日本二輪車メーカーはなぜ90年代後半の中国で失敗したのか

2005 年 5 月 14 日
中国経営管理学会
「日本の二輪車メーカーはなぜ 1990 年代後半の中国で失速したのか」
アジア経済研究所
大原盛樹
二輪車産業においては、中国を除き、ホンダを筆頭とする日本の4社が世界で圧倒的な
プレゼンスを有するドミナントな存在である。その圧倒的な重要性は、自動車業界におけ
る GM、トヨタの比ではない。しかし 1990 年代後半以降の中国市場では、日系企業のシ
ェアは合計で 10%に満たず、業界の主役は多数の地場企業である。さらに 2000 年以降、
ベトナム等の一部の海外市場でも、中国ブランドの二輪車が日本企業のシェアを奪うとい
う事態が出現した。
これまで報告者は、中国において二輪車が製品として「コモデティ化」し、地場企業が
中心となって価格とスピードを競う「マイナーチェンジ競争」という、他国とは異質な競
争が展開されたことを明らかにしてきた。本報告では、日本企業の側に焦点を当て、彼ら
がそのような競争になぜよく適応できなかったのかを考察する。
家電等の産業に比べると、1990 年代後半までの日本の二輪車メーカーの海外生産ネット
ワークは、相互補完的な分業体制というより、伝統的な各国フルセット型である。中国市
場における現地適応もあまり成功しているとは言えなかった。現地市場での日本ブランド
のシェアの低さは他の産業も同様であったが、二輪車は他国でのプレゼンスが圧倒的な分、
中国での低迷が際だっていた。一方、2000 年以降、大きな改革が急速に進み、日本から中
国への生産移管も進んだが、それらが家電産業でかなり以前から起こっていたことであっ
た。それらを鑑みれば、二輪車メーカーには、それまでの圧倒的にドミナントな地位から
来る、自己変革の速度を遅くする、ある種の「慢心」があったと言うべきかもしれない。
しかし日本の二輪車企業の経営者や社員が怠けていた訳ではない。それまでの二輪車産
業の発展の方向により規定され、それに邁進し続けた結果、新しいタイプの市場の勃興に
対応した変革が遅れたと考えることができる。日本企業が戦後数十年かけて形成してきた
国際的な「生産ネットワーク」の性質を明らかにしながら、その点を検討しようと言うの
が本稿の目的である。
アジアに拡がる日本メーカーの統合型生産ネットワーク
1990 年代前半まで、アジアの二輪車産業の発展を形作る中心的な力は、日本企業による
独自の生産ネットワークの形成と進化であった。
現在、世界の二輪車の生産と販売の約9割がアジアで行われているが(図 1)、その基礎
を築いたのは 1960 年代から日本企業がアジア地域に進出することで形成した生産ネット
ワークである(図 2、3、4、表 1)。
日本企業が築き上げたのは、「統合型ネットワーク」である。それは、強いメーカーの
統率、緊密な企業間関係を通じた技術改善経験の蓄積と共有、その一方での、日本本国で
のコア技術の保持とそれを通じた垂直的統治、進出先での閉鎖的販売ネットワーク構築に
よる市場の囲い込み、等を特色とする。販売、購買と「現地化開発」の現地化は進むが、
コア技術と品質基準については日本が集権的に管理する。各種産業の日本企業のネットワ
1
ークは、図 5 のように現地化の進展と拠点間の分業ネットワーク化の点で進化してきたと
言われるが、二輪車産業は、この図に従えば、基本的に「クラスター型」の段階にあると
言える。
統合型のグローバルネットワークは、アジアの二輪車産業をドミナントプレイヤーとし
て形成してきたホンダが典型的に体現している。意図的か結果的かは別として、ホンダが
形成したのは、自動車産業の一部としての二輪車事業であった。強力な自動車メーカーに
成長したホンダは、自社内の研究開発部門や工機部門が自動車事業と共用であるだけでな
く、重要部品を供給する関連サプライヤーも自動車部品が主力事業となっている。ホンダ
本体もグループサプライヤーも、二輪車と四輪車はそれぞれ別の事業部ではあるが、資金
