ヴィク トリ`ア朝の ~イヴ`

〔東京家政大学研究紀要 第36集 (1),P.17∼23,1996〕
ヴィクトリア朝の‘イヴ’
一一一
bousin∴PhilZisのヒロインをめぐって
片 岡 洋子
(平成7年9月30日受理)
The ‘Eve’in the Victorian Age−
the Heroine of Cousin Phillis
Yoko KATAOKA
(Received September 30,1995)
語」があることを指摘している.この視点に立っと,ヒ
〔1〕
ロインの内面の真実,っまり成熟しっっある個人として
Cousin Phitlis(1863)はこれ迄「ほぼ完壁な物語」
の女性の認識一愛の歓びと苦悩一がこの小説の中核であっ
と評せられてきた1)一自然の美しい描写に溢れ,不穏な
たことが納得できる.
問題を持たず,パストラルのジャンルで書かれており,
元来パストラルの世界に登場する女性は,ほぼ男性の
その作品においては「過去へのノスタルジア,失われた
崇拝,欲望,悲嘆,哀悼の対象として,男性の視点から
イノスンス,つまり人間が調和して生きていた堕落以前
呈示される.この作品においてもヒロインの内面の心理
の楽園生活への憧れ」Z)が豊かに表出されている.ま
は語り手である男性の目を通して,「回想」の形で視覚
た,ヒロインのフィリスと「自然」の近似性がよく指摘
的に表現されている.また女性であるフィリスを物語の
されてきたのであり,「彼女のイノスンスが牧歌的自然
客体ではなく主体とすることによって,男性の支配が構
の無傷の可憐さと調和している.」3)と評せられてきた.
築され,押しっけられていく様を作者は静かに問うてい
一方,1863年にジョージ・スミス社へ宛てたギャスケ
る.この小論においては,ヒロインの愛と成長をめぐる
ルの長い間未発表であった手紙4)は,別な結末があっ
主題がヴィクトリア朝のイデオロギーとどのように関わ
たことを示している.その結末は,ジョrジ・スミス社
るのかを,自然と人物との関係に留意しながら考えてみ
が予定していた発行回数しか認めようとしなかったため
たい.
に,決して書かれることはなかった.その概略に拠ると,
フィリスの父の死後数年して,結婚しているポールが物
フィリスの内面の成長を描くことにおいて,作者がキ
語の舞台であるヒースブリッジを訪れ,その地でチフス
リスト教的パストラルの世界を意識し,背景であるホー
が蔓延したことを知る.また,ホールズワースがかつて
プファームに楽園のイメージを与えていることが読みと
描いた専門的な技術上のスケッチを,湿地帯の排水に役
れる.農夫であり,ホーンビィ組合教会の牧師でもある
立っものとして利用しているフィリスに出会う.一般労
ホールマンを主人とするこの農場では,信仰と労働が調
働者たちと共に働く自立した女性である彼女は,二人の
和よくなされ,日暮れ時には作業の終った農場から讃美
孤児を養子にするのであり,愛情と男性の有する知識を
歌が流れてくる.彼にとって日常のテキストは聖書と古
併せ持っ女性として描かれている.もしジョージ・スミ
代ローマの詩人ヴァージルの『農事詩』である.このホー
ス社が寛容であったならば,この物語はあの宙ぶらりん
プファームは,ギャスケルが子供の頃よく訪れ,幸せな
な痛ましい場面で終ることはなかった筈である.またギャ
時を過ごした母方の祖父の土地サンドルブリッジがモデ
スケルは同じ手紙の中で,この小説には一種のモラルが
ルとされ,祖父の土地を支配していた「信仰と実践的技
あり,それは「一度も愛さないより,愛し,失恋した方
術」に対する彼女自身のノスタルジアが生み出した世界
が良い」ということ,っまり「感性を通しての成長の物
と言えよう5)。
教養部
語り手のポールが母のまたいとこにあたるホールマン
(17)
片岡 洋子
の妻に会いにホープファームを訪れると,或る隠れた,
を熟知しており,一週のうち五日を農作業に,二日を神
古代の女性の世界へ入り込んだと感じる.初秋の陽光に
の仕事に等しい精力をもって割り当てる.ポールのみな
溢れた戸外とは別世界のような,静かな,灰暗い,時が
らず,転轍法の新発見が特許になり,雑誌『ガゼット』
