これは多摩美術大学が管理する修了生の論文および

これは多摩美術大学が管理する修了生の論文および
「多摩美術大学修了論文作品集」の抜粋です。無断
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多摩美術大学大学院
e-mail: [email protected]
平成 16 年度 多摩美術大学大学院美術研究科 修士論文
2004,Master Thesis,Graduate School of Art and Design,
Tama Art University
文学イラストレーション
當麻ゆき子
学籍番号 :30330094
所属 : 博士前期 ( 修士 ) 過程デザイン専攻グラフィックデザイン領域 G-6
Literary Illustrations
Yukiko Taima
30330094
Graphic Design Field,Design Course,Master Program
目次
序
1. 文学イラストレーションの作品とその表現
1-1 宗教美術としての文学イラストレーション
1-1-1 ジョット (GIOTTO di Bondone,1267-1337)
1-1-2 ティントレット (Tintoretto, 1518-1594)
1-2 幻想美術としての文学イラストレーション
1-2-1『神曲』についての文学イラストレーション - ドレとダリ
1-2-2 ウィリアム・ブレイク (William Blake, 1757-1827)
1-2-3 ドラクロワ (Eugene Delacroix, 1798-1863)
1-2-4 オディロン・ルドン (Odilon Redon, 1840-1916)
1-3 挿絵としての文学イラストレーション
1-3-1 絵巻物
1-3-2 江戸文化
1-3-3 明治∼昭和の新聞小説の挿絵
1-3-4 ビアズリー (Aubrey Beardsley, 1872-1898)
1-3-5 金子國義 (Kuniyoshi Kaneko, 1936-)
1-4 文学イラストレーションの表現特性
2. 文学イラストレーションとは何か
2-1 イラストレーションについて
2-2 文学イラストレーションの既存の定義
2-2-1 絵画分野における文学イラストレーション - 文学と絵画の関係について
2-2-2 挿絵分野における文学イラストレーション
3.『シッダールタ』の制作について
3-1 制作意図
3-2 パステル , 襖
3-3 本という媒体
参考文献
図表リスト
序
文学イラストレーションという言葉から何を思い浮かべるだろうか。そしてそれは一
体、どんな役割をするイラストレーションなのだろうか。
ビョークというアーティストのこんな言葉がある。
「"The reason I do photographs is to help people understand my music, so
it's very important that I am the same, emotionally, in the photographs as in
the music. Most people's eyes are much better developed than their ears.
If they see a certain emotion in the photograph, then they'll understand the
music."(Bjork, Index Magazine, july 2001)」
彼女の音楽に対して的確な表現であれば、彼女の写真やプロモーションビデオが彼女
の音楽への理解を助けることになる、というのである。つまり音楽にとってのイラスト
レーションであると言える。文学イラストレーションは、正に文学と絵におけるこの関
係である。
人間は様々な感覚を使って情報を取捨選択している。音楽においては写真やプロモー
ションビデオなどの視覚面と作品自体である音楽という聴覚面、文学においては視覚の
中でも文字情報と画像情報の両側から好きな入り口を選ぶことが出来る。文学作品のよ
うにある程度まとまった長い文章作品の場合、その内容を適確に代弁する絵なり装丁な
りが、文学に特に詳しいわけではない大勢多数の読者には必要である。それは作品を選
ぶ際、直接受け手側の情緒に訴える、より直感的で正確な目印となる。現代日本で活
字離れが加速進行している今、適確なパッケージデザインとして手触りの強いイラスト
レーションを用いて人々に訴える必要性はますます増しているのではないだろうか。
当初、
私が『シッダールタ』についてのイラストレーションの制作を始めた時、純粋な「挿
絵」とも言い難く、しかし文と対にして見せることで生まれる効果も捨てがたいため美
術としてではなく本にしたいという思いから、自分の制作をどう言い表せばいいか分か
らなかった。しかし研究を進めるうち、自分の制作はイラストレーションであり、従来、
もしくは一般的に考えられている、イラストレーション = 図解、挿絵、という概念だ
けがイラストレーションではないと思うようになった。
私は現在、文学イラストレーションとは、イラストレーションの中の挿絵分野と、絵
画の中の文学イラストレーション領域の両方であると考えている。文学と絵画、文学と
挿絵という主題は近年多く研究されており、それは従来挿絵とみなされていたものにと
どまらないことが分かっている。ここでは「文学」は広く、物語性を持つ文章ー宗教的
伝承から昔語り、小説・詩等までを文学とし、以下に、文学にまつわるイラストレーショ
ンの歴史と意義を求め、文学を基に生まれてはいるがイラストレーションが単体でもコ
ミュニケーション機能を果たしている役割を研究していきたい。
1. 文学イラストレーションの作品とその表現
■文学イラストレーションの歴史概略
古代∼中世の文学イラストレーションといえば、一番始めのものは、現在知られてい
る最古の挿絵入りパピルス文書は前 1567 年頃以降に作られた『死者の書』である。
死者の書は呪術性の強い葬礼文書で、
死者の復活に必要な呪文を集めてパピスルに記し、
王族に限らず個人の葬礼において棺柩内に副葬された。場面を説明する美しい挿絵や装
飾帯や文様が用いられており、
『アニのパピルス』など、美術品としてもすぐれたもの
が多い。
古代の公共図書館における写本編纂と挿絵制作の仕事は、西ヨーロッパではやがて修
道院の写本製作所へと受け継がれた。豪華な写本芸術は 14 世紀には愛書家の王侯の保
護のもとに絶頂に達し、それ以後衰退をきたした。
グーテンベルク以降、15 ∼ 18 世紀の文学イラストレーションとしては、1445 年に
ドイツのグーデンベルグが活版印刷技術を完成し、それを機に大量に印刷が可能になる
と、挿絵装飾の主流は写本画から木版画になった。16 世紀には木版術と並んで銅板画
( エングレーヴィング、エッチング ) の技術が確立され、デューラー、ホルバインなど
の芸術家が銅板技術によるイラストレーションを手掛けた。17 世紀になると完全に銅
板画が主流となり、フランスではヴィニヨン ( 本文に挿入される小口イラストレーショ
ン ) が登場した。
19 世紀は新しい挿絵芸術である石版画や鋼版画の他にも、1775 年にトマス・ビュー
イックが創案した木口木版が復活し、挿絵と本文の同時印刷が可能になり、また同世紀
後半には写真製版法も加わって、イラストレーションの世界を大きく前進させた。ロマ
ン主義時代には書物のイラストレーションは大きく花開いた。
■文学イラストレーションの表現別種類
文学イラストレーションとしては、主に以下の三つが大きな意味と流れを持っている
と考えられる。
1. 絵画として表現されたものがイラストレーション的な意味合いを持つこと - 宗教美
術としての文学イラストレーション
2. 文学に対する挿絵という関係ではなく、文学作品から想を得た創作というアプロー
チをすること - 幻想美術としての文学イラストレーション
3. 純粋に文学に対する挿絵として創作されたもの - 挿絵としての文学イラストレーショ
ン
従って 1 のケースなどでは本以外のメディア、例えば壁画などが多いし、2 では版画
集という形になることが多く、3 の場合は本以外ではほとんどあり得ないであろう。2
での表現はイメージ画といってもいいものであり、表現上は文学作品を完全に画家の視
点で捉えた自由な創作である。3 での表現は場面説明的役割、装飾的優秀さ、文学作品
の世界に対する忠実さがある程度求められる。
以下に、主な文学イラストレーションの一つ一つの作家や作品を上の三つの分類に沿っ
て取り上げていき、その特性について考察していきたい。
1-1 宗教美術としての文学イラストレーション
本が普及していなかった 15 世紀頃まで、人々は文字が読めないのが普通だった。ヨー
ロッパでは字が読めない普通の人々のための聖書の絵解きとして全ての美術が始まり、
絵画も無論教会の一部としての機能が主であったから、キリスト教にとって絵画は、聖
書の内容を人々に分かり易く説明するための非常に重要な「文学イラストレーション」
だったのである。名前も残らぬ職人としての絵描きたちが工房制で制作していた時代か
ら、ルネッサンスを経て 17 世紀一杯頃まで、キリスト教のための新約・旧約聖書の絵
画化、聖書のテーマを主題とした制作は、絵画分野においても圧倒的な割合を占めてい
た。その時代に作られた建築物や彫刻、絵画、書籍などは、今でも非常に尊敬され信仰
の対象として現代に生きている。
特に教会壁画、中でも一つの教会や礼拝所の中を丸ごと一人の画家の絵で埋め尽くす
のは至難の業であり、そういう場合ほとんどがキリストや後の聖人の生涯を追ったス
トーリーで構成された作品となり、文学イラストレーションの体が非常に濃くなる。こ
こではそのうちの二人の画家を取り上げる。
ジョット
パドヴァ , スクロヴェニ家礼拝堂壁画 ,
1304-06
1-1-1 ジョット (GIOTTO di Bondone,1267-1337)