調達力に優れ、競争が激しく、技術および経営面でのイノベーションが続く四輪車事業で
培われる資源を活用している。また、ホンダは自動車の新規市場において、まず二輪車で
市場開拓を行うという傾向も有しており、四輪車事業の一環としての性格を強く有してい
る。ホンダにとっては、四輪車より利益率が低く投資効率が悪い二輪車事業(ホンダにつ
いては表 2)だが、新興市場の開拓やレース車、高級車の開発による技術の鍛練で重要な
意味を持つ。二輪車が主力事業である日本メーカーとしてはヤマハがあるが、同社も重要
機能部品については自動車部品サプライヤーを多用しており、また自ら乗用車用エンジン
を開発、生産し、トヨタ等に供給している。アジアを席巻している日本の統合型ネットワ
ークは、日本の広範で分厚い自動車産業の基礎を活用し、その統治方法をほぼそのまま活
用したものであった。
生産ネットワークに関する二輪車と四輪車の相違も指摘しておく。二輪車と四輪車の国
際ネットワークを比べると、二輪車は各国で出来る限りフルセットの供給体制を構築し、
国ごとの部品の相互補完は少ないが、四輪車は比較的多い。二輪車は部品点数が少なく、
技術的にも現地化しやすいので、各国でフルセット体制を構築しているが、一方、四輪車
は車種当たりの開発コストが莫大で、少数の戦略車種を多数の国で展開する必要があるこ
とがその原因である。二輪車は販売や現地化開発等で現地関連法人の裁量が大きいが、四
輪車は本社の戦略的調整に各現地拠点が従う程度がより強い。
1990 年代前半まで、アジア各国の市場では二輪車は基本的に高級な財であった。品質の
信頼性が最重要であり、高く売れるのがあたりまえであった。二輪車を供給するのは基本
的に日本企業のネットワークに組み込まれた日系企業か地場企業であった。彼等はブラン
ド別の販売ネットワークを各国で形成した。東南アジア、台湾、インドでは、ブランド併
売が一般化している日本よりも、メーカーごとの専売ネットワークの形成が進んだ。先行
者による市場の囲い込みである。
アジアの地場メーカーの対応
それに対し、東南アジアでは、地場企業はサプライヤーとして、その中に調和的に組み
込まれて行った。一方、台湾やインド、中国では、地場企業がその中で育ちつつも、ある
程度力を付けるとそこから離脱し、独自の発展を目指すものが出現した。台湾、インド、
中国では地場メーカーへの技術供与が中心で、地場メーカーには元来、自立を目指す意思
があった。そして台湾では 1980 年末から自立化が顕著になった。
日本のネットワークからの自立を幾つかの地場メーカーが目指したが、彼等はほぼ同様
2
の市場セグメントをターゲットにした。彼等が採用した開発・生産・販売組織は基本的に
日本型のものであり、
「ミニ日本メーカー」が目指されていた。しかし、経験が長く、自動
車産業の間接的なバックアップを受け、さらに市場開拓で長期の経験を有してブランド価
値を確立した日本の二輪車のネットワークに比べれば、力の差は明白であった。日本企業
の生産ネットワークは、現地化と分業化を進めつつあったが、それを推進したのは主に日
本企業内部での競争圧力であった。しかし、往々にして、日本国内で固定化した業界秩序
が海外に持ち込まれ、変革の速度は、エレクトロニクス産業に比べて遅れがちであった。
中国の衝撃:「コンパチ・コモデティ」製品によるローエンド市場の顕在化
一方、1990 年代の中国では、中小都市や富裕な農村部で庶民によるローエンド市場が急
速に顕在化した。そこで求められた二輪車は、基本機能を備えていれば後は安ければいい
という「コモデティ」で、特に中国では膨大な数のサプライヤーが生産するホンダのドミ
ナントモデルのコンパチ部品を組み合わせて改造を施した「マイナーチェンジ」競争が展
開された。低価格の「コンパチ・コモデティ」を多数の地場メーカーが供給するという異
質な競争で、それが次第に中国市場を覆っていった。さらに、そのような製品が 2000 年
以降、ベトナム等の海外市場にも流れだし、ローエンド市場を顕在化させていった。従来
