上空からの恐怖 B-29 搭乗員からみた戦争と捕虜

B-29 国際研究セミナー(2007.5.20)
上空からの恐怖
B-29 搭乗員からみた戦争と捕虜についての大局観
トーマス・セイラー(米国ミネソタ州コンコルディア大学准教授/歴史学)
グレゴリー・ハドリー(新潟国際情報教育大学教授/英語・アメリカ研究)
訳:POW 研究会
I.
序論
II.
超空の要塞 B-29 とは
III.
典型的な B-29 搭乗員
IV.
初期訓練と基地における生活
V.
典型的な任務と戦争に対する気持ち
VI.
捕虜になった B-29 搭乗員の物語・新潟におけるケース・スタディ
VII
VIII
①
任務
②
難局
③
地上への降下
④
殴打と逮捕
⑤
訊問
⑥
飢餓と拷問
⑦
生活できる土地への生還
元 B-29 搭乗員の現在
結び
1
序論
受賞ドキュメンタリー「戦争の霧」
(Fog of War)の中で、アメリカが敗退したベトナム
戦争における主役であり、東京大空襲の戦略プランナーでもあったロバート・マクナマラ
元国防長官は、戦争を遂行するに当って、彼の永年の経験からまとめた 11 項目の教訓を述
べている。もし、これらの要点を抜き出して一つのメッセージにできれば、それは貴方の
敵を理解するだけではなく、彼らと共感を持つということである。
アメリカ軍の B-29 爆撃機と日本の空に災いをもたらし、その都市を破壊し、彼らの愛す
る人々を大量殺戮したその乗員について、日本人の文化的な記憶には、もはや敵軍とか、
かなりの憎しみは存在しない。
しかし今日でさえ、日本語の言い回しによる「ビー・ニジューク」は、アメリカによる
日本帝国爆撃の恐怖を生き抜いた身内の高齢者の話を真剣に考える若者の間でも、まだ無
言の憎しみの入り混じった嫌悪を繰り返し呼び起こしている。
それなのに、日本においては B-29 に搭乗していた者の立場について、ほとんど理解され
ていないことが度々ある。超現代的な大量破壊兵器を駆使したのは誰だったのだろうか。
彼らは本当に「鬼畜アメリカ人」だったのか、または他の者だったのか。この小論文は、
B-29 の搭乗員の眼を通してみた太平洋戦争について述べ、戦争末期に日本軍の捕虜になっ
た者の体験について考察する。1945(昭和 20)年、新潟上空で撃墜されたある B-29 搭乗
員の事例は、いったん安全度の高い彼らの地位から、武器を持ち、怒り狂った市民の待ち
構える場所に降下したときに起きた典型的な例題を提供するものと考えられる。この小論
文の目的は、同情や共鳴を呼び起こすことではなく、その代わりに、かつての敵国人によ
るよりよき理解の促進を意図したものである。
私たち二人は、捕虜になった B-29搭乗員の体験に関する研究に数年を費やしてしてきた。
その調査は、アメリカ国立公文書館に保存されている膨大な書類の検討と同時に、長時間
に及ぶ日本の市民と元 B-29 搭乗員の聞き込み調査に基づくものである。紙面の都合で、我々
(聴衆とスピイカー)が彼らの体験と物語を論じ合い、十分に分かち合うことはできない
けれども、この小論文で簡単に B-29、B-29 搭乗員の典型的な経歴、基地における彼らの生
活、彼らの戦争に対する心構えと典型的な任務について論じたい。その後で、1945 年、新
潟上空で撃墜された搭乗員の典型的な「捕らわれの身物語」に焦点を当てたい。これに引
き続き、多数の元 B-29 搭乗員が、どのようにして戦闘と捕虜体験にうまく対処したかを考
察し、どのようにすれば、これらの体験に基づく情報が、今日の日本の教育制度における
平和研究の必要性に、更に十分な焦点を当てるための動機付けになるのか、簡単に論じて
終わりとしたい。
2
超空の要塞 B-29 爆撃機とは
その時代、B-29 爆撃機は最大かつ最も進歩的な航空機の一つであった。この爆撃機の開
発費と製造費は、原子爆弾の創造に要した費用のほとんど二倍に達する。そして B-29 一機
あたりの開発費を含めた製造費は、海軍の巡洋艦一隻と同等であった。翼幅 43 メートル、
全長 30 メートル、航続距離 9,000 キロ、実用高度 9,700 メートル、爆撃機としては与圧室
訳注
を必要とした最初の機体であった。B-29 は機銃で隙間なく防御され、初歩的なアナロ
グ・コンピュータによる機位追跡装置が搭載されていた。また、B-29 には 7 トンの爆弾ま
たは海軍の機雷を搭載できた。当時の最新軍事テクノロジーであったレーダーやノードン
爆撃照準器も装備され、過去のいかなる時よりも正確に目標を爆撃できる潜在的能力を持
っていた。搭乗員数は 11 名、胴体内の前方と後方に分離して搭乗するようになっていた。
訳注
長時間、10,000 メートルの高高度(気圧は地上の約 1/3、気温は約-50 度)を飛行するため、機体を
気密にして加圧・加熱し、地上に近い気圧と温度を維持する。
当初、B-29 はアメリカの東海岸からヨーロッパの目標を攻撃する目的で開発されたが、
1943 年までにドイツは敗北しつつあったので、B-29 をもっぱら太平洋戦域に投入すること
が決定された。というのは表向き、中国やインドにある遠方の基地から日本の目標に到達
できるのは、B-29 のみであったからである。社会的支持は、この爆撃機に有利になるよう
に、若き日のロナルド・レーガンが語り手を務めた「目標、東京」、アメリカ人のセンスに
よる文化的、科学的優位性を持ったこの機体の開発に関連付けた「B-29 の誕生」といった
巧妙な宣伝映画シリーズを通じて、にわかに活気付けられた。
日本軍の真珠湾攻撃やフィリピンにおける死の行軍に報復することの強要は、日本の目
標に対する B-29 の使用を正当化する他の理由として使われた。
典型的な B-29 搭乗員
典型的な B-29 搭乗員の経歴について考慮する必要があるというのは、彼らの軍務と日本
において捕虜になった体験を解釈するには、彼らの経歴から来る「世界観」によるからで
ある。
B-29 の搭乗員を構成した大半の者は、アメリカの田舎に点在する小さな町や農場で成長
した。一般的にいって、B-29 の搭乗員は、合衆国の白人労働者階級の断面を表している。
高等教育を受けた者は稀で、パイロットは少なくとも 2 年間の大学・高専教育を必要とし
たが、彼らの多くは、この資格要件を満足させることだけのため、短期大学で学んだので
ある。
私たちの取材に応じたある搭乗員は、愛国心から陸軍航空隊に入隊したが、私たちが話
した戦争勃発後に入隊した者の大半は、歩兵、または海兵隊に招集されることを避けるた
め、陸軍航空隊を選択したことを認めている。陸軍二等兵として血生臭い第二次大戦に参
加することは、死刑宣告に等しかったように思われる。B-29 搭乗員の間でもう一つの共通
3
なテーマは、大多数の者がパイロットになる夢を持って入隊したことである。当時、パイ
ロットになることは大きな魅力であった。戦闘機のパイロットは、ハリウッド映画では粗
野だが有能な男らしさ、陽気でいたずら好き、また高度な冒険のシンボルとして賞賛され
ていた。彼らの若々しい気持ちのなかで、人間は誰でも同僚の上に立つことができ、女性
