中将姫について 日張山青蓮寺住職 森本順孝記

中将姫について
日張山青蓮寺住職
森本順孝記
ひじり
蓮の 聖 として讃えられ、数奇な運命のもとに悲しくもゆかしい生涯を完うされた私共に
馴染みぶかい中将姫は、他面に於いては我が国尼僧の大先覚者として仰ぐ中将法如尼でも
ある。
世に伝わる所の伝記は、中将姫が一生を通じての不遇な境遇と、純真なる仏道精神が種々
の伝説を生み、ことに高貴の麗人と、世にも稀有なる蓮糸曼荼羅の感得という消息とあい
俟って、多くの劇的作為が加えられ、彼女程伝説に富む人物は珍らしいとされている。そ
してその伝説は、謡曲、戯曲などを通じて最も世人に親しまれているようであるが、たと
ひばり
えそれらが史実に証明され得ぬとしても、蓮糸曼荼羅の識生から雲雀山の説話にまで発展
させたことは、人々が中将姫の中に自分の姿を見出そうとしたものであり、それ故にこそ
中将姫が世人の生活に強く結びつけられたと解すべきであろう。そして我々祖先から、今
日の我々につながる尊い人間の精神生活の息吹きを感ぜずにはいられないのである。
ひ ばりやま
今これから当麻寺縁起・日張山縁起等の寺伝を中心として、最も妥当と思われる伝記を
辿って、この書尼僧史の一端として綴って見ようと思う。
先ず中将姫の時代的背景として、聖徳太子の仏教興隆より約百年余を経て、奈良朝時代
の聖武天皇・光明皇后による崇仏は、良弁・鑑真・行基等の名僧輩出と相俟ち、仏教の隆
盛はその頂に達した。全国に国分寺・国分尼寺の建立、ついで東大寺大仏造立等という国
を挙げての仏教隆昌のさなかに生をうけられたのが中将姫であって、彼女が深く仏道に志
す身となられたのも、こうした時代的背景の中に育成せられた点が大いに起因していると
言わねばならない。
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伝
記
―――――
誕生。
さて中将姫は、かの咲く花の匂うと謳われた天平のさなかに天平 19 年(西紀 747)仲秋 8
月 18 日藤原豊成の息女として奈良の都に生れられた。いまの奈良市三棟町異香山法如院誕
よこはぎ
生寺がその地であるといわれている。父豊成は横佩の右大臣として知られる人で、藤原不
比等の嫡男武智麻呂の長子であり、いわゆる南家の嫡流たる名門の出とて、つとに顕官の
誉れ高かった上に、広く古今の学及び管絃の道に通じ、よく仁政を施し庶民の帰向も厚く、
その威を内外に振うていられた。こうした栄達の身でありながらただ一つの不幸は、豊成
40 歳を過ぐるに奥方紫の前との間に子供の恵まれなかったことで、かねがねそれのみを遺
憾に思うていられた。こうしていよいよ心淋しさの募るまま、当時霊験いとあらたかな聞
こえのあった大和長谷寺の観世音に祈願されたところ、満願の夢中、観世音のお告げに曰
く「汝等至誠の願望黙止しがたく、宿命天眼を以て三千世界を見るに、汝が子供となるべ
き縁のものなし。今強いて与えんと欲せば、汝等夫婦の中いづれか命を欠くる事あらん」
と。夫婦は唯夢中にて一子さえ授けたまえば自分らの命は何惜しかろうと、進んでそのお
告げと白蓮華一茎を受け夢さめた。こうして紫の前は懐胎せられ、やがて月満ちて産れた
のが玉の如き女の児でこれが中将姫の誕生である。
さて待ちこがれていた我が子の顔を今こそ見ることが出来、両親のよろこびは譬えよう
もなく、自分に近づく不幸のこともすっかり打ち忘れて、春は花園に席を開き、秋は南楼
に月の宴を設けて、将来は女御后妃にも奉らんと、ひたすら姫の成長をのみ楽しみに日を