とは異質な競争を推進する主体が中国に出現し、ローエンド市場を顕在化させたことは、
二輪車産業ではかつてない現象であった。
それにより、日本のネットワークは、中国の国内市場ではそのままでは機能しなくなっ
た。本来、ターゲットとすべき品質やブランド価値をより重視するはずの大都市市場で二
輪車の保有制限政策が出されたためであり、一方、価格を重視するローエンド市場で、地
場メーカーの「コンパチ・コモデティ」に価格競争で敗退したのである。
中国市場における日系メーカーの不振は 1990 年代の後半に明確になった(図 6)。販売
の全体に対するシェアは 1998 年の 7.7%をピークに、2001 年には 3.6%にまで低下した(但
しスズキの大長江での OEM を含まない)。販売台数は 98 年の 62 万台に比べ、2001 年に
40.5 万台まで約4割減少した。
日本のネットワークの修正―現地化の進展と国際分業化
それに対応して、日本のネットワークは様々な変革を行った。低価格化と現地化開発の
スピードアップのために、購買面での地場サプライヤーの活用と現地開発拠点の建設が、
これまでにないテンポで進行した。なお、日本企業のそのような変化は、それまでにも徐々
に進行していたのだが、中国車の登場以降、加速したのである。
ホンダは 2000 年から中国事業の大がかりな再編を行った。新大洲という大型民営メー
カーを取り込む形で新たな合弁企業(新大洲本田)を設立した(営業開始は 2001 年)。ロー
エンド市場向けのビジネスを強化するため、部品調達と販売面で新大洲が持つネットワー
クとノウハウを活用しようというものであった。さらに上海に 100%出資の R&D 拠点を
設立した。
まず新大洲の従来の調達ネットワークを通じて、中国の膨大な数のサプライヤーを精査
し、どの部品がどれくらいの価格で開発、調達できるのか(いわゆる「中国価格」)を調べ
上げた。また従来の日系サプライヤーに頼る方式をやめ、コストを優先するために地場サ
3
プライヤーを積極的に活用し始めた。2002 年の段階で、ホンダ関連の在中国サプライヤー
26 社のうち半数が要求コストを満たせないという理由で、新大洲本田の新製品開発に参加
させてもらえなかったほどである。
各社で低価格を実現させるため、機能を絞り込み、中国市場には過剰と思われる最高性
能を落とした設計が行われるようになった。中国では数年来、中国市場で求められるレベ
ルまで各種基準を「下げる」べきとする現地サイドと、
「世界統一基準」を重視する本社で
認識ギャップが存在し、それが深刻な問題であった。現在、基準自体が現地に合わせて変
化したかどうかは確認できないが、その運用の幅は広がっている。
日本メーカーの顕著な成功例は、2003 年のヤマハの合弁企業による新車種(YBR125)投
入の成功である。中国では全く新規の車種を開発して 2002 年末に投入し、2003 年に年間
11 万台を販売した。全く新規の単一車種でこれだけ売れたのはこの 10 年間で恐らく初め
てだと思われる。以下に若干詳しくその事例を紹介しよう。
YBR は、世界的なドミナントモデルであるホンダの CG125 に対抗する発展途上国向け
戦略モデルとして 1990 年代末にブラジルやインドに投入されたものだった。しかし価格
が約 20 万円と高く、価格下落が急速な中国市場においては、いかに素早く中国向けの廉
価モデルを開発し、市場投入できるかが鍵であった。
現地の開発チームが主導し、1 年以内に 6000 元(約 9 万円)以下のモデルの量産を立ち上
げるという目標が設定された。そのために、①設計変更による小型軽量化、中国市場では
過剰な加工、素材の簡易化、②徹底した国産化、③割高な社内加工部品を安価な外作部品
に切り替える、④外部調達の際に、一部の CG125 向けの従来部品も設計変更して活用す
る、⑤一部の部品について、従来の 1 社手配から 2 社手配へ変更し、サプライヤーに価格
