【第五号(平成28年6月26日発行)】PDF 版

聞見会新聞 第六号 ( 平成二十八年六月号)
聞見会新聞 Vol.
6
平成二十八年六月
安心してお念仏できる場所
回
コンビニ坊主、蓮如さんと暮らす
慈海の吉崎通信
第
聞見会代表の慈海です。
数年前 年間ほど深夜のコンビ
ニでアルバイトをしながら生活
していました。つまり﹁コンビ
ニ坊主﹂でした。
その後、後輩の会社を手伝うこ
とになりコンビニバイトを辞
め、ネット通販のお仕事をして
いました。
月
日から
で す が、 先 日 そ の 会 社
も 退 職 し、
一
られる蓮如上人御旧跡地です。
て、浄土真宗中興の祖とも称え
浄土真宗第八代目の宗主にし
さて、その吉崎といえば、蓮
如さんです。
る下男のようなものです。
住み込みで吉崎別院の雑務をす
い わ ば、 寺 男︵ て ら お と こ ︶
、
奉公することとなりました。
本願寺吉崎別院に住み込みでご
四
なぜ吉崎なのか、なぜ中興の祖
1
二
ましたが、寛正六年︵1465
教化を進められていらっしゃい
寺を継がれた蓮如さんは近江の
︵1457年︶、四十三歳で本願
蓮如さんがこの吉崎の地に滞在
でなったそうです。
瞬く間に裏日本最大の都市とま
し か な か っ た こ の 吉 崎 の 地 は、
そして、それまで北陸の寒村で
て高い壇上から語るようなこと
ほど常に方々を歩き回り、決し
うです。足には草鞋の痕が残る
しゃるような方ではなかったそ
い場所に、安穏とされていらっ
蓮如さんは決して住み心地の良
え ば 日 本 全 国 に、 御 開 山 聖 人
文明第三初夏上旬のこ
ろ よ り、 江 州 志 賀 郡 大 津
年︶延暦寺衆徒の本願寺破却に
されていらっしゃったのは、約
もなく、身分の高い低い構わず
多い時では一日に一万人弱の方
三 井寺南別所辺より 、 な に と な
よって、河内・近江等に移られ
四年ほどの期間でした。
ですが、
どんなものであろうとも、膝を
に突入しようかという時代で
くふとしのび出でて 、 越 前 ・ 加
て行かれました。その間幾度と
たったそれだけの年月で北陸は
交 え て、
﹁後生の一大事﹂につ
蓮如さんなのかを説 明 す る た め
賀 諸 所 を 経 回 せ し め を は り ぬ。
なく命を狙われることもあった
おろか東海から東北地方に至る
いて語っていかれたそうです。
︵親鸞聖人︶お示しのお念仏の
よつて当国細 呂宜郷 内 吉 崎 と い
と伝えられています。
までこのお念仏の教えが広まっ
ですから、越前加賀のあたりで
が集まったそうです。遠くは東
ふこの在所、すぐれ て お も し ろ
そして、文明三年︵1471年︶
ていかれたといいます。
しょうか。蓮如さん五十七歳の
きあひだ、年来虎狼のすみなれ
に、ここ吉崎の地にお立ち寄り
には、まずその蓮如 さ ん の 御 文
し こ の 山 中 を ひ き た ひ ら げ て、
に な ら れ、﹁ す ぐ れ て お も し ろ
教えが、広まっていかれたわけ
七月二十七日よりか た の ご と く
き﹂この土地を拠点にし、お念
思い出してください。この吉
崎に蓮如さんが坊舎を建立する
北地方からもお参りの方がい
一宇を建立して、昨 日 今 日 と 過
仏の教えを伝え広めるべく、ま
前までは、本願寺の本山は破却
ころです。
ぎゆくほどに、はや 三 年 の 春 秋
るで虎や狼が住処にしていそう
され、浄土真宗の本山としての
慈海の祖父も、祖母もそうで
した。越前といえば吉崎のおひ
章︵お手紙︶を開い て み ま し ょ
は送りけり。⋮⋮
な荒れたこの山をひき平らげ
拠点は無い状態だったわけで
ざ元、越前門徒といえば蓮如さ
です。
﹁文明第三﹂つまり文明三年
て、坊舎を建立されました。
す。本山さえもなく、その宗主
んの御教化をいただいた門徒衆
らっしゃったとか。
と い う の は、 西 暦 で 言 え ば
その後、このお念仏の教えを求
が命からがら転々としていた時
で あ り ま す。 年 に 一 度 は 何 が
これに先立つこと長禄元年
1 4 7 1 年 で す。 ち ょ う ど
め、おびただしい数の人々がこ
からわずか数年で、大げさに言
ん﹂と親しみを込めて今でもお
呼びしているわけです。
2
う。
後土御門天皇、将軍足利義政の
の 地 に 集 ま る よ う に な り ま す。
は、蓮如上人のことを﹁蓮如さ
ころで、室町時代か ら 戦 国 時 代
聞見会新聞 第六号 ( 平成二十八年六月号)
に使おうか、それと も 吉 崎 さ ん
お金があれば、それ を ぜ い た く
あっても吉崎にお参 り し 、 少 し
ます。
ば、いわばお念仏の聖地であり
の 場 所 は、 俗 な 言 い 方 を す れ
の真実を聞かせてくださったこ
一人であります。
られました。そして慈海もその
まやで、蓮如さんと語らってこ
が、この吉崎の地で、このおた
に 聞 か さ れ た、 後 生 の 一 大 事 、
ばれていかれたのも 、 蓮 如 さ ん
身命を賭して歩いてその門を運
百 名 を 超 え る 門 徒 衆 が 結 集 し、
一 肌 脱 が に ゃ ぁ 名 が 廃 る ﹂ と、
ら 吉 崎 に 門 を 賜 っ た! そ り ゃ
力門﹄
別 で も 書 い て い る﹃ 念
の お 話 も そ う で す。﹁ 御 本 山 か
多くいらっしゃった そ う で す 。
いかれた方々が、越 前 加 賀 に は
地に蓮如さんがいらっしゃっ
お堂であります。今でも、この
とも﹁おたまや﹂とも言われた
こ の 中 宗 堂 は、 昔 は﹁ 蓮 如 堂 ﹂
にいらっしゃいます。
