旧A++のPDFを読む(完結)

A++
Mercurius
タテ書き小説ネット Byヒナプロジェクト
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︻小説タイトル︼
A++
︻Nコード︼
N0981E
︻作者名︼
Mercurius
︻あらすじ︼
﹁大間のマグロ漁船に乗るよりも、手軽に短時間で一攫千金を狙
える職業。それが退魔士なのです!﹂小さな刀の神様に取り憑かれ、
訳アリの女の子達と出会い、気が付くと非日常をまっしぐら。
※ 大幅改稿実施中です。
1
﹃出会い﹄
﹁せっかくの休日だってのに、男と二人で携帯販売店巡りなんてな﹂
先程までぶつくさ煩かった友人の言葉を思い出す。
春先にしては珍しく暖かい休日、絶好の外出日和と言えるだろう。
そんな日に男二人で携帯販売店をハシゴするとは夢にも思わなか
った。
野郎二人で暑苦しい事この上ないが、いかんせん俺にはそういう
相手がいない。
頼み込んで来てもらったものの、お目当ての携帯は品切れだった。
﹁しかし、散々振り回された挙句、買おうと思っていた色が無いな
んて﹂
シルバーが欲しかったのだが、手に入れたのはゴールド。
今の携帯はバッテリーが完全に死んでいたし、また店に足を運ぶ
のも面倒。結局のところゴールドで妥協してしまった。
お願いした手前仕方ないのだが、飯奢らされるわ、愚痴を聞かさ
れるわ、
﹁俺はそっちの方が好きだけどな。百式みたいでカッコイイ﹂
﹁百式言うな!﹂
などと、せっかく手に入れた携帯を百式扱いされるわで、あまり
よろしくない一日だったように思う。
﹁ツイてない一日だったな﹂
2
どんよりとした気分で家へ帰路を歩いていた時の事。
途中、ちょっと小洒落た喫茶店兼、ケーキ屋のオープンカフェに
差し掛かった。
あまのみさき
オープンカフェに座り、一心不乱にキーボードを打鍵している女
性が目に留まる。
あれは我が学園のアイドル、天野美咲さんじゃないだろうか。
日本人女性らしい黒髪のロングで、端正な顔立ちはそこらのアイ
ドル顔負け。
やや身長が高いのが弱点と言われているが、言い換えるとモデル
のような華奢な長身。俺的には完全ど真ん中ストライクだったりす
る。
直接話しをした事は無く、美人で頭が良く、清楚でおしとやかと
いった断片的なイメージしか持ち合わせていない。
﹁なんか学校で見掛けるイメージ違うな﹂
締め切りに追われた小説家みたいに、キーボードぶっ叩いてるっ
てイメージじゃない。
それに彼女の向かいに置かれたギターケース。彼女らしからぬイ
メージだ。
﹁︱︱こんにちは﹂
学校での彼女になら、間違いなく声を掛けない。
だが挨拶したのは学校で見掛ける彼女と違う、違和感のようなも
のを感じたからだ。
﹁ひ、ひゃい!﹂
3
バッと顔を上げ、びっくりまなこを向ける彼女。
余程慌てたのか。長い髪の毛がスルリと解けて冷えたコーヒーの
中に着水した。
なんか﹃チャポン﹄とか﹃ビチャ﹄とかって聞こえてきそうな勢
いだ。
﹁こんにちは、B組の三室です﹂
再度挨拶を繰り返す。どうせ俺の事なんて知らないだろうけど。
﹁え、あ∼、はい、こんにちは﹂
語尾の最後には平静を取り戻し、学校で見せるにっこり笑顔で対
応した。
普段の彼女に戻れた様だが、コーヒーカップに着水した髪の毛が
見ていて痛々しい。
﹁えー、あの、髪の毛が大変な事になってます﹂
コーヒーカップを指差し苦笑した。
彼女はコーヒーにどっぷり浸かった髪の毛を見て、せっかくの笑
顔を吹き飛ばしてしまった。
﹁わっ、わわ、何時から?﹂
半泣きになりながらカバンの中からハンカチを探す。
だがかなりパニック状態になっているのか、なかなか探し出せず
にいるようだ。
﹁ダシが出ちゃったかも⋮⋮﹂
4
ダシですか。それはどんな風味ですか? ツッコミを入れたい所だが、グッと呑み込んでスルーした。
﹁これ、使ってください﹂
カバン代わりの小振りなリュックからハンカチを取り出す。
確かちょっと前に母親が用意してくれたものだ。
﹁ちょっと出掛けるだけ! ハンカチとティッシュなんていらない
って﹂
﹁馬鹿やな、あんた。必要になったらどうすんねん﹂
延々とそんな会話を繰り返し根負けして持たされたものだったが、
確かに必要になりました。お母さんありがとう。
さりげなく偉大なる母に感謝しつつ、ハンカチを手渡した。
﹁あ、ありがとう﹂
申し訳なさそうにペコリと頭を下げ、赤面しつつ髪の毛を拭う彼
女。
本当の彼女はこういう感じの子だったのか⋮⋮。
﹁なんだか、学校の時とイメージ違って見えるね﹂
失礼と思いつつも、つい本音が出てしまった。
目を丸くして俺を見つめ、弾ける様な笑みを浮かべた彼女を見て、
思った。
学校の彼女は憧れが作り出した虚像で、本当はこんな話しやすい
5
感じだったのだろう。
﹁あと、ギターやってるとは思わなかった。BCリッチのモッキン
バード?﹂
ローランドの小型アンプと共に、椅子に座らせていたギターケー
スを指差した。
皮のソフトケースの中から﹃自己主張﹄しているボディ。
その尖がり具合を見て半分あてずっぽうで聞いてみたが、ものの
見事に反応が返って来ない。
髪の毛を拭っていた手も止まり、見開いた目で見つめ返して絶句
している。
﹁もしかして、天野さんのじゃなかった?﹂
変な知識ひけらかして、ドン引きされてる気分になってしまった。
彼女は無言のまま首を振り、俺を見つめ返す。
⋮⋮ってえ事は、自分の物って事だ。
そうかそうか、モッキンじゃないのか。じゃあアレか。
﹁フェルナンデスのレプリカ?﹂
﹁違います!﹂
俺の問い掛けに対し即答で返す。
上目遣いに俺を見つめる天野さん。︱︱反則なくらいにかわいい
のですが。
﹁正解は見てのお楽しみ。どうぞ!﹂
6
彼女は照れくさそうケースを抱え、皮のケースのファスナーをゆ
っくりと引き開けた。
取り出されたのはマホガニーボディのモッキンバード。
はいと無造作に手渡されたギターを抱え、可能な限りギターを傷
つけないように受け取った。
﹁やっぱ正解だったね。マホガニーボディでネックはメイプルでロ
ーズ指板か。予想が外れたかと思った﹂
大事に手入れされてはいるものの、使い込まれた歴史があちこち
に刻まれている。
使い手の愛を感じるギターを見つめ、触れてはいけない気持ちに
させられた。
﹁大切に扱っているのが良く分かる。見せてくれてありがとう﹂
ギターは体の一部であり、重要な感覚デバイスなのだ。おいそれ
と人が触れて良いものでは無いと思っている。
ギターのご機嫌を損ねないうちに、ケースにしまうことにした。
﹁ねえ? どうしてそんなに詳しいの? ケース越しにギターの種
類を見分けたり⋮⋮﹂
彼女は目を輝かせて矢継早に疑問を投げかけた。 ギターをこよなく愛する者としては当然の知識だが、今更ギター
やってますなんて言いにくい。
﹁楽器屋の息子なんですよ。知らず知らずに商品知識が付いたのか
も﹂
7
その時天野さんの目が妖しく光ったような気がした。
彼女はニヤリと笑い、空いた席を指差した。︱︱座れといわんば
かりに。
﹁弾き語り聴かせるって約束したから、アンプ持ち出してきたって
?﹂
スタジオの中ならいざ知らず、外ならアコースティックギターが
ベターでありベスト。
そもそもエレキギターってのは、本体だけでは満足に音を鳴らす
事すら出来ない楽器だ。
彼女もそれを承知で電源内蔵のアンプを持ち出してきたらしい。
しかし天野さんにそこまでさせる奴って誰だ? 羨まし過ぎる。
﹁あっ! 来ました来ました﹂
誰もいない細い路地を指差し、俺に知らせる天野さん。
彼女の指差す方向に目を凝らし、からかわれた気分になりため息
を吐いた。
﹁誰もいないじゃないですか!﹂
﹁むむ? いるじゃないですかぁ! おーい﹂
満面の笑みで手を振る天野さん。
それっぽく見えないが、もしかして天野さんは電波系なのだろう
か?
その真剣な表情から察するに、妙な信号をキャッチしている訳で
もない。
俺は再び細い路地に目を向けた。
8
﹁タマさーん!﹂
﹃にゃん⋮⋮﹄
路地の方からゆっくり重い足取りで歩いてくる猫が一匹。
天野さんの挨拶に合わせて、軽く尻尾を振った。
ゴキゲンな返事をしたような気がする。猫好きにはたまらない状
況だろう。
︱︱って、おい、猫かよ。
俺は脱力感に襲われ、思わず突っ伏してしまいそうになった。
﹁天野さんの待ち人って⋮⋮猫ですか?﹂
微弱な電波を感じつつ、彼女に疑いの眼差しを向けた。
猜疑心に満ちた視線をものともせず、天野さんは胸を張った。
﹁いえいえ、ただのニャンコじゃないんですよ。タマさんはここら
の次期ボス猫候補なのです!﹂
﹃にゃん﹄
なぜか自分のことの様に自慢げに答える彼女。
タマさんの鳴き声も﹃おいおい、褒めるなよ﹄なんて風に聞こえ
た気がした。
テーブルの側に座り毛繕いを始めるタマさん。ボス猫候補、そし
てオス。
猫のソレは初めて見たが、メスには無いのが股間に付いていた。
﹁じゃ、何気に使えそうな三室さん、セッティング開始です﹂
9
意気揚々とギターを構えるA組の天野さん。あれ? 今、何気に
毒を吐かれた気がする。
アンプとエフェクターにケーブルを接続すると、独特の可聴域ノ
イズがスピーカーに乗って流れ出した。
﹁︱︱OKっす﹂
なぜか口調も裏方めいてしまう。
俺の合図に天野さんは親指を立て、ウインクをした。
ウインク失敗して両目を閉じてしまうのが、やけにかわいい。
﹁店の迷惑になりませんか?﹂
なんだか言っても無駄のような気がするが、一応ダメ元で聞いて
みる。
﹁うん、小型のアンプだから大丈夫!﹂
やっぱり俺の言うことなんて、まったく聞かない天野さん。
﹁いや、そういう問題じゃなくて﹂
﹁この店、お友達の店だから、大丈夫だって﹂
やっぱり俺の言うことなんて聞いてくれない。天野さんってそう
いうキャラだったんだ。
俺の心配を華麗にスルーし、天野さんは椅子に腰掛けたまま、脚
を組んでモッキンバードを腿に乗せた。
細い指で軽く爪弾くと、弦を振るわせアンプに美声を伝えていく。
10
︱︱天野さんのミニコンサートが開催された。
一般にモッキンバードは変形ギターに分類される禍々しいデザイ
ンをしている。
だが天野さんはそれと相反する優しいスローバラードを口ずさみ
始める。
その歌声は声楽家の様に澄み、オペラ歌手のようにハートが籠め
られていた。
歌声が体に染み透り、体の中から癒されるように感じる
タマさんも毛繕いを休めて、天使の歌声に聴き入っている。
通りを歩く人の足が止まり、一人、二人と観客が増える。
歌詞の一言、一文字が体に刻まれる。
日本の歌詞ではなく、意味すらわからないのに、頭で理解するよ
り早く感覚に訴えかけてくる。
歌声が力を持ち、天野さんの体から放射されている。
CDなんかじゃ体感できない、ライブならではの感覚だった。
﹁おそまつさまでした∼﹂
一曲歌い終えた彼女は、照れくさそうにお辞儀した。
通りで足を止めてくれた人、ケーキ店から顔を出した客から拍手
が湧き上がった。
予想以上の評価に恐縮したのか、ペコペコお辞儀しながらギター
をもう一度掻き鳴らす。それが解散の合図だった。
観客は元の通行人に戻り、自分の向かう場所へと帰っていく。
﹃みゃ!﹄
タマさんが一言なにかを言い残し、元来た路地へ消えていく。
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そして何事も無かったかのように、元のオープンカフェに戻った。
ギター側のプラグを巻き取り丸めてカバンに詰めていく天野さん。
辛そうな表情をして、額に汗を掻いている。そういえば顔色も思
わしくない。
﹁天野さんちょっと座ろう、顔色悪いみたいだ﹂
手からギターを奪い、ふらつく彼女を椅子へ座らせた。
﹁うん⋮⋮、ちょっと無理したかな。例えて言うと﹃どんぶりご飯
3杯﹄くらいのエネルギー消費﹂
言っている意味が良く判らんのだが、無茶苦茶疲れたって事だろ
うか。
肩を上下させて、息を整えている天野さんは、俺の目を見つめて
元気を奮い起こした。
﹁ふむ! 約束したからね!﹂
﹁猫⋮⋮、タマさんと?﹂
﹁︱︱うん﹂
﹁じゃ、仕方ないか﹂
なんとなく言葉の重みを感じて納得してしまった。
やらなくてはいけない理由が、彼女にはあるのだろう。そんな気
にさせられた。
﹁歌が体に染み込んで来た。心をこめて歌い過ぎたんだね⋮⋮﹂
12
最大の賛辞を贈るつもりで、先ほどの感覚を言葉で表現してみた。
だが彼女はこちらをいぶかしげに見つめた。
﹁変なオーラとか出てましたか?﹂
口調は笑っているが、表情は真剣そのもの。
その笑ってない顔で俺に聞き返してきた。
﹁光の粒みたいなのですよね、そりゃもうビンビンに出てましたよ﹂
俺はさっきの様子を思い出し、深く考えずに賛辞の上乗せをした。
それほど良い歌だったと思えるからだ。
﹁三室くんって普通の人だと思ってたのに。⋮⋮そういうの見えち
ゃう人なんだね﹂
だが俺のなにが気に入らなかったのか、天野さんは冷めた顔つき
でそう呟いた。
13
﹃覚醒 01﹄
﹁⋮⋮で? その後は何も無し?﹂
昨日買い物に付き合ってくれた﹃友人﹄、牧野健太郎が呆れたよ
うに声をあげた。
俺は購買のパンを齧り唸り声を上げるしか出来ない。
﹁普通さ、そういう時は﹃これからお茶しませんか?﹄とか言わな
い?﹂
﹁すでにお茶してたし﹂
﹁じゃあ、﹃今度どこかで会いませんか?﹄とか﹂
﹁いや、だって学校で会うだろう?﹂
まあそういう誘い文句を考えなかった訳じゃない。だがその場の
雰囲気がそうさせなかったのだ。
近寄り難いというか、拒絶されたように感じてしまったのだ。
先ほど昼飯を買いに行く途中に廊下ですれ違ったんだが、視界に
入ってなかったかのように振舞われた。
俺が会釈したにもかかわらず⋮⋮だ。
﹁なんか、彼女を傷つけるような事をしちゃったとか?﹂
一番考えたくない可能性を口にする牧野。
真摯に考えてくれているのかと思いきや、ちょっと半笑いなのが
ムカつく所だ。
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﹁なんかやっちゃったかな∼﹂
頭を抱え込んで机に突っ伏した。
身に覚えあんまり無いのだが、顔が気に入らないとか、声がキラ
イとか言われるとどうしようもない。
﹁話せただけでも奇跡みたいなモンだ、気にするな﹂
パンの空き袋を丸めて、ゴミ箱へ放り込む牧野。
奇跡は起こらないから奇跡っていうのだ。それにその言葉、あん
まりメンタルケアになってない。
﹁今後の為にダメな点だけは知りたい﹂
後ろ向きなのか前向きなのか分からないが、同じミスを繰り返さ
ないのが賢く生きる秘訣だ。
ふと窓から中庭を眺め、語らう女子の中に天野さんの姿を発見し
た。
学食で食事をして、教室に戻らずに中庭で友達と語らっているよ
うだ。
俺の向く先に気が付いたのか、牧野も身を乗り出して中庭を見下
ろした。
﹁天野さんの友達ってレベル高いよな﹂
確かに他の友人達も粒ぞろいの美少女だ。
クラスにいればアイドル間違い無し。学年でも上位に食い込む美
少女ばかりだ。
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﹁類友⋮⋮って奴か﹂
輪の中でにこやかに話をしている天野さん。やっぱりカワイイな
ぁ。
他の子に目を奪われる事無く、俺の視線は天野さんに釘付けにな
ってしまう。
﹁しかし、俺が何したんだ?﹂
好みのタイプだけに、ショックが大きい。
まるで俺の呟きが聞こえたかのように、天野さんがこちらを見上
げた。
目が合った。
正直それだけでビビってしまう。
それでも俺は天野さんの視線から逃げることはなかった。
そして天野さんは何事も無かったかのように、再び友達との会話
を続けた。
﹁あぅ⋮⋮。俺もう死んでいい?﹂
﹁ああ、どうせ次は国語だ。許可する﹂
午後の授業もそっちのけで、放課後まで死んだように突っ伏した。
制服の袖が涙で濡れ、再び乾き始める頃には午後の授業が終わっ
ていた。 牧野は部活に向かう直前に、親指立てて元気づけてくれた。
﹁A組の奴から、天野さんの電話番号聞いてやるよ﹂
電話⋮⋮。電話かぁ。電話掛けて何を話せばよいのだろうか。
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正直そんな気分じゃない。
返答に困っている俺に対し、牧野は背中を思いっきり叩いた。
﹁未来の為に、ダメな点だけは知りたいんだろ?﹂
﹁お、おう﹂
うちの学校は割と辺鄙な場所に建っている。
学校の最寄駅まで10分ほど徒歩だが、この駅の乗客は学生がほ
とんど。
環境は抜群に良いのだが、暇をつぶす場所はほとんど無い。
俺の家はその駅から2駅先。電車に乗って10分もかからない。
電車と徒歩合わせて通学時間は30分程だ。
そういう事で考え事をする時間もなく、気が付くと地元の駅に着
いてしまった。
ぼんやりとして改札口を通り抜けたあたりで、後ろからポンと背
中を叩かれた。
﹁こんにちは﹂
振り返ると、長い黒髪⋮⋮少し長身が弱点と言われる女の子が立
っていた。
微笑む天野さんの顔を見て、不覚にも涙が出そうになった。
﹁あぅ⋮⋮、天野さん﹂
涙は出ようとするのだが、いきなりの展開すぎて言葉の方が出て
くれない。
やっとの思いで名前を口にするのが精一杯だった。
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﹁ちょっと話したい事があって、ここで待ち伏せしてたんですよ﹂
そう言うと天野さん、とびっきりの笑顔を見せてくれた。
俺はその笑顔に見とれてしまい、何もかもがどうでもよくなって
しまっていた。
けれど少し冷静になり、沸々と湧き上がる感情を抑えきれない。
﹁学校で無視されていたような気がするんですが!﹂
﹁あっ⋮いや⋮それは、恥ずかしいじゃない? 学校で話すのって﹂
ボソボソと口篭り、それに付け足すようにはにかんだ表情を見せ
た。
あ∼、くそ、もう許してしまっている。こういうのに弱い。
﹁⋮⋮あ! 話したい事ってなに?﹂
閑話休題。
謝られたり恐縮されたりするのは本意じゃないし、わざわざ待っ
ていてくれた本題が気になる。
天野さんはポンと柏手を打った。
そしてキョロキョロと辺りを気にして、昨日見せたような真剣な
表情になった。
﹁三室くん、﹃余計なモノ﹄見えてない?﹂
冗談だと思えない口調でそう言った。
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昨日のケーキ屋だか喫茶店だか分からない店は、﹁ベアトリーチ
ェ﹂という屋号だった。
女の子と喫茶店でお茶するなんて、生まれて初めての事だ、知ら
ずの内に手に汗を握っている。
向かいに座った天野さんは、メニューを見ず紅茶のケーキセット
を注文した。
相乗りしようかと思ったが、ケーキって気分じゃないのでホット
コーヒーだけを頼んだ。
﹁で⋮⋮さっきの話なんだけど、余計なモノって?﹂
何となく心当たりがあるんだが、言葉で確かめたくて聞き直した。
天野さんは眉を潜め言葉を探すように考え込んだ。そしてしばら
く無言が続いた。
どう切り出そうかと悩んでいるのだろう。そういう類の話だろう
から。
﹁幽霊とか﹃そういうモノ﹄の事だよね﹂
天野さんはコクリと頷いて俺を見つめ返した。
俺は子供の頃から暗い所が苦手だった。闇に潜むモノを知ってい
るから。
夜が怖かった。夜に闊歩する人じゃないモノを見ることが出来た
から。 幼稚園の頃、怖がっている俺に先生は教えてくれた。
﹁子供の時は感受性が豊かだから、なんでも無いモノがそう見えた
りするのよ﹂
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﹁かんじゅせい? よくわかんない﹂
﹁幽霊なんていないって思えば良いのよ。気のせいだって﹂
俺の頭を撫でて、先生が微笑んでくれたのを思い出した。
その頃の俺は意味も分からずに、先生の言う事だから正しい事だ
と思い込んだ。
﹁ふぅん⋮⋮、ありがとう、せんせい﹂
少しだけそう思い込むことで、怖いという気持ちは薄らいだ。
薄らぐと﹃そういうモノ﹄を見える回数が減っていった。
気を許すと一瞬だけ映る映像も、ちょっと霊感が強いと納得でき
た。
﹁本当は見えるモノなのに、見えると認識していないだけなんだよ
ね﹂
ケーキを一口頬張り、幸せそうな顔した天野さん。
その幸せそうな顔からは、想像も出来ないだろう淡々とした口調。
﹁例えば⋮⋮、そうね、タマさんの時みたいな﹂
人の姿を探している俺は、いつまで経ってもタマさんを見つける
事が出来ない。
元からタマさんを知っている天野さんは一目で判る。
単純に言ってしまうとそういう感じ。
美術で﹁だまし絵﹂を習ったことがあるが、アレに近い。
若い女性が斜め後ろを見ている絵、良く見ると右を見ている老婆
に見えたり。
20
だけど、一度違って見えると老婆にしか見えなくなる。
まるでスイッチが切り替わったように、老婆が見えてしまう。
けんき
ため息を一つ。天野さんが俺を見つめて、ボソリと呟いた。
﹁そういうの⋮⋮見鬼の才っていうのよ﹂
フォークをケーキ皿に置き、真剣な表情で俺の目を見続けている。
﹁ケーキおかわりお願いします∼ 種類はお任せで∼﹂
真剣な表情をしたと思ったら、いきなり追加オーダーかよ。
真面目な会話してくれるんじゃないのか?
﹁ケーキ食べ放題なんですよ﹂
あか
クスっと笑って、ポットの紅茶をカップに注いだ。
カップに注がれた紅茶の綺麗な紅を見つめていたが、ポンと手を
叩いて目を見開いた。
﹁そういえば自己紹介がまだでしたね。天野美咲です。﹃天野さん﹄
って言われるより、﹃美咲さん﹄とか﹃みさくちゃん﹄とか呼ばれ
るのが良いです。呼んでみてください﹂
﹁は?﹂
﹁いや、だから名前を⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
呼ぶまで待つつもりなんだろうか。
21
なんかちょっと期待めいた顔で、手をにぎにぎして待ってますよ
天野さん。
なんか嫌な汗出てきた。こう言うの脂汗って言うんだよな。
﹁美⋮⋮咲さん﹂
くぅ∼っ。なんか慣れない、こういうの。照れ臭くって死にそう
だ。
﹁みさくじゃないのか∼。ちょっと残念です﹂
横を向いて口を尖らせて、不貞腐れたような表情を見せた美咲さ
ん。そう呼ばれたかったのか?
まあ良い。今度は俺の番という事だろうか? なんか目で催促さ
みむろ
かおる
れているような気がする。
﹁三室 薫です。呼び方にはこだわりなしです﹂
美咲さんとは逆にこだわりなしを宣言してみる。
﹁じゃ、かおるくん? んー、略してカオるん? カオカオ? ⋮
⋮ちょっと違うな﹂
なんだかぶつぶつ言い始めた。
自分をみさくちゃんと呼んで欲しい感性の持ち主。やばい渾名を
付けられるのも困るって事で先手を打つ事にした。
﹁カオルでいいですよ?﹂
なんか、ちょっと納得していない美咲さん、再び横向いて口を尖
22
がらせている。
﹁まぁ、呼び名も決まったし話を続けましょうか。多少の疑問は後
でまとめて受け付けますからね﹂
美咲さんは話し始めた。
俺の持つ﹃見鬼の才﹄に、美咲さんは新たな認識を植えつけてし
まったと頭を下げた。
その表情はとてつもなく渋い顔で。なんだか良くない事を言われ
ているような気がする。
﹁これまでのカオるんは、ちょっと霊感の強い子だったんだけど、
私の光を見てしまいましたよね?﹂
なんか、いまカオるんって言われたような気がする。
だけど美咲さんの表情が気になって、ツッコミを入れる雰囲気で
はない。
なんかちょっとかわいそうな人を見るような⋮⋮、憐れみを湛え
た目で俺を見ている。
えにし
﹁光は普通の見鬼だけじゃ見えないのですが、私とお話しをしてギ
ターで共感を得た。私とカオるんの﹃縁﹄が繋がってしまったのだ
と思います﹂
やっぱりカオるんって言ってるよな。
聞き間違いじゃない。
﹁それってなにかマズいの?﹂
質問は溜めてと言われたが、もう我慢の限界だ。そろそろ吐き出
23
さないと、次の話が頭に入ってこない。
眉を顰めてかなり困った表情を見せる美咲さん。
﹁新たな﹃認識﹄が出来たという事は、これまで見えなかったモノ
が、より多く見えるという事です。これはかなり不味いですよ﹂
不味さのレベルを計りかねている俺。そんなに不味い事なんだろ
うか。
︱︱あれ?
見えなくて済んでいたものがより多く見える。って⋮⋮オイオイ、
そりゃ不味いだろ。
﹁ちなみに歌っている私ってどういう風に見えていましたか? 詳
しく言ってみてください﹂
昨日美咲さんが歌っている映像を思い出して見る。
天使の歌声がまだ耳に残ってる。
﹁タンポポの綿毛みたいな小さな光が、ゆっくりと美咲さんから出
てる感じ。わた雪のような儚い感じで、タマさん付近で消えてしま
ったような﹂
目を閉じて頭に浮かんだ映像を、そのまま口に出して伝えた。
﹁その後、そこらの雰囲気が清らかというか⋮⋮、お寺とか神社の
雰囲気みたいな感じで、しばらくの間そういうのが残ってた感じか
な﹂
それが昨日見た映像だった。
俺は出来るだけ克明に伝えて目を開けた。
24
目の前の美咲さんは少し驚いた表情を浮かべている。
﹁やっぱりそういうのも分かっちゃう人なんだね⋮⋮﹂
﹁タマさんにお願いして、ある場所を見回りして貰っていたの。タ
マさんは責任感強くて、深入りしすぎて怪我しちゃったの。だから
⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
言おうか言うまいか悩んだのだと思う。
ことだま
ちゆ
しばらくの間無言の時間が続き、美咲さんは口を開いた。
﹁私は歌に言霊を乗せて、タマさんの怪我を治癒したんです﹂
﹁言霊?﹂
そう聞くと、美咲さんはコクリと頷いた。
25
﹃覚醒 02﹄
﹁言葉には魂が宿っていて、人や物に強制したり。⋮⋮いい意味で
も悪い意味でも影響を与える。そういう力のことです﹂
チカラ
専門では無いんですけどねってサラっと言ってくれる美咲さん。
﹁私は生来の言霊使いじゃありませんので、歌に私の能力を乗せて
言霊の力をかりたんです﹂
でも、って区切りを入れて紅茶に口をつける美咲さん。
﹁問題は、私の力を光に見える事です。光が認識できるって事は、
それと同位の闇が見えるってことです。それは不味いです﹂
いまいち危機感が沸かない俺は、いま始めて聞く単語を羅列して
可能性を探っていた。
﹁美咲さんみたいな光を使える人がいるって事?闇の力も﹂
あてずっぽうで言ってみたが、割と的を射ていたようだ、
うつしよ
﹁前半は正解。闇の力は人間が行使できる力じゃありません。闇そ
のものの存在が現世には居るのですよ﹂
三つ目のケーキにフォークをブッ刺し、美咲さんは力説した。
いつのまに三つ目のケーキを頼んだのか、話よりそれの方が気に
なった。
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もりびと
﹁私の家系は、その土地を守護する守人という職を代々受け継いで
います﹂
三つ目のケーキを倒さないようにフォークで一口大に切り、口に
運ぶ美咲さん。
もりびと
﹁私の家系は﹃光﹄の能力を先天的持つ家系。それ以外特化した能
力も。私は修行中の身ですので親元を離れて、この地の守人として
勉強中なのです﹂
なんで、修行中なのに別離するかといいますとですね⋮⋮ってモ
ゴモゴ言いつつケーキを咀嚼する。
とりあえず、しゃべるの後回しで良いので、ゆっくり食ってくだ
さい。
﹁親は私より優れていますし、住む土地も清浄で、修行にならない
のですよ﹂
にっこり笑って紅茶を口にする美咲さん
完全に聞き役に徹して、黙っていないと話が進まん気がする。
﹁でも、こういった守護を生業とする家系も、今では数えるほどし
か存在しません﹂
俯いて話し始める。
﹁遺伝で受け継いだ能力が薄らいでしまうのか、血縁を作らず亡く
なってしまうのか⋮⋮﹂
窓の外を見ながら、頬づえをつく。
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﹁あと私の専門外ですが、別の系統での守護者も存在します﹂
﹁例えば精霊使いであるとか、陰陽師とか、日本固有の職の方たち
ですね﹂
﹁精霊使いとは、元素を司る精霊の加護のもと、その力を行使する
職なのですが﹂
さらに良く判らん世界に突入した。これは流石に横槍を入れない
とわかんなくなりそうだ。
﹁風を操ったり、土を操ったりするの?﹂
首を振り、専門外を強調しつつ口を開く
﹁風は物を運び、土は命を育み、水は恵みを与え、火は滅すると共
に浄化します﹂
教科書通りでわかんないかなぁって苦笑してみせた。
うん⋮⋮、まるでわからんです。
﹁守人の家系が少なくなって、土地の守護が行き届かなくなりまし
たって話しましたよね?﹂
俺は無言で頷く。
血が薄らぐとか、血縁がどうとか言っていたな。職を継いでくれ
る子がいないって事でもあるのだろう。
若い奴は安定した仕事に就きたがるからな。
28
﹁そうなると困りますよね﹂
俺はうなずく。
守護するって事は、土地の守り神みたいなもんだろ?
その守り神がいないと、良くない事が起こるんじゃないのか?
﹁そうならないように﹃政府﹄は、人材の発掘と育成を行っていま
す﹂
突然の方向性についていけず、呆然としてしまう俺。
政府って⋮⋮、この国の政府って事か?
議会で居眠りしてたり、汚職や失言で首になってるおっさん達。
あんな学習能力無い奴等が、そう言う事を考えつくのか? それ
がまず疑問だったりする。
﹁小学生の頃とか能力テストとか言って、○×延々と書かされたり、
隣の数と延々と足したりするテスト。何度かやっていると思います﹂
うん、確かに覚えがある。最後の方に時間が足りなくてイライラ
する奴ね。
こんな単純作業させて、なんの役に立つのかと疑問に思った覚え
がある。IQ計るとかなんとか。
﹁あのテストは細工されていて、見えないものが見えると別の答え
を書くようになってるんです﹂
新事実をあっさり言われてボーゼンとする俺。
フィルターとかかかってるのか?
もしかして数学の時に単純ミスして、計算間違いが多いのは⋮⋮。
それは違うか。
29
﹁何種類か内容に違いがあったと思いますけど、大体の能力の方向
性まで判るとか﹂
昔々に受けたテストの内容を思い出そうとする俺。
なんかテストを受けた覚えはあるんだけど、どんな問題だったっ
け?
﹁ダメですよ∼。思い出そうとしてもはっきり思い出せない様に﹃
呪﹄が掛かっていますから﹂
なんと! そういう隠匿もされているのか⋮⋮。
ぼんやりと受けた事しか思い出せない訳だ。一体どういう仕組み
になってるんだろうか。
﹁ちなみに! カオるん!﹂
ずいっ!っとこちらに顔を寄せてくる美咲さん、うはっ、アップ
だ。
ほのかに鼻をくすぐる、いい匂いも連れてきた。
﹁検査に引っかかってませんでした。テストを真面目に受けてませ
んね? 適当に書いたとかアリマセンか?﹂
ちと非難するジト目で睨んでる美咲さん。
こうして見ると表情豊かだなぁ。ころころと表情を変えて面白い。
﹁そういった事も調べられるの? 美咲さん⋮⋮﹂
﹁はい、パソコンで。 知り合いのIDでチョコチョコっと⋮⋮﹂
30
カバンの中からPCを取り出して起動させる。
この型のPCって軽くて頑丈で、ビジネス向けにピッタリとか言
われてる高級品だ。
うちの家のショップブランドとは作りも違うなぁ。
﹁この喫茶店、ホットスポットになってるからネット接続出来るん
ですよ﹂
SSDディスクで起動しているのか、すぐにOSが立ち上がる。
上がってきた画面を見て、驚きを隠せない。
﹁Windowsじゃないんですね? UNIX?﹂
表示されている画面がグラフィカルな画面ではなかった。黒の背
景に白文字のテキスト表示だった。
女の子がノートPCを持ち歩いているだけで感心してしまうのに、
UNIX使いと来たら希少種だ。
日本中を探してもそういないんじゃないかな。
﹁Windowsって好きじゃないんですよね。あうう。ちょっと
企業秘密なので、ログインする所見せられないけど﹂
といいつつ、キーを叩き始める。
かなりの高速で打ち込む美咲さん。俺の雨だれ打ちとは打鍵速度
が全然違う。むうぅ⋮⋮やりこんでる!って感じ。
Mimuro﹄で検索された後だった。
再び画面を見せてくれた時には、英文で県と市と俺の名前﹃Ka
oru
Not Foundとだけ表示されている。
再度ノートパソコンをひっくり返し、流れる動作で検索を始める
31
美咲さん。
|
|
|
Sec
st
strin
Red
Defender
Secret
|
Secret
Amano
そして再び見せてくれた画面には、さっきと違う表示が出ていた。
|
|
|
Choko
Misaki
ret
ring
と書かれていた。
、Chokoって?
Secretって秘密だし、秘密多いなぁ。Red
g
﹁最後のあたりの項目が良く判かんないな⋮⋮なんだろ﹂
ふふふ。と不敵な笑みを浮かべる美咲さん。
﹁個人の特性で能力を持つって言ったでしょ。後天的に使えるよう
になった能力も含めて書いてあるんだけど、赤い糸と長考です﹂
漠然と赤い糸と長考って言われてもな。
えにし
﹁運命の赤い糸とか聞いた事があるでしょ。アレみたいなものです﹂
ふふんと自慢する美咲さん。
﹁運命の赤い糸が見えるとか?﹂
ちょっと関心する俺。
﹁みたいなものって言いましたよね。物と物、人と物には縁があっ
てそれが見えたりするのですよ。例えばカオるんと家族とかカオる
んが大事にしている物とカオるんの間には﹃縁﹄が出来ていて、そ
32
れが赤い糸に見えるのです﹂
かなり自慢げな美咲さん。
﹁でも、それって護るとか浄化とかそういう方向性じゃないですよ
ね⋮⋮﹂
核心を突いてしまう俺、
突っ伏してしまう美咲さん。
﹁家族にはよく言われます。役立たずの能力だとか。失せもの探し
の能力だとか⋮⋮泣﹂
ちょっと気になったので、聞いて見る。
﹁俺と美咲さんにも縁の赤い糸って⋮つながってますか?﹂
後で考えると、とんでもない恥ずかしい事を聞いてしまったよう
な。
少し真顔でテーブルと俺を見る。
そしてにっこりと、
﹁ちゃんと繋がってますよ。まだできたての縁ですけど﹂
と言ってくれた。
﹁もう一つの長考ってなんですか?﹂
こういう事、根掘り葉掘り聞いていいものなのか判んないけど、
33
画面見せてくれたって事はOKって事だよな。
﹁よくぞ聞いてくれました!将棋とか囲碁って知ってますか?対局
の。よく朝のTVでやってますよね﹂
ちょっぴりマシンガントークの美咲さん。聞いて欲しかったんだ。
やっぱり。
﹁あれって交互に順番で打って行くんだけど。時たますごく長く考
える時があるのですが。それです﹂
マシンガン過ぎて良く判らんのですが。
﹁一秒で打っても1時間で打っても一手は一手なのですよ﹂
説明を始める美咲さん。ノリノリです。
﹁時間軸が同じ二人で一人が長考したい時って、人と同じ速度で考
えていたら長考にならないでしょ?だから早く速くはや︱︱︱く考
えるとね。相手の人より長く考える事になりますよね﹂
そ、それって頭の回転が速いって事じゃないですか?
﹁カオるん、右手にコーヒーのスプーン持っててね?﹂
右手に砂糖をかき回した時に使ったスプーンを持つ。
﹁右手見て﹂
右手にはケーキの刺さったフォークを持たされている。
34
かわりに美咲さんの右手には、コーヒーのスプーン。
﹁一口おすそ分け、ケーキ食べて!﹂
良く判らんままケーキを口にする俺。
﹁そういう能力なのです。コレはなかなか真似できません!﹂
これって間接キスって奴だよな⋮⋮と気が付く。
35
﹃覚醒 03﹄
﹁じゃあ、個人固有の能力ってのが、﹃長考﹄になるんだ?﹂
俺は先ほどの、スプーンの入れ替えを思い出し、物凄い能力なの
じゃないかと思い始めた。
けれど美咲さんは何気に渋い顔。そしてしょんぼりとした顔で、
力なく首を横に振った。
﹁じゃあ、赤⋮⋮いや、失せ物探しの方?﹂
こっくり頷く美咲さん。よっぽど赤い糸の能力に引け目を感じて
るんだろうな⋮⋮。
それはそれで便利そうな能力だと思うんだけれど。
﹁長考は、うちの家系に代々伝わる技の一つです。仙道由来の技だ
そうで、間合いを一瞬で縮めてたり回避したりする﹃縮地﹄と言う
技の一種です﹂
縮地ってのは聞いた事がある。俺が知ってるくらいだから、どこ
かのコミックスのネタだろうけど。
踏み込む足を覚られない、筋肉の動きを読まれない等の工夫は、
現在の武術でも応用されている。
中には筋肉を動かすより、倒れこむような動作が速い場合は、そ
れ移動に用いるのだとか。それほど﹃間合い﹄を制するのは格闘に
おいて有利に働くのだ。
﹁走馬灯ってご存知です? お盆の時に使用する回り灯籠の事です
が、今説明にしたいのは、事故とか遭うとよく見る記憶のフラッシ
36
ュバックの事です﹂
俺も一瞬お盆の灯籠を思い出した。あれはロウソクの炎の上昇気
流で中のファンが回るんだよな。
子供の時に珍しくて、分解して親に死ぬほど折檻食らった覚えが
ある。
美咲さんは俺の相槌を確認して、説明を続けた。
﹁本当は一瞬の間なのに、とても長い時間に過去の出来事を思い出
を見たりするのですが、一説には脳内にエンドルフィンが大量分泌
し、死や痛み、恐怖感を鈍化させる際に見るとか言われています﹂
ふむふむ。人間集中すると時間が短く感じれて、ボンヤリしてい
ると長く感じるようなものか?
脳内麻薬が作用すると、それが極端になるのかもしれないな。
﹁あくまでも仮説に過ぎませんが。そう言った場合だからこそ、脳
を﹃直面する現実﹄に対処するよう使えれば、助かる確率が上がる
と思いませんか? 長考はそういう能力なのです﹂
なるほど⋮⋮子供の時だっけか、自転車でド派手にコケて、ふっ
飛んだ時にそう言う風なフラッシュバックを見たことがある。
あの時は前カゴに刺していた傘が前輪に引っかかって、自転車が
急ブレーキかかったんだよな。
スネ
運転していた俺だけが、慣性の力に逆らえず前に吹っ飛んだ。い
まだに脛にはその時の怪我が残ってる。
その時は、ばあちゃんが手を振っていたな。⋮⋮ばあちゃんはま
だ死んで無いけど。
さっきのスプーンの件は手品じゃなくって、極々短い時間⋮⋮俺
が察知できない瞬間で入れ替えたと言う事か。
37
俺の思考の単位を一として、その間に美咲さんは何倍もの事を考
えて、体の各部位に対し命令を下すことが出来たと言う事か。
なんか凄い有効活用できそうなスキルだ。スカートめくりとか。
﹁話が横道にそれてしまいましたが、政府の⋮⋮って、先ほどの話
に戻ります﹂
不謹慎な思考を読まれたかのように、話が急展開した。
俺は咳払いを一つして、冷めたコーヒーに口をつけた。
﹁政府は有望な人材を開拓し、退魔士として活動させる事に成功し
ます。それが退魔士制度なのですが、発足後から今まで順調に稼働
したと言うわけではありません﹂
あまりよろしくない話なのか、美咲さんの顔つきもそれを思わせ
る渋い表情だ。
ここで新しい単語が出てきたな。﹃退魔士﹄か、美咲のさんの言
っていた、守護する人﹃守人﹄が家系の使命を粛々と受け継ぐ人だ
とすると、退魔士はそれ以外の突然変異的に能力を持った人の事か
もしれないな。
﹁本人にとって必要でない作業を従事させる場合、﹃強制﹄か﹃報
酬﹄、そのどちらかで作業させる事になりますよね﹂
まあそれは概ね同意。今通っている学校ってのも﹃半強制﹄みた
いなものだから。
学校で知識を蓄えておかないと、いい就職出来ないとか、脅され
て行っている様なものだ。
その場合の﹃報酬﹄ってのが微妙な所ではあるが⋮⋮。報酬が薄
いから強制に耐えられないとも言えるな。
38
﹁特殊な能力を駆使する場合、強制されて嫌々では能力をフルに行
使する事が出来ません。なぜなら非常にメンタルに依存するものだ
からです﹂
勉強を嫌々やっても身に付かないようなものだな。
やろうと思っていた勉強に手をつける前に、﹃勉強しなさい﹄な
んて言われると、途端にヤル気を失ってしまう。
でも﹃勉強しないでいいよ﹄と言われても、反作用は出にくいん
だよな。それが微妙。
﹁そうして、政府は闇に潜む魔物、悪霊の類に報奨金を付けるよう
になり、鎮霊に対し数十万から数百万、場合によってはそれ以上の
報酬が支払われる事となりました。そうなるとどうなるかわかりま
すか?﹂
じっとこちらを見る美咲さん。
ごめんなさい、わかりません。
﹁やりたい時に仕事をし、危険なリスクは背負わない。自分で作業
せず、人に作業させ自分は安全を約束された地位から報酬だけ手に
したいと思うようになります﹂
命や危険の対価として値を付けられた物だけに、それ以下値段で
は人は働かなくなる訳か。
命を賭けて戦うなんて、アニメの世界だけだし。
本当の所楽な仕事をして、高給を貰いたいなんて誰もが考えるこ
とだ。そしてそんな都合のいい職場なんて、ありゃしないのだが⋮
⋮。
実際にソレが可能なら、誰でも楽なほうに向かうだろ。
39
﹁そうして野に下った者、リスクを回避する為徒党を組む者、組織
を作る者が出てくるようになりました﹂
それが普通の考え方じゃないかな。
ストイックに自分をいじめて、他に奉仕したいと考える人は少な
い。
自分の命は一番価値があるものと思ってるものな。
﹁そうやって統制出来なくなり、予想していた効果を得れなくなっ
た政府は、新たな人員の補充を行いました⋮資質の開拓育成もいら
ない手っ取り早い補充を⋮⋮未知数の能力を持つ者でも、退魔でき
る者であれば積極的に登用しました﹂
ただし、最低限のルールを設ける事で⋮⋮とだけ美咲さんは付け
加えた。
ふむ⋮⋮。教育いらずの即戦力を求める。今の社会は﹃経験﹄が
モノを言う時代だが、先天的に能力の高い﹃優良人材﹄は、金を叩
いても採用するよな。
俺の好きなサッカー選手に当てはめると、高校選手権で頭角を現
した者と、ジュニアユースで腕を磨いた者。その二つに当てはなら
ない﹃ポッと出﹄だけどすげえ才能を持った奴。
そういう奴等は守人であり退魔士だとすると。今の例えは﹃海外
選手﹄のようなものか。ブラジルやアルゼンチンから即戦力を引っ
張ってくるような。
いや⋮⋮それは例えが良すぎるか。むしろスポーツ選手なら動け
るだろうと予測して、サッカー選手にさせるようなものか。
芽が出る可能性はあるかもしれないが、大抵は潰れてドロップア
ウトしてしまいそうな、ヤバイ青田買い。
40
﹁内部、外部を問わず、身の丈に合わない難易度の魔物に手を出さ
れて、せっかくの人材を失なうのは得策ではありませんから、討伐
者と討伐対象にAからFでランク付けをする事でその問題を緩和し
ようとしました。FよりEは討伐力、霊力、資質を評価されている
って順です。反対に対象もCよりBは難易度が上がる。そういった
尺度です﹂
ちょっと待て。いきなり話が複雑になってきたぞ。
ランクがA∼F。A>B>C>D>E>Fの順だよな?Aは敏腕
退魔士としてFは入門したての退魔士と仮定しよう。
ゲームのようにレベルいくらとか言われると分かりやすいかもし
れないけど、Aがやっと倒せるレベルの敵は、B以下は苦戦どころ
か死を意味するよな。
ルールでそう言った背伸びをさせないように禁じていると言う事
か。
﹁例えばCランクの退魔士が、運良くBのランク付けされている討
伐対象に対し、鎮霊、除霊、退魔を行ったとしても報酬は支払われ
ないと言ったルールを設けたのです﹂
それは決定的に都合がいいルールだよな。ゲームだと三段階くら
いレベルが上がる気持ちいい瞬間なのに。
お金と経験値が付かないなら、リスクを背負う意味がない。誰も
ルールを破ろうとしないだろう。
﹁実際、このルールに関しても重大な抜け穴がありますので完全に
統制出来ているとは言えませんが、ある程度の効果は上がっている
ようです﹂
⋮⋮抜け穴?
41
⋮⋮なるほど。複数人でユニットを組んだ場合の判断基準が曖昧
だよな。
レベルC、レベルB、レベルBの組み合わせだと仮定すると、ト
ータルで考えるとA以上の能力出せるとして、最上位のBの範囲の
狩りしか出来ない上に、報酬も3分割され少なくなる。
だがAがパーティメンバーになれば、その辺りなんでもアリにな
っちゃうのか。
もくろみ
AがリーダーでFを大量投入する人海戦術の無茶苦茶なパーティ
があれば、当初の目論見であるルールの効果はない訳だ。
﹁退魔士への登録ですが、討伐歴の無い者は研修受け、自己の能力
を判断され格付けされますが、未登録でも討伐歴のある者は、その
討伐対象を基準にランク付けされ登録可能です﹂
まあ、なにか判断できる材料さえあれば門戸は広く開いているっ
て事だな。
サッカー選手以外でもどんどん来いや的な市場なら、討伐してく
れて登録を望むものは宝のようなものだろう。
﹁今や、大間のマグロ漁船に乗るよりも手軽に短時間で一攫千金を
狙える職業。それが退魔士なのです﹂
なげかわしや⋮⋮よよよと泣き真似をする美咲さん。
その例えはどうかと思いますが⋮⋮。俺はそのスペシャル番組好
きですけどね
﹁て⋮⋮訳で、見鬼の才に磨きがかかってしまったカオるんは、す
でに退魔士になりうる存在と言えるのです﹂
びしっ!と俺の鼻先を指差し、美咲さんは言い放った。
42
俺?、俺がそんな殺伐とした世界で生きていくなんて想像できな
い。ぶっちゃけ無理だ。
﹁いや、無理だって⋮⋮対象が見えても、どうやって討伐していい
のか判んないし﹂
戸惑いながらも、今の感想を伝える俺。
だってあいつらバットで殴っても死にそうにないし、いやいや死
んでるし。
﹁そういうノウハウ情報が簡単に手に入るとしても? そういう能
力を引きだす道具もお金次第で手に入ります﹂
さらに追い込みをかける美咲さん。
ノウハウ本を書いてる奴も、楽して儲けたいタイプの奴なんだろ
うな。
能力を引き出すアイテムってのは、好奇心がそそられるが、破魔
札とか聖水とかそう言うものだろうか?
﹁⋮⋮⋮それでも、俺は出来ないと思う﹂
今思う正直な気持ちを美咲さんに伝える。
危険な世界に身を置いて、自分がその世界で生きていく。そんな
姿が頭に思い描くことが出来ない。
突飛すぎて考えられないのではなく、ありえないと感じるのだ。
﹁うん、それで良い﹂
満面の笑みで、美咲さんが言った。
ほぇ? スカウトされてたわけじゃないのか?
43
﹁逆に、乗り気だったり浮ついた気持ちで返事するようなら、封印
しなくちゃいけないと思ってた﹂
封印って⋮⋮。
﹁幼稚園の先生みたいに、気のせいですよ、感受性が豊かなだけで
すよ? って﹃言霊﹄を込めてね﹂
軽いウインクをする美咲さん。やっぱりウインク失敗し両目を閉
じてしまっています。
こういう内輪の情報を、俺なんかに気軽に話すのも、そういう奥
の手があるからなのか?
﹁本人にその意思が無かったとしても⋮⋮、遅かれ早かれ、政府や
民間の組織にカオるんの存在がばれてしまうと予想します。⋮⋮良
い様に利用されるのは目に見えてるし、一言忠告しておかないと、
こちらとしても寝覚め悪いでしょ?﹂
やんわりと表現を抑えて、現状を理解させてくれているようだ。
ある日俺は黒ずくめのMIBに肘を掴まれて、黒塗りのアメ車に
放りこまれて、今日から君がKだ。活躍を期待しているよとか言わ
れるのか?
マジで勘弁して欲しいのだが。
﹁酷い場合だと、家族を拉致されて脅された上に、消耗品の様に扱
われてしまう事だってあるんだから⋮﹂
なんだか想像したくない事をサラッと言ってのける。
うちの家族は俺より強いから、そっちをスカウトした方が良い様
44
な気がするが。
﹁やるやらないは別として、芽生えたてのその能力をコントロール
する事が必要だと思いますよ。修行しませんと、いけませんね﹂
修行⋮⋮ですが。滝に打たれたり、重い亀の甲羅を背負ったり?
﹁嫌だと言っても駄目そうな気がしますね﹂
美咲さんは、にっこり笑って、
﹁駄目ですね♪﹂と、ハートマークが付きそうな口調で言い放った。
俺の平穏な生活への選択肢は、もはや残されていない様だった。
45
﹃インターミッション﹄
家に帰りぼんやりTVを見つつ夕飯待ち。
机に置いた携帯のランプがピカピカと点灯し、牧野からメールの
到着を告げていた。
そういえば学校で別れ際に、美咲さんちの電話番号調べてくれる
< 電話番号入手。電話するならメールするぞ。
って言ってたよな。⋮⋮ご苦労様。
牧
努力に感謝しつつ、無駄な努力と思われないように、丁重にお断
< 君の親切には感謝する。持つべきものは友だな。電話は
りする事にした。
三
しないので必要ご無用∼。
< ∼。↑なにやら余裕だな。
速攻で返答が来た。
牧
ちっ、目ざといな。むう⋮⋮説明が難しい。嘘をつくのも嫌なも
< 美咲さんと話す機会が取れたので。電話は不要。
んだし。ズバッと書くか。
三
ブーン、ブーン。バイブレーション。
即、電話掛かってきた。行動早いな。
とりあえず無視してみる。
ブーン⋮⋮⋮ピタッ。諦めたか。
46
< 天野さんじゃなくって美咲さん? もしかして超有頂天?
再びメール。
牧
明日尋問するので、簡潔に纏めて置くように。
逃亡したら個人情報なんてクソ食らえな女子共に話しまくる。
逃げ道塞いできたな。しかしお話できる内容なんてほとんど無い
し。
< 尋問って大層な。ご勘弁。あと情報漏えいヤメテ。
色気のある話なんてしてないしな⋮⋮、期待されても困る。
三
< 無理。
とりあえず、降参してみる。
牧
うぁ、駄目なようだ。
しばらくこんなやり取りで夕食までの時間を費やす事となる。
47
﹃刀精 01﹄
夕食を食い終わり、見るとも無しにテレビを見ていた。
妹が頻繁にバラエティを中心にチャンネルを切り替えていて、落
ち着かない状態なのにもかかわらず、全然気にならない。
テレビを見ているようで、全然目に映っていないからだ。
光、能力、退魔士、闇。
次々に頭をかすめる言葉が、思考を纏めさせようとしない。
夕食の後片付けをしていた母が、台所からリビングに戻り、ため
息一つ付いてソファにどっかり腰掛けた。
﹁なぁ、母よ﹂
ちょっと改まって話するので、呼び方を変えてみる。
照れ臭さを隠す為でもあるのだが。
﹁んあ?なにさ、母って⋮⋮キモチワルイ﹂
ふっ、気持ち悪がられた。まあ良いさ。
﹁ハンカチ役に立ったわ﹂
見てもいないテレビの画面を見つつ言った。
こういう時素直な奴は、ちゃんと面と向かって話せるんだろうな。
俺には無理だ。
﹁ハンカチって、いつの話しとるんよ、この子は⋮⋮。まあええわ﹂
さして気にならないのか、話に乗ってくる事もなくテレビを見は
48
じめる母。
纏まらない思考の鍵、気になった事を聞いて見る。
﹁なぁ、うちの家系で霊感の強い人って居なかったっけ?﹂
何気ない風を装い、さりげなく。
ちょっと意外な台詞に驚いたのか何なのか、こちらを見てこうい
った。
﹁あんた、昔もそんな事聞いとったねぇ﹂
かなり昔に一度聞いた事があるな。﹃見える﹄事がかなり精神的
にキテた時。
小学校位だったかな。
﹁そん時さ、なんて言った? 俺覚えてないんだ⋮⋮﹂
マジで覚えてない。その他の記憶はそれほど薄れていないのに⋮
⋮。
まあそれくらい前の話だと納得して、俺の顔を心配そうに覗き込
む母に尋ねてみた。
﹁うちのおかあはん。信心深い人やったって、言ったと思うけどね﹂
食後にもかかわらず、テーブルの上にある茶請けのお菓子を手に
取る母。
母のおかあはんって事は、うちの家から20分くらいの場所に住
んでるおばあちゃんの事だ。
﹁そっか、ミサオばあちゃんか、隣町だしちょっと生きてるか見て
49
くるわ﹂
ソファから立ち上がり、自分の部屋から上着を引っ掛け外に出る。
そんな俺を気にする素振りも見せず、再び母と妹はテレビに目を
向けた。
﹁気ぃつけてな﹂
お愛想の言葉は投げかけられる。
もう4月も後半だというのに、夜はまだ冷える。
上着のポケットに手を突っ込み、背中を丸めて歩を進める。
20分ほどの距離だが、纏まらない考え事をしていたおかげで、
すぐに着いたように錯覚してしまった。
外見はわりと豪邸に見えるおばあちゃんの家。といっても門と生
垣がそうみせているだけで、実は普通の家だったりする。 古い家で、来客も勝手知ったる状態なのか、呼び鈴すら完備して
いない。
玄関の立て付けの悪い引き戸を開け、中を覗きこんだ。
﹁ばあちゃん、生きとるか∼? カオル。入るよ﹂
最小限の挨拶で勝手に玄関を上がる。
たしか、爺さん亡くなって⋮⋮、母の弟、叔父さんの家族と暮し
ているはずだが。
台所を確認して、居ないようなので居間に直行した。
叔父さん家族は不在なのか、ばあちゃん一人で居間にくつろいで
茶をすすっていた。
﹁なんだ、一人で茶してんのか。叔父さんは?﹂
50
ばあちゃん苦笑して簡潔に、
﹁家族サービス、たまには外食せんとな。あかんねんて﹂
そう言って急須にお湯を継ぎ足した。
うちのばあちゃん、母もそうだが関西弁丸出し。
母は割と気を使っていて、標準語風に話そうと努力しているよう
だが、ばあちゃんに至ってはその修正も無理なのだろう。
﹁なんや、かおる。珍しいやないか。一人か?﹂
ばあちゃんの差し向かいの場所ちゃぶ台越し。避けてあった座布
団を敷いて座る。
﹁ああ⋮⋮、ちょっと聞きたい事があって﹂
割とあらたまってさっきの話を切り出した。
﹁霊感いうてもなぁ、難しい事言われてもわからんよ﹂
あっさりおばあちゃんは否定した。
﹁信心深い、いうてもわたしらの年の人間は。そんなもんやろし﹂
確かに。そう言われるとそうだ。今の世代の方が、おばあちゃん
ちから
の世代からすると、おかしいのかも知れない。
美咲さんの家系が能力を引き継ぐって言っていたものだから、も
しかすると、うちの家系もそういうのがあるのかと、思ってみたの
だが。
51
うつ
﹁そっか。俺子供の頃幽霊見える言うてな、怖がっとったからな。
そういう人居るんかなってきになったんや﹂
関西弁恐るべし。短時間の会話で、こっちも関西弁が感染ってし
まった。
﹁そやな、子供の時爺ちゃんが、かおるの為に言うて用意したお守
り。﹃怖い﹄言うて放ってもうたもんな﹂
なんか昔を思い出して苦笑してるばあちゃん。
﹁お守り? そんなん貰ったけ? 覚えてへんわ﹂
マジで覚えてないな。
お守りって言ったらカバンにつける小物みたいな物しか思い浮か
ばない。
﹁なんや、覚えてへんのかいな。えらい怖がっとったから覚えてそ
うやのにな﹂
そう言うと、おばあちゃん立ち上がって部屋を出て行く。
しばらく経って戻ってきたおばあちゃんが持ってきたのは、ふく
さだかなんだか判らん布に包まれた物。
﹁守り刀言うてな。物騒に見えるけど魔除けになんねんで?﹂
袋の中から取り出したのは、漆塗りで金の装飾を施した鞘に収め
られている刀。
全体の長さも40cmくらいしかないが、長さの割に幅があるよ
うに見える。
52
﹁なんやら、藤原の何某言うてな⋮⋮刀匠が打った日本刀を加工し
て作ったもんらしいよ﹂
爺さんが自慢げに言うとったわ、と付け足した。
漆で綺麗に装飾されているが、以前の俺が怖がっていたのが今な
ら良く判る。
美咲さんの言っていた、闇の雰囲気がする。微妙に黒くくすんで
見える。
﹁ばあちゃん、コレ。なんか曰く付きの刀とちがうんか?﹂
悟られないように、笑いながら聞いて見る。もちろん顔はちゃん
と笑えているか良く判らんのだが。
﹁元が真身の日本刀やったらしいし、錆身の根元を諦めて切っ先だ
けで打ち直したらしいし。一人や二人斬っとるかもしれんな﹂
ちょ、それを守り刀ってどうなんだ?
﹁でもな、これうちに来てから10年になるけど、なんもないで?﹂
確かに。曰く付きだったら、そういう影響も出てしかりなのかも
しれん。
現にばあちゃん、年の割に元気だしな。爺さん死んでるのが⋮⋮
⋮ちと気になるが。
ふと、美咲さんの顔を思い浮かべた。美咲さんなら本職なんだか
ら、一目瞭然なんじゃないか? そういう鑑定をしてもらっても良
いかも知れない。
53
﹁ばあちゃん。いまさらだけど、これ貰っていいか?﹂
一度いらないと言った物なんだけど。
するとばあちゃん、
﹁なに言うてんのや。これはあんたのや。しょうもない事気ぃつか
ってんと貰ろとき﹂
怒ってるんだかなんだかわかんない口調でキツク言った。
﹁ちゃんとあんたを護るとええな﹂
そう言って刀袋の紐を結びなおし、仕舞って手渡してくれた。
これもな、って手渡してくれた古い封筒。
中には﹁銃砲刀剣類登録証﹂と俺の名が書かれた許可書が入って
いた。
﹁普通の守り刀には許可書いらんのやけど、元が元だけに勝手に爺
さん登録しとったんや﹂
なにかその心遣いで胸が熱くなった。
54
﹃刀精 01﹄︵後書き︶
守り刀に所持許可書要らなかったと思います。美術品として価値の
ある物にのみだったと。
そういう﹃芸術品﹄を所持する許可だったと思います。調査不足な
り。
55
﹃刀精 02﹄
暇していたばあちゃんとの会話に花が咲いてしまい、帰る時間が
遅くなってしまった。
普段の俺ならば風呂に入って、寝ようか寝まいか悩む位の時間帯。
でもなんか気が晴れたというかなんと言うか。
美咲さんとの話のネタが出来て、その他の煩わしい事を考えなく
なったのかも。
結局、明日何を話すのか考えていたのかな。
なんかそれくらいのモンなんだって思えば、軽い気持ちになれる。
足取り軽く、背後の街灯から照らしだされる自分の影を追いかけ
て小走りになった。
だけど。
ふと、気が付いてしまった。
影が二本、俺の目の前に伸びている事を。
俺の影を追いかけるように、後ろから伸びる短い影。
誰の足音もしないのに。
気配だけで判る、﹃それ﹄がいる事を。
56
俺のすぐ後ろに居る。
体中が総毛立った。
見てはいけないのに、振り返ってはいけないのに。
俺は振り返ってしまった。
何も無い空間に伸びる影。俺との距離2m程。
﹁そこにいる﹂そう思った時実体が見えた。
四足の黒い影。犬にしてはやけに大きい。
目だけが暗闇の中で光っている。
暗闇でかたどった魔物の姿。
俺は一歩、二歩と後ずさりし、三歩目で逃げ出そうとした時﹃そ
れ﹄は襲い掛かってきた。
反転の時足がもつれ転んだ俺は、運良く﹃奴﹄の初撃を避ける事
が出来た。
ただ、物の数秒の延命をしただけだったが酷く幸運のように思え
た。
57
くう
だがしかし、取って返した次の攻撃を避ける術が無い。
﹃奴﹄の光る目は俺に向かう跳躍を終了し空へ舞い上がった。
もう駄目だと目を閉じた。その時走馬灯のように記憶が呼び覚ま
される。
⋮⋮⋮⋮
﹁一説には脳内にエンドルフィンが大量分泌、死や痛み、恐怖感を
鈍化させる際に見るとか言われています。あくまでも仮説に過ぎま
せんが。そう言った場合だからこそ脳を﹃現実﹄に対処するよう使
えれば助かる確率が上がると思いませんか?﹂
⋮⋮⋮⋮
力説する美咲さんの顔。
死にたくねぇ。
かっと目を開く。
生きたい。死にたくない。生きろ、生きろ。
何千分の一秒の世界。コマ落としで時の刻みが止まる。
考えろ頭!
動け俺の腕!
動け、動け、動け!
俺は手に持った守り刀の紐を引きちぎり、勢いで飛び出した刀と
鞘を両手で引き別けた。
﹁待ってました∼ チャッキーン♪﹂
鞘の中から飛び出したのは抜き身の刀身、月夜に照らされた蒼の
刃紋。
引き分ける動作の延長で、魔物を切りつける。
58
刀身と共に飛び出したモノは、空中で一回転し刀を握る俺の手に
座った。5cm大の女の子。
例えるならピンキー何某って人形みたいな大きさの子。
﹁いっただっきま∼す﹂
斬りつける刀身に吸いこまれるように消える影。
斬りつける衝撃、魔物が衝突する衝撃は物凄い勢いで、腕と肩に
反動が返ってくる。
だがそれも最初の接触だけ、あとは手ごたえがなくなったように
霧散した。
しばし呆然とし、抜いた刀と手に腰掛ける女の子を、眺めるしか
出来なかった。
﹁ごちそうさま♪﹂
ピンキーはそう言って、俺にお辞儀した。
59
﹃刀精 03﹄
とも
自宅の俺の部屋。部屋の明かりをつけず、机に座り机のライトだ
け灯す。
引きちぎった紐。慌てて結びなおしたので堅結びになっているそ
れを解く。
漆塗りの黒に金の飾りを施した守り刀を見る。
握りを含めて長さ40cmほど。
柄を持って鞘を引き抜く。
﹁チャッキ∼ン♪﹂
やっぱり出た。頭を抱えたくなるが手が塞がっている。無理だ。
刀の中から飛び出したのは5cm大の女の子。空中で一回転して
柄を持っている俺の手にしがみつく。
﹁着地失敗﹂
無言で刀を鞘に収める。
女の子は霧散して消えた⋮⋮。
再び引き抜く
﹁チャッ⋮⋮﹂
最終動作が終わらないうちに素早く戻す。
抜く。収める。抜く。収める。
チャッチャ言っていてリズムマシンみたいで面白くなってきたぞ。
60
部屋を出て冷蔵庫から冷えたコーラを持ってきた。
プルステイの蓋を開け、一口二口と飲む。
﹁ぷはぁ、うめえ。そして落ち着いた﹂
誰も居ない部屋で独り言を言う俺。かなり痛い光景だろう。
コーラを飲んで人心地付いた。
覚悟を決めて再び鞘から引き抜く。
ためら
﹁⋮⋮チャッキ∼ン?﹂
ちょっと躊躇いがあったように思うが、同じように俺の手に乗っ
た。
なんかキョロキョロしてる。
見上げる。
俺と目が合う。
﹁なぁチャッキ∼ン♪って何?﹂
率直に疑問を口にする俺。なんか順序が違うような気がするが、
気にしない。
﹁つ⋮⋮鍔鳴りの音じゃ﹂
俺の手に座って脚をブーラブラしてる女の子。縮尺さえ気にしな
ければ見た目10歳位に見える。
﹁鍔って⋮⋮、この刀鍔ついてないじゃん﹂
61
あいくち
守り刀のフォルムはやくざ映画のドス。それの短い様な物だ。
見た目に装飾が施されているが、時代劇でいうと匕首みたいな感
じのものだから。
﹁み⋮⋮短くなる前は付いておったのじゃ﹂
ちょっと頬を赤らめて口を尖らす女の子。拗ねてるのか?
﹁よし! チャッキ∼ンは判った。鍔鳴りという事で納得しよう﹂
うんうんとうなずく俺。
こちらを見て、チョット嬉しそうな女の子。
﹁お前の名前はなんていうんだ?﹂
まずこちらを始めに聞くべきだったか? 俺はあの効果音の方が
気になったんだ。
﹁ふ、河内守藤原国助ニ尺三寸⋮⋮だったのだが⋮⋮今は名前が無
い﹂
ちょっと落ち込んだ感じの女の子。
﹁名前が無いって?﹂
こちらをキッと睨みつつ
﹁銘が無いと申しておる。根元が落ちてしもうたからな﹂
62
と、チョット寂しげに言った。
そういや、ばあちゃん言ってたよな。切っ先からの部分で守り刀
を打ち直したって。
なにがし
なにがし
その際に銘を刻んだ場所が無くなったって事か。
﹁じゃ、ピンキー某でいいや﹂
軽く銘々してみる俺。
﹁ピンキーって何じゃ﹂
きょとーんとする女の子ピンキー某︵仮名︶。
説明が難しいので、パソコンでインターネット検索をかける。
それっぽい人形の画像を見せてみる。
1秒、2秒固まって、盛大な声を上げて泣き出した。
﹁嫌じゃ∼、そんな名前嫌じゃ∼﹂
手の上でゴロゴロ転がりだし、暴れるので机の上に落ちた。
再び手の上に乗ろうとするが、手が届かなくてピョンピョン飛び
跳ねている。
﹁もうちょっとマシな名前にしてくれんか? なにがしは却下した
い﹂
乗りやすいように机に手を近づけてやったら、よじ登って定位置
で座った。
﹁まあ、名前は後回しにしよう。即席で考えても良いのが浮かばん﹂
63
速攻で話を展開させる俺。
本題に入りたいし、正直もう寝たい。
﹁﹃いっただきま∼す♪﹄って言ってたよな、あん時? 何の事だ。
詳しく聞かせろ﹂
もうこれを聞いたら寝よう、と思っていた本題。目がしょぼしょ
われ
ぼする。眠い。
﹁我は、魔を贄とする魔除けの刀であるから? そのものが持つ邪
気を祓い吸収するのは当然じゃろ?﹂
なんでニ連発で疑問符なんだか。自信が無いのかよ⋮⋮。
われ
﹁ばあちゃん家で見た、闇の気配は?﹂
おっしゃ
﹁我の食い残しだ﹂
胸を張って仰る。
だが、なんとなく納得できたような気がする。
﹁じゃ、お前は悪い物じゃないんだな? それだけ確認出来たらい
いよ﹂
コックリ頷く女の子。肯定の意味だよな。
﹁判った。また、明日な﹂
鞘に収める俺。刀袋に入れて軽くヒモを縛る。
手に乗っていた女の子は消えて刀に戻ったようだ。
64
電気を消して寝よう。風呂は朝入るか。
われ
ベッドに半分ダイビングして寝ようとする。
﹁我は守り刀ゆえ、枕のそばに置いて寝ると良いぞ﹂
納刀状態でも喋るのかよ⋮⋮。
言われた通りやらないとうるさそうなので、枕に並べて寝ること
にする。
ここ数日色々あって、チョットした事では動じなくなったな。俺
65
﹃刀精 03﹄︵後書き︶
刀の銘ででてくる、河内守藤原国助2尺3寸ってのは、私が尊敬し
てやまない池波正太郎先生の著書﹃剣客商売﹄で主人公の秋山小兵
衛が持つ一振りの名を使わせていただきました。インターネットな
んかで現在の販売価格を調べてみたら1000万以上するようです。
@@
66
﹃インターミッション 02﹄
翌朝、牧野の執拗な尋問を避けるべく、遅刻ギリギリのラインで
登校した。
尋問開始をしようと俺の席に歩み寄る牧野だったが、続けざまに
来た先生を見て舌打ちし、自分の席に戻った。
朝のHR前の時間は安全が確保されたようだが、それもつかの間
の平穏に過ぎない。
どうせ、2時間目前には危険が迫っている。
論理武装でもしておかないといけないかな。って牧野の方にふと
目をやる。
牧野も横目でこちらを見ている。なにやら口パクで語りかけてい
< 幸せか?
るようだ。
牧
ちょっと蔑むような目で見る牧野。先を越されたと思って拗ねて
るのか?
冷静に考えると牧野健太郎って男だが、モテ無いわけが無いんだ
が。
タッパもあって、男の俺が見ても顔がいい。その上面倒見も人付
き合いもいい。
コク
このクラスの女子とも仲が良くて、クラスの女子にも人気が高い
と言う噂だ。
< ︵首を振る俺︶いやいや。
何度か放課後呼び出され、告られているのを知っている。
三
同じく口パクで心情を吐露する。
67
これは正直な意見。実際進展って言っても無いに等しい。
< 不幸せか?
俺の表情を読んだのか、牧野が路線変更してきた。
牧
って極端だな。あいつの中には0か1しかないのか。
俺は机に手のひらを置き、目の高さまで上げた。
< これくらい?
で、机と手のひらの間で6割の高さを示し。
三
口パクと首をかしげるポーズで返答する。
牧野は腕くみをして考えるポーズを数秒。
< 最初より減ってねえ?
こちらを見ながら、なにやら哀れそうな目を向ける。
牧
< 最初からこんな感じ
あいつの中の俺と美咲さんの出会いは、どういう評価なんだか。
三
なにやら納得したのか牧野。前を向き手をあごの下にやるポーズ
で考え事を表現している。
< 皆まで言うな。了解した。
こちらに向き直り手のひらを向け。
牧
と言うと正面を向き直った。
ほっ、なんとかわかってくれたようだ。
平和な授業が受けれそうだ⋮⋮。
68
< 進展あったら報告せよ。
なんて油断していたら、牧野がくるっとこちらを見た。
牧
ほ・う・こ・くってゆっくり喋るように強調したな。
差しさわりの無い範囲ならな。報告しても良いよ。
そのうち飽きるだろ、牧野も。
コックリコックリとうなずくポーズで肯定した。
69
﹃仲間 01﹄
午前の授業は真面目に受けれた。
家で勉強をしない俺は、できるだけ授業を真面目に受ける事を心
がけていた。
授業を真面目に聞いてると、ガツガツ勉強しなくても何とかなる
からな。
昼休み。4月の末頃になると、この時間には暖かい春の陽気が窓
から吹き込んでくる。
進級でのクラス替えし同級生も様変わり、お互い遠慮がちだった
のだが、最近は雑談に花が咲くようになった。
まあ、牧野とは一年からの腐れ縁なのでそういった遠慮は無いの
が助かるのだが。
﹁今日もパンか? 購買行くのなら付き合うよ﹂
お腹のすいたリアクションをしながら、牧野がそう言ってくる。
﹁ん、そうだな。目ぼしい物がある内に買いに行くか﹂
そう言って席を立ち、教室を出た時の事、
﹁カオルくん?﹂
B組の前の廊下で美咲さんに声を掛けられた。
学校ではちゃんと﹁カオル﹂って言ってくれるんだ。
この際最後に付いた?マークは、⋮⋮この際大目に見よう。
﹁美咲さん⋮⋮どうしたの?﹂
意外な人に声を掛けられ、戸惑いながら返事をする俺。
﹁あ⋮⋮いや、カオルくん? これから学食?﹂
なんだかモジモジしている美咲さん、学校で話すの恥ずかしいっ
てのは本当のようだ。
﹁いや、購買でパンでもって⋮⋮、思ってるけど?﹂
70
目ぼしいパンなかったら、学食でうどんでも食べようかと思って
るけど。
美咲さん、頬を赤らめかなり恥ずかしそうに。
﹁私、お友達とお弁当持ち寄って昼食してるのですが。ご一緒しま
せんか?﹂
え⋮⋮あ⋮⋮返答に困ってしまった俺。
﹁あ、いや⋮⋮そんな悪⋮⋮﹂
最後まで言わないうちに、牧野に肩をガッって捕まれた。イテぇ。
﹁ご一緒したいと申しております﹂
俺の意見など無視し、なぜか牧野が代返する。
﹁お友達の方もご一緒にどうですか?﹂
にっこり顔の美咲さん。
﹁ご一緒させていただきます﹂
即答する牧野。って俺の意見は?
﹁お二人分のお弁当も量として問題ありませんので⋮⋮﹂
茶道部室でお待ちしております∼。と言いいつ足早に立ち去る美
咲さん。
恥ずかしさの限界なんだろうか?
﹁面白そうなイベントだな。さ、茶道室? だっけ。行くか﹂
なんか悪そうな笑みを浮かべる牧野。
﹁茶道部室、ってココだよな﹂
一階の奥の奥。教室1.5個分くらいの部屋。
外から見た感じは普通の教室って感じなのだが、中に入ったら畳
敷きなんだろうかな?
﹁俺らから一番縁遠い部屋だよな。 一年の時も華麗にスルーして
たしな﹂
俺と同じような感想を言う牧野。
71
﹁ま、入ってみるか﹂
ちょっと尻込みしていた俺を、後押しするように言葉をかけた。
﹁おじゃまします⋮⋮﹂
教室の引き戸を半分開け、中を覗き込む俺と牧野。
部屋の戸付近は教室と同じ床材。かなり大きな玄関みたいな感じ
になっている。
30cmほどの浮き床の板間が縁側のようにあり、そこから少し
浮いた場所に広々と畳敷きの部屋が広がっている。
外からの見た目より広くない感じがするな。
中には美咲さんとお友達の3人が座布団の用意をしつつ、女の子
座りでお茶の用意をしていた。
まあ、お茶って言ってもポットのだけど。
﹁靴を脱がれて、どうぞ上がってくださいな﹂
こちらを気遣い声を掛けてくれる美咲さん。
その他3人もそれぞれ声は出さないものの、会釈をしてくれてい
る。
﹁おじゃまします﹂
おずおずと靴を脱ぎ、お邪魔する野郎二人。
まくら のえ
手馴れた手つきでお茶を勧めてくれる、美咲さんのお友達。
たしか美咲さんと同じA組の真倉乃江さん
ショートレイヤーボブでサイドは髪を長めに残した感じの髪型。
一見ボーイッシュな髪型だけど顔はそのイメージを払拭するする程
かわいらしい。
同級生の俺が言うのもなんだが、ちょっと幼顔な感じで妹っぽい。
座布団を用意してくれたのは、C組の山科由佳さん。
ナチュラルヘアな肩までのストレートで清潔そうなイメージ。
72
フレームのないメガネをかけていて、勉強できそうな感じ。ちょ
っと委員長とかやってそうな雰囲気。
メガネの奥の目がややつり目なのもそういうイメージに拍車をか
けている。
座った俺たちにお箸を手渡してくれたのは⋮⋮、この子は知らな
いな⋮⋮。
肌が白くて透けて見えそうってのがピッタリ来る肌。部屋の室温
に反応したのか少し赤い。
美咲さんと同じくロングのストレートなのだが、毛先を軽く処理
していてジャギーが入っているようだ。
美咲さんが和風美人だとすると、この子は洋風美人。目鼻立ちが
はっきりしていてそういうイメージを持ってしまうな。
俺の顔を見て気を使ってくれたのか、牧野が声を出して教えてく
れた。
﹁Cに転校してきた子だよね。宮之阪まりえさん?だっけ﹂
こういう気の効く所は好きだな。
まりえさん、ペコりって肯いて自分の席に戻る。
素っ気無いというより、美咲さんと同じように恥ずかしがってる
って感じだ。
そうこうしている内に、美咲さんが4段お重を広げていた。
一段目にはオニギリてんこもり。
二段目には菜の物、昆布巻き、小芋など和風なお弁当
三段目には魚、春野菜のてんぷらなどの焼き物、揚げ物
四段目もおかず、汁気を含んだ煮物、治部煮、魚の煮物など
なんとわなく判っただけ列挙してみたが、その他にも名前を知ら
ない料理が盛りだくさんだった。
﹁ふ⋮普段はこんなに用意しないんですよ!﹂
73
料理の量に圧倒されていた俺を見て、ちょっと怒ったような顔で
頬を赤らめる美咲さん。
だよね4人で食べたら大変な事になる⋮⋮そんな量だった。
﹁昨日お昼にお見かけしたら、お二人揃って窓辺にいらっしゃいま
したので⋮⋮。お誘いするならお二人分と思って用意してきたので
すよ﹂
なんてお気遣い。ありがとうございます。
﹁じゃ、いただきましょうか﹂
4人の美女と2人の野郎。一斉に合掌する。
リハーサルした訳じゃないのに、手を合わすタイミングピッタリ
だよ。
﹁いただきます!﹂
声もハモッてます。
74
﹃仲間 02﹄
﹃コホン﹄と一つ咳払いをし、美咲さんが話し始めた。
﹁食べ終わってから⋮⋮とは思いましたが、せっかくの昼食。面識
も無い者同士で食べてもおいしい物ではありません﹂
何を言い出すかと思えば⋮⋮美咲さん。
﹁という事で、自己紹介をお願いしようかと思います﹂
﹁箸を休めず、聞き流していただいても結構ですが、えー、出来れ
ばちゃんと聞いて欲しいですね﹂
自分の持つ箸をマイク替わりに喋る美咲さん。
﹁まずは私、天野美咲です。趣味は読書と音楽鑑賞?です。A組で
す﹂
音楽鑑賞?の﹃?﹄の部分がツボにハマって、ちょっと失笑して
しまった。
もちろん美咲さんに睨まれた。
マイク替わりの箸を﹁はい﹂なんてポーズで、手渡す素振りをす
まくら のえ
る美咲さん。
次は真倉乃江さんだ。
﹁ぇぇっ⋮⋮と﹂
まくら のえ
自分の箸をマイクにする真倉乃江さん。
﹁天野さんと同じクラスの真倉乃江です、乃江って呼んでいただけ
のえ
れば語呂も良いかと思います。趣味は園芸⋮⋮かな?﹂
真っ赤になりながらマイクを手渡す乃江さん。
75
伸びた手は俺の方に。
って、俺の番か∼。
完全に聞き手に回っていたので、なんも考えてない。
みむろかおる
だが! 箸をマイク代わりにする伝統を受け継ぎ話し始める。
﹁三室薫です。クラスはBです。趣味は∼、下手の横好きですが楽
器演奏です。呼び名は気軽に﹁カオル﹂って呼んで貰えると嬉しい
です﹂
﹃カオルって⋮⋮﹄あたりを喋っている時に、美咲さんに目をやっ
て心の中で抗議してみたが、気が付いてないフリされた。きっとワ
ザとやってるな。
伝統を牧野に引き継ぐべく、箸を持った手を牧野へ。
牧野はスクッと立ち上がり喋り始めた。
﹁牧野健太郎と申します。呼び名はケ∼ン♪ 以外でお願いします。
趣味は特に思い浮かびませんが、部活は合気道をやっております﹂
サクっと紹介を済ませる牧野。
ケーンってのは家で家族に呼ばれているからだそうな。
牧野も箸を持った手を隣の山科さんに向ける。
山科さんも空気を読んだようだ。手に持った箸をマイク替わりに
やましな ゆか
話始める。
﹁山科由佳言います。京都出身で、微妙に言葉変ですけど、気にな
さらず。趣味は絵を書く事。パステル画を今がんばってます。呼び
名は山科でも由佳でも呼びやすい方で呼んでいただければ﹂
山科さんは最後のたすきを宮之阪さんに手渡す。
﹁⋮⋮⋮﹂
76
顔を真っ赤にする宮之阪さん。あがり症なのかな。
﹁わ、わたしはミヤノサカ⋮⋮マリエ⋮⋮です。イギリスくらし、
長く、ニホン語⋮⋮語学でしか勉強していません。少しコトバ変で
す。けど。よろしくおねがいします﹂
真っ赤になったほっぺたを両手で押さえ、そのまま手で顔を覆っ
てしまった。
帰国子女って奴か。てか勉強しただけで良く喋れるな∼とか逆に
関心してしまう。
﹁じゃぁ、皆さん、よろしくお願いしますね﹂
美咲さんが、全員の顔を見渡しながらそう言った。
続けて美咲さん、
﹁私は﹁ノエ﹂、﹁ユカ﹂、﹁マリリン﹂って呼んでいます。これ
から牧野さんは﹁ケンタロウ﹂で、カオルくんは﹁カオるん﹂って
呼ぶ事にしますね﹂
!。宣言しましたね。美咲さん。しかもまりえちゃん﹁マリリン﹂
って⋮。
まりえちゃんこと﹁マリリン﹂とふと目が合ってしまう。
同じ扱いをされている者同士で、通じ合うものがあるのだろうか
⋮。
とかなんとか言いつつ、雑談交えての昼食時間は、あっという間
に時間が過ぎ去ってしまった。
77
﹃春霞﹄
放課後。俺は部活のある牧野と別れ、ある場所へ向かっていた。
昼休み、美咲さん達との別れ際に、
﹁放課後ここに来てください﹂とこっそり耳打ちされていた。
向かう場所は、茶道室。
そして、修行が始まるのだろうか?
何させられるんだろう⋮⋮。一抹の不安がよぎる。
一階の奥、人の通りもまばらな茶道室。
昼間は学食への人の流れがあるけど、放課後だとここは寂しげだ
な。
茶道室の引き戸を開け、中に入る。
﹁おじゃまします∼﹂
なぜか小声で挨拶する俺、何となく﹃秘密の⋮⋮﹄チックな小声
で。
予想に反して茶道室で待っていたのは、本日昼食を共にした女の
子達。
背筋を伸ばし正座で座りこちらを見ていた。
﹁来ましたね、カオるん﹂
美咲さんの声と共に、会釈をする3人。
﹁昼間はお友達として紹介しましたが、今は同業者として紹介いた
しますね﹂
そう言って、にっこり笑顔の美咲さん。って同業者?
﹁まずノエさんですが⋮⋮天野の家の、分家筋にあたる真倉の出で
す。分家といいましても﹃直系では無い﹄と言うだけで、能力に秀
でた者が数多く輩出されている家柄です﹂
78
そう説明してくれる美咲さん。
さま
会わせて深々と挨拶をする乃江さん。
なんか凛とした雰囲気だ。様になっているというかなんと言うか。
顔を上げて、乃江さんが説明を付け足した。
﹁とは言いましても、若輩者でして⋮⋮お嬢様がこちらに修行に出
られると聞き及び、せめて身の回りの世話等をさせていただこうと
参りました﹂
そう言って美咲さんをみるノエさん
﹁ノエと私はいとこで幼馴染なのだから、お嬢様とか言って欲しく
ないんだけど。なんかそう言ってイジメるのよね﹂
美咲さんはそう言って苦笑した。
﹁ユカさんは、母親の友人の娘さんです。母曰く、そのご友人は母
のライバルだったと聞き及んでおります。うちの母がそういう以上、
潜在能力の程は疑う余地はありません﹂
にっこり顔で紹介を続ける美咲さん。
山科さんは、慌ててフォローを入れる。
﹁いやや、おかあはんは強うおすけど⋮⋮うちは⋮⋮﹂
過大評価⋮⋮ですよ。と言って俯く山科さん。
﹁そう言えば言ってましたよね。光以外の属性もあるって。ユカさ
んは風の属性使いです﹂
精霊の守護をうけてるんですね∼。と説明してくれる美咲さん。
俺はたまらず横槍を入れる。
﹁風の属性使いって、風を吹かせたり、シュパッ! とかカマイタ
チ起こしたり?﹂
ちょっと期待を込めて言ってみる。
﹁いや⋮⋮﹃そういう﹄のは得意とちがうねん﹂
79
恐縮して俯いてしまう山科さん。ちと今の会話はまずかったか?
﹁最後にマリリンさんですが、彼女のは専門外なんですよね⋮⋮。
魔法?﹂
コックリ肯くマリリンこと宮之阪まりえさん。
ま、魔女っ子か∼。
﹁べんきょう⋮⋮中⋮⋮です﹂
あちら
たどたどしい日本語で気持ちを伝える。
﹁おばあさまが英国の方だそうで、マリリンはクオーターになるの
かな。魔法学を学ぶ者なら誰でも名前は知ってる! くらい有名な
方だそうです﹂
﹁以上です、皆さんにはカオるんの事を大体伝えてあります﹂
﹁今後、この子達も含めて私も。カオるんも能力のコントロールす
る術を身に付けてください﹂
そう言って紹介を終えた美咲さん。
修行か? あ、修行に入る前に⋮⋮⋮
﹁美咲さんに見て欲しいものがあるんだけど、その前に昨日あった
話を聞いてくれるかな?﹂
おばあちゃんの家での事、帰り道の事件の事を説明した。
﹁迎い犬、送り犬じゃないかしら?﹂
乃江さんはそう言って説明を始めた。
﹁昔話ですが、夜道を歩く人を護る様に歩いてくれる犬を﹃迎い犬﹄
と言いまして、逆に帰って行く人を襲う犬を﹃送り犬﹄と言って襲
い掛かると⋮⋮﹂
80
あごに人差し指を当てて考えるように説明してくれた。
﹁確か、転ぶと食い殺されるんですよ﹂
そう付け足してくれた。
確かにあの時コケたな。
﹁転んでも転んだと思わさないで、﹃よっこらしょ﹄とか言うと襲
わないんだよね﹂
美咲さんも合いの手を打つ。
有名なのか??その犬。
﹁お見送り、もういいよ。って言うと消えるって伝承もあるよね﹂
山科さんがそう付け足す。
宮之阪さんだけは、きょとーんとした表情で聞き入っている。
なんか、やっぱり宮之阪さんとは気が合いそうだ⋮⋮。
﹁にしても、カオるん。退魔士デビューだね。登録する? する?﹂
何気に、退魔士登録を薦める美咲さん。
すると乃江さんがカバンからメモ帳を取り出して
﹁この地区の討伐対象に入ってませんけど。対象レベルEですし、
過去の判例で言うと50万円以上はお支払いされると思いますよ﹂
なんて天文学的な金額をサラッと言った。
なんかグラッと来たな。
﹁過去に遡っては、30日まで有効になるからな∼。今やったら研
修なしでE登録できるえ﹂
山科さんも追い討ちをかけてくる。
﹁ちょっと考えさせてください﹂
欲望を押し殺し踏ん張って見せた。
次に守り刀。カバンから刀袋を取り出し美咲さんに手渡した。
紐を解き⋮⋮⋮中から漆の刀を取り出す。
﹁ふむ⋮⋮﹂と、なにやら神妙に扱う美咲さん。
鞘と柄を持ち、目の前で抜刀した。
81
﹁⋮⋮﹂
あれ? 出ない。
他の三人も、抜き身の刀身を身を乗り出して見入る。
﹁やっぱり⋮﹂と美咲さん。
﹁抜いてみてください﹂
そう言って刀を鞘に納めて俺に手渡した。
受け取った俺は、昨日散々やった抜刀をやって見た。
﹁ちゃっき∼ん﹂
出た。ピンキー某︵仮名︶。
空中で一回転し、俺の手に乗った。
﹁獲物はどこぞ∼﹂
キョロキョロ周りを見渡すピンキー某︵仮名︶。
﹁⋮⋮﹂
俺の手に乗ったモノを四つんばいになって見入る4人。
﹁か⋮⋮﹂
﹁かわいい∼﹂﹁かわいいですね∼﹂﹁⋮⋮きゅん﹂﹁うはぁ、か
わいいなぁこの子﹂
4人のそれぞれの叫び。
女性のキャーキャー声は何となく馴染めんな⋮⋮。
﹁カタナカミですね。または刀精﹂
博識の乃江さんが教えてくれた。博識ってのは俺の感想。なんで
も即答なんだもの。
82
﹁刀匠が刀を打つ時って、普通に刀を作る以外に、地鎮、鎮霊、守
護を目的として打つ場合があるんですよ﹂
人差し指をあごに当てて教えてくれる乃江さん。いや乃江先生。
﹁刀がご神体の神社もありますからね﹂
手に乗るピンキー某︵仮名︶を見る。
ピンキー某︵仮名︶も俺を見上げる。
﹁神様?﹂
こくこくと肯くピンキー某︵仮名︶
嘘クセー。
美咲さんに名前をつけて貰おうと思っていたのだが、候補が四人
いるので四人に聞いてみる。
﹁無銘らしくて、名前が無いそうなんですよ。名前考えてやっても
らえませんか?﹂
そういって、四人に頼んでみる。
﹁バムセ﹂
手を上げて言うマリリンこと宮之阪さん。珍しく積極的。
ちいさいロッタちゃん︵あっち方面の童話︶に出てくる豚さんぬ
いぐるみの名前だな。
俺の手に乗る神様︵仮定︶に聞いて見る。
首を傾げてる⋮⋮。お気に召さなかったか。
そもそも横文字に弱いんじゃないか? こいつ。
なんか宮之阪さん、ションボリしちゃいました。
﹁ラブラブ﹂と提案するのは山科さん。
冒険コロボックル︵1973年YTV放送︶に出てきたコロボッ
クルの女の子らしい。
あんた何時の生まれだよ⋮⋮。
当然神様︵仮定︶は首を振る。
83
﹁みふゆ﹂と提案したのは乃江さん。
某小説の女剣士の名前らしい。
話すら聞いていない神様︵仮定︶はちょっと眠たくなってウトウ
トしている。
駄目っぽい。
期待を込めて美咲さんを見る俺達。
視線を感じて、戸惑う美咲さん。
立ち隠すらむ
山の
﹁そうですね⋮⋮急がされても考えは浮かびませんし、今の気持ち
を歌にしてみましょうか⋮⋮﹂
え⋮⋮、歌ですか?
春霞
ギター無しの歌なのだろうか。とちょっと期待。
とめて折りつる
すぅーっと深い吸気⋮⋮。
﹁誰しかも
桜を﹂
と⋮⋮短歌か。
﹁一体誰が探してきたのでしょうね? 春の霞が隠していた山の桜
なのに⋮⋮って、現代風だとこういう直訳になりますね﹂
﹁逆の意味だと春の霞で隠されていた筈の山の桜なのに、今なぜこ
こにあるのか? って意味になります﹂
﹁山桜をその方に見立てて詠んでみたのですが、それほど珍しい刀
であるという事ですね﹂
手に乗った神様も少し関心した様子。
﹁古今の和歌をたしなむ婦女子がまだいたとはの﹂
きのつらゆき
そう言って美咲さんを見る神様︵仮定︶
﹁紀貫之です﹂
にっこりで説明する美咲さん。
﹁よし、決めた、ヌシが決めてはくれぬか?﹂
そう言って、美咲さんを指差す神様︵仮定︶
84
かなた
美咲さんのネーミングセンスで痛い目にあっている俺と宮之阪さ
かなた
んは、共通の思いなのかオロオロしてしまう。
﹁そうですね、彼方っていかがでしょう?﹂
カナタ
にっこり微笑む美咲さん。春霞の先に咲く桜、見果てぬ﹃彼方﹄
ってか? 詩人だな。
同じく得心いったのか、うんうん肯く神様彼方。
﹁カタナだけにカナタがよろしいのじゃないかと﹂
手をポンと打ってにっこり笑う美咲さん。
俺と宮之阪さんは盛大にコケた。
85
﹃春霞﹄︵後書き︶
この名前付けイベント。天野以外の3人の提案する名前はググって
みるとHITすると思います。
バムセ、ラブラブ、みふゆ︽三冬︾です。
個人的には、山科さんのラブラブが私のイメージに一番近い感じが
します。
実放送見たわけじゃないんですけど。
最近は動画配信ってすばらしい文化があり、過去の遺産を見ること
が出来て便利ですよね。
対する人間キャラの名前付けなのですが、ほとんどの場合電車で考
えちゃったりしてます。
ドアの横の路線図見るのが好きで駅名だとかから安易に。
同じ電鉄に乗っている方にはわかっちゃうかもしれませんね。
86
﹃ファウスト﹄
﹁なんで、美咲さんが刀を抜いた時出なかったんでしょうね﹂
ふと、疑問を口にする俺。
同時に刀精カナタを見つめてみる。
なぜか照れたように、目をそらすカナタ。なんで照れる?
﹁なにか、契約のような物で結ばれていませんか?﹂
人差し指をあごにやり考える仕草で、博識乃江先生が言った。
﹁契約ですか? ファウストとメフィスト・フェレスを想像します
ね⋮⋮。覚えが無いです⋮⋮﹂
考え込む俺。
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁銃砲刀剣類登録証か?﹂
コックリ肯くカナタ。
﹁まぁ﹂
ポンと手を叩く美咲さん。
﹁第三者に間に入ってもらって呪を結ぶなんて、なんてクソ度胸な
んや⋮⋮﹂
あきれる山科さん。
えっ、なに、まずいの?それ。
﹁間に入った人が亡くなったら、縁切れへんで? 今後一切﹂
そう言ってため息を付くメガネっ子山科。
俺とカナタと教育委員会の人?
刀剣所持は地元の教育委員会の申請制なのだ。
﹁爺ちゃんが俺の名前で登録したとしても、だめなのか?﹂
不安になった俺は、周りを見渡し聞いて見る
﹁あんたの爺さん、教育委員会の登録者、刀のプロフィールを書面
87
化した鑑定士も、やで﹂
﹁爺さん亡くなってるんだが?﹂
周りを見渡す俺。
ため息を付いて首を横に振るメガネっ子山科。
﹁手遅れ? って事ですか?﹂
こっくりこっくりと肯くカナタ。
﹁まぁ⋮⋮、なんや。かわいいから。ええやん?﹂
他人事だと思って、気楽に答える山科さん。額には、なぜか汗。
﹁ファウスト⋮⋮は⋮⋮契約⋮⋮最後⋮⋮﹂
ぼそぼそと話すマリリン、宮之阪さん。
﹁たましいをうばわれて⋮⋮、肉体は四散⋮⋮﹂
不吉な事を言うなって。
﹁まあまあ、そういった話はこっちに置いといて、本題に入りまし
ょう﹂
話を即座に展開させる美咲さん。
俺にとって重要な話のような気がするのだが、置いておかれてし
まった。
﹁とりあえずカオるんは、見える見えないをオン・オフ出来るよう
になりませんとね﹂
穏やかな口調で諭してくれる美咲さん。
確かにオフ出来ると良いかもしれんが、それほど大事なものなの
か?。
困惑している俺の表情を読み取ったのか乃江さん、たとえ話で説
明をしてくれた。
﹁例えばカオルさん、電車に乗っている時に﹃や﹄の付く自由業の
方を見ますか?﹂
﹃や﹄の付く自由業ってば、893さんの事か? そんなもんマジ
88
マジ見たらトラブルに巻き込まれるし。
﹁同じく、電車で妙齢の女性が居たとして、マジマジと見ますか?﹂
そんな事をしたら、変な目で見られてる∼って警戒されるよな。
イケメンだったらなんかドラマチックな出会いがあるかも知れん
けど。
﹁まぁ、そういう気遣いって﹃人﹄にだけじゃなくって、﹃そうい
った﹄ものに対しても気遣わないといけませんね∼﹂
美咲さんはそう言って乃江さんの例えを締めくくった。
﹁そういうのは、どうやって鍛えたら良いんでしょうか?﹂
判りやすく例えてもらって、無用のトラブルを避けるのは良い事
だと理解する俺。聞いてみた。
﹁前にメンタルに大きく依存する能力と言ったかも知れませんが、
強制されても身に付きません﹂
ニッコリ笑顔の美咲さん。
﹁ここに色んな能力者が居ますので、お付き合いしてみては如何で
しょうか?﹂
とんでもない事を言い放った。
﹁⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮﹂
美咲さん以外の三人と俺、無言で固まる上、なんか横目で俺を見
てる。
え? いまナンテオッシャイマシタ?
一人だけ皆の素振りを不審がり、理解できずに﹁???﹂なんて
頭にクエッションマークが出てそうな美咲さん。
乃江さんが小声で耳打ちしてくれた。
89
﹁美咲お嬢様、血液AB型ですので、たまに周りの理解を超えて説
明を端折っちゃうんですよ﹂
Trainin
そう説明してくれた乃江さん、咳払い一つをし話を補足してくれ
た。
﹁お嬢様的には、OJT︵On−the−Job
g︶をするって事でしょうか? 人の立ち居振る舞い、修行する有
様などを見て理解していただいた後に、自然と習得していただくと
⋮⋮﹂
美咲さんを横目で見ながら、周りにそういう乃江さん。
表面上では冷静を装っているが、おでこに汗マークが出ている。
﹁そうそう、お友達として一緒に居たら、お互いに学べる事も多い
でしょう﹂
そう言って、ニッコリ顔する美咲さん。
そうそうじゃないって⋮⋮友達って最初に言ってくださいよ。
周りの女性陣からも、安堵のため息が漏れる。
﹁とりあえず、日替わりでご一緒に登下校なされば、お互いに理解
も深めれるのではないかと?﹂
再び爆弾発言を投下する美咲さん。
さすがの乃江さんも、フォローを入れれず固まっている。
どうなるのやら。
90
﹃グラビティ﹄
俺の通っている学校。私立星ヶ丘学園は、今思うと割と設備のし
っかりした高校である。
今、俺がいる南館の一階昇降口は高台になっていて、非常に見渡
しが良い。
外を眺めると目の前には大グランド、そして裏門を通って私道を
挟んだ場所に、小グラウンド、その右手には弓道場、テニスコート
が5面その奥にプールがある。
右手には西門があり、門の手前に講堂と小体育館、手前に各運動
部の部室があったりする。
ちょうど俺のいる校舎と西門の間、北西のあたりに整備された林
があり、大体育館がある。
なんで俺のいる校舎が南館なのか? と言うとそれより北に北館
があるからだ。
教室を構成する校舎は﹃ロ﹄の字の形で東、南、西、北と分かれ
ている。
ざっくり説明すると南=高等部、西=中等部、北=特別教室︵理
系︶、東=特別教室︵文系︶となっている。
東館の一階、茶室にいた俺が、南館の昇降口にいると言うことは、
靴を履き替えて帰るということだ。
何で、学校を見回しているのかと言うとだな。人を待っているか
ら暇つぶしに⋮⋮だ。
早速だが、日替わり登下校の第一弾! なのだ。
うぁ、緊張するなぁ。
﹁アミダで決めましょうか﹂
91
積極的に決める子達が居ないので、業を煮やした美咲さんがそう
提案する。
素早く乃江さんがカバンからルーズリーフとシャーペンを用意し
た。
うあ、なんか﹃出来る﹄秘書みたいだ。
縦に線を4つ引き、下に1、2、3、4と書く。
アトランダムに横棒を素早く引き、数字と横棒を書き足した場所
を二つ折りする。
﹁私がクジを作りましたので、私は最後という事で﹂
簡潔にそう言うと、美咲さん、山科さん、宮之阪さんに選択肢の
縦棒を見せる。
3人の手はそれぞれの縦棒を指差し、乃江さんは素早く天、山、
宮と苗字の頭を書く。
残りの縦棒に真と書いた後、開票? した。
かえ
とまぁ、そういう感じで先ほど決定されたのだが。
﹁おまたせしたなぁ、カオルくん。帰ろか∼﹂
茶の革靴を右手人差し指で履いて、こちらに声を掛けるのは、最
強のメガネっ子山科さん。
関西弁、メガネ、真面目な委員長キャラと来ると﹃最強﹄と思え
るのはなぜだろう。
これで﹃おさげ﹄なんて装備されたら﹃無敵﹄になりそうだ。
﹁ん? おさげってなんや? カオルくんおさげ好きなんか?﹂
いつの間にか俺の横で、俺の顔を見上げる山科さん。
って、俺。今声出してましたか。
﹁うち、おさげするほど髪の毛長ぁないから。美咲とかマリエに頼
んだろか?﹂
要らんお節介せんでもいいって。
って山科さんをみると、自分の髪の毛を両手でいじっている。
92
もてあそ
おさげを試みているのか、くるくるっと髪の毛を人差し指で玩ん
でいる。
俺の視線に気が付いたのか、﹃なんやの?﹄って見上げるメガネ
越しのつり目がかわいい。
身長は⋮⋮、俺が175cmちょい位だから目線を考えると15
5cmくらいか?
うちの制服だが、こげ茶とグレー間の色のブレザー、スカートは
スエードっぽい生地の黒で、膝上スカート、学校指定の黒の靴下が
膝のすぐ下まで伸びている。
上のブレザーの下は、真冬などは生成り色のニットセーターを良
く着ている様だが、今は白のブラウスが主流で、薄い緑のリボンが
小さく蝶結びされている。
﹁なっ、なんや。そんなジロジロ見やんといて∼。うち恥ずかしい
わ﹂
顔を真っ赤にする山科さん。抗議の目も上目遣い。
ちょっと反則気味にかわいいな。
そういう属性持ちの男なら一撃で撃沈されるだろうな。
ふと、牧野が言っていた言葉を思い出す。
﹃何気に天野さんチームってば、他の子もレベル高いよな﹄
確かに、そう思う。
﹁うん、ごめんごめん。なんか女子と帰るなんてそう言うのと縁遠
くって⋮⋮﹂
そう言って言い訳してみた。
きょとんとした山科さん。
﹁なんや、意外やな。あんたと友達の牧野もやけど。割と女子に人
気あんで?﹂
そう言って意外そうな顔を見せる。
こく
そ、それは初耳だけど。いや牧野のは良く知っているけど、俺、
告られたことないぞ。
93
﹁﹃わりとな﹄、言うたやろ? 牧野は人当たり良いし、隙もある
けど。あんたあんまり女子と話さへんから? 隙ない様に見えるら
しいで?﹂
なんか初耳の情報をどんどん吸収できる。女子と話をするとこう
いう話も聞けるのか⋮⋮。
でも、待てよ? 噂だけで実際モテてるわけじゃないし、そうい
うのを﹃絵に描いた餅﹄って言うんじゃないか。
まあいいか、深く考えるのはよそう。
﹁そういう訳でなぁ、こんな人ようさん通る場所で立ち話してると
な。悪い噂流れそうで怖いねん。はよ帰ろ?﹂
そう言って、両手で俺の背中を押す山科さん。
西門と反対側の正門に押されて帰る俺。
こういう風景って、傍目からみたら﹃ヤバイ﹄んじゃないか?
大グラウンドで部活中の何人かには、俺と山科さんの姿を見られ
ているような気がするし。
正門を抜け、駅に向かうのかと思えば反対の方向に歩き出した。
﹁ごめん、ちょっと日課あるんや、ほんのちょっと寄り道してもろ
ていいか?﹂
そう言って両手を合わせ、軽くウインク。
﹁日課? うん、別に良いけど。このまま駅にってのも味気ないし
ね﹂
そう言って納得した俺を連れて、山科さんは坂を上がり山の方面
へ歩き出す。
10分ほど歩いた所にあったのは神社。
迷いも無く石段を登っていく。
日課ってのは、ここに来る事なんだろうか。願掛けしているとか?
多少の疑問はあるものの、足を止めるほどの疑問ではなく山科さ
94
んを追いかける。
石段を30程登った所に境内があって、外界と遮断された清浄な
空間が拡がっている。
﹁なぁ、気が付いた? ここ。ええやろ?﹂
両の手を大きく広げ、深呼吸する山科さん。そうして、くるっと
ダンサーのように一回転する。
周りの緑と相まって、本当に山科さんが美しく思えた。
﹁お祈りするの?﹂
本堂の拝殿方向に目をやり、そう聞いてみた。
山科さんは、無言で首を横に振り、そして両の手を大きく広げた。
大きく広げた手を、そのまま前に持ってきて両手を強く握り始め
た。
﹁なぁ、風ってなんで吹くか思う? 知ってるかぁ﹂
そう聞いてくる山科さん。
﹁風っていうのはな、空気の圧力の差で圧力が高い方から低い方に
流動するんや﹂
まだ、両の手を強く握っている山科さん。
﹁ぶっちゃけ、風ってのは圧力に依存しとんねな﹂
そういった後、聞き取れない音域で言葉を紡ぎ出す。
か、風が集まってくる。
両の手を握る山科さんの手の上で。空気が渦を巻いている。
神社の境内、その全ての空気が両の手に。
360度からくる突風が手に収束していく。
ふと、力を緩め全身を弛緩させる山科さん。
ゆっくりと手を広げる。
広げた両手から、綺麗なビー球ような球が三つ。
右手から二つ左手から一つ⋮⋮地面におちた。
﹁ふぅ﹂と深呼吸するのものの、山科さん、まだ息が荒い。
しばらく息が整うまで待った。
95
かぜだま
﹁風弾って名前つけてんねん。コレ﹂
膝を折り、大事そうにそれをつまんで拾い上げる山科さん。
神社の林からさす木漏れ日にかざして見上げる。
﹁うーん、集中力足りてなかったかいな。3号玉が3個になってし
もた﹂
そう言って残念がる。
﹁それは、空気の塊?﹂
木漏れ日にかざされた玉を見る俺。綺麗なビー球にしかみえない
な。
﹁そうや、ここの清浄な気がふんだんに込められとるんや。魔物な
んか一撃で滅されるで?﹂
そう言って一つ俺に手渡した。
俺はそれを木漏れ日にかざして見る。
﹁綺麗だ﹂
率直にそういう感想がでる。ガラスと違うガラスのような玉。
﹁一個お守りにあげるわ。念を込めて﹃開放﹄を祈ったらハジける
からな。気つけてな?﹂
ハジけるって。
﹁それ一個にな、物凄い勢いで、ここらの空気詰めこんどるんや﹂
そう言って、残り二個を制服のポケットに仕舞う山科さん。
物凄い勢いって⋮⋮、凄い圧力を掛けたって事か。
﹁それくらい圧力かけたら、空気にも重みがあるの、わかるやろ?。
ええ勉強になったなぁ﹂
そう言って笑う山科さん。確かに凄く重い。
﹁あと、紹介しとくわな﹂
96
そう言って、俺の方に手を伸ばす山科さん。
手のひらを上に広げた手の上に、風が集まって密度を増す、渦巻
く風が白い霧のようになっていき、やがてそれが人型を形成する。
白い霧のような人型は、山科さんの立つ辺りを飛び回り始めた。
﹁風の精、グラビティって名前つけてんのや﹂
そう言って、グラビティを見つめ紹介してくれた。
また可聴域外の言葉をつぶやくと、風の精グラビティは霧散した。
最後に山科さんのスカートがめくれ上がるような風を一つ起こし
て⋮⋮
﹁うわっ﹂
﹁きゃっ﹂
茶色の革靴、そこからすらりと伸びる靴下を履いたふくらはぎ、
スカートで隠された太ももが見え⋮⋮白。白いのが見えた。
ジト目でスカートを押さえたままのポーズで、こちらを見る山科
さん⋮⋮
﹁みたか?﹂
精一杯首を横に振る俺。
﹁みたやろ? 正直に言うてみ?﹂
尋問するようなベテラン刑事の優しげな表情を浮かべる。罠だ。
目が笑っていない。
さっきより、首を横に振る俺。
﹁ほんまか?﹂
汗マークを額に出し、うなずく俺。
﹁あいつ、いたずら好きやねん。いらんわぁ﹂
そう言って照れた赤ら顔を横に向ける。
グラビティ、グッジョブ。
心の中で親指を立てて、勇者に尊敬の念を送る。
97
﹃グラビティ﹄︵後書き︶
空気の重さって、1立方メートルあたり1kg以上します。
風弾3号で約10kg以上の計算ですが、﹃清浄な気﹄だけ詰めた
&山科の圧縮能力がまだ未熟と言う事で華麗にスルーしておいてく
ださい。
眠くて計算ミスしたとかそんな事故は起きてませんよ。いや。ほん
と。汗。
って軽くかわしたつもりで、物凄い計算ミスを犯していた事をご指
摘いただきました。
通りすがりの年寄り様ありがとうございます。
今回は上記箇所を修正し、曖昧に変更させていただきました。
98
﹃風弾﹄
神社を出て、駅方面に向かう二人。
他愛も無い学校、クラスメイトの話で盛り上がっていた。
ふと、山科さん。何かを思い立ったようにこちらを向き直る。
﹁あのな?﹂
山科さん。つぶやくように、俺に話しかける。
明日?
﹁こんなん楽しいんやったら、うち明日にしといたらよかったわ﹂
え?
﹁あんな。日替わりって登下校やんか? うち、下校だけやん﹂
そう言って、恥ずかしそうに俯く。
俺は黙って聞き手に回っていた。
﹁最初は、下校だけって得した気になってたけど、今思うと損した
気分やわ﹂
って、俺と一緒に居るのが楽しいって、言ってくれてるんだろう
か?
それならすごい嬉しい。
﹁てことでな? もう一箇所付き合って欲しいねん﹂
そう言って、駅への道を外れ人気のない道へ歩き出す。
川を沿うように歩く遊歩道、散歩や家族の憩いの場として設けら
れたのだろうか。
割と綺麗に設備が整っている。
河川敷には芝生、歩道には玉砂利が敷き詰められていて、割とい
い感じの雰囲気だ。
さすがに平日の夕方、日は落ちていないとは言え、人の姿はない。
﹁こっちの方歩いてもな、遠回りやけど駅に行けんねんで!﹂
そう言って、俺より二歩早く歩く山科さん。こちらを向き、後ろ
99
歩きで話しかけてくれる。
山科さんと一緒に居ても、肩が凝らないで居れるし、話をしてい
ても楽しいな。
うちの母とおばあちゃんと同じような関西弁だからだろうか。
そう思いながら歩いていると、遊歩道の真ん中付近まで差し掛か
かぜだま
ったとき、山科さんは足を止めた。
そして、ポケットに仕舞った風弾を一つ取り出し俺に手渡す。
﹁手に持ってな。その﹃玉﹄手に持っているのを意識してな﹂
そう言って両手を胸の前に持って来て、神様に祈りをささげるよ
うに両の手のひらを握り祈るようなポーズをした。
﹁あ、ポーズはな、せんでいいよ。祈る気持ちで手に﹁玉﹂を持っ
てるって考えるんや﹂
言われた通り、右手に風弾を握り、言われた通り﹁玉﹂を意識す
る。
﹁で、それを川の方に投げるんよ。ちょうど真ん中らへんがええな。
やってみて?﹂
ポーイと投げるポーズで教えてくれる山科さん。なんか青春ドラ
マみたいでいい感じ。
この川だけど割と有名な一級河川。水量も多くて川幅も広い。
真ん中に投げようとすると、結構力を入れて投げないと。
言われた通り玉を投げる。
﹁どりゃ∼っ﹂
なんとか、真ん中付近に届いたようだ。男としての面目立ったか?
﹁でな?﹂
なぜか、俺のブレザーの裾を引き、一歩二歩と下がる山科さん。
﹁ハジけるイメージを頭に思い浮かべてみ?﹂
弾ける? ねぇ⋮⋮。風船が割れるようなイメージだろうか。
﹁うん。判った﹂
そう言ってイメージを浮かべる俺。
風船、ふわふわ、針、割れる。
100
ド︱︱︱︱ン。って?
川の真ん中から水柱が立つ。
いや半端なくでかい水柱。川が真っ二つに割れたように、瞬間だ
が川底が露出した。
まるで、モーゼの十戒のようだ。
山科さんは予想していたのか、両手の人差し指で耳栓して目を瞑
っている。
青春ドラマのイメージが吹き飛んだ。ドラマチックじゃねぇ。
﹁⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮﹂
﹁爆弾?﹂
呆然として山科さんを見る俺。なにか体が硬直してロボットのよ
うな動き。
うんうんとうなずく山科さん。
お魚さんごめんなさい。この関西娘の分も許してください。
﹁ロードローラーとかな。タイヤのでっかい車ってあるやろ? あ
のタイヤの中にはな? 20気圧くらいのエアが充填されてるらし
いんや﹂
周りの目を気にして、河川敷から全力疾走して逃げた俺達。
ほとぼりの冷めた場所まで逃げたあたりで、山科さんが話し始め
た。
はぁはぁはぁ。ってなんで山科さん息切れてないんだ? 修行?
修行の賜物なのか?
101
肩で息をする俺に、続けて説明を始める。
﹁あれな、パンクしたら大変な事になるねんで。隣に車いたら扉が
吹き飛ぶくらいにな﹂
とかなんとか。なにやら物騒な話をしてくれた。
﹁プレゼントした玉あるやろ、ああやって使うねんで∼﹂
そう言ってニコニコ笑う山科さん。
ごめん、使うの無理です。不可能です。
関西弁、メガネっ子、委員長タイプの山科さんは最強最悪の爆弾
娘だった。
102
﹃風弾﹄︵後書き︶
タイヤがパンクって言うのは実際の話。
実際にも信号で停止中、タイヤのでっかい重機の横に止まったワゴ
ン車の扉がへっこんでボロボロになったそうです。
ドン!って爆発音がしたらしいですが、怖いですよね。
103
﹃第二の刺客﹄
ポケットから二つ折りしたメモを広げる。
﹁⋮⋮!﹂
目的の家。表札を確認する。
間違いないようだ。
けど⋮⋮ちょっと不安なので、両隣も確認しないと⋮⋮。
﹃たなか⋮⋮さん、と、はしもと⋮⋮さん。﹄
最初の家の前に立つ。メモを二つ折りしてポケットにしまう。
ここでまちがいない⋮⋮。
玄関のチャイム、ボタンを押そうとする指。
一度引っ込める⋮⋮。
心臓に手を当てて、深く深呼吸。すぅ∼ はぁ∼。
よし。
勇気の充電を完了した指は、玄関のチャイムを押す。
ピンポ∼ン♪
﹁はぁ∼い﹂
あれ? なんか女の子の声がする⋮⋮。
間違えたのでしょうか。
そう思いつつ、もう一度ポケットからメモを取り出し見ようとす
る。
わっ、ドアが開いた。
ちょっと慌てた私は、メモを乱暴にポケットへしまう。
﹁どちら様ぁ?﹂
そう言って出てきたのは、かわいい女の子。
104
かわいいな。妹さんかな? ちょっと似てる。
女の子と目が合う、ペコリンと挨拶。
﹁あ⋮⋮﹂
言葉が出てこない。
女の子は、扉を閉める。バタム。
5秒ほどしてもう一度開く。
﹁む? 目の錯覚じゃないな﹂
再び女の子と目が合う。ペコリンと挨拶。
﹁あ⋮⋮あの﹂
やっぱり言葉が出てこない。
顔をマジマジ見ないでください、緊張して言葉が出ません⋮⋮。
なぜか、女の子はすごく意地悪そうな顔しました。
﹁すこし、お待ちくださいね♪﹂
ペコっと会釈をした後に、一度扉を閉める。
﹁⋮⋮﹂
﹁おにいちゃ∼ん。すっごいかわいい人が迎えに来てるよ∼﹂
うつむ
近所に響き渡る大声。すごく恥ずかしいです。
俯いて下を見る。ほっぺたが熱くなっているのがわかる⋮⋮。
ひんやりした手でほっぺたを押さえ、熱を冷ます。
トントン軽くノックした音、二秒後にドカッと扉の開く音。
﹁起きろ!このゴクツブシ﹂﹃ドゴッ﹄
ドゴッって音がしました。なにやら賑やかです。
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
玄関が開く。寝間着を来たカオルさんが顔だけ覗かせる。
ペコッと挨拶。頭を上げてもリアクション薄い。
﹁⋮⋮﹂
105
﹁⋮⋮宮之阪さん?﹂
﹁はい⋮⋮、おはようございます﹂
﹁も、も、も⋮⋮もしかして、登校する為に迎えに来てくれたの?﹂
すっごく慌てだすカオルさん。
右を見て、左を見る、そしてなぜか手を見る。慌てています。
﹁え、あわ、待ち合わせ⋮⋮して⋮⋮なかった⋮⋮から⋮⋮﹂
カオルさんが慌てると、こちらも慌ててしまう。
﹁ちょっと待ってて、すぐ。すぐに用意してくる∼﹂
慌てて扉を閉めるカオルさん。
どたどたとた∼と走り去る音。そしてまた、どたどたどたと近づ
く音。
バタム。
﹁あっ、良かっ、たら、中で、待ってて?﹂
カオルさん、少し息切れています。
気を使わせてしまったみたいですね。
私は、笑顔で首をゆっくり横に振る。
﹁ここで⋮⋮おまちして⋮⋮います⋮⋮﹂
ごゆっくりどうぞ。と言いたかったのに小声になってしまいます。
﹁うん、ごめん、すぐ⋮⋮あっ﹂
バタムと扉が閉まる。
すっごく慌ててらっしゃいます。朝早く来すぎてご迷惑おかけし
たでしょうか⋮⋮。
お待ちしている間も、中から色んな物音が聞こえてきます。
﹁なにやってんのおにいちゃん。テンパリすぎだよ﹂
妹さんの声。
﹁玄関先に立たせたままやなんて、なんで上がってもらわへんの?