低下の圧力をかける、等の手法が駆使され、最終的に目標が達成された。特に③、④、⑤
は従来のヤマハの発想を超えた措置であった。
日本の生産ネットワークのもう一つの顕著な変化は、海外拠点間の製品別分業の進展で
ある。日本市場向への逆輸入がとりわけ注目される。
ホンダは新大洲本田を日本向けの低排気量スクータの拠点と位置づけ、2002 年半ばには
50cc スクータ「トゥデイ」を日本に輸出(日本での小売価格は 10 万円弱)するにいたった。
日本企業は「その市場で売るものをその市場で作る」という発想でこれまで海外進出を進
展させてきた。しかし日本の低排気量バイクのセグメントについてはすでにその発想を大
幅に超えている。90 年代末からヤマハが台湾を日本向けスクータの拠点としてきたが、そ
れと合わせて、日本市場の輸入車の比率は急速に高まっている。家電製品のような、海外
との分業の中での製品別棲み分けの時代に入っている。
評価―日本企業の成果と中国市場の変化
今のところ、2000 年以降の変革の中で、中国でよりめざましい進展を遂げたのは、ホン
ダよりもむしろヤマハ、スズキであるように思われる。上述のようにヤマハは全く新規の
ヒットモデルをリリースし、市場の上層部を獲得した。スズキは GS125 という機種自体
の魅力にもよるが、技術提携を行う大長江という優良民間メーカーの発展に牽引されたと
いう側面を持つ。両社とも、市場の大半のシェアを獲得するというよりも、品質や機種の
魅力を理解する層にアピールすることに全力を傾けているようである。即ち、従来の日本
4
のネットワークの優位が通用しやすい市場で成功したと考えられる。
ホンダは元来、日本メーカーの中で頭抜けた存在であり、また 2000 年以降も国内で販
売を伸ばしてはいるが、しかし、ホンダの本来の目標からはまだ遠いようだ。ホンダはこ
れまで各国市場のボリュームゾーンを圧倒することを目標として来たため、新大洲本田に
おいても、当初はデファクトスタンダードとなって「コンパチ・コモデティ」の模造対象
とされた CG125 の価格競争力を強化する方策をとった。しかし、それは昨年までの所、
あまり功奏していなかった。従来のアジア市場とは全く異なる「コンパチ・コモデティ」
市場における低利益の「マイナーチェンジ競争」を制する勢いはまだ見えない。統合型ネ
ットワークに修正を加えたが、しかし、中国のボリュームゾーンを圧倒するには本来的に
適していないように思われる。中国を中心にして勃興したローエンド市場は、本来、日本
メーカーが築き上げてきた資産、ネットワークが容易に適応できるものではなかったのか
もしれない。このセグメントは、発展途上国の新しいタイプの産業発展の主役達が担って
ゆくべきものなのかもしれない。むしろホンダで期待されるのは、近年アジア全域で進め
られている、全く新規の「アジア戦略車」投入の成果である。
ただし、この新興市場の将来は不透明である。
「コンパチ・コモデティ」が主流だとは言
え、それに邁進する中国の地場メーカーがそれで満足しているわけではない。利益率は低
く、じり貧に陥る企業が増加し、市場シェアは有力企業に集中化しつつある。この数年、
有力地場メーカーは、品質向上のために、より組織はより統合的なものに向かいつつある。
その最大の原動力は、中国市場の変化である。
中国市場も所得向上や普及一巡により、品質や新規性が重視されるようになった。この
2,3 年で政府の態度が大きく変化し、排ガス規制や安全規制が強化され、ユーザーの規則
順守(例えば車輌登録、免許取得、車検・保険加入等)が追求されるようになった。市場
は確実に高度化しており、それが日本企業に追い風になっている。
<参考文献>
大原盛樹 2005.「日本の二輪車産業のアジア進出―ドミナント企業の現地市場適応―」及
び「中国の二輪車産業―巨大ローエンド市場がもたらした地場企業中心の発展―」佐
藤百合・大原盛樹編『アジアの二輪車産業―基礎情報と企業一覧』アジア経済研究
所
尹春志 2003.「東アジア地域生産ネットワークの展開―雁行形態的発展パラダイムを超え
