表65 出土遺物一覧(高橋仏師3号墳)

表64 掲載遺物一覧(高橋仏師3号墳)
番号
種別
器 種
1262
須恵器
杯H蓋
石室内 TR14.7,H5.1
1263
須恵器
提瓶
石室内 TR10.4,H23.9
1264
金属
製品
鉄鏃
1265
須恵器
杯H蓋
1266
須恵器
壺
法 量
出土情報
SX01
SX01
包含層
種 別
須恵器
部 位
弥生
金属製品
その他
土師器
胴部
須恵器
口縁部
胴部
2.5GY7/1
N7/1
o:回転ナデ,回転ヘラ
i:回転ナデ,指頭圧痕
o:回転ナデ,カキ目,
指頭圧痕
i:回転ナデ,指頭圧痕
5Y7/1
5Y7/1
10Y4/1
10Y4/1
o:回転ナデ,回転ヘラ
i:回転ナデ,指頭圧痕
o:回転ナデ,回転ヘラ
i:回転ナデ,指頭圧痕
包含層 TR8.7,LR3.0,H8.1
区分
A
A
C
A
C
B
C
A
A
点数
1
1
22
1
1
1
19
1
1
備 考
掲載番号
1262
1263
1264
1265
1266
276
図
図
版
157 105
157 105
圭頭鏃
包含層 TR14.5,H4.6
器 種
杯H蓋
提瓶
壺
鉄鏃
粘土塊
不明
甕
杯H蓋
壺
調 整
L(6.9),W3.5
表65 出土遺物一覧(高橋仏師3号墳)
時期 出土情報
古墳 箱式石棺
外面色調
内面色調
5Y7/1
5Y6/1
159 105
160 105
160 105
第11章 高橋仏師4号墳の調査
第1節 高橋仏師4号墳の概要
1
地形と調査区(図1・161・163)
高橋仏師4号墳の絶対位置は、北緯34゚02'24"、東経132゚57'26"の交差する付近で、現地の標高
は112.2∼118.2mである。行政上は今治市高橋乙57ほかで、調査前は山林であった。本古墳は高
縄山系から枝分かれした低丘陵頂部に位置し、高橋地区が一望できる高所である。本古墳から尾
根頂部を下ると、古墳時代初頭から後期にかけての古墳群である高橋仏師1∼3号墳が所在する。
また、狭小な谷部(高橋仏師II遺跡ほか)を挟み南側の丘陵尾根上もしくは段丘上には、高橋山岸
古墳群や高橋岡寺II遺跡などの後期古墳や、古墳時代後期の集落である高橋山崎遺跡が展開する。
本古墳については、遺跡確認調査の段階では「高橋仏師I遺跡」として報告されていたが、発掘
調査の結果、古墳時代前期の墳墓であることが明らかになったことから、今後は「高橋仏師4号
墳」として報告することとしたい。
調査区は南北約30m、東西約45m、平面積は1,500m2である。
2
遺構と遺物の概要(図163・表66)
検出した遺構は埋葬主体2基である。古墳については次節で詳述する。
出土遺物は包含層の土師器1点を除き、先述した第1・2主体部からの出土であった。主な遺物
としては古式土師器・金属製品(青銅器)・玉製品・石製品などの古墳時代の遺物が認められる。
出土総点数は68点で、そのうち図化して資料化したものは古式土師器8点・金属製品5点・玉製品
20点・石製品2点である。これら実測図掲載分を含むすべての出土遺物について、種別・出土位
置・層位・数量等の情報を章末の出土遺物一覧(表69)にまとめた。
表66 主要遺構一覧 (高橋仏師4号墳 )
遺構名
種 別
平面形
主 体 部 第1主体部 隅 丸 方
第2主体部 隅 丸 方
長さ
340.0
350.0
単位:cm (*.*):復元値 [*.*]:残存値 →**:**を切る,←**:**に切られる
深さ
掲載遺物
幅
重 複 関 係
図 図版
58.0
1267∼1298 164 106∼110
175.0
210.0
58.0
1299∼1301 168 110
第2節 古墳時代の遺構と遺物
1 墳丘(図161∼163)
本古墳は東側に延びる低丘陵の頂上部に所在し、標高113.0∼118.0mに位置する。後世の大き
な開墾は認めらないものの、調査前は墳丘としての高まりは確認困難であった。
墳頂部については、表土(I層)直下および層厚10∼20cmの流土層(II層)下で、地山層である花崗
277
Y=-50,105
Y=-50,110
Y=-50,115
Y=-50,120
Y=-50,125
Y=-50,130
Y=-50,135
Y=-50,140
Y=-50,145
Y=-50,150
Y=-50,155
X=115,495
X=115,490
X=115,485
X=115,480
118.0m
117.0m
X=115,475
116.0m
X=115,470
115.0m
X=115,465
114.0m
113.0m
0
5m
1
:
400
図161 高橋仏師4号墳墳丘測量図(調査前)
岩風化岩盤が露出する箇所が認められる。盛土の存在についても確認したが、現状では認められ
ない。後述する第1主体部上面で出土した石杵および古式土師器が墳丘流土中に混在しない点や、
墳丘下部(斜面部)の流土層(II層)が厚く堆積しない点などを考慮すると、本来から盛土自体が希薄
もしくは局部的にしか施されていない可能性も考えられる。
地山整形の痕跡についても確認困難であるが、墳丘北東部に傾斜変換点を確認し、幅2m程度
のテラス状の平坦面を形成している。第2主体部も所在するが、この標高115.0m付近のレベルが
墳裾として認識できるものと考える。同様に墳丘北側斜面部でも標高115.2m付近で僅かな傾斜
変換が認められることから、北東に延びる尾根筋から見上げた際、この115.0m付近が墳丘裾部
として認識されているものと判断する。墳頂部との比高差は3.0mを測り、平地部から見上げた
際には、かなり規模の大きな墳丘として意識されるものと想像する。墳丘南部は崩落面などがあ
り、当時の地形を復元することは困難である。
尾根頂部の墳丘裾の認識であるが、調査後の墳丘測量および断面観察では明瞭な地山整形痕や
傾斜変換点は認められない。調査前測量の段階では、尾根頂部に張り出し状のコンタラインが延
びており、前方後円墳の可能性も指摘されていたが、現状では残丘部としての可能性もあり、前
方部端を規定する根拠が薄弱で推測の域を出ない。敢えて可能性を示すならば、調査前測量で丘
陵尾根に直交する地形コンタが延びる標高117.2∼117.3mの地点をその候補としたい。
278
A
B
T.P.+118.5m
IIa
I
IIa
I
第1主体部
IIa
I
III
III
C
IIa
D
T.P.+118.5m
I
IIa
I
撹乱
第1主体部
撹乱
III
I
IIa
IIb
III
I
IIc
F
C
E
B
A
D
E
F
T.P.+118.5m
I
IIa
層名
I
IIa
IIb
IIc
III
I
III
第2主体部
色 調
黒
褐
褐
にぶい黄褐
にぶい黄橙
黄
褐
Munsell
10YR2/1
10YR4/6
10YR5/3
10YR6/4
10YR5/8
砂
砂
砂
砂
砂
土 質
質
質
質
質
質
土
土
土
土
土
備 考
表土層
2∼3mm大の礫を含む。古式土師器・古代の土器を含む。流土層
2∼3mm大の礫を含む。流土層
2∼3mm大の礫を含む。流土層
花崗岩風化岩盤。地山相当層
IIa
0
2m
1
:
100
図162 高橋仏師4号墳墳丘土層断面図
279・280
Y=-50105
Y=-50110
Y=-50115
Y=-50120
Y=-50125
Y=-50130
X=115500
X=115495
X=115490
主体部
第2主体部
X=115485
112.0m
X=115480
第1主体部
主体部
118.0m
117.0m
113.0m
116.0m
115.0m
114.0m
X=115475
114.0m
X=115470
傾斜変換線(墳裾)
傾斜変換線(撹乱)
0
5m
1
図163 高橋仏師4号墳墳丘測量図(調査後)
281
:
200
以上の所見より判断すると、現段階では円丘部の径18.0mを測る円墳で、尾根主軸西側に4.0m
程度の突出部を付設したもの(墳長22.5m)と評価したい。
2
埋葬主体
(1) 第1主体部(図164∼167)
遺構
墳頂部中央やや東斜面寄りで検出した。主軸長3.4m、最大幅1.75mを測り、平面形は隅丸
方形を呈する。坑壁は長軸壁が若干緩やかで、側壁では急勾配である。深さは58.0cmを測る。壙
底は平坦だが北東方向に向けて若干傾斜が認められる。
土層の堆積状況は、長軸1.54m、幅0.65mを測る明黄褐色砂質土の堆積(3層)が認められる。こ
の堆積は、上方に向かうに従い開くもので、おそらく木棺の長側板および小口板の境界を示すも
のと捉えられる。木棺の範囲はやや窪みを有し、底面が平坦であることから、木棺自体の構造は
組み合わせ式と判断する。1・2層は木棺裏込土である。しかし長軸方向では墓壙掘方から木棺側
板まで20∼70cmと距離があることから、さらに木槨構造を有していた可能性も指摘しておく。
遺物は主に墓壙上面と壙底の2箇所で認められる。前者は古式土師器および石杵(1297・1298)、
後者が破鏡(1275)および玉製品・鉄製品と、その様相が大きく異なっている。つまり、古式土師
器や石杵が墓上祭祀での供献用として用いられたのに対し、床面の玉製品および破鏡は被葬者の
b'
副葬品として納められたものと考えられる。被葬者の頭位は不明である。
a
3
T.P.+118.2m
1
b'
b
1
a'
b
a
a'
T.P.+118.2m
2
2
1
3
1
Munsell
色 調
層名
1 明 黄 褐 10YR6/8
10YR4/6
褐
2
10YR4/4
褐
3
砂
砂
砂
1
土 質
質
質
質
備 考
土 2∼3mm大の礫を多く含む。花崗岩風化土の混入あり。土器片あり
土 1∼2mm大の礫を含む
土 1∼2mm大の礫・炭化物・土器片を含む。木棺内埋土
0
図164 第1主体部検出状況
282
50cm
1
:
40
1275
1273
1272
b'
1297
1276
a
T.P.+118.2m
b'
b
a'
b
1269
1271
1267
1270
a
1274
1298
a'
T.P.+118.2m
玉類(管玉・ガラス小玉)
青銅鏡(破鏡)
古式土師器
0
50cm
1
:
40
図165 第1主体部遺物出土状況
出土遺物から古墳時代前期前葉(初頭)の遺構と考えられ、遺構の性格は、遺構配置や副葬品の
構成および多様性、さらに墓上祭祀の様相から判断して、本古墳の中心主体である。
遺物 1267∼1274は古式土師器である。1267∼1272は低脚高杯で、1267は完形に復元できる。口
径9.7cm、底径13.7cm、高さ7.4cmを測る粗製品で、杯部は浅く内湾しながら外上方へ開き、端部
を丸くおさめる。外面には指頭圧痕が列状に見られる。脚部は「ハ」字に大きく開き、孔径0.4cm
の円孔を穿つ。脚柱部にはミガキ、脚裾部付近には僅かにハケ調整が認められる。
1268∼1272は精製品である。1268は杯部で外面にはケズリの痕跡、内面には放射状のヘラミガ
キが認められる。口縁端部はシャープな作りである。1269∼1272は脚裾部で、1269には円孔が穿
たれる。1270∼1272は復元径16.0∼16.7cmを測り、脚端部が僅かに内湾(屈曲)し、シャープな作
りである。内外面には細かな横方向のハケ調整を施す。
283
1273
1267
1268
1274
1269
1270
1271
1275
1272
0
1276
5cm
1
:
0
3cm
3
1281
1280
1278
1
:
2
1
:
1
1282
1279
1277
1283
1284
1285
1286
1287
1288
1290
1291
1292
1293
1294
1295
1289
1296
0
図166 第1主体部出土の遺物1
284
1cm
1273は直口壺である。精製品で復元口径12.8cmを測る。大きく外傾し直線的に開き、口縁端部
は尖る。外面には細かな縦方向のハケ後、一定間隔のヘラミガキ調整を施す。内面は下位が指頭
圧痕、端部内面は螺旋状のハケ調整を施す。
1274は口径25.4cmを測る粗製の二重口縁壺である。二重口縁の端部は外反し、丸くおさめる。
器面はナデ調整がみられ、擬口縁との接合は、二重口縁を貼付した後、段を強調するように粘土
帯を足し突出させる。
1275は破鏡で、数個体に割れている。穿孔が2箇所認められ、懸垂鏡であった可能性が高い。
復元面径14.8cm、器厚0.3cmを測り、鏡面には光沢が残り、縁部は薄手である。外区文様に櫛歯
文を用いる。舶載内行花文鏡である可能性が高い。破断面および鏡背面には研磨が認められ、赤
色顔料が付着する。
1276はヤリガンナと思われる。2破片が錆着しており、断面形は長方形を呈する。表面には布
痕が付着する。
1277∼1282は管玉である。1277∼1281は碧玉製で濃緑色を呈する。1277は全長1.9cm、幅0.8cm
とやや大型で、孔径0.25cmを測り両面穿孔である。1278・1279は全長1.35∼1.45cm、幅0.45∼
0.53cmを測り、1280・1281は幅は同程度で全長0.9∼1.0cmと寸胴である。穿孔は両面穿孔を基本
とする。1282は緑色凝灰岩製で淡緑色を呈する。全長0.85cm、幅0.4cm、孔径0.13cmを測る小型
1297
1298
0
5cm
1
図167 第1主体部出土の遺物2
285
:
3
a'
1300
トレンチ
b'
a
a'
T.P.+114.7m
1299
1
a
b
b
b'
T.P.+114.7m
1
1301
層名
色 調
Munsell
1 黄
褐 10YR5/7
土 質
粘性 緊密度
備 考
小礫混じり細砂 弱
中
第2主体部埋土
0
50cm
1
1300
:
40
1301
1299
0
3cm
1
図168 第2主体部遺構と遺物
286
:
2
品で、穿孔は両面穿孔である。
1283∼1296はガラス小玉である。径0.25∼0.58cm、高さ0.1∼0.58cm、孔径0.1∼0.2cmを測る。
色調は全て青色を呈する。全体的に扁平だが、1283・1289は円柱状で厚みを有する。
1297・1298は砂岩製の石杵である。1297は全長9.7cm、最大厚6.7cm、重量487.52gを測る。断
面形は隅丸方形を呈し、基部および側面は丁寧に研磨され丸くなる。敲打痕はなく、側面の一部
に僅かな赤色顔料の痕跡を残す。1298は全長14.5cmと長く、最大厚6.1cm、重量719.72gを測る。
断面形は隅丸台形を呈し、中央部が反り握り部となる。基部の一部を除き丁寧な研磨が施され、
擦り面には赤色顔料が明瞭に残り、基部および擦り面中央部には敲打痕がある。擦り面の磨耗お
よび敲打痕より判断して、かなり使用されていたものと推測する。
(2) 第2主体部(図168)
遺構
墳丘北東部裾の平坦面で検出した。主軸はN-38゚-Wを指向し、北東へ延びる尾根稜線に主
軸を直交させる形で配置する。主軸長3.5m、最大幅2.1mを測り、平面形は隅丸方形を呈する。
壙壁は斜面上位の南西部がやや急勾配である。深さは58.0cmを測り、壙底はやや湾状で、水平面
は確保している。