を惹きつける能力に自信を持ち、そしてなおかつ彼の本分を国家に対して尽くせると感じ
ていたからである。不幸にして、陸軍航空隊では非常に早い時期からパイロットは過剰で
あったので、大半の B-29 搭乗員は、航空士、爆撃手、または射手といったより地味な配置
に付けられた。
初期訓練と基地における生活
クルー(訳注:ある航空機に搭乗するパイロット含めた乗員の一組)は、部分的には機長(ク
ルーの長)同士の個人的な討議による非公式な制度と公式な順位によって編成された。クル
ーは、先ず古い型式の爆撃機で訓練を受け、その後、彼らの B-29 に搭乗してアメリカ中西
部にある大都市の上空で模擬爆撃任務を体験した。その次は、キューバやプエルトリコま
での長距離飛行訓練であった。そして最後にクルーは、ネバラスカ州にある集合基地から、
彼らの B-29 をアメリカ軍によりすでに基地として整備された太平洋上の小さな島々、主と
してテニアン、サイパン、グアムに空輸した。
大半の B-29 搭乗員は、基地における彼らの体験について話すことを好まない。というの
は、彼らは国家のために最善を尽くす一般的には善良で慎み深い人間であると描写された
いと望んでいた。しかしながら、この「表向きの描写」は、彼らの多くが基地内で実際に
やったことと、まったく違っている。彼らの大半は若者で、日本の上空において生命が危
険に曝される任務終了後から次の任務開始までの間は、大酒を飲んだり、今日であれば彼
らを相当に困惑させたりするような行跡に及んだものである。
典型的な任務と戦争に対する気持ち
最も初期の B-29 搭乗員の任務は、空戦よりも B-29 自体の諸問題に焦点が当てられるよ
うである。というのは、B-29 は技術的な諸問題が解決される前に、承知の上で就役させた
からである。これはより多くの搭乗員が、敵の砲火よりも機械的な故障のために死んだこ
とを意味する。B-29 による最初の爆撃任務は高高度から実施され、爆弾はほとんど命中し
なかった。合衆国統合幕僚本部は、B-29 の開発に費やされた巨額の費用に似合った爆撃効
果を望んだ(すなわち、相手の破壊である)。司令官だったヘイウッド・ハンセン将軍は解
任され、この問題を解決するため、カーチス・ルメイ将軍に援助が求められた。彼は B-29
からすべての防御装甲と彼が不可欠とは思わない他の装備を取り下ろし(訳注:取り下ろし
による機体重量の軽減分だけ、焼夷弾が余分に搭載可能)、日本の都市を超低空から焼夷弾攻
撃することを命じた。
しかし、これは大半の B-29 搭乗員がその実施を望んだ戦闘方式ではなかった。そして多
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くの者は、日本軍に撃墜されることを恐れた。ルメイは指揮下の部隊に、自分はいつでも
アメリカからより多くの人員と機材を獲得できる、そして部下の安全よりも最も大切なこ
とは、日本の工業生産の中枢とその周辺にある従業員の家屋を破壊することだ、と言った
と報告されている。私たちが B-29 搭乗員から聞いた物語では、この時点から、循環する恐
怖、火災、そして死は、上空の彼らの機内と下方の地上において、よりありふれたことに
なり始めたのである。
B-29 搭乗員の大半は、東京の大空襲や日本のその他の都市の焼夷弾攻撃に参加している。
当時、人種差別主義者による戦時中の宣伝のため、この焼夷弾による軍事行動で信じ難い
ほど多数の一般市民に死傷者が出ていることに、大半のアメリカ人は無関心であった。搭
乗員の大半は高校教育を終えたアメリカの田舎出身者が多かったので、彼らの軍部指導者
が言ったことは、真珠湾やフィリピンにおける残虐行為の仕返しであると信じていた。搭
乗員は、彼ら自身が道理を悟らせる必要がある野蛮人に対して、相手よりも優勢な火力量
により、アメリカの正義を司る者であると思っていたのである。
B-29 パイロット
アート・ペイサ(ウィスコンシン州アルペン出身)
彼ら(日本人)は、決然とした狂信者だ。絶対にそうだ。彼らは編隊の真っ只中を目が
けて急降下して来た。彼らは絶対に狂信者だ。俺はそうだと知っていた。テニアンから
出撃したとき、俺は2機の恐ろしい特攻機に遭遇したが、二度も彼らは俺たちを目がけ
て突っ込んで来た。最後の瞬間に、俺は操縦棹を一杯に押したところ、彼は俺たちの真
上をすれすれに通過した。彼らが遠くや近くで B-29 に体当たりして爆発するのを見た。
二度ばかり、俺も危うく体当たりされるところだった。
俺たちは彼らが戦争を止めることを願った。そうすれば、俺たちは国に帰れる。ただそ
れだけだ。俺たちは国に帰りたかった。もし、国に帰るために日本人を全部殺さなけれ
ばならないとしたら、俺たちはそうしなければならないだろう。彼らは狂信者だからだ。
俺たちは、日本人を全部殺さねばならないかも知れぬ。彼らはミカド、彼らの神を最後
の一人になるまで護ろうとするだろう。彼らは何度も何度も繰り返して、熊手や大鎌を
持って俺たちの上陸を待っていると宣伝している。もし俺たちがミカド、彼らの王、彼
らの神を殺したら、日本人を一人残さず殺さねばならないだろう。これが俺たちの理解
だ。彼らは本気だよ。
しかしながら私たちが取材した搭乗員の幾人かは、より高学歴者か、または戦前、実際
に日本人と逢ったことがあり、東京や他の都市の爆撃については、個人的な罪悪感や自責
の念にかられて任務に取り組んでいた。あれから 60 年が経過し、アメリカはあの恐ろしい
戦時中の出来事から遠く離れているが、B-29 の搭乗員は、彼らは冷血な殺人者ではなかっ
た。彼ら自身、普通の人間で彼らの祖国のために汚い困難な任務をしなければならなかっ
たと申し訳なさそうに話したり、説明したりするだろう。
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焼夷弾攻撃による作戦が開始された後、日本国内においては B-29 搭乗員に対する憎悪が
燃え上がった。戦時中、日本政府はその軍部が中国において絨毯爆撃や細菌兵器を使用し
た航空軍事活動をすでにしていたにもかかわらず、国内と海外に向けて B-29 の非人道的焼
夷弾攻撃による軍事行動の記実を放送した。日本人社会が中国におけるその軍部による残
虐行為についてより多くのことを知っていたとしても、戦時中の姿勢に変化が起きたかど
うかは、疑問である。中国人の死傷者は、日本人の死傷者ではなかった。
(B-29 の焼夷弾攻撃に対する) 報復として、日本西部においては多数の捕虜が処刑され、
捕虜になった B-29 搭乗員に対する処遇が際立って変化した。アメリカの軍事公文書館には、
日本上空で落下傘降下した搭乗員を、一般市民が各種取り揃えた非道な台所用品や農機具
を巧みに使って殺害したという報告書がごまんとある。皮肉なことに、そしてドイツにお
ける初期の反応とは対照的に、生存して彼らの体験を話せるほとんどの搭乗員が、日本軍
によって救助されたのである。日本陸軍は、B-29 搭乗員は、やがて起きるであろう本土上
陸作戦について重要な情報を持っていると信じていた。搭乗員は、合衆国やカナダから帰