停止したかに思われる室内で,母はアイロンがけをし,
に載ったという発明家である彼の父,及びポールの上役
娘は編み物をしている.ブドー酒と菓子をのせた盆を娘
であり鉄道技官のホールズワースがこの農場で歓迎され
が持って来ると,自分が旧約聖書中の人物になって,主
るのも,伝統的農業が社会的産業的変化に滑らかに順応
の娘に接待を受けているような気になる.一一pa間後に再
しうることを示唆するものと考えられよう.ホールマン
び農場を訪れても,変化はほとんどない.中庭には一面
は力学の術語の説明をポールに求め,晩には娘のフィリ
に花が咲き乱れ,あたりに漂う花々の香りが,その後数
スと共にラテン語を楽しむ.「胸は厚く,脇腹は締まり,
日の間自分の晴れ着に染みっくだろう,と思う程である.
頭はしっかりと据わっている逞しい男」であるホールマ
物静かで単調な,また渦巻く外界から隔離されたオア
ンの農業,工学機械,法学に対する負欲な知識欲をポー
シスのようなホープファームの情景がポールにはいっ迄
ルは尊敬せずにいられない.
も続くような気がするが,それは同じに見える一方で決
作者はこのようにポールの目を通して,十九世紀のパ
して不変ではない.階段の時計は絶えず時を刻み,四季
ストラルにおいて自然のサイクルが文明や社会の変化と
は正確に繰り返し,干草刈りの後には,小麦の刈り入礼
調和する,という言わば進化発展の様相を提示している
りんごの収穫が続く.パラダイスが「無時間」,「不変」
が,この小説の主題との関連から考えると,その狙いは
の定義をもつとしても,この小説の世界はダーウィン以
何んであろうか.
後の世界であり,そこでは「静止,純粋な不変のサイク
ここで間もなく十九才になるポールが農場を訪れ,十
ル,又は一定した均衡の余地はない」6)のだ.
七才のフィリスに初めて出会う場面を想起する必要があ
1850年代は産業の発展による繁栄の時代であったが,
ろう.傾きかかった太陽に真正面から照らされ,戸口に
それを支える原因の一っが汽車汽船による交通運輸の
停むフィリスは薄暗い室内を背景に戸口の枠で縁どら礼
くっきりした肖像画のようにポールに鮮明な印象を与え
発達であったことは言うまでもない.この作品において
も,鉄道の出現という時代の徴候を作者はしっかりと見
る.
据えている.エルタム(或る州の首都)からホーンビィ
へ短い支線をかける工事が始まり,ポールは鉄道技師の
She was dressed in dark blue cotton of some
助手としてその工事に携わることになるのだが,ホープ
kind, up to her throat, down to her wrists, with a
ファームのあるヒースブリッジはホーンビィの近くにあ
little frill of the same, wherever it touched her
る.文明の波がホープファームの自然近く迄迫っており,
white skin, And such a white skin as it was!
土地そのものが汽車の到来にあらがうかのようであり,
Ihave never seen the like. She had light hair,
鉄道技師たちは難儀する.地盤がゆるく崩れやすいその
nearer yellow than any other colour. She looked
土地では,線路の片端を圧し固めると,すぐ他の端が浮
me steadily in the face with large, quiet eyes,
き上るのであり,近代文明を強制する人間の意志に,大
wondering, but untroubled by the sight of a
地が抵抗しているかのようである.因に作者が幼少時か
stranger. I thought it odd that so old, so full−
ら暮していたナッツフォード自体が鉄道建設で揺れ,そ
grown as she was, she should wear a pinafore
の駅はこの小説が書かれた前年の1862年5月に開設され
over her gown.(p.9下線筆者)
たのであった7).
