異邦人の視線 - 共愛学園前橋国際大学

Mar.2007
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金子光晴とジャン・コクトー
西川正也
「僕は、ついに、自分をエトランゼという名で呼ぶことにした」
金子光晴『絶望の精神史』1)
フランスの詩人ジャン・コクトー(1889-1963)が世界一周旅行の途上で日本に立ち寄
ったのは、1936(昭和 11)年5月のことであった。日本の文学者たちはこの訪問について
様々な感想を書き残しているが、詩人・金子光晴(1895-1975)もまたそうした文章を記
した一人であった。
自身、二度にわたってヨーロッパに滞在し、西欧の社会や文化との格闘を重ねた経験が
あるだけに、金子の言葉がコクトーに対する手放しの礼賛にも、また一方的な批判にもな
っていないのは当然かもしれないが、コクトーの来日に際して金子が残したその文章を、
彼自身のヨーロッパ体験を参照しながら読み解いていこうというのが本稿の大きなねらい
である。
1 放浪者・金子光晴
(1)最初の洋行
洋行ということに、かける筋でない期待、おもい通りにならないよその期待までかけ
ていた事実は、いなみがたい。洋行が機縁で、とんでもない幸運がきて、すばらしいこ
とになりそうな夢までえがいていた。2)
二十三歳の折り、初めてヨーロッパに赴くことになったときの高揚感を、金子は『詩人
金子光晴自伝』の中でこんなふうに振り返っている。この文章は実際の体験から半世紀近
い歳月を経た後にまとめられたものではあるが、金子の人生における初めての「洋行」が
どれほど期待に満ちたものであったのかは、上の引用からも十分にうかがうことができる
だろう。
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大正8(1919)年2月、知り合いの骨董商・鈴木幸次郎とともに神戸を出港した金子は、
鈴木の商用のため二ヵ月ほどイギリスに滞在した後、ベルギーへと渡った。鈴木の顧客で
あった根付収集家イヴァン・ルパージュに引き合わされた金子は、彼の庇護の下、それか
ら一年半にわたってブリュッセル郊外の下宿に滞在することになる。
相続した義父の遺産が徐々に乏しくなり、前途に対する漠とした不安を抱えはじめてい
たとはいえ、当時の金子の経済的な状況はまだゆとりのあるものであり、またなにより、
この頃の金子は詩人としての大成を夢見るだけの若さを依然として失ってはいなかったの
だった。
この滞在の一年半は、僕の生涯にとってもっとも生甲斐ある、もっとも記念すべき期
間となった。古ブラバント侯国領の豊かな田園ですごした月日は、僕のその後の人生を
決定したといってもいい。このあいだに学びえたもの以外に、その後何程のものもつけ
足しはしなかったろう。朝は読書し、昼は散歩しながら詩を書いたりして、夜は、毎晩
のようにルパージュ氏のもとにでかけて行って話をして、夜を更かした。(中略)それよ
りも重要なことは、氏が、ヨーロッパに対してほとんど無知に等しかった僕の、眼をひ
らいてくれたことだった。3)
金子がヴェルハーレン(1855-1916)をはじめとするベルギーやフランスの詩人に深く
傾倒するようになったのはまさにこの時期であり、またこの頃に書きためた金子自身の詩
篇は、後に詩集『こがね蟲』(大正 12/1923 年)へと結実することになった。
やがて「一すじな向学心に燃えた、規律的な、清浄な」4)ベルギー生活に区切りをつけた
金子は、ブリュッセルからパリへと移動する。年譜によれば、金子にとっての最初のパリ
滞在はひと月程度のものであったらしいが、気の向くままに街路を歩きながら、宿に戻っ
て自身の詩稿を整理するという日々を金子はパリで過ごしている。
当時の心境を振り返って、後に金子は「僕は僕なりに、方法をつかんでいたので、成功
しているか、失敗しているかはしらないが、これまで誰もうち建てなかった、美の殿堂を、
詩によってつくりあげようと試みた」5)と記しているが、そうした気負いに身を浸したまま
でいられたという事実からも、この第一回の欧州滞在が金子にとってはいかに幸福なもの
であったのかを読み取ることができるだろう。
約二年のヨーロッパ生活を終えて金子が日本に戻ったのは、大正 10(1921)年、二十五
歳のことであった。
ヨーロッパ生活に没入していた僕が、にわかにこのような日本にかえってきてなじむ
ことのできないのはむしろ当然のことだろう。ヨーロッパの伝統のよいものだけをみて
きた僕は、はやくも日本に絶望し、帰らねばならないことを悲しんだ。しかし金もなく
なり、仕事の場もヨーロッパにはない僕としては、帰るより他に方途がないのだ。
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(中略)
東京は、なかなかなじめなかった。空の垂れさがった、低い屋根の並んだ、じめじめ
した、空疎なこの町は、散漫で、とりとめなくて、そのくせ、ざわざわと人通りばかり
多くて、はやくも、第二の故郷ヨーロッパに対する郷愁に駆り立てられ、彼地で考えて
いた時のような、とびついていくようななつかしい情感は、すこしも湧かなかった。自
分が生来のバガボンドではないかと思って、物悲しくさえなった。6)
帰国する前後のことを振り返って、金子は自伝の中でこのように記している。
前にも述べたとおり、この文章は実際の体験からかなりの時を経てまとめ直されたもの
であり、当時の心境をそのまま写し取ったというよりは、後年になってからあらためて整
理したものという意味合いが強い。しかしそれだけにこれらの文章は、彼の生涯のそれぞ
れの時期が後にどのような意味を持つことになったのかという点について、金子自身が思
索と推敲を重ねながらまとめたものであるとも言えるのである。
これ以降、金子はその生涯を通じて多くの旅に出ることになるが、漂泊の日々を重ねれ
ば重ねるほど、ますます自分の帰るべき場所を見つけられなくなっていくような金子の生
き方は、この「最初の洋行」を契機として始まることになったのである。
(2)ふたたびパリで
ヨーロッパから帰国した金子は関東大震災後の関西放浪や、二度にわたる上海旅行など
を経て、昭和3(1928)年末、再び日本を離れることになった。
さきの日にはあまり子供であった私は、現在幾分かの生活的教養を経てきた私となっ
て、ふたたび同じパリーを訪れる。私は、あまりに沢山見のがしてきた社会的方面、人
間的方面を、できるだけ目をひらいて見てきたいと思う。
過去の私が、フランスの抒情詩に誘惑したごとく、現在の私は、フランスの根柢に喰
入って、次の時代の要求までも察知してきたいと思っている。7)
出発にあたって金子は上のような抱負を雑誌に発表しているが、実際の旅立ちはけっし
て輝かしい希望に満ちているとは言えないものであった。
進むべき詩の道を見定められずに迷い続け、経済面では家賃を滞納して何度も転居を繰
り返すほどに行き詰まり、また前年には、妻の森三千代(1901-77)が別の男性と恋愛事
件を起こすなど、まさに追いつめられた状態にあった金子は、逃げるようにして日本を離
れたというのが実情だったのである。
妻を伴い、とりあえず上海に渡った金子ではあったが、最初の洋行とは違ってほとんど
金銭の蓄えがないままの出発であったために、その旅は予定も見通しも立たないものとな
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らざるをえなかった。自分の描いた絵を売って資金を作り、船賃がたまるとまた次の場所
に移動するという形で中国や東南アジアを転々とした後、金子が何とか一人分の旅費を捻
出して妻をフランス行きの船に乗せたのは、旅立ちから実に一年以上が経ってからのこと
であったという。
翌 1930(昭和5)年1月、ようやくパリで妻と合流した金子は以後の二年間をフランス
とベルギーで過ごすことになる。この二度目のヨーロッパ滞在については自伝『詩人』お
よび『ねむれ巴里』(昭和 48/1973 年)に詳しいが、特にパリでの生活に焦点を当てた後
者は、フランスでの金子の暮らしぶりを伝える貴重な資料であるばかりでなく、読み物と
しての面白さをも兼ね備えた稀有な作品となっている。
それでは、この二度目のフランス滞在とは一体どのようなものであったのだろうか。
金子の自伝を読む者がまず目に留めるのは、彼らの生活の凄まじい困窮ぶりである。「無
一物の日本人が巴里でできるかぎりのことは、なんでもやってみた。しないことは、男娼
だけだった」8)と綴った金子は、在留邦人名簿の集金から映画のエキストラ、さらにはチン
パンジーのお守りまで、考えうる限りのあらゆる仕事に手を出したものの、9)その多くがう
まくは運ばず、彼らの経済状況は一向に好転する兆しを見せなかった。
友人知人のいない僕らには、たとえ五フランの金でも、融通してくれる相手はなかっ
たし、(中略)借銭は、決して返済できるあてはなかった。(中略)一日二日と二人が絶
食することもあったが、それは、無一文の僕らだけのことではない。
