ロボカップ小型リーグへの参戦と学生気質

2011.6.6
ロボカップ小型リーグへの参戦と学生気質
∼∼∼ 一年,二年の学生諸君へ ∼∼∼
情報科学部 成瀬 正
振り返ってみれば,10 年以上にわたってロボカップ小型リーグに携わってきました.色んな出
来事がありました.ここでは,ロボット開発奮闘記を述べます.我こそはと思う皆さん,ロボット
システムを開発してみませんか.
最初に小型リーグの特徴をお話します.小型リーグでは,6m × 4m のフィールド1 で 1 チーム 5
台のロボットがサッカーの対戦を行います.ロボットは底面の直径が 18cm,高さが 15cm の円筒
に入る大きさに制限されています.ボールはオレンジ色のゴルフボールです2 .小型ロボットリー
グは,自律型のロボットシステムを使うことを前提とします.自律型というのは,人がロボットを
リモートコントロールするのではなく,(フィールドの外に置かれた) コンピュータがコントロール
するシステムのことです.サッカーフィールド上空に設置したカメラから得られるフィールド画像
をコンピュータが処理してロボットやボールの位置を検出します.これをグローバルビジョンと呼
びます.コンピュータは,さらにこれらの情報から,味方チームの各ロボットを次にどこに動かす
かを計算します.そして,移動コマンドを無線を通じて各味方ロボットに送ります.このような処
理を 1 秒に 60 回行います.つまり,60 分の 1 秒ごとに移動コマンドをロボットに送ります.もち
ろん,キックなどの指令も必要に応じて送ります.その結果,ロボットは滑らかに動いているよう
に見えるわけです3 .
本学情報科学部ができたばかりで学生諸君がまだ研究室にいなかった 1999 年頃は,中部大学と
合同チームを作っていました.この年,世界の様子はどんなものかと,初めて世界大会に参加を申
し込みました.よちよち歩きのロボット (キック機能のない 2 輪のロボット) だったのですが,幸
いなことに資格審査を通過することができました4 .この年の世界大会はストックホルムで行われ
たのですが,実際に参加すると世界のレベルの高さに驚愕しました.我々は 10 年遅れていると.
しかし,はじめての参加でもあり,まあ仕方がないか,着実にシステムを仕上げるしかないな,と
思って帰ってきました5 .まずは何でも見てやろうの精神がよい方向に働き,帰ってきてから,こ
れからどのように進めていくかあれこれ考えたものです.
2000 年には伝説の先輩日比野晋也君がチームに加わってくれました.彼は,当時はまだガラガ
ラだった C103 の部屋で熱心にシステム開発をしてくれました.まだ 1999 年当時のロボットを使っ
ていました.彼は,工夫を重ねてちゃんと動くようにしてくれました.小学校 1 年生くらいのレベ
ルにはなったでしょうか.それでも,国内では,近畿大学の KU-Box というチームがいて,この
チームに勝つことはできませんでした.2000 年度の世界大会は,まだ世界で戦えるレベルではな
いと判断し,参加を見合わせました.この頃から定例ミーティングを行うようになりました.毎週
出てきた問題を議論して解決していきました.このようなミーティングを行うことにより,皆が問
1 フィールドの大きさは,最初は卓球台の大きさでした.何年かに 1 度変更され,だんだん大きくなり,現在の大きさ
になりました.
2 ロボットの大きさの制限とボールは当初から変わっていません.
3 この HP には” ダウンロード” のページに試合のビデオがアップされています.それを見ていただければ試合の様子が
わかります.また,この記事で述べるロボットは C101 に展示してあります.興味ある人はぜひ見に来てください.
4 資格審査とは,チームのロボットがちゃんと試合をできるかどうかを審査するものであり,小型リーグの組織委員会が
審査するものです.
5 このときの余禄としては,世界遺産の街ベルゲン(ノルウェイ,ハンザ同盟で有名)やソグネフィヨルドを訪れたこと
が挙げられます.
1
題を共有することができました.さらに何か月かに 1 回中部大学とのミーティングも行いました.
2 輪のロボットの経路生成は,束縛条件があってなかなか難しいのですが,角度収束型軌道生成法
を開発して,滑らかな経路を生成することができました.
このような地道な開発を行い,2001 年にこのロボットを持って世界大会に参戦しました.シア
トルで行われた世界大会では,世界のロボットはさらに進んでいました.車輪が 3 つあり,全方位
に移動できるロボットが開発されていたのです.このロボットを開発したのではコーネル大学6 で
した.コーネル大学はこの当時小型リーグを牽引していたチームの一つです.3 つの車輪は底面円
周上ほぼ 120 度間隔で円周に接する方向に取り付けられていました.このような配置でうまく動く
のかとお思いでしょうが,車輪には多数の子タイヤが取り付けられており,これが車輪と直角方向
に自由回転するようになっていて,いわゆる横すべりができるようになっていました.その結果,
このロボットは,前後左右に自由に動くことができ,さらにその場でスピンもすることができるよ
うになっていました.当然のことながら,2 輪のロボットでは太刀打ちできません.(実際の対戦
はありませんでしたが.) このロボットを見たとき,アメリカの大学の発想の自由さ,高度な技術
力に,正直劣等感を覚えました.それと同時に,大変な悔しさがこみ上げてきました.来年こそ,
全方位移動のロボットを作って挑戦する,と心で誓いました.