国した二世や学生などの通訳を補充していた憲兵隊により特別に拘束された。憲兵隊の施
設に拘束されるのは特別にひどいもので、B-29 搭乗員はこれらの施設での拘束期間中に肉
体的、精神的な被害を蒙ったのである。
捕虜になった B-29 搭乗員の物語・新潟におけるケース・スタディ
これから、1945 年7月 20 日の早朝、新潟上空で撃墜された B-29 クルーの捕虜体験の一
例を考察してみたい。これは新潟の歴史における稀に見る事件であり、日本国内の他の場
所で起こったような複数機の同時撃墜による混乱はまったくない。この事件は新潟市のご
く近くで起こったので、多彩な観点から詳細に文書で記録されている。それだけに、この
出来事は第二次大戦中、日本上空で撃墜された B-29 搭乗員に起こった典型的なことのケー
ス・スタディの適例を提供してくれる。私たちの主なデータ―の多くは、元 B-29 搭乗員の
生存者と彼らを逮捕する役目を果たした墜落現場周辺の住民からの聞き込み調査に基づく
ものである。しかし、口述史料は経験による出来事を基盤としているとはいえ、それでも
不完全であることを忘れてはならない。人間は過去のことを忘れ、記憶は時間の経過とと
もに変化し、その人の観点によりゆがめられ、映画、図書、または戦友の話に繰り返して
接することにより創造されることさえもある。大切な情報は、意識して、または無意識に
検閲され、資料提供者は、歴史的な記録に影響を及ぼすためにうそをつくこともある。本
小論文では、紙面の都合でこの件についての討論はできないが、アメリカにはピューリタ
ン入植地の精神文明形成時代に遡る永年にわたる由緒ある「捕らわれの身物語」の伝統が
ある。ジャンルとして、捕虜になることについてアメリカでの物語は、著しく同類のテー
マで、ある出来事や行動を彼らが重要視するのは、アメリカ的例外者の所信を呼び起こす
ものである。原注
それ故、私たちがジョーダン・クルーの物語を記録しようとした試みでは、できる場合
6
にはいつでも、口述聞き取りと戦争日誌、軍関係の報告書、出来事の日時に近い日米双方
の公文図書館の資料、そして稀な場合であるがクルーが逮捕されたときの状況を明らかに
する隠し撮りの写真のような文書類と比較した。
原注
高齢の日本人が戦時中の飢餓や苦難について四方山話をする中に、頻発する民間伝承のテーマが同様
に存在することを追記したい。
任務
1945 年 7 月 19 日の午後遅く、5 機の B-29 がテニアンから日本に向けて離陸した。その
うちの 1 機はゴードン・ジョーダン陸軍大尉(ルイジアナ州モンロー出身)が操縦してい
た。彼らの任務は、新潟港に機雷を落下傘投下し、日本がとても必要としていた物資を輸
送する船舶の入港を阻止することにあった。ジョーダンと彼のクルーは、日本をアジアの
植民地から切り離し、本土侵攻の下準備として文字どおり日本を餓死させることを意図し
た暗号名「スターベーション(餓死)作戦」に従事していた。ジョーダン・クルーが新潟
への任務につくまでに、日本の主要港湾にはすでに機雷で閉塞されていた。当時、新潟は
まだ重要な港湾であり、操業中止させねばならなかった。
難局
ジョーダン・クルーにとって、今回は 33 度目の出撃であった。彼らは任務で疲れており、
帰国できるのであれば、喜んで帰国したであろう。これまでの出撃で、彼らは辛うじて五
体満足に基地に帰投したことが何度もあった。最初からのクルーの幾人かはすでに戦闘で
負傷し、または緊張から神経衰弱になったので、新規に経験不足者が彼らの後に補充され
た。しかし、彼らはこのことについて心配していなかった。というのは、他の B-29 も新潟
の攻撃に参加したが、対空火器による被害はそれまでのところ皆無であった。
ジョーダン・クルーは編隊を先導した。そして機雷の投下に成功した後、航空士が任務
計画から逸脱して、帰路はテニアンの基地に直行する経路を示した。この近道により、彼
らは数時間早く基地に帰投できた。不幸にして、新潟には東京からベテランの対空火器要
員が最近配置されていた。彼らは迅速にジョーダン機を捕捉し、命中弾を与えた。機体は
空中で数分間炎上し、地上では群集が喝采しながら墜落する機体を見ていた。
機上では、大半のクルーが先を争って落下傘を身につけた。彼らは日本軍の高射砲弾が
命中することはないと確信しきっていたのである。少なくともクルーの一人、副操縦士は
捕虜になることを恐れていたので、
彼は機内に留まって燃え盛る B-29 と一緒に地上に落下、
戦死した。私たちの調査では、もし全員ではないとしても、残りのクルーの大半が機体か
ら落下傘降下している。
地上への降下
太平洋戦争の興味深い特徴の一つは、B-29 搭乗員は誰もたった一言の日本語も教えられ
7
ていなかったことである。訓練中に教えられたことは、もし落下傘で降下しなければなら
ないときは、一般市民には捕まるな、日本軍に降伏せよ。一般市民は、恐らく彼らを捕え
て殺害するだろうということであった。
ここで再び元 B-29 パイロット
アート・ペイサ(ウィスコンシン州アルペン出身)に登
場願おう。
もし俺たちが撃墜されたら、実をいうと仙台上空で(任務飛行中に俺の飛行機が損傷し
たとき)、海上で機外に脱出しなければならないことがわかったのだ。そこで、陸上で
は落下傘降下しないよう海上を十分に飛行した後、不時着水して機外に脱出、(アメリ
カの)潜水艦に救助される機会に任すことにした。少なくとも潜水艦に救助されるだろ
うという希望を持っていた。俺たちが無線で位置を連絡したとき、いつも潜水艦が現れ
て搭乗員を救助していた。それが俺たちの唯一の希望だったのだ。陸上はダメ。俺は決
して陸上では降下しなかったね。俺は機首を海上に向けた。
(日本の上空で降下すると)
最後だったのだ。そう、最後だったのだ。
搭乗員は、もし撃墜されたらどうするかということについて、度々討論した。ある者は、
反撃して華々しく死花を咲かせる。他の者は降伏するだろうといった。誰もが捕虜になる
可能性をひどく恐れていた。私たちが聞き取りした搭乗員のうち、大半の者は落下傘で地
上に向けて降下している間は何も感じなかったし、考えなかったという。彼らは敵地の上
空で落下傘降下したので、ショックを受けていたのかもしれない。しかし、機上にいたと
きと、捕虜になったときのその短時間の間、心が安らいでいたのだ。
殴打と逮捕
いったん搭乗員が着地すると、彼らはいくつかの選択に直面した。大半の者は、45 口径
の自動拳銃(訳注:1.14 ミリ。南部式など日本軍の拳銃は 8 ミリ。口径が大きいほど殺傷
力は大。)を携行していた。彼らは一般市民の攻撃をかわすために拳銃を発射するだろうか。
それとも武器の使用を拒否するだろうか。私たちの調査から、日本と彼ら個人の戦争の遂
行はしないと決心した者、捕虜になったとき恐怖や怒りの手まね・身振りをしなかった者
は、より多くの生存機会に恵まれたことがわかっている。
搭乗員は、大部分が畑と水田である農地に着地した。彼らを最初に捕えた者は、警防団
員(訳注:空襲に備えるため、消防組と防空を担当する防護団とを合体した団体。広辞苑)、ま