過された。ところがもともと観世音より授けられた身の姫は、幼き頃より非凡なる奇瑞を
現わし、人々をして「これこそまさに観音菩薩の化身であろう」と感歎せしめることが度々
であった。4 歳の或る時、一夜に庭先きに出ていられた姫の処へ、白銀をあざむくような
白狐が何処ともなく現われ、口に喰えていた巻物を置いて去ったという不思議なことがあ
った。その巻物を披いて見れば、これぞすなわち「称讃浄土経」といわれる紺紙金泥の経
巻にて、まさしく浄土の荘厳と、それに往生する念仏の功徳を説いた経典であった。爾来
姫は常にこの経典を離さず、後に浄土願生されるに至った因縁も、ひとえにこの経典によ
るものである。
母紫の前の死。
天平勝宝 3 年(751)姫は早くも 5 歳の春を迎えられた頃、たまたま桃の節句の祝宴で家中
の上下らが打ち揃い楽しんでいられた際に、御台紫の前はその満ち足りた気持ちから、召
使い等に向かって何心なく「さきつ年観音様のお告げに姫が 3 歳になればわれら夫婦何れ
かが欠けるとの事であったが、もう姫も 5 歳になるに 2 人が身に障ることのない所をみる
と、仏菩薩の仰せにも間違いがあることよ」と、別段神仏を誹謗するつもりではなかった
であろうが、現実の幸福感のままついこんな戯言を洩らされた、ところがどうしたことか、
うららかな春の日ざしは一天俄にかき曇り、風雨はげしく荒れ狂い、雷電光り轟くなかに、
いづこともなく声あり「汝何ぞおろかにも仏意に虚妄ありというか、本来ならば疾くに死
すべき身を、汝が生むところの娘、成長の後は女人成仏の先達ともなるべき身なれば、そ
れを養育させんがために諸仏の加護により今日迄命を延べたもうに、其の慈恩も知らず、
かえって仏を誹謗する其の罪のがるることは出来ぬ」と轟々たる声と、そのすさまじい光
景に、紫の前は気絶せんばかりに驚き、それより急に病気づき衰弱とみに加わり、百方手
を尽されたが甲斐もなく、やがて幾ばくもなく不帰の客となってしまわれた。みづから招
いた業病とは言え、はかなくも哀れな最後となったのである。
ひ ばりやま
日張山逆難。
こうして幼少にして慈悲に訣れられた姫のその後の不幸な運命は、この時より始まるの
たちばなもろふさ
である。父の豊成は、その後 橘 諸房の息女照夜の前を後室として迎えられたが、これこ
そ宿世の悪縁、可憐な姫はあけくれこの冷たい眼に怯えつつ、成育されねばならなかった。
しかしそうした中にも、その類なき天性の美しさと才能は、何の滞るところもなく愈々そ
の尊い輝きを増し、姫の才媛の誉れはいやが上にも高まっていった。それに加えて、照夜
の前に実子豊寿丸が誕生した事などが、この継母をして益々嫉妬と憎悪の念を募らせ、遂
に姫を殺害してなきものにしたいとたくらむようになったのである。それは丁度姫 14 歳の
天平宝字 4 年(760)照夜の前は、夫君豊成が諸国巡見のため、筑紫へ発足されしその留守を
幸いに、己が腹心の家臣松井嘉藤太というものに命じて、姫を人里遠く離れた深山でこれ
を果たそうと計った。その深山がいわゆる世に伝えられているひばり山というので、それ
ひ ばりやま
が現今の大和国宇陀郡宇賀志の東にある日張山であると言われている。今や欲に盲いた下
人嘉藤太は、姫をこの日張山に連れ出して殺害しようとしたのであるが、さていよいよと
なってはあまりにも姫の純情な心根に打たれて、さすがに刀を振り下ろすことが出来なか
った。彼が継母の命であるとて、姫殺害のことを告げても、姫は驚かれればこそいとも従
客たる態度をもって、すべてはおのが宿業のなす所と、懺悔するのみにて少しも人を恨ま