御真影﹂様がこちらのお堂の中
た と 伝 え ら れ る、﹁ お か た み の
見としてご自身のお姿を写され
吉崎の地を退去される際に、形
堂があります。蓮如さんがこの
宗堂︵ちゅうそどう︶というお
その吉崎の地にある、本願寺
吉崎別院には、本堂とは別に中
を、これからも少しずつこの紙
その、蓮如さんとの吉崎暮らし
た。
と共に暮らすこととなりまし
コンビニ坊主であった慈海
は、その吉崎の地に、蓮如さん
お念仏がしみ込んでいます。
輩方がつぶやきこぼしていった
母をはじめ、無数の念仏者の先
板一枚、砂の一粒までにも、祖
始まり、吉崎別院の柱一本、床
場所かもしれません。念力門に
この吉崎の地は、慈海が慈海を
に 持 っ て い こ う か と 悩 ん で は、
やっぱり蓮如さんにご奉公せ
往生極楽の道の御恩 を 、 す こ し
て、今日もまた後生の一大事を
面で、吉崎通信としてご報告し
慈海たらしめる、原点のような
でもこの身に背負い た い と の 思
た ず ね、 お 念 仏 を お 勧 め く だ
3
にゃならんやろと吉 崎 に 収 め て
いからでしょう。
惑わされ、誰にも相談できない
ていけたらと考えています。
吉崎は、そういう と こ ろ で あ
ります。
ようなものを抱えた無数の人々
進むべき道に迷い、自身の心に
浄土真宗中興の土地 、 往 生 浄 土
さっているお堂であります。
聞見会新聞 第六号 ( 平成二十八年六月号)
他 力 の 中の自力とは、
凡夫の力みを申 す な り
懊悩した人が、よく爺さんを訪
堕 在 す べ き も の な り。
﹂の文に
の で あ っ た。
﹁順彼仏願故 か
(
の 仏 願 に 順 ず る が 故 に ﹂) で あ
の帰浄に間に合ったと思ったも
グマ 教
( 条主義 に
) 反撥を感
じるのは、爺さんがどれだけ本
て林遊が﹁信心正因﹂というド
ヤーなのだが、私が拵えたわた
現在の林遊は、信心デストロイ
る。
ねて来ていた。ある意味におい
願の慈悲を言っても、領解でき
くしの信心は妄想でしかないの
は豊富││るし、小 学 校 五 年 生
録音してあるいたの で リ ソ ー ス
父
(親 が
) 、当時珍しいテープ
レコーダーを買い込んで聴聞を
ら法話を聴かされ││爺さん
下で育ったので、小 学 生 の 頃 か
そのせいか、後生願いの両親の
でもある。
から非常に領解しにくいご法義
浄土真宗は、実に シ ン プ ル な
ご法義である。シン プ ル で あ る
真 実 を 目 指 す 生 き 方 で あ る が、
ということは、今にして思えば、
爺 さ ん の 言 う﹁ わ が 身 に あ う ﹂
年の爺さんの口癖ではあった。
るのが御開山の教えやぞ﹂が晩
もっとも﹁今晩聴いて今晩助か
には抵抗は出来ない。
遊は理屈は立つのだが実践の前
まれの爺さんであったから、林
主の言葉を実践していた明治生
なにしろ、ご信心を頂くには
三千の聴聞がいるという真宗坊
なんまんだぶに出あったのは
そんなこんなで、林遊が本物の
ず苦悩している人も多かった。
込みと、ご信心の違いめが判ら
という言葉があるのだが、思い
夫の力みを申すなり﹂
心が、私の腹にあるという、凡
御恩が喜べてびくとも動かぬ信
越前の俚諺では、
もある。
第十一願の功である。
だき、
涅槃のさとりに至るのは、
信を得て如来と等しい徳をいた
の信心を往生の正因とする。
その行法を受けいれた第十八願
爾 来、 慈 海 さ ん に 言 わ せ れ ば、
ずに肩を落として玄関の戸を閉
であった。
の頃には正 信念仏偈 は 暗 記 し て
真実なるものを持たない林遊に
四十三の歳である。
若い頃から、
釋林遊︵林遊@なんまんだぶつ︶ 著
める婆ちゃんたちを見たせいで
いた。
は意味不明の言葉だった。
歴史上の人物の年齢に自分の年
ソクラテスは﹁無知の知﹂と
いうことを論じたが、知ってい
本願の名号は、正しく往生の
決定する行業である。
本願名号正定業 至心信楽願為因
成等覚証大涅槃 必至滅度願成就
爺 さ ん は、﹁ 若 い う ち に 信 心 も
齢を重ねて時間や歴史を考察し
る も の が あ る か ら こ そ、
﹁無知
4
﹁ 他 力 の 中 の 自 力 と は、 い つ も
らわなあかん﹂とか ﹁ こ の 世 は
当 時 は、 お 文 御
( 文章二帖 の
)
﹁この信心を獲得せずは極楽に
てきたのだが、思わず法然聖人
と口 喧しく言ってい た 。
わが身にあいに来たとこやぞ﹂
は 往 生 せ ず し て、 無 間 地 獄 に
聞見会新聞 第六号 ( 平成二十八年六月号)
聞見会新聞 第六号 ( 平成二十八年六月号)
の知﹂ということを 言 い え た の
である。知らないと 言 い 切 る こ
とが出来るのは、知 っ て い る も
のがあるから言えるのであっ
て、べたに凡夫とか 無 知 と い う
言葉を使う真宗坊主 の 逃 避 の 言
葉ではないのであっ た 。
なんまんだぶ
なんまんだぶ
なんまんだだぶ
阿呆 堕 落 偈
前川 五郎松 著
真似︵まね︶
︽な ︾ なむあみだ、
もはげめば上手になれる、あと
にゃだんだん本物になる。
︽ぬ︾
糠 に 釘、 う ら の 念 仏 糠
に釘、いくらうってもフラフラ
じゃ、ヘンななもんじゃヘンな
も ん じ ゃ。
待 て よ、 こ ん な
こと言うのは、ヘンでないもの
がうらに出来ると思うとるから
じゃ。
︽ね︾ 念仏は爺々が称えりゃ
盗みもの、
親が称えりゃ光輝く。
念仏は浄土への種やら地獄の
業やらとは、祖師聖人のお味わ
︽に︾
憎 ま れ 者、 世 に は ば か