て」座間紘一、藤原貞雄編『東アジアの生産ネットワーク−自動車・電子機器を中
心として−』ミネルヴァ書房
Alice H. Amsden 2001. The Rise of “The Rest”: Challenge to the West from
Late-industrializing Economies , New York, Oxford University Press
Michael Borrus, Dieter Ernst, and Stephan Haggard 2000, “Introduction: Cross-border
Production Networks and the Industrial Integration of the Asia-Pacific Region”,
Borrus, Ernst, and Haggard ed., International Production Networks in Asia:
Rivalry or Riches? , Routledge, London
Walter Hatch, Kozo Yamamura 1996. Asia in Japan’s Embrace: Building a Regional
5
Production Alliance , Cambridge University Press
図 1 世界の二輪車生産台数
(単位:万台)
3500
その他
3000
USSR(ロシ
ア)
2500
欧州
2000
1500
その他アジ
ア
1000
インド
500
中国
日本
19
58
19
60
19
65
19
70
19
75
19
80
19
85
19
90
19
95
20
00
20
03
19
53
0
注:「その他」は北米、中南米、アフリカ等を含む。
出所:UN Industrial Commodity Statistics Yearbook と本田技研
工業株式会社『世界二輪車概況』各年版を参照し、各地域について大
きい値を使用した。
図 2 日本企業および日系企業・関連企業の二輪車生産
(完成車の輸出と海外生産)
(単位:万台)
1600
1400
1200
1000
国内生産
800
600
うち輸出
400
現地生産
200
04
*
98
95
92
85
80
75
70
65
01
20
20
19
19
19
19
19
19
19
19
60
19
19
55
0
注 1:現地生産は、85 年までは KD 部品の輸出セット数。それ以降は完成
車組み立て用部品の輸出セット数。
注 2:1998 年〜2004 年はカワサキを除く 3 社の合計。2004 年のヤマハの
数値は、2003 年時点での計画。
出所:アイアールシー株式会社『日本二輪車業界の世界戦略』1997 年、2003
年版、『世界二輪車概況』1988 年版、2002 年版、各社 HP
6
表 1 日本 4 社の海外生産拠点(技術・資本提携先)の展開(完成車のみ)
1960
年代
ホンダ
ヤマハ
スズキ
カワサキ
台 湾 < 三 陽 > (61) 、 韓 国 <
台 湾 < 功 学 社 > (62) 、
台 湾 < 台 隆 > (63) 、
台湾<永豊
起 亜 >、スペイン(62)、台 湾
タイ(66)
タイ 、インドネシア、ナ
>(66)
< 光 陽 > 、 ベ ル ギ ー (63) 、
イジェリア(69)
パ キ ス タ ン (64) 、 タ イ < TH
> 、ジャマイカ(65)、ニカラグ
ア、バングラデシュ(66)、マレ
ーシア(69)
1970
年代
モザンビーク、グアテマラ
フィリピン、ブラジル、ウ
マレーシア (71)、パキ
イ ラ ン (70) 、
(70) 、 メ キシコ、 インド ネ シア
ルグアイ、エクアドル
スタン(72)、フィリピン
コロ ンビ ア
(71) 、 フ ィ リ ピ ン (73) 、 台 湾
(70)、 インドネシア 、アン
(75) 、 カ メ ル ー ン
(73) 、 イ ン ド