もう﹂
ユカと同じスラングの人。お母さんでしょうか。
106
﹁いや、あっ、うん、ごめん﹂
ごめんなさいカオルさん。
﹁髪の毛はねてるよ∼。歯磨き粉口に付いたまま∼﹂
﹁えっマジ?﹂
くすっ。なんか、賑やかでいいです。
ニコニコしてしまいますね。
﹁す、すいません⋮⋮あさ⋮⋮はやく⋮⋮おしかけて⋮⋮﹂
最後の方は、声が出ていない。駄目ですね私。
横に並んで駅に歩くカオルさん、笑って、
﹁あ、うん、ごめんこちらこそ。朝の事考えてなかった﹂
そう言ってくれた。
﹁約束してなかったから、物凄く早起きして来てくれたんだよね、
入れ違いにならないように。ごめん﹂
思い立ったように、カオルさんそう言って私に頭を下げる。
﹁あ⋮⋮いや⋮⋮﹂
こちらこそごめんなさいの一言が出ない。自己嫌悪してしまいま
す。
私の表情を読み取ったのか、カオルさんため息一つ。
そうして心配そうな顔をして、こちらを向き直り私を見つめる。
﹁宮之阪さんのペースで良いから、ゆっくりで良いから。ちゃんと
最後まで言い終わるの⋮⋮待ってるから。俺﹂
そう言ってニッコリ笑ってくれた。
﹁ハイ!﹂
私は今日、初めて自分に納得できる言葉が出せた様な気がします。
107
電車を降りて、学校に向かう道。なんだかすぐに着いてしまいま
した。
電車が混んでいて、お話できませんでした。
でも、一つだけいい事がありました。
扉に押し付けれらそうな私を、カオルさん手を踏ん張って守って
くれていたように思います。
﹁どうしたの、宮之阪さん。ニコニコしちゃって?﹂
ニコニコ顔を見られて、ちょっとドキッとしてしまいました。
﹁あ、いや⋮⋮﹂
なんでも無いですよの声が出ない。
カオルさんはこっちを向き直り、ニッコリ膝を折って私の目線に
合わせる。
﹁どうしたの? 宮之阪さん、ニコニコしちゃって!﹂
そう言ってこちらを見てくれる。待っていてくれているんだ。
﹁なんでもないですよ。学校が好きなんです﹂
そう言ってもらえると、安心して喋れます。
そろそろ学校に着くという所で、カオルさんが思い出したように
私を見る。
﹁あっ、そうそう﹂
そう言って携帯を取り出すカオルさん。
﹁電話番号交換しておこうよ。帰りも一緒だから迷子にならないよ
うに﹂
そう言って金色の携帯を手渡す。
﹁宮之阪さんも携帯持ってるよね? 番号押してみて?﹂
わたしは、自分の携帯番号を手入力する。
カバンの中で着信メロディが鳴る。ヨハン・パッヘルベルのCa
108
nonのロックバージョン。
﹁登録しておくね。マリリンっと﹂
がーん。マリリンって言いましたね。
パタンと携帯を閉じたカオルさんに、涙ながらに抗議しました。
わたしは﹁カオるん﹂って登録してあげようと思います。
109
﹃第二の刺客﹄︵後書き︶
一人称の視点を変えてみた。止めたらよかった思うくらい物凄く難
産でした。><
難産すぎて後半のTEXTを起こせませんでした。
この物語ってある日の日曜に始まって、まだ水曜なんですよね。
一年間分書いたら何話になるんでしょうね。
ヨハン・パッヘルベルのCanonのロックバージョンですが、私
の一番イメージに近いのが
﹁wotakufighter2121﹂さんのyoutube。
暇だったら検索してみてください。
□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■
□■□■□■□■
ふとここで各キャラの由来をクイズ形式で募集してみます。
前に全員駅名って書きましたけど、全ての駅を的中された方には後
書きで称えてみたい。と。
☆美咲は難しい。当てれる人居るのか@@
☆ノエは姓名とも。
書き方としては∼
JRなんとか線 何々駅 ↓ほげほげちゃん
とか。そんな感じで
←のコメント欄を活用してください。
評価なんてキニスルナ∼。とりあえずポチットな?。
110
寂しがり屋のメルクリでした。
かきコ無いとショック死するかもな・・・
111
﹃密会﹄
四人の人影が人気のない校舎と校舎の渡り廊下に立つ。
そんな中、一人の女が抑える様に、だが抑え切れない声を出す。
﹁なぁ真面目な話、アレ送り犬なんて弱っちい敵と違うよな?﹂
メガネの奥の心配そうな瞳。
ブラックドック
激情の女は、ぎゅっと握りこぶしを握り、搾り出すように話す。
﹁送り犬みたいなん、こんな場所に現れへんし⋮⋮、あれ黒犬獣ち
がうやろか?﹂
長い髪の女に詰問するように話す女、そして長い髪の女は肯定す
るようにゆっくり肯く。
﹁カタナカミが居なかったら、斬りつけた時に彼は死んでいたでし
ょうね。閃光と爆発を引き起こすらしいですから﹂
長い髪の女はそう答える。
﹁運がよかったっちゅう訳か﹂
激情の女は、ホッとした様な口調でそういった。
ショートカットの女は思案する様子で、二人のやり取りを見て、
冷静に言葉を紡ぐ。
112
﹁無力で⋮⋮無能な男。垂れ流しの霊力。﹃彼﹄に取っては格好の
餌ですもんね﹂
冷静な言葉で、そうつぶやく。
三人を一歩引いた所で見ていた女は、つたない言葉で話し出す。
﹁カオルさんの事⋮⋮、酷い言葉⋮⋮、いわないで⋮⋮、怒り⋮⋮、
ますよ﹂
弱気な口調とは裏腹な強い怒気を見せる。
ショートカットの女は、その強い怒気すら歯牙にもかけない様子。
ため息を付く長い髪の女、二人の間に体を入れることで仲裁する。
﹁﹃彼﹄は、この町のどこかに潜んでいます。今は守るだけでいい。
私達が早く終わらせれば良い事だから﹂
ショートカットの女はため息を付き、
﹁足でまといになってこっちがニエにされるかもしれませんよ﹂
そういって、珍しく長い髪の女に意見する。
﹁最近の﹃人間﹄は厄介ですね。魔物なんかよりよっぽど﹂
長い髪の女は、そうつぶやくとため息を付いた。
113
ちから
﹁遅かれ早かれ、彼は接触してくるでしょう⋮⋮﹂
誰に接触を持つのか⋮⋮。
﹁とにかく﹃彼﹄はすでに3人の退魔士の能力を取り込んでいます。
気をつけて﹂
そう言うと振り返りもせず歩き出す。
一人の女がそれに従い歩き出し、二人の人影だけは微動だにしな
かった。 114
﹃密会﹄︵後書き︶
ここから、ちょびっと戦闘的なシリアス路線に突入します。
笑い、戦闘、笑い、戦闘くらいのペースで書けたら良いなと思って
ます。
115
﹃拉致﹄
4限目の古典の授業。
﹃今はむかし、道命阿闍梨とて傅殿の子にいろにふけりたる僧あり
けり。和泉式部にかよひけり。經をめでたくよみけり﹄
って、劇的に眠いんですが。
これが、食後の5限目に授業受けようものなら、食後&春の陽気
で即死できるな。
それほどに外の陽気が風に流され、窓から吹き込んでくる
﹃それがいづみしきぶがりゆきてふしたりけるに、目さめて經を心
をすましてよみける程に、八卷よみはてゝあかつきにまどろまんと
するほどに⋮⋮﹄
よく考えると、古典が昼休み明けの5限目に授業が配置されてい
ないよな。
やっぱり計算ずくなんだろうか。良く考えられているよな。
とりあえず、要点をチェック。訳をノートに書き込んでいく。
やばい。落ちそうだ。気が付くと目を閉じている。
肘を付き建前上ファイティングポーズを取っているが、姿勢は崩
れ、建て直し、そしてまた崩れる。それの繰り返しだ。
肘で机を拭いているようなものだ。
ん? ふと胸の辺りで違和感。携帯がブルってる。
一回、二回とブルって停止。メールか⋮⋮誰だ。
教師が黒板に向き直るタイミングで、胸から取り出しメールをチ
ェック。
116
[from:あおい]
あおい
みずのと
あおいってのは、俺の妹だ。朝俺に飛び膝蹴りをくれた妹。
漢字で葵。
俺の﹁薫﹂が花の重い烈火だから、﹁葵﹂は花の癸なんだとか。
自慢げに話していた親父を思い出すな。
ちなみに、妹はうちの学校の中等部三年。
しかし、俺にメールなんて業務連絡以外であったっけな。もしか
して奴も眠いのか?
クリック。
﹁ちょっと話あり。お昼食わずに、大体育館横へ来るべし﹂
って、なんだ?
メールで打って来ないって事は、長い話か?
昼食わずにって事は、母が改心して弁当作ってくれたとか?
うーん、ありえない。
でもな、万が一って事もあるよな。
﹁今日は以上ここまで⋮⋮﹂
覇気の無い声で古典教師がそう告げ教室を出ると、教室中が安堵
のため息。
やっぱ、みんな眠かったんだ。
教室内は、お昼休み独特の喧騒な雰囲気に包まれる。
﹁なぁ、牧野よ﹂
117
呼び出し食らった俺を待たせるのも悪いし、一言ことわっておく
か。
﹁なんか、妹に呼び出し食らってな、ちと時間掛かりそうなんで、
先食っちまってくれ﹂
﹁あおいちゃんか、相変わらずお兄ちゃん子か﹂
ニヤニヤ笑いながら、要らん事を言う牧野。
まぁなんだ。年頃になる前は俺に懐いてたんだ。今は見る影もな
いけどな。
後ろ手で、手を振りつつ行って来る合図。
教室を出て、西館の先の体育館を目指して歩き出した。
お昼時の体育館は人気が無かった。
林に囲まれているせいか、ひんやりした空気に包まれている。
体育館横の大きめの木の下。妹は先に来て待っていたようだ。
妹はこちらに気が付いたようで、もたれていたおしりの辺りを手
で払い、
﹁おにいちゃん﹂とだけ挨拶するように声を掛けた。
おれは、妹の方へ歩きつつ、気になった事を聞いて見た。
﹁どうした? なにか用か? まさかとは思うが母が弁当作ってく
れたとか?﹂
そう聞いて見るも、妹は手ぶら。
妹も無言で首を横に振る。
﹁ん? どうした? 元気がないな﹂
118
ひいきめ
うちの妹のチャームポイントは元気印だ。
兄の贔屓目を引き算しても、かわいい部類の顔立ちなのだが、や
っぱり元気の良さあっての妹だと思う。
﹁うんとね、おにいちゃんとちょっとお話がしたかったの﹂
なんてしおらしい台詞を言う妹。
﹁どうしたんだ? あらたまって? 青い性の悩みなら女性の先生
に頼め。俺は無理だ﹂
って、やや危険なボケを試みたのだが、ツッコミなし。不調だな
妹よ。
普通ならここで飛び膝蹴りが出ているはずなんだけどな⋮⋮。
﹁あのね⋮⋮﹂
うつむいて、ゆっくり話し出す妹。
﹁大切なおもちゃにさ。手を出す奴が居るんだよね﹂
なにを言ってる?
﹁そいつ殺したいんだけどね。どうしようかな?﹂
﹁!﹂
俺は妹から距離をとる。台詞の内容じゃない。声が。違う。
﹁四人のお姫様。俺の大切なおもちゃ。鬼ごっこの最中なのに邪魔
する奴が居るんだよね﹂
119
声は完全に男の声に変わる。
こちらを見る妹⋮⋮だがその顔から発せられている声の質は男。
誰だ。霊? いや違う。
﹁お前は誰だ⋮﹂
カラカラの咽喉からやっとの思いで言葉を搾り出す。
﹁お前のかわいい妹だよ、お・に・い・ち・ゃ・ん﹂
そういって、下卑た笑いを浮かべる。
﹁お前のかわいい妹は、心の中で眠っているよ。ぐっすりとね﹂
なにを。
混乱して、なにがなんだかわからない。
ちから
﹁何黙ってんだよ! お前馬鹿かぁ、お前のかわいい妹は俺が乗っ
取ったんだよ。わかんねえか? そういう能力なんだよ﹂
奴の本性の台詞が、妹の顔から出てくる。
無造作にこちらに歩いてくる奴。
俺の前に立ち、妹の体で俺に殴りかかってきた。右ストレートの
拳が俺に迫る。
とっさの動きで俺はそのパンチを避ける。
奴は、その後に襲い掛かることなく、ゆっくりこちらを向き直る。
﹁⋮⋮なに避けてんだよ。てめえ。判ってないな?﹂
奴は妹の体を使い、右手の人差し指中指を合わせ伸ばした。
おもむろにそれを口に持ってきて丹念に舐める。
唾液で濡れた指を俺に見せつけ、
120
﹁どうなるか判ったか?﹂
そう言うと、ゆっくりスカートをたくし上げる。
ゆっくりゆっくりと、俺に見せ付けるように。
太ももの付け根、その辺りまでたくしあげた。
そして腰に手を回しコットン地の布に指を滑り込ませる。
たまらず俺は一歩踏み込もうとした。
﹁動くな!﹂
鋭く恫喝する声、そしてこちらを睨む鋭い目。
﹁わかったか? お前のおかれている状況がよ? てめえにゃ拒否
権は無ぇ﹂
そう言って俺に渾身のボディブローを撃ち込む。
俺の体は、跳ねるようにくの字に折れ曲がる。
奴は、そのまま前に倒れこむ俺の髪の毛を乱暴に掴み。楽々と片
手で立たせる。
なっ、なんて力だ。
﹁あんまり無理させんなよ。母体はお前のかわいい妹なんだからよ。
⋮⋮殴った右手が痛いよ。お・に・い・ちゃん♪﹂
泣きまねをしつつ邪悪な笑みをうかべる。
﹁ここで、お前を撲殺しても良いんだがよ。⋮⋮俺の暇つぶしに付
き合ってくれるか?﹂
優しげな表情、凶悪な素顔を隠した仮面。
﹁なにを⋮⋮すればいい?﹂
まだ、さっきのパンチ一発で体に力が入らない。言葉を搾り出す
のが精一杯だ。
121
﹁んー、かくれんぼしようか﹂
そういうと俺の両の手ひらを優しく掴む。
﹁今晩12時までに、おまえのかわいい妹を探し出せ。一人でだ。
4人に言えば即座に殺す。いや⋮⋮﹂
﹁罰として、見知らぬ誰かに﹃プレゼント﹄しちゃうよ? お・に・
いちゃん♪﹂
そう言って掴んだ手のひらを胸に押し当てる。
﹁なっ!﹂
手を振り解こうと力を籠めた瞬間、腹部に二度目の衝撃を感じ、
俺は呆気なく意識を手放した。
122
﹃拉致﹄︵後書き︶
え?セーフ?アウト?
敵の味を出すには必要だったのですが・・・><
やな奴です∼むきぃ
がんばれ♪カオるん。
本文中に出て来る古典の件。宇治拾遺物語です。
私が知りうる最古のコミカルファンタジーじゃないかな。
和泉式部の﹃色﹄の高僧。いたした後に任務である読経を消化しと
く事にする。
読経中に怪しいおじさんが来て、いたく経を聞き、ありがたがる。
その者曰く、ありがたい読経だと神が宿り恐れ多く私は聞けません。
﹃いたした﹄後の清められていない貴方のお経は私が聞いても大丈
夫ですね。と言う。
そう言って、神の化身であろうその者は消え、高僧は反省する。と
言う話です。
123
﹃心象風景﹄
南館︵高等部︶から西館︵中等部︶への渡り廊下。
さいな
果たしてこのまま中等部へ行ってどうしようというのか⋮⋮ふと
そんな疑問に苛まれる。
昼食の準備をしている際、お嬢様からお声をかけられた。
﹁カオるんとケンタロウさんのお誘いに行ってあげないとね。ノエ
⋮⋮頼めるかしら?﹂
なんてお言葉。
私にとっては精神的な苦痛を生む作業だ。
私がそう思う時は、大抵お嬢様は自身で手本を示し、その上で私
へお命じになられる。
初めて彼らをお誘いする際に、ご自身でお誘いになられたように。
だ。
﹃私への押し付けではない﹄という事を、身をもって仰られての上
だと理解する。
私はそれを撥ね付け、お断りする事は出来ない。
お嬢様と私の距離を思い知らされる。
Bクラスの教室前で、彼の級友、牧野健太郎に出会った。
昨日と同様に、茶室で食事をする旨を伝え、苦痛な仕事を終わら
せよう。
﹁あの⋮⋮牧野さん。お二人をお食事のお誘いにお伺いしたのです
124
が、お一人ですか?﹂
少し照れた﹃素振り﹄をし、話しかけた。
我ながら外向きの顔を、使い分けるのが巧いと感心する。
どうやら、﹃三室﹄は中等部に在籍している妹に会いに行ってい
るとか。
﹁三室さんには私がお伝えしておきますので、牧野さんは先に茶室
へお向かいください﹂
そう言うと私は、中等部への西館を目指す。
そのまま捨て置いても良いのだが。
三室曰く﹃先に食べといてくれ﹄と言っていたそうだ。
﹃今日は一緒に食事出来ない﹄という事ならば、妹と食事をする事、
または話が長引く事が予測される。だが。
今回は﹃先に﹄と言っていた。
ならば、遅れて購買に寄り教室に帰ると言う事だろう。
中等部から直接購買へ直接行かれても﹃意図する結果﹄と違う状
況になる。
﹃面倒だな⋮⋮﹄
私は嘆息一つ付き⋮⋮中等部へ向かった。
中等部、西館。
牧野からの話で、﹃中等部三年に妹在籍﹄、三室姓で﹃あおい﹄
125
と言う名の断片的な情報は手に入れた。
だが、どのクラスなのかについての情報は、牧野も持ち合わせて
いなかった。
AからFどのクラスなのか?。
﹁⋮⋮⋮﹂
私は、比較的外交的そうな女の子を捕まえ聞く事にした。
大抵の場合、外交的な子は他のクラスにも顔が効く。
経験則、外交的でない娘は個の友人に強いつながりを持つが、多
方面に顔が聞く場合が少ない。
外交的だと交友関係も広くツテも多い。
本人が意図せず顔が効くから、外交的にならざるをえない子も居
るのだけど。
へりくだ
﹁ごめんなさいね。お伺いしたい事があるのだけれど﹂
高圧的にならず、かといって謙らず微妙な加減で言葉を選ぶ。
﹁え? あ、はい! なにか?﹂
最初の一声は同輩に語るような返事、振り返り上級生に声を掛け
られた事に気づいたのだろう。
﹁ご存知なら教えて欲しいのだけれど、三室﹃あおい﹄さんと言う
女子、何組なのかご存知かしら?﹂
上級生の威厳を出し、単刀直入に聞いてみる。
﹁あっ、はい。確かCだと思います。ちょっと呼んできます﹂
そう言うと小走りでCクラスへ向かう。従順な子だ。
126
教室の入り口から、教室の中に声をかける様子を、遠くから眺め
ながら待たせてもらう。
教室に入らず、中に声を掛けると言う事は、あの子は別のクラス
てんまつ
の子なのだろう。
顛末を聞き、息せき切ってこちらに戻ってくると、
ねぎら
﹁教室には居ないようです。昼休みになった途端、教室を出て行っ
たそうです﹂
一生懸命に走ってきた﹃娘﹄を労う。
﹁ごめんなさいね、急がせてしまったわね﹂
自分の行いを振り返り、恥じらいを感じたのか、赤面する娘。
さして乱れても居ない、彼女の胸のリボンを整えて、その場を立
ち去る。
微動だにしない娘に一瞥もせず。
﹃ふぅ﹄
全ての事柄が無に戻ったわけではない。
三室は﹃妹に呼び出され﹄﹃会いに行って﹄妹は﹃教室に居ない﹄
訳だから。
・三室は妹の待つ教室に呼び出された訳ではない。
・妹は兄を﹁呼び出し﹂たのだから、兄の教室に行ったわけでも
無い。
・約束をするのに、中等部の別の教室前は消去してよい。
・中等部の妹が高等部の別の場所にあえて待ち合わせする意味が
127
薄い。
ここで、西館と南館は消える。
用件が不明な三室が時間が掛かると言ったのだから、場所的な要
因が想像できる。
・妹は4限終了後に﹃すぐ﹄教室を出たと言う事。
・二人はその行程で出会う事が無かった。
となると、校舎の渡り廊下を使用していない。
色々な﹃推論﹄の結びつく場所に頭を巡らせる。
そういう場所を学校中で﹃限定﹄するのは難しくない。
私はこういう考え方をする﹃私﹄が嫌いではない。
そういう推論の元、窓を覗くと﹃確定された﹄結果が窓の外に。
西館の外の先、体育館への林の中に向かう三室を発見した。
そうして、﹃事﹄の顛末を傍観する事になる。
﹁三室!﹂
酷く、深く、昏倒しているのだろうか、軽く頬を打っただけでは
目が覚めない。
私は出来るだけ三室を動かないように、頭部の打痕を髪を掻き分
け探り、首筋で脈を探った。
ブレザーの前のボタンを取り、カッターシャツのボタンを外す。
128
違和感を感じ、上の下着を捲るとどす黒いこぶし大の痣2つ。
一箇所はたいしたことが無いが、もう一箇所﹃肝臓﹄付近。気絶
して居るにもかかわらず。筋肉が緊張し、内部から腫れ上がった様
になっている。
﹁マズい⋮⋮﹂
私は、﹃コップ一杯分程﹄しかない霊力を注ぎ込む。
微力な能力しか出だせない自分がもどかしい。
両手を患部に当てていた私は、つたない霊力がもどかしくなり、
彼を背中から抱きこむように﹃治癒﹄を施さなくてはいけなくなっ
た。
﹁⋮⋮っ﹂
まだ十分に回復出来ていないが、三室は気が付いたようだ。
﹁!﹂
気絶前の記憶が体を突き動かすのが、野生の猛獣のように私の手
の中で暴れまわる。
﹁三室っ!﹂
暴れる猛獣を力いっぱい抱きしめ押さえつける。
﹁落ち着け⋮⋮﹂
﹁大丈夫だから﹂
声に反応してくれたのか、それとも最後の力を失ったのか、猛る
猛獣は手の中でゆっくり、ゆっくりと力を失っていく。
﹁⋮⋮﹂
﹁落ち着いたか、三室﹂
そう言って、彼は初めて私と目を遭わす。
129
﹁乃江? さん⋮⋮﹂
枯れた声を搾り出す三室。
﹁不本意だと思うが、しばらく動くな﹂
そう言って彼を抱きかかえ﹃治癒﹄を施す。
遠くで鳥が鳴き、昼休みの喧騒も嘘ように静まり返った。
他人事のように予鈴のチャイムが鳴る。
疲れた⋮⋮。私はおもむろに彼から離れる。
﹁抱きしめている意味が無くなった、霊力が空っぽだ﹂
不意に支えを失った彼の頭は、地面に打ち付ける事となり鈍い音
が響く。
﹁つっ!イテェ﹂
そういう音と声を背中に聞きつつ、ポケットを探る。
声が出るのは、回復した証拠。
目の前にある体育館横の水道を開き、探って見つけたハンカチを
濡らす。
さして急ぐ事も無く彼の元に戻り、土で汚れた顔を優しく拭う。
しばらくの間、されるがままになる三室。
おもむろに、
﹁!﹂
昏倒前の記憶が明確になったのか、跳ね上がるように飛び起きる。
﹁っ!﹂
私は、それをもかまわず汚れたハンカチを裏返し、拭いきってい
130
ない箇所を拭う。
出来るだけ心を落ち着かせるように、やさしく。
﹁あとチョットだけ⋮動くな﹂
そう言って落ち着かせる。
﹁土の上だと、汚れっぱなしだ、体育館横のコンクリートの場所へ
移動しよう﹂
そう言って、動きの鈍い彼に肩を貸し、やっとの思いで移動する。
まだ、立ち上がれない彼を横にさせる。
再び水道でハンカチを濡らし、彼の元に急ぐ。
横になる彼の頭の横に座り、腿に彼の頭を乗せる。
血を吐いて汚れた口元を右手で拭い、余った手で﹃治癒﹄する。
﹁⋮⋮⋮﹂
﹁三室?今あった事を話してくれないか?﹂
ほぞ
私は、遠くの木々を眺めながらボソリとつぶやいた。
一通りの顛末を彼から聞かされ、私は臍を噛む事になる。
私達の作戦が裏目に出たと言う事か⋮。
﹁三室⋮⋮﹂
私はすまない気分で、言葉を搾り出した。
﹁すまん﹂
自分の無力さが情けなく涙が出た。
131
﹃心象風景﹄︵後書き︶
ノエみたいな奴居ないよ、って疑問に思われるかも知れませんが居
るんですね。
ここに。
言葉を理詰めで考えたり、行動するときにニ・三手先に考えて行動
したり。
132
﹃共闘 01﹄
﹁今度は私から話をしよう﹂
そう言って、私の持ち得る情報全てを三室に叩き込む事にする。
まず三室⋮
私が発見した時、酷い内臓損傷があった。放っておくとそのまま
病院直行な程だった事。
治癒を施したが、十分に回復できたとは言えない事。
その上で﹁かくれんぼ﹂を提案する彼は、見つけても見つけなく
てもお前を殺すだろうと言う事。
次に妹⋮
妹は、私達が要注意していた能力者に乗っ取られている事。
意識を押し込められ、生きた形代として操られていると言う事。
止めるには、気絶させるか、永久に止めるか、本体を狙うしかな
い事。
おそらくではあるが、陵辱するならお前の前で。それまでは価値
を残す為無傷だと言う予測。
最後に敵⋮
﹁長くなるが覚悟してくれ﹂
そう言って説明を始めた。
彼の名は不明。突如として出現した能力者。
最初の記録は、さる退魔士の手記であり報告書だった。
無所属のフリーである﹁協力者A﹂の元、任務を遂行したと言う
記録。
数日後その退魔士は、うらぶれた路地で死体として確認された。
当局は、協力者﹁A﹂に疑いを持ち調査を開始する。
133
そうして、驚愕の事態に陥る事になる。
死亡した退魔士しか成し得ない﹁能力﹂をつかった別の退魔士の
殺害。
当局は推論した。
・同スキルを持つ者とは考えにくい。協力者として任務を遂行す
る意味が薄い。
・もしかすると。
足取りのつかめない﹁A﹂は、別の街で再び行動に出た。
前回殺された退魔士の能力を行使した退魔士狩り。
﹁もしかすると﹂が確信に変わった瞬間だ。
・奴は他人の能力を使う事が出来る。
と言う事だ。
私達は﹁魂食い﹂と呼称している。
そうして第三の事件が起きたこの街を封鎖し、﹁私達﹂しか能力
を持つ者が居ない状況での包囲戦に出た。
一人は戦闘に不向きな能力の持ち主。半人前の守人。
一人は、魂を取られても大勢に影響の無い少し霊力の有る一般人。
一人は精霊守護の女。精霊守護自体は個人の契約によるもの。能
力としては未知数。
一人は魔女。先天的な資質未知数。学問として魔法学を修めてい
134
る者。
上記の者が追跡者として彼を追った。
二度、﹁魂食い﹂と対峙したが取り逃がしている。
その際に得た情報と今までの情報をあわせると、
・彼は人を操る﹁人形繰り﹂の能力を一度目に盗んだ。
・彼は﹁人形繰り﹂で﹁幻獣召喚﹂の能力者を殺した。
・彼は﹁能力の無い﹂素質のある者をも殺した。
・第三の殺戮前後で、霊力が上がっている。
と言う事だ。
付け加えると、彼自身の能力は、﹁人形繰り﹂の退魔士を殺せる
と言う事。
二度対峙した私達の所感は、
・﹁人形繰り﹂と﹁幻獣召喚﹂同時に使用できない。
と言う事だ。
追いつめられた﹁人形繰り﹂は﹁幻獣召喚﹂を使えなかったから
だ。
少なからず、私達の技を見て﹁盗む﹂事が出来ない以上、
・殺す事によって食う事が出来る
と予想される。
135
情報を集め、包囲網を狭めていた時に困った事態が発生した。
三室が﹁能力の無い﹂素質のある者として登場した事だ。
包囲戦から守りながらの撤退戦に変更せざるを得なかった。
私達は、これ以上の能力収集と殺戮を阻止する為に三室を﹁登下
校﹂ガードする事にしたわけだ。
そこで今回、三室が襲われる事態になった。
﹁ふぅ、すっきりした﹂
三室は長息のため息を付き、こちらを見る。
﹁ここ数日に、いろんな事がありすぎて⋮⋮なにがなんだか良く分
かんなかったんだよね﹂
そう言って吹っ切れた様に起き上がる。
﹁妹探ししないと。じゃじゃ馬だけど俺にとって大切な妹なんだ﹂
そういう彼の目は、妹を想う気持ちにあふれ、優しそうな瞳をし
ていた。
﹁一人で行っても死ぬだけだぞ?﹂
そう言って彼を引き止めようとする、無理だと判っていても。
﹁ルールは他言無用、一人でなんだ﹂
⋮⋮やっぱり説得は無理か。
﹁ひとつふたつ助言させてくれ﹂
私がそう言うと彼は肯く。
136
﹁乃江先生の助言は傾聴に値する。こちらからお願いしたいぐらい
だよ﹂
まず、妹の担任もしくは副担任へ﹁気分が悪くなったので家に帰
した﹂と連絡を入れろ。
引き続き、自分の担任へ﹁付き添うから早退する﹂と連絡してお
け。
牧野へも同様に言い訳し、必ず刀を所持しておけ。
親へは、親が心配するギリギリの時間まで連絡するな。
連絡する際に、妹の携帯が不調なので伝言を頼まれた、妹は﹁友
達の家に泊まりに行く﹂と言え。
連絡先は私の携帯でも教えておけば良い。
次に⋮⋮
﹁私はもう知ってしまっている。一緒に連れて行け。お前の頭では
妹の場所は一生掛かっても探し出せん﹂
そう言うと私は、立ち上がりスカートの汚れを手で払った。
﹁私は、魂食いが言うような﹁お姫様﹂じゃないからな﹂
137
﹃共闘 02﹄
乃江さんの言う通り中等部教諭に、﹁昼間に会う機会があって様
子を見たら、調子が悪そうだったので帰した﹂と告げる。
昨日熱を出していて、無理していたのだろうと補足を入れておく。
﹁いえ、決して生徒の健康気遣うとか⋮⋮管理能力が⋮とか、そう
言う事はないと思います。妹が一人で無理して倒れたというだけで
すから﹂
チクリと脅し文句と付け加えておく。
その後、中等部教諭に仲介してもらい高等部の俺の副担任へ。
すんなりと事を運んでいく。
学校の正門を一歩出た所。カバンの奥に忍ばせていた守り刀を、
刀袋から取り出す。
漆塗りの鞘を腰の後ろ、制服のズボンに挟み、ブレザーで見えな
い事を確認する。
さっきのように突然襲われた場合、素手では対抗手段がないから
だ。
﹁戦を前にした若武者の様じゃな。緊張と怒りで体が堅くなってお
るぞ﹂
刀精のカナタが話しかけてくる。
﹁この状況で怒れないなら、人間辞めたほうが良いかもな﹂
138
早足で駅への歩を進める。
﹁いやいや、怒りではなく闘志を持って戦うのじゃ。さすれば自然
と体が動くぞ﹂
そう言ってアドバイスをしてくれる。
﹁微妙で判りにくいよ﹂
想像して見て苦笑する。違いが良く判らんし。
﹁怒りを持って戦えば視野を狭め、冷静な判断を失わせるのじゃ。
そなたの長所は﹁真実を見定める眼﹂と偶然出来た超高速の﹁判断
力﹂じゃろ?﹂
そう言うといつの間にか姿を現し、俺の肩に乗っているカナタ。
﹁お前、刀抜かないと姿を出せないんじゃなかったのか?﹂
チカラのきゅうしゅう
俺の疑問に即答するカナタ。
﹁いやいや、食事の時だけじゃ。姿を現すのも力を使うからの、節
約しておったのじゃ。なにせ宿主が半人前だったからのう﹂
そう言ってクスクスと笑う。
﹁じゃ、節約して隠れてろよ!﹂
クスクス笑いが癇に障る。ムッとして俺はカナタに意見する。
139
﹁今のそなたからは、いい感じの霊力が噴出しておる。節約など要
らん﹂
そう言って霊力を吸い込むように深呼吸する。
﹁いまのそなたの霊力は天井知らずじゃ。自分の眼の能力に限界を
感じず、何でも見通せると思えば⋮⋮﹂
﹁我が力を貸す限り、そなたは敵なしじゃ﹂
一呼吸溜めてカナタ、がそう言って俺を勇気付けてくれた。
俺は乃江さんとの約束の場所へ走り出した。
﹁ここか⋮⋮緊張するな﹂
そう言って見上げるのは11階建てのマンション。
﹁私は言い訳できる材料がない。そのまま早退する。集合場所の住
所はメールしておく﹂
そう言って乃江さんはそのまま学校を出た。
貰ったメールを確認しつつ、入り口のインターフォンで部屋番号
を打鍵する。
数秒待って、インターフォンからは無言のままオートロックが解
除された。
140
701号室、呼び鈴を押すと乃江さんがドアを開け顔を覗かせる。
﹁予想より早かったな。まあいい。入れ﹂
そう言って招き入れてくれる。
乃江さん、直前までシャワーを浴びていたのか。∼お風呂上り良
い匂い。
大きめの無地の白のTシャツを着て、すらりと伸びる細い脚。あ
れ?
なにか付けてらっしゃらないような気がする。
眼を凝らしてみると、肉を圧迫するラインが見える。
Tシャツに透ける、うっすらとピンク。
﹁最低限は着用されてらっしゃるのか⋮﹂
ちょっとホッとした。⋮⋮⋮ってぇ。あかん! あかんですよ!。
﹁ちょ、乃江さん!!! 風呂上りだっての知らなくて。ごめん﹂
そう言って回れ右して後ろを向く。
俺の素振りを見て、自分の姿を見て思い当たったのか、
﹁ああ、気にするな。ちゃんとパンツ履いてるから﹂
そう言うとスタスタとリビングへ案内する。
気にするなって言われてもな、無理だから。
﹁ちょっと狭いが、入ってくれ﹂
そう言うと、リビング中央のガラステーブルに、座布団を二個敷
141
いてくれる。
広々とした1LDKのリビング。ちょっと狭いとか、日本の住宅
事情をお知りにならない乃江さん。リビングだけで俺の部屋三つ分
くらいありますよ。
﹁乃江さん、美咲さんと住んでるものと思ってました﹂
落ち着かなくキョロキョロとしてしまう。
﹁使用人が主と一緒に住める訳もないだろう。美咲様は隣に住んで
おられる﹂
そう言って座布団に胡坐をかく様に、どっかり座る乃江さん。
ガラスのテーブル越しに見える。見てはいけないもの。ピンク。
ワザとじゃないよな? 見たらきっと殺されるんだよな。そうい
うフラグなんだよなきっと。
ブツブツ言いつつ、乃江さんの向かいに座る。
﹁乃江さんの﹁地﹂って⋮⋮今の乃江さんが本当の乃江さんですよ
ね?﹂
さっきから気になっていた事を聞いて見た。
乃江さんは手帳から目を離し、こちらを見る。右を見て左を見る。
やや汗マーク。
﹁ま、カオルさん、嫌ですわ。本当の私がどちらかなんて⋮⋮﹂
ほっぺに両手を当てて恥らう素振り。
142
俺は無言でチョップを頭に叩き込む。ズビシ!
﹁遅いですよ﹂
﹁⋮⋮いや、色々と必死でな。演技を忘れていた⋮﹂
頭をさすりながら涙目の乃江さん。
﹁真倉の家のものは、男衆が多くてな。こんな口調になってしまっ
たのだ﹂
でも、こっちの乃江さんの方が、合ってるというか自然で良いな。
﹁自分が女だと意識する事もあまり無くてな。変か? やっぱり?﹂
そう言って必死で聞いてくる。
おれは正直に答える。
﹁今の乃江さん、自然だしこっちの方が好きかな。乃江さんが意識
していなくても⋮﹂
ちと恥ずかしい。だが言ってあげないといけない様な気がする。
﹁俺⋮には、乃江さんはかわいい女の子にしか⋮⋮見えないですよ
⋮﹂
﹁⋮﹂
乃江さんの恥らう顔を初めてみたような気がする。
143
こちらも一つ断って置く。
そう言って乃江さんは、話し始める。
﹁私は﹃魂を取られても大勢に影響の無い。少し霊力の有る程度の
一般人﹄だ。幼少から修行と鍛錬はしているが、芽が出ない﹂
そう言いつつ、用意してあったA3サイズより一周り大きい、住
宅地図を取り出した。
不動産屋さんとかコンビニが持っていそうな、家一軒一軒まで記
載されている細かい地図。
これで探すというのか。
ふと、地図の表紙に何か書かれていることに気が付く。
﹁XX駅前派出所﹂
極太の油性ペンで大きく書かれている。
﹁警ら中で誰も居なかったのでな。借りてきた﹂
そう言って言い訳する乃江さん。
なんか、頭痛くなってきた⋮⋮。
﹁まず、私の考えを聞いて貰いたい﹂
そう言うと乃江さんは、白紙のルーズリーフを用意し話しながら
書き込んでいく。
﹁彼は三室を直接殺したい筈だ。でないと﹁魂が食えない﹂から。
144
それと、私達4人を遊びに例え﹁鬼ごっこ﹂と言っていた、今回は
﹁かくれんぼ﹂と言ってる﹂
なるほど、見つかりやすく、かつ見つかりにくい場所。人に邪魔
される事が無い場所か。
かくれんぼと鬼ごっこはわからんな?
﹁かくれんぼって、どういうことですか?﹂
乃江さんは、肯きその疑問に答えれくれる。
﹁鬼ごっことは、隠れても隠れなくてもなくてもいいんだよ。鬼に
触られなければな。極端な話、鬼の近くにいて居場所を発見されて
も逃げれば良い。でもな﹁かくれんぼ﹂は隠れて待たないといけな
いんだ﹂
﹁長時間待機できる場所という事ですか?﹂
乃江さんは肯き、その言葉を肯定する。
あとヒントとして、学校がある時間帯に歩き回る中学生が人目に
つかない場所へ移動したはずだ。
俺も校門を抜けここまで来る間に、不審がる人に何人も出会った。
﹃まぁ不良かしら﹄みたいな目で見られたな。
﹁あと、私の推測なのだが、三室の行動範囲を越えない場所で待っ
ているはずだ﹂
見つかりにくく、見つけやすい場所って訳か。
﹁そういう場所を思考の中で特定するのはそう難しい事ではない﹂
145
そう言うと乃江さんは、おもむろに地図を広げ始めた。
そして、目に止まらぬ速度で手に持った赤ペンを走らせる。
コンピュータ制御のペンプロッターのような正確さ。速度。
そして、あっという間に場所の特定が完了した。
なにが、少し霊力の有る程度の一般人だよ。すげえ。
この人は、自分の事を過小評価しすぎる。そんな気がした。
﹁乃江さんと一緒に探せて⋮⋮本当に心強いよ﹂
敵に回したらこんなに厄介な人は居ないだろう。
146
﹃共闘 02﹄︵後書き︶
147
RS250SP。
﹃共闘 03﹄
アプリリア
スズキのRGVγに搭載されていたV型エンジンを供給され、イ
タリアのバイクメーカであるアプリリア社が独自の味付けをしたバ
イク。
ノーマルのカタログスペックは70ps、SPチューンされた﹃
アタリ﹄のエンジンは80ps以上をたたき出す。
日本の環境対策での2st排除の動きから、2ストロークエンジ
ンを搭載した最後のバイクとなる。
SPモデルを含む初期型は、後期型の改良されたマイルド・扱い
やすさなど一切の妥協をゆるさない仕様。
5千回転以下ではトルクが無く走らない。渋滞だとプラグがカブ
リ失火してしまう。
だが、パワーバンドである7千回転以上だとミサイルのような加
速を見せるジギルとハイド
ガッ!
キーを回しキックで一発始動。
初爆の後アイドリング安定まで待たされる事になる。
﹁の⋮⋮乃江さん。すっごいバイク持ってるんだなぁ﹂
グラマラスなフルカウルのレーサレプリカを見て感心する。
エンジンを掛けていた乃江さんが、二つ持っていたヘルメットを
一つ手渡してくれる。
﹁私の予備だ。三室だったら入るだろう?﹂
148
そう言ってヘルメットを着用する。
乃江さんは当然さっきの服装から着替えている。
白いTシャツの上に、長袖のTシャツを重ね着。上から革のライ
ダージャケットを着込んでいる。
洗いざらしのクラッシュジーンズ、その下にストッキングが見え
隠れ、膝にバンクセンサー︵擦れ防止のプロテクター︶靴はショー
トのブーツを履いている。
なんか、かっこいいな。
さっき地図で確認した場所。徒歩で回っていては時間が掛かりす
ぎるという事で、乃江さんのバイクで回る事になった。
﹁ん?どうした?三室。ヘルメット被れ﹂
いあ、原付の免許すら持ってない俺は、ヘルメットってかぶった
事が無いのですが⋮⋮
﹁ヘルメットかぶった事がないのか。珍しいな﹂
そういって、俺の前で爪先立ちフルフェースのヘルメットを被せ
てくれる。
﹁三室が顔小さくて良かった。ちょうど良いか﹂
そう言ってヘルメットを両手で持ち、頭ごと揺すってくる。
ヘルメットの中に残っている乃江さんの香りが鼻をくすぐる。
俺もバイクに興味があってネットとかで見てたんだが、⋮⋮気に
なる事が一つ。
﹁乃江さん、免許取ったのって何時ですか?﹂
乃江さん、ふと考え込む。
﹁私の誕生日でキッチリ検定受けたから、4月の初めの頃かな。⋮
⋮断っておくが去年のだぞ?﹂
意図する意味が途中で判ったのか、去年である事を付け足してく
る。
バイク
一般道の二人乗りは、免許1年以上でないとNGなのだ。
﹁うちの子も三室も準備OKだ。行こうか﹂
149
アイドリングが安定したということだろう。
乃江さん上着のポケットからグローブを取り出し装着、グー・パ
ーと軽く握っている。
無骨なバイクにまたがり、後ろに乗るように動作で促す。
シングルシートカバーが外された後部にまたがり、遠慮がちに乃
江さんの上着を掴む。
﹁⋮⋮⋮﹂
バイザーを上げ、こちらを振り返る。
﹁ちゃんと掴まっていないと死ぬ事になる﹂
不吉な事を言い放った。
俺は、遠慮がちに乃江さんの細い腰に腕を回す。すごい密着感。
なんか意識してしまう⋮⋮。
掴んだ俺に納得したのか、乃江さんが操るRSは駐車場を出る。
エグゾーストノート
込み入った街中を外れ、郊外にでるバイパス。﹁死ぬ﹂意味がわ
かった。
スガヤのチャンバーから奏でられる軽い排気音、突如として音質
が半音跳ね上がる。
たるい加速を見せていたRSが別人格を持ったように暴れ始める。
パワーバンドに入った瞬間、前輪がフワッと浮き上がる。乃江さ
んはアクセルワークと体重移動で暴れるRSを押さえ込む。
ちゃんと腰に手を回していなかったら、今ので後方に吹っ飛ばさ
れていた事だろう。
RS250は第一の候補地へ加速を続ける。
一箇所、二箇所と候補地が候補から外れていく。
焦る気持ちが高まってくる。
乃江さんは表情を変えずにいるが、やはり心中には焦りがあるだ
ろう。
150
そうして焦りを募らせるだけのツーリングは、最後の候補地に向
かう。
北方面にそびえる山の中腹にある寂れた廃病院跡。
静養所兼病院らしいが、経営元が破綻したとかで廃病院となった
そうだ。
立地が再利用を検討しにくい山の中だということで、再利用され
ず廃れた様だ。
俺たちの街からも見え、緑の山に違和感のある白い建物が薄気味
悪く、幽霊病院と呼ばれている。
山道のワインディングロードを加速、減速、体重移動と繰り返し
キビキビと走るRS。
最初は後ろに乗るお荷物だったが、次第に乃江さんの体重移動に
あわせて動けるようになった。
遠めから見て、様子を探る俺と乃江さん。
﹁三室、アタリかな。濃い気がここまで来てる﹂
確かに、体が重くなりそうな、肩が凝りそうな濃い瘴気が目に見
える。
俺は肯く。
腰に挿していた守り刀の位置を確認する。
駐車場にバイクとヘルメットを残し、建物を一周する。
外から見た病院の建物は酷いものだった。
窓ガラスは至る所割れ、板で補修されている。
玄関もチェーンと南京錠で封鎖してあったが、ほとんど意味の無
い状態だった。
俺たちは意味の無い鍵とチェーンを引っ張り外した。
音を立ててチェーンは地面に落ちた。
﹁鍵の意味ない⋮と言うか⋮⋮鍵がかかっていない﹂
俺は錆びたチェーンで汚れた手を掃う。
151
一歩踏み込んだ病院内は、壁材、床材が外され、残った物も腐り
落ちた状態だった。
病院って言われないとわからない位、コンクリートと鉄筋の塊に
なっていた。
前方を見た俺は刀を抜き、乃江さんは拳を固めた。
遠く、前方に見覚えのある黒い犬が立っていた。今まさに飛び掛
らんかとする身を屈めた状態で⋮⋮
﹁ちゃきーん﹂
雰囲気ぶち壊しのカナタの声。いつもの定位置ではなく俺の肩に
乗る。
飛び掛る犬に対し、俺は腰を落とし身を固め刃先を攻撃対象に向
ける。
意に解さないような乃江さんは、無防備なまま一歩、二歩と前へ
歩き出す。
﹁の、乃江さん!﹂
敵が見えていないのかと、危惧するくらい無防備だった。
だが、それは俺の杞憂となる。
乃江さんの前方2mほどの場所から飛び掛った犬に対し、窓の曇
りを手の甲で払うようにゆっくりとした動作で犬のあごを掃う。
飛び掛った力の方向を変えられ、黒犬は乃江さんの右横で背中か
ら地面に落ち、強かに背を打つ。
ギャンッっと一鳴きした黒犬だったがすぐさま立ち上がり、乃江
さんに牙を向ける。
表情すら変えない乃江さん。
黒犬の下あごを左ひざで蹴り上げ、無防備になった犬の胸板へぼ
んやりと光る掌底を打ち込む。
鈍い打突音が響き、黒犬は霧のように霧散した。
152
﹁っ⋮﹂
強ぇえ。
てい
なにが﹁一般人﹂だ。洗練された武道家の動きと光る拳。息一つ
トマイディ
乱していない。
﹁泊手。柔軟な動きが特徴の手。古流の空手だ﹂
そう言って、表情を崩す乃江さん。
﹁私にはコップ一杯分くらいの霊力しかない。衝撃と共に光の力を
撃ち込んで非力さをカバーしている﹂
そう言って握っている手を弛緩させる。
一階を見回す。頭上から来る重い倦怠感が指し示しているように、
一階には何もいない。
一歩、一歩と慎重に階段を上がる。
二階に上がると化け物の気配が尋常じゃない。数じゃない。気配
の重さが。
﹁方向はあっているようだな﹂
先を歩く乃江さん何かに気が付き足を止める。
前方から、背の低い四足の動物に乗る剣士。﹁そういう姿﹂をし
た瘴気の塊。
ダマスカス剣のような、波打つ剣を肩に引っ掛けこちらを威圧す
る。
﹁戦車⋮﹂
乃江さんがボソリとつぶやく。
﹁え?﹂
聞き間違いなのかと、ふいに声に出してしまう。
﹁幻獣召喚の能力者は⋮⋮トート⋮⋮タロットの大アルカナの絵柄
153
の幻獣を出し戦わせる﹂
正面の敵を目で追いながら、距離を保ち一歩後退りしながら乃江
さんがつぶやく。
つが
﹁さっきの犬は﹁月﹂月夜に吠える二匹の犬﹂
俺が襲われた黒犬の番いか。
厄介な能力だ。使役する獣の使いようによっては戦略の自由度が
高い。
こういう、ゲリラ戦だとこちらが不利だ。
そう思って抜いた刀を構え、加勢しようとした時。
﹁っ!﹂
背後に強い瘴気。瞬時に体を入れ替え振り返る。
巨大なライオンを従える女神。その姿をかたどった瘴気。
俺と乃江さんは背中合わせ、逃げ道を失った訳だ。
﹁三室⋮⋮﹂
﹁乃江さん!﹂
思う気持ちは一緒なのだろう。続く言葉を発する前に、敵の懐へ
飛び込む!。
四足のけだものはワニの様な大口を上げ、踏み込む乃江の胴に噛
み付こうとする。
大口を開く顎に﹁そっと﹂触れるような左手の掌。
掌を押し当て力の向きを逸らす。
力を逃がし切れないと悟ると、左足つま先を右足踵の後ろへ位置
させ、90度瞬時に体を移動させる。
それと同時に、剣士からの攻撃が繰り出される。
遥か頭上から、ダマスカス剣が振り下ろされ乃江を両断しようと
する。
頭上15cmの所、右手の掌を振り下ろされる剣に添え両断する
剣の向き、ほんの少し角度を変える事により両断を免れる。
返す刀で逆袈裟がけに切り上げる剣士。
154
軽いバックステップ。
足りない。
上体を後ろにスウェーする事でギリギリかわす。
﹃ふぅ、上下の連携攻撃⋮⋮⋮厄介だ。﹄
ふと乃江は背後の三室が気になった。
巨大なライオンと女神。﹁Lust﹂のアルカナ。
俺はこれを相手にするのか?
乃江さんに負担を掛けたくなくて、分担して個別撃破を試みよう
と思ったのは良いとして⋮⋮、
手がブルッちまって、言うこと聞かない。
敵に向けた守り刀が、みっともないまでに震えている。
落ち着け⋮⋮
落ち着け⋮⋮
血管が破れるので無いかと言うほど脈がうざったい。
振り向けない後ろで、乃江さんの戦いの音が聞こえた。
ここで俺があっさりやられたら、乃江さんに迷惑が掛かる。それ
だけは避けたい。
﹁ふぅ∼﹂
この期におよんで深呼吸する余裕があるとは思わなかった。
覚悟を決めたのか、あきらめの境地に達したか、構える守り刀の
震えが止まった。
たが敵はそれ以上の猶予を与えてくれなかった。
ドンと一足飛びで踏み込んできたライオンが俺の目の前に瞬時に
移動してきた。
犬のように噛み付いて攻撃してくるのかと、口に気を取られ過
ぎた。
155
ふと、ライオンが上半身を立ち上がらせ右斜め上からの爪。
コマ落ちし、速度の落ちた襲い掛かる爪に刃を当てる。斬る⋮⋮
いや⋮⋮
嫌な予感がする。
左からの爪が時間差の攻撃、すぐ左まで迫っている。
⋮斬っていては間に合わない。
右手に当てていた刀を引っ込め、体を入れ替える様に左を避ける。
地響きが同時に二発。すごい力だ。
﹁うむ、懸命な判断だった。刃筋を立てる事も出来ず、斜めからの
捻じれの力を加えられて剣が折られる所じゃったの﹂
そういうとカナタは定位置の手にしがみつく。
﹁奴が大きな猫だってのを忘れてた﹂
難敵を猫に見立て、虚勢を張る。
﹁敵を良く見るんじゃな。さすれば道は開かれん﹂
言葉には重みがあるのだが、本人は俺の手から振り落とされない
ように必死だ。
﹁見る⋮⋮か﹂
見えすぎて怖いんですけど。
次第に恐怖に慣れていく自分に気が付く。
﹁乃江さん⋮﹂
気になりながらも、後方の乃江さんを見ることも出来ない。
それほどに、ライオンの眼と躍動する肢体は危険な匂いがする。
156
﹃共闘 03﹄︵後書き︶
ああっ、早くもミスを見つけてしまいました・・・
当初﹁力﹂と書いたライオンさん。トート版だと﹁Lust﹂欲望
のカードでした。
7面の四足の怪物に載る娼婦?だったと。
名前はLustに変更しましたけど、モチーフはウエイト版のライ
オンと女神のままで変更せずです。
157
﹃共闘 04﹄
長引く戦闘は不利。
手持ちの霊力が少ないのだから、手早く仕留めないと。
持久戦の後に待っているのは﹁敗北﹂の二文字。
効を焦っているのではない、先手必勝、その一択しか私の戦いに
は無い。
戦車の大口に前蹴り、上から蹴り落とす反動を利用して飛ぶ。
ダマスカス剣をレイピアのような縦の動きで、射抜きに掛かる本
体。
私の体幹ピッタリに刃先が迫る。
右に逃げても左に逃げても同じ時間が掛かる箇所への攻撃。
見た目に負けてはいけない。
戦車も敵、剣士も敵、剣は武器⋮⋮⋮いや違う。
戦車も剣士も武器も本体なのだ。
迷いを振り切る。
拳に、体全体の霊気を集中する。拳以外は常人以下の防御力。だ
が、拳は光の光気で満ち溢れる。
剣先に拳を撃ち込む、渾身の正拳。
迷うな。
振り切れ。
体全体の捻じれの力、そのモーメントを拳に伝えていく。
光と闇混ざり合う、拳と剣。中和され紫電の火花が散る。
﹁戦車﹂は剣先から溶けるように霧散していく。
膝から地面にかしずく様に着地すると、全身の倦怠感がドッと押
し寄せ肩で息をする。
158
敵を見る⋮ライオンの動きに眼を取られてしまうが、横に寄り添
うような女神⋮⋮あれは何だ?
攻撃するでもなく指示をする訳でもない、ただ横に寄り添うよう
に立っている。
それがかえって不気味さを醸し出しているのだが⋮⋮。
試すか。
﹁おぬしの長所は、後の先じゃそれを忘れるでない﹂
先手を仕掛けようとする俺を牽制するカナタ。
﹁後の先?﹂
敵から視線を反らさず、独り言のように聞く。
﹁敵の動きを読み、見て行動する。超高速の思考でその一手を先回
りする。後手に回って敵に先じるのじゃ、自分で動いて敵に先を取
られたら負ける﹂
じゃんけんの後出しで勝てと⋮⋮そういうことだな。
ふぅ⋮⋮とため息を付いて無防備で前に出る。
先ほどの乃江さんの様に。
きっと乃江さんも、こうする事によって敵の動きを読み、いなし、
攻撃をしたんだろう。
一歩、二歩とゆっくり前に出る。
敵の射程ギリギリまで。ゆっくり。
射程内に入ったら一撃でやられる、そんな確信が持てる距離その
ギリギリ手前。
脱力した体は降伏の意味ではない。どの動作にも最短のニュート
ラルの状態なのだ。
防御を固めていては、攻撃に出るのに筋肉の力の入れかたを変え
ねばならない。
逆に攻撃に出ても、防御に回る際に使う筋肉を切り替える動作が
必要になる。
一歩射程に忍び込む、すかさずライオンは人間の頭など一撃で粉
159
砕する大きな爪を振るう。
攻撃に出た右手は攻撃こそ最大の防御。体は攻撃のスイッチ。防
御が薄い。
同時に来るだろう左の攻撃も予測しながら、ゆっくりゆっくりと
回避する。
全身の筋肉が悲鳴を上げているのがわかる。
自分の体感だと太極拳のような速度、精度で動いているように思
えるが、本来俺が動けるスピード限界を超えて超高速で動いている
のだから。
右手の爪をミリ単位で避け、その爪にそっと添えるように刃先を
あわせる。
ほんの少し力を込めるだけで、相手の力と相乗して斬れる。
受けた剣先から、カナタの吸収が始る。
﹁いっただきま∼す﹂
ライオンの体全体を消すほどのダメージを与えられていないのか、
爪のあたりからゆっくりと消え始める。
手負いの獣は左の脚で地面を蹴ると、その大きな下あごで俺の首
筋を狙ってきた。
刀を構えた右手の肘で、ライオンの左顎を撫ぜるように向きを変
える。
反動が殺せない分、肘、肩、背中と順にライオン左側をすべるよ
うに移動。
手に持った刀を首筋に刺し、一挙動で首、肩、胴、尻尾まで一閃
する。
﹁ゴチになりま∼す﹂
カナタの吸収が加速する。
振り切った刀の勢いそのままで、あと一歩踏み込むと女神の頚動
脈付近を跳ね上げた。
二体の敵は、瞬時に霧散した。
160
動きすぎた。
全身の筋肉が脈打つように痙攣している。
カナタのいう敵に後の先を取られるって言うのが理解できた。
まさに今、攻撃されても打つ手が無い⋮⋮。
死に体という奴か。
よろよろと動き出すと、後ろの乃江さんの方へ歩き出す。
あちらも戦闘終了している様子で、乃江さんは膝を突いて、肩で
息をし動けずにいる。
﹁乃江さん、大丈夫ですか?﹂
﹁お前に気遣われるとは⋮⋮⋮今日一番のショックだよ﹂
そう言って苦笑する。
乃江さんに肩を貸して前に進む俺たち。
瘴気の濃度が暗示しているように、敵はもう居ない。
残念ながら、人の気配も感じられない。
﹁ここも、ハズレですかね﹂
そう言って辺りを見回し、無人の二階から一階へ。
﹁敵に予測されたようだな。あらかじめ札を配置して置いて、行動
に出た。そんな感じだろう﹂
そういいつつも、脳内で何千回もの思考、演算を開始している乃
江さん。
表に出てバイクのある付近で、アスファルトに突っ伏す。
薄暗い空を見上げ、呼吸を整える。
しばしの休息が⋮俺たちには必要なようだ⋮⋮
161
﹁もういいかい?まーだだよ﹂
不意に乃江さんがつぶやく。
あまりに唐突だったので、﹁壊れ﹂たのかとギョっとした。
﹁ふふふ⋮⋮馬鹿だな私﹂
大声で笑い出す乃江さん。
本格的に心配になった俺は、寝転んで空を見上げる乃江さんの顔
を見る。
乃江さんは俺を見、俺は乃江さんを心配そうに見る。
﹁いや、大丈夫だ。あまりに迂闊だったので失笑してしまったのだ﹂
そう言って乃江さんは話し始める。
﹁12時までに探せと言うブラフに引っ掛かった。なぜ12時間も
猶予を与えたのか。あいつは、行動範囲を広げるためじゃなく遊び
の時間が欲しかっただけなんだ﹂
意味が判らず、次の言葉を待つ。
﹁探し易くもあり探しにくく、長期で隠れれる場所がもう一個あっ
た﹂
そういうと左手で眼を覆い、続きを説明する乃江さん。
﹁かくれんぼのルールにはな、鬼が目を閉じている間に隠れるルー
ルがあるんだよ﹂
!。それは。
﹁制服の中学生が、学校のある時間帯に居ても違和感のない所﹂
﹁学校だ﹂
162
﹃インターミッション 03﹄
廃病院から山道を下るRS250。日も暮れて街灯も無い山道は
二輪にとって鬼門。
だが、急ぐ気持ちは抑えられず右へ、左へと走り続ける。
ぶっちゃけ二輪のタンデム走行では、道中の会話など皆無。
排気音と風切り音で会話できる状態ではないのだ。
ヘルメット内にマイクとヘッドフォンを装備して会話するパーツ
なども販売されているくらい。
コーナー手前、左足の変速は二段踏み込み﹁ガキッ﹂﹁ガッ﹂と
シフトダウン。
軽いブレーキで速度を整え、右にバンクを切る。
パワーバンドを外さずコーナー出口でいいトルクで脱出する。
最終目的地に向かって走り続ける。
﹁カナタ、出れるか?﹂
何か呼んだかのカオル。食後の惰眠をむさぼっておるに。
﹁なに用じゃ?﹂
仕方ないので、肩に顕現しカブリ物の隙間から話を聞く事にする。
﹁乃江さんと今後の方針を立てたいんだけど。話したい事を伝えて
貰って良いかな?﹂
なにをたわけた事を言うておるのやら。
﹁神をそういう風に使う奴は、我が人生に於いて初めてじゃ。罰当
たりめ﹂
そう言ってたしなめる。
﹁うん、判ってるよ。でも。頼めるのはカナタしか居ないんだよ﹂
163
われしか居ないとか言われてしまうと、断りきれんの。悪い気も
せんしの。
﹁⋮⋮仕方ないの。今後について話したいと伝えて見れば良いのじ
ゃな?﹂
カオルは肯定の意味で、肯く。
早速伝えるべく、カオルの手を滑り降り服を伝ってノエの肩によ
じ登った。
﹁ノエ。聞いておるか?﹂
最初戸惑ったようだが、声で認識したようでコクンと肯いた。
﹁カオルが申すには、ノエとの今後について話したいと言っておる。
話を伝えてよいか?﹂
﹁⋮⋮⋮﹂
ボッ。
顔から火の出そうなノエ。
⋮暑いわい。
﹁私との今後って⋮⋮あの⋮そういう事?﹂
なにやらぶつくさ言っておる。
﹁話をしとう無いのか?﹂
頼まれた事ゆえ、きちんとこなすのが神。相手の意向もちゃんと
聞くのが筋。
ノエは盛大に首を横に振る。振り落とされるじゃろうが∼。
了解の意味を理解し、再びカオルの元へ。
﹁承諾を得たぞよ。なにを伝えたらよいのじゃ?﹂
なにやら、楽しくなってきたぞよ。
﹁学校に行った後、どうしようか? と伝えてくれ﹂
むっ。学校に行った後とはこれ如何に。行き終わった後という事
かの?
テッテケテーとノエの肩に。
164
﹁学業を終えた後どうしたら良いか話したいそうじゃ﹂
﹁!﹂
ブレーキの判断が遅れる。
ギッ。
フロントブレーキがロックし操作不能。即座ブレーキをリリース
しカウンター、体重移動とリアブレーキを強め踏み込みフロントの
滑りに同調させる。
ガードレールが迫ってくる。
郡﹂バリのガードレールキックでしのぐ。
﹁ガツ!!﹂
﹁巨○
﹁ふぅ、はぁ、ふぅ、はぁ﹂
心拍数の上がったノエ。
鬼の形相で、われを睨む。ガクブル
﹁不本意かえ?﹂
あまりに、必死の形相に流石のわれも縮み上がる思いじゃ。
﹁も⋮⋮もうチョットだけ。考える時間が欲しい﹂
荒い息で答えるノエ。幾分顔が赤いようじゃ。
﹁嫌なのか?﹂
端的に聞いて見る。神の務めじゃからの。
﹁嫌じゃない⋮けど⋮そういう事を言われるの初めてだから⋮だか
ら﹂
あまりに暑苦しいので、テッテケテーとかおるの下に。
165
﹁考える時間が欲しいそうだ。なにやら様子がおかしいがの﹂
そう言ってカオルに伝える。
﹁そうだな、さっきも運転ミスっていたし。もう少しゆっくりでも
良いんじゃないか?﹂
テッテケテーとノエの肩に。
﹁ゆっくりで良いと言っておったぞ﹂
そういうと得心いったのか、ノエの表情も晴れ晴れとしたように
見受けられる。
﹁ほんとに私で良いのか?﹂
早速伝えてくるぞよ∼
﹁私で良いのか聞いておるぞよ﹂
カオルはちょっと困惑した表情。
﹁戦うペアとして乃江の事を言ってるのかな﹂
﹁乃江さんが居なかったら、ここまでたどり着けなかったろうしな。
すごく頼りになるし⋮むしろ乃江さんで無いと⋮。考えまとまった
ら聞かせてって言ってみて﹂
あい、承知した。
﹁なにやらノエの事を一杯誉めておった。むしろノエでないと駄目
だそうだ、さっきの話が纏まったら聞かせて欲しいと申しておる﹂
なにやら潤んだ瞳で前を見ておる。危ないぞよ。
﹁なにか、伝える事は無いか?﹂
頼まれた以上、最後まで完遂するのが神。
﹁今日一日、カオルと居て、カオルと戦って⋮⋮⋮見直した。安心
して背中を任せられる存在って良いな。ちゃんと考えて返事するか
ら⋮ごめん⋮待っていてくれと伝えてくれ﹂
あい、承知。
166
﹁なにやら、カオルを誉めておったぞ。それと背中がどうとか言っ
ておった﹂
﹁背中?﹂
???の付いたカオル。
﹁背中が痒いのかな?﹂
﹁我にも判らぬ⋮乙女とは不可解なものじゃな﹂
滑走するバイクは﹁???﹂マーク出しながら山道を駆け下りる。
167
﹃インターミッション 03﹄︵後書き︶
168
﹃潜入﹄
もうすぐ学校という所でバイクの排気音がスローダウン。
キルスイッチでエンジンを切り惰性で走行する。
﹁あえて、敵に存在を知らせる必要もないだろう﹂
そう言って、乃江さんは愛車を路肩へ止める。
ヘルメットを取り、前方の三つの人影に視線を送る。
その視線を追いかけるように前方をみる。
﹁!﹂
美咲さん⋮⋮山科さん⋮⋮宮之阪さん。
﹁よう、カオルくん。元気やったか? 心配したでぇ∼﹂
そう言って手を振る制服姿の山科さん。
﹁乃江さんから⋮⋮メールで⋮⋮聞いています﹂
聞きたかった一言を告げる宮之阪さん。
乃江さん、申し訳なさそうに頭を下げ、
﹁自分の推測が外れたときの保険だ。別行動で捜索してもらってい
たんだよ。団体で動き回ると目立つからな﹂
そう言って説明してくれた。
﹁しかし、敵は⋮⋮﹂
俺が敵とのルールを言おうとした時、美咲さんがその言葉を遮っ
た。
﹁判っています。しかし﹃魂食い﹄は妹さんを盾に貴方を食うでし
ょう。食い終わったら結局用済みの妹さんは殺されます﹂
淡々と話す美咲さん。
﹁貴方が戦った﹃幻獣召喚﹄は強かったでしょう? それでも何の
抵抗も出来ず殺されました。理由はカオるんが一番ご存知でしょう
?﹂
俺と同じように人質を取られた⋮⋮か。
﹁でも、安心してください。表立って行動するのはカオるんだけ。
169
私達は裏方として包囲網を敷きつつカオるんをフォローします﹂
そう言ってニッコリ笑う美咲さん。
﹁カオるんは、正門から北館へ。私は忍んで南館。同様にユカは西
館。マリリンは東館を﹂
そう言って、周囲に支持を出す美咲さん。
﹁お嬢様、私は?﹂
戦力外と思われたのか? 悲しげに美咲さんを見つめる乃江さん。
﹁ノエには、北へ先回りしてカオるんのフォローを。私達より難し
い仕事です﹂
厳しく乃江さんに言い聞かす美咲さん。
ふと厳しい顔を緩め、
﹁今日一日一緒に行動し、戦ったノエが適任だと思います。妬けち
ゃいますね∼﹂
いつもの調子に戻る美咲さん。肘で乃江さんをウリウリ弄る。
照れた顔で俯く乃江さん。
﹁なんや∼? そのリアクション。あかんで∼﹂
顔を真っ赤にして照れている乃江さんに、ヘッドロックをかます
山科さん。
宮之阪さんも無言で頬を膨らませ怒ってらっしゃいます。
仲が良いって、良いなぁとしみじみ思える。
﹁多分、人おちょくって楽しんどる悪趣味な奴の事や、どこに行っ
ても札配置しとるやろ。気い付けて﹂
山科さんの言葉に肯く4人。
しかし、本当にここに妹がいるのだろうか? ふと不安になる。
﹁あらあら、不安そうな顔をしていますね∼。妹さんならここにい
らっしゃいますよ﹂
そう断言してくる美咲さん。
あんまりきっぱり言い切るもんだから、きょとんとしてしまう。
﹁お母様に聞いてきましたもの﹂
170
そう言って俺に手を広げ一言だけ⋮⋮。
﹁見ますか?﹂
そう言って俺の胸に手を当てる。
光る手は俺の胸の中から無数の﹁赤い糸﹂を引きずり出す。
あまりの異様な光景に、全員がその行為を凝視する。
赤い糸の多くは、遠くの街の光へ繋がっている。
﹁わぁ♪﹂
自分に繋がる﹃縁﹄を見つけ喜ぶ山科さん。
﹁ぽっ﹂
俯いて恥らい、自分に繋がる﹃縁﹄をギュっと握り締める宮之阪
さん。
﹁⋮⋮﹂
両手ですくい取るように﹃縁﹄を見つめる乃江さん。
﹁にっこり﹂
もちろん私にも繋がってますよねって顔の美咲さん。
そしてもう一本⋮⋮学校に向かう赤い糸。葵の﹃縁﹄
﹁失せもの探しは私の専売特許ですもの。お母様にお会いしまして、
ちょこちょこっと⋮⋮私に言ってくだされば⋮⋮役立てたのに﹂
と言って不満顔の美咲さん。
﹁お母様って⋮⋮拉致されたって言っちゃった?﹂
心配して死んじゃうだろ⋮⋮。
﹁言霊⋮⋮﹂
ぼそっとつぶやく美咲さん。怖いんですけど。
母は洗脳されてしまいましたか⋮⋮。
﹁私の家にお泊りしますので、ご心配なくと暗示を掛けておきまし
た﹂
やっぱり⋮⋮怖ぇぇ。
﹁カオるんも⋮⋮お泊り﹂
171
ええっ∼。そんな理不尽な言葉も刷り込めるのか。美咲さん怖ぇ
よ。
一人校門をくぐる。
﹁人払いの﹁呪﹂を門に掛けてありますで、入る時気をつけてくだ
さいね﹂
美咲さんの一言が思い出される。
入る時すっごい違和感を感じた。ふと何もかも投げ出して帰りた
くなったのは内緒だ。
それほどに強力だった。
前フリしてもらっていて、気をしっかり持っていてもこの効果だ。
意識していない人なら、効くんだろうなぁ。
ザッ⋮⋮ザッ⋮⋮、無人の学校に砂を掻く足音だけが響き渡る。
﹁敵が待ち構えていると思ったがな⋮⋮﹂
ふと、心細くなってカナタに話しかける。
﹁校舎の方には﹁いる﹂ようじゃ。いわずともわかっておるのじゃ
ろ?﹂
そう言うと、俺の背に乗る刀精。
﹁ああ⋮⋮酷いのがいるなぁ。果たして勝てるか⋮⋮﹂
夜風に吹かれ身震いする。
胸の携帯が震える。先回りした先鋒隊の合図が。
from:山科
警備システム解除完了。
172
ツッコムのめんどくさいけど、問い正してやりたいね。
何で、そんな事できるんだってな。
再び胸の携帯が震える。
from:山科
カードを通したら解除できるんやで∼。って聞いてや∼><。
リーダーの横に紐付けてぶら下げてあったわ。
工具持ってきたのに意味無いわ。プンスカ。
うちの学校のセキュリティって⋮⋮涙。
気を取り直して、堂々と北館に向かわせていただく事にする。
﹁用務員さんとか当直の人も﹁人払い﹂が効いてるのかな? 人の
気配が無い﹂
周りを見渡すが気配を感じれない。
﹁薄くて気がつかんだけじゃ。強力に張ったら気づかれるじゃろ﹂
そう言って俺をたしなめるカナタ。確かにそうだ。
北館入り口、鍵は開いていた。
﹁乃江さんかな? 先回りしてフォローしてくれてるんだ﹂
入れなかったら、窓ガラス破壊とか考えていたから助かった⋮⋮。
建物の中はほとんど闇。非常灯の赤いランプだけが頼りだったが、
それも焼け石に水。
﹁暗いな⋮⋮、ほとんど何も見えねえ﹂
そう言って目を凝らす。
﹁うつけ! 視力に頼るでない。おぬしの能力は﹁真実を見定める
眼﹂じゃろ。集中してみよ﹂
カナタが耳元で語りかける。
﹁そうは言ってもな。見えないもんは見えないし﹂
カナタは出来の悪い子供に諭す様に語りだす。
173
﹁暗闇は暗闇という障害物じゃ。その暗闇だけを見ておるからその
他の物が見えん。そこに必ず暗闇以外の物があるんじゃと信念を持
って見よ。おぬしは諦めておるのだけじゃ﹂
暗闇の障害物、物は必ず有る⋮⋮か。確かにな。見えないと思っ
ているだけか。
目を閉じ、心に言い聞かせる。有る。見える。
目を開けるとぼんやりと校舎が見える。
﹁うーん、目が慣れた感じにしか見えんけどなぁ﹂
目を閉じて、闇夜に目が慣れた程度にしか見えない。目の暗反応
って奴か。
﹁いや、見えておるのなら﹁真実を見定める眼﹂が働いておるよ。
常人にはこの暗闇は見えん﹂
そう言って俺を励ましてくれるカナタ。
﹁んじゃ、能力全開で戦闘開始するか﹂
刀を引き抜く俺。
﹁⋮⋮⋮﹂
すでに姿を現しているカナタ。例のお約束の言葉、言おうか言う
まいかオロオロしている。
なんだかかわいそうになってきた⋮⋮。
﹁ん。言っていいよ﹂
ぱぁぁっと表情を明るくするカナタ。
﹁ちゃっきーん!﹂
その合図で、足早に歩を進める。
174
﹃Art﹄
静まり返る東館の校舎。
文系特別教室のあるこの校舎は、昼間でも中等部の西、高等部の
南と違い人通りはまばら。
玄関に立ち、そっとドアを開けてみようとするが鍵が掛かってい
て開かない。
﹁あたりまえ⋮⋮ですよね﹂
なにを独り言いってるんだろ。おかしいですね。
私は、苦笑しながら正面玄関に手をかざす。
﹁⋮⋮transfero﹂
小声で呟いた呪文に反応し、手先から自分の体の存在感が失われ、
受肉をした体は、エーテル体に変化し、玄関をやすやすと潜り抜け
た。
﹁ふぅ⋮⋮﹂
ため息を一つつける頃、次第に受肉した体へと戻っていく。
通り抜けの時に、不快感があるのですよね。
あまりこの魔法は好きではありません。
右手で左肩、左手で右の腰を抱き、自分の体を抱擁する。
だめですね⋮。肉体に縛られている限り、高次へ昇華はないとい
うのに⋮。
おばあさまに﹁ヒヨッコ﹂って言われるのは、そういう所以なの
でしょうね。
﹁行きましょうか﹂
確かめた肉体に安心感を覚え、闇の気配の強い方向へ歩を進める。
175
校舎内は、一種異様な光景が広がっていた。
廊下一面に、大きさ15センチほどの小人の群れ。
そういう状況とトートカードの絵柄に当てはめてみた。
﹁ん⋮⋮、Aeonかな。それともArt﹂
ゆっくりと進軍してくる小人の群れに動じることなく、頬に手を
やり考える。
どっちも良いです。見て確かめれば良い事ですから。
﹁Aigis⋮⋮﹂
最初の呪文に合わせて、両の手が光りだす。次の呪文を唱える。
﹁Minerva⋮⋮﹂
右の光が赤の光球となって、私にじゃれ付くように飛び回り始め
た。
﹁Medousa⋮⋮﹂
左手の光が蒼の光の球となって、無機質に私を周回する。
これが私の戦闘態勢。
あらゆる邪悪・災厄を払う魔除けの能力を持つとされている盾。
メドゥーサを退治した時にその盾をより強化する為に、メドゥー
lapideus﹂
サの首を盾の一部にしたとされる。
﹁⋮⋮Cariatio
蒼の光の球から放射状に光が発せられ、光を浴びた小人の進軍は、
一体一体と石化を始める。
176
だが、物量に物を言わせ進軍する小人は、石化を物ともしない。
﹁かわいそうな⋮子達﹂
すでに周囲を取り囲まれたが、動揺は微塵も感じない。寧ろ愛哀
の気持ちさえ湧き上がってくる。
飛び掛ってくる小人の群れ、光速で叩き落す赤の光球。
叩き落された小人は、形を失い霧散していく。
だが、カオルさんの妹さんを早く救出しないと⋮⋮。
操られている子らを哀れんでいる暇は無い。
﹁Ignis﹂
短く呪文を唱えると、四方に発生するバックドラフト。浄化の炎。
酸素を求めて、廊下を突き進んでいく。
浄化の炎が立ち消える事には、周りに静寂が戻っていた。
﹁ちょっと派手でしたでしょうか⋮⋮隠密行動って⋮忘ていました﹂
そう言うと、人の気配の無い一階を後にし、二階へと歩を進める。
二階、それはまた一階と違い異様な光景。
天使を模った無数の小人達。廊下の向こうへの視界を妨げるほど
の量。
﹁なかなか⋮⋮芸が細かい⋮ですね。今度は空﹂
そう言うや否かのタイミングで、無数の矢が私を襲う。
一本一本は針のようなサイズ、だが脅威なのはその速度。短針銃
で一斉射撃を食らうような物だ。
だが、私は動じない。
目の前の数千の矢、ほとんどはMinervaが叩き落し、Me
dousaが石化させ霧散させた。
足りない分は自分で補う。
177
﹁aura﹂
自分の周囲に、小さな旋風を発生させ矢を弾き返す。
後手に回っていては、キリが無い物量。一気に倒す。
私は両の掌を前に、その先の廊下の端を狙う。
﹁Fulmen﹂
手から発せられる、紫電の光は近隣の小人達から奥へ、いもずる
式に感電させる。
隠密行動も難しいですね。
どうも、コッソリと行動するのは苦手のようです。
三階、瘴気の塊がそこにある。
赤のハゲワシ、青オオカミを引き連れた二つの顔を持つ錬金術師。
﹁Artでしたか⋮⋮小人達はホムンクルスですか﹂
腐った精液で作る人造の生命。
瓶の中でしか生きることが出来ず、外へ出すと次第に弱り死んで
しまう。
捨て駒として、無駄に生命を造る錬金術師に怒りの憎悪が沸く。
﹃Flammeus﹄
右の顔の錬金術師が呪文を紡ぐ。
﹁あらあら、カードなのにお話できるのですね﹂
そう言って、身構える。
ハゲワシがこちらを威嚇する叫びを上げたと思うと、目の前の空
間が炎を上げ弾けた。
178
﹁くっ⋮﹂
ほとんど反射の反応速度で、後方へ飛ぶ。
﹁!﹂
髪の毛が焦がされる匂いがする。
﹁ムカぁ!﹂
女の命を燃やすなんて⋮⋮酷いです。
咄嗟の回避で逃げ切れなかった、かわいそうな毛先を見る。
ほんのちょっぴり焦がされた毛は、私の怒りに火をつけるのに十
分な罪だった。
﹁Glacies!﹂
短く詠唱を完了すると、火の属性のハゲワシを狙い氷柱を走らせ
る。
glacialis﹄
それに呼応するかのように、左の顔の錬金術師が詠唱を完了させ
る。
﹃Columna
ハゲワシを守るように立つ氷柱は、私の氷柱の勢いを吸収し、よ
り堅固な氷柱を完成させる。
同属性の魔法で相乗されてしまいました。
ううっ、ちょっぴり自尊心に傷が付けられた気分です。
かなりムカつく相手です⋮。
しかもですね⋮⋮相手が二体居るというのが⋮⋮ですね。ヤバイ
です。
﹃⋮⋮Glacies﹄﹃⋮⋮Flammeus﹄
左右同時の攻撃!。やっぱり来た!。
179
﹁Aigis!﹂
困ったときの盾頼み。ミネルバとメドゥサの光が合致し、空間に
雲母状の盾を形成する。
﹁!!!!﹂
強大な魔法の衝撃に耐える盾。がんばってミネルバちゃん、メド
ゥサちゃん。
﹁⋮⋮⋮﹂
火の攻撃はなんとか耐えれた。
氷もほとんど回避できた。
しかし、踝から下が凍付けになっている。
脱出を試みている間に、畳み掛けられて終わり。
脱出できたとしても、この脚では動きが鈍く狙い撃ち。
﹁なら﹂
足元の氷など、歯牙にもかけない。
立ち、攻撃あるのみ。
﹁同時攻撃が貴方の専売特許だと思った?﹂
笑いがこみ上げる。
﹁私を誰だと思っているの?﹂
不敵な笑みを浮かべ、目の前の弱者に哀れみの瞳を向ける。
180
⋮⋮⋮こう言う時にだけ饒舌になるんですよね。
﹁Pulsatus・Tempestas﹂
空気中から発せられる紫電の光、それを抱擁するかのように旋風
が舞う。
疾走する竜巻強大な負圧。周りの伝導体に火花を散らす雷撃。
﹁最強の魔女、その後継者。覚えてから消えなさい!﹂
一直線に突き進む二つの暴力は、錬金術師を細切れにし火花を散
らせる。
四対の敵は霧散し、静寂の闇が再び訪れる。
﹁⋮⋮相手の得意分野で戦わないのが、戦いのセオリーなのよ﹂
氷付けにあって、半ば凍傷になりかけの脚をかばい。その場に膝
をつく。
しばらく、脚の治癒に時間を割かねばならない。
﹁けど﹂
頭に血が上ると、なぜか饒舌になる自分を省みて、
﹁カオルさんに⋮⋮嫌われちゃうかな。ふふっ﹂
そういう事しか気にならない自分が可笑しかった。
181
﹃Death﹄
静まり返る校舎の外。
先行し忍び込んだ私は、セキュリティ解除に回ったユカとは別の
細工を校舎に施しています。
﹁校舎さん、校舎さん。しばらくの間お静かにお願いします﹂
光る手を校舎に添え、語りかける。
﹁うんうん、できれば完全防音でお願いしますね﹂
添えていた手が光を失う。
音の結界作成完了。
人も物も魂があります。ちゃんと話せば聞いてくれるんですよ?
本当ですって⋮。
ユカもマリリンも隠密行動苦手だから、お願いしておかないとね。
私も⋮苦手だから。
ふふふっ
そう言って私は背中のケースに収められた武器を取り出す。
Fernandes社のギター、ZO−3美咲カスタムバージョ
ン。
ZO−3通称⋮象さん。横から見ると真ん丸とした象さんに見え
ます∼。
スケルトンボディのZO−3に芸達者バージョンのトレモロユニ
ットとディストーションを移植しました。
アンプ能力とスピーカーの口径改造し、ミキサーでヘッドセット
と連動してスピーカーから声も出せますよ。
電池の持ちですか?そんな事気にしちゃ駄目ですよ。
超長寿命電池で15分も弾けちゃうんですから。
小さくてかわいい子です。
準備OK!さぁ行きましょうか。
182
you
﹁Would
aw
know
my
name∼ ♪ I
heaven ∼ ♪﹂
you
in
今日はなんだか﹃ギターの神様﹄の歌を歌いたい気分です。
歌に合わせて一音一音と音を奏でる象さん。
校舎内には、至る所に闇の気配。
闇が切り取られて、人型の闇に変わる。
なんの札でしょうか?私タロットとか苦手なんですよね。
same
∼ ♪ if
絵柄は覚えていますけど、意味とか良く判りません。
the
heaven? ∼♪﹂
be
in
it
you
﹁Would
saw
s
I
象さんのボリュームを上げ、ヘッドセットの音をミキシングして
スピーカーに流す。
and
don't
strong
I
carry
belong
h
on
両手に持った象さんに光の光気を注入し、あとは歌うだけ。
半径20mに光の浄化が始ります。
使役された闇は、光の音圧に押されて霧散していきます。
be
know
heaven ∼ ♪﹂
I
must
ああっ⋮待って。ここからがこの歌の良い所なのに。
﹁I
∼ ♪
in
cause
ere
闇の観客は、歌の良い所も聞かずに浄化されてしまいました⋮⋮。
なにか、物足りない気分です。
183
﹁ Would
you
in
hold
my
hand
∼ ♪ i
heaven? ∼♪﹂
you
I
saw
f
一階はほぼ制圧、と言いますか、弾き語りして歩いて見回ってい
ただけです。
in
me
stand
heaven? ∼♪﹂
help
you
my
∼ ♪ 馴染みのある南館とは言え、夜は雰囲気違いますね∼。
二階に上がってみましょう。
居ました。観客が。
saw
you
さっきより大勢さんが待っていますよ♪。
I
﹁ Would
if
この人達の音楽に対する姿勢は、すばらしいですね。
ちゃんと粘り強く聞いてくれます⋮⋮涙。
find
way
through
sta
nig
ちゃんと本腰入れて歌わないといけませんね。
﹁ I'll
day ∼ ♪
and
bring
ya
down
∼♪﹂
can't
just
heaven ∼♪ ﹂
I
ht
in
know
I
here
cause
y
can
ちゃんとサビの部分も聞いてくれましたよ♪。
﹁ Time
熱狂した観客が私に襲い掛かります。
ちゃんと大人しく聞いてないと駄目じゃないですか!。
そういう時も慌てず、ギターの音を外さないのが本物のギタリス
184
トってもんです。
can
bend
your
バックステップでかわしますよ。
﹁ Time
knees ∼♪﹂
元気に聞いてくれる6体の観客にダイブです。
近くで聞いてもらいましょう。
一斉に攻撃に出てきます。
頭を狙い殴りかかる腕を、ミリ単位でかわします。
break
your
heart ∼♪﹂
胴に掴みかかりタックルと決めようとする観客には、いなすよう
can
に前蹴り。反動で後ろに飛びます。
﹁ Time
心を込めて愛息への鎮魂歌を歌います。
もし私に息子が居て、愛する息子を亡くしたのなら、どんな悲し
い気持ちになるだろう。
天国で出会える事を楽しみにできるだろうか。
beggin'
please
beggi
きっとそう思えるにはすごい時間が掛かってしまうだろう。
ya
please ∼ ♪﹂
﹁ Have
n'
心を込めた歌に感動して、闇の観客は霧散して行きます。
やはり、歌はハートですね。
譜面どおりの歌では、感動が薄いです。
ギターパートをリピートしながら無人の二階を後にします。
階段を一段、一段上がるたびに増加する闇の気配。
うぁ、すっごいコアな観客が居ますね。
185
瘴気にあてられそうですよ。
階段を上がり廊下を覗き込むと、ちょうど廊下の真ん中付近にい
ました。
骸骨のフォルムで、死神の鎌を持っていますね。
タロットに疎い私にもわかります。
﹁死神﹂
さっきの観客は、呼び寄せられた浮遊霊なのでしょうか?
死神の意味は、死の予兆、破滅、生への執着、リスタート。
最後の〆に行きましょうか。象さん。音割れギリギリまでフルボ
リューム。
深呼吸を一つ。落ち着いたところで死神までの距離を一気に縮め
る。
﹁長考﹂
音が消え、景色が色を失う。
in
know
my
name
heaven? ∼ ♪﹂
you
if
I
廊下を蹴る私の靴音も、違和感のある遅延を帯び、あたりに響き
渡る。
you
﹁ Would
saw
横なぎに一閃される死神の鎌を、身を屈め避ける。
横に薙いだ鎌は、死神の頭上で縦の動きに変化する。
身を屈めた姿勢の私は、素早く後方に飛ぶ。
﹁ガッ﹂
186
in
be
the
same
heaven? ∼ ♪﹂
it
if
I
sa
鎌は廊下を切り裂き、弾かれる勢いでもう一度振りかぶる。
you
﹁ Would
w
be
strong
and
carry
h
belong
on
後ろに飛び着地するや否、素早く前に飛ぶ。鎌を振りかぶり隙の
must
出来た死神、胴を薙ぐように回し蹴り。
﹁I
∼ ♪﹂
︵私は強くなくてはならない。先に進まなくてはならない︶
I
don't
belong
don't
心を込めて歌う。私の心と歌詞がシンクロした瞬間。
光を脚に集中。必殺の二段蹴り。
死神を背に着地。
know
そのまま、最後の歌を歌いきる。
I
I
heaven ∼ ♪
know
heaven ∼ ♪﹂
I
in
﹁ cause
here
in
cause
ere
静かな校舎に響き渡る歌には、もう観客は居ない。
187
﹃Death﹄︵後書き︶
作中に出てくるフェルナンデスの象さん。
ご存知の方もいらっしゃるでしょうか?
実在のギターです。
お花見に使えるエレキギターだったか?
かなり小振りなギターです。
美咲は椅子に腰掛け脚を組み、足にギターを載せて弾くスタイルが
お好きなようです。
モッキンバードもZO−3もそういうのに適した形をしています。
−
Y
No
Cover]
”Kojo
ストラップにバッテリーが仕込めたり、カラーリングにキャラ物と
かあって、楽しげなギターです。
Live
Acoustic
Ray
2005
BGM:[Gamma
Tsuki”
outube
188
﹃西館﹄︵前書き︶
この回は、極度に関西弁が多用されています。
あぁ、ここちょっと読解ヤバイかな。ってところは※付きで翻訳が
入っています。
判らない所があれば、コメントまたは別の連絡手段で通知願います。
−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−
189
﹃西館﹄
両手の掌を前にかざし、周囲の風に語りかける。
風が掌の上で遊びだす。
﹁風の精、グラビティ召喚⋮⋮﹂
掌のつむじ風は、白い霧の人型を形成し、私の周りを飛び回る。
﹃なんや∼呼んだか∼﹄
ベタな関西弁で答えるグラビティ。
いつもの事だけど、少し脱力する瞬間や。
うちの風の精、コテコテの関西人気取りやねん。
うち⋮⋮恥ずかしいわ。
﹃なにが﹃風の精召喚﹄や。お前⋮なに標準語使ことんねん。きも
いわぁ。関西人の誇り忘れたんか∼? ﹄
白い霧は実体を成し、風の精が完全に姿を現した。
なんでやねん、のツッコミポーズで。︵ビシィ︶
コイツ姿を現すと、ごっつ疲れるねんな⋮⋮。
﹁関西人の心、忘れた訳やないんや。呼ぶときくらい⋮カッコええ
呼び方したいやんか?﹂
手の上の白い奴、すっごいメタボ体型なグラビティにそう囁く。
隠密行動やもんな。静かにせんと。
しっかし⋮何時見ても、Mタイヤのキャラ﹁ビバンダム﹂みたい
190
な感じや。
うち、ごっつ⋮⋮恥ずかしいわ。
﹁なんでお前、人が居る時喋らへんのん? 内弁慶なんか? ﹂
カオルに見せた時も無言やったし、前に美咲らに見せた時もムッ
ツリしとった。
﹃ネタあわせしてへんかったやん? それで笑わすなんて無理やん﹄
別に笑わさんでもええやん⋮⋮。
﹃なぁ、最近の若手どう思う?﹄
グラビティがネタを振ってくる。
﹁うちは、若い奴よりか。テカテカの舞台衣装着た熟練の漫才師が
好きやな∼。何べん見ても飽きひんわ∼。最近の若い奴は勢いある
けど、計算で笑わさへんしな﹂
って、なに話に乗っとんねん、うち。
﹃そうやな、ネタくって計算で笑わせられんの、松本で終わっとる
しな∼。嘆かわしいわ﹄
そう言って腕を組み、お笑い界を憂うグラビティ。
﹃なあ? 出る時からもう一回やり直さへん?﹄
191
そう言って駄目出ししてくるグラビティ。
﹁うち、急いどるんや?、そんな事してる間あらへん﹂
そう言ってキッパリ断って見る。言うても聞かんのやけどな。
﹃そんなん、言わんと。1回だけ。 な! 一回だけやん﹄
人差し指を一つ立てて、懇願するグラビティ。ほんま。この子は
あかんやっちゃ。
﹁い⋮⋮一回だけやで?﹂
まぁこの一回だけちゅうのも、ネタやねんけどな。
嬉しそうに飛び回るメタボ⋮⋮もといグラビティ。舞台袖へ姿を
消す。
﹁⋮⋮﹂
﹁うぉっほん﹂
わざとらしく咳を一発。
﹁グラビティ兄さん、来たってや∼♪﹂
片手にマイクを持つフリ。舞台袖に手をやるポーズで盛大に呼び
込む。
今度は瞬時にメタボ体型を晒すグラビティ。
﹃まいど∼ どうも∼ ﹄
192
﹁⋮⋮⋮﹂
﹃⋮⋮⋮﹄
なんか違うよな⋮。
グラビティもそう言う雰囲気。
またグラビティ、人差し指一本立ててもう一回をせがむ。
古典技﹁天丼﹂で笑わそうとしてるの見え見えや。
﹁うぉっほん﹂
わざとらしく咳ばらい。
﹁グラビティ兄さん、どうぞ∼♪﹂
片手マイクは不可欠。袖に手をやるポーズで呼び込むオーバーア
クション!
瞬時にメタボ体型を晒すグラビティ。
﹃まいど∼ どうも∼ ﹄
やっぱり来た。
天丼や。
おんなじ事、二回したらウケると思とったら大間違いや。
﹁あんたな、腕落ちたんとちゃうか? 花月いって修行してきたら
どうや﹂
こっぴどく毒ついてみる。
またグラビティ、人差し指一本立ててもう一回をせがむ。
193
ほんま、もうラストチャンスやで?
袖に消えたメタボを見計らって、掛け声を掛ける。
﹁ユカ姉やん。どぉぞ∼﹂
袖を手を差し、舞台へ誘導する動きのゼスチャーで気張る。
﹁まいど∼ どうも∼﹂
盛大にコケるグラビティ。
築地の冷凍マグロ並に滑って私の元に来る。
﹃なんでやねん!って あぁ、やっと調子に乗ってきたわ∼。﹄
そう言って、ほこりを払う素振りをするメタボ。
﹁三連天丼なんか、二発目で小笑い取ってんと三発目はスベるから
なぁ﹂
これ、鉄則や。空気読まんとなぁ。
とかなんとか、馬鹿話に花が咲いているうちに校舎の一階部分は
調査完了。
平和なもんや。
二階への階段を登ろうとした時、グラビティの悪い癖がはじまっ
た。
﹃なぁ⋮、今日も白か? ﹄
194
オッサン丸出しで、セクハラ発言しだすメタボ。
もう、コイツの事グラビティやなくてメタボでええやろ?
今回だけやし。
とりあえず答える義務ないし、無視する。
﹃白はええなぁ。ロマンがあるしな ﹄
無視されていても我が道を行くメタボ。というかツッコミ待ち。
ここで何でロマンやねん。とか言うたら思う壺や。
﹃昨日、寝るとき白やったもんな。ここでピンクとか言われると﹁
なんでやねん﹂やもんなぁ﹄
何でコイツ知っとるんや。
セクハラ発言に加え、ノゾキの趣味でもあんのか?。
だが、あえてシカト。無視や。
﹃なぁ?﹄
オチに来た。畳み掛けてくるで。
﹃くれへん?﹄ ※︵くださいの意︶
心の中で盛大に﹁何でやねん!﹂ってツッコムわ。
﹃宝物にするからさ∼﹄
ここで関西弁を捨てたのもネタやな。
ここで、誘導に乗らずにいっちょびびらしたろか。※︵一度驚か
195
せてやろうか︶
﹁宝物にしてくれるん? ⋮⋮ やったら⋮﹂
そう言って真剣な眼差しは、メタボを見つめる。
メタボ。一瞬﹁マジか!﹂の表情の後、生唾を飲む。
思い直して、首を振るメタボ。
﹃あかん⋮、あかんでぇ。ユカはそんなキャラやないんや。もっと
ピュアでいてほしいんや。
ちまたのガキみたいになったらアカン。﹄
ぷっ、こいつカワイイわぁ。
結局ネタでいじる癖に、いざとなったらへタレ全開や。
﹁あほやなぁ⋮、うちがそんなんすると思う? そんなうち嫌いや
ろ?﹂
そういってメタボを指で突付く。
﹃ユカは⋮⋮ 出会った頃のユカのままがええな。﹄
そういって昔を思い出すメタボ。
三階、このまま敵無しかと思ったら⋮⋮やっぱりおった。
気配殺して、待っとったみたいやな。
二体の天使が掲げる⋮⋮闇の太陽。
﹁お陽さんの札やな﹂
196
お陽さん、掲げていたら廊下も明るくなってええのに。闇の太陽
やと眼を凝らしても暗く見える。
﹁なぁ? メタボ﹂
﹃だれがメタボやねん!﹄
そう言いつつ、おなかを擦るグラビティ。
﹁あいつ、音立てんと倒したら⋮、﹂
勿体ぶって、話を切る。
﹃倒したら?﹄
こちらを見て期待するメタボ。
﹁白⋮⋮あんたにやったらあげてもええかなぁ∼なんて﹂
そういって恥らうポーズ。
﹃⋮⋮ま﹄
言葉を失うメタボ。
﹃マジか!﹄
そう、言うやいな、敵に向かうメタボ。
やっぱり、欲しいんや⋮⋮。
亜音速のスピードで敵に迫る。
敵が放つ、闇の散弾を小さい体を生かし、すり抜ける。
メタボの体型とは思えない機敏な動き。全盛期のサモ・ハン・キ
ンポーを彷彿させる。
197
小さい右手から発するカマイタチが、片側の天使の羽を毟り取る。
﹃ふん!﹄
即座に左手で、超重力場を形成し、羽をもがれた天使を音も無く
圧死させた。
動きの止まったメタボに向かい、闇の散弾が穿つ。
軽やかなステップ︵宙に浮いてるんやけど︶、で一発一発を見切
り避ける。
﹃虚空球﹄
私の風弾の裏技。真空球を形成するメタボ。
限界まで圧力を抜いた、自然界にありえない真空の球。
それを残りの天使に撃ちこんだ。
真空に囲まれ、内圧で膨張する天使。内からはじけ飛び霧散する。
残った太陽も、個の動きでメタボを攻撃しようとする。
だが、二体の天使を失った以上、その動きに精細がない。
﹃⋮風弾﹄
両の手を広げ、ミリサイズの小さな風の弾を大量に形成。
﹃⋮手筒花火!﹄
そう言うと、志向性爆弾のように流弾を飛ばすメタボ。
弾と弾が合わさり弾け、敵に着弾しそれも弾ける。
大量の流弾が敵を穿ち、霧散して消し飛んだ。
198
うんうん、この子メタボ体型やけど、めっちゃ強いねんな。
エロいのと、笑いにうるさいのがたまにキズやけど。
敵の消滅を確認して後、すぐに引き返して来よりました。
﹁ようやったな。グラビティ。さすがや﹂
そう言って、いい子いい子して撫でてあげる。
﹃なぁ?﹄
言いにくそうに、話を切り出すメタボ。⋮やっぱ忘れてへんか。
﹁なんや?﹂
あくまでシラを切る。
﹃白⋮⋮﹄
そう言って、押し黙るメタボ。ウブいなぁ。ほんまに欲しいやろ
か。
﹁白?あんた、うちがパンツ売る子みたいになってもええん?﹂
そう言って腕組みしメタボを一睨み。
﹃いや⋮⋮それは⋮⋮嫌や⋮⋮﹄
自問自答し苦悩しだす、メタボ。
﹁ならこれで、我慢しとき﹂
苦悩するメタボに投げキッス。ウインクおまけにサービスや。
﹁!﹂
199
まんざらでもない顔をした、真っ赤になったメタボを後に北館に
向かう。
﹁いくで!。メタボ。北で戦争するで﹂
﹃あいな。ユカ姉さん。いきましょか∼。﹄
結局、なんやかんやで息の合うたコンビやわ。うちとグラビティ。
﹁あんた今、メタボで返事したで?﹂
﹃マジか?﹄
静かに?北館に向かう⋮⋮⋮うちとグラビティ。
200
﹃西館﹄︵後書き︶
天丼・・・
天ぷらどんぶりの上の具を食べて、ご飯をほじくり返したら、もう
一個出来てきて二度美味い。
またはえびが二個乗っていたので、ご飯が二度食えるとか。
お笑い界だと、一度小受けした事を連発して、相乗効果で笑いを取
るテクニックです。
ボケ >﹁いやぁ今日もいい天気ですねぇ﹂
ツッコミ>﹁せやなぁ、ええ天気やな﹂
ボケ >﹁・・・﹂ツッコミの顔を見る。
ツッコミ>﹁・・・﹂なんや?言わんばかりに睨み返す。
ボケ >﹁いやぁ今日も・・・ごほん。いい天気ですね。﹂
ツッコミ>﹁︵ちょっと怒り気味︶せやな。﹂
ボケ >﹁・・・﹂ツッコミの顔を見る。なにか言いたげ。
ツッコミ>﹁!!!﹂盛大に睨み返す。
ボケ >﹁いやぁ・・・﹂
ツッコミ>即座にボケにツッコむ。
とか、サンプルの質は悪いけど、こんな感じ?
201
﹃戦える心﹄
﹁ヤバイ⋮かなりピンチだな⋮﹂
颯爽と敵地潜入したのは良いが、最初の敵は行く手を阻むように
ソコにいた。
﹁乃江さん?﹂
廊下に立ち、無防備でいてスキが全く無い。
さっき見た乃江さんの戦闘態勢だ。
俺の呼びかけにも、何の反応も示さない。
だが、視線は俺を射抜くように見つめ威嚇し萎縮させる。
﹁操られているのか? ⋮葵と同じように﹂
最悪の予想だった。
普通の中学生の葵でさえ、片手で俺を持ち上げ、一発殴られただ
けで内臓破裂寸前まで追い込まれた。
それが﹁あの﹂乃江さんだったらどうなるんだ?
即死級の死の予兆が、一歩一歩と近づいてくる。
俺は守り刀を逆手に持ち、空いた左手を握り締める。
乃江さんは、前にゆっくり倒れこむ様に体制を崩し、倒れた勢い
を利用して距離を縮める。
速い!
202
飛び掛る動作、地面を蹴るような動きの様な筋肉の収縮するロス
タイムが無い。
こぶし
音も無く俺を射程内に捕らえる⋮。
無音の拳が、すぐ目の前に迫る。
﹁長考!﹂
時間を切り取ったように、コマ送りの世界を構築する。
唸る拳が発する風きり音も、回避に回る俺の靴音も聞こえない。
くっ! ⋮すでに鼻っ面まで拳が迫っている。
⋮もう、手で受け流す猶予もない。
首を捻って必殺の拳を避ける。
捻って避けた筈の拳が、俺の即頭部で変化し掌を広げ俺の頭を包
み込む。
そして、そのまま耳の後ろを撃つ。
﹁!﹂
﹁ゴッ!﹂
俺の頭で鳴らした音だと思えない﹁エグい﹂打突音、三半規管を
強かに揺らされる⋮。
咄嗟に反応し捻った首を戻し、逆に掌に押し当てるように衝撃を
半減させたが⋮。
目がかすみ、頭が揺れる。
朦朧とする俺の顎に、下から突き上げるような掌底。
右肘でガードを試みたが、そのガードごと撃ち込まれた。
﹁ぐっ!﹂
203
肘のガードを突き抜けて衝撃が来る。
俺の体は突き上げられた勢いそのままに、空に浮かされる。
長考のコマ送りの世界で、俺の体勢を客観的に見る。
右手が跳ね上げられ⋮。左手は一発目の掌を警戒して防御に使っ
ている。
くそっ。胴へのガードががら空きだ。
次の攻撃の予想が立った。
どてっ腹。鳩尾。俺ならココに一発入れる。
乃江さんなら、どうする。
乃江さんも左手は掌底の攻撃で使用済み、
右も攻撃直後で使用済み。一発目の後、力を振り絞り筋肉を引き
締めても、次の攻撃には使えないだろう。
⋮脚
脚での攻撃に出るだろう。
宙に浮いた左脚を前に、抱え込むようにボディをガード。
膝の辺りに、衝撃!。
予想通り前蹴りがガードした脚に炸裂し、俺は盛大に背後に飛ば
される事になる。
痛え⋮⋮。
受けた左足は痺れが切れたように感覚を失い、どういう体制で着
地出来たかわからない。
右の脚はかろうじて立膝で着地。
204
だが、乃江さんと距離を取れたのは幸運だ。これ以上の連撃は受
けきれない所だった。
震える左足を奮い立たせ、立ち上がる。
﹃止めるには、気絶させるか、永久に止めるか、本体を狙うしかな
い⋮﹄
そう言って妹の状態を説明してくれた、乃江さんの言葉を思い出
す。
永久に⋮の選択肢は無い。意識を狩るしかない。
守り刀を腰の鞘に戻す。
肩の力を抜き、筋肉をニュートラルに。一歩⋮乃江さんに近づく。
長考状態になったとしても、速度はほぼ互角。一瞬の判断ミスで
やられる。
乃江さんの右肩に緊張が走る。
右?
右肩の緊張はフェイントだった。
右肩に意識が集中してしまった俺は、左からの回し蹴りを食らっ
てしまう。
ぐっ⋮。
俺の力量だと、手を抜いて勝てる相手じゃない。
フェイントに惑わされるな。
目を見ろ。そして目を見るな。
205
偽りの視線を見抜け。
筋肉の動きを見ろ。
攻撃の闘気を見抜け。
一発を振りぬけ。
俺が俺に与えた命令。
一つ一つを噛み締める様に、頭の中で反芻する。
あと一歩で双方の射程に入る。
﹁長考!!!﹂
叫びと共に、神速で踏み込む。
右手の渾身の一撃。
乃江さんのノーガードに微塵の緊張も見られない。
これが乃江さんの戦法。ギリギリで掃われ、カウンターを取られ
る。
惑わされるな。目を見るな。
﹁⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮﹂
206
なんでそんな悲しそうな目をしている。
なんで、そんなに射抜くような強い意志の瞳の奥で、悲しみを湛
えている。
握る拳は、力を失う。
﹁乃江さん⋮、もういいよ。判ったから⋮﹂
そう言って、意思を持つ繰り人形を抱きしめる。
﹁⋮⋮身内でも戦えそうか?﹂
乃江さんは、優しさを隠した厳しい声で、俺に語りかける。
﹁⋮⋮⋮﹂
﹁戦えないのなら、ここでカオルを止めようと思っていた。死んで
欲しくない⋮﹂
無表情を装う少女の両の眼から、涙が一筋溢れ出した。
抱きしめると折れてしまいそうな細い体躯、抱きしめる手の力が
増す。
﹁なぁ、乃江さん﹂
涙で言葉にならない乃江に、言葉を続ける。
207
﹁俺は、死なないよ⋮ 妹を取り戻し、⋮魂食いを倒す。力を⋮貸
してくれ﹂
無言で肯く乃江。
これから起こる困難。乗り切る力を乃江さんに貰ったような気が
する。
208
﹃Emperor﹄
眼前で、俺たちを待ち受ける敵。
その数を前に、攻めあぐねている膠着状態。
そんな緊迫感250%の状態で、ある提案がなされた。
﹁カオル⋮ 目的地まで勝負しないか?﹂
敵から目線を外さず、微塵の隙も感じさせない裂帛の気迫。
右手を強く握り腰の位置で待機、左手も同じく、握りを前に突き
出しやや下段の構え。
そんな彼女から発せられているとは、到底思えない緊張感のない
お言葉。
﹁勝負⋮ですか?﹂
右手に刀を逆手で持ち、左手を軽く柄に添え前方に突き出した構
え。
右手の上にカナタを乗せた、最強の臨戦態勢で乃江さんの疑問に
疑問を返す。
﹁敵を倒していても辛いだけだ。 ここは何か目標が欲しい⋮。 敵を倒した数で勝負しよう﹂
乃江先生⋮歩く演算装置。クールビューティ。ちょっとツンツン
デレ。
ここ数日俺の中で急上昇していた、乃江さんのイメージが少し崩
れ始めた。
209
﹁勝負と言うからには、勝者には栄誉、敗者には罰を⋮と言う事で
すかね?﹂
いかが
どうせ倒すなら娯楽があっても良いか。そんな気楽な気持ちで聞
いてみた。
﹁一日 王様ゲーム権﹂
ボソリと乃江さんがつぶやく。
﹁なんですと?﹂
我が耳を疑う。
疾風の速さで聞き返した。
﹁一日勝者の言う事を聞く⋮と言うので如何か?﹂
何だよ⋮その徳川埋蔵金に匹敵する価値のある賞品は⋮。
だが待てよ。
それは随分と危険を孕んだ賞品だ。
勝てば王様、負ければ奴隷。
しかし。
奴隷でも⋮ある意味プラスだよな。︵なにが︶
さっきの乃江さんとの戦いでは防戦一方だったが、勝算がない訳
ではない。
対魔戦闘には、無類の強さを発揮するカナタの存在だ
ぶっちゃけ⋮カナタ無しであそこまで戦えたのなら、俺のほうが
有利じゃないか?
210
﹁面白い﹂
俺の中で渦巻くヨコシマな思考。
気の強い乃江さんに。この人型殺戮兵器に。
白いリボンニーソ履かせてエナメルの靴で、ヒラヒラのゴスロリ
メイドになってもらったり。
あまつさえその格好のまま、ご飯作ってもらったりだな。
そこを背後からセクハラするとかだな。
﹁いやぁん、旦那様、そんな事﹁めっ﹂ですよぅ∼﹂
熱っ熱のご飯を﹁ふー﹂して﹁あーん﹂してくれたりとか。
﹁旦那様。ふーしますので、お待ちくださいませ。 ﹃ふ∼ふ∼﹄
あーん。もぐもぐもぐ﹂
⋮⋮⋮桃源郷?
﹁そのくらいなら実現可能だな﹂
俺の妄想に対し、返事するエスパー乃江さん。
ってか俺、無意識のうちにしゃべってましたか?
まあ良いさ。
大事の前の小事。
﹁⋮日付が変わるまでなら可能だ﹂
畳み掛けてくる乃江さん。
0時まで? ミッドナイト ミッナイ?
19時に﹁あーん﹂されたとして、あと5時間残ってる。
わーん。想像が妄想が加速して止まらない。
211
﹁よし。受けよう﹂
そうして、第一回桃源郷杯 王様選手権が開催された。
二人の競技者が走り出す。
ふぅ⋮はぁ⋮ふぅ。
あまりに息が切れて、胃液が上がってきそうだ。
最後の敵、︵ごめん、なにか覚えてない︶を倒した所だ。
ほぼ、ノンストップで1階から3階まで駆け上ってきた⋮。
周りに静寂。
満足するカナタの食休みのため息だけが響き渡る。
﹁はぁ⋮ふぅ⋮37⋮﹂
敵の種類なんて、どうでも良い事は覚えてないが、数はしっかり
記憶している。
乃江さんはどうだ?
﹁⋮34だ﹂
ちょっと口惜しそうな乃江さん。
手に残る感触を確かめながら、拳を見つめている。
勝った?マジ?王様?ゴスロリメイド権?
俺は諸手を上げて喜び飛び跳ねる。
﹁⋮いや、待たれよ﹂
212
われ
勝利の余韻もつかの間、物言いをつけてくる刀精カナタ。
﹁我が吸収できた敵は、35体じゃ⋮﹂
そういって、今日のおかずを思い出すカナタ。
﹁2体ほど、食すより先に、浄化されておるな﹂
な⋮なにい。
37−2が俺
34+2が乃江さんって事か。
あ⋮う⋮
ゆっくりと⋮ゆっくりと乃江さんに向き直る。
﹁!﹂
乃江さん⋮すっごい悪そうな顔してますよ。
﹁ごほん⋮⋮勝負は⋮勝負だしな﹂
悪そうな表情を隠そうとする、乃江さん。逆にそれが怖い。
﹁明日は私が登下校の番だから、ちょうど良いな。明日までに考え
ておくよ﹂
そう言って、進む先を見つめる乃江さん。
そうだな、この件はとりあえず明日。
俺たちは当面の課題﹁妹救出﹂だ。
﹁行きましょうか﹂
﹁とらわれの姫君を取り戻さねば、明日は無いからな﹂
二人の影は、最終目的の教室を目指す。
213
﹁で、なにさせるんです?﹂
﹁内緒だ﹂
最終目的地、おそらく図書館が最終決戦地になるだろう。
手の汗を拭い、再び守り刀を持ち直す。
﹁で⋮⋮なに?﹂
﹁しつこい!﹂
俺たちを待ち受けるように、図書館の扉は開かれたまま。
誘い込まれるように、二人の影は扉の中に消える。
214
﹃最終決戦﹄
薄暗い図書館。
見るより先に数々の本から発せられる、独特のかび臭さが鼻に付
く。
入り口の司書の駐在するカウンターを左に、奥を見る。
フリースペースの机。その奥に書庫が立ち並ぶ。
丁度月が顔を出し、薄ぼんやりと淡い光を落とし暗黒の図書館を
照らし出す。
フリースペースの机の上、脚を組み腰掛ける人影。
判っていても⋮人影を見た瞬間に身構えてしまう。
﹁やっと、来たか。待ちくたびれたよ﹂
そう言って欠伸をかみ殺す妹の姿。
﹁しかし、横の﹃姫﹄はなんだ? ルール違反じゃないか?﹂
そう言って乃江さんを指差す魂食い。
乃江さんは、ずいっと一歩前に出る。
﹁ルール違反は貴様のほうだろ? 内臓破裂させておいて⋮かくれ
んぼとか⋮笑わせる﹂
そう言って呆れてみせる素振り。
魂食いは盛大に笑い出す。
﹁あははっ∼ やりすぎたか。鬼を病院送りにして、ここで待って
いたら道化だよな﹂
妹の拳を見て笑いが止まらない魂食い。
﹁なんか手首骨折してるなぁーと思ったら、殴りすぎたか⋮﹂
215
手をブラブラとさせながら、まだ笑いが止まらない。
その一言で俺の中でスイッチがオンになり、即座にその笑いを停
止させたくなる。
一歩前に出ようとする俺の肩を、グッと掴み首を振る乃江さん。
﹁奴の手に乗るな。冷静さを失えば食われるぞ﹂
そう言って俺を諌める。
魂食いも落ち着いてきたのか、落ち着いた声で語りかける。
﹁姫。 ⋮まあいいや。 やりすぎた俺に免じて多めに見てやるよ﹂
そういい終わると、組んでいた脚を地に下ろし両の脚で立ちあが
る。
﹁掛かって来な。一人でも二人掛かりでもどっちでも﹂
そういい終わると、こちらに歩み寄ってくる。
俺は、刀を構え臨戦態勢を取る。しかし魂食いと俺の間に身を割
り込ませる乃江さん。
﹁私一人で十分だろう? 姿を現さない臆病者のお前など⋮⋮﹂
そう言って魂食いを挑発する。
ふと、俺にだけ聞こえる声で乃江さんが話し出す。
﹁妹をよく﹃見ろ﹄。私には見えないナニか、お前には見えるかも
知れん⋮﹂
くすっと笑って付け加える乃江さん。
﹁お前の刀は、人に向けるには物騒な代物だ。向けるなら本体に向
けろ﹂
そう言い終ると、一歩前に出る。
216
妹の体を操る攻撃は、事もあろうか骨折している手での打撃。
乃江さんは、力を抜いた戦闘体制から体を90度反転させ、攻撃
に出た肩を撃つ。
﹁私には、そういう攻撃は効かないよ。だってこの子知らない子だ
もの。情をかける必要無いもの⋮﹂
そう言って、撃った手で妹の肩を掴み、反転させ関節を外す。
痛みを感じない繰り人形は、残りの手で乃江さんの首を狙う。
今度は手首を掴み、捻りを加え手首の関節を外す。
﹁乃江さん!﹂
容赦ない攻撃を見る見かね、つい声を出してしまう。
仕方ないと判っていても。
乃江さんは、チラッとこちらを向き無表情。
しかし目の奥には、俺にしか判らない気持ちが籠められている。
ツライのは乃江さんも一緒だと言う事か⋮。
俺は俺にできる事をしなければならない。
再び戦闘を開始する二人。腕の効かない魂食いは脚での攻撃に出
る。
良く見ろ。
首を捻り、蹴りの攻撃を避ける乃江さん。
217
少し、動きに精細が無い⋮。俺の声を聞いてしまったからか。
ごめん⋮⋮乃江さん。
だが、この暗闇の中で二人の動きが手に取るように判る。
もう少し、もう少しで何か見えそうな気がする。
魂食いの回し蹴り、逆に向き直っての回し蹴り。速射砲のような
攻撃に防戦一方の乃江さん。
一方的に押し込まれ始めた。
くそ!、見てられない。
壁際に追い込まれ、逃げ道を失い。受け流す事も出来ずにいる。
見ろ!俺
攻撃されている乃江さんを見ろ。
操られている妹を見ろ。
姿だけをみるな。
本質を見抜け。
﹁!﹂
ふと何かが一瞬見えた。
繰り糸?
闇に溶け込むような絹糸。精神をつなげている、クモの糸の様な
⋮か細い繰り糸。
ピンと張り詰めた糸は上から伸び、妹の手足を器用に操っている。
218
﹁上か!﹂
その声に、振り返り目で語る俺と乃江さん。
﹁ぶっ倒してこい!﹂
そう言っている乃江さん
図書館に乃江さんを残し、階段に向かう。
そこには、行く手を阻むかのように無数の敵が立ちはだかってい
た。
﹁流石に、そうは問屋が卸さないという訳か、でもな、行かなきゃ
行けないんだよ﹂
刀を構え一つ、二つと両断する!。
ぐっ⋮
斬るより敵に押し込まれる速度の方が速い。このままではヤラれ
る。
圧倒的な数の前に一歩一歩と引かざるを得ない。
焦る気持ちが空回りし、余計に戦況を悪くしている。
ふと、後退する俺の背中に﹁トン﹂と何かに当たる手ごたえ。
後ろを振り向けない状況だが、栗色の長い髪の少女が後ろに立っ
ている。
優しく手で包み込まれ、俺の胸の前で握る手と共に編みこまれる
術式。その透ける様な手で誰か判った。
﹁ Ignis ﹂
219
そう短く詠唱し、四方に業炎を巻き起こす宮之阪さん。
圧倒的な火力を前に敵が霧散していく。
﹁カオルさん⋮大丈夫でしたか?﹂
宮之阪さんは心配そうに俺を見つめる。
﹁乃江さんが、妹と戦っている。俺は本体を⋮⋮﹂
そう説明し終わらないうちに新たな敵が、ぽつり⋮⋮ぽつり⋮⋮
と姿を現す。
﹁カオルさん⋮⋮先に。 私はココで﹂
そう短く言い終わるや否、俺の肩を押して先に進めと促してくる。
﹁うん、宮之阪さんも。気をつけて﹂
敵との壁になる宮之阪さんの背に武運を祈り、屋上への階段を駆
け上がる。
階段を登り切り、扉の前に立つ。
奴への怒り、憎しみ、人形の姿にされた妹。戦ってくれているみ
んなの気持ち。
色々の思いが、俺の中に渦巻き正常な判断を失わせる。
﹁カナタ、今の俺だと駄目かもな。冷静になれない﹂
屋上の扉のノブを持とうとする手が震えている。
右手を左手で押さえ込みノブを掴む。
同時に、恐怖や怒り、憎悪を押さえ込むように深呼吸。
﹃バァン﹄
220
屋上のへの扉を開く。
鍵は掛かっていない⋮⋮。やはりココか。
扉を開くと、冷たい夜風が吹きこんでくる。
屋上には、一人の男が腕を組み、月夜を眺めている。
﹁見つかってしまったか﹂
そう言って月を背にこちらを見つめる魂食い。
その声で、押さえ込んでいた気持ちが爆発する。
瞬間の長考で、奴との距離を縮め、剣ではなく本能の拳を握り締
め殴りかかった。
奴は避けるでもなくこちらを振り返り、両の手を広げる。
怒りの拳は空を切り、その手ごたえに総毛立つ。
﹁!﹂
瞬間の判断で奴との距離を取り﹁見る﹂
ぼんやりと背後が透けて見える魂食い。実体が無い。
﹁人間だと聞いていたのに⋮ 入れ物は忘れてきたのかい?﹂
得体の知れない怪物に、悟られたくない恐怖心。
心とは裏腹な余裕のある言葉が出たのは奇跡かもしれない。
いきすだま
抜刀し構えるカナタを魂食いに向ける⋮⋮。
﹁カオル。あれはアストラル体じゃ 生霊の類じゃな﹂
カナタが魂食いを確認し、そう伝えてくれる。
﹁そういう類のものにも、カナタの﹁祓う﹂力は作用するのか?﹂
221
ろくじょうのみやすんどころ
視線を魂食いに置き、手の上のカナタへ話しかける。
﹁もちろんじゃ、平安の﹃六条御息所﹄に始まり、人に災いをなす
人の思念は﹁死霊﹂と同じく祓うに値する﹂
そう言うと魂食いを見定める。
﹁そうと判れば。いくよ、カナタ﹂
長考︱︱︱
最速の縮地で﹃魂食い﹄の懐に入るが、振るう刀を紙一重で避け
る﹃魂食い﹄
﹁遅せぇよ﹂
欠伸をかみ殺す﹃魂食い﹄
俺の最速の攻撃を見切った?
続けざまに、返す刀で斬り込むが最小限の動きでそれを避ける。
﹁アストラル体には、時間の概念が無い。意識の時間で動いておる
⋮。注意せよ﹂
そう言って俺に注意を促すカナタ。
ってえ、そんなバケモノに⋮長考の効かない奴に打つ手が無いじ
ゃないか。
じりじりと﹃魂食い﹄の周囲を周回する。
俺の最高の攻撃は回避される⋮どうしたら⋮いい。
222
ふと、なにか、意識の端に思い当たる事が。
打つ手がないか?本当に無いか?
山科さん⋮。
くっそ∼痛いだろうな。死ぬかな。でも⋮乃江さんと葵の戦いを
早く止めないと⋮。
左手に刀を持ち替え、威嚇するように刀に注意を向けさせる。
右手は、強く握る。
長考︱︱︱
慣れない左手での斬撃は、予想通りあざ笑うかのように避けられ
る。
まだだ、まだ奴には避けられる。
悟られるように、悟られないように回避。
奴が無造作に伸ばした手が、首を締めに来る。
動きの鈍い蚊を叩き落すより容易に。
動きの止まった奴に斬りこむ左手ももう片手で押さえ込まれた。
締める首への攻撃は、器官を押さえて落とすような生易しい締め
じゃない。
まるで万力で締めるような、首の骨ごと握り潰すような荒々しさ。
あと2秒もせず、意識を失い﹁魂を食われる﹂のだろう。
動きを止めれたのは奇跡。
万に一つの勝機を握りしめる。
223
開いた手の中から零れた勝機、風弾。
﹁弾けろ!﹂
手の中から零れた風弾は、ゆっくりゆっくりと﹃魂食い﹄の元へ。
山科さんに貰ったお守り。至近距離で食らえ。
1cm四方に凝縮された清浄な空気の塊。
一気に通常の大きさに弾ける。
﹁あ?﹂
﹃魂食い﹄の間抜けな声が、俺の右の耳で聴いた最後の声になった。
屋上のフェンスを強かにへこませ、俺はまだ屋上に留まっていた。
長考で出来るだけの防御を試みたのだが、右手は感覚を失い﹁付
いているのか﹂﹁そうでないのか﹂判らない。
ついでに右鼓膜が破れ、頭の中で爆音がまだ鳴り響いている。
ぼやける視界のなか、﹃魂食い﹄の行方を探った。
俺の最後の視認では、見事に吹き飛んだ﹃魂食い﹄の姿を捕らえ
たのだが。
吹き飛んだ?
サンクス
吹き飛んでくれたのか?
﹁心配してくれてTHXな﹂ 224
真後ろ、背後から絶望の声が聞こえた。
﹁俺の体を半分持って行っちゃってくれて⋮ 補給物資は目の前に
あるから? まあ許してやろうかな﹂
225
﹃最終決戦﹄︵後書き︶
うはー、戦闘長げぇ♪
笑いが、笑いが欲しいようメソメソ
226
﹃結末﹄
満身創痍の体を奮い立たせ、超高速での回避。
奴の攻撃を寸での所で避け、体を捻り奴に向き直る。
﹁あはは、まだ動けるんだ。意外と頑丈に出来てるねぇ。人間の体
って﹂
そう言いつつ、俺との距離を縮めて来る﹃魂食い﹄
左半身が吹き飛び、右上半身と頭しか無い。
だが、動きは幾分も衰えていない。
対する俺、今の回避で全力を使い次への対応が出来ないでいる、
身構える事すら出来ない。
このままでは⋮
ブッ⋮⋮ブゥウウウン
⋮⋮⋮⋮
屋上の放送設備から、聴きなれた周波数ノイズが聞こえる。
掻き鳴らされるのは、誰しもが一度は聴いた事があるだろう有名
なギターパート。
﹁Layla⋮Claptonっすか。渋いですね﹂
俺は突然の乱入に苦笑する。
放送設備以外から発せられる、ピエゾPUの独特のギター生音の
方向を見る。
227
そこには、月夜を背にこちらに立つ美少女。
﹁放送室に細工するのに手間取ってしまいました∼ 遅れてすみま
せん∼﹂
そう言って構えたフェルナンデスの携帯ギターをピックで掻き鳴
らす美咲さん。
﹁ド派手すぎて、美咲さんっぽいかもな﹂
do
when
you
ge
waiting
and
hidi
。歌詞はそのままだけど現代風にアレ
side? ﹂
nobody's
you
掻き鳴らすギターパート。光の粒子が﹃魂食い﹄を包み込み、捕
縛する。
will
your
lonely and
﹁ What
t
by
おじさんが言い訳する歌
running
ンジしてメロディを奏で始めた。
been
know
you
pl
knees.
pride.∼
my
foolish
long. ∼♪ You
your
too
just
much
﹁ You've
ng
it's
♪ ﹂
got
mind?
won't
darlin'
on
you
me
Layla,
begging
worried
darling
i'm
my
Layla,
Layla,
ease.
ease
チラッと屋上の一点を見る美咲さん。
228
そこに居たのは、最強のメガネっ子山科さん。
白の精霊を従え、こちらに歩み寄る。
﹁グラビティ! 最大出力や。 重力場形成﹂
手を﹃魂食い﹄に向けるや否、奴の周辺のコンクリートがひび割
れ始める。
consolat
let
w
had
love
man
you
超重力場に包まれて、奴の動きは完全に止まった。
give
to
Tried
﹁ I
old
in
i
fell
fell
I
Your
fool,
down.∼♪
a
I
fool,
you,∼♪﹂
a
ion♪ When
you
Like
with
you, Like
love
ith
n
続けて熱唱する美咲さん。屋上の入り口に目をやる。
﹁ Glacies ﹂
姿を確認するより先に詠唱を完了する。魔女っ子宮之阪さん
絶対零度の冷気を﹃魂食い﹄にぶつける。
屋上の風になびく栗色の長い髪は、宮之阪さんを何倍にも美しく
引き立たせた。
229
a
I
﹂
love
whole
in
my
fell
down.
turned
fool,
upside
you, You
﹁ Like
with
world
宮之阪さんの後ろから、妹を抱きかかえた乃江さん。
my
you
pl
knees.