ると言うが、ほんとにそうじゃ、
魔物になっても、まだまだ生き
い、親の宝に手をかけず、来る
うらはこのように老いぼれて邪
ている、死にたくない。死なね
にまかせて拝むだけ。
み、
出てくださるのを拝むだけ。
念仏は口でとなえりゃ呪文に
なるぞ、心でとなえりゃ神だの
ばならぬことは分かっていて
も、 死 に た く な い。 死 に た
くないが、死なねばならぬ、死
な ね ば な ら ぬ が、 死 に た く な
い。これを繰りかえしているう
ちに、死なせて下さるお方があ
る。なむあみだぶつ。
念 仏 は 称 え 心 に 世 話 や く な、
出るにまかせて、なむあみだぶ
つ。
寝ざめにも、称えやすき念仏
なれど、親が留守じゃで口を割
らない。
︽ の ︾ の ん き な 爺 々 も、 夜 の
寝覚めに〟お前は何がために生
きているのか、何を目的に生き
ておりたいのか〟と自問自答し
てみるが、よい返答は一つも出
てこん。
それもその筈じゃ、うらが生
きて居るのでないがやで。
5
御同行より
興禅寺さま報恩講にて︵最終回︶
︿局葬∼信楽先生﹀
わたしの記憶からはすっぽり
抜け落ちているのですが、彼の
先生は
﹁よく覚えている﹂
とおっ
しゃったそうです。二十年以上
前のできごとを覚えていてくだ
さったことを、たいへんありが
たく思いました。
行こうと決めたのは 当 日 の 朝 で
わたしは、昔の仲 間 に 会 う の
はあまり好きではあ り ま せ ん 。
と空間のほうが、わたしの心は
り、阿弥陀さまの前に座る時間
も、同窓会という時間と空間よ
同じメンバーが集まるとして
した。
ていることを気づかされる場で
輩を通して、わたしが生かされ
た。このご法事は亡くなった後
陀さまの前に座らせてくれまし
亡くなった後輩がわたしを阿弥
ました。
さんとしてご法事を進めてくれ
信楽先生に﹁昔、龍谷大学の放
す。
同席する機会があったそうで
数年前、ある先輩が信楽先生と
す。
ご法話をしてくださったので
しておられました。そのご縁で
で、わたしたち放送局の顧問を
生は当時、龍谷大学の文学部長
た信楽峻麿先生でした。信楽先
さったのが、先日ご往生なさっ
その局葬でご法話をしてくだ
そうです。
か。しかも、精神的なものでは
明確な軸を設定してみません
﹁ 生 活 の 中 に、 居 住 空 間 の 中 に
話があります。
かに﹁軸のある生活﹂というお
う本を持ってきました。このな
ありがたく思います。
が っ て い る 出 会 い を 不 思 議 で、
小合あゆみさん
寄稿
実 家 で の お 葬 式 の あ と、 局 葬、
した。ふつうの同窓 会 な ら 行 か
落ち着き満たされるのです。
送局にいました。そのとき、現
なくて、儀礼的なものです。ど
つまり放送局の葬儀をしたのだ
なかったと思います 。
わたしがお聴聞を続けているの
役で亡くなった後輩の局葬の際
んなものでもいいんですよ、い
わたしたちには様々な出会い
が あ り ま す が、 お 念 仏 で つ な
ご法事だから行かな け れ ば な ら
は、お寺の時間と空間が私には
に、信楽先生からご法話をいた
わゆる︿壇﹀を設けるわけです。
※前回につづいて、 小 合 さ ん の
ないと思ってお参り し ま し た 。
大切で必要だからなのかもしれ
だきました﹂と伝えると、信楽
︿二十四回忌法要﹀
今から数年前、彼 の 二 十 四 回
忌法要がつとまりま し た 。
ここに釋徹宗先生の著書﹃い
きなりはじめる仏教生活﹄とい
6
感話です。
お 葬 式 の 日 に、﹁ 清 め 塩 な ん か
ません。
︿お仏壇を迎える﹀
いらん﹂と言った後 輩 が 、 お 坊
聞見会新聞 第六号 ( 平成二十八年六月号)
間の軸ができれば、 嬉 し い こ と
字で書いてもいい。 こ の 居 住 空
陀仏﹂や﹁南無妙法 蓮 華 経 ﹂ と
を 描 い て も い い し、﹁ 南 無 阿 弥
します。ご本尊も自 分 で 仏 さ ま
とあって、図がかい て あ っ た り
である仏さまをおまつりする。﹂
見えないけれど限り な い い の ち
思っていました。
壇を置くことはできない。そう
は狭くてとても浄土真宗のお仏
可能かもしれませんが、我が家
されない場所があったりすれば
の部屋があったり、誰にも邪魔
でした。広いおうちで、わたし
くことができるとは思えません
旨とは違うご宗旨のご本尊を置
を置きたい﹂と話しました。主
人に﹁うちに浄土真宗のお仏壇
母 と も 相 談 し て、﹁ だ め で も
ともと﹂と開き直って、まず主
かなか言えませんでした。
仏壇を家にお迎えしたいとはな
男の嫁の立場で、浄土真宗のお
日蓮宗のお仏壇があります。長
も、そして信楽先生も、私に教
死んで終わりではないという
ことを、亡くなった後輩も父親
て座れる場所を作ってくれまし
父はわたしに、わたしが安心し
せてくれました。
えするというハードルを越えさ
している当たり前の こ と が 書 か
る方にとっては、き っ と い つ も
お仏壇のある生活を な さ っ て い
供えする。
・・と書いてあります。
ときどきお花を摘ん で こ こ に お
も ら っ た ら こ こ に お 供 え す る。
て帰ってしまいます。
が、ご本尊はお寺さんが、持っ
と中陰のお飾りは葬儀屋さん
していました。四十九日が済む
た。ご本尊はお寺さんにお借り
お参りに来ていただいていまし
をして、お寺さんに七日七日の
はなくて私の家に中陰のお飾り
父が亡くなり、四十九日まで
の、いわゆる中陰の間、実家で
ができました。
なりとお仏壇をお迎えすること
れませんが、思いのほか、すん