パースの構造がまだ完全に解明されていない時代の宗教画、例えば 13-14 世紀頃の絵
図 1( 上 ) キリストの死を悲しむ聖母た
ち
図 2( 下 ) キリストの誕生
には、金箔が背景に貼られ、ぎこちない顔や体の表情や色の塗り方とその剥げかかった
金箔とが、画面に不思議な緊迫感を生み出し、それがなんとも言葉にしがたい聖なる光
をたたえているように感じられる。リアリズムに則った描き方では表現できない、故意
ではない時代に一心に神を賛美して描かれたその絵たちには、現代では表現しようのな
い神聖さをたたえている。
ジョットはその時代の最後の人であり、パース・リアリズム時代への架け橋となった
絵描きである。特にイタリア・アッシジのサン・フランチェスコ教会堂壁画やパドヴァ
のスクロヴェニ家礼拝堂壁画 ( 図 1,2) が代表作として挙げられる。まだややぎこちなく、
まだ完全ではないパース技法を精一杯用いて描かれた数々の絵画からは、それまでの時
代では考えられなかった非常に豊かな表情を今まさに持たんとしているその瞬間となっ
ている。それを彼が自覚していたかどうかは定かではない。しかし、その「まさにその
瞬間」である絵は、現代の私達の心を捕らえて離さない。表現されすぎない慟哭、表現
されすぎない幸福、しかし十全に表現された人間の感情と神の奇跡の神聖さは、見るも
のの心をつかみ、神の世界へ引き上げるかのようである。私達の心に住む畏敬の念や愛
情に大きな影響を与え揺り動かす、素晴らしい表現である。まだ完全に装飾目的と表現
目的とが未分化で全く混在していた時代特有の、線と面のもたらす画面効果はこの時代
ヤコポ・ティントレット
サンロッコ学校の教会壁画
はまだ抜けきっておらず、装飾性も充分に持ち、表現としても非常に豊かでもあるのは、
(Scuola Grande di San Rocco)
写実的に描きすぎないことの恩恵であると言えよう。ジョットは確実に宗教絵画の一頂
Crucifixion
点を築いたと言える。
1-1-2 ティントレット (Tintoretto (Jacopo Robusti),1518-1594)
ティントレットは 16 世紀に活躍した画家である。彼の残した多くのキリスト教美術の
中から、特にサンロッコ学校の教会壁画 (Scuola Grande di San Rocco ,1564-1588
頃制作 ) を挙げたい ( 図 3,4)。サンロッコ学校は救済活動や礼拝、集会を行っていた友
好団体であり、中世のヴェネツィアに誕生し 18 世紀末の共和国の崩壊まで活動が続け
られた。この学校は特に宗教色の薄い集まりで、中産階級を中心に職人、商人などが中
心となっていた。現在内部はティントレットの作品 56 枚が収められた美術館として公
開されている。建物はバルトロメオ・ボンによって 16 世紀半ばに完成した初期ルネッ
図 3( 上 ) 磔刑のキリスト
図 4( 下 ) 岩石から水を得るモーセ
Moses drawing water from the rock
サンス様式で、バロックの雰囲気も漂わせている。ティントレットは 25 年間をかけて、
ここサンロッコ学校に彼自身の最高傑作を残した。入口を入り、薄暗い 1 階のフロアー
には壁面、天井に 2 階に登ると大広間の天井にと、建物まるごとティントレットが描
いたといってもいいほどの量の作品で一面飾られている。題材は全て新約・旧約聖書か
らとられており、キリスト教美術の一つの頂点であると考える。
ティントレットの描き方である、写実的で法則自体は現実に則っていながら、同時に
神々しさを現す光輪のようなデフォルメも持っているというのはこの時代の画家は大体
皆そうではあったが、ティントレットの絵には独特の影の調子があって、コントラス
トがやや強く、鮮やか過ぎない色彩を大きく生き生きとした筆致と構図を以てドラマ
ティックに構成し、しかも全体を通して「こけおどし」ではない内実のしっかりした表
現であることが感じられる。彼もまた、内的な意味でも絵画上でも、光と闇を特に気に
した画家ではなかっただろうか。彼の描くキリスト像は残酷な仕打ちを受けながらも光
を放ち、教会の壁を埋め尽くしたそれらの絵画からキリストの生きた時代の空気が立ち
のぼってくるかのようである。それは決して外面的なものに留まることがない。リアリ
ズムを持ち、見る側の想像力を刺激して、聖書の表す苦難や奇跡をティントレット独自
の視点を通して存分に現された大作である。
1-2 幻想美術としての文学イラストレーション
宗教美術である必要性が薄れて来、徐々に絵画の活躍する範囲が広がる上で、印刷と
いうメディアが生まれたことによって文学作品に挿絵を付けたものが増え、それが徐々
に画家が文学に想を得た純粋な制作としての版画本の刊行なども増えていったが、中で
も幻想的な主題をよく選んだ画家たちは写実主義の画家たちよりもずっと文学に積極的
に携わっていた。そこで「幻想美術の中の文学イラストレーション」ということで、何
人かの画家たちを取り上げる。
1-2-1『神曲』についての文学イラストレーション - ドレとダリ
『神曲』は、ダンテ (1265-1321) の著作で、「地獄篇」「煉獄篇」「天国篇」あわせて
100 の詩からなる大作である。作者のダンテが主人公で、古代ローマの大詩人ウェル
ギリウスに助けられながら地獄と煉獄を踏破し、天国で待ち受ける憧れの女性、ベアト
リーチェと再会する、一週間の壮絶な異世界の旅の話である。主題はキリスト教への敬
虔な信仰に基づいているが、同時に仏教の教えによる地獄絵・六道絵と不思議に共通す
る要素も多くある。さらに、この世ならぬ世界を巡る冒険譚として、古代から現代へと
連綿と紡がれてきたファンタジーの系譜に連なる代表的な位置をしめる傑作でもある 3
。
『神曲』については当初は 11-12 世紀でまだ印刷技術がなかったこともあり、本文の
みの写本がほとんどであったが、14 世紀頃から徐々に挿絵入りの本が増え始め、これ
までボッティチェルリ、バッチオ・バルディーニ、ウィリアム・ブレイク等実に多くの
画家たちが『神曲』の挿絵又は視覚化作品に取り組んでいる。ここでは代表的な大作を
作り上げたドレとダリの二人について比較する。
ギュスターヴ・ドレ (Gustave Dore,1832-1883) はフランスの版画家であるが、彼
はフランス的な優雅・端正よりも、グロテスクな奇怪なものを描くのに巧みであり、イ
ギリスにおいて非常に人気があった。ダンテの『神曲』の挿絵 (1863-66 年 ) やミルト
ンの『失楽園』挿絵 (1866 年 ) 等、精密で暗く重苦しい、非常に重厚な描写で壮大で
凄絶な世界を描いている。彼の挿絵は『ロンドン巡礼』(1872 年 ) の一冊を除いては、
全て重厚な全頁絵である。
ドレのダンテ『神曲』挿絵本 (1861,1868) については、文学イラストレーションの一
つの特徴が非常に顕著である。
『地獄編』から『天国編』まで、100 枚に及ぶエッチン
グによるドレの神曲挿絵は、一分の隙もなく隅から隅まで完璧に細かいタッチで埋め尽
くされ、現された緻密で重厚なその画面は、テキストと絵を一度、二度と往復しながら
見ているうちに、完全にその世界に完全に引き込まれてしまう。その理由は、その絵を
見、添えられたテキストを横目に見ながら、絵の詳細な部分部分を一つずつ丁寧に読み
込んでいくこと、つまり絵を読み解いていく行為に由縁するに他ならない。この「文学
イラストレーション」は、正に絵そのものが研ぎすまされ極限まで推敲された詩人の言
葉を丁寧に読み込み感じ取ることと全く同じ行為を絵で為すことのできる、絵そのもの
が文学、文字を読むようにして機能しているイラストレーションである。ドレ自身の中
世趣味のせいもあり、表現はいささか説明的で即物的とも言えるが、そのモチーフの克
明な描写や丁寧な画面作りに見る人はあっというまに引き込まれ、地獄や煉獄それぞれ
の場面の匂いや温度まで伝わってくるかのようで五感的なリアリティーをもって世界が
こちらに伝わって来るかのようである。その世界観は文章との相乗効果でますます重厚
にこちらに訴えかけてくる。天国篇の画はそれまでの地獄、煉獄のイメージとの対比も
考えてか、全体的に白っぽく薄めのトーンに変えて表現されているが、どうも天国篇は
彼の十八番である重みのある表現があまり生かされない世界のようで、ドレが天国のよ
うな表現よりは地獄のような重苦しく暗黒の力に満ちた世界を得意としていたことが分
かる ( 図 5)。
反してサルバドール・ダリ (Salvador Dali, 1904-1989) がドレの約一世紀半後に制
作した、同じくダンテの神曲を題材にした木版画 ( 図 7) がある。ダリの場合、ドレに
見受けられたような地獄と天国の力量差や重苦しさなどは全くなく、全ての画が洗練さ
れた描線と鮮やかな色彩を持ち、作品集ではこの水彩画を技術をこらした多色刷の木口
木版で見事に再現している。この作品の透徹した雰囲気には、彼の巧みさ、日常的に計
図 5( 上 ) ギュスターヴ・ドレ『神曲』
算しつくす性癖や、世界を同時多発的に捉える冷静で優れたバランス感覚の持ち主であ
- 地獄篇第五歌「ミノス ( 罪の審判者 )」
ることが強く感じられる。
ロッパ』口絵「絶対者」
ダリは前述のドレの作品に対し、こう述べている。
「なぜ明るい色で地獄を浮き立たせたのかと訊ねられれば、私は次のように答える。す
なわち、ロマンティスムが、地獄はギュスターヴ・ドレのようなそこになにものも見え
ない炭鉱のように暗黒の世界だ、と信じこませる不名誉を犯したのだ、と。それはまっ
たく誤りである。ダンテの地獄は地中海の太陽と蜜とで明るく輝きわたっており、した
がってそのために私の挿画の恐怖は、天使のような粘性をおびた係数をもち、分析的で、
また超ゼラチン的なのだ。
」
逆に言えば、数百年もの間数多の画家によってイラストレーションが描かれてきた作
品に対してドレのやりきった重厚な白黒の、また、ルネッサンス的とも言える画面にお