たは竹槍で武装した土地の住民であった。搭乗員を捕えた者の大半は女性で、彼女たちの
夫、息子や孫が戦死したことに腹を立てていたので、搭乗員を殺そうとした。暗闇に逃げ
隠れていて、戦友が襲われているのを聞いた搭乗員は、その物音が凄まじかったので、も
う少しで自殺しかけたという。
8
ビル・プライス(1924 年生まれ)は、超空の要塞 B-29 の胴体後部にある機銃座(訳注:胴
体の銃座は左右に二ヵ所にあるが、どちらか不明)の射手であった。1945 年 4 月 7 日、彼の
搭乗する B-29 は名古屋上空で日本戦闘機に体当たりされた。ビルと 11 名のクルーの内 2
名は、損傷して飛行困難に陥った機体から何とかして脱出した。落下傘降下中、ビルは周
囲を見回す時間があった。
地上に近付いてきたとき、私は街の北東部の郊外に流されていた。そして気がついたの
だが、地面が近くなってから、暴徒の群れが追っかけてくるのがわかった。はっきりし
た人数はいえないが、150 から 200 人はいただろう。どこかそこらに。最初は全市のよ
うに見えた。彼らは私が降りて来るのを見て、追っかけてきた。接地したとき落下傘を
投げ出して自由になった。そのとき、彼らは私から 300 メートル足らず離れていた。
私はおびえていた。私はこれほど恐怖を覚えたことはなかった。もう一度、何かあんな
ことをやらねばならないことがないように願うね。何故だって、人生であんなにどうし
ようもない気持ちになったことはなかったからだよ。何が起こるか、まったくわからな
かった。殺されると思ったね。本当だよ、マジな話。私は両手を挙げて、彼らのところ
に歩いて行った。最初に私を捕まえたのは、竹竿を持った民間人だった。彼は、それて
私の頭の横を殴りつけた。殴り倒したのではなく、いずれにしろ私が転んだのだ。私が
立ち上がろうとすると、兵士が着剣した銃を持って突進しながら大声を上げているのが
聞こえた。彼が私を目がけて突いたので私は横に跳び、銃剣が私の飛行服に突き刺さっ
た。そして、飛行服を下から上まで引き裂いた。私は地面に横になっていた。彼らは小
銃の台尻、竹竿、そこにあるもので手当たり次第に私を殴り、そして蹴った。その結果、
私は鎖骨と肋骨を 3 本折った。彼らは私の所有物をすべて奪った。
彼らの殴打やそんなことが終わったとき、彼らは綱を私のひじと背中のまわりにかけ、
身体の前で両手に手錠をかけて目隠しをした。それから駅まで歩いて防空壕の上に座ら
せ直径約 20 メートル周辺を綱で囲った。そしてその中に、おそらく 5~6 名の兵士がい
た。その理由は私から群集を遠ざけるためであった。それから、1 時間、1 時間半、何
時間だった思い出せないが、長い、長い間、群集は私に石を投げつけた。投石で、私は
かなりひどい怪我をした。
生存した搭乗員の大半は、一般市民の攻撃から日本軍や在郷軍人(訳注:郷里にいて、
必要に応じ召集され、国防に任ずる予備・後備・退役軍人。)により助けられた。切り傷や
突き傷から激しく出血している搭乗員は、目隠しをされ、縛られてからトラックに乗せら
れた。その後、訊問のため、地元の憲兵分隊に連行された。
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訊問
憲兵隊の訊問の多くは、つまり制服を着た暴漢による脅迫と殴打以上のものではなかっ
た。搭乗員は、訊問される場合に関して、共通のパタンがあることを話している。これは
新潟で最初に起きたのだが、後日彼らが東京に移送されたとき、新潟での経験が何度も繰
り返されている。
各クルーは、身体の下に脚を曲げた日本式の「正座」をさせられる。彼は「反省」の心
的態度を示すため、うなだれるべきである(訳注:原文は下を見る)。これは当事者が過去の
犯罪を後悔して反省し、まともになるように望む態度である。尋問者は、彼がすでにその
答えを知っていることを質問し、捕虜の誠意を試すのである。答えはすべて謙遜した態度
で、この上もなく正直にしなければならない。最後に、捕虜は犯罪を認め、雄雄しく懲罰
の執行を容認しなければならない。もし、捕虜が心底からの反省を示したならば、当事者
が犯罪を自白することを期待している者は誰もいないけれども、逮捕者は少しばかりの温
情を示すかもしれない。
B-29 の搭乗員だったミネソタ州、ミネアポリス出身のボブ・マイケルセンは、1945 年 5
月 25-26 日の夜東京上空で撃墜された後、一般市民にほとんどリンチされかけた。もし放
置されていたら多分殺されていたところを警官に助けられ、それから訊問所に連行された。
我々は東京のどこかの建物に連れて行かれた。その建物の一室に連れ込まれたが、そこ
にはかなりの人がいた。搭乗員は我々だけではなかった。アメリカ人の搭乗員もいた。
我々は床の上にひざまずき、身体の下にひざを入れ、背筋を完全に伸ばし、そしてうつ
むくように強要された。もし、頭を動かすか、前かがみになるか、または横にふらつく
か、なんでもしたら、即座に殴られたであろう。まだ目隠しはされたままだったが、足
元を見ることはできるし、ときには目隠しを通して見ることもできる。はっきりとでは
ないが、影は見える。そんなところで、時刻は多分早朝だったに違いないが、何時であ
ったか、そんなこと誰も知らなかった。我々は、その部屋の中に一日中いたと思う。と
いうのは、太陽が沈んでしまったから。
私には事態をコントロールする手段がなかった。そのことについて考えようとしなかっ
た。もし、これから起ころうとしていることを想像したら、一層悪い状態になったであ
ろう。そのとき、起きている事態を受け入れるのだ。時々、家のこと、家族のこと、母
親のことを一二度本当に考えたと思う。確かに考えたが、(正座させられている)身体
的な苦痛がとてもひどかったので、それだけが問題だったのだ。
私は何も考えなかった。いや、違う。背中がとても痛んだ。正座をしているのはとても
辛かった。というのは午後の中途で、早い時期だったか遅かったかわからないが、殴ら
れることを覚悟の上で、背中を曲げて圧力を軽減した。
数時間後、ボブは訊問のために連れて行かれたことを覚えている。
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人々は一人、また一人と訊問に連れて行かれた。そしてその後……そのときは、私は彼
らの身の上に起こったことを知らなかった。日没頃か、夜になってから、私は最初の訊
問に連れて行かれた。覚えているところでは、二人の警備員に連れ出されて、照明の薄
暗い部屋に行った。そこでまた正座し、目隠しをしたままで、後ろ手に縛られた。私の
印象では、誰かが机の後、私の向こう側に座っていた。だが、訊問の前に二度目の殴打
を受けねばならなかった。
訊問が始まった。そして最初の質問は、当然、「お前の氏名、階級、認識番号は?」で
ある。私は即座に答えた。そして次の質問が始まった。その質問が何についてであった
か、覚えていない。君、わかるだろう。多分、どこから来たか、グアム、サイパン、一
体どこからなのだ。私はもう一度、氏名、階級、認識番号をいった。そのとき、殴打が