(中略)東洋ではと
もかく、西洋での身の詰まりかたは、さすがに個人主義の国だけに凄まじいものがあっ
た。破産者は遠慮なく自殺した。敗者が生き残れる公算がないからである。その点はし
ょぼくれて生き延びることに馴れている日本人のほうが辛抱強かった。10)
こう記した金子はその言葉のとおり、極貧の中でも何とか糊口をしのぐ手段を見つけな
がら妻と二人、パリの裏町での生活を続けていくことになる。
金子はまた、最初の訪欧時にはあれほど強く心を惹かれたはずの文学や芸術、さらには
芸術家であることについても次のように記している。
そのうえ、それまでは、芸術などにかかわりあっていた僕は、パリの街に住みつくな
り、芸術など、じぶんにとっておよそ無縁なことにさとりをひらいた。一度、無縁とわ
かれば人は、ふりむいてもみないものだ。生まれかわった僕は、絹ごしの空気でなくて
も、結構呼吸できたし、芸術家をこきおろすほどの関心もなくなり、場合によっては、
芸術家になりすますことも、はばかりなくやってみせることのできる融通無碍な心境に
なることもできた。11)
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実際の金子はヨーロッパ滞在中も日本の雑誌に原稿を書き送り、売るための絵を描き、
またおそらく何篇かの詩を作ったりもしているのだが、12)それらはあくまでも生活のため
か、あるいはきわめて限られた数であって、パリ時代の金子が精神的には詩人であること
をやめて「書かない詩まですてはててしまった」13)と述べているのも、あながち誇張では
ないだろう。
しかもそんな金子の周囲に集まったのは、日本に帰る旅費もなく、あてのない日々を過
ごすだけの者たちや、「ごろつき」のような画家など、人々が眉をひそめるような連中であ
ったために、パリの日本人社会では金子の名が出ただけで妻が仕事を断られてしまうよう
な状況であったともいう。
こうして収入もなく、詩からも離れ、頼るあてもないままに金子は重く雲の垂れこめた
異郷で、妻とともに「底辺」のごとき暮らしを送ることになるのだが、そうした日々を振
り返って後にまとめられたのが『ねむれ巴里』なのであった。もちろん金子に劣らないほ
どの貧困をパリで経験した日本人は少なくはないだろう。また金子の自伝の中でも、成功
を夢見てフランスに渡りながら悲哀に満ちた末路をたどることになった者たちの逸話が数
多く紹介されている。しかし凄惨とも呼ぶべき自らのパリ体験を冷静に見つめなおし、そ
れを優れた文学作品にまで昇華させたという意味で『ねむれ巴里』は他に類を見ない一冊
となっているのであり、そのために金子について言及する者の多くがこのパリ時代に着目
することにもなるのである。
しかも、普通なら陰惨なものになってしかるべき日々を描いていながら、この『ねむれ
巴里』は、読む者にそうした雰囲気を感じさせることがほとんどない。その第一の理由と
しては、実際の滞在とこの本の執筆との間に四十年近い歳月が流れていたことを挙げるべ
きだろうが、そこにはまた、どれほど悲惨な状況にあっても微苦笑を浮かべつつ、それを
一歩退いて眺めているような金子の知性的な態度や、時に猥雑な描写を含みながらもけっ
してそれだけに終わることのない独自の詩的散文の力が深く関わっていることも指摘して
おかなければならない。
晩年の金子は作品そのものよりも、むしろその奇矯な言動によって知られる存在であっ
たが、この自伝はそうした奔放な行動の奥に隠された知性や詩的感受性を強く感じさせる
ものとなっている。例えば金子はさまざまな比喩を用いて、繰り返しパリの姿を描き出し
ているが、そのいずれもが彼にしかなし得ない表現であったことは、次のような一節を読
めば容易に理解されるにちがいない。
第一次大戦と、未発の第二次大戦のあいだの虚妄の時間を僕らは、いわれもなく生き
のびていた。パリは白っ子のように透きとおって、籠のなかのエスカルゴのように繁栄
を肌に透かせて延びきっていた。14)
パリはその形からしばしば「エスカルゴ」に喩えられるとはいえ、ふたつの戦争に挟ま
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れた「虚妄の繁栄」をただ空しく貪るばかりであったパリのあり方を、このように表現す
ることが他のどんな日本の詩人にできただろうか。
金子はまた、腐臭漂う街として何度もパリを描写しているが、そこに見られる表現もや
はり彼独特のものである。
千社札のように、Amour, Amour, Amour の秘符で封じ込められた寝臭い町、排泄物の
町、手拭いとコンドームを釣りさげたオテルの窓。(中略)これは、君たちには、このう
どぶどろ
えもない溝渠だ。上海どころのさわぎではない。ここはもっと手におえない、芸術や文
化のあくどい色までもごったくそで手のこんだ術策で、肥厚性鼻炎にいどんでくる。こ
の骨家のうえで、どうやって生きてゆく?15)
「花のパリは、腐臭芬々とした性器の累積を肥料として咲いている、紅霞のなかの徒花に
すぎない」16)と書いた金子の中では、パリの街路を満たすそうした腐臭はしばしば性の臭
いでもあり、その臭いはまたそこに暮らす人々への嫌悪とも密接に結びついていく。
若い、または年とった西洋人たちの本性の倦むことをしらない欲望の果てをながめて
いることも、そのときの僕には吐気をもよおすこと以外の、なんの衝撃も感じられなか
った。彼らのからだのどこにも、呪符が貼りつけられてあるのは、彼らがその繁殖力を
彼らの神から約束づけられていることを、彼らの神への負債として押付けている証拠で
ある。そのときほど、西洋人がきたなくみえ、西洋人を形づくっている材料を不潔にお
もったことはなかった。それと同時に、西洋人がつくった文明が、首すじや尻のできも
のといっしょに感じられたこともなかった。17)
かつては遠くから憧れ、最初の滞在時には「西洋の美酒に酔っぱらった」18)とまで金子
に書かせたはずのヨーロッパの社会や文明は、苦難に満ちたこの二度目の滞在を経ること
により、まったく異なる相貌を彼に示すようになったのである。
パリという街の持つ、そのふたつの表情について金子はこんなふうにも綴っている。
ひ と み
わ き が
眸子のすぐり、赤い鷲鼻、枯芝のような体毛、尿壺の甘さよりも、百倍むかむかする腋臭
は
の異臭、汗のしめりで、赤く腫れあがったうす肌、過剰な栄養がつくりあげた厖大な西
洋人の幻は、彼らの歴史が完成させた物質世界の征服で、まことに彼らにふさわしい精
力的な文明都市を天も狭くなるばかりに組みあげた。パリもまた、おなじように、さか
んな都市であるうえに、優しくもあり、お洒落でもあった。
しかし、男、女のあいだとおなじに、惚れ込んでいるあいだは、世界の花の首都であ
るが、嫌気がさしたら、売色の巷であり、目先の流行をつくりだすだけの浅墓な、その
け
ち
え
せ
うえ、吝嗇で勘定だかい、どこまでも小理屈で利害をまもろうとする、似而非才子佳人
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おも かわ
の腹ぎたない、見かけだけ華美な人間たちのうようよしている偽善の街に面変りする。
19)
『ねむれ巴里』を読み進む者は、パリの街とその住人に対する詩人の執拗なまでの呪詛
の言葉をこうして繰り返し目にすることになるのだが、それではこの二度目のパリでの暮
らしは金子にとってただ忌まわしく、また苦いだけのものであったのだろうか。
たしかに金子自身は「足をふみ入れた最初から、パリが僕をよくおもわないで、早速追
出しにかかっていることがうすうすわかっていた」20)と書いているが、社会の底辺からす
べてを睨みつけるようなこの二度目の滞在を通して、かえって彼がパリという街やそこに
住む人間に対する理解の度を深めたことは疑いようがない。二十代前半の最初の洋行につ
いては「ヨーロッパの伝統のよいものだけをみてきた」と記した金子であったが、そうし
たきらびやかな表面を眺めただけでは見えてこない、社会の裏側や暗部を克明に観察する
ことによって、彼は他の者が容易には到達し得ないような深度まで、パリの内面に分け入
ることに成功したのである。
二年に及ぶヨーロッパ生活のうちで金子がパリに滞在したのは、実は一年あまりでしか
ない。残りの日数を金子は旧知のルパージュ氏を頼ってブリュッセルで過ごしているのだ
が、今橋映子氏も指摘しているように 21)全部で十六章から成る『ねむれ巴里』の中でベル
ギーのために充てられたのが最後の一章のみであることを考えれば、それがどれだけ辛く
悲惨なものであったとしても、金子にとってのパリでの体験がいかに鮮烈なものであった
のかが理解されるだろう。
金子はまたパリで暮らしながら、フランス人だけではなく、そこに暮らす日本人につい
ても同様に鋭い観察の目を向けることを忘れなかった。在留日本人社会という、いわば閉
こわ
ざされた世界の中で強い疎外感を覚えた金子は、例えば「心を強ばらせて、あらわに敵意
をみせることでは、日本人というものが、日ごろの心づかいが細かいだけに一層、処理が