パストラルの図式では「自然」は女性であり,神のも
成熟した女性が子供の着るピナフォア(胸当てのっいた
とではその管理及び豊穣を司どるのは男性である.ホー
エプロン)を身にっけていることがポールには奇異に思
プファームの主人であるホールマンは,知識と勤労を尊
えるのであり,「子供のような衣服を着て,子供のよう
び,古き良きものを保持する一方で,科学上の革新を受
に率直だったが,淑やかでしかもきりっとしていた.」
け入れながら,いかに人間文化が発展していくかを示す
と再び述べられるように,フィリスの外面と内面のチグ
人物である.この辺のどの農夫にも負けない位野良仕事
バグな落差に彼は気付かずにはいられない.農場の外に
(18)
ヴィクトリア朝の‘イヴ’一 Cousz’n Phitlisのヒロインをめぐって
おける様々な進化発展の様相に対比させると,未成熟の
行く途中出会う若者の中には見惚れたような目差をフィ
しるしとも言えるピナフォアを身にっけ,室内で静かに
リスに向ける者もいる.当時の風習に従い,彼女は白い
編み物をするフィリスの姿が効果的に浮き彫りにされて
ガウンと黒い絹の外套を身にっけ,麦わら帽を被ってい
くる.このように作者は「一っの同化されない要因」を
る.かなりの田舎道を歩いて来たことによる薔薇色に上
読者に強く印象づけているのであり,その要因とはフィ
気した頬黒い捷毛が濃く際立たせる青い眼黄色い髪…
リスの成熟に至る成長である8、成熟した異性を見るポー
そういった身体の特徴はモノトーンの色彩の衣服によっ
ルの目は,咽,手首,白い肌へ,更にキラキラ金色に輝
て一層くっきりと際立っのであり,その姿が若者の心を
く髪,まじまじと見詰める大きな目へと,彼女の肉体の
捉えるのは自然であろう.そのことに気付く母親は穏や
上を俳徊する.純真さと官能性の入り混じったフィリス
かな顔付に誇らしげな表情を浮べ,「自分の宝物を守り
の輝くような美しさが,言葉よりも凝視によって絵を見
ながら,しかもそれが他人の目にも宝物だとわかるのが
るように表現されている.「その夏のことを思うと,楽
嬉しいとでもいうような面持ち」である.一人娘のフィ
しかった日々やいくっかの一寸した情景が今でもはっき
リスは両親にとって傷っかぬよう,盗まれぬよう,保護
り思い出される.それらは絵のように私の記憶に蘇って
と監視を怠ってはならない大切な「宝物」であり,「掌
くる.」とポールが後に述べるように,フィリスの心理
中の玉」なのだ.
の動きにっいても絵画的に表現されることが多い.
りんごの皮をむきながらダンテを読むフィリスは,手
作者がフィリスの紹介の仕方を,小説の冒頭でポール
同様頭を使うことにも心を燃え立たせるのであり,彼女
が彼自身の考え方を述べているキビキビした語調と対比
にとって本は家事,家畜の世話,農作業同様,自然なも
のである.フィリスが「パストラルの伝統における理想
させていることは明らかである.
化された愛の装飾的対象であった羊飼いの女」ではなく
9)
It is a great thing for a lad,when he is first
Cイタリアやギリシャの古典を読み,ラテン語を学ぶ
turned into the independence of lodgings. I do
「楽園の中の学者」と言えるであろう.その一方で子供
not think I ever was so satisfied and proud in my
用のピナフォアを身にっけていることを同年代のポール
life as when, at seventeen, I sat down in a little
が奇異に思っても,娘を今だに子供と信じて疑わない両
three−cornered room above a pastry−cook’s
親は全くそれに気付くことはない.時間がゆったりと流
shop in the country−town of Eltam.(p.1)
れ,日々の暮しは全く平穏である.秋になり,あんなに
目障りだったピナフォアをフィリスがしなくなったこと
文体と語調には町と田園,青年と若い女性の相違が読み
は,ポールには一っの事件にも等しいことである.その
とれよう.父親似の大柄で,ポールより頭半分背の高い
代りにエプロンをしているが,作者はその説明をなぜか
フィリスの知識欲は父親と共通しており,読む本はヴァー
省略している.