シアトルから帰ってきてロボットメーカーさんと打ち合わせをし,新ロボットを作ってもらう
ことにしました.その年の暮れには,試作機が出来上がりました.それからしばらくして新ロボッ
トを用いた新しいサッカーロボットシステムのソフトウェアが出来上がりました.このソフトウェ
アは,日比野君を中心に開発したものです.また,2001 年には,学部の学年が 4 年生まで進行し,
本学単独でシステム開発もできるようになり,中部大学との合同チームは,2001 年をもって終了
しました.そして,新しいチーム名を中日ドラゴンズにあやかって,RoboDragons としました7 .
ロボットをやりたい学生が集まっていたので,チームは和気藹々としていました.システム開発も
比較的順調に進みました.
新しいロボットで望んだ 2002 年の世界大会は,福岡で開催されました.地元 (日本) の利で言葉
に不自由なく,また,交通にも不自由なく,会場まで到着.我々の秘密兵器の初公開です.それま
での 2 輪型ロボットとちがって,動きはスムーズで,キッカーを装備していたので,得点も容易
にあげることができました.このときは,世界のトップチーム・コーネル大のチームと予選リーグ
で対戦し,貴重な得点をあげることができました8 .また,オーストラリアのクイーンズランド大
に勝って,予選リーグ 2 位で決勝トーナメントに進出することもできました.決勝トーナメント
では,準優勝したベルリン自由大学と初戦で当たり,残念ながら敗退しました.しかしながら,こ
こまで来た成果は大きく,世界のチームが我々を認知してくれた瞬間でした.初登場のチームがこ
れだけの奇跡に近いことをしたのですから注目を集めないはずがありません.この大会では RSJ
Award9 をいただくことができました.もう一つうれしいことがありました.学生諸君に,各チー
ムにインタビューをして各チームのロボットの構成などの情報を集めてきなさい,と指示しまし
た.コミュニケーションは英語で行わなければなりません.普通なら躊躇するところですが,やは
り自信が付いたからでしょう,積極的なコミュニケーションを行っていました10 .なかなかやるも
のだと感心して見ていました.
2003 年の世界大会は,イタリアのパドバ市で行われました.このときは,そこへ着くまでが大
6 米国ニューヨーク州イサカにある大学.アイビーリーグの大学の一つ.
7 筆者が大の中日ファンであることからこの名前をつけました.グランパスにあやかって RoboGrampus も考えました
が,響きにちょっと違和感があったので採用にはいたりませんでした.
8 予選でコーネル大のチームから得点をあげたのは,RoboDragons だけでした.また,決勝トーナメントでコーネル大
から得点をあげたのは,ベルリン自由大学だけでした.
9 共催の日本ロボット学会が提供した特別賞.
10 うわさによると,意気投合して本学の学生が夜の博多を案内したようです.
2
変でした.夜も 10 時を過ぎた頃にベネツィア (ベニス) 空港につき,そこからバスでパドバ市に向
かったのでが,言葉がうまく通じず,バスを降ろされたところがパドバ市内のどこだかさっぱりわ
からない.おまけに夜も 12 時を過ぎようという時間でした.不案内な街で大きな荷物を抱え,ホ
テルがどこにあるかもわからず,不安は募るばかりでした.しかし,学生・教員合わせて 7 名のグ
ループで行きましたから,その点は心強く,何とかタクシーを見つけてホテルまで行くことができ
て,胸を撫で下ろしました11
さて,この年は我々も技術で世界に貢献することができました.それは,今では当たり前に行
われるようになったチップシュート(ループシュートとも言う)に関してです.これは,ボールが
宙を飛ぶキックです.相手の頭を越すことができますから,それだけシュートも決まりやすくなり
ます.我々は,チップシュートを安定して行うことができるようにしたのです.このことは,コー
ネル大からも高く評価され,コーネル大の記事12 には,以下のような記述が見られます (下線は
筆者).
”The problem is that many teams had better versions of what we introduced,” D’Andrea
reported. ”The Australian’s dribblers were better than ours. The RoboDragons [from Japan]
had a working chip kicker that could kick over other robots, which we haphazardly introduced
in 2002. Several teams could pass better than we could, even though we introduced passing in
2000.”
翌年からは多くのチームがチップシュートを行うようになりました.そして,ストレートとチッ
プの両方のキック装置を備えたロボットが登場してきました.