る場所、と思っているのかもし
も、お仏壇は亡くなった人が入
しかすると主人も実家のご両親
すんなり話が通ったのです。も
したところ、
なんの反対もなく、
そこで主人の実家のご両親に話
せいただきます。
仕上げていただくのだとお聞か
せていただいてそこで仏さまに
がつきたとき、お浄土に往生さ
﹁ 往 相 ﹂ と い う の は、 娑 婆 の 縁
きます。
お聴聞のなかでお聞かせいただ
﹁往相還相﹂というおことばを、
えてくれました。
れていると思います 。
わたしは自分の家にお仏壇、ご
人からは﹁俺はいいけど、実家
た。
があればここで語り か け 、 悲 し
いことがあれば告白 し 、 苦 悩 が
わたしは初めてこ れ を 読 ん だ
と き、﹁ そ ん な こ と、 で き る わ
本尊をお迎えしたいと思うよう
りました。
に聞いてみないと﹂と返事があ
けない。この人、なんにもわかっ
になっていました。
亡くなった父は、いとも簡単
に、我が家に阿弥陀さまをお迎
私たちのご宗旨は、そこで終わ
りではありません。
仏 さ ま と な ら せ て い た だ い て、
7
あれば相談する。何 か 贈 り 物 を
てない﹂と思いまし た 。
けれども、小合の実家に行けば、
︿往相還相﹀
長男の嫁が、主人の 実 家 の ご 宗
聞見会新聞 第六号 ( 平成二十八年六月号)
です。
い た だ き ま す。 そ れ が ﹁ 還 相 ﹂
くお手伝いをすると い う 役 割 を
さまのみ教えに出遇 っ て い た だ
しんでいる有縁の方 々 が 阿 弥 陀
伝いさせていただく 、 娑 婆 で 苦
阿弥陀さまのおはた ら き を お 手
思 っ て く だ さ い。︶ と い う こ
その一人とは私親鸞であると
人と思っていただきたい。
二人で喜んでおられる方は三
思っていただきたい。
喜んでおられる方は二人と
︵一人で阿弥陀さまの慈悲を
これは
きます。
書き下し文を拝読させていただ
代語訳です。
の﹁総序﹂と呼ばれる箇所の現
ある﹁顕 浄 土 真 実 教 行 証 文 類﹂
た﹁ああ﹂なのです。
法に出遇えたよろこびがあふれ
なのだそうです。親鸞聖人が仏
いたりしたときに発する
﹁ああ﹂
この初めの﹁ああ﹂は漢字に
すると﹁噫﹂と書くのだそうで
す。これは強く感動したり、驚
して働いてくださっ て い る 。 こ
親鸞聖人のお手紙をもとに書
﹁御臨末の御書﹂と呼ばれる
も値︵もうあ︶ひがたく、真実
う え ん ︶、 多 生︵ た し ょ う ︶ に
﹁ああ、
弘誓︵ぐぜい︶の強縁︵ご
龍谷大学に 年間学び、手に届
分と時間がかかりました。
一番はじめに読ませていただ
いたご文は、親鸞聖人の主著で
おられると思います。
亡くなった後輩も父 も 、 わ た し
とです。
︿顕浄土真実教行証文類 総序﹀
にとって﹁還相﹂の 菩 薩 さ ま と
れはわたしにとって 間 違 い の な
かれた歌だそうです。わたし
の浄信、億劫︵おくこう︶にも
す。
の歌詞はこのように な っ て い ま
﹁報恩講の歌﹂という歌の二番
しゃってくださる阿弥陀さま
てひとりにしない﹂とおっ
と が で き る か ら で す。﹁ 決 し
さっているのだと感じるこ
勢の方が一緒に生きてくだ
た親鸞さまや後輩や父や、大
まと、そして仏さまとなられ
わたしにはいつも、阿弥陀さ
う ぼ う ︶、 聞 思︵ も ん し ︶ し て
有︵ちょうせけう︶の正法︵しょ
かな、摂取不捨の真言、超世希
︵ き ょ う り ゃ く ︶ せ ん。 誠 な る
てまた曠劫︵こうごう︶を経歴
覆蔽︵ふへい︶せられば、
かへっ
またこのたび疑網︵ぎもう︶に
を獲ば、遠く宿縁を慶べ。もし
獲︵え︶がたし。たまたま行信
ただき、自分の浅ましさ、愚か
ただき、自分を照らし出してい
やく阿弥陀さまに気づかせてい
中にわたしはありました。よう
阿弥陀さまからのおはたらきの
した。けれども、どんなときも
ることはなかなかできませんで
亡くしたときも、仏さまを感じ
気が付きませんでした。後輩を
く と こ ろ に 仏 法 は あ っ た の に、
8
遇うことは簡単なこ
仏法に出
とではありません。わたしも随
い事実なのです。
はこの歌詞が大好きです。
﹁一人居てしも
喜びなば
二
のことばを実感できるからで
遅慮
︵ちりょ︶
することなかれ。
﹂
︿報恩講の歌﹀
人と思え
す。
さに気づかされるようになりま
四
お聞きになったことがある方も
その一人こそ 親 鸞 な れ ﹂ と
いう歌詞です。
二人にして 喜ぶ お り は 三
人︵みたり︶なるぞ
聞見会新聞 第六号 ( 平成二十八年六月号)
生きていていいのか と 不 安 な わ
した。
ということでしょう。
も の を 見 守 り 続 け て く だ さ る、
たしを支えてくださ っ て い る 阿
弥陀さまでありまし た 。
そして竹中先生はこのように
続けてくださいます。
﹁ 自 分 の し た い こ と、 し な け れ
ばならないこと、
できることを、
き抜いていきます。
︿真宗宗歌﹀
う﹂
せらず、あきらめず 、 し て い こ
ることを、他人とく ら べ ず 、 あ
しなければならない こ と 、 で き
﹁如来の 摂 取不捨 の 心 を 学 び 、
真 実、 自 分 自 身 の し た い こ と 、
生のお言葉です。
これは真宗大谷派の 竹 中 智 秀 先
阿弥陀さまはこんなわたしを捨
ります。
いってしまうわたしの現実があ
てもちょっとしたことで離れて
いらない﹂と嫌い、親しくなっ
都合にあわなければ﹁この人は
はいい人だ﹂と選び、わたしの