始まった。そして何時終わったか知らない。目が覚めたときは、まだ暗かった。
この訊問の間におけるジョーダン・クルーの体験は、彼らは気付かなかったのだが、ど
のようにして、この習慣的行為に予期されている標準を満たしたか、ということにかかっ
ている。大半の者の態度は、公然と反抗的と誤解され、彼らの部隊、アメリカでの最新の
出来事、投下した機雷の種類、彼らの飛行機の性能、などといった当時においてはごくあ
りふれたことに対する答えを言うまで殴られた。しかし、クルーのある者は、控え目で丁
重な態度をとったので、尋問者に感銘を与えたようである。正式な訊問が終わった後で、
彼らは椅子を与えられ、足の痺れが回復するまで暫くの間椅子に座ることを許された。他
の者には、残りのクルーの辿った運命について、少しばかりの情報が与えられた。すなわ
ち、少なくとも二人が逮捕されるときに抵抗したので殺され、一人は飛行機と一緒に墜落
して名誉の死を遂げたと知らされた。
飢餓と拷問
新潟における最初の訊問の後で、生存したクルーは再び目隠しをされ、東京行きの列車
に乗せられた。列車に乗っている間に、警備員は乗客が下車するとき、彼らに捕虜を殴ら
せた。
東京駅に着くと、目隠しをしたままで憲兵隊本部に護送された。この建物は、東京の中
心部で焼け残っている数少ない建物の一つであった。撃墜された搭乗員は、名目上はとも
かく、実際は日本陸軍東部軍の捕虜だったのである。しかし、英語のわかる職員が不足し
ていたので、搭乗員は憲兵隊の管理下に移動させられた。憲兵隊には英語のわかる者がい
て、情報を抽出する過程において彼らを肉体的、精神的に打ちのめす術に熟練していた。
ジョーダンと彼のクルーは、この拘置所にたった3週間しかいなかったのだが、ここでの
体験は、全員に生涯を通じて精神的傷跡を残している。
その年(1945 年)の初めに行われた焼夷弾攻撃に関連して、捕虜になった B-29 搭乗員
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の身分は、ときどき英語では “Special Prisoner” と訳されている「捕獲米兵」のそれに変
わった。日本語の意味には、期待される交戦規則に違反したアメリカ軍兵士で、それ故に
規則に定める捕虜に与えられる権利と特典を喪失したことを含んでいる。ジョーダン・ク
ルーの一人一人は、無辜の一般市民を爆撃した非人道的犯罪に組したことを進んで認める
文書にサインすることを強要された。いったんこの文書にサインすると、彼らはもはや捕
虜とは見なされなくなる。彼らは、今や死刑囚監房に座っている非合法戦闘員なのである。
B-29 搭乗員ボブ・マイケルセンは、ここの捕虜だった。
捕虜は小部屋から連れ出される。手は前で縛られ、その手の周りに綱が付いている状態
で振り回されるのだ。しかも目隠しをしたままで。我々は小部屋から出て行った。1 号
房にいたので、ドアの隣の房だった。それで建物から出て日光の中を歩いているのがわ
かった。光の強さが変わるからだ。そこで別の建物に入り、階段の一続きを半分昇った
ところで、記憶が甦り、勿論、前に入ったと同じ部屋に入って行った。
訊問官は二人いた。その一人はチビ(小林ヤスオ)で、もう一人は後輩(柳沢ケンイチ)
と呼ばれていた。後輩は、我々の見たところ、彼の仕事の見習をしているようで、彼は
チビほど頑固ではなかった。チビはとても変わっていた。後輩の場合、物事は順調に運
んだが、チビのときはダメだった。
チビは、私が思うには(3 秒間中断して)、サディストだったと思う。というのは、彼
は、彼は単に、、、彼のしたことはすべてを傷つけ、痛みを与えた。もし、貴方が怪我を
して彼の訊問室にいたとすれば、その部屋は彼らが貴方の怪我に重圧をかけるところな
のだ。それはとても痛みを伴うのだ。捕虜にボブ・リングという仲間がいた。彼はお尻
から膝にかけて負傷していた。とても深い傷だった。ボブは私たちに話してくれた。彼
の場合、殴る代わりに、彼らの体罰用の鞭を傷の中に入れて何度も、何度も、何度もね
じったのだ。
しかしチビと後輩、どちらも最初に彼らがしたことは、一言の質問もしないで殴り始め
ることだった。そして一段落終わったところで、質問が始まる。質問は再び最初から、
まったく最初からだ。氏名、階級、認識番号、どの島にいたか、地位は、などなど。す
べての質問は、今までにすでに聞いたことなのだ。彼らが知りたがっていたことは何で
も(話した)。
チビは房の前の廊下を歩きながら、法廷はお前たちが殺人犯であると判決を下したので、
数日以内、来週にでも、お前たちは死んでいるだろう、殺されるのだと、よく話したも
のだ。彼はいつも日本刀を持ち歩き、房内で突き刺した。そして誰かがが横木に座って
いれば、その近くに刀を突き刺し、そいつを当惑させた。
憲兵隊本部の建物は 4 階建てだった。4 階には日本全国至るところにある憲兵隊の下部機
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構を管理する事務所があった。関東地区の管理事務所は 3 階に、訊問室はすべて2階にあ
った。当初は臨時の拘置所が若干あっただけなのだが、更に多くの拘置所が中庭の裏側と
地下に造られた。それでも撃墜された搭乗員で憲兵隊の監督下に移送される者の数が増え
たので、その状態は危険なほどに混雑し、不衛生になった。
地下には、縦横 3×1.5 メートル程度の小さな「豚箱」(訳注:元々警察の留置場の俗称)
と呼ばれる房があった。ドアは分厚い木の格子戸で、あたかもハリウッドの映画セットか
ら持って来たような時代遅れの大きな錠前が付いていた。9 名がこれらの房に詰め込まれた。
収容者は、B-29 搭乗員と日本人政治犯であった。二つの房棟を分離している廊下には 24
時間中点灯している一個の電球のほか、房は連続的に薄闇に包まれていた。
ミネアポリス出身のハリー・マグナソン(1923 年生まれ)は、憲兵隊刑務所に入れられ
ていた捕虜だった。彼は B-29 の機銃射手で、ボブ・マイケルセンが撃墜されたと同じ(1945
年 5 月 25-26 日)に東京上空で撃墜され、二人は同じ房に入れられた。
全部で 16 人か 18 人、そのくらいの人間がいた。そこが、その後 3 ヶ月、我々が過し
た場所だった。その房で我々のしたことは、座っていただけだ。ただ座っていた。み
じめに。私は毎日そこにいた。来る日も来る日も。何事もなく毎日が……。房がとて
も狭かったので、皆が同じ方向に頭を向けて眠れなかった。私の頭の傍に隣の者の足
がくるように、互い違いに寝た。そう、互い違いだよ。床は人間で一杯に詰まってい
た。だから動くこともできなかった。
トイレはあったが、それは木の蓋が付いた木箱だった。それと外から引き出して掃除
する箱形の桶(ひ)があった。という訳で、毎日誰かが外に出て行かねばならなかった。
誰かが外に出て、建物の周りを廻ってその桶を引き出して空にした。
しかし、房の中はとても狭かったので、一晩中、誰かがトイレの木箱の上で寝るか、
その上に座っていなければならなかった。それで順番でやることにした。皆が集まっ