ジル,シーザー,ギリシャ古典であり,どの本にもフィ
〔皿〕
リスの名が署名されている.彼女の学問や読書に対する
緩慢な歳月の漸進的集積を,作者は新しい,又は異質
熱意はポールに強い劣等感を抱かせ,彼女に対する初め
のひかれる気持はやがて修正されていく.「聞いたこと
な分子のもたらす衝撃に対峙させ,生を創り出す力を極
もない本を読み,しかも単なる人の噂話などするよりも
立たせている.ポールの尊敬する上役の鉄道技官ホール
本の方が遥かに面自い,というような話し方をする娘」
ズワースが熱病にかかり,病後の療養のために彼をポー
への畏れから,ポールはフィリスを恋人又は一生の伴侶
ルが農場へ連れて来ると,ホールズワースは広大な外部
にするという考えを全く棄て去ることになり,二人はそ
世界の様々な要因をこのパラダイスに持ち込む.同時に
のたあにかえって仲良しになる程である.
彼の熱病を心理的に感染させたかのようにフィリスに
彼らは年令と階級がほぼ等しく,身体,知性の点では
「熱」を,つまり口には出されない愛の歓びと苦悩をも
フィリスの方が優れている.しかし社会的には男のポー
たらすのであり,彼女を異なる状態へ変容させてしまう.
ルは自立し,それに誇りと満足を抱く一方で,フィリス
機才に満ち,外国での経験豊かなホールズワースは,
は両親の保護下にある子供の身分である.皆で礼拝堂へ
この土地の人々とは話し方が異なり,また身ごなし,へ
(19)
片岡 洋子
アスタイルも外国風であり,彼の立派さがホールマン家
確な形にするために,小麦の穂を彼女の頭にかざし,髪
の立派さとは少々質が違うことを感じているポールは,
をバラバラに垂らさせ,ケレス(豊作の女神)に扮した
牧師一家とうまく折り合うかどうか心配するが,それは
像を描く.見詰められるフィリスの顔に現われる微妙な
杞憂であった.如才なく家族の者に気を配り,豊かな経
心理の動きを,微細なことに機敏なポールは見逃さない.
験から多くの興味深い話題を提供するホールズワースは
牧師一家に気に入られ,たちまちのうちに彼らの心を捉
He began to draw, looking intently at Phillis;
えていく.彼の鉛筆はいつも即座に取り出されて,紙片
Icould see this stare of his discomposed her−
にあらゆる図解が描かれる.彼らがその絵を眺めた後,
her colour came and went, her breath quickened
その絵を集めて仕まい込むフィリス.彼の話を聞いてい
with the consciousness of his regard;at last,
ると,魔術をかけられたように「ホレスもヴァージルも
when he said,“Please look at me for a minute or
生きた人間となり」,話のおもしろさに冷静な判断をし
two,1 want to get in the eyes,”she looked up at
ているつもりでも,夢中になってしまうことを心配する
him, quivered, and suddenly got up and left the
ホールマンは,ホールズワースの話や言葉遣いには時々
room.(pp.59−60)
真面目さと誠実さが欠けているのではないか,と疑うこ
また果樹園へ行く途中で見かけた花をフィリスが花束に
とがある.しかしこれは,「年長者の心を捉えた青年の
魅力に対する抗議」と云ってよいものであり,二人の交
して,別れ際にホールズワースに手渡す場面は次のよう
際は深まっていく.
に記述される.