ず、おもむろに西方に向って合掌念仏の後、常にその身を離さぬゆかりの「称讃浄土教」
を披き、一たびは先立ちたまう母上の追善供養のため、ひとたびは父上が現当二世の安楽
のために、さらに今一度は継母が邪心を飜して後世安穏におわすようにと、丁寧に三たび
まで繰り返し読誦して、しかる後やおら彼に其の命を委ねられた。このうるわしくも尊い
姫の仏心にふれては、さすがに凶暴な下人もほとほと感泣を禁ずることが出来なかった。
悪にも強きは善にも強い世の諺の通り、害心たちまち消え去り、身を以て姫を守り立てよ
うと深く決心した嘉藤太であった。
日張山閑居。
それより嘉藤太は一旦都に立ち帰り、豊成の家臣国岡将監時常の相談の結果、姫と乳姉
妹であるところの時常の娘瀬雲を身替りとして継母を偽り、事なくすませた後、自分の妻
を伴い夫婦して姫に使えることとし、淋しいこの山奥に主従三人の奇妙な生活が始められ
たのである。幼にして生母に訣れ、冷たい継母のもとで人となられた姫は、人生の無常と
悲哀を越えて常に仏の救済に心を寄せ、常にかの称讃浄土教を愛読されたが、今やこの山
中にあっては、ひたすらに亡き母君に対する慕情と、念仏読経の他に余念なき、げに清浄
な念仏三昧そのものの生活であった。
なかなかに山の奥こそ住よけれ
くさ木は人のさがをゆわねば
とはこの山中にての述懐であったと伝えられている。まことに明け暮れ樹の間洩る鳥の声
を友とし、松吹く風の声と語り合うほかには何ものにも煩わされぬ奥山住いは、さらでだ
やす
に尊き姫の心を清めて余りあり、どれ程心安らかな日々をよろこばれた事であろう。この
他次の十首の山居の語と称するを以ても、この逆縁の恩寵を感謝された心境をよく察する
ことが出来る。
一、男女の境界なければ愛着の心もなし。
一、深山に人通わせざれば勤行欠く事なし。
一、我小家を持たざれば造作の思もなし。
一、貧窮無福の身なれば盗賊の思もなし。
一、木食草衣の身なれば諸人に煩をえず。
一、朝夕にともしびなければ己心の月を灯とす。
一、念仏の行者なれば経教の望なし。
一、我身より仏み出せば絵木仏の望なし。
一、西方遠しといえども行ずれば目の前に来迎す。
一、迷えば三途に流転す悟れば三世の臺なり。
そうした侘び住いながらも嘉藤太夫婦の誠忠に扶けられて、心豊かな月日を過されて翌
こう
年姫 15 歳の春を迎えられたが、杖とも柱とも頼みし嘉藤太のかりそめの病が昂じ、姫及び
ひ ばりやま
妻の心尽しも効なく、不遇なる姫の身の上に心残しつつ、遂に日張山の露と消えたのであ
る。残されし主従二人は悲歎の涙にくれながら庵の傍りに葬りて、石を塁ねて墓標となし、
朝夕の回向も懇に念仏写経等して追善に供されたと伝えられている。
父子対面。
越えて天平宝字 6 年(762)16 歳の中将姫にようやくにして陽の当る時節が到来して、父
子再会の機に恵まれたのである。たまたま先に筑紫の地に派遣されていた父の豊成が、そ
の頃使命を果して帰って来られた。侫奸な照夜の前はかねてその時に備えていたこととて、
いと言葉巧みに姫が父君不在にみづからの不身持ちから出奔して、その行方が不明である
と告げた。この驚くべき知らせに豊成は、姫の人となりより思うて、もとよりそのまま信
ずることは出来ず、自分の不在中の松井嘉籐太夫婦の出奔、並びに重心国岡将監の娘瀬雲
の不意死等、腑に落ちぬ事が多い上最愛の姫は見当らず、心浮かぬ悶々とした日を過され
ていた。この淋しげな有様を見かねた近臣達、ことに事の真相を知る国岡将監は遊猟に事
よせて、ひそかに父子対面させたき計らいから、一日卿の気晴しの為にと山猟りを勧めた。