2003 年のもう一つのハイライトは,この活躍を見た Carnegie-Mellon 大学 (CMU) のチーム (チー
ム名は CMDragons) が合同チームを組まないか,といってきたことです13 .CMU といえばアメリ
カでは名の通った大学です.そんな大学が日本でも必ずしも名が通っているわけではない大学 (す
みません.名か通っているかも知れません.) に声を掛けてくる.技術の確かさを現場で見ての結果
だと思いますが,ちゃんとした技術を持っているところならどことでも組む.これこそが,本来大
学がある姿だと思います.そして,そういってくれた CMU に対し大変な親近感を覚えました.翌
年からは合同チーム CMRoboDragons が誕生することになります.
CMU の話があったのは,こんなことがあったからです.CMU は RoboCup をリードするチー
ムの一つでした.そのソフトウェアには見習うべきものがあります.そこで,2003 年のパドバ大
会で,CMU の Manuela Veloso 先生 (2011 年現在 RoboCup Federation 会長) に,先生のところで
うちの学生に勉強をさせてくれないかと頼んだのです.その願いは聞き入れられ,非公式ではあり
ますが,3ヶ月ほど日比野君が勉強に行きました.そこにおける日比野君の頑張りで,県大がしっ
かりやっていることが認められたのです.その結果,合同チームの話が出てきたわけです.
ネットワークが誰でも自由に使える時代になっているので,遠隔合同チームも可能になりまし
た.コミュニケーションはネットを通して行いました.そして,それぞれの大学で開発したシステ
ムを 2004 年の世界大会に持ち込みました.また,ロボットも新しく作成して臨みました14 .
2004 年はポルトガルのリスボンで世界大会が行われました.現地について,CMU の人たちと合
流し,合同チーム CMRoboDragons のシステムを組み上げました.これは,これまでどこもやった
ことのないことです.実際に現場でシステムを統合することはひやひやものでしたが,大会の前々
11 後でわかったのですが,パドバの街自体はそれほど大きくなくて,バスを降ろされたところからホテルまでは歩いて
いける距離でした.まあ,わかるとわからないとはこんなにも違うものかとしみじみ思いました.勉学でも同じですね.
12 http://www.news.cornell.edu/releases/July03/RoboCup03.ws.html
13 当時 CMU はロボットハードウェアにやや難点があった.
14 このロボットは,我々にとっては第 3 世代のロボットです.前の世代の 3 輪ロボットから,より安定した移動ができ
る 4 輪ロボットになりました.学内では作れないので,メーカーさんに作ってもらっています.
3
日にはシステムを動かすことができました.このとき CMU の中心的な学生は James Bruce 君 (以
下 Jim 君) でした.日比野君が CMU に行っていたとき主に世話をしてくれた学生だと思います.
Jim 君はドクターコースの学生であり,物静かではありますがしっかりした知識と技術を持った学
生でした.本学の中心的学生は日比野君であり,Jim 君と共同して15 見事にシステムを動かしまし
た.Jim 君は翌年本学に来て 1ヶ月あまりプログラムを開発することになりますが,それは後ほど
述べることにします.
さて,大会ですが,この年から,フィールド上の明るさを一定にするための補助照明がなくな
りました.そのため,フィールド上にトラス16 の影ができて,明るさが一定でなくなり,どのチー
ムも画像処理に苦労していたようです.我々のチームは,CMU で開発した色領域抽出法を用いて
いるため,影の影響を比較的受けなかったように思います.さて,我々のチームは,予選リーグを
トップ通過し,決勝トーナメントに進みましたが,残念ながら準決勝でオーストラリアチームに負
けました17 .結果は 4 位でした.
2005 年は大阪で世界大会が行われました.CMRoboDragons は 2 年目を迎えました.日比野君
が修士を修了し,戦力低下が心配されました.幸いなことにこの年は,意欲ある 3 年生 7 人が新た
にチームに加わりました.その結果,戦力低下を最小限に抑えることができました.その中でリー
ダーシップをとってくれたのが,中西良太君です.彼は,強力な戦力でした.一遍に雰囲気が変わ
り,活気が出てきました.3 年生が分担して 2004 年に使ったプログラムを読みだしたのです.プ
ログラムを読むことが実は実力アップの一番の近道です.彼らは何を言われるまでもなく率先して
読み始めたのです.その成果は徐々に表れてきます.そして 2 年後に花開くことになりますが,そ
れは後で述べましょう.
さて,2005 年は,大会の 1ヶ月前に Jim 君が本学に来て,合同システムの開発を進めました.こ
の時の Jim 君が与えた刺激はいろんな面で強烈でした.修士 1 年に梅村沙織さんがいて,英語力を
駆使してコミュニケーションをとっていました.彼女は英語の意欲を非常に掻き立てられたようで
す.それにつられて他の学生諸君もいろいろとディスカッションをしていました.その結果,Jim
君の持っている知識や技術をかなり吸収できたようです.この年は,Jim 君のおかげで 3 年生諸君
がうまく立ち上がることができました.そして,大阪へ乗り込みました.Jim 君を中心にして,各
学生がきびきびと自分の役割を果たしていました.チームがまとまっているときは,何をやっても
うまくいくようです.和気藹々とやっているように見えました.特筆すべきことは,本格的な連係
プレーができるようになったことです.1-2 シュートと呼ぶ連係動作を開発しました.これは,第 1
のロボットが第 2 のロボットにパスを渡し,第 2 のロボットが間髪入れずにシュートを決めるセッ
トプレーです.今では,どこのチームも当たり前にやりますが,当時これができたのは我々のチー
ムだけでした.さて,試合ですが,予選リーグは順当に勝ち,決勝トーナメントに進みました.こ
の時は,コーネル大,ベルリン自由大,シンガポールポリテクニーク18 などが強豪チームでした.