わたしの都合にあえば﹁この人
そうです。
の中にもあった﹁摂取不捨﹂も
さきほどの﹁総序﹂のおことば
聞かせていただきます。
う現実からたてられた願いだと
ひ と り ひ と り に、﹁ 生 き 抜 い て
です。阿弥陀さまはわたしたち
願われて生かされているいのち
じことばと響いてきます。
生のおことばは、わたしには同
で﹂のおことばと、この竹中先
阿弥陀さまの﹁生き抜いておい
てきます。
に、このことばは輝いて聞こえ
生きることに自信のないわたし
きらめず、していこう﹂
せていただきたいと思います。
しながら、皆さまとともに歩ま
今日のこのご縁を大切にしな
がら、お浄土への道をお念仏申
さを
わがはらからに
伝えつ
つ
浄土︵みくに︶の旅を
と
もにせん﹂
﹁ み 仏︵ お や ︶ の 徳 の
とうと
﹁真宗宗歌﹂の三番にこのよう
竹中先生はこの﹁摂 取 不 捨 ﹂ に
てないとおっしゃってください
おいで、いつもいっしょにいる
他人とくらべず、あせらず、あ
﹁えらばず、きらわず、見すてず﹂
ます。そのおことばを素直に受
から﹂とおっしゃってくださっ
阿弥陀さまのたてられた願い
は、わたしがそうではないとい
と、振り仮名をふっ て く だ さ っ
け取ると同時に、少しでも阿弥
ています。わたしたちはその仰
最後にもう一度、初めに読ま
︿現代語訳﹀
だなあとしみじみ感じます。
ことを目的として生きているの
念仏申しながら、仏さまになる
なります。みなさんとともにお
この歌をお同行のみなさんと
歌うたびに、わたしはうれしく
な歌詞があります。
ています。阿弥陀さ ま は 、 あ る
陀さまの願いにかなうわたしに
せに従いながら、なんまんだぶ
︿竹中先生﹀
者だけを選ぶという こ と を な さ
なりたいと思います。
つとお返事申し上げながら、生
わたしのいのちも、みなさん
お ひ と り お ひ と り の い の ち も、
らない、ある者だけ を 嫌 う と い
うことをなさらない 、 す べ て の
9
最後にこの言葉を ご 紹 介 さ せ
ていただきます。
聞見会新聞 第六号 ( 平成二十八年六月号)
聞見会新聞 第六号 ( 平成二十八年六月号)
せていただいた﹁顕 浄 土 真 実 教
合掌
本 日 は 尊 い ご 縁 を い た だ き、
してくださっている読者の皆様
このたび、聞見会主宰の慈海
君と話し合い、小合さんのご快
に、大変失礼なことをした、と
あ り が と う ご ざ い ま し た。
深く反省しております。
行証文類
総序﹂の お こ と ば を
味わいたいと思いま す 。
﹁ あ あ、 こ の 大 い な る 本 願 は 、
ご寄稿のお願い
﹁ 聞 見 会 新 聞 ﹂ で は、 御 同 行 様
諾 を 頂 き﹃ 聞 見 会 新 聞 特 別 号 ﹄
という形で、小合さんの感話を
からのご寄稿をお待ちしており
平
( 成二十六年十一月三日
興
禅寺さま報恩講にて )
あ え る も の で は な く、 ま こ と
纏めた号を七月に発行させて頂
ます。
いくたび生︵せい︶ を 重 ね て も
の信心はどれだけ時を経ても
く手はずとなりました。
小合さんの
物、聞見会新聞の感想や、ご意
得︵え︶ることはで き な い 。 思
しかしながら、聞見会の予算
の関係上、大変申し訳ありませ
見などでも結構です。ペンネー
小合さんの感話を印刷の状態
で読みたい方は、お手数ですが
詳 し く は 釋 慈 海、 も し く は
おります。
あなたの﹁言葉﹂をお待ちして
おたずねください。
fa c e bo o k ペ ー ジ 等 で
﹁ 聞 見 会 ﹂ の ウ ェ ブ サ イ ト、
せ頂ければ幸いです。
聞見会の事務局までお問い合わ
ご法話、感話、エッセイ、読み
んが、ご希望になられた方以外
ムや匿名でもかまいません。
いがけずこの真実の 行 と 真 実 の
の印刷、発行は予定しておりま
お念仏の同行の声を、ぜひお寄
ら、もとのように果 て し な く 長
感話を纏めます
因縁をよろこべ。も し ま た 、 こ
せ ん︵ ネ ッ ト 上 か ら の ダ ウ ン
せください。
小合さんの感話﹁興禅寺さま
報恩講にて﹂ですが、編集上の
信を得たなら、遠く 過 去 か ら の
のたび疑いの網にお お わ れ た な
ロードは予定しております︶
い間迷い続けなけれ ば な ら な い
都合で三回に分けて掲載いたし
しかしながら、編集サイドの
都合により、初回の感話が掲載
であろう。如来の本 願 の 何 と ま
う 真 実 の 仰︵ お お ︶ せ で あ る 。
されてから第二回目の感話が掲
ました。
世に超えてたぐいま れ な 正 し い
載されるまで、実に一年という
こ と で あ る こ と か。 摂︵ お さ ︶
法である。この本願 の い わ れ を
時間が経過してしまいました。
め取ってお捨てにな ら な い と い
聞いて、疑いためら っ て は な ら
ない。﹂
感話をお寄せ頂いた小合さ
ん、小合さんの感話を楽しみに
10
どちらかといえば小 さ い ひ っ そ
ません。
重要文化財があるわ け で も あ り
す。 歴 史 の 古 い お 寺 で も な く 、
宗本願寺派のお寺さ ん が あ り ま
村には﹁放光寺﹂と い う 浄 土 真
慈海の生まれ故郷 で あ る 、 福
井県の春江町にある 針 原 と い う
諸仏の経道ききが た し
如来の興世にあひが た く
を 聞 い て 帰 っ て き て い ま し た。
寺さんに出かけ、お説教︵法話︶
法要があれば祖母はいつも放光
す。
校への行き帰りをしたもので