下手で、収拾のつかない人種であることをいつも身をもって知る羽目になる」22)と綴って
いるが、パリという異郷にあってこそ初めて見えてきた日本人の本質を、金子は時に辛辣
に、また時に静かな筆致で描き出しているのである。
やがて二年にわたる欧州生活を終えた金子は 1931(昭和6)年 10 月、旅費の都合で妻
の三千代を一人あとに残したまま、マルセイユから東へと向かう船に乗り込むことになっ
た。しかし同年末シンガポールに到着した金子は、すぐに日本行きの船に乗ることはせず、
再びマレー半島を放浪しながら詩作を再開することを選ぶ。遅れてヨーロッパを発ったは
ずの三千代が先に日本に帰着し、子供が病気であるとの手紙を送ってよこしたために、よ
うやく金子が神戸の港に戻ったのは出発から足かけ五年目にあたる昭和7(1932)年5月
のことであったという。
このあまりにも長い放浪の旅は、かつて「第二の故郷」とまで呼んだヨーロッパの冷酷
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な現実を金子に教える一方で、日本と日本人のあり方についての一層の違和感を彼に抱か
せることにもなった。
この旅行は、僕たちのためには、筋が立たなすぎて、なんの役にも立たないものであ
ったと言えばその通りであるが、強いて得るところがあったとすれば、僕のなかで大揺
れに揺れている世界のどこにも僕の故里はないということがはっきりとなったこと、そ
れぐらいである。23)
金子はその自伝の中でこのように述べているが、最初の洋行後にすでに感じはじめてい
た、どこにも帰る場所がないという感覚は、今度の旅によってさらに決定的なものとなっ
たのである。これ以後の金子は、旅先にあっても日本で暮らしても、つねにそこは自分の
いるべき場所ではないという思いを捨て去ることができなくなっていく。そしてそのこと
が、戦争へと傾斜していく社会に身を置きながらもひそかに抵抗詩を書き続けるという金
子の姿勢につながると同時に、二人の女性と結婚、離婚を繰り返すという後年の彼の人生
ともおそらく結びついているのだろう。
晩年になってから金子は自らの三十代を振り返って、次のような詩を作っているが、こ
こにもまた自分の居場所を見つけられずにひたすら旅を重ねた、当時の金子の姿を見て取
ることができるのではないだろうか。
三十代
三十代と言へば、経験もあり
先の見通しもきく筈なのに、
僕の三十代はいちばん苦労が多く、
貧乏で、裸で、旅から旅ばかり、
三十代はもともと火の手の強い年代だが
僕の三十代は、恋愛もなく、野心もなく、
このばかやろがせいぜいのところで、
ほんたうにがらくたな三十だった。
くるぶし
上海で 踝 を踏んだ女の首を、パリの場末のバーの皿のうへにのってるのをみたヨカナン
のやうに。24)
2 金子光晴とコクトー詩
前章では、二度にわたるヨーロッパ滞在が金子の生涯においてどのような意味を持って
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いたのかという点について述べたが、この章では、その金子とコクトーの詩作品との関わ
りについて考察してみたい。
(1)コクトーの訳詩と詩壇の潮流
金子が初めてコクトーの詩を知ったのは、詩人・川路柳虹(1888-1959)を通じてのこ
とであった。川路について、金子は「象徴派からヴェルハアランを通って、コクトオまで、
フランス詩人の詩の手法が彼によって日本の詩にとり入れられ、新しい日本詩の土台に多
くのヷリエーションを与えた」25)と評しているが、大正の末頃、その川路の家を訪ねた際
に「いまいちばん先端の詩人ですよ」26)と言って教えられたのが、コクトーだったという
のである。
金子によれば、その時に見せられたのは「雨の中のひなげしの花が、受話器のように小
首をかしげている」27)という書き出しの詩であったが、その詩のもつ「哀れさ」に惹かれ
た金子は、以来コクトーが「こころのなかで生活しはじめた鋭利な刃物」のような存在に
なったと記している。
大正 14(1925)年は、堀口大學(1892-1981)の訳詩集『月下の一群』が上梓され、
コクトーの名前と作品が日本において一気に広まる契機となった年であった。昭和 29
(1954)年に出版された『現代詩の鑑賞』の中で、金子は当時の状況を振り返って次のよ
うに記している。
フランスの詩がアポリネールで、全くちがってしまったように、日本の詩人たちも、
アポリネールやコクトオの影響で、言葉の使いかたが変ってしまったといってもいい。
28)
『現代詩の鑑賞』ではこの後に、堀口によるコクトーの訳詩が四篇引かれているのだが、
上の金子の言葉を補足するなら、日本の詩はコクトーらの影響によって変わったというよ
、、、、、、、、、
りも、むしろコクトー詩の堀口大學による翻訳の影響を受けて新しい一歩を踏み出すこと
になったと見る方がさらに正確だろう。堀口が自らの好みに合わせて選び取り、彼独自の
日本語によって訳出した多くのフランス詩は、当時の読者や詩の実作者たちに多大な影響
を与えたのである。
日本の詩壇は、こうした刺激のなかで、(中略)もっとも若い詩人たちのあいだで、こ
れからの詩はすっかり変ったものになるのではないかという、きわ立った気配が感じら
れてきた。
在来の詩人達が、これほど色褪せて、無意味になったように感じられた時期はなかっ
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た。29)
新しいフランス詩の登場によって一変してしまった日本の詩壇の状況を金子はこのよう
に回想しているが、それでは彼自身はそうした変化をもたらす一因ともなったコクトーに
ついて、どのように見ていたのだろうか。
『現代詩の鑑賞』の中で金子は、アポリネール(1880-1918)について「彼ほど気楽に、
こともなく、楽天と哀愁をほどよくまぜて、十九世紀来の詩の窮屈からぬけでて、らくら
くと息をした詩人はない」30)と評しているが、そうした傾向をさらに押し進めたのがコク
トーであると金子が考えていたことは、同書の中で彼が引用したコクトーの訳詩を見れば
明らかである。「うろこ雲」「シャボン玉」「耳」「黒んぼ美人」の四篇は、いずれも平明な
表現と斬新な比喩によって、かすかに哀感を含んだ主題を軽やかに歌い上げた小品であり、
深刻な心情の吐露や重厚な詩句とは全く無縁の作品であった。
金子はこの時期のコクトーを指して、
コクトオは才気が本人より一足先にうまれて周りをとびまわっているような男だ。と
りおさえるのに汗をかく。だが、モダニズムの献立を作るには適材適所だ。31)
と評しているが、アポリネールに才気を加えて、さらに軽くした詩人、というのが当時の
コクトーに対する金子の理解ということになるだろうか。また、この文章に若干の皮肉が
感じ取れるのは、日本の新しい詩人たちがコクトーの本質を捉えることよりも、彼の詩の
表面的な手法を利用することに熱心であったことに対する金子なりの揶揄が含まれている
からにちがいない。
昭和初期の詩壇は、そうした若い詩人たちがコクトーやアポリネールの翻訳に刺激され
て起こした新たな詩の運動によって席巻されることになった。「モダニズム詩」と呼ばれる
その運動は、コクトーやアポリネールだけではなくシュルレアリスム等、さまざまな同時
代の文学の影響を受けながら一気に広がり、「在来の詩人達が無意味になったよう」な時代
を作り出して、金子をもその大きな渦の中に巻き込んでいったのである。
『水の流浪』『鱶沈む』等の詩集〔引用者注・昭和元~2年刊〕を出してから僕は、じ
ぶんもこのままでは骨董品になってゆくよりしかたがない、さもなければ、どっちかに
いき みち
別途を求めなければ生道がない。そう気がついていたが、この二つの途、モダニズムと、
思想革命〔同・主にアナーキストの詩を指す〕
、このいずれかに大別されるその分岐点に
立って、僕は迷うだけで、どっちへいっていいのか、じぶんのなかではっきりした性根
が定まらないのであった。32)
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コクトーの詩に初めて出会って以来、その感覚の鋭さや表現の新しさを誰より敏感に感
じ取ってはいたものの、十九世紀のフランス象徴詩に大きな影響を受けて詩作を続けてき
た金子にとっては、コクトーは自らの創作とは容易に結びつけることのできない詩人であ
った。しかしそんなコクトー詩の翻訳を源泉のひとつとして生まれた「モダニズム」とい
うまったく新しい詩の潮流は、皮肉なことに金子を旧世代の詩人として次第に過去に押し
流しつつあったのである。
仲間の詩人たちがジャーナリズムでの仕事を次々に奪われていったその頃のことを振り
返って、金子は「詩人でやってゆこうということには、『不可能』を宣告されたようなもの
だった。二回目の僕のヨーロッパ行は、そうしたさなかだった」33)と書いているが、前章
で扱った二度目の欧州滞在の背景には、こうした詩壇の状況があったのである。