我々は準決勝でベルリン自由大に負けてしましました.ベルリン自由大は,コーネル大を破って優
勝しました.我々は,3 位決定戦でシンガポールポリテクニークに惜敗し,この年も 4 位に終わり
ました.なかなかうまくいかないものです.
大阪から帰ってきて,少しして,3 年生諸君は,再びプログラムの講読会を始めました.大変な
量のプログラムですが,彼らはほとんど読んだようです.
15 喧々諤々と議論して,と書きたいところですが,言葉のハンディがあって,そこまではいきませんでした.もちろん,
一生懸命議論はしていました.
16 ビデオカメラをフィールド上空に取り付けるためにフィールド周りに組み立てたアルミ素材の構造物.コンサート会
場などでよく見かける.
17 2002 年の福岡大会で勝った RoboRoos チームに雪辱されました.
18 日本でいうと高専に相当する.
4
2006 年,この年はドイツ・ブレーメンで世界大会が行われました.CMU との合同チームも前年
で終わりになりました.CMU から吸収した技術を我々のものにする時が来ました.中西君を中心
にした RoboDragons チームが再び歩き出しました.ロボットは,2004 年に投入したもので,やや
時代遅れになりつつあるものでした.ロボットの疲労がたまってきており,小車輪の摩耗が予想以
上に大きくなっていることに気づいていませんでした.一方で,世界大会を目前に控え,NHK か
ら取材の申し込みがあり,世間の人々に我々の活動を知ってもらう絶好の機会と考え,取材を受け
ました.これは夕方のローカルニュースで放映されました19 .全員がいい成果を出すぞという意気
込みでブレーメンに乗り込みました.
会場についてみると,フィールドが異様にふかふかしていました.フィールドはカーペットを敷
いて作っています.今まで使ってきたカーペットは,毛羽立ちのほとんどない硬いものでした.と
ころが今回のカーペットは非常にふかふかした軟らかいものでした.そのため車体がカーペットに
沈み込みます.ロボット底面はアルミ板になっており,カーペットとロボット底面の間には数ミリ
の隙間ができるように車輪が取り付けられているのですが,今回のカーペットでは車体が沈み込ん
で,底面がカーペットに接触してしまいました.そして,底面がカーペットに擦れて,まっすぐに
移動しないというアクシデントが発生しました.さらに悪いことには小車輪が摩耗していて車高が
低くなり,ロボット底面とカーペットの摩擦が一層大きくなってしまいました.そのため,満足な
戦いができず,ふがいない結果に終わりました20 .ふかふかカーペットの対策をどうするか宿題が
残りました21 .また,世界はキック装置を 2 つ持つようになっていました.ストレートキッカーと
チップキッカーです.この流れは止めようもありません.我々も日本に帰ったあと,新しいロボッ
トを作る決心をしました22 .
2007 年になりました.プログラム講読の成果が出てきました.プログラムのほとんどの部分に
目を通したと思います.そうなればしめたもの.プログラムの改良は,お手の物となりました.そ
して,ビジョンシステムから戦略システムまで,幅広く改良しました.また,この年の世界大会直
前には新型ロボットができてきました.細かなところで不具合やら未完成やらの部分が多々あり,
それこそ徹夜も辞さない構えでロボットの完成にこぎつけました.そして,会場のアトランタにあ
るジョージア工科大学に行きました.アトランタでは,ロストバゲッジのトラブルに合いました.
荷物が一つ届かなかった.大慌てしましたが,それも翌日には届き事なきを得ました.
さて,大会は 12 チームが参加し,2 グループに分かれて予選を行い,各予選グループ上位 4 チー
ムが決勝トーナメントに進みました.我々は A グループになりました.A グループにおける強豪
は CMU チームでした.我々は 2 位で予選を通過し,決勝トーナメントの初戦では豊田高専チーム
とあたりました.この試合はものにできましたが,次の準決勝でタイのチュラーロンコーン大学に
敗れました.タイは,この頃めきめきと実力をつけていました.日本としては負けるわけにはいき
ません.されど,実力は現在のところタイのほうが上といわざるを得ません23 .
我々は 3 位決定戦に回ることになりました.その相手は中国の浙江大学でした.浙江大学は,中
国で最も歴史のある重点大学のひとつです24 .この大学との試合,下馬評は浙江大学有利でした.
このときの参戦記で,以下のように記述しました.