土層は、黄褐色を呈する礫混じり細砂層の単層であり、棺構造などは不明である。
遺物は墓壙底の南東寄りで、中心部から壁際に寄せて鉄製品(1299∼1301)を配置する。いずれ
の個体も刃部を長軸方向に向けて副葬されており、副葬当時の様子を留めているものと思われる。
出土遺物より第1主体部(古墳時代前期前葉)と大きな時間差はないと思われる。本遺構の性格
は、古墳築造に伴い従属的に配置された埋葬施設として理解したい。
遺物
1299は鉄剣である。鋒部および茎尻の一部が欠損し、残存長18.3cmを測る。剣身部断面は
鎬を有し、関部は直角関である。茎長は2.5cm程度と短く、木柄および木鞘の痕跡が残る。
1300はおそらく鉄剣の茎部と思われる。残存長9.2cmを測り、木柄の痕跡が残る。茎部は細長
で、中位に目釘孔が認められる。
1301は鉄鏃である。柳葉鏃と思われ、鏃身部から内湾しながら茎部へ続く。
第3節 小結
高橋仏師4号墳は、調査前の段階(試掘調査)で墳墓としての認識がなかった為、墳丘規模やそ
の形状、さらに埋葬主体の構造など、その判断には大きな困難が伴った。発掘調査の結果、墳丘
については検討の余地を残すものの、今治平野では数少ない古墳時代前期初頭の墳墓様相を知る
ことができたものと考える。丘陵頂部下位には、同時期と思われる高橋仏師1号墳・第2主体部
(「旧墳丘」)が所在することから、以下に若干の比較検討を加えて詳述する。
墳丘形態および規模については、円丘部は北東部の傾斜変換点から推測して、当初は径18mの
287
円墳と判断したが、前方部の有無については、調査前の墳丘測量で円丘部から西に延びる地形を
確認しているものの、明確な裾部および盛土などの加工痕を見つけることは出来ず、根拠に乏し
い。敢えて調査前の地形コンタの延長を前方部(突出部)と捉えるならば、墳長22.5mの短い突出
部を有する墳丘とも考えることは可能であろう。
このような短い突出部を有する墳丘については、唐子台第10丘・14丘などを含めた今治平野南
部の唐子台古墳群でも確認することができる(八木ほか1974)。これらの墳墓は時期的にも古墳時
代前期初頭∼前葉(集成1期)に集中する傾向が窺えることから、高橋仏師4号墳の平面形状につい
ても、高塚前方後円墳の出現段階以前、つまり「定型化された」前方後円墳出現以前の在地的墓制
の一形態と判断したい。
埋葬主体としては組み合わせ式箱形木棺を想定するが、墓壙に比して木棺自体が長軸に狭く、
後述する古式土師器の配置などから、木棺を囲む木槨構造を有していた可能性も否定できない。
床面には玉製品および破鏡が認められ、ヤリガンナ片も副葬されている。破鏡は小形舶載鏡(内
行花文鏡)と考えられ、破片には2箇所の穿孔が認められる懸垂鏡で、鏡背および破断面には研磨
痕が認められる。このような破鏡の副葬は相の谷9号墓(冨田2007)に類例があり、完形鏡の副葬
行為とは異なる意味合い、もしくは墳墓自体の年代観を示す一属性として注目される。
また、埋葬主体上での祭祀行為を示す事例が確認されていることも、本古墳の特筆すべき点で
ある。つまり、主体部上面(棺内ではない)に供献用の古式土師器および石杵2個を配置するもの
で、県内では管見の限りでは初例である。古式土師器も粗製の二重口縁壺が棺上から少し外れた
地点のほかは、直口壺および小型の低脚高杯といった精製品が、石杵とあわせ西側に集中して出
土する。弥生後期から終末期の墓制(墳丘墓)での墓上祭祀の様相(大谷1995)が残る事例として注
目され、在地での土器供献の展開(消滅)過程を示す貴重な資料である。
最後に本古墳自体の築造時期については、埋葬主体部上の古式土師器および、破鏡の副葬例、
さらに墳丘形態の特異性などを考慮して、概ね古墳時代前期前葉(集成編年1期・布留0式)と判断
したい。なお、高橋仏師1号墳・第2主体部(「旧墳丘」)との前後関係および埋葬施設の比較検討に
ついては、第13章にて詳述することにしたい。
(山内)
参考文献
大谷晃二 1995「弥生墳丘墓における主体部上の祭祀の一形態」『矢藤治山弥生墳丘墓』
矢藤治山弥生墳丘墓発掘調査団
冨田尚夫 2007「相の谷9号墓出土遺物」『今治市相の谷1号墳出土遺物』愛媛県歴史文化博物館
八木武弘ほか 1974『唐子台遺跡群 -今治市桜井国分唐子台古墳(墳墓群)調査報告-』今治市教育委員会
288
表67 掲載遺物一覧 ( 高橋仏師4号墳-1 )
種別
器 種
1267
古式
土師器
高杯
第1主体 TR(9.7),LR(13.7),H7.4 7.5YR6/6
7.5YR6/6
高杯
第1主体 TR11.2
高杯
第1主体
高杯
第1主体 LR(16.0),H(2.5)
高杯
第1主体 LR(16.6)
高杯
第1主体 LR(16.7)
壺
第1主体 TR(12.8)
壺
第1主体 TR(25.4)
1268
1269
1270
1271
1272
1273
1274
1275
1276
古式
土師器
古式
土師器
古式
土師器
古式
土師器
古式
土師器
古式
土師器
古式
土師器
金属
製品
金属
製品
破鏡
ヤリガンナ
法 量
外面色調
内面色調
番号
出土情報
2.5YR6/6
2.5YR6/6
5YR5/8
5YR6/8
5YR6/8
7.5YR7/6
5YR6/8
5YR6/8
5YR6/6
5YR6/8
5Y6/4
5Y6/6
10YR7/3
10YR6/3
第1主体 T0.3
第1主体 L[6.1],W1.1
調 整
o:ハケ,ミガキ,
指頭圧痕
i:ナデ
o:ナデ,ケズリ
i:ミガキ
o:ハケ
i:ハケ
o:ハケ
i:ハケ
o:ハケ
i:ハケ
o:ハケ
i:ハケ
o:ハケ,ミガキ
i:ハケ,指頭圧痕
o:ナデ
i:ナデ
備 考
粗製
低脚高杯
精製
低脚高杯
精製
低脚高杯
精製
低脚高杯
精製
低脚高杯
精製
低脚高杯
精製
直口壺
粗製
二重口縁
穿孔あり
(3破片)
布痕あり
2個体錆着
図
図
版
166 111
166 111
166 111
166 111
166 111
166 111
166 111
166 111
166 111
166 111
1277
玉製品
管玉
第1主体 L1.9,W0.8,HR0.25
碧玉
166 111
1278
玉製品
管玉
第1主体 L1.35,W0.53,HR0.23
碧玉
166 111
1279
玉製品
管玉
第1主体 L1.45,W0.45,HR0.15
10G4/1
碧玉
166 111
1280
玉製品
管玉
第1主体 L1.0,W0.4,HR0.18
5G4/1
碧玉
166 111
1281
玉製品
管玉
第1主体 L0.9,W0.5,HR0.15
5G4/1
碧玉
166 111
1282
玉製品
管玉
第1主体 L0.85,W0.4,HR0.13
5G5/1
緑色凝灰岩
166 111
1283
玉製品
ガラス小玉
第1主体 L0.5,W0.44,HR0.15
青色
166 111
1284
玉製品
ガラス小玉
第1主体 L0.3,W0.5,HR0.15
青色
166 111
1285
玉製品
ガラス小玉
第1主体 L0.32,W0.58,HR0.2
青色
166 111
1286
玉製品
ガラス小玉
第1主体 L0.3,W0.38,HR0.12
青色
166 111
1287
玉製品
ガラス小玉
第1主体 L0.3,W0.48,HR0.32
青色
166 111
1288
玉製品
ガラス小玉
第1主体 L0.25,W0.38,HR0.14
青色
166 111
1289
玉製品
ガラス小玉
第1主体 L0.58,W0.58,HR0.2
青色
166 111
1290
玉製品
ガラス小玉
第1主体 L0.34,W0.47,HR0.19
青色
166 111
1291
玉製品
ガラス小玉
第1主体 L0.38,W0.5,HR0.18
青色
166 111
1292
玉製品
ガラス小玉
第1主体 L0.2,W0.4,HR0.15
青色
166 111
1293
玉製品
ガラス小玉
第1主体 L0.25,W0.4,HR0.15
青色
166 111
1294
玉製品
ガラス小玉
第1主体 L0.3,W0.43,HR0.2
青色
166 111
1295
玉製品
ガラス小玉
第1主体 L0.17,W0.4,HR0.2
青色
166 111
1296
玉製品
ガラス小玉
第1主体 L0.1,W0.25,HR0.1
青色
166 111
1297
石器
石杵
砂岩
赤色顔料
167 111
第1主体
L9.3,W6.2,T4.7,
G487.52
289
表68 掲載遺物一覧 ( 高橋仏師4号墳-2 )
番号
種別
器 種
出土情報
1298
石器
石杵
第1主体
1299
金属
製品
鉄剣
1300
金属
製品
1301
金属
製品
法 量
L14.5,W6.1,T4.3,
G719.72
備 考
図
図
版
167 111
第2主体 L[18.3],W2.9
木質あり
168 111
鉄剣
第2主体 L[9.2],W[1.3]
鉄剣もしく
は鉄刀か
木質あり
168 111
鉄鏃
第2主体 L[7.8],W2.65
柳葉形
168 111
時期 出土情報
種 別
古墳 第1主体 古式土師器
部 位
口縁部
脚部
青銅製品
金属製品
玉製品
石製品
第2主体 古式土師器
金属製品
土師器
調 整
砂岩
赤色顔料
表69 出土遺物一覧(高橋仏師4号墳)
包含層
外面色調
内面色調
器 種
高杯
区分
A
B
壺
A
高杯
A
B
高杯
A
破鏡
A
ヤリガンナ
A
A
管玉
ガラス小玉
A
B
A
石杵
B
A
鉄剣
鉄鏃
A
不明
A
甕
B
点数
1
2
2
4
27
1
1
1
6
14
1
2
2
1
1
1
1
掲載番号
1268
1273,1274
1269∼1272
1267
1275
1276
1277∼1282
1283∼1296
1297,1298
1299
1301
1300
290
第12章 自然科学分析
第1節 「愛媛県今治市出土の金属製品付着有機質の調査」
(株)吉田生物研究所
1
はじめに
今治市に所在する別名一本松古墳・矢田長尾1号墳・矢田長尾I遺跡・高橋仏師1・2・4号墳か
ら出土した金属製品には、その表面に有機質が付着していた。それらの材質について調査を行っ
たので、以下にその結果を報告する。
表70 試料一覧
掲載番号
4
15
16
17
18
50
51
60
61
66
67
77
84
86
87
88
89
90
92
95
96
102
109
遺 物
鉄剣
鉄剣
棒状鉄器
ヤリガンナ
ヤリガンナ
ヤリガンナ
ヤリガンナ
刀子
刀子
弓金具
弓金具
鉄鏃
鉄鏃
鉄鏃
鉄鏃
鉄鏃
鉄鏃
鉄鏃
鉄鏃
鉄鏃
鉄鏃
鉄鏃
鉄鏃
110
鉄鏃
113
235
236
477
478
479
480
481
482
511
1212
1214
1215
1216
1217
1218
1220
1300
鉄鏃
鉄剣
刀子
刀子
刀子
刀子
刀子
刀子
刀子
鉄鏃
儀鏡
刀子
刀子
刀子
刀子
刀子
鉄鏃
鉄剣
遺 跡 名
別名一本松古墳
別名一本松古墳
別名一本松古墳
別名一本松古墳
別名一本松古墳
別名一本松古墳
別名一本松古墳
矢田長尾1号墳
矢田長尾1号墳
矢田長尾1号墳
矢田長尾1号墳
矢田長尾1号墳
矢田長尾1号墳
矢田長尾1号墳
矢田長尾1号墳
矢田長尾1号墳
矢田長尾1号墳
矢田長尾1号墳
矢田長尾1号墳
矢田長尾1号墳
矢田長尾1号墳
矢田長尾1号墳
矢田長尾1号墳
有 機 質
カエデ属
アカガシ亜属?
木質付着
ヒノキ属・絹
布痕が明瞭。巻き方まで確認可 絹
針葉樹?
針葉樹・絹
木質・布付着。赤色顔料あり
不明
顔料あり
シイ属?
木柄が付着
広葉樹
ケヤキ
ケヤキ
ヤダケ
ヤダケ
ヤダケ
ヤダケ
サカキ
ヤダケ
ヤダケ
ヤダケ・表面樹皮?
ヤダケ
ヤダケ
広葉樹
ヤダケ・絹(多く見られる)
ヤダケ・植物繊維
矢田長尾1号墳
(巻き付け部に見られる)
矢田長尾1号墳
ヤダケ
矢田長尾1遺跡 部分的に木鞘の痕跡がある
針葉樹の木質
矢田長尾1遺跡 木質の柄の痕跡がある
マツ属二葉松類
高橋仏師1号墳 木質の柄が残存する
針葉樹の木質と広葉樹の木質
高橋仏師1号墳 木質の柄が残存する
鹿角
高橋仏師1号墳 木質の柄がよく残存する
散孔材の木質
高橋仏師1号墳 木質が残存する
カヤ
高橋仏師1号墳 木質の柄が残存する
針葉樹の木質と鹿角
高橋仏師1号墳 木質の柄が一部に残存する
ヤナギ科の木質
高橋仏師1号墳 木質が付着する
タケ
高橋仏師2号墳 布が付着する
植物繊維
高橋仏師2号墳 木質が残存する
鹿角
高橋仏師2号墳 木質が残存する
カヤ
高橋仏師2号墳 木質が残存する
鹿角
高橋仏師2号墳 木質が残存する
針葉樹の木質
高橋仏師2号墳 木質が残存する
広葉樹・鹿角
高橋仏師2号墳 木質が残存する
タケ
高橋仏師4号墳 木質が残存する
広葉樹の木質
概 要
291
写真No.
1∼3
4∼6
7∼9
62,63
36
64,65
−
10∼12
30
13,14
15,16
45
46
47
48
17,18
49
50
51
52
53
31
54,55,66
56
57
37
24∼26
32,38
67
42∼44
19,20
39,68
27∼29
58
60,61
−
21∼23
69
40,41
33,70,71
59
34,35
2
調査試料
調査試料は、表70に示す古墳時代の有機質42点である。
3
調査方法
表70の試料本体の有機質残存部から数 mm四方の破片を採取してエポキシ樹脂に包埋し、組織
の薄片プレパラートを作製した。これを透過光の下で検鏡した。
4
観察結果
樹種および動物遺存体の同定結果について、以下に各種の主な解剖学的特徴を記す。
1)カエデ科カエデ属(Acer sp.)
*報告書掲載番号4
(写真No.1∼3)
木口面ではほぼ単独の道管が均等に分布している。柾目面では道管は単穿孔を有する。放射組
織は平状細胞からなり同性。板目では放射組織はほぼ6∼10細胞列の紡錘形のものが占めるが、1
∼3細胞列のものもある。
2)ブナ科コナラ属アカガシ亜属?(Quercus subgen.Cyclobalanopsis.)
*報告書掲載番号15
(写真No.4∼6)
木口では道管と広放射組織が見られる。柾目では道管は単穿孔を有する。道管放射組織間壁孔
は柵状である。放射組織は平状細胞からなり同性。板目では放射組織は単列のものと、高さのあ
る幅広のものとが見られる。
3)ヒノキ科ヒノキ属(Chamaecyparis obtusa Endl.)
*報告書掲載番号16
(写真No.7∼9)
木口では仮道管が見られる。柾目ではスギ型に近いヒノキ型の分野壁孔が見られる。板目では
単列の放射組織が見られる。
4)ブナ科シイ属(Castanopsis sp.)
*報告書掲載番号60
(写真No.10∼12)
木口では大道管と小道管が見られる。柾目では道管は単穿孔を有する。道管放射組織間壁孔は
柵状である。放射組織は平状細胞からなり同性。板目では放射組織は単列である。
5)ニレ科ケヤキ属ケヤキ(Zelkova serrata Makino.)