(2)
「天使」
ところで前にも触れたとおり、若き日の金子がもっとも傾倒したのはヴェルハーレンで
あったが、生涯を通じてこのベルギー詩人に劣らぬほどの影響を受けたのはフランスの詩
人、ボードレール(1821-67)とランボー(1854-91)であった。自身で訳詩集を刊行し
たほどの彼らに比べると、コクトーと金子との関わりはそれほど濃密なものとは言えない
が、例えば次に掲げる金子の作品にはコクトー詩の影響を読み取ることはできないだろう
か。
天使
一
しやぼん玉があがるやうに
あかんぼ
嬰児たちが
そらにうかぶ。
コンデンス・ミルク
神の 煉 乳
で育つた
薔薇の膚は
風邪をひかない。
むつきもいらない。
その背には
きじ ばと
雉鳩のつばさ。
花の輪のやうに手を繋ぎ、
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ハンカチーフ
雲や 手 巾 のやうに
夕ぞらにただよふ。
エンゼル
おお。天使よ。
きらきらと
ちりば
貝殻 鏤 めた天のおくに
天使らはむらがり遊ぶといふ。
天使らの純真な笑ひ声が
あそこにみちあふれるといふ。34)
「しゃぼん玉」「薔薇」「天使」「貝殻」といった、いかにもコクトー的なモチーフ(より
、、
正確には、初期のコクトーの訳詩らしいモチーフ)の連なった作品であり、この一篇だけ
を読む場合には多くの者がコクトー詩との関連を想起するにちがいない。
ただしこの作品は全二篇から成る連作詩であり、第二番の詩篇では作品の雰囲気が一変
することになる。長篇であるため、すべてを引用することはできないが、
昼の月、
浮雲とともに
こわいろ
神の声色、遠雷のつぶやく
くにざかひのそらを天使らは
おそれげもなく
膝で
匍ひまはる。35)
この最後の一節からも読み取れるように、後編では天使たちはその幸福を失い、
「えらばれ
た扈従」として、国境の空に送り出されるのである。
金子自身はこの詩を「日本と中国との戦争が始まった年」に書いたとしているから、日
中戦争の勃発した昭和 12(1937)年の作であろうか。金子によればこの詩における「天使」
とは出征する兵士たちのことであり、第一篇では悩みもなく無邪気に暮らしていた彼らは、
第二篇において「戦争にかり出され、自己の位置をわきまえることなく国境の空の雷鳴に
似た砲声の方へ、恐怖心すら取りあげられて、這いまわる仕儀となる」36)のであった。
この詩に関する自作解説の中で金子はコクトーの名前を一度も出していないし、後篇を
読めば「コクトー風」の詩とはかなり異なった「抵抗詩」であることもわかる。しかしこ
の詩を作る前年にコクトーが来日した折りには「芸術家としてのジャン・コクトーの感受
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性は無類である」37)とまで書いた金子であれば、「天使」をモチーフとして作品を構想する
際に、彼の作品をすこしも意識することがなかったとはやはり言いきれないように思う。
金子光晴が初めてコクトーの詩に出会ったのは大正の末頃、このフランス詩人が日本で
もまだ広くは知られる前のことであった。その表現の新しさや詩行に漂う漠とした「哀れ
さ」にまず心惹かれた金子は、以後コクトーを「鋭利な刃物」のような存在、つまり繊細
な感受性と並外れた才知によって対象を鋭くえぐってみせるような詩人として意識するこ
とになる。
一方、そんなコクトーをはじめとする新しいフランス詩が次々に紹介されることによっ
て、金子を取り巻く昭和の詩の状況は一変してしまう。詩の道に迷い、収入を断たれた金
子は私生活における混乱もあって長い放浪生活にはいるのだが、その遠因としてコクトー
詩の流布が挙げられるとすれば、金子にとってはなんとも皮肉な展開と言うべきだろう。
数年に及ぶ旅を終えて日本に戻った後の金子とコクトー作品との関わりについて考える
なら、たしかにそこには、それほど密接な関連は見つけられないかもしれない。しかし自
身の帰国から四年後のコクトー来日に際して金子が残した文章が、詩人としてのコクトー
に対する深い理解に支えられたものであったことは、次章において検討されるとおりであ
る。
3 コクトーの訪日と金子光晴
日中戦争の勃発を契機として金子が「天使」を書き上げた、その前年にあたる昭和 11
(1936)年の春、コクトーが二・二六事件の余燼燻ぶる日本にやって来たことはこれまで
にも何度か述べたが、それでは、そのコクトーの来訪について金子はどのように考えてい
たのだろうか。
一週間の滞在を終えてコクトーが日本を離れた翌日、5月 23 日付の「都新聞」に金子は
「コクトーについて」と題する一文を寄せているが、本章ではその記事を手がかりに、コ
クトーの訪日に関する金子の見解についての考察を試みることにしよう。
(1)藤田、デスノス、コクトー
多くの時間をブリュッセル郊外の下宿先で過ごした一回目の洋行はもちろんのこと、一
年以上をパリで送った二度目のヨーロッパ滞在の際にも、詩人であることをやめようと決
意した金子が、欧州の文学者や芸術家に接触したことはほとんどなかったと言ってもよい。
在留邦人名簿の集金役を引き受けたために、当時パリに来ていた日本人の画家や文学者に
接する機会は比較的多かったようだが、現地の日本人からはむしろ疎まれていた金子が彼
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らと親しく交際した形跡はほとんど残されていない。
そうした中で唯一、「はぐれ者」の金子にも温かく門戸を開いてくれたのは、当時すでに
フランスの画壇で成功を収めていた藤田嗣治(1886-1968)であった。自伝や聞き書きの
中で金子は藤田との交流についてしばしば言及しているが、破天荒に見えて実は仕事に誠
実であったその人となりや、海外での日本人としての生き方など、金子が藤田に教えられ
たところは多かったようである。
金子はまた藤田を通じて、詩人ロベール・デスノス(1900-45)を紹介されている。デ
スノスは当時、藤田の妻であったユキ(本名リュシー・バドゥ 1903-66)の夫公認の恋人
であり、後に藤田と別れたユキと結婚することになる。そのデスノスは金子にとってはパ
リ時代に知り合ったほぼ唯一のフランス詩人であったが、藤田が彼にデスノスを引き合わ
せたのは、金子の妻・三千代が自作詩をフランス語に訳したものを添削してくれる人間を
探していたからであったという。つまりデスノスと親しくなったのは金子よりもむしろ三
千代の方だったのであり、その頃は文学を離れていた金子とデスノスとが詩について語り
合う機会はほとんどなかったと思われる。
交際の広かった藤田にはデスノス以外にも多くの芸術家の知人があったが、ジャン・コ
クトーもまたその一人である。コクトーと藤田とは後に二冊の詩画集を共同出版するほど
の間柄であり、二人はおそらく金子のパリ滞在中にもしばしば顔を合わせていたと思われ
るが、藤田を介して金子がコクトーに会ったという記録はどこにも残されてはいない。そ
もそもコクトーは、パリという街のうわずみの部分を泳ぎまわっているような詩人であっ
たのに対し、金子のパリ生活は裏路地の暗渠に溜まった汚泥の中を這いまわるようなもの
であり、そのいずれにも甘く苦い毒が染み出しているとはいえ、二人の暮らす世界が相交
わることはなかったのである。
昭和 11 年にコクトーが来日した折りにも、金子は「個人的にコクトーに会ったわけでも
な」いと書いているが、38)これは日本においてコクトーに会っていないというだけではな
く、自身のパリ滞在時代にも会わなかったことを意味する言葉でもある。
(2)日本の耳たぶ
それでは実際にコクトーと対面することのなかった金子は、詩人の来日に際してどのよ
うなコクトー論を書くことになったのだろうか。「コクトーについて」と題するその一文の
中で、彼はまず自分とコクトー詩との出会いから説きはじめている。落合の川路柳虹宅で
その詩を初めて見せられて以来、コクトーが「鋭利な刃物」として金子の「こころのなか
で生活」するようになったことは前章で触れたとおりだが、その記述に続けて金子は次の
ように綴っている。
そのコクトーが突然日本を訪れた。『怖るべき子供』も『山師トーマ』も、また数々の
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詩も訳された、知己で満たされた日本へ。しかも八十日間世界早まわりというスポルチ
フ(sportif)
〔スポーツ競技的〕な条件でほんの二、三日、秘書をつれて瞥見程度に、無
限の惜しみをのこして擦過していったのだ。39)
コクトーが日本に滞在したのは正確には移動日も入れて一週間であったが、ここに書か
れたように不意に現れ、一陣の旋風のごとく西と東の都を駆け抜けた後、足早に去ってい
ったという印象は当時の日本人の多くが抱いたものだった。そんなコクトーの姿を見て「こ
の程度の滞在で日本の何がわかるのか」といった批判を行なう者も少なくはなかったよう
だが、しかし金子はまた別の見解を示している。