(以下の記述で,ZJUNlict が浙江大学のチーム,
19 このビデオが当方にあります.とてもわかりやすいビデオに仕上がっております.著作権の関係で,一般公開ができま
せん.見たい人は,私のところまで来てください.
20 第 1 次予選はかろうじて通過しましたが,第 2 次予選で敗退,決勝トーナメントに進むことができませんでした.こ
の非は,ふかふかカーペットなど考えもせず,また,車輪の摩耗にも気づかなかった私にあります.学生諸君には悪いこと
をしました.
21 その後の大会では,この時使われたようなフカフカなカーペットは使われておりません.そのため,この問題は,根本
的には解決しておりません.
22 第 4 世代のロボットになります.チップキッカーが加わったことが特徴です.外注しました.
23 だからこそ皆さんにやっつけてほしいのです.
24 Wikipedia による.
5
CMDragons は CMU のチームです.
)
「(前略)・
・
・.3 位決定戦は,ZJUNlict です.このチームも 3 年くらい前から非常に強くなっ
てきました.恐らく下馬評では ZJUNlict 有利と考えられていたでしょう.彼らは,準決勝戦で
CMDragons から 2 点を取っていることからもそれは窺えました.しかしながら,我々は彼らの
CMDragons 戦のビデオをじっくり検討しました.そして,ZJUNlict の弱点を発見したのです.そ
して,そこを攻めるようにプログラムを修正して臨みました.試合開始直後,チップシュートで得
点されたかに見えました.しかし,ボールがバウンドしてゴールを割ったため,得点は認められま
せんでした.
(チップシュートを直接決める場合は,最初のバウンドの後は転がってゴールを割らな
ければならない,というルールになっています.
)もしこれが決まっていたら,戦況はまったく異
なったものになったと思います.その後,相手弱点をついた我々の攻撃が見事成功し,先取点を挙
げました.このとき,これはいけると思いました.
(後略)」
結果は見事我々の勝ちでした.めでたく 3 位入賞です.このときは,本当にうれしかったことを
覚えています.念願の表彰台に立つことができたのですから.これも中西君を中心とした本学チー
ムの団結の賜物と思います.このようにして,本学のチームが大きく花開いたのです.
2007 年に RoboDragons は一つのピークを迎えました.ロボットと人が揃ったからです.この勢
いで 2008 年もいきたいところです.2008 年は中国蘇州で世界大会が開催されました.蘇州といえ
ば,水郷で有名なところ.のんびり船で街並みを眺めたいところですが,そんなことは言っておれ
ません25 .早速,会場に着き,セットアップです.我々にとってプラスは時差がほとんどないこと
です26 .時差ぼけにもならず,準備は順調に進みました.ただ,フィールドの作りは必ずしも完璧
とは言いがたかった27 .フィールドがでこぼこしている.
(実際にフィールドがどうなっていたか,
またどう対処したかについては 2008 年の参戦記をご覧ください28 .
)前にも書いたようにロボット
の底面とフィールドの隙間は数ミリしかありません.でこぼこがロボットにつかえねばいいがと思
いましたが,何とかそれはクリアできました.
この年のメンバーは,前年のメンバーが中心になっていました.当然期待は膨らみます.予選は
順調に進みました.予選グループをトップ通過して決勝トーナメントへ進みました.決勝トーナ
メントの初戦で戦ったのがタイのカセートサート大学の SKUBA チームです.このチームは 2006
年に初参加したチームで,2007 年は不参加でした.初参加のときは,予選敗退しています.また,
予選グループも違っていたので,あまり印象が残っておりませんでした.しかしながら,この年の
彼らのロボットは違った.私は,SKUBA との対戦を参戦記で次のように書いています.
(下記で,
Plazma-Z はタイのチュラローンコーン大のチームです.
)
「Skuba は,この大会に向けて新たなロボットを開発してきた(Plazma-Z からの伝聞).この
ロボットは,メインキッカーとチップキッカーを持ち,4 輪全方位移動ロボットとなっている.車
輪は DC ブラシレスモーターを採用している.CMU と非常に似た構造を持つロボットである.A
グループの予選では CMU と互角の試合を行っており,強豪チームになっている.ロボットの移動
速度は RoboDragons より速い.この差がマーク行動に出たときの優位性を決定付けた.
試合は,前半数分の時点で,RoboDragons の守りの隙をついて,Skuba の 1 - 2 シュートが決ま
り,先取された.その後,RoboDragons も敵陣に攻めるが,敵の足の速さに阻まれて,シュート
チャンスが生まれない.その後,さらに 1 点を奪われて前半を終了した.後半は,前半と同じ状況
25 水郷を船廻り,とはいきませんでしたが,大会が終わった後で,世界遺産「拙政園」へ行ってきました.拙政園は中国
四大名園の一つに数えられているそうです.池や堀がめぐらしてある庭園で,時間が緩やかでのんびりした中国らしい空間
をしばし味わってきました.
26 日本と中国の時差は 1 時間です.