いて、出来ることは全てドレがやり尽くしたわけで、だからこそ後世の芸術家が安心し
て明るい色彩でそれを明るみに出す制作が出来たとは言えないだろうか。ドレの作品が
あったからこそ、ダリの絵のこの徹底して明るく美しい、しかしモチーフのフォルムに
特徴を持った水彩版画が生まれ得たように思えるのである。わたしはこの二つの『神曲』
はダンテの文学作品に対して存在する視覚化表現の二つの大きな頂点であり、対のよう
な役割をしているように思われる。
1-2-2 ウィリアム・ブレイク (William Blake, 1757-1827)
ウィリアム・ブレイクは詩画一致を非常に重視した作家であり、詩人であり画家であ
り装丁デザイナーであり版画家であった。自身の書いた詩で挿絵も描いたものであれ別
図 6( 中央 ) ウィリアム・ブレイク『ヨー
図 7( 下 ) サルバドール・ダリ『神曲』
煉獄篇第三歌「煉獄前地にて」
人の作品に挿絵を描いたものであれ全て装丁・印刷まで自分で作っている。彼は自作の
詩のほとんどすべてを「彩飾印刷」( 銅版による凸版腐食法 ) で印刷しており、全て挿
絵が入れられている。そして各ページの本文と挿絵は緊密に一体化して描かれている
( 図 6)。内容的に見れば、本文と挿絵は同等の力を持って相互補完的にそれぞれ読者の
頭脳と視覚に訴えるのである。また、他人の作品に描いた挿絵本の重要なものにはジョ
ン・ミルトンの詩や叙情詩の挿絵本 (『失楽園』他 6 作品 ) が挙げられるが、ブレイク
のミルトン挿絵は彼の宇宙観・世界観に基づくものであり、彼の思想を解明する上では
重要な作品である。このことからも、画家が文学作品を原作に選ぶ際、自らの思想や表
現に基づいて選んでいることが分かる。作品選びはその作家にとって重要な要素なので
ある。
ブレイクは霊感的な作家で、非常に鮮明に「幻想」世界が見えていたそうである。従っ
て彼は絵にも言葉にもそのくっきりとした画像を求めた。彼の絵は全て輪郭や色彩が
はっきりとしているのはそのためである。したがって、ブレイクにとって、芸術作品の
創造は、考えうるもっとも明確な形で記録されなければならない輪郭のはっきりした夢
想から始まるのである。
ブレイクにとって挿絵とは、本文が出来上がった後にその内容を絵として視覚的に表
現するために描くものではなく、本文と挿絵は同一の想像力の源から同時に湧き出て、
同一の版に同時に彫られたものであり、両者相まって初めて、一つのイメージや内容を
表現していると考えるべきである。彼の挿絵本は、詩人と画家を一体として、また本文
と挿絵を一体として、立体的に研究されるべき作品である。
1-2-3 ドラクロワ (Eugene Delacroix, 1798-1863)
挿絵というものが理解の独自性によってテクストの深い意味を引き出すような解釈、
画家の一つの創造とも成り得ることを示したのは、ドラクロワの石版画の傑作であり、
挿絵史の中でも異彩を放つ『ファウスト』挿絵 (1828 年 ) である。それ以前の書物の
挿絵は、小さくて古典的な銅版画が常であったので、ドラクロワの大型の奔放な石版画
は度肝を抜くものであった。ただ同時代の中で原作者ゲーテ一人はドラクロワの挿絵が
自分の想像力が呼び起こした文章を超えていると賞賛した。ドラクロワは『ファウスト』
出版の際、文章に挿入された挿絵という形式を望まなかったが、次作の『ハムレット』
挿絵では、最小限必要な文章を題語として版画の下に印刷する方法を選んでいる。
19 世紀末の芸術的なイラストレーションの企ては、テクスト / 図版の分離という制約
を逆手に取って、石版画やエッチングによる解釈、つまり挿図というよりはむしろテク
スト ( もしくはその断片 ) に想を得ての独立した創作という方向を目指すのであって、
ドラクロワはここでも偉大な先駆者であった。
1-2-4 オディロン・ルドン (Odilon Redon, 1840-1916)
オディロン・ルドンは多くの木炭画や石版画、デッサン等主に黒の作品を描いており、
その時期に文学イラストレーションとしても優れた作品を多く残している。それはフ
ローベール、ボードレール等の文学作品や新約聖書の『ヨハネ黙示録』( 図 9) から創
造した木炭画の一連の連作であり、それらを転写して制作された石版画集である。特に
フローベールの『聖アントワーヌの誘惑』についての石版画集 ( 図 8) は、10 年をかけ
て 3 冊もの石版画集を制作しており、
一冊ごとに彼の絵の進んだ道を見ることが出来る。
それまでの文学イラストレーションには銅版画、木口木版などの線描表現になるもの
が殆どだったが、彼は自らの表現手法として主にしてきた木炭画を、なるべくそのまま
転写して作品とするために、石版画の手法を選んだ。非常に自覚的な選択であった。
ルドンについて、黒と色彩という二つの仕事に区分け出来る点に、私は自分との共通
点を強く感じる。ルドンは長い間黒のみで表現し、色彩画をメインにしたのは 50 歳を
過ぎてからであった。彼の絵は当時氾濫していた「光主義」、すなわち印象派、写実の
みを主眼におき外光のみを追い求めた画家たちとは逆で、内実の光、心の中の図像を真
実とし、自分の想像力を外の世界と同じく豊かで美しいものであることを立地点にして
制作を続けた人だった。黒という色が全ての色彩を内包すること、黒を見る人がその中
を自らの想像力で自由に羽ばたくことが出来ることを知っている人だった。『ヨハネの
黙示録』
、
『聖アントワヌの誘惑』
、ボードレール『悪の華』等の仕事も、想像力を羽ば
たかせる一つのきっかけだった。彼はそれら文学をあくまで自分の解釈において図像的
に発想し、図像に徹することで画家としての立ち場を守った。これは絵と文学が互いに
対等であり、尊重しあうことで優れた「正しい」作品が生まれ得ることを示しているに
他ならない。光と闇をあつめ、心の底の幻惑を思わせる彼の石版画集の黒達は、後に彼
が色彩画に移った時、彼の確信を支えることになった。私の創作動機と照らし合わせて
も、優れた的確な文章表現を足がかりにしてその幻想を描き出す「トレーニング」のご
とき働きを為したのである。それは黒という根源的な色彩による描画で、己の創造力を
鍛える作業であったと思う。もし彼が最初黒を描いていなかったら、後の色彩のあの輝
きは有り得なかったと断言出来る。心の色彩を、内側の真実をそのままに捉えることは
至難の業である。それを可能にするのは、特に形態力をただひたすら鍛えること、想像
を創造にするために必要なのは形を、有形のものはその形に、無形のものは無形のまま
に捉え、紙の上に現実化する力である。自らの想像を色彩を持って有りの侭に輝かせる
のは、確かな形態力あってのことである。ルドンはそれを知っていた。彼は自身でこう
言っている。
「最も非現実的な私の創造物に生命を与えるというとりえを、私から取り
上げることはだれにも出来ないだろう。私の独創性はすべて、目に見えるものの論理を
可能なかぎり目に見えないものに役立たせることによって、ありそうもない存在たちを、
本当らしさの法則に従って、人間的に生きさせることにある。」そしてその形態力を確
かなものにするために、黒を描き続けたのである。
ルドンは 50 歳前後からパステルや油彩で色彩の作品を描き始めた。色彩の作品全般
を見渡すと、
「内面の光」とでも言うべき、同時代に多かった写実主義的色彩とはまる
で逆の想像の世界、心の光に満ちていて、花や風景も同じく光を放っている。彼の作品
に宗教・神話的題材が多いのは、彼が宗教自体に興味があったわけではなく、個人的な
信仰心や自分の中の光を最も重要に思っていたからではないだろうか。外側だけ見れば、
黒の世界から突然一転して色彩へ移行したかのように見えるかもしれないが、本質も求
めるものも全く同じ性質のもであり、少しも変わりはしていない。言葉と、絵の表層と
の、その向こうへ超えること。彼の文学イラストレーションはそのための崇高で真正直
な鍛錬であり、光と闇と生命との宇宙的な融合のための仕事であった。
オディロン・ルドン
図 8( 上 )『聖アントワーヌの誘惑 第二
集』1889
「死 : わが諷刺は他のいかなる諷刺にも
勝る」
図 9( 下 )『聖ヨハネ黙示録』1899
「われまた御座に坐し給う者の右の手に
巻物のあるを見たり . その裏表に文字
あり . 七つの印をもって封ぜられる」
1-3 挿絵としての文学イラストレーション
挿絵は日本ではとても盛んであり、文学と共に必ず絵が存在する形の書物が古代より
非常に多かった。しかし「挿絵」や「挿絵画家」というものがはっきりとした位置を獲
得したのは日本でも昭和に入ってからであり、西洋でも文学に対する「イラストレーショ
ン」
「イラストレーター」の概念がはっきりし始めたのは 19 世紀末頃であった。
1-3-1 絵巻物
絵巻は絵が主体で、多くはそこに説明の文章として詞書が添えられた形態の絵画作品
である。日本では 8 世紀から 9 世紀にかけて中国から各種の典籍や文学作品に絵を加
えた画巻 ( えまき ) が多く輸入され、それを和文に直した絵巻物が生まれた。また同じ
頃作り始められたかな書の物語にも早くから絵が加えられ、とくに女性に愛好されて、
濃彩で緻密な技法と象徴的な表現様式が形成された。12 世紀の『源氏物語絵巻』はそ
の代表的遺品。一方、寺院に伝承され説教などの題材とされた仏教伝説や民衆の間に語
り継がれた昔語りを絵画化し、自由な線描で動きのある画面を展開する『信貴山縁起絵
巻』のような形式も生まれ、
『伴大納言絵詞』( 図 10)、『地獄草紙』などの特色ある作
品も生まれる。13 世紀の物語や歌仙絵、合戦絵巻の盛んだった流れから 14 世紀には
とくに新興の諸宗派が布教手段として開祖の生涯と言行を絵巻化したり社寺の縁起や霊
験を盛んに絵巻化し、
『一遍聖絵』
『北野天神縁起絵巻』など多数の絵巻が残された。
1-3-2 江戸文化
江戸時代、非常に盛んであった浮世絵は、板目木版によるイラストレーションと呼べ
るであろう。