そしてあの鋭利な刃物は、日本の急所をえぐることはできなかったかもしれないが、
、、、
日本の耳たぶぐらいはそいでいった。いったい旅というものはそういうものだ。第一日
の印象はかなり正確で、新鮮だ。十日、二十日、一年、二年という滞在は、先方に順応
する期間で、一番中途半端だ。十年十五年でようやく真相がひらけてくる。40)
これは、生涯にわたって多くの旅を経験した金子だからこそ書ける言葉であろう。ここ
では日本を見つめるコクトーの視線は、欧州に滞在した際の金子自身の視線に重ねられて
いる。金子の自伝を読めば、彼が他の日本人には容易に下っていくことができない深度か
らパリを見つめ、理解していたことが伝わってくる。しかしそれにもかかわらず、金子自
身は二回目のヨーロッパ生活を回顧して「春夏秋冬を二度も繰り返しているあいだに、わ
かっているつもりの西洋がしだいにわからないものになりはじめた」41)と書いているので
ある。
初めて暮らしたときには「第二の故郷」のように思えたヨーロッパが、二度目の滞在時
にはまったく別の表情を金子に示すことになった点については前に述べたとおりだが、海
外に長く暮らし、その土地や人に慣れるにしたがい、かえって自分の最初の理解が正しか
ったかどうかがわからなくなりはじめるのは金子一人に限られたことではないだろう。
ただし、だからと言って金子が、日本に対するコクトーの「第一日の印象」を無条件に
受け入れていたわけでないことは明らかである。コクトーの詩人としての感受性を早くか
ら認めていた金子ではあるが、そのコクトーであっても数日間の滞在で抉ることができた
のは日本の「耳たぶ」程度であって「急所」ではないことを、彼ははっきりと書いている
のだから。
さらに金子は続ける。
コクトーが三日、四日、日本を訪れて去ることは、横光がパリで途方にくれている図
よりもずっと利口だ。実際、ほんとうの日本が了解できたとしたら、コクトーは、背負
いきれないほどな始末の悪い重荷を、も一つ背負わねばならなくなる。42)
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ここに名を挙げられた作家・横光利一(1898-1947)はその年、世界一周の旅に出たコ
クトーと入れ違うようにして欧州にはいり、春から夏にかけての数ヶ月を彼の地で送った
後、ベルリン・オリンピックを見て帰国している。しかしパリに到着して一週間で「私は
ここの事は書く気が起らぬ。早く帰らうと思ふ。こんな所は人間の住む所ぢやない」43)と
綴った横光は約百日の後、フランスを離れる直前になっても次のような感想しか抱くこと
ができなかったのだった。
小出楢重といふ画家は、日本を発ち、巴里へ着いたその翌日、もう帰ると云つて、ど
んなに友人たちがひきとめても聞かず、翌日マルセーユまで引き返し、船に乗らうとす
ると金をすられ、三日間マルセーユにとどまつて帰つていつたといふ。高濱虚子氏がや
はりさうだ。私も同様に感じたが、峠を乗り越えると、更に次の峠が現れ幾つ峠を越し
て良いのか見極め難い。私はパリーにはリアリズムがないと思ふにいたつたが、日のた
つに従つて一層その感じを深めるばかりである。44)
横光のヨーロッパ体験についてここで詳述することはできないが、金子が言うところの
「一番中途半端」な滞在の末に、「峠を乗り越える」ことを諦めてしまったかのような横光
と、数日間の観察によって「日本の耳たぶ」を削ぎ落としていったコクトー。もちろんそ
れだけの短期間で日本を完全に理解できるはずがないことは、自らヨーロッパの社会や文
化との格闘を重ねた金子は知りすぎるほどに知ってはいたが、それでも金子は先の引用の
中ではっきりと横光ではなくコクトーの態度を支持しているのである。
なお引用中にあった、日本の「背負いきれないほどな始末の悪い重荷」とは、徐々に戦
争へと向かっていく日本のあり方を直接、意味するものではない。先の引用の少し後で、
金子は「西洋人がアメリカナイズされた日本を怖れる気持は、単なる骨董趣味ではなくて、
自分の重荷をそこでもはっきり感じてうんざりするからであろう。横光君がパリで感じて
、、、、、、、
いる厭離も、ゆきすぎた日本に直面したためのホームシックにちがいない」45)とも書いて
いるが、つまり金子にとっての日本の「重荷」とは、欧米を真似て、それに追いつこうと
することから生ずる矛盾や、その後に行き着くはずの欧米社会がすでに抱えている多くの
問題(そしてそれこそがパリ時代の金子を苦しめたものでもある)を指すものであった。
だからこそ金子は、「思いようによっては、すでにコクトーは、日本の重荷を、世界の重荷
というレッテルで十分背負い込みすぎている」46)と記しているのである。
(3)宗教的な日本
こうして、コクトーの滞在期間の短さが彼の日本理解の本質を必ずしも損なうものでは
ないという見解を示した後で、金子はいよいよ、その詩人の来訪を自分がどのように捉え
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たのかという問題に踏み込んでいく。
金子はまず、自分はコクトーの専門家でも、彼に直接会ったわけでもないが「それにも
かかわらず、今度のコクトーの来訪は、僕に多くのものを残した」47)と述べた上で、そう
した「一般」人の立場からのコクトー訪日についての見解を次のように記している。
そこ〔新聞やラジオを通じて受け取ったもの〕には、われわれ一般としてもっとも重
、
要な問題があったのだ。それはコクトーが、歌舞伎に、散歩に、日本から受け取った宗
、、、、、
教的なものなのである。48)
日本に関してコクトーが用いた「宗教的な religieux」という表現は、東京での案内役を
務めた堀口大學もまた注目したものであった。堀口はこの言葉に「宗教的な」というより
はむしろ「生真面目な、厳粛な」という解釈をあてはめているが、49)一方の金子はコクト
ーの中の「宗教」性に着目してさらに論を進めていく。
この「宗教的な日本」という感じ方は一応皮相なものに考えられる。古い堂塔伽藍は
残っていても、それは装飾で、それはもう宗教の巣ではない。(中略)
そのどこに、現代のヨーロッパを押えつけているキリスト教の権力の根強い伝統のよ
うなものがあるか、と彼らは考える。なるほど、超モダンなコクトーが、一時はカトリ
ック主義に落ち着いて行ないすましているというニュースがあった。それほどにキリス
ト教は、父母よりももっと以前に約束されたも一つの父母のように深いつながりをもっ
たものだった。50)
引用四行目の「彼ら」とは、日本社会の宗教性を否定し、「宗教的な日本」というコクト
ーの観察を「皮相なもの」と考える者たちを指しているが、いまもなおヨーロッパの社会
を根底から支えているキリスト教と比較すると、日本の宗教はすでにその力を失っている
のではないかという彼らの見方は、現代においてはそれほど特異なものとは言えないだろ
う。
金子自身も『ねむれ巴里』の中で、「やんちゃ坊主の詩人どもの神への不信や、あくたい
ぼうふら
も、つづまるところは、汚れた聖水盤のなかであそんでいる孑孑とおなじことなのだ。こ
この人々は、うまれたときの洗礼の命名と、臨終の聖体拝受とのあいだのながい時間を根
気よく塗りつぶすことで行儀よく生きるか、じぶんを神に委託して、罪を慙愧で帳消しに
しながら、ずぶとく生きてゆくか、二つに一つしか方法はないらしい」51)と書いているが、
反逆者さえも取り込んでしまうような、ヨーロッパにおけるキリスト教の絶対的な支配は
彼自身が滞欧生活の間に身をもって実感したものなのだった。
そんな金子であれば、
「超モダン」な前衛の文学者であったはずのコクトーが、可愛がっ
ていた小説家レーモン・ラディゲ(1903-23)の死を契機として一時期、カトリックに回心
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したことについても、「やっぱりフランス人だな」と思っただけで不思議に感じることはな
かった 52)と記しているのは当然だろう。来日時のコクトーはカトリシズムとは再び距離を
取るようになっていたが、それでも金子はコクトーの中に残っているはずの、ヨーロッパ
人としての宗教的な感性に目を向けて、次のように指摘している。
フアンテジイ
その宗教的情操が日本の生活現象の瞥見から、はやくも一つの 幻 想 を作りあげて、明
治神宮の檜を敬虔にながめ、歌舞伎の鏡獅子を驚嘆したのだということは、僕もみとめ
る。53)
コクトーは、どれだけカトリシズムへの接近と離反とを繰り返したとしても、つねに己
の内なるキリスト教的な感受性からは逃れることができないだろう。だからこそ、彼は日
本人の生活や歌舞伎や神宮の鳥居の中に読み取ることのできる宗教性に反応して、その結
果「宗教的な日本」という幻想を作り上げてしまったのではないか、と金子は言うのであ
る。
しかし、コクトーにおけるキリスト教信仰の問題は実はかなり複雑であり、生涯のどの
時期においても、彼を正統なカトリック信者と見なすことはできない。例えば、晩年のコ