*報告書掲載番号66・67
(写真No.13,14・15,16)
木口面では年輪に沿って単列の大道管が並んでいる。小道管が急激に大きさを減じて2、3個複
合して分布している。軸方向柔細胞は翼状ないし周囲状をなしている。板目面では紡錘形の放射
292
組織および螺旋肥厚する小道管が見られ、一部の放射組織には大きく肥大した細胞を有するもの
もある。
6)ツバキ科サカキ属サカキ(Cleyera japonica Thunb.Pro parte emend.Sieb et Zucc.)
*報告書掲載番号88
(写真No.17,18)
木口面では道管が単独ないし2、3個複合してまんべんなく分布している。板目面では単列の放
射組織と道管には階段穿孔が見られる。
7)イチイ科カヤ属カヤ(Torreya nucifera Sieb. et Zucc.)
*報告書掲載番号480・1215
(写真No.19,20・21∼23)
木口面では仮道管が見られる。晩材部は狭く年輪界は比較的不明瞭である。軸方向柔組織を欠
く。柾目では仮道管の壁には対になった螺旋肥厚が存在する。板目では放射組織はすべて単列で
あった。
8)マツ科マツ属[二葉松類](Pinus sp.)
*報告書掲載番号236
(写真No.24∼26)
木口面では仮道管が見られる。柾目では放射組織の放射柔細胞の分野壁孔は窓型である。上下
両端の放射仮道管内は内腔に向かって鋸歯状に著しくかつ不規則に突出している。板目では放射
組織は単列で1∼15細胞高のものがある。
9)ヤナギ科(Salicaceae)
*報告書掲載番号482
(写真No.27∼29)
散孔材である。木口面では道管が単独または2∼4個放射方向ないし斜線方向に複合して分布す
る。柾目では道管は単穿孔と交互壁孔を有する。放射組織はほぼ平伏細胞からなる。板目では放
射組織はすべて単列、高さ∼450μmであった。
10)広葉樹
*報告書掲載番号61・102・477・1300
(写真No.30・31・32・34,35)
木口面および柾目面で道管が見られる。
11)針葉樹
*報告書掲載番号18・235・477・481・1217
(写真No.36・37・38・39・40,41)
木口面に仮道管が見られる。
12)散孔材
*報告書掲載番号479
293
(写真No.42∼44)
木口では単独ないし2、3個複合して分布している。柾目では道管は階段穿孔を有する。放射組
織は平伏細胞からなり同性である。板目では放射組織は最大幅が5細胞列の紡錘形のものが多数
見られる。木繊維は階層状を呈する。
13)イネ科タケ亜科(Subfam.Bambusoideae)
*報告書掲載番号77・84・86・87・89・90・92・95・96・109・110・113・511・1220
(写真No.45・46・47・48・49・50・51・52・53・54,55・56・57・58・59)
横断面では維管束とほかに厚壁細胞の組織やその他の基本組織の細胞が見られる。
14)植物繊維
*報告書掲載番号110・1212
(写真No.56・60,61)
110は植物繊維が巻き付け部に見られる。
1212は、布を校正する糸の横断面と縦断面が見られる。糸の横断面を拡大すると、白色の長楕
円形の集合であることがわかる。この白色の長楕円形の物質が植物繊維の横断面である。
15)絹・絹布
*報告書掲載番号16・17・50・109
(写真No.7∼9・62,63・64,65・66)
16・17・20では布を校正する糸の横断面と縦断面がみられる。糸の横断面は全体が直径約110
μmの円形を呈している。この糸の横断面は、さらに三角形∼半截杏仁形の絹繊維から成る。絹
繊維の内部までは鉄錆は浸透しておらず白色である。
109はタケの縦・横断面と直交方向に、絹繊維の縦・横断面が認められる。三角形∼半截杏仁
形の絹繊維の横断面が密集している様子が観察される。拡大すると、蚕が吐き出した2本の絹糸
のペアが確認出来るものもある。
絹の横断面は密集して存在しており、何本かの糸からなる糸を予想させるようなまとまりは見
受けられない。絹の繊維には鉄錆が浸透しており、明茶色を呈する。
16)鹿角
*報告書掲載番号478・481・1214・1216・1218
(写真No.67・68・−・69・70,71)
中空のハヴァース管を中心にして、同心円状に層板と骨小腔が交互に層をなしている骨単位が
多数認められる。
294
写真No.1
木口×60
写真No.2
柾目×25
写真No.3
板目×25
写真No.4
木口×60
写真No.5
柾目×60
写真No.6
板目×60
写真No.7
木口×25
写真No.8
柾目×120
写真No.9
板目×60
295
写真No.10
木口×120
写真No.11
柾目×120
写真No.12
板目×50
写真No.13
木口×50
写真No.14
板目×50
写真No.15
木口×50
写真No.16
柾目×50
写真No.17
木口×50
写真No.18
板目×120
296
写真No.19
木口×60
写真No.20
板目×120
写真No.21
木口×60
写真No.22
柾目×120
写真No.23
板目×120
写真No.24
木口×60
写真No.25
柾目×120
写真No.26
板目×60
写真No.27
木口×60
297
写真No.28
柾目×120
写真No.29
板目×120
写真No.30
木口×50
写真No.31
木口×50
写真No.32
木口×60
写真No.33
横断面×60
写真No.34
木口×60
写真No.35
板目×60
写真No.36
木口×60
298
写真No.37
木口×60
写真No.38
木口×60
写真No.39
木口×60
写真No.40
木口×120
写真No.41
板目×120
写真No.42
木口×60
写真No.43
柾目×60
写真No.44
板目×60
写真No.45
横断面×50
299
写真No.46
横断面×50
写真No.47
横断面×50
写真No.48
横断面×50
写真No.49
横断面×50
写真No.50
横断面×50
写真No.51
横断面×50
写真No.52
横断面×50
写真No.53
横断面×50
写真No.54
横断面×50
300
写真No.55
横断面×70
写真No.56
横断面×50
写真No.57
横断面×50
写真No.58
横断面×60
写真No.59
横断面×60
写真No.60
断面×60
写真No.61
横断面×120
写真No.62
×90
写真No.63
横断面×180
301
写真No.64
×90
写真No.65
横断面×180
写真No.66
×350
写真No.67
×60
写真No.68
×60
写真No.69
×60
写真No.70
×60
写真No.71
×120
302
第2節 「愛媛県今治市・別名一本松古墳出土の赤色顔料の調査」
(株)吉田生物研究所
1
はじめに
今治市別名に所在する別名一本松古墳からは、金属製品および土壌に赤色顔料が検出されてい
る。それらの材質について調査を行ったので、以下にその結果を報告する。
2
調査試料
調査した試料は、表71∼73に示す古墳時代前期の金属製品および土壌試料24点である。
3
調査方法と分析結果
理学電気工業(株)の全自動蛍光X線分析装置3270E(検出元素範囲B∼U)により、表70に示す金
属製品の表面付着物、ならびに表72・73に示す古墳内の土壌サンプルを分析した。
7
6
13
9
3
5
4
8
1
3
第1主体部
2
第2主体部
2
11
12
1
10
0
1m
1
図169 土壌サンプル採取地点
303
:
60
表71 赤色顔料試料1(金属製品付着)
掲載番号
遺 物
出 土 地 点
4
15
16
17
18
49
50
51
鉄剣
鉄剣
棒状鉄器
ヤリガンナ
ヤリガンナ
鉄斧
ヤリガンナ
ヤリガンナ
第1主体部
第2主体部
第2主体部
第2主体部
第2主体部
主体部内
主体部内
主体部内
検 出 物 質
Hg
Fe
○
○
−
○
○
○
○
○
−
○
−
○
○
○
○
○
表72 赤色顔料試料2(第1主体部)
試料番号
1
2
3
試 料 採 取 地 点
X座標
Y座標
Z座標
116,389.814
-49,060.037
64.147
116,389.182
-49,059.867
64.121
116,390.232
-49,060.743
64.086
検 出 物 質
Hg
Fe
○
○
−
○
−
○
表73 赤色顔料試料3(第2主体部)
試料番号
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
試 料 採 取 地 点
X座標
Z座標
Y座標
116,388.656
-49,060.770
64.034
116,389.187
64.091
-49,061.123
116,389.583
-49,061.431
64.051
116,389.830
64.032
-49,061.536
116,390.073
64.003
-49,061.778
116,390.351
-49,061.983
64.359
116,391.160
64.384
-49,062.547
116,389.629
-49,062.403
64.384
116,390.289
64.293
-49,061.288
116,387.908
-49,060.966
64.355
116,388.980
64.087
-49,061.239
116,388.737
-49,061.443
64.121
116,390.347
-49,061.599
64.041
検 出 物 質
Fe
Hg
−
○
○
○
○
○
○
○
○
−
−
○
○
−
−
○
○
−
−
○
−
○
○
○
○
○
表71∼73のとおり、土壌成分以外ではHgとFeの2種類の物質が検出された。このうちHgは水銀
朱に由来する。このHgが検出された試料は肉眼でも赤色を呈する。一方、今回分析した試料に
ついては、Feが検出された試料は肉眼では赤色を呈していない。
以上から、埋葬主体には施朱(水銀朱)が行われたと推測される。
304
第13章 まとめ
本報告書では、今治平野北西部の日高丘陵に展開する弥生時代中期から古墳時代全般にかけて
の集落および古墳群の調査報告を行った。弥生時代の遺構として注目される点は、弥生時代後期
前葉の「丘陵性集落」(柴田2004a・2004b・2006a)である矢田長尾I遺跡・高橋佐夜ノ谷遺跡の展開
が、阿方頭王遺跡群(山内2007a)をはじめとする「丘陵性集落」の様相と比べ、やや時間的に後出
することが挙げられる。この弥生時代後期前葉の集落遺跡および展開過程が、今治平野において
不明瞭な点が多いだけに、今後の検討が期待されるところである。
また、本報告最大の評価としては、日高丘陵における古墳時代全般における墳墓の様相が明ら
かにされた点にある。特に今治市教育委員会の調査成果(今治市教委2003・2005)とあわせた高橋
地区の様相は、古墳時代後期の集落域と墓域が一体となった解釈が可能な事例として注目される。
さらに高橋仏師1号墳(第2主体部)・高橋仏師4号墳および別名一本松古墳に代表される古墳時代
前期の墓制については、今治平野北西部でこれまで不明であった墳墓展開およびその内部構造・
副葬品配置などの諸様相を窺い知ることの出来る良好な資料と言える。
そこで本章では、日高丘陵における古墳時代全般の様相(墳墓・集落)を、幾つかの論点に分け
て詳述し、各古墳の調査成果が示す評価点および比較検討から浮かび上がる諸問題について若干
の考察を加え、本報告のまとめとしたく思う。
第1節 日高丘陵における古墳時代前期の墓制
日高丘陵での古墳時代前期の墳墓確認例は調査前の段階では皆無で、墳墓様相は不明なままで
あった。同時期の古墳については、今治平野南部の頓田川右岸に展開する唐子台古墳群(八木ほ
か1974)、雉之尾1号墳(八木1988)、国分古墳(八木1986)が同時期を代表する古墳群であるが、調
査時の墳丘規模・墳形・埋葬施設・副葬品配置などの詳細な状況に乏しく、その全体像を把握す
るには困難を伴うのが現状である。
一方、日高丘陵で発掘調査が実施された前期古墳は、その墳形判断にやや曖昧な部分も残すが、
現状で判断できる墳丘形態・埋葬主体の構造・副葬品配置などの諸属性を明らかにできたものと
考える。本節では調査を実施した各古墳について、古墳時代前期前半と前期後半に区分し、上記
の諸属性から窺える諸様相について検討したい。
1
古墳時代前期前半
(1) 墳丘と墓上祭祀
弥生時代後期から終末期にかけて、日高丘陵裾部では南東側を中心に集落遺跡が展開する。特
に高橋地区は高橋山崎遺跡(小野2004、今治市教委2005)、高橋徳蔵寺遺跡(小野2005)、高橋湯ノ
窪遺跡(小野ほか1997・1999、白石2002)など、高橋地区南西部では遺構密度が高く、一定規模の
305
戸
29.2
橋
23.1
14.9
12.3
20.8
集 会 所 59.9
13.2
9.8
22.7
12.0
16.9
27.2
神 宮
59.3
集 会 所
49.5
61.9
37.9
23.4
45.2
矢 田
20.4
矢
田
団
地
50.1
29.1
13.7
14.6
16.7
︵ 24.9
西
瀬 瀬
戸
戸 自
動
内 車
道
し
矢田平山遺跡I区 ま 28.7
34.6
な
み
18.2
大 蔵 院
海
道
︶
31.1
34.5
34.2
25.1
16.5
17.2
35.4
27.1
24.8
18.7
22.6
27.7
15.7
30.9
20.9
30.7
54.5
15.9
18.9
20.5
33.7
29.5
19.4
21.7
17.4
27.4
30.8
24.2
神宮御池遺跡
32.2
38.6
17.4
15.2
矢田平山近世墓
14.4
37.0
集
会
所
矢
田
大
出
口
遺
跡
14.0
15.7
37.4
22.2
20.8
今
治
I
今 治 I C C ラ
ン
プ
橋
23.4
今
本 第
治 州 三
管 四 管
理 国 理
事 連 局
務 橋
所 公
団
26.8
22.6
矢田平山古墳
30.6
20.6
55.1
39.1
蛇池土坑墓
29.8
29.7
明 寺
28.0
矢田平山遺跡II区
41.7
38.5
矢 田
猿 田 彦 神 社
蛇
池
矢田平山遺跡III区
管
ノ
谷
池
23.8
22.2
64.4
矢田平山遺跡IV区
野 間 神 社
51.3
25.8
48.3
49.8
25.9
85.8
龍 泉 寺
25.5
29.9
60.5
19.5
別名端谷II遺跡
(別名端谷1号墳)
42.5
58.9
79.7
26.3
26.2
30.4
大
熊
寺
51.2
27.8
60.6
44.1
29.9
42.7
32.5
36.2
31.0
別名端谷I遺跡
別名寺谷II遺跡
30.7
41.6
58.6
50
別名一本松古墳
60.2
40
矢田大坪遺跡
66.8
38.8
嘯
月
院
34.5
50
40
多々羅池
別名寺谷I遺跡
40
50
66.5
27.4