27 「日本仕様」とはよく言われることですが,日本で行った世界大会のフィールドは完璧なできばえでした.
28 http://www.ist.aichi-pu.ac.jp/lab/narulab/index j.html のダウンロードのページにあります.
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で推移した.当方の足の遅さにイライラしつつも戦況を見守るしかない状況が続く.そしてまたも
や自陣の隙をつかれて得点された.その後は膠着状態が続いたが,そのままゲームオーバーとなっ
た.結局,3 - 0 で敗れた.
こうして RoboDragons の夏は終わった.
」
SKUBA は,参戦して 2 回目の出場で堂々3 位になりました.これを見て,時代が完全に変わっ
たことを悟りました.ロボットハードウェアの要は,速度を決めるモータであると気づかされまし
た.我々は DC モータと呼ばれるモータを使っていた.ところが,SKUBA チームは DC ブラシレ
スモータを使っている29 .この二つのモータの違いは,構成方式も違いますが,我々にとっての大
きな違いは,DC ブラシレスモータは小型で大きな力が出せることです.ロボットの大きさに制限
がある以上,小さなモータで強力な力が出せるものが必須です.それが DC ブラシレスモータなの
です.その代わり,このモータを制御するのは難しい(と思われていた).そのため,ロボットの
作成を依頼しているメーカさんが導入を躊躇していたのです.しかし,こうなった以上我々も DC
ブラシレスモータを導入せざるを得ません.メーカを説得し,新しいロボットを作ることになりま
した.
新しいロボットを作るにはお金がいる.これを確保しなければなりません.本学には理事長特別
研究費という競争的資金があります.これは学部横断的な研究や特徴ある研究をサポートする資金
です.我々は 2009 年度の理事長特別研究費に応募して幸いにも資金を得ることができました.こ
れで新ロボット計画がスタートです.メーカーさんと打ち合わせをして新ロボットを作りました.
新ロボットができるまでには 2009 年度一杯かかりました.その登場は 2010 年度になりますが,そ
の前に,2009 年度の世界大会について述べましょう.
2009 年度の世界大会はオーストリアのグラーツで行われました.この年は中西君たちが修士を
修了した後なので,戦力ダウンは否めません.後を引き継いだ前野順也君たち修士 2 年生の孤軍
奮闘状態でした.前野君たちに続くのは学部 2 年生の諸君でした.ここで人のつながりに大きな
ギャップが生じました.学部 2 年の諸君はプログラムの経験も浅く,ロボットサッカーシステムの
プログラムを読むには,もっとプログラムの勉強が必要でした.しかし,だからといって,ここで
途絶えさすわけにはいきません.学部 2 年生諸君には勉強も兼ねて国際試合の経験をしてもらうこ
とにしました.したがって,この年は前野君たちが改良したところを除き,過去の遺産で食いつな
ぐこととしました.こんな状況ですからほとんど期待せずに参加したのですが,予選リーグをトッ
プ通過し,決勝トーナメントに進みました.この後に幸運が待っていたのです.我々の決勝トーナ
メントの初戦(準々決勝)はブレーメン大チームでした.このチームとは過去に何度も対戦してい
るので,相手チームの大体の様子はわかっていました.1-0 で辛勝することができました.トーナ
メント表から,次の対戦相手は CMU チームだろうというのが大方の予想でした.我々もそう思っ
ていました.そしてここまでかと思っていました.ところが,CMU チームはシステムの不調から
準々決勝で大阪電気通信大学のチームに敗退したのです.信じられないことが起きたのです.後で
CMU チームに聞いたのですが,不調の原因は,試合中にプログラムを微修正してバグを入れてし
まった,緊張した試合の中で,試合中にそのバグを特定することができなかった,ということでし
た.当然のことですが,試合の最中にそんなことが起きれば焦ります.焦りは焦りを呼び,バグを
とることをますます難しくします.他チームのこととは言え,この教訓は我々にとっても貴重なも
のとなりました.
準決勝の相手は大阪電気通信大学のチームとなりました.この試合は,我々のチームが勝利し,決
勝に進むこととなりました.そして決勝戦は SKUBA との試合.昨年より一層強力になった SKUBA
29 CMU
は 2006 年から DC ブラシレスモータを使っていましたが,彼らが強いのは総合力だと思っていた.
7
チームには太刀打ちできませんでした.それでも準優勝は我々のチームとしては過去最高の結果で
した.つきも実力のうちとは言いますが,まさに今回はこの言葉の通りであります.
2010 年のことを書くのは少々頭が痛い.しかし,皆さんが RoboDragons チームの屋台骨を支え
てやろうという気持ちになってくれることを期待してありのままを書くことにします.