クトーは宗教色の強い作品を発表すると同時に、教会の壁画を繰り返し描くことになるの
だが、それらはギリシャの神々や個人的な天使たちをも内包した、彼独自の神話世界を投
影したものだったのである。
ただし、コクトーにおけるカトリック信仰のあり方が金子の考えるようなものではなか
ったとしても、彼が指摘したとおり、宗教的な事柄に対するコクトーの感覚がきわめて鋭
敏なものであったことは確かである。コクトーの日本観を批判する者たちは、そんなコク
トーが歌舞伎や神社の鳥居が持つ表面的な宗教性に目を奪われるあまり、それを日本の本
質として捉えてしまったのではないかと考えたとしても無理はないだろう。
しかし、と金子は初めてここで、そうした批判への疑義を呈出する。
しかしそこでコクトーの観察の正しさは消えてしまうのか。それは疑問だ。多分に皮
相な感のするこの観察は、一九二五年あたりならば「皮相」だというだけでおしまいに
なったろう。だが一九三五年では、一応疑問を起こしてみる方が妥当なようだ。54)
1925 年、すなわち大正 14 年は第二次護憲運動の結果成立した加藤高明内閣によって、
普通選挙法が制定された年であった。コクトーが日本を訪れたのはそれから約十年が経過
した昭和 11(1936)年のことであったが、それは日本が徐々に軍国化の道をたどるととも
に、天皇を中心とした「擬似宗教国家」(亀井勝一郎)55)が次第に確立されつつあった時期
であるとも言えるだろう。
その十年の間に金子は故国を離れ、数年にわたって各地を放浪した後、再び日本に戻っ
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ているのだが、長期の不在を経て帰国した金子には、母国に留まり続けた者には見えにく
い日本の変化がはっきりと見て取れたにちがいない。
金子は、さらに続ける。
客観的に見た場合、全体としての日本は、伝統的な色彩がかなり色濃く表面にただよ
って見えるのかもしれない。日本人の性格のなかには、例外ないほどに封建的な瑣末な
しきたり、心構えや、生活の様式を守ろうとする意欲が強い。それは面白いことには、
自由思想家や、コムニストにおいてすらそうなのである(そういうことは僕のように五
年か七年故国を離れていたものにでも目につくのだ)。56)
日本や日本人に対するこうした分析は、コクトーのものというよりはむしろ金子自身の
ものであるばかりでなく、長く母国を離れた経験が金子にあったからこそ、なし得たもの
だとも言えるだろう。もちろんその背景には、日本を客観的に外から眺める機会を持ち得
たというだけでなく、日本の縮図のような上海やパリの邦人社会を観察することによって、
かえって日本人の特質や欠点が見えてきたという面もあったにちがいない。上の引用の中
で金子は「そういうことは(中略)故国を離れていたものにでも目につくのだ」と書いて
、、、、
いるが、それはそのまま「故国を離れていたからこそ目につく」と読みかえることも可能
なのである。
金子はこうしてコクトーの言葉に自らの日本観を重ねながら、さらに論を進めていく。
そうしたものが、敏感なコクトーのような男の感官に、とくに、どきどきとひびくの
かもしれない。一日、二日の旅には、その儀容だけが回想のような美しさで目に並ぶの
であろう。元来、コクトーは、世紀の重荷から出発している作家であるから、ファンテ
ジイの美しさの中から、わざわざ重荷をさがそうとするほど安閑人ではないだろう。そ
こにまた、彼の「仇花のもろさ」があるのだ。57)
来日したコクトーが残した言葉の中で、金子が注目したのは「宗教的な日本」という表
現であった。ともすれば「皮相」なものとも受け取られかねない、その日本観の中に金子
はコクトーのキリスト教的な感受性を読み取り、その結果、人々の生活や歌舞伎の所作の
中に潜む「宗教」性に敏感に反応することになったのだと見る。しかし金子はまた、長く
海外に暮らした自身の経験をもそこに重ね合わせ、「宗教的」というコクトーの分析がむし
ろ日本と日本人のひとつの特質を捉えたものであるとの考察に達する。
もちろん、コクトーの滞在が短期間のものであったために、目に映るものの端然とした
ファンテジイ
姿から、彼が 幻 想 のごとく美しい「日本」像を作り上げてしまったという点を否定するこ
とはできないだろう。なぜならすでに時代の重荷を十分に背負っているコクトーは、さら
に日本の重荷まで抱えこもうとは考えなかったであろうから。そして、そのことがコクト
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ー作品の持つ、もろく、はかない「仇花」の美しさを生む理由ともなっているのである。
このような結論によって、金子は「宗教的な日本」というコクトーの表現についての考
察を締めくくっている。しかし金子のこの分析には的を射た部分と、そうでない部分とが
あると言わざるをえない。たしかにコクトーの宗教的な感覚の鋭さや、日本社会の特質に
関する金子の分析はかなり的確なものであった。しかし、この時の金子はまだ目にしてい
ないのだが、コクトーが後にまとめることになる旅行記の中で日本に対して発せられた「宗
教的」という言葉は、「宗教の儀式のごとく、厳粛で整然とした秩序を持つ」という意味だ
けでなく、「殉教者に対するがごとく、極度の犠牲と義務とを強いる」という負の意味をも
同時に含んだものとして用いられていたのである。
コクトーは日本に対して、ただ美しい幻想を見たばかりではなかった。その社会を支え
る「自己犠牲」的な制度を、限られた範囲にしろ直感的に見抜き、それを「宗教的な日本」
という表現に込めたのである。金子はコクトーの日本観を「回想のごとく美しい仇花」に
喩えたが、しかしその仇花は、実は重く暗い根を日本の地中深くに沈めていたのである。
(4)純白な円柱
「コクトーについて」と題された金子の記事の後半部分は、金子自身から見たコクトー
像の記述に充てられている。その中で金子はまず「感受性」の詩人としてのコクトーに焦
点を当てる。
芸術家としてのジャン・コクトーの感受性は無類である。それはガラスの遊戯のよう
に、感受性のための感受性のようにも見える。
だが、そこには、かつて、日本人の芸術家(現代の文筆家)にはなかった種類の「感
受性が彼の全身になってしまった」深さの芸術家がある。だから、彼が世界を歩くこと
は、彼の全身で世界にふれてゆくことだ。58)
案内役としてコクトーと数日間をともにした堀口大學もまた彼を「一束の神経だ」59)と
評していたが、コクトーに直接会う機会のなかった金子もやはり上のような言葉を残して
いるのは偶然ではないだろう。一方は間近からコクトーを観察し、他方は作品や新聞記事
を通しての理解であったとはいえ、そのいずれもがコクトーの並外れて鋭敏な感受性を指
摘しているのである。だからこそ八十日という短期間で世界を周ったとしても、その旅行
記は単純な移動や観光の日記には終わらずに、彼が「全身で世界にふれ」た記録となった
のである。
そして、そんなコクトーに対する金子の言葉はさらに続く。
彼の正直さと彼に対する僕の信用がそこにある。そして、彼から発する音響は、神宮
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の檜の銀とひびきあい、角力たちの力こぶのまわりを雷になってころげる。この調子の
高さは、日本人にとっては、ただ嘘に思えるだけだ。60)
コクトーが明治神宮の鳥居を「銀の戸」と呼び、同行したフランス文学者・佐藤朔(1905
-96)に、その鳥居は「千年の薫りがする」と語ったことは以前にも記したとおりである。
61) またコクトーが国技館を訪れた翌日の新聞には「稲妻光る雷」の見出しで相撲観戦の記
事が掲載され、「怪物がぐるぐる廻り始めた、雷が鳴り出したのだ、稲妻が四方に起つた」
62)という詩人の言葉が紹介されていたが、金子はおそらくそうした記事を踏まえて上の文
章を綴ったのだろう。
日本の事物に対して発せられたそれらの言葉は、日本人にとっては「お世辞のようにも
思われ、気の利いたデザートのようにも思われる」63)ほどに「調子の高」いものであるこ
とが多かったが、しかし金子は、それらはコクトーから放たれた正直な「音響」であった
と見る。なぜなら金子は、コクトーとは次のような詩人だと考えるからである。
だが、それが世代の闇、重荷のなかから初めてひびき出た激しい声であることに気付
くものは稀であろう。彼のことばには、世界の幅がある。彼の前に、日本の文筆家の姿
は泥人形のように見える。地虫のように見える。あまり明るい、あまり淋しい碧空のな
かに、祈りの蝋燭そのままの純白な円柱のように立ったジャン・コクトーの姿は、一番
透明で、一番悲しい。64)
来日したコクトーについて綴ったこの記事の中で、金子はしばしば「重荷」という表現
を用いているが、それらはすべて詩人としてのコクトーを規定するための言葉であった。
そうした文章を読めば、コクトーが、連綿と続く芸術の伝統を引き継ぎ、あるいは拒むこ