宮之阪さんにそっと妹を引渡し、重力場に押さえ込まれ氷付けに
なった﹃魂食い﹄へ近づく。
got
mind?
won't
darlin'
on
you
me
Layla,
begging
worried
darling
i'm
my
Layla,
Layla,
ease.
ease
make
the
I
of
the
finally
best
go
si
重力場を物ともせず、光る拳での連打、瞬く間に数十発の拳を叩
き込む。
﹁Let's
tuation,∼♪ Before
insane.∼♪﹂
vain.
all
m
never
me
we'll
∼♪﹂
tell
say
歌い、ギターを掻き鳴らしながら美咲さんが﹃魂食い﹄に近づく。
don't
in
way,∼♪ Or
﹁Please
a
love's
find
y
左足一本で立ち、光る光気を含んだ右足での速射砲。
薙ぎ蹴り・捻り蹴り・内回し蹴り・踵落とし。
230
in
say
me
we'll
tell
vain.♪﹂
way,♪ Or
don't
流れる動きで、光の力を打ち込んでいく。
a
﹁Please
find
love's
心配そうにだが、俺に目を向ける美咲さん。
⋮俺の番って事か。
my
never
all
ゆっくりと立ち上がり、カナタを右手に乗せ超高速での斬撃。
筋肉がちぎれる限界速度での斬撃を繰り返す。
カナタが魂食いを吸収し始める。
﹁ごちそうさま♪﹂
ease
pl
knees.
you
darlin'
my
一拍の静寂の後、最後のコーラスが響き渡る。
got
you
begging
on
Layla,
i'm
me
Layla,
ease.
won't
mind?
darling
worried
Layla,
my
231
魂食いの体は霧散。屋上の風に流されていく姿を確認出来た所で
力尽き、俺の意識が途絶えた。
柔らかい⋮
ふと見上げると山科さんのアップ。
柔らかい膝枕。濡れたハンカチで顔を拭ってくれている。
﹁!﹂
﹁魂食い! 奴は⋮⋮?﹂
起き上がろうとするが、全身から激痛が走る。
周りに注意したくても体が動かない。
﹁だいじょうや、ちゃんとカナタが吸収したで?﹂
やさしく、ゆっくりと話す山科さんの声で、やっと終わりを実感
出来た。
﹁しっかし、無茶したな∼ カオルくん。 風弾至近距離で爆発さ
せるやなんて⋮﹂
そう言ってもう一つの手で、俺の頬を撫ぜてくれた。
﹁うん⋮。お守り、役に立ったよ⋮ ありがとう、山科さん⋮﹂
そういい終わらないうちに、
﹁あほう⋮⋮、無茶して⋮⋮うち⋮⋮怒ってんねんで?﹂
そういって涙を流す。
﹁うん、ごめん⋮﹂
232
ふと右手に痛みが走る。
﹁いっ、痛ぇ!!!﹂
右手全体から来る激痛。あまりの痛さに右手を見ると、乃江さん
が手を力一杯握り締めていた。
﹁痛いか?﹂
そう言って意地悪そうに笑う。
言葉にならない俺は、首を振る事でギブアップを宣言する。
﹁痛いのは、治癒できている証拠だ﹂
そう言って、さらに握りを強めてくる。
おれの指に、自分の指を合わせるように⋮強く握り締める。
宮之阪さんも俺の顔を見て心配そうに⋮いや、怒ってます。
両手でほっぺたを引っ張り、捻りを加えてくる。
﹁あひや、みひゃのひゃかひゃん。 なにほ⋮﹂
言葉が通じたか不明。口が半開きになっているので、この会話が
限界っす。
﹁無茶した⋮罰です﹂
そういいつつ、怒っている顔が⋮⋮⋮泣き顔に変わる。
涙が、ポツリ。俺の頬を濡らす。
ごめん⋮⋮。
あ、妹は?妹は大丈夫なんだろうか。
﹁葵は?大丈夫なのか﹂
周りを見渡す。
美咲さんがこちらを向き、座り抱きかかえるように葵を光で包ん
でいる。
﹁右手の骨折がなかなか引っ付かなくて⋮時間がかかってますよ∼﹂
そういいながら、Vサイン。安心できる表情の美咲さん。
﹁でも、カオるん。良いなぁ。3人に大事にされて∼。私も3人に
233
囲まれて大事にされてみたいよ∼﹂
そう言って口を尖らせる美咲さん。
その言葉で、途端に3人の態度が硬化する。
﹁いややぁ、そんなん誤解やで?﹂
﹁お⋮お嬢様!﹂
﹁あう⋮﹂
﹁夜も遅いし回復済んだら、即座に撤収。私の部屋で宿泊訓練しま
しょうか∼﹂
またも、爆弾発言で全員の時を止める美咲さん。
﹁まさか⋮そ⋮その訓練には俺も含まれて居ますか?﹂
美咲さんのザ・ワールドに抵抗する俺。
﹁嫌ですねぇ∼。お母様の了解得てますし∼﹂
﹁私、嘘付くのキライなんですよね﹂
その一言が決定打となり、全員参加が義務づけられた。
234
﹃結末﹄︵後書き︶
うは∼、やっと戦闘パート終わりましたよ。
しばらくほのぼのしたいなぁ⋮そんな気持ちで一杯です。
235
﹃天野家の夜 01﹄
さかずき
﹁じゃ∼皆さん、杯は行き渡りましたでしょうか∼♪﹂
幹事職、ノリノリの美咲さん。
日本古来の伝説の獣﹁麒麟﹂のマークの白い缶を高々と上げる。
ってえ。
﹁美咲さん、それは成人してからでしょ!﹂
ビシィとツッコミのポーズ。
缶を見て、2秒程思案する美咲さん。
﹁あ⋮⋮、天野家では齢15で元服なのですよ? 元服といえば成
人、大人の仲間入りです∼﹂
そう言いながら目で拒絶する美咲さん。
15で元服って、一体何時代の人じゃ。平安か?
まぁ言っても、聴いてくれた事が無いから良いや。
半ば諦めの気持ちにさせられる。
ふと周りを見れば、同じ缶を持つ3人。コッソリと手でマークを
隠したり小細工してる。
伝説獣じゃないのは、俺と葵だけか。
俺はダイエットコーラ、葵は100%グレープフルーツ。
マトモなのは﹁三室家﹂だけか∼。
﹁乾杯∼﹂
ゴクッゴクゴクゴク⋮⋮。
﹁ぷはぁ! うめぇ! そして生き返った﹂
236
マジで体を動かした後の水分補給は、滅茶苦茶効く。
学校での戦闘中、水分補給して無いからなぁ⋮⋮。
ふと隣に座る葵を見ると、借りてきた猫のように大人しい。
どうしたんだ?
﹁葵?元気ないなぁ。どうしたんだ?﹂
横でチビチビとジュースを飲む葵、髪をワシワシとしてやる。
﹁⋮⋮﹂
﹁ごめんなさい⋮⋮﹂
半泣きになりながら、頭を下げる葵。
﹁お兄ちゃんとの昼間の事も⋮⋮、真倉先輩との図書館の事も⋮⋮
みんな判っていますから﹂
そういって泣き出す葵。うわぁん∼って子供泣き。
﹁あらあら、この子 ﹃言霊﹄ が効かないんですね﹂
そう言って思案する美咲さん。
そうだった⋮⋮。
いっそ何も無かった事にした方が、葵にも良いだろうと言うこと
で、美咲さんにお願いしたのだ。
しかし、葵の気持ちも良く判る。
無我夢中で、葵を取り返す事だけ考えて突っ走ってたけど、実際
の所運だけで勝てたようなもの。
往来の激しい高速道路、端から端まで目隠しで渡りきっただけの
様なもの。
みんなが助けてくれなければ⋮、そう思うと身震いがする。
さっきから⋮酷使された筋肉が震えているのか、そうでないのか
震えが止まらない。
泣く葵には悪いが、葵が泣いてる姿を見て本当に無事を実感でき
る⋮⋮。
237
泣き止むのを待とう⋮⋮。
そう思案に暮れていた時、乃江さんがスクッと立ち上がり葵の横
に座った。
何をするのかと思えば、葵を軽く抱え上げ、自分の膝の上に座ら
せ抱きしめる。
﹁もう大丈夫⋮⋮だから⋮⋮﹂
そう一言だけ囁くと、泣く葵の髪を手で優しく撫ぜる。
席を追い出された俺は、乃江さんの席、美咲さんの隣に移動した。
﹁ノエはね。ああ見えてすごく優しい子なんですよ。 泣いている
子をみたら放って置けなくなるんです。 昔から⋮⋮﹂
そう言って耳元で囁いてくれる美咲さん。
乃江さんが優しい人だって言うのは、今日一日一緒にいて良く判
った。
厳しい中の優しさ、強さの中の脆さ、女の子としての乃江さん。
加えて、葵を抱きかかえ包み込むように抱擁している姿は、母性
の塊のように思える。
﹁ツンツン乃江の、意外な一面っちゅう訳やな∼﹂
そう言って一本目の缶を握り潰す山科さん。
早いよ。ペースが。
スクッ!と無言で立ち上がる宮之阪さん。
勝手知ったる美咲さんの部屋⋮。冷蔵庫を開けて﹃伝説獣﹄を2
本持って戻ってくる。
一本を山科さんに手渡し、もう一本を豪快に飲み始める。
宮之阪さんも、意外といける口なんだ。
ふと、その飲みっぷりに見惚れていたら、宮之阪さんと目が合う。
またもスクッ!と無言で立ち上がる宮之阪さん。
238
﹁あっ、いや俺は⋮違﹂
そういう俺の言葉を聴かず、冷蔵庫を開けて﹃伝説獣﹄を1本持
って戻ってくる。
飲めと?そう言う事ですか?
コックリとうなずく宮之阪さん。酒豪マリリン恐るべし。
ピピ⋮ピピ⋮
遠くで電子音が鳴り響く。
﹁あっ∼お風呂入ったみたいですよ∼。誰か入りませんか∼?﹂
そう言って美咲さん。﹃伝説獣﹄をもう一本空ける。
自分は飲む気満々なんですね⋮⋮。
﹁葵、一緒に入ろうか?﹂
そう言って乃江さん、葵の顔を覗き込む。
葵も抱きしめられているのが、まんざらでも無いようで顔を真っ
赤にしながらコクンと肯いた。
﹁着替えも、私の。使っていないのあるから⋮⋮﹂
そう言って隣の部屋に連れて行く乃江さん。
﹁乃江⋮やさしい⋮私には厳しいのに﹂
そう言って、ブツブツと呟くマリリン。酒豪宮之阪。
なんか怖いっすよ?
﹁乃江は、ツンツンやからなぁ。特にマリリンなんか良う弄られと
るもんなぁ﹂
そう言って山科さんが付け加える。
﹁マリリンって、かわいらしいから虐めたくなりますもんね∼﹂
そう言ってニッコリ顔の美咲さん。
239
マリリンってのもイジメなんでしょうか。イジメ良くない。
その会話を聞きながら、グビグビっと喉を潤す。
すきっ腹に刺す様に効く﹃伝説獣﹄。
ん?⋮意外と旨いな。
﹁おぉ、カオルも結構イケルな。本物のは旨いやろ﹂
そう言ってスルメを口にくわえる山科さん。非常にオッサンっぽ
い。
発泡なんとかはアカン。あれはニセモノやとか熱弁しだす彼女を
放置する事にする。
ふと周りを見る余裕が出来た。
招かれた時には、葵じゃないが借りてきた猫状態だったからな。
乃江さん家の対称の形の1LDK。リビングだけで20畳くらい
ありそうだ。
玄関からウォークインクローゼットと言う名の部屋。
隣がお風呂とトイレとが隔絶だれたパウダールーム。
キッチンはカウンターキッチン。
寝室が一つ。
広いよ。マジで広いよ?
リビングには、大型の液晶テレビ。
その横にギターアンプ大小、ギタースタンドには今日使用したZ
O−3、モッキンバード、ストラト、色々なギターが立ててある。
美咲さんギターマニアだな。
あとは、彩りで飾られた観葉植物。
あんまり、女性の部屋って感じしないなぁ。肩が凝らないのもそ
ういう雰囲気だからだろうか。
見回す俺に気が付いたのだろうか、美咲さんが興味を示す。
240
﹁なんですかぁ∼ 女性のお部屋をキョロキョロと∼ なんかエッ
チい事考えてませんか∼﹂
そう言って絡んで来る。ちと出来あがり気味の美咲さん。
﹁ん。いや、あんまり考えてないというか、シンプルなので女の人
の部屋だと意識してないですよ﹂
率直な意見を言う俺。
﹁がぁ∼ん。 女っぽくないって言われちゃいましたよ∼。 ユカ、
マリリンどう思いますぅ∼﹂
そう言って突っ伏し、よよよ⋮⋮泣き出す美咲さん。泣き上戸で
すか⋮⋮。
﹁そうやなぁ、うちの部屋とか普通に女っぽいで? そういう意味
では最強なのはマリリンやけどなぁ﹂
そう言ってマリリンを見る山科さん。
最強?って。ふと宮之阪さんを見る俺。
またもスクッ!と無言で立ち上がる宮之阪さん。冷蔵庫の方へ⋮
⋮。
あ⋮⋮いや、お替りと違いますって。まだ残ってますから。
﹁マリリンの部屋な。ファンシーな感じやなぁ。豚さんのぬいぐる
みとか一杯あってな∼﹂
そう言って、マリリンの部屋を思い浮かべる山科さん。
﹁そういえば、山科さんと宮之阪さんて、どこに住んでいるの?﹂
ふと気になったその問いに、即座に答える二人。
山科さんが人差し指を上に、宮之阪さんが人差し指を下に。
?⋮6階と8階?
﹁二人とも、ここのマンション紹介したら即決で決めましたものね
∼﹂
241
そういってニッコリ顔の美咲さん。
なんだよこのマンション。
退魔士率高すぎだよ⋮絶対幽霊とか出ないだろうな。
ふと、うたた寝していた事に気が付いた。
ゆさゆさっと肩を揺らされて⋮⋮。
濡れ髪の美咲さん。黒の濡れ髪と上気し赤らめた頬が色っぽい。
周りを見ると山科さんも宮之阪さんもお風呂上り⋮。当然乃江さ
んと葵も座って飲み物を持っている。
﹁お風呂に入ってらっしゃい∼。着替えは用意しておきますからね
﹂
なんて優しい言葉を掛けてくれる。
って、着替え?
﹁近くに24時間のお店ありますから、いつでも買えますよ∼﹂
そう言ってニッコリ笑ってくれる美咲さん。
なるほど⋮スミマセン。お言葉に甘えて、入浴させてもらおう。
カポーン。
風呂に入ると響くケロヨンの風呂桶の音。
てか、風呂もメッチャ広いよ∼。
このマンション、日本の規格で作られてないな∼。
そう思える広さだった。
ふと鼻に付く、いい匂い。石鹸やシャンプーの匂いに紛れ⋮芳し
き芳香。
俺は、無意味に深呼吸を繰り返す。
﹁あっ、だめだ⋮もう鼻が慣れちまった⋮⋮﹂
242
神の与えた芳香に慣れてしまった自分が悲しい⋮⋮。
仕方ないね。普通に風呂に入るか。
かけ湯を豪快に頭から、行水。
一連の動作で洗い上げる。
ふと鏡に映る俺の体。至る所痣だらけでぼろ雑巾のようだ。
なんだか笑えてくるな。
しかし、この痣一つ一つに意味がある。
葵を助ける事が出来た⋮⋮。
みんなの助けが無ければ実現できていなかったけど、それでも俺
には勲章のように思えた。
﹁よし!﹂
﹁着替え。ここに用意しておきましたからね∼﹂
お風呂の外で、美咲さんの声がした。
湯船に浸かり人心地付いていた俺は、突然の声にビビる。
﹁あ⋮ありがとうございます。すいません∼﹂
そう言ってお風呂の扉方向に声を掛ける。
﹁あっ、そうそう、制服のシャツ。洗って置きますからね∼。乾燥
まで自動ですので∼明日は着て行けますよ﹂
そう言って洗濯籠の脱いだ服をポポポイと洗濯機に放り込む。
ポポポイ?
下着とかそういうのも入れちゃいましたか。というか見られちゃ
いましたか。
なにやら、恥ずかしさがこみ上げてきて、湯船に顔を浸けて紛ら
わす。
243
脱衣所に戻ると、新品のトランクスとTシャツ。そしてジャージ。
24Hショップ恐るべし、ありがとう美咲さん。
濡れ髪をタオルでゴシゴシふき取りながらリビングに戻る。
リビングの風景に少しの違和感。
⋮テーブルの上の缶の量が半端じゃなく増えてるよ⋮。
こちらを見る目の座った女達。最後の砦だった葵の手に持ってい
るのは﹃伝説獣﹄。
やべえ。
俺の中の何かが危機を知らせている。
天野さん家の夜は、当分終わりそうに無い⋮⋮。
244
﹃天野家の夜 01﹄︵後書き︶
245
﹃天野家の夜 02﹄
﹁あっ⋮⋮おにいひゃん。座って座って∼﹂
少々呂律の回らないっぽい葵が絡んできた。
お前が一番安全だと思っていたのに⋮⋮兄は情けないぞ。
葵が指差す床に座らせられる⋮ しかし何でみんなより一歩遠い
所に座らせる?
﹁おにいひゃんの本命ってだ∼れ?﹂
静寂の空間⋮。
遠くの方で料亭の獅子威しの音が聞こえてきそうな水を打ったよ
うな静寂。
あ⋮葵・ザ・ワールドを止めれる奴は居ないのか。
誰か!誰か!⋮⋮
ふと周りを見たら、見るとも無しに俺をチラっと見る4人の女性
陣。
好奇に満ちたその視線は⋮これは、マズイ。
﹁本命って何の事だ?ははは∼﹂
にこやかに返答し、さらりと躱してみる。
滝のような汗。これは風呂上りのせいではないぞ。
早く!早く!話題を転換せねば。
これ以上の暴挙に出るようなら、葵、お前の息の根を止めねばな
らぬ。
﹁あ⋮⋮、葵はどうなんだ?﹂
246
振られたネタはそのまま振り返すに限る。
しかし、これは男同士にしか通用しない技だった。
だが、葵恐るべし。
そんな餌にも食いつく悪食。外来種ブルーギルのような貪欲さだ。
﹁葵はね∼。 乃江先輩! やさしくて、もうメロメロだよう ﹂
いつの間にやら﹁真倉先輩﹂から﹁乃江先輩﹂に昇格してる。
風呂でなにがあったのだ。
ふと疑問に思う俺の視線を感じ取り、乃江さんが盛大に首を振る。
﹃誤解だ﹄と目で語る乃江さん。
﹁天野先輩も∼ 山科先輩も∼ 宮之阪先輩もね。 もちろん乃江
ふぁんくらぶ
先輩もだけど、中等部でもスッゴイ有名なんだよ。 なんかね。フ
ァンクラブとかあるの﹂
ほほう初耳だ。
高等部でも有名人だけどFCの存在は、聞いた事ないしな。
この四人が、仲良く談話してる姿とか相当破壊力あるもんな。
中等部だと、近いようで遠い存在だから、そういうので盛り上が
ってしまうのかもな。
﹁中でも、乃江先輩はね。女子にも凄い人気なんだよ。⋮葵には良
く判らない世界だったけど、納得しちゃった∼﹂
頬を赤く染め手を当てて照れている葵。遠くで伝説獣を盛大に吹
き、ムセている乃江さん。
確かに、ショートカットでボーイッシュ、ツンツンデレ、凛とし
た佇まい、時折見せる優しさ&美少女と来ればそう言う需要も大き
247
いのかも。
﹁す、凄い人気だそうですよ? 乃江さん﹂
良い話題展開!助かった。早速乃江さんにバトンタッチ!
まだ、むせこんでいる乃江さん、タオルで口を覆う。咽返ったか
らか照れているのか、顔が真っ赤だった。
﹁ま、待て。意味が良く判らん。 同性の後輩に好かれるのは悪く
ないが⋮凄い人気というのは誇張しすぎだろ?﹂
そう言って葵を制止させようとする乃江さん。 だが俺の経験則
では葵に対して、その返しは悪手だ!
﹁んー。 彼氏にしたいランキングベスト10には、必ず入ってま
すよ?﹂
驚愕の事実を突きつけられ、さらに墓穴を掘る乃江さん。
なにやら、床に手を付いて落ち込んでいる。
﹁そうねぇ ノエなら私も彼氏にしたいかな∼﹂
適当に話をあわせる美咲さん。
﹁ご飯作ってくれるし、掃除してくれるし、洗濯も気が付いたらや
ってくれてるのよね∼﹂
そ、それは彼氏では無いのでは無いだろうか?。嫁?
むしろ、家事一般をやっていない美咲さんがどうなんだと? 問
い詰めたい。
くるっくぅ∼くるっくぅ∼
248
時計が0時を差した。
なぜか美咲さんちの壁時計は ﹃鳩時計﹄。妙にリアルな鳩の鳴
き声が響き渡る。
ふと、乃江さんが突っ伏した状態から立ち直った。
あまりの身の転じの速さに全員が驚きを隠せない。
﹁うぉっほん! 奴隷。肩を揉め!﹂
そう言って俺に命令する乃江さん⋮
﹁⋮⋮⋮﹂
王様か!王様ゲームか?
かくかくしかじか。と全員に説明する乃江さん。
奴隷に目を向ける全員。なにか視線が痛い。
﹁なぁ、乃江? その権利うちに売らへん? 今やったら高く買い
まっせ?﹂
そういって電卓を叩きだす山科さん。
提示した額は不明だが、かなりの数0を叩いていた。
﹁いや⋮⋮、ゴスロリメイドと天秤にかけて勝ち取った権利。そう
易々とは手放せん﹂
そう言って拒絶する乃江さん
あ、いや、それを言っちゃ駄目。
﹁ご⋮⋮ゴスロリメイドって。カオルさん!﹂
マリリン宮之阪さんが非難の目を向ける。口を尖らして、かなり、
マジで怒ってます。
249
いや、誤解です。誤解じゃないけど⋮。
﹁そういえば、乃江。メイド服持ってましたよね。 ﹃お世話する
以上は服装から!﹄ って言って⋮﹂
さらりと暴露する美咲さん。
マジか?。リアルメイド。三次元立体メイドの肩を揉むのか。
無意識にうちに脳内妄想全開。ターボタービンフル回転。ブース
ト圧1.8kまで一気に振り切った。
風呂上りのラフな服装が、リボンニーソ、ヒラヒラメイド服、フ
リルカチューシャに見えてきた!。
手から発するヨコシマな波動に察知したのか、今まさに肩に手を
触れようとする瞬間、乃江さんが身震いし避ける。
﹁⋮⋮今、なにか良からぬ事を考えていなかったか?﹂
振り返り、こちらを見る乃江さん。
俺は、天使のようなつぶらな瞳を装い、悲しげに首を振る。
﹁ソンナワケナイデスヨ⋮ノエサン﹂
ただし、口調までは偽装できなかったようだが。
﹁落ち着かんから、肩揉みは止めておこう﹂
そういって背を向ける乃江さん。
ちと、残念なような助かったような複雑な気分。
﹁そろそろ、日付も変わったことですし、床の用意をしましょうか﹂
美咲さんの声。来るべき時が来てしまった。
寝れるかな⋮⋮俺。
リビングに来客用の布団を並べて敷き、女性陣が川の字で横にな
250
る。
美咲さん、山科さん、宮野坂さん、葵、乃江さん。
葵に至っては、乃江さんの腕枕で寝ようとしてるな。羨ましい。
対する俺その横、遥か先に用意されたタオルケット。
そこで、丸まって寝る事になる。
まぁ、川の字になっても落ち着かないし、多分寝れないだろうし。
冷たいフローリングの板間がかえって気持ちいい。
ちゅんちゅん⋮⋮と遠くで鳥の鳴く声が聞こえる。
朝日が部屋を照らし、俺の眠りを妨げる。
乃江さんが立ち上がり、他の皆の布団を直す。
俺が起きているのに気が付いたようで、人差し指を口に当て﹁静
かに﹂と合図する。
そうして、その人差し指をクイクイっとこちらに来るように合図
し部屋を出た。
﹁すまんな、起こしてしまったか。だが丁度いい﹂
そう言って乃江さんの部屋に招かれる。
ふと壁の時計を見て驚愕する。5時っすか。
﹁朝ご飯の用意もせねばならんのだが、その前に日課をな﹂
そう言ってTシャツの上から、古武道で良く見る胴衣を着る。
白い胴衣と下が黒い袴のような奴だ。
﹁すまん、後ろ向いていてくれんか? ちと恥ずかしい﹂
そう言って、袴を持ちこちらを見る。
﹁! ⋮ごめん﹂
慌てて、後ろを振り向く。
しかし、パンツ見られても動じなかった乃江さん、えらい心境の
251
変化だな。
まあ、そちらが正常だと思うし良いんじゃないだろうか。
﹁お待たせした、じゃ行こうか?﹂
そう言って部屋を出るように促す乃江さん。
﹁え?俺も?﹂
意外な乃江さんのお声に、戸惑う俺。
かおる
乃江さんは、ため息を一つ付き、
﹁待たせたな、奴隷 主が日課と言っておるのだ。お供せよ﹂
そう言って部屋を出た。
王様ゲーム続行中ですか⋮⋮、やれやれ。
エレベータで最上階へ。
そこには意外な光景が広がっていた、一面の芝生。小さな木2本
植えられていた。
屋上の庭園。
ビルの上に盛り土をする場合、その重みに加え水を含んだ状態で、
耐えうる強度が求められる。
屋上があるから庭にしようか?と気軽にはできないのだ。
あくまで日本人の庶民を舐めているマンションだ。
靴を脱ぎ、芝生の真ん中に立つと、準備運動を始めた。
﹁乃江さん、ここで毎朝運動してるの?﹂
そうは聞いてみるものの、胴衣に袴だと運動って感じじゃないよ
な。
乃江さんも無言でこちらを見るが、何も語らず黙々と準備運動を
こなしていた。
一段落したあたりで、手を臍の辺りで組んだポーズの状態になっ
252
た。
﹁ナイファンチ﹂
そう一言だけ囁くと、横に忍ぶような動きから空手の型をし始め
た。
その形は、最初防御の形に思えたが、裂帛の気迫と共に撃ち出さ
れる肘、拳の動きに圧倒される。
中国拳法でいう所の﹁套路﹂に当たるのだろうと思われる形。
また、手を臍の辺りで組んだポーズで乃江さん。違う形を開始す
る。
今度は縦の動き。周りに敵を想定した動きで実戦的な動きが繰り
広げられる。
だが、テレビで見る厳しい空手の型とは違い、乃江さんの形は優
雅で流れるような動きだ。
敵を撃つ、止まる、蹴る、の様な単発的な動きではない。
見ていて飽きない。
時が流れ、流れる動きを目で追いながら、決心を固める。
昨日屋上で戦った後から、自分の中で考えていた事。
﹁俺さ、昨日学校で戦って⋮⋮﹂
乃江さんが聞いてなくてもいい。自分の本心を話そう。
﹁自分の無力さを思い知らされた⋮⋮﹂
みんなが居るから、今日がある。一人だと今日を迎えることすら
出来なかったろう。
そんな彼女達も、日々の血の滲むような努力で続け、守る力を手
253
に入れようとがんばっている。
﹁今後、同じような事が起きるかもしれない⋮⋮﹂
その時は、今の自分はなにが出来るだろう。今のままぶっ殺され
るのか?
それともまたみんなに助けてもらうのか?命を削る思いの彼女達
に?
﹁その時、俺、もっとマシな自分になっていたい⋮⋮﹂
本当は強くなんてなりたくないのかも知れない。けど変わりたい
のは事実。
一生懸命戦っているみんなを見てしまったから。
自分に出来る何か。それがなんなのか良く判らないけど。
﹁家族を、みんなを守りたい。みんなの力になりたい⋮⋮﹂
俺の思っている本心。偽り無い俺の心。
﹁その為に必要なのなら、修行だってやってやる。 退魔士になり
たい訳じゃない⋮強くなんかなりたくない⋮⋮、けど変わりたい⋮
⋮抗う力が⋮⋮守れる力が欲しい﹂
﹁⋮﹂
その一言を聞き、乃江さんは振り返り、
﹁お前なら、そう言うんじゃないかと思ってた﹂
満面の笑みを浮かべた。
﹁私一人では力不足だ。みんなの力を借りねばな﹂
254
そう言って屋上の扉に目を移す。
そこには、腕組をした3人が立っていた。
﹁あかん、逢引してるんかと思って集合かけたのに、色気ないなぁ﹂
そう言って笑う山科さん。
﹁私でよろしければいつでも﹂
普段に無い真面目な美咲さん。
﹁一緒に⋮修行﹂
最後まで話せない宮之阪さん。
﹁もちろん、うちも大歓迎や。一緒にがんばろうなカオルくん﹂
みんなの好意が素直に嬉しかった。不覚にも涙が出そうになる⋮。
﹁じゃ、日替わり登校から日替わり修行に変更かしら∼﹂
そういって首をかしげる美咲さん。
やっぱり最後まで真面目なキャラは無理でしたか。
ここは、ちゃんとした区切りの瞬間だ。
﹁よろしくお願いします!﹂
そう言って、4人に弟子入り志願する日々がはじまった。
255
﹃天野家の夜 02﹄︵後書き︶
やっと、話が始まりそうな予感です。
頭で考える序章の部分。
文章にまとめると長くなるんですねぇ。
The
Man
Who
Sold
次話からコンパクトに纏めて10話一区切りくらいで小話を入れて
−
いけたら良いなとか思ってます。
World
BGM:Nirvana
The
256
﹃連休 01﹄
さえず
ちゅんちゅん⋮⋮
外で小鳥の朝の囀り、優雅な朝の始まり⋮⋮
なんて妄想はさておき、俺は今ダッシュ中。凄く急いでる所。
現在時刻朝5時。完全な遅刻だ!
庶民を舐めたマンションのエントランスに立ち、複製の難しいと
されるディンプルキーを差し込む。
エレベーターの降りてくるロスタイムすらもどかしい。
中に入り、﹃閉める﹄ボタンを押して、閉まるまでに階選択。こ
れで1秒縮めた。
7階に上がると702号室のドアに張り紙。
﹃上にいます。遅刻イクナイよ! 美咲 ﹄
うああ、怒ってます。
落胆して玄関先にへたり込んでいる暇はない。
再びエレベーターに乗り﹁R﹂屋上へ。
たる
屋上にあがる⋮⋮と⋮⋮美咲さんが仁王立ちでお待ちでした⋮。
﹁カオるん! 最近弛んでますよ∼ 今日も10分遅刻です∼﹂
あんまり怒ってない顔つきだけど、口調は怒ってます。どっちが
本当の美咲さんなんだか。
﹁あんまり遅刻が過ぎると、このマンションに引っ越してもらいま
すよ!﹂
257
いや、それは勘弁してください。家賃高すぎです。
駆け出しの退魔士見習い、なおかつ修行中の身。
ランクもお情けでCまで評価して貰ったのは良いが、ろくな仕事
して無いので収入はゼロ。
ランク付けも、美咲さんを筆頭に当局に働きかけた賜物で、以前
解決した﹃魂食い﹄の事件を考慮してのランクだそうな。
一番効いたのが、乃江さんの一言。
﹁彼の働きは私と同等かそれ以上。彼がFなら私もFにして頂きた
い﹂
そう言ってくれたのだそうな。
ちなみにその際知ったことだけど、乃江さんの退魔士ランクはA
だそうな。
⋮道理で強い訳だ。
自分では、﹃ちょっと能力のある一般人﹄とか言っていたけど、
自分を卑下しすぎだっての。
その他の方々も揃いも揃ってAランク。
実際の話、﹃魂食い﹄事件の際には、考えうる精鋭を揃えたのだ
そうな。
そうは言え⋮みんなに持ち上げられて、勘違いしていたのも事実。
そう⋮勘違いだと理解したのは弟子入り開始当時。
いい勝負していたと思っていた乃江さんにさえ、足元にも及ばな
い現状。
いまだに一発も有効打を入れる事ができない。
やはり、あの時は手加減してくれていたのだと思い知らされた。
猛省し今日現在も、トレーニングに明け暮れる日々だ。
﹁カオるん、準備できたらこちらへいらっしゃいな∼♪﹂
258
そう言って手招きする美咲さん。
2部丈のスパッツにミニスカート、スポーツブラなのかタンクト
ップなのか良く判らんへその出たトップス。薄いパーカーを羽織り、
足元は黒ニーソックスで白のウォーキングシューズ姿。
ちなみに、黒ニーソックスは耐刃繊維で作られている特注だそう
な。
見た目には凄い露出が多くて、目の毒なのだが⋮⋮。
人間とは罪なもので、数をこなすと慣れてしまい全然エロく感じ
ない。
初日の衝撃は、もう俺には訪れないのだろうか⋮⋮。鼻血が出そ
うだったのに。
対する俺。
美咲さんに買ってもらったジャージに、足首をガードするソフト
な履き心地のトレッキングシューズ。
上はTシャツと簡単なものだ。
せっかく美咲さんに買ってもらったものだし、有効活用しないと
悪いしね。
﹁はい、ただいま∼♪﹂
招く美咲さんの声で、怒ってないのが判り、上機嫌な俺。
さて、地獄の訓練の始まりですか∼。
美咲さんとは、﹃長考﹄状態での格闘戦と主にやっている。
俺も長考が使える!と調子に乗っていたのだが、これも頭を打つ
結果に⋮。
美咲さんの﹁本当の﹂長考と、俺の﹁偶然の産物﹂の長考は月と
すっぽん。
コマ送りできる時間の持続も、思考の速さにおいても段違いだっ
たのだ。
259
﹁さ、カオるんも、あーん♪﹂
白い塊を、口にニ・三個放り込まれる。
これブドウ糖の塊だそうで、最近だとスポーツ店やコンビニでも
売っている。
なんでも、脳の活動の源は糖だそうで、長時間長考状態を続ける
と、低血糖状態になってしまうそうだ。
つまり、長考を繰り返し長時間行うと、脳が働かず精神が不安定
⋮さらに進むと突然意識不明⋮最悪の場合死に至る。
⋮怖。
道理で、美咲さんのケーキの食いっぷりが納得できた気がする。
つまりは、究極のダイエット? 違うか⋮⋮。
手をクイクイと、﹁来なさい﹂ポーズの美咲さん
逝きますか⋮。
﹁長考!﹂
﹁長考!﹂
伸ばした脚を美咲さんの足元に着地、脚で地を蹴る運動を腰に伝
える。
腰が螺旋の運動に変換し、跳ね上げる肘撃ち。目の前に美咲さん
のヘソ。そこから鳩尾へ。
美咲さんも余裕の動作で、俺の肩へ両手を添え、俺の跳ね上げる
260
動きに相乗し自分も上に跳ぶ。
俺の肩を軸に空中で一回転し、かかとで俺の後頭部を薙ぐ。
俺は跳ね上げた肘撃ちの動作のまま、感覚で左に首を振りギリギ
リの見切りで蹴りを避ける。
背中合わせに着地した美咲さんへ攻撃、利き腕じゃない方向から
の回し蹴り風味⋮⋮の後ろ蹴り。
半回転の回し蹴りは、回転の力が少ないが速さが信条。素早く蹴
る。
美咲さんも動じることなく、軽く足を上げて脛の位置でガード。
蹴られた力を自身の軸に乗せて、利き腕での裏拳を俺に打ち込む。
俺は、肘撃ちに使った手を戻し、顔の横でガードする。
この間、0.1秒。
やばい、限界が近づいている。
俺は前に手を着き、一回転ひねりで距離を取り美咲さんと対峙す
る。
﹁カオるん。もう限界ですか? 最低でも5秒は持続できないと ﹃長考﹄ とは呼べないですよ∼?﹂
腰に手をあて、一息つく美咲さん。
5秒なんて、酸素ボンベ一本だけでマリアナ海溝に潜るような物
だ。
無理と言って諦めたら成長もそれまで。判ってるが難易度高すぎ。
﹁まぁ、出来ちゃうとこんなもんか?って感じると思いますけどね﹂
そう言い再度俺との距離を縮める。美咲さん。
261
﹁はぁはぁはぁ⋮⋮﹂
芝生の上で大の字に伸びる。息が切れて呼吸が整わない。
決定的なダメージを貰わなくなったのは、成長と見ていいのだろ
うか?
初日は、一発でノックダウンされたもんな⋮。
横に座る美咲さんから伸びた手。ぶどう糖の補給。
餌をもらう小鳥の雛のような気分だ。
最初は抵抗あったけど、いまじゃ自然に伸ばされた手に口を開け
ている。
口の中で噛み砕く甘い結晶。
﹁ズルするようで心苦しいんですけど、コツみたいな物ってないで
すかね﹂
神にすがるような気持ちで聞いて見る。
美咲さんしばし悩む。
説明難しいんだろうな⋮⋮。俺も長考って良く判らんもん。
思い当たったのか、美咲さんニコニコしながら答えてくれた。
﹁長時間死の危険さらされますと、自然と身に付きますよ∼﹂
うん、そうだな。自然と身に付くよな⋮え?
﹁今のカオるんは、実戦の経験がゼロに等しい状態ですもの⋮⋮、
伸び悩むのも仕方ないのかもしれませんね∼﹂
そう言ってニコニコ顔の美咲さん。
262
笑って答えてくれる美咲さん。 だけどその経験って俺の想像を
絶する物だと言う事か⋮。
そんな経験をし、なお笑っていれるこの人はやはり強い。
技や力⋮そんなものじゃなく﹁心﹂が強いと思う。
俺も心の強い人間になりたい。
﹁今の気持ちを忘れないうちに、もう一組み手いいかな?美咲さん﹂
そう言って整った息を、確認し立ち上がる。
﹁はい∼♪﹂
そう言って俺に付き合ってくれる。
こういう美咲さんの気安さ優しさを、最近身に染みて感じること
が出来る。
ありがたい。
﹁長考!﹂
﹁長考!﹂
二人の姿が超高速の世界に消える。
朝錬が終わり、かいた汗をシャワーを借りて洗い流す。その後制
服に着替えるのが日課となっている。
当然のように、乃江さんの作った朝ごはんを3人で食べている。
﹁相変わらず美味いね。お味噌汁﹂
263
めっちゃくちゃ美味い豆腐の味噌汁。いただきながら出る率直な
賛辞。
昆布と魚のアラを使い出汁をとるのがコツなのだそうな。魚の骨
髄が出ていて最高に美味い。
﹁お替りあるぞ﹂
無表情で返答する乃江さん。
最近微妙な表情の変化で、感情が読みとれる様になった。
これは、ちょっと嬉しそうな感じ。
﹁こんなご飯を毎日食べれる美咲さんは幸せですね﹂
同じくおいしそうにいただく美咲さんに話を振る。
﹁はい∼ 外食なんてしようとか思いませんもの∼﹂
ご飯を噛み噛み、頬を押さえて味を噛み締めている美咲さん。
無言で、ご飯を食べている乃江さん。
表情は相変わらずの無表情だが、かなり喜んでいる感じがする。
乃江さん、美咲さんに教えを請う日は、こうやって乃江さんを誉
め殺しにするのも﹁日課﹂になってる。
﹁そういえば、今週末から巷はゴールデンウィークですね﹂
一応学校も暦通りに休みがある。その間にこの日課をどうするか、
前々から気になっていたのだ。
4人とも越境でこちらに来てるのだから、帰省とかするのかな∼
とか。
ふと、美咲さんと乃江さんがカレンダーを見る。
264
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
もしかして、気が付いていませんでしたか?
学生兼退魔士には、休みの概念が薄いのかもしれん。
﹁の⋮⋮ノエはどうするの?﹂
やや、焦り気味の美咲さん。歩く演算装置頼みで聞いている様だ。
﹁わ⋮⋮私は美咲お嬢様次第です﹂
ぷ⋮⋮演算装置も不調のようだ。慌てる乃江さんが新鮮で笑える。
﹁二人とも、越境でこちらに来てるからさ、実家に帰省とかするの
かなぁ? とか思ったので聞いてみたんだ﹂
休みなら自主トレに切り替えないといけないし、色々と大変だ。
そう聞いてみたら、二人の表情が激変した。
﹁あ、いや、実家は⋮⋮不味い。帰らん﹂
﹁あはは∼ いやですねぇ 帰りませんよ∼﹂
なにやら二人とも変な汗をかいている。
二人とも実家が嫌いなのかな。
あんまりこの話題に触れない方がいいのかな。
﹁じゃ、連休中も、いつも通りでいいのかな? こちらに通っても
大丈夫?﹂
念のため聞いておこう。
﹁もちろんですよ∼ いらしてくださいね﹂
確かにそう聞いたはず。そういった筈なのだが。
265
事態は急変する事になる。
週末の連休、俺は車中の人となった。
﹁新幹線で1時間。そこから在来線で2時間って計算おかしくない
ですか?﹂
突然の急展開、やけっぱちで聞いてみる。
﹁新幹線で1時間。そこから在来線で2時間、そこからバスで1時
間です﹂
ニコニコ顔も冴えない美咲さん。俺の情報に付けたししてくる。
人気の少ない在来線のホーム。そこに立つのは女性4人と俺⋮
﹁そんなヤバイ状況にカオル連れてって、万が一の事があったらど
うすんねん﹂
﹁美咲さん⋮⋮、ヒドイです﹂
山科さんと宮之阪さんも同行していた。
賑やかで良いのだが、無人のホームに響き渡る罵声、雑言。
美咲さんもションボリして小さくなっています。
自業自得なんですが⋮。
﹁美咲も見合いの話断るのに、勝手にカオルの名前使うわ、挙句の
果てにつれて来い言われるわ。最強の参謀の乃江が付いてて、なん
やその有様は!﹂
266
﹁⋮ですよ﹂
マシンガントーク全開の山科さんに押されて、宮之阪さんほとん
ど喋れてません。
﹁めんぼくない﹂
すんなり、頭を下げる乃江さん。最近⋮演算装置不調だもんな。
その影で言葉も出せずに凹んでいる美咲さん。
15で元服の天野家だ、高2で見合いと言うのも不自然じゃない。
一般的な概念をポイって捨去ればな。
﹁ちゅーことでやな。 監視。 お目付け役やからな。 やばくな
ったらカオル連れて逃げるで?﹂
﹁今からでも⋮⋮、逃げませんか?﹂
そういうことで、お目付け役の山科さん、宮之阪さんが付き添っ
てくれる事になったのだ。
完全アウェーの試合、サポーター2名でも心強い。
﹁ま⋮⋮、まあ、ゴールデンウィークの旅行だと思って⋮⋮思って
⋮⋮思えませんよね﹂
ションボリしすぎて何時もの切れがない美咲さん。
なんか、かわいそうになってきた。
しかし、本当にかわいそうになのは俺だと言う事を、後々思い知
らされる事になる。
267
268
﹃連休 02﹄
2時間程ローカルな在来線を乗り継ぎ、到着したのは無人駅。
﹃ここに切符をお入れください﹄って書いてある箱だけの改札始め
て見たぞ。
駅前には、お菓子も食料品も雑貨も何でも売っている雑貨屋一軒。
⋮だが張り紙がしてあり、閉店している。
﹁⋮⋮⋮﹂
来た。
田舎だ。
駅前でもうすでに、携帯のアンテナが立ってない。
頭の上に掲げようが、髪の毛でさわさわしようが、電波を拾う事
ができない。
断腸の思いで、携帯の電源を切る。
乃江さんが、バスの時刻表を確認し戻ってくる。
﹁運が良かったな。30分後にバスが来る﹂
そう言って安堵のため息を付く。
運が良くて30分⋮運が悪いとどうなるんだ?
ツッコミたいけど、サポーター達を暴徒化してしまいそうなので、
黙っておく事にする。
﹁言い訳ではありませんが⋮﹂
隅のほうで地面に﹁の﹂の字を書いている美咲さんを庇う様に、
乃江さんが説明をしだす。
山科さんも宮之阪さんも、眉を吊り上げ無言で腕組をしている。
269
怖いよ。
﹁カオルが美咲お嬢様のマンションに通われている所を、運悪く血
縁の者に見られたのが事の始まりなのだ﹂
そう言って説明を続ける乃江さん。
﹁朝、一緒に部屋から出る男女、仲睦まじく一緒に登校⋮﹂
うは、想像したら怖くなってきた⋮どんだけ誤解されてるんだ⋮。
そんな、オイシイ状況になった事なんてねーよ。
逆にボッコッボコにされて、足腰立たないくらいの状況なんだし⋮
いや、まてよ?
足腰立たない俺の振る舞いも、誤解を助長しているのではないだ
ろうか?
﹁蝶よ花よと育てられたお嬢様に、虫が付いた⋮と思われたわけだ﹂
淡々と説明する乃江さん。
俺は虫ですか。
たぐい
テントウムシとか、そういう可愛らしいイメージじゃないんだろ
うな⋮毛虫?青虫?の類だろうな。
﹁まあ、いつもの見合いの話から⋮誘導尋問されて⋮今に至ると⋮﹂
話をだいぶ端折りましたね。乃江さん⋮。
しかし、大体の話は読めた。
美咲さんが、俺の名前で見合いを回避って⋮実はちょっと⋮いや
マジで嬉しかったりしたのだが。
美咲さんがそういう事しない人だって判っているから、不自然に
感じてたんだ。
夢破れてなんとやら。一つの夢が破れた気分です。
ちょっとガッカリっす。
カオルサポーターズの両名も、おおよその事情を掴めたようで、
270
納得いくやら行かないやらの複雑な表情。
﹁⋮ぷう﹂
いや、まだ怒ってる宮之阪さん。
﹁美咲?地面に﹃の﹄の字書いてんと、こっち来!﹂
そう言って、どんよりムードの美咲さんに声を掛ける山科さん。
美咲さん、構って貰える犬のようなリアクション。目を輝かし山
科さんを見る。
なんだかダッシュで駆け寄る美咲さん。愛犬っぽいな⋮。
﹁大体の事情はよー判った。 実際の話、美咲が実家に本当の事情
を説明したら済む話やな﹂
そういって美咲さんを嗜める山科さん。
そういわれて滝汗の美咲さん。なんだか表情の冴えない感じ⋮。
﹁天野家の人って、人の言うこと聞かないんですよね⋮﹂
自分で言うか! と思うけど⋮。実際の話、美咲さんに進言して
聞いて貰えた試しはないな。
﹁言って⋮聞いて貰っていたら、今こんな場所に皆さんいらっしゃ
いませんよ?﹂
にはは⋮と苦笑する美咲さん。
カオル&サポーターズは脱力して地面に突っ伏した。
バスに揺られる事小一時間。目的の場所に着いた。
バスに乗り込む時に、バス運転手が帽子を取り挨拶したのは驚い
271
た。
ひぃ
そういうサービスをするバス会社なのか?と思っていたら、
﹁天野家、真倉家のお姫さん同時にお乗せするなんて、⋮有難い事
だ﹂
なんて言いつつ、サラリと挨拶した事だ。
なんて超有名人。地元の名家だとは何となく聞いていたけど。
乗り合わせたおばあちゃんなんて、懐から数珠出して﹃ありがた
や、ありがたや﹄なんてお祈りしだす有様だし。
一種異様な雰囲気のまま、小一時間バスに乗る事になったのだ。
落ち着かねぇったらありゃしない。
バスを降り、街道沿いから外れて歩く事十分少々。
緑が豊かで、流れる川の水が澄んでいる。
水田の棚田も美しいが、その奥にそびえる山々が圧巻、緑なす自
然の美だ。
﹁いい所ですね。空気は美味いし。緑が眼に優しい﹂
深呼吸しながら、美咲さん、乃江さんに話しかけた。
﹁緑しかないが、私は嫌いじゃない﹂
そういって周りの風景を懐かしむ乃江さん。
﹁この川の上流には、オオサンショウオとかいるんですよ∼。水遊
びしたら気持ちいいですよ∼﹂
ちょっと調子を取り戻した美咲さん。自分の記憶と見る風景を重
ね合わしている様だ。
272
山科さんも宮之阪さんも、ピリピリムードが吹き飛び、自然の風
を受け上機嫌になっている。
自然は人を優しくする。そんな気分にさせる。
乃江さんが山の方を指差し、
﹁あの山の中腹に見えるのが、本家だ。ちなみに私の家は西の山の
方﹂
そういって指差す先には、でっけー家。
本家も分家も関係ないな。でかいもんはでかい。
﹁私は、家に挨拶したら、取って返し本家に伺う。分家の者がカバ
ン持って旅姿などでは、本家に行けないからな﹂
そう言って、右左の分かれ道を一人走り出す。
いや⋮走らんでもいいぞ。むしろ、家でゆっくりした方が親孝行
じゃないのか?
そうは思うが、知将乃江さんを抜きに天野家攻略不可能。
ごめん、乃江さん⋮全力で走って!
道行く道中、小さい子供が、数人遊んでいる姿が見えた。
その子供達。ふと、こちらに気が付いたようで、全員走ってくる。
﹁わあー みさくねえちゃん♪﹂﹁みさくりん♪﹂﹁みさきねーち
ゃん﹂
瞬く間に、子供に囲まれる美咲さん。みさくりんとかみさきとか
気軽に呼ばれてるなぁ。
美咲さんが自分の事を﹃ミサキ﹄ではなく﹃ミサクリン﹄と呼ぶ
のは、ここにルーツがあったのか。
273
﹁みんな、元気してた? 沙紀ちゃん漢字かけるようになった? 高志くんもみんなもおっきくなったね∼﹂
しゃがんで子供目線で話す美咲さん。美咲さんって保母さんとか
似合いそう。
﹁みさくりん! 秘密基地もうすぐ完成しそうなんだ。 また見に
来てくれよ﹂
そう言って自慢げに話す、高志くんとお仲間の悪ガキ2人。
﹁さき⋮かんじ得意になったよ。えへへ∼﹂
そういう沙紀ちゃん。照れたように美咲さんに抱きつく。
﹁なんや、ほのぼのしててええなぁ。美咲はこの子らのボスか?﹂
そう言って苦笑する山科さん。
﹁沙紀ちゃん⋮みんなもかわいいです﹂
ほわ∼んと子供達を眺めていた宮之阪さん。美咲さんに並んで子
供目線でしゃがみこむ。
しばしの談笑。ふと気が付くと沙紀ちゃんが俺をじーーーーっ見
てる。
﹁おにいちゃんがみさくねえちゃんのだんなさん?﹂
人差し指を口にくわえ、モジモジしながら俺に聞いてきた。
﹁⋮⋮⋮﹂
﹁いまなんて?﹂
274
硬直する、俺&カオルサポーターズ。苦笑する美咲さん。
﹁あのね。さきのおかあさんがね。みさくねえちゃんのだんなさん
がくるからって⋮あさから大忙しなの﹂
さらに詳しく説明してくれている沙紀ちゃん。
どんだけ、情報が漏れてるんだ。田舎の伝達速度恐るべし。
ふと周りの悪ガキから、痛い視線。
きっと憧れのお姉ちゃん取られた!みたいな気分なんだろうか。
睨みながら涙を浮かべている。
﹁いや⋮あのね⋮誤解だよ? 沙紀ちゃんのおかあさんの勘違い 友達なんだ そう 友達 学校のね 友達なの﹂
あまりの痛さに耐えかねて、友達を連呼してしまう俺。
視線に耐え切れず、美咲さんに応援要請。アイコンタクト!
美咲さん⋮俺の視線を逸らして不機嫌な表情。無視されてしまい
ました。
﹁そうなんだぁ たいへん。さきのおかあさんにおしえてあげなち
ゃ にいちゃんも行こ ﹂
そういって、高志くんを引き連れ、元来た道へ引き返す沙紀ちゃ
んと仲間達。
嵐は去ったな⋮。
﹁沙紀ちゃんのお兄ちゃんって高志くんだったんですね﹂
遠くの兄弟と仲間達を眺めながら、美咲さんに話しかける。
﹁⋮そうですよ。仲のいい兄妹ですね﹂
なにやら、不機嫌な美咲さん。まだなにかその調子を引きずって
いる感じだ。
275
﹁⋮⋮⋮カオるん、友達 友達、友達!って酷いです! そんなに
私の旦那さん嫌ですか!﹂
わ、逆ギレ来た。わ、わわ⋮しかも泣き出した。
俺は元よりサポータズも総がかりで、美咲さんをなだめながら、
天野家にむかう事になる。
到着した天野家。左から右まで塀!すごいデカイ!なんてイメー
ジを抱いていたけど、そんな事は無かった。
左右の林に囲まれて桑の木を綺麗に刈り込んだ塀。その奥に人を
招くように、玉砂利と自然石を敷き詰めてある。
その自然石と踏みしめ少し歩くと表玄関がある。
ひっそりと立てられた庵のような。
﹁ここが表玄関です、どうぞお上がりください∼﹂
そう言って案内する美咲さん。
玄関?
うは、やっぱり広い。
玄関には俺達を待ち構えて迎えてくれる女性がいる。
年の頃は20台中・後半かちょい上くらい。⋮身震い出るほどの
美人。
建物が和風なので和装かと思ったけど、普通に洋服を着てられる。
じっと俺を見るその視線に気が付き、俺も見るともなしに見てし
まう。
⋮美咲さんに似てるなぁ。お姉さん?か従姉妹の方だろうか?
﹁皆様、ご遠方よりこんな辺鄙な田舎まで⋮おつかれでしたでしょ
276
?﹂
そう言って深々と挨拶する。
﹁おかあさん、ただいま∼﹂
美咲さんが、会釈し挨拶をする。
俺&サポーターズが盛大に吹く。
﹁ええ? おかあさんて?﹂
﹁若すぎ⋮ませんか⋮﹂
﹁⋮コクコク﹂
三人の耳打ちを聞かれたのか、美咲さんのお母さん大喜び。
﹁来た早々誉め殺しするなんて、嘘でも嬉しいです∼﹂
そう言って頬を押さえる満更でもない美咲母。
﹁美咲が来る時間を連絡してくれないから、まだお部屋の用意が⋮。
使いの間で脚を休められてはいかがかしら∼﹂
そういって案内されたのは、使いの間なんて名前が付いているけ
ど大広間。玄関横のお座敷だった。
﹁あっ、はい、お邪魔します﹂
そう言って玄関を上がらせて貰う事に。
玄関の上がり、渡り廊下で使いの間へ。
旅館の部屋が二つ分はありそうな広間。玄関の緑が見えて落ち着
ける雰囲気だ。
問題は⋮まだここが玄関だという事だ。
広すぎるだろ。
テーブルに座布団を用意してくれて、お茶の用意までしてくれよ
277
うとする美咲母。
流石に心苦しいので、固辞し下がっていただいた。
庭の静寂な風景を眺め、全員がため息を付く。
﹁うちのおかあはんも大概若こう見えるけど、美咲のは段違いやな。
最初お姉はんかと思たで﹂
そういいつつ、急須にお湯まで用意されたお茶を、各人の湯のみ
へ注ぐ山科さん。
確かに、あの風体、漂う色気。待ち合わせスポットとかに居たら、
普通にナンパされるぞ。
たぶん、速攻で⋮
﹁うふふ∼そう言ってもらうと嬉しいな﹂
そう言って我が事のように喜ぶ美咲さん。
綺麗なお母さんってのは、子供の憧れだもんな。
しかし、さっきの俺を見る⋮見定めるような目は﹁母﹂だからこ
そなのか。
しっかり品定めされてしまった。
﹁なんか⋮緊張⋮しますね⋮﹂
お茶を啜り、一言一言話す宮之阪さん。
忘れてたのに⋮そう言われると緊張してくるよ⋮ どうしよう。
心臓がバクバクしてきた⋮。
逃げたくなってきた。
まもなくして、別の女性の方の案内で部屋に案内される事になる。
あまりに物珍しく通り道、行く先々で質問の嵐。
﹁こちらの、鉄の扉は?﹂
278
﹁内倉ですよ。来客にお見せする物とか頻繁に出し入れする物が入
ってます∼﹂
外にも土蔵がいくつかあるそうな。
﹁隣が納戸部屋、その奥が大広間と控え部屋。庭を挟んであちらが、
厨房ですね﹂
一個一個の部屋の大きさが半端じゃねぇ。
庭も自然の岩が模してあり、小粒の玉砂利で風紋が描かれている。
人の立ち入る箇所には石の道。庭で鯉が優雅に泳いでいる。
厨房も昔ながらの土間の厨房。さっき居た使いの間の2倍くらい
の広さだ。
行く先、途中にも障子で仕切られた部屋がたくさん。
一体部屋いくつあるんでしょうか?
内倉、納戸部屋、大広間、控え間、その先にまた寝所と﹁ロ﹂の
字に移動した先。
渡り廊下で本殿とつながれた離れに通された。
﹁こちらの部屋は、来客用の部屋ですよ。秋になるといい景色が見
えるようになってるんです﹂
美咲さんがそう説明してくれた部屋は、春でも縁側越しに緑が良
く見える良い部屋だ。
8∼10畳の部屋3つ、襖で仕切られた部屋。
広すぎて落ち着かなくなっていた俺には、この一部屋で丁度落ち
着ける⋮。
﹁湯殿も男女に分かれてますので、お風呂にでも入って旅の汗、疲
れを取りませんか?﹂
そう、美咲さんが提案してくれた。
279
風呂か!良いかも。長時間のバス移動の後歩いたのでちょっと足
が疲れている。
山科さんも宮之阪さんも同意見のようで、カバンを広げソワソワ
している。
﹁行きましょう﹂
湯殿は本殿から、渡り廊下で隔絶された場所にあった。
扉には何も書かれていないが、暖簾に﹁殿方﹂と書かれている。
﹁こっちが男用?﹂
念の為、美咲さんに確認を取る。間違って女風呂とかベタなミス
は避けたい所だ。
﹁ええ、こちらが殿方用、あちらがご婦人方のお風呂ですよ﹂
指差す先には、彩り鮮やかな暖簾。こちらの暖簾は藍一色だ。判
りやすい。
二手に分かれ男風呂に向かう俺。
脱衣場板間で、脱衣籠がたくさん用意されている。まんま温泉の
雰囲気だな。
肝心の風呂場も温泉。しかもヒノキの風呂だ。
﹁感動するなぁ、ヒノキとお湯の良い匂い﹂
早速、体を洗いヒノキ風呂を堪能する事にしよう。
ぷはぁ、感動。
これから待ち受ける問題など、吹き飛んだ。
ヒノキの風呂に浸かり、お湯を手ですくう。
独特のヌメリが手に残る。普通のお湯じゃないような。
﹁温泉?﹂
マジかよ。自宅に温泉ですか。
280
感動に打ち震え、肩までじっくり浸かり幸せを噛み締めていた。
ふと、視界に入る﹁露天風呂↓﹂の看板。誘われるように湯殿の
端の扉を開く。
ここで、混浴!とかなっている罠は無いよな。ちゃんと仕切りが
されている。
安心して露天風呂を堪能しよう。
ふと、ぼんやり遠くの景色を眺めて無心でいた時の事。
﹁うはぁ∼ 露天風呂や! うち感動やわ﹂
あっ山科さんの声。
﹁そんな⋮大声⋮カオルさんに⋮聞こえちゃいますよ?﹂
宮之阪さんの声。ふふふ聞こえてますよ∼。
﹁そんな、水の音してへんかったし、大丈夫や﹂
すいませーん。先に入ってちょっと寝かかってましたよ♪
﹁うふふ、カオるんは露天風呂の事言い忘れていましたから⋮内風
呂でしょうね∼﹂
美咲さんの声。気が付いちゃいました。
﹁念の為に⋮カオル∼ 居てるかぁ﹂
木で仕切られた向こうで、耳を澄ませている山科さんが思い浮か
ぶ。
ここで返事するとお互い恥ずかしいし、静かにお風呂に入ってお
こう。
281
お
﹁やっぱり居らんみたいや。安心やな﹂
ここは、無言で入るのが男という者。安心めされい、聞いて居る
ぞよ。
水に浸かる音大小。大きい音が山科さんなんだろうな。
ほんま
静々と入るのは宮之阪さんと美咲さんかな?。
ぐっじょぶ
﹁なぁ美咲? ぶっちゃけ、さっきの涙は本当なん?﹂
おお!いきなり核心を突くな⋮GJ!山科さん。
﹁えっ⋮ああ⋮﹂
しばし、無言で考える美咲さん。生唾を飲む音すら危険な静けさ
だ。ヤバイ。
﹁あの時は友達友達って連呼されて、すごく悲しくなったのは⋮本
当かな﹂
ボソボソと話し始める美咲さん。
まぶだち
すいません⋮すいません⋮すいません⋮。
﹁だって親友じゃないですか∼ ね?﹂
ガクッ!激しく脱力。
⋮しばしの静寂、その後に山科さんの声
﹁私は⋮カオルの事⋮かなり気に入ってる﹂
山科さんらしからぬ、真剣な口調。
﹁私も⋮カオルさんの⋮優しい所⋮好き﹂
聞き取れるギリギリの小声で、宮之阪さんも話し出す。
そう言ってもらうと嬉しいな。
しかし、この雰囲気。物音一つ立てれない雰囲気はヤバイ。
音が立てれないと判ると、途端に居心地が悪くなるな。
282
﹁私は⋮わからない⋮カオるんと居ると楽しいし。でもそういう﹃
好き﹄と﹃好き﹄⋮そう言うのは良く判らない⋮﹂
美咲さんの小声。
⋮⋮俺も美咲さんと同意見かな。
一緒に居て楽しい、腹を割って話せる。﹃好き﹄
愛している﹃好き﹄って良く判らない。
多分⋮今、おれが思っている好きなのは前者だと思う。
美咲さんも好き、山科さんも好き、宮之阪さんも好き、乃江さん
も好き⋮
だけど、違うんだろうな。
﹃愛してる﹄は⋮
﹁そうやな⋮うちも良うわからへんな。けど⋮そうなれたら良いな
ぁとは思う﹂
﹁私も⋮一緒に居て⋮判る事も⋮多いから⋮一緒にいたい⋮と思う﹂
そういう、山科さんと宮之阪さん。
そう思って貰える幸せに⋮不覚にも涙が出そうになる⋮
もっと⋮もっと自分を磨いていきたい。
そんな気持ちにさせる好意だ。
﹁ってえ事でな。なし崩しに美咲の家に⋮既成事実を作らせる訳に
はいかんや。全力で阻止するで∼﹂
山科さんの宣戦布告を最後に、コッソリコッソリと露天風呂を後
にした。
283
﹃連休 03﹄
女性陣に先駆けて風呂を上がった俺は、離れの部屋へ戻ってきた。
﹁む?なにやら部屋で物音が﹂
かたなかみ
物品を物色するでもなく、人がいるでもない気配。
﹁何者?﹂
姿を消
無人の部屋への襖を開けると、俺の守り刀に憑く刀精がテーブル
の上で茶菓子を食っていた。
﹁⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮﹂
ふと目が合うカナタと俺。一瞬送れて守り刀にダイブ!
したカナタ。
﹁遅っ!﹂
鋭くツッコミ。
しかし、奴は俺の霊力で顕現してるとか言ってた癖に、たまにふ
たばか
と姿を現すよな。
実際の話、謀られているのか?
俺は守り刀を持ち、テーブルの上の食い残しを一切れ口にする。
284
﹁美味いぞ﹂
ポリポリと食う和三盆の押し菓子。
砂糖菓子の割に甘すぎず上品な味、いやマジで美味い。
﹁食わんのか? 美味いぞ﹂
カナタを説得する刑事の気分、なるだけ優しく刀に話しかける。
﹁⋮⋮⋮﹂
しかし、カナタは出てこない。見られたのが相当ショックだった
のだろうか。
﹁お茶もいれるぞ∼﹂
そう言って、急須にお湯を注ぐ。
お茶の香気にたまらずカナタが姿を現す。
らしくなく、もじもじしてるカナタ。
﹁気にするな。さ、食おうぜ﹂
そう言って差し出す和三盆の茶菓子とお茶。
カナタの表情が、ぱああ∼っと明るくなった。うむ、こいつかわ
いい。
小動物っぽいというか、ハムスターとか飼うとこういう気分にな
るのかね。
﹁すまぬな。腹が減っておってな⋮ ふと周りに窺ってみたら台の
上に﹂
285
和三盆があったと。
﹁しかし、お前食べ物必要なら、そう言ってくれれば﹂
コッソリと食わせたのに。
﹁最近、姿を現せど魔を吸収する訳でもなく、かと言って姿を現さ
んとカオルも、我の存在を忘れるであろ?﹂
そういや、学校の一件以来、食事させてないな。
しかし、小動物の上に寂しがり屋か。笑いが込み上げてくる。
﹁そうだな。魔物どころか訓練に一生懸命だからな。当分食えない
かもな﹂
そう言ってカナタへ死亡宣告してみる。
﹁そ、それは困るぞ。霊力供給で刀の姿を保っておる。食事が足り
なくなると錆びるぞえ、朽ちるぞえ﹂
お茶を啜るカナタ。てかさ、それ水分だよな。錆びるだろ。
﹁まあとにかく、しばらくの間差し入れするから、それでなんとか
踏ん張ってくれ﹂
手を合わせ刀精に詫びを入れる。
しばらく散財しそうだけど、しかたない。かわいいカナタの為だ。
286
ふと、和三盆を食らうカナタを微笑ましく眺めていたら、障子の
先から声が掛かった。
﹁美咲。居るのか?﹂
男の人の声だ。心臓がわし掴みされたように、ドクンと高鳴った。
障子を開け縁側に立つのは、長身の男の人。
前髪が長く、眼が半分くらい隠れていて表情が読み取りにくい。
俺より少し年上としか分からない。そんな第一印象だ。
長身の男性は部屋の中を覗き込み、慌てる俺を見て、
﹁すまん、無作法したな。美咲は不在だったか﹂
そう言って頭を下げた。
﹁美咲さんは今、湯殿へ行っています。もうすぐ戻ってくると思い
ます﹂
そう言って頭を下げた彼に美咲さんの所在を伝えた。
﹁いや、すまんな﹂
そう言って俺を見つめ、ついでにテーブルの上で和三盆を食う刀
精を一瞥した。
﹁君が、今回の犠牲者か?﹂
そう言って大笑いをした彼。
287
キョウ
あまりに豪快に笑うので、こちらも釣られて引き攣った笑みを浮
かべてしまう。
﹁遅くなった、美咲の兄の響だ。ひびきでもキョウでも好きなよう
に呼んでくれ。ちなみに俺のオススメはキョウだ﹂
あ、美咲さんの兄だ。絶対そうだ。脳の思考回路が似ている。
﹁今回の犠牲者ってさっき仰っていましたよね? 以前にもそうい
うことが?﹂
気になった一言を聞いてみた。美咲さんの以前の事。
﹁あ、いや。誤解せんでくれ。美咲はああ見えて、身持ちの堅い良
い妹だ。以前の犠牲者は﹁俺﹂だよ﹂
そう言って苦笑した。
﹁美咲と同じ年の頃に、誤解を招いて連れて来いと⋮⋮。君ならわ
かるだろ?﹂
今回の話を聞いているのか、苦笑しながら俺を見ている。
﹁あ、いや。それも誤解です。美咲さんはそんな人じゃありません
!﹂
俺とのマンションの件、聞いているのなら誤解を解きたい。
美咲さんがそんな眼で見られるのは嫌だ。
﹁うむ、判っている。身持ちの堅いと言ったろう? 美咲はそうい
288
う事する子じゃないよ﹂
俺の口調がキツかったのだろうか。慌ててフォローを入れるキョ
ウさん。
そしてふと、テーブルの上のカナタへ眼をやる。
カナタは相変わらず和三盆に夢中だ。
﹁珍しい物を持っているな。守り刀か? 拝見していいかな﹂
テーブルの上の守り刀。それに眼を奪われている。
﹁どうぞ﹂
テーブル横に座るキョウさんに守り刀を手渡した。
キョウさんは、両手で拝領するように丁寧に刀を受け取り、ぐっ
と握り締め鞘と柄を分けた。
﹁ふむ﹂
蒼の刃紋、刃先の一点一点までじっくり眺めるキョウさん。
﹁河内守藤原国助 しかも初代の業物だ。本物の初代は非常に珍し
い、その上﹃珍しいモノ﹄も宿っているしな﹂
カナタを見つめ感心するも、すぐに本身を鞘に納める。
﹁君はこれを使って、魔を祓うのか?﹂
じっとりと汗をかくキョウさん。刀を一つ見るのも真剣そのもの
だ。
289
﹁祓うといっても、つい数週間前まで普通の人でしたから。こない
だ退魔士ランクCになったばかりです﹂
実際の話、魔を祓うってのは皆無に等しい。
キャリアを問われると、ずぶの素人ですと言った方が早い。
﹁しかし、キョウさん。刀お詳しいですね。刀の素性を言い当てて
しまいました﹂
刀を見るだけで言い当てるなんてすごい。
いまだに俺は河内守藤原国助が誰なのか良く判らん。
﹁ああ、俺も刀を使う。その兼ね合いでな。詳しくなってしまった
のだ﹂
そう言って頭を掻く。
この人美咲さんの⋮⋮いや天野の血だと思うけど、近くで見ると
凄い美男子なのだ。
けれどざっくばらんというか、気さくな人だな。なんだかキライ
になれないタイプだ。
﹁すまん、君の名を聞いてはいたのだが、人伝えの情報としてでは
なく、良ければ自身で紹介してはくれないか?﹂
申し訳なさそうにそう言うキョウさん。
そうだよな、人の名前を聞いて置いて、自分は名乗らないはこち
らが無作法だ。
申し訳ないのはこちらです。
290
みむろ
かおる
﹁すいません、名乗り遅れました。三室 薫です。よろしくお願い
いたします﹂
そういって遅れた挨拶を交わす。
﹁ふむ、カオルくん、いや⋮ダメだ。カオルくんを略してカオるん
だな﹂
やっぱり、キョウさんも天野の人だ!
今更ながら﹁ごめん、美咲の兄じゃない﹂って言われても嘘だと
言い切れる。
﹁いや、カオルと呼び捨てでいいですよ?﹂
ダメ元で意見を言ってみた。
﹁判った! カオるん。検討しよう﹂
やっぱり聞いてくれないっぽい。天野の血恐るべし!。
俺はキョウさんと意気投合し、屋敷を案内してもらう事にした。
普段の俺なら固辞する所だが、そこはキョウさんの人柄のなせる
ワザなのだろうか。
キョウさんは今年大学に入ったばかり。しかもK大だそうだ。物
凄く頭の良い人だとわかった。
二個年上になるのか、メモメモ。
そしてキョウさんはサラリと屋敷を案内しつつ、重要な部屋を紹
291
介してくれた。
﹁ん。ここが美咲の使っていた部屋だ﹂
惜しげもなく障子を少し開け、部屋の中を見せてくれた。
美咲さんの部屋か⋮⋮、興味津々だなぁ。
﹁む? 気になるか? そうか、そうだよな、男だもんな﹂
俺の表情を読まれたか?
キョウさんはそう言って障子を開け放し、部屋へと手招いてくれ
た。
10畳ほどの和室。
年代物の文机が部屋の隅に置かれ、その横にレトロな書棚と桐の
タンス。女性の部屋らしく布で隠された三面鏡。
シンプルで美咲さんらしいというか。
﹁ちなみに、タンスの三段目に下着が入っているぞ﹂
感心して見ている俺を見て、キョウさんがボソリとつぶやいた。
しかしなんでキョウさんが知っているのかと、小一時間問い詰め
たい。
﹁いや、嘘だ⋮すまん﹂
いじ
そう言って、俺の表情を見て苦笑するキョウさん。
ちっくしょう!弄られた!。
﹁だが、一枚くらいなら持って帰ってもわからんぞ﹂
292
そう言って、両手で目隠しするキョウさん。
マジっすか。⋮⋮いや罠だな。口元が笑っている。 キョウさんは笑い美咲さんの部屋を出て、俺はキョウさんの後を
追った。
ちょっと後ろ髪引かれる思いなのだが。我慢。
最後に案内されたのは、玄関より靴を履いて庭に出た場所だった。
渡り廊下で繋がれていない離れと呼べる場所、扉を開け放つとそ
こには武道場があった。
家に道場があるって理解不能です。
使っていないのかと思えたが、板間にはホコリ一つ落ちていない。
非常に良く手入れされている。
﹁素足になって入ってみてはどうだ?﹂
そう言って招いてくれるキョウさん。
言われた通り、素足で道場に上がる。足が冷たくて気持ちいい。
そして同じ刀を使う退魔士なのだからということで、キョウさん
の剣技を見せてもらう事になった。
用意されたのは、金属の台に立てられた巻き藁。
その横、すぐにキョウさんが正座し、刀を横に置いた状態で瞑想
している。
俺は、離れた位置でその振る舞い、一挙動を見つめている。
ただ、座っているその姿に、剣気が満ち溢れている。
見ているだけでこちらが一刀両断にされるのではないか?と思え
るほどの迫力だ。
293
膝の上に置かれた手が、左に置いてある刀に手を触れた。
いつの間に、手を動かしたんだ? ゆっくりとした動作なのに、
﹁見﹂れなかった。
鞘に手を置き、そして掴んだ。
刀を持ち上げる少しの動き、右手が神速の速さで柄を持つ。
右足のみ膝を立て、鞘から剣が出た瞬間!
左下より45度の角度で切り上げ、巻き藁が音もなく宙に舞う。
左下から斬り上げた返す刀でもう一度斬り下げた⋮。
剣はゆっくりと鞘に納まり、最後納め切った所で、かすかに鍔が
鳴った。
一呼吸二呼吸と黙祷をし、その後でこちらを見た。
﹁キョウさん、凄いです。俺、居合いなんて始めて見ました﹂
感心する俺を見て、キョウさんが声を掛けてくれた。
﹁きちんと見えたか?﹂
そう言って、俺を見る。
﹁斬り上げて、もう一度斬り下げましたよね。二度目のは難しいん
じゃないですか?﹂
空中に浮いて固定されていない訳だし、どこに飛ぶのかわかんな
いもんな⋮。
そう思っていたら、キョウさんは居合いに使用した日本刀を手渡
し、目で﹁見ろ﹂と言っている。
言われたとおり、丁寧に柄と鞘を手に持ち、スラリと引き抜いて
みる。
綺麗な刃紋だ。
294
﹁そっと、刃先を触ってみてくれ﹂
言われた通り、慎重に人差し指で刃を触る。
﹁!﹂
刃引きの刀だ。そっとなんて気を使う必要のないくらい⋮。
﹁鞘走りさせる居合い刀は、刃が潰れるんだよ。そのままだと大根
も満足に切れないだろう⋮﹂
そう言って、巻き藁を片付けるキョウさん。
﹁同じ剣を使う者同士からのアドバイスだ。気を通わせて刃筋を立
てればナマクラでも斬れてくれる﹂
そう言って笑ってくれるキョウさん。
すげえ、この人すごいよ。
﹁君の使っている剣は、名刀。神も宿っている。だけどそれだけで
はダメだ。プラスアルファーで自分の剣技を上乗せせねば﹂
そう言って真剣な眼差しをこちらに向ける。
俺のは、カナタ頼りの未熟者の剣だということか。
﹁剣を見たらどういう使われ方をしているか判る。だけど君は見ど
ころがある。ゆえに苦言を呈しているのだ。気にするな﹂
そう言ってニッコリ笑ってくれるキョウさん。
295
﹁俺が剣を持ち始めた頃に似てるよ﹂
そう言って大笑いしてくれた。
昔を振り返るように、懐かしげな眼差しを向けて。
296
﹃連休 03﹄︵後書き︶
実は、キョウ。私の別のお話の主人公なのですね。
新旧の主人公の対峙のシーン。私の中ではすごい緊張したしました。
自身に余裕が出たら、そちらの方もUPしてみても良いかなと思い
つつ、まだまだA++一直線です。
297
﹃連休 04﹄
﹁キョウさん﹂
俺の真剣な口調は、キョウさんの顔から笑みを消し、真顔に引き
戻させた。
﹁正直、俺には剣の使い方が良い悪いなんて分かりません。未熟と
言われても、正直どうして良いか﹂
分っている事だけど、面と向かって言われると堪える。
自分が気に入った人だからこそ、なのかも知れないが、キョウさ
んに言われた事が余計に辛い。
漠然と剣の事、剣の技と言われても、子供の頃に棒っきれを振り
回していた記憶しかないのだ。
﹁俺は、どうも人に物を伝えるのが、苦手なようだ﹂
頭を掻いて苦笑する。
やはりこの人のいい所は、こう言う所なのだろうか。
いや違うな。目線を合わせて話してくれる所。
年上だからとか、経験や技が秀でてるとか、そう言った構えた所
がない。
むしろ理解して欲しいので、目線をあわす。自然体でそういう事
が出来るキョウさんは尊敬に値する。
﹁君を責めるつもりも無い。上から見たような物言いに聞こえたの
なら謝ろう﹂
298
そう言って、頭を下げる。
あぐら
﹁まず、君に﹃居合い﹄の抜刀術を見せたのには、訳がある。それ
も複数のな﹂
俺の目の前に、ドッカリと胡坐を組み座るキョウさん。
﹁君は﹃二度斬った﹄と評価したが、それは⋮俺の意図する答えじ
ゃない﹂
俺の目を、じっと見つめ一呼吸置いて付け足した。
﹁あれは君を斬ったのだよ﹂
ドキリとさせられる一言がキョウさんの口から発せられた。
そして見つめる目が、それを嘘ではないと語っている。
嘘の無い目、真摯な目に惹きこまれるようだ。
﹁そもそも居合いというのは、術者が抜刀せず、敵と対峙できない
場合、間合いに入られた際のしのぎ技だと理解している﹂
キョウさんは一言一言、ゆっくりと俺に気持ちを込めて語ってく
れる。
神速の振り、鞘をも利用して加速する抜刀術。
リーチを悟られない虚の剣として、居合いは有効かもしれない。
けれど、あらかじめ抜刀しておく方が良い。
抜刀し、威圧できれば敵もひるむ、無駄に命を奪わなくても良い
事もある。
しかし、居合いの場合、生きるか死ぬかの二択だと感じるのだ。
299
﹁君のような懐剣、暗器を所持した敵を想定しているのだ﹂
俺を見つめる視線は、それが﹁嘘﹂ではない事をも伝えてる。
﹁1つめに言いたかった事。それは刀は短剣に対し、対応する技が
練られていると言う事﹂
なにが言いたいかと言うとだなと呟き、頭を抱えキョウさんが悩
みだした。
﹁逆に問いたい。懐剣、短剣の利点はなんだ?﹂
言いたい事が見つからない。
そう言って質問を投げかけ、理解しようとする姿勢を計っている
のだろうか。
うーん、即答できないな。
リーチは短い、殺傷力は劣る。携帯性に富むが刀と比べると欠点
だらけだ。
逆転の発想で考えてみよう。欠点は利点、長所は短所。
﹁携帯性⋮⋮、いや、リーチが短い事だ!﹂
手探りで話しながら、ギリギリの答えが見つかる。
長刀の振り回せない場所、例えば屋内の狭い場所とか。そういっ
た場所では刀より有利に働くだろう。
ある意味携帯性というのも、それに通じる。
﹁うむ。その通り﹂
俺の答えに納得がいったような首の振り。頷いてくれるキョウさ
300
ん。
﹁スマンが、君の刀を俺の咽喉元に突きつけてくれ﹂
そう言って目を閉じる。
俺は言われた通り、無言でカナタを引き抜く。
﹁チャッキーン♪﹂
場にそぐわないカナタの叫び声が、静寂の道場に響き渡る。
⋮⋮空気読んでくれ。俺は、飼い主として今猛烈に悲しいぞ。
苦悩する俺の手元にカナタが乗り、乗って、俺を振り返り、滝汗
を流していた。
理解したか?カナタよ。
﹁すいません、キョウさん﹂
﹁気にするな﹂
そう言われ、気を取り直し守り刀をキョウさんに向ける。
キョウさんが遠慮がちな俺の手を持ち、自分の咽喉下に刀を向け
させる。
触れても、怪我をさせる緊張の漂うギリギリの距離に置き、その
状態で刃引きされた居合い刀を抜き、俺の頭上に持ってくる。
﹁この状態は俺の負け。俺の刀は切っ先から外れている、良くて相
打ちといった所か。しかし、刀には事前に選択肢があって、そうな
る前に手前で迎え撃つ、遅れても居合い、それでも悪けりゃ相打ち
という段階を踏めるのだ﹂
301
そう言って、俺の頭の上に置かれた刀を仕舞い、鞘に納め横に置
いた。
﹁だが懐刀の場合、まずこの間合いに入らないといけない﹂
むうう、そう言われるとすっごい不利だな。
相手が決勝シードで、こちらは地区予選からの選択肢の様なもの
か。
構え準備万端で迎え撃つ、初撃を避け、懐に入る。
もしくは﹃虚﹄を突き間合いに入る。だが、一拍の遅れは居合い
でカバーされてしまう。
それさえも避けれたとしても無傷では殺傷できない。そういう事
か。
﹁まず、自分の使う武器の有利、不利を理解して貰いたかった﹂
そう言って、首に突きつけられた刀を﹁そっと﹂手で押し、仕舞
うように促した。
俺は言う通り鞘に戻し納刀した。
実戦。いや、実戦の間合いで語ってもらうと良く分かる。
﹁次に﹂
立ち上がり、キョウさんが先ほどの巻き藁の台に、新しい巻き藁
を乗せ用意した。
そして、こちらに来るように目で語りかける。
﹁君の守り刀。ここへそっと添えてみてくれ﹂
そう言って俺の手に持つ守り刀を見つめる。
302
俺は言われた通りに、刀を抜きカナタのボケを待った。
﹁⋮⋮ちゃきーん﹂
遠慮がちに囁くようなすっごい小声。
誇らしげに俺を見上げるカナタ。
良くやった、飼い主として俺は誇らしいよ。
若干カナタの声を期待していたキョウさんの落胆は無視し、巻き
藁へ刀を添えた。
﹁そのまま斬ってみてくれ﹂
そう言って腕組みをし、俺に指示を出す。
そのままって言われても、刀を押し当てた状態からは斬れない。
押せども、藁に食い込むのが関の山、表面の藁だけ気合で斬れた
ものの、刃が進んでくれない。
俺は困った顔で、キョウさんに伺いを立てる。
ことわり
﹁刀は引いて斬るものなんだ。押し付けても斬れん。右利きの包丁
が左手で切れないように、理を外れて刃物は働いてはくれん物なの
だ﹂
そう言って俺の手首を持ち、引き添えるように守り刀を引いた。
引く手に合わせ刀は藁に食い込み、何の抵抗もなく斬れていく。
﹁君の守り刀は切っ先を持った刀だった。故に刀として扱わんと斬
れてはくれん﹂
そう言って、目を閉じるキョウさん。
凄く言いにくそうな表情。
303
深い吐息を吐き、言うべきか言わざるべきかの判断をしたのだろ
う。
﹁守り刀が届く範囲が殺傷の範囲ではないのだ、引いて斬る動作を
して、殺傷できる範囲がリーチなのだ﹂
そう言って、手でその範囲を示してくれる。
右利きの俺に対し、右胸の周り1m以内、60cmの辺りを丸で
囲むように。
その丸は俺が思う以上に狭い。直径で30cm程の円。
こ、こんなに狭いのか、カナタを使いきれる場所は。
﹁今のは、順手で持った場合。逆手だと場所がさらに右に横にズレ、
狭くなる上にリーチが短くなる﹂
胸の位置より肩の前を指差し、さらに俺に近い場所で縦に長い楕
円を書くキョウさん。
﹁君はこの位置に敵を置き、攻撃をせねばならん。逆に敵はその位
置に身を置かなければ、死には至らないという事だ﹂
そう言って、おれの左肩付近に立ち、手で俺の肩を固定するキョ
ウさん。
この位置なら斬れないだろうという意味なのだろう。
確かに。斬るには身を反転させないと斬れない。その一瞬の隙は
実戦では﹁死﹂を意味するのだろう。
﹁刀の場合﹂
そう言って居合い刀を、鞘に納めたまま正眼の構え。俺の正面で
304
喉を狙った。
﹁両手で持つ利点があるんだ﹂
そう言って、体の軸を動かさず振りかぶり、
面を打ち、手首を返さずそのまま振り切る。もちろん寸止めで停
止してくれている。
右面を打ち、俺に近い右手は添えたままそっと刀の向きを変え、
キョウさんに近い左手は正中線に位置し小指を捻る。それだけで右
に面を打った。
左面を打ち、左手はやはり正中線に位置し、右手を逆に添えて打
った。
突き⋮正眼のまま踏み込みの左手を正中線から伸ばし、右手は外
す。
そして面と同様に添えた手を円の動きに捌き、胴を薙いだ。
﹁判ったか?﹂
一通りのバリエーションを見せ、俺に問いかける。
懐刀の弱点は、片手で扱うと言う事か。
利き手の、関節稼動範囲にしか振れない。しかも引き斬る場所は
限られていると言う事。
引く、斬るの動作にテンポが必要だという事。。
対抗するなら、同じく﹁突く﹂事だ。若干のリーチの差で勝てる。
俺の表情を読んだのか、キョウさんがニッコリ笑う。
﹁自分の武器。その短所、長所を見極め使いこなす。そういう事だ
よ﹂
胸のつっかえがとれたと言わんばかりに大笑いする。
305
﹁君の刀には、そういった心遣いが見受けられなかった。刀は正直
だよ。腕の悪い者が振るうと長持ちしない﹂
そう言って、居合い刀を俺に見せ﹃こうなるのだ﹄と言ってのけ
た。
キョウさんの﹁居合い﹂
それに込められた思い、教え。
俺はやっぱり表面しか﹁見﹂ていなかった。
弱点があれば、補えばいい。
長刀にも弱点がある、それを補う為の剣術、居合い、心構えがあ
る。
俺の武器もそうやって研鑽していけという事だ。
﹁キョウさん、ありがとうございました﹂
心底心からお礼を言える、こんな素直な気持ちにさせてくれる﹃
師﹄は有難い。
﹁こんなに長い時間も教えをいただいて﹂
感謝の気持ちを言い終わらないうちに、キョウさんは慌てだした。
﹁長い?﹂
尋常じゃ無い慌てっぷり。台詞が途中で止まっちまった。
﹁やばい、母にカオるんと美咲を連れてくるように頼まれていたの
を忘れてた﹂
306
顔面蒼白のキョウさん。
﹁すでに一時間以上経過してる⋮⋮﹂
いまさら急ぐわけでもなく諦めの境地のキョウさん、頭を掻く。
お母さん?
まさかいきなり尋問会ですか? いや公開処刑のようなものです
か。
そう言われると俺も顔面蒼白。逃げたしたくなる。
いやマジで逃げたい。
307
﹃連休 05﹄
﹁キョウ!遅い!﹂
ふすま
キョウさんが恐る恐る襖を開けると、まず罵声。
それと同時に湯飲みが飛んできた。
怒りの対象であるキョウさんは、何事も無かったかのように湯飲
みを避け、避けた湯飲みは、後ろに控えていた俺に直撃した。
た
星が見えるってのは、漫画だけの世界かと思っていたが、普通に
見えるもんなんだな。
新たな認識と痛み、それに堪え、美咲母の御前に正座している。
﹁いや、カオるんと意気投合してしまい、気が付くとこんな時間に
なってしまいました﹂
悪びれず、軽く頭を下げるだけのキョウさん。
小一時間程待たされた、母君の心労はあくまでも汲み取らないキ
ョウさん。
ふてぶてしいまでの振る舞いだが、先ほどまでの焦りは道場にで
も置いてきたのだろうか。
﹁貴方に、用事を申し付けた私が悪かったですね﹂
先ほどまで額に青筋立てていた美咲母は、罵声と湯飲み投げで溜
飲を下げた様子。
少し落ち着いてきたみたいだ。
その間、無言で座っている俺のストレスは、俺の限界点を遥かに
越えたラインで振り切ったままなのだが。
308
騒ぎが収まれば収まるほど、心臓の鼓動がビートを刻みだす。
﹁⋮⋮﹂
﹁三室さん⋮⋮﹂
来た本題。
俺の心臓の鼓動は一瞬止まり、再び時を刻み始めた。
﹁いや、キョウが呼んだ様に ﹁カオるん﹂ って呼んだ方がよろ
しいのかしら?﹂
いや、勘弁してください。
しかし、緊張と恐怖で声が出ない。
立場上引け目があるというだけではない。
この人の威圧感は並々ならぬものがある。
﹃カオるんは勘弁してください﹄とか、へらへらして言える人では
ない。
生物の本能が恐怖を感じている。この人怖い。
だって、﹃カオるん﹄とか言いながら、真顔。涼しい目が俺を威
圧してるもん。
野蛮な物言いだと⋮﹃なんか、文句あんのか?ごらぁ!﹄って目
でモノを言ってらっしゃる。
それも表情一つ変えずに。
それでも、俺にも意地と言うものがある。ダメ元で一応言ってみ
る。
309
﹁カオルでお願いします﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
怖!
コミュニケーション取るの無理だ。
会話が成立しねえ。
﹁まあいいわ、カオるん。気楽にお話しましょう﹂
そう言いつつも、先ほどと同じ表情とオーラ。
やっぱり俺の意見なんて聞いてもらえない。判ってました。判っ
てましたとも。
しかも﹁気楽に﹂なんて絶対無理です。 俺の気持ちを察したかのように、横に座るキョウさんが俯き笑い
を堪えている。
キョウさん。いや⋮あえて呼び捨てにしたい! キョウ!。何と
かしろよ、お前の母だろ?
横目で、笑いを堪えるキョウさんを睨む。
睨んだ所で状況は変わらんのだが、それくらいしか俺に出来る事
はない。
横目でキョウさんを睨んでいる間に、美咲さんの母はスッと立ち
上がり、俺のすぐ前に座った。
おもむろに手を振り上げ、怒りの表情で俺に平手を撃とうとする。
俺は、無意識に目を閉じる。
﹁⋮⋮﹂
310
いつまで経っても、美咲さんの母の平手は俺を打たなかった。
恐る恐る目を開けると。
美咲さんそっくりの顔がどんぐりまなこ。笑いを堪えている。
しかも、両手で俺のほっぺたを引っ張り始めた。
﹁にゃにほ?﹂
もう我慢できないキョウさん、正座を崩し転げ回るように笑い出
した。
﹁やばい、俺もう死ぬ﹂
笑いの間に、そんな失礼な言葉を吐きながら。
そして美咲母も、引っ張るほっぺたをぐりぐり弄りながら、涙を
溜めている。
﹁⋮⋮⋮﹂
担がれた?
ふと、俺の中でありえない状況が確信に変わる。
道場の﹁顔面蒼白﹂のキョウさんもこの為の布石か!
﹁カオるん⋮ごめんさいね﹂
涙を溜めた美咲母の手。
引っ張る頬から、湯飲みの当たった額の辺りを優しくさする。
スゥっと痛みが引いていくのは、光の力のせいだろうか。それと
も美咲さんに良く似た母に撫でられているからなのだろうか⋮。
311
ふと、目を閉じされるがまましばらく撫ぜられていたい。そう思
えた。
﹁ごめんなさいね。いたずらしたくて仕方なかったの﹂
この人の、この言葉が無ければ全て許せたろう。
しかし悪びれず微笑む表情に、俺は毒気を抜かれ苦笑するしかな
かった。
﹁実は、美咲と貴方の話を聞いた時から信じていなかったの﹂
気を取り直し、再び母は話し出す。
まるで、何事も無かったかのように。
﹁うちの子、そういう事する子じゃないもの﹂
自信を持ってそう言い切る。美咲さんの信用度はすごい。﹃鉄板﹄
だな。
﹁でもね。そういう子だからこそ、娘が心を許す貴方には興味を持
ってしまったのね﹂
そう言っていたずらっ子の様に笑う美咲母。
﹁これは、是非とも見なくちゃね!って﹂
そう言ってウインクする、美咲母。
美咲さんと違い、ちゃんとウインク出来ている上にすごいチャー
ミング!
見とれてしまいそうだ。
312
﹁美咲さんのお母さんが思うほどの。そうまでして見る価値無いで
すよ﹂
そう言って否定して首を振った。
﹁いや、そんな事は無かったですよ。こんなに楽しい思いをしたの
は久しぶり。ちょっと悪趣味だったけど﹂
そう言って、頭を下げる美咲母
みその
﹁あ⋮⋮、あと、私の事﹁お母さん﹂って言うのは止めて? 気分
が老け込むから。 美苑です。美苑さん、美苑おねえさん以外の呼
び名は却下します﹂
真顔で俺を制止する母。
口調は冗談で言っているように聞こえるが、目がマジだ。
﹁美苑さん。そう呼ばせていただきます。そこまで信じている美咲
さんに、どうして見合いをさせようとするのですか?﹂
若干の批判を込めて。
話を聞いた時から気になっていた事。
今ここで、美苑さんから娘の話を聞いたからこそ膨らむ疑問だ。
﹁だって、あの子。学校が楽しくて、友達が好きで、今の生活を満
喫してるみたいに思えたの﹂
ふむ?
良い事じゃないのか?
313
学校が嫌い、友達が嫌い、今の生活が嫌って最悪だぞ。
﹁理由を付けて、実家に戻ってきて欲しかったの。だってあの子全
然帰ってこないんだもん﹂
うあ、子供の論理だ、﹁だもん﹂って、なんだよ!
失礼ながら拗ねる美苑さんは、そういう子供っぽい表情も言葉も
良く似合う。
しかし。
﹁でも、それは逆効果ですよ?余計帰りにくいと思ってるはずです﹂
たしなめる様に、美苑さんにそう伝える。
﹁美苑さんが素直に、﹃帰っておいで﹄って言えば、美咲さんは折
を見て帰って来ますよ﹂
多分、きっと。美咲さんならそうする。
乃江さんと二人。電車に乗りバスを乗り継いで帰ってくる。
家に着く少し前に見せた。
故郷を懐かしむ美咲さんのあの顔。それを見た俺には確信が持て
る。
﹁そ⋮そうかしら?﹂
目をパチクリと腑に落ちない表情の美苑さん。
﹁絶対、そうです!﹂
俺は自信を持って言い切った。
314
﹁そうですよね﹂
そう言ってニッコリ笑う美苑さん。
ああ、やっぱり美咲さんのお母さんだ。笑顔が似合う。
﹁でも、普通に﹃帰っておいで﹄ なんて、面白くなくない?﹂
最後に一言余計な美苑さん。
俺は脱力して、畳に突っ伏した。
﹁でも、美咲が気に入るのも判る気がするわね。真面目っぽいけど
いい加減だし、イジリ甲斐があって、リアクションも良いし﹂
あからさまに貶されている気がするのだが。
なぜ、そこでキョウさんも頷くか!
﹁俺も、カオるんは気に入ったよ。頭が悪いようでいて、理解力が
ある。人の言うことを疑いも無く聞ける﹂
こちらも、さらりと貶すキョウさん。
この親子だけは、失礼にも程があるってもんだ。
﹁仕方ない。美咲とのお付き合い、許してあげようかな﹂
そう言って、ニッコリ笑う美苑さん。
お付き合いって、あの、その、マジですか?
﹁いや、美咲さんとお付き合いって。友達! 友達ですよ﹂
315
そう言って慌てて否定させられる。
いや⋮⋮。違うな。
﹁あ⋮いや。今のは嘘です。ただの友達ではありません﹂
ふと、泣かせた美咲さんを思い出した。
﹁親友です。今の所﹂
そう自信を持って言い切った。
その言葉を聞き、キョウさんと美苑さんは、一瞬戸惑い、そして
笑い出した。
﹁ここに居る間遠慮なんてせずに、自分の家のようにゆっくりして
貰えるとうれしいわ﹂
美苑さんの表情は、その言葉が本心であると俺にそう告げていた。
316
﹃連休 06﹄ ﹁キョウに刀の事を聞いていたですって?﹂
キョウさんを見やり、呆れた顔を見せる美苑さん
キョウさんは、その視線を避けるように頭を掻く。
批判する目を避けられてため息を一つ。そして俺の目を見る。
﹁かわいそうに⋮﹂
本当にかわいそうな子を見るような目。
目の端に涙を浮かべている辺り、冗談ではない事を物語っている。
﹁あ、いや、実践的で良くわかりましたよ﹂
慌て、キョウさんをフォローする。
最初の居合いは良く解らなかったけど、その後は本当に分かり易
かったと思うんだけど。
目の前に座る美苑さん、俺の横に置いてある守り刀を見る。
﹁貴方の刀、見せて頂いてよろしい?﹂
そう言って、正座のまま俺ににじり寄る。
俺は、美苑さんへ守り刀を手渡す。
美苑さんは、守り刀の鞘と柄を持ちゆっくりと引き抜く。
しのぎ
鞘の鯉口から現れる刃紋、切っ先の部分まで抜ききった。
横から見、刃紋と鎬を確認し、縦に向け刃と反りを注意深く見る
美苑さん。
317
時代劇でよくやる刀を見る仕草、本格的な感じだなぁ。
﹁刀で作られた、小太刀より短い刀。刀の反りが意匠の意図の半分
以下になっているわね﹂
そう言って、俺に刀の反りを見せる美苑さん。
錆びた為、半分の長さになった刀を加工したものだ。
反りを与えている部分は、今の目釘のあたり︵柄の中︶だ。ほと
んど直刀と言って差し支えないだろう。
﹁刀としては失格、欠点だらけ。とか言われて虐められなかった?﹂
ふっと表情を緩め、にこやかに笑う美苑さん。
正直イジメではないと思うが、それに近い事は言われたな。
結構凹んだかも。
﹁確かに﹁刀﹂としては扱えない。けれど懐剣でしょ? ナイフの
ように扱えば、この子は優秀よ?﹂
そう言って片手で持ち、俺の前で振って見せてくれた。
順手で持つ柔らかい手首の動き、目の前の空間を神速の速さで滑
らかに切り刻む。
手の届く範囲全てを⋮。
俺に見えない速度で左右の手をスイッチし、視界全てを切り刻む。
ほらね?って言わんばかりの美苑さん。
あっけに取られ見入ってしまったが、この人のナイフ捌きは、す
ごい。
﹁私も、狩りの時にはナイフを使いますから、年季が入ってますで
しょ?﹂
318
そう言って、刀を持つ手を下げ、逆の手で口を押さえ笑う。
溜まらずカナタが姿を現し、美苑さんの肩に乗る。
悲しそうな顔、泣きそうな顔で美苑さんに頬擦りする。
カナタも、刀失格とか色々言われて凹んでたんだろうな⋮。
﹁あらあら、刀精ね。カナタ? いい名前。あなたにピッタリね﹂
頬擦りするカナタ、手で優しく撫でる美苑さん、子をあやす母の
優しさだ。
﹁カオるんを護ってあげてね。カナタ﹂
そう言うと、持った手の刀を鞘に戻し、俺に手渡してくれる美苑
さん。
納刀していてもカナタは消えない。
美苑さんの霊力は、絶頂時の俺以上だという事か。
俺とキョウさんは、美苑さんの案内で奥の部屋へ招かれた。
キョウさんも入った事がない部屋らしい。
﹁私のコレクション部屋だから、私以外だと旦那しか入った事がな
いわね﹂
そう言って招き入れてくれた部屋は6畳ほどの部屋。
壁一面に色々な種類のナイフが整然と飾られている。
サバイバルナイフ、両刃のタガー、日本刀の様な反りのあるフィ
319
レ、ブッシュナイフ、スピアポイント、スペツナズナイフまである。
﹁私のコレクション。語りだすと数時間止まらなくなるから遠慮し
ておくわね﹂
そう言ってニッコリ笑う美苑さん。
最初、俺が抱いていた美苑さんのイメージそのものだ。
シャープで切れる、触れると怪我をする、美しく妖しく輝き人を
魅了する。
﹁一振りどれでもいいわ。選びなさい。貴方を護るカナタを、貴方
が護れるように﹂
そう言って真顔で腕を組む。
﹁そう言われても﹂
途方も無いコレクションを目に、どうして良いやら分からない。
﹁ナイフの場合、攻撃範囲が狭いのは理解していますよね?﹂
そう言って俺を見る美苑さん。
さっきキョウさんに言われた事だ。
﹁二本使えば攻撃のバリエーションが広がります。投擲で足止め、
両手持ちすれば死角を補えます﹂
ふむ、確かに。
敵は一人とは限らない。
死角を減らせるのは、すごく助かるかも。
320
﹁鉈や斧のような武器と対峙し、攻撃を受ければ、カナタでも無事
では居られないかもしれませんね? その為の一本﹂
そう言って、肩に乗るカナタを優しく撫でる。
カナタも猫のように、その手に身を任せている。
美苑さんの意図は理解できた。とりあえず選んでみよう。
俺は一本一本を吟味するように見る。
かなりの時間を費やし、見つけた一本。
﹁これが気に入りました﹂
そう言って指を指したのは、ナイフというには無骨な鉈のような
ナイフ。
日本刀の様な反りのある細い鉈。
横から見ると柳葉包丁のような繊細な感じに見えるが、刃の幅が
安心できる太さだ。
はまぐり
切っ先から柄の根元まで一体成型で、ナイフで言うとフルタング
型。
刃の形は蛤。
目釘の箇所が二箇所、握りの部位はローズウッドで鋲打ちされ固
定されている。
美苑さんが、目を丸くしてこちらを見ている。
﹁鑑定士なら合格ね。その子はこの中では一番高価な子﹂
321
そう言って壁に飾っていた一振りを取る。
﹁島根の安来という所にね。日本の玉鋼とたたら炉の伝統を守る会
社があるの﹂
刃に獣油を塗り、ウエスで余分な油を拭い鞘に納める美苑さん。
﹁そこで特注した子なの。﹃伝統的な刀鍛冶が打っていない﹄とい
うだけの日本刀﹂
そう言って手渡すナイフ。
﹁恐らくだけど、貴方の守り刀と同じ産地の砂鉄、玉鋼で作られて
いるわ。現代でしかありえない温度管理、成分管理でね。採算を度
外視して3本作ってもらったうちの一本なの﹂
そんな物を、はいそうですかって戴いていいのだろうか?
手に持たされたナイフ。
それを見つめしばし考える。
﹁カナタの為だもの、カナタはこの世に一振り。その子は3本ある。
レシピも残してあるから、再度作る事も出来ます﹂
カナタも興味津々で、ナイフを見ている。
美苑さんの肩を降り、俺の手に乗って匂いを嗅いでいる。
﹁本当に戴いていいのですか? 話を聞くと⋮物凄く高価なナイフ
なのですよね?﹂
美苑さんに、戸惑いの目を向ける。
322
ニッコリ笑って俺の目を見る。
﹁そのナイフで、貴方を護り、カナタを護り、美咲を護ってやって﹂
そう言って﹁母﹂の表情を見せる。
そう言われると受け取らざるを得ない。
ギュッとナイフを握り、最後の言葉を心の中で反芻する。
﹁しかし、ナイフコレクターだからって、金属会社に特注するなん
て﹂
そう言って呆れたように、感想を述べる。
意外そうに、美苑さんが振り返りこちらを見る。
﹁あら? そうかしら?﹂
そう言って首をかしげる。
﹁貴方憧れない? ﹃斬鉄剣﹄って﹂
そう言って高笑いする美苑さん。斬鉄剣って⋮某アニメ見すぎ。
﹁そうねぇ、漫画の様には斬れないわね。でも軟鉄の硬度なら斬れ
ますよ、気を付けて下さいね?﹂
目が笑っていない、本当に斬れるのだろう。
斬鉄剣。いやナイフだから斬鉄ナイフではないだろうか。
そう言った一言も言わせない迫力がそこにはあった。
323
324
﹃連休 07﹄ 美苑さんの部屋を後にして、部屋で一息つこうと戻ってきた。
二人とも良い人たちなのだが、さすがに色々あって疲れた。
﹁ただいま∼﹂
縁側から障子を開け、部屋へと戻る。
部屋の中には山科さんと宮之阪さんが居た。
なんだか二人の顔を見たら、自分の家に帰ったような、そんな気
分にさせられる。
俺を見て心配顔の山科さん、宮之阪さんは堰を切ったように、話
し出す。
﹁どこ行ってたんや∼。心配したで? カナタも無いからなんか遭
ったのかと﹂
メガネの奥の目が本当に心配してくれている。
﹁ユカと、探しに行こうかと、相談してました﹂
宮之阪さんも心配してくれている。
ごめん⋮⋮。
﹁美咲さんのお兄さん、キョウさんに家を案内して貰っていたんだ﹂
そう言って、宮之阪さんが入れてくれたお茶の前に座る。
﹁カオルさん⋮⋮それは?﹂
325
俺の手にあるナイフと守り刀。
ナイフを指差し、宮之阪さんが疑問を口にした。
なた
﹁あ、これ? 美咲さんのお母さん⋮いや美苑さんに貰ったんだ。
護身用だって﹂
そう言いつつ、どう見ても﹃護身用﹄に見えない無骨な鉈のよう
なナイフを二人に見せる。
山科さんも宮之阪さんも珍しい物を見るように、ナイフを見つめ
る。
﹁美咲のお母さんって⋮⋮、なんか言われへんかった? 虐められ
へんかった?﹂
事の顛末を知らない二人の顔。さすがサポーターズだ。
心底心配してくれている。
﹁うん、美苑さん、ただ美咲さんに帰って来て欲しかっただけだっ
た。疑ってなかったし、逆に色々と気を使ってくれて、ナイフも戴
く事になっちゃった﹂
そう言って苦笑する。
素直になれない美苑さん。なんだかんだと理由を付けて帰ってき
て欲しかっただけ。
﹁なんや∼。 そうか、安心したわ∼﹂
﹁こじつけて⋮⋮。 美咲と⋮⋮、お付き合い⋮⋮、させられるか
と﹂
326
胸を撫で下ろす山科さん、宮之阪さん。
お付き合い許可された!とか冗談で言われたとか、言わない方が
いいな。
またこの二人に、要らぬ警戒心を抱かせてしまうかもしれないも
んな。
﹁でも、二人とも良い人なんだけど、初対面だから心労がちょっと。
二人の顔を見てホッとした﹂
そう言うと、バタンと畳に横になる。
あ∼、畳で横になると気持ちいいなぁ、い草の匂いが心を優しく
してくれる。
畳の国の人で良かったと思える。
﹁そう言えば、美咲さんは? って美咲さんの家だから、色々用事
あるのかな﹂
ふと、どこかの温泉宿に泊まりに来てる気分で聞いてしまってい
た。
自分の家だから、居なくても問題ないのか。
﹁さっき⋮⋮、ノエが来て⋮⋮、一緒に家のお手伝いを﹂
たどたどしく俺に説明してくれる宮之阪さん。
そうか、二人は家のお手伝いか。せっかくの家なんだもんな。
緑の景色、静かな離れの一室。3人の息遣いだけが室内にある。
327
前々から口にしたかった疑問、俺の中から溢れるように、押し込
めていた疑問が俺を支配しようとする。
﹁二人の意見を聞いていいかな﹂
この二人にだから、聞ける。
閉ざされた部屋、三人でいるからこそ聞けるのだと思う。
聞けばきっと、せっかくの休日の気分も台無しになるだろう。
けれど、この二人なら俺と同じ目線で話しをしてくれる⋮そんな
気がした。
俺の言葉をじっと待つ、山科さん、宮之阪さん。
語り手の表情で、どういう話なのか察しているのかのしれない。
﹁魂食いは死んでないよな﹂
学校の屋上での戦いでは、完全に滅した。
今でも、手に残る感覚が﹃滅した﹄とそう言っている。
けれど、色んな状況が俺に教えてくれる。
魂食い対策の為に、あの街に呼び寄せられた4人が、⋮いまだあ
の街にいる事。
あれ以来、極力魂食いの話をしない事。
キョウさんの教え。
美苑さんの母の表情と娘を思う気持ち。
全てが、強敵の存在を示唆している。
俺が、強くなりたいと思う根底には、﹃再び魂食いに対峙する﹄
事を想定している。
奴は今爪を研いでいる⋮⋮そんな気がしてならない。
俺の問いに、真っ先に答えたのは意外。宮之阪さんだった。
328
﹁私も、いや、私は、死んでいないと思う﹂
たどたどしく、けれど力強い口調に、俺も山科さんも聞き入って
いる。
俺に同意する事を拒否し、あえて自分の思いを口にする。
﹁通常、アストラル体を叩けば、本体に影響が出ます。滅したら、
身体は死に至るダメージを受けます﹂
﹁けどそういう報告はありません﹂
いつも通りの口調、だけど表情は強張っていて、今言った言葉が
本気だと伝えている。
宮之阪さんはお茶を一口、口にして一息入れる。
﹁うちも、終わってないと思う。何でかわからへんねんけど、気を
許せへん﹂
メガネの奥の瞳が揺れる。
山科さんも不安に感じていたのだろう、脅威があるのに予兆が何
も無い。そんな不安を感じていたのだろう。
﹁うん、ごめん﹂
畳に寝転んでいた俺は、起き上がると震える山科さんを、戸惑う
宮之阪さんを見つめた。
﹁気分転換に散歩しようか﹂
329
こんな気の滅入る話をした俺が言うのもなんだけど、気分転換し
ないとね。
外に出た俺たちは、考えの甘さを痛感する事になる。
点在する家の灯り、街灯のぼんやりとした光。それ以外漆黒の闇。
﹁真っ暗だ。迂闊に歩いてると危ないね﹂
そう言いつつ、俺は苦笑する。
なにせ、足元も暗い、歩くのもすり足になってしまいそうだ。
﹁けど、真っ暗やから、星が綺麗やで﹂
山科さんが空を見上げ、両手を広げ星を掴もうとする。
﹁あの明るい星は火星。その左上は土星、あれが乙女座で明るい星
がスピカ﹂
一番星かと思える明るい星達を指差して、
宮之阪さんが一つ一つの星を説明してくれる。
星に詳しいのかぁ⋮意外性の女だなぁ、宮之阪さん。
﹁宮之阪さん、天体に詳しいんだね﹂
空を見上げ、横目で宮之阪さんを見る。
﹁あ、いや、魔法学では⋮⋮、星を詠む事もありますから﹂
そう言って俯く宮之阪さん。
330
﹁なんやロマンチックな知識やなぁ、もっと教えてや。名前とか色
々﹂
そう言って空を見上げたままの山科さん。
﹁はい⋮⋮﹂
指差す先を模り、星座を模す宮之阪さん。
星の名前、星座にまつわるギリシャ神話をゆっくりと聞かせてく
れた。
今後に迫る脅威を忘れ、古代の神話の世界を思い浮かべ、ゆった
りとした時間を過ごせた。
331
﹃連休 08﹄
ふすま
食事に招かれた3人は、予想もしえない光景を目にする事になる。
招かれた客間は、大広間の襖が取り払われ広大な座敷へと化して
いた。
あるじ
視界にはテーブル式ではなく各個人に膳が用意され、否応なしに
遠近感を醸し出す。
膳の上には所狭しと大鉢・小鉢が並べられ、座する主を待ち構え
ている。
﹁あう﹂
部屋の大きさに言葉を失った訳ではない。
料理の豪華さに目を奪われた訳でもない。
俺達より先に座し、こちらを見る目。およそその数120。
60人ほどの視線に気圧されて⋮お座敷の入り口付近で硬直して
しまっていた。
間違えた宴会場に来てしまった⋮そんな気分。
いや、気分はドッキリ。
けれど間違いでココに来たわけではない。
確かに案内のもと、ここに来たわけだから⋮
﹁あう﹂
脳だけが活発に働くのは、無意識に﹃長考﹄状態に陥っているか
らか。
ただし言語中枢は、一般人以下だがな。
背後に入る、カオルサポーターズ達も﹃あうあう﹄言っているが、
彼女らの名誉の為⋮記憶から削除するとする。
332
途方にくれている俺達を見て、女性がこちらへ声をかけてくれる。
﹁こちらへどうぞ﹂
俺達を導く女性、心なしか顔立ちが乃江さんそっくりさん⋮
だが⋮胸と体つきが大人だ。顔立ちも少し大人。
従姉妹?、いやお姉さんに違いない。
将来の乃江さんは、こんな感じになるのかなぁ⋮そういう感じの
女性。
彼女は俺達を、所定の場所へと案内してくれた。
案内された席に、俺達は所在無く座る。
﹁乃江がお世話になっています。姉の綾乃です﹂
やはり、姉か!。遺伝子レベルが近似値で似てるもんな。
あっけにとられ、俺達3人はコクコクと頷くのが精一杯。
しかし⋮綾乃さん。
挨拶するその動きにあわせて、胸が上下する。
猫じゃらしに釣られる猫のように、その揺れに同調する首⋮あわ
わ。
ダイナマイツボディは、青少年には目の毒です⋮。
﹁美咲様とお友達の方々が来られているという事で⋮急遽、人が集
まりまして⋮﹂
120の瞳はこの地区の天野家縁の方々と、遠方から駆けつけた
親戚縁者だそうな。
やや、苦笑気味の綾乃さん。
333
﹁そうは言え、格式ばった場ではありませんので、ごゆっくりして
くださいな﹂
そう言って、向かいのキョウさんの席の隣に座り、二人はいい雰
囲気で談笑しはじめた。
﹁びっくりしたわ⋮ 乃江そっくりやなお姉はん。⋮⋮乃江も将来
ああなるんやろか﹂
小声で耳打ちしてくれる山科さん。
自分の胸を確かめるように手で押さえ、複雑な表情。
﹃ああなる﹄って言うのは、胸が育つって事か?
コンプレックスに感じてるのだろうか?
ふと右隣の宮之阪さんを見ると、同じく慎ましやかな胸に手を当
てている。
﹁乃江は⋮仲間だと⋮思っていたのに﹂
宮之阪さんも微妙に悔しそう。
女の人は、胸が大きいほうが良いのかな⋮。
男の俺には良く判らん世界だ。
だがしかし、勘違いしている。
⋮あれは乃江さんではなくて、姉の綾乃さんなのだという事を。
﹁それはさておき、綾乃さんの隣の人が美咲さんのお兄さんでキョ
ウさん﹂
コッソリと両隣の二人に教えてあげる。
キョウさんと綾乃さんの距離が、普通の男女ではありえない距離。
また、それを二人共に許容出来ている。
334
見ていて、なんだか羨ましい。
そんな事を考えていると、用事を済ませた美咲さん、乃江さんが
やって来て、軽く目配せしてくれる。
一拍遅れで、美苑さんが席に着席する。
来客全ての視線が美苑さんに注がれるが、本人はさして気にもと
める様子も無い。
美苑さんらしく、自分のペースで話し始めた。
﹁皆さん、今宵はお集まりいただき有難うございます。生憎主人が
不在の為⋮私がご挨拶させていただいます﹂
すっと頭を下げる。
媚びるわけでもなく形だけでもない、威厳のある頭の下げ方だ⋮。
凛とした挨拶。
﹁なんて、堅苦しい挨拶はやめましょう。脚を崩して気楽にやって
ください♪﹂
がくっ⋮
先ほどまでの威厳に満ちた、美苑さんの姿はそこには無い。
美苑さんらしいといえばそうなのだが⋮落差が激しすぎる。
﹁美咲の帰郷に合わせて、ご学友が遊びに来られています。私から
ご紹介させていただきます﹂
続け美苑さんがこちらを見やり、そう言って紹介を始めた。
﹁左から 宮之阪まりえさん。この世界に属していたら﹃宮之阪﹄
という名前を聞いたことは無いなんて事はないはずね﹂
すごくさらっと紹介してくれるんだなぁと感心した。
335
こういう時、根掘り葉掘りと紹介するものではない。
絶妙の匙加減だ。
﹁その隣が、三室カオルさん。美咲が手間取っていた﹃事件﹄、彼
の加入で、数日のうちに解決する事する事が出来ました﹂
その言葉に、周囲がざわつく。
しかし⋮物は言い様だなと思う。
俺を立てる為に、良い様に言ってくれているんだなと感心した。
かと言って嘘は言ってない⋮ なんだかこそばゆいけど今回だけ
だ。
﹁そのお隣、山科由佳さん。﹃山科﹄でピンと来る﹃山科さん﹄の
ご息女です﹂
さらっと三人を紹介してくれる美苑さん。
﹁これからも美咲と共に在る方々です。皆さんも、力を貸してやっ
てください﹂
そう言って、今度は深く頭を下げる⋮
うたげ
周囲からの暖かい拍手に、申し訳ない気分になり頭を下げる。
宴は砕けた雰囲気になり、やっとそれぞれの食事に目を移す。
中央に山の木々葉で飾りがなされたお刺身。
彩られた蟹の酢の物、きゅうりも綺麗に飾り包丁が入っている。
鮎の飴煮に紅しょうが一本で絶妙のバランスの皿。
336
蓮根とワラビなど山の山菜の煮物⋮里芋が美味そう。
天然塩で焼きが入った海老。
小ぶりながら身のしまった鯛の姿焼き、これも塩焼き。
それに、白身魚をすり身にしたお吸い物。
ひっそりと存在感のある茶碗蒸し。
⋮⋮豪華だ。豪華すぎる。
これじゃ、本当に温泉宿に来てる気がするよ⋮。
ふと隣に目をやると、お箸で悪戦苦闘している宮之阪さん。
外国暮らしの長かった宮之阪さんは、お箸が苦手。
竹の箸なら摩擦係数が高くて、なんとか使えるそうなのだが⋮今
回は強敵﹃漆塗り﹄の箸だった。
里芋を掴もうとして、つるり⋮ 再びチャレンジして、つるり⋮
見ていて飽きないけど、一生懸命すぎて⋮可哀想になってきた。
﹁宮之阪さん。里芋はやさしく箸を使うと取れるよ﹂
そう言って、見本を見せる。
強く掴むと逃げるけど、やんわり掴むとそれほど逃げない。
俺の実演を見た宮之阪さん、箸と里芋⋮おれの顔を見て、尊敬の
眼差し。
早速自分も試してみる事にした様だ。
﹁やんわり⋮やんわり⋮﹂
そう言いながら里芋を摘む。箸先が震えているが、なんとか成功
したようだ。
摘んだ芋を俺に見せる宮之阪さん、ニッコリ顔⋮やったね! パ
パ嬉しいよ。
わが子が箸を使えるようになったような感動に打ちひしがれる。
がんばれ宮之阪。
337
宮之阪のさんの健闘に感動しつつ、左隣の山科さんを見ると、あ
ろうことか﹃伝説獣﹄の大瓶を手酌中だ。
﹁⋮⋮⋮﹂
俺は無言でチョップを振るう。ズビシ!
容赦ない角度で伝家の宝刀を見舞う。
﹁あいた! カオルなにすんねん! 痛いやんか∼﹂
そう言いつつも手酌を止めない上に、一滴も零していない、絶妙
のバランス感覚。
一流の退魔士は、不意の攻撃でも零さない。
﹁なんで、速攻で必然の如く﹃伝説獣﹄? マズいだろ?﹂
ほかの人に気取られないよう小声で諭す。
﹁いやぁ、美咲から﹃どうぞ♪﹄って手渡されたんやで?﹂
そう言い親指で指差す先には、乃江さんが美咲さんに﹃伝説獣﹄
を酌している所。
カオル目線CV:﹃まあまあ⋮お嬢様一杯どうぞ∼﹄
カオル目線CV:﹃む?ノエ君のグラスは空いてるじゃないか。
君もイケる口だな。ふふふ。ささ⋮﹄
そんな会話がなされていそう。
いや⋮そんな風景。
338
ええい、気にしたら負けということか?
俺は山科さんの﹃伝説獣﹄大瓶をひったくる。
一睨みした後に、ラベルを上に向け⋮両手持ちで酌をする。
﹁お酌の基本をわきまえてるなぁ。そやラベルは上向き、両手持ち
は基本やもんな﹂
そういいつつ、﹃伝説獣﹄を注ぎやすいようにグラスを傾ける。
ぐい飲みの後、当たり前のように返杯を戴く事になる。
うげぇ、空きっ腹ビールは苦い。
なにか、口にしないと体に毒だ⋮
何かを口にするべく料理に向き直ると、視界の端で宮之阪さんが
グラスを持ち、待ち構えていた。
目をウルウルしながら待つ宮之阪さん。これを無視出来ないだろ
う?
しかし宮之阪さん⋮酔うと自動お替りマシーンになるからな⋮注
意しないと。
トクトク⋮と慎重に注いで差し上げる。
もちろんラベルは上、両手持ちでね。
グイっとノド越しを楽しむ宮之阪さん⋮⋮ ちょ⋮一気か。
空いたグラスに伝説獣を注ぎ込む。
そして返杯。
うぃ⋮。空きっ腹ビールは苦い︵二回目︶。
この二人の横に座ったのは失敗だったか。
ふと気配を感じ、横を見ると山科さんがもの欲しそうにこちらを
見ている⋮。
やばい⋮
宮之阪さんも、空いたグラスを握り締めこちらを窺う素振り⋮
かなりやばい⋮
何度か往復を繰り返すうち、意識は朦朧、気がつくと酩酊してし
339
まっていた。
チック⋮⋮⋮チック⋮⋮⋮チック⋮
ささや
静かに時を刻む、壁掛け時計の秒針の音が耳障りで、目を覚ます。
しかし、俺のなかの安全装置が﹃寝てろ﹄って囁いている。
再び眠りに落ちようとする俺は、眠る前に確認の為目を開けた。
うっすらと目を開けるその視界には、和風の照明とオレンジ色の
光。
周りの喧騒もひっそりと静まっている。
ああ⋮ぐい飲み両巨頭にお付き合いして、撃沈されたんだっけ。
二人の返杯で、巨頭の二倍呑んだ計算だもんな。
気が付くと、そこいらの﹃伝説獣﹄大瓶がかき集められて、ボー
リングのピンみたいに並んだっけ。
最後の記憶では、誰かに部屋まで運んでもらったような⋮そうで
ないような。
ちょっと記憶が飛んでる感じ。
ふい⋮。
胃が重い⋮
目を閉じる俺に、甘い吐息が髪の毛を揺らす。
﹁?﹂
ふと正気に返ると、壁掛け時計の音以外にかすかに寝息の音が聞
こえてくる。
隣に誰か寝てますよ?
340
しかも、今気づいたけど腕枕してます。
痺れていて、感覚がありませんでした。
﹁⋮﹂
正直怖いよ?