その中でも挿絵画家として多くの作品を残したのは葛飾北斎 ( 作品図 11) である。北
斎は他の浮世絵師たちとは違ってあまり役者絵や美人画は描いておらず、かわりに非常
に多くの版本類を生涯を通して止む無く描き続けていた。美人画に狂詩が添えられた美
人画絵本や『絵本隅田川 両岸一覧』などの風景画絵本などの狂歌絵本の絵、生涯で約
300 冊に達した読本挿絵、黄表紙、全 15 冊中に 3000 余図にも及び森羅万象、あり
とあらゆる事物が載せられ、 北斎スケッチ の名で親しまれている『北斎漫画』や、
『富
嶽三十六景』に続く作品で富士百態を描いた力作『富嶽百景』などの絵手本、他にも芝
居絵本、洒落本、噺本、滑稽本、艶本など幅広く、本としても非常に安価なものから超
豪華装丁本まであった。1980 年にはパリで開催された 北斎とその時代展 にて多く
の版本が出品され、その中でも原型を崩して 1 枚の絵のようにされた作品も相当量陳
列されていて、挿図の一枚のみでも十分に鑑賞に耐えることが証明されており、絵本自
体、挿絵芸術という見地から北斎は近世絵画史上、挿絵画家として画技は無論、その独
創性からも超一流としての評価がある。
1-3-3 明治∼昭和の新聞小説の挿絵
江戸時代の読本挿絵から引き継がれてきた挿絵の歴史は、明治時代には新聞で連載さ
れる小説につく挿絵において大きな盛り上がりを見せる。浮世絵師に端を発し、社会的
位置の低かったそれら職人がまかなった明治初年の挿絵の挿絵の伝流にも、明治 20 年
代に入って活版雑誌類が広まるにつれかつての低俗版下絵師の扱いを離れるようになっ
てゆき、明治の日本画を代表するようになる人々が挿絵家として登場してきた。そして
明治 30 年近くなると、洋画家の挿絵が新鮮感をもって迎えられるようになり、この後
明治末年に至るほど挿絵家として洋画家の活躍が目立つようになった。それほどに当代
の美術は文学と密接していたのである。
図 10( 上 ) 伝常盤光長
『伴大納言絵詞』
12 世紀後半
図 11( 中 ) 葛飾北斎
『絵本女今川』
19 世紀頃
図 12( 下 ) 石井鶴三
『宮本武蔵』1938
「物干竿は武蔵の鉢巻を二つに断った。
その瞬間、小次郎の頭蓋を櫂の木剣が
砕いていた」
挿絵画家の資質とテキスト解釈が原作の情調にぴったりと合っている場合は、挿絵の
視覚性が原作の雰囲気なり、人物なりのイメージを、より端的に読者の脳裏に焼き付
ける硬化を持つものであり、そうした例として、木村荘八の『墨東綺譚』( 永井荷風 )、
小出楢重の『蓼食う虫』( 谷崎潤一郎 )、中川一政の『人生劇場』( 尾崎士郎 )、小村雪
岱の『お伝地獄』( 邦枝完二 )、石井鶴三の『国定忠治』( 子母沢寛 )、『宮本武蔵』( 吉
川英治 )( 図 12) などが挙げられる。小説と挿絵の関連が単なる情景描写でなく、作中
人物の描写に留意して一つの素描画としてのリアリティーを持ったものとして描かれる
ようになったのは、まだそれほど古いことではなく、当時彫刻家であった石井鶴三が抜
群の素描力を駆使した挿絵は画期的な業績で、小説のアクセサリー的位置にあった挿絵
の存在を一気に押し上げることになった。
1-3-4 ビアズリー (Aubrey Beardsley, 1872-1898)
初めて自覚的、意識的に「挿絵」を西洋で職業として成すイラストレーターが表れ始
めた 19 世紀末、最も代表的な仕事を数多く残しているのがオーブリー・ビアズリーで
あると私は考える。
当時、ビアズリーが活躍する少し前、ウィリアム・モリスがアーツ・アンド・クラフ
ツ運動の真っ最中であり、ただの懐古趣味ではないにしろ、古典的な作業を為していた
のは事実である。さまざまな装飾美術のデザインを手掛け、また詩人、社会運動家とし
ても活躍したウィリアム・モリス (1834-1896) は、総合的な 書物の美 を求めて E・
ウォーカーと共に 1891 年にケルムスコット・プレスを創設し、装丁、活字、紙、挿
絵などを含む総合的なブックデザインに取り組んだ。エドワード・バーン = ジョーン
ズが挿絵を描き、W・モリスが縁飾りや装飾文字等の総合デザインを手掛けた『チョー
サー著作集』(1896 年 ) は、縁飾り、挿絵、活字が一体となった版面であり、読むた
めの書物をはるかに逸脱した装飾的美本であった。この本は世界の三大美書の一つとし
て知られている。
しかしビアズリーはその考え方には賛同できなかった。彼は、高価に買い上げられ置
物として掲げられているだけの絵画に不満を覚え、もっと大衆に広く所持され生活に直
接影響を与えるものとしての絵画への脱却を非常に意識的に試みたのである。その態度
こそが、私が彼を職業的なイラストレーターと考えるものである。
ビアズリーが初めて本格的なイラストレーションに取り組んだのが、マロリーの『アー
サー王の死』( 図 13,14) であった。二年以上もかけて丹念な手仕事による 500 点以上
もの挿絵や装飾を作成したこの仕事を通して、彼は辛抱強いクラフトマン・シップを培
い、装飾の造形的意味を汲み上げていった。彼は「グロテスク」の表現を自覚的に身上
としていた。モリスの為した疑似クラシック趣味に対するグロテスク指向でもあった。
この 19 世紀末美術を指してよく言われる退廃主義というよりは、グロテスクであるこ
とが時代の前衛であり、みずからを芸術的前衛の使徒たらしめんとする信条がビアズ
リーを支えていたのである。彼のイラストレーションのほとんどは、従来の美の規範を
打ち破るパロディそのものである。彼自身の持つ文学性は、文学にもっとも近い処にあ
りながら、文学的手段を使わないパロディであった。グロテスクの精神は、自由な意匠
として 見るパロディ の中に歌いこまれている。ビアズリーはさまざまな時代の意匠
や流行を同一画面に織り込んでしまう。彼は一つのパターンを守ったり、まして主義と
してとなえる意志はなく、自己の持つ文学的アイロニーの視覚化に専心したのである。
絵の方法と、近代詩の方法とが交差する危ない橋を渡る。幼い頃から書物を愛し、おそ
るべき多読家であった彼は、未完であった自作の小説や詩にも、執拗な推敲を続けた。
これが絵の仕事になると克明な感じのアイロニーになって視覚化される。
オーブリー・ビアズリー
図 13( 左上 )『アーサー王の死』
タイトルページ
図 14( 中 )『アーサー王の死』
子どものアーサーを預かるマーリン
図 15( 下 )『サロメ』
サロメと洗礼者聖ヨハネの首
「お前の口に接吻したよ、ヨカナーン」
彼は短命であったが、それゆえに非常に密度の濃い作品を強い意志を持って創り上げ
た。彼は権威を求める美術館や博物館のおかかえ画家ではなかった。彼自身はどんな画
家よりも画家としての誇りを持っていたが、実際に果たした役割は単なる画家の域を超
えており、あくまでもエディトリアルやタイポグラフィーの仲間のイラストレーターで
あった。そして近代デザイン史に重要な役割を果たしたアール・ヌーヴォーにおける、
もっとも典型的なイラストレーターであり、 美術 を一般生活者のものにしてくれる
イラストレーターの尖兵であった。
1-3-5 金子國義 (Kuniyoshi Kaneko, 1936-)
図はフランスの作家ジョルジュ・バタイユの作品『マダム・エドワルダ』の翻訳版の装丁・
挿絵として創作された油画である。自らの美意識や哲学が自らの言葉通りにそのまま表
現となるのは、ウイリアム・ブレイクと同じく金子國義にも顕著である。これは非常に
シャープで自らの表現目的を完璧に自覚している絵描きの特徴である。金子國義は自分
が理想とする人間の身体のラインへのこだわりが強く、誰もが一目見れば覚えるほど特
徴的な形をした人体を描くが、この理想像がもっとも分かりやすく現われるのが、「実
在」の生々しさや重さまで封じ込めたような油絵作品である。彼はジョルジュ・バタイ
ユの『眼球譚』
『マダム・エドワルダ』の翻訳版の挿絵用や、個人の制作で新旧約聖書
から題材を取って油絵を描く ( 図 16,17) ことがある。どれも彼の人間の身体への果て
しなく微妙なところまでこだわる意識が画面全体から溢れだすような緊張感があるが、
非常に洗練されているので、一種涼しさまで持ち合わせているものとなっている。彼の
文学イラストレーションとして特に印象的なのが『マダム・エドワルダ』のための挿絵
と装丁画である。金子は『エドワルダ』を暗記するまで読み、その内容が自分にしか描
けないんじゃないかという自信と錯覚を覚えるほどだったという。その絵はピタリとと
まったっきり、永遠に一寸足りとも動かない、完全に停止された姿を晒している。眼も
口も、膝も肩も指先も、タバコの火の明るさすらも、ほんの少しでも変化してしまった
ら神になってしまう瞬間、寸前のところを捕らえる表現である。空気を感じさせるため
の多少の「スキ」が、その空間と絵のマチエールを浮上させ、強さ、恐ろしさ、女性と
いう魅力を暗く強い赤みを帯びた画面で的確に表現されている。この強さは文章のある
種のえぐみと相まって、非常に強い緊張感と深みを訴えるこの表現に、油画という描画
手段は非常に的確かつ効果的である。
彼はもう一つの大きな制作モチーフに、リトグラフ等で描く「アリス」のシリ­ズもあ
り、他に写真集も出しているが、一貫していえるのは人にも小道具にも細部まで徹底的
にこだわることで画面をつくっている点である。彼は自分の理想の人体しか描かず、全
く誤魔化さずに完璧にそれを描ききる。その説得力は曖昧に絵を描いている人間からは
生まれ得ない強さで見る人に対して主張する、正に「美学」である。自分が確信を持っ
た形を的確に追い求め、表現していく姿勢は、挿画にもそのまま色濃く現れている。
1-4 文学イラストレーションの表現特性
以上の点を比較すると、昔には文字が読めない人達を宗派に獲得するために絵を用い
その徳の高さをアピールするなどの役割であったが、庶民層が文字を読めるようになっ
た後も文章の装飾目的で付けられた絵が文字で説明出来ない部分を絵で説明する意味
