5月: 召命を目覚めさせる人

2011 年 5 月
シャミナード年
ギョーム・ヨセフ・シャミナード
召命を目覚めさせる人
シャミナード神父は生涯に亘り、その献身と聖なる生き方を通して優れた
情熱を呼び覚ましました。数多くの多様な召命がそこから生み出されてき
ています。そのうちの注目すべき幾つかの実りを眺めてみましょう。
1795 年 「恐怖政治」の迫害後、ボルドーにおいて
迫害が鎮まるとすぐ、シャミナード神父は青年達の境遇に、ことのほか関心を寄せました。シム
レル神父はその活動について次のように記しています。
「困難は山積していた。師はより良い時代のために、将来の使徒職に協力する青年たちのエリー
トを準備しようとしていた。」しかし、
「何の苦労もなく事は運んだ。人の心をつかむ才能に長けて
いた師の周囲には、この頃から青年たちが集っていた。師は、青年たちとの対話や秘密集会を通し
て、信仰と道徳観念が危険にさらされている彼らの身を守っていた。師は彼らに使徒職を紹介し、
将来彼らが担うはずの役割について説明した。その中に、後にボルドー教区の皆から『ゲランの聖
なる司祭』の名で呼ばれるようになるドニ・ジョッフルがいたが、彼はシャミナード神父を心から
尊敬していた。ドニは父にその印象を次のように語っている。『私は、心から探し求めていた司祭
を見つけました。シャミナード神父は聖人で、私の指導者です。彼は私の模範です。なぜなら私は
司祭になろうと思っているからです。その決意はかつてないほど揺ぎないものとなりました。現実
には望むほど早くはなれないでしょう。時代はまだ難しい状況にあるからです。私は毎日仕事を続
けます。しかし彼は、私がまもなくその第一の弟子になることを保証してくれました。それは彼の
希望であり、私の希望でもあります。』
その頃、シャミナード神父の周囲には同じ思いを抱いた青年たちが集まっていた。その中の一人
に、後に司祭になったレイモン・ダミスがいた。もう一人は、私たちがもっとよく知っているボル
ドー出身のギョーム・ブエで、彼は 1796 年に 30 歳だったが、司祭職を熱望していた。その 40 年
後に、彼はシャミナード師に次のように書いている。『私たちが聞いた講話の中に、私は神の祝福
を見出しました・・・。このことは決して忘れません。あなたは対話を通して、私の血管に神の平和
を循環させてくださいました。』」(シムレル著 6 章)
1795 年~1836 年 マリー・テレーズ・ド・ラムルス
1795 年、マリー・テレーズ(1734-1836)がシャミナード神父に初めて胸中を打ち明けた時、師
は彼女のうちに成聖への大きな渇きを見て取りますが、同時に二つの障害に気づきます。
1)「神様はあなたに、全面的に神様のものになりたいという大望を特に吹き込んでおられま
す。・・・けれどもあなたの道程はまだ終わっていないと申しておきます。もはや自分の自然の
傾向によってではなく、あなたの内にあって主として君臨することをお望みの神ご自身によっ
て動かされなければなりません。・・・あなたが行なっている徳行はまだまだ不完全です。なぜ
なら、あなたはそれらを恵みの働きそのものよりも、自分の理性あるいは想像に従わせている
からです。」(手紙 1 巻 9、1796 年 5 月 27 日付)
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2)
「あなたのうちでは想像がはなはだしくなっています。それがあなたを悩ませている不断の心
配の主な原因です。」(同上)
師はそこで、彼女を悩ませ消耗させている小心(罪意識が強すぎて、何でも罪に
なってしまうように感じ、霊的、精神的に縮こまってしまう状態)について遠まわ
しに触れ、そこから完全に癒されなければならないと指摘しています。その効果は
まもなく、1796 年 12 月、マリー・テレーズが革命の罪の償いとして、自らを神に奉
献した祈りに表れてきます。
シャミナード師は亡命の時から 33 通の指導の手紙を彼女に送っていますが、今、私たちの所に
保存されているものは、彼女がノートに書き写したものです。