てその方法ですることに決めたと思う。そう決めたのだから、上手く行った。誰かが
その箱「便所」の上で寝なければならなかった。それで我々は順番にしたのだ。
ただ座っているだけからくるストレス。それはハリーの記憶では、恐怖の瞬間でぺしゃ
んこになった。天井には小さな窓があった。誰かの肩に上がらないと、外は見えなかった
が、B-29 の編隊が飛行するのが見えた。帰投しているのか、空襲に来たのか、そんなとこ
ろだったのだろう。遠く離れたところを飛び去って行った。彼らは夜やって来た。昼もや
って来た。実に任務に精を出していた。
(空襲の)サイレンが鳴ったが、彼らは決して我々を(房の)外に出そうとはしなか
った。我々はただ考えた。おお神よ、サイレンが鳴る。爆撃機がやって来るが、我々
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はここに立ち往生している。ここから出られない。それらが我々の心を横切るのだっ
た。「おい、ここを出してくれ!」と我々は警備員に怒鳴った。
そこに閉じ込められ、警備員は外に出してはくれず、爆弾が落ち始めると、ちょっと
怖かった。
(だが、)といって一体どこに行けばいいのだ?どこにも行き場所や隠れ場
所はなかった。爆弾が我々の上に投下され、それだけのことだったのだ。
ジョーダン・クルーは、馬小屋を改造した中庭の房に分散して入れられた。房の正面は、
かつて馬が柵で囲まれた中庭に連れ出されるときの中廊下に面していた。この廊下の他の
端は、憲兵隊本部の 1 階の更に内側に繋がっていた。馬小屋を改造したこの房は、地面よ
りも少し地上げがしてあった。中庭では豚や鶏が飼育されていたので、捕虜は彼らの房の
下では豚が鼻で地面を掘っているのがわかった。ここの房は豚箱よりは大きく(2.5×3×
2.5 メートル)、16 人から 19 人を監禁できた。天上と同じ高さに小さな窓が一つあったが、
それは分厚い黒い布で覆われていた。上から電球が一個針金でぶら下がっていた。地下の
房と同様、この電球も四六時中、決して消灯したことはなかった。馬小屋改造房には主と
して B-29 搭乗員が収容されていたが、時として日本人聖職者、朝鮮人独立運動家、ヤクザ
の一員、政治犯が臨時に収容された。これら収容者は、連合軍捕虜と同様、殴られ、虐待
された。
ジョーダン・クルーの中で生還した者は、彼らの馬小屋改造房当時のことを話したがら
なかった。私たちが知ったことの大半は、ずぅと昔、彼らが戦争犯罪調査官に提供した宣
誓供述書や調査官の個人的な記憶によるものである。生存者の体験記録は、ジョーダン・
クルーと同時期に収容されていた他の捕虜から収集した資料を使って裏付けしたものであ
る。次の物語は、彼らが耐え忍んだ恐怖の一例に過ぎない。
毎朝、捕虜は警備員の荒々しい声で起された。彼らは唯一の所持品である汚い薄い毛布
をまったく無言でたたんだ。捕虜は彼ら同士で話すのを禁じられていたが、中には警備員
が背中をむけたとき、危険を冒してこっそりとささやく者もいた。警備員の機嫌次第では、
そこで彼らは目隠しをされ、数時間も正座をさせられるか、
または 60 年以上も後になって、
アブ・グレイブ刑務所を思いださせる場面、すなわち捕虜は目隠しをされて繋がれ、手を
長時間前に支えさせられた。ある日は、でこぼこの硬い木の上で目隠しなしに、できるだ
けよい状態で座ることを許された。房の鳥かごのようなドアの一番近くにいる捕虜は、通
りすがりの警備員に絶えず蹴られた。
ウィスコンシン州ウィスコンシン・ラピッズ出身のレイ・トエルは、これも東京上空で
1945 年 5 月 24-25 日に彼の乗っていた B-29 が撃墜された搭乗員であった。落下傘降下し
たとき、彼は両手足を火傷し、翌日大船の海軍訊問所で下車するまでに受けたのは、最も
初歩的な治療だけであった。
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大船に到着したとき、彼らは目隠しをとり、手錠をはずし、その他の拘束具はすべて
取り去ってくれた。そして私を車から降ろし、独房に入れた。それだけだったのだ。
そのとき、辺りはすでに暗くなっていた。独房は 6 フィート×8 フィートくらいので、
それ以上大きくはなかった。毛布が 2 枚あったきりで、他には何もなかった。彼らは
ドアを閉めた。以上で終わり、まったく一人ぼっちだった。
私は立ち上がれなかった。というのは、脚がひどく悪く、次の日も、またその次の日
も立てなかった。ひどい状態だった。彼らは私を何というのか、、、、彼は医師ではな
かったが、そう呼ばれてはいた。だけど朝になると、私を彼のところに連れて行った。
そこ(キャンプに暫くの間)にいた私よりも年長者が(後で聞いたのだが)、私が後
幾日生きるだろうか、7 日か 8 日で丘行き(墓地)になると全員が賭けていたと話し
てくれた。彼らは、私が生き抜くとは思っていなかったからだ。
レイは、日本人が彼をただ独房に入れて置いたことを思いだす。
私は(誰とも連絡)できなかった。だた、夜になると点呼があった。私は 5 番だった。
我々は番号をいわねばならなかった。それだけだった。この兵舎には我々だけ 10 名し
かいなかった。5 人ずつ片側に陣取った。少し離れたところにもう一つの兵舎があった
が、兵舎との間には柵があった。我々は……それが我々の地域だった。以上、それで終
わり。
どきたま、彼らは外に出してくれた。暫くの間、外に出て、座らせてくれた。外にだ。
だけど、誰とも話しができなかった。実のところ、誰のそばにも座れなかったのだ。外
に出て、座って、眺めるだけだ。
レイは、火傷に対して何の治療も受けられなかった。
治療は何らしてくれなかった。包帯は、我々が 7 月中旬に「大船を去る」まで取ってく
れなかった。そこを去る日、彼らは私のところにやってきて、外に連れ出した。あの、
いわゆる医師が、水の入った洗面器を持って来た。そこには士官もいた。私の手はとて
も醜くなっていた。いや、まだ包帯を巻いていたが、とてもひどい悪臭を放っていたと
いうことだ。
彼らは包帯をとった。そしてそのとき私の手はすっかり縮れ上がって、拳のように見え
た。指が。彼らが包帯をとったとき、そこにウジ虫が何匹もいた。大きなヤツだ。そん
なに大きなヤツを見たことがなかった。その士官は、顔を背けねばならなかったほどだ。
しかし、そうだろう、ウジが私の手を完全に綺麗にしてくれた。その後で、包帯をする
のを止めた。そこに大きな火傷の跡、瘢痕があったからだ。手全体が 4 分の 1 インチ(6
ミリ)くらいの火傷の跡で覆われていた。両手ともそうで、ワニの手のように隆起し、
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剥製のようで、赤かった。
捕虜はひげを剃ったり、シャワーを使ったりすることも許されなかった。房には虱やそ
の他の寄生虫がはびこり、まもなく他の収容されている者と一緒に、汗や埃によごれたジ
ョーダン・クルーの身体は、膿のでる爛れで覆われた。このような状況だったので、捕虜