しかしポールの感性,及びホールマンの確かな目は,
ホールズワースが牧師一家の人々とは質の異なる人間で
Isaw their faces.Isaw for the first time an
あることを見抜いており,それはまたホールズワースの
unmistakable look of love in his black eyes;it
後の行動を裏づける根拠ともなるであろう.一方フィリ
was more than gratitude for the little attention;
スにはイタリア語を教えながらホールズワースは兄らし
it was tender and beseeching−passionate. She
い関係を保ち,「彼女の勉強を新しい方法に導き入れ,
shrank from it in confusion, her glance fell on
その思考や当惑や未熟な理論を十分発表できるように,
me;and partly to hide her emot童on, partly out of
辛抱強く骨折る」のであった.
real kindness at what might appear ungracious
豊かに野菜が生育し,果物が実りかける初夏にフィリ
neglect of an older friend, she flew off to gather
スとホールズワースは出会い,自然の移りゆくサイクル
meafew late−blooming China roses. But it was
と共に彼らの友情はゆっくり熟していく.彼らの直接的
the first time she had ever done anything of the
な体の触れ合いは,一度生じるだけである.農場で経緯
kind for me.(p.61)
儀の操作の仕方を牧師に教え,またフィリスも一心に聴
耳を立てている時,突然雷鳴が轟き,土砂降りとなる,
フィリスの顔の表情,視線,呼吸の乱れ,身震い,といっ
突出した砂提の蔭で皆が雨宿りをするが,その時にホー
た身体上の詳細な描写は,無意識のうちに現われた性的
ルズワースのシャツにフィリスが触れる.雨にさらされ
な欲望を語っており,それは少女時代の無垢なままにお
たまSになっている機械の部品を,雨宿り場所からフィ
かれたフィリスの偽りのない姿であろう.
リスが駆け出して集め,持ち帰る.その時のフィリスは
カナダでの新たな鉄道線路敷設の仕事のために突然出
妖精のようであり,長いきれいな髪は雨の中になびき,
立するホールズワースは,その直前ポールにフィリスへ
雫が垂れている.目は喜びにキラキラし,雨に打たれて
の愛を打ち明け,二年後には帰国して彼女に直接愛を告
駆けて来たために,顔はっやっやと健康そうに輝いてい
白する,と語る.同時に,「あの人はあんなに世間とか
る.この雷はフィリスの情熱を表わしたものと思われ,
け離れた生活をしている.『眠れる美女』と言っても
「激しい嵐はホールズワースとの関係が,性的な意味合
いい程だ… だが,僕はカナダから王子のように帰って
いをもっことのアロジーである」10)と言いうるであろう.
来て,あの人を僕の愛に目覚めさせよう.」と述べる.
ホールズワースはフィリスの望ましい「野性美」を明
ケレスとしてのフィリスのスケッチは失敗に終り,そ
(20)
ヴィクトリア朝の‘イヴ’−Cousin Phitlisのヒロインをめぐって
れにも拘わらずカナダへ持って行こうとするそのスケッ
に見える.果樹園の大きな薪の山の下の隠れ家に,犬の
チは,「可愛い無邪気な顔」しか生み出さない.そして
ローヴァーと一緒に潜み,風のざわめきのような低い坤
またフィリスは「眠れる美女」の中に凍結されていく.
き声をたてて泣いているフィリスの痛ましい姿を気の毒
彼は「生きた女性」ではなく,無邪気さのイメージを愛
に思ったポールは,ホールズワースの彼女に対する愛と
していたにすぎない.カナダ人の娘と後に結婚するホー
結婚の意志を知らせてしまう.それを聞いたフィリスの
ルズワースは,決して冷淡な誘惑者とは言えないであろ
心理は,顔の表情の動きを通して,生き生きとリアルに
う.牧師一家とは異質の世界に生き,異なる軌道で動い
表現されている.
ていることから生ずる不注意なやり方で反応するのだ.