14.4
64.1
14.3
17.8
60
矢田大塚
(奥矢田古墳)
64.2
39.1
別名成ルノ谷I遺跡
W
60
14.7
38.9
70
60
50
42.4
21.1
古墳群の存在(後期)
77.2
14.8
16.0
矢田長尾I遺跡
(矢田長尾2号墳)
77.3
50
60.9
62.1
60
一
般
県
50
70
48.2
47.3
63.1
61.6
矢田長尾1号墳
46.1
高橋向谷2号墳
15.7
46.3
46.0
道
治
丹
60
高橋佐夜ノ谷遺跡
50
56.8
40
今
45.1
47.2
40
19.1
原
49.4
天 満 宮
40
天 満 宮
30
40
線
60
87.5
50
51.9
15.2
15.7
40
60
41.8
51.7
84.1
35.6
高 橋 33.0
W
60
16.0
御 鉾 神 社
37.8
50
80
天
然
記
念
物
・
大
ク
ス
ノ
キ
15.8
30
23.1
48.7
70
70
80
66.1
60
矢
田
56.3
66.5
40.4
19.2
96.1
16.3
51.8
30
19.9
17.0
50
30
95.2
64.7
60.8
高橋向谷1号墳
21.2
40
42.8
40.9
貞 小 池
90
80
70
W
46.2
36.9
50
30
39.3
50
貞 池
66.6
40
50
34.1
38.3
59.2
高橋仏師I号墳
70
84.5
別 名
41.4
鶏 舎
80
17.3
高橋佐夜ノ谷II遺跡 集 会 場
四 国 西 濃 運 輸
22.2
清
正
の
湯
17.9
22.5
19.7
一
般
県
道
17.8
今
治 18.0
高橋仏師2号墳
W
丹
高橋徳蔵寺古墳
原
22.4
24.2
線
90
40
44.5
20.5
100
高橋仏師3号墳
60
57.0
高橋仏師II遺跡
30.9
26.0
43.1
18.7
W
高橋仏師4号墳
0
10
高橋山崎遺跡
高橋徳蔵寺遺跡
0
仏 師 池
90
80
1
38.8
117.6
11
28.5
28.4
50
38.4
鶏
22.8
32.5
40
52.7
19.9
高橋湯ノ窪遺跡
50
24.0
26.2
高橋山岸2号墳
舎
29.0
19.7
70.5
高橋山岸1号墳
50
60
W
47.2
高橋岡寺II遺跡
24.1
20.6
40
25.9
95.6
37.7
51.4
40
10
32.4
0
古墳時代の遺跡
40.8
110
高橋岡ノ下遺跡
48.1
高 橋
29.0
高橋岡ノ端遺跡
80
20.9
21.2
25.7
W
90
23.0
99.1
42.0
134.5
33.6
図170 日高丘陵周辺の遺跡
30.2
65.1
107.4
26.3
33.1
306
0
200m
21.5
1
:
10,000
広範な集落域(便宜上、ここでは「高橋集落群」)を形成していたものと思われる。その集落を母体
として、古墳時代前期前半(初頭)には丘陵上に高橋仏師4号墳と高橋仏師1号墳(旧墳丘)という新
たな墳墓が創出される。ここでは各古墳の墳丘および主体部構造、さらに墓上での土器供献儀礼
について論を進めることにしたい。
墳丘
墳丘形態については後世の古墳構築による墳丘破壊や地山整形の遺存状況(または整形自体が
殆ど認められない場合有り)により、その情報が不明な部分が多い。高橋仏師4号墳は不確定なが
ら墳長22.5mを測る前方後円形の墳丘(短い突出部が付設する)と判断した場合、本古墳と同様の
墳丘形態を有すると思われるものを、今治平野南部の唐子台古墳群中に見出すことが可能である。
唐子台第10丘・第14丘などは、墳丘測量図のみで前方後円墳かどうかの判断は困難であったが、
本古墳の調査事例が示すように、短い前方部(突出部)が付設される墳丘がこの段階には存在する
ことが証明された。ここでは墳丘形態(墳裾)などから容易に前方後円墳と判断出来る古墳と区別
する意味で、高橋仏師4号墳などの一群を「前方部短小型」と呼称しておきたい。
一方、高橋仏師1号墳(旧墳丘)は古墳時代後期の墳丘破壊行為(古墳築造に伴う)により、墳丘が
大きく削平を受けており、その形状を判断することはできない。積極的に北西隅角付近に認めら
れる地形コンターの巡り方から円墳と仮定するならば、およそ径20m前後を測ると思われる。
埋葬主体・墓上祭祀
埋葬主体は両古墳とも墓壙底面が平坦であることから組み合わせ木棺を復元するが、高橋仏師
1号墳(旧墳丘)・第2主体部は二段墓壙で木棺を取り囲む木槨構造を想定している。前者が主軸長
3.4m、最大幅1.75m、後者が主軸長3.25m、最大幅2.8mを測り、高橋仏師1号墳(旧墳丘)・第2主体
部の方が幅広の正方形に近い平面プランで、墓壙の深さ約1.4mと主体部構築に複雑な構造を採
用している。埋葬主体の主軸については前者が東西、後者は東西より20゚ほど南北に指向し、古
墳時代前期∼中期における墳墓に表出する「小地域性」(山内2008)を示す事例として注目される。
両古墳の埋葬主体で最も注目される点として、主体部(墓壙)上面で執り行われた、土器供献を
伴う儀礼の具体相が確認できたことが挙げられよう。高橋仏師4号墳の場合、主体部上面で粗
製・精製の低脚高杯、精製品の広口壺といった古式土師器のセットが西寄りに集中して検出され
た。後述する副葬品配置より、西側に頭部を向けていたと推測されるため、出土土器はその直上
面に配置されたと判断でき、足元側にも粗製の二重口縁壺が置かれている。また、頭位付近には
赤色顔料を擦った痕跡のある石杵(1298)が置かれており、山陰地域に代表される弥生時代後期か
ら古墳時代初頭の墓上(主体部上)祭祀の一端を示すものである(大谷1995)。県内では管見の限り
類例は見当たらず、今後の類例増加が待たれる。
一方、高橋仏師1号墳(旧墳丘)・第2主体部では、埋葬施設上面での直接的な土器供献は確認で
きなかったが、墓壙内への転落や後期古墳築造の際の上部削平(墳丘構築I段階)により、当時配置
されていた供献土器が盛土内および流土中にて確認できることも多いことから、本稿では復元的
に土器供献を再現したことを断っておく。古式土師器は二重口縁壺(小型品を含む)、細頸壺・直
口壺、小型丸底壺、低脚高杯、有段口縁の高杯(小型含む)と豊富で、このうち二重口縁壺の底面
307
(想定配置模式)
高橋仏師4号墳
(想定配置模式)
高橋仏師1号墳(第2主体部)
0
2m
1
:
60
図171 主体部上の土器供献
には焼成前穿孔が認められ、その殆どが精製品である点は注目される。石杵などは認められず、
赤色顔料などの塗布も主体部上では見られない。
(2) 副葬品とその配置
墓壙上での土器供献を中心とした祭祀形態に加え、両古墳の墓壙内の副葬品にも特徴的な遺物
が認められる。ここではその配置に着目しながら検討を進めてゆく。
高橋仏師4号墳の副葬品としては、棺内床面付近より出土のガラス小玉・碧玉および緑色凝灰
岩製の管玉などの装身具が挙げられる。管玉は全て両面穿孔で、後期古墳の碧玉製管玉(片面穿
孔)とは法量が小型である点や穿孔法において大きく異なるものである。また、主体部上面の古
式土師器は、低脚高杯や二重口縁壺の形態および製作技法上の諸特徴から判断して、概ね布留0
308
式(寺沢1986)に併行する時期を想定したい。
ここで注目されるのは被葬者の頭部もしくは胸部付近に置かれたと考えられる破鏡(1275)であ
る。木棺内では数破片に分かれて出土しており、複数個体の破鏡が副葬されたという可能性も考
えたが、鏡式自体が同一で破片が接合可能である点や、2箇所穿孔が認められる点から勘案して、
本来は2箇所穿孔の破鏡1個体が副葬されていたものと判断した。
鏡式は外縁部が平らで薄く、段を挟んで内側に櫛歯文が不鮮明ながら認められることより、舶
載(漢鏡)の内行花文鏡であると思われる。鏡背面が不鮮明なのは、おそらく破断面とあわせて丁
寧な研磨痕が認められたことに起因するものと捉えたい。このような破鏡(懸垂鏡)の墳墓への副
葬の一般化は、古墳時代前期以降と考えられ、完形鏡に準じた扱いを受けることになるという
(辻田2005)。同様の破鏡の副葬例は相の谷9号墓(冨田ほか編2007)でも確認でき、その背景には古
墳時代初頭における、より広域な直接的政治関係が反映した「鏡社会」が形成された結果(田崎
1995)とみることもできる。つまり、今治平野における集落と隔絶した特定個人墓の出現をみる
段階(柴田2006b)として、破鏡の古墳副葬は大きな画期として捉えることが出来るものと考える。
ただし、破鏡副葬はあくまで完形鏡に準ずるものと捉え、広範な地域内での最上位の「首長層」を
示す副葬品とは限らない点は留意する必要があろう。
高橋仏師1号墳(旧墳丘)・第2主体部では、埋葬主体上面もしくは墳丘上に置かれた古式土師器
が確認されている。器種は二重口縁壺や小型器種(壺・鉢)・低脚高杯など多様性があり、その殆
どが精製品である点は注目される。二重口縁壺の底面には円形の焼成前穿孔が認められる点や、
小型の二重口縁装飾壺が含まれる点、さらに小型丸底壺などの形態的特徴を総合すると、一群の
位置付けは概ね布留0式の範疇におさまるものと考える。ただし、小型器種(小型丸底壺)の精
製・粗製品のセット関係や二重口縁壺の底部焼成前穿孔などの諸要素は、高橋仏師4号墳の資料
と比較して、若干後出の要素を含むものと捉えたい。
また、本古墳出土副葬品のもう一つの特徴として、豊富な鉄製品が挙げられる。前方後円墳の
盛土(前方部)で覆われたため、埋葬主体が一切の撹乱を受けておらず、副葬当時の配置を留めた
ものと思われる。赤色顔料の塗布範囲および墓壙下段の幅が東寄りで幅広となる点から、被葬者
の頭位は東側と捉え、副葬品配置(特に鉄鏃群)の具体相とその意味について検証したい。
鉄鏃群配置には、その出土状況から6群存在することが分かる。中には鉄剣や鉄製農工具(斧・
ヤリガンナ・鑿)、さらには漁撈具の可能性があるもの(ヤスか)がセット関係に含まれている場合
もあり、併せて説明を加えたい。
鏃1群
被葬者頭位上部に横(小口板)方向に配置する一群で、有稜系の柳葉式2点(1148・1149)と鎬を有
しない柳葉式1点(1150)、鏃身部が細長の小型定角式1点(1158)、さらに鏃身部が長大化した平根
の定角式1点(1165)がある。鋒を南向きに向け、束ねた状態で副葬する。おそらく矢柄が装着さ
れた状態で副葬されてはいるが、墓壙下段の木口幅が短いため、矢柄をある地点から切断して副
葬したと思われる。
鏃2群
309
1155
1151
1161
1149
1158
1150
1148
1165
鏃1群
1170
1156
1157
1153
1173
1174
1162
鏃2群
1152
1172
1164
鏃6群
1154
1177
1176
1175
鏃3群
1159
1167
1163
1160
1168
1169
1166
1178
鏃5群
鏃4群
1171
0
1m
1
:
40
図172 高橋仏師1号墳(第2主体部)の鉄器配置・組成
被葬者頭位北側に主軸方向に沿って配置する一群である。有稜系の柳葉式1点(1151)と鏃身部
が細長の小型柳葉式1点(1155)、さらに鏃身部がやや長めの定角式1点(1161)で構成され、鋒を東
向きとする。併せて鉄剣2振(1173・1174)が納められ、1173は鏃と同一方向に鋒を向けている。
おそらく東側に向ける一群は矢柄もしくは柄を装着した状態で副葬されており、1173はその副葬
配置よりヤリの可能性が高い。1174の剣は西側に鋒を向け、木鞘に納めた状態での副葬である。
鏃3群
被葬者の腰から脚部側面に配置され、鉄鏃自体は鏃身部が丸みを帯びた柳葉式1点(1154)のみ
である。セット関係として鑿1点(1175)とヤリガンナ2点(1176・1177)は、刃部先端を東側(頭部)に
向けて副葬されており、鉄鏃と同一方向である。
鏃4群
被葬者の足元(棺小口付近)に配置する一群である。鎬および逆刺を有した有稜系の短茎鏃2点
310
(1167・1168)と平根系の短頸鏃1点(1169)で構成され、鋒の方向はそれぞれ別を指向するため規則
性は見出せない。矢柄痕があるため、副葬時に個別に短く切断(折った可能性あり)し、1点ずつ
副葬されたものと考えられる。また小型の袋状鉄斧(1178)も同位置に副葬され、刃部先端は西側
(小口部)に向けられ、木柄が装着されたままの状態である。
鏃5群
被葬者足元(棺小口付近)に配置される一群で、形態の異なる小型の定角式3点(1159・1160・
1163)、大型の平根系定角式1点(1166)、そして大型の平根系鑿頭式(方頭鏃)1点(1171)である。一
部移動が認められるが、基本的には棺木口に沿う形で鋒を南側に向け副葬されると判断できる。
また、矢柄は装着された状態で、矢筈付近を切断して配置されたと思われる。
鏃6群
床面より浮いた位置で出土した一群であり、本来は上部に置かれたものが転落したと判断でき
る。被葬者足付近の南側(墓壙下段の南壁沿い)に、鋒を西側(足元側)に向けて配置されている。
副葬鏃は西寄りに大型の平根系柳葉式1点(1152)と同サイズの平根系定角式1点(1162)に加えて
篦被付の細長・有稜系柳葉式1点(1153)がセットで出土し、東寄りには有稜系の定角式2点(1156・
1157)と有稜系の鑿頭式1点(1170)が認められる。矢柄は装着された状態で、切断も無かったもの
と推測される。また、同群中にはヤスの可能性がある製品1点(1172)も同一方向で出土している。
以上の出土状況および各鉄鏃群の構成から、鉄鏃をはじめとする副葬品配置は、今尾文昭氏の
段階設定(今尾1984)を引用すると、第1段階(棺内)配置(鏃1∼5群)と第2段階(棺外)配置(鏃6群)に区
分されることが明らかである。鏃6群はその出土状況から、木棺蓋板上(南寄り)に副葬された矢
束が木棺腐食もしくは土圧による崩壊の段階で移動したものと理解している。
具体的な鉄鏃配列および矢柄との関係性からは、1点で残存状況の悪い3類を除き、
A類型:矢柄に装着した状態で、束の状態(5本単位か)で矢柄を切断して配置するもの(鏃1・5群)。
B類型:矢柄に装着した状態で、矢柄を折らずに配置するもの(鏃2・6群)。
C類型:矢柄に装着されてはいるが、短く切断して1点ずつ別に配置するもの(鏃4群)。
の3類型に大別できる。このうちA類型は木棺両小口部に同一の鋒方向で配列し、鏃構成も「柳
葉式+平根系定角(または鑿頭)式」のセット関係が保たれる。
B類型は鏃2群(棺内)と鏃6群(棺外)で大きくセット関係が異なる。鏃2群は「柳葉式+定角式」の
組み合わせであるが、鏃6群は「柳葉式+定角式+鑿頭式」と全てのセット関係を保持している。
加えて全ての鏃型式に有稜系の個体が含まれている点では、他の鉄鏃群とは様相を異にする。
C類型は有稜系もしくは平根の逆刺付短頸鏃のみで構成されており、配置も特徴的である。セ
ットで副葬される袋状鉄斧も同様な副葬方法を採るものと考える。
ではこのような類型または鏃形式のセット関係の相違は何に起因するのであろうか。弥生時代