や、ただそのままでは文字の羅列に過ぎない中から一目でその作品をアピールするにふ
さわしいアイキャッチの役割として必要とされ、更にその表現がより深みや的確さを求
めて発展していった様子が伺える。
金子國義
図 16( 上 )『マダムエドワルダ』
「娼婦エドワルダが神に変わる一瞬」
図 17( 下 )『鳥ハ鳴ケリ夜明ケハ来タラ
シ』
( 新約聖書より )
忘れてはならないのは、1、2、3 の間に明確にその制作態度の区分があるということ
である。1 まではある程度無自覚的に行われており、いわば美術とイラストレーション
が未分化の状態にあった。2 では文学と絵画の関係について、それぞれの専門分野にお
いて重なったビジョンの相乗効果の関係であるし、一方 3 の区分は実際に文学作品を
本にするための装飾を第一の目的として描かれた、それがなければ存在し得ないと同時
に、それ単体からも作品世界を感じられるイラストレーションである。しかし元々は
この二つの態度には区別がなく、一体化しており無自覚的にそれが行われていたという
ことである。現在では情報量の多さはますます加速しており、文学イラストレーション
もその中で情報を区分するための感覚的な目印としての役割をしている。文学イラスト
レーションとは、文学のための肉体性であると言える。それは、文字という記号で表現
された媒体に対し、まず一目見ただけでその内容のイメージを伝える直接性の役割、そ
れから想像力を膨らませて読む人の想像の世界を更に補佐するような豊かなイメージ力
をもった絵によるもう一つの言語の役割を指す。
また、文学イラストレーションを見る際の最大の特徴は「往復運動」である。他ジャ
ンルのイラストレーションにおいても多少主題との往復運動はあるのだが、文学イラス
トレーションの場合、明確にその場面のテキストやタイトル等があるため、文章の世界
観とイラストレーションの世界観との間を観る人が何度も往復しながらじっくり読み込
んでいく見方をする。この往復運動が観る人にその世界への理解を非常に深め、満足感
を強く与える働きをすることが多い。
そして文学イラストレーションを描くために制作者に必要なのは、絵画分野挿絵分野
いずれにせよ、その文学作品に対する直感的な理解力、また総合的に文学作品の世界観
を捉える感性、そして描き手自身の思想や主観が入り込むことである。このいずれが無
くとも偏り、充分に効果を発揮しないイラストレーションになってしまう。自らの世界
観を生かせる作品を選ぶことは、かなり重要なファクターである。
文学とイラストレーション、それぞれが各自の仕事をする中で生まれたものである点
を私は重視する。それぞれ単独で世界を固持しようとしていれば有り得るはずのない、
言葉で綴られた作品に絵で描かれた作品が付与する又は絵画が生まれ作品集化するとい
う関係はどう生まれどう今に生きているか、以下に考察していきたい。
2. 文学イラストレーションとは何か
文学作品に絵画作品が補佐的に並べられたり、絵画作品にオマージュ的に添えられた
詩句のような形態を取る文学イラストレーションであるが、では主にこの二つの立ち場
はどう違ってくるのか。
2-1 イラストレーションについて
まず、イラストレーションとは何かという定義については、イラストレーションとい
う語源においては「明るみに出す、光り輝かせる」という意味がある。この語源は挿絵
のルーツに深く関わっている語義であり、言葉が発達するのと常に同時に伝達機能を果
たしてきた「絵」という存在自体の説明に近い。不明瞭なこと、言葉だけでは伝えきれ
ない部分を絵が担当していたのである。
日本においては始めイラストレーションは「挿絵」を指すと思われていた一般認識が、
1960 年頃を境にビジュアルコミュニケーションとしてのイラストレーションが描かれ
出した頃から逆転しイラストレーションという分野の中の挿絵分野、とみなされるよう
になった。現代においてのイラストレーションの立場については、秋山孝の「イラスト
レーションとはメディアを通して複製し、社会と関わり、視覚表現で記録し、意味をも
たせ、思想を伝達する、芸術の一形式である。」という定義に集約されているといって
よいであろう。文字も視覚言語であるし、絵もまた視覚言語なのである。これらは単独
で存在するよりは共存したほうがより効果が増し、メッセージを伝える能力が高くなる。
これは現代、一般的に、絵画は難解でイラストレーションは明解であると思われている
ゆえんであろう。何故ならイラストレーションは、多くが単語や文章を伴って表現され
る絵画表現だからである。
2-2 文学イラストレーションの既存の定義
ここで、
「文学イラストレーション」に的を絞って考えてみたい。
この章では前章の区分のうち、2 と 3 にあたる二種類の文学イラストレーションを、
1. 文学作品の主題等に着想して制作された絵画 - 絵画分野における文学イラストレー
ション
2. 文学作品に「挿絵」として制作され、文章と共に掲載されたイラストレーション 挿絵分野における文学イラストレーション
という二つの枠として考えていきたい。
1 の文学イラストレーションは、主に 19 世紀ヨーロッパで盛んであったもので、文
学の題材にインスピレーションを得た画家の「創造的な」仕事であって「挿絵」という
働きとは異なる。発表形態も文学作品とは全く別のものとして、独立した版画集の刊行
などが多い。
後者はいわゆる「挿絵」であり、本文中に「カット」として挿入されていたり、新聞
小説などでは本文の真ん中などに配置され、アイキャッチの役割を果たしている。よっ
て文学作品自体と常に一つの書物や誌面に印刷され、共存して働きを為すものである。
両者には作品や作り手側にどのような差異があるのか、またどういった点が共通して
いるのだろうか。
2-2-1 絵画分野における文学イラストレーション - 文学と絵画の関係について
古代以来西洋の美術史は、絵画と文学の本質的差異が注目されるに至るまで、テーマ
やモティーフが説話を典拠とする必要がなくなるまで、両者の不即不離の間柄の上に成
り立っていた。全ての美術は工芸として始まり、それがルネッサンスを境に個人化して
いったもので、元々は文盲者に対する宗教教育の一環として用意された建築物の一部と
して全ては工芸的に存在していたことに依り、美術は宗教、そして古代神話などを視覚
的に理解させるために題材も全てそこから取られていた。なかでも絵画作品は彫刻に比
べて、表現がより自在で容易なために、はるかに文学性をもち得る。諸芸術分野のなか
で、とくに文学と対比される理由もそこにある。
さて、絵画分野において「文学的な作品」であると評価される場合、その意味合いに
は肯定的なものと批判的なものの二種類があることを述べておかなくてはならない。特
に絵画分野においては、
文学的であるという形容は批判的な意味で使われることもある。
たとえば、頭でっかちで、真に図像的な意味で描かれたものでなく、言葉の絵解きのよ
うであったり俗悪すぎたりといった意味で使われることがある。従ってこの形容をされ
る時、画家は線引きをすべきである。
「文学的」と評される画家たちは数多く存在する
が、それを諸手を上げて喜ぶ画家は恐らくいないのではないだろうか。絵画がいくら豊
かに文学性をたたえていようと、それは画家にとってあくまでも二次的なものに過ぎな
いからである。例えば 19 世紀末∼ 20 世紀に詩編を引用した言葉や全体の構想に着想
して作品集を制作したオディロン・ルドンは、次のように書いている。「視覚的な体験
が不足すると、文学的なイデーが優先する」
「暗示的な芸術は、ただ影と、心の中で思
いつかれた線のリズムとの、神秘的な戯れによるのでなければ、何ものをも生み出さな
い。
」ロマン派の時代には文学 ( ユーゴやヴィニイ等 ) と美術 ( ドラクロワ等 ) はほぼ雁
行して進んだし、
次のリアリズムの時代でも文学 ( フローベール等 ) と美術 ( クールベ等 )
は平行していた。ルドンが制作を主にしていた当時、文学界は象徴主義の時代であった。
ギュスターヴ・モローの場合と同様に象徴主義は、ロマン派以来の詩人が、なかでもボー
ドレールが白日のもとにさらけだした主題を追い求めていたからに他ならない。また象
徴主義が画家に及ぼした感化力は、両者が意識しないほどに大きかった。ユイスマンス
やマラルメといった詩人とモローやルドンなどの共同制作は、象徴派がかつてのロマン
派とひとしく、詩作の方法とはかかって絵画と音楽との融合にあるとする新芸術の方向
にむかって進んでいたのだった。しかしそこにはらまれていた、二つの異なる表現手段
の融合がそれぞれの本質を犯しそれぞれの特殊な性格を奪い去る危険を、ルドンはよく
知っていた。したがってルドンはこの危険に対して己の立場を守った。ルドンはブレイ
ク同様みずから詩心を持つ人であり文学者だったから、絵に劣らずすぐれた詩をものに
することができたし、その上神秘に閉ざされた影を夜が包囲する人物のまわりに漂わせ
る事もけっして不可能ではなかった。
歴史的に言えば、
こういう経緯があった。16 世紀半ばにルドヴィコ・ドルチェは、ホメー
ロスを「古代の記憶の最初の画家」と呼んだペトラルカを引用し、その意味するところ
の個所で次のように説明している。
「画家は、線と色彩を用いて ... 眼に映ずるものすべ
てを模倣しようとする」また「詩人は言葉を手段として眼に映ずるものを模倣するばか
りでなく、
知性に映ずるものをも模倣する。
この最後の点に関しては詩人と画家は異なっ
ているが、
他の多くの点では、
ほとんど兄弟と言えるほどよく似ている。」つまりドルチェ
は、言葉を手段とする詩人と線と色を手段とする画家の共通点は、両者とも眼が外的な
自然において知覚するものを模倣するという点にあると考えた。外界の自然を客観的に
いきいきと模倣する画家の行為を詩に結びつけるこうした考え方が、いかに描写詩を良
しとする悪風潮を助長させることになったかは、想像に難くない。このように、16 世
紀半ばから 18 世紀中頃にかけて書かれた美術や文学の理論書では、必ずといっていい