全員がひどい赤痢に罹った。彼らは床に開けた穴で用を達し、その下には排泄物を集める
箱が置いてあった。房はすし詰め状態だったので、床は用達しのために穴に行くのが間に
合わなかった者の排泄物で、しばしば汚れていた。
一日に数回、兵隊が来て、ミカン大の握り飯を房の汚い床の上に投げ与えた。水は、警
備員が捕虜に一回に一つだけドアの格子から押し込んだコップで、全員が飲んだ。各自は
握り飯と一緒に、水一カップが飲めた。もし誰かが私語をしたり、警備員を怒らせたりし
たら、その房の全員の食事が一日一個の握り飯と水一カップになった。しばしば、他の握
り飯よりも少し大きく見える握り飯の奪い合いが、音を立てないで行われた。
ここで、再びハリー・マグナソンとボブ・マイケルセンの話を聴こう。まずボブから。
一日に握り飯一個貰ったのを覚えている……。私には、いつも一日握り飯一個と水が
コップに一杯だけだった。彼らは、握り飯を出入り口の棒の下にある隙間から転がし
て房の内に入れたので、床の上に米粒が若干残った。大尉(ディック・マンズフィー
ルド。ボブが乗っていた B-29 の機長。この房の最高位将校)は、床に残った米粒は、
それを最も必要とする者に与えると決めた。それは、最もひどい負傷をしたボブ・リ
ング(我々のクルー)であった。そこで、大尉は小さな米粒を一つ一つ拾い、ほとん
どいつでも房の向こうの端にいるボブに渡さすのだった。
しかし、飢餓が定着するにつれ……米粒のいくつかは、彼に届かなくなった。
ハリー・マグナソンは、捕虜の動物的本能を回想する。
最初、食べ物に関する限り、水に関する限り、あらゆることに関して、誰も自分のこと
だけしか考えなかった。私の言いたいことは、我々は共食い動物だったのだ。しかし、
あるとき誰かが、そして我々はそれに気がついた。というのは、握り飯が与えられると、
それはドアの下から差し入れられるのだが、それらは大きかったり、小さかったり、大
きかったり、とても小さかったりする。
握り飯が一個、ドアの隙間を通ってくると、それが大きければ、そこにいた誰でもそれ
を引っつかんだ。
でも、そうしてはいけなかったんだ。我々がやろうと決めなければならなかったことは、
握り飯が差し入れられたとき、それを手渡しで廻す。そして誰かのところにやって来た
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ものが、そいつのものになる。さもなければ、我々はお互いに引っ手繰り合いをしてい
るだけだ。我々は自滅する。とても空腹だからだ。
そこで、全員で決めたのだ。おい、握り飯が差し入れられたとき大きいのを取ろうとし
て争ってはいけない。我々はそこにいて跳びかかるからだ。そこで、遂に我々は全員で
決めた。今までのやり方ではダメだ。この方法でやらねばならない。全員がそれに同意
した。
余分の食べ物にありつけるもう一つの方法は、日本語でいう便所掃除に選ばれることだ
った。あの「便所箱」を中庭の集積所に運んで、そこで空けた中味は肥料になるのだ。便
所掃除は、捕虜が房から出られるめったにない機会の一つだった。
午前中遅く、または午後早く、警備員が捕虜の点検にやって来た。長いこと留置されて
いる者は、それが便所当番を選ぶ時間であることを知っていて、彼らは野良猫のような甲
高い哀れっぽい声で、単純な日本語で、抑揚をつけて「便所掃除、便所掃除、昨日、昨日、
昨日、ノー便所掃除」というのだった。これは、「この数日の間、私は便所掃除の使役に選
ばれていない」ということだと理解されていた。
ジョーダン・クルーの一人、ポール・トランプは、度々この使役に選ばれた。彼ともう
一人の房仲間は長い綱を付けられて、警備員が(彼らが運んでいるものからまあまあの距
離を置いて)
、中庭の隅っこの集積場まで付き添った。その途中で彼らは豚小屋の傍を通っ
た。そこには米ぬかやその他、口にできないほど衝撃的な残飯が溝にあった。警備員は、
トランプが立ち止まって手を深く残飯の中に入れるのを許した。トランプは聖書の帰郷し
た放蕩息子の物語を思い出した。彼は残飯を掬うために上体を曲げねばならなかった。そ
れで彼は豚から取り上げたものの上に、ほとんどいつも病人の糞便をこぼしてしまうのだ
った。とにかく彼はそれを食べ、彼の特別食「米とグレービー」と呼んだ。
ジョーダン・クルーよりも後に連れてこられた搭乗員は、捕えられたときに蒙ったひど
い怪我をしていた。彼らの「特別捕虜」としての身分と、スターベーション作戦の結果に
よる調合薬の不足から、誰も医療を受けられないことになった。捕虜は通りがかりの警備
員に助けを求めたが、警備員は笑うか、捕虜の求める助けをまったく無視した。
生活できる土地への生還
数週間の絶え間のない訊問と、肉体的、心理的双方の拷問を体験した後、ジョーダン・
クルーと他の B-29 の搭乗員は、戦争がほとんど終わったと知らされた。そして、彼らは東
京湾の近くにある大森収容に移送された。
戦争の最後の数日、憲兵隊に留置されていた約 100 名の「特別捕虜」のグループは、彼
らの小さなすし詰めの房から出され、連れ去られた。ハリー・マグナソンとボブ・マイケ
ルセンの二人は、このグループの中にいた。マイケルセンの話。
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何らかの理由で、我々は房の外に出て目隠しされた。そして日光の当る場所に導かれ、
トラックの後部に乗るようにいわれた。トラックは 3 台あったと思う。そこにいた者
は、全部で 100 名と少々だった。トラックの中に入ると、勿論警備員がいた。どのく
らいの時間トラックに乗っていたか、どこに行くのかは知らない。しかし、東京湾の
海岸に着いた。
我々はトラックから下ろされ、海岸に連れて行かれた。このときまだ目隠しをされ、
後ろ手に縛られ、東京湾の海岸でひざまずいていた。そして私は(強調するため、こ
のときゆっくりと話した)、これで終わりだと思った。我々はここで斬首されると思
った。どうして生き延びるか。もし斬首されるのであれば、すでに殺された者の下に
潜り込めば、彼らは気付かないかもしれないと考えた。
[数分後] 私はどこからこの海岸に来たのか見渡した。というのは、後の方で騒音が
聞こえたからである。海岸には機銃が3丁据え付けられ、チビが機銃の指揮をしてい
た。そこで、私は彼が我々を海の中か、海から上がって来たときに掃射するのだと考
えた。畜生、俺は泳げるのだ。もし水中に潜って逃げれば、生き延びられるかもして
ないと考えた。
機銃のところでは、二人の訊問官チビと後輩の間で激論が交わされていた。チビが立
ち去った(3 秒間の中断)。機銃は梱包され、4 台目のトラックに積み込まれた。そし
て、そのトラックは、我々と後輩をそこに残して走り去った。そこで後輩は我々に「お
前たちは、土手道を歩いて – その土手道は、我々の左手に見えたと思う – 行く。そ
の終わりが収容所(大森収容所)だ。お前たちはそこに行くのだ」といった。そして
後輩は、我々をその捕虜収容所まで歩かせた。遂に収容所の門が開き、我々はこの収
容所に入った。チビと後輩のやり取り次第では、我々の運命は、どちらにでも転んで