腕を見たら、日本人形が乗っていてこちらを見る⋮ギャーとか。
そんな雰囲気。
﹁⋮⋮⋮﹂
そーっとそーっと体の向きを変える⋮あくまでもそーっと。
大声を出しそうな俺を押さえ込むように。
上向きの体を横に向けても、胸の位置に顔があるのでよく見えな
い。
でも、暗がりでもわかる黒髪。飾り気のないストレートの長髪⋮
﹁美咲さん?﹂
小さく声を掛けるも、起きる気配もない。
これ幸いと俺は、大事な⋮大事な確認をする。
腕枕を取られている手、その反対の手で自分の腰の位置を探る⋮。
﹃OK⋮履いてるな⋮﹄
何がだ!とツッコまれるかも知れないが、大事な事。
ちゃんと宴会当時に履いていたジーンズを履いている。これ重要。
次に、肩の位置を探りシャツを確認。これも重要。
気を取り直して、もう一度。
341
﹁美咲さん⋮﹂
今度は、遠慮がちに肩を揺する。
﹁むむぅ⋮﹂
お?起きそうだ。おきろ美咲。静かに起きろ。
﹁すぴー♪﹂
あ⋮、また寝た。
起きて!ねえ?おきてよ⋮みさくりん。
ふと、照明の薄暗い保安灯に照らされる美咲さんの寝顔。
めったに見れるもんじゃない⋮。
しばらく見ていたい気もするが、断腸の思いでもう一度トライ。
﹁美咲さーん﹂
今度は口調を変えてみた。あくまでも小声で。
﹁むむぅ∼﹂
眉をひそめ、寝苦しそうな美咲さん。
ここだ!、ここでもう一押し。
﹁起きないと、大変なことになりますよ♪﹂
さらに寝苦しそうな美咲さん、ちょっと反応が返ってくる。
342
﹁たいへん? なにひゃ?﹂
マジ寝言。
なんだか面白くなってきた♪
﹁たいへんだ∼ 地震がきたぞ∼﹂
適当にシチュエーションを作成。
﹁うわわ、揺れてる♪﹂
もちろん俺が手で揺すっているのだが。
﹁象の花子の歩く振動が∼美咲さんだけを襲う∼﹂
ゆっさゆっさ⋮
﹁はなこ∼﹂
面白すぎて酔いが吹っ飛んだぞ♪
﹁すぴ∼♪﹂
あ⋮油断したらまた寝てしまった。
途方にくれていたら、長い睫毛が揺れ美咲さんが眼を開けた。
突然目を開けたので、やましくもないのにドキっとしてしまう。
﹁かおるん⋮?﹂
こちらをまんじりともせず、見つめる美咲さん。
343
﹁なんで、美咲さんがここに?﹂
声を殺し、美咲さんにそう囁く。
﹁⋮﹂
じわり⋮⋮無言で、涙を浮かべる美咲さん。
うわわ、いきなり泣くな⋮
﹁お酒に酔いつぶれたカオるんを、寝室に運んでお布団まで⋮そし
たらカオるんが豹変して⋮無理やり⋮私を⋮暴力で⋮﹂
ぐっと、自分の肩を抱きしめる美咲さん。涙が頬をつたう⋮
マジっすか?
想像したくない! そんな状況を!
﹁嘘です。あんまりあっさり寝るので、ちょっとお話したいなと体
をユサユサしてたら﹂
﹁ユサユサしすぎて私も酔いが回って、気が付くと﹂
にんまりほくそ笑む美咲さん。ちっ、騙された。
﹁昼間にお話あんまり出来なかったし、ユカやマリリンとすっごく
仲良くしてるし、私とはお話もしてくれないんだなぁって、悲しく
なりました﹂
眉をひそめて睨みを聞かせる美咲さん。
344
﹁だから、このまま朝までお話しませんか?﹂
そう言って笑う美咲さん。満面の笑みで言われると何も言えなく
なります。
そういや美咲さんは、泣き上戸で絡み酒の人だったか。
﹁その前に、腕枕やめませんか? 手が痺れて大変な事になってま
す﹂
﹁却下﹂
即答で却下され、しかも俺が悪い事を言ったかのようにジト目で
睨んでくる。 ﹁そんな事言わずに⋮⋮﹂
﹁やだ﹂
まるで駄々っ子の様だ。
﹁ああ、もうグー・パー出来なくなってますよ! 手が紫色に、ほ
ら﹂
﹁そうなのですね。大変ですね﹂
我関せずで目を閉じてしまった。
﹁壊死するかも﹂
﹁しませんよ﹂
345
﹁いやマジでヤバイ。もう1/3壊死してる﹂
﹁⋮あと2/3残ってますね﹂
﹁いや⋮完全に壊死させてどうする﹂
﹁がぶっ﹂
﹁うわっ噛んだ﹂
﹁感覚あるじゃないですかぁ まだまだイケますね﹂
くっきりと歯型が付いた腕の痛み。
幸いな事に痛みで痺れが取れてしまった。不幸中の幸いとはこの
事か。
﹁そういう美咲さんがやってみてくださいよ、痺れますから﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁ごめん﹂
﹁駄目ですよ。無理ですよ。不可能です﹂
﹁⋮⋮⋮﹂
﹁なに想像してるんですか?﹂
﹁イヤナニモ﹂
346
﹁ケダモノ!﹂
﹁ケダモノ言うなぁ﹂
ちょっと調子に乗っただけで、ケダモノ扱いされてしまった。
匙加減が難しいなぁ。
﹁あ!名案浮かびましたよ∼﹂
﹁なんですか?﹂
﹁逆の手あるじゃないですか!そちらでフォローしていただければ、
移籍しますよ﹂
﹁なるほど⋮って移籍とか﹂
﹁移籍金が莫大に発生しますけど﹂
﹁サッカー選手ですか、美咲さん﹂
﹁うん、美咲君だよ! ツバサ君﹂
移籍はしなくて良いのかい? フランスに行っちゃ
﹁なんで俺ツバサになってるんだ?﹂
﹁ツバサ君?
うよ?﹂
﹁美咲君、移籍してくれ﹂
347
スッと俺の手から重みが消え、同時に物凄い血流が指先に流れ込
んだ。 美咲さんはよっこらしょと俺を乗り越えて、サイドチェンジした。
﹁なんか、心音遠くなった感じがする﹂
﹁いきなり文句たれますか?﹂
﹁うん﹂
﹁しかし、左手は今すっごく血流が⋮ジンジンしてますよ﹂
﹁ご苦労さまですな﹂
﹁なにやら偉そうですね﹂
﹁ふふふ﹂
﹁グーパー出来る様になりましたよ、壊死はまぬがれました!﹂
﹁⋮⋮﹂
美咲さんは再びサイドチェンジして、俺を乗り越え元の位置に寝
転がった。
﹁やっぱりこっちが落ち着きますね﹂
﹁回復しかけの左手に追い討ち掛けるとは、鬼ですな﹂
﹁歯型が付いてますよ?﹂
348
﹁美咲さんが噛んだんでしょーが﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁どうしました? 美咲さん。いきなり黙るなんて。眠たくなりま
したか?﹂
﹁酔いが醒めてきました﹂
﹁醒めましたか﹂
﹁酔いが醒めると同時に、ものすっごく恥ずかしくなってきました﹂
﹁なにを今更って感じですが﹂
﹁ですよね﹂
﹁吹っ切れましたか?﹂
﹁いやまだです﹂
美咲さんは俺を背に、顔を隠すように丸くなった。
酔いが醒めたならこの遊びも潮時、普段の通りに接しよう。 ﹁この際だから俺の思ってる事、話していいですか?﹂
﹁うん﹂
﹁美咲さん、傷つけちゃうと思いますよ?﹂
349
﹁いいですよ﹂
俺はゴクリと生唾を飲み込み、思い切って普段のわだかまりを吐
露した。
いつもは言えない言葉だが、今晩だけは俺の気持ちが伝わるよう
な気がする。
﹁美咲さんとちゃんと話すのって、本当は初めてじゃないですか?﹂
﹁初めてですね﹂
﹁これからは、こうして話せますか?﹂
﹁うーん、努力はしているのですけど﹂
﹁思ってる事。ちゃんと本心を見せて話して欲しい﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁俺は美咲さんを本当の友達として見たいんだ。美咲さんも我慢し
ないで話して欲しい﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁前から自分の気持ちを押し殺して、我慢しているように感じてい
ました﹂
﹁はい⋮⋮、ごめんなさい﹂
350
﹁本当の美咲さんを気持ちを知りたいです﹂
﹁⋮⋮⋮﹂
﹁駄目ですか?﹂
﹁⋮⋮⋮がんばります﹂
﹁無理しなくて良いですからね?﹂
﹁⋮⋮うん﹂
﹁初めて、美咲さんと気持ちが通じ合えたような気がします﹂
﹁⋮⋮うん﹂
空が白み始め、朝を迎えるまで二人で話を続けた。
思っていた事、本音の部分。偽りの部分。
守人としての、美咲さん。
守人じゃない美咲さん。
本音で語り合え、本当の親友になれた⋮そんな夜だった。
351
﹃連休 09﹄
一晩だけの帰郷、それも終わり。
朝まで起きていた俺は、朝方に事切れて、結局昼まで寝てしまっ
ていた。
けれど、美咲さんは眠そうな素振りすら見せない。
尊敬するよ⋮。
帰る俺たちを玄関先まで見送りに来てくれる、美苑さん。
彼女も表情は読み取りにくいが⋮少し寂しそう。
けど美苑さんらしく、悪態ついてお見送りをしてくれる。
﹁美咲! ちゃんと帰ってこないと、また見合いの相手探しておく
わよ?﹂
そう言って、悪びれずにいる美苑さん。
へきえき
ホント素直じゃないんだよな⋮この人も。
相対する美咲さんも、辟易とした表情で美苑さんを見ている。
﹁そんな事言ってると、一生帰りません!﹂
そう言ってそっぽ向いてしまう美咲さんに、少し複雑な表情を浮
かべる。
俺が思うに、この親子。
自分を出せないというか、素直じゃない所そっくりだよな。
本当は感情の起伏が激しく直情タイプなのに、立場がそれを許さ
ない。
本音を話す事を許さない。当主として、守人として。
そうしているうちに自分を出せなくなり、周りをついつい立てて
しまう。
352
傍観者に徹してしまい、言いたいことが言えない。
きっと、誰も見ていない所でストレスを貯めてしまうタイプ。
そんな親子だった。
﹁美苑さん、素直にならないと駄目ですよ﹂
耳打ちし、苦笑しながらたしなめる。
良い大人なのに、子供っぽいんだよな。
﹁こういう時は、素直になるのが一番ですよ。きっと後で後悔しま
す﹂
俺みたいな小僧がこんな事を出来るのも、美苑さんの許容できる
性格のおかげなのだと思う。
娘にも優しく許容してあげたらいいのに。
なんだか釈然としない表情を浮かべる美苑さん。
結局言い出せずに居る。
カバンを肩に掛け、玄関を出て岐路に着く。
背を向け俺たちは、住み慣れた街へと向かう。
横で歩く美咲さんの顔を見て⋮⋮ため息と、言葉が出る。
﹁美咲さん⋮今振り返って美苑さんの表情を見てみな?﹂
多分、美苑さんは泣きそうな悲しそうな顔をしているはず。
確信がもてる。
だって、美咲さんがそんな顔をしているから。
﹁さっき、美苑さんにね。後悔しないために素直が一番って言った
んだ﹂
353
振り返りもせず、美咲さんに話し続ける。
﹁美咲さんもね﹂
苦笑しながら、肩を持ち美咲さんを家の方向に向ける。
そして、背中を優しく押してあげる。
素直になれない娘は、母の元へと駆け出した。
﹁カオル。粋な事するなぁ﹂
隣で山科さんが、俺を肘で小突く。
乃江さんも宮之阪さんも、その親子の風景を眩しそうに見つめて
いる。
﹁だって、親子じゃないか。わだかまりを解いて素直になるのが一
番﹂
俺は、振り返りもせずそう呟いた。
親子だけの時間。見てはいけない、そんな気がしたからだ。
﹁乃江さんは、きちんと親孝行できた?﹂
複雑そうに遠くを見つめる乃江さんに囁いた。
﹁ああ⋮他愛も無い話を夜遅くまでしたよ。学校の事、友達の事、
自分の気持ち⋮いろんな事。だけど目を輝かして聞いてくれた﹂
354
そう良いながら、涙ぐむ乃江さん。
﹁あーあ、うちもなんか京都に帰りたぁなってきた⋮﹂
羨ましそうな表情を浮かべ、故郷を想う山科さん。
﹁私も⋮ 折を見て帰ろうかな﹂
遠く英国に住む、両親、お婆ちゃんを想う宮之阪さん。
俺も、帰ったら⋮たまには親孝行してみるかな。
みんなの表情を見ていたら、そう思わされるな。
どうせ、またキモチワルイとか言われるのがオチだけど。
再び、バスに揺られ無人駅へ。
相変わらず駅前の雑貨屋は、貼り紙がしていて休業状態。
ちょっと、この店の経営を心配したくなってきた。
﹁ねぇ⋮カオるん?﹂
電車の時刻表を眺めていた俺に、美咲さんが覗き込むように話し
かける。
﹁ん? なに? 美咲さん﹂
嬉しそうな、美咲さんの表情に見とれそうになる⋮。
355
﹁ありがと﹂
恥ずかしそうに一言そう言って、くるっと背を向ける美咲さん。
揺れる長い髪が風に揺れる。
今までの﹃天野美咲﹄じゃない、美咲さんがそこに居る。
なんだか、無性に嬉しくなる。
そんな美咲さんの背中を眺めていると、背中に激痛が走る。
振り返ると、山科さんと宮之阪さんが背中をつねっていた。
﹁なんか⋮とてつもなく良い雰囲気ちゃうのん?﹂
目がマジな山科さん。
﹁です⋮無性に腹が立ちます﹂
上目使いで、非難の目を向ける宮之阪さん。
﹁嫌ぁ⋮! 痛い。 ⋮マジで。 痛い!﹂
シャレにならない痛みにもだえ苦しむ。
動けば動くほど痛いのだが、動かずにはいられない。
﹁そう言えばカオル! 昨日宴会の後、なにしとったん?﹂
つねるのを止め、俺の表情を窺うように睨む山科さん。
﹁部屋で⋮呑み直そうと⋮待っていたのに﹂
握りこぶしで背中をぐりぐりする宮之阪さん
356
呑みなおしって⋮どんだけ呑んだら気が済むんですか。
﹁昨日? 酔っ払って昼まで撃沈してましたよ♪﹂
酔っ払ったのも、昼まで寝てたのも本当だ。
途中起きてお話してたけど。
前を見ると背中を向けたままの美咲さん、背中越しに笑っている。
笑ってないで、助けてよ。
﹁ほんま? なんで部屋まで来てくれへんかったん?﹂
寂しそうに山科さんが覗き込む。
﹁部屋行ったら、痴漢、キャー、エッチってボコボコにされてると
思いますよ﹂
普通考えりゃそう。
酔っ払って女の子の寝てる部屋にいける訳はない。
そんな奴の末路は決まっている。ボコられ蹴り飛ばされて流れ星
キラッ!って結末が待っているに違いない。
﹁キャ∼エッチは言うかもしれへんけど⋮うちは、かまへんかった
のに﹂
﹁⋮私も﹂
そう言いつつ俯いてしまう二人。
遠くで乃江さんが他人の振りして苦笑してる。
笑ってないで助けて。
美咲さんも、盛大に肩を揺らして笑ってるんじゃない!
357
結局電車が来るまで、二人に責められぱなしだった。
電車に乗ると、猛烈に睡魔が襲ってきた。
定期的な、カタコン⋮カタコン⋮って線路から伝わる振動が助長
してくる。
睡眠時間少ないからなぁ。
zzz⋮
﹁なぁ、美咲?﹂
山科さんの声、REM睡眠の俺に聞こえてくる。
﹁なんか、雰囲気変わってない?﹂
うーん、さすが山科でピンとくる山科さん。鋭い。
﹁⋮なにが? 雰囲気?﹂
とぼける美咲さん。でも声が嘘をつけていない。
がんばれ美咲。
﹁なんかな∼ ちょっと違う気がする﹂
﹁こくこく﹂
鋭い山科さんに同調する宮之阪さん。
マリリンもボーっとしてるようで、結構鋭い感性の持ち主。あな
358
どれない。
﹁なにかありましたか?お嬢様﹂
ここで、満を持して乃江さんのツッコミ。
さすがの美咲さんもヤバいんじゃないだろうか。
﹁え? あ? ナニモアリマセンヨ∼﹂
多分滝汗の美咲さん。
声も裏返ってますよ、ぷぷぷ。
ここで俺が起きても渦中に巻き込まれるだけ、早くノンREM睡
眠へ移行しないと。
﹁角が取れて、柔らかくなった言うか﹂
﹁⋮そう⋮ですね⋮表情が﹂
﹁距離感が近いというか﹂
三者三様の感想を述べる。
みんな美咲さんに近い存在だから、ちょっとした変化も見逃さな
いんだね。
﹁うちは、今の美咲の方がええなぁ﹂
﹁こくこく﹂
﹁私も⋮そう思う﹂
そう言って、みんな無言になる。
359
そう、俺もそう思う。
多分⋮多分だけど、美咲さんはきっと嬉しそうな顔したくて⋮で
も出来なくて。
複雑な表情してるんだろうな。
そう思いつつ、目を閉じ眠りに付いた。
﹁そう言えば、美咲。宴会抜け出して戻ってけぇへんかったなぁ?
どこいっとったん?﹂
執拗な山科さんの尋問は、終点まで続いた⋮⋮らしい。
360
﹃カオル先生1﹄
﹁美咲さん、美咲さん! 俺の口座が大変な事になってます∼﹂
連休明けの飛び石の休みの日。
俺は師事する美咲さんの手ほどきを受けるべく、例のマンション
へ向かっていたのだ。
ふと、自動販売機で飲み物でも買って行くかと財布を見たら⋮レ
シートと銅貨とアルミニウム。
こないだの連休旅行で、手持ちの小遣いが枯渇していたのをすっ
かり忘れていた。
仕方なしに、わずかばかりの蓄えを切り崩すべく、銀行へと向か
った。
今日は時間に余裕があるから、ATMに立ち並ぶ人の列なんて気
にならない。
お年玉のプールがちょっと残っているはずだし、月末まで余裕だ
な⋮なんて。
いざ待ちに待ったATMの機械の前で、しばし硬直。
大体2分くらい固まったかな。
後ろで待っている人の咳払いで我に返ったよ。
残高照会の金額がえらい事に⋮⋮ 9,864,252?
⋮⋮桁多すぎだろ。
あとちょっとがんばれば一桁上がる程の残高。
ゼロが一個で10円⋮ 一個増えたら100円⋮ もいっこで1
000円⋮ 次、壱萬⋮ 十⋮ ん百萬?
361
そう言えばここの銀行、連休中に大規模なシステム変更するとか
言ってたよな。
オンライン障害って奴か?
とりあえずここは、一日の取引限度まで引き出すべきなんだろう
か。
⋮えい!50萬っと。ピポパ。
バラバラバラ⋮うわーん、紙を数える音がしてるよ∼。
ギーガッシャン。出てきた。
ピンピンの新札だ。
とりあえず財布に⋮。
二つ折りの財布が自己主張してる、⋮曲がりませんよ?って。
って事で、最初に戻る。
美咲さんの部屋の扉を開け、ネコ型ロボットに泣きつくメガネの
如く、話を聞いて貰おうとしたのだが。
ネコ型ロボットは無理としても、部屋からなんのリアクションも
帰ってこない。
⋮ちと寂しい。
靴を脱いで馬鹿っ広いリビングに行くと、テーブルの上でキーボ
ードをぶっ叩いている美咲さんが居た。
うあっ、なんだか初めて出会った時の美咲さんを彷彿させるなぁ。
髪を振り乱し、一心不乱にブラインドタッチ。
俺の事なんて無視。
いや、眼中に入ってないな。
後ろに廻り覗き見ると、表計算ソフトで帳簿を作成中だ。
あんまりジロジロみるのも気が引ける、そこで美咲さんの耳に息
を吹きかけてみた。
362
﹃ふぅ∼﹄
﹁わ! わ!﹂
今日初めてのご対面は、赤面する美咲さんの顔だった。
﹁なにするんですか! カオるん!﹂
ムズ痒い耳を、手でゴシゴシしながら怒り出す美咲さん。
びっくりしたのか、マジ怒りです。
﹁むぅ⋮美咲さんこそ何してるんですか? さっきから呼んでも返
事ないし⋮﹂
怒られるとは思ってなくて、ちょっとションボリ。
﹁月初なので、帳簿を付けてたんですよ∼。私たちのチームの取り
纏め⋮代表者が私なので⋮﹂
チーム?退魔士のチーム⋮?
美咲さん、乃江さん、山科さん、宮之阪さんとのユニットの事か。
﹁私たちって、役割的に前衛・後衛に別れるじゃないですか? 純
粋に討伐だけを観点に置くと不和の元だから⋮﹂
なるほど、乃江さんが近接、美咲さんが近・中距離兼回復職、後
衛の火力組で足止めも出来る山科さん、マップ兵器の宮之阪さんか。
ロールプレイングゲームに例えると判りやすいな。
なかなかバランスの取れたパーティだ。
363
﹁今までの、表計算は式もマクロもきちんと出来ていたんだけど、
もう一人増えたじゃないですか? 半分以上作り直しになっていて
大変なのですよ∼﹂
そう言って、人並みのスピードで表計算ソフトをいじる美咲さん。
もう一人?
いちにんげつ
﹁あっ、言ってませんでしたっけ。カオるんも私の小隊の一員です。
毎月毎月一人月の報酬が入るんですよ﹂
今はじめて言いましたよ? ⋮そんな事聞いてません。
﹁私たちを守りたい!って屋上で言ってませんでしたか?﹂
不審がる俺の表情を読み取るように、美咲さんが念を押す。
そんな事、⋮⋮言いましたね。確かに言いました。
﹁カオるんが剣士さん、ノエが格闘家、私は回復職で∼、風使いの
巫女ユカ、魔法使いマリリン! 強そうなパーティですねぇ∼﹂
いつのまにやら、それぞれの職設定がなされている。
美咲さんのほんわりと夢想する表情。
RPGさながらのメンバーが、ギルガメッシュの酒場でたむろし
ている所でも想像しているのだろうか。
ん?待てよ。
﹁俺の銀行残高が、﹁アレ﹂な事になったのはもしかして?﹂
ポッケの50萬もね。
364
﹁はい∼。8回再確認して、ネットバンクから振り込みましたので
間違いないと思います∼﹂
にっこり手を上げて答えてくれる美咲さん、かわいい。
ってか振り込み主は美咲さんか⋮。
通帳で記帳したらわかったのだろうが、カードだったので気が付
かなかった。
﹁多いか多くないかよく分かりませんよ。あんな桁のお金見た事な
いですもん﹂
いちにんげつ
そう言って苦笑すると、美咲さんが表計算ソフトを眺めて説明し
てくれた。
﹁﹃魂くい﹄の対策費が1ヶ月拘束の契約なので、1人月固定でし
ょ。 ﹃魂食い﹄との戦闘の評価額がプラスαそれを5等分して⋮
各人の必要経費を+−したものですよ﹂
画面を指差しながら、説明してくれる美咲さん。
にしても、ランクCの俺が貰える額じゃないような気がする。
﹁報酬としては、格段に高くないですか?﹂
恐る恐る聞いてみた。
﹁そんな事ないです! ランクAがまじめに働いたら一日一匹以上
討伐出来ますし⋮それだけで月に3千万くらい稼げちゃうんですよ
!﹂
とてつもない額がはじき出される。
365
﹁逆に少なすぎるくらいです﹂
鼻息荒くも言い切った。
そ⋮そうなのか。しかし、俺は貰い過ぎじゃないか?
﹁カオるんが一番不利なんですよ? 気づいてましたか?﹂
俺の表情を見て、俺の変わりに怒り出す美咲さん。
不利?不利って⋮
﹁私は戦いの時、ギターとか使ったりしますよね? 靴は特注で金
属プレート入りだし、靴下は防刃仕様、上もそれなりの物を着用し
てます、それでも個々の値段は、それほどでもありません﹂
ふむ、靴下は知っていたが靴も特注なのか。
初耳ですぞ。
安全靴みたいなものか?蹴られたら痛いだろうな⋮。
﹁カオるんの場合、カナタは除外するとして、お母さんのナイフを
使うとします。アレで3000万くらいの武器を使っている事にな
るんですよ?﹂
え? あのナイフそんなに高いの?
﹁お母さんのナイフは、3人の研究者に2年専従で作成依頼して作
った物です。人の人件費だけで月300万以上かかってますよ⋮﹂
ほぇー金持ちのする事はわからん。
﹁例えば、それが折れます⋮ポッキリと﹂
366
うはっ考えたくないな。美苑さんに怒られる∼。
いや、殺される?
﹁するとカオるんは、今月マイナス2000万以上の赤字になりま
す﹂
なるほど。投資に見合ったリターンが返ってきてないな。
命と武器と二つを投資して、あの額だと安いかも。
ついでにカナタは、二度と手に入らない程の武器だ。
カナタに金額はつけれない。
﹁ふむ⋮納得した。安いな。マジで﹂
美咲さん、乃江さん、山科さん、宮之阪さんの命。そんなに安い
ものじゃない。
ついでに俺もな。
﹁ですよ⋮せめて3倍は貰わないとやっていけないですね﹂
どんだけ、一月に使うんですか?
マンションの家賃にしても、そんだけしないだろうし⋮。
﹁怪我したら働けないし無収入になるんですよ! 貯蓄しておかな
いと!﹂
退魔士はガテン系の職業だという事がよく分かった。
俺も、おろした50万、振り込んでおこう⋮。
﹁そう言えば、カオるんのライセンスカードとデータベースへ接続
367
用のPDAが届いてますよ∼ 動作確認してね﹂
お、やっと来たか。
しかし、そう言うのも取り纏めしなくちゃいけないのか⋮小隊長
は大変だなぁ。
封筒と小荷物の箱を手渡される。
ドキドキしながら、封筒を開封する。
﹁⋮⋮⋮﹂
なんで、証明写真は犯罪者みたいな顔つきになるんだろうね。
書いてる文字も全部英語表記⋮違うだろ。
日本の機関の割りに納得がいかない。
漢字で書けよ。
待てよ⋮⋮美咲さんのライセンスカードが気になるなぁ。特に顔
写真。
﹁美咲さんのライセンスカード見せて﹂
﹁やだ﹂
即答で断られた。
ジト目で睨まれてるし⋮。顔見られたくないクチか。
カードネタをこれ以上振ると怒られそうだからやめておくか。小
動物は危険を感じるのが得意なのだ。
あとは、PDAか。
使えるかな。
箱を開けて中身を確認⋮と。
手のひらサイズのPDAだ。ペンで操作するタイプだな。
ちなみに、いろんな種類の端末を選べて選択できるんだ。俺はP
368
DAにしたけど。
美咲さんがノート型と携帯型。
乃江さんは多機能携帯型、画面が広くてスライドしてキーが出て
くる奴ね。
山科さんは二つ折りできるPDA型。
宮之阪さんは美咲さんと同じような携帯型だっけ。
﹁PDAは、電源入れると勝手にアクセス開始してホストに繋がる
シン・クライアント型なんですよ﹂
そう言って説明してくれる美咲さん。
本体は画面情報だけで、メモリーに保存しない仕様。
もしもの時の情報漏洩も安心だ。
生意気にこいつ指紋認証機能付きだし、セキュリティも万全だ。
⋮なにより携帯音楽端末にもなるしな。
データ保持はホスト側でやってくれるから、メモリーやハードデ
ィスクに依存しなくていい。
しかもその分軽い。
大型のホストで演算した結果だけを表示してくれるので、チープ
な性能のPDAでも速い。
ぶっちゃけ描画エンジンにだけ、お金を掛ければいい訳だし。
﹁某S社の独自プロトコルを使ってるみたいですよ。ログインする
とS社っぽい画面になるでしょ?﹂
美咲さんがいうS社がよく分からんのだが、UNIXのGUI画
面っぽいログイン画面が表示されている。
﹁ユーザ名とパスワードを入れて⋮と﹂
ペンタッチで、キー入力。
手書きできるのがGJだ。
369
メニューで、データ検索とメールが表示されている。
データ検索とメールが使えたら、後は追々覚えていくとするか。
﹁ん?﹂
﹁どうしましたか?カオるん?﹂
﹁いや、メールが来てる﹂
二人して、小さい画面を見る。
葉書アイコンをクリックして、メーラーを起動。
ウェルカムメールかな?
﹃ライセンスCの方、ご師事を受け賜りたい﹄
題名は、そう書かれている。
問題は、その文章が3通来てることだ。
﹁あ∼ わかりました。ランク別、地区限定の同報通信ですね。条
件に見合う人にだけ送信されるんです。この方はランクC限定で、
地区を限定して送信されてますから、該当する人⋮送信対象が少な
いのでしょうね﹂
と言いつつ納得顔の美咲さん、そのメールの素性を簡単に説明し
てくれる。
メール送信者を選んでメールするものだけかと思ったら、そうじ
ゃないんだな⋮。
﹁仕事上、ランクを指定して仕事を依頼しますし、遠方の方に届い
ても条件に合わないでしょう? そういう風に不特定の人を探す場
合もあるんですよ﹂
370
なるほど。勉強になるな。
さすが小隊長だ、教えるのもうまい。
気になるメールを見てみよう。クリック。
>当方ランクEです。ランク上げの試験対策の為、ご師事できる
Cランクの方をお探ししています。一回のみ∼不定期でも結構です。
よろしくお願いいたします。
師事って事は、俺がみんなに教えてもらっている様な感じなのか
な? ランク上げの試験? 試験があるのか?
﹁なるほどですね。師事する場合1階級以上が望ましいんですよ。
優秀なEと駄目なDだと勉強にならない場合がありますから。逆に
差が有り過ぎても大変ですしね﹂
なるほどなぁ。俺がランクAのみんなに教わっているのも適正な
のか。
﹁男の人ですかね? FROMがMAKOTO−FUJIMORI
になってますね﹂
ふじもりまことか。しかし⋮地区限定って⋮⋮やばくないか。
﹁美咲さん、地区限定ってどのくらいまで出来るんですか?﹂
俺はある事に思い当たった。
もし近い近距離を選択して俺に届くって事は、﹃こいつは近くに
居る﹄って事じゃないか?
371
俺の表情を見て美咲さんも﹃ある事﹄に気が付いた。
この街は﹃魂食い﹄の厳戒態勢のはずだ。
なぜならば、能力者が食われる恐れがあるから。
それを知ってか知らずか。この街の近くに居るこいつは⋮一時の
俺のような﹃格好の獲物﹄じゃないのか?
﹁検索最小設定⋮半径10km⋮﹂
俺と同じ結論に達した美咲さんは、青ざめる。
とりあえず、俺はそのメールに返信をいれた。
本日14:00にXX駅コンコースで会いたいとだけ。
一応XX駅はここから10駅離れた安全地帯だ、ほとんど隣の県
に近い。
願わくば、送信者がそちらに近い事を祈るしかない。
メールに応答待ち時間も感じないうちに、了承のメールが届いた。
不審がられる恐れがあるので、美咲さんは連絡待ちで待機。
俺のみ単独で向かう事にする。
安全圏の退魔士なら、それでよい。
危険圏に入っているのなら、注意を促し問題解決まで退避しても
らう。
﹁カオるん。がんばってね﹂
美咲さんが部屋のドア越しで、心配顔で俺を送り出してくれる。
名前しか判らなかったけどゴッツイ男の人ならどうしよう。
フジモリマコト。年齢40ですとか言われたら⋮
372
うひゃ。﹃魂食い﹄対策班ってこんな事も仕事のうちかよ。
やっぱり報酬安すぎだ。
XX駅コンコース。
駅の改札とショッピングモールがクロスする、待ち合わせのメッ
カ。
知らずに場所指定したのが不味かった。
俺の視界内に待ち合わせの為か、柱に寄りかかって時計見る風な
女の人が4・5人以上居る。
休日なのに14:00待ち合わせって、遅くないか? 君達。
休日なら、朝から待ち合わせて一杯遊ぶだろ?
いや⋮事情があって合う時間が短いのかもしれんな⋮ごめん。
なんてマンウォッチングしつつ男の姿を探してみるも、未だ発見
できず。
すでに14:00を少し回った所。
PDAでメールを確認するが、新規メールは受信していない。
>現地着して待っているが、後五分待って来なければ帰る
少々脅しの意味もこめてメールを送信しておく。
いや、遅れてきても調査のために待つんだけどね。
PDAを使い慣れるため、いや暇つぶしに遊んでいたらメールが
来た。
>同じく現着にて待機中です⋮あれ?
373
ふと前を見たら、多機能携帯をいじりつつ回りを見るちびっ子。
携帯を見てはきょろきょろ。落ち着かない女の子が居る。
フジモリマコト?
>ちびっ子か?
少々失礼なメールを飛ばし様子を窺ってみる事にする。
﹁誰がちびっ子⋮﹂
ちびっ子が声を出しそうになるが、周りを見てすぐにトーンダウ
ン。
奴だ。
俺は、ゆっくりとちびっ子近付く。
﹁君がフジモリマコトか?﹂
簡潔にそう囁くと、相手のちびっ子もうなずく。
﹁ミムロカオルだ﹂
なんとなくノリで簡潔に喋ってしまっている俺。
ちょっと変だな。スパイ映画の見すぎか?
﹁藤森 真琴です。中学2年生です。よろしくお願いします﹂
ペコりんと挨拶。
なかなか礼儀正しい。
374
中学生にしては、少々発育不全の感じが否めないが。
黒のキャミソールに重ね着でチュニック。下はひざが隠れる柄入
りのスパッツにミュール。
大人っぽい服装に見えなくも無いが、この子が着るとかわいい感
じ。
﹁カオルさんって名前だったから、女の人かと⋮思ってました﹂
俺と同じあやまちを犯している奴発見。
﹁俺も、マコトで男を探していたよ﹂
俺の顔をジロジロ見て、ニッコリ顔の藤森真琴。
歳が近いと確信したのか、俄然余裕が出てきた。
﹁とりあえず、お茶しましょうか♪﹂
そう言って、俺の手を取り喫茶店を探し出す真琴。と言うか手を
握るな。
お相手は、中学生、退魔士E。でもお子ちゃま。
これも対策班の仕事ですか? 給料にも含まれていますか?
⋮帰りたくなってきた。
375
﹃カオル先生1﹄︵後書き︶
45話もかかって、各ヒロインの一通りの説明が終了しました。
遅い展開・かったるいと評判のA++です。
やっと、46話にして娯楽の部分が書けそうです。
俺はカオル、退魔士見習いだ!
かわいい相棒を紹介するぜ! まずは美咲!こっちに来な!
なんて書ければいいですね。
私は無理だわ。
例えば、仮面ライダーV3から。
ダブルライダーに倒されたはずのショッカー首領は新たにデストロ
ンを結成。両親と妹をデストロンに殺された風見 志郎は、ダブル
ライダーの代わりに瀕死の重傷を負ってしまう。ダブルライダーに
よって仮面ライダーV3に改造された風見はデストロンから日本の
平和を守るため戦い続ける。
ほわわ∼天才ですね⋮。尊敬します。
この後、自分の紹介なしに戦いますからね。
けれど、私は映画で言うと﹁タワーリングインフェルノ﹂︵古!︶
とか最近?のなら﹁インディペンデンスディ﹂みたいな走りが好き
なのですね。
登場人物の性格、背景。全員描ききってから各キャラが勝手に動き
出す!みたいな。
376
逆にランボー1みたいな、本人の素性をひた隠しにして最後ドッカ
ーンみたいなのは嫌いかも。
紹介した話は全部古いんですが、断っておきますが”リアル”で見
たわけじゃないですよ︵はあと
377
﹃カオル先生2﹄
﹁カオルさん、本当に退魔士? 全然そんな風に見えないよ∼﹂
頼んだアーモンドオーレをかき回し、上目遣いでこちらを見る、
お子ちゃま真琴。
それは俺も同感だ。
中学生2年生、けれど見た目は悪くすると小学生。
そんなお子ちゃまが﹃退魔士﹄とか言われてもな。
夜歩いてると補導されるだろ。
﹃お嬢ちゃん、暗い夜道を歩いていたら危ないよ。明るい道を歩き
なさいね﹄
近所のお節介な良いおばちゃんに声を掛けれられたり。
﹃は∼い 気をつけます∼﹄
ぺこっと会釈。
あまつさえ返事をしたりしそうな感じに見受けられる。
⋮頭痛い。
俺は糖分補給を行うために、砂糖を多い目のホットコーヒーにケ
ーキセットを頼んだ。
美咲さんを真似てる訳じゃないが、俺のスキルは﹃ 糖分 ﹄が
必要不可欠なのだ。
﹁退魔士に見えるか見えないか。そんな事は関係ないと思うけど﹂
378
自分に言い聞かせるように話す。
俺が真琴に思う感情を諌めるように。
重要なのは、真琴のホームグラウンド、家、学校、狩場だ。
そのどれかが危険域に入っていたら⋮警告する。もしくは組織経
由で退去勧告をしてもらう事になる。
﹁そ⋮そうだよね⋮失礼な事言ってごめんなさい﹂
そう言って、ションボリと頭を下げる。
こいつのこういう素直な所、嫌いじゃない。
だから余計、危険な目に逢わせる訳には行かない。
とりあえずは俺を知ってもらう事からか。
俺を知り、きちんと話せる状況を作らないと⋮、いきなり﹃家教
えろ﹄とか変質者紛いの事は言えない。
﹁ん⋮そうだな。真琴のアーモンドオーレをかき回したスプーンを
⋮右手に持ってみて﹂
俺と美咲さん出会いのマジック。
頭に疑問符が浮かぶ真琴。戸惑いながらコーヒー皿に避けていた
スプーンを手に取る。
真琴が手に持つ間に、おれのチーズケーキを小口大に切って、悟
られぬようにそれとなく手に持っておく。
真琴の視線が、﹃それから?﹄って俺を見つめる寸前に長考状態
に移行した。
景色は音を失い、色を損なう。
喫茶店内に充満していた、雑談による雑音、有線放送の曲すべて
が掻き消えた。
379
俺は、ゆっくり、ゆっくりと真琴のスプーンを手に取り、俺の右
手のフォークを優しく持たせる。
俺は、スプーンを右手に持ち直し深く椅子に腰掛ける。
﹁右手を見て。おこちゃま真琴へのおすそ分けだ﹂
そう言って余裕を見せているが、結構ギリギリだった。
美咲さんのように余裕を持って長考出来ない⋮ 修行が足りねぇ
な⋮⋮
美咲さんがそうしたように、右手のスプーンを見せびらかす。
真琴は、俺の右手のスプーンを見て、俺の顔を見る。
そして、やっと気が付いたように自分の右手のケーキを見つめる。
呆然として、それを口に運んだあたりで表情が輝き出す。
﹁はむ! カオル先生! すごい! すごい! ねえねえもう一回
やってみて﹂
誰が先生やねん!
そういうリアクション取られるとは思わなかった。
もう一回なんて無理だ。⋮気持ちが緩んでしまった。
俺は手のスプーンを真琴に手渡し、ケーキ不在のフォークをひっ
たくった。
﹁手品じゃないんだ。 何度もするようなものじゃない﹂
心の中で汗を掻きながらの言い訳。
種明かしの時間だ。
﹁俺は可能な限りの高速で、俺と真琴のスプーンとフォークを入れ
380
替えただけだ。魔法使いでもなければ手品師でもない﹂
そう言って、甘ったるいコーヒーを口にして糖分補給する。
甘いコーヒーが体に溶けるように染み渡る。
当の真琴の表情は冴えない、深く考え込むように虚空を見つめた
め息を漏らす。
﹁⋮⋮Cってこんなにレベル高いんだ⋮。ちょっとショックかも﹂
高速の動きを見抜けなかった自分に、甘い考えに。ショックを受
けている。
確かに甘いかも。
ランクAを比較対象に持ってくるのはどうかと思うが、前衛の乃
江さんはともかく、最後衛の宮之阪さんでも動きは俺と同等かそれ
以上だもんな。
遠距離支援だから、動きは素人でも良いなんて。そんな奴はすぐ
に淘汰される。
狩りはそんなに甘いものじゃない⋮と思う。
﹁真琴は退魔士レベルを上げてどうするんだ? 就職のための資格
のつもりなら止めた方がいいぞ﹂
若干﹃カッチーン﹄と来そうな言葉を使い真琴の反応を窺う。
まずは、退魔士への動機。狩りへの意欲のあたりを探りたい。
﹁退魔士資格が、一般企業に有利な資格な訳ないでしょ!﹂
ちょっとカチンと来たらしい。
思う壺だ。
381
﹁じゃ、どうして退魔士に⋮レベルアップを図りたい?﹂
俺の繰り返される質問に、怒りを顕わにする真琴。
﹁だって、E以下の仕事なんて上級者がさっさと片付けちゃって、
適正レベルの者には回ってこないんだもん!﹂
たしか、雑魚狩りしてる上級者もいると聞いている。
それでも日々食う分は困らないし、命の駆け引きも要らないから
な。
確かそういう動きもレベル縛りの弊害だとか聞いた覚えがある。
新人が育ちにくいんだそうだ。
﹁なるほど。レベル上げの件は判った﹂
意味ありげにそう言うと、俺の表情を窺うかのようにコクコクと
頷く。
後は⋮なんだっけ。不自然じゃないように聞き出さないとな。
その前に⋮気になる事を聞いて置かないといけないな。
﹁レベルアップ試験ってどんな事するんだ?﹂
﹁⋮⋮⋮﹂
呆然とした顔でこちらを見る真琴。
なんか不自然な事聞いたか? テストでなにやるか判んないと教
えれないぞ?
﹁カオル先生って試験受けた事ないの?﹂
382
頷く俺を見て、真琴の顔が曇りだした。
話の展開をマズったか?
﹁退魔士に成り立てだからな。ライセンスなんて今日貰ったばかり
だし﹂
仕方ない、暴露するか⋮。
過度な期待をされても仕方ないからな。
﹁それって凄くない? 試験受けてないなら魔物を倒して申請した
んだ⋮。てことは敵のレベルはB以上って事になるよ?﹂
俄然目を輝かしだした真琴。目の中に星がキラキラしだしたよ。
そうか⋮Cの敵を倒したからってCになれるわけじゃないんだ。
運良く倒せたという事も考慮して、一ランク位落として発給され
るのかな?
﹁ん? そうなのか? よく分からん﹂
俺の疑問に頷いて答えてくれる真琴。
うーん⋮そうらしい。
俺の場合、乃江さんの圧力のおかげだと思うのだけど。
﹁だから⋮試験で何やるかわからんし。 試験対策の先生には向い
てないかもな﹂
まあ⋮豊富な経験で生徒にアドバイスなんて事も出来ないからな。
真琴は盛大に首を横に振る。キラキラした目で否定しだす。
﹁実戦型なんて願ってもない先生ですよ! 是非ともお願いしたい
383
です﹂
続けて、試験の冊子を手に取り⋮﹃第XX回 退魔士資格試験受
験概要﹄?
なんでそんなに大っぴらに冊子とか印刷してるんだ?
基本この世界の事は、秘匿されるべき情報じゃなかったのか?
証拠を残してどうする。
﹁ええっと、筆記試験はオマケだとして、採点の殆んどは﹃模擬戦﹄
で決定されるみたいです﹂
⋮戦闘するんだ。
﹁それは受験者と戦闘するのか? それとも上級者の胸を借りるの
か?﹂
知らない事ずくめだな。
退魔士の経験値で言えば、真琴の方が上なのかも知れん。
﹁それは、試験によってマチマチです。基本は上級者との模擬戦ら
しいですけど、受験者が多いと振り落としで受験者同士になる場合
もあります﹂
そうだな。上級者も100人と戦えって言われても嫌だろうし。
体力・霊力にも限りがあるもんな。
﹁そうだな、俺は超近接戦闘型だ。敵との距離1m⋮そこで戦う。
それで良ければ見てやらないでもない﹂
俺のその言葉を聴き、感激している真琴。
384
そんなに喜んでもらうと、こちらも悪い気はしない。
だが、本題だ。
﹁その前に、お前の家、学校、狩場を教えろ。 教えに行くのに家
を知らないと話にならん。 学校は場所だけ情報が欲しい⋮他の生
徒に真琴との姿は見られたくない。 狩場は今後遠慮しといてやる
から教えとけ﹂
さっきから考えていた練りに練った一言。
多分不自然じゃないだろうと思う。
﹁うーん。私はカオル先生との姿を見られても良いけどなぁ⋮﹂
話し渋っている真琴。
誘導できなかったか?こんなに考えたのに⋮ぐすん。
﹁先生に迷惑かかっちゃうよね。こんな子と一緒じゃ﹂
そう言って俺を見る真琴。
小さい顔、少し悲しげな表情。
真琴の顔をマジマジと見るのは、今がはじめてかも知れん。
幼さの残る顔立ちだけど、将来絶対かわいくなる。
今もかわいいけど、質の違うかわいさに。
﹁そういう意味じゃない。第一ここでお茶してるが迷惑だと思った
ことはないが⋮ 夜に一緒だと幼女誘拐だと思われるかもな﹂
そういう俺の言葉で一喜一憂する真琴。
最後の台詞で机に突っ伏した。
385
﹁誰が幼女よ? 酷い! カオル先生酷いです⋮ 気にしてるのに
∼ うわーん⋮﹂
ちびっ子が嘘泣きを始めた。
気にしてるなら悪かったが⋮しかしこいつ表情豊かで面白いな。
俺はこいつに感情移入し始めていた。
結局真琴は渋ったが⋮家、狩場、学校と一通りの情報を聞き出せ
た。
判定は、セーフ。俺の杞憂だったみたいだ。
俺たちは喫茶店を出た。
この辺りの地理に詳しい真琴の案内で、人気のない公園に来てい
た。
﹁じゃ。一丁やってみますか?﹂
軽い模擬戦。相手の動きが判らないと教えようがない。
﹁はい! カオル先生お願いします﹂
そう言うや否、戦闘態勢に入る真琴。
その持ち前のやわらかい雰囲気が、刺々しい闘気に変わる。
こりゃ、手を抜くとやられそうだ。
of
Sword⋮﹂
マジで行きますか。
﹁Ace
386
詠唱と共に何もない空間から現れる一本の剣。
音速に似た速度で俺を穿つ。
ちっ! こいつ物質化のスキルか?
青白く光る一本の剣は、確実に俺の胸を狙ってきている。
﹁長考!﹂
腰に挿した、鉄をも切り裂くナイフ。
左手で抜き放ち、俺を狙う剣の軸線をずらし、五等分に切り裂く。
最初に一触れは鉄の感触がしたが、そう抵抗も無く斬れていく。
﹁あっ⋮エース﹂
霧散して消える剣にショックを受ける真琴。
隙だらけだ。
of
Swords﹂
俺は一気に真琴との距離を狭めるべく走り出した。
﹁くっ! Seven
俺との距離と保つべく、後退しながらの詠唱。
詠唱と共に空間に現れる7本のレイピア。
ショットガンのように飛翔する剣。
立ち尽くし、身動きをとめた俺は⋮﹃俺に命中する﹄3本のみを
斬りおとした。
﹁もういい! わかった﹂
残り四本の攻撃が開始されようとする間際に静止をかけた。
空間に停止していた4本のレイピア。真琴の合図と共に煙のよう
387
に消えた。
こいつがEの理由がわかった。
ACE︵一本︶は最高精度で俺を狙えた。
次に7本、おおよその方角に向けて撃ち込んだ。
多分、こいつは2・3本の制御しか出来ない。
けど⋮それは問題ではない。
持ち前のスキルを使いこなせば勝機は生まれる。
こいつは2手目に7を選択した。それが駄目だ。
﹁お前がEの理由が判った。もういい。十分だ﹂
ナイフを腰に差しなおし戦闘態勢を解除した。
空間に剣を具現化するスキル。近接には厄介な敵かも知れん。
一本ならどんな精度でも対峙できる。
二本が一本と同程度の精度で動かせるなら厄介だ。
自身の防御や間合いを無視して攻撃できるから。
俺がキョウさんに言われた1mに満たない間合い、振れる角度、
斬る角度を無視できる。
だが、動きが大味だと意味はない。
そんなものが10本に増えようと脅威に感じない。
こいつの弱点がズバリ﹃精度﹄が無い事だ。
﹁お前、またエースを出せるか?﹂
落ち込んでいる真琴とベンチに腰掛けた。
見るからに凹んでいて可哀想になった俺は、弱点を指摘するでも
なくエースを出させる。
388
真琴は、小声で﹃Ace
を具現化する。
of
Sword﹄と詠唱し一本の剣
空間に浮かぶ剣は、主の意思を待っている。
﹁まず、こいつ。何処まで器用に動かせる? そいつで地面に文字
を書いてみて?﹂
砂に文字を書くように。
真琴は、重い剣をゆっくりと動かし、﹃あ﹄と地面に書いた。
ふむ、大体10秒位かかっているな。
剣を刺す動きには精度はあるが、それほど器用に動く物じゃない
と言う事か。
⋮目標値を高く設定しても、生徒はついてこれない。
どうするべきか。
﹁とりあえずエースであいうえお⋮五十音すべてを3分以内に書け
るように﹂
それが出来たら次の段階へ進もう。
﹁それが出来るまで、狩りは禁止。この訓練に集中してくれ﹂
安全地帯とは言え、目立つ事はして欲しくない。
訓練に集中して欲しい意味もあるから⋮。
真琴は、しぶしぶながら頷いた。
﹁出来たら、また会おう﹂
俺のその一言を聞き、真琴の顔が明るくなる。
389
﹁見捨てられるかと⋮思った﹂
そう言うなり、泣き出す真琴。
子供の様な癇癪の涙ではない、大人の涙。
こいつ見た目ほど子供じゃない⋮そんな気がした。
﹁見捨てたりはしない。強くなって俺が逆に真琴に見捨てられるか
も知れないけどな﹂
俺が思う剣の動き。それが出来れば一本でも強くなる。
7本その動きが出来れば苦戦するのは目に見えている。
この子は強くなれる。そんな可能性を持っている。
﹁ほんと? 真琴がんばるね﹂
そう言って笑う真琴の顔は、本当に輝いて見える。
﹁出来たらまたメールで連絡してくれ﹂
﹁はい! 先生﹂
にっこり顔の真琴。生徒ってこんなに可愛いんだな。先生って職
は良いかも知れない。
390
﹃カオル先生3﹄
﹁俺たちの杞憂みたいでした。学校、住所、狩場ともシロでした﹂
部屋で待機してくれていた美咲さんに、報告ついでにマンション
に寄ってみた。
一応の情報はメールで報告をしていたのだが、やはり口頭の方が
安心してもらえるだろう。
美咲さんも俺の報告を聞きホッとし、胸を撫で下ろしている。
﹁課題を出しておきましたから、当分はおとなしくしているだろう
と思います﹂
あいうえお課題、一文字4秒以内で書かないといけない。
これは結構難しい。
両手に剣を持った状態でも、クリアするのは容易くない。
けれど剣の動きは、直線と円、虚と実の動きが必要だ。
そういう意味で平仮名を選択したのは、結構的を射ていると思え
る。
多分⋮課題をクリアした﹁一本の剣﹂は手ごわくなるだろう。
﹁そうですか∼。そう聞いて安心しました﹂
そう言いつつ、俺にお茶を入れてくれている美咲さん。
ほうじ茶の香りが立ち込める。
﹁あ⋮帰りに和菓子を買って来たんですよ。最近カナタが和菓子に
ハマってまして﹂
391
そう言いつつも、駅前デパートで散々探し回り買った物だったり
する。
ににんしずか
この地区には珍しく、﹁両口屋是清﹂の商品を扱った店だったの
で、﹁二人静﹂を買ってみた。
紅白の和三盆の菓子をキャンディみたいに包んだお菓子。見た目
にも可愛い。
それに、和三盆好きのカナタにぴったりだと思ったからだ。
俺はつくづくカナタに甘いなと思う。
ショーケースの展示を見て﹁ふたりしずか﹂って注文したら、こ
のお菓子の呼び名は﹁ににんしずか﹂が正解ですよって教えられた。
ににんしずか
和の世界は複雑怪奇だ。
﹁二人静ですね。一度食べてみたいと思っていました﹂
そう言って、和紙を敷いた小ぶりな菓子器へ、一つ二つと並べて
彩る。
さすが和の巨匠美咲さん。
茶道部⋮幽霊部員は伊達じゃないな。
早速守り刀を台の上に乗せ、カナタを召喚した。
﹁カナタ∼。お菓子買って来たぞ。お茶も煎れてもらったぞ﹂
そう言うとすぐさま、刀精カナタが飛び出してきた。
飛び出し方が元気一杯だ。⋮栄養補給は必要なかったか?
二回転空を舞い⋮台の上に着地。10点。10点。10点。
ほうじ茶の香りを嗅ぎ、恍惚とした表情を浮かべている。
﹁お前の為に和三盆系の菓子を買ってみたが、練り切りとか最中と
かでもOKなのか?﹂
392
和三盆系と言っても、種類がそう在る訳でもない。
買うネタに困らないうちにリサーチしとかないと。
﹁甘味なら、嫌いなものは無いぞよ﹂
体全体で、キャンディ状の和紙の包みを解くカナタ。
小口大の大きさを手に取り、ほっぺたを膨らませながら、ポリポ
リと食べている。
喜んでいただけて、飼い主として嬉しいよ。
存分に栄養補給しておくれ。
美咲さんも、和菓子を一口。
口の中で転がしながら、ほっぺたを押さえている。
まさに﹁ほっぺが落ちる﹂な表情で、買ってきた甲斐があるって
もんだ。
お茶を一口。
口を湿らせて美咲さんが話しかけてきた。
﹁藤森?⋮真琴さん。どんな方でしたか?﹂
真琴⋮うーん。
元気印? ちびっ子?
﹁なんか明るくて、元気一杯な感じでしたね。 ランク上げの理由
も、狩り対象の選択肢を広げたいみたいな感じでした﹂
今日一日の真琴の感想を伝える。
俺、あの頃はあんなに元気だったかな?と思える程だった。
美咲さん、釈然としない表情をしている。
393
﹁そうでしたか⋮⋮やっぱり私の思い違いかも知れませんね﹂
そう言って、苦笑する。
そうだな。今日一日思い違いで走り回ったな。
しかし、それほど悪い一日でもなかった。
真琴というかわいい生徒に出会えた事だ。
自分が精進して強くなると言う以外に、違う価値を見出せた。
誰にも自慢できない努力ではあるが、人の役に立ったのはこれが
初めてじゃないだろうか。
俺はこれからも、折を見て真琴の手ほどきをしたいと思っている。
﹁課題が出来る毎に、成長の確認と手ほどきをしようと思います。
その時は修行⋮サボる事になると思います。 ⋮すいません﹂
そう言って頭を下げる。
行きがかりとは言え、約束は反故にしたくない。
けれど⋮それは言い訳に過ぎないのかも知れない。
﹁いえ、お約束もありますから。それに教えられる側と教える側、
両方の側面を知れば⋮カオるんにもプラスになるのじゃないでしょ
うか?﹂
美咲さんは、そう言って快諾してくれた。
そうか両方の側面か⋮、教えられるばかりじゃ教える人の気持ち
が判りにくい。
何を教えたいのか? 考える事も重要なのかも知れないな。
今までは、がむしゃらにみんなの動きに着いて行こうとしていた
だけだ。
生徒の気持ちでしか、考えれてなかったかも知れないな。
394
﹁そうですね。定期的に見てやらないと、﹃約束破った!﹄ってこ
っちに乗り込んでくるかも知れないし⋮﹂
俺の困った顔を見て、美咲さんが笑う。
﹁それは困りますね∼。それに課題に手間取っていても見に行って
やる位じゃないと、いい先生になれませんよ?﹂
そうだよな、宿題だけ多い先生は最悪だ。
アフターフォローも必要かも知れないな。
﹃がんばれよ!﹄位メール入れて置いてやるか。
PDAを開き、ログインしてメーラーを起動する。
﹁あ⋮ 手間取るってのは無いかも﹂
俺は受信されたメールのsubjectを見てつぶやいた。
﹃subject:やったね♪ 5分切れました。もう少し!﹄
努力する生徒は⋮可愛い。
胸が締め付けられるような気持ちになる。
別れてから数時間、ずっとがんばっていたのだろうか。
課題クリアもそう時間のかからないだろうと確信した。
﹁まぁ カオるんの修行する暇無いかもしれませんね﹂
俺の見せたメールの題名を見て、目を丸くして美咲さんが笑う。
だよな⋮。生徒の能力を甘く見すぎたかも。
395
﹁明日は日曜だし一日頑張れば、クリアしてしまうかも知れません
ね⋮﹂
来週が大変だ。
そう考えていた俺は、頑張れよ!って返したメールを後悔する事
になる。
午前2時のタイムスタンプのメール。
﹃subject: クリア! 動画見てね!﹄
翌日メールを確認した俺は、3分少々の動画を見る。
霊力を極限まで使い切り、ふらふらになりながら課題をクリアす
る真琴の姿を。
公園の街灯の光で、課題の文字はよく見えなかったが、そんな事
は問題じゃない。
目の前が真っ暗になり、何も考えれず家を出て電車に飛び乗った。
真琴の家の最寄の駅へ。
到着前にメールは入れたが、返答が無い。
仕方ないので、あらかじめ聞いておいた番号に電話を入れた。
コール⋮5回ほどで真琴がでた。
﹁カオル先生? おはようございます⋮﹂
眠たげな真琴の声。
そりゃそうだろ⋮あんなに根を詰めりゃ。
396
俺の不注意にも腹が立つ。だが真琴の無茶にも腹が立つ。
一言言ってやら無いと俺の今日は始まらない⋮それほどのショッ
クだった。
﹁カオル先生だ。今お前のマンション前に居る﹂
出来るだけ冷静に会話する。ちょっと油断すると怒鳴りそうだ。
﹁え? えええ∼﹂
素っ頓狂な声とベットから跳ね起きる音、カーテンをシャッと開
ける音が、電話越しとリアルと両方から聞こえた。
目の前のワンルームマンション。
その2階の窓から覗かせる寝巻き姿の真琴。
ピンクのイチゴ柄のパジャマだ⋮。
ご対面⋮
﹁⋮⋮先生? なんか怒ってます?﹂
俺の顔を見て真琴が小声で話す。
ええ、怒ってますよ。
﹁いや﹂
出来るだけ冷静に話す。
口数が少ないのは、語尾で怒り出しそうだから。
397
﹁嘘! 怒ってる⋮ 怖い顔してるもん﹂
カーテンの後ろに隠れるように、目だけ覗かせる真琴。
ばれたか⋮ いや、まだ騙せる。
﹁先生 怒ってないですよ ほらほら﹂
声は、若干角を取る。これで大丈夫。
﹁嫌! 声が笑ってるのに顔が怒ってる。 昔の竹中○人の﹁笑い
ながら怒る人﹂みたいで怖いよ!﹂
⋮⋮どんな例えだ。
判ってしまう俺も俺だが⋮しかしアレは笑い顔で怒る芸だ。
けど言いたい事はよく判る。なかなか的を射ていて面白いぞ。
﹁怒ってないから出ておいで∼﹂
竹中某で少し笑ってしまい、さらに角が取れてきた。
これならどうだ?
﹁ほんと? 怒ってない?﹂
来た。いや掛かった!
お子ちゃまは騙されやすい。
﹁嫌! いま悪そうな顔した∼ うわーん∼ 先生怖いよ∼﹂
電話とリアル両方で響く子供泣き。
早朝に響く大声。
398
﹁こら!泣くな 近所迷惑だ﹂
﹁うわーん﹂
やばい。マジで近所迷惑だ。
﹁絶対に怒らないから⋮泣くのをやめてくれ﹂
﹁⋮ほんとう?﹂
またカーテンから目だけ出して覗き込む。
﹁⋮⋮⋮﹂
無茶苦茶見られてるよ⋮
真琴だけじゃなくて、ご近所様から。
﹁人の目が気になりだした。もうココには居れない⋮﹂
羞恥に耐えかねて逃げ出したくなる。
と言うか、ちょっと⋮⋮もう⋮⋮逃げてる。
﹁せんせい⋮部屋に来て﹂
真琴の意外な提案。ちょっとドキッとした。
だが行ってしまう俺は、ひょっとして心の弱い男なのだろうか?
399
﹃カオル先生3﹄︵後書き︶
竹中○人﹁笑いながら怒る人﹂youtubeに上がっています。
面白いです∼。
TVは﹁素敵な宇宙船地球号﹂しか見ない私は、替わりにDVDと
動画をよく見ます。
古いネタも大抵その辺りで発掘して来てます。
いい時代になったものだと思います。
400
﹃カオル先生4﹄
部屋に招かれた俺は、今キッチンで朝飯を作っている。
卵を4個茹で、キュウリを輪切りにして塩揉みをしていた。
つい先ほど、真琴の部屋に上がったのは良いが、手持ち無沙汰で
座るしかなかった。
ピンクで統一された女の子らしいワンルームの部屋。
ベッドと籐のタンスが置かれているが、それほど狭く感じない部
屋。
ピンクのカーテン、ベッドのシーツ、布団もピンク。アジアンの
ラグマットの上に小さいテーブルがある。
真琴は俺をもてなそうと、ばたばたと動き回る。
﹃お茶を煎れますね﹂とか﹃朝ご飯まだですよね? 作りますね!﹄
とか慌しい。
まだ昨日の疲れで取れていないのに、うろちょろ甲斐甲斐しく何
かをしてくれようとする。
﹁真琴! お前まだ寝てろ!﹂
完全復調していない真琴を気遣い、横になるように勧める。
しかし真琴は俺の口調で縮こまり、泣きそうな顔をする。
﹁先生⋮ 怒らないって言ったじゃない⋮﹂
悲しそうに、非難の目を俺に向けてくる真琴。
いや、怒ってないぞ? だから泣くな⋮。
401
﹁口調はキツかったかも知れんが、怒ってないぞ? 真琴を心配し
ているんだ﹂
怒らないって約束したからには、怒らない。
言いたい事は山ほどあるが、それも真琴を心配しての事だ。
俺のその言葉と表情を見て、渋々ベッドに入る。
布団を鼻の位置まで被り、それでもこちらを窺うように見ている。
﹁先生、手持ち無沙汰。 暇じゃない?﹂
真琴が横目で俺を見てつぶやく。
﹁ああ、怒らないって約束したからな⋮目的の8割が達成できずに
潰えた⋮することが無い⋮﹂
俺の台詞を聞いて⋮布団を頭まで被る真琴。
一応の自覚はあるんだ。
なんで怒られるのか、なんで俺が怒っているのか。
それさえ分かっていれば良い。
﹁⋮暇だから、朝飯でも作る。座っていても始まらん キッチン使
うぞ﹂
そう言うなり、キッチンに向かう。
明確な拒絶が無いという事は、OKという事だろう。
具材を探るために、冷蔵庫を開ける。
卵、豆腐、トマト、ハム、レタス⋮なんとなく主役に欠けるメン
バーが居た。
もっと致命的だったのは、米が無いという事。
402
﹁お前!米食ってないのか?﹂
驚愕の事実に思わず声が出る。
キッチン付近にありがちな、炊飯ジャーが無い。
こいつ日本人か?
遠くのほうで、﹃私パン食だから﹄ なんて返事が返ってきた。
そういう台詞は、朝飯のみパン食って意味で使うもんだろ? ⋮
なあ?
替わりに、食パンとフランスパンが買い置きしてあった。
マジか?
米を食わない人が増えてるって聞いた事があるけど、冗談だと思
ってた。
英国育ちの宮之阪さんでも米食うぞ。
粒コショウと一緒に炊いたご飯だったが⋮ アレは旨かった。
我が三室家の家訓、食いたいものは自分で作れだ。
うちの母は料理を作るのが苦手、仕方ないので食いたいものは自
分で作っていた。
自然と家の各人に得意料理が出来るほど作りこんできた。
葵は洋、中華が得意。俺は和物。親父もカレーや肉じゃがなど大
物を作る。
仕方ない、パン系で攻めるか。
レタスを一枚二枚と手でむしる。
両面を優しく流水で洗い、小さく手で切り分ける。
6等分したトマトと豆腐を飾り立て即席サラダの出来上がり。
粗引きコショウと酢、オリーブオイルを攪拌して少量の塩で味を
調整。即席ドレッシングだ。
そうこうしている内に、ゆで卵が出来上がった。
殻をむき、輪切りにして二枚三枚をサラダに盛り付ける。
403
余ったゆで卵を潰し、ハムと塩揉みした輪切りのキュウリと手作
りマヨネーズで和え、コショウで味を調える。卵サンドの中身だな。
旨いぞ∼。
フランスパンを、濡れた手の指で水を弾くように濡らす。霧吹き
があると良いんだけどな。
2センチくらいに切り、ラップに包んで水気を与えてレンジでチ
ン!。これでフランスパンは柔らかく食べやすくなるんだ。
テーブルに、豆腐サラダ、卵サンド、コーヒー、驚きの真琴の顔
があった。
﹁先生すごい∼。あっという間に作っちゃったね﹂
驚きの真琴に、フランスパンの卵サンドを手渡す。
輪切りのフランスパンに卵サンドの具を乗せ盛り付けた物だ。
一口かじり幸せそうな顔で食い始めた。
﹁ああ、なんだかんだとキッチンに物が揃っていたからな。⋮ちゃ
んと自炊してるんだな。感心したよ﹂
冷蔵庫の中も、キッチンの道具も使いやすく並べ整頓されていた。
普通は、知らないキッチンだと料理が手間取るものなのだが、欲
しい場所に欲しいものがある。
それは、使い込んでいるって事だ。
﹁卵パンおいしい∼。フランスパンがこんなに柔らかくなるなんて
∼﹂
昔の人は湯を沸かして、蒸気をあてたらしい。
今は水気を与えて電子レンジでチン!で出来るからな。便利なも
404
のだ。
俺は、フォークでサラダを小皿に取り分け、真琴に渡す。
﹁朝ごはんちゃんと食べて、元気になれ﹂
つぶやく俺の顔を見て、表情を強張らせる真琴。
責められていると思っているのか?
しかたない奴だ。
﹁元気にならんと、出かけられないだろ? 試験対策しないのか?﹂
そう言って、照れ隠しでコーヒーを飲む。
真琴の沈んだ表情は一変し、表情が明るくなる。
俺は、真琴の顔を見ながら、パンをかじる。
そういや、カナタに栄養補給しとくか。
最近カナタを擬人化しすぎてて、俺がご飯食ってるのに栄養補給
をしない事に気が引けるようになってきていた。
ポケットの中の金属の箱。
元々の用途は携帯用の薬入れなのだと思うが、サイズがぴったり
なので購入した。
缶をテーブルに置いたあたりで、真琴が気づく。
﹁先生?それなーに?﹂
興味深く缶に注視する真琴。
﹁ん。 ペットのえさの時間だからな﹂
そう言いつつ、缶を開けると金平糖や二人静など小ぶりな和菓子
が収められている。
405
﹁カナタ。 栄養補給の時間だ。 飯!飯だぞ!﹂
そう言いつつ、腰に刺した守り刀をテーブルに置く。
まもなくして刀精のカナタが顕現した。
昨日より元気に飛び回り、缶の金平糖を一つ手に取り頬張る。
﹁な⋮⋮﹂
刀精を見つめる真琴が、硬直している。
説明もなく出したのは不味かったか。
﹁かわいい!﹂
テーブルに身を乗り出すように、カナタを見つめる真琴。
ふぅ。
ちなみにカナタは、通常の人には見えない。
ある程度、見えない物が見えないと駄目なようだ。
流石に真琴は、Eながら退魔士を名乗るだけあるな。
かなた
﹁守り刀に憑いている神だよ。俺のファイナルウェポンで名前は﹃
彼方﹄だ﹂
最近魔物を吸収する機会がなく、物質の栄養補給と俺からの補給
で何とか生きてる。
補給が出来なくなると、冬眠したように眠りにつくらしい。
﹁鉄は魔を払う力があるんです。結実と枯死の端境。季節は秋のイ
メージ。陰陽五行だと木気の﹃生﹄に相反する﹃殺﹄ですね﹂
406
退魔士の世界観は、西洋の四属性︵火・水・土・風︶+精神のペ
ンタグラム。
真琴が言っているのは、東洋の陰陽五行。
鉄が魔を払うというのは世界共通の事柄なのだが、どうにも東洋
の思想が馴染めずにいた。
俺には、カナタに夜、闇、死、のイメージが持てないから。
確かに、死をつかさどる剣の精で、闇を吸収する、夜の住人たち
の敵対者だから陰の住人なのかも知れないけど。
お菓子を頬張るカナタの顔は、陽の気に満ち溢れている。
﹁対極図って知ってる? 白と黒の勾玉の重なりで陰陽を表してい
る⋮﹂
相槌を打たない俺に、真琴が話しかける。
﹁陽の中に小さい丸で陰があり、陰の中にも小さい丸の陽がある。
きっとカナタは﹃陰中の陽﹄なのかな﹂
俺の心の疑問を口にする真琴。
俺の中のしこりが、真琴の言葉で氷解していく⋮。
そうか⋮陰中の陽か⋮ピッタリだ。
ははは⋮
俺は、いつしか表情で笑い、笑いを口にし、そして大声で笑って
いた。
朝ごはんを食べて、ひとごこち付いた。
真琴の表情にも翳りが消え、元気を取り戻しつつあった。
407
午前中は、体力を使う事を避けて午後に成果を見てやろうと思う。
午前中のスケジュールでも考えるか。
PDAで、この地区を検索する。
﹁昨日の疲れもあるだろうから、午前は見学のみ。午後から特訓の
成果を拝見するよ﹂
検索した結果をメモに保存。
9:00∼11:00か⋮今動き出せばちょうどいい時間かもし
れないな。
﹁見学? 何を見学するの?﹂
疑問に思う真琴を尻目に、空いた皿を流しに運ぶ。
﹁内緒だ。 皿を洗っておくから、その間に外出着に着替えてくれ
ないか?﹂
そう言って、部屋とキッチンへの扉を閉じる。
着替える時間を考慮して、時間をかけて皿を洗う事にしますか。
﹁⋮﹂
﹁先生♪ 着替えたから出てきていいよ∼﹂
5分くらいで着替えるだろうと高をくくっていた俺は、痛い目に
あっていた。
約20分ほど、キッチンに缶詰状態。
なんで女の子は着替えるのが遅いのだろうか。
満を持して、部屋に戻ると着飾った真琴がいた。
408
トップがショートのパーカで下にキャミソール。ボトムは足元が
ロールアップされたデニムのショートパンツに黒のニーソックス。
胸のアクセサリーはトンボ玉の長いネックレスに、同じくトンボ
玉の腕輪。スカイブルーの小さいトートバックを手に持っている。
寝癖だった頭も綺麗に整えられ、うっすらと化粧まで施され⋮頭
の先から足の先まで﹃女の子﹄していた。
﹁お前、修行しに行くんじゃないのか? 脱力しそうだよ﹂
実際脱力して、床に突っ伏していた。
なんかデートと勘違いしてないか? お買い物にも遊園地にも、
おしゃれなカフェにも行かないぞ?
﹁先生の横を胸を張って歩きたいから⋮ 気合入れました!﹂
ニッコリ笑い、Vサインを送る真琴。
屈託の無い笑顔を見てると、仕方ないな⋮という気になる。
しかし、ベッドの上に散乱する服の数々を見てため息が出る。
﹁よし!行くぞ﹂
﹁あいな、先生!﹂
俺の腕にぶら下がる真琴。やっぱり何か勘違いしている様に思う。
409
﹁有段者同士の試合が見たい⋮と?﹂
俺たちがまず足を運んだのは、あらかじめ検索かけておいた町の
剣道場。
見学歓迎だったので、頼み込んでみた。
受付の人に事情を話し⋮と言っても﹃退魔士の勉強の為﹄とは言
えなかったが、目を肥やしたいとお願いしたのだ。
受付の人が中に入りしばらく待たされた。
その後に男性の方が登場し、同じ説明を繰り返す。
しばらく男の人は思案にくれ考え込んでしまった。
しかし思案中も俺の目を見て離さない、俺の本心が浮ついた遊び
感覚で言っているかどうかを探っているようだ。
﹁良いでしょう、中に入りなさい﹂
そう言って俺たちを道場に招いてくれた。
﹁真琴。感謝して見学しろよ﹂
隣で緊張している真琴と共に、靴を脱ぎ道場に上がらせてもらう。
板間の端に間借りして正座し待った。
横にちょこんと俺を真似て座る真琴。
﹁真琴⋮剣の動き。人を動かせる虚の動き、攻撃に転じる速さ、防
御の動きに注意しろ﹂
言葉では伝えられない事。
自分に何が出来て、何が出来ていないか、どうすれば強くなれる
か。
410
それは、言って判らせる事じゃないと思っている。
本人の感性だ。
動きを見て、何も掴めなければ真琴はそれまで。退魔士として向
いてないのだと思う。
まもなくして二名の女性が出てきた。
向かい合い正座の上、面、胴、小手を着用する。
てっきり男性の方が出てくるものと思っていた俺は、有段者の、
しかも女性と言う事で驚く。
しかも俺と見た目がそう歳の変わらない事も驚きだが、一番驚い
たのは双子だと言う事。
隣に先ほどの男性が座り、解説をしてくれるようだ。
﹁うちの娘らですよ。 有段者はそれぞれ在籍しているのだが、実
力が均衡しいる者が居なくてね﹂
そう言って蹲踞をする双子に対し、気迫のこもった掛け声を掛け
る。
﹁始め!﹂
すっと立ち上がった二人の剣士は、正眼に構える。
両者相手の喉元を剣先で牽制し、少し狙いを外してみては相手の
様子を窺っている。
剣先が波のように揺れる。
両者の剣の動きを見ると、左の剣士が動、右の剣士が静の動きを
しているように思える。
﹁双子とは言え、性格は真逆のようですね﹂
411
左の剣士が誘えば、右の剣士は流す。
左が烈の気迫を放てば、右は気勢を削ぐように下がり前に戻る。
俺の好みで言うと右の方が好きだな。⋮あくまでも戦い方だぞ?
﹁真琴。剣先の動きは平仮名でなんて書いている?﹂
試合から目を離さず真琴にヒントをやる。
真琴もそれに気が付いてように、即答で答を口にする。
﹁﹃へ﹄の動きで、下にさげた時誘い、上に牽制。﹃て﹄の動きで
狙いを外し相手を誘っている﹂
﹃けど﹄と一言口にして、俺が気づいた事を真琴は口にする。
﹁反対の側の人⋮﹃の﹄の動きだけで、いなしてます﹂
ふむ、合格。こいつは本当に優秀だ。
隣の男性の方も感心したように頷く。
﹁最初は、冷やかしに来たのかと思ったけど、こちらの思い違いだ
ったようだ﹂
そう言って、自分のあご髭を撫ぜる。
冷やかしで道場見学なんて出来るか!とツッコミ入れたい所だが
試合が動いた。
烈の剣士が先に動き、隙のある小手に切り込んだ。
静の剣士は突き出した小手を胸の位置に戻し、返す動作で突きを
見舞う。
小手を外された剣士は、相手の意図を読んでいたかのように、振
り下ろした剣を切り返す。
412
喉への突きの軸線ずらし、下から切り上げた剣で自分に遠い小手
を切り上げる。
﹁し﹂
淡々と平仮名で動きを伝える真琴。
俺の言いたことは、何も無い。
優秀な生徒に言葉は要らない⋮。
﹁活発な妹で、一歩引き気味の姉なんだよ。双方良い所があって優
劣つけにくい。が⋮事、剣においては妹の方が強い﹂
複雑な表情で娘を眺める父親。
本当の技量は、姉の方が上だと思う。
そう判っていながらも口にする言葉は相反する答え。
後手に回り防戦一方。
妹が時折見せる、﹁打て﹂と言わんばかりの隙に対しても、攻め
きれない優しすぎる性格の持ち主なのだろう。
結局三本とも妹に軍配が上がる結果となった。
﹁真琴、勉強になったか?﹂
横に鎮座し、片時も目を放さなかった真琴に声を掛ける。
目を閉じて、さっきの試合の剣の動きをシミュレートしているよ
うに、ブツブツとつぶやいている。
﹁先生の意図、なんとなく判りました﹂
目を開けて、こちらを見る真琴。
そうでないと、ココまで来た甲斐が無いってもんだ。
413
﹁本日は、良い剣を見せていただき有難うございました﹂
父親にそう言ってこの場を離れようとした俺たちに、烈の剣士が
物言いをつける。
しかも烈火の如く怒ってらっしゃる様子。
﹁あなた。私の剣を﹁屁﹂って言っていましたね。そこまで言うな
ら貴方の腕も大層なものでしょう?私と立会いなさい!﹂
いや、﹃へ﹄と言ったのは俺じゃありませんよ?。隣のお子ちゃ
まですよ?
そんな言い訳が通用しない事は重々承知だけど。
なんだか退っ引きならない状況に追い込まれたような気がする。
しあ
隣の父親が苦笑して笑ってるし、何とか言えよ。パパ。
﹁目も肥えた人みたいだし、試合ってみては如何かな?﹂
苦笑交じりの父親から発せられた言葉は、とんでもない爆弾発言
だった。
414
﹃カオル先生4﹄︵後書き︶
粒コショウにご飯。これ最強です。
乾燥品のグリーンペッパー︵粉引きしてない粒のもの︶をお米と一
緒に炊飯!
辛くないし、風味だけご飯に移って最高です。
病み付きになりますよ。
少量のお米なら数粒でOK、10個入れると最強。
オカズが濃厚でお米が負けているときとか、お試しアレ。
昆布と一緒にご飯を炊いたり、土鍋にチャレンジしたり。
私はお米の国の人で良かったと思います。
415
﹃カオル先生5﹄
﹁いや、俺はあくまで見学に来た﹃素人﹄ですから⋮﹂
頭に血の登った烈の剣士をなだめすかすべく、言い訳を連発する。
というか正直あせっている。
剣士パパも、﹃見学じゃなく体験したら、剣をもっと理解できる
よ﹄とか焚きつけてくる有様だし。
後ろの方で静の剣士が右へ左へとオロオロしていて、烈の剣士を
止めれずに居る。
﹁綾音さん⋮ そちらの方も困ってらっしゃいます⋮ お止めにな
ったほうが⋮﹂
言葉尻が弱い姉の声。
しあ
やっぱ押しが弱いというか、お前姉だろ⋮ もちょっとビシッと
言ってやれ。
﹁静音姉さんは黙ってて!﹂
逆に妹にビシッと言われてしまっている。
﹁そうか⋮なんかこの人 ﹃面白そう﹄ な人だから、試合って見
ても面白いかなと思ったんだが、困っているなら止めたほうがいい
かな﹂
髭の父が笑いながら毒を抜く。⋮残念そうに言うなよ。
しかし⋮⋮面白そうって、お前は愉快犯か!
416
﹁⋮っ﹂
親の仲裁で、烈の女の子⋮綾音は怒りを飲み込む。
ほっ⋮事は治まりそうだ⋮。
烈の剣士は、肩を震わせてこちらに背を向けた。
﹁なによ!朝から試合わせられたと思ったら、軟弱者とちんちくり
んのガキの為に試合だなんて!やってらんない!﹂
綾音はそう言い放って、座って見ていた真琴を睨みつける。
カッチーン⋮⋮
いま何て言った?
俺の中で何かが、キレた。
﹁なに? 本当の事言われて頭にきた? 見たまま、ちんちくりん
のガキじゃない!﹂
もう、次に綾音は言っている言葉は聞こえてこない。
憎々しげに俺に言い放つ表情だけが、俺の目に写っている。
今日一番の怒りが込み上げて来る。朝に真琴の覚えた怒りを遥か
に超える怒り。
手が振るえ、言いたい事が喉から出てこない。
俺は、無言で立ち上がり腰の剣を二本抜き、真琴に手渡す。
俺の事を悪く言うのは問題ない、甘んじて受けよう。
しかし真琴を悪く言うのは耐え難い⋮許せない。
﹁ぶ⋮っ飛ばして来る⋮﹂
417
怒りの為に声にならない声で、真琴に囁く。
なた
真琴のオロオロする表情など、もう目に入っていない。
真琴に手渡された鉈のようなナイフ、守り刀を見て烈の剣士がギ
ョッとする。
しかし、もう手遅れだ。
一発入れないと収まらない。
リュックの中から取り出した、乃江さんから贈られた指抜きのグ
ローブ。
﹃ナイフ使いの弱点は手の腱だ⋮ 私のサイズ違いのグローブだが、
付けていれば防げる場合もあるだろう﹄
そう言って手渡されたものだ。
カンガルー皮の柔らかい表面で内地に耐刃繊維を編みこんだもの。
拳のガードに薄い特殊繊維とチタンプレートが4重構造に敷き詰
められ、手の骨折を防ぐ拳闘用のグローブだ。
﹁俺は徒手で良い、試合おう﹂
俺にはナイフ以外は、乃江さんから伝授してもらった体術しかな
い。
乃江さんの拳闘がどれほど俺に浸透しているかわからない⋮けれ
ど、徒手でやるのが一番俺の気持ちを伝えやすい。
﹁そちらは、木刀でも真剣でも何でも良い。ルールはよく判らん。
そんきょ
一発入れた方の勝ちでいいな﹂
そう良い試合の開始線⋮蹲踞をして試合を始めた場所で待つ。
418
﹁防具も何もしてない奴と試合なんて出来るはずないでしょ! 馬
鹿じゃないの?﹂
烈の剣士⋮綾音は、言葉で俺をなじり⋮ヒステリックに叫ぶ。
﹁当たらない剣に防具は必要ないだろう?﹂
俺は、相手の退路を断った。
ついでに俺の退路も断った。
そう言いつつ、心に余裕がある訳ではない。
内心は冷静さを取り戻そうと必死だった。
俺の長所は、冷静な判断力、真実を見定める目だから⋮冷静さを
欠いては戦えない。
前にカナタに忠告された言葉がリフレインする。
すぅ。はぁぁぁ⋮
短く息を吸い、長く吐く。
自律神経を、陽から陰へ長息短息でコントロールする。
ふと、冷静さを取り戻した俺の前に、すでに冷静さを失った綾音。
面を外したまま竹刀を構える。
俺は左手を胸の位置⋮肩の横に、右手を腰の前、へその横に構え
る。
乃江さんに伝授してもらった、防御の型で。
﹁親父。娘の命日は今日という事で良いんだな?﹂
それでも審判の位置に立つ親父に、牽制をくれてやる。
﹁命日は困るな。死なない程度でお灸を据えてやっておくれ﹂
419
髭を触り苦笑する親父。
この親父⋮食えない奴だな。
殺すなと言うと同時に、﹃教えてやれ﹄と指示してきやがった。
買いかぶりすぎなんだよ。
﹁始め!﹂
最初の時と変わらずのトーンで、親父が掛け声をかける。
掛け声と共に、綾音が上段から振り下ろしてくる! 先制の面。
俺を真っ二つにするが如くの勢いで振り下ろされる。
足運びで右に少し体を移動、肩に構えていた左手で、振り下ろす
剣に裏拳一発、衝撃を入れる。
軸をずらされた剣は、俺の左肩を掠め振り下ろされる。
﹁ちっ!﹂
振り下ろされ死に体になった綾音は、二歩下がり再び正眼に構え
る。
二歩か⋮⋮、やっぱり剣の弱点は間合い。
教え込まれた術者であればあるほど、切っ先で有効打を打とうと
する。
根元でも、鍔でも、柄でも、体当たりでも⋮有効打でなくていい
から、とにかく当てに来る小汚い剣の方がよっぽど厄介だ。
一撃めの対峙で相手の力量がわかったのか、正眼で牽制に終始す
る綾音。
剣に誘いがなく、とにかく喉を狙い続ける。
俺は、喉下に突きつけられた剣先に、踏み込んで最速のショート
パンチを撃つ。
420
竹刀の剣に真剣のような怖さがあると思うのか?
セオリーに支配されている綾音に教えるように撃ち込む。
竹刀であれ、喉に突きを貰ったらただじゃ済まないだろう、けれ
ど本来真剣での正眼は生易しい牽制では無かった筈。
この試合は、真琴の誇り、綾音の誇りを掛けた戦いなのだと。
そしてこの戦いでは﹁剣﹂と﹁長考﹂は使わない⋮それは俺の意
地だ。
再び間合いに入り、剣を振りかぶる綾音。
まだ﹃間合い﹄が判っていない。
剣士と剣士が戦うから、最適な間合いになるという事を。
俺は一歩深く踏み込み、振りかぶった綾音の上段を左手で受け止
める。
鍔付近で受ける衝撃は、切っ先とは雲泥の差。たやすく受け止め
れる。
乃江さん特製のグローブが衝撃を吸収してくれている事も大きい
だろう。
間近で見る綾音の顔、驚愕の表情、釣り上がった眉と気迫のこも
った顔。
そんな顔をしていなければ、美人に分類される顔立ちだろうに⋮
勿体無い。
俺は、防具をつけた胴に手を当て、踏み込みの速さ、地を蹴る動
き、腰の回転を添えた手の先に伝える。
乃江さんに教えてもらった、ゼロ距離の衝撃を綾音に見舞う。
衝撃音は、鈍い音を立てて道場に響き渡った。
上段のままの綾音は、俺が離れると共に支えを失い力なく倒れる。
と震脚をアレンジした技で
しんきゃく
防具越しとは言え、鳩尾に食らった衝撃は防具を超えて内面に浸
透する衝撃。
しばらく動けないだろう。
てんしけい
乃江さん曰く、中国の拳法の纏絲勁
421
れいけい
ゼロ距離から霊力を撃ち込む﹃冷勁﹄だそうだ。 ストロークの長い打撃は表面に強い衝撃を加える。短いストロー
クの打撃は内面に浸透するのだそうだ。
かく言う俺も、乃江さんに食らった時にはもんどりうって転げま
わった。
乃江さんが手加減してくれていても、数日痛みが残ったものだ。
撃つ前に顔を見ちまったんで、当て身くらいの打撃しか入れれな
かったけど⋮
﹁親父。勉強になった。二度とこの道場には来ねぇ!﹂
含み笑いをする親父に背を向け、真琴から剣を受け取る。
﹁ああ、いつ来ても歓迎するよ﹂
人の言うことなんて聞いちゃ居ない。
相変わらず得体の知れない余裕を見せる親父。
介抱される妹と姉に背を向け、こちらを見ている。
﹁娘の心配しなくていいのかよ?﹂
あまりの放任主義に異議を申し立てる。
﹁ああ、いい薬には親は要らないんだよ⋮さぁさ、綾音が起きる前
に帰った帰った﹂
屈託のない笑いで、俺たちを送り出してくれた。
422
俺たちは、道場を後にて、例の公園に来ていた。
真琴が深夜まで頑張った公園には、生々しい傷跡があった。
﹁おいおい、地面が掘り起こされて大変な事になってるぞ﹂
文字で掘りおこされた、地面を踏みしめて苦笑する。
どんだけ練習してるんだよ。
真琴は、素知らぬ顔で空を見て口笛を吹いている。
﹁双子の戦いで、剣の運びが勝敗を分けるってのは分かったか?﹂
ベンチに座り真琴に話しかける。
﹁いくら鋭い突きであれ、穿つ場所が分かっていれば避けれるし、
避けられた後のお前は無防備になる﹂
前回の俺と真琴の対戦を思い出す。
同じく俺の隣に座り、同じものを思い出しているであろう真琴。
﹁突きは、どうしても直線の動きになってしまう。せっかくの剣だ。
斬る、薙ぐ、掃う、突くと習得して欲しかったんだ﹂
目を閉じて、剣の動きを想像する真琴。
﹁ねぇ⋮先生。 聞いていい?﹂
423
ん? なにか判らない事あったか?
﹁さっき、怒ってくれたのは、真琴のため?だよね﹂
目を開けた真琴は、こちらを真剣な眼差しで見つめる。
う? ヤバい。 なんだかヤバい気がする。
惚けたような真琴の顔⋮いや表情。
言い訳が浮かばないぞ⋮どうする俺。
咳払いして誤魔化すとするか。ごほごほっと⋮⋮駄目か?
﹁さっきの⋮先生カッコ良かった∼。 へその辺りがキュンってし
たよ⋮﹂
いや、真琴。胸がキュンにしてくれ⋮。へそキュンはマズい。
心臓がキュン!ならセーフだけど、へその辺りはちょっと。
俺わかんねぇし⋮
﹁うぉっほん!⋮次の課題だが﹂
気を取り直して、にやりと笑う。
俺の表情を見て、真琴の表情が強張る。
そんなに悪そうな顔してたか?
まあいい。
﹁右手で三角 左手で丸の形を同時に書ける様になる事、出来たら
逆もだ﹂
ついでに脳を活性化できる、とんでもない訓練だ。
﹁二本の剣を出して⋮同時にだぞ。これは早解きなしだ。一週間み
424
っちりとやってくれ﹂
地面に棒っきれで書く真琴。
三角を書こうとして左手に釣られて丸になっているぞ。
﹁夜は剣を出さず紙とペンで書く訓練をしろ。昨日のような事は二
度とするな﹂
俺の顔を見て首を竦める真琴。
﹁はーい。わかりました。二度としません∼﹂
本当にわかってるのかね?真琴⋮。
425
﹃カオル先生6﹄
﹁先生∼ この課題難しすぎるよ∼﹂
地面に丸と三角を書き続ける真琴。
三角を書こうとすれば丸を書く手が止まり、丸に精神を集中すれ
ば三角が丸になる。
大抵の人は、三角が丸に釣られて丸くなるんだよな。
ぶっちゃけ、攻略のコツはリズム感。
丸と三角を書くリズム感だけなのだ。
三角を三拍子に﹁いち﹂、﹁に﹂、﹁さん﹂とリズムを取るなら、
丸を三拍子で書けばいい。
次に丸に焦点をあわせて、﹁いち﹂で書くのなら、三角は﹁いち﹂
の呼吸を三分割すればいい。
あとは慣れだな。
戦いにこれを当てはめるなら、円は防御、三角が攻撃。
攻撃のリズムは、防御によってリズムを壊される。防御は攻撃す
る事によって壊されると思っている。
敵の攻撃は、自分の攻撃のリズムの隙に行われるから。
攻撃を受け防御をすれば、攻撃のリズムが敵に同調する。
噛み砕くと、敵は16ビートを刻んで攻撃してくるなら、受けは
16ビートでなければならない。
けれど、反撃まで16ビートに合わせる必要はないということだ。
﹁先生∼ どうしたら良いの∼﹂
泣きの入った真琴が救援を求めてくる。
さて、どうしたものか。
説明が難しいんだよな⋮。
426
﹁真琴! 滝廉太郎の﹃荒城の月﹄って知ってるか? 学校で習う
だろ?﹂
俺も甘いな⋮ヒントを教えてしまっている。
﹁はるこーろーのーはーなーのえーん?﹂
剣を二本右へ左へ大忙しの真琴は、片時も地面から目を離せない
ようで、歌う事で返答してくる。
﹁そうだ、は、る、こ、う、ろ、う、の、一文字分で、三角の辺を
書いて見て⋮﹂
そう言って、真琴がリズムに乗って三角を書けるようになるのを
待つ。
順調に書けるようになったら、とどめの一言。
﹁丸は﹁は、る、こ﹂って三文字で一周書くようにすれば書けるよ﹂
慣れたら、1、2、3で書けるんだけどね⋮。
仕方なく真琴を助けるように歌を歌う。
no
tuki﹂
﹁春高楼の花の宴 ♪ めぐる盃かげさして ♪ 千代の松が枝分
けいでし ♪ むかしの光いまいずこ∼﹂
外タレバンドが、日本公演する時に﹁kojo
って言って歌ってたんだよな。
ビデオで見たことあるな⋮歯でギター弾く奴。割と腕のいいギタ
リスト。
427
⋮好き嫌い分かれるけど。
﹁お∼、先生、それっぽくなってきたよ∼﹂
真琴が半狂乱で喜ぶ。
書けなくてイライラしてたのだから、解消されればスッキリもす
るさ。
﹁でもね、先生。これがなんの役に立つか良く判んないよ∼﹂
がくっ⋮。
まあいいさ。
実戦になれば判る日も来るだろう。
書ける様になれば、テンポアップ、テンポダウン、1:3の動き
も出来るようになる。
そのうち、右手と左を分離して考えれるようになるよ。
ついでにギターも上手くなるかもな⋮。
荒城の月を歌ってから一時間⋮、疲れきった真琴が俺の横に座る。
こいつの集中力は桁外れだな。
しかも霊力を使い切る前に、脳が疲れたみたいだな⋮。
﹁うーん、知恵熱出そうだよ∼﹂
グロッキー気味の真琴⋮漫画みたいに目がぐるぐる回っている様
に見える。
俺はカナタ用の甘味入れ缶から、ブドウ糖をひと欠片取り出し真
琴差し出す。
428
真琴は物珍しそうに、欠片を眺め口に入れる。
﹁うーん、ヒンヤリするね∼ 甘くておいしい﹂
ブドウ糖の結晶は、水を含む時に周りの熱を吸収する性質がある。
口当たりは甘いだけじゃなくて、ヒンヤリ甘いのだ。
ちなみに口の中で転がしていると虫歯になるぞ。雑菌にも栄養に
なるからな。
﹁しかし、真琴の集中力は凄いな。丸々一時間以上丸三角書き続け
るなんて⋮一種の才能だな﹂
黙々と作業をこなせる上、集中力が途切れない。
真琴の言うような⋮ランクを上げたいだけの理由にしては、常軌
を逸しているような気がするよ。
﹁うん⋮﹂
そうだ、この表情。この顔が俺を心配させる素なのだ。
この歳の女の子が出す表情じゃない⋮思いつめたような、張り詰
めたような際どい表情。
駅のホーム、人気の無い屋上でこの表情なら間違いなく﹃自殺﹄
を想像させる⋮そんな表情。
﹁差し支えなければ、聞かせてくれないか? 強くなりたい本当の
理由﹂
思い切って聞いてみよう⋮考えても仕方ない。
そう思い⋮⋮⋮切り出した言葉。
429
﹁⋮⋮⋮﹂
予想通り返答は無い。
﹁悪かったな、言いたくない事もあるのにな。無神経だった﹂
あの真琴が返答出来ないのなら、俺が無神経なのだろう。
多分、差し支えの無い事なら話をしてくれる⋮筈だから。
﹁きっと話をしたら、先生に嫌われちゃうよ﹂
俯いて話し出す⋮聞こえるか聞こえないかギリギリの呟き。
嫌われる? どういう事だ?
﹁俺が真琴を嫌う? そんな事無いと思うが﹂
逆にどう言われたら嫌うのか、それが思い浮かばない。
﹁そうだね、私も本当は、先生に隠し事したくない⋮⋮﹂
意を決したように、話し出す真琴。
すーっと深呼吸する⋮俯いたまま顔を隠しているのも顔を見られ
たくないから。
口調⋮冗談を言うような口調じゃない、真剣そのものの口調だ。
﹁先生に聞いて欲しい﹂
言葉を搾り出すように、ゆっくりと⋮⋮けど辛そうに話す。
430
﹁私のお父さん⋮⋮、お父さんね⋮⋮、優しい人だったの﹂
意を決したように、つぶやく真琴。
﹁でもね⋮⋮、私の知らないお父さんはね⋮⋮、退魔士だったの﹂
﹁いつも傷だらけで、たまに大怪我したりして⋮⋮、でも優しいお
父さんだった﹂
涙が溢れ出す真琴。
それを拭おうともせず、膝の手に力を込める。
﹁真実を知ったのは、お父さんが亡くなってからなの⋮⋮﹂
俺は、言葉が出ない。
ただ、続けて真琴から発せられる言葉を聞くしかなかった。
﹁ある時、お父さんが誰かに殴られる夢を見たの。何度も、何度も、
殴られて⋮⋮﹂
しばしの沈黙。真琴の声が揺れている。
その時の事を思い出しているのだろうか。
﹁私、昔から見えない物が見えたり、変な夢を見たり⋮そういう子
だったから。また変な夢を見たんだと思ってた﹂
痛々しい表情で苦笑する。
見ていてつらくなる⋮。
﹁夢のお父さんね⋮ ﹃やめろ! 真琴 やめてくれ!﹄って言っ
431
てるの﹂
俺の頭の中で警鐘がなった。怖気と次に来る言葉に。
﹁その言葉で気が付いたの⋮⋮私がね。お父さんを殴っていたの。
Sword︵剣の1︶﹄を見てお
﹃やめて!﹄って心で叫んでも止まらなかった﹂
of
真琴は、もしかして⋮⋮。
︱︱俺は馬鹿だ。
真琴のスキル﹃Ace
きながら⋮何故判らなかった?
タロットのカードだ⋮⋮⋮。
﹁ふと気が付くとね。私の手が真っ赤だったの。指がいろんな方向
に曲がって⋮﹂
真琴は膝の上の手を俺に向ける、うつむいたまま⋮手を広げる。
広げられた真琴の手を⋮⋮見つめているしか出来なかった。
見せるように広げてられた小さな手には、無数の生々しい傷跡、
縫い傷が赤黒く残っていた。
話す言葉が夢じゃない真実だと告げるように。
⋮なんで、手を握られたときに気が付かなかった⋮⋮ 一緒にい
て気づいてやれなかった。
俺は、その弱々しい手を握ってやるしか出来ない。
﹁多分、私がお父さんを殺したんだと思う﹂
この子は﹃魂食い﹄に食われた退魔士の娘。﹃幻獣召喚﹄の娘だ。
俺の妹⋮葵と同じく﹃人形繰り﹄で操られて。
432
﹁その時の夢、記憶は今も鮮明に残っているの。私を動かしてお父
さんを殺させた奴が居るって事﹂
強くなりたい理由が判った。
同時に真琴がココに住んでいるは偶然じゃないという事も。
真琴は、少ない情報を頼りに﹃魂食い﹄を追ってきたに違いない。
﹁私は、お父さんの仇を取るために強くなりたい⋮⋮﹂
むせび泣く真琴。もう言葉を搾り出す事すら出来ない。
公園のベンチで泣く少女。翳る太陽が照らし出す小さく儚い影
傍らで立つ長い影は、少女の影を慰めるでもなく、戸惑うでもな
く微動だにしない。
影を見つめる俺は、口を開く。
﹁真琴⋮ 俺は真琴に仇を取る為だけに生きて欲しくない⋮⋮﹂
泣く真琴にかける言葉が見つからない。
素直な俺の気持ちを吐露する事しか出来ない。
﹁⋮そしてまだ真琴では﹃そいつ﹄には勝てない﹂
それは、真琴だけじゃ無い。俺も同じ。
﹁けど⋮話を聞いても、俺は真琴を嫌ったりしなかったぞ?﹂
これだけはハッキリと言える真実だ。
433
再び活動を再開するであろう奴に備え、俺も真琴も強くならない
と。
だけど今は泣く真琴に寄り添って、髪を撫ぜてやる位しか出来な
い。
434
﹃カオル先生6﹄︵後書き︶
Tsuki
−
でyoutube。ですです。
Malmsteen
荒城の月、いろんな外人さんが歌ってます。
No
歯でギターの人はYngwie
o
数日更新が途切れました。
Koj
お茶をノートPCに⋮なんて事故が発生した模様です。><
435
﹃カオル先生7﹄
泣く真琴の傍らで、﹃魂食い﹄に対する俺の情報を整理したい。
少し混乱気味で⋮こうでもしないと、どうしていいのか分からな
い。
まず﹃魂食い﹄は人の能力を食う。食った能力は自分の力として
行使できる。
食うには、食う対象を殺害しないと食えない。
同時に複数の能力を使えない。︵未確定︶
同時に⋮ってのは、俺の見解だと使わないだけだと予想している。
霊力があり能力が未開花の者を食って、霊力の底上げをしている。
底上げと能力を同時に使用しているのだから、⋮ブラフじゃない
かと思っている。
まず最初に奴は﹃人形繰り﹄の能力を殺害し、能力を食った。
次に真琴を利用して操り⋮﹃幻獣召喚﹄の能力者を殺害、能力を
手に入れた。
最後に﹃未開花の霊力保持者﹄を食った。それにより能力が底上
げされたらしい。
美咲さん達の追跡を、鬼ごっこ感覚で遊んでいる⋮。
そして目障りな俺を、俺の妹を操り殺そうとした。
最後に、﹃魂食い﹄の霊体を消滅させたが、本体発見されていな
い。
俺は生きていると思っている。
宮之阪さんも山科さんも同じ見解だ。
真琴の出現で慌てる美咲さんも⋮おそらく乃江さんも。
俺達に予算を割いている政府も、同じ見解だと思っている。
436
このまま、真琴に真相を話さない⋮それも一つの選択肢だろう。
もしくは政府経由で圧力を掛け、真琴を排除する⋮ だが、真琴
はそんな事では揺るがないだろう。
⋮選択肢は多いようで、少ない。
俺は携帯を取り出し、一番目にソートされた名前へ電話を掛ける。
[天野美咲]
﹃魂食い﹄の情報の整理をしていて、頭がスッキリした。
同時に、昨日美咲さんと話をした台詞が浮かび上がってきた。
﹃そうでしたか⋮⋮やっぱり”私の”思い違いかも知れませんね﹄
怪訝そうな美咲さんが話した、真琴に対しての台詞。
最初⋮俺は、俺達が勘違いした事だと錯覚していた。
けれど違った。
美咲さんが、真琴に対して﹃思い違いをしていたのかも知れない﹄
と言う台詞だったのだろう。
美咲さんは俺とは違い、真琴に疑念を抱いていたという事だ。
携帯から発せられるコールは2コール。直後に美咲さんの声が聞
こえてきた。
﹁あ⋮カオルです。昨日シロと言いましたが、クロです。⋮⋮⋮幻
獣召喚の能力です﹂
電話の向こうの美咲さんの声が強張る。
437
﹃⋮やっぱりでしたか。藤森と言う姓がこちらの情報と違っていま
したので、違う事を祈ってましたが﹄
姓が違う⋮事件後に母方に引き取られた⋮か、または紆余曲折、
養女として引き取られたか。
まだ、話をしてもらえていない事情があるのだろう。
﹁判断に迷っていまして⋮ 電話をしました﹂
あえて主語をすっとばした。
無意識で隣にいる真琴に、気を使ったのかもしれない。
何にどういう判断を下すべきか。俺の中では決まっていたのに。
﹃私の考えは、カオるんの判断と同じだと思います⋮けれど判断す
るのは、私達ではなくて真琴さんでしょ?﹄
そうだな。最終的な判断は真琴に任せよう。
﹃全員に集合を掛けますので⋮ちょっと待ってくださいね﹄
電話の先でページをめくる音、そして長い間待たされた。
﹃そちらの駅前にP・Hホテルがありますから、2時間半後に最上
階の中国料理の店で会いましょう﹄
ん?なんで中華。
﹁⋮⋮⋮﹂
438
﹁美咲さん、もしかして今⋮グルメ本見てましたか?﹂
﹃⋮話をするにも話しやすい場所ってあるでしょ?ついでに美味し
い物を食べて気分を盛り上げないと﹄
行動を読まれて、少し動揺の色が隠しきれていない美咲さん。
よく判らない論理を展開してくる。
なんてこった。また野獣の晩餐会か⋮。
﹃今回は、カオるんの”奢り”と言うことで通達しておきますね∼﹄
な⋮なんで、決まりきった事のように、俺がゴチすることに決定
されてるんだ?
P・Hホテルの中国料理って、高いだろ⋮
﹃カオるんの弟子ですもんね。教え子ですもんね∼ 師匠としては
仕方ないですね∼﹄
そういい終わると、急ぐように通話が切れた。
くぅ⋮鬼だ。鬼が出たよ。
そして、2時間後には鬼は4匹になる。
﹁真琴⋮。俺もお前に話をしておかないと行けない事があるんだ﹂
俯いて泣いている真琴には気の毒だが、重大な事を話しておかね
ばならない。
﹁俺は⋮お前の仇⋮﹃魂食い﹄を追っている退魔士達の仲間だ﹂
439
その一言で、真琴の顔つきが変わる。
まるで俺が親の仇の様に⋮だ。
﹁一度、俺の仲間と会って話をして欲しい﹂
そう言うと、真琴の返事など聞く素振りも見せず背中を見せる。
拒絶の言葉は聞かない。会うことが必然の事項なのだ。
真琴にもそれが判ったのか、無言で肯定している。
﹁まあ、そう構えないで欲しい。取って食おうと言う訳じゃない⋮
信じてくれ﹂
俺が今言える精一杯の気持ちだ。
キッカリ二時間後、そびえ立つ高級ホテルに乗り込んだ。
高速エレベーターで最上階へ、レストラン街なんて生易しいもの
じゃない⋮ハイソな空間が広がる。
真琴はすっかり気後れしてしまい、俺の影に隠れるように付き従
う。
﹁せ⋮先生、ココ?﹂
客を威圧するような門構え。
店の屋号なんて看板はない。
黒塗りの大きな扉が閉ざされていて、ドアの前には、チャイナド
レスを着た女性が二人。
440
﹁完全予約制って書いてるよ? ココなの?﹂
真琴は泣きそうな声で俺に囁く。
心配するな真琴、俺のほうが泣きたいくらいだよ。
扉の前に控えているチャイナドレスの女性が、片言の日本語で話
しかけてくる。
﹁ご予約いたタいたアマノ様のお連れの方でしょうか?﹂
美咲さん⋮いつの間に予約を入れたんだ⋮。
しかも、俺と真琴の風体と到着時間を連絡しておくなんて、抜け
目ない。
用意周到っぷりに脱力する。
﹁⋮はい﹂
短く返事をする俺、実の所、それ以上何を喋っていいかわかんな
い。
女性は満面の笑みを浮かべ、後ろに控えていた女性が重そうな扉
を開いてくれる。
﹁こちらテございます﹂
開かれた扉の先には、遠くが霞むほどの円卓。
そして驚きなのが、客が結構入っているという事だ。
高そうなスーツに、仕立てのいいドレス。そう言った客層で大賑
わいだった。
ジーンズで、パーカーにTシャツなんて俺くらいなもんだ。
俺はその喧騒を横目に個室に通される。
441
扉を開くと、人目を隠すように絹のカーテンが施され、その奥に
テーブルと夜景が広がっている。
中華なので、円卓なのかな?と思っていたが、そうではないよう
だ。
テーブルに案内され、女性が引いてくれた椅子に腰掛ける。
座ってから身震いがした。
財布のお金で足りるのか?マジで心配になってきた。
50あれば足りる、きっと足りる。鬼が4匹来ても大丈夫だ。き
っと。
﹁先生、顔青いよ∼。大丈夫?﹂
真琴が俺の顔を覗き込み、心配そうにしてくれる。
全然大丈夫じゃない、けど真琴に心配させて萎縮させても意味は
ない。
けど、最低限の忠告はしておこう。
﹁これから、ランクAの鬼が4匹来るが⋮俺では止められないかも
しれん。自己防衛に努めてくれ﹂
俺の一言一言で、真琴の顔が驚愕の表情に変わる。
﹁ランク⋮Aの鬼⋮﹂
﹁そうだ⋮鬼だ﹂
﹁鬼が4匹⋮ふぇ⋮﹂
442
﹁泣くな、気を確かに持て⋮﹂
﹁⋮⋮ひっく﹂
﹁酒を呑みだしたら、要注意だ。呑ませても呑むな?これが最低限、
俺が出来るアドバイスだ﹂
きょとんとした真琴。ランクAが怖い訳じゃない。酒が怖いんだ。
この恐怖はわかるまい。
だがすぐに判る。
そして俺は羽を毟られて酔い潰されて、財布はすっからかんにな
るんだ。きっと。
扉の開く音が静かな部屋に響く。
案内した女性の細い手に続き、四人が案内されて来た。
俺はホッと安心したが、隣の真琴の表情は強張り⋮緊張した面持
ちで席に着く四人を見守っていた。
しん⋮と静まり返ったテーブルの6人。
四人の目が、真琴に注がれている。
隣にいる俺でさえ重苦しさに耐えかねる。
当の本人なら推してしかるべしだろう。がんばれ真琴。
重苦しい雰囲気を一掃したのは、我らが部隊の小隊長⋮美咲さん
だった。
ぷれみあむ
﹁まず⋮季節のお奨めディナーフルコース6。デザートはフルーツ
盛ではなく杏仁豆腐で。ビールは人数分﹃伝説獣P﹄、上海老酒1
0年2本﹂
443
メニュも見ずに、号令を掛ける。
あくまでも簡潔に。潔いまでに⋮。
真琴の目が点になっている他は、いつもの通りだ。
オーダーを取り終えた女性が部屋を下がり、部屋には俺達だけに
なった。
﹁藤森真琴さんですね?初めまして、天野美咲と言います﹂
先にオーダーを通したのは、ネタじゃなく無人の時間を作るため。
スッと頭を下げ、挨拶を済ます。
﹁私は真倉乃江だ﹂
隣の乃江さんが、次に挨拶する。
口調こそいつもの乃江さんだけど、声のトーンは柔らかい。
﹁うちは山科由佳や。よろしゅうな﹂
にっこり笑って挨拶をする山科さん。
﹁私⋮は、宮之阪まりえです﹂
ちょっとたどたどしいけど、緊張してる最初だけ。
最近は、いっぱい喋れるようになった宮之阪さん。
俺は、真琴の椅子を脚でコンと合図してやる。
﹁あ⋮わ⋮ 私は藤森真琴です。よろしくお願いします﹂
444
俺の合図で、空気を読んだ真琴、慌てて挨拶を始める。
そしてテーブルに頭を打ち付けるんじゃないかと言う位、頭を下
げる真琴。
﹁真琴さんには、厳しい言葉になるかも知れませんが聞いていただ
けますか?﹂
あくまでもゆったりと話を続ける美咲さん。
けど、その内容は究極の選択になるだろう。
どちらを選んでも、真琴に苦痛を伴うのだから⋮。
真琴は、緊張の面持ちから一変し顔つきを変える。
﹁はい⋮伺います﹂
隣にいても、そのピリピリする真琴の気持ちが伝わってくる。
﹁真琴さんには、選択肢は二つ残されています。死ぬか生きるか﹂
目を閉じて、美咲さんの言葉を聞き入れる真琴。
今の自分なら死が待っている事は重々承知の上なのだろう。
﹁生きる方にも二つ選択肢が残されているのです、このままこの地
を離れて安全に暮らす事⋮﹂
﹁それは、出来ない!﹂
美咲さんの言葉を待てず、真琴の叫びが部屋に響き渡る。
﹁なら⋮強くなって死なない方法しか無いですね。でも、私達はゆ
445
っくりとあなたの成長を待つ訳にはいかないの﹂
沈痛な面持ちの美咲さん。
﹁こんな席で心苦しいんだけど、カオるん。上着とシャツを脱いで
見せてあげて欲しいの﹂
そ⋮⋮、そういう説得にでますか。
嫌だけど⋮仕方ない。
脅すつもりはないのだが、これから真琴にどういう事が起こるの
か見てもらうのが一番なのかもしれない。
﹁カオるんは、一ヶ月前は戦い方も知らない普通の方でした。そこ
から一ヶ月であなたの知っている彼になった﹂
そう説明してくれる美咲さん、俺はパーカーを脱ぎTシャツを脱
ぐ。
﹁!﹂
息を呑む真琴⋮表情が歪む。
そのリアクションは凹むんだけど、仕方ないな。⋮普段鏡を見て
いる俺でも、実際見ると引くもんな。
そう言って、見下ろす俺の腕や胴には無数の青アザ、切り傷があ
った。
肌色とアザの青色が半々くらいの割合だ。
肌が5分でアザが5分、切り傷入れたら青が7分で肌が3分だ!
な感じだ。
毎日の訓練で、避けれない一発一発が俺に傷をつける蓄積された、
俺にとって勲章みたいなもんなんだけど。
446
﹁貴方にも、このくらい⋮いや、これ以上の努力をして貰わないと
いけません﹂
じっと真琴を見つめる美咲さん。
いや、その他の3人も真琴を見つめている。
メガネに適う子なのかどうかを見極めようとしている。
﹁わ⋮私は一度死んだと思っています。傷を受ける事も辛い事も、
父を亡くしたときに比べれば何でもありません!﹂
四人の眼力を押しのける勢いで放たれる真琴の視線。
シン⋮と静まり返ったテーブルに、不謹慎と思える笑いが漏れる。
﹁ぷっ⋮うち⋮この子気に入ったわ。この歳でこの根性!なかなか
探してもおらんで!﹂
にこやかに笑い、真琴に握手を求める山科さん。
﹁うちやったら、体術も距離を置いた戦い方もプロフェッショナル
やしな。うちが育てたる﹂
﹁遠距離も⋮近接もって⋮私の方が強い⋮私が⋮適任﹂
隣の山科さんにムッとした表情で異議を唱える宮之阪さん。
爆弾娘にマップ兵器⋮
確かに二人とも甲乙つけがたい鬼畜な強さだ。
﹁ランクAの方が二人も⋮⋮私に教えてくれるの?﹂
447
戸惑いと恐縮の表情で、山科さんと宮之阪さんを見つめる真琴。
﹁AかEなんて飾りや⋮関係ないで。強いか強くないか。祓えるか
死ぬか。そういう世界やもんな﹂
﹁です⋮⋮です﹂
二人の鬼に教えて貰えれば強くなる、けど⋮その反動は苛烈を極
める筈。
﹁でも、ホンマはカオルに教えて貰いたいんやろけどな。カオルも
毎日は無理やし、ココは我慢やな?﹂
そう言ってウインクし、赤面して俯く真琴をからかう。
ぷれみあむ
﹁とりあえず、明日からや。今日は新しく結ばれた師弟関係に乾杯
して呑もか!﹂
いいタイミングでテーブルに届けられた伝説獣P。
瓶を真琴に向け、グラスに注ぐ。
﹁移動中狙われてもアカンしな。いっそ転校して、こっちに住もか
?﹂
なんか、とてつもない話をしているが、聞かないようにしよう。
軽いノリで山科さんは言っているが、100%本気だから気をつ
けろ⋮真琴。
448
﹃カオル先生8﹄
大味に盛り付けられた⋮そんな先入観が吹き飛ぶような料理が運
ばれてきた。
フランス料理のように、目で楽しめる盛り付けの料理だ。
﹃伊勢エビと季節の前菜8品デございます﹄
一品目⋮しかも前菜で伊勢海老とはこれ如何に。
料理に気を取られていたら、乃江さんが咳払いを一つ⋮⋮そして
話し始める。
﹁和んだ雰囲気をぶち壊しにして悪いが、聴いてくれ﹂
小皿に取り分ける女店員など眼中にないように、乃江さんが緊張
の空気を持ち込む。
﹁明確にどこまで強くなれば良いという線引きが出来ない。かとい
って我々はキミが育つまで目を離すことが出来ないのだ﹂
真琴に現在の状況を話して聞かせる乃江さん。
目下の子には、自然と物腰が柔らかくなるのか、口調ほど厳しい
声のトーンじゃない。
﹁キミは、昇級試験を目指していたのだろ? 一つそれを区切りに
してみたらどうだろう?﹂
様子を見るのは昇級試験まで。
そこでお眼鏡に適わなければ⋮強制退去、そういうことだろう。
449
﹁Eのキミには厳しいハードルかも知れないが、その試験でC以上
を取得出来なければ⋮諦めて安全地帯に下がってもらう。私達が譲
歩できる最低限の条件だ﹂
二階級UPか⋮
条件を聞いた真琴の、厳しい顔つき。
それほどに高いハードルなのだろう。
真琴は意を決したように、肯く。
﹁分かりました。猶予を与えて頂けただけ有難いです﹂
真琴も退魔士。封鎖地域に入り込んでいる重大さは承知の上だろ
う。
見つかれば退去。その1択しかないと思っていた訳だから、猶予
期間は有難いだろう。
﹁⋮試験まで期間は1ヶ月。その間は学校を休学⋮⋮。私の部屋に
でも泊り込むが良かろう。一人くらい寝る場所には困らんからな﹂
そう言って、季節の前菜8種類盛りに箸をつける。
ツンツン乃江さんだが、この辺りがデレになるんだろうな。
口調と態度、そして行動が絶妙のバランスだ。
﹁あかん! 乃江の部屋に泊まったら⋮⋮何されるかわからへんか
ら、うちかマリリンの部屋やな﹂
頭を抱える山科さん。
どうも山科さんは、俺の妹が流布した情報で、﹃年下キラーのお
姉さま﹄だと勘違いしているようだ。
450
﹁ユカ!誤解を招くような事を言うな、何もせん!﹂
乃江さんが、顔を真っ赤にして山科さんを睨む。
真っ赤になるという事は、乃江さんも気にしてたんだな⋮
﹁乃江の色香でクラクラっとしてしまうから要注意や、せっかくや
る気になった弟子、骨抜きにしてどうすんねん﹂
確かに⋮短時間でうちの葵を虜にした乃江さんだ。
ありえるかも知れん。
山科さんの顔と乃江さんを見比べ、キョロキョロしながら戸惑う
真琴。
何の事かよく判っていないみたいだな。
﹁むう⋮そこまで言われるなら、ユカに一任するよ﹂
良かれと思って提案した乃江さんだが、想定していない山科さん
の反対を受け引き下がる。
俺は乃江さんの部屋が良いかと思うけどな。
なにせ、料理が美味い。
片や山科さん、料理はからっきしという噂。
面と向かって料理は?って聞いた事が無いが、朝はカフェでモー
ニング、夜は近所の小料理屋で⋮以下略だそうだ。
料理を作るのは好きらしいが、後片付けがキライらしい。
!⋮そうか。
真琴はその辺り出来そうだから、良いペアなのかも知れないな。
山科さんの食生活が変わりそうだ。頑張れ真琴。
﹁猶予の一ヶ月、達成できるか出来ないか。キミの努力にかかって
451
いるが、教える側の技量も問われるかならな﹂
真琴に話しながら、山科さんに牽制をいれる乃江さん。
辛口だなぁ⋮達成できないのは師匠の努力次第だと、暗に言って
いる。
﹁む? 喧嘩売ってんの? 一ヶ月あればCどころかBクラスにま
で育て上げたるで?﹂
売り言葉に買い言葉、山科さんがドツボにハマっていく。
ここらへんの心理操作って、乃江さん抜群に上手いからな∼。
﹁師として教える技量と本人の強さは、同一とは限らんからな﹂
料理を摘みながら、辛口の言葉で山科さんを追い立てる。
確かに、ホームランバッターが監督になって成功するかどうか判
らんもんな。
成功する場合も多いんだけど、駄目になる場合酷い事になるから
な。
﹁その言葉⋮覚えておきや? 一ヵ月後に頭を下げるのはどっちか﹂
テーブルのナプキンを握り締めて、睨む山科さん。
隣で真琴がオロオロしているのが可哀想だ。
﹁じゃBに受かるかどうか? それでいいか?﹂
乃江さんの言葉に、目を回す真琴。
もう真琴の範疇を超えて世界が回り始めているんだ、諦めろ。
452
﹁オッケー 吐いたツバ飲まんよう気い付けや﹂
無意識のうちに、霊力が漏れ出す山科さん。
部屋の重力バランスが崩れ、グラスが振動し砕ける。
乃江さんも微動だにしない素振りだが、気で押し返しテーブルの
皿を揺らす。
﹁あぅ、二人ともいい加減にしないと怒りますよ∼﹂
自分の料理を手で押さえ、やんわりと二人を制する美咲さん。
口調はやんわりだが、体から発するオーラが﹃ぶっ殺す﹄って言
っているように見えるのは気のせいだろうか。
美咲さんは食べ物を粗末に扱う人がキライなのだ。
﹁うぅ⋮先生⋮怖いよ﹂
俺を見て泣きを入れる真琴。
⋮心配するな俺も怖いよ。
﹁カオルさん⋮⋮、ちゃんと止めないと駄目です⋮⋮﹂
老酒を嗜みながら、我関知せずの宮之阪さん。
なんで、俺がストッパー役なんだ? 虎とライオンの戦いにチワ
ワが突っ込むようなもんだろうが!
⋮⋮だが、チワワ突っ込んでみる。
﹁二人とも、いい加減にしてください。真琴を萎縮させてどうしま
すか!﹂
453
チワワの泣き声で、虎とライオンの戦いが止まる。
二人とも真琴の顔を見て怒りを静める。
﹁む⋮すまん⋮﹂
﹁⋮ごめんやで?﹂
この二人、似た者同士っていうか⋮こういう時に噛み合うんだよ
な。
しかし、先が思いやられるよな⋮。
﹁明日から、大変だろうけど⋮お互い頑張ろうな﹂
真琴と共に成長を誓う。
その一言で、真琴が涙ぐみ⋮お互いの健闘を誓い合う。
そこで、再び虎とライオンの活動再開。
﹁カオル∼ 弟子にCとかBになられたら立場ないよな。これは乃
江と美咲の技量を問われかねんで?﹂
体術の初歩という事で、最近は乃江さん美咲さんメインに教えて
もらっていたのだ。
その言葉を受け、俺を睨む乃江さん、美咲さん。
睨む相手が違うでしょ?
﹁む! カオルが遅れを取るとでも思っているのか? 私とお嬢様
を見損なうな!﹂
ヤバい、何かがヤバい気がする。
454
売り言葉に買い言葉、話の展開がヤバすぎる。
その言葉を聞き、ニヤリと笑う山科さん⋮悪人ヅラですよ?
﹁⋮⋮カオルもランクアップ試験⋮決定やな﹂
来た。恐れていた展開が来た。
真琴に遅れを取らないという事は、B以上と言う事か?
﹁ここは、安全牌でB位って言う気やろか? Eの子にCやBって
言うといて、流石の乃江先生がそれはないよな∼﹂
包囲網を敷いて来る山科さん。
Bって言ったのは貴方でしょ?
隣に座る真琴が、哀れむ目線で俺を見る。
そんな目で見ないでくれ∼。余計可哀想になるよ⋮俺が。
﹁良かろう! A試験合格と言う事で⋮そちらはBで良いな?﹂
乃江さん!冷静になってください。
そういうテンションでギャンブルしたら確実に負けますよ∼。
しかし、Aの試験ってどうやるんだ?
真琴に聞いたら、上位のランクの人に胸を借りると聞いているが、
A以上って居ないだろ?
むくむくっと沸いてくる疑問をすでにAの方々に聞いてみること
に。
﹁A試験ってどうやるんです? A以上の技量を持つ人の胸を借り
るって事?﹂
455
俺の言葉で、固まる四人。
そんなリアクションするの止めて欲しいんだけど。
﹁習志野空挺部隊1個中隊とガチバトルと違うかった?﹂
さらりと日本最強兵と戦争させようとする山科さん。
そんな恐ろしい事言うなよ。
﹁Aランクを倒してAになれるんじゃなかったでした?﹂
矛盾する論理を展開する美咲さん。
一子相伝の拳法じゃないんだから⋮そんな事したら年々合格率が
下がるでしょ。
﹁本部を全滅させたら⋮、否が応でもAになれますよ﹂
酒が進み饒舌になる宮之阪さん。
犯罪紛いの提案をしてくる。
﹁私がAになったときは、Aランクの敵を3体討伐して申請した⋮
正当な試験じゃないし⋮試験だとどうなるんだ?﹂
真っ当な手段で試験を受けた人は居ないのか⋮
A試験﹂
ココは試験に詳しい真琴に聞くべきだろう。
﹁真琴知ってるか?