フィリスは,海の生活に憧れる父親に似て,自分の世界
She lifted up her head and looked at me. Such
とは対極的な位置にあるものに胸を踊らせる.ホールズ
alook!Her eyes, glittering with tears as they
ワースもロマンティックであり,女性についての彼の幻
were, expressed an almost heavenly happiness;
想のために,フィリスを明確に見ることができない.自
her tender mouth was curved with rapture−her
然の女神ケレス,及び「眠れる美女」のイメージによっ
colour vivid and blushing;but,as if she was
て表わされるように,ホールズワースは自律した感情を
afraid her face expressed too much−more than
もたない役割において彼女を想像する.フィリスは,
the thankfulness to me she was essaying to
「女性と自然とのロマンティックな一体化,及び女性を
speak−she hid it again almost immediately.
子供としてみるヴィクトリア朝のレトリックの罠にはまっ
(P.74)
ている」11),と言えよう.
男性が独立のもとに生まれることは当然であり,また
フィリスの歓喜の表情は,彼女の恋が官能的なものであ
支配するたあに創られ,境界を越えることを許される.
ることを明瞭に示している.ホールズワースの帰国を待
この小説の中の或るささやかなエピソードは,非常に示
ち,彼の口から直接聞く迄,その話は二人だけの秘密と
唆的である.ヒースブリッジの村で,二人の兄弟が駆け
なる.
たために,手に持っていた器からミルクがすっかりこぼ
ヴィクトリア朝の道徳においては,女性側から愛が始
れてしまう.泣いているところへ通りかかったホールマ
まってはならず,男性側から進行すべきであった.「良
ンは,「もし競争もせず,ミルクをこぼすこともなけれ
家の子女は決して結婚を求めないのであり,幼年時代と
ば,君たちは少年ではなく天使だろう.」と云って彼ら
成人の間に女性はただ待っだけ」ユ2)であった.従って
を慰め,元気づける.大部分の女性たちが「家庭の天使」
フィリスがホールズワースの出立に不平を言うことは,
に留まる一方で,男性は身体的に,知的に,また社会的
彼女の恥ずべき意識を認めることであり,彼が一旦去っ
に移動が可能であり,そしてレースを走り,競争する.
てしまうと,彼女は沈黙以外に探りうる道はないのだ.
ホールズワースは異なる世界からパラダイスへ入り込み,
〔皿〕
女性の官能を目覚めさせ,疾風のように去って行く.移
動できない女性は,ひたすら静かに待っだけである.こ
復活祭を迎え,生命力を甦らせたフィリスは,芽ぶく
れはポールの父が若い頃,生活のために愛する女性に何
木の下に立ち,喜びのあまり鳥の鳴き声を真似る.その
も言わず去った後,女性が思い焦がれて亡くなるエピソー
楽しそうな姿を,ポールは次のように回想する.
ドとも重複するであろう.女性の生は父親,夫,恋人,
によって規定され,受動的,相対的なものでしかない.
Ican see her now, standing under the budding
ホールズワースもポールの父も愛する能力をもっている.
brances of the grey trees, over which a tinge of
しかし悪意は無くともそれを仕事の次におくのであり,
green seemed to be deepening day after day, her
残された女性の心境を思いやる余裕は無いのだ.