ほど絵画と詩との密せつな関係が論じられている。一般に姉妹芸術と呼ばれたこの二つ
の芸術は、表現の手段や方法は異なる画、基本的特質や内容や目的はほとんど同じであ
ると考えられていた。ブルータルコスがシモーニデースの一言として伝えている「絵は
黙せる詩、
詩は語る絵」という言葉は、
ホラーティウスの有名な比喩「絵は詩のごとく (ut
pictura poesis)」と共に人々に心酔され、頻繁に引用された。この無益な論議は批評
と実践の双方において、姉妹芸術間の由々しき混乱を生じさせたが、ようやく 18 世紀
半ばにレッシングの試みにより、詩と絵画の再定義が行われ、それぞれに固有の境界が
付与されるに至った。
もはや現代において、文学と絵画の相似性を頑に主張する理由はどこにも無い。17 世
紀にラ・フォンテーヌが記したように、言葉と色彩は同類ではなく、目と耳は同じでは
ない、それは当たり前のことだからである。両者が別物であり、別物だからこそ両者が
合わさったときの効果を喜ぶことが出来るのである。従って、文学と絵画を結び付けよ
うとしてさまざまな特質を挙げ、
「絵は黙せる詩、詩は語る絵」という古代の言葉を格
別あげつらう必要はもはや存在していないのである。
しかしここで、
敢えて「文学的な絵画」と言われる意味合いをごく簡単に捉えてみよう。
何ら勘繰らずに感覚的に捉えた場合、
「文学的」と形容される絵画は得てして謎めいて
いて、神秘的であり、深遠なる物事の真理やそれをとりまくものたちをそのまま画面に
閉じ込めたような、またもっと簡単に言えば「暗い」絵などはそのように形容されるこ
とが多い。それが文学を題材にして制作されていればなおさらそのように言われるわけ
であるが、恐らく、制作者側が感じるほどには決して悪い意味では使われていない。上
に挙げたように、哲学的な雰囲気を帯びた、頭のよさと叙情性を感じさせる絵画、とい
うような意味で多く使われており、そんなに批判的に神経質にならずともよい捉え方の
ほうがどちらかといえば多いのだろう。文学という言葉に連想される思想の多さや哲学
性が、絵画にないと言うつもりは私も毛頭ない。現代においてその相似性をして双方を
讃えるとき、その言葉は過去の美術評論家達が失敗したようなやり方ではなく、もっと
簡潔で本質的に、流すように表されている。例えばヘルマン・ヘッセが言葉について書
いた『幸福論』という随筆の中で、
「私たちにとって、ことばは、画家にとってパレッ
トの上の絵の具が意味するところのものと同じである。ことばは無数にある。( 中略 )
私は七十年間に、新しいことばが発生したのを体験しなかった。絵の具も、その濃淡と
混合は数えきれないとしても、任意にたくさんあるわけではない。」と触れている。ま
た、坂崎乙郎はマルセル・ブリヨン著の『幻想芸術 (ART FANTASTIQUE)』の翻訳し
た後書きにおいて、こう述べている。
「... 文学的だ、とあるいは非難されるかもしれない。
けれども、私は今日でも文学と造形芸術とをそれほど明快に区別する術を知らず、あえ
ていえば芸術に思想がなく人生が無いなどとは夢にも信じていない」。
文学と芸術に限らず、様々に特性を持つ優れた芸術同士が、その想像力や、表現を探
る道においての本質的な共通点を持っており、その本質的共通点において互いに交じり
合うことが出来る幸福を、文学イラストレーションは如実に表している一つであると言
えるだろう。
そして、
ビアズリーが 1894 年、
『ニュー・レビュー』に発表した文章に、こう述べている。
「絵というものは一般には、室内の壁や、または素朴な大衆を困惑させようと画廊に掛
けて置くために油で語られた、あるいは水で書かれた何かだと考えられている。誰もそ
れが有益な目的に貢献したり、日常生活の一部となるなどと期待していない。現代の画
家は単に絵に立派な名前を付けて、
それを掛けて置くだけである。( 高儀進訳 )」ここに、
それまでの閉鎖的な絵画の在り方からメディア時代へ向けて意識的に絵画を捉えた人々
の代表のような意志が読み取れる。広告や印刷物によって世の中を明るくする時代の到
来が、
それまでの絵画の在り方を変え、
デザイナー達や専門職としてのイラストレーター
の登場を爆発的に促進させたのである。
2-2-2 挿絵分野における文学イラストレーション
挿絵とは何か、挿絵はどうあるべきかという議論については、印刷が始まって以来繰
り返しされ、多種多様な意見があるが、大まかには否定派と肯定派に分けることができ
る。特に文学という文字のみによる芸術性を重視するか、書物芸術の視点から見るかで
分かれているようだ。
挿絵否定派の主な理由は、挿絵師という職業自体が低く見られてきた歴史的背景 ( 日
本では江戸時代、庶民のよみものであった読本に挿絵が大々的に使われていたことに
端を発する身分階級的差別、西洋では教科書や絵本の本文の補助手段としての今日教育
的効果・価値のみがクローズアップされ、絵のついた本は子供向けのものとする通念が
一般化したことである ) や、挿絵というものが読み手に対して自律性を欠かせる低俗な
ジャンルで、文学テキスト本来の純粋な喚起力を歪め、読者独自の想像力の発現に歯止
めをかけ、創造的な読みを抑制する、という根強い意識が定着したことなどが挙げられ
る。文学作品の作者側からの挿絵否定主義にはこの視点からの否定意見が多く、マラル
メは、文学作品にはいかなる挿絵もないほうがよい、と終始主張してきた作家の一人で
ある。
小説における挿絵のもたらす効果については、文章を想像力によってビジュアライズ
する力と、そのイラストレーションによって大衆の心が惹き付けられ、結果多くの人々
に愛読される作品になったりすることである。特に日本の明治・大正頃に全盛を迎えて
いた小説挿絵にはそういった効果が多かった。邦枝完二の代表作となった「お伝地獄」(図
18) は、小村雪岱の凄艶なお伝の妖姿を主題にした挿絵と共に人気を博し、連載開始後
一ヶ月で掲載していた読売新聞の発行部数が二万余も増えたといわれた。また、その
作品が映画化される際にはあまりに挿絵と違うビジュアルだと見る側が違和感を感じた
り、また宮田重雄が挿絵を手掛けた『自由学校』( 獅子文六 ) の映画化の際に大映が公
募した主人公役が挿絵にビジュアライズされた主人公にそっくりの風貌をしていた 23
というように、
原作につけられた挿絵のイメージ形成力というのは大きいものであった。
昭和 4 年に直木三十五『本朝野士縁起』の挿絵でデビューし、以来時代小説の挿絵を
一筋に描き続けてきた中一弥 ( 作品図 19) は、自伝の中で挿絵についてこう語っている。
「作家は、想像力と夢をもって小説を書く。挿絵画家も、同じように、自分の夢を力に
して挿絵を描く。僕は、挿絵を描くときは、なるべく作家の夢に近付く努力をしていま
すが、接近させることはできても、なかなか一つに重なるような作品を描くのは難しい。
そこに、洋画や日本画とは違う、挿絵の難しさがあります。( 中略 ) 作家の旺盛な想像
力が僕の画風を変え、虚空へ向けて挿絵行脚に向う日まで付き合ってくれるとありがた
いのです。
」彼の経験から導き出された挿絵画家と小説家の関係は非常に柔軟でかつ前
向きなものであり、否定派のするような固定し狭めるような働きは何ら感じられない。
これが正当かつ健康的な文学と挿絵の関係であろう。また西洋においては、ルイス・キャ
ロル著の
『不思議の国のアリス』
(1865 年 ) の挿絵を当時パンチ誌での人気イラストレー
ターだったジョン・テニエルが挿絵を描いているが、キャロルとテニエルの関係は一方
的・高圧的なものではなかったらしい。作者が画家に挿絵の内容をスケッチによって示
し、画家も作者に文章修正の意見を述べるような、親密な協力関係にあり、画家は作者
に対して正当な権利を行使したようである。
また、挿絵と小説の合う合わないについて中一弥は、作家が自分に無いものを挿絵に
求めることもあるし、自分の世界とピッタリ重なるから使いたい場合もあるようだ、と
語り、小説家と挿絵画家のそれぞれのタイプ、現実追求型と偶像派との違いでの組み合
わせを重点に解釈しているようである。谷崎潤一郎や夏目漱石のように挿絵を非常に重
要視し、好きな作家に頼んでは自分でも挿絵を心待ちにしているような作家は、言葉と
挿絵は組み合わせ次第で絶妙な効果を生むことをよく知っているのである。反対にその
あたりをよく意識していない作家は、中一弥に『油屋おこん』の挿絵を依頼した有吉佐
和子のように、
「主人公の顔を描かないでください」と注文してしまうのだろう。作家
からすると、挿絵で登場人物のイメージが固定されてしまうのが嫌だ、と考える。しか
し「挿絵というのは、そういうものじゃないんです、読者のイメージを助けるものだと、
僕は考えています。
」という中一弥の言葉のとおり、意識の食い違いはなくならない。
人は感情移入する生き物である。特に小説などを読む時は、その人間模様の中に自分
の気持ちや人生を重ねて読むのが常であり、文字だけだとよほど自分の想像するビジュ
アルで頭がいっぱいになるような人でない限り、挿絵はすんなりとその世界へと誘って
くれ、絵を見ながら読むことで小説の世界をリアルに感じたり夢の世界を広げたりしな
がらますます深く楽しめることは、多くの人が感じていることではないだろうか。
又、印刷上の問題から関わる表現の問題として、挿絵は黒であるべきか、色彩を使う
図 18( 上 ) 小村雪岱『お伝地獄』( 邦
枝完二 )
図 19( 下 ) 中一弥『自由奇人』( 藤本
義一 )
べきかという議論がある。
印刷の特性上、
白黒で刷るしかなかった時代を経てフルカラー
で印刷できるようになった近・現代に生まれた問題である。19 世紀にイギリスで石版
が使われるようになり、しばらくして多色石版が開発されて無闇に色彩を使い美術的に
はつまらないものが多量に売り出され、ついにはすたれてしまったという経緯がある。
白黒がよいとする説には、書物上の力関係を考慮した「文字は白黒のみで刷られている