後期から古墳時代前期の鉄鏃・銅鏃を検討された松木武彦氏の見解(松木1991・1996)を参考にす
ると、本古墳での有稜系鉄鏃と平根系鉄鏃のセット関係での副葬行為は、有力墳における弥生時
代的な鉄鏃の副葬形態から、古墳時代前期に開始される政治的関係性を背景にした「威信財」的な
性格を有する鉄鏃の副葬形態への転換期をよく示す事例として捉えることができるものと考え
311
る。特に鏃6群などにみられる有稜系鉄鏃の3形式(柳葉式・定角式・鑿頭式)全てを保有している
という事実は、鉄製武器の棺外配置という在地の弥生時代の伝統的な副葬形態からの脱却とあわ
せ、古墳時代前期前葉段階における地域勢力統合の象徴として、強いこだわり(池淵2002)を示し
た結果とも解釈できるのである。
さらに、本古墳の鉄鏃副葬形態については、鈴木一有氏の分類によれば「分散・密集型」に該当
すると思われる。つまり「分散」と想定される鏃4群のような特徴的な有稜系短頸鏃の副葬におい
ては、特定のセット関係を保持して副葬される他の類型とは、その性格付けや葬送儀礼に際する
供献行為自体が異なるものと理解したい。
(3)
日高丘陵における同時期の墓制の展開
日高丘陵、特に高橋地区の丘陵部では、先述した「高橋遺跡群」を基盤として、古墳時代前期初
頭(布留0段階)に高橋仏師4号墳・高橋仏師1号墳(旧墳丘)の築造が認められる。いずれも集落域と
は隔絶した丘陵尾根上を墓域として選択しており、墳丘形態も地山整形を基本とした不明瞭なも
のである。特に高橋仏師4号墳は「前方部短小型」の墳丘を構築してはいるが、いわゆる「定型化さ
れた」前方後円墳には程遠く、この日高丘陵においても柴田昌児氏が以前触れたとおり(柴田
2006b)、同時期に前方後円墳を頂点とした墳丘形態における明確な階層差は認められない。
高橋仏師4号墳では瀬戸内海周辺で弥生時代後期から伝統的に続く、土器供献儀礼(共飲共食儀
礼)が認められ、赤色顔料の付着した石杵を墓上に配するといった山陰地方の四隅突出型墳丘墓
などで特有の墓上祭祀形態を採用している点は、瀬戸内海を媒介とした広域的交渉を示す事例と
して注目されるところである。また、破鏡(懸垂鏡)の副葬行為については、新たな「鏡社会」の形
成に伴う共同体祭器の墓への副葬と捉えるならば、そこには弥生時代的な伝統性から脱却しよう
とした新たな墳墓の創出という見方も可能である。つまり、高橋仏師4号墳は伝統的な墓上祭祀
を継承(あるいは採用)しつつも、前方後円形の墳丘を意識した新たな墓制として、日高丘陵全体
の「先駆的形態」として評価できるものである。
一方、高橋仏師1号墳(旧墳丘)は同4号墳と同様に、墓上での土器供献儀礼を採用しているが、
その主体部構造や鉄器副葬(特に鉄鏃)に弥生時代的な伝統を払拭しようとする新たな政治的関係
性を示す要素が認められる。特に副葬鏃の多様性および有稜系鉄鏃3形態の成立とその保持とい
う現象は、上記の関係性を証明するものといえる。つまり、高橋仏師1号墳(旧墳丘)は、墳丘形
態は不明ながら、畿内政権および周辺域との何らかの政治的関係が想定できるのではなかろうか。
埋葬主体に現れた具体相はそれをよく示している。
日高丘陵全体を見渡しても、同時期の墳墓は見当たらないため、「高橋遺跡群」 を中心とした
勢力が日高丘陵一帯の盟主層であったものと考える。弥生時代後期に舶載の破鏡および小型倣製
鏡を保有したことからも、その中核的集落としての位置付けは問題ないと思われる。また、両古
墳の年代的位置付けについては、古墳時代前期前葉(集成1期)の範疇と考えるが、これまでの検
討結果より、高橋仏師4号墳→高橋仏師1号墳(旧墳丘)という系譜関係を想定しておきたい。つま
り、両古墳にはその築造に時間差が存在したという見方である。
312
2
古墳時代前期後半
(1) 別名一本松古墳の墳丘構造
別名一本松古墳は、墳長30.5m、前方部幅8.5∼9.0m、括れ部幅8.6mを測る前方後円墳である。
しかし墳丘形態には「定型化」された前方後円墳には認められない特異な点があり、前方後円墳の
認定には困難を伴う。以下に、その特異点について解説を加え、墳丘構造からみた本古墳の性格
について考えてみたい。
本古墳は平面形を観察すると、前方部の主軸は一定するものの、後円部は楕円形を呈し、大き
く墳丘主軸を南側に振る「左右非対称」の墳丘と判断できる。多少の非対称形であればその立地条
件により理解可能ではあるが、本古墳の場合、尾根頂部という地理的条件は考慮しても、後円部
南側の墳裾が他の裾部より1.0∼1.5m低く設定されており、墳丘構築前の設計段階で地山削り出
しによる後円部の主軸併行という意図はなかったものと考えられる。また、埋葬主体の主軸が丘
陵主軸または東西・南北主軸を指向するものでもない点から、相の谷1号墳などの「定型化」され
た前方後円墳(南北指向)とは全く異なる造墓原理に基づいた墳丘構築と判断する。
また、前方部の構築手法は地山(花崗岩で一部砂質層が貫入)削り出しにより全体形を表現する
が、前方部と後円部に一定の高低差が認められる点は、前期古墳の特徴を示しており評価できる
が、後世の削平を想定しても前方部があまりに低平で、前方部を意識した墳丘とは言い難い。
さらに、墳丘を「見せる」という視点で考えた場合、本古墳を丘陵裾部の集落から眺めた場合、
前方後円墳とは認識出来ないものと考える。つまり、「前方部」としての本来的な意味が欠落し、
辛うじて前方後円形を保つこの状況こそが、古墳時代前期前半から伝統的に引き継がれる、高橋
遺跡群を含む在地首長の「自立性」の表れと積極的に評価しておきたい。
(2) 埋葬主体および副葬品・配置 本古墳の埋葬主体は組み合わせ箱形木棺が納められた墓壙2基(第1・2主体部)が並列して配置
されている。埋葬主体のこのような規則的配置は、曖昧な墳丘形態とは異なる緻密な構造を呈し
ている。上部は近世段階の墓地造営により削平を受けており、本来の墓壙は残存部より二段墓壙
であったと判断する。
各主体部は第1主体部→第2主体部という切り合い関係が存在するが、第1主体部構築の段階で、
既に第2主体部を構築する位置が確定していたため、両者の埋葬の時間差はほぼ無いものと思わ
れる。また、第2主体部の墓壙床面がやや深く、後述する舶載鏡を所有することから、本古墳の
中心主体(「首長」本人)である可能性も考えられるが確定的ではない。
しかし、本古墳は今治市教育委員会の試掘調査段階で、主体部は大きな撹乱を受けており、単
に調査段階での木棺構造や墓壙形状の把握だけでは、各主体部の性格や副葬品配置の情報を窺い
知ることは出来ない。そこで出土遺物の詳細観察により、当時の木棺構造および不明な点の多い
副葬品配置について復元を試みたい。
第1主体部では試掘調査段階で倭製鏡1面(2)、鉄剣(ヤリ含む)3点(3・5・6)、古式土師器1点(1)
が出土しており、出土位置情報は把握可能であった。被葬者の位置であるが、1面のみの鏡副葬
313
1
第2主体部
撹乱
第1主体部
2
近世墓
16
撹乱
4
14
6
3
15
(第2主体部・模式図)
古式土師器
古式土師器(破片)
5
赤色顔料範囲
撹乱
ガラス小玉
(第1主体部・模式図)
0
2m
1
:
100
図173 別名一本松古墳の主体部構造
の場合、その出土位置が頭部付近を示すという理解(用田1980・藤田1993)を前提にすれば、第1
主体部の埋葬頭位は南を指向すると判断できる。倭製鏡は鏡背を上に向けた状態で確認されてお
り、鏡面および鏡背の一部に水銀朱が付着する。また、鏡面には木痕が残り、背面に一切見られ
ないのと対照的である。以上の出土状況と表面観察より、鏡の本来位置は木痕を木棺痕と仮定す
ると、棺蓋の上部(頭位)に鏡を配置したものと推測される。
また鉄製品は出土状況が明確な鉄剣(4)は頭部南側(棺小口寄り)に配置する。出土状況が曖昧な
3点については、6がヤリの可能性が強く、木鞘・木柄痕が付着することから、副葬当時は木棺内
にヤリが配置されていたと思われる。よって、出土位置情報とあわせて考えると、本来は被葬者
の頭部西側に鋒を南側小口部に向けて長柄とセットで配置されたと推測する。3・5については抜
身で、ヤリと同一方向の配置を想定したが確定的ではない。古式土師器壺は、足元側に置かれて
いたと判断でき、第2主体部と同様の墓壙構造であれば、その出土位置は棺外の北側平坦部(土器
供献空間)であった可能性が高い。
一方、第2主体部でも同様に試掘調査段階で後漢鏡1面(14)、鉄剣1点(15)が出土しており、出土
位置情報は点としては把握可能であった。被葬者の配置は第1主体部と同様で、鏡の位置関係か
ら判断すると、埋葬頭位は南を指向したと判断できる。後漢鏡は鏡面を上に向けた状態で確認さ
れており、鏡面および鏡背には水銀朱および木痕が明瞭に残る。鏡面には布痕らしきものが付着
することから、本来は布で包まれ副葬された可能性もある。木箱に納められた可能性もあるため
断言出来ないが、表面観察の結果からは、棺内の頭部に配置された可能性が高いと判断する。
314
鉄製品については、出土位置が確定する細形ヤリガンナ(16)は頭部南側に東西方向で配置し、
刃部を東側に向ける。また、当初鉄剣と考えていた個体(15)は、柄縁と剣身部との装着法などか
らヤリの可能性が高く、木柄痕および糸巻きが良好に遺存することから考えて、副葬当時は南側
に鋒を向けて長柄装着の状態で木棺内に配置されていたと推測する。なお、玉製品(管玉・ガラ
ス小玉)は第1主体部と同様、2箇所に集中して出土する点やその位置関係から、被葬者の腕(手首)
付近の装身されていたのではなかろうか。出土位置が不明な袋状鉄斧は含まれていないが、おそ
らくいずれかの主体部頭部付近に副葬されていたものと想像する。
以上の遺物観察および調査時の遺物出土状況をもとに、被葬者および副葬品の配置を復元した
ものが図173である。この中で最も注目されるのが鏡の副葬形態である。つまり、第1主体部では
鏡背を上部に向けて配置されるのに対し、第2主体部では鏡面を上部に向けるという相違点が認
められる。さらに副葬位置も前者が棺蓋上、後者が棺内の被葬者上と、その扱い方には被葬者自
体の性格を反映するかのようである。第2主体部の中国鏡(後漢鏡)は一部布が付着している点か
らも、副葬に際してはかなり被葬者に近い位置で丁寧に副葬されたことが窺える。では、その相
違は何に起因するのであろうか。ここでは各鏡の鏡式および年代的位置付けを検証することで副
葬形態の相違を生む要因についてアプローチを試みたい。
第1主体部出土の倭製四神四獣鏡は、面径11.0cmと小型で、外区文様には複合鋸歯文が用いら
れる。複合鋸歯文は森下章司氏(森下1991)や水野敏典氏(水野1997)が既に指摘されているとおり、
中国鏡にその起源を求めることが出来ず、他の古墳時代前期の器物に用いられた文様を取り入れ
ることで成立したとされる。森下氏によれば、「単頭双胴神獣系b2・b3式」の限られた時期に用い
られる外区文様で、水野氏のいう「捩文鏡・外区1群」でも同様である。
内区文様は半肉彫で、神像は冠表現の簡略された平頭の神頭のみを4体対置させて配する型式
で、襟などの表現は認められない。獣表現が乳に深く巻き付き、神像胴部は獣に覆われてしまう。
このような文様は、下垣仁志氏の分類する「ダ龍鏡系」に類似するものが認められることより、先
述した捩文鏡系・古相の外区文様とダ龍鏡(単頭双胴神鏡系)および対置式神獣鏡の系列の中で発
生した主像が融合して生まれた個体と考えたい。森下・下垣(下垣2003a)両氏の時期設定からは、
概ね4世紀中葉から後葉の年代が与えられる。また、倭製鏡の面径の大小による有力集団内の格
差を反映することも指摘されており(下垣2003b)、本古墳出土の小型鏡を考える上で重要である。
一方、第2主体部出土の舶載内行花文(連弧文)鏡は、面径14.4cmを測る完形鏡である。鈕座は
四葉文座で、弁間には一部判別しづらいが銘文「(長宜)子孫」の四字句が認められる。その他、連
弧間文様や雲雷文などの諸属性から、岡村秀典氏のいう「四葉座III式」に該当し、本鏡が「漢鏡5
式」と位置づけられる(岡村1993)。なお、ここでは鏡の「伝世」には触れないが、辻田氏の詳細な
分析(辻田2001)を通じて、前期古墳出土の完形中国鏡の大半が古墳時代初頭以降に列島に流入し、
畿内政権の一元的な入手・配布が想定できるとした見解は、地方における中国完形鏡の古墳副葬
の政治的意味合いを考慮する上で有効な指摘である。
このように本古墳出土の倭製鏡・中国鏡を検討すると、棺内副葬の中国鏡(第2主体部)は、畿
内政権との政治的(距離)関係を示す威信財であり、同時または前後して配布される小形倭製鏡と
315
は、明らかな被葬者間の優劣を示すものと考えるのである。
その他の副葬品においても、鉄製品の配置では、両主体部でほぼ左右対称形の配置形態を採用
する。鏡に認められた差異は、その他の構造的特徴や副葬品ではあまり見出せないのである。積
極的に差異を見出すとすれば、第2主体部出土の鉄剣(15)が、その柄構造から「4枚合わせ」手法(菊
池1996)または把形態・製作手法から「四枚合式糸巻頂点型」(豊島2005)と呼称するもので、第1主
体部の小型の鉄剣(6)をヤリと仮定した場合でも、その優劣の差は歴然である。つまり、第2主体
部の被葬者が本古墳の「地域首長」本人、第1主体部の被葬者をその近親者(配偶者か)と、現段階
では捉えておきたい。
(3)
同時期における別名一本松古墳築造の意義
高橋地区に展開した前期前葉の墓制も、その後造墓行為が認められなくなり、日高丘陵全体で
も集落自体が希薄となる。高橋湯ノ窪遺跡でもいわれる「断絶」期である(白石2002)。
この時期(集成編年2・3期)には、今治平野北部に竪穴式石槨・青銅鏡・埴輪などを具備した
「定型化された」県内最大の前方後円墳である相の谷1号墳(冨田ほか編2007・山内2007)が築造さ
れ、今治平野広範を掌握する首長層の存在が想定される。平野南部でも国分古墳の築造など、平
野内で前方後円墳を中心とした階層システムが構築された時期でもあった。
このような政治的動向の中で、日高丘陵にも新たな墓制が生まれることになる。それが別名一
本松古墳であると考える。この時期(古墳時代前期後葉)には「高橋遺跡群」でも再び集落経営が活
発化し、これまで集落が希薄とされていた奥矢田地区においても、近年の矢田大坪遺跡の調査
(真鍋2007)で、同時期の集落跡が確認されており興味深い。つまり日高丘陵および集落域一帯を
掌握する「首長墓」として出現するのである。
古墳の各属性を今治平野内の「首長墳」と呼称されるものと比較すると、墳丘は前方後円墳とい
う形態を有してはいるが、平野北部の相の谷1・2号墳のような高塚系の「定型化された」前方後円
墳とは隔絶性を認めざるを得ない。このような不定形な前方後円墳の築造に際しては、おそらく
日高丘陵(特に高橋地区)や今治平野南部の唐子台古墳群での「前方部短小型」墳墓築造の伝統性が
反映されたものと評価したい。但し、今治平野では「前方後円墳」を頂点とした階層構造が、古墳
時代前期中葉から後葉には既に成立していたと思われ、本古墳も後述する中央政権下から配布さ