範疇外のA試験の事だ、知ってるかどうかも怪しいけど⋮。
﹁無作為にAランクの方に召集が掛かって⋮技量を見る⋮だったと
456
思います﹂
その一言を聞き、四人の鬼がニヤリと笑った。
そんな気がした。
457
﹃カオル先生9﹄
結局の所、昨日の晩餐会は大荒れすることなく閉幕した。
撃沈せずに料理を楽しめたのは、今回が初めてじゃないだろうか?
内容的には大荒れだったが、二日酔いになることなくピンピンし
ている。
これが美咲さんの言っていた中華の効果なのだろうか?
﹁中華は時間を置いて色々料理が来ますから、食が進んで大荒れに
ならないんですよ?﹂
料理を堪能した後、耳打ちしてくれた。
これを見越して中華料理にしてくれたのだろうか?
それとも、グルメ本で気になっていた店が、たまたま中華だった
のか。
しかも、代金がそれほどでもなかったのが驚きだ。
一人1万円程の予算であれだけ楽しめたのなら、それもまたアリ
なのだろうな。
どうも最近、金銭感覚が狂い始めているような気がするが⋮気に
しない。
いつもの通り、俺は例のマンションへ急ぎ走っている。
修行の成果だろうか?結構なペースで走っているのだが、息が続
く。
走っていて苦痛じゃなくなって来ている。
だが緊急時に駆けつける手段が、走り一択ってのも苦しいものが
ある。
乃江さんを見習って、二輪の免許でも取ろうかな⋮。
458
マンションの7階、ドアの前に貼り紙がしてある。
今日は遅れていないのに⋮なんだ?
﹁ユカが張り切りすぎていないかcheck中! 屋上にいますね﹂
美咲さんの直筆メッセージ。
山科さんのハリキリっぷりが目に浮かぶ
実の所、俺も山科さんの初日に半殺し⋮⋮いや全殺し一歩手前ま
で追い詰められた。
逃げれば空爆、近付けば投げられ打たれ⋮⋮。
近接と遠距離の、相性の悪さを思い知らされた。
俺もちょっと心配になってきた⋮⋮早く見に行かねば。
エレベータで屋上へ、眼前に広がるのは剣の舞と渦巻く風。
そして、手前でその光景を眺めている美咲さんだった。
﹁どうですか?美咲さん?﹂
腕組をして、瞬きすらしない厳しい顔つきで、戦況を見守る美咲
さんに状況を聞く。
﹁いい意味で⋮、聞いていた技量じゃありませんね。油断していた
ユカは風で防御しています﹂
8本の剣舞が360度の方向で器用に動き回る。
それぞれは個性的に動き、フェイントの動き、攻める動きを描い
ている。
俺がまだ見たことのない8本の剣は、尖刀、湾刀、レイピアの混
459
在の剣のようだ。
右手で指揮する四本が、個性的に円を描き、左の剣が鋭角に切り
裂く。
練習の成果が出てるじゃないか。
一本たりとも意思の通っていない剣がない⋮⋮。
﹁特訓の成果が出てます⋮結果は、俺の想像を超えてるけど﹂
自分の事の様に嬉しくなる。
俺も頑張らないと、ヤバいかもな。
﹁ちょ!ちょっとタンマ!!﹂
掛け声と共に、側転し剣を避ける山科さん。
合図と共に、剣が虚空に消え戦闘解除する真琴。
ダッシュで俺に走りこんできて、胸倉をつかむ。
﹁ぜんぜんEちゃうやんか。油断して風弾持って来てないし、グラ
ビティはセクハラするから部屋に置いてきたんや﹂
滝汗で俺に突っかかる山科さん。
それは自業自得というものでは無いでしょうか?
﹁数日前の真琴では想像も出来ない戦い方でしたよ。彼女も日々成
長してるという事ですね﹂
微笑ましく息を整える真琴に目をやる。
真琴も俺に気が付いたようで、こちらに走ってくる。
460
﹁カオル先生∼ あいうえお!バッチリでした。丸と三角も!凄い
!凄いですよ∼﹂
感無量で俺に飛び込んで抱きつく真琴。
きっかけで目覚めるお前が一番凄いんだけどな。
﹁丸・三角の意味が判ったか? 暇があれば鈍らないように練習し
ような﹂
上出来の真琴の頭を撫でて褒めてやる。
失敗したら叱責と導き、上手くいけば褒めてやる、それが俺流の
教育方針だから。
﹁まる・さんかくとかあいうえお?理解不能や⋮⋮誰が先生かわか
らへんやん。立場ないわ﹂
ぷぅっとふくれっ面で拗ねる山科さん。
﹁そ⋮⋮、そんな事無いですよ。8本動かして攻撃しても、両足を
地面に付けたまま全部避けるんですもん。ユカ先生凄い∼﹂
そういいながら、ぽふっと山科さんに抱きつく真琴。
なんだか、昨晩のうちに仲が良くなったような気がするな。
﹁なんだか、真琴と山科さん仲良いですね?﹂
乃江さんにあれだけ言った山科さんだ。
ニヤリと笑い肘で突付いてみる。
﹁な! なんでもないで? なぁ真琴?﹂
461
滝のような汗で俺に否定する山科さん。
ここに乃江さんが居ないのが非常に残念でならない⋮
﹁一緒にお風呂に入ったとか?﹂
全力で首を横に振る山科さん、その横でコックリと頷く真琴。
﹁まさか、一緒のベッドで寝たとか﹂
必死の形相で首を横に振る山科さん、その横でニッコリと笑う真
琴。
﹁寝てる真琴をギューって抱きしめて寝たとか﹂
力なく首を振るが、真琴の表情でそれがどうなのか判る。
フルコースやってるんだ。
﹁まあ、お察しの通りやけど、お風呂に一緒に入ってな?、意気投
合したんやな? 真琴﹂
山科さんの言葉に青ざめる真琴。慌てて山科さんを制する。
﹁ユカ先生! それは内緒の約束です!﹂
風呂で何があったのか⋮想像するのも恐ろしい。
堪忍な?って謝る山科さんと怒る真琴のペア。
これだけ意気投合していれば安心して任せられるな。
﹁昨日相談しててな? 見所あるようやったら転校したいって言っ
462
てたんやけど⋮⋮、見ててどうや?﹂
俺と美咲さんに尋ねる山科さんの、不安を隠しきれない顔。
自分が一番判っている筈なのに⋮⋮。
﹁俺は山科さんと同意だと思いますよ?﹂
俺は山科さんに一任、美咲さんも表情だけでそれを肯定した。
﹁そ⋮か。よかったなぁ真琴。学校行けるで。なぁ﹂
真琴の手を取り喜ぶ山科さん。
手を握られた真琴も照れくさそうに⋮けれど喜びを隠し切れない。
﹁さ、真琴と山科さんが休憩してる間に、一丁行きますか!﹂
カナタのおやつ缶からブドウ糖を取り出し一口で飲み込む。
それを見ていた美咲さんが、口をパクパクして俺を見つめる。
﹁ん? なんです?﹂
﹁あーん﹂
手に何も持ってないよと言うゼスチャーと共に、俺に口を開く美
咲さん。
﹁⋮⋮﹂
463
﹁⋮⋮もぐもぐ﹂
ほっぺたに手を置き、噛み締める美咲さんの幸せそうな顔。
すっごい照れくさいんですが⋮
﹁む!ユカ先生⋮ これは⋮﹂
驚愕の表情で山科さんの袖を引っ張り、合図をする真琴。
﹁せやな。美咲の天然は一番怖い﹂
そう言いつつ、真琴に目配せ。
﹁あーん﹂ ﹁先生、私も∼あーん﹂
二人とも負けじと口を開く。
あんまり食うと虫歯になるぞ∼。
﹁もぐもぐ﹂﹁ヒンヤリやな∼癖になりそ﹂
二人も満足したようで、頬を抑えて喜んでいる。
今度から、多目に仕入れて置かないと⋮おやつ感覚で食われたら、
肝心な時無くなる。
﹁じゃ、気を取り直して⋮行きますか!﹂
頷く美咲さんとの組み手を開始する。
超高速の世界に消える二人を見守る山科さんと真琴。
464
﹁お二人とも凄い∼。 全然見えなかったですよ∼﹂
感嘆の表情で、地面にひれ伏す俺と、立ちつくす美咲さんに声を
上げる。
見えなくて良かった。今日は無茶苦茶ダメージを食らってしまっ
たもんな。
﹁目標Aですから、手加減なしで行ってます﹂
俺だけに聞こえる声で、囁く美咲さん。
恐ろしいのは瞬時に複数発のダメージを貰ったこと。
腕でガードした手ごと頭に一発。
一発目で動きを止められた俺は、切り返す左足で前蹴り、手、肩、
頭、上からの蹴り下ろしを食らった。
下がる俺に、追いすがるように右足の連撃。
長考解除と同時に来る痛みで、悶絶して転げまわってしまった。
後で襲ってくる痛みが全身に広がって失神しそうだ。
耐えてる俺が凄い⋮
﹁ガードできたのが一発目だけってのが⋮ 道のりは厳しいですね﹂
がっくりうな垂れる俺。
﹁武器なしで徒手なのは仕方ないとして、防戦一方なのが気になり
ますね。乃江の修練が足りないって助言しておきますね﹂
ニッコリ笑う鬼。美咲鬼。
明日の乃江さんパートの修行は、苛烈を極めそうだ。
胃が⋮胃が痛くなってきた。
465
﹁カオル先生∼ がんばって∼﹂
真琴の無邪気な応援が響き渡る。
も、もちょっと待ってくれ。動けないんですよ?
﹁かわいい仲間の応援ですし、もう一回いきましょうか﹂
そう言って一人、超高速に移行する美咲さん。
遅れて、超高速に移行したときには5発食らっていた。
今日、学校に行けるかな⋮泣きそうだ。
﹁カオルせんせー 負けないで∼﹂
無邪気な真琴の声援が、朝のマンションの屋上に響き渡る。
466
﹃夜間作業1﹄
﹁なぁな? 天野チームがメンバーが一人増えてねぇ?﹂
昼休みの教室の窓辺で、中庭を見下ろす牧野。
俺はその横で、ハムカツサンドを食いつつ、牧野の目線を追う。
﹁あぁ、中等部の子らしい。転校生で茶道部同好会に入部するかも
?ってんで、美咲さんが面倒見てるらしいよ?﹂
それとなく、当たり障りのない返事をして、素っ気無い素振りを
する。
実は、藤森真琴って言って素直で良い子だよ?とか言ってやりた
いけど、今はNG。
みんなと打ち合わせした通りに動かねば⋮。
数日前晴れて真琴も転入と相成った。
噂では、かなりの高得点で転入試験をクリアしたそうで、山科さ
んが我が事のように自慢していた。
つうか、転入試験の情報はどこから持ってきたのか⋮そっちの方
が気になるところ。
そういう事で、最悪﹃コネ﹄でゴリ押し!なんて準備をしていた
俺達は、肩透かしを食らった。
頭の回転の早い子だとは思っていたけど、頭の良い子だとは予想
外。
見た目ちびっ子だけにギャップが激しい。
部活の話題で話を合わせるって案も、うちの学校だからこそなの
かも知れない。
うちの学校は中高一貫教育、部は中等部、高等部とそれぞれに部
467
長がいる。
けと上と下は密な関係で、特に運動部とか異常に結束が固く、県
下でも強豪の部類に入る部が多い。
ぶっちゃけチームプレーを5年以上一緒にやる訳だし、阿吽の呼
吸だもんな。
文化部にしても同じ事だそうな。
﹁へぇ、やっぱり天野チームはかわいい子集まるな。俺、結構タイ
プかも﹂
真琴を見る牧野の目が、いやらしそうな好奇の目だ。
こいつの事だから、ネタで言ってるの丸見えなんだけど、ツッコ
まずに居られない。
﹁中等部まで守備範囲なのかよ!﹂
注意!注意!⋮言葉を選ばないと、噂が広まるよ?
特に牧野の場合、聞き耳立てている女子も居るんだし。
目配せして、牧野に警告する。
﹁お前にゃ、葵ちゃんてカワイイ妹が居るからわかんね∼んだろう
けど、俺としては、ああいう妹とか憧れるな﹂
じょーひがし
あくまで自分のスタンスを崩さない牧野。周りの目なんか全然気
にする素振りは無い。
葵なぁ⋮俺のカワイイ妹は、﹃東丈﹄並みの飛び膝蹴りの達人で
すよ?
だがしかし、牧野の言う事も判らんでもないな、素直で懐いてく
れる妹は日本男子の宝だからな⋮。
昔は良かった。
468
﹁和むな∼﹂
﹁ああ⋮﹂
4人の上級生の周りで子犬のように飛び回って、明るい雰囲気を
醸し出している。
今までの彼女らに無かった雰囲気だ。
以前はどちらかと言えば、とっつきにくい感じだったのに、雰囲
気が和らいでいるように感じる。
真琴の存在は偉大だな。
﹁多分だけど⋮俺らのように、見てる奴らも多いんじゃね?﹂
牧野の台詞に同意してしまう俺。
中2でありながら、小動物のような可愛さと明るさを兼ね備えて
いる。
加えて、女子受けもする︵天野さんチームしか知らないけど⋮︶
小動物。
和みながら見てる奴がゼロという訳は⋮無い!。
新メンバーが加入して、天野さんチームも磐石の布陣だよな。
和風正統派美少女@天然
ツンツンデレ&下級生のお姉さま
委員長風関西弁で情に厚いメガネっ子
大人しくて守ってあげたいクォーター洋風美少女
妹属性の小動物@柴犬︵子供︶
むぅ、おっかない。
この包囲網で引っかからない奴は、熟女系しかいないのは?
469
そんな気がしてきた。
﹁ぶっちゃけ、カオルはどの子?﹂
さりげなく、牧野の投下する1トン爆弾。
うーん∼。
美咲さんの謎めいた天然も好きだし、最近素直になって好感度2
00%UPだし⋮。音楽の趣味とか合うし⋮⋮。
乃江さんの連れない風な素振りだけど、気を使ってくれる所とか
メチャ好きだし、料理上手いし。話合うんだよな⋮
山科さんの親身なってくれる姿勢と距離感はいいなぁ。距離が近
くても気兼ねないというか⋮あと関西弁萌え。
宮之阪さんは、素直で実直。見た目と違い、一番大和撫子なんだ
よな。喋らないけど心が通じ会うというか⋮
真琴は理想の妹像だよな。妹であって妹でない。そんな微妙な距
離感が良いかも。
むぅ⋮
﹁マジで考えすぎ!ズビシ!﹂
いつの間にやら凄い時間考えていたようで、牧野の殴打でふと我
に返る。
﹁う∼ん⋮ヤバイ。思考のラビリンスに迷い込んでしまった﹂
殴られた後頭部をさすりながら、思考を停止する。
考えても答えが出ないっぽい。
470
それぞれの良い所、悪い所も含めてその人の事を悩めるようにな
って恋なんだと。
まだ、憧れの域を超えてないな。
﹁牧野は?どうなんだ?﹂
俺に意見を聞くだけの牧野。仕返しの意味で聞き返してやる。
そんな意地悪に牧野は、遠くを見るような表情で頭を掻く。
こく
﹁俺は、色恋パス。気持ちが枯れてるし⋮、なによりメンドクサイ﹂
苦笑して笑う牧野より、牧野に告れないでいる、まだ見ぬ女子達
を哀れんでしまった。
﹁俺もまだ、色恋とか⋮わかんないな﹂
とりあえず、付き合ってみて?なんて、軽い気持ちで一緒に居る
のは嫌だな。
気持ちをそっちのけで、慣れと雰囲気に流されそうで嫌だ。
⋮好きになれる人なんて、出会えるのだろうか?
やっぱ、わかんないな。
放課後の帰宅前、呼び出しに応じて茶道部室へ顔を出す。
相変わらずの異質な空間だ⋮いつ来ても緊張する。
﹁呼び出して、すいません﹂
471
俺に、急な呼び出しを詫びる美咲さん。
すでに俺以外全員集合していたようだ。
﹁こちらこそ、遅れてゴメン、でも急にどうしたの?﹂
メールの受信時刻は5限目の事、こういう急な呼び出しは初めて
の事で、よっぽどの重大な用事だと自覚している。
﹁今夜からしばらくの間、夜間の巡回を再開しようかと思いまして、
そのご相談です﹂
美咲さんが、事のあらましを掻い摘んで話してくれた。
この地区は﹃魂食い﹄の警戒地帯。
他の退魔士が入り込めない規制がなされ、魔物の討伐情報を対外
的にアナウンスしていない。
結局の所、この地区の浄化⋮退魔業を営めるのはこのメンバーの
双肩に掛かっている。
封鎖と言っても、魔物に対し結界を張って防いでるわけでもなく、
自然発生する念や悪霊、魔物は他の地区と同じ条件で出没するのだ。
以前は交代制で作業をしていた見回りも、俺や真琴の出現で作業
が滞りがちになり、宮之阪さんが主となり浄化を行っていたという
事だ。
﹁知らぬこととは言え、宮之阪さんには不便かけてしまっていたん
だね⋮⋮ごめん﹂
初めて知る宮之阪さんの影の努力に、自然と頭が下がる。
472
﹁あ⋮いえ⋮そんな⋮大変な事では無いのです⋮﹂
赤面して、俯きながら否定する宮之阪さん。
﹁そういう事で、いつまでもマリリンに負担をかけていてもイケま
せん。今晩から全員で見回りしたいと思うのですよ﹂
美咲さんがそう言って、説明を締めくくる。
そうだよね。全員で見回れば負荷も少なくなる。
﹁ってことで、6人で分担するって事かな?上手くすれば1/6に
なって良いかも﹂
一つの地区であれ、6分割すればそれほど大変って事じゃない。
けど⋮待てよ? 宮之阪さんはここ最近一人でそれをやっていた
って事か?
自分の身に置き換えて大変さが身に染みる。
改めて、宮之阪さんに頭が下がる思いだ。
﹁そう⋮出来たら良いのですが、警戒地域ですから。 近接と遠距
離のペアを組んで動こうと思ってます﹂
﹃魂食い﹄か⋮。そう考えると1/6は無理だよな。特に俺とか真
琴は、単独行動だと危険かも知れん。
しかし、近接と遠距離のペア⋮か
近接と言えば、乃江さん、俺、美咲さん⋮か
反対に遠距離言えば、山科さん、宮之阪さん、真琴⋮⋮。
なるほど、広範囲に攻撃できるペアが居ると近接の欠点もカバー
出来るし、近接が遠距離をフォローも出来る。
473
﹁と言うことで、アミダで決めたいと思います﹂
やっぱりアミダか。美咲さん好きだよなアミダ。
秘書のような機敏な動きで、カバンの中からルーズリーフを一枚
取り出す乃江さん。
三本の線を引き、ゴール地点にカオル、ノエ、お嬢様と書く。
無作為に横棒をすばやく引き、名前の書かれた場所を隠すように
二つ折りにし、準備を整えた。
遠距離系3人に目で催促をし、三択を迫る。
﹁うち、ココ﹂
真っ先に真ん中を選択する山科さん。
すばやさと決断力が飛び抜けているな。
﹁んー、私は左!﹂
真琴が二択で左を選択する。
﹁あう⋮﹂
選択権すら見逃してしまった宮之阪さん。
それでも右を指差す。
開票前に、隊長からのありがたい一言と言うか注意。
﹁誰とペアになっても、有事の際には相手を守る事を最優先してく
ださい。無理はしないように﹂
有事の際⋮魔物との戦闘が発生する可能性があると言う事か。
474
﹁では、結果発表します﹂
乃江さんの開く紙に、全員が注目する。
﹁うち、くじ運無いわ∼﹂
﹁失礼な奴⋮﹂
﹁よろしくね﹂
﹁よろしくおねがいします∼﹂
﹁⋮あっ﹂
ほぼ同時に発せられる各人の反応。俺はまだアミダを逆から辿っ
ている所だったりするのだが。
475
﹃夜間作業2﹄
夜の見回りのペアだが、賢明な読者の方には説明は要らない?
山科 ∼
しかし家からダッシュ中の俺に、今、話を振られても困るので説
X 明を入れておこう。
∼ 乃江 ﹁くじ運が無いとか言ってなったか?﹂
アイドリングするアプリリアRS250の横で、相棒を睨む乃江。
﹁なんかなー。水と油のようやん? うちとノエ⋮﹂
借り物のヘルメットを被り、あご紐を通す山科。
機動力のあるこのペアには、地区の外周部が選定されていた。
お互いが、長い間共有する事に違和感を感じつつ、口に出せない
でいた。
﹁何故か、異常に私に突っかかってくるな、ユカ﹂
安定しないアイドリングを、アクセルとチョークで調整する。
季節の変わり目は、アイドリング安定まで大変なのだ。
真冬だと、初爆すら気を使ってしまうものだ。
﹁うーん。 なんかな∼ 構いたくなんねんな∼﹂
476
﹁⋮奇遇だな、私もだ﹂
バイクに跨り、後部に乗るように首で合図。相方も阿吽の呼吸で
タンデムシートに跨る。
遠慮なく腰に手を回して、山科の絶叫。
﹁うぁ! 腰!⋮細!﹂
何気なく手を回した手と手が前で衝突する。
﹁しかも、髪の毛エエ匂いするしぃ﹂
くんかーと鼻を鳴らして、髪の毛の匂いを嗅ぐ山科。
﹁セクハラ親父か! キモチワルイ﹂
悪寒で身震いし振りほどこうとするが、がっしり捕まれていて、
振りほどけない。
﹁女同士で、腰に手を回してもな∼ 色気無いなぁ﹂
そう言って、ぐるっと腰を一周していた手を緩め、遠慮気味に手
を持ち直す。
﹁ちょっと!、骨盤を持つな! 大人しく手を回してろ!﹂
﹁あいよ∼﹂
そう言って、腰に手を回し、自分の胸を乃江の背中に押し付ける。
ついでに髪の毛の匂いを嗅ぐ山科。
477
﹁むぅ⋮さっきよりセクハラ度数上がってるぞ?。 セクハラ親父
を超越して痴漢紛いだぞ?﹂
﹁失礼な事言わんといて。ノエのフェロモン嗅いでるだけやんか∼
くんか∼﹂
﹁⋮⋮集合地点を決めるから、お前足で走れ!﹂
﹁いややん♪﹂
バイクの排気音と共に、テールランプが遠ざかる。
∼ 美咲 X 真琴 ∼
﹁ほぇ∼ 美咲隊長⋮スタイル良いですね﹂
つま先から髪の毛の先まで、マジマジとみる真琴に⋮居心地悪い
美咲。
﹁そ⋮そんな事ないですよ? 可愛い服似合わないですから∼﹂
真琴の視線を避けるように身をよじる。
﹁モデルさんみたいですよ? 私⋮ちっさいから似合う服が無くっ
て⋮﹂
478
地面にのの字を書く真琴。
﹁それは私も一緒ですよ⋮﹂
真琴の横でのの字を書く美咲。
﹁身長17⋮ウォッホン 165を超えるとね。大変なんだ﹂
サイズはあるが、欲しい!って服が無かったりするのだ。
ボディフィット系のファッションだと致命的。一歩間違うと露出
過多になってしまう。
かといって、雑誌のモデルのような服装は早すぎる気がする。
﹁真琴は良いわ⋮可能性があるから。私は縮む事がないから⋮⋮﹂
いまだ成長期の自分が恨めしい。
﹁でも、私美咲さんカッコいいし好きだな∼﹂
のの字を書く美咲を抱きしめるように、真琴が覆いかぶさる。
﹁ありがとう⋮﹂
見回りの事も忘れて、駅前でじゃれあう二人。
∼ 俺 X マリリン ∼
479
例のマンション、いつもどおり7Fに行きそうになり、慌てて6
Fを押す。
アルファベット表記の表札の扉の呼び鈴を鳴らす。
﹁はぃ∼﹂
トテトテトテと玄関に向かう足音、間もなくして扉が開く。
黒いトンガリ帽子に、黒のワンピースで首元が白のフリル。
黒レースの長手袋でシックな装い。
ラピスラズリのアクセサリが胸元にワンポイントアクセント。
胸より大きめの青の結晶が、左手の手首からシルバーの鎖でぶら
下がっている。
ワンピが足首まで隠すスカートになってて、黒のハイソックスと
黒皮のブーツがチラリと見える。
ツッコミ待ちなのが、手に持っている箒。
⋮ホウキ?
﹁⋮﹂
﹁⋮﹂
俺の視線をトレースするように、宮之阪さんの目が動く。
当然顔は赤面で真っ赤、落ち着かない表情だ。
﹁似合いませんか?﹂
いや⋮似合いすぎて声にならないんですが。
特に、露出が無いにも拘らずチラリと見える肌が、普段にも増し
480
て眩しく感じるのは何故だろう?。
黒一色に見えて、ラピスラズリとブラウスの白フリル。おまけに
栗色の髪をポニーテールにしている、大きめの真紅のリボンが絶妙
のバランスだ。
これは、ゴシックファッションって奴だな。間違ってもゴスロリ
じゃないぞ?。
﹁似合いすぎて声が出ないってのが本音﹂
服がかわいすぎて、まだ箒につっこめない。
﹁隠密行動なので⋮、黒っぽくなってしまいました﹂
目深に被った帽子で、顔を隠す宮之阪さん。
ようやく冷静になれた俺は、万を辞して箒にツッコむ。
﹁その箒は⋮もしかして?マホウの箒?﹂
俺の声にビックリしたように箒が反応して、ゴムのようによじれ
宮之阪さんの背中に隠れる。
﹁マニセンマキ⋮ちゃんです﹂
今、そいつ⋮意志があるように自分で隠れましたが、スルーです
か?
﹁なんか、速そうな⋮微妙な名前ですね﹂
判る人にしか判らない微妙なネーミングセンスに感服。
481
道案内と計時は完璧にこなしそうな名前だけど。
﹁この子のおかげで⋮見回りが楽⋮﹂
マニセンマキ号GJ。苦労かけていた宮之阪さんを、影ながらフ
ォローしてくれていたんだね。
2000ccリストラクター付ターボのアイドリング音を発し、
マニセンマキ号が起動する。
﹁カオルさん⋮乗って?﹂
躊躇する俺の手を引き、腰に手を回すように導く。
宮之阪さんの腰越しにホウキを掴む⋮
ウォン! ウォーン!⋮
エンジンの回転が尋常じゃなく上がる。すごい針上がりのレスポ
ンス。
え?、こいつ⋮ぎゅって握るとアクセルONなんだ。面白れぇ。
﹁アクセルは握るんだ⋮ブレーキはどうするの?﹂
新しいオモチャに対する好奇心が抑えきれない俺。ワクワクして
宮之阪さんに聞いてみる。
﹁両手で⋮握って直進。前を持ち上げればブレーキ。前側を緩めて
曲げればアクセルターン。後ろを緩めて操舵すればサイドターン﹂
ぐはっ、直進、制動、ドリフト制御しか出来ないのか。ピーキー
な乗り物だ。
482
しかもアクセルターンとサイドターンの違いが判らないですよ?
豪快に曲がるか、小回りするかの違いじゃないか?
まぁいいや。安全運転でお願いします∼。
月夜のドライブ開始。
最初の離陸は、アニメのように簡単ではなく思ったより難しい。
垂直離陸しないので、電線やら建物を計算しないと引っかかる。
しかし一旦離陸すると、目の前には高層ビル以外の障害物がない。
﹁うぁ 快適だね、⋮信号も無いし。町の光が星空みたいだね﹂
上に満天の星空、下にも町の明かりの星屑。
視界の果てまで広がる星屑のカーペットだ。
﹁見回り、そんなに苦じゃないの⋮ 判った?﹂
振り返り、にっこり笑う宮之阪さん。
﹁美咲の相談したのは、苦だからじゃないの﹂
進行方向を見ながら話してくれる。
﹁私の⋮気のせいだと良いのですが⋮﹂
前を向いていて表情が判らない。けど、口調が微妙に揺れている。
﹁見回りをしていて、不自然に浄化された痕跡をたまに見かけるの
です﹂
!? どゆこと?
483
﹁宮之阪さん以外に誰かの介入があったって事?﹂
俺の問い掛けに、頷いて答えてくれる。
﹁前々から⋮感じていました。この地区って他の地区より魔物の発
生率が少ないって﹂
そういや、最近見えないナニカをみる機会も減ったな∼とか感じ
てた。
俺の場合、平和で良いなぁとか、安易に思っていたけど。
﹁﹃魂食い﹄の封鎖と言っても、結界を張っている訳じゃないので
す。なのに他の地区より少ないのは、おかしいと気づくべきでした﹂
ゆっくり、一言一言を確かめるように話す宮之阪さん。
﹁一人では、現場に遭遇しても後手を踏む可能性がありましたので、
大人数ので見回りを提案したのです﹂
魔物の浄化兼、まだ見ぬ退魔士の捜索なのか。
敵対するのかそうでないのか判らない以上、むやみに一人では踏
み込めない⋮。
確かに一人では、危険だな。
﹁なるほどな。 良い奴だと良いけど﹂
﹁私もそう思いたいですね﹂
夜な夜な不浄の場所を浄化している退魔士。
484
けれど退魔士である以上、不可侵の地区である事は承知の上だろ
う。
黒か白か、今は果てしなくグレーの存在としか思えない。
﹁まぁ、出会って見定めれば良いだけの話だから、今からウダウダ
考えても仕方ないよ﹂
気楽に行こう、百聞は一見に如かずだし。
﹁けど、そんな事より気になる事があるんだけど?﹂
さっきから気になっていた異常事態。
宮之阪さんがハテナマーク付の表情で振り返る。
﹁さっきから、宮之阪さん。ちゃんと喋れてるよね。 夜の散歩が
気楽にさせてるのかな﹂
イントネーションもたどたどしさも感じるけど、それでも凄い新
鮮に感じる。
﹁あぅ⋮。顔が⋮見えてないから⋮だと⋮﹂
ああっゴメン、また普段に戻っちゃった。
瞬間湯沸かし器のように蒸気を噴出し、赤面する宮之阪さん。
ホウキの運転が疎かになってますよ∼。
心なしか、高度が落ちてきているような気がするのですが∼。
星空と星屑の間を、上に下に慌しく上下しながらの夜間飛行だけ
ど、滅多に味わえないこの光景は忘れられない程綺麗だった。
485
486
﹃夜間作業3﹄
﹁なるほど⋮ これは不自然だ﹂
見回り開始前、俺たちが巡回した場所は、宮之阪さんが違和感を
感じた場所だった。
例えて言うなら、道路を補修したアスファルトのよう⋮。周りの
老朽化と比べ一箇所だけ新しい道路になっている。
そんな感じ。
この辺りを取り巻く負の念に比べ、この場所の清浄さがアンバラ
ンスすぎる。
違和感の中心に位置する地点に注視してみると、変な幾何学模様
が見える。
﹁パワーを感じる所とそうでない所、見分けて見ると文字が見える
ね⋮漢字?﹂
﹁私⋮漢字得意じゃありませんカラ﹂
地面を注視しつつも、文字を追えない⋮そんな表情の宮之阪さん。
プィと顔を横にそむけ、頬を膨らます。
﹁雷⋮破邪⋮律⋮後は、紋様のように溶け込んで判らないや﹂
縦に積み重なったような文字列、所々にネズミの尻尾みたいなコ
イルの紋様があるし、日本人でも読解するのは厳しいな。
﹁大陸の霊符でしょうか⋮﹂
487
大陸⋮ お隣の漢字の国、有り余る領土と悠久の歴史を持つ国だ。
特に仏教・道教は、日本の魔道に多大な影響を与えたと言える。
俺や美咲さんの仙道の系譜﹃長考﹄、乃江さんの中国武術の系譜
﹃泊手﹄も大陸文化と言える。
陰陽道、呪禁道も道教の流れじゃなかったか?
﹁人の住まない場所、物を移動させない場所には、気が滞留すると
言われています﹂
うろ覚えの大陸の知識を、話してくれる。
確かに、長期間家を空けると﹃痛んだ﹄ように感じるもんな。
⋮人へやっかみや嫉妬などは、衣服に溜まり害をなす。
日本人の感覚と少し違った、異文化だよな。
霊符を燃やして薬として飲むとか。あんまり健康の良くない気が
する。
﹁符の効果も永久に続くものじゃない⋮ ある間隔でここを巡回し
てるって事だよな﹂
そうは言えども、刑事のハリコミのように⋮長い日数をここに費
やすわけにはいかない。
﹁⋮夜回り、再開しましょうか﹂
宮之阪さんの後を追い、建物から出る。
実はこの建物、地区随一の繁華街﹃新地﹄の外れにある。
高級料亭や、席料一万円な酒場が軒を並べる。
地価高騰の煽りを食らった、冴えないお店や建物はすぐさま淘汰
されてしまうのだ。
見た目の煌びやかさとは裏腹に、不満を酒で忘れる人々の浄化さ
488
れない念が滞留している。
⋮キモチワルイ⋮。
﹁正直、ここは息苦しく感じるね。街全体に負の念が満ちている感
じ﹂
こみ上げてくる胃液を押し込むように、手で口を押さえる。
悪い油で揚げたコロッケを大量に食った後のように、込み上げて
来るものがあるな。
﹁⋮有難がってここで呑んでる人の⋮気が知れませんね﹂
さっきの浄化された場所が、いかに不自然な場所か⋮再度身を持
って感じる。
宮之阪さんも、しかめっ面でため息をつく。
ポケットから小瓶を取り出し、掌に乗せ祈り始める。
小さな香水のビン程の中には、水と岩塩のかけら、ラピスラズリ
の欠片、ペリドットの欠片が入っているのだそうだ。
ビンの蓋を開けると、水が見る見るうちに少なくなっていく。
﹁カオルさん⋮通り雨が降りますから、あちらの軒でしのぎましょ
う?﹂
俺の手を取り、雨宿りできる場所へ引っ張ってくれる宮之阪さん。
﹁その水は、聖水?﹂
退魔=聖水。それは安易過ぎる考えなのだろうか。
ハリウッド映画の見すぎかな。
489
﹁いいえ、教会の聖水とは違います。 ベリドッドは太陽石、悪霊
を退ける力に満ちています。ラビスラズリは天空の青、ベリドット
をパワーを空に運んでくれます。岩塩は再び結晶化しパワー固定し
てくれます﹂
宮之阪さんが説明してくている間にも、ポツポツっと空から雨が
降り始める。
石の魔力を含む雨は、瞬く間に本降りとなり念を洗い流してくれ
る。
﹁俺、雨が好きになりそうだ﹂
清浄な空気と鼻をくすぐる雨の匂い、深呼吸したくなる。
﹁雨の匂い⋮降り始めの雨の匂いは石のエッセンス⋮﹂
降り始めの雨の匂い、なんとも言えない匂いがする。
﹁私は、この匂い好きです﹂
空を見上げにっこりと笑う、なんとも良い顔をするので、思わず
見とれてしまう。
洗い流されて、逆に判ることもある。
今度は、清浄な空気の中に、点々と負の気配を感じる。
﹁あの⋮廃墟化した立体駐車場の辺り、キツイ気配を感じるね﹂
490
環境を考慮した、カラフルな間仕切りで区切られたビル。
螺旋状に上に登れる構造の立体の駐車場だ。
﹁カオルさん、壁抜けしますので驚かないでください⋮気分が悪く
なったら、手を握り返してください﹂
そう言い、俺の手を握る宮之阪さん。
目を閉じラテン語の呪文を呟く。
﹁⋮transfero﹂
奈落の底に落ちていくような、むず痒い感覚が全身に広がる。
手を引かれるまま、進入禁止の仕切りを抜ける。
うぅ。体になにか異物を通されたような、未知の感覚に怖気がす
る。
⋮生け造りの魚とか、こんな気分なんだろうか。
進入禁止の壁を通り抜け、建物の一階部分を通り抜けた辺りで感
覚の限界を感じる。
﹁ま、ちょ、もう無理⋮﹂
引かれる手を握り返す元気もなく、その場に膝をつく⋮
うげぇ⋮キブンワルイ。
ほんのりと実体化していく体を見て、さらに悪寒が襲ってくる。
﹁私も、この魔法キライ。自分を見失いそうで怖い﹂
自分を自分で抱きしめるように、身を硬くする宮之阪さん。
表情が本当に嫌っているのがわかる⋮しかめっ面だ。
491
俺の手を取り、背中を擦ってくれる。
なんかそれだけで、安心できる。
﹁実体を失うと、それまで実体を支えにしていた心が剥き出しにな
ります。そして殻を破った不安感が心を支配します⋮﹂
それで、宮之阪さんは確かめるように、自分を抱きしめていたの
か。
﹁霊も、実体を失い不安に思っているのです。精神不安が悪霊化さ
せていくのだと思います﹂
滅多に味わえない臨死体験ってか。
便利な魔法なんだけど、あんまり味わいたくないな。
ふらふらになりながら立ち上がる俺に、気を使ってくれる宮之阪
さん。
﹁まだ、心の不安は拭えませんか?﹂
心配そうに、顔を赤らめて俺を見つめる。
実は、結構無理してるんだよな。違和感みたいな感じが体に残っ
てるんだ。
﹁まだ、駄目みたいですね。無理させてすいません⋮﹂
宮之阪さんが俺に身をよせ、、ふらつく俺の体を抱きしめてくれ
る。
﹁!﹂
492
突然の事に言葉が出ない⋮リアクションが取れない。
身長差があって、宮之阪さんの表情を見る事は出来ないが、体を
通して伝わる鼓動が宮之阪さんの気持ちを伝えてくる。
ぎゅっと首に回されていた手が、ゆっくりと背中に降りてきて、
子をあやす様に﹁ポンポン﹂と背中を叩いてくれる。
遠い昔、ガキの頃に味わった感覚だ。
母の温かみ。
背中の手。
目を閉じて⋮居心地のいいその感覚を、いつまでも味わって居た
くなる。
﹁まだ、駄目ですか?﹂
﹁⋮あとちょっとだけって言いたいけど、大丈夫そうだ﹂
母に甘えるように、もう少しこの感じを味わっていたい⋮そんな
気持ちを振り払う。
﹁私も、初めて教わった時に⋮おばあさまに抱きしめられました。
その時は、泣きながら⋮眠るまでしがみ付いていましたよ﹂
昔を思い出し、苦笑する宮之阪さん。
そう言いながら、俺から離れる時に見せた⋮照れくさそうな表情
を見て、俺も照れくささを感じずにいられなくなった。
﹁ありが⋮﹂
﹁!﹂
493
最後まで言葉を紡ぐことが出来ず、上の階を反射的に見る。
時を同じくして、宮之阪さんも上を見上げる。
負の気配は爆発的に膨れ上がり、魔の⋮闇の気配に変わる。
﹁カオルさん!急ぎましょう!﹂
俺たちは駆けだし、螺旋の駐車場を上の階に向かう。
494
﹃夜間作業4﹄
階を登るごとに、魔物の存在感が大きく感じる事が出来る。
魔物の気配がより強く感じるように、もう一つの気配も感じ取れ
る。
走りながら目線を宮之阪さんへ、﹃判っています﹄と目で返事を
返してくる。
そうだ⋮奴がいる⋮。
しかも、魔物と絶賛格闘中⋮双方の気配が揺れている。
﹁すぐ上の階だ﹂
天井から染み出してくる魔物の気配が、直上の階への存在を示唆
している。
駆ける脚への踏み込みが力を帯びる。
﹁Aigis!﹂
宮之阪さんの呪文に合わせ、両の手が光を帯びる。
﹁Minerva! Medousa!﹂
両の手の光が宙を舞い、宮之阪さんの周りを周回する。
一度修行で手合わせしてもらった時に、その性能を嫌と言うほど
味わった⋮イージスの盾。
神話では、イージスの盾にメドゥーサの首を飾り、無敵の性能に
なったとか。
495
頼りないピンポイントバリアーみたいに甘く考えていたら、痛い
目にあう。
恐ろしいのは、宿主の意思に関係なく防御をすると言う事だ。
自立思考のもと宿主を守るらしい。
人は戦闘するときに、攻撃に主眼をおくか、防御に主眼置くか、
その間で攻守の割合が変動する。
宮之阪さんの場合、ミネルバとメドゥーサのおかげで100%戦
闘に集中できるのだ。
これほど厄介な事はない⋮、仲間で良かったと思う。
﹁!﹂
目の前の闇が色濃く集まりだす。
そして行く手を阻むかのように、黒の瘴気が形を成す。
﹁カナタ!久々の飯だぞ﹂
俺は、腰に挿した守り刀を引き抜く。
﹁やった∼ ごはん♪ ごはん♪﹂
俺の肩に乗り小踊りするカナタ。
あまりにひもじかったのか、何時もの鍔鳴り音すら忘れているよ
うだ。
﹁あっ⋮ ﹃ちゃ∼きぃ∼ん﹄﹂
今思い出したようだ。
⋮しかも小声になってるし。
久々の登場だもんな、仕方ないか⋮。
496
﹁さて、早めにお食事しないと⋮宮之阪さんに燃やされちゃうな﹂
脚を止めて、魔法詠唱にはいる宮之阪さんをチラリと見る。
アイコンタクトで意思相通完了。
﹁露払いに専念してくれるって。 カナタ行くぞ﹂
瘴気が重なり集まって蜘蛛の形に変わっていく。2m程のデカイ
蜘蛛。
利き脚の踏み込みに合わせて、長考モードへ突入。
敵の攻撃を待たず、思い切って斬り込んだ。
逆手で持つカナタを水平に右から左へ一閃。
﹁いっただきまーす﹂
カナタが瘴気を吸収していく。
しかし蜘蛛の大きさが吸収速度を上回っている⋮ 左右から蜘蛛
が手が俺を包む。
左手でナイフを引き抜き、一方の脚の攻撃に防御を試みる。防御
出来ない右の脚に蹴りをいれる。
一拍、貯めが出来たところで、カナタを返す刀、左から右へ斬り
付ける。
﹁おかわり∼﹂
再度、蜘蛛の瘴気を吸収するカナタ。
同時に左の手に持つナイフを振るい、俺を包み込む左手を斬った。
鉄の破魔の力で、蜘蛛の左手がぼとりと落ち、霧散していく⋮。
497
一拍置いた所で、宮之阪さんの魔法が周囲を焦がす。
強大な炎の暴力。
バックドラフトが酸素を喰らい、周囲の闇の瘴気を浄化して行く。
﹁カオルさん、急ぎましょう!﹂
残心と息を整える間もなく、宮之阪さんが走り出す。
さっきの小物とは比較にいならない瘴気が、頭の上で渦巻いてい
る。
相対的に考えると、かなりの大物って事になる。
敵か味方か判らないが、一人なら苦戦している筈だ。
駆けつけた俺達が見たものは、禍々しいまでの瘴気の塊だった。
馬鹿でかい蜘蛛⋮さっきのが子だとするとアレは親だな。
駐車場の天井につきそうな大物。5mはありそうだ。
その周りに先ほどの小物、7匹ほどが親を取り巻いている。
肝心の奴は、手前3mに位置し俺たちに背を向け戦っている。
身長180ちょい、スリムジーンズに白のシャツ。
手には2mほどの棍。器械武術の類か?
立つ姿⋮骨格が女のものじゃない。男か。
一歩、一歩と敵を刺激しないように近づく。
あと一歩踏み込めば、暗いなりにも奴の風体が判りそうな距離。
その一歩を踏み込む前に、奴から警告の声が発せられた。
﹁それ以上近づくな!﹂
闇の中に響き渡る男の声。
498
短く、激しく恫喝する声は、俺と宮之阪さんの脚を止めるには十
分な迫力だった。
﹁⋮しかし、ヤバくないのか?お前﹂
チェックメイト
脚を止められ、声を出すしか手立てがない⋮。
﹁いや、全然ヤバくない。むしろ王手二手前だ、そこで見てろ﹂
微動だにしない奴の背。
自信に満ち溢れた背中が、その言葉を真意を物語っている。
﹁発!﹂
奴の掛け声と共に、黄色地の紙に赤の墨汁で書かれた符が、ドミ
ノ倒しのような勢いで飛び出す。
まるで風に飛ばされるように勢い良く、だが整然と奴の周りを囲
むように配置される。
宮之阪さんのミネルバ、メドゥーサの様に奴を囲み、人工衛星の
ように守護している。
﹁除邪气符﹂
掛け声と共に、周囲の符が弾丸の様に形を変え蜘蛛に突き刺さる。
中央の数体の蜘蛛が一瞬で浄化される。まるでモーゼの海渡りの
ように﹃親﹄への道が広がる。
取り囲もうとする周囲の蜘蛛たちを、ヌンチャクの様に円を描く
動きで、一体一体と叩き伏せ、親の射程内へ忍び込む。
﹁除鬼邪妖魔附身符﹂
499
爆発するように、符が四方に弾け飛ぶ。
四散する符が、取り囲む蜘蛛達に降りかかり、そこでまた小爆発
を発生させる。
連続する爆裂音の中、奴は跳躍し、親の額に一枚の符を貼り付け
る。
﹁帶身收斬兇神惡殺符⋮﹂
着地し、立ち尽くす奴の無防備な姿。
凶悪な親の脚が振り下ろされ、奴に攻撃する⋮ほんの一歩手前で
停止する。
奴はブルースリーさながらの棍裁きで、周りに残る蜘蛛を叩きつ
ぶす。
まだ、親の手は止まったままだ。
﹁王手かな﹂
親の額に貼り付けられた黄色の符が光りだす。
蜘蛛の親は、符に吸収されるように消えて行き、それに合わせて
符の色がどす黒く変化していく。
ひらひらひらっと上から落ちてくるどす黒い符を、右手で掴む。
奴が符に念をこめると、符が一瞬の間に発火し奴の手から消えた。
右手の親指と中指を合わせ、﹁パチン﹂と一鳴らしすると、空中
の護符が役目を終えたようにポケットへと戻っていく。
見事なまでに無駄がない。
しかも、すべての動きが俺達に背を向けたまま行われたという事。
相当の実力がないと出来ない。
500
﹁終わったんで帰りたいのだが⋮﹂
背を向けたままの姿で、俺達に話しかけてくる。
よっぽど顔を見られたくないようだ。
﹁その前に、聞かせてくれないか?﹂
駄目で元々、コミュニケーションを取ってみる。
﹁名前と⋮ここに居る動機なら話せない﹂
背を向けた奴から拒絶の反応が返ってくる。
何を聞かれるのか判っているのだろうな。聞きたいのは﹃誰だ?﹄
﹃何をしている?﹄だもんな。
﹁じゃ、スリーサイズで良いや﹂
﹁1m、53、1mだ﹂
ボケた俺に、さらにボケを被せて来る奴。お前は砂時計か⋮
むぅ⋮なかなかの凄腕だ。
﹁すげぇ、ボン!キュボン!だな﹂
﹁トランジスタグラマーって言われている﹂
さらにボケてくる奴。おめぇ180超えてるだろうが!。
﹁聞きたい事はそれで終わりか?そろそろ帰りたいんだが﹂
501
ため息をついて腕を組む。
﹁名前はいいよ⋮聞かない。けどお前の事はなんて呼んだらいい?﹂
OF
THE
OPERA ⋮ファン
奴の返答は無い⋮答える気が無いのではなく、考えている。
PHANTOM
雰囲気でそれが伝わってくる。
﹁THE
トムと呼んでくれ﹂
オペラ座の怪人かよ⋮。見てねぇ⋮守備範囲外だ⋮。
﹁じゃあな!﹂
符を一枚投げてよこし、俺と宮之阪さんの眼前で弾け閃光を放つ。
即席の閃光弾に網膜が焼きつき、一瞬目が見えなくなる。
目を押さえ真の暗闇の中にいる俺達を尻目に、その横を悠然と歩
いていくファントム。
去り行くその背に俺は叫ぶ。
﹁俺はカオルだ、またな! ファントム!﹂
追いかけて⋮取り押さえて顔を見てやる事も出来るかも知れない。
しかしあいつは悪人じゃない。
知られたくない、見られたくない訳があるのだろう。
理由を無視してまで見て⋮知りたいとは思えない。
﹁またなカオル﹂
502
背を向けたまま手を振るファントムを、見守る事しか出来なかっ
た。
503
﹃夜間作業5﹂
﹁Taoism⋮⋮ Phantom⋮⋮﹂
目を閉じて網膜の回復を待つ間、身動きひとつしない宮之阪さん
が呟く。
テロ鎮圧武器に音響閃光弾ってのがあるが、アレで行動不能にな
るのか疑問に思っていたが⋮⋮。
五感の一個でも損なうと、一瞬動きが停止する事が判った。
﹁Taoism⋮⋮、日本語で言う道教の事ですね﹂
俺もまだ目に残るダメージを緩和するため、目を閉じている。
しかし⋮⋮、道教か。
陰陽道に強く影響を残し、今なお日本に受け継がれている宗教学。
修学旅行で行った奈良にも、﹃奈良町﹄と言う庚申講を受け継ぐ
町があった⋮あれも道教の教えと聞いた事がある。
会話の発音と受け答えからしても、外国人と決めて掛かるのは早
計だろう。
特にシュール系の笑いのセンスは絶品だ。
お笑い番組を見て育たないと、あれだけの受け答えは出来はしな
い。
﹁こんな精神状態で見回りしても怪我するだけだ。一旦帰還しよう﹂
俺の提案に、無言で肯定する宮之阪さん。
精神状態⋮、さっきから宮之阪さん怒ってるんだよな。
目潰し食らったのが、よっぽど頭にきたらしい。
504
﹁マニセンマキ!﹂
口笛一吹きし、上空で待機していた魔法の箒を呼び寄せる。
例のマンションへ戻った俺達は、宮之阪さんの部屋で、残りのメ
ンバーの帰りを待つことに。
とりあえず、各部屋に付箋メモを貼り付けてきた。
電話やメールで急かす程、急を要する用事でもなく、見回りして
いる他のメンバーに気を使った判断なのだ。
﹁メモ貼り付けてきたよ∼﹂
お部屋片付けてきます∼なんて言われたので、ゆっくり8階、7
階を廻ってきた所なのだ。
宮之阪さんの部屋、一度入ったけど掃除好きなのか、物凄く綺麗
だったけどな。
だから余計、見られたくない物もあるんだろうなとか、考えてし
まう。
﹁あっ! はい∼!﹂
勝手知ったる部屋なので、遠慮なく入っちゃったけど返事が慌て
てるなぁ。
トテトテトテと奥からお出迎えしてくれたのは、宮之阪さん?
505
﹁宮之阪さん?﹂
大き目の丸めがね。ナルトマークようなグルグルめがねだ。
﹁はい⋮⋮、宮之阪さんです⋮⋮﹂
しょんぼりとうな垂れる宮之阪さん。⋮⋮メガネっ子だったんだ。
﹁いつもはコンタクトなのですが、先ほどの閃光で目を見開いた時
に⋮⋮ ポロリと﹂
もしかして、それで怒ってたのか。
いや、変に身動きしないなぁ∼とか思ってたんだ。
﹁すぐ探せば間に合った見つかったかも⋮⋮﹂
あの暗闇では、望みは薄いが⋮⋮
﹁脚を動かした瞬間に、﹃パキッ﹄って聞こえましたから⋮手遅れ
です⋮⋮﹂
ハードコンタクトだったのですね⋮⋮。
メガネ越しに滝のような涙を流している。
いや待てよ? なんか、これはこれで萌えかもしれんぞ。
グルグルメガネを外すと、意外や意外美少女だった⋮⋮なんて定
番中の定番の設定。
美少女の宮之阪さんが意外や意外グルグルメガネだったなんて⋮⋮
⋮⋮やっぱ微妙な設定だよな。
﹁まぁ、立ち話もなんですから、お部屋に上がってください∼﹂
506
宮之阪さん⋮⋮。
マニセンマキ
さっきから話しかけているのも、お辞儀しているのも俺じゃない
です。
玄関先の魔法の箒に話しかけている様に見えるのですが、そのメ
ガネ度合ってますか?
案内された宮之阪さんの部屋、ロココ調の家具が配置されたリビ
ングだ。
ロココ調=ベルサイユっぽい!と想像してもらえればOKだ。
三人掛けのソファとシングルソファーが点々と。中央に円卓が配
置されてバランスがよい。
部屋の端には、緑の鉢植えが配置されて雰囲気を柔らかにしてい
る。
﹁なにか飲み物でも用意してきます⋮⋮ カオルさんは掛けて待っ
ていてください∼﹂
絶好調に喋る宮之阪さんが新鮮で、何も言わずに観察してる。
さっきみたいに指摘すると、元に戻っちゃうからな⋮⋮
そう言えば、ファントムと対峙した時も一言も喋らなかったし⋮
⋮人見知りするのかな。
﹁あぅ!﹂
I'll
never
forgive
台所の方で、鈍い打突音が響き渡り、宮之阪さんの呻き声が聞こ
えてきた。
﹁Phantom⋮⋮
you⋮⋮﹂
507
ファントム!あんた絶対許さないんだから! なんて、八つ当た
りのような言葉を吐いてますよ。
オデコをぶつける↓コンタクトが無いから↓ファントムの目潰し
が悪い↓ファントムが悪いという事ですね。
オデコにたんこぶを作りながら、宮之阪さんが飲み物を用意して
きてくれた。
﹁宮之阪さん? これは?﹂
透明な液体が満ちた瓶⋮そして升に入ったコップが二つ。
ラベルには﹁石蔵 天狗さん 純米大吟醸﹂って書いてあるハー
フボトル。
冷蔵庫で冷やされ、いい感じの温度になっている。
宮之阪さんは俺の問いに答えず、飾り気の無い小さなコップに注
ぎ始める。
﹁ワインみたいな口当たりだと聞いてますが?﹂
いや、飲み易さを聞いているのでは無いのですが⋮。
すぃっと伸ばした指先で、俺の前に運ばれる升コップ。
﹁しかし、なんで升にコップなんですか?﹂
オッサン臭い。なんて口が裂けても言えないけど。
﹁ユカが、日本のを呑むときは升でコップや!って教えてくれまし
た﹂
508
山科さんか⋮⋮。情報が偏りすぎてます。
﹁日本用に、飾り気の無いコップを買ってしまいました♪﹂
宮之阪さん、あんた騙されるよ⋮⋮。
にっこり笑う宮之阪さんにそんな事は言えない。言える奴は鬼だ。
騙す山科さんも鬼だ。
次がれた天狗さんを手に取り、一口いただいてみる。
冷やされていて、匂いがあまりしない⋮⋮クンクン。
くいっ⋮⋮⋮。
トロリとした水っぽいんだけど、甘くて後味だけが独特の風味を
醸し出す。
うーん、﹃しゃっきりポン﹄だ。
﹁う⋮⋮うまいかも﹂
冷やすとヤバいとよく聞くが、なるほどだ。
宮之阪さんも俺が呑むのを見て、自分も口をつける。
手で口元を隠すようにくいっといただく。
﹁ユカから、日本の作法は目上から目下へ男性から女性へと教えら
れました⋮⋮。カオルさんが口をつけてくれて良かった♪﹂
美味しかった!って事だ。
山科さん嘘情報に混ざり本当の事も教えてるんだ⋮⋮。
だから余計騙されるのか。
509
﹁おー、なんか始まっとるなぁ。うちも一杯頂戴なぁ﹂
勝手知ったるなんとやら、玄関で音がしたと思えば、見回りを済
ませた山科さんと乃江さんが帰ってきた。
二人は、三人掛けのソファに並んで座り、天狗さんをおねだりす
る。
宮之阪さんがおつまみを用意し、二人が喉を潤せた頃には、今日
マリリンがメガネやなんて⋮⋮やられたんか
の事を一部始終話し終えていた。
﹁ファントムか⋮⋮
?﹂
気遣う山科さんに首を横に振る宮之阪さん。
﹃絶対違う!﹄と言わんばかりの首の振りよう。
﹁なんかキザったらしい奴やな。うちらが出会っとったら、否応な
しに動きを止めて尋問したるのに﹂
スルメを口にくわえ、山科さんが呻く。
表情は、ファントムと出会えなかった口惜しさで一杯だ。
﹁沖縄空手にも棒術があるが、基本は手の延長だ。⋮⋮拳を使う事
と変わらん。徒手も出来ると見たほうが良いな﹂
近距離から棍の射程まで、遠距離は符を飛ばせる距離という事だ。
自分の周りに符を配置していたし、防御もある程度あると見たほ
うが良いだろう。
隙が無いじゃないか⋮⋮。
510
﹁うちやマリリンやと相性良いかもな。風と重力で押さえ込めるし、
バックドラフトで瞬殺やろ?﹂
なんか山科さん、ファントムを倒す事しか考えていないような⋮。
﹁そうだな、私は徒手でどこまでやれるか試してみたい﹂
素手対棍。そのハンデ戦を挑む乃江さん。
自分の技を信じているからこその発言だ⋮やる気満々だな。
しかしみんな勘違いしてる⋮味方じゃない⋮けど、敵でもないん
だし。
﹁みんな∼ ケーキ買ってきたよ∼﹂
手にケーキ箱を持った真琴と美咲さんが帰ってきた。
呑んでいるにもかかわらず、﹃ケーキ﹄の単語に歓声が上がる。
即座に全員が、統制の取れた軍隊のように動き回る。
皿、ナイフ、フォーク、お茶の用意だ。
女の子ってなんでケーキ好きなんだろうなぁ⋮。
このチームのよさは、変なチームワークの良さと、緊張感の無さ
なのかもしれないな。
511
﹃夜間作業5﹂︵後書き︶
Q:マニセンマキって何ですか?
A:WRCで有名なトミ・マキネンの全盛期にコ・ドライバーとし
て活躍したナビさんです。
どんなに腕っこきのドライバーでもコドラがへぼだと優勝でき
ません。
ちなみに魔法の箒のネーミング第二候補はトシ・アライでした。
訃報
お茶のかかったPCがご臨終なされました。
HDDのセクター不良みたいです。<お茶は?@@
今の所、携帯の922SHでのみ更新可能なのですが、打ちにくい
⋮><
2.5インチHDD探して、復旧するぞ∼。
512
﹃夜間作業6﹄
﹁糖分補給も十分できた所で、ダイエットの時間にしましょう﹂
トートバックからノートPCを取り出して、テーブルへ設置する。
ダイエットの意味も、ノートPCのを広げる理由も分からず、全
員の動きが止まり美咲さんに視線が集中する。
﹁今から、ファントムを追跡します。パソコンと頭脳で⋮頭脳戦で
すね﹂
PCに掛かる長い髪をゴムの髪留めで後ろへ結わえ、PCの電源
を起動する。
なるほど⋮頭を使うって事で、糖分を使うという事だな。
長考論理を知らないと、ダイエットの意味がわからんですよ⋮。
﹁追うって言うても、インターネットで検索してもしゃーないのと
ちゃうか?﹂
山科さんが呆れ顔で、起動するPCを覗き込む。
PC=インターネット接続、一般人はこう考えてしまうんだろう
な。
俺は、美咲さんがどこに接続しようとしているのか⋮なんとなく
分かってしまった。
前に一度見せてもらった事があるからな⋮。
﹁配給されているPDAやPCは、シンクライアントなんです。本
体はこのPCではなくてデータセンター内のサーバなんですよ﹂
513
GNOMEログイン画面が表示され、流れる動作でユーザ名、P
ASSWORDを入力する。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−
[a︳misaki] [********]
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−
某社のタイトルロゴが表示され、OSが起動した。
普通のユーザだとここで、Windowsが起動するのだが、w
indowsもこのサーバ上の仮想OSなのだ。
MS嫌いの美咲さんは、ログインシェルを書き換えて直接サーバ
に入れる様にしてある⋮って聞いた。
自分のメールもUNIX上で見るとか言っていたから、かなり病
的なMS嫌いだ。
画面上で右クリックを二発、[コンソール]を二枚起動させる。
﹁ユーザ用のアクセスサーバから、退魔士情報を集約してるデータ
ベースサーバへ検索かけますね﹂
さも当たり前のように言っているが、ハッキングまがいの行動な
のだ。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
su
−
−−−−−−
$
<*******
#
514
#
V”
cat
/etc/hosts
|
grep
”DB︳S
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−
﹁なんで、美咲さん⋮root︵管理者︶パスワード知ってるのか
な﹂
誰もツッコめない操作だが、ここはスルーできない⋮
﹁よくあるパスワードだと20回位チャレンジしますと、パスワー
ドが通っちゃうんです﹂
国家機関の癖に、セキュリティ甘いなぁ。
﹁ユーザのアクセスサーバだから、甘い設定にしてるのか⋮管理能
力が乏しいのか⋮嘆かわしいです。よよよ⋮⋮﹂
嘘泣きする素振りで目を擦る美咲さん。
口元がニヤリと笑ってる⋮。怖いんですけど。
ホスト情報からDB︳SV名を含む、アドレス一覧を表示させた
美咲さんは、画面を覗き込む皆に説明を始める。
﹁同じ様なホスト名が並んでるでしょ? 一台だと故障したらアク
セス出来なくなるからクラスターを組んでるのですよ﹂
VCSでクラスターのOracleRACだの未知の単語を連発
する美咲さん、ちょっと理解不能かも。
画面を見ると同じホスト名に1,2,3と名前がついている。
515
﹁一番偉そうにしてるサーバにログインしてみましょう﹂
偉そうの意味がよく判らんのだが、流れるタッチタイプでキー入
力を済ませる美咲さん。
oracle@MAINDB︳SV
from
to
of
l
kno
yes
cont
the
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−
# ssh
found
want
hosts.
not
known
key
of
Host
ist
you
you
sure
Are
list
︵yes/no︶?
the
connecting
to
inue
added
hosts.
Host
wn
2
5.
04:13:3
password:
Jun
SunOS
2005
Inc.
localhost
Fri
oracle@MAINDB︳SV's
*****
from
login:
2006
Last
8
−
January
Microsystems
su
Generic
Sun
10
$
*****
#
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−
もはや、ツッコむ元気がなくなってきた。
sshでデータベースのメインサーバにログインして⋮。
ログインできたどころか⋮そのサーバのroot︵管理者︶にな
516
っている⋮。
しかし、偉そうの意味がわかったぞ⋮﹁main﹂って付いてる
からだな。
﹁データを抽出するので、ワークディレクトリを作っちゃいましょ
う﹂
もはや全員無言。真琴に至っては、事の重大さを理解して真っ青
になっている。
そうだよ⋮これは犯罪行為だもんな。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
mkdir
oracle:oracle
−p
−−−−−−
#
chown
cd
−l
/export/home/misaki
/export
/export/home/misaki
#
#
ls
/home/misaki
#
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−
ああ⋮、テンポラリーのディレクトリ名に自分の名前を使ってる
し⋮怖いものなしだな。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−
oracle
su
−
#
sys/dba
XX
21:09:
10.2.0.1.0
X月
sqlplus
月
$
on
Release
Production
SQL*Plus:
−
517
43
2008
All
︵c︶
2005,
reserved.
1982,
rights
Copyright
cle.
Ora
−
Enterpris
10.2.0.1.0
a
10g
Release
Database
Edition
Oracle
e
Production
OLAP
options
Partitioning,
Mining
the
Data
With
nd
に接続されました。
SQL<
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−
﹁カオルさん、マリリン? ファントムは確かに﹁男﹂でしたか﹂
振り返り、俺と宮之阪さんに問いかける美咲さん。
顔も見ていないし、声だけしか聞いてないんだよな。
けど骨格がな、特に腰と太ももの位置は女と男では特徴がハッキ
リ分かれる。あれは絶対男だ。
﹁身長180超⋮、声は⋮男、骨盤の位置も⋮男﹂
宮之阪さんが俺と同じ結論に達したようだ。俺に先んじて返答す
る。
俺は頷いて同意する。
美咲さんは、二人の意見を聞き再びタイプする。
518
=
FROM
'male'
USER︳MASTER
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−
*
USER︳TYPE
SQL<SELECT
WHERE
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−
﹁とりあえず男性の全データをダンプしたら、重いサーバから撤退
しましょう﹂
見てる俺たちには遅い速いが判らないのだが、操作している美咲
さんには苦痛のようだ。
﹁その前に、ログイン履歴を消去しておかないと⋮﹂
ふふふ⋮と苦笑しながら、コマンドを打ち込む美咲さん。
あら嫌だ私ったら⋮ふふふ、なんて笑いをしながら証拠隠滅に勤
しんでいる。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
#
#
cp
cp
cp
/dev/null
/dev/null
/dev/null
<
<
<
/opt/app/ora
/var/adm/****
/var/adm/****
−−−−−−
#
cle/network/*.log
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−
もう目で追えない位の数のログを抹消していく美咲さん。
519
コマンド履歴、ログイン履歴、auditログ、DB関連の接続
ログ等を証拠隠滅していった。
データベースからのダンプをユーザアクセスサーバへ転送し、デ
ータベースサーバからログアウトする。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−
rm
/export/home/misaki
#
logout
−r
#
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−
﹁一応、全男性のユーザデータを抽出し終えました、位置情報、実
績地域、年齢等を抽出すれば⋮かなりの数に絞れます﹂
データベースサーバからログアウトして、ホッと一息付く美咲さ
ん。
流石の美咲さんも緊張していたか。
﹁特徴と言っても⋮身長180cm前後、男、年齢は俺くらいの歳
から25までの間かな﹂
思い出すようにファントムの思い浮かべる。
﹁美咲さん、男性全データってどれ位の人が、登録してるんですか
?﹂
真琴が興味津々に聞いてくる。ナイス!真琴それは俺も気になる。
﹁日本の退魔士以外にも、海外のデータも含まれていると聞いたこ
520
とがある。少し前の情報だと2万人以上﹂
乃江さんが自分の手帳を見ながら答えてくれた。
その手帳にはどれだけの情報が詰まっているのか⋮それが気にな
るよ⋮。
﹁じゃ、最新のを見てみましょうね﹂
鼻歌交じりで、コマンドを打ち込む美咲さん。
wc
−l
user︳name
USER︳MASTER.
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
|
grep
−−−−−−
#
out
21597
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−
﹁名前のフィールドがある人をカウントしてみました。21597
人ですね﹂
美咲さんの返答を聞き、乃江さんが手帳にメモる。⋮情報更新?
2万人か。多いのか少ないのかわかんないな⋮
﹁日本の面積が、ざっくりと38万平方キロメートルだから⋮多す
ぎる計算だな。女性も含めて人手不足なのだしな﹂
普段から退魔士に囲まれてるから、身近に5人くらい居るのが当
たり前になっていた⋮。
521
﹁じゃあ、現在日本に居住、年齢15∼25で、他地区を省けば絞
れそうだね﹂
俺の言葉を聞きつつ条件をコマンド入力していく美咲さん。
$
&
$3>26
$0︸' USER︳MASTER.
&&
'$22==”Japan”
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−F,
$3<14
awk
−−−−−−
#
&
<aaa.out
9=”YZZ”︷print
out
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−
﹁22フィールドが日本、3フィールドの年齢が25以下15以上
9フィールドがこの地区YZZ記号の物を抽出しました﹂
全員が固唾を呑んで見守る中、次のコマンドを打ち込む。
aaa.out
|wc
−l
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
cat
−−−−−−
#
2
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−
﹁2名引っかかってますね⋮﹂
全員が生唾を飲み込んだ。
522
うー緊張するなぁ。
aaa.out
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
cat
−−−−−−
#
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−
﹁では、表示してみますね⋮﹂
緊張MAX⋮ 全員がモニターに釘付けになる⋮
Kaoru C
male
m︳kaoru
w︳gb@So
⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮
17
⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮
16
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−
Mimuro
Z
Butler male
@Soul.mofa.go.jp
⋮⋮
Gerard
ul.mofa.go.jp −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−
﹁カオルが居るな⋮ 当たり前か⋮ そやな条件ピッタリやもんな﹂
山科さんが俺の名前を見て苦笑する。
Butler﹄?こいつか?
そりゃそうだろ。無かったら不安になるよ。
しかし、もう一人⋮﹃Gerard
﹁やられたな、先にデータ改竄されている⋮⋮﹂
523
乃江さんが、ため息を付いて腕組をする。
of
the
Operaの主役、ファントム
Butlerは2005年ハリウッド版⋮The
改竄?どういう事だ?
﹁Gerard
Phantom
の俳優の名だ。それにランク﹃Z﹄なんて無い﹂
腕を組んで考え事をする乃江さん。説明しながら演算装置がフル
稼働している。
あくまでもオペラ座にこだわってるんだな⋮ファントムって。
﹁それじゃ、俺たちは一杯食わされたと?﹂
全員がお互いの顔を見合わせる。
お互いの悔しそうな顔を見て、山科さんが、乃江さんが、そして
みんなが笑い出す。
﹁乃江の悔しそうな顔⋮こんなん見れただけで十分面白かったわ﹂
山科さんの笑い声。
﹁そういうユカだって、凄く悔しそうな顔してたぞ﹂
笑われて余計不満顔になる乃江さん。こんな顔するんだなぁ⋮子
供っぽい⋮ぷぷぷ。
﹁真琴も変な顔、真っ青になったり、真っ赤になったり⋮まるで信
号機やん﹂
犯罪行為で青ざめて、先回りされてデータ改竄された事に悔しが
524
る真琴⋮
﹁うぐ⋮ だって悔しいじゃないですかぁ∼ ファントムさん⋮ム
カつく人∼﹂
ファントムさん⋮て。あくまで真琴は真琴だな。
﹁私も悔しい⋮でも⋮一番悔しそうなのは⋮⋮﹂
宮之阪さんの目線を全員が追う。その先には⋮
﹁⋮⋮⋮﹂
無言で画面を食い入るように見ている美咲さん。
先回りされたのが、そんなにショックだったのか。微動だにしな
い。
﹁むむむ⋮﹂
美咲さんのうなり声。こんな美咲さんも珍しい。
いや⋮始めて見たのではないだろうか。
﹁ムカ∼ ムカつく∼ ムカつきます∼﹂
うわ⋮⋮美咲さんがキレた。
八つ当たりする対象を探しながら暴れる美咲さん。
乃江さんに羽交い絞め、山科さん宮之阪さんに﹃ドウドウ﹄と諌
められている。
真琴は、割れ物を退避させるのに大忙しだ。
525
しかし、ファントムの特徴が2つ増えたな。
データベース閲覧を予測して改竄しておく周到さ、そしてデータ
ベースを改竄する知識・技術を持つ⋮か。
さてさて、どんな奴なのだろうか。
526
﹃夜間作業6﹄︵後書き︶
本文中の−−−−−−−−−−−−−−で囲まれた箇所は、ふーん
位で読んでくだされば結構です。
新しい試みなので、読みにくいかもしれません⋮。
527
﹃試験1﹄
﹁そろそろ中間考査だが、カオルは大丈夫か﹂
虚を付く口撃。
早朝の訓練の後、何時もの様に朝ごはんをいただいていた所に、
乃江さんの一言で思考停止してしまった。
⋮ここ一ヶ月位の学校の記憶が無い。
振り返れ俺。脳の演算装置クロックアップ!フル稼働だ。
04時30分 起床、服を着替え制服をかばんに入れる。
04時45分 全力疾走、高級マンションへ向かう。
05時00分 屋上での訓練
07時30分 朝ごはん ︵今ココ︶
08時00分 電車へ。混んでて嫌だな。
08時30分 5分前到着でSHRへ突入
08時40分 1限目、朝練の疲れでウトウト。
09時30分 覚醒、牧野と雑談
09時40分 起きているが集中できず結局ウトウト。
10時30分 覚醒、乃江さん特製のオニギリを食う。ついでに
牧野と雑談
以下繰り返しで昼まで⋮
12時30分 お昼ごはん、購買だったり、たまにみんなとお昼。
こっそりカナタにご飯をあげる。 13時20分 食後の睡眠
14時10分 覚醒
528
以下HRまで繰り返し
16時00分 下校、20時までプライベートタイム。夕食含む
20時00分 宮之阪さんのお迎えで1時間程夜回り↓マンショ
ンで報告会
22時00分 帰宅後風呂に入る。
23時00分 明日も早いので就寝24時までに寝たい。
最初に戻る⋮
⋮って、全然勉強してねぇ。堕落した学校生活送ってるぞ⋮俺。
﹁ノエサン、相変わらず味噌汁美味いっすね﹂
現実逃避のセリフしか出てこなかった⋮⋮。
﹁⋮⋮駄目っぽいな。なんとなく予測は付くが﹂
頭痛に耐える乃江さん。こめかみを指で押さえている⋮。
﹁訓練が学業に影響を与えている⋮とすると問題ですね﹂
味噌汁を啜り、美咲さんが悩ましげな表情を浮かべる。
そうなのだ、最近の朝練は厳しすぎる。油断してると10回位死
ねるんだもん。
ここは﹃ランクAなんてこの際諦めて、学業に集中しましょう﹄
とか言ってくれないかな。
美咲隊長お願いします。
﹁カオるんの根性が足りませんね﹂
529
ジト目で睨み付ける美咲隊長。あくまでも精神論、スパルタ体制
だ。
旧日本軍の体質だな。
歯を食いしばって立て!的なオーラが全身から噴出している。⋮
ガクブル。
﹁いや⋮、高校生にしてはフリーな時間が無さ過ぎて、精神的にも
⋮﹂
最後まで言葉を発することが出来なかった。
美咲隊長は﹃言い訳﹄が嫌いなのだ。
眼光鋭く、光る目で俺を威圧する美咲隊長。クワッ!って目で睨
まないで⋮
﹁下校してから夜回りまで、体力温存していたら何とかなる筈だぞ
?。遊び呆けてるのか?﹂
乃江さんも、俺を睨みつけて詰問する。針のむしろに座らせられ
ている様だ。
﹁あ、いや。免許を取ろうと思って⋮教習所なんかに通ってます﹂
前から思っていた二輪の免許だ。通勤⋮もとい、マンション往復
とか楽になるし。
見れば、乃江さんの表情が輝きを帯びている。
﹁ほう!二輪か!やるな﹂
元々乃江さんのタンデムシートに乗ったのがキッカケだ。
いつかは乃江さんの様に⋮と憧れの存在でもある。
530
﹁で、何を買う?﹂
目の中に星を一杯ちりばめた表情で問いかける乃江さん。背景は
花が咲いたように晴れやか。
﹁バイク雑誌をみてて⋮ 古いバイクなんですが⋮﹂
俺のしどろもどろな言葉など気にしない、ハイな乃江さん。ウン
ウン頷いて聞いてくれる。
﹁二期モデルのTZR250かNSR250なんかを手に入れたい
なとか﹂
TZRの二期⋮後方排気型の3MA型。
エンジン配置が前後逆で前吸気、後方排気型だ。
排気の集合やら排気圧の調整が難しくピーキーなモデル。
テールランプの上、タンデムシート内にチャンバーが内蔵されて
いて非常にカッコいい。
もう一方のNSR250の2期︵88型MC18︶は、最強・最
速の250ccだと言う噂。
市販モデルにする際あまりにパワーが有り過ぎて、デチューンし
てパワーダウンさせていると言う。
フレーム補強とチューンを施せば、そのままサーキットで勝てる
バイク。
﹁あとはSDR200なんか面白いかなと﹂
こいつはエンジンにパワーがある訳じゃないが、100kg程の
531
車体重量で軽い。パワーに対する重さではピカイチ。
市街地、山道などは無敵のスーパーバイクだ。
ふと乃江さんを見ると、感涙の涙を流している。
なぜ泣く?
﹁お前のセンスの良さに感動した。2スト車を選択肢に入れている
し、SDRと来たか⋮﹂
差し出される握手を求める手に、俺は握手を交わす。
握られる手から注入されるバイク魂。
判る人にしか判らない熱き思い。
﹁よし!お前の心意気に惚れた。中間考査まで勉強を見てやるから、
家に泊まれ﹂
爆弾発言と共に、俺の中間考査対策委員会が発足した。
﹁あかん!あかんすぎる! 年頃の男女が同衾するやなんて⋮﹂
学校の茶室、大量の米粒を飛ばしながら山科さんが叫ぶ。
食うか喋るかどっちかにしてください⋮。
﹁同衾とは、一緒の夜具で寝ることだ。それは間違っているぞ﹂
532
顔に飛んだ米粒をティッシュで拭き取り、乃江さんが反論する。
冷静に一緒の夜具とか言わないで欲しいのですが、聞いてるこっ
ちが恥ずかしくなる。
﹁不潔です⋮﹂
宮之阪さんもボソリと呟き俺を睨む。
﹁まぁまぁ皆さん、ここは逆転の発想ですよ。カオるんと一緒に居
られる時間が長くなるわけですから﹂
美咲隊長の鶴の一声で、不満分子は全員思考停止する。
それぞれの脳に穏やかならぬ想像が渦巻いている。
﹁ま⋮ 乃江は自分の寝室があるやろし、乃江に夜這いなんて掛け
れる人間は居らんわな﹂
人間レベルでは無理でしょうな。
獰猛なトラとかヒョウですら、乃江さんの眼光でネコになる。
俺からすると、虎と暮らすような物だし。
ドラマのようにお風呂場で遭遇⋮﹃きゃ!﹄とか﹃いやぁ﹄﹃エ
ッチ!﹄なんてリアクションは望めない。
割り箸を折るより容易く⋮この世から抹殺されるから。俗に言う
バッドエンドだ。
﹁夜回りの時間⋮遠慮なし?﹂
宮之阪さんが、上目使いでこちらを見る。
遠慮してたのか?だとすると申し訳ない。
533
﹁まあ主な目的は、移動時間を少なくして睡眠時間を稼ぐ事と、勉
強を教える事だから⋮寝る場所は自由で良いぞ﹂
さすらいの俺⋮。寝る場所すら定められないのか⋮。
でも、確かに移動時間をカバー出来れば楽になる。自由時間が2
時間以上増える計算だ。
そこまで計算された発言だったんだな⋮﹃泊まれ﹄ってのは。
さすが歩く演算装置、頭の回転が速い。
﹁ついでに勉強教えてもらいたいな∼﹂
にっこり笑う真琴。
成績優秀なお前なら高校2年の勉強でも付いていけそうだけど⋮。
﹁ま、真琴ズルイで。うちは数学が⋮もにょもにょ﹂
しょんぼり顔の山科さん。
﹁わ⋮私は漢字が読めません⋮﹂
ココにも致命的な事を言っている人が⋮
宮之阪さんの弱点は国語力、それに足を引っ張られるように全科
目が伸び悩んでいるらしい。
逆接的な言葉使いの意味を取り違えたりするのだそうな。
英国では飛び級で大学へ通うレベルらしいのだが、言葉の壁は想
像以上に厳しい⋮とか。
ここで、全員の得意不得意がわかってきた。
美咲さん⋮全科目そつなくこなし、理系科目はダントツ。
534
乃江さん⋮不得意科目は古典、体育︵加減がわからないので見学
多し︶その他優秀
山科さん⋮数学、歴史が不得意。その他優秀
マリリン⋮国語、古典、歴史が壊滅。英語も日本語の意味がわか
らないとNG
真琴⋮⋮⋮全教科優秀。水泳は嫌い。
俺⋮⋮⋮⋮授業を聞いていれば、全教科中の上から上の下くらい。
今は壊滅状態。
﹁じゃ、不得意科目は一緒に勉強してもええ?﹂
﹁漢字⋮﹂
山科さんと宮之阪さんの言葉を皮切りに、ダメ退魔士中間考査対
策委員会が発足した。
535
﹃試験2﹄
﹁まず、真琴小隊長!﹂
﹁ハイ!﹂
乃江さんの号令に手を上げて返答する真琴。
全員が一列に並び、乃江さんの指令に耳を傾ける。
﹁真琴小隊長は漢字小隊。宮之阪二等兵への教育を命じる、三日間
で中学生レベルの漢字の習得させよ!﹂
﹁大隊長!了解いたしました!﹂
敬礼のポーズと共に背筋を伸ばし、手渡された﹃漢字ドリル小学
1年生∼﹄を受け取る。
その横で宮之阪さんが、複雑そうな笑みを浮かべている。
﹁次! み⋮美咲小隊長!﹂
﹁あい!﹂
幾分気の抜けた返事をかます美咲さん。
乃江さんが﹃美咲﹄って言ったの初めてじゃないだろうか。貴重
貴重。
﹁高2にもなって公式すら覚えれぬ関西娘に、数学の講師を命じる
!﹂
536
﹁あい!﹂
軍式敬礼で、乃江大隊長に挨拶。
気の抜けた返事とは裏腹に、表情は殺る気に満ち溢れている。
美咲さんに教わるのか⋮、くわばらくわばら⋮
笑いながら怒ったり⋮計算ミスっただけで、﹃クワッ﹄って睨ま
れるに決まってる。
﹁乃江∼、計算出来へん子扱いは酷いんちゃう?﹂
八の字眉毛の山科さんが、不平不満を申し立てる。
﹃綱紀粛正!﹄
大隊長にその物言いはどう言う事だ?、と言わんばかりに周囲か
ら粛清の拳が飛ぶ。
ここぞとばかりに、鉄拳を見舞う乃江さんと仲間たち。
﹁お嬢様⋮もとい、美咲小隊長に教わるのに、不平不満は許さん!﹂
煙の立ち上る拳を引き締め、乃江大隊長が﹃こぉぉぉ﹄と息吹く。
この軍式申し渡しも、元はと言えば山科さんが原因なのだ。
たった三日、それだけの期間で集中講座を成功させるには⋮と、
乃江さんが苦慮していた所。
山科さんが一言。
﹁冷蔵庫の空いてる所に﹃伝説獣﹄冷やさしといてな∼。どうせ呑
むやろし?乃江ん所に冷やしとくのが一番やしな∼﹂
緊張感の無い山科さんの一言が、乃江さんの逆鱗に触れたのだ。
537
そこで急遽、ダメ退魔士隔離作戦が実施される事となる。
責任感の強い真琴に、押しの弱い宮之阪さん︵出来のいい妹チー
ム:仮称︶
理系抜群の美咲さんに理系弱い山科さん。︵理系+−チーム:仮
称︶
当初の師弟コンビの乃江さんが俺に教えると言うことで、絶妙の
ペアを構成した。
ちなみにコンビ名は︵ベンガル虎と野うさぎさんチーム:内緒︶
だ。
﹁あのう⋮大隊長⋮ 私が勉強を教わる話は⋮?﹂
綱紀粛正を恐れ、出来るだけ刺激しない口調で真琴が問う。
そうだった。真琴も勉強を教えて欲しいとかそんな事を⋮。
﹁心配するな。マリリンは漢字が読めないが、口頭だと伝わる。ス
キップして大学に行くレベルだ。問題あるまい﹂
なる!。乃江さんの編成に抜かりなし。
﹁しかも英語で会話すれば、本場の英語を学べるぞ? しかも米国
英語じゃなく英国英語だ﹂
立場の無かった宮之阪さんが、﹃えっへん﹄と言わんばかりに胸
を張る。
﹁大隊長!流石であります!﹂
宮之阪さんと乃江さんを尊敬の眼差しで見つめる真琴。
真琴・宮之阪ペアはうまく行きそうな雰囲気だな。
538
﹁では、全員解散!各自持ち場に付け!﹂
﹁らじゃ﹂
各自持ち場に移動。騒がしかった乃江さんの部屋が一気に静まり
かえる。
﹁やっと勉強できる⋮﹂
乃江さんが、床に突っ伏し脱力する。
まずは強化スケジュールの内容だが、下記のように乃江大隊長か
ら申し渡された。
18時帰宅 教習所通いもOKな遅めの帰宅。⋮帰宅って乃江さ
んの部屋なんだけど。
19時まで 勉強。晩御飯作りの乃江さん忙しいので自習
20時まで 晩御飯
22時まで 一緒に勉強を教わる。
23時まで 組み手。屋上は夜間設備も完備なのだ。
24時まで お風呂。ドキドキします。
25時まで お風呂上りの勉強タイム。
∼就寝∼
5時から 起床。屋上で組み手。
7時から シャワータイムと朝食。
539
8時 学校へ
うーん。地獄の勉強会になると思ったけど、割とヌルめだな。
普通の高校生の勉強並じゃないか?
途中で修行が加味されているのが絶妙な所。勉強三昧だと飽きる
からな⋮。
﹁ちなみにカオル、家にはどう申し出てきたのだ?﹂
乃江さんの疑問も当然だろう。体育系部活の合宿じゃあるまいし、
帰宅部にそんな言い訳は通用しない。
家を長期間離れるにはそれなりに言い訳も必要なのだ。
﹁インドの山奥に修行しに行くと言ってあります﹂
レインボーマン真っ青の言い訳だ。だが三室家はこういう路線が
いい場合もあるのだ。
案の定、母は二つ返事で了承してくれた。
妹に至っては﹃インド更紗﹄という布を買って来てくれとぬかし
おった。
放任主義にも程があるが、三室家はすでにリミッター解除状態だ
からな。
﹁そうか、納得してくれたのなら結構だ。家に心配掛けても問題だ
からな﹂
テーブルへペタンと座り、数学の教科書を広げる。
女の子座りしている乃江さんを見ると、つい普通の女子高生に見
えてしまう。
線の細い体躯、短い髪と白いうなじのコントラストが絶妙だ。
540
露出を抑えたカットソーと相反する黒のミニスカート。
すらりとした足がスカートから伸びて、キュっと締まった足首に
部屋履きの靴下。⋮恐ろしいまでに攻撃的だ。
だが、惑わされるな⋮女の子の姿をしているラオウだと思え。で
ないと⋮死ぬ。
心を強く持つ事が肝要なのだ。
﹁しょっぱなから数学ですか⋮﹂
どうも数学って無機質で感動のロマンがない。
歴史を振り返りロマン、文学に感動、化学実験で好奇心⋮そうい
う心をくすぐる何かが数学には欠けている。
どうもそんな気がして嫌いだったりするのだ。
﹁うむ、今期のテストは公式を覚え、それの応用で点が取れる。点
を稼げる教科から伸ばしていく方針だ﹂
なんとも現実的な発言だ⋮乃江さんらしいと言えば、らしいのか
もしれないが。
差し向かいの席に付き、カバンから教科書を取り出す。
相変わらずピカピカに掃除されているガラステーブルの先には、
乃江さんの生足が⋮
細いふくらはぎ⋮膝とほんの少しの太ももだけで⋮十分に集中で
きん! うぉぉぉ!青少年を舐めるな!
﹁隣に座っていいですか⋮ この席落ち着かないです﹂
きょとんとした乃江さんの返事を待たず隣に座る俺。これで視界
の誘惑は断った。
541
﹁まずはこの公式だが、小難しく考えずパズルのピースだと思え。
それをこうして⋮﹂
ノートに展開される数式と乃江ワールド。
どうしてもそれがパズルの欠片に見えません。
そして、ノートに書き込む乃江さんのうなじと胸元が気になって
仕方ありません。
﹁む?聞いてるか?﹂
ふと、視野に広がるチラリズムに気を取られ、相槌を打つのを怠
った途端、不審に感じた問いかけが返される。
﹁⋮すいません、聞けてませんでした。まだ緊張しているようです。
ごめんなさい﹂
小動物は素直に謝るのが一番なのだ⋮。
むぅ。
集中せねば。せっかくの好意が台無しになる。
﹁緊張⋮そうだな。いきなり勉強に入っても違和感を感じるか⋮。
かも知れんな﹂
ブツブツと独り言を言う乃江さん。
本当は、乃江さんの髪の毛やら体から発散する⋮いい匂いに気を
取られ、集中できないなんて口が裂けても言えない。
﹁なぁカオル。バイクの件だが⋮﹂
俺の好奇心に火をつける一言が発せられる。
542
飴と鞭なら今は飴。食いつかねばなるまい。
﹁バイクですか?﹂
俺の表情は今最高に輝いているはず。だって飴だし、乃江さんと
バイクの話してると楽しいもの。
﹁田舎の真倉家には、バイクが沢山眠っておってな。収まりどころ
を探しておるのだ﹂
収まり所という事は、貰い手って事か!。
﹁レア車は、一度手放すと手に入らない様な気がしてな。そうこう
するうちに20台近く所有する有様でな﹂
聞けば姉の綾乃さんから譲り受けた物が大半だそうだが、乃江さ
ん名義で税金だけ払って⋮いつでも稼動できる状態なのだそうな。
バイクショップから出張で、定期メンテナンスを依頼して錆付く
事無く眠りに付いていると。
乃江さんのバイクも綾乃さんチューンらしく、綾乃さんは機械い
じりに天才的な技術を持っているらしい。
限界まで研ぎ澄まし、安全マージンを持たせる匙加減が絶妙なの
だとか。
おかげで壊れず、高性能。通常市販状態より安全に快適なのだそ
うな。
﹁チューニング済みのSDR︲200も走行1千で眠っている筈だ
⋮﹂
うおお、好物件!。日本中探してもそんなレアないぞ?
543
﹁言わんとしている事が判るな? あとはカオルの頑張り次第⋮廉
価で譲り渡すぞ?﹂
キタ!好物件譲渡!やる気出たですぞ。
もう、俺には公式しか見えない。
﹁赤白のテラも、後方排気もあるが、素人にはお奨めできないレベ
ルで改造されている。SDRで慣れたらソレも検討しよう﹂
ポパイのホウレン草、ヤッターワンにメカの素のように俺の心に
ジェット燃料が給油される。
﹁やる! 数学が好きになってきた。ロマン!ロマンが注入された﹂
公式を睨む俺を見て、苦笑する乃江さん。
波に乗った俺たちは、勢いそのままに黙々と⋮、いや時折雑談も
する、いい雰囲気で勉強をこなしていった。
544
﹃心象世界へ1﹄
﹁ぐぇ⋮﹂
ドン!と腹部に鈍い衝撃が走った。
防御している腕越しに衝撃が伝わり、波の様に全身に駆け巡る光
の霊力。
逃げ場のないエネルギーが体内を反射し、駆け巡る。
腹を抱えるように前のめりに倒れ、地を掻き毟りもがき苦しむ。
⋮晩御飯の直後に食らわなくて良かった。
美味しかった晩飯を洗いざらいぶちまける所だった。
﹁惜しい所まで腕を上げて来ているのだが、もう一息何かが足りん
な﹂
地に伏せる俺に、目線を合わすようにしゃがみ込み話してくれる
乃江さん。
光る手を患部に添え激痛を癒してくれる。
﹁もう一息? そんな余力は逆立ちしても出ないんだけど﹂
いつも全開で戦っている⋮少なくとも、俺はそう思っている。
しかし乃江さんは、違うとばかりに首を振る。
れいけい
﹁お前は霊力使えていない、本能的にセーブしているのかと⋮さっ
きの冷勁はそれの試し﹂
体を食い破る様な浸透勁はそう言う意味か。
反射的に霊的防御を出来るのではないかと⋮試した訳か。荒っぽ
545
いテストだ。
霊力量か⋮そう言えば妹を拉致されてキレかけてた時に、カナタ
が言っていたな。
﹃いまのそなたの霊力は天井知らずじゃ﹄と⋮。
﹁逆に言うと霊力を殆ど使わずに、組み手を出来ている⋮それだけ
でも奇跡に近い﹂
う⋮なんか、微妙に褒められてるような、そうでないような。
褒められてるとしたら、史上初の快挙じゃないか?
拳で胸を﹃トンッ﹄と小突かれ、今後も頑張れと無言の激励が体
に伝わる。
﹁霊力か⋮考えたことがなかった﹂
﹃視える﹄と言うだけで、退魔の力はカナタ頼りだからな⋮俺。
本当にそんな素養が有るのかさえ疑わしいのだが。
霊力ってどうやって使えば良いのか⋮
﹁私は私の、カオルにはカオルの、十人十色の形がある。時期が来
れば判るようになるさ﹂
まだ一人では立てない俺に肩を貸し、ゆっくりと立たせてくれる。
﹁時期が来れば⋮って、それじゃ間に合わないよ⋮⋮﹂
テスト明けには、退魔士試験。いつ来るとも判らない脅威⋮敵。
そんな悠長な気分で待ってる訳にはいかない。
乃江さんは、俺の言葉を噛み締め、じっと俺を見つめる。
546
﹁能力を手に入れても、何の役にも立たないかも知れんぞ? それ
でも知りたいか?﹂
俺も見つめる乃江さんが笑う。
そして、その目が語っている⋮﹃手立てはある﹄と。
﹁知りたい。方法があるのなら教えて欲しい﹂
乃江さんが夜空を見上げ、嘆息する。
﹁お前の全てを曝け出す事になるが、それでも構わんのか?﹂
隠したいことも、内緒の事も全て⋮。そう言うと、背を向け俺の
決心を待つ。
﹁お願いします﹂
乃江さんを待たせる事無く、返事を紡ぐ。
屋上の修行を終え、乃江さんに促され風呂へと入る。
修行終了に合わせた給湯が、一番いい温度で俺を待っている。
﹁石鹸で念入りに体を洗って、その後塩で清めろ﹂
そう言い壷に入った塩を手渡し、脱衣場の扉を閉めた。
塩?⋮
547
この怪我だらけの体に塩を摺り込めと?
無茶苦茶言うな⋮⋮でも小動物はいいつけをちゃんと守ります。
怖いし。
激痛と叫びがこだまするお風呂場。
体が真っ赤っかでホカホカですよ。水気を吸うバスタオルの刺激
でも声が出そうになる。
﹁お風呂上りました∼﹂
元気良く振る舞い、リビングへ戻ると、布団を敷いてくれいてる
乃江さんと目が合った。
布団が2組⋮隙間なく敷かれている。
﹁⋮⋮﹂
文句言うなとばかりに、眼光鋭く俺を睨みつける⋮。
俺は文句どころか、口をパクパクさせるのが精一杯。言葉が出な
い。
﹁塩で口を漱いだか?﹂
お母さんのようなセリフにコクコクと頷くしかない俺。
﹁お風呂に入ってくるから、電気を消して待っていろ﹂
コクコク⋮って、えー?。
スタスタとお風呂場へ向かう乃江さんの背中を見つつ、まだ声が
出ない。
布団にへたり込み。寝転ぶでもなく待つしかない。
二対の布団という事は、アレだよな。一緒に寝るって事だよな。
548
乃江さんの風呂上りまで30分程、たっぷりの妄想が駆け巡り血
走った眼で座り込んでいた。
ガタッ!
ふと脱衣場の辺りで物音がして我に返る!
﹁電気消さねば⋮﹂
一足飛びで壁のスイッチをOFFし、取って返し再び布団の上で
正座。
俺こんなに早く動けるんだ⋮ってくらいの早技だった。
遠くの灯りが漏れ、扉を閉めた音とスイッチの消される音。そし
て暗闇。
俺の心臓が早鐘を打ち、血液を輸送する音が頭に響く。
月明かりで漏れた光が乃江さんを映し出す。
シルクのパジャマに身を包んだ影。
線の細い、華奢な体⋮だけど女性らしく丸みを帯びた曲線が美し
く。俺の目はその肢体に釘付けになった。
﹁待たせたな⋮﹂
乃江さんから発せられた声は、俺のすぐ傍、息のかかる程の距離
から聞こえてきた。
それも当然。俺の目の前に四つんばいになり、闇夜の猫科動物の
ように、光る両眼で俺を見つめているのだから。
﹁これからお前の精神世界を垣間見る事になる。夢を見ていると思
えば良い﹂
﹁精神世界?﹂
549
聞きなれない言葉で、相槌を返す。
﹁お嬢様の特化能力は﹃赤い糸﹄だと知っているよな? 私の特化
能力は﹃心象風景﹄、精神干渉する能力だ﹂
乃江さんの言葉を思い出す。﹃お前の全てを曝け出す事になる﹄
とはそう言うことか。
﹁接触する事で、相手の心とリンクをする事が出来る。接触部位が
多ければ多いほど濃密に⋮﹂
そういいながら、探るように俺のTシャツに手を掛ける乃江さん。
されるままにシャツを脱がされ、上半身裸にされる。
シルクのパジャマのボタンを一つ、一つと外して行く細い指先に
目が釘付けになってしまう。
﹁守り刀を手にしておくといい。うまく行けば連れて行ける﹂
枕元に並べた刀とナイフ。それを見やり乃江さんが布団に入る。
﹁一緒の布団⋮なんですか?﹂
俺の布団に顔だけ出して、恥ずかしそうに俺を見る乃江さん。
あまりのかわいさに思わず聞いてしまう。
﹁恥ずかしい事言わせるな。だから私はこの能力が嫌いなんだ﹂
鼻まで布団で隠し上目使いに見つめる。
おままごとのように一緒の布団に入る俺達。緊張でカチコチにな
っている。
550
﹁それじゃ、このまま寝れば良いんですか?﹂
﹁カオルはこのまま寝れるのか?﹂
間髪入れずに返答が返される。無茶な⋮寝れるわけないでしょう
が。
﹁寝なくても移行出来ると思う⋮接触する必要があるがな﹂
並んだ枕で見つめ合う二人。ギクシャクしてて面白い。
﹁接触って⋮そんな事出来ないっすよ﹂
﹁だろうな⋮だが恥を忍んで言おう。私の体をギュッと抱きしめて
欲しいのだが﹂
乃江さんのドキドキがこちらにも伝わってくる。
ドキドキしてるのは俺だけじゃないんだ。そう思うと安心できた。
﹁このまま、ドキドキしてても仕方ありませんので、行きます﹂
寝返りを打って乃江さんに向き直ると、猫のような眼で俺を見つ
める乃江さんが居た。
頬を撫ぜるように俺は腕枕し、頭を胸の引き寄せ抱きしめる。
左の手で細い腰に手を沿え、へそとへそを合わせるように抱きし
めた。
俺の胸と乃江さんの胸の先端が接触し、柔らかい未知の触感が胸
に伝わる。
ドキドキともう一つのドキドキがシンクロした時に、奇妙な落下
551
感を感じた。
﹁落ちてますか?﹂
胸の中の乃江さんに語りかける。
﹁私は浮遊しているように感じているが?﹂
俺の胸に伝わる振動と声。乃江さんの息遣いを感じながら言葉を
聞く。
頭の中がぐるぐると回る様に、思考が鈍くなっていく⋮。
﹁精神世界ってどんな世界なんでしょうね﹂
やっとの思いで言葉にしたが、乃江さんの返事を聞けるほど余裕
が残されている訳も無く。
乃江さんのクスクス笑いだけを感じていた。
﹁⋮⋮⋮⋮カオル様、カオル様﹂
シルクの手袋の細い手が頬をペシペシと叩く。
頬を撫ぜるような感覚で目覚めると、ウエディングヴェールを頭
から被った乃江さんが、心配そうに見下ろしている。
﹁なんで、ウエディングドレス?﹂
足元にもドレスの裾が広がっている。どうやら膝枕の状態のよう
552
だ。
﹁それは、私が伺いたいですわ﹂
ぷうっと頬を膨らませ、不満を表情で表わす乃江さん。
赤の紅で彩られた、形の良い唇から発せられる言葉も、乃江さん
らしくない口調だし。
﹁カオル様だって、タキシード着てらっしゃいますよ⋮﹂
その言葉にふと我に返る。
俺の装いは黒のタキシードで、ネクタイして、ポケットからハン
カチが顔を出している。
に⋮似合わなすぎ。最高に不自然だ。
﹁うわ!キモッ﹂
﹁ここはカオル様の心象風景なのです。私の口調も服装も⋮カオル
様の世界観として具現化された物ですよ﹂
そう言うと乃江さんが頬を赤らめる。
手の持ったブーケをうっとりと眺めている。
うわっ⋮最高に不味いリアクションだ。
なんで二人が結婚なんてイメージが出来上がったんだ?
﹁そ⋮そうか。抱きしめた時、万が一ゴニョゴニョ⋮責任とって結
婚⋮⋮とか考えちゃいました﹂
そういうイメージを引きずって来たのか? それとも本心なのか
553
?良くわからない。
ただ、今結婚なんて考えた事も無いから、俺の予想は当たってい
るのだろう。
しかし⋮乃江さんの口調は、俺の願望なのだろうか?
見かけは凄いカワイイのだから、口調を何とかしたら凄く良いの
に⋮とは思った事があるんだけど。
﹁この口調も⋮私らしくありません⋮ 違和感があって戸惑ってい
ます∼﹂
戸惑いながらも、口調は変えられない乃江さん。
涙目で俺に不満を訴える。
﹁かわいいから良いじゃありませんか。姫、座り込んでいるとドレ
スが汚れますよ﹂
姫って。俺は何を言ってるんだ。
夢の中の自分のように制御が効かない状態だ。
乃江さんの手を引き寄せ、キザったらしく優しく立たせている俺
が居た。
﹁なんだか、自己制御が出来ていないような気がしますが⋮﹂
立ち上がった乃江さんが、俺の胸元で寄り添うように囁く。
﹁半分は夢の世界みたいな物ですから、この場に一番相応しいと考
えるだけで実行してします。注意してくださいね﹂
胸の中で囁く乃江さんのセリフを反芻する。
そんなおっかない世界なのか⋮精神世界って。
554
あんな事やこんな事⋮、足枷がないから実行できてしまう⋮。
﹁姫は⋮姫? ええい! 姫はこの世界で有った事を覚えて現実に
戻れるのですか?﹂
できれば、ウエディングドレスの件は忘れて欲しいのだが⋮
俺の言わんとしている事をなんとなく察知したのか、顔を赤らめ
てコクリと頷く。
だぁぁ! 記憶を消去する薬が欲しいよ。
その前に2X世紀から来たネコ型ロボットが欲しい。
﹁心配しないで? 一度目に精神世界に入った時にはもっと酷かっ
たから⋮﹂
姫のセリフに我に返る。
姫は能力を知っていたのだから、俺で二度目かそれ以上。
って事は、一緒に布団で寝た事があるって事か? それは⋮嫌だ。
﹁姫! 姫と一緒に寝た事がある⋮ そんな奴が居るって事ですか
?﹂
俺の必死の形相を見て驚き、プッと笑いを吹き出した。
﹁安心してください。殿方はカオル様が初めてです。一度目は美咲
様です﹂
思い出すように苦笑したかと思えば、さらに思い出し嫌悪の顔を
する姫
﹁どうしました?姫 表情が優れませんが?﹂
555
どんどん俺の性格から逸脱していくこの世界の俺。セリフが既に
原型を留めていない。
﹁ええ、悪しき記憶が呼び覚まされて⋮ 美咲様の世界では、ウサ
ギの着ぐるみを着させられたものですから⋮﹂
姫⋮いや乃江さんがウサちゃんですか⋮。似合わなさ過ぎです。
﹁しかも、現地時間で30時間ほど、幼稚園のお遊戯の踊りを踊ら
されてしまいました﹂
やるな美咲さん。30時間ぶっ続けで踊るハイテンション。
あの人ならやりそうだ⋮。
﹁ちなみに、お嬢様はリスさんでした﹂
リスさんとウサギさんのお遊戯。リオのカーニバル並のロングラ
ン。それはそれで見てみたい気がする。
だがしかし!ここに来た目的を忘れてはいけない。
﹁しかしここへ来た目的、能力の見極めってどうやってやれば良い
のでしょうか?﹂
手に意識を籠めても、光るでもなく何の変化もない。
手から気弾が飛び出す気配もない。
﹁そうですね⋮冒険?ですか﹂
深い森の中で寄り添う二人、ウエディングドレスにタキシード。
556
ブーケに白い手袋。
冒険には程遠い様に思えるのですが⋮
﹁この世界に、きっと開放されていないカオルさんの能力の源が眠
っている筈です。それを見定めるか開放してやれば⋮﹂
俺の能力を知る事が出来目覚めると⋮。
﹁取り合えず、どこか街にでも行って服を着替えましょう。ウエデ
ィングな雰囲気に流されてしまいそうで怖い﹂
多分乃江さんを姫って言ってしまうのも、ウエディングドレスを
着た乃江さんが美しく﹃姫﹄のようだから。
この世界で生きるのはかなり危険だ。
﹁私は、このままでも良いですよ? 素敵な旦那様と一緒で幸せで
す﹂
寄り添う乃江さんが、俺を抱きしめタキシードに顔をうずめる。
うはっ⋮萌え。この乃江さん、かなり俺の理想に近く⋮近過ぎて
ヤバイ。
逃げるように、乃江さんの手を引き森を脱出した。
557
﹃心象世界へ2﹄
﹁カオルさん!ちょっと待ってください!﹂
手を繋ぎ一緒に森を駆けていた乃江さんが、慌てて俺を制止する。
違和感バリバリの口調と相まって、その必死な口調にギョッとさ
せられ、急停止せざるをえなかった。
﹁ど⋮どうしたんですか!? 乃江さん!﹂
振り返ると息絶え絶えで、へたり込んでしまっている。
通常の乃江さんにあるまじき状態だ。
俺が息絶え絶えでも息一つ切らさないのが普通なのに。
﹁カオルさんの固定概念がズレたままで、普通の女の子並の心肺機
能しかないようです﹂
胸に手を当て、乙女チックに疲れを表現している乃江さん。
息が整うのを待って、次の言葉を話し始める。
﹁いつもの私を﹃強く﹄イメージしていただけませんか?普段の私、
組み手をしている私を﹂
へたり込んで、上目使いのお願い。
凶器にも似た危険なカワイさ⋮聞かねば男として失格だ。
﹁むふ!やってみます⋮﹂
鬼のように強い乃江さん。ツンツンデレな乃江さん。何時もの⋮
558
何時もの⋮
深い瞑想にも似たトランス状態に入る。
こんなにもすんなり意識が集中出来るのは、心象世界だからなの
だろうか?
囁き⋮詠唱⋮祈り⋮念じろ!
肩をポン!と叩かれ、深い瞑想から呼び覚まされた。
﹁うむ。ご苦労。なんとか普段の私に戻れたようだ﹂
普段の口調⋮、何時ものボーイッシュな服装に戻った乃江さん。
皮のブーツにスリムなジーンズ、Tシャツに皮のライダージャケ
ット⋮
そして俺は脱力した⋮
﹁なんだか取り返しの付かない事をしてしまった様な気がします﹂
地に突っ伏して、己のイメージに後悔した。
目から滝のような涙がとめどなく流れ落ちるのは、心の汗⋮じゃ
ないと思う。
やっぱり、ウエディング−姫−おんにゃの子路線は俺の願望だっ
たのか⋮
﹁異様に力が満ち溢れているように思えるが⋮普段私の事を何だと
思ってるのだ?﹂
そりゃ、素手で自然岩を砕き、踏み込む足で石畳を粉砕する⋮何
時もの乃江さんじゃないですか?
そう言う乃江さん、己の拳を睨み⋮グーパーを繰り返して首をか
しげている。
559
﹁普段の乃江さんのイメージを想ってみたのですが、不自然ですか
?﹂
聖戦士並に吹き出るオーラ力。
こりゃ⋮ちょっと⋮。やりすぎた感を感じつつ、恐る恐る伺いを
立ててみる。
﹁ふむ。当社比1.2倍位増強されているような気がするな⋮ちと
試してみよう﹂
1.2倍って微妙な数値だな⋮。
一歩二歩と俺から離れ、手ごろな岩の前に立つ。
軽い息吹で呼吸を整え、気を充填⋮拳が輝きを増す。5秒程溜め
を作って渾身の拳を振り下ろす。
﹁うおっ!﹂
ドン!と鈍い炸裂音が響き、大気が揺れる衝撃波を感じた。あま
りの衝撃に思わず反射的に目を閉じる。
粉塵立ち込める中に振り下ろした拳の人影⋮やがて、粉塵がおさ
まっていくにつれ景色が鮮明になっていく。
真っ二つに割れた⋮いや、木っ端微塵に砕けた岩なんて痕跡も見
当たらない。
直径1mほどのプチ隕石孔だけがそこにあった。
﹁やはり2割り増しほどパワーアップしてる⋮私を買いかぶりすぎ
ているようだな。カオル﹂
粉塵立ち込める隕石孔をバックに、買いかぶりとか⋮。
二割引いても隕石孔は作れるっしょ。
560
怖ええ⋮さっきまでの姫はどこへ⋮涙。
﹁二割は誤差の範囲として享受するとしておく。現実世界での強さ
のイメージを作るのに丁度いい﹂
まだ、強くなりたいのですか?
昨日組み手で﹃もうちょっとだな﹄とか言って褒めてくれたのは
嘘ですか?
全然足元にも及びません。やっぱりベンガル虎と野うさぎ位のレ
ベル差がある様に思えます。
脱力して心で哭く俺を見つめる。
やがて森を見渡すように深呼吸して優しい顔で話し出す⋮。
﹁この森はな、対人の窓口。カオルの外面にあたる場所だ。鬱蒼と
した森は自分を悟られたくない証。澄んだ空気と綺麗な木々は心を
表わしている⋮﹂
腕を組み俺の性格判断をし始める乃江さん。
ここが、俺の外面?。
確かに俺の性格は取っ付き難いが、付きあうと中々に良い奴って
牧野も言っていたな。
しかし、面と向かって性格判断されると恥ずかしいな。
﹁人により、砂漠、永久凍土、花畑⋮色々とある。実際に入ったの
は花畑だけだがな﹂
﹁花畑は美咲さん? なんか綺麗すぎるイメージで⋮ぴったりの様
な⋮そうでないような⋮微妙な感じですね﹂
ふと昔を思い出し、複雑そうな表情を浮かべる乃江さん。
561
悪しき思い出なら聞いてみたいな⋮と好奇心がウズウズしてくる。
﹁花が⋮国営放送の人形劇みたいに歌っていたぞ。ロックンロール
フラワーみたいにな﹂
﹁ぶっ!﹂
思わず噴き出してしまう⋮。ギクシャク踊るアレが一杯のお花畑
⋮っ⋮笑いが堪えきれない。
やはり美咲さんはそうでないと⋮。
﹁美咲さんらしいというか、面白い外面ですね⋮﹂
笑いが止まらない俺を見て、乃江さんも笑い出す。
笑うとやっぱりカワイイ⋮。
強さの中にこういう一面が見え隠れするのが、乃江さんの魅力な
んだろうな。
笑いが収まり、再びキリリとした表情で俺に助言してくれる乃江
さん。
﹁この森は他人を許容する限度、この先は防衛本能が働いて排除し
ようと動き出す。⋮特に私のような異物はな﹂
﹁⋮俺も⋮ですか?﹂
俺を見つめる乃江さんの目で、直面する危機を感じ取った。
それも最大級にヤバイ雰囲気を持つ目だ。
562
﹁心には、自分にも知られたくないココロがあるんだよ。嫌な思い
出は忘れたい⋮忘れて自己防衛を行う。そうやってバランスを取っ
ているのだ﹂
嫌な事を蓄積すれば、心は崩壊する。悪い思い出を良い思い出に
すり替えて人は生きている。
よっしゃ!。危機感が満ち溢れてきた。俺も戦闘態勢に変身だ!
何時もの俺。戦う俺をイメージする。
カナタと美苑さんのナイフを強くイメージする。
ささやき−いのり−えいしょう−ねんじろ!
﹁ちゃっきーん!﹂
なにもしないのに、カナタが顕現した。
くるっと空中2回転!、颯爽と俺の肩に着地⋮。ぐえっ⋮
肩車状態で、したたかに地面に打ち付ける顔。ちょっと⋮カナタ
さんデカ過ぎ。
顔に付いた泥を手で拭い、カナタをみる⋮と⋮。
黒一色に白のラインフリルが沢山の服。フリフリ∼のヒラヒラ∼
のレースのワンピース。リボンつき黒ニーソに編み上げの靴。エナ
メル。
誰がどう見ても年齢10歳の色白・細身のゴスロリ少女だった。
﹁ご主人様。体が重いです∼﹂
ご主人様?ヌシとかカオルとか言っていたカナタだが⋮⋮。
もしかして⋮
またやっちまったか?
563
恐る恐る乃江さんに向き直る⋮どうせ蛆虫を見るような目で見て
るんだろうな⋮。
ぎぎぎ⋮心なしか首が軋んでいるような気がするのは何故だ。
﹁カオル!﹂
乃江さんの表情を伺う前に、怒声に似た音質の叫び。
﹁カワイイじゃないか!﹂
縮地の速さでカナタを抱き抱え、うっとりとした表情で頬擦りす
る乃江さん。
しまった⋮乃江さんはかわいい子がとっても好きだったりするの
だ。
前は、妹の葵が餌食になっていたし⋮。
山科さん曰く﹃乃江は小さい子⋮プニプニの頬っぺたの女の子と
か見るとな⋮ヤバイねん﹄とか辟易とした表情で語っていたな。
まさにこれがそうなのか⋮。
対照的に頬擦りされ、とっても嫌がっているカナタが不憫。
﹁うに∼。いきなり体が重いし、暑苦しいし⋮。どうなってるので
すかぁ∼ご主人様ぁ﹂
﹁カオルのセンスは最高だな⋮カナタ⋮﹂
あまりの修羅場に声が出ない⋮。
ここは、カナタ⋮すまんが耐えてくれ。
﹁うにゅ∼ 涙﹂
564
背中を向け、目を閉じて耳を塞ぐ⋮。小動物はそれしか出来ない。
ごめん⋮。
﹁はぁはぁはぁ﹂
乃江さんの発作がおさまるまで数分間、自責の念が心を蝕み、泣
き声と発情する声がこだました。
俺は心が折れそうになり、カナタはぐったりと木にもたれ掛り、
乃江さんは荒い息を整えていた。
﹁ごちゅじんさま⋮ひどいです⋮﹂
子供泣きして俺をポカポカ殴るカナタ。
またそんなカワイイ仕草をすると、光る目を持ったお姉さんがホ
ールドしちゃうよ。
怖いお姉さんを見ると、差し出そうとしている手を左手で押さえ、
フルパワーで制御している。
﹁カナタ。泣かないで、せっかくの美しい顔が台無しだ﹂
俺はどこからとも無くハンカチを取り出し、カナタの涙を拭う。
元々カナタに甘い俺は、違和感も無く変なセリフを吐いてしまう。
なんだよ美しい顔って。
﹁なんで、実寸大になってるのでしょうかぁ? しかも洋装だし⋮﹂
565
なみだ目で問いかけてくるカナタ。
カナタ?違うぞ。
それは洋装だけど、日本では﹃ゴスロリ﹄というカテゴリーの萌
え服。
しかも、元々カワイイカナタだ。
小さいからカワイイってのもあるが、顔も良く見ると﹃将来有望﹄
の美人顔。
そのカナタがフリル服⋮⋮似合いすぎて、変身させるの勿体無い
な⋮。
﹁ここは俺の心の中だ⋮。カナタにそうなって欲しいと願望があっ
たかもしれん⋮すまん。すぐ元に戻す﹂
断腸の思いで瞑想開始⋮。
ささやき−いのり−えいしょう⋮
ゴン!って頭部をしたたかに殴られ、我に戻る⋮。痛てぇ。
口笛を吹きながら、背を向ける乃江さん。
そ知らぬふりをしていても、拳から煙が出ていますが?
﹁カナタ⋮元に戻せるか急性硬膜下血腫になるか5分5分だ⋮危険
すぎるのでこのままで良いか?﹂
本当は9分の割合で俺が死ぬ。そんな気がするが。
カナタは、ニッコリ笑って俺を気遣う。
﹁ご主人様の理想なんですよね? だったらこのままで良いな⋮﹂
スカートの裾を指でつまみ、くるっと一回転して俺に問いかける。
566
﹁似合ってますかぁ?﹂
萌え死しそうです。カナタさん。
同じく萌え死しそうな乃江さんと二人でコクコクと頷くしか出来
なかった。
567
﹃心象世界へ3﹄
森を一歩出た俺たちに待ち受けていたのは、侵入者を拒むが如く
そびえ立つ壁だった。
﹁まるで万里の長城⋮﹂
あっけに取られた乃江さんが、上を見上げ力なく辺りを見回して
いる。
﹁ははは⋮帰りましょうか⋮もう﹂
罪人を収監するような建物にありがちな壁。
味気なく馬鹿に背の高い壁が、森の取り囲むように360度ぐる
りと取り囲んでいる。
侵入者を拒むとかそんな生易しいレベルではない。
無機質の壁が語りかける言葉は﹃完全拒否﹄の一語だけだった。
﹁俺って、こんな閉鎖的な性格だっけ⋮﹂
そう言われてみると、友達少ないよな⋮。
退魔士仲間以外だと、牧野だけだもんな。
自覚無かったけど、視覚で理解すると結構ヘコむな⋮。
友達作ろう⋮。
﹁ぐるりと一周回って入り口が無ければ、諦めるしかなさそうだな﹂
乃江さんにそう言わしめるだけの拒絶感が、壁にはあった。
壁を殴って叩き割り入る⋮なんて選択肢もありそうだけど⋮怖い
568
から黙っておこう。
﹁ご主人様、あっちの方角にソレっぽい入り口がありますよ?﹂
先に門の周辺を探索していたカナタが指差すのは東の方角。
﹁でかしたカナタ!一流の斥候兵になれるぞ!﹂
﹁そんなの嬉しくないです⋮﹂
即答で、斥候兵の称号を拒否るカナタ。
そのやり取りの中、乃江さんだけが﹃壁﹄を見つめ、何か考え事
をしているように、自分の世界に入り込んでいる。
﹁乃江さん?﹂
﹁あ⋮⋮すまん!。ちょっと考え事をしていた﹂
俺の呼び掛けを聞き、跳ねるようにこちらへ返事をする乃江さん。
また歩く演算装置が働いていたのだろうか⋮。
﹁門みたいな物があるらしいんで、行って見ましょう!﹂
﹁ん、ああ⋮行ってみようか﹂
一足先にカナタが歩く東の方角をぼんやりと見つめ、乃江さんが
気の無い返事を返す。
一瞬だけ乃江さんのリアクションに違和感を覚えるが、新たな目
標への好奇心がソレを忘れさせた。
569
﹁お二人とも∼、先に行っちゃいますよ∼﹂
遠くのほうで、カナタの声がコダマする。
あいつも結構好奇心旺盛だよな⋮。俺たちを待てないのかよ⋮。
足早にカナタを追いかけ、追いつく頃には門に辿り着いていた。
門⋮門だけどな。予想を遥かに下回っていてどう感想を述べてい
いのやら。
閂の掛かった分厚い鉄の門を想像していたが、実際のゲートを見
て脱力してしまっていた。
﹁いらっしゃいませ∼﹂
まるで遊園地のゲートだ。
団体用と個人用の入り口があって、両方の入り口の間にモギリの
親父が立っている。
そのモギリは慇懃な態度と商売用の笑みを浮かべ、こちらに愛想
を振り舞いている。
﹁モギリさん、チケット無いけど入れますか?﹂
カナタのストレートな台詞。
おいっ⋮もうちょっと作戦とか練ったほうが良くないか?
だがしかし、カナタの直球は見事にストライクど真ん中だったよ
うで、モギリがニッコリ笑って手招きする。
﹁刀精カナタ様ですね? 貴方様はVIP待遇ですので、ごゆるり
と⋮﹂
モギリの親父の態度を見て、こちらを見やるカナタ。
VIP待遇と言う言葉がとっても嬉しかったようで、目に星が7
570
個ちりばめられた潤んだ瞳で涙を流している。
﹁私は?﹂
簡潔に問いかける乃江さん、彼女に媚を売るという単語は無い。
これも完全な直球だ⋮、剛速球だけど。
﹁真倉乃江様ですね。貴方様もVIP待遇ですので、ごゆるりと⋮﹂
また慇懃な言葉と商売っ気たっぷりな笑みで、ゲートの先へ手招
く。
ふむ⋮、親しい友人レベルだと通れるんだ⋮。
意外とこの門の閾値は低いのかもしれんな。
﹁俺はどうです?﹂
一応、この世界の主なんだけど⋮。友人より濃い間柄だろ?