ついに心動かされた豊成が遊猟に選ばれた地が大和宇陀の奥日張山というわけである。け
だしもと此の山の地域が豊成の所領であったところから此処を選ばれたという。そしてこ
の山で測らずも姫の隠棲を見つけ出し、文字通り劇的な再開をされたのである。父豊成の
驚きと喜びは言うまでもなく、早速姫を伴い帰館という運びになったのであるが、心のや
さしき姫は、自分が生還することによって、継母の恐ろしい旧悪が露見し、どの様な事態
になるやと胸は痛み、継母を窮地に追い込むに忍びず、このまま此の山に止まりたいとし
きりに哀願されたが、もとより聞き入れられる筈はなく、嘉籐太の妻と共に久々わが館に
帰られることになった。一方照夜の前は、女心の浅はかさ、殺害したとばかり思いこんで
いた姫が、無事にこともあろうに夫君に連れられ戻って来たので、果して叱驚仰天、さす
がにいたたまれず、みずから家出して行方をくらましたということである。
当麻寺入寺。
こうして中将姫は父君の寵愛を一身に集めて、再び贅を尽したわが家の生活に身を置く
事になったものの、もとより世上の栄華を楽しむ心は起らず、ことに自分の為に数多くの
人を犠牲にしたその菩提の為にも、ただひたすらに解脱を願う心にひかれて、出家得度の
思いは募ってゆくばかりであった。もとより父君の慈愛あふるる心尽しを思えば、そうし
た出家遁世のことなどたやすく許されるとも思えず、或る夏の夜遂に意を決して館を忍び
出て、奈良の西南二上山麓なる禅林寺すなわち当麻寺に入られたのである。
当麻寺は推古天皇 20 年(612)に用明天皇の皇子麻呂子親王が兄君聖徳太子の教えによっ
て深く仏法に帰依し、河内国交野郡山田郷に万法蔵院を創し、後親王が霊夢によって、天
武天皇の白鳳 2 年(673)に役小角の練行の場である今の当麻の地に遷し、寺号を禅林寺と改
まびと
め、次いで親王の孫の当麻国見真人の姓に因んで当麻寺と称したといわれている。この様
に由緒ふかく当時世人の帰依崇仰浅からぬ名刹であり、姫もかの日張山隠棲の間にもひそ
かに思いをこの寺に寄せられていた。都に帰られてから明け暮れ生駒・信貴に連なるはる
か二上山麓を望んでは、今やその一大決心は抑えることが出来ず、忠僕嘉籐太の妻を伴い
当麻寺へ赴かれた次第である。事を知った父君の驚きと嘆きはいうまでもなかったが、姫
の聖き決心と勇猛なる志を感知せられた上は、強いてとどむべきもなく許される結果とな
ったのである。
中将姫の出家。
このように入寺の願いも叶い、姫は終日念仏修行に余念なく、ひたすら出家の道に精励
せられてより約1年の月日が過ぎた天平宝字7年(763)6 月 15 日、当時高僧として名の高
かった実雅法印を導師として、永年の素志を遂げ剃髪染衣、出家の身となられ僧名を法如
尼と呼ばれることになった。実に 17 歳の時の事である。ここに一と度出家の願望が叶えら
れるや、その後の法如尼の生活はまことに崇高そのもの、いともゆかしい行業を相続され
たことはいうまでもなく、即ち念仏三昧に読経写経に、菩提の道への精進はきびしかった。
就中入寺以来の法如尼の熱烈な求道生活の消息として「称讃浄土教」一千巻の書経を発願さ
れたと伝えられている。この経は阿弥陀経の異訳本で、その内容は阿弥陀経と同じく多善
根、多福徳の念仏の利益広大なことを説いて、浄土往生を称讃されているが、その字数は
阿弥陀経の約 2 倍の長文であるだけにむしろ意味は徹底されている。この経を 1 日 3 巻づ
つの書経を続けられたというから、ようやく 1 年近くの月日を費して、この難事も成就さ