のだから、
絵も白黒でないとおかしい ( 絵だけ独立し活字と調和しない )」という意見や、
表現上ではウィリアム・ブレイクの「美術品においては、必要なものはみごとな色調で
はなく、みごとな形態である。みごとな形態のないみごとな色調はいとわしい。みごと
な形態のないみごとな色調はつねに愚者の逃げ口上となる。」という意見がある。ウィ
リアム・ブレイクがフルカラーで印刷をする場合は詩句のような比較的短い文章とイラ
ストレーションとを一つの画面に融合させた形であり違和感はない ( 図 21) のだが、一
般的に小説のような長い文学作品であれば、挿絵において文章と絵とが互いに調和する
には、絵に枠をつけたりフルカラーで別刷にしてしまったりすると明らかに本文を一時
的に断裂させてしまい、非常に調和しにくい。印刷というメディアである以上、印刷す
る紙の色は白で文字は黒のインクで刷られることが多いのだから、絵もそれにのっとり
調和するにはワクや無駄な色彩をつけず違和感を少なくする方法が適していると考えら
れる ( 図 20)。
図 20( 上 ) ジョン・テニエル
3.『シッダールタ』の制作について
『不思議の国のアリス』
図 21( 下 ) ウィリアム・ブレイク
『ユーリゼンの書』
3-1 制作意図
『シッダールタ』(Siddhartha) はドイツの詩人・作家、ヘルマン・ヘッセの小説で、
1922 年に刊行された。
シッダールタを読んで私が自分と同じ意志を感じたのは、現代の宗教意識に対するメッ
セージともいうべきものであった。主人公であるシッダールタは、その名前は仏陀の若
い頃の時代を借りており、この小説の中では仏陀とは別の人物である。彼の探求の道、
また辿り着く最後の悟りは、日本人に生まれた私が一通りのキリスト教教育を受けて心
に抱いたキリスト像に、奇妙なことに最も近かった。キリストは「神の子」という神で
あり、人間性と神性をかねている。私の勝手な考えでは、地球の産物である以上は人も
動物も石ころも皆神の子であり、全ての物体は神への道を既に持っている。真っ直ぐな
心で歩めば、必ず争いも憎しみもなくなる、という確信を、何かの宗教や書物によって
ではなく、昔から心に抱いていた。その考えにこの本はダイレクトに関係し、表してい
たのである。
私がこの小説を原作に選んだ最大の理由は、聖書を作る、という目的である。私はキ
リスト教教育を受けていて、キリスト教のことは世界観としてとても好きではあるが、
私自身がキリスト教信者であるとは思っていない。世界は一つではなく、人種差別も宗
教戦争も相変わらず多発している。イラク戦争にしても、私には形を変えた宗教戦争の
ように見える。しかし、宗教とはそういうものなのだろうか。私は絶対に違うと思う。
互いを認め合い、愛し合わなければならない。一体どんな神が殺し合いを勧め殺した人
間を誉めるというのだろうか。
『シッダールタ』はドイツ人が描いたインドの物語、キ
リスト教であった人間が描いた仏教の物語であり、そして何教であるかなどヘッセは全
く問題にせず、その人間の内実を描いたのだ。私はそれにとても感激した。わたしが思
い描いていた世界がこんなにも明らかに表されたことはなかった。そして、絵が自然に
文面から、次々と浮かび上がってきた。この話で、聖書を作ろうと、私は決めたのであ
る。何教でもない宗教の、全体は一つであり一つは全体であることを示す一つの流れに
対する宗教美術を作ると。
この作品にあたって、私は画面上において、色とベクトルと内実と外界の完全統合を
目論んだ。それまで続けてきた黒での描画は、内実とベクトルに特化された表現で、外
界はそんなに関わらない問題であったし、色彩も省略することでより強調された。しか
し色彩を用い、これまでわざと描かずに来た自然物などの外界全てを自分の感覚の視野
に入れることは、すべての統合であった。絵で自分の考えを、人に話すこと。それをこ
の小説は可能にさせた。この小説にあったのは、感覚と思想、身体と意識、外界と内実、
ベクトルと色彩の完璧な構築化、それも頭脳に頼ったものでなく、本当に内実を知る人
がそれに忠実に現した世界だった。わたしはこれを借りることにした。この優れた文学
作品は、絵を描くことで自分の形態力を伸ばす手助けをしてくれるだろう、と直観した
のである。
私が日頃抱いている神についての概念には二種類ある。一つは自分の力や人間の力で
はどうにもならない部分、目に見えぬ何がしかの大きな力、"higher power" 的存在の
こと、もう一つは、今ここにある全てのものが神であり、全ての存在が神性を持つとい
う認識である。こうして見ると典型的な「八百万の神」的認識である。一般的に見ても、
日本人の宗教意識にはキリスト教のような唯一絶対の「神」は存在しないので、英語で
表すと God ではなく god,goddess,kami,higher power というふうに、大いなるもの、
人類を超えた何がしかの存在、といったニュアンスで表現される。昔からの「八百万の
神」という認識のごとく、日本人の宗教観は、他の国や宗教の神をはねつけたり否定し
たりせず、全て受け入れるような、もっと言えば道端の石ころも木も空も海も山も全て
に神が宿っているといった、一神教でも多神教でもない、非常に寛容で柔軟なものであ
る。この概念は一神教の元に形成されてきた他の多くの国々にはかなり理解しがたい感
覚ではないかと思うのだが、幼少の頃から祖父の影響で東洋的思想に親しんできたとい
うヘッセは、むしろ一神教的思想のほうが馴染めなかったようだ。当然それはヘッセの
暮らした土地では多くの周りの人々の宗教意識から浮いていたと思われるが、芸術に携
わる人間に多いある意識と相まって、そうした意識を形成していったようである。ヘル
マン・ヘッセの宗教観は、一神教の国に溶け込めなかった一人の人間の辿り着いた「全
ての答えは自分の中にある」という観念である。その目的が、私が作品を通して伝えた
い目的と完全に一致した。
また、私が色彩を使うきっかけの一つになった画家オディロン・ルドンの持つ宗教観
もまた、神性を持つ全てのものを光とみなす観念である。彼の描く対象はギリシア神話
やキリスト教聖書の題材といった西欧的「神」に片寄ることはなく、仏陀やその他彼の
想像の神 ( 妖精や、日本で言うと妖怪的なものなど ) に至るまで区別なく、宗教的テー
マについて描いていた ( 図 22,23)。彼もまた、身近なものから多くの神的存在にまで
区別無く神性を感じ取り表現していたのだと感じられる。そして現実界が全てとは思わ
ず、自分の心が見ている色彩を表現していたルドンは、ヘッセと同じく「全ての答えは
自分の中にある」と考えていたのではないだろうか。
これがきっかけとなり、
『シッダールタ』制作にパステルの色彩を使うことと一致した。
シッダールタを読んで沸き上がった画像は、全て隅から隅まで色彩を伴い、光を放って
いたので、それを表現しようということしか頭になかった。それは「内側の光」が主体
のものだった。何故、内側か。もちろん外側にだって光はある。しかし、人間は自分の
心で世界を見ているのだから、自分の心に、内側の世界に光を感じられなければ、何物
にも光を感じることは出来ないはずである。
オディロン・ルドン
図 22( 上 )『聖アントワーヌの誘惑』第
三集
「叡智は私のものだ。私は仏陀になった」
図 23( 下 )
"The Druidess"( ドルイド僧 )
『シッダールタ』は一番最初に発行されたとき、
「インドの詩」という副題がついていた。
私は、この観念に共通するテーマはそこから少し視点をずらした、「異教徒の詩」であ
る、と考えた。個人の信じるもの、信じる気持ち = 信仰心は、個人個人違うものであり、
既存の宗教に自分の全てが当てはまると考えること自体が全然問題が違う、と思うので
ある。自分には自分の答えしか待っていない。外の世界には本当に自分が求める答えは
存在しない。自分の根本は白、黒と割り切れるものではなく、自分の中に、自分の地面
にあるということである。
3-2 パステル、襖
「黒とは何か」という議論がある。例えば前傾の、挿絵とは何かという議論にもたびた
び登場してきたテーマである。挿絵として入れるのに色が必要か黒がいいのか、という
視点もあるし、表現としての是非を問う視点もある。
私がこのシッダールタという作品を描くにあたり、白黒ではなく色彩を使ったのは、
「光」を表すためには、色彩でしかあり得なかったからである。制作二年目の前半は黒
で描くのも試みたものの、うまくいかなかった。原因は、作品に対して私が光や色彩を
強く感じているということと、黒という表現は自分の書いた言葉ではないものに対して
使うことの出来ない、いわば「個人的な色」であるというということが、実際何枚か描
いてみて理解出来たからである。
画材として選んだのはソフトパステルである。私は 20 歳の頃から三年間、ずっと木
炭や黒のコンテ、パステル等、
「黒い粉」だけで絵を描いていた ( 図 24-27)。下地にも
當麻ゆき子
特に色を付けることもなかったので、画面はほぼ完全なモノクロームであった。その黒
図 25( 下 )『torso/ 共』2002
を見てネガティブなイメージを抱く人も多かったようだが、私が黒に感じていたのは、
絵の具でなく粉質の画材を使うことで光を意識していたということである。白と黒の画
面自体、光と影、私がベクトルと呼んでいた画面の中の動きや力関係から成り立つ構図
から細かな描写に至るまでの全ての力関係のみを表すための表現手法であった。パステ
ルで描いた画面には温度がある。画面に乗せると「粉」となるパステルは、アクリル絵
具や油絵具のように光を反射せず、吸い込む性質を持つからである。粉というのはもと
もと乾いている。普通は、乾いている = ドライな画面、となるが、絵の場合はそれは
当てはまらず、それぞれの画材は手法でガラリと印象を変えるが、パステルや木炭で描
いた画面には、非常に温度がある。シャープで冷たい表現には向かないが、わたしはも