その後も彼女はすべての呼びかけに対し注意深く、燃えるような寛大さを示し続けました。
* 迫害の最中、大きな危険を顧みず、信者たちへの奉仕を続けました。
* 聖母青年会が誕生すると、彼女は責任者の一人となりました。
* 1801 年、彼女は、更生した女性たちのためのミゼリコルドの事業の責任者となり、ここからミ
ゼリコルドの修道会が誕生し創立者となりました。
「シャミナード師はボルドーに住むマリー・テレーズを晩年に至るまで指導しましたが、サラゴ
サから彼女に送った手紙は、霊的指導の書かれた最後の証しとなっています。それ以来、二人共ボ
ルドーで生活していましたので、もうほとんど手紙を書く必要はなくなっていたのです。ですから
私たちは、師が彼女に与えた霊的指導の内容や方法がどのようなものであったかを、これ以上知る
ことはできません。しかし、彼女の生涯とその事業の中に、彼女が師の指導を通してどのような人
になったかを想像することはできます。マリー・テレーズ・シャルロット・ド・ラムルスは、本人
がまだ意識していないミッションのために準備されていたのです。
」
(ステファネリ著、マドモアゼル・ド・ラムルス 94 頁)
1808 年~1828 年 アデル・ド・バッツ・ド・トランケレオン
全く違った形ではありますが、シャミナード神父はアデルも同伴しています。アデルはボルドー
から 140 キロメートル離れた所で生活していました。1808 年、アデルはボルドーの無原罪の聖母青
年会の存在を知ることになりますが、これがシャミナード神父との交際のきっかけとなり、やがて、
仲介者や文通を通してその関係は深まっていきます。アジャン地方の若い娘たちのグループ(「小
さい会」)は、やがてボルドーのグループに加わることになります。
1810 年以降、アデルの心に、会員の成聖と田園地方の福音宣教を目指す修道共同体
の創立、という「大切な計画」が膨らんでいきます。そこでもまた、シャミナード神
父との対話が決定的な役割を果たします。師はアデルの直観を大切にし、それを深め
ながら指導し助言を与えますが、ある点に関しては、もっと前進させようとアデルを
後押しします。師は、アジャンの司教がアデルの計画を奨励しながらも、自分の考え
のもとにある点を修正しようとしていることに対しては、断固として戦っていきます。
1816 年 5 月 25 日、マリー・テレーズ・ド・ラムルスは経験者として、この新しい創立に立ち会
うために、アジャンに赴きます。シャミナード神父がアデルと最初に会ったのは、何と翌月の 8 日
でした。決定的な第一歩は、師とアデルが直接会う以前に行われたのです。師がアデルに示した何
と素晴らしい信頼の証しでしょう。同時に、それは師が優れた識別力の持ち主であることをも示し
ています。
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師は、1828 年にアデルが亡くなるまで、長上としてのアデル(メール・マリー・ド・ラ・コンセ
プシオン)の務めを援助し続けました。「皆さんを他の修道会と区別する点はといいますと、それ
は人々の救霊のための熱誠です。それで、敬神と徳の原理を知らせなければなりません。キリスト
信者を増やさなければなりません。・・・それでは私たちは何をする
のでしょう、とお尋ねのことでしょう。皆さんは宗教教育を施し、
あらゆる身分、あらゆる境遇の若い女性に徳を修めさせ、彼女た
ちを真の聖母青年会員とし、分団集会なり、班集会などを催し、
若い女性に小さな黙想会を行わせ、将来どのような道に進むべき
かを指導するなどのことを行うことになります。皆さんの修道会
は全く宣教修道女によって構成されることでしょう。」(手紙 1 巻
57、1815 年 10 月 3 日付、アデル・ド・トランケレオン宛)
聖母青年会内の「15人会」
「一方、青年たちは、同じ 1816 年、高潔な 15 人の聖母青年会員が在俗修道者として生きる決心
をしました。その中に、後にその名を見出す、ビドン、カントー、ラランヌ、コリノー、オーギュ
スト・クルーゼ、ドーザンがいることに気づきます。これらの青年たちの状況は多様でしたが、彼