れた青銅鏡の保有などを考慮すれば、墳丘規模・形態の差異こそあれ、今治平野北西部を視野に
入れた首長層の存在を想定しても何ら不思議ではなかろう。
また、本古墳の特徴である埋葬施設内での規格性と主体部間の鏡保有形態(位置関係)の相違は、
被葬者間の身分表示のみならず、畿内政権との政治的位置関係を示す要素としても十分である。
副葬武器の配置からは全て棺内副葬を想定しており、相の谷1号墳に代表される棺外副葬を基本
とする畿内中央部の副葬原理とは様相を異にする(宇垣1997)。この差異は、おそらくこれまでも
触れてきた畿内中枢部および広域的な地域首長間の密接度合いを示す指標と思われ、本古墳の対
外的な評価とも関連するものであろう。
さらに、日高丘陵の前期前葉(初頭)段階で顕著であった墓上での土器供献祭祀の様相が、この
316
段階には見られなくなる。妙見山古墳(下條編1992・1993・1994)では「伊予型特殊器台」および焼
成前穿孔のある二重口縁壺の墳頂部配置が想定されており、後続する時期の相の谷1号墳では壺
形埴輪をはじめ、円筒埴輪・初期朝顔形埴輪を含む本格的な埴輪祭祀(配列)を採用する(山内
2007)。このように、墳丘部への土器供献行為という点では、本来の共飲共食儀礼を示す墓上祭
祀から、墳丘上への土器(埴輪)配置という変容過程を読み取ることが可能である。そして古墳時
代前期後葉には、本古墳でみられる主体部内への土器共献行為へとその様相を変えることで、埴
輪を除く墳丘上への土器配列行為は、今治平野内では一旦認められなくなる。
つまり、別名一本松古墳は、相の谷1号墳の築造以降再編成された、今治平野北部の階層構造
上位に位置する「在地有力首長」の墳墓(集成編年4期)であり、その築造背景には、伝統的な日高
丘陵周辺の集落基盤があったことを付記しておきたい。
3
古墳の継続と断絶 -中期での展開別名一本松古墳の築造後、高橋湯ノ窪遺跡をはじめとする「高橋遺跡群」では、継続して集落経
営が認められるが、日高丘陵における墳墓の様相については希薄となる。これは県内各地での前
方後円墳の築造停止の現象と連動すると考えられ、これを古墳時代中期初頭との画期(柴田2007)
と捉えることも可能であり、対外勢力との政治的関係性の変容を示す指標でもある。しかし、古
墳築造が全て無くなる訳ではなく、小地域ごとの古墳築造の「継続性」および「断絶性」を読み取る
こともまた可能である。ここでは前期末葉段階以降の墓制に触れることで、日高丘陵の前期古墳
の特質を再度考えてみたい。
高橋地区では管見の限りでは中期古墳は確認されておらず、前期前葉から続く墓制の展開に一
定幅の断絶期が認められる。但し、別名一本松古墳の築造が「高橋遺跡群」を含む広範な集落基盤
の上に成立するのであれば、その断絶は一時的なものであったとも解釈できる。高橋湯ノ窪遺跡
をはじめ、「高橋遺跡群」では中期前半∼後半段階の集落経営も活発なことより、今回の調査対象
区域外に、今後新たな墳墓が確認される可能性もある。
一方、別名一本松古墳の所在する矢田・別名地域では、隣接した丘陵頂部に別名端谷1号墳(池
尻2007)が築造される。2基並列で東西主軸を指向する主体部配置、鉄剣の型式(池淵1993)および
配置形態より、別名一本松古墳に後続する時期の築造と考えられ、首長墳の「継続」がみてとれる
事例である。丘陵北端部にかけては、近年の調査で中期後葉の墓制(蛇池土坑墓)も確認されるな
ど、日高丘陵北部での継続的な墓制の展開が想起される。
このように日高丘陵においても、古墳時代前期末葉から中期前半にかけて小地域単位で墓制の
展開に相違が認められることがわかる。そこには前期古墳での古墳築造の在り方とは全く異なる
原理が存在したのではなかろうか。但し、今治平野での大型「広域首長墳」の出現は、埴輪祭祀や
副葬鏡などに畿内的様相を色濃く映す、樹之本古墳(山内2002)の出現を待たねばならない。
(山内)
317
62.0m
62.0m
62.0m
183
第2主体部
第2主体部
第1主体部
182
184
185
0
5m
1
:
(第1主体部)
(第2主体部)
0
1m
1
:
80
300
別名端谷1号墳
A'
81.0m
80.0m
c'
第2主体部
第2主体部
B
84.0m
0
第2主体部
(第1主体部)
第1主体部
1m
1
:
80
83.0m
82.0m
80.0m
0
10m
1
:
400
(第2主体部)
*鉄鏃はS=1/6
高地栗谷4号墳
図174 今治平野北西部の中期古墳
318
第2節 高橋仏師1号墳の評価
古墳時代後期の日高丘陵は、横穴式石室を内部主体とする古墳群が多く形成され、今治平野の
各地域と同様の展開をみせる。古墳群には「首長墳」と呼称される墳墓が存在することが多く、そ
の動向は小地域単位のみならず、広く今治平野全体の様相を窺い知る上で重要なものである。
今回発掘調査を実施した高橋仏師1号墳もその中の一つであり、後節で触れる高橋地区の動向
とも密接に関係する。本節では古墳の諸属性について改めて検討を行い、「首長墳」としての性格
および、本古墳の被葬者の性格について考察してみたい。
1
墳丘形態・構築過程
本古墳は主に地山整形と盛土積み上げにより構築され、平面形状は前方後円形を呈する。墳丘
規模は復元値で墳長21.4m、後円部径15.0mを測るが、前方部隅角の形状が後世の撹乱などで不
確定で、北西隅角付近には「旧墳丘」の痕跡の可能性がある地形コンターが巡る。括れ部は幅
9.8mと広く、墳丘自体は寸胴な印象を受ける。このように一見すると特異な形状と捉えがちな
墳丘形態であるが、実際にはやや左右不均等な墳丘形状を呈する理由があるものと推測する。
墳丘裾部のレベルを南東側と北東側で比較すると、標高差が約1.0∼1.8m存在することが確認
されている。つまり、墳丘南東側から見た墳丘を高く見せる構造を持つものと解釈している。埋
葬主体(横穴式石室)への墓道も南東側に設置されており、開口部も同様である。東側括れ部から
は人物埴輪の出土も多いことから、南東側を「見せる意識」が強い古墳であったことが窺える。
ではなぜ「見せる意識」を一定方向に集約させる必要があるのであろうか。理由の一つには、次
節で触れる高橋地区の小地域内における政治構造が関係するものと捉えたい。つまり、この墳丘
南東側には「高橋山岸・岡寺古墳群」が展開し、同時期の集落遺跡である高橋山崎遺跡が控える中
心的なエリアである。その集落・墳墓エリアから容易に眺めることが可能である点に、本古墳の
大きな意義があるものと理解したい。
また、本古墳築造において最も注目される点は、古墳時代前期前半の「旧墳丘」を破壊した上に
墳丘を構築するという事実である。通常であれば墳丘の存在する箇所は避けて築造するのが通常
と考えるのだが、敢えて「旧墳丘」の立地する場所に古墳築造をなすという選定原理は、単に景観
立地のみの理由では解釈出来るものではない。つまり、ここにも本古墳の持つ「政治性」を垣間見
ることが出来るのである。
墳丘構築に際しては、先程触れた「旧墳丘」の破壊行為ののち、前方後円墳の基盤整形(地山整
形)を施す(I段階)。その際、丘陵頂部の鞍部加工も施し、前方後円形を意識させる。横穴式石室
の構築も併行して開始し墓壙掘削を行う(II段階)。石室壁の石材積み上げは盛土積み上げと連動
しており、天井石上面が隠れる段階、つまり後円部頂部に水平面が確保されるまでが小単位とし
て認められよう(III-1段階)。
その後、墳丘全面に薄く土盛りを施した後、後円部を優先的に構築する(III-2段階)。このよう
に前方後円墳築造に際しては、後円部を先行して構築する場合が殆どであり、県内でも高地栗谷
319
第2主体部
1 「旧墳丘」が丘陵頂部に築造される。(墳頂部には若干の盛土を想定する。)
→
第2主体部
2 「旧墳丘」を破壊し、地山面の整形を施す。
(この際、前方後円墳を想定した平面形にする。) → 「I・II段階」
第1主体部
→
第2主体部
後円部より優先して墳丘構築を行う。
この際、石室(第1主体部)の積み上げ工程と併行させて盛土を施す。
(石室天井石が隠れるレベルまで盛土が認められる。)
→ 「III段階-1」
3
第1主体部
→
第2主体部
4
後円部の盛土積み上げと併行して、前方部の盛土積み上げを開始する。
(この段階で第2主体部は見えなくなる。)
→ 「III段階-2」
第1主体部
→
第2主体部
第1主体部
5 前方部の盛土積み上げを行う。(埴輪は盛土と同時に配置)
→ 「III段階-3」
0
3m
1
:
120
図175 墳丘・主体部の構築過程
320
1号墳(今治市教委2003)や播磨塚天神山古墳(吉岡2001)などの調査事例で同様の成果を得ている。
また、各種埴輪の樹立はこの盛土構築と同時に進められ、前方部の盛土積み上げ段階(III-3段階)
において墳丘構築が完成する。
このように平地部で構築する前方後円墳とは異なり、丘陵頂部および斜面部の特性を活かした
墳丘構築工程が採られたことが明らかである。また、盛土構築の省力化を図ろうとすれば、盛土
量の多い後円部を丘陵上位に構築するという選択肢もあるが、「旧墳丘」の埋葬主体(第2主体部)
を考慮に入れて、敢えて選定しなかったことも考えられる。つまり、単なる「前方後円墳の築造」
という事実を超えた特別な事情が内在しているものと想像できる。
2
墳丘上の遺物
(1) 埴輪
本古墳出土の埴輪には円筒埴輪、形象埴輪(鶏・人物)に大別され、朝顔形埴輪を樹立しない。
個体の殆どは円筒埴輪で、原位置を保つものは無いが、その出土状態や基底部の残存状況から樹
2a類
1b類
1a類
351
350
349
359
377
2b類
0
10cm
1
:
8
(ただし拓本はS=2/3)
図176 円筒埴輪分類
321
立位置を復元することは可能である。ここでは円筒埴輪の分類を試み、その成果から形象埴輪の
製作工人との関係を指摘することにしたい。
円筒埴輪は大別すると2類型に分類可能である。主に器面調整のハケ単位をその根拠としてい
るが、各類型には口縁部・突帯形状、ハケ調整の細分化により、さらに小分類を試みている。以
下にその4類型を示す。
1類:器面のナナメハケ調整は7∼8本/cmと細かく、器厚は口縁端部付近で1.2cm前後を測る。口
縁端部は指ナデが強く窪みを有し、内端が上部に突出する傾向が強い。突帯断面は貼り付け時の
指ナデ調整により大きく異なるため、厳密な分類基準とは判断出来ないが、小分類の参考にした。
突帯貼り付けは上下に歪みが大きく、基底部には基底部倒立調整を施す。
・1a類・・・口縁部があまり開かない点に着目し、小分類を設定した。ただし、口縁部を除けば基
本的に1b類との区別は困難である。突帯断面が低い台形状のもの(中央窪み)が多い印象を持つ。
・1b類・・・口縁部が開く形状のもので、突帯断面がナデにより三角形状を呈する。1a類にもこの
断面形状が部分的に認められるが、特に1b類はその比率が高い。
2類:器面のナナメハケ調整が3∼5本/cmと粗く、突帯断面が低い台形(中央窪み)を呈する個体で
ある。器壁は口縁端部付近で0.8∼0.9cmと薄手で、口縁端部には内端の摘み上げ痕は認められず、
比較的平坦なものが多い。ハケ単位の子細な相違から、さらに小分類が可能である。
・2a類・・・器面調整のハケ単位が5本/cmと粗いものの、2b類と比較すると幅狭と判断出来るもの
である。口縁部が大きく開く個体は少ないが、胴部径が小さな個体も含まれることから、更に細
分化できる要素はある。
・2b類・・・器面調整のハケ単位が3∼4cmと広く、ハケ原体(工具)の木目自体がかなり粗めである。
調整および各部の特徴は2a類と大きく変わらない。
このうち1類については、焼成が比較的良好な個体が多く、色調も黄褐色を呈するなど共通し
た特徴を有する。また、ハケ単位には相違点が少なく、口縁部外面に限り鳥足状のヘラ記号「↑」
を施すもの(352・355・357・363)が1a・1b類いずれにも認められることから、この1類の中で生
じる相違は、埴輪製作工人の「癖」程度のもので、製作技法上、共通のグループと捉えるべきであ
ろう。埴輪基底部については2類とも共通する。
2類に認められる個体差(2a・2b類)は、1類の中の相違と比較して、器面調整のハケ単位より明
確に区別できるものである。数的比率としては2a類が圧倒的に多く、2類の主流となすものと考
えられる。また、2a・2b類で生じる個体差は、製作工人の相違に反映されるものと推測する。
以上の点から考えて、本古墳出土の円筒埴輪については、類型ごとに異なる様相(ハケ原体な
ど)は存在するものの、製作技法上はほぼ共通した特徴を共有していることが確認できる。つま
り、器高55∼58cm、基底部径13.0∼15.0cmを測り、複数段にわたり外面押圧(打圧)、内面指オサ
エの「基底部倒立調整」(山内2003a・2003b)を施すもので、基底部高20∼23cmと突帯間距離(12cm
前後)の規則性を共有したモデルのもと、各製作工人が円筒埴輪製作に携わったものと考える。
また、円筒埴輪の年代的位置付けであるが、基底部倒立調整の顕在化という視点で考えると、
川西宏幸氏の円筒埴輪編年でV期新相(川西1978)、筆者の伊予埴輪編年でIV-2∼3期(山内2006a)に
322
360
390
(ハケ拓本はS=3/4)
361
390
2a類
2a類
360
361
0
図177 ハケ目原体の同定
10cm
1 : 6
該当する。これは6世紀前葉∼中葉の年代観を採り、後述する石室内の初葬須恵器の年代とも一
致するものである。
形象埴輪については、鶏、人物の髷・腕など(巫女か)が出土したが、その中でも鶏形埴輪は県
内4例目(四ツ手山古墳・船ヶ谷向山古墳・阿蔵古墳に次ぐ)で、顔面表現および尾羽根・脚部の
表現が確認出来る良好な資料である。基部である円筒部外面のハケ目パターンを観察すると、円
筒埴輪2a類のものと一致する箇所が見つかり(図177を参照)、円筒埴輪2a類の製作工人が鶏形埴
輪の製作に携わっていた可能性が極めて高いことが確認された。また、形象埴輪の基部と思われ
る個体(407)の粗いハケ目パターンが、円筒埴輪2b類と一致するなど、形象埴輪製作に際しては、
主に2類の工人グループが主動的な役割を果たすものと考えられる。
このように高橋仏師1号墳の埴輪が示す情報は、古墳自体の評価のみならず、埴輪製作集団の
一端を示すものとして評価できる。今治市内では古墳時代後期における埴輪の樹立が松山平野と
比較しても乏しく、地域内の型式変遷を追うのが困難であるが、今治平野北部の後期古墳である
323
1a類
1b類
2a類
1類
2類
(高地栗谷1号墳)
(高橋仏師1号墳)
0
10cm
1 : 10
図178 今治平野北部の後期埴輪
高地栗谷1号墳は、同じ前方後円墳で埴輪を巡らせるという共通項を有する。しかし、埴輪自体
は突帯間距離などで高橋仏師1号墳と同様な特徴を持つものの、基底部高や段数などの諸属性で
相違点が多い。但し、一古墳内では器高および基底部径は共通しており、ある程度の「決まり事」
が存在したようである(山内2006b)。その他の埴輪の保有状況は、形象埴輪は盾形埴輪(鰭状で無
