氏の最
初のお手紙を要約すると次のような内容です。非常に重要なことが記されてあり、
少々長くなりますが紹介させていただきます。
岡山出身の抽象画家坂田一男の研究会の事務局を自分はやっている。坂田一男
(1889 年~1956 年)は、1921 年(大正 10 年)にパリに渡り、フェルナン・レ
ジエに師事し、1933 年(昭和8年)に帰国。岡山県玉島に定住し、絵画制作に
励んだ。我が国最初の抽象画家である。
この画家は帰国後、独身を通したが、亡くなるまで家政婦として働いていた
(
「同居し、身の回りのすべてのお世話をされました」藤田氏)のが、
「三宅とめ
(と免?)
」という女性(1894 年~1993 年)で、
「東京で救われ、岡山孤児院に
連れてこられ、そこで教育を受けた」そうだ。
「三宅とめ」さんは、卒院後、まず坂田一男の父親の坂田快太郎(第三高等中
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学校医学部外科教授)の家で家政婦として働き、大原孫三郎の一人息子大原総一
郎氏が東京大学に進学した時は、東京の住いでやはり家政婦として「お世話」し、
卒業し大原氏が結婚すると、再び坂田家にもどった。
坂田家から嫁に出してもらうが、相手は大原家の大工(?)で、「三宅姓」はも
しかしたら、その大工の姓かもしれない。しかし、その主人が早く亡くなり、再
度坂田家にもどり、帰国後の坂田一男のお世話をすることになった。
この三宅とめさんのことをもう少し調べたい。「石井十次日誌」を見ると坂田
一男の母坂田八万重(はまえ)が、菅之芳(第三高等中学校医学部校長)夫人と
しばしば石井十次を訪ねる記録が出ている。石井十次は、痔の手術を坂田快太郎
にやってもらっている。
(
「石井十次日誌」昭和 37 年9月 20 日)。そして藤田氏
の質問は2点でした。三宅とめに関する記録はないか。坂田快太郎、八万重に関
する記録は他にないか。
このような問い合わせは時々あります。職員あるいは卒院生の御子孫の方から
の要請であれば、できるだけお答えしようと思いますが、単なる研究が目的とい
う場合は、プライバシーの問題もあり私は断るか石井十次研究者に振ることを原
則としています。今回は、東洋大学教授の菊池義昭氏に藤田氏のお手紙のコピー
を添えて調査をお願いしました。藤田氏にもその旨を手紙で伝え、また8月末に
石井十次研究者の方々が来宮されるので、その時一緒に来て調査する方法もある
と書き足しておきました。すごく興味のある内容ではありましたが、3月末でと
ても忙しく、私に余裕はありませんでした。
日はバタバタとすぎ2通目の手紙が届いたのが先ほどの4月 21 日です。その
封書の中には、藤田氏の手紙の他、菊池氏からの回答のコピー、そして坂田一男
研究会発行の研究誌「SAKATA 第2号」
(2012 年4月 21 日発行)が同封されて
いました。
お恥ずかしながら私は「坂田一男」という画家を全く知りませんでした。「日
本における抽象絵画の先駆者」と言われるこの画家について詳述してあり、私は
むさぼるように読みました。久しぶりに絵画の魅力的世界に触れることができ、
感性が疼(うず)きます。我が娘にお願いして、インターネットから彼の描いた
絵画を何点か引き出し、鑑賞することができました。田中一村や高島野十郎以来
の出会いになるのかもしれないと思ったりしました。
そして、その孤独な画家を 22 年間に渡って家政婦として支え続けた岡山孤児
院卒院の一人の女性の人生が強烈にイメージされるようになり、興奮しました。
この「SAKATA 第2号」には、
「とめ」さんに関する随想も二編収録されていま
した。
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さて、まず菊池氏の回答です。藤田氏はメールで受信されたものをコピーして
私にも教えて下さいました。本名井上とめ。東京都麻布区出身。原胤昭氏の紹介、