< 三 陽 > (74) 、 ブ ラ ジ ル 、
ゴ ラ (74) 、 バ ン グ ラ デ シ
(76)、 コロンビア (79)
ネ シ ア (74) 、
ペ ル ー (75) 、 イラ ン (76) 、 イ
ュ、 イラ ン 、 パ キス タン 、
米 国 、 フィリ
タ リ ア (77) 、 米 国 (78) 、 ナ イ
コ ロ ン ビ ア (75) 、 ペ ル ー
ピ ン (74) 、 タ
ジェリア 、エクアドル (79)
(76) 、 台 湾 < 萬 山 >
イ (75)、パキ
(78)、カメルーン、モザン
スタン(77)
ビーク(79)
1980
年代
スペイン 、モーリシャス(80)、
マレーシア、イタリア
韓 国 < 暁 星 > (80) 、
ナ イ ジ ェ リ
パキスタン、韓 国 <大 林 >、
(80)、 ナイジェリア 、 スペ
イ ン ド <TVS> (82) 、
ア、台湾<
コロンビア(81)、 台 湾 <光 陽
イ ン (81) 、 ベ ネ ズ エ ラ 、
シ リ ア (83) 、 ニ ュ ー ジ
百 吉 発 >
> 、ベネズエラ、スペイン
ザ イ ー ル (82) 、 ブ ラ ジ
ーランド、 台 湾 <台
(80) 、 マ レ ー
(82) 、 中 国 < 嘉 陵 > (83) 、
ル 、 ポ ル ト ガ ル (83) 、 フ
鈴 > 、 スペイン (84)、
シア、米国
インド <ヒーロー>、<カイ
ランス 、中 国 <建 設 >
フィリピン 、中 国 < 軽
(81) 、 イ ン ド
ネティック>、 米 国 R&D 、中
(84) 、 中 国 < 南 方 > 、
騎 > (85) 、 米 国
(86)
国 < 上 海 > 、 (84) 、 フ ラ ン
米 国 (85)、 米 国 、 コロン
(88) 、 バ ン グ ラ デ シ ュ
ス 、 メ キ シ コ (85) 、 シ リ ア
ビア (86)、 台 湾 (87)、中
(89)
(86) 、 中 国 < 広 州 > 、 ブ ル
国 <上 海 >(88)
キナファソ(88)
1990
年代
2000
年代
パキスタン (90)、 アルゼ ン チ
メキシコ (91)、 中 国 <建
インドネシア 、イタリ
インドネシア
ン、中 国 <北 方 易 初 >、 中
設 > (92) 、 中 国 < 南 方
ア 、 パ キ ス タ ン (90) 、
(94) 、 中 国
国 <五 羊 > (92)、 中 国 <嘉
> 、 インド<エスコーツ
ラオス 、中 国 <大 長
<新 大 洲 >
陵 、 天 津 > (93) 、 ト ル コ
>、
タ イ (95) 、 台 湾
江 > (92) 、 中 国 < 望
(97)
(94) 、 ベ ト ナ ム (96) 、 タ イ
R&D 、 ト ル コ (97) 、 ベ ト
江 > (93)、 中 国 <軽
R&D (97) 、
ナム (98)
騎 、 金 城 > (94) 、 ベ
イ ン ド
R&D (98) 、 インド < M&S >
トナ ム 、 ブラ ジ ル
(99)
(95)、 ミャンマー (98)
インドネシア (00)、 中 国 <新
中 国 R&D (04) 、 イ ン ド
カ ン ボ ジ ア (00)、 タ イ
大 洲 > (01) 、 中 国
ネシア (04)
R&D (01) 、 中 国
R&D (02)
R&D
(02)、 インド (04)
注: □ は出資会社。出資比率は問わない。色つきは R&D 会社。( )内は設立年または生産開始年。<>内は提
携先が一国内に複数ある場合の相手名。
出所:本田技研工業『世界二輪車概況』1988 年版、アイアールシー『日本二輪車業界の世界戦略』2003 年版、
各社 HP、各種報道による。
7
図 3 ホンダのアジア各国における販売
(単位:万台)
300
250
中国
200
インド
タイ
150
インドネシア
100
マレーシア
50
フィリピン
ベトナム
20
04
*
20
02
20
03
*
20
01
20
00
19
99