らはキリスト教的平等と友愛を原則として生きることを確認しています。それはボルドーの聖母青
年会から受け継いだものでした。1816 年の復活祭に、15 人は次の誓いを立てています。
『至聖三位一体の名によって、神の大いなる栄光と、汚れなき聖なるおとめマリアのご保護のも
とに、イエス・キリストにおける兄弟である私たちは、私たちの聖化といつくしみ深い主の僕たち
の増加に共に寄与するため、私たちの努力を結集することを望み、私たちの間に次の協定を行いま
す。
私たちは、それぞれの必要に応じて、各自が自らに生活の規則を課します。しかし、当規則は次
の四つの共通条項を持ちます。
1、15 日毎の聖体拝領
2、毎日の黙想
3、毎朝、先見の糾明
4、毎夕の良心の糾明
私たち各自は、一人の生徒をキリスト教の真の精神の内に育成することに努めます。
私たちは私たちの生活の規則、私たちの生徒の指導、および私たちが行うことのできるその他の
使徒的活動について指導司祭の承認を求め、これらの事柄に関して、三ヶ月の従順の誓願を指導司
祭の手の中で行います。』」 (ガディウ/デラス共著 45-46、文書と言説 1 巻 121)
1817 年 5 月 1 日(木) 「非常に記念すべき日」
1817 年の初め、ボルドーで盛大なミッションが行われました。それは 5 週間続き、素晴らしい成
果をもたらしました。終結の日には、1200 人の国民衛兵が巨大な十字架を担いで行進し、それをカ
テドラルの後陣に打ち立てました。それは 4 月 27 日(日)のことでした。
次の木曜日の 5 月 1 日は、ジャン・バプチスト・ラランヌ青年が、自分の身を委ねるためにシャ
ミナード師の戸口をたたいた日です。後に創立者はこの日を「非常に記念すべき日」と呼ぶことに
なるでしょう。会談の後、ラランヌは、友人のジャン・バプチスト・コリノーに会いに行き、新し
い修道会の計画について話しますが、彼はそれにすぐに賛同します。また、同じ寄宿学校の同僚、
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ブルニョン・ペリエール氏(オーギュスト氏)も同様に大賛成でした。二人の商人、ドーザンとク
ルーゼも同意しました。
1817 年 10 月 2 日、シャミナード神父の指導による黙想の後、5 人の青年は「修道誓願を通して、
神と聖母マリアに身を捧げる」意志を表明しました。マドレーヌ聖堂に近い、セギュール街の袋小
路に小さな借家がありました。ここがマリア会発祥の地です。やがて二人の青年が加わります。ラ
ランヌ神父は次のように書いています。「7人の友人は、神が与えられる事業に勉学と祈りをもっ
て準備するために、そこに引きこもりました。どのような特別な服装もしませんでした。また特別
な仕方で目立つようなことは一切しないことを取り決めました。神父、ブラザー、院長と言う名称
も避け、互いに・・・さん、と呼ぶことにしました。ただ、契約と一致のしるしとして、金の指輪
だけをすることにしました。」(デラス著 46-48)
あなた方は皆、宣教者
1800 年、ボルドーの神学校が再開されます。校長と一部の志願者は
聖母青年会の出身者です。同様に、新しい修道会や古い修道会も聖母青
年会から志願者を得ています。聖母青年会の中で、信徒の召命を堅固に
した信徒の数は数百人にものぼっています。
1817 年、カテドラル聖アンドレ教会の後陣に立てられたミッション
の十字架は、1830 年に内部に移され、壁面いっぱいに配置された十字
架には、信徒たちの名が刻まれている。当初、台座には次のように記さ
れていた。
「神が世の救いのために、おん子を死に渡すほどの大きな愛に、私たち
も、愛のかぎりを尽くして応えよう。」
今月の記念日
1 日:JB ラランヌとシャミナード神父の出会い
15 日:召命祈願日
25 日:キリスト者の助け手である聖マリア
汚れなきマリア修道会創立記念日(195 回)
(1816 年 5 月 25 日)
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