山室軍平氏の付添で明治 32 年9月 14 日に岡山孤児院に入院。大正7年4月 15
日、岡山において三宅良雄と結婚。三宅も岡山孤児院卒院生で、大正6年当時岡
山孤児院本部の会計を一時担当していた。まとめると以上のとおりでした。
私もじっとしておれなくなり、資料館で少し調べてみました。「岡山孤児院新
報第 36 号」明治 32 年 10 月 15 日発行)に次のような記述があります。
「九月十三日 電報 東京原胤昭君より孤女弐名イマタッタとの電報来る」
「九月十四日 二孤女着 本日午後四時東京より孤女弐名山室軍平君と共に岡
山停車場に着森君迎ひに往く」
この2名のうち1名が井上とめさんのようです。石井十次日誌にも「東京より
二人の孤女来着」
(9月 14 日)とだけ記されてありました。
次に戸籍ですが、戸籍上は「井上と免」です。入院当時は戸籍がなく明治 41
年になって戸籍が作られています。生年月日明治 27 年4月1日生も推定のよう
です。その生年月日によると、岡山孤児院に入所したのは5歳の時ということに
なります。何歳まで岡山孤児院で教育を受けたのか。名簿等を調べると、明治
41 年から明治 43 年頃のものには「岡山二テ下女」等と書き込まれてありますの
で、すでにお手伝いさんとして奉公に出ていたのかもしれません。そして、大正
3年3月 31 日退院という記録もありました。ちょうど 20 歳です。その最初の
奉公先が大原孫三郎宅だったのか、それとも坂田一男の父親坂田快太郎宅だった
のか、今の所確認できません。研究者にまかせましょう。
「SAKATA 第2号」を拝読した感想もまじえながら、私なりに坂田一男と井
上とめさんについてまとめておきます。
医師の家系に生まれ回りの期待に答えるように医学を志すも挫折し、画家にな
ったと書けば簡単ですが、その劣等感は相当なものだったのでしょう。パリに留
学しても、日本人達とは距離を置き、抽象絵画の世界に踏み入っていく。しかし、
渡米中に父親が亡くなり仕送りも止まり、極貧の生活を余儀なくされる。彼も運
命を呪ったことでしょう。
そもそもなぜ抽象絵画をめざしたのか。彼が理系の感性を持っていたというこ
ともあるでしょうが、当時の中央画壇(それは権威であり父親的存在)への反発
があったのかもしれません。勉学における挫折が反動として絵画における未知の
世界を選ばせたとも言えます。彼にとって絵画の世界は救いではなく挑戦のよう
に感じ取れます。インターネットから引き出した何点かの絵を見ただけですが、
そこに精神性はあまり感じられず、幾何学的形態による構図の完璧性にこだわり
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続けているように思えます。
岡山の田舎に引っ込んでも、その造形にこだわり追求し続けることができたの
はどうしてなのか。人や中央画壇との交渉をさけ、パリの延長のような世界に生
き続ける。時はとまったまま。一村や野十郎が極限の孤独な生活の中で自然と一
体化していくのに比べ、坂田の魂はどうして自然に救いを求めずにすんだのだろ
う。それが彼のプライドだとしても―。
そこに登場するのが井上とめさんです。とめさんの支えがあったから、彼の精
神は破綻することなく、
「抽象」に挑戦し続けることができたのではないか、そ
れが私の結論です。
とめさんは、昭和9年、40 歳で坂田のアトリエで家政婦として働き始め、昭
和 31 年に坂田が脳いっ血で亡くなるまで 22 年間、独身の彼を支え続けていま
す。
また、その後もこのアトリエに住み続け、昭和 60 年(91 歳)から特別養護老
人ホームで余生を送ったということです。(平成5年 99 歳で死去)
。坂田にとっ
てもとめさんにとっても玉島での生活は充分に幸せなものであったろうと感じ
させる一文が「SAKATA 第2号」の中に出て来ます。(「坂田一男のハウスキー
パートメさんを訪ねて」大橋宗志)
。筆者の大橋氏が 95 歳になるとめさんを老人