﹁お前はダメだ﹂
ゴミでも見るような目で、モギリが俺を睨みつける。
そして俺に対し言葉を出すだけでも面倒かのように、短く拒絶の
言葉を吐く。
カナタや乃江さんの態度との落差に、恐怖すら感じてしまう。
﹁なんでだ? 俺の心だろ? 俺だけなんでダメなんだよ?﹂
モギリの理不尽な態度に苛立ちを感じ、食い下がってみる。
だがモギリは意に介さない態度で、俺の声なんて聞こえない素振
りで遠くを見る。
571
まるで俺なんて居ない⋮と言わんばかりに。
そのやり取りを聞き、乃江さんがモギリに問いかける。
﹁カオルを通す方法は無いのか?﹂
また180度態度を変えたモギリは、慇懃無礼な態度で返事をし
始める。
﹁資格があるか試さないと通せません。通る資格があるか⋮ココロ
が強いか弱いか、それだけでございます﹂
ニッコリ笑って乃江さんに説明するモギリ。
ポケットから、小さな木の実を取り出し、親指と人差し指で摘ん
で乃江さんに見せる。
﹁この実の効果から帰ってこれるか否か。帰れれば通れます。です
が、帰れなければ⋮﹂
﹁帰れなければ?﹂
実とモギリを交互に見つめ、的確に不確定要素を消しに掛かる乃
江さん。
﹁現実世界へ帰れなくなるかもしれません。いや⋮それも彼には幸
せなのかも知れませんけど﹂
笑うモギリの顔は、毒を持つ笑顔。
笑う道化師のような不気味さを感じる⋮。
くそ。こいつ絶対俺を脅かして楽しんでいる⋮。
そう考えると怒りが込み上げてくる。
572
﹁えい﹂
俺は、モギリの握る木の実を奪うようにひったくる。
﹁カオル!やめろ!﹂
いや、食べませんて。
危ない成分が入ってるに決まってるじゃないですか。
手のひらの上の木の実を、マジマジと見たかっただけですよ。
﹁誰が食べる物と言いましたか?﹂
最上級の毒の笑みを浮かべ、俺の手のひらで光る木の実を見つめ
る。
まばゆい光に目が眩み、俺は光に飲み込まれそうになった。
激痛で飛び起きた俺の姿を見て、乃江さんのリビングで跳ね起き
る。
﹁映画エクソシストのワンシーンみたいだな。 カオル⋮元気か?﹂
573
脊髄反射のように飛び起きた俺に、目を丸くして驚いている。
朝餉の良い匂いが立ち込めるリビング。
浅漬けと茶碗と運ぶ乃江さんが、食器を取り落としそうになって
いる。
軸線を失ったコマのように、茶碗がゆらゆらと揺れている。
﹁ご⋮ごめん、驚かせた?﹂
胸で抱きかかえるように、お盆を水平に保つ乃江さんが非難の目
を向けてる⋮。
その状況を見れば俺が悪いのは一目瞭然だ。
俺が眠りこけている間に、朝ごはんの用意をしてるんだもんな⋮。
ごめん。
﹁いいや、起きそうだと判っていたのに、驚いた私が悪い。カオル
は悪くない﹂
盆の上で揺れる食器を、持ち前のバランス感覚で収め、ニッコリ
と笑って配膳している。
食器を取り落としそうになっていたのに慌てず騒がず、きちんと
正座をしてから茶碗を丁寧に食卓に並べる。
いつもの乃江さんの別の顔だ。
洗練された和の振る舞いに、思わず目を奪われる。
﹁跳ね起きて⋮記憶がぶっ飛んじゃいましたけど、昨晩の﹃心象風
景﹄ってどうなったんですか?﹂
まず浮かぶ疑問を乃江さんにぶつけて見る。
姫から普通の乃江さんになって、岩を岩を粉砕。カナタがゴスロ
574
リの萌え死⋮の辺りまでしか覚えてない。
夢を見た後って、大抵こうなるんだよな。
頭がはっきりするに従って忘れる。
朝一番のトイレの頃には、完全に忘れてるもんな⋮。
﹁あの時⋮私がとっさにカオルを殴り⋮カオルが目を回して、﹃夢﹄
から覚めてしまった⋮、すまん﹂
本当に申し訳なさそうに、乃江さんが頭を下げる。
配膳の済ませたお盆を、脇に抱え俺の頭を擦る。
﹁痛く⋮なかったか?⋮﹂
まだ、布団から身を起こしてる俺に、手を当てて心配してくれて
いる⋮。
さぞかし、盛大にぶったたいてくれたのだろう。
記憶が吹っ飛ぶくらいだし。
﹁乃江さん、やりすぎですよ。手から煙がでていましたもん﹂
殴られたその時の衝撃を思い出すと、生きて帰れた俺を褒めてや
りたい。
ただ憮然としている俺の頭を撫で、心底心配そうな乃江さんを見
るとそれ以上、何も言えない。
それどころか、慈愛の手で撫でてくれている心地よさに、目を閉
じ、なすがままされるがままだったりするのだ。
﹁ごめん⋮﹂
俺の髪の毛を触る乃江さん。
575
熱を帯びた指先に扇情的な気持ちを感じる。
俺の髪の毛を一本一本、いとおしげに触る指先が俺に何かを伝え
てくる⋮。
﹁どうしたんですか? らしくない⋮﹂
髪を弄られ、それでも不快な気分になれない俺は、強く拒絶をす
ることが出来ない。
シンクロ
むしろもっと触って欲しい気分で一杯だ。
﹁昨日カオルとココロを同調したのだぞ?。そうならない方がおか
しい﹂
その言葉に俺の芯が熱くなる⋮。
えもいえぬ色気を感じさせる笑みを浮かべ、何かを期待する目を
俺に向ける。
⋮そう言われると、とんでもない事をやってしまった。
乃江さんを抱きしめ、肌と肌を触れ合わせ、心と心を重ねてしま
ったのだ。
﹁まだ私の体が、カオルの温もりを覚えている⋮﹂
10人が居たら10人が卒倒しそうな言葉、扇情的な表情と瞳。
今、彼女がどういう気分で接しているのか⋮、朴念仁の俺にも判
る。
潤んだ目と形のよい唇、少し上気した表情⋮、全てがいとおしく
感じてしまう。
四つんばいで髪を撫ぜる手を掴み、グイッ引き寄せ⋮抱きしめた。
﹁あ⋮ダメ⋮⋮、あと30分もしたら、美咲お嬢様が⋮⋮﹂
576
俺の顔を自分の顔に近づけないように、必死に抵抗する。
抵抗もむなしく、重ね合わせられる唇と唇。
触れるだけのキスでは物足りず、続けざまに唾液と舌を絡めあう
大人のキス⋮⋮。
抵抗されるかと思えば、積極的に絡んでくる貪欲な舌。
粘膜質な欲望を感じながら、長い⋮長いキスを貪りあった。
﹁ダメ⋮﹂
﹁⋮なんで、ダメなの?﹂
俺は、抵抗感の弱まった乃江さんに問いかける。
詰め将棋をするように周到に⋮キスの愛撫を緩めず⋮。
﹁まだ、大事な言葉を言えていない⋮﹂
そう言いつつも、俺との距離を縮め、舌を扇動させている。
﹁大事な事って、俺が乃江さんを﹃好き﹄だって事?﹂
﹁いいや、私がカオルを﹃好き﹄だって事﹂
この言葉で二人気持ちが加速する。たった30分の永遠の時間を
⋮。
︵カオル!!︶
577
背を向け手早く服装を整え、乱れた髪を手で整える乃江。
俺の香りが彼女に移り、彼女の香りが俺に移っていた。
﹁お味噌汁が冷めてしまったではないか⋮﹂
真っ赤な顔で乱れた布団を手で直し、台所を見やる乃江。
俺と目を合わすのがそんなに恥ずかしいのか⋮ その仕草とても
可愛く思える。
﹁乃江さんが、とっても女の子らしく見える﹂
﹁む!﹂
バキィ!
痴話喧嘩も相手が相手だと命がけ⋮、軽くじゃれあう合いの手も、
その一発が致死のダメージだ。
﹁カオル⋮シャワーを浴びて来い。さすがに鈍感なお嬢様も感づく
かもしれん﹂
そう言って俺の背中を押すように、お風呂場へと誘導する乃江さ
ん。
言われるがまま、二人の汗と交じり合う香りを洗い流す⋮。
爪を立てられた肩の痛みが、熱い湯に刺激を受け心地よい⋮。
578
︵オレヲダキカカエ⋮サケブ⋮コエ︶
玄関で、革靴をケンケンして靴を履く。
俺が学校に出かけるタイミングに合わそうとして、大慌てで支度
をする乃江。
﹁意地悪だな。少しくらい待っていてくれても良いじゃないか!﹂
エプロンを慌て外し椅子へかけ、一挙動で制服のブレザーを羽織
る。
言われなくても待っている。けどこういうの見たかったんだよね。
紺のソックスに細い脚、膝上のスカートが揺れ、肩からカバンを
背負い、ブレザーの前ボタンを閉じながら現れる。
﹁慌てる乃江さんを見るのも、良いかと﹂
片足立ちで革靴を履いて、無防備な乃江の頬にキスをして、玄関
の扉を先に出る。
﹁不意打ちなんて⋮卑怯だぞ、カオル﹂
まんざらでもない赤面した顔で俺の後を追い、玄関の施錠をする。
579
︵⋮⋮⋮⋮コエニ ナラナイ サケビ︶
﹁なぁカオル? お前真倉さんと付き合ってんの?﹂
教室に入り第一声が、牧野からの問いかけ。
すっげぇ意外そうに、目を丸くして俺に食い下がる。
﹁なんだいきなり?﹂
秘密主義って訳じゃないけど、こういうのは自分で言ってしまう
とイタイ奴。
それに、下級生にカリスマ的人気のある乃江さんだ。大騒ぎにな
るのは避けたい所だし
﹁だってよ? 登校ん時の二人の距離がさ。友達の距離じゃないん
だもんな﹂
牧野⋮お前鋭すぎ⋮。人を見る目あるかもな。
﹁見た目に惑わされるなんて牧野らしくないぞ⋮﹂
訳のわからない論理で、非難する目を向ける。
580
ちょっと混乱気味の牧野は、言葉の意味も判らずオレに詫びを入
れる。
﹁すまん⋮見た目に惑わされた⋮﹂
俺の目に騙され一応は納得してくれた牧野だか、その誤魔化しも
4限目終わりまでしか持たなかった。
﹁カ・オ・ル⋮﹂
廊下から小声で、俺に話しかける乃江。
恥ずかしそうに顔を真っ赤に染め、手にはお弁当を大事そうに抱
えていた。
だが窓際の俺に声が届く頃には、クラス全員の好奇の目が俺に降
り注いでいた。
クラスメイトが乃江−お弁当−俺を三回見て理解した頃に、やっ
と俺が手を振る乃江さんに気が付いた。
そして同時に牧野が涙目で俺を非難していた。
俺は﹃見た目に惑わされるなんて﹄と言っただけで、本当か嘘か
なんて言ってないぞ?
そんな言い訳なんて通じるわけもなく⋮。
牧野の殺意とクラスメートの好奇の目をかいくぐり、廊下に足早
に歩み寄る。
﹁どうしたの?乃江さん﹂
﹁ん⋮、一緒にお昼と食べようと、お弁当を作って来た﹂
少し大き目のお弁当箱。
きっと二人分が包まれているに違いない。
581
俺は天まで登りつめるような至福の気分に包まれる。
﹁屋上の緑化庭園へ行かないか?﹂
そう言って俺は制服の裾を引っ張られる。
俺は、牧野にブロックサインで素早く合図を送る。
﹃スマヌ!行ってくる!﹄
一応義理を立てた俺のサインなど眼中に無い牧野。
親指で首を掻き切るポーズで俺を送り出してくれた。
﹃とっとと逝け!﹄
︵サケビ 二 ニタ コエ︶
﹁茶室のお昼は大丈夫なの?﹂
いつもお昼を食べている仲間との昼食を抜けてきたのだ。気にも
なる。
突然の乃江の欠席は、仲間にも周知の事なのだろうか?
﹁カオルと一緒に居たかったし⋮。カオルは何時もパンとか食べて
582
栄養偏ってそうだから⋮﹂
そう言って、膝の上で広げてくれる弁当は、色とりどりのオカズ
と形の良いオニギリのお弁当。
親にろくろく弁当を作ってもらったことが無い俺は、人生何回目
かの﹃俺のお弁当﹄に涙した。
﹁む?なんで泣いている⋮お弁当⋮変か?﹂
俺の顔と、お弁当を交互に見て戸惑う乃江さんに、必死に否定し
首を振る。
うれしいだけです。
なんとなく釈然としない表情だが、無言で納得してくれているよ
うだ。
器用にタコさんウインナーをフォークで刺し、俺の口元へ運ぶ。
パクリ!
その塩気と旨みが凝縮したウインナーをパクリと食らいついた。
﹁うま!﹂
普通のあら挽きウインナーの筈なのに、アーンしてもらうウイン
ナーは格別の味だった。
﹁ちゃんと、噛まないと駄目だぞ?﹂
そう言いながら、オニギリを突き刺し次の手を準備する。
そうだ!。オカズ↓ご飯↓オカズ↓ご飯が最高のコラボレーショ
ンなのだ。
俺は焼肉でも、最初にご飯を食う﹃お米の国の人﹄だから⋮。
もぐもぐもぐ⋮オニギリも美味い⋮。
583
米の甘みとウインナーの後味のコラボレーションに至福の時を過
ごす。
﹁カオル⋮ 今日一緒に帰ろう?早く帰って勉強して⋮ 今朝の続
きも⋮﹂
言い慣れない言葉に赤面し、やっとの思いで言葉を搾り出す。
そんな消え入りそうな声を聞くと、気の強い乃江さんが普通の子
より繊細な女の子なんだな⋮と思わされる。
﹁もちろん!一緒に帰ろう⋮⋮ 帰る?⋮⋮ 帰る⋮⋮﹂
おれの中に不意に湧き上がる疑問を掻き消すかのように、乃江さ
んが俺の腕を掴む。
﹁カ⋮⋮カオル! どうしたの!?﹂
慌てて注意をそらすように、俺の袖を引き見つめる乃江さん。
慌てるその態度に違和感を覚える。
︵カオル!︶
頭の中で、乃江さんの叫びが聞こえた⋮泣くような⋮叫ぶような
声。
頭の中で、何かが弾けた。
頭の中で、全てを悟った。
584
﹁ごめん、乃江さん⋮やっぱり一緒に帰れない﹂
戸惑う乃江に背を向けて、帰る方法を考える⋮。
﹁どうして!﹂
悲痛な叫び。屋上で休み時間を過ごしていた他の生徒が一斉にこ
ちらを見る。
﹁ごめん、乃江さんが待ってる。帰らないと⋮﹂
俺は腰に挿した、守り刀の柄に手を掛ける。
﹁あの人も乃江だけど、私も乃江!。 どっちも本当の乃江なんだ
⋮ それでも?﹂
俺の手を引く乃江さん。
俺を止める為にじゃなく、俺にすがりつくように震える手で⋮。
﹁行かないで⋮⋮﹂
悲痛な叫びが、俺の心を容赦なく痛めつける。
でも痛みを感じているのは俺だけじゃない。
乃江さんの気持ちを思うと、本当にこれで正しいのか?心の中で
何度も問答してしまう。
ごめん、でも⋮⋮。
﹁決心は変わらない﹂
585
きっぱりとした口調だけど⋮⋮本当は、心が折れそうな気分。
短い時間だけど、心を通わせた乃江さんに惹かれている。
﹁もし⋮﹂
俺の言葉に、涙を流す乃江さんが目を向ける。
﹁帰る方法を知っていたら教えてくれないか?﹂
愛しい人の目を見てしまった⋮心がぐらつく。
そして、触れるだけの最後のキスをした。
学校の生徒が見ている前での、公然のキス。
そして決別のキス。
﹁強い意志があれば⋮ 強い意思で空間を破れ!﹂
俺を突き飛ばすように、離れる乃江さん。
座り込んで、力なく泣く⋮
やっぱり本当に乃江さんなんだ。俺の中の可能性の一つなのかも
知れない。
分岐の中の乃江さん⋮。
俺は目を閉じて、息を整える。
柄に手を掛けた手のひらに力を込めて叫ぶ!
﹁カナタ!﹂
叫びと共に、刀を引き抜く!
手から流れ込む大量の霊力。柄を通して光る刀身⋮2尺3寸の刀
身で空間を一閃する。
586
﹁⋮オル⋮⋮⋮カオル!﹂
首と胴がさよならしそうな衝撃で目を覚ます。乃江さんの軽くは
致死だってば。
﹁ただいま⋮﹂
泣く乃江の顔を見て、﹃分岐の乃江さん﹄と重ね合わせて心が痛
む。
痛む胸を擦りながら、痛むのはココロなんだと苦笑する。
﹁帰っていらっしゃいましたか⋮﹂
モギリのその言葉に、怒りが込み上げる。
乃江さんの二人分の涙⋮一発くらい殴らないと気が済まない⋮。
握る拳に力を込めるその瞬間に、モギリが口を開く。
﹁よう成長されましたな、薫様﹂
従順な執事の様に、俺の手を取り頭を下げるモギリ。
まるで殴れといわんばかりに⋮。
﹁もう会う事は無いかもしれませんが、私の名は﹁ギュンター・G﹂
と申し上げます﹂
587
ギュンター・Gが手を高々と上げ、親指と中指で﹃パチン!﹄と
小気味良い音を立てた。
けっかい
その音が世界中に響き、取り囲む塀や門が消え緑の草原が広がっ
た。
﹁今の薫様にはこの門が限界かとお察しいたします。今日の所はこ
こまでになさるのが得策かと﹂
頭を下げたままのギュンター・Gは俺を気遣い、そして率直な意
見を述べる。
限界か⋮確かに⋮。
乃江さんの声が無ければ、絶対に帰ってこれなかっただろう⋮。
この先に、これ以上の障害があるのなら、今の俺では力不足。ま
だまだ修行が足りん。
﹁ギュンター・G⋮ムカつく奴だが、ココロ鍛えてまた来るよ﹂
﹁お待ちいたしております﹂
ニヤリと含みのある笑みを浮かべ、ギュンター・Gは慇懃な態度
で礼をする。
そして手を高々と上げ、親指と中指で﹃パチン!﹄と小気味良い
音を立て、俺たちを眠りに誘う。
精神世界の眠りは現実での覚醒。
588
布団で一つになる俺と乃江さんは同時に、目を開ける。
そして視線が一つになり、気恥ずかしい気分になる。
﹁ドタバタしてただけだが、なにかの役に立ったか?﹂
空気を振るわせるだけの、静かな声。﹃分岐の乃江﹄を思い出し、
涙が溢れてきた。
﹁ギュンター・Gが言ったように、俺はあそこまでが限界だ。乃江
さんの声が無ければ帰ってこれなかった﹂
身を持って味わう自分の現在位置。未熟者の極地。
女を泣かせるなんて最低だ。
﹁何が必要なのか、少し判った気がします﹂
﹁泣くカオルを間近で見れるなんてな。行った甲斐があったじゃな
いか﹂
指で涙を掬い上げるように頬を撫ぜる乃江さん。
﹁こう言う時は、一人で泣くのが良いのかな﹂
そう言って布団から起き上がり、部屋の照明に手を掛ける乃江さ
ん。
ちょ⋮乃江さん忘れてないか?パジャマを脱いだの。
だが期待半分で声が出ず、明るい部屋に一転した。
﹁⋮﹂
589
俺の顔を見て、してやったりの乃江さん。
にんまりと笑って、布団の上のパジャマを拾い上げる。
﹁詐欺だ⋮水着着てるなんて⋮﹂
しかも学校指定の奴だ。色気も何も無い。
﹁そういう顔を見れただけでも、良い夢が見れそうだよ﹂
そう言って、自分の部屋に戻る乃江さん。
くっそー、暗がりでパジャマを脱いだ時には、心臓が爆発するか
と思ったのに。
まあいいや⋮。
今日は、あの乃江さんを想って寝よう。
あと明日の朝、俺が跳ね起きたら運命が変わるかな⋮試してみた
い気がする。
590
﹃退魔士試験01﹄
﹁ご指導ありがとうございました﹂
山科さん宮之阪さんと並んで、お世話になった先生に深々と頭を
下げる。
即席の先生達が、にこやかに教え子の報告を待っている。
﹁こちらこそ、良い勉強になりました﹂
先生の一人、真琴が深々とお礼を返す。
真琴&宮之阪ペアは、先生と生徒と言うより持ちつ持たれつの間
柄、お互いが先生であり生徒なのだろう。
﹁真琴の⋮教え方が⋮良かった⋮﹂
モジモジと言葉を発する宮之阪さんだが、真琴が良い先生だった
事を表情で語っている。
聞く所によると﹃漢字ドリル小学6年生﹄までマスターしたらし
い。
日常で使う漢字はマスターしたと言って過言ではない。
数日で千を超える漢字を覚えてしまう学習能力を褒めるべきか、
教えきった真琴を褒めるべきなのか。
恐らくは、両方なのだろう。
漢字を﹃覚えさせる﹄と言う事に抵抗があった真琴は、一文字づ
つ成り立ちを教えたらしい。
象形,指事,会意,形声文字を絵に描いてだ。
漢字文化がない国の人には、その方が近道なのかも知れない。
しかし⋮真琴は象形文字の﹃士﹄と言う漢字をどう説明したのか
591
⋮。気になる所だな。
多分嘘をつけない真琴の事だ、顔を真っ赤にして説明したに違い
ない。
そのおかげと言うか、やっと試験問題の意味が理解できた宮之阪
さん。
いきなり成績上位までランクアップし、やっと本来の実力を出せ
たと感慨深げだ。
教科によっては、乃江さんや美咲さんを脅かすほどの点を獲得し
たらしい。
試験問題もルビ振ってやれば、良いのにね。
ダメか?。
﹁宮之阪先輩に教わった箇所は、先生から教わるより詳しく深くて、
ちゅうに
いい勉強になりました∼﹂
元よりトップ・オブ・中二の呼び声高い真琴だ。
成績にうんぬんより、学校で知りえない知識を教わったようだ。
﹁特にEU諸国の歴史は、面白かったです∼﹂
おそらく受験には必要ない勉強していたようだ。
何気に余裕を感じるな⋮。
確かに歴史のある国々だから⋮歴史を理解して国の成り立ちを理
解すれば、かなり面白いかもしれないな。
試験結果を喜び合うように、ハイタッチで手を重ね合わせる二人。
人見知りする宮之阪さんと、遠慮気味の真琴は、今まで正直希薄
な間柄だったように思う。
だが⋮見事にそれも解消されていた。
二人揃って仲の良い姉妹のように見えるくらいだ。
良きかな⋮、良きかな⋮。
592
﹁うぉっほん! 次はうちやな﹂
一区切り付いた所で、満を持して山科さんが咳払いをする。
そして、四つ折にした紙を懐から取り出し、裁判勝訴のように見
せびらかす。
数学⋮96点?
﹁山科由佳! 栄光を勝ち取りました∼﹂
勝訴と言うより、代議士が選挙演説をするかの如く、愛想を振り
まき満面の笑み。
元々が他の教科は優秀の山科さん。
そのにこやかな顔を見れば、他がどうだったかなんて聞かなくて
も良いだろう。
﹁でもな?90点以上取れなかったら、美咲に拷問される所やって
んえ?﹂
冗談のような台詞を、至って真面目な顔で言う。
山科さんの青ざめる顔とニッコリ笑う美咲さんからは想像も出来
ない。
ダークな駆け引きがあったのだろう。
﹁⋮残念♪﹂
にこやかな表情から、想像も出来ない黒い言葉で場を凍らせた。
真琴は涙目でガクブル震えている。
﹁最後に俺ですが⋮﹂
593
みんなの様に誇れるほどではない。
けど乃江さんと俺の努力は無駄じゃなかった。
﹁平均点80オーバーっす﹂
普段の俺でも、かなり良いレベルの得点だ。
その俺が全然勉強出来ていない状態から、そこまでレベルアップ
出来た。
ひとえに乃江さんのおかげだろう。
正直ヤバイ点数の教科もあった。
けれどポイントゲッターの数学で満点に近い点を取ったおかげで、
平均してチャラ、気分は勝ち組だ。
戦術の勝利だ⋮。
﹁全員が成果が有ったという事で、大団円やな﹂
ポンと手を叩き、山科さんが喜びの声を上げる。
﹁あとは、退魔士試験⋮ ランクアップ組のがんばりに⋮ 期待や
な!﹂
ニヤリと笑って、俺と真琴を見やる。
試験の苦役を忘れるが如く、見事なまでの他人事の笑いだ。
﹁あ⋮わ。詳細が封書で来てました。試験会場が遠くて⋮泣きそう
です﹂
真琴は鞄から封筒を取り出し、本文を簡潔に伝える。
594
﹁日時は今週末の日曜AM10時。会場が米海軍岩国航空基地だそ
うです﹂
えらい遠い場所だな⋮、新幹線で数時間⋮か。
始発の新幹線で移動だと、かなり大変な距離だ。
﹁習志野ちゃうねんな。あっちやと楽やのに﹂
習志野空挺部隊を全滅=ランクAの持論の持ち主だ。
調べてみたが、過去習志野で試験が行われた事例は無いらしい。
﹁カオルさんも同日に試験ですよね? 郵便届いてませんでしょう
か?﹂
ポケーっとしている俺を心配するように、美咲さんが問いかける。
あう⋮郵便確認と言うか、インドに修行行くと言って、家に帰っ
てなかったりしてますが?
﹁乃江さん所に泊り込んでましたから⋮詳細不明っす﹂
試験は今週末なのに、内容すら確認できていないとは⋮ この試
験ダメかも知れぬ。
﹁私は郵便局に、山科先輩宅へ転送依頼出してますから⋮﹂
この⋮しっかり者の真琴め!
しかし、数日家を空けるだけで転送できないもんな。家に帰って
確認するとしますか。
﹁あ⋮でも内容だけなら、メールでも連絡来てるはずですよ?﹂
595
あう⋮。うちのPDAは受動的にメールを受信しないんだ。
サーバにログインしないとメールが見れないんだよね。
携帯に転送設定しておかないと、いざと言うとき面倒かも⋮。
カバンからPDAを取り出し、サーバへログインしてメールを確
認してみる。
﹁⋮2日前に来てました。同じく岩国基地⋮だ﹂
真琴の試験と同時開催か。
そういや場所を分散する理由なんてないもんな。
その続き、試験概要を見て息を飲む⋮。
﹁ランクA、試験担当⋮真倉綾乃⋮﹂
苦笑いをしながら、乃江さんを見る。
﹁ちっ! うちらの誰かが担当になると思ってた! 残念やな∼﹂
山科さんの叫びに美咲さんと宮之阪さんが同調し、コクコクと頷
いた。
この人たち鬼だな⋮俺の試験も暇つぶし感覚だ。
だが、乃江さんだけが何のリアクションもせず、暗い顔で黙りこ
くっている。
﹁乃江さん?﹂
俺と同じく、他のメンバーも同じ表情で乃江さんを見つめる。
乃江さんは、複雑そうな表情で苦笑した。
596
﹁カオル⋮ 今回は相手が悪すぎる⋮ また今度がんばれ⋮﹂
せんとうきょ
みんなの視線を逸らすように横を向き、ボソリとつぶやいた。
ういく
﹁姉は、真倉の正当後継者だ。私なんかと違い幼少の頃から英才教
育を受けていてな⋮﹂
乃江さんらしくなく覇気の無い声でボソボソと話すのを、全員が
固唾を呑んで聞き入っている。
﹁私が⋮辛いと思っていた⋮何倍もの訓練を受けて、それでも信念
を鈍らせること無く、修行を続けていた人だ﹂
そう言い、乃江さんは黙り込んでしまった。
過大評価も過小評価もしない乃江さんがそう言うのだ。
綾乃さんは相当に﹃使える﹄腕の持ち主なのだろう。
試験対策として、その力量の程を聞いてみたい。
﹁乃江さんから綾乃さんを測って、どれくらいの腕の持ち主なのか
な?﹂
その場の全員が気になる疑問だ。
﹁10歳の時にランクC以上A未満⋮10人と戦って、全員を病院
送りにした﹂
⋮⋮⋮マジですか。
乃江さんの目が、﹃マジ﹄と言っている。
10歳と言えば小学五年生くらい⋮。そろそろランドセル卒業の
時期だ。
597
その年齢で既に俺より強かったって事か⋮?
あまりに現実離れした話を聞いて、精神が遅れて理解してきたよ
うだ。
身震いしてきた。
﹁逆転の発想! 勝つか負けるかなんて、考えなくて良い。全力で
腕試しさせて貰おう﹂
身震いは武者震い。
乃江さんでさえ尻ごみする相手なんだ。
だったら俺ごときクヨクヨしていても仕方ない。
今の俺がどれだけ戦えるかが、試験内容だと思うし。
それに⋮⋮遠慮なく全開で戦える⋮。
そう思うとなんだか楽しくなってきた。
﹁カオル⋮お前笑ってるのか?﹂
乃江さんが驚いた顔で俺を見ている。
﹁だって、乃江さんや美咲さんが特訓してくれたんだ。成果を見る
いい機会だしね﹂
もう泣き顔は見たくない。
誰かを泣かせる事はしたくない。
開き直ってでも、石にかじりついても強くなってやる。
﹁真琴、当日始発で新幹線なんて辛いから、前日から泊り掛けで行
くか?﹂
﹁瀬戸内グルメの旅∼﹂
598
真琴!それは名案だ。どうせダメ元の試験旅だし、楽しまないと
ね。
﹁うちも行く∼、ダメといっても行く∼。応援ついでにグルメ旅♪﹂
言ったもん勝ちな山科さんの声。
山科さんって、こういう時の判断力は誰よりも早いよな⋮。
まあ⋮グルメ旅ついでの応援のような気がしないでもないが⋮。
﹁誰かお留守番⋮なんて無理ですよね。⋮また全員この地区を空け
てしまうのですね⋮。非常勤の方の派遣を頼んでおこうかしら⋮﹂
頭の痛そうな美咲さんのつぶやき。
美咲さんの実家へ帰った時には、非常勤の退魔士を派遣していた
そうだ。
弊害として、美咲小隊から雇う形になるので、お給料が減るのだ。
だが⋮そうまでしても、美咲さんは行く気満々なのだ。
グルメ旅と言う言葉って、恐ろしいよな⋮。
﹁そうと決まれば、温泉とお魚は外せませんね!﹂
温泉とお魚より重要なのは、退魔士試験だと言う事を忘れないで
ください。
﹁封書取りついでに、家に帰るとします。乃江さん!荷物は置いて
おいて良いかな?﹂
俺の無理なお願いに、快く了承してくれる乃江さん。
599
﹁じゃまた明日朝に∼﹂
急ぐように、マンションを後にした。
マンションの玄関を出て、息が切れるまで全力疾走し、逃げるよ
うに走り出した。
﹁くそっ! 手の震えが止まんない⋮﹂
試験の昂ぶりが、綾乃さんへの恐怖が俺の中で交じり合い、食べ
た夕食を吐き出しそうになる。
﹁なにが全力で腕試しさせて貰おう⋮だよ、グルメ旅だよ⋮﹂
全然そんな余裕なんて無い。
ボロボロになるまで、体を動かしたい⋮付け焼刃だと判っていて
も、なにかやらないと納得できない。
前のように、負けて当然なんて思えない。
中途半端な俺は、もう嫌だ。
修行として対戦するのではなく、本気で戦ってくれる相手が欲し
い。
﹁⋮気分が乗らないけど、思い当たるのはアイツしかいないか﹂
俺は携帯を取り出しコールを入れる。
携帯のディスプレイに表示された名前は﹁牧野健太郎﹂
﹃おやおや?カオルが俺に電話するなんて珍しくねぇ?﹂
呼び出し2回で電話を取った牧野は、いつものように軽口を叩い
600
てきた。
そんな普通のリアクションしたら、言い出しにくいじゃないか⋮。
﹁今日はカオルじゃなく、﹃三室カオル﹄として電話した﹂
電話を持つ俺の手が汗ばむ⋮。
いつもの通りに笑い飛ばしてくれたら、笑いで済ませるかも知れ
ない。
けれど、電話からは笑い声など聞こえてこない。
長い⋮長い沈黙が続く。
﹁何時⋮気が付いた?﹂
もう、声のトーンが牧野のソレじゃない。
底冷えするような声で、静かに俺を威圧する。
﹁繁華街の廃墟で6割、学校でお前と話して残り4割⋮﹂
いつも見るお前の後姿なんだ。口調を変えていても声で判る。
﹁お前⋮高校入学してからずっと⋮友達なんだぞ? 顔を見なくて
も判るよ⋮﹂
他に友達も居なかったし⋮。
﹁正直データベースを改竄しててくれて、ホッとした﹂
﹁ハハハ⋮してやったり!とか思ってたのにな﹂
夜の街に響き渡る二つの笑い。
601
﹁カオルは相変わらず変な奴だな。で? 改まって俺に電話してど
うする気だ?﹂
﹁お前の素性をどうするつもりも無い。今さ、無性に体を動かした
くて⋮電話した﹂
電話の向こうで、無言になる牧野。
俺の言葉を量ろうとしているのか⋮。
﹁それに、うわべ取り繕って学校で話するの⋮もう嫌なんだ⋮。俺
の唯一の友達だから﹂
俺の本心を吐露する。
出来れば、これからも友達で居て欲しいという気持ちを込めて。
﹁了解した。どこへ向かえば良い?﹂
﹁学校かな⋮南校舎の屋上⋮緑化庭園﹂
ココロの中の、苦い想い出の場所⋮。きっとその場所なら手加減
無しで戦える。
俺が変わるきっかけをくれた、大切な人の思い出の場所だから⋮。
切れた電話をポケットに放り込む。
最後に言い放った牧野の言葉が耳に残る。
﹃ご要望通り、ファントムとしてお相手させていただく﹄
大歓迎だよ⋮牧野。
602
603
﹃退魔士試験01﹄︵後書き︶
真倉綾乃⋮乃江のお姉さん。
A++本編ではチョイ役でしか出ておりません。
お暇な方は、私の第二の駄作﹁KYO+﹂に綾乃が出ておりますの
で♪ と宣伝して見る。
604
﹃退魔士試験02﹄
夜の学校に忍び込み、昇降口の扉の前で呆然と立ち尽くす。
﹁学校って鍵掛かってるんだ⋮﹂
ガラス割って侵入とかやりたくないなぁ⋮愛する母校だし。
それ以上に、﹃鍵開いてないから、別の所に行かない?﹄なんて
言いたくない。
カッコ悪いと言うのもあるが、呆れて帰っちゃいそうだし。
仕方ない⋮機嫌損ねるけど奥の手で行きますか。
俺は腰に差した守り刀を、扉の鍵に向けて抜刀する。
﹁開錠!﹂
俺の気持ちなど、お見通しなのだろう。
カナタが扉の向こうに顕現し、鍵に着地!
落下の勢いで鍵のつまみを回した。
﹁お見事! カナタ偉いぞ!﹂
鉄棒の体操選手の様に、鍵の所で手を離し一回転する所なんて演
われ
出が憎いね。コバチ?
﹁カオルは我の事を軽んじておる⋮﹂
扉を開けてカナタへ手を差し伸べるが、そっぽ向いたまま手に乗
ろうとしない。
やっぱりご機嫌を損ねてしまったか⋮。
605
﹁ごめんごめん、背に腹替えられなくて⋮カナタ助かったよ﹂
やっとご機嫌を直してくれたのか、差し伸べた手にチョコンと座
る。
でもまだ膨れっ面でそっぽ向いている⋮、ときめき指数マイナス
10だな。
﹁今度カナタの好きなお菓子、買いに行こうな﹂
すねた彼女に取り繕うように、必死の思いでカナタに話しかける。
﹃お菓子﹄と言う言葉を聞きピクリと反応が返ってきた。
ちょっと脈ありかも。
﹁今週末新幹線で遠くに行くから、駅でご当地のお菓子一杯選びた
い放題∼﹂
もじもじ⋮。
座りなおしたり、髪をいじってみたり落ち着かない様子のカナタ。
もう一押し!
﹁一緒に食べような?﹂
手の向きを変えて、カナタの顔をみる。
カナタもニッコリ笑って俺の肩に乗ってくれた。
手のかかる刀精だけど、俺は人間味にあふれたカナタとのやり取
りが好きだ。
﹁さてと、行きますか!﹂
606
無人の校舎を駆け上がり、牧野の待つ屋上へと先を急いだ。
一足飛びで階段を駆け上がっても、息を乱さない。
⋮そんな俺に、自分自身少しだけ成長を感じていた。
﹃ギィィ⋮⋮⋮﹄
屋上への扉は易々と開き、先客有りと教えてくれた。
夜風が吹き込み、澱んだ空気に満ちた校舎内を一掃してくれる。
前方の月明かり下のベンチ。
背もたれに持たれかかり、ヘッドフォンから奏でられる曲に酔い
しれる牧野。
月を眺めていたその視線の向き先が、俺へと切り替わる。
﹁待たせすぎだよカオル。仕方ないから、お月様に相手して貰って
いた﹂
いつもの牧野のリアクションで、なんとなくホッとさせられる。
﹁鍵開けるのに手間取った、あと移動手段が地味すぎて﹂
もうちょっとで二輪免許、だけど今は徒歩か電車、タクシーしか
選択肢が無い。
見た目で判断されるのか⋮タクシー捕まえにくいんだよね。
﹁最初に聞いておきたいんだけど?﹂
牧野が俺に問いかける。
そしてヘッドフォンを外し携帯音楽端末の電源を切った。
﹁なんでも聞いてくれ﹂
607
一応の覚悟は決めている。
﹁俺ら⋮友達だよな﹂
そっぽ向いて、歯の浮いたセリフに照れる牧野。
くっそ⋮俺が女だったら速攻で堕ちてる。それくらい嬉しい一言
だ。
やっぱり牧野は牧野なんだ。女ったらしの牧野そのものだ。
﹁うん⋮俺達、気の会う友達だよな﹂
口数が少なく、クラスで浮いていた俺に、話しかけてくれた時は
嬉しかった。
学校が楽しく感じれたのも、牧野のおかげだよ。
﹁お前が来るまで暇だったから、情報仕入れてた。退魔士試験 ⋮
真倉綾乃か?﹂
俺の目を見て、自分の予想の結果を確かめる牧野。
携帯端末をベンチに置き、立てかけられた棍に手を掛ける。
ポケットから黒いグローブを取り出し装着する。そして握りを確
かめるように棍の手触りを確かめている。
﹁ああ⋮さすがだね。綾乃さん⋮強い人らしい。けど負け覚悟なん
て根性で試験受けたくないんだ。手伝ってよ﹂
俺は腰のナイフと守り刀を引き抜き、両手で構える。
﹁俺の手は、退魔刀と鉄をも切り裂くナイフの近接戦闘﹂
608
牧野の戦いを見て、俺が教えないのはフェアじゃない。
友に対する礼儀だと思う。
牧野はその真意を理解し、ニヤリと笑う。
﹁徹底的にやって欲しいみたいだな。そんなに焦って成長してどう
する?﹂
そう俺に考えさせ⋮その一瞬の隙で踏み込み、顔に棍の三連突き
を見舞う。
くっ!巧い。肩の動きを最小限にして、棍の打点部分しか見せな
い突きだ。
500円玉程の円が三つ、頭部の急所を貫いて来た。
だが、洗練されすぎていて打点が判る。
あとは、500円玉の大きさの順に避ければ良いだけ。
﹁へぇ、俺の三点バースト。避けちゃうんだ﹂
横から見るより厄介な武器だ。対峙すると良く判る。
棍を手首で放り投げ、得物と俺の頭部への距離を縮め、インパク
トの瞬間にバケモノじみた握力で固定。
この時やっと棍と肩がリンクし始めるのだ。
一発目がソレ、あとの二発が右手と左手をしごくように交互にイ
ンパクトを加えて来る。
﹁避けないと、距離が縮まらないだ⋮ろ!﹂
体を沈み込め、伸び上がるように左手のナイフで首を取りに行く。
一発目は牽制の攻撃、技を繰り出しながらも、牧野の視線を欺け
た様子は感じれない。
609
本当の狙いはカナタでの死角からの攻撃だ。
牧野は4・6の中間点で棍を持ち直し、弧を描くように4の棍で
ナイフをしたたかに撃ちつける。
4が防御なら6のは攻撃位置。俺の肩を撃ち、弾き返される反動
で飛びのき距離をとる。
﹁ただの棒だと思っていたら⋮攻守の切り替えも速ええし⋮理にか
なった武器なんだな﹂
撃たれた肩の痛みに耐え、冷静に状況判断を試みる。
2mを超える大物、動きも大味なんて侮ると即、死ねる。
中間点で持てば近接の間合いにも対応できるし、コンパクトに打
ち下ろす事が出来る。
本で読んだ事があるが、棍は手の延長。拳の修行を終えたものが
持つと強大な威力を持つ⋮と。
肩の痛みから考察するに、直線状で穿つ最初の突きとは違い、中
間距離の突きは威力が半減している気がする。
それでも、撃たれた肩は痛いんだけどな。
﹁中国三千年の歴史の重みだな。戦乱の世にあり、争いの収まらな
い国々。そこで研鑽された武器と技だからな﹂
5・5の位置に手を添え、弧の動きで棍を振り回す。
ヌンチャク使いの様に前後左右縦横無尽に、まるで死角など無い
!と言わんばかりに。
本当に死角が無いのか?打突部分は怖いけど、手を添えている部
位はそれほど脅威を感じないぞ?
無言で﹃長考﹄モードへ突入し、無音の色あせた世界を突き進む。
色は光の反射。色あせて見えるのは⋮より速度が上がっている証
だ。
610
コンクリートを脚で撃ち割らんばかりに踏み込み、反動を膝へ伝
える。
腰で螺旋の動きに変換し、中間点を撃ち折るべく渾身の肘撃ち。
咄嗟の俺の長考に慌てる様子もなく、4・4の位置に持ち替え俺
の肘を棍で受ける。
対抗するような打と打の攻防に持ち込まず、一方の手を下げ威力
の方向を受け流す。
スルリと攻守の位置が入れ替わり、何事も無かったかのように棍
を撃ち込んできた。
短いストロークの連弾を、紙一重でかわし一歩後ろに飛びのいた。
俺が飛びのけば、牧野は持ち手を瞬時に切り替え飛びのいたマー
ジンをゼロへ戻す。
そして、武器を構える手へ容赦ない連撃。
﹁なかなかに⋮付け入る⋮隙⋮ないね﹂
牧野の棍を避けながらの台詞。最後まで言葉を言わせない容赦な
い連続攻撃。
﹁それがお前のお望みなんだろ?﹂
そうだ。屋上の訓練では味わえない危機感。そしてこの場所に重
要な意味があるんだ。
連撃を回避しながら、手に霊力を籠める。
﹁行くぞ、カナタ﹂
肩に乗ったカナタに異変が起こる。
光に満ち溢れ俺を取り巻くように、光の粒へと変化した。
神々しい光が刀へと集約されていく。
611
﹁カナタに足りない部分⋮俺が霊力で補う﹂
握り締めた漆の柄の質感が変化し、絹織りの柄へと変化する。
薄ぼんやりと光る刀身が、2尺の長さへ⋮元のカナタ⋮河内守藤
原国助2尺3寸へと変化した。
俺は、ナイフから手を離し両手持ちで剣を構える。
手から離されたナイフが、粘土にでも突き刺さるかのように易々
と地に刺さる。
体の正中線で剣を牧野へと向ける正眼の構え。いや、相手の顔に
向けているこの構えは星眼か。
俺の知りえない知識が、手から俺に流れ込んでくる。
カナタの知識、カナタの元の主たちの知と技が、俺の神経を伝い
脳を刺激する。
一足飛びで即座に間合いを詰め、原始的に対象物を二分する。
第一の所有者。人斬りの剣⋮。
﹁く!﹂
牧野が、必殺の一撃を避ける。
棍で振り下ろす俺の手を穿ち、コンマ1秒程の時間を稼いで⋮。
それでも避けきれない剣は、棍を両断し牧野の右手を斬り付けた。
噴く血飛沫がダメージの度合いを知らせてくれる。
どうしんかげんはちれいふぶはちけいしん
腕を両断⋮とまでは行かなかったようだが。
﹁洞神下元八景霊符部八景神!﹂
胸ポケットから数十枚の符が飛び出し、斬られた箇所に貼り付き
止血を行う。
612
血に染まった符が、力なく一枚一枚と手から剥がれて落ちて行き
⋮最後の一枚剥がれた時には、斬られた箇所が閉じていた。
﹁自慰できなくなるところだった﹂
普段から右手が恋人と行って憚らない牧野。
本当に、恋人なのかはさておき、減らず口を叩く。
﹁お前が、彼女らじゃなく俺に声を掛けた理由がわかったよ⋮﹂
気を籠めた手で、切られた箇所を揉む様に擦る牧野。
﹁こんな殺気を女の子に向けれないもんな⋮﹂
だが今度は向けなくてはならない。乃江さんのお姉さんへ。
﹁棍が駄目になったのなら、俺のナイフを使っていいよ﹂
地に突き立ち振るう主を待つナイフ。
﹁最初、お前を見た時さビビったよ⋮。いきなり手配ミス⋮﹃目標﹄
と接近遭遇したのかとな﹂
ナイフを引き抜き月明かりに照らして、刃紋をみる牧野。
﹃目標﹄というのは、多分奴の事だろう。
⋮それで、声を掛けてくれたって訳か。探りを入れられたんだな。
少しココロが痛い。けどハッキリとそう言ってくれるという事は、
俺を信用して言ってくれたんだろ?
ならば俺は受け止める。
613
﹁だけどすぐに違うと判った。こんな良い奴が悪さするはずないか
らな⋮⋮、けど歌姫達は気が付いてしまうだろうとは思っていた﹂
手に馴染ませるように、ナイフを手で弄ぶ牧野。
﹁俺は、クリスティーヌ達を影から見守る怪人役だ。クリスティー
ヌを見守り障害を排除する⋮な﹂
手に馴染んだナイフをかざし、俺と対峙する牧野。
﹁クリスティーヌに恋をせず、表舞台に立たなければ、怪人も案外
良い奴なんだよ﹂
なぜか、牧野のココロの声を聞いたような気がする。
言い寄る女の子達に目もくれずに居たのは、恋をしているから⋮
か?
一心不乱に夜の街を見回り、浄化していたのは任務なのか恋なの
か。
﹁行くぞ⋮第二ラウンド﹂
消えるように俺の懐にもぐりこんだ牧野が、容赦なくナイフを振
るう。
月夜の学校に響く刀と刀が撃ち合わさる音が、何度も、何度も響
き渡った。
﹁夜空が白み始めている⋮ こんなにまでボロボロになって⋮ 俺
ら阿呆か?﹂
614
屋上の床へと寝そべって、夜空の星を見ていた俺達は朝焼けの光
で夜明けを知った。
﹁阿呆だな。8時間位戦ってたっぽいな﹂
握力を殆ど失って震える手を見ながら、率直な感想を述べる牧野
と俺。
だがある種の満足感が俺の中に残り、力となって俺を支えてくれ
た。
﹁D組の四条さん知ってるか? カオルに惚れてるって噂だぞ﹂
女バスケの目立つ子だな。次期キャプテン候補の⋮わりと美人。
ポジションはポイントガード。動きが速くてチームを取り纏めて
いた。
速い動きと洞察力が気になって、部活を見学した事がある。
﹁そういう牧野だって⋮⋮一杯居過ぎて﹂
男の敵、女の憧れの的だもんな。
﹁俺は黒子で良い。歌姫を守れれば﹂
﹁俺は今、それ所じゃない感じ﹂
やる事が一杯ありすぎて。
﹁まぁ、身近に美人が5人も居てるもんな。麻痺しちゃって思わな
いんじゃないか?﹂
615
﹁それもあるな﹂
そんな馬鹿話をしつつ、ぼんやりとした頭を働かせる。
朝か⋮。朝?
﹁お⋮わ。朝の修行に遅刻する。わっ。しかも服ボロボロだし。血
だらけだっ﹂
自分の物と返り血と⋮。
こんな状態でタクシーなんて乗れない。
﹁俺の愛車、バリ牛2に乗っけてやろうか?﹂
なんだよそのネーミング。カワサキのバリオスだろーが。
ギリシャ神話の神馬の車名を牛⋮だなんて。
だが、背に腹変えられぬ。
﹁乗っけて♪﹂
﹁昼飯3日分で手を打とう﹂
﹁ケチ臭いこと言ってるなぁ。退魔士だろ?﹂
﹁最近よぉ ガソリンたけーんだわ﹂
哀愁混じりの台詞に、頷くしかない俺。
そろそろ俺も、ガソリン価格の影響を受ける身分になるのか⋮嬉
しいような悲しいような。
616
﹃退魔士試験03﹄
﹁気が付きましたか?﹂
美咲さんの声ではっきりとしない意識が揺り起こされた。
ギシリ⋮
軋むスプリングの音でベッドの上に寝かされているのに気が付い
た。
牧野のバイクに乗った所まで覚えているんだけど、その後の記憶
が飛んでるみたいだ。
リビングの風景じゃない見慣れぬ部屋⋮。
ギシリ⋮
身を捩った時にベッド軋む音を立て我に返る。
﹁み⋮み⋮みさ⋮﹂
今まで入ったことのない部屋⋮⋮最後の聖域⋮美咲さんの寝室だ
った。
シーツやら掛け布団から良い匂いがしたり、枕のカバーから髪と
シャンプーの残り香がしてたりする。
しかし混乱気味の俺には、味わう余裕が無かった。
﹁はいはい 美咲さんですよ?﹂
混乱して言葉にならない俺を促すように、優しく語り掛けてくれ
る。
朝から美咲さんの顔、しかもアップで起きれるなんて幸せかも。
﹁屋上に行こうとしたら、部屋の前で寝てらっしゃいまして⋮﹂
617
そ⋮そうだっ、思い出した。
ドアを見た瞬間に、気が緩んで座り込んだんだ⋮。
そのまま寝ちゃったか。
﹁28箇所の打撲痕⋮ そのうち骨折箇所が2⋮ 筋繊維が8箇所
切れて⋮ 刀傷が⋮合計87センチ分⋮﹂
ゆっくり⋮ゆっくりと俺の患部を説明していき、自白を待つ美咲
さん。
そして、数十秒の沈黙。
むぐう⋮痛い⋮痛すぎる時間です。
針のむしろと言うのはこういう事を言うんだな⋮。
しかし、ファントムの事を言う訳にはいかん。俺のポリシーに反
する。
押し黙る俺の表情を見て、美咲さんがため息をつく⋮。
﹁全部治しておきました。週末には試験だというのに、ハンディ付
きですか⋮ 余裕ですね∼♪﹂
人差し指で、俺の頬をグリグリ突っつく美咲さん。
黙っている俺に腹を立てているのか、少し痛いです。
﹁すいません⋮ 助かりました⋮﹂
怒るのを通り越して呆れている美咲さんに、俺が話せる唯一の謝
罪の言葉。
そういや、服は汚れてボロボロのはずだ。
そんな体で美咲さんのベッドに寝てるなんて、汚れてしまうんじ
ゃないか?。
618
ベッドから跳ね起きようとして、服を着ていない事に気が付き硬
直する。
﹁ぼろ布の様でしたので、脱がせ消毒の後手当てをいたしました﹂
掛け布団の中でモゾモゾと確認してみるが、下も付けててないよ
うな気がする⋮⋮。
﹁血でジーンズと一緒に固まってましたので、ハサミで切っちゃい
ましたよ?﹂
なんと。
と言う事は⋮見られちゃいましたか。
俺のリトルマグナム。未だ成長を見ぬアレを⋮。
﹁心配しないでくださいな。着替えは用意してますから∼﹂
いや⋮論点はそれじゃなく⋮⋮。
そう思いながらも涙目になっていく⋮。
俺の表情を見ながら、美咲さんがニッコリ笑う。
﹁うふふ⋮﹂
意味深な笑いを残し、部屋後にする美咲さん。
なにか言ってください⋮。
﹃キャ∼ そんな⋮ 見てないですよ∼ エッチ﹂とか、気の利い
たフォローを望む。
しかし、無情にも扉はそのまま閉じられた。
﹁⋮⋮⋮﹂
619
立ち直れ俺! リトルマグナムでも良いじゃないか。親から貰っ
た立派な体の一部だ。
布団をめくり、相棒を確認する。
朝にありがちな屹立状態でもなく、裸で寒かったのか、いつもよ
り二割り増し縮こまっている。
﹁元気出せよ?相棒⋮﹂
﹁あっ、ノエの部屋でご飯用意で着てますから⋮⋮着替えて⋮⋮来
て⋮⋮⋮⋮クダサイネ?﹂
不意打ちで扉が開かれ、硬直してしまう。
俺は涙目で美咲さんを見つめるしか出来なかった。
﹁⋮⋮⋮﹂
﹁くすっ﹂
美咲さんが天使?の笑みを残して扉を閉じた。
舌噛んで死にたいです。
クローゼット上に用意された着替えに袖を通し、乃江さんの部屋
へと向かった。
ガラスの座卓に正座して待つ美咲さんと目が合う。
先ほどの事故など意に介さないように、すました顔でこちらを見
てる。
俺の気にしすぎかな。
620
一応念の為、もう一度美咲さんを確認。
俺と目があった瞬間に、サッと目をそらされる⋮。
笑いを堪え肩が震えているような気がする。
⋮涙が出てきた。
﹁おはようカオル﹂
﹁おはようございます、乃江さん﹂
乃江さんと朝の挨拶を交わし、食卓につく。
鯵一夜干しの炙り、湯通しホウレン草に鰹節のお野菜、きゅうり
とワカメの酢の物、ご飯。そしてメインディッシュは豚汁。
いつもながら手間を惜しまない朝の料理に感服する。
﹁カオル、疲れた顔をしているな。お嬢様の訓練はキツかったか?﹂
俺の顔を見てご飯の分量を決めてくれる乃江さん。
乃江さんの見えない所で美咲さんが、人差し指を立てて口に当て
﹃しーですよ﹄って笑ってくれる。
助かります美咲さん。
﹁そう言う時はご飯を沢山食べないと、筋肉繊維が痩せるからな。
一杯食べろ﹂
そう言ってご飯をマンガ盛りしてくれる乃江さん。
マッターホルンの様にそそり立つご飯を配膳してくれた。
うむ⋮ちょっと血が足りて無いから、栄養になる物は何でも摂取
したい。
﹁いただきます∼﹂
621
食欲をそそる豚汁の芳しき香りと味に舌鼓を打つ。
さすが日本の誇る完全食だ。パーフェクト。
﹁いよいよ明後日だな。旅館も新幹線も予約済みだから、試験にの
み集中してくれ﹂
ありがたい。
宿探しや予約なんて結構時間かかるんだよな。
手を合わせて乃江さんを拝む。
﹁神経痛や慢性消化器病に効く温泉だそうだ﹂
どちらもまだ縁が無いな⋮微妙にハズレのような気がする。
打ち身、筋肉疲労なら最高だったかも。
美人の湯でもいいね。
まぁ温泉なら何でも気持ち良いんだけど。
﹁直前だし、明日は朝の修行も無しにしてゆっくり休め﹂
表情に表れていないが、乃江さんなりに気遣ってくれているのを
感じる。
でも、日課になりつつある修行だし、内緒だけど今日サボったし。
﹁日課になってますし、明日は乃江さんと美咲さん両方に教わって
良いですか?﹂
普段ある事をやらないと、力が抜けるような気がするし、不安に
なる。
最後にするつもりは無いけど、一応の締めくくりの意味で二人に
622
お願いしたい。
﹁了承した﹂
﹁喜んでお相手させていただきます∼﹂
気持ちよく返事してもらえて良かった。
試験前ラストチャンスだからな、気を入れて頑張ろう。
﹁うぃーす、牧野元気?﹂
机に突っ伏して朝から快眠してる牧野の背をぶっ叩く。
いつもなら﹃イテェ﹄なんて即起きる牧野だが、反応がない⋮。
横から覗き込んでみると、青ざめた顔で半開きの口からエクトプ
ラズム=マキノが出ていた。
﹁オハヨ カオル ゲンキダネ﹂
死んだ魚の目をした牧野が、形だけの挨拶をしてくる。
覇気が無くまばたきもせず、口だけが動いていて気持ち悪い。
﹁昨日はありがと﹂
﹁昨日じゃねぇ、今日だよ! しかも数時間前! なんでお前そん
なに元気なんだよ⋮﹂
623
恨み節に聞こえる牧野の叫び。即ツッコミが来た。
怒った口調なのに無表情でまばたきもせず、口だけパクパク言っ
ている。腹話術みたいで面白くなってきた。
﹁美人のナースに治療されて、愛情のこもった朝ごはん食ったら、
元気にもなるって﹂
︵朝の豚汁はパワー付くぞ、騙されたと思って試してみてくれ︶
疲労困憊している牧野を見てると、少し心が痛んだので餌付けし
ておこう。
鞄の中からラップで包んだオニギリを、無表情な顔の前に置く。
﹁なにこれ、近すぎて見えない﹂
引いて見たらいいじゃないかと思うけど、疲れている牧野には無
理な注文か。
﹁乃江さんが非常食用に握ってくれたオニギリ。ヒットポイントが
300回復するぞ﹂
﹁マジか?﹂
跳ね起き震える手で、オニギリを手に取る。
ラップを取り形を眺めるように、そして涙を流しながら食らった。
﹁運動後に筋肉がどうとか⋮今日は一杯作って貰ったんだ。まだ食
うか?﹂
喉を詰まらせながらも、コクコクと頷く。
624
乃江さんのオニギリは美味いからな⋮米も良いし握り加減が絶妙
だ。
米をでんぷん糊に出来るほどの握力なのに、握り加減が硬すぎず
柔らかすぎず、口の中でほどけて美味い。
﹁良く考えると、昨日の晩飯すっ飛ばしてた。⋮昼から何も食って
ない﹂
俺は食ったから、てっきり牧野も食事済みかと思ってた。
やきそばパンとタマゴサンドでアレだけ戦えるんだから、お前は
やっぱり凄いよ。
﹁ごめん、飲みものもってねぇ?﹂
あつかましいにも程があるぞ。水道の水飲んで来い。
いつもならそう言って一蹴するが、負い目もあるので爽快愚茶を
差し入れる。
﹁また⋮やろうな﹂
﹁やだね。昨日使った符一枚いくらすると思ってんだ。大一枚だぞ
? すっげえ散財だよ﹂
道教の霊符か。あれ有料だったんだ。
そういや字の汚い牧野が、筆書き出来るとは思えないけど。
﹁まぁまぁそう言わず。200枚位使ったっけ⋮ 大変だな﹂
﹁他人事だと思いやがって⋮⋮ お前は良いよな散財ゼロだしな!﹂
625
そう言われると、ムッとする。
散財はゼロだけど、元手は掛かってるぞ。
﹁元手は掛かってるぞ? お前に貸したナイフは、ん千万以上する
し﹂
俺のお金じゃないけど、粗末に扱ったら俺の命が危ない。
そう言う意味では、牧野のナイフ使いが洗練されていて助かった。
下手なヤツが使うと、癖が刃に感染る。
﹁えっ? マジ? 道理で気持ち悪いナイフだと思った。アレだけ
振るって、刃こぼれ一つしないんだもんな⋮﹂
現代科学の勝利です。
﹁オニギリありがとう。真倉さんの愛⋮確かに受け取りました﹂
A組の方角に手を合わせ、ハエのように挨拶する牧野。
ほっぺたに米粒が付いているが、面白そうなので放置。
﹁明後日の日曜日だな。役に立つか判らんし、状況によって使える
か微妙だが⋮取っておけ﹂
そう言って、制服の胸ポケットから霊符を数枚手渡してくれる。
﹁俺は使い方判らんぞ。漢字苦手だからな﹂
牧野が唱えていたような仙人の名前も符の名前も判らん。
﹁持ってるだけでもご利益あるからよ﹂
626
そう言って手渡される黄色の紙に朱墨で書かれた霊符。
のたくったような漢字が、原型を留めていない筆記体で書かれて
いた。 やっぱり解読不能だ。
﹁すっげぇユニットにしといたからよ﹂
そう言われても、どう凄いのか良く判らん。
﹁楽しみにしておくヨロシ﹂
似非中国系風に意味深な言葉を残し、再び眠りに付く牧野。
のび太並みの即寝。マッハスリープ。
1限目は睡眠に当てるつもりだな⋮
俺は手渡された霊符を睨み、しばし考える⋮、まぁご利益あるな
ら貰っておこうか⋮。
627
﹃退魔士試験04﹄
じぇいあーる
えきなか
﹁国鉄恐るべしだな⋮。駅中ショップが大変なことになってる﹂
普段乗らない新幹線の改札を通り抜けたら、和洋のスイーツショ
ップが乱立している。
いつも行く百貨店より多いんじゃないか?
しかも、老舗の名店ばかりが軒を連ねている。
視界内にスイーツショップが6店以上立ち並ぶと、異様な雰囲気
だな。
なかにはホールケーキ売ってる店もある。
俺の肩に乗るカナタは、立ち込める甘い匂いだけで、狂喜乱舞し
ている。
﹁カナタ。好きなだけ買っていいぞ﹂
﹁承知した∼♪﹂
髪の毛を引っ張られる方向へ誘導される。
一軒めの店は和の甘味屋さん。
コッソリ耳打ちされるオーダーを店員さんに頼む。
﹁﹃江戸桃よ﹄8個入りと﹃天下鯛へい﹄8個入りください﹂
店の人への支払いを済ませても居ないのに、次の店へと髪の毛を
引っ張る。
次は?洋菓子か⋮
﹁あの四角いの∼♪﹂
628
﹁フィーヌ−シャンパーニュ? 詰め合わせお願いします∼﹂
次どこだ。
えきなか
マジ?全部の店を回るのか?。
カナタの意向通り駅中スィーツをはしごして回った。
店員さんの奇異の目が痛かったが、気にしない。
カナタの為だ、労は惜しまない。
﹁カオル∼。そろそろうちら乗る新幹線来るで∼、早よしーや﹂
手を振る山科さんが慌てた顔で俺に合図を送る。
気が付くと、両手一杯の紙袋in甘味。
遠巻きに見る仲間の視線が痛い。
近くに寄らないのは、きっと仲間だと思われたく無いからだと思
う。
﹁すぐ行きます∼﹂
最後の会計を済ませ、ダッシュでホームへのエスカレーターを駆
け上がる。
3両程先の乗り口付近で手を振る山科さん。
乗り遅れたら大変だ⋮。
﹁ふぃ∼ セーフ!﹂
あお
﹁ご苦労であったカオル! 労をねぎらってくれよう?﹂
そう言いつつ、汗ばむ俺の顔を、手でパタパタと扇いでくれるカ
ナタ。
629
風の量が絶対的に少ないんだけど、気持ちは嬉しい。
﹁カオル∼ こっちやで!﹂
席ナンバーもろくに確認していなかった俺は、山科さんの手招き
を頼りに座席へと移動する。
二列シートx2⋮ゆったりと配置された広々シートは、もしかし
て?
﹁ここはいわゆる、グリーン車と呼ばれる車両ですか?﹂
ゆったりシートに肘掛、電動リクライニング⋮。
遠出やもん、良いシートで楽して行かんと損するやん﹂
ちょいとリッチで優雅な気分を味わえるという⋮。人生初のグリ
ーン車。
﹁せや?
価値観の違いをまざまざと感じさせられる。
世界の美食家の誰かが﹃一生の内食える回数は決まってる。良い
物を食わないと損﹄と言っていたが、ソレに近い。
﹃パンが無ければケーキを食せば良い﹄論理とはちょっと違うが、
庶民には良く判らない感性だ。
﹁こっちですよ∼﹂
車両中央では、真琴と美咲さんが通路側に顔を出し手を振ってい
る。
ふむ。なんか遠足みたいで楽しくなってきた。
しばらく試験だってのは、忘れておこう。
630
﹁俺の席ってどこでしょ?﹂
実は両手が甘味袋で塞がっていて、確認出来ないんです。
﹁このニ列8席取ってあるから、どこでも良いぞ﹂
グリーン車で向かい合わせにされた2列⋮。微妙に人数計算がお
かしい。
それもアレか?﹃一生の内食える回数は決まってる。良い物を食
わないと損﹄?
深く考えず、空いてる席へと座る。
れいるすたー
こしつっぽいところ
そして、荷物置きになっている席へ、甘味袋を置かせてもらうと
する。
てつどうまにあ
﹁西の﹁鉄道星﹂なら、コンパートメント席があったりするのだが、
残念だ⋮﹂
乃江さんは意外と鉄ちゃん属性?
深いこだわりを感じるなぁ⋮人は見かけによらないとはこの事だ。
どっこらしょ⋮。
﹁カナタ。鯛焼き風和菓子でいいか?﹂
紙袋をまさぐり、カナタへの菓子を取り出す。
﹁一人で食べても味気ない。皆で一緒に食べようぞ﹂
そう言って俺が開けた箱から、一つ二つと小脇に抱え皆に配り始
めるカナタ。
神様の癖に、低姿勢な所が好感度アップ。
631
小さいくせに、結構力あるよな⋮。
﹁ありがとうございます∼ カナタさん﹂
手渡したお菓子を受け取る美咲さん。
面と向かってお礼を言われて、モジモジと照れくさそうに服の裾
を摘むカナタ。
﹁うちも頂戴な∼♪﹂
﹁美味しそうですね∼私もくださいな﹂
あちらこちらからのリクエストに、せっせとお菓子を運ぶカナタ。
遠慮がちに見ていた乃江さん、宮之阪さんへと配って回る。
﹁おいしい♪﹂
みんなの喜ぶ顔を見て満足したのか、俺の膝に乗りお菓子をパク
つく。
大量のお菓子も、全員で分ければ丁度よい分量だ。
これだけ喜んで貰えたら、買った甲斐があるってもんだ。
お菓子もまだ2種類あるし、時間を空けて食べればオッケーだろ
う。
菓子袋を置いている荷物置きに目をやると、小振りなギターケー
スが目に入った。
フェルナンデスのソフトケース⋮。美咲さんのZO−3、通称名
象さんだ。
美咲さんが遠出に持って出ると言う事は、楽器としてではなく﹃
武器﹄として携帯したのだろう。
そう思うと、なぜか違和感を感じずには居られなくなった。
632
﹁美咲さん⋮ZO−3持って来てるんですね?﹂
小口でお菓子を堪能している美咲さんに、何故?と問いかけた。
美咲さんは、俺の顔とZO−3を見比べ苦笑して見せた。
﹁え⋮あ、宴会用ですよ﹂
そう言って笑う美咲さんの表情を見て、さらに違和感が広がった。
﹁じ∼﹂
根負けするまで見てやる。
あの表情は、気を使って隠し事をする時の表情だもんな。
﹁あ⋮う⋮﹂
美咲さんは陥落寸前で滝の汗をかいている。
﹁あのですね⋮実はちょっと気になる事がありまして⋮﹂
ふふふ⋮、犯人が自供をはじめたようだ。
﹁退魔士試験の場所を何気に調べてみたのですが⋮。過去に遡って
10回、富士の演習場で開催されてるんです。それだけです﹂
それだけ?
きょとんとしてしまう俺の表情を見て、美咲さんが頷く。
﹁今回に限って、違う場所で行われる事に疑問を感じてしまいまし
633
て﹂
共通点は軍の基地⋮。だけど大きな違いが有るという事か。
自衛隊基地ではなく、米軍基地だという事。
場所の不便さで言えば、とんとんの場所だけど⋮。
治外法権、日本であって日本の法律の通用しない場所⋮か。
﹁なるほど。そう言われると何か勘ぐりたくなりますね﹂
﹁備えあれば憂いなしかと﹂
そう聞くと少し禍々しく感じていたギターが、途端に頼りがいの
有る得物に見えてくる。
現金なもんだ。
命令系統の無い⋮ほとんどフリーランスと言って過言では無い退
魔士を集める理由か⋮。
わかんねぇな。まぁ現地に着けばなにかしら理由が判るだろう。
そう気楽で居れるのも、このメンバーに囲まれているからだと思
う。
﹁杞憂に終わればそれで良しですし、宴会でも使えますしね∼♪﹂
相変わらずのマイペース。ギター独演会でもする気かな?
まぁ隊長が慌てると、隊員にも影響するしな。
﹁ちと、トイレ行ってきます♪♪﹂
そう言いつつ席を立つ。
車両を出てポケットの中の携帯を取り出し、打ち慣れたキーを片
手で打ち込む。
634
<富士ではなく岩国の理由
短くそれだけを打ち込むと、メールを牧野に託す。
何か⋮手掛かりを手に入れてくれる期待と、何も無い事への希望。
ただでさえ試験で過敏になってるんだ⋮、憂いは取り除いておく
のがベスト。
素早く携帯を折り畳み、ポケットに放り込む。
﹁仲間に内緒で連絡か﹂
一緒に引っ付いてきたカナタが俺に囁く。
そう言われると、なにか悪い事をしているような気がしてくる。
でも、別にやましい事をしている訳じゃないぞ。
﹁ああ見えても頼りになる奴だからな﹂
カモフラージュで手を濡らし、拭いて車両へと戻ろう。
そう考えてパウダールームへと向かう。
﹁恥ずかしがり屋さんだからな﹂
﹁あやつがか? 面白いことを言う﹂
耳元でカナタがクスクス笑う。
一緒に戦った間柄だし、牧野の事を少なからず理解しているだろ
うな。
カナタも嫌いじゃないのは、話をしていて判る。
635
ふと隣の車両から人の気配がし、慌ててカナタがクスクス笑いを
手で押さえ押し黙る。
﹁姉さんったら、乗り物酔いが激しすぎだよ? そんなんじゃ⋮﹂
同じ顔をした姉妹が、酔い覚ましにデッキに来たようだ。
どこかで見たことのある姉妹だな⋮。カワイイのが二人居ると雰
囲気が華やぐな∼とか思っていると、介抱している妹と目が会う。
﹁!﹂
途端に刺々しいオーラを放つ妹は、俺を睨み付け口を真一文字に
し、顔を強張らせる。
えーと、なにか?
﹁三室薫⋮ 久しぶりだな﹂
その声と硬い表情が、俺の記憶の奥にあった悪しき出来事を思い
出させる。
真琴の件で道場見学に行った時の女剣士⋮綾音。
あの時は大人気なかった⋮すまん。
﹁道場娘の妹の方か、綾音ちゃんか。ナルトみたいに目を回してい
るのは静音ちゃんか! 久しぶり!﹂
﹁誰が道場娘だ! 別所綾音だ。お前は尋ねた道場の名前すら覚え
られんのか!﹂
綾音の即ツッコミが来た。
なかなか良いテンポでツッコムな⋮、腕を磨けばツッコミとして
636
やっていけるかも知れん。
﹁静音はどうした、呑み過ぎか?﹂
青い顔をして、ぐったりとしている姉の静音に気をかけた。
機械仕掛けの様に首を上げ、俺を見やる静音⋮ちょっと怖いぞ?
ソラマメのスープとか吐くんじゃないぞ?
﹁乗り物酔いです⋮﹂
振動の少ない新型新幹線N700系に乗って酔うとは⋮どれ程の
体質なのか察せられる。
不憫な奴だ。
﹁三室薫! ちょっと聞いてもいいか?﹂
真顔の綾音が、俺を睨みつける。
人に物を尋ねる態度じゃないな。あの道場親父に躾に付いて説教
したい。
﹁お前の肩の上の⋮得も言われぬ、かわいらしいのはなんだ?﹂
綾音が、近視の子のように顔を近づけ、カナタを見つめる。
不味い! たまに﹃見える﹄奴が居るんだよな。非常に低確率で。
綾音の言葉に、静音も気が付きカナタを見つめる。
カナタも諦めたように、お愛想で手を振っている。
﹁まぁ かわいらしい﹂
ちっ! この二人は見鬼か。
637
双子だけに妹に見えるなら、姉も見えるのは不思議でもない。
割と見鬼の才は、遺伝で受け継がれる事が多いそうだ。
乃江さんが言っていたから間違いない。
二人は俺をそっちのけでカナタを見つめる。
もう二人の瞳には、カナタしか映っていないっぽい。
﹁も、もしかしてお前ら、岩国に行くんじゃないだろうな?﹂
﹁そうだ。⋮ってお前っ﹂
﹁まぁ⋮﹂
三者三様のリアクションで、暗に﹃私は退魔士です﹄と言わんば
かりの三人だった。
﹁三室薫! お前のランクは?﹂
必死の形相で、俺に問う綾音⋮。その表情に少し腰が引ける思い
がする。
俺と綾音を見て、静音がフォローの言葉を入れる。
﹁綾音さんね。薫さんに負けて凄くショックだったみたい。退魔士
を目指す剣士が素人に負けたとか⋮それはもう凄い落ち込みようで﹂
苦笑しながらも、綾音を気遣い優しく話す静音。
ああ⋮なるほどね。どこの馬の骨ともわからん奴に負けたのなら、
それも理解できる。
同じ受験者として、メンタルケアはしておくべきなのだろうか。
﹁あの時はC。今度Aを受ける﹂
638
それで救われるかどうか判らんが、本当の事を話し綾音を見つめ
る。
こ
余計な事かも知れんが、言いたかった苦言を呈してみる。
﹁同伴していた⋮お前が小馬鹿にした娘だが⋮B試験を受ける予定
だ。お前がどれ程の腕かわからんが、むやみやたらと敵を増やさん
事だ。少し謙虚になるべきじゃないか?﹂
綾音の表情が驚愕の顔に⋮そして俯き涙を浮かべる。
ポトリ⋮、涙の雫が床に落ちる。
⋮うあ⋮⋮泣かせてしまった。少し言い過ぎたか?
女の子が泣くと反則ってのは、わからんでもない。心をえぐられ
るような痛みを感じる。
﹁お父様にも同じような事を言われていまして⋮﹂
泣いてしまい言葉を出せない綾音に代わり、静音が苦笑する。
﹁静音もお姉さんなんだから、妹を立てるだけじゃなく、手本を示
して引っ張る存在にならないとね﹂
泣かせついでに、静音にも苦言を呈する。
これじゃまるで説教親父だな。今まで説教される側だったけど、
説教するのも大変なんだと思わせられる。
﹁はい。お言葉有り難く受け止めます﹂
静音は深々と頭を下げ、俺に礼をしめす。
こういう事は、あの親父から口が酸っぱくなるまで言われてるん
639
だろうけど。
﹁そろそろ身内のものが心配し始めてそうですので、席に戻ります﹂
﹁お互いがんばろう。綾音もがんばれよ﹂
来た時とは逆に、姉に引き連れられながら席へと戻る別所姉妹。
火と水のように相反する性格の様に見えて、お互いを受け入れて
いる良い姉妹関係のように見える。
﹁我らも早く席に戻らんと怪しまれるぞ?﹂
髪の毛をクイクイと引っ張り、席に戻れと催促する。
﹁席に戻って、桃ゼリーでも食いますか﹂
﹁♪﹂
お菓子の話になると途端に態度が激変するんだよな。
カワイイんだかカワイク無いんだか良く判らん。
通路をテクテクっと席に戻ると、真琴がすやすやと眠っていた。
寝る子は育つと言うが、真琴の成長期はまだのようだな。
﹁しぃ∼ 真琴疲れとるみたいやし、起こさんといたってな﹂
俺が屋上で美咲さん、乃江さんに手解きを受けているのと同じく、
真琴も山科さん宮之阪さんに教えを請うている。
遠距離、広範囲型の3人は屋上では手狭らしく、別の場所で腕を
磨いていると聞いた。
空気爆弾にバックドラフト、超重力に絶対零度の冷気⋮。
640
想像するだに恐ろしい訓練なんじゃないかと思う。
修行当初は、潰れてしまうんじゃないかと言う位にキツかったら
しい。
いまでもキツい思いをしてるんだろうか。
﹁うちの寝相が悪くて、よう寝れへんかったらしいわ﹂
﹁⋮⋮⋮﹂
ああそうですか。心配して損したっす。
ベッドから真琴を蹴り落としましたか?。ねえ山科さん。
﹁うちとマリリンが手塩にかけた真琴が、実戦デビューちゅうか⋮
試験やろ? 我が事の様にドキドキするわ﹂
山科さんに同調するように宮之阪さんがコクリと頷く。
﹁勝算アリ⋮の顔してますね﹂
B合格を信じて疑わない顔。山科さんも宮之阪さんもそういう顔
つきだ。
﹁うちらが手塩にかけた⋮言うたやろ。自慢の子を人に見せる⋮そ
んなドキドキや﹂
山科さんにそこまで言わせるとは⋮。
幸せそうに寝てる真琴からは想像つかない。
起きていたら﹃いや⋮私なんてまだまだですよ、そんな。無理で
すって﹄なんて言ってそうだ。
641
﹁それは楽しみですね﹂
寝顔を覗き込むように、真琴への期待感を顕わにする。
楽しみが﹃もう一つ﹄できた。
﹁カオるんだって、期待出来ますよ﹂
対抗するように、美咲さんが俺を煽る。
﹁だって、今日の私と乃江二人掛りの攻撃にも耐えましたし﹂
いやぁ、誉め過ぎです⋮、実は逃げるので精一杯でした。
前日の牧野との手合わせが、良い感じで成果として出たかも知れ
ないけど。
﹁一発も当てられなかったのは、今日が初めてでしたし。カオるん
は土壇場で本領発揮するのかも知れませんね∼﹂
ニッコリ笑って誉めちぎる。
人事を尽くして天命を待つノリなのか⋮。
手を尽くした後出来る事は、メンタル面のフォローだけ?と勘ぐ
ってしまう。
﹁自信を持っていいぞ⋮﹂
腕を組み目を閉じたままの乃江さんが、ボソリとつぶやいた。
片目を開け俺を見る目に嘘は無い。
﹁なんか元気出てきた∼﹂
642
メンタル面のフォローなら大成功だと思う。
二人にこんな事を言われるなんて、滅多に無い事だもんな。
643
﹃退魔士試験05﹄
﹁政府⋮観光⋮国際﹂
滞在するホテルの看板が、庶民を威圧しているように思えてなら
ない。
隣で同じく看板を見つめる真琴。
﹁真琴⋮もか?﹂
こっくりと頷き、看板とホテルを眺める庶民x2。
﹁庶民除けの結界が張ってあるな﹂
なにかキッカケでもないと、こんな宿に泊まろうと考えないもん
な。
慣れてしまいつつある恐ろしさを感じつつ、ロビーへと歩を進め
る。
チェックインの手続きの後、客室担当の女性の案内で部屋へと案
内された。
﹁うわ⋮﹂
﹁ひぃ⋮﹂
二人の庶民は、悲鳴にも似た言葉しか出てこない。
部屋に入ると、20畳ほどの和室が二間。
その奥に続き間があり、籐家具のソファーやテーブルが配置され
ている。
644
恐るべきは、ベランダらしき箇所がログハウスのような木作りに
なっており、露天風呂とサウナが完備されていた。
﹁客室露天風呂という奴か⋮﹂
﹁ごくり⋮⋮﹂
庶民二人は硬直して、くつろげる状態ではない。
鞄をどこへ置いていいかさえ判らない状況だ。
﹁ご挨拶のフルーツ盛り合わせとドリンクお持ちいたしましょうか
?﹂
チェックイン時にも言われたな。ウェルカムフルーツとドリンク。
意味が良く判らないので、コクコクと頷いたが、備え付けの茶菓
子みたいなもんだろうか?
旅慣れない俺と真琴は、お土産屋さんを覗きたい4人に先駆け部
屋へとやってきた。
こんな事なら、お土産屋さんに行って置くべきだったか⋮。
しかしお土産なんて、初っ端に行くものじゃないだろ?
﹁カオル先生∼ 入り口の所にクローゼットがありました∼﹂
﹁でかした真琴!﹂
やっとの事で、肩から鞄を下ろせる。
皺が気になるシャツだけ、鞄から取り出しハンガーに吊るす。
肩の荷を降ろすとはこの事だ⋮、俺達は気が抜けたように、座布
団が敷かれたテーブルへと腰を落とす。
645
﹁そうだ!真琴、行儀悪いかも知れないが、露天風呂で足湯でもし
ようか﹂
長い時間椅子に座って、足がむくんでいる。
靴を脱いで楽になったとは言え、まだまだ疲れが足に蓄積してい
る。
ジーンズの裾をまくり、たらいで足にお湯を掛ける。
真琴もスカートの裾をまくり、細い脚を露出させる。
﹁気持ちいい∼﹂
熱い湯で、血行が良くなりジンジンと刺激が強くなる。
ヒノキの縁に腰掛けて湯に直接脚を沈める。
二人は湯船の脚をつけ、眺めのよい風景を眺めた。
﹁極楽極楽﹂
部屋の中で、フルーツ盛りを持ってきてくれた客室担当さんが苦
笑している。
﹁ドリンクそちらにお持ちいたしましょうか?﹂
なかなかに気が利く。
ご好意に甘えさせて貰うべく、頷いてお願いした。
﹁新幹線の中で、剣道娘らに会ったよ。彼女らも退魔士を目指して
試験受けるんだと﹂
目指すと言うからには、あの頃は素人だったのだろう。
怒りに駆られて拳を振るってしまったが、そう言う軽率な振る舞
646
いは反省せねば。
﹁受かると良いですね。遠距離支援型の私は、前衛さんが増えると
助かりますから∼﹂
俺は、もろバッティングしてるんだけど。
﹁そういや、真琴⋮寝不足なんだってな。山科さんに眠りを阻害さ
れたか?﹂
新幹線で爆睡していた真琴を思い出す。
退魔士の戦闘はメンタルな部分で勝敗を左右する事が多い。
明日の試験には大丈夫だろうけど、少し心配だ。
﹁いえ、ユカさんは私が眠れるように、傍にいて安心させてくださ
って居ただけです﹂
寝言うんぬんは、やっぱり作り話か⋮。
いつぞやの宴会後の雑魚寝でも、寝言も言わないし、寝相も悪く
なかったもんな。
﹁時々ですが、うなされていて眠りが浅い時があるんです。⋮⋮﹃
魂喰い﹄の夢で﹂
人形繰りで操られ、自分の親に手を掛けた真琴。
その心に残った傷は、他人にはわからない痛みを伴うものなのだ
ろう。
﹁体が第三者に侵食されていく不快感が、今でも感覚として残って
います。心の傷も体の傷も⋮﹂
647
真琴が隠すように握り締めている手を見つめる。
不愉快に感じないように、真琴の手を握り締める。
﹁霊治療はしないのか?﹂
霊力を籠めて、怪我を治癒する⋮。酷い怪我も、内と外から働き
かけて治せる。
手の傷も、一目では判らないレベルまで治せる筈だ。
﹁この傷は戒めとして、残してあるんです。本当の傷は別にありま
す⋮﹂
背中を向けて、服に掛かる髪を手で纏める。
﹁お見せ出来ませんが、背中⋮触れてみてください﹂
恐る恐る薄い生地の服越しに手を触れる。
滑らかな背中に、ゴツゴツとした手応えを感じる。
傷?それも深い⋮。
傷だとしたら致命傷になりかねない程の深い傷跡。
﹁傷がたまに痛むんです。寝ていても、起きていても﹂
そう言いながら、遠くを見つめる悲しげな真琴の表情を見て、心
臓を鷲づかみされた様な気持ちになる。
﹁カオル先生には、隠し事したくないから⋮、私の体が醜いって隠
し続けるの嫌だから⋮﹂
648
最後まで言葉を搾り出すことが出来ず、嗚咽する真琴。
真琴は体より、心が酷く傷ついている⋮、そんな気がする。
触れば壊れてしまいそうな、細い体に色んな傷を背負い生きてい
る。
生きる理由は、親の仇を討つこと。
それが心の支えになっているのだ⋮。もしそれが無くなったらど
うなるのだろうか。
そのまま真琴が消えてしまうのではないだろうか、そんな気がし
てならない。
﹁真琴は綺麗だ﹂
真琴が消えてしまわないように、きつく背中から抱きしめた。
﹁えへへ。昨日もユカさんにこうして貰いました。痛くて苦しくて、
でも気持ちいい⋮﹂
大粒の涙を零す真琴。
少しでも心の傷を癒せたら⋮、そう思い俺はしばらくの間抱擁を
続けた。
真琴の表情に少し笑みが浮かんできた頃、細い肩と腕から手を離
し、1つ提案をしてみた。
﹁脚も元気になったし、近場を見てまわろうか。有名な橋とか有る
みたいだし﹂
649
﹁はい!﹂
俺の提案に二つ返事をくれる真琴。
ホテルを出てすぐに見える錦帯橋。遠景からみる5連のアーチ、
川原とその先の緑の山々のコントラストが素晴らしい。
絵心が無くても、絵を描いて見たい⋮そんな気分にさせる。
﹁真琴! そこに立って﹂
ポケットから携帯を取り出し、カメラモードで構える。
真琴は照れくさそうに、橋をバックに直立不動で立つ。
﹁こうですか∼﹂
うーん。カメラ慣れしていない初々しい感じ。
これも真琴らしいな。
パシャリ!っと。
﹁今度は先生も撮ってあげる﹂
今度は真琴が、携帯を取り出して構える。
本当のカメラ慣れって奴を教えてあげるとするか。羞恥心を捨て
るのがコツだ。
道路の縁石に脚を掛け、顎に手を添えポーズを取る。
﹁今度はペアで撮ってみよう﹂
真琴の手を引き横へ並ぶ。
手を繋がれて複雑そうな顔をするが、気にしない。
せめて俺には、コンプレックスの素である傷跡を気にして欲しく
650
ないからな。
目線を真琴に合わせて顔を引っ付ける。
自分で構えたカメラで取るのは、結構難しいんだよな。
﹁真琴も構えろ、二枚取れば一枚くらいはマトモに撮れる﹂
手を伸ばして、パシャリと擬似シャッター音が響く。
﹁あはは、なんかもう観光楽しんだ!って感じがします∼﹂
ニコニコと笑って上機嫌な真琴。
手を繋がれているのに、もう嫌がる事も恥ずかしがる様子も無い。
俺は手を引き橋へと導く。
﹁せっかくの橋だし、往復してみよう﹂
5連アーチの橋へと向かう。
遠目で見るより歩きにくい⋮手を繋いでいて正解かもしれないな。
﹁わ、わ、割と大変な橋ですね⋮﹂
上がっては下がり、下がっては上がりといい運動になる橋だ。
普段使っていない脚の筋肉を使う⋮いやいや、こんな所でまで修
行の事を考えなくてもいいか。
橋を渡りきった先に見える﹁ソフトクリーム﹂の看板。
﹁おお、ご当地アイスだ。これは食べないと﹂
普通のバニラでも場所により味が違っていて楽しめる。
値段もリーズナブルだし、旅行の楽しみの一つになっている。
651
﹁ソフトクリーム2つとカップで1つ∼﹂
1つは真琴の、もう1つのカップはカナタ用だ。
二人で食っちまうと、カナタが拗ねるんだよな。フォローするの
に大変だし。
﹁ほい、真琴﹂
綺麗に巻かれたソフトクリームを手渡す。
﹁カナタ用もあるから、あっちのベンチで食べよう﹂
観光地にありがちなベンチを指差す。
﹁カナタ?アイス買ったぞ、出て来ーい﹂
俺の呼び掛けに、コッソリと顕現するカナタ。
いつもの派手な演出等一切無し。
﹁出て良いものか、思案に暮れるわ﹂
肩の上で、ため息をついて呆れるカナタ。
いつもと違うリアクションに、俺も真琴も戸惑ってしまう。
﹁どうしたんだ? カナタらしくない﹂
カップを手渡しつつも、疑問を口にする。
﹁仲睦まじいおぬしらに、割って入って良いものか⋮ とな﹂
652
カナタなりに遠慮してたのか⋮。気を使いすぎだっての。
真琴は、顔を真っ赤にして否定する。
﹁そんな、カナタさん⋮私と先生じゃ、全然釣り合い取れて無いで
すよ﹂
全力で否定せんでもいいじゃないか。
少し寂しいぞ。
匙を体で支えアイスに突き立てるカナタ、そして真琴へ語りかけ
る。
﹁釣り合いがどうとか、他人が見るおぬし等の事はどうでも良い。
重要なのは互いの気持ちでは無いのか?﹂
アイスをパクついていなければ、重みのあるいい言葉なんだが。
﹁お互いのキモチ⋮﹂
真琴は、つぶやくようにカナタを見つめる。
﹁しかし、おぬし等も心臓に毛が生えておるな。これだけの殺気を
籠められた視線の中、気にする素振りもないとは⋮﹂
すでにホテルを出た辺りから気が付いてたよ。
殺気というか憎悪に似た視線を。
体に纏わり付く悪意として⋮見えていた。
﹁だから余計、真琴とラブラブな所を見せ付けてやろうかと思って
た﹂
653
襲ってくる事が無ければ、一般ギャラリーと変わらない。
せっかくの時間を無駄にしたくないしな。
﹁ラブラブ⋮﹂
俯いて真っ赤になる真琴。顔の熱でアイスが溶けるぞ。
﹁俺の対戦者は綾乃さんだし、真琴の対戦者かな? 暇なストーカ
ーだという事で﹂
ランクBともなれば、扱える仕事の幅も広がる。
生活が掛かっているともなれば、必死にもなるか。
A試験に名前が事前発表されていて、Bが無いと言うのは考えに
くい。
おそらく事前の調査も含み、試験の一部なんだろうと思う。
﹁真琴? 相手の名前は判ってるんだろ?﹂
﹁ええ、データだけは調べました﹂
特に気にする様子も無い真琴。
自信に満ちた顔が、観察者の視線に殺気を倍増させる。
﹁気にして無いなら結構。ラブラブデートの続きでもしますか⋮真
琴 アーン﹂
そう言って、俺のソフトクリームを真琴へ向ける。
俺の顔とソフトクリームを交互に見つめ、照れくさそうな真琴。
目を閉じて、勢いに任せてクリームを舐める。
654
目を閉じ目測を誤ったのか、口元と鼻にソフトクリームが付いて
しまう。
﹁わぷっ﹂
﹁目を閉じてるから⋮﹂
せっかくの端正な顔が台無しだ。こう言う顔も似合っていると言
えば似合っているんだけど。
ポケットからハンカチを取り出し、口元と鼻を拭ってあげる。
前に親に持たされ活躍してからと言うもの、ハンカチは手放せな
いアイテムになりつつある。
﹁暑苦しいまでに、仲睦まじいの﹂
呆れてお手上げという素振りをしつつ、笑って俺達を見つめる。
﹁じゃ、今度は先生も∼﹂
俺の前に突きつけられるソフトクリーム。
抵抗のある間接キスも、真琴となら自然に受け入れられる。
先端の部分を一舐めした所で、グイッと押し付けられた。
﹁わぷっ﹂
﹁これで、先生も真琴と一緒﹂
子供の様でいて、少し大人の笑い。
大人への階段を登り始めている、危うい世代特有の色気を感じさ
せられる。
655
出会った時より、ほんの少しだけ大人になったのだと、笑う真琴
を見てそう思わされた。
656
﹃退魔士試験06﹄
﹁手を出して来るでしょうか?﹂
期待をこめた目で、遠くを見つめる真琴。
むしろ襲って来いと言わんばかりの挑戦的な目だ。
﹁遠くで見つめるタイプだし、告白のチャンスを見計らってるんじ
ゃないか?﹂
俺が邪魔だと思ってる。一人になるのを待っているような気がす
る。
ランクB試験を受けるような奴だ、殺気と悪意を漏らす様なヘマ
はしないだろう。
恐らくは何かのメッセージだと思える。気持ちに気が付いて欲し
いからかな。
﹁真琴はどうしたい?﹂
判りきった答えを聞いてみたい。
表情で答えられても背中を押してやることが出来ない。
言葉で聞きたい。
﹁私に足りないのは経験値⋮⋮、圧倒的に足りない実戦経験⋮⋮﹂
真琴が欲しているのは、試験に受かる運でも実力でもない。
﹃魂喰い﹄と戦える実力だけを欲している。
目の前の敵も試験をも透かして、もっと遠くを見ている。
そんな気がする。
657
﹁オッケー、死にそうになったら手を出すからな﹂
そう言うと目を閉じ、天を仰ぐ。
風がビュっと吹く。
隣に居た筈の真琴の気配が風と共にかき消えていた。
﹁⋮⋮速ええな。オイ﹂
俺の周りにいる暢気な観光客達は、一陣の風に気を留める様子も
ない。
﹁カナタ、頼んだぞ⋮⋮﹂
魂の篭っていない刀を撫で、確かめるように腰に差し直した。
﹁おばちゃん。長丁場になりそうだから、コーラLサイズ一丁﹂
先ほどまで居た小さな相棒を目で探す店のおばちゃん。
そして哀れむような目で俺を一瞥し、背を向けて最大サイズの紙
コップにクラッシュアイスと黒い液体を注ぎはじめた。
﹁カナタさん、どうして?﹂
頭の上にいる刀精の気配に気が付くが、高揚する気持ちと駆ける
658
脚は止まらない。
橋の欄干を飛ぶように駆ける。
橋と美観、そして友達との雑談に夢中な観光客は、私を捉えるこ
とが出来ない。
稀に勘の良い者が振り返るが、予測される位置には私はもう居な
い。
気のせいだと再び美観に心を移す。
久しぶりの全力疾走。足の筋肉が悲鳴を上げる⋮⋮、良い準備運
動だ。
膝を深く曲げ、高く跳躍を試みる。
空と風と私が溶けて混じり合うような錯覚を覚える。
﹁お目付け役かの?、カオルが心の中でそう願ったからな﹂
カオル先生とカナタさんは、契約で繋がっていると聞いた。
心も通じ合えるなんて、なんて羨ましいのだろうか。
そうは言え私の心は雑念が多すぎて、通じ合うなんて恥ずかしく
て出来ないのだけれど。
﹁よろしく頼みます、カナタさん﹂
私を誘導するように、移動する敵に再び照準を合わせる。
人気の無い場所へと誘導する様に、気配を残し移動を始めた。
何とも話しの早い人だ。
さすがにランクBを受験するだけの事はある。
判らせる気配、話しかけるような気配⋮⋮うっかり見逃しそうな
ギリギリの気配。
実力は相当に高く感じられる。
けれど、ランクAの師と比べてどうだろうか?
私はあの領域に立たねばならない。ユカさんやマリエさんのよう
659
に⋮、それ以上に!
﹁気負いすぎずとも大丈夫じゃ。良く見、良く考え、誰よりも動け。
さすれば勝機は見えてこよう﹂
頭の上で客観的に私を判断してくれる心強い味方が居る。
独りじゃない⋮。
今までのような孤独と敵との戦いではないのだ。
そう思うと、良い意味で力が抜け、心が1つに束ねられていく⋮
そんな集中力が出てくる。
﹁カナタさん⋮ありがとう﹂
砂利を踏みしめた先には、仁王立ちし此方を見つめる男。
仕立ての良いカジュアルなスーツに身を包み、タバコの煙を燻ら
くつき たかし
せてこちらを見つめている。
朽木貴
年齢24歳 身長181cm 体重90kg 前衛型
私が仕入れた情報の断片だ。
情報通りにスーツに隠された躍動する筋肉が、前衛職を彷彿させ
られる。
﹁お待たせいたしました。朽木さん﹂
そして、呼び出された理由は、試験案内に記載されていたあの事
だろう。
ランク試験特記事項※1
試験は同ランクの志願により決定される。
ただし、勝敗が即ランク付けに反映されるとは限らない。
660
注意書きに書かれていた試験の注意事項だ。
見逃しそうな小さな字で書かれた試験の本質。
拮抗した試合をし、実力がB相当と認められれば勝敗は関係ない。
ただし⋮⋮相手がそれなりの実力を持ち合わせていないければ、
勝ってもBにはなれないと言う事だ。
今の私の判断基準はランクE、中学生で成長期を迎えていない女。
今回の試験の相手だと判った時には、相当に落胆させただろう。
勝って当たり前、勝ってもB相当だと評価されない⋮と。
﹁藤森真琴さん⋮デート中に失礼な事をしました。けれど、こちら
も試しておかないと、ゆっくり温泉にも入れないので﹂
デートか⋮
本当にデートならどんなに良かったろうか。
楽しい時間ではあったけれど、あれはまだそう呼べる代物ではな
い。
﹁気にしなくて結構です。寛大な人ですから、私が帰るのを待って
いてくれてますよ﹂
カオル先生なら、日が落ちても明日になっても待っていてくれる。
試験が始まろうと、休みが終わっても待っていてくれる。
﹁なら結構です。試しましょう﹂
タバコを金属製の携帯灰皿へ始末し、軽いステップを踏む。
徒手? 足を固定しないと言うことはボクサーのようなタイプ?
OF
SWORDS﹂
ならば接近戦で探りを入れてみるか。
﹁FIVE
661
私の前に具現化する5本の剣。
今の私が﹃最速﹄で振るえる限界値。
広げる両手に合わせ、二本の剣が手の延長線上で固定。
三本の剣が私を護る攻守のバランスの取れた型。
﹁行きます!﹂
掛け声と共に、音速のスピードで動く三本の護剣。
剣に発する命令は、隙あらば両断。そして主を護れ⋮だ。
地を蹴り、間合いを詰める。
ぶつかる程の突進を左足で制し、右から左へ回転のエネルギーを
発生させる。
右手の剣はエネルギーに逆らわずに、相手の左手を薙ぐ。
﹁力で押すタイプでは無いようだね﹂
軽く手を捌くだけで、私の一撃目が空を切り、半身が無防備にな
る。
その隙を見逃さずに音速のジャブが、私の右即頭部を狙う。
﹁私の師が、力押しの戦法を教えてくれなかったものですから⋮﹂
拳が顔に直撃する、その一歩手前で護剣が二本重なり合い拳を受
け止める。
余った一本が相手の手に突き刺さり、拳を空間に縫い付ける。
﹁え?﹂
だが、一度殺した拳の勢いに体重を乗せ、牽制のジャブを渾身の
662
一撃に変えてくる。
頭部に響く打撃音、180cmオーバーの身長から打ち下ろされ
る拳。
奥歯が軋み、首から上だけを強かに揺らされた。
﹁痛ったぁ⋮⋮。女の顔を真っ先に狙うなんて﹂
手に刺さる剣を気にする様子もない。そして拳を受けとめた剣ご
と私を殴った。
大抵の場合見た目に恐怖して手を引くはずなのに。
相当に頭が悪い⋮強敵だ。
﹁ああ⋮、殴るって決めたら手を引っ込めない主義なんだ﹂
ずたぼろになる手を気にする様子もなく、再びファイティングポ
ーズを取る。
手から滴る流血を、筋肉を締める事で止血した。
﹁頭の悪い人。けれどそう言うの悪くないね﹂
額から滴る血を手で拭う。
一歩踏み込めば相手の射程範囲なのに、ファイティングポーズを
取るまで待っている。
フェミニストなのか、ボクシングのルールに沿って戦っているの
か。
両手の剣を手放し、空間で固定する。
of
Swords﹂
一歩後退して距離をとる。
﹁Eight
663
手に残った2本の剣と新たに具現化した8本の剣。
今度は私が同時制御できる限界の﹃10﹄へ。
﹁踊れ!﹂
10本の剣が空で舞い小型の旋風を発生させる。
砂やホコリを巻き込み、より一層剣の所在を不確かにする。
そんな状況を見ても、朽木から感じるのは私本体への破壊の念。
確かに制御者を叩きのめせば、動く剣は止まる。
遠距離の術者が、近接で戦う時に気を付けなければいけない注意
事項だ。
ダンシングソード
だが射程距離に近づけない。その前に迎撃する。
﹁剣舞﹂
旋風が朽木を包み込み、剣で切り裂く。
だが、包み込んだ瞬間にガードを硬く突進し始めた。
頭を手でガードし、手に2本脇腹に一本、剣を突きたてた状態の
朽木は、前のめりで拳を振るう。
ダンシングソード
全身の筋肉を絞り、浅く突き立てられた剣を、肉壁で押し戻した。
剣舞は10本の剣を攻撃に用いる諸刃の剣。
剣自身での攻撃が加わる前の、旋回の状態では攻撃力も半減する。
of
Disks﹂
この人頭悪い割に、判断が速い。
﹁Ace
私の前方に光るペンタクル。
タロットの小アルカナではコイン・護符と呼ばれているもの。
私が新たに見出した小アルカナのカードだ。
664
﹁むぅ﹂
渾身の右ストレートを受け止める障壁。
ディスクのエースは硬質の手応えで防御するのではない、スポン
ジの様に威力を分散するのだ。
師匠ユカさん曰く﹁冷えピタのゲルみたいで気持ち悪いわ∼﹂ら
しい。
of
Swords﹂
力押しで来る敵には有効な障壁でしょ?
﹁Eight
空に漂う残りの短剣、それを朽木の右手に6本突き立てた。
流石の朽木もソレには耐えかねたのか、距離を取り後方に下がっ
た。
そしてあろう事か、声を高らかに大笑いし始めた。
﹁実力の程、確かに見極めさせて戴いた﹂
筋肉で数本押し戻し、戻しきれない数本の内一本を手で抜き取る
朽木。
悪びれない表情をして、私に握手を求める。
試験相手として妥当と判断されたと理解してよいのだろうか?
﹁むむ? なに? 油断させてガツンとするの無しよ?﹂
差し伸べられた手を、いぶかしげに見つめるしか出来ない。
何されるか判ったものじゃない。
﹁安心してください。これ以上傷を増やしたら温泉が堪能出来ない
でしょう?﹂
665
良く見ると右手も左手も酷い有様だ。
差し伸べられた右手にも、まだ2本短剣が刺さったままだし⋮
﹁はい握手﹂
軽く手を触れるだけのつもりで手を合わせる。
しかし、朽木が苦笑して深く握りこむ。凄く大きな手だ。
﹁1つ⋮重要な⋮⋮いや最重要と言っても差支えが無い事だが、聞
いていいでしょうか﹂
手を握られたままの状態で、朽木が私の目を見て聞いてくる。
目線を合わせるために、片膝付いて話してくれているのだが、違
う別のシーンを彷彿してしまう。
﹁なんですか?﹂
あんまりに真剣な表情に、身を硬くする。
重要とか言われると、身構えてしまう。
﹁待ち人の彼は、恋人ですか?﹂
こ⋮⋮こ、恋?
そんな状況になれたらいいなとは思うけど、嘘でも首を縦に振る
わけにはいかない。
﹁ち⋮⋮違います! 私の先生の一人です!﹂
その一言を聞き納得顔の朽木。
666
しばし考え込むようなポーズを取る。
どうでもいいけど、手を離して欲しいなと思うのだけれど。
﹁じゃあ、真琴さんはフリーと言う事ですね?﹂
握る私の手を持ち替え、外国の騎士が妃にするように、手の甲へ
軽いキスをした。
﹁ひぃ⋮⋮ なんて事を!﹂
あまりに突然の出来事に、力任せに手を振り解きキスされた所を
スカートでゴシゴシ⋮。
恥ずかしさのあまりに、涙が出てきてしまう。
﹁彼氏候補にご検討願えませんか?﹂
身長180の筋肉質な親父でしょうが?
年齢24とか、顔も悪くないけど、第一猪突猛進の攻撃論理が頭
悪すぎです。
﹁嫌だ! 嫌です! 断る!﹂
﹁けれど、未来の選択肢は多いほうが﹃楽しい﹄でしょう?﹂
手を腰に当て、タバコを吸い始める朽木。
手にまだ刺さってる短剣を意にも介さない大雑把な性格が怖い。
それにタバコ吸う人嫌いなんだから。
﹁条例違反で捕まっちゃうよ﹂
667
﹁それもやむなしですな﹂
深く煙を吸い、肺の奥へと運ぶ深呼吸を1つ。
﹁とりあえず、明日負けてからご検討戴くとして⋮﹂
﹁誰が! あんたになんか負けないんだから!﹂
ニヤリと悪い笑顔を見せ、朽木が私を見つめる。
﹁負けませんか?﹂
﹁負けないモン!﹂
プィっとそっぽを向いて、必勝を誓う。
こんな奴に負けてなるものか。
﹁俺のようなガチの前衛は、常に背中を任せられる相棒が欲しい。
目の前に可愛くて将来有望な美少女が目の前に現れたら、そういう
気持ちになってもおかしく無いでしょう?﹂
対戦者でなければ、言われて悪い気がしない言葉。
カワイイとか言われるのは、誰に言われても嬉しいもんね。
でも断る!
私は、カオル先生の背中を護りたいの!
﹁それに⋮⋮まだ、切り札を隠し持ってそうだし、明日の対戦が楽
しみです﹂
ニヤリと笑う朽木の顔
668
⋮しっかりバレてる。取っておきのがまだ残されている事を。
﹁そう言うあなたも隠してるでしょ﹂
朽木が今日出したのは、身体的な技のみ。
全部の能力を出したとは、到底思えないもの。
﹁全力を尽くすのは、仕事だけで十分﹂
そう言って、背を向け立ち去る朽木。
どうでも良いけど、まだ2本手に刺さったままなんだけど。
消して良いのか悪いのか判断に困ってしまう。
抜いたら血が吹き出るもん。
思い立ったように、朽木が遠くで振り返り大声で叫ぶ。
﹁言って置きますが⋮ 俺はロリコンじゃないですよ!﹂
いいや⋮⋮きっとロリコンに違いない。
うろたえ方がそう言っているもん。
﹁おぬし、モテモテじゃの﹂
カナタが頭の上で胡坐を組み、ため息を付いて私に話しかける。
ため息付きたいのは私だよぅ⋮⋮。
669
﹃退魔士試験07﹄
﹁一人になるの⋮ 久しぶりだな﹂
ここ数ヶ月と言うもの、独りの時間を過ごした覚えが無い。
美咲さんとの出会い、カナタとの出会い。みんなとの出会い。
特にカナタとの出会いが決定的だな。
寝ても覚めても一緒に居るのだから。
﹁たまには一人も良いな﹂
視点も定まらず、見つめる先のアイスクリーム屋。
おばちゃんがこちらを見て、ニヤリと笑った。︵様な気がする︶
その笑いを合図に、俺の横に音もなく座る一人の女性。
黒のストッキングに包まれた綺麗な脚。
惜しげもなく太ももまで露出された脚を上品に組んでいる。
男なら垂涎の脚に気を取られ、見覚えのある横顔に気が付くのに
時間が掛かってしまった。
﹁お姉さんにアイスクリームをご馳走したくない?﹂
乃江さんを少し大人にしたような美人。
胸と相反する細いボディに、スラリとした脚が伸びている。
真倉⋮⋮綾乃さん。
﹁綾乃さん⋮⋮⋮﹂
明日の試験官が突如として現れた。
俺は気の利いたボケも、思い付けないほどテンパッてしまってい
670
た。
あー、うー。
ここはアイス奢っておくか。断ると殺されそうだし。
﹁種類は?﹂
アイスクリーム好きの究極の選択。
通常のアイス好きはバニラの一択しかない。
でもチョコの味も少しだけ味わいたいなんて欲を出すと駄目だ。
バニラがチョコのビター味を、ビターがバニラの芳醇な味を殺し
あう。
もちろんチョコ味などもってのほか。
これが、バニラ党から見たメニューの評価だ。
だが、バニラよりチョコ好きだと話は変わる。
チョコ好きは一色のチョコアイス。
だがマイルドなチョコが食べたいって人はハーフ&ハーフなのだ。
究極のハーフ&ハーフは、絡み合うチョコとバニラではなく、下
にチョコ上にバニラの完全分離型だと思う。
﹁アイスはやっぱりバニラだよね﹂
バニラ党ここに一人。
山科さん並に即決。歯切れの良い言葉で種類を選択した。
﹁バニラ一丁!﹂
おばちゃんがコーンを取り出しバニラを仕立てている。
遠隔でオーダーが通ってしまった。
あのおばちゃんも暇つぶしに俺らを観察してるな⋮⋮。
671
﹁あいよ!バニラ150万円﹂
ポケットから硬貨を取り出し、カウンターに置く。
受け取るアイスと共に、俺に話しかけるおばちゃん。
﹁さっきの小さくてカワイイ子、今帰ってくると修羅場になるのか
い?﹂
﹁⋮⋮⋮﹂
余計なお世話だ。いつから観察してるんだ。
﹁お待たせしました。バニラ一丁﹂
﹁わーい。アイス♪ アイス♪﹂
俺の手からアイスを受け取り、味わう綾乃さん。
歳の割りに子供っぽい⋮、妹の乃江さんより子供っぽいのではな
いだろうか。
﹁で? 俺にアイスをタカる為に声を掛けた訳じゃないんでしょ?﹂
﹁アイス屋の前にカオル君が居たので、タカってみました﹂
用件は何もなし⋮⋮か。
がっかりしたようなホッとしたような⋮複雑な気分です。
﹁お一人ですか? あの⋮⋮キョウさんとご一緒⋮⋮⋮﹂
672
ざわっ⋮
つま先に地雷の雷管を引っ掛けたような不吉な予感。
小動物としての本能が、それ以上喋っちゃダメだと警告している。
﹁⋮⋮⋮﹂
遠くで日向ぼっこしていた猫が逃げ出し、木で羽を休めていた鳥
達が一斉に羽ばたいた。
﹁あの馬鹿は、あんた達の仲間に引きずり回されてるわよ。⋮った
く⋮男は若い娘に弱いんだから⋮⋮﹂
キョウさん⋮⋮少しわきまえてください。
1トン爆弾の側で火遊びしちゃダメっす。
それにみんなも⋮もうちょっと空気読んだ方がいいと思います。
﹁と言う事で、私も若い男の子と遊ぼうかな?と思ったの﹂
そして不幸な俺がアイス屋の前に居たと?
﹁ねえ? 何して遊ぼっか?﹂
片足を両手で抱え込み、蟲惑的な笑みを浮かべて俺の表情を窺う
綾乃さん。
年端も行かぬ青少年に、大人のフェロモンを嗅がせるのは止めて
⋮。
自然と顔が真っ赤になって行く⋮⋮これが大人の色香と言う奴か。
一度術中にはまると、アイスを舐めている真っ赤な舌でさえ色っ
ぽく感じる⋮⋮。
やべぇ。
673
もう、やわらかそうな胸とか太腿にしか目が行かない。
﹁うふふ、ごめん。反応が素直で面白くって⋮。 今のなしなし!﹂
謝られてしまった。それはそれで恥ずかしいです。
本心を見抜かれたようで⋮。
﹁明日の試験、自信の程は?﹂
急に試験官の顔つきに変わる。
はっきり言って、自身は無い。だけど負けてやる気は毛頭無い。
全力を出して健闘したいとか、口が裂けても言いたくないな。
﹁ほほう。なかなか良い﹃気﹄が出てるねぇ。ヤル気満々だ﹂
美しく形の整った唇が微妙に歪む。
この人も負けん気強い⋮ 表情で判る。
﹁いっそ、ここで試験しちゃう? 私は全然構わないけど﹂
動物が騒ぎ出す⋮どころの殺気じゃない。
こうやって気を当てられているだけで、手掴みで腸をかき回され
ているような怖気がしてくる。
く、くそ、1トン爆弾め。
﹁やっちゃいますか﹂
俺の口から発せられたとは到底思えぬ言葉が、空気を震わせ綾乃
さんに伝える。
口元がキュッと上向きに閉じられ⋮⋮弛緩し笑いに変わる。
674
﹁男の子って面白い。無鉄砲で。お馬鹿で。純粋で⋮。壊したくな
る﹂
すっと立ち上がり、俺に背を向け歩きだす。
﹁壊れない自信があるのなら、付いてらっしゃい﹂
氷がとけ水になったコーラの空容器をゴミ箱に放り込み、最強の
人の背を追った。
アイス屋から数分、観光用の橋と平行で掛かる実質上のライフラ
インの橋。
すぐ側に死角になっている場所があった。
﹁足場も良いし、ここなら存分に戦えるでしょ?﹂
踏みしめる足場。靴でトントンと踏みしめてみるが、堅い感触を
伝えてくる。
堆積した砂、水分が完全に抜けきり、砂岩のような堅さを持って
いる。
真琴の件も片付いた様だし、呼び寄せても大丈夫か。
﹁カナタ!﹂
675
腰に差す守り刀を抜刀する。
﹁ちゃっきーん♪﹂
久しぶりに聞いた擬似抜刀音。やっぱこれ聞かないと調子出ねぇ。
前方にかざす刀身から、ニ回転宙返りで肩へと着地するカナタ。
俺と同様に久しぶりの擬音に感極まっているようだ。
﹁今日の相手は、人間かえ?﹂
そうだ人間だ、姿形は。
けれど今までのどの敵より強い。
腰に手を当て俺の攻撃を待つ綾乃さん⋮⋮。
一見構えの無い立ち姿だが、一分の隙も感じれない。
﹁何時でもどうぞ♪﹂
余裕の一言を合図に、前日試験が開始される。
その一言で、好戦的な脚が前へ向かおうとするが、一旦静止して
心を静めるために礼を試みる。
直情的になって勝てるわけは無い。
俺の利点はなんだ?いつもカナタに言われているだろ?
﹃良く見える目と、判断力﹄だ。
﹁よろしくお願いします﹂
言い終わらないうちに、地を蹴る左足。
さすがに我慢できなかったのか、勢い付く右足。
良く見ろ。敵は何をしている。
駆け出す俺を冷静に見て、それでいて微動だにしない綾乃さん。
676
もっと見ろ。敵は何を見ている?
片手に携えられた剣、目端で左手、そして駆ける両脚の主を捕ら
えている。
注意が剣に向けられているのなら好都合。
綾乃さんと俺の射程に入る寸前に背を向け、左足で急停止、両手
を地面に根を張り後ろ蹴りを見舞う。
﹁なるほど﹂
靴底を俺に見せ、蹴りを見舞う俺の脚の靴底に合わせる。
膝を折り曲げるように、俺の蹴りの威力を完全に殺す。
綾乃さんの膝のバネを利用して、一旦距離を取る。
虚を突く動作も、動きの中に見出さないと駄目だな。
完全受けの状態では、冷静に対応されてしまう。
服に付いたホコリを払い、射程ギリギリの位置に身を置く。
刀を前に構え、指先を射程距離へと侵入させる。
今日美咲さんに試した技。一発芸だけど試してみるか。
相変わらず剣に8割の注意を払う綾乃さんへ、手首のスナップで
剣を真上に放り投げ、徒手の攻撃を見舞う。
注意の行き届かないダークホースの左。
一瞬だが剣に釣られ上方に注意が逸れた。
﹁バチアタリめ﹂
カナタの呟きを聞きながら、左が綾乃さんの顔に向かう。
綾乃さんは防御を試みず、俺の拳に刷りあわせるように拳を繰り
出す。
拳と拳が弾け、弾けた拳が俺の顔へと向きを変える。
ビリヤードの的球を擦り目的の﹁9﹂を狙うような、防御=攻撃
677
の一挙動。
右の拳で綾乃さんの拳を殴り、方向を1度だけ角度を変える。
向かってくる綾乃さんに、角度を変えた右の肘で待ち受ける。
あー、多分、これも駄目だな。
左足を後方に引き、肘をガードされる前に右膝での脇腹への攻撃。
返す刀で左足の蹴りを見舞う。
後ろ手で空に舞う剣を掴み、カナタでの斬撃。
って⋮。一発も当たらないでやんの。
美咲さんにも当たらなかったんだけどな。
﹁キミは考えすぎ。狙いは良いんだけど、もう少し素直に攻撃して
もいいんじゃない?﹂
そう言って初めて拳を前に突き出し、構えを見せる綾乃さん。
﹁前衛の戦い方はね。直情的に。最小限の動きで。最高の打撃を入
れる事。注意を逸らす、ガードをするのは後衛任せで良いの﹂
膝をほんの少し折り曲げただけで、俺との距離をゼロにする。
縮地? 長考状態でも霞んで見える程の。
最高の射程距離から打ち込まれる最短の拳。
愚直なまでに見え見えのストレートだが、避ける方法が見つから
ない。
拳から感じる運動量と質量が、高速を走るトレーラーに匹敵する
ほどに感じれる。
手でガードなんてあまりにも無謀。
どうせ轢き殺されると覚悟するのなら、まだ手はある。
左手でナイフを抜刀し、拳を受ける。
ほんの少しだけ軸をずらせればダメージを軽減できる⋮
678
だが⋮そんな小細工が通用するほど甘くはなかった。
俺の防御など、意に介さない拳が打ち下ろされる。
ほんの数秒だけ気絶していたのだろうか。
まだ綾乃さんが拳を振るった後の、残身の姿勢のままと言う事は
⋮⋮きっとそうだ。
俺の体は橋の橋脚、分厚いコンクリートへ打ち付けられていた。
﹁ナイス! カオル君やるじゃない﹂
なにが? 10m位ふっ飛ばされてるんだけど?
ついでに背中でコンクリートを粉砕して⋮⋮。自治体から苦情来
るんじゃないか?
﹁死ななかったじゃない﹂
ああ。そう言うことか。
打ち下ろしの拳は、対象物の逃げ道を無くす。
空手のバット折りにしても、ビール瓶割りにしても、水平に打撃
を加えると対象物が動くことによりダメージが拡散する。
あれは、ほんの少し打ち下ろして、地と対象物を挟み込むように
打撃を加えるのだ。
俺はとっさに脚の力を抜き、手に添えたナイフから戴いた力で逃
げたのだ。
しかし拡散させた力でここまで吹っ飛ばすとは、直撃食らってい
たらどうなってるんだ?
﹁動ける? 無理なら無理で良いわよ。今日は落第﹂
679
まだ動けるさ、膝が笑ってるけどな。
まだ取って置きのを出していない。
愚直に打ち込む業なら俺にもあるさ。
手に余るナイフ見る⋮。
あれだけの衝撃を受けてなお、反りもそのままに輝きを失うこと
がない。
ナイフを鞘へと収める手応えも、そう言っている。
息を整え、ゆっくりとゆっくりと戦地へと戻る。
最強の一発芸見せてやる。
﹁カナタ!﹂
剣を持つ右手に霊気を籠める。後先を考えない程の注入量。
一撃分に必要な最小限を残し、残り全てを刀身に注ぎ込む。
肩に乗る刀精が淡い光を発し、膨れ上がって原寸大の光の粒にな
る。
細い光の両の手が俺の首に回り、優しく頬へ口付けした。
﹁武運を祈っておる﹂
むず痒い頬の感触を残し、再び剣へと戻るカナタ。
カナタの光と剣の光が1つになり、ニ尺三寸の剣へと変わる。
俺は両手で剣を持ち、右肩、右側頭部で剣を構える。
剣の二番目の主、薩摩の剣士。
﹁示現流⋮蜻蛉の構え﹂
手から流れ込む情報が俺に構えさせる。同時に剣の心得と意味を
伝えてくる。
これから俺は三室薫であり、三室薫にあらず。
680
直線的に歩を進め、相手との間合いを詰める。
数十万、数百万と打ち下ろした立ち木打ちの手応えが、手に宿る。
無骨な木刀の手応えと、斬撃の際に立ち込める煙の匂い。
無類の経験値が俺に注ぎ込まれる。
間合いに入り、一撃のもと斬る。
受けられても分断するまで押し斬る。
硬ければ叩き割るのみ。
﹁接触⋮ いや違うわね。付与系?﹂
綾乃さんの握る拳が硬くなる。
二人の間合いが、ジリジリと縮まっていく。
あと、数センチ、数ミリ⋮⋮⋮。手に斬撃の力をこめる。
﹁いや、潮時かの?﹂
心の中でカナタがささやく。
遠くのほうで聞こえる、俺の名を呼ぶ泣き声交じりの声。
体から発する剣気を収め、構える剣を鞘へと収めた。
﹁かーおーるーせんせー﹂
真琴の声だ。
待っていると約束したのに、約束破っちまったか。
﹁綾乃さん、中途半端で申し訳ない。追試は明日の本番で﹂
苦笑し、硬く閉じられた拳を手で下げさせる。
681
﹁アイスクリームの分の特別授業だから、気にする無かれ﹂
力の篭った手を開いて閉じ、筋肉を弛緩させて構えを解く。
﹁あの声の主は彼女? いや⋮彼女候補かな?﹂
ウシシと笑い、いたずらっ子の様な表情をする。
即座に俺の手に自分の手を絡め、恋人同士のようなフリをする綾
乃さん。
﹁うあ、止めてください。シャレになんないです⋮よ?﹂
手に当たる胸の感触が、俺の声に拒絶の色を失わせる。
ふにょん?いや⋮ぷよん?かな。いやぷにゅ!だ。
耐え難い未知の感触が、俺を襲う。
全身の感覚神経がソコへと集中する。
﹁かおるせんせー﹂
ああ⋮真琴の声が距離を縮めている。
﹁カオルせ・ん・せ・い♪﹂
綾乃さんが俺の胸に顔を寄せ、より密着度を高めてくる。
ゼロ距離の大人のフェロモンだ。
俺は人生最大の危機を迎えている。
汚れた大人を見るような目で真琴に見つめられたら⋮⋮立ち直れ
ないような気がする。
うがぁ。だすけて⋮。
682
683
﹃退魔士試験08﹄
﹁夕食前に、風呂行って来ます。ちょっと嫌な汗かいちゃって﹂
綾乃さんとの対戦の汗、その後の冷や汗だ。
ちなみに嫌な汗は後者だ
嫌な気分を払拭したい⋮そして気分を変えて晩飯を食わねば。
﹁なかなかのええ風呂やで?堪能してき∼﹂
﹁いってらっしゃい∼﹂
にこやかに手を振り、俺を送り出してくれるみんなの笑顔。
ただ一人その中に居て、ジト目で俺を見つめる真琴。
﹁行ってらっしゃい! センセ!﹂
そっぽを向きながらも、ちゃんと挨拶してくれる真琴が素敵。
あからさまにツンツンした態度が、俺の穢れ具合を測るバロメー
ターだ。
俺は今、体以上に心が汚れている。
穢れた人間なのだ⋮。
しかし真琴よ。誘惑に勝てなかったよ。ごめんよ⋮⋮。
ホテルの大浴場。
岩風呂、寝風呂、立ち湯に打たせ湯とバリエーションに溢れてい
る。
だがしかし、ここで焦って湯船にドボン!なんて無作法はしない。
頭を洗い、しみる背中を気遣いながらも体を洗う。
684
身ぎれいにして湯船を堪能するのが礼儀。
﹁ふぃ∼、極楽極楽♪﹂
気持ちいい温泉で気分も晴れる⋮⋮と思ったけど駄目だな。
あれだけの実力差を見せ付けられて、のんびり出来るかっ!
うがーっ、腹立つなぁ⋮ 余裕すぎるだろ綾乃さん。
歯軋りをして、苛立ちを紛れさせる。
体はさっぱりしたが心は晴れないままだ。
﹁あのまま踏み込んでいたら、9分9厘負けていたな﹂
カナタが止めてくれたのは、そう言うことだろう。
俺とて剣が避けられるイメージしか浮かんでこなかった。
避けられるイメージだけではなく、叩き伏せられているイメージ
が鮮明に浮かんだのだ。
﹁じゃの。あのまま踏み込めば負けておった﹂
頭の上でカナタが俺に話しかける。
﹁うおっ、カナタ! 何時の間に!﹂
女の子は女風呂。世界の常識だぞ?。
なんで着物着て頭の上に乗っている?
と言うか頭を洗った時どうしてた?オイ。
﹁カオルの霊力が大量に注がれたままだしのう。消えるに消えれん
のじゃ﹂
685
じゃ⋮なにか?
綾乃さん事件以降、頭の上に乗りっぱなしか?
橋の下で⋮、からかわれていた時から。
﹁さよう。カオルが腑抜けた顔で! 女体の神秘に触れておった頃
からじゃ!﹂
そういって俺の髪の毛を毟るカナタ。痛たた⋮禿げたらどうする。
﹁全然気が付かなかった⋮⋮。集中力が落ちてるな⋮⋮﹂
カナタに霊力のほとんどを送り込んだんだ。
今の俺は、一般人並に弱ってる。
カナタが頭に乗っていて気が付かないとは⋮重症だ。
﹁仕方あるまいの。じゃが一晩ぐっすり寝れば元通りになろう﹂
一晩充電すれば、満充電か。携帯のバッテリーみたいだよな。
﹁バッテリーか⋮﹂
結局の所、俺が身につけたのは、霊力を開放する事だけだ。
霊力を籠める事を覚え、剣へと注ぎカナタへ霊力を供給する。
本来持つ刀精の能力が復活したカナタが、魔物を滅する能力以外
カナタ
に、所持する者へ剣の知識を付与する。
刀も本体に引きずられ本来の姿に変化するのだ。
もしかすると、カナタの記憶の姿なのかもしれないな。2尺3寸
の姿は。
﹁まんま、カナタにおんぶに抱っこだよな。そして俺は電池﹂
686
初めて気が付いたときには、結構凹んだ。
牧野との手合わせの後、それに気が付いた。
俺って最高に無能じゃねぇか?
そして未だ能力を身に着けられずにいる俺に、自分自身苛立ちを
覚えている。
そもそも霊力の開放ですら、きっかけは何か良く判らないのだか
ら。
﹁それは、アレじゃ。心象世界の乃江との出会いがそうさせたのじ
ゃろ﹂
ふむ? 心象世界の乃江さん⋮か。未だにあの泣き顔が目に焼き
ついて離れない。
けれど、それがキッカケと言われてもピンとこないな。
﹁わかんね⋮⋮﹂
お手上げ状態だ。
なにかヒントくれないと、霊力減退、注意散漫な俺には理解不能
だぞ?