ともと人体や自然が好きでそういうものばかり描いているので、この温かさが合った。
さらに色のパステルには、光を見い出した。色というのは光にものの表面が反射してい
るその色なわけで、色を完全に吸い込んでしまうのが黒、全てを反射するのが白だとす
ると、色はその中間の中での色なのである。それで振り返ってみると、黒にも非常に温
度があり、あたたかかったのである。粉は光を反射せず吸いこむので、展示しても光が
反射して画面が見づらいという事態も起こらないし、視点を自然に吸いこんで受けとめ
る感じがしてその世界に入りやすくなるように感じる。吸い込んだ光のぶんだけ温度を
獲得して温かくなるような感覚である。これは他の作家が描いたパステル画を見ても常
に感じる事である。
筆でなく手で直接描けるというのも私が粉を使う理由である。筆を通すことで画面に
対して間接的になってしまうのが嫌で、自分の手で直接触って描きたいので、パステル
類を使い続けている。パステルは一つ一つ、粉の一粒一粒が、私には光に感じられ、光
で絵を描いているという感覚が常に存在しながら描いている。今は色彩を使うことで、
パステル自体を「光の固まり」とみなしているが、黒の時代は逆に「闇の粒」で描いて
図 24( 上 )『偽肢 /go』,2000
いたわけである。なので、闇と対比する光を描こうと思ったとき、同じ粉質であるソフ
トパステルを使うのは必然の流れであった。表面上は白黒から色彩画へと変貌しても、
元の意識は何も変わっていない。
また、襖に描いた理由は、二年前までの黒での制作時期、自分の感覚に最も合った大
きさと感じて辿り着いた大きさがもともと襖であったので、最初の 1 年こそ小さい画
面を選んだものの、やはり感覚的に窮屈に感じて、襖に戻ることにした。大きさや感覚
の合致により、画面としてはより高度で総合的な画面作りを目指した。シッダールタに
対して自分が思うこと、出来ることが、本来その大きさであったのだと思う。元々、二
年前から、襖に色で描いたらどうなるだろうか、いつかそうなろうと思っていたので、
自分のこれから先の制作に対してもいいきっかけとなれたと思う。何より、シッダール
タで描きたかった内容の重さに、襖になってからようやく、自分が思い描いたものと最
も近いものが描けたと感じられた。一度は昨年度分だけでシッダールタの制作を終わら
せようと考えていたが、二年間続けることでこの「大きさ」に到達できたので、続けて
良かったと思う。
何より私は、絵に生命を与えたかった。生命を持たなければ何の意味もない。生きて
いることを喜ぶ心を、見た人に抱いてもらいたい。ソフトパステルの発色は、他の絵具
と違って顔料を定着させる展色材がないので顔料の色がそのままに出る発色である。そ
して襖もまた、身体感覚に非常に近い大きさと物体感を持ち、生命を与えることに加担
してくれる。その直接性は私の抱く願いに非常に近く、私はそれを最も必要としてきた。
その集大成が、今回の作品となる。
3-3 本という媒体
當麻ゆき子
私の今回の制作は、
「文章から想像を膨らませて、絵を描く」という点では挿絵以外の
図 26( 上 )『空 /a man with a hole in
何者でもないのだが、表面上は文章にそこまで忠実でもないので、絵として独立させ、
図 27( 下 )『和 /green divinity』2002
本文の抜粋をキャプション的に加えて一冊の本を作ることにした。本というのはプライ
ベートな空間で小さなページに意識が潜り込むようにして見る、パーソナルなメディア
である。また、絵と本に共通する特質は、一つの中に全てがあるということである。書
物一冊一冊が一つの宇宙であるように、絵もまた一枚の絵の中に一つの宇宙がある。絵
のある本の楽しみは、テクストと絵とを往復することで自分の想像力を膨らませること
である。文章を読んで絵を見て、文章を見て絵を読む ( 図 28)。シッダールタの文章は
非常に絵的で、文章から言葉ではなく光景が立ちのぼってくるような、一つの絵の連続
であるように感じた。それを見て描いた私のイラストレーションから、無数の言葉 ( の
ようなもの ) が立ちのぼってくると、文学イラストレーションとして成立するのではな
いかと考える。そのためには、原画サイズが大きいことは、必要不可欠であるようにも
思える。小さい画面に詰め込める情報量は限られているが、大きい画面に描く場合、例
え構図は同じであっても、細部のほんの小さなタッチにまで自分の伝えたいことは込め
られる。
そのことが結果的に
「文学的」
と言っても良いような情報量の多さ、一つのストー
リーを感じる絵になることは自然な流れであるように思う。実際、2003 年度の B3 サ
イズでの作品の時よりも、2004 年度の襖の作品のほうで、この目的が達成されたと感
じる。
文章量と絵の兼ね合いについては、浮かんだ絵が色彩画であった都合上、完全な挿絵
にはならないと思ったので、イラストレーションを主としたピクチャー・ブック、絵の
本にすることに決めた。テキストをどの程度引用するかを何通りか検討したが、段落を
まるごと引用すると絵とのバランスが取れず、それぞれの表現の持ち味が生きないため、
his body』2002
引用する文章を必要最小限に絞ることにした。それによって比重が傾かず、絵から読み
取り、文章から見るという「スキマ」が出来て、見易くなったのではないかと思う。ま
た、本の見開きを文と絵にすることで、文学イラストレーションとしての効果を得られ
ると同時に、絵一枚ずつの世界に履いていきやすくなることで、絵同士の世界観をつぶ
し合わなくなった。これは自分にとっても大きな収穫であった。そして 3-1 で書いた
ように、自分自身の思想を代弁するような「聖書絵本」のような作りを目指した。シッ
ダールタの小説の中で自分が特に共鳴した部分について絵を描いている以上、文章にも
自分にとってとても重要な意味を持つ。そこを多過ぎない量で抜き出して、絵と文の両
方で訴えかけるように製作した。英文と日本語の文を両方載せたのは、ある程度多くの
人々に人種の境なく伝えることが出来るよう、最大公約数としての英文であり、自分が
日本語を解する人間であることの表現理解としての日本語の文である。私にとって、英
語と日本語の両方で示すことは今までも重要な役割であった。今までの一枚ずつの作品
タイトルも、必ずこの二つのタイトルをつけるようにしてきたのは、簡単な英語が分か
る人には必ず伝えることが出来るよう、との願いである。
絵と文章の両方が存在する本のダイナミズムとは何か。絵自体が文学を語り、文学が
図 28 當麻ゆき子『シッダールタ』
「彼は静かに微笑した。覚者が微笑した
ときそっくりに。
深くゴーヴィンダは頭をさげた。
なんとも知れない涙が老いた顔に流れ
た。
その人の微笑が彼に、
彼が生涯の間にいつか愛したことのあ
るいっさいのものを、
絵を語る、それを一つの画面として視覚で受け取るとき、大きな力を感じるものではな
彼にとっていつか生涯の間に貴重で神
いだろうか。文学から絵を受け取ったように、絵から文学を受けとることも出来るはず
せた。
」
である。相互にないものを補った関係、それが「挿絵本」と呼ばれてきたものの醍醐味
であり、そこに読み手の「想像」が膨らむことが大事なのである。そのためには、より
想像的で、より根本的な内容でなければならない、と私は思う。こうした作品を作るこ
とで最も大事なのは、説明しきらないことだと私は考えている。読み手が自分の感覚を
内側から引き出されることが「感動」である。感動するためには、表現されたものから
自分の求めている感覚を示唆されなければならない。夢を持って書かれた文章、夢を持っ
て描かれたイラストレーション、そこには「スキマ」が出来る。そのスキマこそが、読
み手の心である。読み手の心が入って広がって、はじめてその世界は完成するのである。
その「スキマ」とは、作品の透明感ではないかと思う。全ての「モノ」は、わたしたち
の心が入らなければ、存在しないも同じである。何故なら私たちは自分の心で世界を見
ているからである。心に入らなければ存在は入らない。自分の心が入る場所を覚えたと
き、心と理性の両方を満たされたように感じたとき、私たちは大きな喜びを感じる。
3-4 制作のまとめ
イラストレーションというのは媒体、メディアに乗せて機能することを前提とした絵
画である。
私がイラストレーションを描いたのは、一連の絵を本などにまとめ流れを作っ
て意義を作ることをやってみたかったからである。自分の主義を押し出していく道の中
に、人が見て魅力的に感じる部分がどこなのかを、目的を持ってイラストレーションを
描く中で見付けていきたいと思っていた。
今回、二年かけてやっとまとめることが出来て、流れを作り上げる仕事の面白さを強
く感じた。感動した文学を、自分の目を通したヴィジョンとして素直に表現し、それを
並べて本にまとめることで再構成される。それは文学への尊敬を失う事でも、文学の表
す文字をただ記号的に描き表わすことでもないのであるということを、私は最も強く主
張したかった。自分以外の描いた世界に影響を受け、共有し、尊敬することが、自分の
視点でのみ制作することに劣るとも私は決して思わない。文学イラストレーションを、
絵画的にであれ挿絵的にであれ行うとき、最も大事なのは、自分の作家としての主観や
感覚、考えをまるごとその文学にぶつけていくことと、そこに生まれたヴィジョンを丸
聖であったいっさいのものを思い出さ
ごと受け入れることである。全身全霊で当たっていけば、必ずそこに、魅力的なビジュア
ルコミュニケーションが可能な、良い作品が生まれると信じている。
参考文献
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21 http://www.artchive.com/artchive/B/blake.html,2004.1.7
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24-28 自作