ホームに訪ね話を聞いているのです。
「みんなあやまちせんように、どうぞ守ってあげて下さいというてお祈りして
寝るんです。神様を信じることは、ええことですな」「ああいうええお方につい
ていたのが、幸いです」
。とめさんの言葉です。
また大橋氏は、坂田の妹日出の「兄の思いで」の中から次のような文も紹介し
ています。
「おトメさんが親身も及ばぬゆきとどいた世話をしてくれ、『女房だったらと
てもこんなにはしてくれんよ』と自分の我がままを恐縮そうに、おトメさんへの
感謝を兄は私によく披瀝した」
。
そして大橋氏は次のように文章を結んでいます。
「と免さんの中に石井十次の教育理念が見事に体現されているように思えた。
(略)僕は切ないほどの感動を覚えた」
。
二人の関係は夫婦関係以上の、あるいは親子関係以上の信頼で結ばれていたの
かもしれません。まさに石井十次の「人は同胞なれば相信じ相愛すべきこと」の
具現化された世界です。
今流に言えばアスペルガー的こだわりの強さがあり人間嫌いと言える坂田が、
なぜお手伝いとしてとめさんを自分の空間(アトリエ)に受入れる気になったの
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か、これが一つのなぞですが、ここからは私の推察です。
とめさんは記録によると 14 歳頃から「岡山ニテ下女」とあります。大原孫三
郎邸や坂田快太郎邸で見習いのお手伝いをしていたと思われます。となると、ち
ょうど坂田が医学部を志すもかなわず絶望し、思い新たに 25 歳で画家をめざし
て上京するまでの間、とめさんとけっこう交流があったのではないか。もっと大
胆に言うならば、この 14、5 歳頃のすばらしい少女にあこがれていた時期(救
いを感じた時期)があったのではないか。ちなみにとめさんは大正7年に結婚し、
坂田は大正 10 年に渡仏します。
運命のいたずらか、とめさんは間もなく夫と死別し、また大原家か坂田家にも
どります。驚くべきは、大原孫三郎の一人息子の総一郎氏の東京大学入学(昭和
4年)に合わせ、一緒に上京し、卒業まで家政婦として総一郎氏を支えたという
ことです。父親の孫三郎は東京の学生時代放蕩しているわけで、絶対にそうさせ
ない切り札として付き添わせたのがとめさんなのでしょう。孫三郎や夫人から絶
大な信頼を得ていたということになります。石井十次はすでにその時この世には
いませんでしたが、14、5歳で大原家等に奉公に出る時点で十次自身が彼女を推
薦したのでしょう。
そして、次は坂田一男の番です。帰国した時はすでに 44 歳です。坂田の母親
は一人息子の行く末を心配し大原家に相談したことでしょう。常識的に考えれば、
見合い結婚でもさせるべき時でしょうが、変人坂田が拒否したのかもしれません。
そこで登場したのがとめさんではなかったのか。言わば救世主です。とめさんも
『変り者のお坊ちゃんを支え得るのは自分しかいない』と使命感(ミッション)
を感じて引き受けたのではないか(坂田より5歳年下)。そして坂田自身も久し
ぶりの再会を喜び、素直に受入れることができたのではないか。それらを証明す
る資料は今のところ何もないのですが、私にはそのように感じられてなりません。
当時は差別意識の強い時代でした。そういう価値観を自らの運命として受入れ、
坂田一男を家政婦としてひたすら守り抜いたとめさんの崇高な愛を、石井十次関
係者として誇りに思わないわけにはいきませんし、岡山孤児院の教育の奥深さを
証明する一つのこの事例を、書きとどめないわけにもいきませんでした。石井十
次の理念は、芸術の世界にもしっかりと根を下ろしていたのです。坂田の絵のど
こかにとめさんの魂の片鱗が生き続けているのではないか、じっくり鑑賞してみ
たいと思いますし、いつかはとめさんのお墓参りをしたいと思います。藤田満弘
様、御縁を作っていただきありがとうございました。
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