﹁決別してカオルを送り出した、あの時の乃江はどう言った?﹂
カナタの言葉を聞き、心象世界の乃江さんを思い出す。
突き飛ばすように俺から離れ、力をくれた。
﹁強い意志で空間を破れ⋮か﹂
霊力を籠めるのには強い意志の力が必要だ。
687
ただ手を添えて念じて出来る物ではない。
あの時の気持ち。
乃江さんの嗚咽と背中を押した手の温かさ。
俺を呼ぶ本当の乃江さんの泣き声が俺に力をくれた。
そして心でカナタが俺に⋮。
⋮⋮⋮あれが霊力開放のキッカケだったのか。
﹁ちっぽけな力かも知れぬが、二人の乃江がくれた大切な力じゃ﹂
そうだな。
クヨクヨしていたら、心象世界の乃江さんにもっと悲しい思いを
させるかもしれない。
今の⋮俺の⋮最高の能力なのだから。
﹁カオルの人を思う気持ちが、能力の質に現れておるのじゃろうな﹂
なんだか、悟りきったようなお言葉。
俺より俺の事が詳しくないか?
流石に神様、何でもお見通しと言う事か?
﹁いや、我が見通せるのはカオルの心だけ。心象世界でも、閉じた
世界でも心は通じておった﹂
それも時と場合によるのだけれど、おかげで俺のプライバシーは
皆無だもんな。
まぁ、カナタなら良いか。お互い様だもんな。
﹁⋮⋮⋮お互い様?﹂
ああ、お互い様だ。
688
通常のカナタからは、断片的な意思しか伝わってこない。うっか
りすると聞き逃しそうな程に、かすかな意思。
けど霊力を籠めたあの時は、俺とカナタは心が通じ合っている。
心が一つになっていると思えるくらいな。
﹁だから、カナタの考えている事が判るんだ﹂
頭の上でカナタが茹だったような顔をする。赤面を通り越して真
っ赤だぞ。
﹁な⋮なにを⋮考えておる。神の心を読むとは不埒な∼﹂
またも俺の毛を引っ張り、毟り始めるカナタ。
照れ隠しも毛を毟るな。本当に禿げるから止めてくれ。
﹁あの時の想いを言葉で聞かせてくれたら、元気が出そうなんだけ
どな﹂
心で思う気持ちが伝わるのは、それはそれで快感だ。
けれど、言葉で伝える気持ちも満更でもない。
カナタに力を注ぎ、完全体になったカナタが想う気持ち。
﹁そんな事を口に出して言えるか。うつけもの!﹂
髪の毛を毟るだけでは収まらず、ポカポカと頭を叩く。
しかし頭皮マッサージ程にしか刺激が来ないので、程よく気持ち
いい。
﹁それにカナタが完全体になった時さ、少し大人になるよね﹂
689
デフォルメされたマスコットサイズのカナタもカワイイ。
心象世界で出会ったカナタも捨てがたい。
けど、完全体のカナタは⋮。
﹁変⋮変な想像をするでない∼﹂
顔を真っ赤にして俺に抗議をするカナタ。
顔を見なくても、なんとなく照れているのが判る。
褒められるの、照れくさいか?
﹁照れてなどおらぬ∼ からかうのをやめんか∼﹂
駄々っ子のように手足を振り回して、ジタバタと頭の上で暴れる。
そろそろからかうのを止めないと、不貞腐れるかな。
今日霊力を籠めた時に、ハッキリと聞こえたよ。
﹃⋮カオルを守りたい。カオルと一つになりたい⋮﹄って
俺を守りたい気持ちがいっぱいになり、剣の知識を届けてくれる。
それに、カナタの﹃告白﹄がサービスされて付いてくる。
剣豪の力を貰わなくても、力がみなぎる。
男冥利に尽きるってもんだ。
﹁誤解⋮いや、あう⋮カオルの思い過ごしじゃからの? ほれ⋮あ
の⋮その⋮﹂
延々と続くカナタの言い訳。
俺は風呂で独り言を言う変な奴と、周囲から見られても平気。
だってこんなに面白い奴と話してるんだもんな。
690
﹁あれ? 今日のも思い過ごしか? ほっぺにチューしたの?﹂
﹁むきぃ!﹂
カナタを話し、少し心も晴れてきた。
円形脱毛される前に、ここらで許してやるとするか。
明日に備え英気を養い、今日以上にがんばろう。
俺の気持ちが伝わったのか、両手に毛根の付いた毛を握り締め、
カナタがふっと表情を緩める。
心に伝わる優しい気持ち、言葉にしなくても判る。
﹃一緒にがんばろう⋮﹄と心に伝わってきた。
691
﹃退魔士試験09﹄
貴重品入れのロッカーを開けると、携帯のランプがピカピカと点
灯していた。
﹁メールか⋮﹂
ロッカーの中でバイブレーションが鳴動し、大変迷惑だったので
はないかと心配になる。
心の中で謝っておく、ごめんよ。
折り畳まれた携帯の液晶小窓にはメール2とだけ表示されていた。
﹁牧野からだ⋮、依頼したアレの件か?﹂
行きの新幹線でメールした調査依頼の件だ。
さすがファントム、仕事が速ええ。
早速拝見いたしますか⋮。
情報の内容によってはある程度の報酬も覚悟せねば⋮。
友達同士とは言え、これは立派な仕事の依頼になるからな。
焼きそばパンで許してくれると助かるが。
From 牧野
>ごめん︵´・ω・`︶
⋮⋮短すぎてわかんねぇ。顔文字入れるくらいなら核心に触れろ
よな⋮⋮。
まあ2通って事は、このメールは前フリで次のメールが核心かな。
692
From
牧野
>護符プログラムミス。
⋮⋮終わった。解析不能。
腹立たしいんで、メールを削除しておく事にする。
なにが﹁さすがファントム﹂だ⋮⋮ほめて損した。
牧野には、スパムメール送付の罰に焼きそばパン2個の刑に処す
る。
心の中で判決を言い渡し、携帯を閉じる。
頭の上で、カナタが髪を引き俺に合図を送る。
﹁カオル⋮ よからぬ霊気を感じる。気を付けよ﹂
カナタの助言もむなしく、カナタの言葉を聞いたときには、よか
らぬ護符入りの財布を手にしていた。
そして俺の不幸は始まった。
﹁マズい⋮マズ過ぎる⋮﹂
無人の廊下を風の様に走り抜ける。
牧野のメールがいち早く危機を知らせていたのに、あいつ面白が
って言葉を伏せていたな。
これは、焼きそばパン所の話しじゃない。
俺は風呂の脱衣場から100m移動する間に、3人に告られた。
異常事態だ。
693
一人目:年端も行かぬ子供アヤちゃん。
目が会った瞬間に告られた。台詞は、﹁好きです﹂
マッハでお断りして、子供泣きされてしまった。当然親が走って
きて騒ぎになった。
二人目:主婦ノリコさん
アヤちゃんのお母さん。気が付くと怒りの顔が消え、手を握られ
ていた。
艶っぽい表情で部屋番号を耳打ちされた。
手を振り解き、音速で逃げた。
三人目:ホテルの従業員田中さん33歳︵推定︶
当ホテルの従業員、廊下の角でゴッツンこ。べたな出会い。
初恋の相手でも見つめるように、﹃今までずっと好きでした﹄と
言われる。
嘘付け!とツッコミチョップを入れて気絶させて逃げる。
オイオイ⋮ヤバイ事態になってきた。どうすればいい?
結論は出ている、誰とも出会わない⋮、出会えば不幸が待ってい
る。
部屋に篭って一般人に不幸を撒き散らさない事だ。
﹁人生最大の危機じゃの、カオル⋮﹂
他人事のようにつぶやくカナタ。
ただいま俺はソリッド・スネークの如く隠密行動中。
観葉植物に身を潜め、人の気配を窺う。
﹁カナタはソレを祓う事が出来ないのか?﹂
694
俺の頭の上、カナタの横で鎮座するソレを指差し一縷の望みを託
してみる。
カナタはマジマジとソレを見つめ、しばし考え込む。
﹁桃の木は﹃金気﹄我の気と相性が良い。力は与えれても、殺ぐこ
とは出来んな﹂
やっぱり無理か。牧野の呪い恐るべし。
とりあえず、一般市民に被害が出ても問題だ。誰も通らない非常
階段で部屋に逃げ、みんなに相談しよう。
﹁人をソレ呼ばわりするとは⋮﹂
嘆かわしや、およよ⋮と嘘泣きするソレ。
絹のロングチャイナドレス身を包み、中国の仙女をへちゃむくれ
にしたようなピンキー2号。自称桃の仙女。
脚にスリットが入っているが、ぜんぜん色っぽくない所がムカつ
く。
桃と言うだけあって、装いはピンクだ。
﹁お前⋮ソレ呼ばわりされたくなければ、名を名乗れ﹂
俺の言葉に、大きく瞳を見開く。そして目を細めて扇で口を隠す
ソレ。
そしてゆったりとした動作でクスクス笑う⋮⋮その仕草が、俺を
イラッとさせる。
﹁名を⋮ 名乗っておらなんだな。私は⋮桃の仙女、既知の者には
﹃トウカ﹄と呼ばれておるが⋮⋮﹂
695
イライラする原因が判った。こいつマイペースな上に、一つ一つ
の動作がゆっくりとおおらかだからだ。
普段は気にならないレベルだが、危機迫る時にはクルものがある
な。
空気が読めていないと言うか、危機感がゼロだから。
﹁よし!トウカ。お前は時期を間違えて召喚された。今はその時じ
ゃない。護符に戻れ﹂
財布の中の護符を指差し帰還を願う。
トウカが俺の言葉を聞き、驚いたように目を見開いた。そして少
し考えたような仕草で止まる。
そしてゆっくりと口を開いて物申す。
﹁それは聞き入れられん。護符は天地の理を記し、神と通ずる為の
依代に過ぎん﹂
カナタと違い、護符は召喚の魔方陣と同列か⋮、そうじゃないか
とは思っていたのだが、ダメ元で聞いてみたのだ。
﹁符に封じられていたのなら帰ろう⋮、けれど理由もなく異国に呼
び出され、役目は無い。帰れ。と言われた者の気持ちを考えよ﹂
頭の上で言葉が涙に変わる。
泣かれると、それ以上キツク言えないのが俺の欠点。言葉を失い
沈黙するしか出来なかった。
⋮⋮牧野の護符スーパーコンボ。
1枚目の護符で時限作動。2枚分の護符で仙人召喚。残りの符は
696
術を保つバランサーとなっている。
トウカに憑かれ、牧野に電話で問い合わせた所、どうやらそうい
う事らしい。
ただし、作動時間を15時間ほど間違えたという事らしいが。
﹃真倉綾乃に勝つには、ラブ&ピースしか無いでしょ? 惚れさせ
てガツンだよ。ウハハ!﹄だってよ。
俺は、殺意を籠めた台詞を残し、牧野との交信を閉ざした。
﹁もう一度だけ聞かせてくれ、お前の能力って?﹂
ここまで来ると怖い物見たさの感覚だ。
悪いテストの点を何度も目で確認するような、そんな気持ち。信
じたくても信じたくない⋮。
﹁桃の香気で人に愛を語らせる⋮。愛あれば世界は平和になる﹂
召喚されて出て以来、こいつから漏れ出す仙気というか、ほんの
りとした桃の匂いが原因か。
そのうち、メス犬にも懐かれそうで怖い。
いまやこのホテルの安全地帯は、男子トイレと風呂だけになって
しまった。
とりあえず部屋に逃げ込もう! 俺は非常階段を一足飛びで駆け
上がった。
﹃ギギギ﹄防火扉兼非常扉を少し開け、廊下の様子を窺う。
部屋まであと一息だ、少し緊張が緩みそうだ。
トイレの手前でオシッコが我慢出来なくなるように、俺は弛緩し
始めていた。
そんな俺を神は許さなかったようで、各階に一つはありそうな自
販機コーナーから、ガコン!と音がした。
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﹁!﹂
乱暴に取り出し口をまさぐる音と、プルタブを引く音が繋がるよ
うに聞こえてきた。
取り出し口に腰を屈め、立ち上がるまでにプルタブをオープンす
る人。山科さんだ。
ゴキュゴキュっと喉を通過する音と、まもなくして缶を握り潰す
音が聞こえてきた。
この飲み干す速さ。間違いない。
﹁山科さぁん∼。ダスケデ∼﹂
キリン
硬貨を投入する音が途切れ、自販機コーナーから顔を出す山科さ
ん。
キョトンとした顔で俺を見つめる。
﹁どうしたんや?カオル? 風呂上りに伝説獣呑みに来たんか?﹂
そう言って、残りの硬貨を投入した。
出てきた缶を俺に手渡し、ニッコリと笑う。
山科さんには変化が無い。俺が予測していた最悪の事態は免れた
ようだ。
俺は手渡された缶を開け、喉の渇きを潤した。
﹁ぷはっうめえ。⋮⋮じゃ無くって!聞いてくださいよ。変なのに
取り憑かれて困ってるんです∼﹂
人差し指で頭上のチャイナ仙女を指差した。
メガネを手で直し、指差す方向を見つめる山科さん。
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﹁カナタのお友達かと思ったわ。全然違和感無いで?﹂
頭上で座る和装とチャイナ服。違和感あるでしょう?
少し疑問に思えた事象をトウカに尋ねてみる。
﹁なんで山科さんには影響しないんだ? 能力的なレジストされて
るのか?﹂
トウカはニコニコと笑って扇で口を閉ざす。
そして、何も語らず笑っているばかりだ。
﹁カオル?どうしたんや?﹂
再び缶を開け、自販機にもたれ掛って、俺の挙動を不審がる山科
さん。
このいつもと変わらぬ冷静さに、相談するには山科さんだと決定
づけた。
﹁実はかくかくしかじかで、トウカの仙気にやられて一般市民が大
変な事に﹂
護符の件だけ伏せて置き、それ以外の全てを山科さんに話して聞
かせた。
山科さんは喉を潤しながら考え込んだ。
﹁桃は古来から邪気祓い、縁結び、不老長寿の仙薬言われててな。
桃の種は薬になるし、えらい能力持っとるんや﹂
山科さんの褒め言葉に、扇をパタパタと自慢げに頷くトウカ。
自身の能力を知る者の存在に満足気だ。
699
﹁確かに⋮かすかに桃のいい匂いというか﹃気﹄を感じるなぁ。私
に効かへんの何で?﹂
山科さんが、トウカに尋ねる。
トウカは目を見開いて、驚きの表情を浮かべた。
﹁そなたは、すでにこの者を好いておる故、効いておらぬのではな
く、効いておるが自覚が無いだけじゃ﹂
トウカのその言葉を聞き、山科さんの表情一変し赤面した。
山科さんが俺を? そんな事を言われて嬉しくない相手じゃない
⋮。
むしろ⋮。
﹁あ⋮あのさ⋮ 山科さん⋮﹂
頭でなにも言葉が浮かんでこない、けれど沈黙に耐え切れず言葉
を搾り出す⋮そんな感じ。
﹁な⋮⋮なに?カオル⋮⋮﹂
山科さんも俺と同じ状態なんだろう。言葉にしたくても言葉が出
ない。
けれどなにか伝えなくてはならないと切迫した気持ちになり言葉
を搾り出す。
これが、トウカの能力か。恐ろしい。
﹁ここはまだ危険地帯。部屋に帰って一般市民に害が及ばないよう
に対策考えましょう﹂
700
踵を返し、自販機コーナーから出ようとする。
だが、弱く服の袖を捕まれ、振り返り山科さんをみた。
真っ赤な顔で俺の袖を掴み、涙を浮かべている。
﹁うち⋮恥ずかしい。どの面下げて部屋に行ったら良いのかわから
へんもん﹂
感情を素直に表しているのは表情だけは無い。
袖を掴む素直な手が俺の手に触れ、戸惑い、離れ、そして触れる
だけの状態で握り締めた。
﹁うちカオルの事が好きや。けど私一人を見てて欲しいとか思わへ
んねん。みんなと馬鹿やって一緒に居てるのがええねん﹂
顔を赤面しつつも、言葉を選びゆっくりと話してくれる山科さん。
桜色の唇が言葉を紡ぐ度に、俺の心音が速度を増すのがわかる。
﹁けどな、乃江と一緒に居たりするの見ると、本当にそう思ってる
のか自信が無くなるねん。本当は私だけを見てて欲しいと思ってる
んやろか?、って﹂
俺も桃の仙気にやられているのだろうか⋮、その手を握り山科さ
んをそばに引き寄せた。
キツく山科さんを抱きしめて、ふと我に返る。
﹁トウカの能力、ヤバイでしょ?﹂
なにかヤバイ言葉を言わされそうに⋮、雰囲気に流されそうにな
り、寸での所で留まった。
701
俺の気持ちも山科さんと同じ。言われて嬉しいし一緒に居たいと
思う。
流されて一緒に居ても良いなと思うし、そうじゃないだろとも思
える。
俺の言葉を聞き、山科さんもふと我に返る。
﹁そやな。雰囲気に流されてもうた﹂
苦笑して肩を震わせる、そしていつもの山科さんに戻った。
﹁部屋に帰ってご飯食いながら考えようか﹂
そして俺の手を振り解き、部屋へと向かう。
その背中を見つめ、言い忘れた言葉を口にする。
﹁山科さん⋮。俺も⋮良く判らないけど、同じ気持ち﹂
その言葉を聞き、歩を止め、振り向きもせず立ちすくみ返答した。
﹁ライバル多いもんな。本当にお互いがお互いをと⋮そういう気持
ちになれたら、続き考えよう?﹂
そう言って部屋へと向かう脚を動かし始めた。
俺はその言葉を聞き、いつもと変わらぬスタンスで居てくれる山
科さんを心強く、そして一層の親愛を籠めて心の中で感謝した。
702
部屋の扉を開き、仰々しく山科さんが叫んだ。
﹁全員退避!﹂
その声を聞き、みんなが寄ってくる。
そりゃそうだろ、いきなり退避って⋮⋮好奇心のほうが勝ってし
まう。
﹁どうした?ユカ﹂
頭の弱い子見るような、深い哀れみを湛えた乃江さんの目。
そしてその奥に立つ俺を見つめて、カナタとトウカを見る。
﹁とりあえず扉を閉めろ。せっかくのエアコンの冷気が逃げる﹂
そう言って背を向けた。
おお、乃江さんもノーリアクションだ。嬉しいような悲しいよう
な。
俺の複雑そうな表情を見て、山科さんがつぶやく。
﹁ちっ! 乃江もか。前途多難や⋮⋮﹂
何気にトウカを恋愛バロメーターにしているような気がする。
好意って言ったって、どの程度の好意かなんてわかんないだろ。
逆に好きですとか言われても、嬉しくないし。逆に悲しくなるぞ。
﹁とりあえず、みんなのリアクション見んとな。一蓮托生、死なば
もろとも﹂
703
ふふふと不気味な笑いとオーラを出す山科さん。
絶対トウカで遊ぶ気だ。
靴を脱ぎ一歩前で部屋に上がる。振り返り悪い表情をしてこう囁
く。
﹁とりあえず全員のリアクション見てからやで、それまでは﹃シー﹄
やで?﹂
人差し指を口元に当て、ウインクして笑う。
そりゃ全員の気持ちを知りたい。けど騙まし討ち見たいで嫌だな。
心にモヤモヤっとした何かを抱え、俺も部屋へと上がる。
﹁かおルン、お茶煎れましたよ∼﹂
美咲さんが急須の蓋を手で押さえ、両手でクルクルと回しお茶の
葉を湯の中で遊ばせる。
そして手馴れた手さばきで、お茶を煎れてくれた。
﹁ありがと﹂
美咲さんの煎れたお茶は美味い。
それが例えポットのお湯でもだ⋮⋮なぜだろう不思議だ。
宮之阪さんが、無言で座布団を用意してくれる。
さりげない動作、さりげない親切が宮之阪さんの良い所。
﹁センセ、お風呂どうでした?﹂
送り出すときは不機嫌だった真琴だったが、今は普段の真琴に戻
っている。
そういうカラッとした性格が真琴らしい⋮⋮良い子だ。
704
﹁寝っ転がって湯に入る温泉が何気にHITだったぞ﹂
寝湯って奴だ。少し堪能したが、怠惰な気持ちなせてくれる良い
風呂だった。
﹁あれか⋮⋮、私が行った時には主婦の団体が占領していて、堪能
出来なかった⋮﹂
お茶で口を湿らせ、乃江さんが残念そうにつぶやく。
俺も美咲さんの煎れてくれたお茶を飲んで心を落ち着ける⋮⋮、
うーん平和なひと時だ。
俺の隣の山科さんが、全員の表情を見て、そしてうな垂れ、テー
ブルに突っ伏した。
﹁あかん。予想通りノーリアクションや﹂
その言葉でふと我に返る。そうだった⋮平和な時に身を任せてい
てはダメだ。
トウカの事を相談する為に、部屋に戻ってきたのだった。
ノーリアクションは良いとして、誰一人としてカナタの横に座る
トウカにツッコまない?
ここで、声を大にトウカを説明したら負けのような気がしてきた。
﹁カナタ、トウカ。お菓子食うか?﹂
カナタの食料入れ、金属ケースから和菓子を取り出しテーブルに
並べる。
カナタが小躍りし、トウカの手を引きお菓子に誘う。
トウカもカナタに手を取られ、最初戸惑いながらも、お菓子へと
705
ジャンプした。
テーブルの菓子皿の上で、談笑しながら和菓子を堪能する刀精と
桃の仙女。
ここまでアピールしたら、誰かツッコミを入れてくるだろう?
隣の山科さんも同様の思いのようで、全員の表情を探るように見
る。
﹃ガタッ﹄
隣の宮之阪さんがテーブルに手を付いた。
来るか?ツッコミ。さあ来い。マリリン!。
キリン
だが俺の期待を裏切って立ち上がり、冷蔵庫に向かって歩く。
扉を手で開け伝説獣を取り出し、立ち上がるまでにプルタブを引
き開けた。
そしてゴクゴクと喉を鳴らし、一息付いている。
立ちながら、腰に手を当てて飲み干す姿は、西の山科、東の宮之
阪と言わしめる王者の振る舞いだ。
﹁わたしも寝っ転がるお風呂行って来ようかしら⋮⋮﹂
美咲さんが立ち上がり、鞄をゴソゴソとお風呂へ行く準備をしだ
す。
﹁ちょ!ちょっと待ったぁ!﹂
山科さんが立ち上がり、全員のスルーッぷりを一喝した。
ついに動き出したか⋮⋮、もうちょっと我慢するかと思ったが、
面子が抜けるのは許しがたいのだろう。
﹁あんたらコレ見て、何とも思わへんの?﹂
706
カナタと仲良く和菓子を堪能しているトウカを指差し大声で吼え
る。
鞄の中から、ピンクのブラを取り出した状態で固まる美咲さん。
せんべいを口に入れた状態の乃江さん。
テレビの番組表を手に、指差す先を凝視する真琴。
腰に手を当てた状態の宮之阪さん。
﹁カナタのお友達?﹂
全員の台詞がシンクロした⋮⋮いわゆるハモると言う奴だ。
山科さんも一度は到達した結論だ。あまり強くはいえない⋮⋮。
けれどそれでは話しが進まないと感じたのか、喉に声を詰まらせ
ながらも吼えた。
﹁この子は、かくかくしかじかで、桃の仙気を吸うと恋したくなる
んや﹂
長ったらしい説明をかくかくしかじかで端折る山科さん。だがみ
んなには理解してもらった様で、やっとトウカに関心が集中する。
そして照れるトウカは、顔を真っ赤にして扇でパタパタを扇ぐ。
実は恥ずかしがり屋さんなのか?
﹁そしてな。この子の仙気を吸うて、ノーリアクションのあんたら
は、カオルに惚れとるな!﹂
聞くからにこっ恥ずかしい台詞をのたもうた。
そしてまず動き出したのは、意外!東の王宮之阪さん。
﹁私は⋮男性と話す事が出来ないの⋮ きちんと話せるのは、日本
707
ではカオルだけ⋮⋮カオルは⋮優しくて良い人﹂
そう言って、ごく普通に返答する。
そして再び、冷蔵庫から新しい一本を取り出し、テーブルに腰掛
ける。
シンプルに、宮之阪さんらしい一言が凄く嬉しい。
﹁私はカオル先生好きですよ。怒ったら怖いけど、きちんと真琴を
見てくれる人だから⋮⋮﹂
宮之阪さんに負けじと、真琴が感想を述べる。
そう思われているのが、俺も誇らしいと思える真琴のセリフ。
﹁嫌いな奴の勉強を見てやったり、部屋に泊めたりすると思うか?
愚問だな﹂
そう言ってせんべいを口にする乃江さん。
乃江さんからは、﹃一緒の布団で﹄とか言われるかとドキドキし
たが、それは伏せて置いてくれているようだ。
乃江さんらしいストレートな意見。これも嬉しい。
﹁嫌いな方と同室でしかも温泉なんて来ませんよ。皆オッケーだと
思うから、お部屋が一緒なのですよ?﹂
そう言ってくれるのは嬉しいんだけど、手に持ったままの柔らか
そうなブラ。なんとかなりませんか?
もうちょっと隠してくれると嬉しいんだけど、歯牙にも掛けられ
てないっぽく感じるんですが⋮⋮。
﹁そうか、温泉⋮同室や。全然違和感無かったわ⋮⋮﹂
708
力なく膝から崩れていく山科さん。
もうちょっと恥じらいのセリフが聞けるものと期待したのだろう
に。⋮⋮俺も残念だ。
なんだか少し倦怠感が出て来た間柄でのセリフを聞いているよう
で、少し悲しい。
全員のリアクションを見てトウカが〆る。
﹁ここは愛に溢れていますね。愛と平和⋮なんてすばらしい﹂
カナタの手を取り、テーブルの上で舞い踊る仙女。
動きにあわせ、ほんのりと桃の甘い匂いが立ちこめ、幸せな気分
にさせてくれる。
こうしてみると、こいつも満更悪い奴じゃなさそうだ。
﹁本番は明日。力になってくれるか? トウカ?﹂
俺の言葉を聞き、初めて満面の笑みを浮かべるトウカ。
目を細めて差し伸べる俺の手に乗り、舞い踊る。
トウカ
﹁任せよ。私の名はトウカ、桃花と書いてトウカ。1000年に一
度花を咲かす神木の花﹂
初めてちゃんとした自己紹介をしてくれる桃花。
みむろかおる
礼儀を尽くした振る舞いに答えなければならないだろう。
﹁俺は三室薫。よろしくな﹂
俺の名を告げると、桃花はニッコリ笑って俺の肩へと飛び移り、
耳元で囁いた。
709
﹁ちゃんと挨拶してくれるまで、意地悪しようと思うておったが、
許してやる﹂
﹁!﹂
桃の仙気は意地悪だったのか⋮⋮。
実害はアヤちゃん、ノリコさん、田中さんだけだ。三人ともすい
ません。
しかし、こいつ結構裏表激しい奴だな。
明日の試験、力になってくれると良いけど。
710
﹃退魔士試験10﹄
トウカ
﹁約束⋮⋮、私の姿が保てる間に、能力を託しておこう﹂
扇でパタパタと忙しなく扇ぐ桃花。
シリアスムードに喋っておいて、この極限の余裕。もう少し悲壮
感を漂わせても良いのではないだろうか。
﹁姿を保てない⋮って?﹂
最悪の予想が頭をよぎる。消滅⋮って事か?
俺ってペットが死んだりすると、号泣するタイプなんだよな。涙
もろいというか感情移入が激しいというか。
子供の頃飼っていた柴犬が死んだ時には、数年ほど犬の泣き声聞
いただけで泣いていた。
そんな俺にそう言う事言うなよ。
トウカ
﹁言葉通り⋮この体に籠められた念は微量なものだ﹂
ケロッと寿命が尽きる事を吐露する桃花。
てか出合ってから数時間も経ってないだろうに⋮⋮。
﹁なんとかならないのか?﹂
もう何もしなくてもいいから、死ぬとか言うなよ。
俺が思っているのと同じく、カナタも悲しげな顔をする。
チャイナドレスの袖を引っ張り、力なく俯いたままのカナタ。
﹁花は散るもの。散る儚さゆえ美しい﹂
711
その言葉を聞き、カナタが大声を上げて泣き出した。
テーブルの上にポツポツと落ちる涙は、初めて知り合えたであろ
う同次元の仲間との決別の涙。
刀の精にして齢400年のカナタだが、見た目は子供。心も清い
トウカ
ままの子供そのものだから。
トウカ
﹁なんとか成らぬのか?桃花。せっかく出会えたのに⋮⋮﹂
俯き泣くカナタへ、そっと寄り添い涙を拭ってやる桃花。
トウカ
﹁約束を守らねば。証を残さねば、私の存在自体が無に帰する﹂
そう言ってカナタの頭を撫でてやる桃花。カナタのお姉さんの様
に見えてくる。
テーブルの上で広がる姉妹愛のドラマを見て、山科さん、宮之阪
さん、真琴が涙を流し、乃江さんが号泣している。
涙を処理するティッシュペーパの消費が凄い事になっている。
美咲さん⋮⋮は、と言うと⋮⋮寝湯に行った。今頃カポーンと音
の響く風呂でのんびりしているに違いない。
相変わらずのマイペースっぷりだ。
トウカ
﹁カオルの武器に我が能力を与えよう。見せてみよ﹂
俺は桃花に言われるがまま、右手でカナタ左手でナイフを取り、
トウカ
テーブルの上に置く。
桃花は守り刀を、柄から鞘の先までじっくりと見つめる。
﹁こちらはカナタか⋮⋮。見た目も姿と同様に美しいの﹂
712
トウカ
漆塗りの剣を手で撫でて、カナタの顔を見てそう言った。
そして桃花に触れられる度に、大粒の涙を零すカナタ。
﹁そしてこちらのナイフは無骨だが、優れた名匠の業物じゃな。抜
いてみい﹂
トウカ
ナイフを抜刀し、再びテーブルへ置く。
桃花は、抜き身の刀身を指で触れ、指先を傷つける。
そして流れ出る血を拭うように、刀身へ紋様のような文字を書き
出した。
トウカ
﹁除不浄・逐怪破邪・鎮奇怪﹂
桃花の掛け声と共に、刀身に紅く光る文字となって、刀へと浸透
していく。
トウカ
文字が彫刻刀で細工をされた様に、刀身が窪み護符の文様の様に
掘り込まれた。
そして再び刀身の根元の部分を指先でなぞる。
指で触れた部分が光り、桃の花の絵が焼き付けられた。
﹁成功じゃ⋮⋮﹂
美しいまでに彫りこまれた紋様を見て、感慨深げに頷く桃花
鋼の白刃に、紅の文字⋮見惚れるほどの美しい文様だ。
﹁カオルよ。そのナイフを用いて、指を傷付けてみよ﹂
え⋮。なんて言った? キズツケロ?⋮⋮やだよ。このナイフは
すっごい斬れるんだ。
にんじんを切るより楽に指が飛ぶんだぜ?
713
トウカ
まあ実際、指を飛ばした事が無いけど、鉄を容易に切り裂くこの
子には触れたくないな。
﹁安心せい。軽く傷をつけるだけじゃ﹂
ニッコリと笑い俺を安心させようとする桃花。
そこまで言われると、引くに引けないものがあるよな⋮、ちょっ
とだけだぞ?
言われるがまま、恐る恐る切っ先に指を近づける。
トウカ
そーっとそーっと、撫ぜるように、皮一枚を斬るように。
﹁えい!﹂
震える指先に業を煮やしたのか、桃花が指に蹴りを入れた。
ぷすっと音を立て、指が刀身に深くめり込む。
﹁ぐあぁ! いてぇ! なにしやがるんだ、ピーチ!﹂
吹き出る血を指で押さえ⋮⋮ながら⋮⋮血?吹き⋮出ていない?
トウカ
指先をティッシュで止血しようとした手が止まる。
桃花は、切っ先に僅かに残る血を指で掬い取り、文様を撫ぜるよ
うに刀身へ血化粧をした。
﹁これで終了⋮⋮指を見てみるといい﹂
傷がうっすらとも残っていない⋮。
治っている? いや⋮それとも最初から傷付いていないのか?
﹁不老長寿の効能。傷つけた箇所を治癒出来る。両断するも治癒す
るも思いのままじゃ。痛みは癒しの対価だ﹂
714
トウカ
俺の手のティッシュをジャンプして取り、白刃の血を拭う桃花。
﹁痛みの分だけ傷が治ると言う事か? 対価とはそう言うもんだろ
?﹂
俺の言葉に、無言で頷く。
そして付け加える様に能力を補足してくれる。
﹁霊力を籠めずにこの効能。言わんとする事が判るか?﹂
霊力籠めれば、治癒力も倍加する。
美咲さんに治癒の技を教わったが、どうしても会得できなかった
俺には、喉から手が出るほど欲しい能力だ。
トウカ
﹁金気と木気。殺と生⋮相いれない力を持つ桃だから可能な術じゃ﹂
そういい終わると、力なく膝を付きよろめく桃花。
姿も心なしか透けて見える程に、弱ってきている。
﹁授けるのはその能力で精一杯。呪を掘り込むのに相当の力を使っ
トウカ
てしまった﹂
トウカ
桃花の体がより一層透けて見える。力を使い切ったんだ。
カナタが桃花を抱きしめる。
﹁力が必要なら我のを使え。消えるでない!﹂
抱きしめるカナタを優しく撫ぜ、そして優しく突き放す。
そうしている間も実体は失われて続けている。
715
﹁カナタの力は、明日カオルの為に使え。そんなに悲しむな⋮⋮心
がチクリと痛む⋮⋮﹂
ニッコリと⋮辛そうに笑う笑顔を残し実体が、霞んでいく。
そして完全に失われた実体は、桃の花びら一つを残し、霧散して
消えた。
トウカ
力なく膝を付いて嗚咽するカナタ⋮と女性陣。
トウカ
俺はナイフを握り、桃花の姿を心に焼き付けるように涙を流した。
﹁桃花!﹂
トウカ
俺の嗚咽する言葉に、ナイフが反応し光を発する。事もあろうか
桃花が出て来た。
ガラガラ抽選の玉のようにポロりと刀身から零れ落ちるように⋮
だ。
トウカ
全員の目が点になり、静まり返った空気が場を支配した。
﹁桃花?﹂
トウカ
﹁消えてすぐに呼ぶ奴があるか! 空気を読め! 恥ずかしいでは
ないか!﹂
なぜか俺は無茶苦茶怒られた。温厚な桃花に怒られると物凄く悪
トウカ
い事をしたような気がしてしまう。
トウカ
カナタだけは、そんな桃花へジャンプし、タックルを決めるよう
に抱きついた。
﹁うぁーん。良かった。桃花∼﹂
716
トウカ
桃花の胸に顔をうずめ、泣きじゃくるカナタ。
この二人を見ているとまた涙が出そうになる。
けどな?
トウカ
﹁あー、なんだ。説明してくれ⋮理解不能だ﹂
トウカ
ティッシュで鼻をかみながら、桃花へ説明を求める。
他の面々もその意見に賛成のようで、テーブル上の桃花を見つめ
る。
﹁あの剣に掘り込んだ文様は、時空歪曲能力を兼ねていてな。呼ば
れたので仙界から飛んできたと言う訳だ﹂
トウカ
喜んでいいのか悩む展開だ。
護符で呼ばれた寿命が、桃花の本体の寿命じゃない訳だ。
けど⋮正直ホッとした。
﹁花の命は儚いが、花は実を為し、実を糧にして新たな生を産む。
神木の次期後継者じゃぞ?花というのは﹂
カナタを抱きしめ、ニッコリと笑う。
﹁しかし、明日ピンチの時に﹃どらまちっく﹄に出てやろうと思う
ておったのに。台無しじゃ﹂
そして、俺に手を差し伸べ小さい手で、俺の指に握手した。
しっかりと握られた手から、みなぎる様な﹃生﹄のパワーを感じ
る。
﹁それに、カナタが悲しむと私も悲しくなる﹂
717
トウカ
苦笑して、カナタと共に手に乗る桃花。
その苦笑いが、照れ隠しのように思えた。
﹁素直じゃないな。カナタが気に入った、もう少しここに居たいと、
そう言えば良いのに﹂
俺の言葉に、目を見開き驚いたような表情をし、そして眼を細め
て頷いた。
﹁カナタも気に入ったが、カナタがぞっこん惚れ込んでおる、カオ
トウカ
ルにも興味がある﹂
桃花が指で合図を送ると、ナイフが命を持ったように動き出す。
バタフライナイフの様に、空中でクルクルっと回転し、柄が俺を
向き固定される。
﹁本体に戻り本来の力が出せるようになった。これはオマケじゃ﹂
俺にナイフを持てと言わんばかりに、手に擦り寄るナイフ。
ふうひょうか
ナイフの意思に逆らわず、左手でナイフを握りこむ。
﹁風飄花と念じ、舞い散る花を思い浮かべよ。風が飄︽つむじ風︾
を起こし、花を舞い散らせる様を﹂
ふうひょうか
言われた通りに、心で舞い散る花吹雪を思い浮かべる。
﹃風飄花!﹄
心で念じる言葉に即座に反応するナイフ。文様が紅く光り小型の
旋風を舞い起こす。
そして、風の上で舞い踊る花びらが空を舞う。
718
﹁カオルはこう思った筈。綺麗だけど?とな﹂
うぅ。先読みされてしまった⋮、表情に出ていたか?
だって⋮実戦で役に立ちそうにないし、手品の延長みたいだし。
﹁心の目を開いて、舞い散る花を見てみい﹂
その言葉に、俺だけではなく、全員が目を閉じ心の目で花を見つ
める。
﹁おお!すごいやん。これ﹂
﹁うむ、いわゆるチャフって奴か﹂
﹁コクコク﹂
﹁わぁ、なにも見えない⋮﹂
いや⋮⋮見えないのじゃなくて、花の霊気の保有量が凄いんだ。
花びらそのものが霊気の塊で出来ている。そんな感じに思える。
感光したフイルムの様に、白くぼやけて見える程に光り輝いてい
る。
ミノフスキー粒子も真っ青。
﹁カオルの本分は、対人じゃなく退魔戦を主とするのじゃろ?対人
には目眩しにしか使えぬが、魔物がこれを食らうと﹂
この花びら一枚で、霊力を籠めた拳一発分くらいのパワーが籠も
っている。
719
金気を含む桃の花だ。相当のダメージを負わす事が出来そうだ。
テーブルの上に落ちた花びらを指で摘もうとしたが、手応えを感
じず霧散して消えた。
なんと!掃除要らずだ!便利!
トウカ
﹁使い方にコツが色々あるのだが、それは追々。お楽しみじゃ﹂
ニヤリと笑って悪い顔をする桃花
なにか企んでいそうなその笑みに、一抹の不安を覚えるのだが⋮
トウカ
と言うか、あらかじめ教えておけよ大事な事なんだから。
﹁教えろ﹂
﹁嫌じゃ﹂
﹁教えてください⋮桃花様﹂
﹁⋮⋮⋮﹂
トウカ
頭を下げてお願いしてみた。誠心誠意心を込めて。
そして桃花の秘伝の応用技を、色々と伝授してもらう事に成功し
た。
720
﹃退魔士試験11﹄
閉鎖された滑走路、その脇の芝生の上。
受験番号で呼ばれた俺達は、試験官である綾乃さんの前に立ち並
ぶ。
ここがA試験場? ただの滑走路じゃないか。
﹁あなた達六人が今回のA試験受験者⋮⋮﹂
綾乃さんは左手に持つファイルを見、そして俺達の顔見つめた。
眉を顰め、憐みの目を向けこう言い放った。
﹁私の予想だと全員不合格カナ。顔が強そうじゃないモン﹂
顔?試験は顔が重要なのか?
てことはナニか?スティーブン・セガールの顔した素人連れてき
たら合格なのかよ?
女子はアンジェリーナ・ジョリー顔か?
心の中のツッコミが加速して行き、独り言に変化する。
ブツブツと独り言を言う俺が目障りだったのか、左手のファイル
をつき出し、俺の鼻先に向ける。
﹁三室薫! ウルサイ! キミ不合格!﹂
いきなり不合格認定を戴いた。即座に反論の言葉が出る。
﹁試験もせず不合格とは横暴過ぎやしないか?﹂
俺の言葉の言質を取るように、一言一句メモを取る綾乃さん。
721
書き終わると同時に、言い放つ。
﹁試験官に生意気な態度、協調性、集団行動に問題あり⋮⋮ マイ
ナス二ポイントと⋮⋮、これでいい?﹂
サラサラっと書き込んだファイルには、大きく赤字で−2と記述
されていた。
﹁ランクAってのはね? 強ければなれるってモノじゃないのよ。
強いだけじゃ組織は無茶苦茶になるじゃない?﹂
そう言う自分はどうなのか?問い詰めてみたい気がするけど。
﹁まあいいわ。今回の受験者は不作だからオナサケで実技試験させ
たげる﹂
あくまでも上からの目線。知人でも少々ムカついてきた。
ファイルを芝生に放り投げ拳を固める試験官。
﹁全員まとめて掛かってきなさい。行動不能になれば不合格。私に
一発入れれば合格﹂
受験生達の動揺とざわめき。
この無茶苦茶な試験官の言うとおり、試験を続行していいのか不
安に思っているのだろう。
しかし試験官の闘気が本気さ加減を証明している。
﹁こないの? こないなら⋮⋮こっちから行くよ﹂
手に収束される凶悪なエネルギー。
722
その圧倒的な力に、思わず霊気を放出し先制攻撃に出る受験者達。
放出された遠距離支援型の面々の、4束の霊気の攻撃。
食らえば、木っ端微塵間違いなしのエネルギーだ。
だが綾乃さんは微動だにせず、余裕の笑み。
どこから出たのか、黒いマントをひるがえす。
﹁バスタ︱︱︱︱シールド﹂
縮退物質でできたマントは、霊気の集中砲火を偏向しはじきかえ
した。
はじかれた霊気は、衰えぬパワーのまま管制塔に命中する。
﹁次は私のターンだね? バ・ス・タ・ァ︱︱︱︱︱︱ビィィム!﹂
突き出された拳から、マイナス一億℃の冷凍光線が発射された。
圧倒的な破壊力が俺達6人の受験者を横薙ぎに破壊し、射線上の
建造物を粉砕していく。
消え行く命が尽きる前に、その弾幕美だけが目に映った⋮⋮。
﹁一撃かよ⋮⋮﹂
俺の断末魔は、非常に情けない一言だった。
﹃はうっ!﹄
自分の脊髄反射で目が覚め、寝汗でジットリとしたシーツを避け
るように寝返りを打つ。
723
とても清清しくない朝⋮⋮。
なんだか嫌な夢を見たような気がする。
きっと寝る時見ていたアニメチャンネルが影響している。
白む朝焼けの眩しさ、のどかな鳥の鳴き声、そして女性陣の寝息
だけが聞こえる部屋。
立ち込める甘酸っぱい空気⋮、女性の寝息が甘いなんて嘘だ。す
っげー酒臭い。
ある意味﹃甘い﹄のかも知れないが、それはちょっと違うだろ。
布団にきちんと入って就寝しているのは、何ものにも流されない
美咲さんと、その隣で眠る乃江さん位か。
西の横綱山科さん、東の横綱宮之阪は布団を蹴倒して、きちんと
寝ている真琴を抱きかかえるように寝ている。
そして、東西のバッカスに挟まれた真琴は、とても嫌そうな寝顔
をしてる。
多分⋮きっと今頃は、とても素敵な夢を見ているに違いない。
真琴よ⋮⋮努力と根性で乗り切るのだ。
﹁えと、晩飯⋮食ったっけ?﹂
宴会の度に記憶を失うのは何でだろう?
失われつつある記憶を走査し、昨日の宴会を思い出してみた。
呑めば呑むほど強くなる酔拳の達人山科さん。
宮之阪さんはお刺身を網焼きで焼き、水飲み鳥の様に呑む。
真琴は、上機嫌になれば呑むスピードが加速する事が判った。
美咲さんも乃江さんも呑むけど東西の横綱ほどではないが、よく
食いよく呑む。
俺はと言えば、気が付くと撃沈してるんだよな。謎だ⋮。
もしかして、俺弱いのか? いやいや流されやすいのか?
こんな事では、サラリーマンになって接待とか出来ない。やりた
くないけど。
724
﹁体調最悪﹂
気だるい体と、軽い頭痛、カラッカラの喉と若干の扁桃腺の腫れ。
試験大丈夫か?と悩む位の、最低の体調だ。
﹁いかんな、こりゃ。風呂入って復活せねば﹂
とは言ったものの、このホテルって24時間風呂だっけ。
テーブルの施設案内とか見れば一目瞭然なんだけど、ゴソゴソと
動いて誰か起こしてしまうのもな。
オイオイ重要な事を忘れていませんかカオルさん。
ここの部屋には﹃部屋風呂﹄が付いてるじゃありませんか。
﹁朝風呂ってもの、オツなもんだなし﹂
枕元に置いておいた鞄からタオルセットを掴み、抜き足、差し足、
忍び足で、部屋の外へと移動する。
よっこらしょ⋮と、テラスへと脱出を試みた。
湿気の多い朝の空気が美味い。
そして、その美味い空気とみどりの風景を見ながらの風呂。
沸きたての温泉が流れ込み、湯気が立ち上るお風呂⋮⋮贅沢すぎ
る。
誰も見ていないのをこれ幸いに、勢いのまま服を脱ぎ散らかす。
﹁どぼ∼ん♪﹂
本当は、音を立てないようにチャポンとはいったのだが、雰囲気
はドボ∼ンだ。
チリチリと皮膚を刺激するお湯の温度といい、外気の心地よさと
725
いい、長湯には持って来いの環境だな。
﹁ふぁぁ、極楽極楽﹂
毛穴がジンワリ開いて、体の毒を出してくれる。
俺って撃沈しやすいけど、復活も早いんだよね。
そして温もって来るとウトウトと、睡魔が頭をもたげて来る。
寝ちゃ駄目⋮⋮寝ちゃ駄目だ⋮⋮チョッとだけなら⋮⋮クカ∼。
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮るん﹂
﹁⋮カオるん 起きて﹂
遠慮がちに声を掛ける⋮美咲さん?
振り返ると部屋への入り口の所で、心配そうに立ちこちらを見て
いる美咲さんが居た。
﹁おはよ∼美咲さん﹂
寝ぼけマナコで、美咲さんにご挨拶。
手を振ろうと湯から出した手が、ふやけて真っ白になっている。
﹁うぉ! 指がしわしわになっている!﹂
しまった!何時間湯に漬かってるんだ?
﹁湯に顔が漬かりそうでしたよ?、ビックリしました﹂
726
こちらを見ないように背を向けて、美咲さんが後ろへ向き直る。
あ⋮⋮そういや俺、ハダカだったんだよな。
足元に散らばっていた服が、チキンと一纏めにして畳んで置いて
ある⋮⋮恥ずかし∼。
﹁あはは⋮気持ちよすぎて、寝ちゃってたみたいです﹂
その言葉を聞いて安心したのか、部屋へと戻ろうとする美咲さん。
バルコニーと部屋を繋ぐ扉へ手を掛けた所で声を上げた。
﹁カオるん、がんばってね﹂
言い馴れない本音なのか、顔を真っ赤にしてそそくさと部屋へと
戻る。
くっそ∼カワイイよ美咲さん。
そして元気出てきた∼!。単純だな俺って奴は。
うぉっと、美咲さんの言葉を反芻して幸せになっている場合じゃ
ない。
長湯は体に毒だし、風呂から出なくては。
バスタオルで体を拭い、そそくさと服を着て部屋へと戻った。
部屋では布団が畳まれて、テーブルを取り囲んで全員が起きてお
茶を飲んでいた。
﹁カオルも座り﹂
山科さんが真琴の横を指差す。そこへ座れって事か?
テーブルを回り込み真琴の横へと座る。
﹁これからな。個別に直前アドバイスをしようと思ぉとります。ま
ず魔法組!﹂
727
魔法組?山科さんと宮之阪さんの事か?
真琴の手を握り、山科さんが真琴の目を見て一言二言と自信が付
く言葉を掛けていく。
例えて言うなら試合前のボクサーが、セコンドに﹃お前は強い﹄
って声を掛けるアレのようなものか。
俺の前に座る宮之阪さんが、見よう見まねで俺の手を握る。
﹁⋮⋮⋮﹂
さくらんぼのような口元が開き、臆して口を閉じる。
言葉には出ないが、手を握る力の強弱で、何かを伝えたい事だけ
は判る。
宮之阪さんの目を見て、意思を通わせる努力を試みる。
﹁あ⋮⋮⋮あの⋮⋮﹂
意を決した宮之阪さんが口を開き、俺の目を見つめる。
﹁⋮⋮⋮ぽっ﹂
そして何も言えず、赤面して俯いてしまった。
その様子を見て、山科さんが何処からともなくハリセンを取り出
し、快音とともに宮之阪さんの頭を叩く。
ハリセンの出所はやっぱりアレか。魔法組?
﹁なにムードたっぷりな雰囲気出しとねん。羨ましいやん!交代交
代や﹂
今度は山科さんが俺の前に座り俺の手を取る、宮之阪さんが真琴
728
の前に座り手を握る。
トウカ
そして俺の目を見て、俺も山科さんの目を見た。
こうしてみると、桃花の仙気に中てられた時を思い出すな。
あの時の山科さんは可愛かった。
俺の心の中の気持ちが、手を伝わったのか山科さんが目をパチク
リとする。
﹁あ⋮あのな? カオル⋮⋮﹂
山科さんもあの時の事を思い出したのか、見る見るうちに顔が真
っ赤になっていく。
そしてそれを見た宮之阪さんが、何処からともなくハリセンを取
り出し、快音とともに山科さんの頭を叩く。
さすが魔法組。ハリセンのタイミングもピッタリだ。
﹁痛ぁ∼﹂
音だけ派手で、さほど痛くないハリセンを痛がる関西人。
関西人はハリセンで叩かれると、大袈裟に痛がると言う都市伝説
は本当だった。
メガネまで少しズラしている芸の細かさだ。
﹁エールじゃなくて漫才?﹂
﹁ちゃうわ!﹂
即座に返答する、阿吽の呼吸が練りに練られた漫才に見えるのだ。
しかし、がんばって欲しいという二人の気持ちは伝わってきた。
﹁次!鉄腕組﹂
729
鉄腕って⋮⋮乃江さんは鉄腕かもしれないけど、美咲さんは鉄脚
でしょうに。
まあ雰囲気は判るから鉄腕でもいいけど。
そして、美咲さんが真琴の前に座り、優しく手を握る。
乃江さんが俺の前に座り⋮⋮、手を握らないの?
﹁乃江さん? 手は?﹂
ちょっと期待した乃江さんの手。肩透かしを食らって手持ち無沙
汰だ。
乃江さんは、ちょっと怒ったような表情をして、自分の前で手を
隠すように手で押さえる。
﹁私の手だぞ? 握って欲しいのか?﹂
恥ずかしそうな上目使いの乃江さん。
むしろ乃江さんの手だから握って欲しいのだが。
とりあえず俺は、肯定の意味で無言で頷く。
震える手が俺の手に伸びる。そしてそっと手を掴んだ。
﹃ボキ﹄
まず音が俺に伝わり、その直後に激痛が走った。
全身に冷や汗が流れ、頭にお花畑の映像が浮かんだ。
﹁わ⋮悪い。緊張して力加減が⋮⋮﹂
オロオロとして、どうして良いのか判らなくなる乃江さん。
咄嗟に掴んだ桃花のナイフを俺に差し出す。
730
﹁はい﹂
はいっじゃないだろ。霊気で治して。痛いのイヤ。
冷静さを失った乃江さんは貴重だが、その状態の乃江さんは危険
だと思い知らされた。
﹁鉄腕組! 交代の時間や!﹂
山科さんの掛け声と共に、乃江さんと美咲さんが交代する。
残されたのは、指があらぬ方向に曲がった俺の手。
美咲さんは負傷した手に優しく包むように手を添えた。
光る手から放出される癒しのパワーが、手の痛みを和らげてくれ
ている。
﹁かおルン⋮⋮言霊を授けましょうか? 必ず勝てるように﹂
意味深な言葉と、美咲さんの笑み。善とも悪とも取れる不思議な
表情だ。
そして微妙に口元を動かし、俺だけに伝わるメッセージを呟く。
﹁シ・ケ・ン・ガ・ン・バ・ッ・テ﹂
口元をキュっと結び。キスする素振り。そして満面の笑みを浮か
べた。
言霊⋮⋮すげえ言霊。
俺は必ず勝つ!そんな気がしてきた∼∼∼。
ついでに曲がった指が元通りに戻っていた。
﹁さあ、朝ごはん食べて元気つけて、チェックアウトしましょう﹂
731
ニッコリと笑う美咲さんの手が、俺の手から離れていく。
名残惜しい気持ちが手に残り、言霊のパワーが俺を前に向かせた。
﹁よっしゃ! 食ってパワーつけるかぁ﹂
無言の宮之阪さんも、漫才の山科さんも、骨折の乃江も、そして
言霊の美咲さんも。
俺にパワーをあげたいという気持ちは伝わってきた。
この面々に応援されて、力にならない訳がない。
おおっと!忘れる所だった。
﹁真琴!﹂
俺は真琴に向け手を広げた。
キョトンとした真琴だが、手の意味に気が付いたようで、テンポ
良く俺の手を叩いた。
そして真琴の広げる手を叩き返す。
﹁がんばろう! 最後まで諦めない! 必勝!﹂
ありきたりの言葉を三つ繋げて、真琴の手を握りこむ。
握り返される力の強さを感じて、真琴の意気込みを感じ、俺の握
りで真琴を元気付ける。
相乗効果が面白く、何時までも手を握っていた。
﹁何時まで握ってるんや、ご飯行くで∼﹂
振り返るり催促する山科さんの声で我に返り、恥ずかしくなって
手を離した。
732
﹁がんばろう。カオルせんせ﹂
俯いた真琴がもう一度手を握り、部屋の外へと連れ出した。
733
﹃退魔士試験12﹄
﹁アメリカ人がいつもガムを噛んでいるってのは、本当だったんで
すね﹂
ハリウッド映画の誇張かと思っていたが、実際に見ると感動を覚
える。
ガム会社は儲かるだろうな⋮、日本じゃありえないもの。
基地への入り口に当たる場所、守衛の黒人が立ち塞がり仁王立ち
している。
汗ばんでテカテカと黒光りした兵士だ。
なにやらクチャクチャと口を動かしながらも、一言二言とこちら
に何か言っている様だ。
﹁身分証明を見せろと言っているようですよ﹂
真琴が鞄の中からパスポートを取り出し、その兵士に見せている。
兵士は気だるい動作で、事前入所チェックシートと照らし合わせ
ているようだ。
そして邪魔臭そうな態度で手招いて基地内を指差す。
﹁じゃ、俺も﹂
案内の手紙に身分証必須って記載されていたのはこの事か。
大慌てで身分証を探したよ。パスポート取得しておいて良かった。
免許まだ取れて無いからな⋮。
そして俺も無事通過できた。
問題は応援団の4人だよな。受験者じゃないから、事前申請して
ない様に思うのだが⋮⋮。
734
﹁ヘイ! そこのジャバニーズビューティ達、さっさと身分証を見
せな!って言ってます﹂
真琴の英語読解力と意訳は面白いな。
宮之阪さんとの勉強で英語力が上がったのか、元々の素養なのか。
戸田奈津子並に噛み砕く様が面白い。
鞄の中の身分証明を探っていた乃江さんの背後を回り、おもむろ
に尻と腰に手を当てた。
﹁!﹂
兵士の手から飛びのき逃げた乃江さんから、短く小さい悲鳴を上
げさせる。
ああ⋮⋮あの兵士⋮⋮死んだな。
﹁HAHA。ボディチェック済ましちまうぞ⋮⋮クチャクチャだそ
うです﹂
真琴が神に祈るように、十字を切った。
怒りの表情を浮かべた乃江さんが、ポケットから十円玉を取り出
し、指で二つ折りにして守衛に手渡す。
そしてなにやら英語で恫喝している。
﹁連絡を取って、お偉いさんをここへ呼んで来い。電話代だ。⋮⋮
って言ってますね﹂
すげえ上から目線。夢の中の綾乃さんも真っ青だな。
そもそも自分の身分を明かさないあたり、喧嘩上等の匂いがする。
宮之阪さんも守衛に近づき、流暢な英語で守衛に話しかけている
735
ようだ。
﹁ついでに迎えの車を呼ぶのよ。のろまの役立たず。⋮⋮だそうで
す﹂
この人達を怒らせるなんて⋮⋮怖いよ。
しばらくして、車ではなく物々しい兵士達が駆けつけ姿が目に映
った。
どうにも言葉が通用していないような気がするのだが。
山科さんはゆっくりメガネを指で直し、ニタリと悪魔の笑みを浮
かべた。
小火器を携えた兵士に手を向け、ゆっくりと握りこむ。
その途端、兵士達の歩みが止まり、地に這いつくばるように押さ
えつけられた。
アスファルトの路面が陥没し、呻き声と英語の放送禁止用語だけ
がこだまする。
久しぶりに見たグラビティのパワー。相変わらずおっかない能力
だよな。
美咲さんがニコニコと守衛に近づき話しかけている。
﹁言われた事を一つも出来ないお馬鹿さん。母国で貴方の訃報を悲
しんでくれる人は居ないのかしら⋮⋮って言いました﹂
翻訳している真琴が泣いている。
どうにも真琴は、ダーク美咲さんが怖くて仕方がないらしい。
ニコニコ笑って殺意のオーラを帯びた美咲さんは確かに怖い。
恐竜の化石の横にタバコの箱を置くような、善と悪の対比が怖い
のだ。
映像だけ見ると日本少女が兵士と話す、微笑ましい風景に見える
んだけどな。
736
兵士の震える手でまさぐるホルスターから素早く抜かれたオート
マチックの拳銃。
そしてそれを美咲さんに向け、言葉にならない言葉で罵り、叫ん
でいる。
﹁てめえ、この︵ピー︶。︵ピー︶。︵ピー︶﹂
放送禁止の言葉を伏せ、冷静に翻訳する真琴。
しょうばいおんな
ピーピー言わなくても俺にも判る。
﹃てめえこの便所豚。だまって俺のをケツを舐めやがれ、辱め強姦
してやる!﹄だよな。
こういう言葉をスラスラ言えるお国の人って凄いよな。ある意味
感心してしまう。
ただし、それをこの面子に言ってしまう浅はかさには恐れ入る。
怖い物知らずというか、特に美咲さんに言うなんて、真琴じゃな
いけど涙目になってしまう。
ただ美咲さんの発火点に達する前に、まわりのみんながボコッて
しまうのだけど。
圧壊していく守衛の建物の軋み音、焼けたアスファルトに立ち込
める冷気。そして兵士の意味不明な叫びが響き渡った。
﹁仕方ない。綾乃姉さんに連絡を取って、お願いしてみようか﹂
冷気をぶつけられ、霜が降りて白くなった兵士が転がる足元を、
汚物を避けるように気を使う乃江さん。
手馴れた手付きで携帯を操作し電話を掛ける。
﹁あ! お姉ちゃん♪ うん 乃江♪﹂
うはっ⋮⋮声のトーンがあからさまに違う。むっちゃかわいい妹
737
を演じているぞ。
乃江さんから﹃お姉ちゃん♪﹄なんて台詞が聞けるとは思っても
見なかった。
キャピ♪な感じ。眼福眼福。
﹁うんうん、待ってるね♪﹂
北島マヤも真っ青のガラスの仮面。その演じっぷりにアニメチャ
ンネルから引用させてもらおう。﹃マヤ⋮怖い子だわ⋮⋮﹄
﹁車で迎えに来てくれるそうだ﹂
そして普通の乃江さんとのギャップに全員が苦笑している。
照れくさそうに携帯を鞄になおす乃江さん。
﹁この惨状を見て、引いちゃいませんかね﹂
6名の失神する兵士と陥没した道路、半壊した守衛の建物と氷付
けの門番。
普通に考えると国際問題に発展する勢いなのだが。
﹁身分証見せろと言いつつ、やらしい目でノエの乳見とったからな
∼。体に触って来るんちゃうかな? と思ったわ﹂
そう言いながら、背後から手を伸ばし、乃江さんの胸を庇うよう
に抱きしめる山科さん。
この乳はワシのモンだと言わんばかりのセクハラっぷりだ。
﹁こんな貧相なお胸に欲情するやなんて、アメリカ人の幼女趣味は
加速しとるな﹂
738
抱きしめられて満更でもなかった乃江さんも、﹃貧相﹄の一言に
堪りかねポカリと山科さんの頭を叩く。
そして、確かめるようにそっと手を当て、なにやら考え込んでし
まった。
いや⋮⋮、そんなに深刻に考えなくても良いと思うのだけれど。
特に乃江さんは、お姉さんがアレだから将来有望と言うか、成長
の可能性は凄くあると思う。
そのやり取りを見て、黙りかねた宮之阪さんが、山科さんの胸を
見つめボソリと呟いた。
﹁ユカ⋮⋮人の事言えない。貧相﹂
﹁誰が貧乳関西人やねん!﹂
宮之阪さんの胸と自分の胸を触り比べて、ガックリと膝を折る山
科さん。
ちょっと自慢げに勝ち誇る宮之阪さん。
そんなどんぐりの背比べをしている間に、迎えの車が到着した。
﹁お姉ちゃん♪﹂
車から降りた綾乃さんに駆け寄る乃江さん。
綾乃さんも乃江さんを手を取り、久しぶりの再会に花を咲かせて
いる。
それを見ていた美咲さんが、コッソリと俺に耳打ちしてくれた。
﹁ノエはすごいお姉ちゃん子で、綾乃さんに憧れてるの。だから綾
乃さんの前だと、ああなってしまうのね﹂
739
ニッコリ笑って乃江さんを見つめる美咲さん。
普段の乃江さんも、綾乃さんの前の乃江さんも、どちらも本当の
乃江さんと言う事か。
﹁さ、みんな乗って﹂
Yナンバーのダッジバンのスライドドアを開けて手招く綾乃さん。
流石に百戦錬磨の彼女から見たら、這いつくばる兵士や半壊した
建物など、日常のありふれた風景なのだろうか。
基地を縦横無尽に走る事数分、あの門から数キロほど走った所で
ダッジバンが停車した。
﹁到着したわ。ここよ﹂
基地は川の三角州に位置し、さらに海へ海へと走らせた所。地図
にも載っていない埋立地の飛行場予定地。
そして会場となるのは、巨大な格納庫だった。
炎天下にさらされ、さらに海からの湿気を含んだ風が吹き付ける。
最悪の環境だった。
﹁暑っちぃ⋮⋮﹂
最強の僻地じゃねぇか。なんも無い⋮。
強い日差しを嫌う女性陣は、そそくさと格納庫へと退避した。
シミ、ソバカスの素だからな。紫外線は女性の敵だ。
﹁わざわざここまで来て試験しなくても良いじゃないかと思うんで
すが⋮﹂
俺の疑問に苦笑して答えてくれる綾乃さん。
740
同様の気持ちを多少なりとも抱いているのだろうか。
﹁私達みたいな近接型には、場所の縛りはあまり無いけど、遠距離
広範囲型だとこれくらいの敷地が無いと駄目なのね﹂
確かに⋮⋮前衛のガチバトルなら、広場のスペースがあれば十分
だ。
けれど山科さん、宮之阪さんクラスが本気になると、﹃災害﹄と
言えるほどの威力を発揮出来るからな。
﹁Fから順に試験が執り行われるの。A試験はまだまだ先だから一
眠りしてても大丈夫よ。私は試験官兼審査員でベッタリだけど﹂
そう言って振り向かずに手を振り、こちらへ挨拶し試験会場に向
かう。
運動会のプログラムのようなものでもくれれば楽しめるんだが。
真琴のB試験までする事ねぇな。
鍵も付けっぱなしのようだし、ダッジバンの中でエアコン効かせ
て寝るか?
暇を持て余している所に、格好の暇つぶしが現れた。
剣道袴に木刀を携えた静音。キョロキョロと不審な様子で、格納
庫の裏へと忍んで行った。
基地内の格納庫前、剣道コスチュームで違和感無いのはあの姉妹
だけだ。ある意味凄い事だよな。
﹁あいつ、コソコソと。オシッコでもしに行くのか?﹂
んな野外プレイが好きなタイプには見えない。
だから余計に気になったりするのだが⋮⋮。
俺は静音の後を追い格納庫の角から頭だけだして、様子を探る。
741
ハリコミか尾行している刑事のようだ。
格納庫裏のブロックに腰掛け、袴の裾をまくり上げ膝を擦るよう
にいたわっている静音が見えた。
良く見ると、膝に包帯が巻かれている様に見える。
同じ受験者に見せられない弱みって奴か?、バレたら狙い撃ちさ
れるもんな。
﹁怪我してんのか? 静音﹂
俺の声に﹃ビクン!﹄と身を固め、素早く袴を直し何事もない素
振りをする静音。
﹁妹にも内緒で、コソコソしてんのかよ?﹂
後ろを振り返る不安そうな顔が、俺と認知した瞬間にホッとした
表情に一変する。
﹁カオルさん﹂
あからさまに敵意を剥き出しにした綾音とは違い、姉の静音は大
人しい。
だが、俺を見る静音の目には、大人しいというだけは無い落胆と
失望の眼差しがあった。
よっぽど怪我が酷いと見える。
﹁怪我酷いのか?﹂
俺の声にコクンと頷き、悔し涙を浮かべる静音。
そっと袴を捲り上げ、血で滲んだ包帯を見せる。
742
﹁二週間前に、魔物との戦いで不覚を取りました。日に日に傷が酷
くなって⋮⋮﹂
油断したか。魔物の傷には負の要素を体に刻み、成長や自己治癒
を阻害する。
一見かすり傷の様に見えて、放置していると患部が壊死したりす
るのだそうだ。
﹁俺の仲間に治癒が出来る人が居るが、治してもらうか?﹂
静音は少し考えて、首を横に振った。
﹁自業自得だもん。駄目だったら棄権します﹂
諦めの表情で、首を振り袴の裾を直した。
好意を真摯に受け止められないのか?。妹の綾音も問題児だが、
姉の静音も妹以上に問題児だ。
自業自得って、諦め早すぎるだろう?
﹁受験するランクは?﹂
怪我して受かるなら、思い通りやらせれば良い。
けれど無理を押して試験を受けさせるのも、棄権させるのも、知
ってしまった今ではどちらも判断付けにくい。
﹁今度Cを受けます﹂
聞けば、妹の綾音と違い静音は、魔物を退治し申請したEランク
だったらしい。
腕試しという意味で試験を受けに来たらしい。
743
生意気なのは妹の綾音だ。無印の癖にいきなり姉と同じCを受け
るそうだ。
アイツには一度社会の厳しさを教えてやりたい気がする。
﹁腕試しなら⋮尚更怪我していたら意味無いだろ?﹂
その言葉に無言で俯く静音。おっとりと大人しいイメージだった
が、結構頑固者だな。
性格は違えど、姉妹揃って我が強いというか⋮⋮、あの親父も大
変だよな。
こうしていても仕方が無い。荒療治⋮やってみるか。
﹁痛みを伴う治療なら出来ないことは無い。失神してオシッコ漏ら
すかも知れんがな﹂
そして腰に挿した桃花のナイフを抜く。
﹁そ⋮⋮それで斬るんですか?﹂
恐る恐る俺に尋ねる静音に首を振る。いやブッスリと刺すんだよ。
﹁自業自得なんだろ? 治療には痛みの対価が伴う。お前にピッタ
リの治療法じゃないか?﹂
俺の挑発する台詞に眉を吊り上げ、やれるものならやって見ろと
言わんばかりに、袴の裾を引き上げた。
ああ、やっぱりこいつは綾音の姉だ。気が強いったらありゃしな
い。
剥き出しになった膝の包帯が、先ほどより血が滲んで見える。
この二週間、ずっと血が止まらなかったのか?
744
俺は患部を見るために、包帯を解いた。
獣の噛み傷、青を通り越して黒く壊死し、一部は腐っている。
傷を見られたくない⋮と言う事かなのか?
﹁こりゃあ、相当﹃痛い﹄ぞ﹂
俺はリュックから新品のタオルを手渡す。
﹁口に入れてろ。うるさいのも歯がボロボロになるのも見たくない﹂
口にタオルを噛み、身を硬くする静音を確認すると、二度と顔を
見ないように意を決する。
そして、無言でナイフを患部に突き立て、痛みを伴うように捻り
を加えた。
﹁!!!!!﹂
タオル越しに聞こえる静音の絶叫を確認し、霊気をナイフに籠め
る。
﹁ぐっ!!!!﹂
どうやら俺の霊気には、癒しのセンスは皆無らしい。
傷に塩を塗るような気分なのだろうか。
俺は、よりよい対価を得るために、ナイフを付きたて霊気を籠め
続けた。
そして引き抜かれたナイフの傷は、見る見るうちに治癒し、腐っ
た患部に新たな肉を構築していく。
俺は、血で染まったナイフを包帯で拭い、血に染まった包帯を投
げ捨てた。
745
ぐったりと力なく壁にもたれ掛った静音は、額に汗を浮かべゆっ
くりと目を開けた。
﹁私が霊気を籠めて治癒しても治らなかったのに⋮﹂
ピンク色の新しい皮膚を撫で、涙を浮かべた。
あのまま放置していたら、膝から腐って落ちていたかもしれない。
安堵の気持ちと、自分の治癒力の不甲斐なさを感じているのだろ
うか?
﹁この治癒は霊気治癒と違う特殊な技なんだ。神様の力を借りてる
から奇跡と呼べる。自分の能力と比べる意味がない﹂
落胆する静音を元気付ける意味で言ったのではないと信じたい。
けれど、落ち込んでいる女の子が居たら、優しい声を掛けてやる
のが男ってもんだろ?
その言葉の真意を考え、驚いたような顔でこちらを見つめる。
﹁あの⋮⋮ありがとう⋮⋮﹂
治ったのならここに長居する理由も無い。妹に発見されないうち
に退散するか。
﹁礼は要らん。この技を人間に試したのは、静音が最初だ。実験も
兼ねている﹂
俺の本心と違う言葉が口から出る。
それは酷い﹂
有り難がられるのも、感謝されるのも慣れていなくて照れくさい。
﹁まぁ!
746
クスクスと笑って俺の本音を見透かすように笑う静音。
その笑みを見て居心地が悪くなり、背を向けて試験会場へ向かう。
﹁腕試し⋮ちゃんと見させて貰うからな。がんばれよ﹂
俺の精一杯の励ましの言葉。まだ痛みの覚めやらぬ静音を残し、
背を向けたまま歩き出した。
747
﹃退魔士試験13﹄
格納庫へ入って見ると、体育館が四つ丸まま入りそうな広さだ。
大型爆撃機のハンガーなのか?
そして予想していたよりヒンヤリした空気に包まれている。
航空機の格納庫なんて、鉄板で覆われた灼熱地獄。油まみれの整
備士達がランニングシャツで茹だっているイメージなのだが。
それがエアコンを効かせた室内のよう、日陰に居るだけでこんな
に違うものか?
大口を開けた格納庫に、エアコン効かせるなんて、省エネとかま
るで無視だよな。流石米国
﹁あ、カオルくん。寝るんじゃなかった?﹂
ニコニコと上機嫌な綾乃さんが俺に話しかけてくる。
先ほどのラフな私服と違い、リクルートスーツなOLさんみたい
な格好だ。
黒のローファに、素足かと見間違えるパンスト、膝上のスカート
に色を合わせたスーツ姿で、右手にファイルを携えていて格好良い
やらカワイイやら。
﹁こら! ジロジロ見ない! 着慣れてなくて恥ずかしいんだから﹂
俺の視線を避けるようによじるポーズが、男心を判っていると言
うか、天然なのか量りかねる。
﹁どうしたんですか? 上機嫌っすね?﹂
ニコニコ顔を崩さない綾乃さんを見て問いかけた。
748
試験官兼審査員って大変だろうに⋮⋮。
﹁貴方の仲間の活躍で、格納庫が快適になったのよ。さっきまでの
灼熱地獄が嘘のようだわ﹂
綾乃さんの見上げる二階部分。観戦用の席に座る仲間達が居た。
宮之阪さんの足元から冷気が立ち込め、山科さんの横に居るグラ
ビティが団扇で風を送っている。
二人合作のブリザードが格納庫内に吹き荒れている。
隣に居る真琴の唇が紫色に見えるのは目の錯覚か?
どんよりとした目があらぬ方向を向いているように見えるし、頭
に霜が降りているように真っ白だ。
真琴! 寝ちゃ駄目だぞ?
﹁エアコン?﹂
上機嫌な綾乃さんに向き直り、疑問を口にする。
﹁ええ、便利よね。電気代不要なんですもの。一家に一台欲しいわ
ね﹂
その意見は却下したい。
俺は電気代が掛かっても、ちゃんと温度調節出来るエアコンが良
い。
﹁仲間が一人凍死しそうになってるので助けて来ます﹂
踵を返し二階への階段を探す。
その背中に向かい、綾乃さんがボソリと呟く。
749
﹁A試験、私に立ち向かおうって気概のある奴はカオルくんだけみ
たい。他に二人居たけど棄権申告してきたわ﹂
ニヤリと笑って俺に語りかける。
俺はそのしたり顔に軽く会釈し挨拶した。
﹁俺は昨日より進化しています。綾乃さんは進化してますか?﹂
俺の意味不明な台詞に、きょとんとした顔をする綾乃さん。
そして、口元をキュッと結び鋭い目つきで俺を睨む。どうやら宣
戦布告と受け止めてくれたようだ。
鉄の螺旋階段を駆け上がり、二階へと駆け上がった。
﹁うひゃ∼、怖い、怖い﹂
綾乃さんの射抜くような眼差しを思い出し、身震いがしてきた。
退路を断っちまったかな⋮⋮。
まあどちらにしろ本気で掛からないといけない相手、退路なんて
無い方がわかりやすい。
今から気負っても試験はまだ先だ。気にするだけ無駄ってもんだ。
俺はエアコン席に走り、目が逝っちゃってる真琴を抱きかかえツ
ンドラ気候から逃げた。
どうやら宮之阪さん。暑さのあまり無意識に冷気を発しているよ
うで、険しい顔で眼下を睨み、会場で試合が始まるのを今か今かと
待ち構えている。
エアコンとして活躍しているようだし、今は真琴の自然解凍が先
だな。
階段を降り直射日光が照りつける屋外へと脱出した。
﹁あ∼、八甲田山⋮⋮くちっ﹂
750
ようやく真琴の視点が定まり、意味不明な言葉を吐いてクシャミ
をする。
﹁真琴! 試合前に体を冷やしてどうする? 体調管理が出来てな
いぞ?﹂
体が冷えると、筋肉が熱を発しようと伸縮する。
筋肉に蓄えられたエネルギーが消耗するだけでなく、縮んだ筋肉
は切れやすくなるのだ。
﹁あう∼。 気が付くとウトウト寝ちゃってたんですよ。
それは眠りじゃなくて昏睡状態だ。遭難した雪山で気を失うよう
な危ない状況なんだぞ?
解凍出来た真琴を抱き下ろし地面に立たせる。
﹁あ∼。先生の体あったかくて気持ちよかったのに∼﹂
もいちど抱っこのポーズをしてせがむ真琴。
甘えるな。それに誰か近づいて来たから無理だって。
くつき たかし
俺の視線の方向を見て、第三者の存在を知覚した真琴。
﹁朽木貴⋮⋮﹂
真琴の呟いた名前を聞き、アイツが真琴の対戦者だと理解した。
身長180オーバー、カジュアルなスーツに身を固めているが、
中で躍動する筋肉を隠せていない。
サングラスに金のブレスレット。そして手にはタバコを燻らせて
いる。
751
インテリヤクザにも、体育会系の社会人にも見えるが、漂う雰囲
気は前者に近い。
一歩一歩とゆっくり近づき俺と真琴の側に立つ朽木。
重く口を開いて一言だけ呟いた。
﹁オアツイですなぁ⋮⋮﹂
言葉を吐き終わると、そのまま海の方向へ向かいタバコを吹かす。
強さとはまた違った脅威を感じ、どっと汗が吹き出る。いわゆる
嫌な汗って奴だ。
﹁なに? あの危険人物﹂
俺の言葉に、顔を近づけコッソリと真相を告げる真琴。
﹁ロリコン親父、真琴に色目を使った人﹂
筋肉質なロリコンか⋮。怖ええ。
無意識のうちに朽木と真琴を横に並べて苦笑する。絶対警察に止
められるよな⋮誘拐犯にしか見えない。
﹁あう∼嫌な気分を払拭したい!⋮⋮だから先生抱っこ!﹂
抱っこ抱っこ言うな。恥ずかしいだろうが。
﹁今でないと駄目か?﹂
﹁むしろ今じゃないと駄目!﹂
ほっぺたを膨らまし不満を表情で表わす真琴。渋々しゃがみ背と
752
膝の後ろを持ってお姫様抱っこを試みる。
真琴の手が俺の首に回り、完全なお姫様抱っこの完成だ。
﹁先生∼このまま格納庫の周りを一周しない?﹂
﹁するか!﹂
俺の怒声に肩をすくめ、そして息を呑み、不安そうな眼差しで俺
に問いかける。
﹁先生は美咲の事好きなの?﹂
な? なに?
突然の会話の展開に足が止まる。どうして美咲さん?、なぜ今美
咲さんなのだ?
﹁だって先生。美咲の応援を一番喜んでいたモン﹂
ああ、あの時か。あれは仕方ないだろ?
﹁だって、ハリセン2発のあと骨折したからな。まともな応援は美
咲さんだけだったし﹂
﹁嘘! チューのポーズで喜んでた!﹂
そこまで見咎められていたか。
そういや真琴は俺の隣に座っていたんだよな。見えるのは当たり
前か。
﹁いやぁ⋮嘘でも嬉しいだろ? 俺も男だし﹂
753
そう言うと腕の中のお姫様は不機嫌極まりない表情をする。
ぶーぶーとほっぺたを膨らませ脚をバタバタ動かしている。
﹁でも、思い出してみろ? 最後の真琴の時と比べてどうだった?﹂
バタバタしていた脚が止まり、姫は大人しくなった。
膨らんだ頬っぺたが元に戻っていつもの真琴に戻った。
﹁うん⋮⋮喜んでいた⋮⋮と思う﹂
対戦を控えナーバスになっていたのだろうか。朽木の存在が不安
にさせていたのだろうか。
こんな小さい体で俺と同じようなプレッシャーを受けているのだ。
普段の真琴からは考えられない我侭っぷりだ、相当の重圧を感じ
ているのだろうな。
﹁格納庫一周するか?﹂
俺の提案に小さく首を横に振る真琴。身を捩り俺の腕からスルリ
と抜け自分の脚で地に立った。
そして小声で話しかけるように、口に手を当てて耳を寄せるよう
に合図を送ってきた。
内緒話か? 俺は腰を屈め真琴の顔に耳を近づける。
﹁試験がんばって﹂
柔らかい唇の感触が頬に伝わる。
そして呆然と立ちすくむ俺をよそに、一人悠々と格納庫へ向かう
真琴。
754
これは真琴の応援なのか?それとも美咲さんへの対抗心なのか⋮。
確かめたい気もするし、そうしない方がいいような気もする。
そして俺も格納庫へと足を向けた。
冷気が漂う格納庫、一歩入った場所に真琴は居た。
遠く対戦者を見て、俺に目配せする。
﹁綾音さんですよ﹂
小声で囁くいつもの真琴。その表情を見ると、つい先ほどの事な
ど、意にも介していないのだと思えた。
俺は真琴の手を引き、対戦が見やすい一階席へと向かった。
試験を受けた下位のランクの者も、これから台頭してくる下位を
見定める上位の者も試合の様子を食い入るように見ている。
その合間を縫い、空きの椅子に腰掛けて俺と真琴も席に座る。
﹁綾音さんの試合はこれからの様ですね﹂
静音とおそろいの剣道コスチュームに身を包み、木刀を携え立つ
綾音。
対戦者は⋮、男女のペア? 1対2の戦いなのか?、そんなのア
リか?
どう見ても動きのとろそうな小太りの男と、相反するようなスタ
イリッシュな女性のペアだ。
男の理想を象ったような腰付きと胸元、そして端正な顔を隠すよ
うに大きなサングラスをしている。
﹁反則っぽいが、レギュレーションでOKなのか?﹂
俺は小声で真琴に囁く。真琴も対戦者を注視し思い立ったように
手を叩いた。
755
﹁アレ。ここからじゃ判りにくいですけど、彼女はシリコン樹脂製
ですね﹂
なにい。てぇ事はアレは武器って事か。
オリエント工業も真っ青な1/1フィギュア?
﹁﹃人形繰り﹄と同じようなタイプですね。傀儡とか形代を操る能
力は割とメジャーなんですよ﹂
試合開始の合図が響き渡り、音と共に男は後方に下がる。
そして相棒に戦い合図の怒声を叫んだ。
﹁いけぇ、俺のティーバ! リサ!﹂
おいおい、人形に名前付けてんのかよ。
当人ではないが、恥ずかしさが込み上げて来る。
リサはスカートをたくし上げ、太腿に隠されていたナイフを二振
り取り出すと、手に携え綾音へと突進を開始した。
どうにも人形だと判っていても、太腿がチラッと見えるとドキっ
としてしまうのは、人形の完成度が高いからか。
対する綾音は、木刀をギュッと握り迎え撃つ袈裟掛けの一振り。
一撃で決まったと思えた一閃を、風が舞うようにかわし上空へ飛
び上がるリサ。
空中で身を反転させ、十字に構えたナイフを振るう。
﹁つっ!﹂
初撃のナイフをかわしきれず、肩口の服を刻まれる綾音。
白の胴着にうっすらと赤が滲む。
756
それでも前に飛び退き、地に付いた手で反転を試みる綾音。
距離はまだ剣を振るえる距離だ。
ジリジリと間合いを詰めてくる繰り人形リサ。あいつの要注意な
所は、人間離れした動きだ。⋮⋮人間じゃないもんな。
しかし、どう見ても身長162cmの女性にしか見えない所が罠
なんだろう。
人間の動きをトレースして対処していたら負けるぞ?綾音。
膝をついて、周回する相手を見ながら木刀への握りを固める綾音。
好機と見るや、折った膝をバネに、素早い動きで突きを見舞う。
しかもただの突きではなく、連続突きだ。一度、二度、三度と瞬
きしていれば見逃しそうな素早い技だ。
だが、リサもたいしたもの。ナイフの刃で軌道を変えるように擦
りあげる。
神速の三段突きもリサの髪を揺らす程にしか効いていない。
そして二人が交差して、突き抜けた綾音が血飛沫をあげて膝を付
く。
交差した一瞬の隙に五箇所斬られたな。両手首と腕、肩口、背中
と流れるように切られている。
﹁キモイ奴だと思ったら、結構厄介だな﹂
繰り本人は、リサに護られ安定した精神力を発揮出来る。そして
息を切らす事無く攻撃のペースを崩さない。
対する綾音は、体力も精神力も右肩下がりで落ちていく。
﹁綾音! さっさと決めろ!﹂
我に返り口を押さえた時には、声が出ていた。
綾音がチラリとこちらを見て、俺に背を向ける。
757
背中が語っている⋮⋮言われなくてもやってやるわよ。うっせー、
バーカって。
双手で剣を持ち、剣に霊気を籠める。
木刀に赤の霊気が宿り、光りを発している。
その異様な霊気に、まず反応したのはリサだ。
手に携えたナイフを二本投擲し、綾音の喉と胸元を穿つ。
綾音は動じる事も無く、赤の剣で弧を描き投擲したナイフをはじ
き返す。
剣にはじき返されたナイフは、赤熱し形を崩し溶けて弾かれた。
﹁あいつの能力は⋮﹂
性格をそのまま反映してるな。炎⋮、きっとそうに違いない。
鉄を溶かす熱い炎って、綾音っぽくて似合っている。
ナイフを捨てたリサが、胸脇のホルスターから小銃を取り出し綾
音に向かい銃口を向ける。
ベレッタM93Rの二挺。M92の改良型で3ポイントバースト
という三連弾を発射する銃器だ。
案の定撃ち込まれたのは、双方あわせ六連射。六発のうち五発は
綾音に向かい放たれている。
綾音は、ため息とも短息とも取れる呼吸を一つ。そして手持ちの
赤の剣を地に付きたてた。
﹁サラマンドラ、我を護れ!﹂
掛け声と共に、綾音の前方に火柱が立ち上り、炎から火で象った
尾が振り回され、六発のパラベラム弾をはじき返した。
六発では飽き足らず、マガジンが空になるまで連射を続けるリサ。
﹁なっ!﹂
758
リサの使い手に動揺が走る。さらに連射された弾をも無力化され
たからだ。
火に覆われた綾音は、完全防御状態。どんな鉛弾も綾音には到達
しないだろう。
そして更なる動揺は、リサの変化なのだろう。
突き出した腕のフォルムが崩れ、溶け出している。
﹁まあシリコン樹脂だからな⋮⋮﹂
次の展開を想像して、持ち主である使い手の落胆を想像する。
地に刺した剣を引き抜き、燃え盛る炎を振りかざし剣を振るう。
﹁燃えろ傀儡!﹂
振り下ろした剣が、火の巨大な剣を模す。
巨大な剣はリサを粉砕し、対戦者の足元のコンクリートを真っ赤
に焼く。
対戦者は腰を抜かし、口をパクパクと動かしている。
綾音は対戦者を見て戦意喪失を確認した。そして俺をじっと見つ
め、事もあろうか会釈をして背を向けた。
﹁うう!﹂
隣で発せられる唸り声と共に、真琴が涙目で俺を見つめる。
やめれ、真琴、睨むな! 誤解だから⋮なにかの間違いだから。
﹁色んな所に色目を使ってるんじゃないですか? なんですか! 綾音さんの態度!﹂
759
敵対していた綾音が、しおらしく挨拶するなんて、ややこしい事
するからだ。
これもアイツの罠なのか?
俺は次の静音の対戦まで、真琴の機嫌を取るのに手間取った。
﹁あ∼、そろそろ静音の試合だな。楽しみだな∼﹂
﹁なんで棒読みなんですか!﹂
猜疑心の塊になった真琴には、少々の誤魔化しは効かないようだ。
﹁楽しみじゃない?﹂
﹁全! 然! 楽しみじゃありません!﹂
何を言っても火に油を注ぐような物だ。少し沈静化するまで黙っ
ていよう。
﹁なんで黙るんですか?﹂
うはっ、逆効果!、喋っていても黙っても怒りのバロメーターが
針を刻んでいく。
落ち着け俺。冷静に消火活動をこなすのだ。
﹁俺は真琴とこうやって観戦するの楽しいよ、道場見学に行ったと
きを思い出す﹂
﹁⋮⋮﹂
手応えあり。真琴の刺々しいオーラがやんわりと丸くなった。
760
自分で行っておきながら、真琴との出会いを思い出すと笑いと涙
が自然と出てくる。
真琴の横顔もその時の事を思い出しているかのように、優しい顔
つきになった。
﹁出会った頃は、こうして横に並んで座っている真琴を想像出来な
かったもんな﹂
﹁うん⋮⋮﹂
手応えバッチリ!、いつもの真琴に戻った。
懸命の消火活動を行っている時に、俺の前に人影が立った。
俯いたままの俺は、既に危機を感じ取っていたが、反射的に首を
上げてしまう。
目の前に立つ静音。笑顔で頬を赤く染め俺に挨拶をしてきた。
﹁カオルさん、見ていてくださいね。がんばりますから!﹂
その一言を告げ、恥ずかしそうに小走りで試合開始線へと戻る静
音。
俺は嘘じゃなく、胃が痛くなった。人間追い込まれると胃が痛く
なるって本当なんだね。
俺はその後しばらく真琴の顔を見れなかった。
761
﹃退魔士試験13﹄︵後書き︶
うわーん。退魔士試験編が長引いてますね。
当初の予定では10話、長引いても16話だろうとタカをくくって
いましたが、それが今では13話を過ぎて、試合がまだまだ残され
ています。
ちなみにABCDEとあるのは16進数でFまで行けば桁上がりし
ます。
そのうち01∼1Xに変えようかなと思う今日この頃。
762
﹃退魔士試験14﹄
試験会場がにわかにざわめく。
眼前の試合は待てど暮らせど開始する様子も無く、渦中の静音は
試合開始線に立ち事態の収拾を待っている。
逆に審査員が右往左往と慌しく動き回る始末。
質の悪い学芸会のような、間の抜けた幕間ざわめきに、ある者は
苛立ち、ある者は緊張の糸を切り雑談に花を咲かせる。
すでに眼前の停滞は10分を経過し、主催進行の手腕を問われか
ねない時間を過ぎようとしている。
﹁対戦者の棄権?﹂
誰に宛てたでもない俺の呟きに真琴が冷静に答える。
﹁予測された棄権ではないのでしょうね。突然の敵前逃亡とか⋮⋮
その類﹂
静音の側で背広組が審議をし、その合間を縫って綾乃さんが静音
と話しこんでいるようだ。
静音は集中力を切らさないといいが。
﹁棄権されても、昇段出来るって訳じゃない⋮よな?﹂
試験は実力をいかんなく発揮し、審査員に力量を判断してもらう
事によりランクを認められる。
一方的に勝ったとしても、力量不十分なら不合格になる恐れがあ
る。
逆に善戦し負けても、トータルの戦闘能力・戦術を認められれば
763
合格になるかもしれない。
試合開催不可能と言う事は、試験で言えば0点。
傷を押してまで試験を受けに来た静音の気概。そんな物が一片に
無に帰すのだ。
当の本人はやりきれない気持ちで一杯だろう。
先ほどの、妹の試合にしても、勝ったから即合格と判断するのは
早計だろう。
綾音の場合、敵の素性を見極めるのに時間を掛けすぎている。⋮
そしてダメージを受けすぎた。
危うい戦闘をし勝つには勝つ。そんな奴が集団の中に居たとする。
その場合評価はどうだろうか。
綱渡りをする前衛に後衛は助力を余儀なくされ、集団の危機に陥
めかねない。計算の出来ない前衛は評価として低いだろう。
逆に対戦者のキモヲタ人形使いはどうだろうか。
勝負には負けたが、あの能力は使い所がある。ある意味消耗を前
提とした戦術を組みやすいのだ。
たったの100万そこそこの投資で、あれだけの戦闘員を作る事
が可能なのだ。
日本では考えにくいが、国政不安定な混乱国だとどうだ?。自爆
テロ要員で一生食っていける。
価値を見出すのは簡単だ、ゆえに評価も高いと言える。
そういう目線で見れば、綾音は当落線上ギリギリの評価だと思え
る。
だがそう言った個の判断基準でさえ、対戦者が居ない静音には問
う事が出来ない。
﹁このままだと失格になりますね⋮⋮﹂
まんざら知らぬ間柄でも無いだけに、真琴の台詞にも苦渋の念が
764
籠もる。
対戦相手を変えても試験に問題が出る、相手の事前調査を含め試
験なのだから。
そうこう考えているうちに、主催側の面々に動きが生じた。
背広を着た烏合の衆を綾乃さんがかき集め、なにやら審議をして
いるようだ。
20歳ソコソコの小娘にまとめられている審査員の存在価値を疑
う。
そして話しを纏めた様子の綾乃さん。審査員席に戻る背広組をよ
そにその場に残り、キョロキョロと周囲を見回している。
綾乃さんの食い入るような視線が俺をロックオンした時に、俺の
中の警報がフルボリュームで鳴り響いた。
﹁⋮⋮⋮﹂
笑顔で俺に手招きをする綾乃さん。ただし笑顔は作り物だ。
例えて言うならカツアゲをした不良が、急に親切な笑顔になるよ
うな嘘っぽい笑顔。
再び手を上下つかせて俺を呼ぶ。
﹃NO!、やだ!﹄
俺は弱弱しく首を振り、力なく拒絶を試みる。
どうせ対戦者を探して来いとか、パシリに使われるに決まってい
る。
ついでに焼きソバぱんを買って来いとか言いそうな雰囲気だ。出
来れば拒否したい。
俺の拒絶を眼にした綾乃さん。にっこり笑ってこちらに歩み寄っ
てくる。
額に怒りの血管が浮き、それでも笑顔を崩さない。
765
来るな!来たら舌を噛んで死んじゃる。小動物を舐めるな。
俺の拒絶のオーラを歯牙にもかけず、襟元をクイッと掴んで起立
させる。
まるで猫でもつまみ上げるかのような軽々とだ。
﹁カオルくん、対戦者が来ないのよ。相手してあげて﹂
言葉だけ聞けばお願いされている風に聞こえなくも無い。が、こ
れは決定事項と言わんばかりの口調、そして俺の拒絶を阻止すべく
目で睨みつける。
﹁なぜに俺?﹂
﹁だってカオルくん、私の事目の仇に思ってるモン。だからキミも
私と同じ立場になれ!﹂
同じ立場?、俺の対戦者の綾乃さんと同じ立場?
俺の試験に関係ない試合、骨折り損のくたびれ儲けじゃないか。
﹁あ⋮⋮﹂
俺の力なく漏れた言葉を聞き、満足気に苦笑する綾乃さん。
俺の襟から手を離し、両手で襟元を直して耳元で囁く。
﹁判った?私は貴方の力を試す物差しなの。勝ち負けは意味が無い﹂
綾乃さんに俺との対戦で得れる物と言えば、上からの報酬⋮⋮微
々たる謝礼くらいしかないだろう。
それでも俺に全力で掛かって来てくれる綾乃さんは、視点を変え
ると有り難い存在だといえる。
766
﹁物差し。⋮⋮どうすれば良い?﹂
どうやって戦えば良いのか⋮、それが俺には判らない。
叩きのめして良いと言う訳でもないだろうし、負けてやっても意
味が無い。
その中間地点、いい匙加減が良く判らない。
﹁貴方に体術を教えた先生の真似すれば良いんじゃない? 乃江で
しょ?。動きで判る﹂
生かさず、殺さず。伸び代を予測して叩き伸ばす。あきらめそう
になれば励まし、増長すれば鼻をへし折る。
そして目標になる高度な技を見せ、あわよくば吸収させる。
そんな感じか。
﹁知らぬ間柄じゃ無さそうだし、条件ピッタリで相応の力量がある
人って、カオルくんだけなの。助けて!﹂
今度は、心からお願いされた。手を合わせ拝みこまれたら困って
しまう。
それに俺は断る事なんて微塵も考えちゃいない。
静音にプラスになり、綾乃さんの手助けが出来る、俺の思い違い
を正す事が出来る。
そんなチャンスを見逃す筈が無いじゃないか。
﹁判りました。少し準備をしたら向かいます。静音に⋮切れた集中
力を取り戻すよう言ってやってください﹂
そして綾乃さんに背を向け、肩の力を抜き深呼吸をする。
767
俺は腰の守り刀を真琴へ手渡すべく、腰から抜いた。
﹁⋮⋮先生!﹂
試験の相手をするのに、あからさまに手を抜くな。そう咎める真
琴のしかめっ面。
わかっちゃいる。けど持っていても仕方が無いんだ。
真琴の前で守り刀をそっと抜刀して見せる。
﹁︱︱︱﹂
真琴の困惑した表情。俺の苦笑と変化のない剣を目にし、預けざ
るを得ない状況だと察知する。
そして再び納刀し、真琴に預ける。
﹁カナタをよろしく頼む﹂
トウカ
真琴は守り刀を胸に抱えるように受け取った。
桃花のナイフを、右手で扱いやすい位置へ差し直し、静音の待つ
場所へと向かった。
当の静音は俺を見つめ、複雑そうな表情を浮かべている。
﹁お前の実力を特等席で見させてもらうぞ?﹂
俺の言葉に静音の表情が一変する。
見た目は大人しくとも、性根が座っていると言うか⋮気が強いと
言うか。
自分で言った一言だ、責任を持ってがんばりを見せてくれ。
﹁俺も全力で行く。それが礼儀だからな﹂
768
トウカ
俺は静音に背を向けて、お互いの距離を取る為下がった。
そして桃花のナイフを抜き静かに構えた。
ナイフというには無骨な鉈のようなナイフ、日本刀の様な反りの
ある細い鉈。
どの種類のナイフにも似ていないが、あえて近いと言えばマタギ
ナイフに近いフォルム。
安心感を感じさせるフルタング型で、握りの素材にローズウッド
を使用している。
はぐれもの
そして力を持った真紅の文字が刀身に刻まれ、どの種類にも属さ
ないナイフをより一層逸れ者にしている。
﹁それじゃ、試合開始!﹂
目端で手を高らかと上げ、振り下ろす綾乃さんが見えた。
試合開始と同時に静音が先に動き、気合の入った掛け声と共に間
合いを詰めてくる。
上段からの振り下ろしで頭を狙い、思い切り良く振り下ろした。
俺は一歩前に出て静音の手を蹴り上げ、上段からの脅威を無効化
した。
﹁くっ!﹂
静音は弾き飛ばされた両の手を胸の前に構えなおし、俺の追撃を
避け後ろへ下がる。
思いっきりが良いじゃないか。
俺の出方を伺おうなんて消極的な態度だったらぶっ飛ばしてやろ
うかと思っていたのだが。
だが、まだ迷いがあるようだ。ありきたりの剣術じゃ倒せないっ
て、妹の見ておきながら試合から何も学んでいないようだ。
769
そう言う甘さ⋮判断の誤りが命取りになると教えてやらねばなら
ない。
前衛らしい前衛の姿。愚直なまでに直線的な攻撃で。
なぜ昨日綾乃さんが、愚直さを見せて俺に攻撃したのか、少し判
りかけてきた。
俺も後手に回り様子を見るタイプだからな⋮。
様子を見るだけでなく、戦いの主導権を握らないスピード型の戦
闘は命取りになるという事を。
ナイフを腰に差し戻し、素手で握りを固める。
俺は綾乃さんのように膂力がある訳じゃない、軽い攻撃を重くす
るには如何したら良いか?
それはスピードを乗せる事だ。
﹁長考!﹂
踏み込む足が地を蹴る瞬間に、長考を使った。
ただし敵の攻撃を回避するのではなく、ただ一直線に突き進む為
に。
俺の最速のスピードで体重を乗せた拳を、静音に叩き込む為に。
超高速の世界の中で静音の様子を確認する。目が俺の動きを捕ら
えているが、体がその感覚に着いていけていない。
それでも俺の拳をガードする為に木刀を盾に、身を守ろうとして
いる。
ガードを避けて体に当てに行くか? いや綾乃さんに教わった﹃
前衛﹄はそうはしない。
木刀のガードを突き破りぶっ飛ばす前衛の姿だ。
﹁いけぇ!﹂
俺の最速の拳は木刀を叩き折り、衰えぬ勢いのまま静音の胸へ全
770
体重を叩き込んだ。
鈍い衝突音が響き、静音は意思の無い人形のように吹き飛び、地
で二度バウンドした後、格納庫の鉄の扉へぶち当たり止った。
霊気を放出し手への衝撃をガードしたにも拘らず、俺の手首は折
れ、指が変形し明後日の方向を向いている。
﹁力加減が難しい⋮⋮﹂
霊気の放出量、打撃の強さ双方のバランスだ。
折れた手を見つめ、左手で抜いたナイフの刃を数度手の上に走ら
せる。
霊気を籠めた刃は想像していたよりも酷く痛みを感じる。
傷に塩を塗る⋮⋮そんな生易しい痛みじゃない。
手首からの血飛沫は一瞬で収まり、逆回しのビデオを見ているよ
うに傷が塞がって行く。
そしてその回復に引きずられるように、手首と指が回復し元の状
態に戻ろうとしている。
回復し整った指を動かしナイフを持ち替え、刃先に付いた血を振
るい落とした。
観客は自傷する俺の奇行と、動かない静音を交互に見て、試合の
行方を見守っている。
まだ倒れた体制のままの静音だが、体全体で霊気を放出し自己回
復を試みている。
そしてゆっくりと立ち上がり、千鳥足でこちらへと向かってくる。
体の状態はボロボロだが、戦おうとする意思は伺える。俺は戦闘
態勢を崩さず、静音の復帰を待った。
先ほどの攻撃で愚直な前衛を演じた意図は、様子を見る有利さと
リスクを知って欲しかった。
様子を見るという事は、敵に攻撃させる隙を与えるという事だ。
敵の出方を知り、それに対処すれば戦況は有利に働く、しかし相
771
手が自分の許容量を超えた攻撃を仕掛けてきたらどうする?
選択ミスをしたのなら当然のしっぺ返しを食らうべきだ。
言っても判らねば、体で覚えこむしかない。
静音は手に持った折れた木刀を惜しげもなく捨て、右手を前に構
える。
﹁カァ⋮ハァ、ハァ⋮﹂
声にならない言葉を、振り絞る静音。呼吸音に似た荒い息が場内
に響き渡る。
﹁ウ⋮ン⋮ディーネ⋮⋮⋮﹂
整わない荒い息で、言葉を搾り出す。
さっきの一撃で、胸骨を痛めているはずだ。本当なら息一つする
のにも激痛が走るはず。
肺が酸素を吸収できず、ブラックアウト寸前のはずなのに。
それが声を発するなんて⋮⋮⋮
しかし、息を整え静音は叫ぶ。
﹁ウンディーネ!﹂
胸骨の痛みだけはなく、肋骨と肺の損傷を受けている静音。激し
く吐血しつつも絶叫した。
霊気が左手に集中ししとやかな水気を帯びる。
﹁シルフィード!﹂
右の手に宿る一陣の風
合わさる二つの属性が相反し、相乗し絡み合う。
772
パチ、パチっと空気が摩擦する音が鳴り響き、空気中にオゾン臭
を発生させる。
静音の両手が閃光に包まれた時に、俺の本能は全力で回避をする
事を選択した。
﹁やべっ﹂
静音は妹の戦闘から予想し、﹃水﹄と読んでいた俺のミス。
半分は当たり、半分は大ハズレだった。
大らかで控えめ、意固地で意地っ張り、二面性のある性格だと言
う事を加味していなかった。
﹁ウンディネは、確か水⋮、シルフは?﹂
紫電のスパークが静音の周りに立ちこめ、天井照明を叩き割り、
周囲の対象物を避雷針に変えた。
﹁シルフィードは風か!﹂
四方に容赦なく振りそぞぐゼウスの雷。
導電性の高い物質を狙い撃ちにし、地に立つ全ての生物を屹立す
る避雷針に変える、公平な審判の雷。
敵味方を区別せず、接地抵抗の低い順に穿つ閃光。
トウカ
観客席の椅子に落雷し、天井の照明を連続して叩き割る。
ふうひょうか
俺はたまらず桃花を振るう。
﹁風飄花!﹄
右手に持つナイフから、霊視を無効化する桃吹雪を出す。
俺の側で舞い散る花びらに、両の手で﹃意思﹄を籠め空間に固定
773
トウカ
する。
桃花から教わった風飄花の使い方の一つ、攻撃を遮断する一枚の
障壁。
紫電の稲光を吸収し、地に送り込む桃の花びらが避雷針の如く俺
を護る。
しかし桃の花びらから、燻されるような煙が立ちこめつつある。
拮抗する攻撃と防御、かろうじて雷撃を中和し無力化している。
次の瞬間落雷のような轟音が鳴り響き、場内の全ての生き物へ紫
電が走る。
﹁綾乃さんの時まで温存しようと思っていたのに﹂
隠し玉を披露する羽目に陥るなんて。⋮⋮出し惜しみなんてして
いる場合じゃないな。
突進してくる静音の表情を見てそう思った。
静音は右の手を振るい、湾曲する空気を俺に向かい放つ。
小型の竜巻が、周囲の桃の花びらを吹き飛ばし俺に迫る。
側転で風の攻撃をかわし、静音へ斬り込もうと脚に力を籠めた時、
静音の右手が俺に差し出され念が籠められた。
静音の前方に集まる無数の水滴。意思を持ったように蠢き力を溜
めている。
ふうひょうか
ヤバイ。風よりこっちの方が手ごわそうだ。
﹁ガード出来るか?﹂
ナイフを前方で構え、風飄花の障壁を構築する。
俺の最悪の予想は的中し、静音の水滴がクレイモアの様に弾け、
ふうひょうか
凶悪な散弾が発射された。
風飄花のガードの硬さは霊力に比例する。
俺は全身の霊力を両手に集め、桃の花へと注入した。
774
硬質な物同士がぶつかり合う、金属音に似た衝撃音。
ふうひょうか
跳弾が足元のコンクリートを穿ち、背後へ飛び、天井に跳ね、そ
して風飄花を突き崩す。
﹁このままじゃジリ貧だ﹂
前方の障壁が無効化されてしまう前に、静音へ向かい突進した。
長考状態での回避、ナイフで散弾を擦り、一粒、一粒の向かう方
向を変えて。
ジリジリと狭める間合いが射程に入った時、静音の陥没した肋骨
に向かい音もなくナイフを付きたてた。
肋骨の隙間から肺を通過し、背中へ通った。俺は目を閉じナイフ
に捻りを加え霊気を注入した。
静音は捻られたナイフの激痛で痙攣し絶叫。霊気を注入された痛
みで白目を向き失神し力尽きた。
臓器を傷つけないようにそっとナイフを引き抜き、倒れる静音を
抱きかかえた。
力なくもたれ掛る静音越しに、綾乃さんを見つめ最後の言葉を待
った。
﹁それまで!﹂
試験終了の掛け声と共に、姉を案じ駆け寄る綾音。
俺から静音を奪うように抱きかかえて、俺を一睨みする。
﹁酷い! 格下を全力で叩き伏せるなんて!﹂
涙を溜めて口元を振るわせる綾音。
少し前の俺と同じ感情を抱いた綾音がそこにいた。
775
﹁酷いか⋮⋮﹂
くう
俺は自分で呟いた言葉の響きを確認するように、空を見つめ自問
自答した。
そして綾音に背を向けて真琴の待つ観客席へ向かった。
突き刺さる背中の視線と、静まり返った観客席の俺を見る無数の
目に苦笑した。
﹁ほんと、綾乃さんは有り難い存在だよな﹂
俺を労うように見つめる綾乃さんに、尊敬の念を籠めて頭を下げ
た。
﹁先生お疲れ様でした﹂
真琴がにこやかに守り刀を手渡し、笑顔で俺を迎えてくれる。
綾音の非難の目と罵声の言葉が、俺の心にしこりを残していただ
けに、真琴の笑顔に救われる思いがした。
﹁静音の全力を引き出せたと⋮⋮思うんだけどな﹂
パイプ椅子に腰掛けて、背もたれに体重を預け天井を見上げる。
ついでに折れた肋骨と胸骨も治しておいたから、そのうち気が付
いて何事もなかったように動けるだろう。
﹁先生⋮⋮怪我してる﹂
俺の右手、長袖のシャツに滲む血を見つめ、真琴が袖を捲り上げ
た。
見なくても判る。水の散弾を食らったんだ。
776
ふうひょうか
風飄花のガードは、昨日手解きしてもらっただけで使うのは今回
が初めて、完全に障壁を作るとまではいかなかったようだ。
気の張り方一つで濡れた紙より柔らかく、鉄より硬くなる桃の花
びらを使いこなせているとは到底言い難い。
﹁穴ぼこだらけになってますよ⋮⋮。痛そうです﹂
痛がって転げまわっていたら、今俺はここに座っていないだろう。
静音の代わりに倒れるか、良くてダブルノックダウン。弱みを見
せたら立場が逆転していてもおかしくなかった。
もう一度落雷を落とされたら、避けれる自信は無い。
﹁私が治してあげます!﹂
真琴が鼻息荒く、腕まくりしてみせる。
小さな看護師は、両手を患部に向け念を籠める。
真琴に実体化以外の能力があったとは初耳だ。俺と同じく回復が
of
Cups﹂
不得手だと聞いていたのだが。
﹁Ace
真琴の囁きと同時に、かざした手の上に現れ出る一つの聖杯。
湧き出る水が腕を濡らし、傷に触れた瞬間に傷を塞ぎ始めた。
﹁おお! 無茶苦茶気持ち良いよ。コレ﹂
俺の回復手段には痛み、美咲さん乃江さんの癒しの霊気は自己回
復する際のこそばゆさを感じる。
しかし真琴の聖杯の水には快感を感じるのだ。
777
﹁血と結びついて回復をする⋮偏った回復ですけど﹂
外傷には効くが、打撲には効果が無いと言う訳か。
真琴は聖杯の水で、シャツの血を揉みシミ取りをしてくれている。
﹁血を触媒にするので、血のシミが取れるんですよ﹂
脱力させる真琴の台詞。賢い奥様のご意見、おばあちゃんの知恵
袋を聞いているような気分になる。
シャツを揉み揉みしながら、俺に問いかけた。
﹁カナタは?﹂
先ほどから気になっていたのだろう、伏目がちにシャツだけを見
ながら、俺と目を合わそうとしない。
聞いていいのか悪いのか、判断付きにくいのだろう。
﹁カナタはトウカの故郷に行っている。時空歪曲の呪を通り抜けて
桃源郷で療養中だ﹂
それを提案したのはトウカだった。
退魔刀としての宿命なのだろうか、オーバーホールの必要性有り
と診断を下したのだ。
悪しき物を体内に吸収し浄化する限界に達すれば刀は折れ、カナ
タは消滅する恐れがある⋮と。
俺はその言葉を聞き、逆にトウカにお願いした。カナタを頼む⋮
⋮と。
﹁じゃあ、試験に間に合わない?﹂
778
真琴の問い掛けに曖昧な笑みを浮かべ答えなかった。
トウカが試験に間に合わせるように帰ると約束してくれたのだが、
出来るだけ急いでみるが⋮と言われたら⋮。
しかし一本の刀が無いだけで、その損失は歴然としている。
刀を持っていない手に、散弾を食らっているのだ。ガードが甘く
なっているのだろう。
﹁そろそろ真琴の出番じゃないか? 俺とカナタの心配より真琴の
心配が先だろ?﹂
先ほどの静音のテスト終了時点で、席に座る観客の動きに変化が
あったからだ。
どっしり腰を下ろしていた奴等も、立ち上がり体を動かしウォー
ミングアップを始めている。
﹁そろそろですかね。真琴はくじ運悪いから⋮最初かな?﹂
自分のくじ運の悪さに苦笑して見せた。
そのくじ運の悪さは確かなようで、ファイルを持った背広の男が、
真琴に歩み寄り名前を尋ね、手招きして試合会場へと誘導した。
﹁真琴! がんばれよ!﹂
振り返る真琴の表情には、先ほどの余裕を微塵も感じれない。
強張った笑顔で振り返り、俺を見つめて手を振った。
779
﹃退魔士試験14﹄︵後書き︶
ずいぶん前の話の後書きで、出演者の由来の駅クイズなんてお馬鹿
な思いつきを書いたのですが、それでも何人かの方にメッセ経由で
お答えを頂きました。
そして今日起きたら、解答は?とのメッセが来ており後書きに追記
させてもらう次第となりました。
カオル=京阪電鉄 宇治線 三室戸駅
http://ja.wikipedia.org/wiki/%
E4%B8%89%E5%AE%A4%E6%88%B8%E9%
A7%85
牧野 =京阪電鉄 京阪本線 牧野駅
http://ja.wikipedia.org/wiki/%
E7%89%A7%E9%87%8E%E9%A7%85
真琴 =京阪電鉄 京阪本線 藤森駅
http://ja.wikipedia.org/wiki/%
E8%97%A4%E6%A3%AE%E9%A7%85
山科 =京阪電鉄 京津線 京阪山科駅
http://ja.wikipedia.org/wiki/%
E4%BA%AC%E9%98%AA%E5%B1%B1%E7%
A7%91%E9%A7%85
宮之阪=京阪電鉄 交野線 宮之阪駅
http://ja.wikipedia.org/wiki/%
E5%AE%AE%E4%B9%8B%E9%98%AA%E9%
780
A7%85
乃江 =京阪電鉄 京阪本線 野江駅
http://ja.wikipedia.org/wiki/%
E9%87%8E%E6%B1%9F%E9%A7%85
乃江 =JR西日本 舞鶴線 真倉駅
http://ja.wikipedia.org/wiki/%
E7%9C%9F%E5%80%89%E9%A7%85
美咲 =北近畿タンゴ鉄道 天橋立駅
http://ja.wikipedia.org/wiki/%
E5%A4%A9%E6%A9%8B%E7%AB%8B%E9%
A7%85
となっております。ぺこりん。
こうして見ると美咲、乃江が異色ですね。
京阪電鉄には﹁天満橋﹂と言う駅があるのですが、天満橋の駅のロ
ゴを見ていて思ったのです。
天橋立と似てるな⋮⋮と。漢字一文字違うだけじゃないか⋮⋮と。
美咲さん乃江さんは越境してきた同郷の人という設定だったので、
あえて北近畿の駅名にしました。
故郷に帰るお話しの中に出てくる無人駅は真倉駅を参考に書いてい
ます。
781
﹃退魔士試験15﹄
﹁真琴! がんばれよ!﹂
カオル先生の大きな声が会場に響き渡る。
少し恥ずかしく、そして凄く誇らしく感じれた。
振り返った私の顔を見て、心配そうに眉を顰めるカオル先生。
そんなに酷い顔してるのかな。心臓は運動直後みたいにドキドキ
してるけど。
二階席で私に手を振るユカ先生とマリエ先生が見える。私の先生
が一杯だ⋮⋮。
﹁ふぅ∼∼﹂
私は、息を長く吐き、短く吸う。緊張したらコレを三回すればお
さまる。
三人の先生に良い所を見せようとは思わない。けど失望させない
自信はある。
いつもの通りに戦って、いつもの通り考えればOK。
冷静さを失うのが一番危険なのだとユカ先生が教えてくれた。
けれど目の前に立つ朽木を見ると、昨日の戦闘を思い出し体が高
揚してくる。
表情を一切変えず私を見る朽木に、動揺の一つも与えられていな
いのかと不安にさせる。
私は一つ確認したい事があり、朽木に話しかける。
﹁お互いがんばりましょう﹂
そう言い握手の手を差し出す。朽木は少し躊躇いながらもその握
782
手に応じ私の手を握った。
私はユカさん直伝の崩し技で、手首を持ち直し手を捻り上げた。
﹁ぐっ!﹂
力なく捻られた手を押さえる朽木。
私のような小さな体では打撃の技は使えない、けれど力の無い者
でも行使できる技もあるのだ。
朽木の反発する力。腕から伝わる力は昨日の朽木からは考えられ
ない程弱々しい。
⋮⋮やっぱり怪我が治っていない。
昨日最後まで刺さっていた剣を抜かずにいたのは、余裕ではなく
抜けなかったのだ。
﹁あなた⋮⋮、手を怪我したままじゃない!?﹂
捻る手を緩め、苦痛に顔を歪める朽木を咎める。
そんな事で全力を出せると思っているのか。
﹁治癒は苦手でして⋮⋮﹂
やっぱり筋肉馬鹿だ。今まで生き延びて来られたのが不思議なく
らいの馬鹿。
あんまり対戦者に情けを掛けるのは良くないけど、このままじゃ
私も全力を出せない。
﹁朽木! その暑苦しい服を脱ぎなさい﹂
仕立てのいいカジュアルジャケット。そしてその下に隠されたシ
ルクのシャツ。その奥の傷を。
783
朽木は渋々ではあるが、ジャケットを脱いだ。
血に染まったシャツの赤の広がりで、その傷の具合が看てとれた。
﹁全然治してないじゃない!﹂
脇腹に一、左手に二箇所、右手に六箇所と、止血と包帯だけでま
ともな傷の処置すらされていない。
私の憤怒の表情を見て、朽木が申し訳なさそうに苦笑いを浮かべ
る。
﹁傷の手当ても苦手でして⋮⋮、申し訳ない﹂
﹁申し訳ないで済む問題!?﹂
確認してよかった。私の試験が台無しになる所だった。
満身創痍の敵に勝っても実力は認められない。万が一認められた
of
Cups﹂
としても私が許さない。
﹁Queen
一つや二つの聖杯じゃ足りない。もっと強い回復が必要だ。
私の呼び出したのは聖杯の女王。強すぎるユニット故に完全な実
体化は無理だが、透けてみる幻像として召喚する事が出来た。
女王の掲げる両手は朽木を取り巻き、傷を瞬時に癒した。
﹁⋮⋮⋮真琴さん?﹂
私の行動に戸惑いを見せる朽木。両手に力を籠め、傷の回復を確
認している。
勘違いして欲しくない。情けを掛けたのではない、同情したので
784
もない。⋮⋮私の為だ。
﹁これで心置きなく戦えそう﹂
私は朽木に背を向けて、試合開始の位置まで下がる。
いきなり女王は不味かったか。ジットリと背中を濡らす汗と全身
の虚脱感がそう告げた。
だけどこの試合は長期戦に成り得ない。
一手、二手⋮五手位か。長引いても十手には成り得ない。
何故なら私が試合を終わらせるカードを持っているのだから。
﹁始め!﹂
振り返り肩の力を抜く間もなく、試合開始の掛け声が響いた。
試合開始前の茶番に時間を割いたのだ、仕方の無い事かもしれな
い。
だが、ジャケットに袖を通し悠々とボタンを留めている朽木と、
肩の力を抜く私には試合開始の合図など関係ない。
﹁行きますか?﹂
of
Swords﹂
ジャケットに隠された筋肉に意を込める朽木が、試合開始を宣言
した。
﹁Five
目の前の空間に五本の剣を浮かび上がらせる。
私の最速の五本の剣。攻撃の二本を手の延長上に配置し、三本の
守護の剣をそれぞれの持ち場に配置した。
785
﹁準備OK!﹂
私の掛け声に反応する朽木。無造作に踏み込み前蹴りを見舞う。
足運びで体を入れ替え回避したが、衝撃波を帯びた前蹴りが、頭
を殴るように揺らし頬の肉を振るわせる。
一秒に満たない遅延の後、衝撃が格納庫の壁面に衝突し轟音と共
に建物を揺らした。
﹁馬鹿力に霊力を籠めてるのね。やっぱり昨日は本気じゃなかった﹂
私の呟きに苦笑して回し蹴りを振るう朽木。
一足で回避の出来ない横薙ぎの回し蹴り、私は回避する事を諦め
of
Disks﹂
ペンタクルを頭に思い浮かべる。
﹁Ace
スポンジの様に威力を分散する護符のエース。
先日の朽木戦で決め手になった私の隠し玉だ。
湾曲しながら衝撃を分散する五芒星の障壁、朽木の脚を止め威力
を殺した。
ほんの一瞬の安堵、しかし火花散るペンタクルを目端で確認し危
機を感じ取る。
﹁許容量オーバー?﹂
of
Dis
事もあろうか筋肉馬鹿は、絶対の障壁を突き破り蹴りを見舞って
きた。
やはり霊力でパワーアップした蹴りには、Ace
ksでは力不足か⋮。
咄嗟の判断で、威力と振りが弱まった蹴り足に手を添え、跳び箱
786
の要領ですり抜けた。
﹁ちょっと! そこは﹃む?﹄とか言って動きが止まってくれない
と困るんだけど﹂
飛び越えた体が地に脚をつける前に、攻撃の剣を振るい朽木に斬
りつけた。
一閃、二閃、三閃と空中で舞い踊る剣。
しかし霊気を籠めた筋肉を切り裂くどころか、一筋の血さえ流さ
せる事が出来ない。
﹁嘘?﹂
両手でガードした朽木の服は剣の走った痕が残っている。しかし
破れた服越しに見える生身には傷が出来ていないのだ。
緩やかにガードを解き、握りを固めた拳を振り上げる。
アイツの拳はヤバイ。霊気を籠めていない状態で、剣のガードを
突き破ったのだ。
of
Swords﹂
残り少ない霊気を振り絞り、最強の隠し玉を召喚せざるを得なく
なった。
﹁Knight
私と朽木の間に立ち塞がるのは甲冑騎士、両手に細剣を携えた二
刀流の騎士。
小アルカナカードのナイト、トランプだと11の札だ。
騎士は熟練の体裁きを見せ、振り下ろされる拳を掻い潜り、持ち
前の剣技で剣を腕と肩に突き刺した。
﹁ぐ!﹂
787
ぐぐもった朽木の呻き声が漏れ、鮮血が吹き出し甲冑が赤に染ま
る。
たまらず朽木が後方に下がり、息吹で呼吸を整え筋肉に力を籠め
て止血した。
私を護る甲冑騎士は、流れる動きで剣を振り、朽木に対し攻撃を
繰り出す。
対する朽木もただの筋肉馬鹿では無かった。目にも止まらない剣
を紙一重で避けつつも、反撃の糸口を探っている。
﹁私の事を忘れてるの?﹂
ナイトに任せ私が攻撃しないとでも思っているのか。
守護の三本と攻撃の二本、全ての剣を朽木の周りに配置し、霊気
のガードが薄い箇所を切り裂く。
さすがの朽木もたまらず、はるか後方に飛び退き距離を取った。
﹁真琴さん⋮⋮これが真琴さんの切り札ですか?﹂
切り裂かれた腕を押さえ、朽木が私に問う。
乱れた髪の毛で目元が隠れ言葉の意味を不明瞭にする。しかしニ
ヤリと釣りあがるように笑みを浮かべ、落胆の言葉を口にした。
﹁がっかりです。もう終わらせて良いでしょうか?﹂
両手を目の前に、インファイトボクサーのように構える。
そう言えば朽木の戦闘スタイルは、蹴り主体ではなくボクシング
スタイルだった。
﹁ふん!﹂
788
5メートルは有った距離を、一瞬で無にする神速の踏み込み。
空間に浮かぶ五本の剣を、瞬く間に叩き落し甲冑騎士に挑みかか
る。
騎士の振るう剣を掻い潜り、頭を下げボディに拳を食い込ませる。
一発、二発、三発⋮数え切れない連打を繰り出し、拳圧だけで騎
士を後退させた。
距離を取ったのは苦痛からではなかった。空間の剣、騎士と私を
直線状に持ち込む為に下がったのだ。
直線だと前面にガードを固めれば強度を増す。ガードに気を取ら
れない分攻撃に力を籠めれる⋮と。
朽木のラッシュで力を失い、希薄な存在なる騎士。
振りかぶった大振りの拳は、騎士を貫き延長上の居る私に向かっ
てきた。
両手でガードを試み、ギリギリのタイミングで出した障壁をも無
効化した。
﹁⋮⋮⋮﹂
私は拳圧で吹き飛ばされ壁に叩きつけられていた。
ほんの数秒ほど前の記憶が吹き飛び、額から流れ出る血で視界が
赤に染まっていた。
体の軽い私の欠点は打撃にとても弱い事。けれど小さい体は時と
して利点にもなる。
直接打撃を受け止めるだけ、体が重くないと言う事。柳のように
しなり決定打を凌げるのだ。
けれど受け止めた衝撃は脳震盪を起こさせ、背中をしたたかに打
ちつけられ、手と足が言う事を聞かない。
それでも棒っきれのような脚を動かし、立ち上がりゆっくりと歩
を進める。
789
視界の端にカオル先生が見えた。心配そうな顔をして何かを言葉
にしている。
﹁朽木⋮⋮﹂
言葉を探しながら、自分が負けず嫌いなのを自覚してしまった。
口元に笑みが浮かび、次の言葉に苦笑した。
﹁それが朽木の全力? がっかりだわ﹂
ゆっくりと差し出す剣を召喚する手、光る手に魅入られたように
朽木が棒立ちになる。
of
Swords﹂
私の切り札⋮⋮終局へ一手。
﹁Ace
言葉にしたのは一本の剣を召喚する言葉。
それを聞いた朽木は私の最後の悪あがきと判断し、落胆の表情を
浮かべ拳に握りを固める。
﹁悪あがきは止めましょう⋮⋮真琴さん﹂
振りかぶった拳が素早く振り下ろされ、私は棒立ちのまま拳の行
方を見守った。
私に致命的なダメージを与えるはずの拳が眼前で停止し、朽木が
手を押さえ苦しみだす。
固めたはずの拳が開かれ、五本の指と一本の突起で膨らんだ。
そして手の皮膚を突き破り、手の上に屹立する一本の剣が鈍い光
を放ち現れた。
790
﹁体内に剣を召喚? 馬鹿な?﹂
馬鹿は貴方でしょうに。大気中でも召喚できるのに、何故体内は
of
Swords﹂
無理と判断するの?