文)のみで、朝顔形埴輪が認められる点で大きく異なる。
つまり、6世紀前半∼中葉には今治平野で「首長墳」と呼ばれる盟主墳に埴輪が採用されるが、
その状況は古墳単位で異なり、形象埴輪の保有形態に差異が認められる。6世紀後半になると形
象埴輪は姿を消し、埴輪自体の樹立も殆ど見られなくなるのである。高橋仏師1号墳の埴輪群は、
古墳時代後期における今治平野の埴輪樹立の画期として、大きく評価されるべきものである。
(2) 須恵器器台
本古墳では墳丘頂部に須恵器器台(347)が配置されていたことが出土状況から確認された。器
台は高杯形で、脚部との接合部には突帯状の盛り上がり(刻みか)が認められる。おそらく墳丘上
で出土した須恵器甕を載せたものと思われ、各種の形象埴輪とともに墳頂部での祭祀行為を窺わ
せる好資料である。今治市域での器台の出土例は少なく、管見の限りでは小型器台は高橋湯ノ窪
遺跡3次・SI-06(白石2003)、大型の高杯形器台は二の谷2号墳(三好ほか2000)、高地栗谷1号墳な
どで出土している。
本古墳出土の器台については、その使用状況が墳頂部への供献(儀礼用)であり、二の谷2号墳
などの古墳時代中期に認められる高杯形器台と同様の在り方を示す。これに対し、6世紀中葉以
降の個体については、墳丘上の配置が減少し、石室内へ副葬される事例が増加する。この変化は、
葬送儀礼に関する大きな画期であり、高橋仏師1号墳の事例はその過渡期にあたる。
形態的特徴については、中期古墳出土の高杯形器台は受部が深く、端部がシャープで外面には
丁寧な複線波状文を施す。脚部は裾開きでスカート状に広がるものが多いが、後期前半(6世紀前
324
→
大池東3号墳(5世紀末葉)
→
高橋仏師1号墳(6世紀前葉)
葉佐池古墳(6世紀中葉)
0
図179 須恵器器台の変遷
10cm
1
:
8
葉∼中葉)には脚部上半が円筒状を呈し、受部が浅くなり、波状文の段階的な粗雑化および刻目
文の顕在化が特徴的である。
高橋仏師1号墳の個体は複線波状文がまだ丁寧で、刻目文は認められない。脚柱部上端には円
形のスカシ孔があり、形状的には葉佐池古墳の資料が近似するが、外面調整などの諸特徴より若
干後続するものと考える。また、高地栗谷1号墳でも高杯形器台が出土したが、撹乱坑からの出
土で本来は石室内に副葬されていた可能性が高く、外面調整が刻目文主流である点などから考え
て、高橋仏師1号墳の個体より後続するものと判断したい。
3
石室・床面
(1) 石室構造
横穴式石室である第1主体部は、天井石が右側壁上部の崩落により玄室内に刺さった状態で確
認されており、後世撹乱のみられる羨道部と併せ一部の情報は欠落しているが、奥壁上の天井石
は辛うじて架設され、天井部までの構築過程を復元することは可能である。以下に石室形状およ
び構築過程、使用石材などの諸属性について列記する。
玄室平面プランは主軸長4.0m、奥壁幅1.85m、玄門部寄りで1.44mを測り、僅かに胴張り状に
も見えるが、基本形は羽子板状のプランを呈する。周辺の石室と比較して主軸長に対し玄室幅が
広い比率を示し、玄門部はスロープ状の構造を追葬時の改変と考えると、基本的には前面に石材
積み上げを施した「玄門部段構造」の可能性が高い。つまり、日高丘陵に展開する明瞭な「玄門部
段構造」の先駆的形態として採用されたものと考えられる。同一丘陵北部には、平面プランの相
違はあるが、片山4号墳(谷若ほか1984)が今治平野における横穴式石室導入期の古墳で知られて
おり、その共通性は注目される。また、羨道部が非常に短い形状である点も特徴的で、このよう
な無袖の同一形態は松山平野北部においても同様の在り方を示す。これらの系譜関係については、
小地域単位の変遷の中で扱うべきではあるが、高橋仏師1号墳でみられる石室形態のモデルにつ
325
82.0m
小工程3 ( 3
(
小工程2 ( 2
(
81.0m
81.0m
82.0m
2
1
82.0m
81.0m
3
(
小工程1 ( 1
3
2
羨道部
羨道部
80.0m
1
81.0m
0
2m
1
:
60
図180 石室構築の小工程
いては、導入契機は不明ながら、九州地域の竪穴系横口石室の系譜に求めたい。
石室の石材積み上げ工程については、図180に示す通り、基底石設置から大きく3つの小工程が
存在するものと想定する。主に横目地を判断根拠としているが、小工程3で積み上げた石材は人
頭大の花崗岩川原石が多く、横目地の判断と併せて興味深い。持ち送りは小工程1までは殆ど見
られず、小工程2以降、徐々に内側に傾斜する。ただし、天井石には長さ1.5∼1.8mの長めの花崗
岩が用いられることより、ある程度の傾斜で十分に架設可能であったと判断する。つまり、垂直
326
82.0m
67.0m
67.0m
81.0m
67.0m
82.0m
81.0m
82.0m
81.0m
(参考:矢田長尾2号墳)
(凡例)
80.0m
:玄武岩質の石材
*色なしは花崗岩
0
2m
1
:
100
81.0m
(高橋仏師1号墳)
図181 石室石材の分類
とまではいかないが、小型の割石小口積みで対応可能な石室構築方法を用いており、竪穴系石室
の積み上げ原理を残すものと推測する。
また、石室石材について若干触れておきたい。本古墳の石室石材は小型割石を多用することは
既に述べたが、その石材の多くを地元の地山岩盤層である花崗岩ではなく、玄武岩質の緑色を呈
する石材に頼るという点に注意したい(図181)。天井石および奥壁の腰石は別として、この現象
は丘陵頂部に展開する一部の古墳でも同様に認められる。
(2) 追葬の過程
横穴式石室の床面には大きさの異なる玉砂利が敷かれており、玄門部付近は撹乱も認められる
が、出土遺物の配置や型式差などから、複数回の追葬が想定される。調査時には追葬最終段階の
様子でしか検出できないため、初葬および追葬初段階の痕跡は判断が難しいが、ここでは追葬の
痕跡を出土遺物および床面の痕跡から積極的に復元してみたい。
初葬段階
石室前面にはやや小振りの玉砂利を敷き、石室主軸に沿う形で被葬者を埋葬する。頭位につい
ては奥壁中央付近で土玉をはじめとする各種玉製品が出土したことから判断した。鉄釘などは認
められず木棺構造は不明であるが、その周囲には須恵器および鉄刀(大刀など)をはじめとする鉄
製品、馬具が配置されていたと想像できる。大刀については「片付け」の際に上部に初葬須恵器群
が置かれることから、調査時の奥壁寄りに配置されたと推測するが、玉製品が下部から出土して
いるため、追葬時に若干の移動も考えられる。
327
初葬
追葬1
0
追葬2
1m
赤色顔料分布範囲
1
:
50
黒褐色土分布範囲
図182 追葬の模式復元
須恵器副葬**範囲
追葬1段階
初葬時の被葬者遺骸および副葬品(特に須恵器類)は、奥壁際を中心に「片付け」がなされる。床
面の玉砂利は、奥壁寄り両側部にやや大型の石材を敷き詰めている。初葬後の「片付け」の際に中
央の石材が移動したという見方もあるが、長軸2.0m、幅約50cmの範囲で2箇所認められることよ
り、追葬時の新たな屍床を設定したものと捉えたい。
被葬者は2体で、その前後関係は不明だが、赤色顔料が奥壁寄りに集中することから、埋葬時
の頭位は奥壁向きと考える。副葬遺物は須恵器が多く、少数の玉製品と鉄鏃・刀子を認めること
ができ、初葬段階と比較しても少ないことが分かる。本段階を「追葬1段階」としたい。
追葬2段階
追葬1段階の後、石室奥壁寄りに再度「片付け」の痕跡が認められる。玄室奥壁寄りはその後使
用されなくなり、追葬は玄門部に近い範囲が中心となる。一部撹乱が認められ、側壁石材の崩落
などで床面の判断が困難となるが、石室主軸やや玄門部寄りと右壁寄り中央の2箇所に色調の異
なる黒褐色土の広がりが認められた。有機物が腐食した痕跡と考えられ、両地点からは銅釧や勾
玉、碧玉製管玉、多量のガラス玉が出土している。この範囲を頭位と仮定するならば、さらに2
体の被葬者が埋葬されたことになる。2体の前後関係は不明であるが、この段階を「追葬2段階」と
呼称したい。副葬品では豊富な玉製品のほか、刀子のみが多くが副葬される点に注意したい。
以上、埋葬行為を「初葬」・「追葬1」・「追葬2」の諸段階に大別して検討したが、初葬段階の被葬
328
428
初葬
(MT15併行)
456
444
465
▼
▼
追葬1
410
(TK10併行)
434
459
457
▼
▼
▼
追葬2
421
(MT85∼
TK43併行)
455
438
460
0
図183 床面須恵器の変遷
5cm
1
:
4
者は本古墳築造の契機となった「有力者」本人と想定され、副葬品の優位性は肯首できる。問題な
のは「追葬1」と「追葬2」段階の被葬者の性格で、副葬品構成に鉄製武器(鉄鏃)や農工具を保有する
前者に対し、後者は豊富な玉製品や装身具、さらには武器とは区別される刀子の保有形態から判
断して、前者を男性(血縁関係)、後者を女性(同左)の被葬者の可能性を指摘しておきたい。
4
副葬品
石室床面からは、各種鉄製品や馬具、複数時期にわたる須恵器類、豊富な玉製品および銅釧・
耳環などの装身具といった豊富な副葬品が納められていた。特に追葬時(追葬2)に置かれたと考
える歯車状の凹凸を有する銅釧(1121)などは県内では類例が無く、被葬者の性格を考える上で重
329
要な資料と思われる。
ここでは本古墳築造と直接的に関係する初葬段階の被葬者(小地域内での「首長」か)の性格を示
すと思われる遺物(鉄製品・馬具)について個別に検討したい。
(1) 鉄製品
床面は追葬1の段階で奥壁寄りを中心に「片付け」がなされるため、厳密に区分することは困難
だが、片付け時の須恵器との重複関係などから判断すると、初葬段階に副葬された可能性が高い
鉄製品には、鉄刀(473・474)、鉄斧(483)が挙げられ、確実ではないが透かしを有する短頸鏃(503)
や鉄鎌などの農工具も含まれるものと考える。また、先述したように追葬2の被葬者には副葬品
に鉄鏃をはじめとする武器類が少なく、小型刀子の比率が非常に高い傾向も認められる。
初葬段階の鉄刀についてであるが、長さの異なる2振の個体が鋒を右側壁に向けて副葬されて
いた。大型の鉄刀(473)は全長約1mの「大刀」で、今治平野の後期古墳では二の谷2号墳や片山4号
墳(谷若ほか1984)、高地栗谷1号墳などの地域有力墳に限定して副葬される傾向がある。形態上
の特徴としては直角の片関で茎尻に向かい若干幅狭となるもので、隅抉尻の形態を採る。臼杵勲
氏の研究を参考にすると「直角片関隅抉尻先細茎」に属するもので、年代観は6世紀前半が想定さ
れており(臼杵1984)、初葬段階の年代観とも矛盾しない。大刀自体の長大化傾向もこの時期には
強く、本古墳出土の大刀も同様の在り方を示すものと考える。
一方、全長35.3cmの鉄刀(474)はやや不均等な両関で粟尻茎と判断する。本型式の鉄刀は盛行
期が6世紀後半と考えられるが、その先駆的形態としてセット関係にある大刀と共伴するものと
想定したい。また、副葬時には刀身部の木痕から木鞘に納められて副葬されており、抜身の大刀
とは様相が異なる点にも注意したい。
(2) 馬具
石室奥壁際に配置(または片付け)された轡(521)、石室中央玄門寄りに残された辻金具1個体
(522)について、個別の形態的特徴およびセット関係に着目したい。
轡は鉄製楕円形鏡板付轡で、一部を除き全体構造を把握できるものである。鏡板は最大幅
11.8cmと大型で、鉄板は1枚造りである。下部は全体形状から判断して、やや大きめの抉りを入
れていたものと推測され、縁に鋲などの装飾は認められない。引手と銜は鏡板外側の遊環を介し
て連結され、引手端部は瓢箪形の引手壺を配する。立聞部からは兵庫鎖が繋がれる。
セットとして考えられる辻金具は鉄製の鉢状辻金具(宮代1986・1993a・1996)である。4脚で表
面に鍍金などの装飾は認められず、大型の円形鋲が穿たれ、責金具が1条取り付けられる。
また、石室床面が前面で撹乱を受けている点や、追葬時に「片付け」で石室外に移動した可能性
も考えられるため、確実なことは言えないが、破片資料でも雲珠や杏葉などの尻繋構造を復元す
る資料は出土していない。鉢状辻金具についても、本来は複数存在したものと考える。これら遺
存状況および馬具のセット関係から判断して、本古墳の副葬馬具には面繋のみが副葬されたと考
えるのが自然であろう。以下に面繋構造の復元を試みることにしたい。なお、面繋構造の復元に
330
521
522
0
5cm
1
:
5
0
5cm
1
:
(面繋復元想定図)
*宮代1997を参照
3
図184 出土馬具と面繋構造
際しては、宮代栄一・白澤崇両氏の業績を参考にした(宮代1997・白澤1999)。
宮代氏によれば、鉄製楕円形鏡板付轡と鉢状辻金具の組み合わせは、辻金具2∼3個体が1組と
して用いられることが多いという(宮代1993b)。高橋仏師1号墳では加えて 具の破片(523)がセッ
トとなって出土しており、組み合わせとしては宮代氏の「d」類型に属する。年代観としてはMT15
∼TK10併行(IV期)と考えられ、本古墳の初葬段階に併行する。なお、面繋の馬装復元について
は不確定要素も多いが、額革に鼻革を加えた複条系面繋ではあまりにも床面での鉢状辻金具の出
土が少ないため、ここでは可能性の高い辻金具2点装着の単条系面繋を復元した(図184参照)。
このように本古墳出土の馬具が「面繋限定馬装」であったと仮定するならば、f字形鏡板付轡に
代表される面繋・尻繋のセット関係とは異なった在り方を示すものと考えられる。それは一面で
は被葬者の階層差を示すが、別の視点で捉えると「面繋限定」の副葬であるならば、鉄製楕円形鏡
板付轡と鉄製鉢状辻金具のセット保有は、その上位階層の所持品として問題はなさそうである。
また、鉄製楕円形鏡板付轡は県内でも斎院茶臼山古墳(西尾1983)や治平谷3号墳(八木ほか1974)
の出土事例があるが、全国的にみても大型古墳からの出土例が少ない傾向(坂本1997)にあるとい
う。素環鏡板付轡との比較もあろうが、少なくとも小地域内においては有力層の所有品として扱
うべきであろう。
5
被葬者の性格
諸属性の検討の結果、高橋仏師1号墳が石室床面の須恵器検討(田辺1966・1981)から、6世紀前
葉(MT15型式併行)を初葬段階とする前方後円墳であり、墳丘出土の須恵器器台および各種埴輪
331
の年代観も、初葬段階と大きく離れない範囲で捉えることが可能である。また、初葬段階の被葬
者は、本古墳の築造契機となった「有力者」本人であったことが、県内では数少ない鉄製楕円形鏡
板付轡と鉢状辻金具のセットがら推測される馬装(面繋構造)や、鉄製大刀などの副葬品から窺え
るのである。しかし、その「有力者」を推測する根拠は、墳丘内外や墳丘構築過程の中でも捉える
ことが可能である。以下にその具体相を説明したい。
墳丘頂部および斜面中位に配置された埴輪は、古墳時代後期における今治平野での円筒埴輪導
入の画期となるもので、その形態には強い規格性を読み取ることができる。つまり、古墳築造に
際し、前代にはない新たな埴輪製作工人を結集させたものと推測できる。またその主導的な役割