19
98
19
97
19
96
19
95
19
94
19
93
19
92
0
出所:2002 年までは「Honda アジア事業説明会資料 参考資料(本田技研工業 HP:
http://www.honda.co.jp/investors/meeting/asia/20030320/asia-20030320-4.pdf)、
2003、04 年についてはホンダ本社および各国拠点でのヒアリング。
図 4 ホンダのアジア諸国の市場シェア
(単位:%)
80
70
中国
60
インド
50
タイ
40
インドネシア
30
マレーシア
20
フィリピン
10
ベトナム
0
1992 1993 1994 1995 1996 1997 1998 1999 2000 2001 2002
出所:図 3 に同じ。
図5
日系ネットワークの進化
ハブ型
クラスター型
ウェブ型
注:直線は財のやりとり。黒点はサプライヤー。
出所:Walter Hatch, Kozo Yamamura 1996. Asia in Japan’s Embrace:
Building a Regional Production Alliance , Cambridge University Press
8
表 2 ホンダの二輪車事業およびアジアの規模と位置づけ(2003.4-2004.3 期)
(1)二輪事業の位置づけ(連結)
R&D 支出 490 億円(4 億 USD) 売上の 4.9%
営業利益
売上
売上高 総資産
総資産 従業員
R&D
設備投資
利益率
利益率
(億円)
(億円)
(%)
(億円)
(%)
(人)
(億円)
(億円)
全体
6001 8兆1630
7.4 8兆3288
7.2
131600
4490
2877
二輪
426
9959
4.3
7662
5.6
25700
730
350
(%)
(7.1)
(12.2)
(9.2)
(19.5)
(16.2)
(12.1)
四輪
4387 6兆8957
6.4 3兆7230
11.8
95500
3640
2400
(%)
(73.1)
(80.8)
(44.7)
(72.6)
(81.1)
(83.4)
(2)事業の地域別収益 (二 輪 、四 輪 、その他 事 業 含 む)
日
米
欧
アジア
その他 計
売上
18791
45529
7563
6372
3370
81625
23.0
55.8
9.3
7.8
4.1
100.0
(%)
利益
1924.5
3102
258
447
238
5969.5
32.2
52.0
4.3
7.5
4.0
100.0
(%)
利益率(%)
10.2
6.8
3.4
7.0
7.1
7.3
(3)販売台数(万台)
日
米
二輪
(%)
四輪
(%)
40.3
4.4
71.6
24.0
欧
65.6
7.1
155.8
52.2
29.9
3.2
23.1
7.7
アジア
その他 計
701.7
83.1
920.6
76.2
9.0
100.0
34.1
13.7
298.3
11.4
4.6
100.0
出所:本田技研工業株式会社『平成 15 年度有価証券報告書』
図 6: 日系メーカーの販売台数と市場シェア(万台、%)
50
9
販売台数(万台)
8
7.7
40
6.6
35
6
30
25
6
5
4.9
4
20
ホンダ系
7
6.9
4
3.6
3
15
10
2
5
1
0
市場シェア(%)
45
ヤマハ系
スズキ系
日系合弁シェア
0
1996
1997
1998
1999
2000
2001
2002
注 1:シェアは日本3メーカー系諸企業の合計販売台数が中国全体の販売台数に占める比率。
注 2:ホンダ系は 3 社。2002 年から新大洲本田、ヤマハ系 2 社、スズキ系は 2001 年まで 2 社、
2002 年から大長江の OEM 含む(2001 年までのデータは不明)。
出所:重慶摩托車研究所資料。
9
図 7 ホンダのタイでのラインナップ調整の体制
アジアホンダ(営業 )
市場調査
生販調整