のお寺さんの脇の道を通って学
お寺さんの近くに集まって、こ
小学校への集団登校では、この
こ と は 当 た り 前 の 風 景 で し た。
のお寺﹂さんが村の中心にある
慈海が小さいころから、
その
﹁村
な﹁村のお寺﹂さんです。
にひっそりとある、小さな小さ
さんでもありません。村の中心
も、この﹁村のお寺﹂放光寺さ
でも指南してくださっているの
後この僧侶としての生き方を今
くださったのも、得度を受けた
とを決心した後に相談に乗って
ださったのも、得度を受けるこ
さらには、私に得度を勧めてく
いました。
ゆる枕経︶に駆け付けてくださ
さんの御住職が臨終勤行︵いわ
が亡くなった時も、この放光寺
毎月続いています。そして祖母
な用事がある時以外ほぼ今でも
この﹁月参り﹂の習慣は、特別
ます。
り、お経をあげてくださってい
が﹁月参り﹂に家に来てくださ
に、毎月このお寺さんの御住職
憶がかすかにあります。また逆
も幾度となくお参りに行った記
その祖母に連れられて慈海自身
身し、得度を受けられたという
そこで、ちょうど警察官から転
なったそうです。
法を聴聞できる場所を造ろうと
が在住し、いつでもこの村で仏
所﹂ではなく、いつも僧侶の方
なったそうです。ただの﹁説教
て、お寺を造ろうということに
し合い、お金や土地を出し合っ
した。そこで、村の方々が協力
の村も機織りものでにぎわいま
は繊維産業が盛んになり、針原
ですが、その昔一時期この地域
そうです。
の﹁説教所﹂があるだけだった
坊さんを招いて法座を開くため
前までは、この地にはたまにお
初代の御住職様がいらっしゃる
ま だ 三 代 目 の 御 住 職 様 で す し、
さんであります。今の御住職は
といえば比較的﹁新しい﹂お寺
この﹁村のお寺﹂さんの歴史
はそれほど古くなく、どちらか
れていたそうです。
りとしたお寺です。 有 名 な 和 上
ことあるごとにお斎︵法要後の
んでありました。
法話
御 恩 報 謝のカタチ
さんがいらっしゃる わ け で も な
食事︶の準備を手伝い、掃除な
菩薩の勝法きくこ と も
無量劫にもまれら な り
11
釋慈海
いですし、頻繁に楽 し い イ ベ ン
どの御奉仕にも祖母はよく行か
熱心な僧侶を御住職として迎
トごとをやっている よ う な お 寺
聞見会新聞 第六号 ( 平成二十八年六月号)
聞見会新聞 第六号 ( 平成二十八年六月号)
た場所であります。
御恩報謝の思いがカ タ チ と な っ
持され続けた、そんな仏徳讃嘆、
お念仏を相続してい く た め に 維
れ、お浄土を願う思いで飾られ、
が仏法を求める気持 ち で 建 て ら
まさに、このお寺は 、 村 の 方 々
りと記されていたり し ま す 。
る昔の村の方々の名 前 が し っ か
物に至るまで、聞い た こ と の あ
すが、ありとあらゆ る 仏 具 や 小
け︶を手伝わせてく だ さ る の で
や 御 荘 厳︵ 仏 具 な ど の 飾 り つ
慈海が得度を受けた 後 、 お 掃 除
を守っています。
土もしっかりと外の 雨 風 か ら 中
しっかりと重い屋根 を 支 え 、 壁
な っ て い ま す け れ ど も、 柱 は
い て い ま す。 今 で は 少 し 古 く
たちが総出で壁土を 作 っ た と 聞
お寺を建てるときに は 、 村 の 人
そうです。
寺﹂が建てられるこ と に な っ た
え、放光寺という﹁ 針 原 村 の お
て外向けのお姿ではありません
流されているそのお姿は、決し
泥だらけ、草だらけ、額に汗を
れいな恰好ではありません。
もあります。もちろん決してき
業をされている姿を見かける時
りをされている姿や、畑で農作
きもあります。坊守様が草むし
しゃる御住職の姿を見かけると
流しながら掃除されていらっ
堂の中でジャージ姿でラジオを
放光寺さんの脇道を歩けば、本
内に入っていけます。
ありません。誰でもふらりと境
せん。ですから、敷居もなにも
か、境内を取り囲む塀もありま
放 光 寺 さ ん に は、 山 門 は お ろ
そ れ に 比 べ、 こ の﹁ 村 の お 寺 ﹂
ります。
寺さんというのは、たくさんあ
境内からは威厳さえも感じるお
構 え も 素 晴 ら し く、 塀 も 高 く、
寺さんはたくさんあります。門
歴史の古い、大きな、立派なお
念仏ができる場所でありまし
そこは、安心して腹いっぱいお
の ま ね ご と を さ せ て も ら え る。
畳の上で、今日も私が御恩報謝
そして、その柱に守られ、その
﹁ カ タ チ ﹂ に な っ た も の で す。
べて過去の先人方の御恩報謝が
お寺の柱一本も、畳一枚も、す
ではありません。
としても、引けをとるお寺さん
よりも、たとえ御本山であった
決してほかのどの立派なお寺様
﹁カタチ﹂になったこのお寺は、
のです。仏徳讃嘆、
御恩報謝が、
んがあるということが、自慢な
自分の生まれた村にこのお寺さ
いう﹁村のお寺﹂が誇りであり、
ですから、慈海はこの放光寺と
らであります。
て守ってくださっている姿だか
報謝の﹁カタチ﹂を、身を賭し
なぜなら、この村の方々の御恩
せん。
が、これほど尊いお姿はありま
て も、 一 人 か み し め る 喜 び で
かせられないような懺悔であっ
ることはありません。誰にも聞
こでは、お念仏をしても笑われ
黙って聞いてくださります。こ
い こ の 胸 の 内 を、 何 も 言 わ ず
添えて、前に座り誰にも言えな
安心せいよ、そのまま来いよ
と、そっと右手を上げ、左手で
続けていらっしゃいます。
あっても、ただただ静かに立ち