を果たしたのは、鶏形埴輪などの形象埴輪製作に大きく関与した「円筒埴輪2a類」の製作工人であ
り、墳頂部で執り行われる埴輪祭祀まで掌握できていたのではなかろうか。
墳丘構築に際しては、本古墳最大の特徴である前代の墳墓(旧墳丘)の破壊行為が注目されよう。
しかも、造墓の選定原理が眺望の良さのみに左右されていたとは考えられず、「旧墳丘」の存在を
知り得た上での墳丘削平であったと理解する。つまり本古墳の被葬者は、古墳時代前期から続く
在地集団に対し、前代の伝統的墓制の象徴である「旧墳丘」を破壊し、新たな墳丘を築くことで、
「有力者」としての権力を誇示したいという発想が内在していたものと解釈したい。
また、前方後円墳に初期の横穴式石室、さらに各種埴輪樹立という畿内通有のセット関係を用
いることで、より一層の階層の「隔絶性」を示したものと思われる。後述する集落域である高橋山
崎遺跡を初めとする「高橋遺跡群」からは、前方後円墳としての同古墳がはっきり確認できること
から、墳丘構築段階で既に視覚的効果を意図していた可能性が極めて高いのである。
以上の点から、本古墳の被葬者は、その介入契機は不明ながらも、在地集団に新たに介入して
いった、いわば「新興勢力」の墳墓であると考える。しかも、平野内でも初現期の埋葬主体構造を
有し、埴輪祭祀の具体像を保持する点は、近畿地方および周辺地域との政治的関係性を有する集
団とも捉えられるが、その具体的な判断は困難である。但し、宇摩・松山平野などに出現する、
金銅装馬具や装飾付大刀などを保有する「広域首長墳」とは異なり、高地栗谷1号墳の事例と同様
の、高橋地区一帯を視野に置く「小地域首長」の墳墓と認識する方がより自然であろう。
(山内)
第3節 古墳時代後期の「首長墳」とその周辺 -高橋地区の評価前節では、高橋仏師1号墳の被葬者を在地勢力の首長層ではなく、外来の新興勢力と想定した。
しかし、このような解釈自体は在地勢力の首長層(またはそれに近い有力層)の墳墓の様相が明ら
かになって、初めて成立するものであろうと考える。
高橋仏師1号墳が所在する高橋地区では、今治新都市開発に伴う今治市教育委員会の発掘調査
でも、多くの墳墓および集落が確認されており(今治市教委2003・2005)、在地勢力との関係性を
窺い知るためのデータがある程度蓄積してきた。詳細な検討については今治市教育委員会の本報
332
0
四 国 西 濃 運 輸
39.3
50
貞 池
66.6
41.4
40
50
34.1
38.3
鶏 舎
59.2
高橋仏師I号墳
70
80
84.5
清
正
の
湯
22.5
高橋仏師2号墳
W
高橋徳蔵寺古墳
24.2
90
40
44.5
100
高橋仏師3号墳
60
57.0
高橋仏師II遺跡
30.9
38.8
26.0
117.6
43.1
W
0
11
高橋山崎遺跡
高橋仏師4号墳
10
28.5
28.4
50
高橋徳蔵寺遺跡
0
仏 師 池
90
80
38.4
鶏
32.5
40
52.7
高橋湯ノ窪遺跡
50
24
26.2
高橋山岸2号墳
舎
29.0
70.5
高橋山岸1号墳
50
60
W
47.2
高橋岡寺II遺跡
40
25.9
95.6
37.7
51.4
40
0
10
32.4
40.8
110
高橋岡ノ下遺跡
48.1
高 橋
29.0
高橋岡ノ端遺跡
80
25
W
90
99.1
42.0
0
33.6
図185 高橋地区の古墳・集落配置
134.5
65.1
200m
30.2
33.1
26.3
107.4
告を待つことにして、ここでは高橋地区を一つのモデルに、古墳時代後期の勢力関係について、
墳墓の具体例から検討を加え、同時期における高橋地区の評価を行いたく思う。
本来、集団間の具体像を把握するには、集落遺跡の様相を検討する必要があるのだが、同時代
の主要な集落遺跡である高橋山崎遺跡(今治市教委)の性格が現段階では不確定のため、ここでは
隣接する丘陵上に展開する「高橋山岸・岡寺古墳群」の調査成果(今治市教委2005)を参考に、墳墓
からみた「新興」と「在地」の比較検討を進めてゆきたい。
高橋仏師1号墳の丘陵尾根下には、径9m前後の円墳である高橋仏師2号墳が所在する。墳丘お
よび横穴式石室は小型であるが、出土遺物の中には在地産の須恵器では例を見ないハソウ(1202)
の副葬や口縁部の打ち欠き行為や壺の貫通儀礼(1211)、初葬段階の須恵器の丁寧な作り、さらに
県内では初の石室内への儀鏡の副葬など、同時期(6世紀中葉∼後葉)における玄室内副葬とは異
なり、祭祀的意味合いが強い点で特徴的である。おそらく1号墳の系譜もしくは同時期の従属墳
として築造されたものと考えられる。また、高橋仏師3号墳は同一丘陵上ながら、その様相は不
明である。箱式石棺出土の須恵器の年代観より、1・2号墳よりも後出するものと捉えたい。
一方、高橋仏師II遺跡の所在する開析谷を挟む南側低丘陵上には、高橋山岸1・2号墳、高橋岡
寺II遺跡が所在する。高橋岡寺II遺跡は中世墓の下から天井石の残存する横穴式石室を内部主体
に持つ円墳(径12m)が検出された。玄室長5.3m、幅1.5mを測り、床面には追葬面が認められる。
副葬品には各種須恵器や豊富な鉄製品(武器・農工具)のほか、素環鏡板付轡や辻金具がある。出
土須恵器より初葬送年代を6世紀中葉(TK10型式併行)と判断する。
高橋山岸1号墳は径18mを測る円墳で、埋葬主体の横穴式石室は玄室長5.2m、幅1.6∼1.8mを測
り、石材も大型の花崗岩を中心に用いられる。石室内からは須恵器・鉄製品が出土し、羨道部に
333
高橋岡寺II遺跡
高橋山岸1号墳
0
3m
1
高橋山岸1号墳
:
120
高橋仏師1号墳
高橋岡寺II遺跡
高橋仏師2号墳
「新興」集団の墓制
0
「在地」集団の墓制
2m
1
図186 高橋地区の石室比較
334
:
60
は閉塞石が残存した。出土須恵器の年代観から、概ね6世紀後葉∼末葉(TK43∼209型式併行)を初
葬段階と考えるが、撹乱もあり判断は難しい。同2号墳も小型の横穴式石室である。
この他にも様相は明らかではないが、後期中葉∼後葉の埴輪を持ち、横穴式石室を内部主体に
持つとされる高橋徳蔵寺古墳など古墳時代後期後半の群集墳は多い地域だが、先述した丘陵単位
の両古墳群には、石室形態・副葬品の諸属性において共通項や明確な差異が存在するのである。
石室形態では、両者(「高橋仏師古墳群」と「高橋山岸・岡寺古墳群」)に玄室平面に大きな差異が
認められることが分かる。つまり、前者は玄室長が5.0mを超える大型プランであるのに対し、
後者は高橋仏師1号墳でも玄室長4.0mとその差は歴然である。石材の大小および築造時期の誤差
は考慮しても、その設計段階から規格差が明瞭である。また、高橋山岸1号墳・高橋岡寺II遺跡
の玄室プランはほぼ同じで、同一丘陵上での規格性の強さ(系譜関係)を表している。
また、使用される石材についても、「高橋仏師古墳群」では小・中型の花崗岩(天井石は除く)に
混じり、小型の玄武岩割石を多様することが指摘できる。石材自体が非常に堅緻で、花崗岩と比
べ重量があるため、石室構築には適したものと思われる。一方、大型花崗岩を石室構築の中心と
する「高橋山岸・岡寺古墳群」では、標高が前者に比べ低く、大型石材の獲得・移動に有利な条件
を満たしていた可能性が高い。この両者の差異は、石材獲得の条件面の相違も表示する可能性が
高く、被葬者に対する考え方の相違も窺えるものと考える。
副葬品に目を移すと、高橋仏師1・2号墳では鉄製楕円形鏡板付轡+鉢状辻金具のセットや全長
約1mの大刀、さらに2号墳での須恵器や儀鏡に窺える祭祀様相など、「小地域」内では特異な様相
をみせるものである。一方、「高橋山岸・岡寺古墳群」では、高橋岡寺II遺跡で多種にわたる鉄製
品(農工具・鏃など)が出土してはいるが、大型大刀などの被葬者の身分を顕著に示す製品は認め
られない。馬具についても同様で、素環鏡板付轡を最低3セット保有しているが、高橋仏師1号墳
の記述でも触れた、卓越した面繋構造(馬装)を復元することは出来ず、鉄製楕円形鏡板付轡のセ
ット関係にはやや劣るものと考えられる。
以上の点から判断して、「高橋仏師古墳群」のグループは、墳墓構築の諸属性、古墳祭祀の様相、
さらには石室石材の獲得に至るまで、「小地域」内では特異な一群として評価できる。おそらく、
本古墳群の被葬者は、伝統的な「在地集団」の集落経営に介入した、いわば「新興勢力」の墓域であ
り、旧来の墓制を否定(破壊)することで、その権力誇示を図ったものと推測したい。
一方、「新興勢力」自体が完全にその存在意義を失った訳ではなく、「在地勢力」の集落基盤と労
働力を生かし、「高橋山岸・岡寺古墳群」のような大型横穴式石室を構築できたものと考えたい。
つまり墓制からは、この6世紀中葉段階で、「新興」と「在地」という対立的な構図が、狭小な谷部
を挟んで両丘陵上に展開していたことが分かるのである。但し、この構図も高橋山岸1号墳の追
葬送最終段階(7世紀前半か)には消滅しており、一定の断絶期を経て、高橋山崎遺跡・高橋徳蔵
寺遺跡で垣間見える、古代に向かう新たな集落構造の再構築段階を迎えることになるのである。
(山内)
335
参考文献
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338
報告書抄録
ふ り が な
べつみょういっぽんまつこふん・やたながおいちごうふん・やたながおいちいせき・
たかはしさやのたにいせき・たかはしむかいだににごうふん・たかはしぶっしいち∼よんごうふん
書 名
別名一本松古墳・矢田長尾1号墳・矢田長尾I遺跡・高橋佐夜ノ谷遺跡・
高橋向谷2号墳・高橋仏師1∼4号墳
副 書 名
今治新都市開発に伴う埋蔵文化財調査報告書
巻 次
第5集
シ リ ー ズ 名
埋蔵文化財発掘調査報告書
シリーズ番号
第146集
編 著 者 名
山内英樹
編 集 機 関
財団法人 愛媛県埋蔵文化財調査センター
所 在 地
791-8025
発 行 年 月 日
ふりがな
所収遺跡名
ふりがな
所 在 地
べつみょういっぽんまつこふん
えひめけんいまばりしべつみょう
愛媛県今治市別名935-4,
やたおつ
938,941,950,951,矢田乙67
矢田長尾1号墳
やたながおいちいせき
調査期間
34゚02'54" 132゚58'07"
34゚02'42" 132゚57'38"
34゚02'45" 132゚57'41"
えひめけんいまばりしやたおつ
えひめけんいまばりしたかはしおつ
34゚02'42" 132゚57'50"
愛媛県今治市高橋乙
18-3・4,20-1・2・7
34゚02'43" 132゚57'42"
えひめけんいまばりしたかはしおつ
愛媛県今治市高橋乙21,29
たかはしぶっしいちごうふん
えひめけんいまばりしたかはしおつ
高橋仏師1号墳
愛媛県今治市高橋乙
66-1∼3,87,100,108-1∼4
たかはしぶっしにごうふん
38201
愛媛県今治市矢田乙146-3,
高橋乙29-7・12
たかはしさやのたにいせき
高橋向谷2号墳
北 緯 東 経
市町村 遺跡番号 ゚ ' " ゚ ' "
たかはしおつ
愛媛県今治市矢田乙136,
たかはしおつ
137,143,144,146,高橋乙21,29
たかはしむかいだににごうふん
コード
えひめけんいまばりしやたおつ
矢田長尾I遺跡
高橋佐夜ノ谷遺跡
TEL (089) 911-0502
西暦 2008年 3月
別名一本松古墳
やたながおいちごうふん
愛媛県松山市衣山四丁目68-1
34゚02'28" 132゚57'32"
えひめけんいまばりしたかはしおつ
高橋仏師2号墳
愛媛県今治市高橋乙87,
100∼103
たかはしぶっしさんごうふん
えひめけんいまばりしたかはしおつ
高橋仏師3号墳
愛媛県今治市高橋乙
89∼92,98,99,101,102
たかはしぶっしよんごうふん
えひめけんいまばりしたかはしおつ
高橋仏師4号墳
愛媛県今治市高橋乙
57-2,109,118-3・4,116
所収遺跡名
種 別
主な時代
34゚02'28" 132゚57'33"
34゚02'26" 132゚57'36"
34゚02'24" 132゚57'26"
主 な 遺 構
調査面積
m2
20050701
∼
20050930
20040202
∼
20040519
20031104
∼
20040305
1,700
900
1,200
20040825
∼
20041029
1,500
3,100
200
300
900
主 な 遺 物
別名一本松古墳
古墳
古墳
前方後円墳,木棺土坑墓
矢田長尾1号墳
古墳
古墳
円墳,横穴式石室
須恵器,鉄製品(刀子・鏃・鎌),馬具,
玉製品(管玉・切子玉・ガラス玉),人歯
矢田長尾I遺跡
集落跡・古墳
弥生・古墳
竪穴住居,段状遺構,土坑,溝,柱穴 弥生土器,石製品(石鏃),
須恵器,土師器,鉄製品(刀子・剣)
円墳(周溝あり),横穴式石室
高橋佐夜ノ谷遺跡
集落跡
弥生
竪穴住居,段状遺構,土坑,溝,柱穴 弥生土器,石製品(鏃)
高橋向谷2号墳
古墳
古墳
円墳,横穴式石室
須恵器,鉄製品(釘)
高橋仏師1号墳
古墳
古墳
前方後円墳,横穴式石室,
木槨木棺墓
埴輪(円筒・鶏・巫女),須恵器,
鉄製品(剣・刀・斧・ヤリガンナ・鑿・鏃)
馬具(轡・辻金具)・耳環・銅釧・玉製品
古式土師器,人歯
高橋仏師2号墳
古墳
古墳
円墳,横穴式石室
青銅鏡(儀鏡),須恵器,鉄製品(刀子),
玉製品(勾玉・管玉,ガラス玉),人骨
高橋仏師3号墳
古墳
古墳
円墳,横穴式石室(消失),
箱式石棺
須恵器,鉄製品(鏃)
高橋仏師4号墳
古墳
古墳
前方部短小型墳墓,木棺土坑墓
青銅鏡(破鏡),鉄製品(剣・鏃),
玉製品(管玉・ガラス玉),古式土師器
今治新都市
開発
3,000
20030930
∼
20031212
20040830
∼
20041020
20040518
∼
20041029
20040528
∼
20040824
20040701
∼
20040827
青銅鏡,鉄製品(剣・斧・ヤリガンナ),
古式土師器,玉製品(管玉・ガラス玉)
調査原因
特 記 事 項
今治平野北西部の日高丘陵に展開する弥生時代後期前葉∼古墳時代終末期の集落および古墳群。
要 約 特に高橋仏師4号墳・高橋仏師1号墳(旧墳丘)・別名一本松古墳に代表される、古墳時代前期の墓制お
よび副葬品配置・葬送儀礼の様相や、高橋仏師1号墳を中心とする、高橋地区における古墳時代後期
「首長層」の具体像を窺い知ることのできる貴重な調査成果が挙げられる。
また、副葬品には中国鏡や倭製鏡の完形鏡や破鏡(懸垂鏡)、さらには小型倭鏡など各時期にわたる
特徴的な青銅鏡が納められ、高橋仏師1号墳では鶏形埴輪をはじめとする埴輪祭祀が復元可能である。
埋蔵文化財発掘調査報告書 第146集
別 名 一 本 松 古 墳
矢 田 長 尾 1 号 墳
矢 田 長 尾 I 遺 跡
高 橋 佐 夜 ノ 谷 遺 跡
高 橋 向 谷 2 号 墳
高 橋 仏 師 1 ∼ 4 号 墳
埋蔵文化財発掘調査報告書(本文編)
平成20年3月
編集・発行
(財)愛媛県埋蔵文化財調査センター
愛媛県松山市衣山四丁目68-1
TEL (089) 911-0502
印 刷
原印刷株式会社