いたのだ。しかし今それを振り返ってみて、私にははっきりとわかった。我々の生命
を救ったのは、後輩だったのだ。
大森収容所で、捕虜は更に数週間待った。この収容所が解放されたとき、捕虜は船で沖
縄に送られ、それからテニアン、フィリッピンに着いて情報を聴取された。その後、搭乗
員はゆっくりと時間をかけて苦しかった体験から回復するため、低速で航海する船でアメ
リカ本土に向かった。
元 B-29 搭乗員の現在
今日、あの厳しい試練を生き抜いた人は、ほとんどこの世にいない。大半の人が高齢で
亡くなった。そして存命である人の多くは、戦争中の体験による精神的な傷跡を記憶に留
めている。憲兵隊の房で聞いた捕虜の上げる悲鳴が、今も夢の中でつきまとう。元 B-29 搭
乗員の大半は、まったく彼らの体験を話さない。しばしば、これらの経験を実際にした人
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にとって、彼らの体験は生きた証の大切な一部なのである。彼らが当時の話を繰り返して
しているうちに、彼らはいわゆるアメリカ主義の代弁者によくなる。彼らが高齢であるこ
とと、彼らが耐え忍んだ苦痛から得た神秘感、彼らの物語の持つ真の恐怖が一体となって、
愛国的かつ保守的なアメリカ人、またはそれらのいずれかの人々の中で、彼らは非常に高
い地位を得ている。戦争が終わって 60 年以上も、彼らの物語を語り直したことが、彼らの
個人的な体験をときとして神話のレベルまで高めた。そして神話は、彼らの物語の意義を
アメリカ人であることの意味において、より深い文化的価値観と大切な教訓として教える
ことを求めている。元 B-29 乗組員の中には、公正さに焦点を置くことに努力し、アメリカ
政府が、彼らの捕虜としての苦しみに対するより多くの金銭的補償から彼らを排除してい
ることについて、公式に恨みを宣言する者もいる。この補償では金銭的に得ることは少な
いが、彼らが耐えた処遇について、日本政府に償わせることにある。
多くの元B-29 搭乗員は、まだ激しい敵意を持っている。それが彼らの個人的な生活や著作
品にも反映している。
他の元 B-29 搭乗員は、
「アメリカ人は、許すことを愛する」という文化的信念のような
アメリカ主義の他の局面に焦点を置いている。この局面は、日本人、特に彼らが捕虜を虐
待した人々の代表者であると信じる人にも届いている。彼らは、善意を日本人に拡げ、そ
の過程において日本人がアメリカ文化と信条に対して、より開放的(少なくともアメリカ
人に対して思いやりのある)になるように、勇気付けるアメリカ人のモデルになる役割を
演じていると考えられている。
結論:今日の日本における平和教育の重要性について
2005 年 2 月、私、ハドリーは、東京外国人記者クラブにおける保守的政治信念で知られ
ている中曽根康弘元総理の昼食会に出席した。彼は正式には引退しているが、先輩政治家
の一人として、引き続き注目に値する影響力を及ぼしている。彼はスピーチの中で、日本
を再び強い、誇りをもった、「通常の国家」にするための改革を助長するように面倒を見る
仕事について言及した。中曽根にとって「通常」とは、国際的平和維持活動に十分に参加
できる軍隊を持つことを意味する。彼はこの夢を実現するため、日本の平和憲法を改正す
る必要性について述べた。
私のテーブルについていた新聞記者で、このような改正が行われると思っていた者はほ
とんどいなかった。しかしこの 2 年間、日本はちょうどそうなる瀬戸際にあった。政府は、
海外における自衛隊の任務をその主要な公式権限とし、新しく発足する防衛省の中に自衛
隊を統合する処置を立法化した。日本国憲法の残りの改正も、やがて行われるだろう。
新潟で私が教える多くの学生が、中曽根氏やその他の保守的な政治家の言動を真似てい
る。彼ら学生は、そして将来彼らが日本社会の指導者になるのだが、2001 年 9 月 11 日の
出来事以来、ひっくり返された世界において自分自身の立場を堅持するため、十分に強い
国家になることを望んでいる。我々は、その前半が残酷であった 20 世紀後半において、日
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本が平和主義者の立場を維持してきた能力は偉大な証拠とみるので、このような見解は迷
惑だと思っている。戦争を放棄することにより、日本は「通常の国家」が真にあるべき姿
の希望のシンボルであった。我々には、軍事行動を常習的に支持し、平和の対話を放棄す
る国家は、倒錯しているように思われる。数千年間、人道をのろってきた暴力の無益な循
環を断ち切れない社会的無能力は、彼らの弱さの証拠であり、強さではない。
近年の日本の漫画や映画は、日本帝国の先の戦争は、情け容赦ない技術先進国に対する
悲惨かつ衰退期の苦闘である、と描く傾向がますます強まっている。それらは、彼らの祖
父による沈黙やますます保守的になった文部省が認定する無害な教科書のため、戦争の恐
怖をほとんど知らない日本の若者に影響を与えるように目論まれている。最近の日本にお
ける教育制度の改訂では、カリキュラムの一部に「愛国教育」が含まれている。学生は、
今や日本を愛することの意義、公共心を持ち、そして伝統を維持することを学ばねばなら
ない。このことは、ちょうど同時に東京都知事が特別儀式において、日本の国歌─それは
神である天皇を崇める歌である─を歌わなかった多数の教師を解雇したり、厳罰に処した
ときに起こった。かくして、私が教えている大学の学生が、酩酊したとき、天皇のために
北朝鮮に行って戦い、死にたいと望んだことも意外ではない。
我々は、日本においては平和教育が、実のところ「愛国教育」への最善のコースである
と思う。そして日本の学生が、B-29 搭乗員や日本の太平洋戦争を体験した兵士の物語にも
っと関心をもっていただきたい。彼らに、戦場で勝利の旗を上げる個々の兵士の陰には、
暗い、淋しい場所に一人で、苦痛に泣き叫び、彼らの人生がずたずたに切り裂かれて死ん
で行く、数え切れないほど多くの兵士がいることを知って欲しい。これもまた勝利の代償
である。日本の若者は、太平洋戦争を苦難と犠牲者の点から考察するように教えられてい
るが、彼らは、苦難は彼ら若者が受けたのではなく、また戦争に負けた側の人間がしばし
ば最も冷酷になるということも直視するよう教えられるべきだと思う。激怒に駆られて敵
の兵士を殴り殺し、捕虜を飢えさせ拷問する、これらもまた犠牲者が終焉の直前に行うこ
とである。日本の若者のために、過去に帰ること、現存する恥を洞察し、戦争の暗黒年間
と十分に向かい合ってみることが必要である。アメリカ合衆国はより軍国主義の日本を支
持するので、日本人が真に日本を愛するには、我々は学生が犠牲者という錯覚を捨て、誰
が勝とうと負けようと、戦争には膨大な失費を伴うことを考えていただきたい。こうして、
次世代の日本は、戦争ではなく平和を遂行して、世界の指導者になるために役立つようお
願いしたい。
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