時も村の方が寝静まった深夜で
う と 風 が 吹 こ う と、 日 の 高 い
る凍えるような日も、雨が降ろ
います。日照りの日も、雪積も
かにただ立ち続けていらっしゃ
三百六十五日、何も言わず、静
も 休 む こ と な く、 二 十 四 時 間
の中心のそのまた中心に、いつ
如来様がいらっしゃいます。村
そのお寺の真ん中には、阿弥陀
う場所でありました。
た。そして、お寺とは、そうい
12
ところに、仏法が、 こ の お 念 仏
いただきました通り 、 こ の 私 の
からの一つです。そ の ご 讃 題 で
顕してくださいました﹃大経讃﹄
仏説無量寿経の意︵ こ こ ろ ︶ を
ださいました﹃浄土和讃﹄より、
そ、存在しているの で し ょ う 。
念仏の教えが弘まったからこ
法が弘まったからこ そ 、 こ の お
われがちであります が 、 実 は 仏
お寺は、仏法を弘める場所と思
ても幸せなことかも し ま せ ん 。
できる場所がある。 そ れ は 、 と
くすえ、後生をたず ね る こ と が
にある。安心して、 こ の 身 の 往
ます。そんな場所が 、 村 の 中 心
様の前でさらけ出す こ と が で き
あっても、安心して 、 こ の 如 来
ことになる、ことになるのかも
れば、その無数の思いに応える
その手を合わせて、お念仏され
し、それに気づいたら、そっと
きっとあるかもしれません。も
育まれた故郷︵ふるさと︶にも、
なたのそばにも、あなたを生み、
これを読んでくださっているあ
けれども、そんな場所が、実は
かで見過ごしてしまいがちです
そして、いつも日常の生活のな
か。
とができるのではないでしょう
タチ﹂となった場所と味わうこ
ま、如来様の用︵ハタラキ︶
が
﹁カ
念仏者方のハタラキはそのま
とえに人々の力でもあり、その
場所を賜っています。それはひ
相続し、安心してお念仏できる
よって、今この私はその教えを
いてこられた無数の方々の手に
えを聴き、お念仏をその耳に聞
べからずおぼえはんべり。よく
もなく退散せしむる条、しかる
汰すべきところに、なにの所詮
審をもたてて、信心の有無を沙
かにも不信の面々は、一段の不
しかるべからざる次第なり。い
散せり。これは仏法の本意には
茶なんどばかりにてみなみな退
にも寄合のときは、ただ酒・飯・
れなし。ことに近年は、いづく
の沙汰とては、かつてもつてこ
れありといへども、さらに信心
合といふことは、いづくにもこ
り今にいたるまでも、毎月の寄
るがゆゑなり。しかれば往古よ
の往生極楽の信心獲得のためな
さらに他のことにあらず。自身
そもそも、毎月両度の寄合の
由 来 は な に の た め ぞ と い ふ に、
かしこ、あなかしこ。
ともなづくべきものなり。あな
実の信心を具足せしめたる行者
めとこころえなば、これこそ真
合をいたしても、報恩謝徳のた
なり。このうへには、毎月の寄
は、まことに百即百生なるべき
くのごとくよくこころえたる人
と、さらに疑あるべからず。か
とごとくたすけたまふべきこ
とふかくたのまん衆生をば、こ
度の一大事の後生たすけたまへ
心に阿弥陀如来に帰命して、今
ろの雑行のこころをやめて、一
のふかきによらず、ただもろも
しょう。
なんまんだぶ
なんまんだぶ
なんまんだぶ
ふは、あながちにわが身の罪障
それ当流の安心のおもむきとい
の讃嘆あるべきこと肝要なり。
不信の面々はあひたがひに信心
り。 所 詮 自 今 以 後 に お い て は、
の教えがいたり届くことは、﹁無
しれません。
よく思案をめぐらすべきことな
13
最後に、蓮如上人からのお手
紙を御一緒にお聴聞いたしま
量劫にも﹂ありえな い こ と で あ
りました。しかし、 お 念 仏 の 教
今日いただきましたご讃題
は、御開山親鸞聖人 が 示 し て く
聞見会新聞 第六号 ( 平成二十八年六月号)
聞見会新聞 第六号 ( 平成二十八年六月号)
から、この会を立ち上げました。
がもっとあったら﹂ と い う 思 い
﹁安心してお念仏ができる場所
お念仏の会です。
僧 侶 釋 慈 海 が 代 表 を 務 め る、
聞 見 会 は、 浄 土 真 宗 本 願 寺 派
あ る の で は な く、 仏 教 の 教
聞 き ま す。 日 常 の 中 に 仏 教 が
う方も多くいらっしゃったと
へ、 年 に 一 度 は 御 本 山 へ と い
足 を 運 び、 月 に 一 度 は 別 院
聞 こ え、 週 に 一 度 は 法 座 に
らでも朝晩にはお勤めの声が
め ら れ た そ う で す。 ど の 家 か
ら﹁ありがたい方やなぁ﹂とほ
を称える方がいらっしゃった
そんな声をよく耳にします。
しくて難しそう﹂
ならば、それはつまり、生きて
く 先 が、﹁ 空 し い ﹂ こ と で あ る
いないでしょうか。生の行きつ
死 を﹁ 空 し い ﹂ こ と に し て は
な っ て し ま い、 死 を 否 定 し、
か生きる満足を求めるだけに
生 き る こ と の 目 的 が、 い つ し
しまってはいないでしょうか。
らしい世界を、破壊していって
てしまった私たちは、その素晴
しかし、いつしか﹁賢く﹂なっ
でありました。
そ の ま ま、 如 来 に 遇 う﹁ 道 場 ﹂
道すがらであり、生きる苦悩が
と願い、この会を運営しており
ができる場所を作っていけたら
のまま﹂のおすくいを聞くこと
現 場 ﹂ で、 ど う ぞ 一 緒 に、
﹁そ
綺 麗 事 で は な い こ の﹁ 生 死 の
あります。
死んでくことができる場所で
なく、なさけなく生きて生きて
それは、汚く、醜く、みっとも