れたのである。こうした尊き信仰と行業の結晶がやがて蓮糸曼荼羅感得という勝果となっ
たので、この曼荼羅の感得は天平宝字 7 年(763)6 月 23 日すなわち出家後幾ばくもたたぬ
時である。これから推して称讃浄土教の一千巻書写は、法如尼が当麻寺に入られて後直ち
に着手されたことになるわけで、まさしく曼荼羅感得の前方便であったとも見ることが出
来る。
曼荼羅感得。
かくして法如尼はいよいよ大願を発して、現世に於て生身の阿弥陀如来を拝し奉らん、
若し弥陀の真身を拝せずば再び此の堂を出でず、断食して死すとも動かずとの大誓願に徹
し 6 月 16 日より終日通夜念仏誦経し祈願をこらされた。翌 17 日午の刻に至り一人の老尼
が現れ法如尼に曰く、「其方かねがね信心いと篤く修行堅固なれば、その願により浄土の変
相を写し、正真の仏のみ国、安楽浄土の依正二報を拝ませよう。速に百駄の蓮茎を求めよ」
と告げられ、何処ともなく去りたもうた。法如尼は有難きお告げを蒙って歓喜したものの、
百駄という多数の蓮の茎を集めることは到底自力の及ぶ所でなく、とりあえず父君豊成へ
おし み
むらじ
その旨願うた所、その事が時の淳仁天皇の天聴に達し、忍海の 連 に命じて近江・大和・河
内三国に綸旨を下して忽ちにして集めることが出来た。そこで先の老尼が再び現われて法
如尼に手伝わせ、蓮の茎を折って巧みに糸を繰り出し、またたく間にその業を終え、山な
す糸束を寺の東北の井戸に灌がれたところ、不思議にも五色の色彩に染め上ったという。
今もその井戸の所在地は染井の名称が残り伝わっている。法如尼はあまりの不思議さに呆
然としていられると、22 日の黄昏さらに一人の年若い化女が現れて老尼に向かい「蓮糸の
用意は調いしや」と尋ねられた。老尼が染め上がった糸を示されると、化女はいと満足げ
はた
に「では今宵織り上げよう」とて、機の道具を堂の西北も隅に構え、藁三把に二升の油を
おさ
注ぎ灯火となし、蓮糸を機にかけて織り始めた。こうして幽玄なる堂の中に神秘なる梭の
音と共に浄土の変相は浮き出され、亥の刻より子、丑と三ときの間に方一丈五尺に及ぶ大
曼荼羅は織り上がったのである。化女これを織り上げるや節なし竹を切りととのえ、中軸
となして巻きおさめ、以て老尼と法如尼にわたし忽然として消え去ってしまった。老尼は
これを堂の正面に掲げ礼拝をなし、法如尼に向い、観無量寿経に説く所の極楽浄土の依報、
正報、地上、地下、虚空の荘厳等一々指図相伝して、曼荼羅の深義を説き終わって、
往昔迦葉説法処
仏事新起又有故
感君懇志我来此
一至是場永離苦
の一喝を示し「我は西方浄土の教主阿弥陀如来、先の化女はわが左脇の観音菩薩である。
今より 13 年目に汝を迎えて再開を期す」とて西方に向かって消え去られた。これが世に有
名なる当麻曼荼羅と言われるもので、これはまさしく観経浄土変相ともいうべきものであ
るが、平安時代以降密教の旺んなるにつれてこれを曼荼羅と呼ばれるようになったのであ
る。
日張山青蓮寺建立。
かようにして法如尼は所願の弥陀観音を拝し、まざまざと極楽浄土の変相を感得するこ
とが出来たのも、去る年嘉籐太の情により、日張山に於て危き所を助けられ練行せし故な
りと、深くその恩義を感じ彼の菩提を弔わんがため、19 歳の時にいたり父君豊成に懇願さ
れて、日張山に一宇を建立し永く念仏の道場とされることになった。日ならずして造営も
なり、法如尼は自ら彫刻された嘉籐太夫婦の像を携え、開眼供養を兼ねて落慶の法要を修
された。この時父君豊成卿も登山ありて、山号を日張山、寺号を青蓮寺と命ぜられ、先に