sun−bonnet fallen back on her neck, her hands
クリスマスになり,ホールマン家に滞在するポールは,
full of delicate wood−flowers, qulte unconsclous
フィリスのあまりの変貌ぶりに驚かずにいられない.以
of mygaze, but intent on sweet mockery of some
前よりも痩せ,顔色は青ざめ,灰色の目は窪んで悲しげ
bird in neighbouring bush or tree. She had the
■
(21)
片岡 洋子
art of warbling,and replying to the notes of
と信じて疑わない両親を,ぶっきらぼうな調子ではある
different birds, and knew their song, their habits
が,鋭く批判する。娘の異常にようやく気付いた牧師は,
and ways, more accurately than any one else I
ポールが余計な恋の話などをして,「世の荒波からまだ
ever knew. She had often done it at my request
守ってやらねばならない,年端のゆかぬ」娘の心を乱し
たことで,激怒する.ポールに対するホールマンの激し
い怒りは,小女時代を殊の他「か弱いもの」とする彼の
out of the very fulness and joy of heart。(PP.77−
考えによる.男の子のいたずらは仕方がない,という考
8︶
the spring before;but this year she really gur−
gled, and whistled,and warbled, just as they did,
え方に基ずいて,ミルクをこぼす男の子を現実的に扱う
一方で,ホールズワースのフィリスに寄せる愛情をポー
ルが彼女に打ち明けたことを,判断の誤りであり,取り
真似る鳥の鳴き声は,彼女の官能の歓びそのものと言え
るであろう.ここにあるのは,人の前では顔の表情に現
消しえない害を与えたもの,と見る.また,娘が親の所
われることをひたすら恐れて隠した内心の歓びを,この
有物であり,良家の娘の性意識は自ずと目覚める迄存在
自然の中で伸び伸びと表現している姿である.自然と一
しない,という彼の信念は,旧式なピューリタン的意識
体となった愛らしいフィリスを,ポールは「嵐から守ら
であり,フィリスのアイデンティティをホールズワース
れて,寂しい一軒家の日当りのいい南側に咲き出た,満
とは異なるやり方で否定する典型的なヴィクトリア朝人
開の匂やかな薔薇」にたとえている.
と言えよう.牧師は,ポールが「あんな考えを子供の頭
女性と「自然」との関連は,神学的,牧歌的,且つロ
にっぎ込んだ,他人の恋の話などをして,娘らしい穏や
マン派の伝統によるものであり,乙女のフィリスを鳥や
かな心を乱した.」と確信する.しかしポールは,父親
薔薇にたとえるのもその一っであろう.ヴィクトリア朝
の愛が深い一方で,盲目でもあることがわかる.
の人々にとうて,「自然な少女時代のイメージは,成熟
さへの到達と性的な関係から宙ぶらりんでいる時に少女
1 could not help remembering the pinafore, the
は幸せでありうる,という理念を支えている」ユ3)のだ.
childish garment which Phillis wore so long, as
しかしフィリスの「自然」との近似性を主張してきた従
if her parents were unaware of her progress
来の批評は,彼女の個人としての人間性を犠牲にして受
towards womanhood. Just in the same way, the
け入れられてきた,と考えられる.フィリスの沈黙は,
minister spoke and thought of her now,as a
彼女の性意識の否定である.しかし彼女は既に目覚めて
child, whose innocent peace 1 had spoiled by vain
いる.彼女の幸せは,性的な官能の愛に基ずくのであり,
and foolish talk. I knew that the truth was diffe
ホールズワースの結婚の知らせによって終る.その手紙
rent,…(p.98下線筆者)
を読むフィリスは身動きせず,一言も言わず,今にも泣
き崩れそうだが,自制を失わない.その時生じる夏の激
この地点でフィリスは,見た目には子供から女性へ変化
しい雷雨は,彼女の心の衝撃を表わすかのようである.
して登場する.衣服を半ば脱ぎ,冬の外套で身を被った
彼女の幸福には人間的欲求に基ずく理由があったことを
フィリスの顔は奇妙に青ざめ,周りがあざのように丸く
明確に認識できないフィリスは,沈黙し続けることによっ
黒ずんだ目が憂いに沈んで見える.ポールを弁護するた
て彼女の失望を隠すしかないのだ.その沈黙は性の認識
め,彼女は今父に向かい,はっきり「私はあの方を愛し
の否定であり,ヴィクトリア朝の社会では至極当然のこ
ておりました.」と述べる.ここでフィリスはポールの
とであった.ホールズワースの結婚はフィリスの心に,
ためにタブーに公然と反抗し,父親に対して自身の性の
拒絶による屈辱と恥辱の意識夢の喪失,虚脱感をもた
意識を確認する.ホープファームのエデンには,「知恵
らし,心身を荒廃させてしまう.