との重荷、ヨーロッパやフランスの社会が抱える重荷、さらには第一次大戦を経た二十世
紀という時代を生きることの重荷のすべてを引き受けながら、それでも天の高みを目指し
て軽やかな詩を書き続けていることを、金子が十分に諒解していたことが読み取れるだろ
う。
そんなコクトーが発する「調子の高い」言葉は、あえて地を這い、泥の苦さを噛みしめ
ることを善しとするような日本の文筆家には、ただの「お世辞」や「デザート」のように
見えるかもしれない。しかし彼が背負っている重荷に気づくとき、コクトーの声が実は強
く激しい響きを宿したものであったことが初めて理解されるだろう。そうした意味を込め
て、金子は上に引用した文章を綴ったのである。
金子自身はこのフランス詩人について「書くものを散見している程度だし、その後コク
トーのゆく道とは逆コースを取って、ふれあうところが少なくなって」65)しまったと書い
ているが、上の引用を読むだけでも、コクトーとその作品に対する金子の敬愛の度を推し
量ることは十分に可能だろう。
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それにしても、散文詩のように磨き上げられた、この金子の文章の美しさはどうだろう。
ことに引用の最終行「あまり明るい、あまり淋しい碧空のなかに、祈りの蝋燭そのままの
純白な円柱のように立ったジャン・コクトーの姿は、一番透明で、一番悲しい」という一
文は、詩人の本質を的確に表現しているばかりでなく、来日したコクトーのために書かれ
たすべての文章の中で、もっとも美しいものなのではないだろうか。
4 異邦人の視線
この文章によって締めくくられるなら、金子のコクトー論は見事な結末を迎えることに
なったのだが、それほど素直には終わろうとしないのもまた金子である。
先の文章に続けて、金子はコクトーがラジオで朗読した詩にも触れ、「それほど傑作では
ない」が、単純ながらがっしりとしたその構成は、日本の詩より「よほど大人」なもので
あると評している。66)コクトーはラジオの生放送で歌舞伎の印象を語った後、世界旅行の
出発前に作った詩を一篇朗読したようだが、金子が言及しているのは歌舞伎の印象につい
てではなく、おそらくこの詩篇の方であろう。
それにしても、前の文章では言葉を尽くしてコクトーを称賛していながら、その直後に
「詩の出来栄えは、それほど傑作ではない」と続けるのだから、金子の冷静さ(あるいは、
、、、、
ひねくれぶり)は徹底したものである。しかもその後に金子は、コクトーのために草野心
平(1903-88)と語らって「歓迎の真似事」を計画したとまで書いており、彼がコクトー
とその作品に好意を持っていたことは明白に伝わってくる。しかしどれだけコクトーに惹
かれていても、(例えば堀口大學のように)手放しで彼を礼賛しようとはしないところが、
いかにも金子らしいと言うべきだろうか。
なお金子が企図したコクトー歓迎会は時間的な余裕もなく、また誰を呼び、どう運営す
るのかを決めるのも難しいという理由で、結局実現されることなく終わったという。金子
の記事の最後の部分は、このような場合に中心となるべき詩人の集まりがあれば、という
愚痴めいた文章の繰り返しとなっており、コクトー論としては残念ながら蛇足に近い内容
である。
最後に、金子が残したこのコクトー論についてあらためて総括するなら、その重要な要
素のひとつとなるのは、この記事が詩人の離日の翌日に掲載されたものであったという点
である。つまりこの文章からは、コクトーを迎えた日本の人々がまさにその時、どのよう
に感じていたのかを読み取ることができるのである。後になってコクトーの来日を振り返
った文章は多いが、詩人の来日と同時に書かれたコクトー論という点でこの記事は重要な
意味を持つことになる。
例えば金子は、コクトーの日本訪問があまりに思いがけず、また足早な印象を与えるも
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のであったこと。そのために、彼の日本観が「皮相なもの」と受け取られるおそれがあっ
たこと。また日本に対するコクトーの言葉が「高い調子」を帯びたものであったために、
「嘘」や「お世辞」と思われる危険もあったことなどを記している。それらのひとつひと
つに金子は、やや未整理な部分が残るとはいえ、かなり的確な論評を加えているが、そう
した金子の言葉からは当時の日本の文学者におけるコクトー理解のひとつのあり方を知る
ことができるだろう。
、、、、、、、、
この文章におけるもうひとつの重要な要素は、それが金子光晴によって書かれたコクト
ー論であったという点である。あまりにも当然のことのように思われるかもしれないが、
この論が金子によって書かれたことには、ふたつの大きな意味がある。
そのひとつは、金子がコクトーの良き理解者であったということである。金子自身はコ
クトー詩のそれほど熱心な読者ではなかったと書いているが、彼のコクトー論を読めば、
金子がコクトーとその作品世界をかなり正確に把握していたことが伝わってくる。だから
こそ金子のコクトー論は検討に値する内容を備えているのであり、さらに言えば、コクト
ーは世紀の重荷を背負いながら孤独に屹立した「純白な円柱」であるといった金子の表現
も、もし彼がコクトーその人について深く理解していなければ、けっして生まれてはこな
かったものにちがいない。
この論が金子によって書かれたことのもうひとつの意味は、彼自身が多くの旅を重ねる
とともに、長くヨーロッパに滞在した経験を持っていたことにある。八十日間で世界を一
周するというコクトーの旅を、その長所も短所も含めて、自らアジアとヨーロッパの各地
を放浪した体験を持つ金子ほどに理解できた人間は、昭和 11 年の日本にはそれほど多くは
なかっただろう。しかしそれ以上に重要なのは、金子が長く故国を離れ、日本と日本人を
外から客観的に見る眼をすでに有していたことであろう。だからこそ金子は、日本を観察
するときのコクトーの視線に自らの視線を重ね合わせ、「宗教的な日本」というその日本観
についても独自の論評を加えることができたのである。
さらに言えば、日本人である金子自身が長くパリに滞在し、ヨーロッパの社会や文化と
の苦闘を重ねてきたという経験も、また大きな意味を持つものであった。東洋人が西洋と
いう異質の社会を理解しようとしたときの喜びや苦しみを、おそらく金子は、フランス文
化の精髄を身に着けたコクトーが日本の制度や習慣と対峙したときの姿勢の中に見ていた
のではないだろうか。
本稿の最初の章で、金子は二度のヨーロッパ滞在を経ることにより、どこにいてもそこ
が自分のいるべき場所ではないという感覚を持つに至った、と書いた。以後、金子はそう
した視線―――いわば異邦人の視線によって世界を見つめ続けることになるのだが、金子
はコクトーもまたそうした視線の持ち主ではないかと考えていた節がある。
コクトーが来日した際に書かれた文章ではまだそのことに触れられてはいないが、昭和
41(1966)年に発表された金子の随筆「旅について」は、金子のそうした想いをうかがわ
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No.7
せる一節によって締めくくられている。それぞれの残した作品には密接に交わるところが
多くはなかったとしても、金子光晴とジャン・コクトーという二人の詩人は、実は互いに
相似た心性を持つ旅人であったのかもしれない。
だが、旅は、立ち去るその瞬間だけがいのちで、世界中、どこへ行ってみたって、ほ
んとうに住みよいところはない。せめて、こころのなかにある遠いふるさとぐらいなも
のでしょう。
僕はたまにしか旅行はしない。見たのもロンドン、ヴェニス
ブリュッセル、ローマにアルジェくらいなもの。
ま
やれ寺だ、博物館だと騒ぐ間に
旅行嫌いになって来る。
(中略)
まちまち
好きなこれらの市々で、僕は幸せでなかった。
僕の心臓は、そこにいて、裸で痛んだ。
パリにいてもおなじこと。
どこにおっても気持ちがわるい、そなたの腕のなか以外。
(ジャン・コクトオ
堀口大學訳より抄出)
金子光晴「旅について」。引用も金子自身による。67)
注
1) 金子光晴『金子光晴全集』(全 15 巻、中央公論社、昭和 50~52 年)、第 12 巻、61 頁、
『絶望の精神史』。なお本稿では、原文で正自体が用いられている場合でも原則として新字
体に改めて引用を行なっている。
2) 『金子光晴全集』、第6巻、138 頁、『詩人 金子光晴自伝』。なお金子は昭和 31 年から
『ユリイカ』に連載した自伝を『詩人』の表題で単行本にまとめた後、昭和 48 年に大幅な
改訂を施して「金子光晴自伝」の副題を添え、再出版している。本稿における引用は主と
してこの改訂版からのものであるが、最初の版から引用を行なった場合には(初版)と明
記している。
3)同、140 頁。
4)同、142 頁。
5)同頁。
異邦人の視線
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6)同、143~145 頁。