出家して法如尼の弟子になった嘉籐太の妻、如春尼へ此寺を与えられた。如春尼は更に法
如尼の影像を此寺に安置して日々給仕したき旨願い出でたので、法如尼は自らを鏡に写し、
自作の像を残し与えて、一夏九旬の滞在の後初秋の頃当麻寺へ帰られた。
父豊成卿の死。
それより間もなく父豊成卿は病の床に就かれたので、法如尼は直ちに都に帰り昼夜看病
怠りなく、最後の孝養を尽くされたが其の効果もなく、62 歳を最後として 11 月正念往生
の素懐を遂げられたのであった。
その後の法如尼は当麻寺を中心に、往生までの約 10 年間、感得の曼荼羅を以て多くの道
俗を教化せられたのは勿論のこと、広く五畿内を行脚されたと伝えられている。
法如尼大往生のこと。
そのうち法如尼も化縁尽くる時いたり、光仁天皇宝亀 6 年(775)法如尼 29 歳の春。正月
頃よりつらつら往昔の事を思いめぐらし、16 歳の時世上の塵縁をのがれ、恩愛の繋縛を断
ち、此の禅林に入る。17 歳の夏一天無二の曼荼羅を感得してより、朝夕に瞻仰して想を変
相にこらし、速く蓮臺に托生せんことを求むるに、其時化来の老尼の告げられし 13 年に当
るは此の年であると、昵懇の比丘尼衆に対して永き訣れを告げ、浄土の再会を契り、往生
の事にあらざれば世事のことは口にまじえず、ただひたすら其の期を待たれた。愈々3 月
13 日夜に入って洗浴して身を清め、西に向い端座合掌して往生の時刻を待ち受けらるるに、
遂に 14 日午の刻眠るが如く息絶え終る。時に紫雲虚空を覆い、異香四方に薫じ、音楽雲の
上に響き、光明かがやきてまさしく二十五菩薩の迎接を得て、霊瑞不思議の現身大往生を
完うされたのである。
以上が中将姫一代に於ける大体の主要なる事項である。
扨初めにも述べたように、一方中将姫の蓮糸曼荼羅織成のことは、信仰上の説話であっ
て、今日の知識を以てしては架空の物語りであるとも言われ、又中将姫そのものさえ非存
在説を主張するものもある。しかしそれでは中将姫なり、蓮糸曼荼羅が抹殺されるもので
あるかと言うと決してそうではなく、わが国中世以来の浄土信仰の上に大きい役割を果し、
ことに曼荼羅が後世鎌倉初期、浄土教の最も弘通する時宜を得て、その宗教活動の上に一
大指針をあたえた点に於て、むしろ実在に等しいものと言うことが出来る。
要するに、既に時代は 1200 年近くを経た今日、よし伝説を如何ように解しても、中将
姫の宗教的人格をよく理解すれば、蓮糸曼荼羅感得ということもおのずから会得出来るで
あろうし、そうなればもはや中将姫は信仰的実在の人である。しかもその中将姫が中将姫
に終らず、すなわち在俗中の忍苦生活にとどまらず、法如尼としての面目を発揮せられた
ところに、我々尼僧の大先覚者としての意義を見出すものである。
因みに、現在浄土宗知恩院末に属し、中将法如尼を開祖とする日張山青蓮寺は、その後
初代住職として嘉籐太妻如春尼が護持せられて後、尼僧道場として今日に至ったのである
が、天明 4 年(1784)に火災の禍にあい、次いで再建の堂宇も間もなく文化 12 年(1815)又し
ても大水害に埋没の憂き目を見たのであった。ことに天明の火災には伝来の開山尊像等は
幸いにも火傷の程度でその厄をのがれたが、その他寺歴に関する古文書等は焼失した為に、
それ以前の事については不明の点が多いのは遺憾なことである。
現在の堂宇は弘化 4 年(1841)に建設された。京都市寺町三条上ル天性寺は、当麻山曼荼羅
院」と称し、中将姫の遺跡であるが、中将姫の木像や宝物等を蔵している。