2010 年は新型ロボットで臨むことを決めていました.4 月の頭には新型ロボットが一応動くよう
になっていました.このロボットを国内大会で試してみることにしました.国内大会は毎年 5 月の
連休に開催されます.実は,この新型ロボット,動くには動くのですが,全く意図通りには動いて
くれません.原因がわからないまま,国内大会に向かいました.もう一つ不運だったことは,前野
君たちが修了してしまい,3,4 年生中心の新人チームで臨まなければならなかったことです30 .さ
すがにこのような状況で大会に参加すると,ロボットは不調,人も焦るという悪循環を繰り返すこ
とになります.それまで国内大会では 4 連覇していたのですが,あっさりと敗退してしまいまし
た.まさに天国から地獄へ真っ逆さまの経験をしました.
この後大学に戻って,ロボットの不調の原因探しです.学生諸君が新人なものですから私が出て
いくしかありません.調べてみると,2 つのことがわかりました.一つは,モータのフィードバッ
ク制御プログラムが正しく書けていないこと,他の一つは,モータを制御する電子回路に間違いが
あったことです.これらの間違いをメーカさんに指摘して直すように依頼しました.電子回路はす
ぐに直りましたが,フィードバックプログラムが何週間かかっても直りません.世界大会も迫って
います.業を煮やして私がプログラムのスケルトン(概要)を書き,4 年生の稲垣多朗君に実際の
プログラムを書いてもらいました.そうしましたら 1 週間もしないうちに正しく動くプログラムが
出来上がりました.これで何とかなるだろうと一安心したのですが,それも束の間,潜んでいた新
たな問題が顕在化しました.そのうちの大きなものは二つ.一つはモータが過熱してよく壊れると
いう問題でした.しかし,この問題はこの時点では解決できませんでした.モータの回転速度を落
とす31 などして応急処置をすることにしました.それでもまだ時々壊れることがありました.もう
一つの問題は,この時点では現われず,世界大会の試合中に顕在化してきました.
2010 年の世界大会はシンガポールで開催されました.出発前に上記のようなトラブルを抱えて
いましたから,今年こそと意気込んで行くことができませんでした.とにかく新型ロボットを動か
して,問題点を洗い出してくるぞという気持ちで出かけました.予選リーグが始まり,2 日目を迎
えました.ここで潜んでいた問題が顕在化してきたのです.その時の模様を参戦記に書きましたの
で,少々長いですが以下に引用します.
(以下の記述の中で,SSL-Vision という言葉が出てきます
が,これはフィールド上のロボットやボールの位置などを検出してそれらの情報を各チームに送る
共通ビジョンシステムで,この年から導入されました.以前は,この部分は各チームが独自に作っ
ていました.セットアップを迅速に進めることや,新らしいチームの参加を容易にする目的で導入
されました.
)
「予選 2 日目の我々は,午後 2 時からの試合であった.対戦相手は ER Force.ER Force はド
イツ Erlangen-N?rnberg 大学のチームだ.このチームも過去の実績は華々しいものではない.順
当にいけば勝てると思っていた.さて,試合が始まる.出だしは順調.そのうちに得点するだろう
と思っていた.ところがどうだろう.試合開始 2 分もしないうちに,我々のロボットが,予期せぬ
動作を始めた.クルクル,クルクルと回転し始めたのだ.ロボカップの初期によくあった制御不能
の状況が発生した.一体何が起きたのだ.学生に聞くと,試合前の調整時間中に SSL-Vision サー
バーがクラッシュした.それ以降このようなことが発生するようになったというのだ.えっ!そん
30 4
年生は卒研配属されたばかりの学生で,ロボット初体験の学生たちでした.
31 このようなことをすればロボットの速度が出ませんから非常に不利になることは否めません.しかし,モータが壊れ
てしまっては話が始まりませんから,この時点では妥協するしかありませんでした.
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なことがあったの?なぜそれを深刻に受け止めなかったのか,悔やんでも始まらない.ここは,考
えられることを一つ一つ追求していくしかない.しかし,試合は始まっている.タイムアウトは
5 分しかとれない.この状況でまずやるべきは PC のリブートであろう.しかし,学生いわく,リ
ブートに最悪 20 分要するという.そこで,サッカープログラムの再起動という手段で動かしてみ
る.しかし,2 分も経たないうちに制御不能になることは同じであった.そこで,バックアップを
とっておいたプログラムに戻す.過去には問題なく動いていたプログラムだ.これでもすぐに挙動
不審となる.こうなると打つ手がない.相手には簡単にゴールを決められてしまう.丁度,昨年
CMDragons が試合中のタイムアウト時にプログラムを修正してバグを入れてしまい.動作不良を
起こしたのと変わらぬ状況となってしまった.
(状況は,我々のほうがもっと悪い.
)そうこうする
うちに,ハーフタイムになった.この 5 分が最後のチャンス.学生たちと議論するが,容易に原因
は特定できない.時間ばかりが過ぎていく.何の解決策も得られないまま,ハーフタイムが終わっ
た.後半戦開始.祈るような気持ちでロボットの動作を見守ったが,状況は変わらなかった.後半
開始数分,これ以上試合を続けてもこの状況は改善しないと判断し,また相手に対して失礼だと判
断し,試合を棄権することとした.これで,予選 B グループ 1 位通過は不可能となってしまった.