7)『金子光晴全集』、第8巻、338 頁、「旅立たんとしてフランスを想う」
8)金子光晴『作家の自伝 13 金子光晴』、日本図書センター、平成6年、148 頁、
『詩人(初
版)』
9)『金子光晴全集』、第 12 巻、73 頁、『絶望の精神史』
10)『金子光晴全集』、第7巻、218~219 頁、『ねむれ巴里』
11)同、189 頁。
12)例えば「フォンテンブロオのオテル・ド・エーグル・ノアールにて」(『金子光晴全集』、
第2巻、356 頁)は、おそらくパリ到着直後に宿泊したフォンテーヌブローのホテルにおい
て書かれた詩篇であろう。
13)『金子光晴全集』、第6巻、180 頁、『詩人』
14)『金子光晴全集』、第7巻、255 頁、『ねむれ巴里』
15)同、249 頁。
16)同、191 頁。
17)同、314 頁。
18)『金子光晴全集』、第6巻、143 頁、『詩人』
19)『金子光晴全集』、第7巻、304 頁、『ねむれ巴里』
20)同、187 頁。
21) 今橋映子『異都憧憬
異邦人のパリ』、柏書房、平成5年、参照。
22)『金子光晴全集』、第7巻、236 頁、『ねむれ巴里』
23)同、258 頁。
24)『金子光晴全集』、第5巻、107 頁、『塵芥』
25)『金子光晴全集』、第 15 巻、50 頁、『大正詩史』
26)『金子光晴全集』、第 11 巻、280 頁、「コクトーについて」
27) 『 Poésies 1917-1920 』( Éditions de la Sirène, 1920 ) に 収 録 さ れ た コ ク ト ー の 原 詩
「PREMIÈRES LARMES(最初の涙)
」の前半部は、以下のとおりである。
Un dahlia
après la pluie
c’est lourd penché
le téléphone
raccroché
laisse l’aventure détruite
一輪のダリア
重く頭を垂れた
雨の後
置かれた
受話器
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アヴァンチュール
壊れた 恋
No.7
が残される
( Cocteau, J., Œuvres poétiques complètes (Bibliothèque de la Pléiade), Gallimard, 1999,
p.161. )
なお、この原詩が収録された詩集は 1920 年に限定版が出された後、1925 年に増補版が
刊行されているが、年代から考えて川路が入手したのはおそらく初版の方であっただろう。
28)『金子光晴全集』、第 10 巻、166 頁、『現代詩の鑑賞』
29)同、166~167 頁。
30)同、166 頁。
31)同頁。
32)同、167 頁。
33)同頁。
34)『金子光晴全集』、第2巻、82~83 頁、『落下傘』
35)同、85~86 頁。
36)『金子光晴全集』、第 13 巻、62 頁、「僕の詩について」
37)『金子光晴全集』、第 11 巻、282 頁、「コクトーについて」
38)同、281 頁。
39)同、280 頁。
40)同、280~281 頁。
41)『金子光晴全集』、第7巻、304 頁、『ねむれ巴里』
42)『金子光晴全集』、第 11 巻、281 頁、「コクトーについて」
43)横光利一『定本横光利一全集』、河出書房新社、昭和 63 年、第 13 巻、317 頁、『欧州紀
行』昭和 11 年4月4日の項。
44)同、368 頁、7月 20 日の項。
45)『金子光晴全集』、第 11 巻、281 頁、「コクトーについて」
46)同頁。
47)同頁。
48)同頁。
49)拙稿「ジャン・コクトーの日本訪問(6)」
(共愛学園前橋国際大学論集第4号、平成 16
年)参照。
50)『金子光晴全集』、第 11 巻、281 頁、「コクトーについて」
51)『金子光晴全集』、第7巻、221 頁、『ねむれ巴里』
52)『金子光晴全集』、第 11 巻、281 頁、「コクトーについて」
53)同、282 頁。
54)同頁。
55)亀井勝一郎『亀井勝一郎全集』、講談社、昭和 47 年、第 16 巻、「現代史の課題」他参照。
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異邦人の視線
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56)『金子光晴全集』、第 11 巻、282 頁、「コクトーについて」
57)同頁。
58)同頁。
59)堀口大學『堀口大學全集』、小澤書店、昭和 58 年、第7巻、466 頁、「コクトオ口気」
60)『金子光晴全集』、第 11 巻、282 頁、「コクトーについて」
61)拙稿「ジャン・コクトーの日本訪問(5)」
(共愛学園前橋国際大学論集第3号、平成 15
年)他参照。
62)「東京朝日新聞」、昭和 11 年5月 20 日付日刊。
63)『金子光晴全集』、第 11 巻、282 頁、「コクトーについて」
64)同、282~283 頁。
65)同、281 頁。
66)同、283 頁。
67)『金子光晴全集』、第 10 巻、315 頁、『愛と詩ものがたり』
なお 1925 年に発表されたコクトーの原詩は、
以下のように全四節からなるものであった。
Je voyage bien peu. J’ai vu Londres, Venise,
Bruxelles, Rome, Alger.
De musée en église
S’épuisant mon désir d’encore voyager.
Londres, cœur de charbon, pavot de brique rose,
Où l’on marche endormi.
Venise, triste à cause
Que son vieux corps d’amour n’est ville qu’à demi.
Bruxelles, dont la place est un riche théâtre.
Rome, à l’œil inhumain
Des moulages de plâtre.
Alger qui sent la chèvre et la fleur de jasmin.
Je n’étais pas heureux dans ces villes que j’aime ;
Mon cœur y souffrait nu.
À Paris, c’est de même.
Je me sens mal partout, sauf en tes bras tenu.
(Cocteau, op.cit., p.367.)
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共愛学園前橋国際大学論集
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Abstract
Mitsuharu Kaneko and Jean Cocteau
Masaya NISHIKAWA
In May 1936, a French poet Jean Cocteau arrived in Japan on his journey
around the world in 80 days. A lot of Japanese writers and artists paid their attention to
this visit, and they wrote their impressions or opinions on what Cocteau did and told in
Japan.
Mitsuharu KANEKO, who had roamed Asia and Europe for many years and
came to be called a wandering poet, published an article in Japanese paper the day after
Cocteau’s departure from Tokyo.
In my essay, I tried to examine Kaneko’s view on Cocteau’s visit in comparison
with his own stay in Paris. As Kaneko had lived apart from Japan for a long time, he got
used to taking an objective view on his homeland, and his experience in struggling with
the Western culture enabled him to properly interpret Cocteau’s reflection on this
religious country.