のりんご」に手が届き,「欲望」を発見するイヴが住ん
娘の変貌に両親が気付かず,相変らず安らかな月日を
でいたのだ.フィリスの装われた沈黙の代りに,自己の
送る一方で,真実を見抜くのは女中のべティである.フィ
真の情動に反応する一方で,求められていない愛を感じ
リスの悲しみがホールズワースの仕打ちによるものだと
ることの恥辱は,彼女に心身の崩壊をもたらす.
判断し,また一人前の大人になっている娘を今だに子供
ホールマンの心痛は,嫉妬した恋人のそれに似ている.
(22)
ヴィクトリア朝の‘イヴ’−Coz‘sin Philtisのヒロインをめぐって
彼は娘を彼女自身どしてではなく,もっぱら彼との関係
1)John Lucas,‘Mrs Gaskell and Brotherhood,’in
において見てきた.両者の間に深い割れ目が開く.父の
Trαdition and Tolerance in Nineteenth−century
所有物である「子供」と,彼女自身が選択する「女性j
Fiction, ed. David Howard et al (1.ondon:
との間の分裂は,フィリスを二っに裂き,狂気に押しや
Routledge and Kegan Paul,1966)26.
2) J.A.Cudden,A Dictionary q/Literαry Terrns
る.深刻な病から回復した後も,「眠れる美女」のお城
に幽閉されたようにソファーに横たわるフィリスを立ち
(Harmondsworth:Penguin,1979)490.
直らせるのは,あの女中ベティの現実感覚である.彼女
3)Margaret Ganz,Elizabeth Gashell’the Artist
の短い説教は効果をもたらし,その後間もなくフィリス
in Conflict(New York:Twayne Publishers,
は,バーミンガムにいるポールの両親を訪ねることにな
1969) 223.
り,外界へと足を踏み出すことになる.しかし彼女がきっ
4)ECGto George Smith,10 December 1863,
と戻る,と意思表示をした昔のまSの穏やかな暮し,っ
Edinburgh, MS 23181, fols 180−5, quoted in
まり「エデンの園」への真の帰還がありえないことは明
J.A.V.Chapple,‘Cousin Ph量llis:Two Unpub−
白である.
lished Letters from Elizabeth Gaskell to George
正統的なヴィクトリア朝の人々が,「イノスンス」は
Smith,’Etudes anglaises, XXIII(1980),183−7.
沈黙の垣根の中で保持されると考えた一方で,この物語
手紙の概略については,Jenny Uglow,Elizabeth
は「真実はそうでない」ことを明示している.フィリス
Gαshell, A、Habit()f St ories(London:Faber and
は自然発生的に恋をする,そして彼女が失う「イノスン
Faber,1993)551−2に拠る.
ス」は,長引いた子供時代のそれである.ヴィクトリア
5)Uglow 541.
朝のイデオロギーの脈略においては,この「喪失」は積
6)Gillian Beer, Darωin ’s Plots’Evolutionary
極的な効果をもちえない.しかしこの物語は,女性の成
Narrαtive in Darωin, George Eliot and Nine−
熟へ至る成長が避け難いものであることを,正しく主張
teenth−CenturツFiction(London and Boston:
している.そしてその焦点を「異性への愛」から「精神
Routledge Kegan Paul,1983)11.
の自立」へ,「原罪の意識」から「未来への発展」へ方
7)Uglow 541.
向付けたことに,この小説の重要な意味があったのでは
8)Patsy Stoneman, Elizabeth Gαsたell(Brigh−
ないだろうか.四人の娘の母であり,しかも末娘が当時
ton:The Harvester Press,1987)161.
フィリスと同年令であったギャスケルにとって,それは
9)10)Stoneman 163.
身近かで,切実な問題であったとも思われる.
11)Uglow 547.
註
12)Deborah Gorham,The Victori(m Girlαnd
the Feminine ldeal (1」ondon and Canberra;
Text:Elizabeth Gaske11,Cousin Phillis (1863;
Croom Helm,1982)53.
rpt.New York:Ams Press,1972)
13)Stoneman 165,
(23)