安 心 し て お 念 仏 を 聞 け る 場 所、
せん。
場所になっていくのかもしれま
が、
﹁安心して不安を生きる﹂
聞見会について
お 念 仏 は 易 行︵ 簡 単 な 行 ︶ と
え の 中 に 日 常 が あ り ま し た。
そ の 昔、 越 前 の 地 で は お 念 仏
言 わ れ ま す が、 現 代 社 会 で も
ます。
﹁宗教というだけで白い目で見
できない﹂
﹁周りの目が気になってお念仏
で た い こ と で も あ り ま し た。
く、 寂 し く と も、 し か し お め
る こ と で あ り、 そ れ は 悲 し
極 楽 浄 土 に 生 ま れ、 仏 に 成
が、 し か し、 そ の﹁ 生 死 ﹂ に
し去ることはできません
い う も の を、 自 ら の 力 で 消
決して生死の現場の不安と
釋慈海 拝
聞見会代表
なんまんだぶ
いるこの現場も﹁空しい﹂こと
られる﹂
お浄土がリアリティをもっ
意味があったと聞かされる
果たしてそうでしょ う か 。
﹁お寺はどうも敷居が高くて入
て す ぐ そ ば に あ り ま し た。
と き、 こ の﹁ 生 死 ﹂ の 現 場
にはならないでしょうか。
りづらい﹂
生きることは安楽の世界への
死 ぬ こ と は、 安 楽 国、 西 方
﹁仏教というのはどうも型ぐる
14
おしらせ
聞見会念仏会
昨月に続き、今月の聞見会念
仏会の開催もおやすみいたしま
す。主催者都合で恐縮です。
恐らく再来月 八
(月 ま
) でお
やすみすることになると思いま
す。
︻収入の部︼
7375
61000
仏はどこだってできるんじゃぼ
¥
けかすー!﹂と頼もしい気概を
8240
聞見会代表
慈海 拝 合掌
ありがとうございます。
ただきます。
に、この場で御礼を申させてい
御懇志︵寄付︶を下さった方
年 月
2016
4 日
1 現在
¥ 38735
︻繰越金︼
諸雑費
¥ 4320
計
¥ 22265
代
¥
交通費
¥ 200
レンタルサーバー・ドメイン
新聞発行費用
¥
︻支出の部︼
計
御懇志
¥ 41000
慈海持ち出し
¥ 20000
お持ちのかたは、どうぞ、ぜひ
とも、それぞれで開催されても
素敵と思います。 ひとり念仏
会だって最高じゃん?
ということで、今後の聞見会
自体の運営も含めて、仕切り直
したいと考えていますので、し
ばらく慈海に時間をください。
安心してお念仏腹一杯できる
場所をめざして。
なんまんだぶ
会計報告
平成二十七年度会計報告
ですが!
九月からは再開を計
画 し て い ま す。 念 仏 会 の 形 式
開
( 催ポリシー を
) 明確にして、
長く続いていくような会座にし
収支纏め
聞見会会計担当・山田正之
平成二十八年四月
たいと思います。
それまで、もし﹁何言ってん
だ!てめぇがいなくたってお念
15
次号予告
記載してあります︶
︵ 事 務 局 へ の 連 絡 先 は、 奥 付 に
い
聞見会事務局までご 連 絡 く だ さ
発 行 時 に 郵 送 を ご 希 望 の 方 は、
しご法話を掲載予定 で す 。 次 号
次号のご法話は、 本 願 寺 派 布
教使小林顯英師から の 書 き 下 ろ
聞見会新聞 第六号 ( 平成二十八年六月号)
ミニコラム
今日も
念仏腹一杯
蓮如さんのいらっ し ゃ る 中 宗
堂 ち
( ゅうそどう は
) 虫が多い。
正確に言えば、虫の死骸が多い。
かたくさんの死骸が落ちてい
勤め。
読経後、御文章はハエの方に
向かって拝読することに。
ああ、
こいつはあれだ、慈海が聞かせ
るつもりが聞かされた。
聞見会への
ご寄付について
ります。ご寄附は、左記口座へ
﹁ 聞 見 会 ﹂ は、 皆 様 の 御 懇 志
御文章箱を閉じ、そっと息を
吹きかけると、こと切れていた。
お振込みください。大切にお預
すまんこっちゃ、あんがたいこ
かりしまして活用いたします。
◆ 振込先 ◆
︵寄付︶によって運営されてお
とやな。
なんまんだぶ
ゆうちょ銀行
記号
なんまんだぶ
なんまんだぶ
おあさじの時、蓮如 さ ん の 前 に
番号 5 4 1 5 2 2 1
る。
座ろうとしたら、さ っ き は い な
なまえ
いてる。
かと思ったら、まだ か す か に 動
種別
店番
0541522
普通預金
338
店名 三三八︵ 読み
サンサンハチ︶
左の口座へお振込みください。
※銀行からのお振込みの場合は
モンケンカイ
13310
かった蝿が一匹たたずんでい
る。
﹁ごめんちょっと場所譲ってく
ださい﹂
臨 終 勤 行 に な る ん か も ね、 よ
口座
と手で払っても動か な い 。 死 骸
かったなぁと、蝿の と な り で お
聞見会新聞 第六号
平成二十八年六月二十六日
発行
発 行
聞見会
発行人
釋慈海
編
集
釋慈海・山田正之
この配布物および聞見会について
の お 問 い 合 わ せ は、 左 記 ま で ご 連
絡ください。
[住所]
〒919 0476
福井県坂井市春江町針原20 3
-1
聞見会 釋慈海 宛
[電話番号]
︵釋慈海︶
090 3- 295 8- 969
[email protected]
[メールアドレス]
※聞見会は浄土真宗本願寺派僧侶
の釋慈海が主宰する聞法の会で
す。
※本誌はフリーペーパー 無
( 料︶
です。聞見会員ならびに賛同して
くださっている方々の御懇志とご
協力によって発行しています。
合掌
なもあみだぶつ
16
朝 支 度 の た め に 中 に 入 る と、
昨日きれいにしたは ず が 、 な ぜ
聞見会新聞 第六号 ( 平成二十八年六月号)