HRST(開発)
タイホンダ(生産)
仕様確認/熟成
バックアップ
バックアップ
図面
本田技術研究所
(朝霞)
熊本製作所
本社購買
出所:タイホンダでのヒアリング
図 8 日本の二輪車輸入
(単位:万台)
40
35
30
800cc以上
25
250-800cc
20
15
50-250cc
10
5
50cc以下
0
1994 1995 1996 1997 1998 1999 2000 2001 2002 2003 2004
出所:税関統計(World Trade Atlas より)。
図 9 日本の二輪車の輸入比率
(単位:%)
100
90
80
70
50cc以下
60
50
40
30
50-250cc
250cc以上
20
10
19
94
19
95
19
96
19
97
19
98
19
99
20
00
20
01
20
02
20
03
20
04
0
注:日本の国内販売台数にしめる輸出台数の比率。
出所:『世界二輪車概況』各年版、日本自動車工業会 HP、税関統計
(World Trade Atlas より)。
表 3:中国における外国企業の進出(技術供与と合弁)
10
外国企業
形態
ホンダ
独資
合弁
ヤマハ
独資
合弁
技術供与
スズキ
現地企業名
本田摩托車研究開発有限公司(1)
五羊−本田摩托(広州)有限公司
天津本田摩托有限公司(→新大洲本田へ)
嘉陵−本田発動機有限公司
新大洲本田摩托車有限公司
技術供与 中国嘉陵工業股份有限公司(集団)
合弁
技術供与
カワサキ
合弁
技術供与
三陽(台湾)
光陽(台湾)
合弁
合弁
Piagio(イタリ 合弁
ア)
技術供与
上海易初摩托車有限公司
広州摩托車公司
洛陽北方易初摩托車有限公司
雅馬哈発動機研発(上海)有限公司(1)
雅馬哈発動機(蘇州)有限公司(2)
重慶建設・雅馬哈摩托車有限公司
株洲南方雅馬哈摩托車有限公司
(→株洲建設雅馬哈摩托車有限公司)
江蘇林海雅馬哈摩托有限公司(3)
建設工業(集団)有限責任公司
南方摩托股份有限公司
南昌飛機製造廠
重慶望江鈴木発動機有限公司
済南軽騎鈴木摩托車有限公司
南京金城鈴木摩托車有限公司
鈴木摩托車研究開発有限公司(1)
望江機器廠(4)
中国軽騎集団有限公司
南京金城機械有限公司
長春長鈴発動機有限公司
江門大長江摩托車有限公司
海南新大洲川崎発動機有限公司(3)(4)
河南柴油廠
珠海奔騰摩托車有限公司
廈門廈杏摩托有限公司
湖南光南摩托車有限公司
(→劲隆光陽摩托車有限公司)
常州光陽摩托車有限公司
比亜喬沸山摩托車有限公司
(→宗申比亜喬沸山摩托車有限公司)
北京汽車摩托車聨営公司
沸斯弟摩托車有限公司
渭陽柴油廠
Puch(オースト 技術供与
リア)
Zundapp(独) 技術供与 天津捷達摩托車廠
設立/導入年 所在地
02年
92年
93年
93年
01年
83、85、89、98
年
84年
88年
91年
04年
01年
92年
93年
04年
94年
83年
85年
85年
93年
94年
94年
02年
82年
85,90年
85年
84年
92年
97年
85年
93年
93年
93年
03年
94年
94年
04年
85年
92年
87年
上海
広東省広州
天津
重慶
上海、海南、天津
重慶
84年
天津
上海
広州
洛陽
上海
江蘇省蘇州
重慶
湖南省株洲
江蘇省
重慶
湖南省株洲
重慶
山東省済南
江蘇省南京
広東省江門
重慶
山東省済南
江蘇省南京
吉林省長春
広東省江門
海南省
珠海
福建省廈門
湖南省株洲
江蘇省常州
広東省沸山
北京
広東省沸山
注:1)R&D 拠点、2)部品開発・調達拠点、3)エンジンのみ、4)撤退。技術導入年は契約年。
出 所 :『中 国 摩 托 車 工 業 史 』人 民 郵 電 出 版 社 、1995 年 、『汽 車 工 程 手 冊 摩 托 車 編 』人 民 交 通 出 版 社 、2001
年、各種報道、各社 HP。
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