予選がもう 1 試合残っている.それまで,4 時間ほど.この間に原因を探らないと極めて厳し
い状況となる.ハードウェアのテストをしたが特に異常は見つからなかった.PC を交換したがこ
れも問題ない.どうやらソフトに問題がありそうだ.しかも,SSL-Vision と関連する部分に.そ
うこうするうちに,学生の一人が,我々のプログラムでは,SSL-Vision から送られてくるボール
の候補の数の最大値を 1 にしていたが,先ほどクラッシュしたときに 10 に戻された,それが原因
ではないか,と言った.そこで,最大数を 1 にしてみると,確かに異常動作をしない.こんなとこ
ろが原因だったのか.これは完全に我々のミスである.これで解決したと思った.しかし,状況は
そんなに簡単なものではなかった.念のため,最大数を 10 にして再現テストを行ってみた.しか
し,制御不能という状況は発生しなかった.これでは,真の原因とはいえない.困ったことになっ
たが時間がないので,応急処置で最大数 10 に対応するように,プログラムを修正させる.
(真の原
因追求は大学に戻ってからになる.
)」
結局この問題は解決できず,決勝トーナメントに進んではみたものの,特筆する成果も残せずに
2010 年の RoboDragons の夏は終わってしまいました.
2011 年の現在,上記の二つの問題は,ほぼ解決しました.モータの過熱問題は,モータを制御
する回路の中に FPGA が入っているのですが,そのプログラムの不具合に起因したものでした.
結局これも私が VHDL プログラム32 を読んで不具合を修正し,メーカに FPGA に書き込んでもら
う33 ということで落着しました.また,前年の試合中に顕在化したバグについては,4 年生の安井
興太郎君が直してくれました.
最近,学生諸君が大きく変わった出来事がありました.チームのメンバーが勉強会を開始し,既
存のプログラムを読み始めたのです.根本から理解しなければならないという気持ちになったよう
です.みんなが本気であることは,みんなの目を見ればわかります.この勢いで進めば将来きっと
素晴らしい成果が期待できることでしょう.そんなことは誰も言わないが,心の中ではみんなそれ
を目指して頑張っているに違いありません.私はこのような学生諸君がきわめて頼もしく見えてき
て清々しい気分です.
2011 年の世界大会は 7 月にトルコのイスタンブールで行われ,RoboDragons も出場します.熱
い夏になることを祈ってやみません.
32 ハードウェア記述言語で書いたプログラムです.Verilog
33 正確には,FPGA
という言語で書いてあります.
にダウンロードするプログラムを格納する ROM に書き込みます.
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追記
1)ロボカップも高校野球の甲子園と似たところがあります.常勝チームを維持することは非常
に難しい.維持するためには,それに叶う人と装置 (ロボット) が必要です.人と装置が揃ったと
き,チームは実力を発揮します.我々も人のつながりのギャップを経験しました.連綿と続けてき
たソフトウェアの継承がうまくできなかったのです.その結果は,1 からの出直しでした.こんな
ギャップは金輪際ごめんだ.何としても人を確保しなければならない.そんな思いがこの小論を書
かせました.そして,根性ある皆さんは,是非ともこの伝統を守ってほしい.愛知県立大学の存在
を世間に知らしめてほしい.今はその思いが一層強くなっています.幸い,現修士 1 年,学部 4 年
の諸君は非常に優秀で,ロボカッププロジェクトを推進してくれています.是非皆さんも後に続い
てください.
2)皆さんは,ロボカップをやると研究が出来ないのではないかと心配するかもしれません.し
かしそれは杞憂です.皆さんの先輩は,ロボカップシステムの構築を通じてさまざまな研究を行い,
研究会,国際会議,ジャーナルなどに発表してきました.主だったものを挙げると,日比野君は,
画像処理の関係で雑音の多い画像からロボットの位置を安定的に検出する手法を国際会議に発表し
ました.中西君は,優勢領域法の実時間計算法を研究し,ロボット間のパスの成功率を上げるアル
ゴリズムを開発しました.この研究は,国際会議,論文誌で発表しました.大竹君は,画像処理の
研究でロボットの検出率の向上を目指すアルゴリズムを国際会議で発表しました.これは最優秀学
生論文賞を受賞しています.成田君は,カメラの最適配置法を研究し,国際会議で発表しました.
浅野君は,ロボットの行動検出,行動判定法の研究をし,国際会議で発表しました.前野君,稲垣
君は,安全領域法の研究をし,デフェンスアルゴリズムに応用しようとしています.この研究は,
今年のロボカップ国際会議で発表します.そのほかにも多数の学生諸君が国際会議や研究会等で発
表を行っています.
3)最後まで読んでくれてありがとう.最後まで読んでくれた君は,きっとロボカップに興味を
持ち,我こそ世界制覇をしてやると思ったことでしょう.さあ,やってみよう.チームに参加しよ
う.そして明日こそ栄冠を勝ち取ろうではありませんか.君がチームに加わってくれることを願っ
ています.
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