﹁Two
朽木の右膝に二本の剣を召喚、膝を食い破りレイピアが二本顔を
出した。
流石の朽木も体内全てに霊気を纏う事は出来なかったようだ。
片膝を付いて激痛に耐えている。
﹁私は召喚させるだけなら1から10まで召喚出来る。合計55本﹂
Swords﹂
物を操作するのに限界はある。しかし出すだけならそれほど苦に
of
はならないのだ。
﹁Three
三本の剣が地面から飛び出し、朽木の膝と両脚を縫い付けた。
﹁これで終わりよ!﹂
動きを封じられ、それでも負けを認めない朽木に対し、決めの一
手を放った。
朽木は目を閉じ、次に来るであろう攻撃に備えた。
﹁⋮⋮⋮﹂
いつまでも与えられない苦痛に、目を開く朽木。
791
of
Cups、私の最大の癒し。
包み込む女王の癒しの抱擁を、驚きの顔で受け止めた。
終局の一手はQueen
恐らく次に四本打ち込めば、再起不能に陥るだろう。けれどこれ
は殺し合いではないのだから。
﹁それまで!﹂
綾乃さんの掛け声が場内にこだまする。
安堵のため息が漏れ、視界が歪む。
最後の瞬間まで魔力を温存しておくって鉄則を破っちゃいました
⋮。すいませんマリエ先生。
ブラックアウトしていく視界に不快な吐き気、貧血の症状を自覚
した時には、受身も取れず地面にひれ伏していた。
792
﹃退魔士試験16﹄
﹁真琴さん!﹂
試合終了と共に真琴が力尽き倒れる。咄嗟に椅子を蹴り駆け寄ろ
うと試みた瞬間、朽木が滑り込むように抱え込んだ。
地面に倒れこむ真琴の頭と体を、割れ物を受け止めるように抱え、
安堵のため息を付いた。
そのままそっと地面に寝かせ、己がジャケットを脱ぎ真琴の体を
包み込む。
そして再び抱きかかえ上げ駆け寄る俺を見つめる朽木。
一歩一歩と近づいてくる朽木を見つめ、朽木も俺に何かを問いか
けるような表情を浮かべる。
朽木は俺の目の前に立ち、真琴の顔色を一瞥し俺に手渡した。
﹁なぜ最後にとどめを刺さなかったのでしょうか﹂
朽木の問いがストレートに俺に向けられる。
俺は真琴ではない、真琴の真意は本人にしか判り得ない。
けれど間近で真琴を見てきた俺の意見として、一つ言える事があ
る。
﹁真琴の過去⋮⋮調べたんだろ? それなら判るはず﹂
俺の謎掛けに小首をかしげる朽木。
遠くを見つめしばし考え、そしてそれでも理解不能な笑みを見せ、
お手上げとばかりに手を上げた。
﹁判りません。けれど最後の彼女は、悲しい表情をしている様に見
793
えました﹂
親の仇として魂喰いを追う真琴は、血と怨恨の連鎖の中にいる。
死を血と死で償う連鎖の渦中にいるのは、自分だけで十分だと思
っているような気がする。
例えそれが試合中の私怨でも、受ける怨恨も与える怨恨にも過敏
なのだと思う。
それを人は甘いと罵るかもしれない。けれどそれが真琴なのだと
思えて仕方が無い。
最後一手を放つ瞬間の真琴を見た時にそう思えた。
﹁それが真琴なんだよ﹂
朽木は俺の答えでない言葉に、得心いった様に頷いた。そしてい
とおしげに真琴の顔を見つめた。
そして自分の真意を伝えてくる。まるで伝えてくれと言わんばか
りに。
﹁叩き伏せられるより、実感できる負けがあった。俺に遺恨は無い、
むしろ⋮⋮﹂
言葉がこそばゆいのか、ぶっとい指で頬を掻きながら照れている。
そして歯切れの悪い言葉を残し、背を向け立ち去っていく。
朽木貴か。ただの変質者かと思ったが、割と良い奴じゃないか。
大きな背中を見送りそう思った。
が⋮⋮しかし、その甘い考えはすぐさま訂正される事になる。
何かを思い出したように立ち止まり、ムーンウォークのように戻
ってきた。
﹁色よい返事がいただけるようでしたらこちらへ連絡をと。真琴さ
794
んに伝言よろしく﹂
そう言いながら、俺に名刺を手渡した。⋮⋮やっぱりこいつはち
ょっと変だ。
その一言を言い残し、再び俺に背を向け立ち去っていく。
変なキャラっぷりに毒され、一瞬ではあるがあっけに取られ硬直
する。
そんな俺を正気に戻したのは、聞き覚えがある声だった。
﹁カオル∼! 真琴大丈夫かぁ﹂
歩くエアコンユニット、送風装置の山科さんだ。冷却ユニットの
宮之阪さんも、真琴を案じ走って駆け寄る。
あっけにとられている場合じゃない。真琴の具合が心配だ。
真琴を安静にさせないと体に障る。俺は周りを見回し、体の良い
長いすを探した。
﹁あれが丁度良いな﹂
学校で良く使う木製の帆布の長椅子。会場端にあった長椅子に真
琴を横たえた。
横にならせて見たものの、おれの回復能力では真琴を治癒できな
い。
駆けつけた山科さん宮之阪さんに治療を任せるしかない⋮⋮。
肝心な時に役に立たない俺の無能さにため息が出た。
﹁真琴⋮⋮﹂
駆けつけ心配そうに真琴の容態を見つめる宮之阪さん。
真琴の横に座り真琴の顔色を窺い、ポケットから取り出した小瓶
795
の蓋を開けて、真琴へ飲ませようとする。
﹁宮之阪さん⋮それは?﹂
薬と言うには毒々しい色の液体。血の赤と毒草の紫を足して2で
割ったような色で、赤紫の蛍光色をしている。
仮に体に良いと言われても、俺はパスしたい色をしていた。
﹁エリクシル⋮体に良い万能薬﹂
エリクシル??所謂エリクサーの事か? そんなのゲームでしか
聞いたことがない。それも非売品レアアイテムじゃないか
俺が感心している内に、真琴の口元へ瓶を運ぶ宮之阪さん。
その際に手元が狂い一滴、床に落ちた。
﹃ジュワァアァ﹄
コンクリートの床に、塩酸でも垂らしたかのように白煙が上がり、
科学的な異臭が立ち込める。
﹁ちょ! チョット待ったぁ!﹂
そのまま真琴の口に運ばれようとする小瓶を、宮之阪さんの手を
ガッシリと掴み制した。
宮之阪さんはキョトンとした表情で俺を見つめ、何を待つのか測
りかね俺を見つめる。
俺はそんな純真な表情を持つ彼女に、出来れば言いたくない言葉
で確認しなくてはならない。
﹁劇薬?﹂
796
コンクリートの床を溶かし、まだなお勢いの衰えないこの危険物。
人体に投与するのはいかがな物だろうか?
俺の失礼な言葉を聞き、涙を浮かべながらフルフルと首を振る宮
之阪さん。
﹁良薬口に苦し﹂
漢字もろくに覚えれていないのに、ウィットに富んだ格言だけは
出てくるのか。
俺の制止を振り切り、笑顔で真琴に良薬を飲ませる宮之阪さん。
ほんの少し真琴の口に含ませると、瓶を閉じポケットにしまう。
﹁これで⋮大丈夫⋮⋮﹂
本当に大丈夫なのかとても疑わしいのだが⋮⋮。
意識の無いうちに赤紫の蛍光色を飲まされた真琴の心中を察する。
﹁ちなみにその材料は?﹂
どう染色すれば蛍光色を発するのか、知的探究心がくすぐられた。
宮之阪さんは額に汗を浮かべ、何も答えず苦笑いを浮かべている。
おそらく人に言えないモノが、大量に混入されているのじゃない
だろうか。
宮之阪さんの追求を逃れようとする目に、俺はそれ以上の追及は
命取りになると危機を感じた。
﹁知らなコトは、時々幸せ⋮⋮﹂
そんな不気味な言葉を聞いてしまい、真琴の容態が心配になって
797
きた。
案じて真琴の顔を窺うと、土気色だった顔色が赤みをさし吐息に
力を感じた。
﹁大丈夫そうですね⋮⋮﹂
ホッと胸を撫で下ろす俺を見て、宮之阪さんが不服そうな表情を
浮かべる。
山科さんが真琴の乱れ髪を手で直し、いとおしい弟子の健闘を称
えるような笑みを浮かべている。
﹁ようがんばった。結果はどうあれ、うちは胸を張って良いと思う﹂
満足気に真琴を見つめる優しい目に、頷いて同意する宮之阪さん。
こう見ると魔法組は団結してるなぁと思える。
俺の師である美咲さんと乃江さんは、審査員席横に特別席を設け
られ、綾乃さんのお手伝い中だ。
俺も少しは応援して欲しいな⋮なんて甘えた気持ちでいるのは内
緒だ。
こうしている間にも、Bの試験は順調に執り行われ、あと数組の
試合が終わればA試験になる。
そうやって意識をすればする程、緊張が高まっていき落ち着かな
くなる。
そんな俺の気持ちを知ってか知らずか、山科さんが俺の緊張をさ
らに高めてくる。
﹁そろそろカオルの出番。ファイナルマッチやなぁ∼応援してるで
!﹂
うしし、と笑いを漏らし、俺の緊張を加速させる。
798
ガックリとうな垂れた俺の頭を撫で、宮之阪さんがたどたどしく
力付けてくれる。
﹁がんばって﹂
耳を澄まさないと聞こえない程の小声。けれどしっかりと聞き届
けた。
小さい声だけど気持ちの入った応援の言葉だった。
﹁わかった、宮之阪さんも応援してて﹂
宮之阪さんの応援も戴いた。これは貴重だ⋮⋮スーパーレアだ。
内から湧き上がるヤル気が俺を突き動かす。
試験の準備をやらないと。
﹁俺、準備してくる。やり残したことがあるんだ﹂
そう考えると居ても立ってもいられない。思い立ったが吉日だ、
勢いでやっちまおう。
そんな俺を笑顔で見送る宮之阪さんに山科さん。
そんな二人に背中を押され、俺は駆け出した。
﹁あいつら何処に行った?﹂
ふうひょうか
観客席を見回し探しまわる。俺が求めているアイテムを所持して
いるのは、アイツしか居ないからだ。
トウカ
俺の武器は、超感覚によるコマ送りの世界﹃長考﹄。
鉄を切り裂くナイフと、ナイフに籠められた桃花の術﹃風飄花﹄
そしてカナタ不在の守り刀、そして俺にダウンロードされたまま
の薩摩武士の記憶。
799
ダウンロードされたままの記憶は、静音戦でも有効に働いた。
一撃目の静音の太刀筋を容易に見切ることが出来たし、ナイフの
扱いもいつも以上に冴えた。
ならば剣を持てば、あの状態を再現できるのではないかという予
測だ。
蜻蛉の構えからの一撃は、恐らく綾乃さんに見切られる。けれど
綾乃さんに対しそこまで追い込める唯一の技でもある。
それに薩摩示現流は蜻蛉の構えだけではない、長年に渡って練ら
れた最高の剣術の一つなのだから。
俺が探しているのは静音・綾音姉妹、借りたいのは木刀だ。
けれど静音の木刀は俺が折っちまったから、望みがあるとすれば
綾音の所持する木刀だけだ。
しかし、俺アイツに嫌われてる。貸してくれる望みは薄いが、や
れる事をやっておかないと後で後悔する。
後悔しない為には当たって砕けろだ。
﹁居た⋮⋮﹂
まだ本調子でないのか、静音を横にさせ濡れたタオルで顔を拭っ
てやっている綾音。
そんな声の掛け辛い状況を見つつも、意を決し綾音に声を掛けた。
﹁綾音⋮⋮頼みがあるんだが﹂
振り返り俺と認識した瞬間に、毛虫を見るような表情に変わる綾
音。
プイと顔を背け、即決の返事を返す。
﹁帰れ、顔も見たくない﹂
800
おおよそ予測されたリアクションだ。予測の範疇だけにこちらも
反応を返しやすい。
こういう場合、はいそうですかと引き下がるわけには行かない。
﹁試験に木刀が居る、貸して欲しい﹂
言わないと伝わらない気持ちと言葉がある。
良いも悪いも言ってから判断する。
﹁⋮⋮木刀?﹂
手元に置いた木刀を見て、俺の顔を探るような目で見つめる綾音。
そして鼻で笑い、苦笑した。
﹁お前が剣を持ってどうする。己が力で敵わぬ相手だから、奇策に
走るのか?﹂
どうやら綾音は俺が奇策に出ると思っているらしい。
奇策には違いないが、自棄になっての奇策ではないのだ。そのあ
たり誤解は解いておきたい。
﹁今の俺に一発入れる可能性があるのは、剣を持った状態なのだ。
意味は判らんだろうが、自暴自棄になっている訳じゃない﹂
俺の言葉を聞き、目を丸くして驚きの表情を浮かべる綾乃。
そして溜めた息を吹きだし、大声で笑い出した。
﹁あの人外と噂の高い真倉綾乃に一発? 気は確かか?﹂
綾乃さんってば人外扱いなのか。確かに化け物じみているが、気
801
の優しい良いお姉さんだぞ。
﹁むしろお前の木刀が勝敗を握っていると、現時点では言い切れる﹂
綾音の表情から笑いが吹き飛び、真剣そのものの顔つきに変わる。
そして俺の表情をじっと見つめ、再度問いただす。
﹁マジか?、マジでヤル気なのか?﹂
﹁大マジ﹂
キリリと表情を固めて見せた。しかし慣れない表情に笑いが滲み
出る。
そんな不真面目な顔をした俺に、綾音は一つ提案をしてきた。
﹁その言葉に嘘がないなら、貸してやろう。ただし一つ条件がある﹂
貸してもらえると喜んだ矢先に、不吉な言葉が追加された。
ニヤリと笑う悪そうな表情を浮かべた綾音。
絶対勝てとか無茶を言うんじゃないだろうな。勝ちたいのは山々
だが、断言出来るほど勝率は高くない。
俺は続く言葉に生唾を飲みこんだ。
﹁もうすぐ姉の誕生日なのだ。そして私達は双子だ。⋮⋮判るな?﹂
⋮⋮⋮理解した、激しく理解した。
誕生日を祝ってくれるステディなど居ない、可愛そうな剣道娘に
お祝いを⋮と言う訳だな。
無言で頷き了承した。
802
﹁ハッピーバースデーの電報で良いだろうか?﹂
その一言で、綾音の額にピキリと血管が浮き立った。
負のオーラを発し、無言で押し黙っている。
うーん、どうやら電報ではないようだ。てことはメールでお祝い
なんて、チャチなものでも無いと。
デコレーションケーキでも無くて、ぬいぐるみでもない気がする。
﹁判った判った、なにかサプライズを欲しているわけだな。ネタバ
レNGのな﹂
その言葉を聞き、満面の笑みを浮かべる綾音。
サプライズ
とりあえず花でも送り届ければ良いか。綾音の花にはメッセージ
カードに連動し爆破する仕掛けをセットしておこう。
﹁枇杷の木刀だ、持って行け。必ず一発入れろよ。価値が上がるか
ら﹂
俺は黒光りする木刀を手に、親切にプライスレスと言う言葉は無
い⋮そう思った。
このままここに居座れば、色んな条件を吹っかけられそうだ。と
っととトンズラするか。
﹁それじゃ、借りていく。が⋮一つ聞いておきたい。お前ら歳いく
つ?﹂
そう言えば年齢を聞いてなかった、聞く所の関係でもなかったし、
二度と会う事は無いと思っていたからな。
﹁次の誕生日で18になる﹂
803
﹁えっ?﹂
意表を突かれた年齢に、不注意から声が漏れた。
落ち着きがなくて、頼り気の無い姉妹。絶対年下だと思っていた
のに⋮⋮。
﹁なんだその﹃えっ?﹄って﹂
﹁ナンデモアリマセン﹂
本音を追求されたらぶっ殺される。それに俺が年下だとバレれば、
いきなり態度が豹変するに違いない。
これ以上この姉妹とのパワーバランスを崩す訳にはいかない。
俺は無言で後ずさり、逃げるようにダッシュした。
804
﹃退魔士試験17﹄
綾音から条件付ではあるが、木刀の奪取に成功した。
この借り物の剣を我が物とすべく、手に馴染ませる為に素振りを
びわ
していた。
枇杷の木で作られたと聞かされたが、そもそも知識の無い俺には
物の良し悪しは分からない。
けれど振った際に手に返る弾力と、安心感を感じさせる重量感が
凄く良い。
使う側からの意見としてだが、良い剣だと言えるのかも知れない。
﹁ふん!﹂
俺は心の中で綾音に感謝をしつつ、自分に出来る最善の努力を行
っていた。
4歩先にある立ち木をイメージしすり足。
腰に力を籠め、速さとはまた違った別次元の速度で剣を振るう。
そして一旦下がり、敵を想定して立ち木を睨む。
超一流のハードル走者の様に、目線は常に一定に。体幹と頭をぶ
らせず、滑るようなすり足。そして烈火の如く打ち下ろす。
立ち木打ちは、目の前の木に打ち込む物は無い、遠間からの移動
と腰使いを鍛える打ち込みなのだ。
反復を一日に﹃千﹄、日々繰り返し﹃万﹄と振い、技を体に染み
込ませる。
﹁太刀の来ぬまに﹂
俺に欠けている先手を取る意識、決断の速さと意気込み。
示現流を一言で語れば、太刀の来ぬまに。なのだと思う。
805
うじうじと思い悩まず、瞬時に判断せよ。俺の中の記憶が、そう
語りかけてくる。
俺の中の記憶が不甲斐ない俺に語りかけてくる。
﹁そげん細かかこつで戦うな﹂
俺にそう問いかけ叱責してくる。
幕末を生き、烈火の如く己が命を燃やした剣士から見れば、細か
い⋮些細な事なのだろうか。
﹁先に見据える、己が信念に沿い戦え⋮か﹂
俺の心の中に息づく、人斬りの心情が染みて来る。
先に見据える物は、あんたの思う事からすれば、細かい事なのか
も知れない。
けれど俺が俺の、小さいながらに思い描く幸せの形は、あんたと
寸分違わない物だと確信する。
言葉で表現できない奇声を上げ、剣を振るい、こそぎ落とす。
そんな俺の剣を邪魔しないような、遠慮がちの小声が響いた
﹁⋮お邪魔するね。カオるん﹂
俺をカオるんと呼ぶ唯一の存在、美咲さんの声で振り返る。
振り返ると美咲さんと乃江さんが笑顔で立ち、素振りをする俺を
見つめていた。
﹁もしかしてずっと見てた?﹂
俺の問い掛けに、笑いながら頷いてみせる二人。
少し恥ずかしさが込み上げ、手に持つ木刀を握りなおし見えぬ位
806
置に隠す。
﹁ずっとって訳じゃないよ。5分位前からかな﹂
人はそれをずっとと言うんです。しかも気配を消してまでの念の
入れように、思わず苦笑が漏れる。
﹁あんまり真剣に振っているので、声を掛けそびれて見とれていた﹂
美咲さんの横で遠慮がちに立ち、照れ笑いを浮かべる乃江さんの
褒めるような一言。
照れ笑いは自分の台詞に対してなのか、それとも見続けていた自
分に対する照れなのか量りかねる。
﹁落ち着かないので、無心で振っていただけです﹂
落ち着かないのは本音だ。振っているのは熱心だからじゃなく、
緊張感を忘れる事が出来るから。
とても褒められた心理状態じゃない。
そんな俺と乃江さんのやり取りを見つめ、美咲さんが複雑そうな
表情を浮かべている。
﹁やはりカナタちゃん独特の気を感じない⋮⋮。ナイフ一辺倒だっ
たのはそのせい?﹂
流石に美咲さんの目は節穴ではないという事か。
一番の良く見える審査員席で見ていたのだ。誤魔化しは効かない
か。
ため息を一つ付き、お手上げの心境で説明をいれた。
807
﹁試合までには帰ってくると約束したんで、そのうち戻ってくると
思います。木刀は保険みたいなものです﹂
そう言いつつも、間に合わないと確信している。
たった半日で、カナタの状態が劇的に良くなるとは思えない。
俺はいつもカナタに頼ってばかりいたし、そんな俺にとっての試
練なのじゃないかとも思える。
カナタを可愛がっていたし、カナタが好きだ。けどカナタの体調
を真剣に考えた事があっただろうか。
俺はトウカにカナタが消えると言われ、その存在の大きさを再認
識した。そして消える事の恐怖を覚えた。
もし無事に帰ってきたら、そんな心を改めてカナタの力を借りよ
うと思う。
そんな俺の苦し紛れの言い訳に、そうかと一言だけ呟き理解して
くれた。
そして鞄から包みを取り出し、俺の目の前に突き出した。
﹁乃江と私からの必勝祈願﹂
鞄から取り出されたのは、リボンつきの紙袋。
そっけない紙袋だが、リボンに籠められた意味は判っているつも
りだ。
﹁これは?﹂
紙袋を開けて見て、手にしたのは茶色のグローブだった。
しっとりした質感の皮グローブ、この手触りは前に乃江さんに戴
いたグローブに似ている。
﹁乃江と私からの必勝アイテム。カンガルー皮で裏地に耐刃繊維の
808
特注品。ナイフ使いだからフィット感重視﹂
指の第二関節まで覆われた特殊形状の指貫のグローブ。
耐刃繊維が入っているなんて感じさせない薄さ、グローブ越しに
握る木刀の感じも悪くない。
﹁あ⋮凄い、素手で持った時より、握る力を掛かけやすい﹂
このグローブをすれば、素手がどれだけ汗で滑っていたかと実感
できる。
ゴム手袋で堅い瓶の蓋が開けやすいように、しっとりとした皮の
質感が、皮膚以上に握りに馴染む。
﹁試作品で一番出来の良いグローブだ。その感じだと悪くは無いみ
たいだな﹂
乃江さんが俺の表情と握りを確かめ確信したように呟く。
俺の為に二人で作ってくれていたのか⋮⋮、不覚にも嬉し涙が流
れそうになる。
﹁拳の打面には、ほんの少し緩衝材が入ってる。オマケみたいな物
だが﹂
そう言われて始めて分かる⋮、拳を痛めやすい指の部分に低反発
素材が入っている。
指で押しても手に感触が伝わりにくく、弱い骨の部分を保護して
いる。
拳を振るう度に骨折を繰り返す修行不足な俺だ⋮⋮非常にありが
たい。
二人の顔を見つめ感謝の気持ちを籠めて頭を下げた。
809
言葉で言えば陳腐に伝わりそうな気がしたから。
﹁もうすぐ始まる、⋮⋮行こうか﹂
俺の肩に手を置き、俺に安堵と緊張を伝える乃江さん。
美咲さんもそんな俺と乃江さんを見つめ、笑みを浮かべている。
ふと何かを言いかけ、思いとどまった様に口を閉じる、そんな様
子を見つめ言葉を待った。
俺の視線を感じて、困ったような表情を浮かべる美咲さん。
口篭りながらも、言葉を搾り出す。
﹁あ⋮、あのね?﹂
美咲隊長らしくなく、言葉を区切り⋮言いよどんでいる。
こんな雰囲気の美咲さんは、あの夜以来かもしれない
俺はそんな大切な言葉を聞き漏らしたくない気持ちで一杯になる。
そして一丁懸命言葉を選ぶ美咲さんの困った顔を見つめた。
﹁私はカオルが⋮他人にどんなランクで評価されようと、私は最高
の評価をしてるから!﹂
俺をカオルって呼んでくれた事より、美咲さんの言葉を聞き衝撃
をうけた。
言葉も出ずその言葉の意味を反芻して、ゆっくりと納得の出来る
形で理解しようと試みた。
けれどそんな努力をしても、美咲さんの真意を十分に理解できず
にいた。
﹁あっ⋮﹂
810
自分自身で発した言葉の意味を理解し、真っ赤に染まる顔を両手
のひらで覆い隠した。
そして足早に駆け出し、試験会場に逃げ出した。
﹁⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮お嬢様のあんな表情は初めて見た﹂
俺と共に硬直していた乃江さんが、ボソリと驚嘆の言葉を吐いた。
﹁レアですか?﹂
﹁スーパーレアだ﹂
だがそんなレアさ加減も、俺の中で消化することが出来ず、呆然
としたまま立ち尽くしていた。
気を取り直し、試験会場へと向かった。格納庫に入り異様な雰囲
気に気圧された。
既に試験を終えた者、それ以外の観客、審査員の視線が一身に注
がれたからだ。
言葉の暴力と言う言葉があるが、これは視線の暴力だな。
気の弱い奴なら、速攻で胃が痛くなり血を吐きそうだ。
811
﹁行ってきます。乃江さん﹂
木刀を鞘の位置で持ち、桃花のナイフを小太刀の位置に差しなお
す。⋮⋮そしていつ帰ってきても良い位置にカナタを差し直した。
試験開始の位置までゆっくりと歩き、審査員の空席を見やった。
リクルートスーツの綾乃さんは、予想通り見当たらずに対戦者不
在の状況だ。おそらくスーツから戦闘服に着替えているのだろう。
待たされる不服など微塵も感じず、その立場からの大変さを感じ
ていた。
俺は目を閉じ自問自答した。
らんく
らんく
﹁試合の目的はランク付け。けれど俺の欲する物は、仲間を守る力。
その為に付随する地位であり、力なき地位は不要﹂
全ての迷いを統合し、言葉でねじ伏せるように呟く。
閉じた目、瞼を超えて景色が広がる。
心の目が開かれ、閉じている目の前に広がる景色が心に映る。
心が静まり穏やかな気持ちになっていく。心のパズルががっちり
噛みあい、無駄なく俺の心を押し上げてくる。
今までに無い心の形に少し驚きを感じつつ、いつまでも持続でき
るように祈る気持ちで、息を整えた。
そんな不思議な感覚も、聞きなれた声でバランスを崩した。
﹁お待たせしたかしら﹂
声の主は待ち人⋮⋮、心で理解するより早く瞼が開かれた。
真倉綾乃。身長160cm前後の小柄な女性。端正な顔立ちに意
志の強さを窺わせる眉と唇が、バランスよく配置されている。
一般的な視点で稀に見る美しい女性だが、彼女を知る者は人外の
魔物と呼ぶ。
812
心のピントがぼやけ、目のピントが焦点を合わした。
薄いピンクのツーピース。シルクかサテンのような光沢をした服
はカンフースーツ。
生地の近似色で施された刺繍もTVで良く見かける竜ではなく、
ウインクするかわいい猫。
肩まで伸ばした髪を頭の上でお団子結びしている。
バトルグローブにカンフーシューズと、ツッコミ所は色々あるが、
これも戦闘服だ。
﹁綾乃さんは猫好き?﹂
毒気を抜かれた俺は、なんでカンフーやねん⋮⋮じゃなく、猫に
にゃんこ
目が行ってしまっていた。
﹁世界に一着、猫カンフー服よ﹂
自慢げにくるっと一周し、全身を余す事無く見せ付ける。
猫の刺繍が背中にもチラッと見え、笑いで吹きそうになる。
徹底した猫好きなのだと感心すると共に、オートクチュールの服
が綾乃さんの体型を、より一層美しく見せているのに気がついた。
﹁リクルートスーツの綾乃さんもグッと来ましたが、その服を着た
綾乃さんは数倍カワイイです﹂
服を褒めるのは普通の男、その内側も褒めて一流の男だと悪友牧
野が語っていた。
一応実践してみたが如何なものだろうか。
俺の言い馴れない褒め言葉を聞き、身を捩じらせて喜ぶ綾乃さん。
頬に手を当てまんざらでもない表情を浮かべている。
813
﹁そういう言葉が女を美しくさせるのね。実感したわ∼﹂
そう言いながら握り拳を固め、不吉な言葉を吐いた。
﹁私⋮嬉しくなるとパワーアップしちゃうのよね。エネルギー充填
120%、殺る気指数は200%♪﹂
ぞわっと全身の産毛が逆立った。
綾乃さんの体から発する殺気が、言葉通りに数倍に跳ね上がった
からだ。
目を閉じて殺気だけを感じていたら、目の前の生物が人間だと忘
れるほどだった。
﹁エグい殺気を発しますね﹂
萎縮し声が出なくなる前に、悪態をついて足掻いてみた。
俺は木刀の柄を両手で持ち、右手で振り上げ左手を添えた。
俺の中の剣士とのリンクが完了し、にわかの構えが百戦錬磨の構
えに変化した。
﹁その技面白いね。今日は付与者が不在のようだけど、まだ使える
んだ﹂
カナタが居ない事もお見通しか。
審査員として俺を見たのだから、美咲さんと同様に見破られても
仕方ないか。
﹁昨日の続き⋮ですかね。斬れるか試してなかったもので﹂
握りを堅め、手の先から木刀に霊気を籠める。
814
守り刀カナタやナイフのトウカと違い、この慣れない木刀にすん
なりと霊気を通せたのは、俺の中の記憶が後押しをしているからな
のだろうか。
﹁済し崩しに試合開始しても良いんだけど。しまりが無いね⋮﹂
そう言いながら声を張り上げ、試合開始を合図した。
﹁始めましょうか﹂
綾乃さんの声より、高まった殺気が飽和して均衡を破り引き金と
なった。
俺は剣を、綾乃さんが拳を意図するより速く、反射的に動かして
いた。
815
﹃退魔士試験18﹄
蜻蛉の構えからの振り下ろしが、綾乃さんの残像を両断し空を斬
った。
実像は振り下ろされた剣を左手で掴み、ゾッとする妖艶な笑みを
浮かべ右手に力を溜めていた。
﹁いきなりリーチかよ!﹂
無挙動で懐まで踏み込まれたのは、乃江さん美咲さんとの修行を
含め経験が無い。
通常は、踏み込み、移動、打撃と三挙動だ。
しかし今の綾乃さんの動きは、踏み込み、移動と感知を感知でき
なかった、それゆえに無挙動と呼ぶしかない。
気が付くとそこに居た、いやさっきからそこに居たのじゃないか
とさえ思えるほど。
木刀から手を離し、受身を取らないと。
頭で理解しつつも渾身の振りの後だ、手が硬直し握りを緩めるこ
とが出来ない。
ふうひょうか
眼前に見える拳を前に、咄嗟に叫ぶしか手立てはなかった。
﹁風飄花!﹂
腰に差したままのナイフに意を籠め、桃の花びらの障壁を構築し
た。
ふうひょうか
俺を軸につむじ風が舞い、桃の花びらが雅やかに舞い踊る。
空気を裂くような衝撃波が、風飄花を境に真っ二つに割れ、背後
の椅子を観客もろとも吹き飛ばした。
存在が虚ろになっていく眼前の花びらを確認し、木刀を押さえこ
816
んだ左手に蹴りを入れ、咄嗟に飛び退いた。
﹁近接が聞いて呆れる⋮⋮﹂
背後の阿鼻叫喚の絵を想像しながら笑いが漏れる。
こんな状況で笑える自分に驚くと共に、感覚が恐怖で麻痺し始め
ているのを感じていた。
綾乃さんと二度手合わせして、彼女の持つ戦闘能力の高さを再認
識すると共に、能力の片鱗を垣間見たような気がする。
一つは、肉体の強化。
乃江さんと同じ方向性の能力、外に霊気を放出せず内部に蓄積す
る。
俺が木刀に霊気を籠めるのと似た状態で、骨、筋、神経にまで霊
気を張り巡らせていると思われる。
感覚神経の性能向上と神速の動き、そしてありえない程の破壊力
とそれを実現する肉体の強度⋮⋮。
乃江さんが ”私にはコップ一杯程の霊気しか無い”とよく言う
が、それは放出に使える退魔の霊気だと予想している。
肉体強化に霊気を費やし、放出出来ないと言い換えたほうが正し
いのじゃないだろうか。
二つ目、霊気の量。
潜在的に行使できる霊気の量が半端じゃない程多い。
肉体を強化しても余りあるほどの霊気。乃江さんのコップ一杯の
霊気でさえ、打撃と共に打ち込まれたら昇天できる。
対して綾乃さんは、壊れたボリュームのように上限が無い。
普通霊気を放出するのに自制というリミッターが働く。
これは俺の体験だが、全霊力の三分の一でも瞬時に失えば心臓が
止まる。
817
霊気を失った箇所へ搬送する為のロスタイムが発生するからだ。
霊力はそこに居て留まる状態で、初めて生命維持を行う。移動時
にはその働きが弱まるのだ。
以前、霊気の放出の限界点を見極めようと試してみた
瞬間に視界が暗くなり、一定に保たれている筈の心臓の鼓動がリ
ズムを崩した。
いわゆる不整脈⋮いや心不全に近い状態で死に掛けた。
綾乃さんはそのリミッターが通常より高い位置にあるのだと思え
る。
幼少の頃から特殊訓練を受けていたと聞かされたから、その手の
水準が違いすぎるのだろう。
もう一つは⋮
﹁なに笑ってるの、余裕?﹂
笑っている?。人の事が言えるのか?、綾乃さんも笑っているじ
ゃないか。
友達と雑談する時のような余裕の笑みを浮かべつつ、攻撃の手を
緩めない。
俺は先ほどから、先手を打つ構えを取る事も出来ずに、構えた木
刀で拳を受け流しているのが精一杯だった。
砲丸投げの玉のような重い拳、胸の前50センチの位置で払い、
軌道を変える。
霊気を籠め続けないと、一発で木刀を折られてしまいそうな勢い
だ。
剣を持った両手突き出し、綾乃さんの胸に突進し突き飛ばす。
一旦距離を取らないと⋮、剣の間合いに持ち込むべく飛び退いた。
押し込められた綾乃さんは、両手で胸を押さえ俺に批難の目を向
ける。
818
﹁エッチ⋮⋮﹂
﹁な!﹂
真剣勝負にエッチとかそんなの無しだ。たしかに凄い弾力だった
が⋮⋮。
気勢を殺がれ脱力したその瞬間を見逃さず、気が付くとまた懐に
入られていた。
最後に見たのは、綾乃さんの小悪魔の笑みとウインク。
たった一発の大振りのパンチで、俺の意識は刈り取られていた。
﹁っ!﹂
一瞬の記憶の欠如は、人をショックから遠ざけるための自己防衛
の手段なのだろう。
俺は観客席に並べられたパイプ椅子をなぎ倒し、そのままの勢い
で壁に叩きつけられていた。
幸運なのは記憶の欠如、壁の衝撃も椅子の衝撃も覚えていない。
ただ、頭上から舞い落ちるコンクリートの破片と、全身にうけた
打撲跡、そして綾乃さんと俺の間にある、割れた海のような倒れた
椅子が結果を物語っている。
﹁⋮⋮⋮﹂
何処を殴られた? 噛み締める顎に力を籠め顔のダメージを探る。
そしてゆっくりと立ち上がりながら、両手、両脚のダメージを探
った。
無事だった両手で、胸を探り患部を探し当てた。
右肋骨が見事に数本持っていかれている。
819
いや⋮数本だけ残され、あと全部を持っていかれたと言った方が
正しいのかもしれない。
軟体動物のような不思議な触感を手で押さえ、ゆっくりと歩を進
め歩き出した。
左手でトウカのナイフを抜き、鎖骨の付近に突き立て、ゆっくり
と引き下ろした。
ナイフが肉と骨にぶち当たり、砕氷船のように突き進む。
焼きコテを当てられた様に、走るその痛みに耐え患部を癒す。
﹁こりゃ、人に治療するなんて考えないほうがいいな﹂
無駄口を叩かないと、気を失いそうな痛み。
大声で叫びたくなるほどの痛みに耐え、邪魔な椅子を踏み越えて
戦地に降り立った。
﹁エグイ治癒方法ね。大丈夫?﹂
ナイフ跡でズタズタになったシャツ越しに、患部を見つめる綾乃
さん。
心配そうに見つめ、指で口元を押さえ好奇心に満ち溢れた様子を
表現している。
さっきのその三だ。戦闘での経験値の違いだ。
実と虚を使い分ける動作が実に上手い。相手の呼吸をも掌握し、
視界の盲点に滑り込む暗殺者の動き。
音もなく歩き、気配なく近づく。気が付いた時には血を吐いて倒
れている。
その経験の差を埋めるのは容易い事じゃない。
﹁フラフラだけど、戦える? 嫌ならやめてもいいよ﹂
820
天使の笑顔で悪魔の台詞を囁く綾乃さん。
もう十分がんばったから、棄権しても誰も咎めないと言っている
様に聞こえる。
そんな問い掛けを聞き、木刀を持つ手に力が篭もる。
振り上げた木刀を振り下ろし、問い掛けに対する返事をする。答
えはNOだ。
今度は長考を使い、剣の行方を追う。
ゆっくりと綾乃さんを目掛け、振り下ろされる木刀。
綾乃さんは避ける素振りすら見せていない。
木刀が綾乃さんの頭部に触れた瞬間に、やられたと思わされた。
手応えなく振り下ろされた木刀は、綾乃さんを容易に両断してい
く。
﹁残像? 長考でか?﹂
心の中の叫びと焦りが、長考世界を揺るがせて行く。
早回しで進んでいく世界で、ほんの一フレームだけ移動する綾乃
さんに実像を捕らえていた。
二の太刀で一フレームだけ見えた位置に剣を走らせ、そしてその
延長線上を薙ぐ。
﹁残念、ハ・ズ・レ﹂
その声は俺の背後から聞こえてきた。
俺の真後ろに立ち、両肩をがっしりと掴んだ。
万力のような強い力で固定され、振り返る事も距離を取る事も出
来ず、嫌な汗が流れ落ちる。
﹁そのナイフ、届かない場所って何処かしら?﹂
821
ナイフの治癒の欠点をすぐさま指摘する。
そんな事は重々承知している⋮⋮ナイフを突き立てられない場所。
⋮⋮背中だ。
﹁くっ!﹂
咄嗟に木刀を掴む手を緩め、切っ先まで手を滑らせ持ち直す。
そのまま俺の脇をかすめ、背後の綾乃さんを突く。
木刀だから出来る技だ、真剣でやれば指が飛ぶ。
綾乃さんの虚を突けたようで、手に返る衝撃が返ってきた。
ほんの少し手応えを感じたものの、ダメージを与えるほどの打撃
を入れれたとは思えない。
たださっきの死に体から、脱出出来ただけでも有り難い。
俺は距離を取り、さっきの虚像を思い出していた。
打撃系の一辺倒の妹乃江さんも、特殊な能力を所持していた。
その乃江さんが尊敬してやまない綾乃さんも、それ以上の何かを
ふうひょうか
持っていてもおかしくない。
試すか⋮⋮
俺は滞空時間重視の風飄花を飛ばし、その全てに少しずつ意識を
籠めた。
﹁まあ、綺麗﹂
綾乃さんはその花びらに脅威を感じる事無く、その一つを掬い取
った。
花びらは手のひらの中で淡雪のように消えていく。
思ったとおりの効果が出ているようだ。これなら⋮
目を閉じ右手で剣を持ち上げ左手を添えた蜻蛉の構え。
綾乃さんの場所は、桃の花びらが教えてくれる。
822
﹁スイカ割り? 余りに当たらなくてヤケになった?﹂
綾乃さんの呆れたような声が聞こえる。
俺はそんな煽りの言葉など無視し、木刀に霊気を籠めた。
木刀に霊気が行き渡った瞬間に、一の太刀を振り下ろした。
視覚情報に頼らない剣の行方は、やはり空を斬った。けれど綾乃
さんの位置が手に取るように分かる。
今のは結構ギリギリ避けられた感じ、移動する際の気配がそう感
じさせた。
桃の花が揺らぎ、ここだと教えてくれる。俺はその場所へ横薙ぎ
の剣を走らせる。
切っ先に感じた布の感触と、衣擦れの音を感じる。
視覚情報を切り捨てた事で、逆にその他の感覚が鋭敏になってい
る。
ざわめく格納庫の中で衣擦れの音が聞け、綾乃さんの息使いと心
臓の音が聞こえる。
滞空する桃の花で、心の目も見えない、目も見えない。
二つの感覚を切り捨てた今だからこそ為せる技か。
﹁ぬん!﹂
﹁ふん!﹂
﹁きぇい!﹂
打ち下ろしの連撃を、桃の花で感じる位置へ打ち下ろす。
手に返る木刀を弾く綾乃さんの拳の感覚。手を添えて剣の軌道を
変えられている。
逆に言える事はそうまでしないと避けられないと言う事。
823
俺は信念を持って打ち下ろす事が出来る。俺の速さが綾乃さんを
超えれば斬る事が出来る。
さらに加速を試みるために、長考の超高速の世界を構築した。
この世界はワンフレーム毎の紙芝居の世界。
通常世界での速さとはまた違った、無駄の無い速さを実現できる。
ただし筋肉・骨・肉に通常掛けられたリミッターを感じる事が出
来ず、術者に跳ね返る負担も大きい。
俺に出来る0.5秒の感覚世界の中で、手に返った衝撃を感じた。
﹁ぐっ!﹂
手に返った衝撃と綾乃さんのぐぐもった呻き声を聞き、確信を持
って目を開けた。
俺の剣が綾乃さんの肩口に食い込み、鎖骨を砕く手応えが手に返
る。
﹁やった⋮⋮﹂
俺は血を吐きながら、自分の剣の行方に満足した。
そして俺は自分の胸を見て、腹部から抜き取られた血塗られた綾
乃さんの手を見つめていた。
﹁マジ?﹂
俺は震える手で、ナイフの柄を手に取った。
そして抜く事も出来ずに、その場に倒れこんだ。
824
825
﹃退魔士試験19﹄
﹁そろそろ限界かの﹂
頭の中でトウカの声が響く。
限界? 何を言っているんだ?
綾乃さんに一発当てし、なんとなく攻略方法が見えたんだ。これ
からじゃないか。
﹁でも現にそちは動けぬではないか。這いつくばって意識を失って
おる﹂
だからこれから⋮⋮。それに⋮⋮。
﹁カナタさえ居れば⋮⋮今そう思ったじゃろ﹂
図星を突かれ反論が出来ない。
二の語が出ずに黙りこくるしかなかった。
﹁そちのその考えがカナタを滅ぼす。そうは考えられんか?﹂
試合前に考えた筈だ。
いや試合前に考えた筈だった。
カナタ頼りの自分の不甲斐なさを痛感したばかりなのに、舌の根
も乾かないうちに同じ事を繰り返し考えている。
﹁主と刀、言ってしまえばそれまでの関係じゃがの﹂
そんな事は無い。
826
俺とカナタはそんな薄っぺらい関係じゃない。
﹁では問う。どんな関係じゃ﹂
その問いに迷いもなく答えを出す。
俺はカナタ。カナタは俺。
俺の為に命を燃やし戦ってくれるのなら、俺は全力でその存在を
守りたい。
﹁なるほど⋮⋮﹂
満足のいく答えが得れたようにトウカが頷く。
そして俺に触れ、頬に口付けとした。
﹁その心に偽りがあれば、即座に命を落とす。この口付けはそうい
った﹃呪﹄じゃ。それでもさっきの言葉に偽りなしと言えるか?﹂
ああ、言える。
何度だって言ってやるさ。
俺とカナタは一心同体、カナタの為に命を燃やす。
﹁⋮⋮⋮嘘偽りなしじゃの﹂
俺の様子と見つめ、得心が行ったように頷いた。
﹁じゃが、早く目を覚まさないとそれが嘘になるぞ⋮⋮﹂
桃の花が散るように、存在が虚ろになりトウカが消えていく。
827
視界がぼやけ、網膜に映像を映しはじめた。まず天井が見え、俺
は仰向けに寝ている事に気が付いた。
胸部の痛みなど感じない。逆に感じたのは母の温もりの様な癒し
の感覚。
桃の舞い散る結界が、医療班を足止めし、俺の傍らでトウカのナ
イフを俺に突き立て、霊力を籠めている少女が見えた。
存在が虚ろになりつつあるカナタが、自分を費やしナイフに回復
の力を与えている。
﹁カ⋮カナタ⋮⋮やめろ! 消えてしまうぞ﹂
咄嗟にそんな気持ちにさせるほど、透けて見える虚ろな存在だっ
た。
カナタは涙を流し、力なく首を横に振る。
制止の言葉に耳を貸さず、さらに力を籠めてナイフを突き立てる。
﹁カナタを大事に思うなら、刀に霊力を籠めよ﹂
耳元でトウカの囁きが聞こえた。
俺は手探りで探し当てた守り刀を握り、言われるがまま抜刀した。
﹁それがお前達の言う生きていく形じゃろ?﹂
トウカの言う通り、カナタが俺に流れ込み、俺がカナタの存在を
支える。
これから生きていくと約束した形⋮⋮まさにその通りだと実感し
828
た。
﹁それ、もっと力を籠めぬか。消えてしまうぞ﹂
笑うトウカの声が俺に促す。
俺に命を注ぐなら、その倍の霊気をカナタに送ろう。
俺の中の何かがカチリと噛みあい、霊力を籠める力が加速した。
空気が振るえ、内側から弾けて桃の花びらを吹き飛ばす。
吹き飛ばされた桃の障壁の勢いに、後ずさりする医療班と身動き
一つしない綾乃さん。
カナタとトウカが俺の手を握り、優しく引き起こしてくれる。
そんな手に握られ、なんの抵抗も感じず立ち上がれた。
眼前には鎖骨を押さえる綾乃さん、そして俺の周囲を取り囲む白
衣の医療班の驚きの顔があった。
俺は抜いたカナタを振り、医療班に治癒不要と促す。
そしてカナタから受け取ったトウカのナイフを手に持ち、戦闘状
態を作り上げた。
﹁カオル∼﹂
等身大のカナタが抱きつくように俺に飛び込み、人形サイズのカ
ナタへと戻った。
トウカ
そして空中でニ回転を決め、俺の肩にちょこんと座った。
逆の肩にはいつの間にか桃花が座り、微笑を浮かべ扇でパタパタ
と扇いでいる。
﹁カナタ、心配掛けたな。大丈夫か?﹂
俺の問い掛けに、コクコクと頷いて元気一杯に返答する。
829
﹁桃花の故郷、桃源郷の仙気を吸って元気一杯じゃ﹂
そんな強がりにも思える言葉を言う。俺はいつもと違った気持ち
で、その言葉を受け止めた。
﹁トウカ⋮⋮、ありがとう﹂
不甲斐ない俺を叱責し、カナタをいとい、そして俺達の羅針盤と
して方向を示してくれる。
違う視点で俺達を導いてくれる存在。そんな心強い存在に感じる。
﹁こそばゆい、やめよ﹂
そんな言葉を吐き、プイっとそっぽを向く。
満更でもないそんな雰囲気を感じ、素直じゃない奴だと笑いが込
み上げてくる。
﹁カナタ⋮、トウカ⋮、行くぞ!﹂
俺の構えに反応し、笑みを浮かべる綾乃さん。
無言で取り巻く医療班を下がらせ、拳の握りを固める。
﹁まるでゾンビね。倒しても倒しても起き上がってくる﹂
苦笑しながら、俺の腹に拳を食い込ませる。
仰け反るほどの痛みが腹に伝わるが、吹き飛ばされるような先ほ
どの力を感じない。
首を両手で持ち、膝で蹴り上げる力にも先ほどのパワーを感じら
れない。
830
﹁抜き手のお腹の傷⋮大丈夫?﹂
綾乃さんが首を持つ両手持ち、ムエタイの首相撲のように膝蹴り
を打つ、そんな密着した状態で囁いている。
そんなに心配するのなら、お腹に攻撃するのやめて欲しいのだが
⋮⋮。
昏倒させられた傷⋮カナタが治してくれ完全治癒している。
そんな事より、精彩を欠く綾乃さんが心配になってきた。
﹁続けたい気持ちは山々なんだけど⋮⋮電池切れみたい﹂
耳元で囁き、首相撲を解除し突き飛ばす。
﹁それは残念です。手抜きなしで綾乃さんともう一度戦ってみたい﹂
初っ端から全力で戦えば、こんなに消耗する事もなかっただろう。
手探りで俺の能力を引き出すように戦ってくれた⋮⋮
そんな厳しさの中の優しさを感じ始めていた所なのに。
﹁じゃあお言葉に甘えて、一発分だけ全開で行ってみようかな。⋮
⋮見ててね﹂
綾乃さんは脚を止め、手を腰の位置に畳み込む。
腕を引き締め胸の位置に持ち上げ、左手を突き出し右手に光の力
を籠める。
ゆっくりとした動作だが、近づいて斬る隙など感じられない。
右手に注がれる膨大な霊気が収束していく。
﹁トウカ!﹂
831
俺の掛け声にトウカが反応する。扇でふわりと一扇ぎし、桃の障
壁を構築した。
綾乃さんは、なんの迷いもなく障壁に拳を向け、凝縮した霊気の
拳を振るった。
膨大な質量の物同士のぶつかり合う音と衝撃で、格納庫の窓が割
れ、天井照明を揺らす。
目の前で火花散る拳が障壁を押し込めていた。
ゆっくりと後退してく障壁が、綾乃さんの拳の威力を物語ってい
る。
俺は手から霊気を放出する様を⋮、綾乃さんが実演し見せてくれ
ている技を見つめていた。
拳を霊気で覆い殴るのではなく、手先から放出して保護するのか
⋮。
そしてこれがランクAの強さなのか⋮⋮。
﹁ありがとうございます﹂
俺は感謝の気持ちを籠めて頭を下げた。
弱まっていく霊気の放出を感じながら、背を向けて数歩下がり、
ナイフと守り刀を納刀した。
そして綾乃さんに向き直り、最敬礼をして試合終了の合図を待っ
た。
﹁それまで!﹂
あれだけの力を出せて電池切れとは⋮。
あんな一発を持っていて、本気で倒しに来られたら俺の負けだ。
それが俺の今の立ち位置だった。
自分の持てる技量を全て曝け出しくれた綾乃さんに、感謝の気持
ちで一杯になった。
832
そして力なく立つ綾乃さんに駆け寄り、そっと体を支えた。
﹁エッチ﹂
自分でそう言いながら体を預けてくる。
首に手を回し、荒い息で呼吸を続けている。
﹁ここ数年家政婦一辺倒だったから、体が鈍ってるわ⋮。帰ったら
一から鍛えなおさないと﹂
鍛えなおさなくても十分強いんですが⋮⋮
それでも自分の動きに満足できないんだよな、この人は。
﹁一つ聞いて良いですか?﹂
俺の問い掛けに頭を上げて、俺を見上げる綾乃さん。
拒否するような表情ではない、穏やかな顔に甘え疑問を口にした。
﹁なぜ岩国なんでしょうか﹂
なぜ米海兵基地か、それをずっと考えていた。
トウカ事件の際に牧野からリークされた情報では、日米の新たな
試みの試金石とだけ伝えられたのが⋮⋮
﹁やっぱり不自然に感じちゃった? 海兵基地?﹂
そんな苦笑に対し、コクリと頭を下げ自分の気持ちを伝えてみた。
しばし考えを巡らせて、小声で俺だけに聞こえる様呟いた。
﹁退魔情報の共有がなされるの、アメリカだけじゃなく同盟エリア
833
全ての国でね。日本として力量を示す必要があったから⋮⋮﹂
力量を示す必要とは、綾乃さんの登場を意味するのか。
力量を示す⋮⋮いわば国同士の退魔士ランクを評価されてると言
う事なのか?
﹁日本の実力に見合った情報が提供される?﹂
俺の問い掛けに、無言で頷く綾乃さんの厳しい表情。
この試験にはそう言った意味合いもあるのか? 今後を担う意味
で責任重大じゃないのか?
﹁だから今回の試験は対戦形式なの。通常は見とり稽古でランク決
めするのよ﹂
良い様に利用されたと言う訳か⋮⋮。
牧野からもそう言った助言がメールされてたな。
﹁本当のランク付けは選抜チームでやってるの。この試験は人材の
厚みを量る意味で視察されてるだけだから﹂
﹁選抜チーム?﹂
そんな情報は聞いた事も無い。美咲さんや仲間のランクAにお声
が掛からないなんて、遥か上の実力者が居ると言う事か。
﹁ちなみにキョウ様が居てくれて⋮全敗は免れたという状況かな﹂
﹁全敗⋮? そんなにレベルが違うのか?﹂
834
頂上決戦で一勝しか出来なかった⋮⋮そんな状況を想像して振る
えが出た。
﹁キョウ様が五人抜きしてるから、面目は立った。だからこそ人材
の厚みを問われてるの。そんな状況だからカオルくんに本気になっ
て欲しくて、色々無理させたね。ごめん⋮⋮﹂
綾乃さんの手が俺の腹の傷を探る。
そして手を当てて、治癒の波動を送り込んできた。
﹁状況が理解出来たのでスッキリしました。なんかモヤモヤっとし
てて⋮⋮﹂
﹁仲間達も気づいてるんでしょ? 美咲と乃江が何気なしに探りを
入れて来てたから⋮⋮﹂
美咲さんが審査員席付近に居たのはその為か⋮⋮。
あとでちゃんと説明してあげないと。
その前に⋮もう一つだけ確認したい事が出来た。
﹁あと一つ⋮⋮霊気治癒できるんなら、回復してるんじゃないです
か?﹂
﹁だって⋮カオルくん⋮⋮優しいんだもん。甘えちゃおっかなーと
か﹂
そう言って首に回された手に力が籠もる。
そんな甘えんぼ試験官を無言で引きずり、審査員席まで引っ張っ
て行こうと歩き出した。
835
﹁けち! もうちょっと良いじゃない?﹂
﹁駄目です!﹂
ずるずると引き摺られながら、綾乃さんが駄々っ子の様になって
いく。
﹁本当は立つのもやっとなんだけどな⋮⋮﹂
﹁嘘です。手の力が尋常じゃないですもん﹂
回された手から感じる脅威は、いつ折られもおかしくないレベル。
熊にジャレ付かれている様で、とっても怖い。
﹁バレたら仕方ない。自分で立つか﹂
そう言って手を離し、しっかりと自分の両脚で立つ綾乃さん。
しっかりした足取りで自席へと戻っていく。
そんな綾乃さんから不吉な言葉が発せられた。
﹁またねカオルくん﹂
含みを持った言葉の意味をしばし考え、ため息を付いてその予感
を打ち消した。
きっとすぐに再会する事になる⋮。とても嫌な再会をしそうな予
感。
﹁うだうだ考えても仕方ない。帰るか﹂
先ほどまで立っていた場所で、俺の帰りを待つ木刀を手にし、そ
836
の無事を確認した。
そして木刀の主の場所へ向かった。
格納庫の端に佇む二人の姉妹の場所へ。
﹁綾音! 約束どおり一発入れたぞ。俺の実力じゃ、それが限界だ
ったがな﹂
木刀を手渡し、姉静音を見やる。
﹁静音⋮⋮無茶してすまんな。実力を引き出す方法が⋮俺にはアレ
しか思いつかなかった﹂
無言で立つ二人の表情を見、返答のなさに違和感を感じる。
﹁どうした? 俺の顔変か?﹂
じっと顔を見つめて無言で居る二人を見て、顔に落書きでもされ
たかのようなむず痒さを感じた。
﹁⋮⋮普通のカオルさんですよね?﹂
﹁そうだな馬鹿のカオルだ﹂
二人の姉妹はお互いの両手を握り締め、向かい合い確かめ合って
いる。
﹁なに言ってんの? お前ら変すぎ﹂
そんな年上の姉妹の表情を見て、やっぱりこいつ等が年上だとは
思えんと再認識した。
837
天然気味の姉と勝気な妹だが、世間ずれしていないこいつ等の雰
囲気はより一層歳を分かりにくくしている。
﹁あ⋮⋮いえ。バーサーカーと噂の高い真倉綾乃と戦って、今ここ
に立っているのが信じられなくて﹂
綾乃さんは狂戦士扱いかよ。すごい人格者だと思うけどな。⋮⋮
駄々っ子だけど。
﹁実戦じゃないんだから、殺される事なんてある訳無いだろ?﹂
そんな俺の言葉を否定するように、姉妹揃って首を振る。
﹁運が良かったんですよ⋮きっと﹂
﹁いやいや、カオルの実力が⋮⋮﹂
また二人の世界を構築して、喧々諤々と討論しだす。
そんなお似合いの二人を見てると、微笑ましくって苦笑が漏れる。
﹁そんじゃ、またな﹂
俺の問い掛けに、静音がキョトンとした表情を浮かべ、綾音がコ
クリと頷いた。
って誕生日っていつだ? 後でコッソリと綾音に聞くか。
サプライズなのに、わざわざ静音にネタばらしするのも癪なので、
無言で立ち去ろう。
俺は手を振り、その場を立ち去った。
838
﹁おい、お前﹂
姉妹が小さく見える頃、一人の男に声を掛けられた。
大きなスーツケースに折り畳むように1/1ドールを詰め込む⋮
⋮キモオタ。
焼けて酷い有様になった人形をいとおしむかのように、箱つめし
ている。
﹁何か用か? ⋮﹂
なにか用かキモオタと続けそうになり、言葉を呑む。
キモオタくんは俺をキッと睨み、ありえない言葉を吐いた。
﹁俺の綾音ちゃんと仲良く喋りやがって⋮⋮知り合いなのか?﹂
俺の?
綾音ちゃん?
もしかしてこっぴどくやられた綾音に、感情移入しだしたのか?
救われない奴。
﹁もしかして綾音のファンになっちまったか?﹂
ストレートに聞き返えされ、口を尖らせ顔を背けるキモオタ。
﹁綾音は顔はかわいいけど⋮気が強いぞ﹂
﹁そこがイイ!﹂
﹁ツンデレなんてレベルじゃないぞ、ツンツンだぞ?﹂
839
﹁皆まで言うな⋮ふふふ﹂
⋮⋮完全に堕ちとるな。今度の人形は綾音人形になりそうで怖い。
そんなキモオタだが、修練次第では強くなる⋮。そんなのりしろ
を残した奴に、無言で立ち去るのも心苦しい。
﹁お前な。複数の人形を操作出来てれば、かなり強くなるぞ。一体
に愛情を注ぐのも良いが、両手に花ってのも悪く無いぞ﹂
とりあえずは二体の操作だな。いまと同等に二体を操作出来れば
⋮⋮
﹁二体? ⋮って事は静音ちゃん?﹂
﹁!﹂
しまった!。静音までターゲッティングされていたか。
あの姉妹の肖像権とか色々を、キモオタくんに侵害されそうな予
感。
遠くに立つ静音・綾音の別所姉妹を見つめるキモオタくん。
そんな状況を見て、少し怖くなり逃げ出した。
﹁特別発注二体の予感⋮⋮﹂
全身に逆立つ毛の不快な感じと、キモオタくんの未来を案じ足早
に駆け出した。
向かった先は俺を待つ仲間の笑顔。
手を振って俺に合図を送っている。
試験の結果は後日らしいが、そんな事よりこの仲間とゆっくりど
こかへ遊びに行きたいなと思う。
840
﹁カオル∼ 帰るで∼﹂
﹁あ、はーい﹂
やっぱり仲間の笑顔が一番の回復剤だと思う。
皆と居る温かさを噛み締め、俺達の住む街へ、いつもの日常へ帰
ろうと思う。
そんな中に居て、俺を見つめ労いの言葉を掛けてくれる美咲さん。
﹁カオルさん⋮⋮がんばりましたね﹂
美咲さんが再び俺をカオルと呼んでくれた。
それだけで、なにか嬉しさが込み上げ飛び上がりそうになる。
美咲さんとの関係が少しだけ変化したような、そんな気がしたか
らだ。
﹁俺達の街に帰りましょうか﹂
俺の言葉に全員の笑みが零れ落ちる。
それぞれに思い描くあの街を、学校を、そして日常を懐かしむよ
うに。
841
﹃退魔士試験19﹄︵後書き︶
カオル:﹁そういえばもうすぐ夏休みですね﹂
山科:﹁そうそう、それや! いつの間にか夏や、ビックリやな﹂
宮之阪:﹁コクコク︵でも気にしない︶﹂
美咲:﹁目的も何もなく、皆で遊びに行きたいですね∼﹂
乃江:﹁カオルはその前にバイクの免許だろ?﹂
真琴:﹁真琴はのんびりと過ごしたいです∼。今回は試験で落ち着
かなかったです∼﹂
全員:﹁どっかに行きたいよな∼﹂
筆者:﹁><﹂
842
﹃インターミッション 04﹄
退魔士試験から数週間、のんびりとした学校生活と平凡な日常に
慣れた頃。
﹁カオルさん、今日学校が終わったら、私の部屋へ集合して﹂
我が美咲小隊の隊長、天野美咲さんから集合の指令が下った。
そろそろのタイミングだと予測していた俺は、落ち着かない一日
を過ごす事となった。
合否の判定も試験者に直で連絡が来ればいいのだが、取り纏めの
筆頭に届くシステムは見直しが必要だろう。
﹁うぉっほん﹂
美咲さんのリビングに俺と真琴が座らされ、眼の前に立つ四人の
猛者が、厳しく咳払いをしている。
山科さん、宮之阪さんの手に持たれたのは、お盆の上に載せられ
た書類。
試験結果の第一報が小隊長の元へ届いたのだ。
このメンバーの場合、普通に手渡して終わりと言う事は絶対無い。
訓話の一つでも⋮と言う事で、結果発表を後回しにして、正座を
して待たされている。
843
﹁それでは、訓話。真倉乃江﹂
美咲さんの一言が響き渡る。
﹁わ、私ですか? こういう場合隊長が⋮⋮﹂
そんな反論も、にこやかな笑顔で無視する美咲さん。
控えめに拒否する乃江さんを拒むオーラを放っている。
﹁乃江﹂
短く、厳しく名前を呼ぶ。
たったそれだけで場が引き締まり、乃江さんが反論の言葉を飲み
込む。
そしてダーク美咲さん出現と同時に、真琴の目に涙が溢れてくる。
﹁突如として重大な役を仰せつかり、何を話してよいか⋮﹂
戸惑う乃江さんに、美咲さんの咳払いが飛ぶ。
そんな異様な雰囲気の中、乃江さんの有り難い訓話を拝聴する事
になった。
﹁まず人に認められ、奢り高ぶりが出始める時期、そういう事の無
い様に心がけていただきたい﹂
突然の役といいながら、話す乃江さんは堂々と、淀みが無い。
﹁日々研鑽の努力をしてきた先人を、より近く手の届く存在に見え
てくる時期だと思う﹂
844
子供の頃から修行を積んだ美咲さんやその他の面々の事だろうか。
確かに素人と同然の頃から見て、今の状況はより一層その力量に
近づけたとは思えるが。
﹁けれど、その考えは捨てていただきたい。まず第一歩を踏み出し
たとだけ、謙虚に思う心が大切なのです﹂
謙虚⋮か。
俺の場合は、試験官が綾乃さんでよかったのかもしれない。
最後まで俺のレベルに合わせてくれたのだ。
マラソンで言えば、メダリストが併走してペース配分や余力を計
算し、走ってくれた様なもの。
本当の俺の実力以上の状況を作ってくれた。
今から思えばアイスクリーム屋の前日の時も、俺を探して来てく
れたのでは無いだろうかとも思える。
実力差と心構えをそこで教え、追い込んだのじゃないかと思う。
あの前日の戦いがなければ、俺は無様な醜態を晒していただろう。
そう言う意味でまず一歩と言うのは、身に染みて感じれる言葉だ
と思う。
﹁技の形を覚えるのは容易い。戦い方を覚えるのも容易い。見本と
なる先人がいるから。けれど自分の技として行使するのも、戦いの
中に身を置く心構えも一朝一夕で習得出来はしない﹂
この一言は特に俺に向けられた物だろう。
乃江さん、美咲さんから教わった体術も、綾乃さんに全く通用し
なかった。
長考を用いても体が反応しないし、綾乃さんの動きに全く付いて
いけなかった。
845
そう言う状況から推察するに、今までの乃江さん、美咲さんの修
行中でも、俺に目線を合わせた修行を行って来てくれたのだと思う。
乃江さんの動きが見え、避け、拳を振るう事が出来たのは、俺に
合わせて併走してくれていたから。
もし真剣勝負をすれば、秒殺される事は間違いない。
﹁山登りに例えると、二人は五合目にいる。そこまで登るのはそれ
はそれで大変だが、本当の苦難はそれ以上の所にある。一歩進むの
に対する努力は計り知れなく厳しいもの﹂
その一歩の差を見事に痛感している。
先を歩くみんなに追いつこうとすれば、日々研鑽し続けているみ
んなより何倍も努力をしないと追いつかないと言う事を。
俺が一歩を踏みしめ頭に乗って脚を止めればそれまで。
一日努力を怠れば、追いつくのに二日⋮それ以上は掛かると言う
事だ。
﹁まず一歩を進む⋮進めた事には感動を覚えて、驕らず前を向いて
歩いて欲しい。 以上﹂
即興の訓話にしては心にグッと来るいい話だ。さすがは乃江さん
と言う所か。
もしかして乃江さんも、そう言う気持ちで日々生きていると言う
事なのかもしれない。
俺は形式から出なく、心から頭を下げ感謝の気持ちで一杯になる。
﹁まずは藤森真琴∼ 真琴からや﹂
B5サイズの証書とパスケースに入った新しいライセンスカード。
そして山科さんの笑顔がそこにある。
846
﹁ライセンスB 厳密に言うとB+や。中々の高評価やで﹂
俺も知らなかった事なのだが、A∼Fに付随するマイナー評価が
ある。
ランクAと広く判定基準があり、ライセンスカードにもAとだけ
評価される。
けれど細かい基準値にマイナス二段、プラスで二段の評価が追加
されている。
[A−−][A− ][ A ][A+ ][A++]の五段階だ。
今現在の最高峰はA++となる。
真琴のB+はBの五段階評価の4と言うこと。かなりAに近い判
定だと言える。
昇段を試みる基準値として多く活用される。
﹁皆さんのご助力のおかげです。これからもよろしくお願いいたし
ます﹂
ペコリと頭を下げ、自分のライセンスカードを嬉しそうに眺めて
いる。
﹁次、三室カオル。マリリン! 証書授与﹂
口下手な宮之阪さんの代わりに声を張り上げる山科さん。
宮之阪さんはコクリと頷き、トコトコとお盆を差しだす。
﹁ライセンスA A−−やから、ギリや。けどAはAや。胸張って
な﹂
マジでギリギリの評価。滑り込みセーフなのかもしれない。
847
俺は納刀し頭を下げて試合を放棄した時に、合格は諦めていた。
それゆえに、マイナー評価がどうあれ嬉しい。
﹁ちなみにうちらも殆どが無印のAかA−や、マイナー一個に凄い
努力が必要なん、わかるやろ?﹂
それは初耳だ。そんな状況でおれがA−−って分不相応じゃない
か?
﹁美咲が無印A、その他はA−や。そう言う事で美咲が隊長やねん﹂
一体どれだけの隔たりがあるのだろう。
俺と乃江さんの技量の差がマイナー一個分だとすると⋮A++っ
て。
﹁ちなみに綾乃さんはA+や。殺されへんかっただけ幸せや、カオ
ルの評価に反映されとるんちゃうやろか﹂
⋮⋮マイナー一個の評価の差が分かったような気がする。
⋮⋮二乗?
﹁私は定期判定を受けざるを得ない状況だったから、運良くAなだ
けで、皆も受ければいいのに⋮⋮﹂
その言葉を聞いて、乃江さんと山科さんが視線を逸らす。
この二人の態度から察するに、相当面倒な事なのだろう。
﹁ま、以上や。他国とのランク差があるから、いつ調整されてもお
かしない状況やし、精進せなあかんな﹂
848
米国の情報共有の件は、みんなにも周知の事実となった。
そこで予想されるのが、退魔士レベルのレート差だ。米国基準に
なると当然ランクダウンは間違いない。
けれど実力が下がる訳じゃないし、正当な基準での再評価なのだ
から、受け入れなくてはならないだろう。
いびつ
日本の退魔士ランクのレベル差は二次曲線を描きすぎている。
間口が広く頂上は険しい形で、歪な評価だと言えるかもしれない。
﹁カオルにはまだ渡すものがある﹂
乃江さんが俺に歩み寄る。そして握った手を俺の広げた手に置き、
そっと開いた。
YAMAHAと刻印された鍵⋮⋮。
これはまさか⋮⋮。
﹁二輪免許取得おめでとう!﹂
その言葉に、鍵を握り締めた。
無茶苦茶嬉しい⋮⋮⋮。
﹁そしてみんなからのプレゼントや。気をつけて乗ってな。怪我し
たらあかんで﹂
手渡されたのは、両手一杯の一つの箱。
震える手で、包装を解くと白い箱、SHOEIのヘルメット⋮⋮
﹁ノリックレプリカ⋮⋮それにアルパインスターのグローブも⋮⋮﹂
白地にアルパインスターをあしらったヘルメット。火の鳥の羽を
模した翼がヘルメットの両サイドに羽ばたき、火の矢が燃え盛って
849
いる。
そして、ヘルメットに合わせた赤のアルパインスターのレーシン
ググローブ。
﹁見に行くか? マンション下に置いてある﹂
乃江さんの言葉に、力強く頷いた。
ガレージ下にカバーと太いワイヤーロックが二重に掛けられたバ
イク。
そのグレーのカバーを取り外すと、センタースタンドに立てられ
た赤と黒、シルバーのバイク。
とても20年前のバイクとは思えない汚れ一つない美しいフォル
ム。
錆の来る下周りのボルトがステンレスに変更されている以外はノ
ーマル。
触れてみてわかるタイヤのシットリ感は、長期保存されたもので
はない。乃江さんが事前に交換してくれたのであろう。
エンジンスタンドを倒し、サイドスタンドで立て直されたバイク
に、乃江さんがエンジンを掛けてやれと首を振る。
キーシリンダーに鍵を差しこみ、右へ回す。
ニュートラルランプが点灯し、ヤマハ独特のYPVSのサーボモ
ーターの唸る音が聞こえた。
俺はハンドルを両手で持ち、SDR−200へ跨り、脚でキック
ペダルを引き出した。
850
﹁行きます!﹂
意気込んで、ペダルを踏み込むとSDRは苦もなく初爆し、エン
ジンに火が灯った。
軽いアイドリングの音と共に、その様子を見ていた皆から拍手が
沸きあがった。
﹁ほんまにエンジン掛かるとは⋮驚きやな﹂
その言葉に乃江さんがシーと合図し、それ以上言うなと牽制した。
その様子を見て俺はハテナマークを頭に浮かべ、山科さんに問い
かけた。
﹁ホワッツ?﹂
その表情を見て、山科さんが苦笑した。
そして口を塞ごうとする乃江さんを振り解き、説明を入れてくれ
た。
﹁そのバイク。数日前までバラバラやってん。乃江が毎日少しずつ
組み立ててんで﹂
と言う事は、これは綾乃さんスペシャルではなく乃江スペシャル
と言う事か。
﹁経年劣化した部品を付けたまま、手渡すわけにはいかないだろ?
あれやこれやと交換していっただけだ﹂
そっぽを向いて照れ臭そうに視線を逸らす。
そんな乃江さんの手腕が、先ほどのエンジンの掛かりやすさに結
851
びついた訳か。
﹁ありがとう、乃江さん⋮⋮﹂
俺の感謝の気持ちと共に、SDRのアイドリングも安定してくる。
バイクも感謝の気持ちを表わしているように、不整脈一つない力
強いエンジンの音だ。
﹁ボルトが二個余ったがな﹂
ニヤリと笑いボルトを見せる。
﹁マジっすか!﹂
結構デカイボルトを見て、SDRの様子を窺う。
いつタイヤが外れてもおかしくない状況だぞ?
﹁嘘だ。脅かそうと廃品から拾い上げただけだ、お約束だろ?﹂
そう言いつつ、古びたボルトを纏めた箱に放り込む。
脅かしてくれる⋮⋮乃江スペシャルって褒めたところなのに。
﹁単気筒なので、プラグの交換とスペアプラグの持ち歩きは必須だ。
エンジンが掛からなかったらプラグとプラグコードを疑え﹂
そういいつつシングルシートの後部を開き、狭いと噂の工具収納
を見せてくれた。
プラグが二本、ビニールテープ、ドライバー一本、プラグレンチ、
10、12、14、17のサイズをカバーできるラチェットレンチ
が一つ入っていた。
852
﹁それ以上の積載は無理だ。手に負えなかったらバイク屋に駆け込
むしかないだろう﹂
説明を入れながらグローブとヘルメットを手渡してくれた。
乗れって事だろうか⋮⋮緊張するなぁ。
ヘルメットを被り、あご紐を留め、グローブの着用感を確かめる。
そして駐車場を脚をついて抜け、アスファルトの路上に出た。
クラッチを握り、左足でギアを踏み込む。
ニュートラルランプが消灯し、ギアが一速に入った事を確かめた。
そしてソッとクラッチを緩め、軽くアクセルを開いた。
完璧すぎる手順を踏んで、動力がバイクに伝わった時⋮⋮⋮
﹃スコン﹄
あっけなくSDRの心臓は停止し、動きを止めた。
俺は恐る恐る乃江さんの顔を見た。
にっこり笑って額に血管が浮いている。
次だ!次!
再びキックで一発始動。SDRはヤル気満々だ。
そして同様の手順を踏んで⋮⋮
﹃ト⋮トトト﹄
頼りないトルクを振り絞り、バイクが前に進んでいく。
﹃クララ⋮クララが立った﹄と心の中で絶叫する。
よし!お前の名前は今日からクララだ! 判ったな! SDRも
といクララよ。
﹃スコン﹄
853
俺のクララはまだ立ち上がれていないようだ。
854
﹃四条柚名01﹄
鬱陶しかった雨季も過ぎ去り、日差しに力強さを感じ始める季節。
俺の早朝トレーニングもさま変わりした。
体術の基礎は乃江さん、美咲さんに師事する事によって、ある程
度のレベルに達する事が出来た。
ある程度と言っても、ハイハイしていた赤ん坊が、ヨチヨチ歩き
出来たレベルと釘を刺された。
けれど、上達を褒められるのは嬉しいものだ。
とはいえ極端に防御面が弱い俺は、トレーニングメニューの変更
を余儀なくされた。
今教えてくれている師は、宮之阪さん、山科さんだった。
山科さん曰く、後衛は戦局の全てを把握し、全体をコントロール
する能力が必要なのだとか。
サッカーで言えば、ボランチ、ディフェンダーの部分だ。
カッコいい呼び方だとレジスター⋮⋮演出家の役割をするだと思
える。
﹁攻守の切り替えを迅速に、攻める所は攻めて、守るべき所は守る
んや。前衛には分からん世界やろな∼﹂
山科さんの煽り文句が、前衛型である乃江さんのプライドを刺激
した。
かくして、真琴が近接の動きを学び、俺が防御と戦術思考を学ぶ
事になったのだ。
ミスマッチとも思えるこの状況だが、意外や意外、学ぶ事が多い
のだ。
﹁カオルさん。ペースアップ﹂
855
宮之阪さんの声が、朝焼けの木漏れ日すら通さない森に響く。
間伐の行き届かない手付かずの山、その木々の隙間を走りぬけ、
獣道すらない腐葉土を踏みしめる。
ディフェンシブ強化コース、一周1km程の小さな山の外周を、
ただ走り抜けると言うもの。
しかし光の届きにくい程に生い茂った木々、その隙間を走り抜け
るのは、相当に集中力とフットワークを要求される。
﹁しかし、このコースで3分10秒とか、ありえん﹂
コースレコードは、宮之阪さんの3分10秒。一周が1kmなの
で時速20kmに迫る速度だ。
しかも宮之阪さんは、深夜の月明かりの下でコースレコードを樹
立している。
﹁マジでありえん﹂
なにしろスピードを上げれば上げるほど、立っている木々が絶妙
のトラップに変わる。
走破のコツは目の前に現れる木を、右に避けるか左に避けるかの
判断速度。
そして二手三手先を読み、避ける方向と最短コースを見定める事
にあるらしい。
慣れてくると数手先、その先が読めるようになるらしい。
同じくこのメニューをクリアした真琴も、七分台の記録を立てて
いる。
俺はまだその領域に達していない。
﹁カオルさん∼ あと3周∼﹂
856
マニセンマキ
とっくの昔に日課を走破し終えた宮之阪さんは、魔法の箒に乗り
併走してくれている。
みんなの前では気後れし、おっとりとした性格も相まって、あま
り話せない宮之阪さん。
けれど二人の時は気後れも薄らぐのか、普通に会話を楽しむ事が
出来る。
そんな宮之阪さんだが、実は凄く綺麗な声をしている。
美咲さんが天使の歌声だとすると、宮之阪さんは妖精のささやき
のようだ
本当に勿体無いと思う反面、その事実を知りうる事に優越感を覚
える。
そんな事を考え、本来の課題への集中力を欠いた時、枝葉が頬を
掠めた。
﹁やべ⋮﹂
判断の遅れが即ゲームオーバーにはならない。そのツケが溜まり、
数手先に苦難を仕掛けるのだ。
将棋で言うと詰みの状況に追い込まれる。
俺は張り出した枝をかわし、目の前の障害に手を付き急停止した。
﹁カオルさん、ミスです∼。 ペナルテイで一周追加∼﹂
ミスすればキツイお仕置きが待っているのだ。
初日はミス連発でエンドレス状態、学校に遅刻し怒られ酷い有様
だった。
今日もそんなこんなで、超過ノルマを数周加算している。
﹁私は朝ごはんとお風呂の用意してますから∼、サボらずノルマを
857
マニセンマキ
こなして下さいね∼﹂
魔法の箒は、機首を上げ上空へと宮之阪さんを運んでいく。
俺は脚を止め、その様子を見上げながら、欠いた集中力を取り戻
そうと呼吸を整えた。
しかしその日は集中力を取り戻す事が出来ず、精彩を欠いたまま
クララ
だった。
SDR−200を駆り、マンションに戻る頃には、人々が目を覚
まし町に活気が溢れ出す。
まず宮之阪さんの部屋に付くと、汚れた服を脱ぎ風呂に入る。
辛い修行も朝風呂に入れば疲れも吹っ飛ぶのだ。
風呂場に入る瞬間、石鹸とシャンプーに匂いにまぎれ、ほのかに
香る宮之阪さんの匂いが香り、ドキドキさせられる。
いつぞやは細く長い栗色の髪の毛を発見し、憤死するかと思った
ぐらい興奮した。
朝風呂はそういったドキドキと、湯船に入る安息感がたまらない
のだ。
﹁ご飯出来ましたよ∼﹂
風呂上りに、フェイスタオルで髪を拭く。
宮之阪家では、バスタオルを使用せず、二・三枚のフェイスタオ
ルで体を拭う。
髪と体を軽く拭い、一枚目を終了。本格的に二枚目で拭き取り、
三枚目は髪の毛専用だそうだ。
長い髪の宮之阪さんは、ドライタオルを含め4枚使用するらしい。
大きなバスタオルを頻繁に洗濯するより、フェイスタオルを数枚
洗う方が楽なのだそうだ。
858
衛生的かつ合理的だなと感心する。
宮之阪家の朝食は、いわゆるイングリッシュブレックファースト。
カリカリのベーコンにハーブ入りのソーセージ、煮豆にマッシュ
ルーム炒め、焼きトマト、目玉焼き、そして食パンだ。
スーパーヘビー級の朝食だが、味付けが絶品で嗜好も日本向け、
おいしくいただいている。
特にサンドイッチ用ほどの薄い食パンを、焼いて食べるのがおい
しい。
朝と昼をしっかり食べて、夕食は夜食レベルで済ますのが英国流
だそうだ。
﹁ごちそうさまでした﹂
﹁おそまつさまです﹂
英国育ちでありながら、日本ナイズされている宮之阪さんは、受
け答えもしっかり馴染んできている。
皿を重ね、キッチンで流水洗いを軽く済ませ、食器洗い機へ並べ
ている。
﹁今日は国籍申請で、一緒に登校出来ません。非常に残念⋮⋮﹂
登校中に交わす、何気ない会話がまた新鮮で楽しいのに。
美咲さんや乃江さんとは、また違った貴重な時間なのだ。
特に宮之阪さんは、仲間の中では控えめなタイプなので、二人で
話せる時間は滅多にない。
返す返すも残念でならない。
ねむい
ふたたびすいまが
仕方なく一人でさみしく登校する事になった。
﹁にゃむい ふああびすひまが⋮﹂
859
宮之阪さん離脱に伴い、気が抜けた俺に再び睡魔が襲ってきた。
眠気まなこを擦りながら、駅から学校まで人の流れに身を任せ歩
いていた時の事。
欠伸と共に発した言葉が、意味不明の言葉となり発せられた
涙を浮かべ奇声を発した俺を、横を歩いていた下級生達がチラッ
と俺を見て、クスクスと笑い足早に歩いていった。
あ∼、元々無い人気がさらにダウンの予感。
ゲームで言えばトキメキ指数ダウンだ。見ず知らずの下級生に笑
われちまった。
足早に走り去る中等部の制服を眺め、妹の同級生じゃなきゃ良い
がと願うばかりだ。
妹である葵に知れたらどうなるか予想するだけで怖い。
﹃うわぁぁんお兄ちゃん! 変な事口走っていたって評判になって
るよ! 葵⋮恥ずかしいよ、もう!﹄
その言葉を聞いた時には、膝蹴りが二発ほど俺の腹部にめり込ん
だ後だ。
アイツの膝蹴りには、磨き上げた技の凄さを感じる。
きっとアイツは生まれる国と性別を間違ったと思う。タイに生ま
れれば、国民的英雄になれたかも知れないのに⋮⋮。
そんなくだらない事を考えつつ校舎に入り、下駄箱を開けた。
くつ箱の中にチラッと見えた封筒。恐らく怪しげなダイレクトメ
ールではない。
薄ピンクにチェックの模様、ウサギのワンポイントにハートのシ
ールで封印され、﹃いかにも﹄な薄ピンクの封筒。
﹁⋮⋮またか﹂
860
この言葉を自信過剰になっていると思われると至極心外。
けれど高二になってからというもの、こういう事が頻繁に起こる
のだ。
牧野健太郎の﹁ま﹂、三室薫の﹁み﹂で、出席番号は一つ違い。
忌まわしい事だが、牧野への手紙がニアミスして俺の下駄箱に入
っている事があるのだ。
普通こういう大事な手紙を渡す時は、念入りに下調べすると思う
のだ。するよね?。誰だってそうするし、俺だってそうする。
ドジでおっちょこちょいの子がカワイイと言う考え方もあるかも
知れない、それでも限度がある。仏の顔も三度まで、ドジっ子のミ
スも三回までだ。
人生をかけたと言って過言ではないだろう手紙だ、郵便でしかも
配達証明付きで送るべきだと思う。
封筒の切手を貼る部分はそう言う為にあるのだから⋮⋮。
俺はうんざりした気持ちでその手紙をつまみ上げ、くるっと表を
向けてみた。
﹁ぶっ!﹂
素で吹いた。
何故ならばそこには見慣れた名前が表記されていたからだ。
力強い綺麗な楷書で書かれた名前は⋮⋮。
﹁⋮⋮⋮﹂
俺はCIA工作員の様に、周囲に気を配り怪しげな動きで、何事
もなかったかのように鞄に封筒をしまい込んだ。
折り目が付かないように、国語の教科書に挟み込む念の入れよう
だ。
どんだけ嬉しいんだよと苦笑しながら、スリッパに履き替え走り
861
出した。
﹁どこで読む?﹂
心の中で自問自答する。
トイレの個室か? ⋮⋮否、それはどうだろうか。せっかくの人
生初のラブレターをトイレで読むか?
そんな事出来はしない、感動が薄れるではないか!
しかし教室に持ち込み読むのは危険だ。何故ならばファントム牧
野が居るから。
あいつの情報収集能力を舐めてはいけない。
俺は素早く携帯の時計をチェックし、十分に時間がある事を確認
し、屋上まで駆け上がった。
﹃ギィィィィ⋮⋮﹄
扉を開き頭だけ出して見回し、人気のないことを確認した。
ベタな展開を予想し、給水塔の付近まで見回る念の入れようだ。
無人を確認したと同時に、鞄から封筒を取り出した。
封筒の宛先を再度確認し、三室薫 様と書かれた文字を指差し確
認する。
﹁三室薫と確認⋮⋮﹂
女の子らしい丸文字ではなく、綺麗な楷書の文体が好感度UPだ。
封筒をクルリと裏返し、うさぎの愛らしい表情とハートのシール
を確認した。
﹁差出人は無記名か⋮⋮﹂
862
そかそか。表に書いて誰かに見られたら大事だもんな。
こう言うのは中に書くものなのかな?
俺はハートのシールをそっと剥がし、中から数枚の便箋を取り出
した。
三室薫様。
直接会ってお話ししたい事があります。
お声をお掛けすれば良いのですが、機会が見当たらず、また迷惑
が掛かるかと思い、手紙を差し上げました。
ゆな
ゆな
放課後、体育館の森でお待ちいたしております。
四条柚名
﹁四条さん、柚名って名前なんだ﹂
俺の頭に牧野に聞かされた言葉がリフレインした。
﹁D組の四条さん知ってるか? カオルに惚れてるって噂だぞ﹂
そんな与太話が本当だったとは、予想もしなかった。
さすがファントム牧野⋮⋮恐れ入った。
俺は再び封筒に便箋をしまい、綺麗に皺を伸ばして国語の教科書
に綴じ込んだ。
おそらく、人生で最初で最後となると予想される手紙を、無碍に
は扱えない。
﹁放課後、体育館の森か﹂
体育館の森とは我が星が丘の告白のメッカ。
大体育館の周りを木が生い茂り、静かで良いムードが良く、そし
て人通りが少ない。
授業で使う体育館は、その殆どが中体育館で行われ、部活と催し
863
にしか使用されないからだ。
体育館の森と言えば、魂喰いに操られた葵に殴られた、いわくつ
きの場所だ。
いざ現実にこういう事が起こると、嬉しい気持ちと共に、なんと
も言い様のない複雑な気分が沸き起こる。
告白されてどうするか⋮⋮と言う事。
宝くじを当てたような喜びから、死刑執行を待つ受刑者の気持ち
に変化していた。
俺のため息と共に、予鈴のチャイムが鳴り、俺の思考は中断され
た。
今日の授業は手に付かず、四条さんとの会話を脳内シミュレート
し続けた。
そして放課後になり、足取り重く体育館の森へと向かった。
体育館の森で一番大きな木、告白の木の下で四条さんが、木にも
たれているのが見えた時、正直足がすくむ思いがした。
しかし逃避した所で問題の解決にはならん。
俺はすくむ足を一歩踏み出し、四条さんの下へ歩き出した。
﹁あっ⋮⋮﹂
ぼんやりしていた彼女が俺に気が付き、もたれて汚れたスカート
を手で払い、両手を前で握りなおし、軽く会釈をした。
俺はそんな彼女を見て、緊張がピークに達した。
何を言っていいのかわからず、通り一辺倒の思いつく言葉を口に
した。
864
﹁手紙読んだよ﹂
もう少し会話になる言葉を使えよと自分でツッコミを入れる。さ
りとてそれが俺の限界点、一杯一杯なのだ。
﹁うん、ちょっと恥ずかしかったけど、声掛けられなくって⋮⋮﹂
手の指を指を絡め前で組み、恥ずかしそうに俯く四条さん。
その仕草がとてもかわいくて、本当に俺なのだろうかと疑問がわ
いた。
だがそんな疑問も俺を見つめる四条さんの瞳で、即座に打ち消さ
れた。
間近で顔を見る機会が無かったが、大きめの瞳は力強く、それで
居て女らしさを失わない澄んだ瞳。
ストレートのサラサラ髪を、惜しげもなく肩の辺りで切り、清潔
感にあふれとても似合っている。
そして制服から露出している手足にも、スポーツ少女らしく無駄
な贅肉は欠片も見当たらず、さりとて女らしさを残している。
慎ましやかな胸の前で、手を組みなおした四条さんが、思いつめ
たような表情を浮かべ、震える口元を懸命に動かそうと努力をして
いる。
来るか?告白?さあ来い!⋮俺の中で覚悟を決めた。
﹁三室くんって、霊感強いって本当? 本当なら相談に乗って欲し
くて⋮⋮﹂
彼女の口から発せられたのは、告白の言葉ではなかった。
865
﹃四条柚名02﹄
﹁三室くんって、霊感強いって本当?﹂
思っても見なかった言葉が、四条さんの口から発せられた。
その言葉の意味を痛いほど知っている俺は、貝のように口を閉ざ
すしかなかった。
小学校の高学年までは見えると言っても、ぼんやり見える、居る
ように感じる、冷水を浴びせかけられたと思う程度だった。
しかし5年生の頃、見える能力が格段に成長した。
そして課外授業でその成長が俺の運命を狂わせた。
﹃せんせ、ぼくこの先に行きたくない﹄
バスを降り史跡までの道を、徒歩で向かっていたときの事だ。
当然先生は俺の言葉を聞き、困ったような顔を浮かべた。
クラス単位の引率を任されている先生だ。他のクラスの足を引っ
張る訳にはいかないからだろう。
それでもなお愚図る俺の為に、足止めを余儀なくされた。
﹃三室くん、ここを通り抜けないと、次の目的地に行けないのよ。
他のクラスにも迷惑が掛かっちゃう﹄
それでもお前はそういう我侭を言うのか、そう表情に浮かべてい
た。
だが俺は、目の前の脅威を感じ取り、コクリと頷いた。
﹃遠回りだけど、少し戻った所に道があって、危なくない所に通じ
てるよ﹄
866
不意に俺の頭の中に、この付近の地図が思い浮かんだ。
まるで空の上から見えているように、鮮明に史跡から現在地点の
迂回路が見えた。
俺の指差す方向を見て、先生は少し考え俺に問いかけた。
﹃分かった、けど先生にだけ教えて欲しいの。何か見えるの?﹄
俺が足を止めた道の先を見つめ、やさしく問いかけた。
ゆうれい
生唾を飲み込み、出来るだけ驚かさないようにそっと耳打ちをし
た。
﹃この先に自分を弔って欲しくて、通る人に手をかける死人が居る﹄
先生はその言葉を聞き、ギョッとした表情を浮かべた。
そして昼間なのに薄暗く感じる道の先を見つめ、俺の手をギュっ
と握り締めた。
結果として俺のクラスはその道を通らず、足早に迂回をした。
迂回した先が史跡に通じ、そこでもまた先生を驚かす事になった。
そして⋮⋮
翌日にまた先生を驚かせる事が起こったのだ。
俺達以外のクラスで、原因不明の高熱を出す生徒が続出した。
今だから言える事だが、いわゆる霊障と言う現象なのだと思う。
季節が秋だった為、流行風邪だと片付けられたが、俺のクラスだ
け無事だという事実を気味悪がる人も多かった。
かくして友達だった者から奇異の目で見られる様になり、噂話が
尾ひれを付け取り交わされるようになった。
俺はそれ以来人と接するのが怖くなり、能力を人に話す事も無く
なったのだ。
867
﹁四条さんもしかして、オカルト好き? 残念だけど俺にはそうい
う才能は無いよ?﹂
告白の件が片付き、身構える事が無くなったおかげで、俺の肩の
力が抜け演技に拍車をかけた。
人に悟られたら学校生活が終わる。再び奇異の目で見られ、俺か
ら人が離れていく。
そんな恐れが、俺を三流役者にした。いや役者にならざるを得な
かった。
﹁ごめんなさい。突然変な事を言って。けど好奇心じゃないの。信
じて⋮⋮﹂
悲しそうな四条さんの表情と、声色でその言葉が真実であると分
かる。
けれど真実の気持ちも、移ろい変わってしまう事があると熟知し
ているつもりだ。
﹁繰り返し言うけど⋮⋮﹂
﹁八瀬さんに聞いたの、三室くんはクラスを救ったヒーローだって
⋮⋮﹂
その懐かしい名前を聞き、俺は言葉を飲んだ。。
八瀬春菜。小学校の頃の同級生だ。
唯一俺に背を向けず、殻に閉じ籠もった俺に気を使ってくれた存
在。
当時は疎ましく感じたが、八瀬さんの存在があるから、今の俺が
あるのだと気づかされた。
違う中学に通い疎遠になってしまったが、いつかあの当時を振り
868
返り、お礼が言いたいと思っていた。
﹁八瀬さんか⋮⋮、懐かしい名前だ。元気にしているのか?﹂
俺の思い描く八瀬さんは、男の子の様に短髪で、元気が良く利発
そうなイメージ。
物事をはっきり口にして、頑固で⋮⋮そして心優しかった。
﹁精華大付属の女バスケ部員なの。ライバル高だけど気が合って、
色々相談に乗って貰ってるの﹂
八瀬さんらしい感じがする。ライバルであろうと関係ない、人の
本質を見て人と話す。
自分が気に入れば、周りなど気にせず人付き合いをしてくれる。
そんな人だった。
﹁そっか、変わってないね﹂
そんな彼女が軽々しく俺を名を出すはずが無い。だとすれば余程
の深刻な事態になっているのだろう。
俺の中で閉ざしていた心が、懐かしい名と思い出に、ほんの少し
だけ信じる心を持ち始めていた。
﹁彼女が俺を⋮⋮、よっぽどの事が起こってるんだ⋮⋮。聞かせて
くれないか?﹂
和らいだ俺の表情を見つめ、四条さんの目に涙が浮かんだ。
俺に歩み寄る動作に異変を感じた。今まで気づけなかったのは、
俺が告白騒ぎで浮かれたからか。
重い足をゆっくりと引き摺り、歩を進める。
869
まるで拘束具で固定されているように、不恰好に歩く足取りを見
つめて、たまらず俺は四条さんに駆け寄った。
以前の彼女の面影は無い。機敏な彼女からは、想像も出来ない鈍
重な足取りだった。
﹁足⋮⋮怪我してるのか?﹂
そんな俺の問い掛けに、ゆっくりと首を振った。
﹁お医者さんに見せても、診断結果は異常無しなの。けど⋮信じて。
足が動かないの⋮⋮﹂
俺は言われて初めて、四条さんの足を意を込めてみた。そして霊
気が薄い状態である事に気づかされた。
靴を履いたつま先から膝までが、外敵に対し無防備の状態。
通常、体から発散される霊気で薄く覆われて少々の傷に耐性を持
ち、霊的に保護される。
そういったコーティングがなされず過ごしていたのだろう、非常
に傷ついて見える。
まるで火傷で真皮まで爛れている様に見える。
おそらくは見た目ではない本質が傷ついているのだろう、弱い雑
霊に対しても防御出来ないのだから。
﹁言われるまで気が付かないなんて⋮⋮﹂
とは言え、話をしている女性の足をジロジロ見るなんて、変質者
紛いな事は出来ないのだが。
俺は原因を探る為に、意にそぐわない言葉を言わなくてはならな
くなった。
870
﹁四条さん、スカートの中を見せてくれないか﹂
至極真面目な顔で言えたと思う。
少しでもふざけて言ったのなら、途端にビンタの一発でも食らっ
ておかしくない台詞だ。
﹁い⋮⋮嫌よ⋮⋮そんなの!﹂
四条さんは、顔を真っ赤にして、非難するような表情で首を振っ
た。
まあ当然の反応だろな。これで﹃ハイどうぞ﹄とたくし上げられ
たら俺が引く。
しかしそうも言ってらない。俺にはスカートの中を見通せる便利
な能力なんて無いのだから。
﹁八瀬さんの名前で四条さんを信じただけ、そうじゃなきゃ⋮⋮﹂
四条さんは、少し戸惑いながらも、スカートを指で摘み、膝から
腿へとたくし上げた。
彼女も親友である八瀬さんを信じ、俺に声を掛けたのだろうから。
美しい肢体が俺の網膜に焼きつく。しかし美脚に見える酷く痛々
しい脚。
そして腿の付け根、ギリギリの所で異変の原因を見つけた。
黒い手の形をした悪意をもった瘴気が、霊気を押さえ込んでいる
様に見える。
これでは末端に補給が出来ず、意思の通わぬ脚になっても仕方な
い。
﹁わっ、四条さん、そこまで!﹂
871
ペパーミントグリーンの色が見えた時に、依然スカートが上げら
れているのにハッと気が付いた。
制止の意味で四条さんの手を握り、たくし上げられているスカー
トを緊急停止した。
俺の言葉に震える手でその位置を維持し、真っ赤な顔で頷いた。
さてどうしたものか、俺が手を触れていい場所じゃないぞ。
霊気を籠めてぶん殴れば消えそうな瘴気だが、非常にデリケート
な場所ゆえにどうしようもない。
﹁ねぇ⋮⋮、まだ?﹂
羞恥の極みであろうポーズのまま、急かす様に声を上げた。
俺は自身の霊気で祓う事を諦め、腰に隠し持った守り刀を手にし
た。
四条さんは、恥ずかしさのあまり目を閉じていて、非常に好都合
だ。
恐らく目を開けても、カナタは見えない。
﹁四条さん、驚かないでね。すぐ済むから﹂
そう言って、守り刀を抜刀する。
﹃ちゃっき∼ん﹄
刀身から零れ落ちるようにカナタが顕現し、刀を持つ俺の手にし
がみついた。
そして眼前で行われている行為に、意地悪い表情を浮かべて俺を
見た。
﹁昼間っからお盛んじゃの、場所をわきまえぬか﹂
872
しがみついた俺の手に噛み付き歯を立てた。
少しの痛みも感じないの戯れを無視し、カナタに小声で耳打ちし
た。
﹁あの瘴気を祓ってくれ。デリケートな箇所だから触れる事も出来
んのだ﹂
握った守り刀を四条さんに向け、カナタへ患部を見せてみた。
﹁ふむ、縛られておるな。このままだと脚が腐り傷も癒えぬ﹂
霊気が通わないという事は、自己治癒すらしないという事。
昔の人は傷を焼いて血止めをした程の霊障らしい。
﹁ただし⋮⋮こんな瘴気では、空腹は癒えぬ。分かっておろうな?﹂
暗にオヤツをくれとおねだりするカナタへ、コクリと頷いた。
向けた守り刀の刀身が、四条さんの脚から瘴気を取り祓っていく。
刀が霊気を祓うのではなく、カナタが直接掬い取り、口に放り込
んでいる。
ダイレクトかつ豪快な食いぷりだ。
﹃ごちそうさま∼﹄
カナタは満足そうに守り刀へ帰って行った。
そして血が通わぬように青白く見えた脚も、赤みを帯びて少し色
を取り戻したかのように見える。
傷ついた脚も霊気を帯び、しばらくしたら回復すると思われる状
態に戻った。
873
﹁四条さん、もういいよ﹂
その合図と共に、目の毒だった脚はスカートの中へ隠された。正
直少し惜しい気がしないでもない。
俺は立ち上がり、頬を染める四条さんの手を持った。
﹁手を持って支えているから、歩いてみて﹂
そんな俺の言葉を聞き、恐る恐ると脚を引き摺った。
最初はおっかなビックリ⋮、そして確かめるように脚を動かして
いく。
﹁えっ、なに⋮⋮うそ?﹂
元々の素養と身体能力の高さからだろうか、すぐに脚を動かし飛
び跳ねるように喜びを表現した。
目に涙を浮かべ、感極まって手で押さえ、こぼれる涙を抑えてい
る。
そんな努力の甲斐も無く、あふれる涙が頬を伝い、そして事もあ
ろうか俺の胸に飛び込んできた。
﹁春菜の言うとおり、三室くんって凄い。やっぱり嘘じゃなかった﹂
子供の頃の感謝の気持ちを、間接的にではあるが八瀬に返せたか
と思えた。
けれどこれは対処療法でしかない、原因を見つけないと再びあの
状態に戻るかもしれない。
脅かす事はしたくないが、事情をよく聞いて置く必要がありそう
だ。
874
事の発端は1ヶ月半程前。
体育館でバスケ部の練習中に起こった。
脚の動きがおかしくなり、痛みも無いのに動かない。
疲れとオーバーワークが原因だろうと、別メニューの練習に切り
替え様子を見た。
けれど日増しに動きが鈍くなる脚に異変を感じ、医者に通い何度
も診察を受けた。
診察結果は心因性のモノではないかと言う事だ。原因の特定が出
来ない場合、往々にして﹃心因性﹄と付いた病名が帰ってくる。
次期キャプテン候補としての重責が心因に繋がったのだろうか?
そして完全に動かなくなった脚を引き摺る事になった。
恐らくだがこの頃に八瀬に相談し、八瀬も勘の鋭い子だから、ま
っとうな病気ではない事に気が付いたのだろう。
そこで俺の名が出て、初めて俺を知る事になる。
そして、俺を目で追う日々が続き、牧野に好意と勘違いされたと
言う訳か。
大よそのあらすじを聞かされ、無言になり考えを巡らせる。
﹁どうして八瀬は、オカルトの世界と四条さんの脚を、結びつけた
のだろう﹂
思考を張り巡らせる上で、気になった事だ。
どうにも引っかかる事柄が頭にあると、思考の展開がうまくいか
ない。
﹁それは⋮⋮私以外にも同様の症状の子がいたからだと思います﹂
それは初耳だ。そう言う事を教えてくれないと、原因追求なんて
875
出来やしないぞ。
﹁そうなんだ。でもどうして怪我の事を知っているの?﹂
余程の知人か、目立つ傷じゃなきゃ他人の怪我など、分からない
はずだろ?
さすがに腕にギブスをつけて、三角巾で釣ってれば骨折かなと思
うし、松葉杖を突いていれば脚の怪我かと思う。
けれど四条さんのように脚を引き摺っていても、大怪我なのか演
技なのか、他人には判らないと思うのだ。
﹁それは⋮⋮バスケ部のメンバーだから⋮⋮﹂
ようやく核心に触れつつある予感を感じていた。
俺は解決の糸口を少しだけ垣間見たような気がした。
﹁バスケ部⋮⋮一ヶ月半前⋮⋮か﹂
まず考えられるのは、利権争いか。
レギュラーポジションの争奪戦が頭に浮かぶ。
次にキャプテン候補の争奪戦か⋮⋮、けれどキャプテンになって
何か得するのか?
責任だけが圧し掛かり、人の面倒と後輩を気遣わなくてはいけな
いのだ。
そして怪我をしたからと言って、キャプテン候補が任を解かれる
とは思えない。
﹁バスケ部のメンバーってどの子が怪我したの?﹂
その言葉を聞き四条さんの表情が曇った。
876
そして重く口を開き、恐るべき事実を口にした。
﹁全員⋮⋮です。二年と一年。総勢10名が⋮⋮﹂
顔面蒼白の四条さんが、かすれる声でそう告げた。
そりゃオカルトの世界かも知れん。八瀬が俺の名を出す訳だ。
﹁今⋮⋮女子バスケは、活動停止を余儀なくされています﹂
俺を見る四条さんの目が、何かを語りかけている。
されどそれを口にするのを躊躇っているかのように、押し黙り涙
を浮かべている。
まぁなんだ。自分だけ治っても仕方ない⋮⋮他の子もって思って
るんだろうな。
けれど八瀬の絡みもあるし、おおっぴらに頼めない⋮と。
﹁どうしたものか﹂
天を仰いで、堂々巡りの思考に陥った。
しかし涙を浮かべている四条さんをみていたら、無下にお断りす
るわけにもいかず。
﹁女バスの子、全員召集して⋮⋮。スカートはさすがに不味いから、
体操服で⋮⋮﹂
俺は自分の甘さにため息が出た。
人の口に戸は立てれない、戸が多ければ多いほど情報は漏れると
いう事だ。
なんかいい考えでも浮かばないかな。
877
流石次期キャプテン候補、体育会系ってのは凄いとしか言いよう
が無い。
ものの30分もせず全員が集合した。
しかもその事に不服を申し立てる者は一人も居ず、全員が体操服
を着用している。
うちの高校の体操服は、現代風で二分丈のスパッツと覆い隠すよ
うな長い丈の半袖。
白の半袖に黒のスパッツと、一見背反する色合いだが、やけにカ
ッコよく生徒にも好評だ。
そんなスパッツに覆われた女子10名を目の前に、俺は少し飲ま
れ掛けていた。
というか、女子部室独特の匂いにうんざりしかけていた。
﹁⋮⋮すげえ統率力だな﹂
俺の言葉に、自慢げに鼻を高くする四条さん。
そしてここは女バスの本拠地である女バスケ部室。俺はそんな場
違いな場所に居た。
﹁四条先輩、この人誰? 彼氏? ちょっとカッコ良くない?﹂
口の聞き方を教わらず生きてきたと思われる一年。
カッコいいのか、カッコよくないのか、よく判らない日本語で捲
くし立てる。
四条さんは説明をする為に、打ち合わせ通りの言葉を⋮⋮
﹁⋮⋮﹂
878
あからさまに嫌そうな表情で、横目で俺を見つめる。嫌そうと言
うか、無茶苦茶嫌がっている。露骨にも程がある。
それでもその苦渋の表情を浮かべ、咳払いと共に説明文を口にし
た。
カオル
﹁この人は、子供の頃から医者になる修行を積んだ、スーパードク
ターKさんです。皆さんの怪我を治してくれます﹂
馬鹿馬鹿しいまでの言い訳の言葉を口にし、スカートをたくし上
げた時より赤面している四条さん。
パンツを見られるより恥ずかしい事ってあるんだと感心させられ
る。
そしてシンと静まり返った場が、笑いの渦に巻き込まれるのはそ
う時間が掛からなかった。
﹁先輩が冗談言うなんて⋮⋮、笑える∼﹂
呆れた表情を浮かべる部員達に、俯いて何もいえなくなる四条さ
んが少しかわいそうになる。
まあそこで俺の登場になるのだが。
﹁笑ってる場合か? 放っておいてもその怪我は治らんぞ?﹂
その言葉を聞き、全員の笑みが消えた。
﹁生意気なお前⋮⋮お前は指が動かない左右共だな、隣のお前首が
曲がらん、次お前⋮⋮﹂
総勢10名⋮⋮全員の患部を言い当てた。まあ見えるんだから言
い当てれて当然なのだが。
879
再びシンと静まり返った場に戻り、後輩の言葉がボソリと響き渡
った。
﹁え? マジなの?﹂
なんとか騙し通せたようだ。
そして自分の考えた天才的なシナリオに惚れ惚れとした。
一人目、生意気な一年だ。
こっそりと俺の手に張り付いているカナタにアイコンタクトをし
て、広げた手を握る。
﹁K先輩⋮⋮四条先輩の彼氏じゃないの? だったら立候補しちゃ
おうかな﹂
立候補しなくていい。大人しく治療を受けてくれ⋮⋮。
手に乗ったカナタが瘴気を祓い、懸命に食っている。
そんなカナタの健闘を見つめ、握る手に力を籠めた。
﹁あっ!﹂
一年は奇妙な声を出し、潤んだ瞳で俺を見つめ⋮⋮見るなコラ。
そして名残惜しそうに、手を離した。
﹁うおっ、動きますよ! 流石スーパードクターKです﹂
感動と共に俺への口調が尊敬の意を籠め、少しだけマシな日本語
に変わった。
女子部員全員が一年の、グーパーを見つめ感嘆のため息を付いて
いる。
880
﹁次、首の人﹂
もう容姿や性格などどうでも良くなっていった。
それよりこの部室の、女子臭さから早く脱出したい⋮⋮。
少しなら芳醇な香りだが、たくさん嗅ぐと毒となる事が判明した。
首にカナタを連れて行き、瘴気を食わせる。
手を触れないと、イカサマ臭くなるのでそれらしく触診しつつだ。
首やうなじを触られつつ、どこか遠くを見つめる女子部員。
クイックマッサージをしてもらう、おっさんサラリーマンのよう
な呆けた表情だ。
﹁あ∼ 先輩良いなぁ 私も首が良かった∼﹂
生意気な一年、お前五月蝿い。
いらぬ事を言うとから、こちらも意識してしまうではないか。
﹁はい次。右足⋮⋮﹂
こいつはヤバイ。四条さんと同じ箇所だからだ。
カオル
しかも患部の一部が、スパッツの下に隠されている。スーパード
クターKピンチ!
﹁あっ⋮⋮﹂
それでも医者の道を全うした俺は、二分丈のスパッツに手を入れ、
腿の付け根を触診する。
スパッツの中に潜り込むカナタの為に、空間を作らねば⋮⋮オー
マイガ。
腿の人は、こそばゆさとそれ以外の何か不思議な表情を浮かべ、
881
俯いて息を荒立てる。
﹁はい次⋮⋮﹂
﹁はい次⋮⋮⋮﹂
﹁ひゃいつぎ⋮⋮⋮﹂
疲れ果てた俺の向けられる表情は、尊敬とまた違った不思議な表
情だった。
俺はそんな彼女らに、声を掛けて場を締めた。
﹁動くようになったからと言って、本調子には程遠い。しばらく安
静にして療養すべし﹂
﹁はい!﹂
女子達の歯切れの良い返事が返ってきた。
ヤリ通した俺も凄いが、食いきったカナタも流石。
脱力しきった俺とは対照的に、満足そうな表情で食後の惰眠を貪
っている。
チラッと横目で俺を見た四条さんが、クスクスと笑い部員を解散
させた。
882
﹃四条柚名02﹄︵後書き︶
鉄ちゃんコーナー
四条さん:
京阪電鉄 四条駅
http://ja.wikipedia.org/wiki/%
E5%9B%9B%E6%9D%A1%E9%A7%85︳︵%E
4%BA%AC%E9%98%AA︶
八瀬さん:
叡山電鉄 八瀬比叡山口駅
http://ja.wikipedia.org/wiki/%
E5%85%AB%E7%80%AC%E6%AF%94%E5%
8F%A1%E5%B1%B1%E5%8F%A3%E9%A7%
85
朽木貴:
道の駅くつき新本陣
http://ja.wikipedia.org/wiki/%
E9%81%93%E3%81%AE%E9%A7%85%E3%
81%8F%E3%81%A4%E3%81%8D%E6%96%
B0%E6%9C%AC%E9%99%A3
別所静音・綾音:
京阪電鉄 石山線 別所駅
http://ja.wikipedia.org/wiki/%
883
E5%88%A5%E6%89%80%E9%A7%85︳︵%E
6%BB%8B%E8%B3%80%E7%9C%8C︶
ちなみに薫たちの学校星が丘も京阪
八瀬さんが通う精華大付属は叡山電鉄鞍馬線 京都精華大前駅です。
私は京阪の回し物ではございません︵注︶
884
﹃四条柚名03﹄
﹁三室くんは誤解してます! 確かにコートでは5人。けれどファ
ールをしない、疲れない、5人で全ての戦術に対応できれば⋮⋮﹂
分岐する要因の消しこみを行う為に、部員犯行説と声を上げた瞬
間に怒られた。
かれこれ数分間、バスケのウンチクを語られてしまっている。
﹁ですからね! ⋮⋮聞いてますか?﹂
一般的にバスケットは5人で行い、ベンチ入りは7∼10人なの
だそうだ。
消耗戦なら選手の入れ替えが勝利への鍵になるし、5ファールで
退場になる対策に交代要員も必要だ。
部員10人だとすると、選手にユーティリティさを求められ、厳
しい戦いになるのだろうと予測される。
バスケにもポジションがある。ポイントガード、シューティング
ガード、スモールフォワード、パワーフォワード、センター⋮。
各ポジション毎に一人の替えを用意出来たとしても、人数的には
ギリギリか。
俺の好きなサッカーでさえ、11人で戦うがベンチ入りは7人だ。
万が一の場合を考慮してゴールキーパーを1人入れれば、6人し
か入れれないと言う事になる。
試合中に当然怪我人は出るし、点を欲しい時、守りたい時に付加
する要員を考慮すれば、監督の戦術はかなり厳しい物になるのだ。
監督がマルチプレイヤーを好むのは、そう言う所に要因がある。
﹁いいや、否定の意味だよ。あの10人は全員シロ。霊障にやられ
885
ていた﹂
ただ瘴気が薄く、カナタでさえおおよその原因しか掴めていない。
俺の頭の上で惰眠をむさぼるカナタが、眠る間際に言った言葉。
﹁希薄ゆえ確証を持って言えぬのだが⋮人の念が作り出したもの⋮
⋮﹂
この一言を信ずるならば、魔物による災害ではないと言う事。
全面的にカナタを信じて、とりあえず初動捜査では消しても良い
と思っている。
﹁とりあえず四条さん、学校での一日をトレースしよう﹂
校門から入って一日を過ごし、家へ帰るまでの追尾⋮⋮、きっと
その中で災いになるものがある筈だ。
まだ本調子ではない四条さんに合わせて歩けば、日が暮れる前に
回りきれるか、微妙な所だが。
俺達は、ゆっくりと歩を進め校門へと向かった。
﹁四条さんは、俺と同じく電車通学? おおよそで良いから登校時
間も⋮﹂
風景は時間によって変化する。
俺が登校する遅い時間、普通の生徒が登校する時間では、同じ場
所であっても違う場所なのだといえる。
例えて言えば繁華街。昼は賑やかな街並みでも、夜になれば女子
供が通る場所じゃ無くなる。
大雑把に昼と夜でも、同じ場所が違う場所に変化するのだ。
886
﹁そう、電車通学よ。朝練する時は6時半かな、準備とか色々ある
し⋮⋮﹂
その時間だと部活の連中しか登校していないだろう。
すれ違う生徒も少なく、いや⋮⋮すれ違う生徒は皆無に等しいだ
ろう。
﹁そっか、その後は教室に鞄置いて、朝練に行くの?﹂
部活動を一切やった事のない俺には、朝練の慣習が良く判らない。
校門から見る夕暮れの校舎は、とても寂しげに見えてならない。
まばらに点在する部活動後の生徒の姿も、その寂しさに拍車をか
けているように見える。
﹁いえ、守衛室に行って帳簿に名前を書き、体育館と部室の鍵を借
ります。そして体育館の鍵を開けて⋮⋮鞄は部室に⋮⋮﹂
四条さんは自分の一日を振り返り、確かめるように言った。
じゃあ次は守衛室か⋮⋮。
うちの守衛さんは警備会社の外部委託だ。より本格的に組織立て
て警備をしているらしい。
何故詳しいかといえば、夜の校舎に忍び込んだり⋮⋮、まあその
なんだ、そう言う理由から知っていた訳だが。
﹁あそこがそうですよ﹂
職員室のある校舎の入り口、来賓や父兄が来るために、生徒の出
入りする昇降口ではない入り口だ。
手前に職員・来賓用の駐車場があり、学校としての入り口を兼ね
ている。
887
入り口を監視できる場所に守衛室があり、液晶ディスプレイが多
数並び、要所要所をモニター監視している。
大理石で出来た守衛室のカウンターには、出入りの管理帳と貸し
出し系の帳簿が並べて置いてある。
﹁これに書いて申請するのか?﹂
所属、名前、申請時間、行き先、返却時間の項目と貸し出しキー
の書く項目がある。
無言で見つめる守衛を無視し、ペラペラっと今日の朝からのリス
トを見て、そこで四条柚名の名前を見つけた。
﹁今日も早起きだな﹂
5時には修行に入る俺よりは遅いが。
それでも一般人にしては早い⋮⋮、足が動かなくても部は存続す
る⋮⋮四条さんの熱意と意地を感じる。
今日も引き摺る脚で、駅から学校まで歩いて来たのだろう。誰に
も見られず、誰の助けもない。
行った所で好きなバスケをする事は出来ないのに。
返事も出来ずに居た彼女の頭に手を置き、良い子を褒めるように
撫ぜた。
﹁わっ! 何するの!﹂
突然頭に手を置かれ髪を撫ぜられ、非難の声を上げて俺を睨む。
﹁褒めているんだ﹂
睨まれた所で、褒める気持ちが減るわけではない。善い行いには
888
褒め、悪い行いには叱責する。人として当然の事だ。
四条さんが不快に思ったのも最初だけ、その後は猫の様に目を閉
じ撫ぜられている。
前から思っていたが、四条さんは猫っぽい。
小柄で機敏なポイントガードと言う事もあるが、大きな瞳と閉じ
た時のギャップが猫だ。
﹁次行こうか。部室だな!﹂
女子部室は中体育館の中にある控え室だ。
小屋のような部室は女子の場合、色々と問題があるのだろう、体
育館の中できっちり施錠できる場所に設けてある。
体育館に入ると屋内競技の部は、帰り支度を始めていて閑散とし
ている。
恐らく普段幅を利かせている女バスの練習がない事も、閑散さに
拍車をかけているのだろう。
先ほどの集合場所が部室だっただけに、勝手知ったるなんとやら
だ⋮⋮。
四条さんが部室の鍵を開け、コッソリと俺を招きいれてくれた。
﹁女子部だから、見つかると色々うるさいのよ﹂
そう言いつつも悪びれない表情で舌を出す。
招かれた女子部室は、先程の騒がしい雰囲気など残っていない。
夕暮れ前の雰囲気に彩られ静かだった。
﹁⋮⋮なにも見えない。ここもシロか﹂
そんな俺を見て四条さんが問いかけてきた。
889
﹁ねぇ? こういう事聞くものじゃ無いかも知れないけど、どうい
う風に見えるの? その⋮ 幽霊って﹂
問い掛けにどう答えて良いのやら⋮⋮。
中途半端に言葉を濁しても余計な好奇心を煽るだけか。
﹁四条さん⋮⋮俺はどう見えている?﹂
﹁三室くん? 身長180センチくらい? 痩せ型で⋮、前髪が目
に掛かって表情が読みにくい⋮かな﹂
﹁四条さんは165センチ、小柄だけど元気が詰まっていて、かわ
いい子。青の霊気を纏って、澄みとおった川の水の様に繊細に見え
る﹂
見たままを四条さんに伝えてみたが、キョトンとした表情を俺に
向けている。
そして小声で呟いた。
﹁ごめん⋮⋮無神経だった﹂
四条さんが賢い人で良かった。
俺が見ている世界と、四条さんが見ている物は、似て非なるもの。
違う世界を見ているのだ。
それを見えている事が幸せなのか、不幸せなのか。
人に伝えても理解してもらえない感覚、人と共有できない感性を
持つ事は不幸せだと思う。
﹁行こうか。次、体育館﹂
890
部室を施錠し、廊下を跨ぎ体育館へと向かう。
完全に人の気配の失せた体育館、少し前までの人の温もりと汗の
匂いが残っている。
﹁やってみるか⋮⋮﹂
俺はそっと目を閉じた。そして安息の呼吸で心を落ち着かせる
閉じた目、瞼を超えて景色が広がる。
心の目が開かれ、閉じている目の前に広がる景色が心に映る。
心が静まり穏やかな気持ちになっていく。心のパズルががっちり
噛みあった。
岩国の格納庫で久しぶりにピントが合ったあの感覚を⋮⋮。
﹁三室くん?﹂
俺の行動を不審に思ったのか、心配してくれたのか。
声を掛けられるまでの一瞬だが、ガキの頃に見えたクリアな世界
を垣間見る事ができた。
﹁ああ、大丈夫。瞑想⋮⋮みたいなもんだ﹂
ガキの頃に楽勝で出来た事、今は覚悟を決めて一瞬だけってのも
情けない。⋮⋮老いか?
反動からか、酷く汗を掻いている⋮⋮。頬を伝う汗が顎へ溜まり、
ポタポタと床を濡らしていく。
﹁すごい汗⋮⋮、瞑想って嘘でしょ。大丈夫? 三室くん?﹂
四条さんは慌てて鞄を開き、使う予定の無かったスポーツタオル
を取り出し、俺の汗を拭ってくれた。
891
洗剤の香料以外に香る、四条さんの優しい匂いが鼻をくすぐる。
意図しない時はなんでもないんだが、無理やり使おうとするとこ
のザマだ。 拭い終わった四条さんが、タオルを両手で持って団扇の様に俺に
風を送ってくれている。
だが一瞬ではあったが、全てが見えた。
﹁ここも大丈夫。何もいない﹂
だとすると何処だ? どこで触れ合った? 何処で恨みの念を受
けだのだ?
部員の生活が交差する場所⋮⋮そのラインをトレースした筈なの
に。
なにか⋮⋮なにか見落としがある筈だ。
練習試合の外でやられたか? いや四条さんは練習中に不調を訴
えたと言っている。
やはりキーになるのは、バスケ部の練習中だ。
﹁帰ろう﹂
ここもじきに闇につつまれる⋮⋮、霊的に弱った状態の四条さん
は、闇に耐性が良いとは言えない。
これ以上の追跡は危険だと思えた。
そして人の匂いのする体育館を後にし、キー返却の為守衛室へと
立ち寄った。
﹁部室の鍵だね﹂
コクリと頷き、台帳に署名する四条さん。
892
きっと明日は意気揚々と部室の鍵を借りにくるのだろうな。
﹁あっ⋮⋮﹂
四条さんが台帳を見て、虚ろな目を向ける。
台帳の文字を見ながら、どこか遠くを見ているように⋮⋮。
台帳を閉じ口を真一文字に閉じ、俺の手を引き守衛室から引っ張
り出した。
﹁ど、どうしたの? 四条さん?﹂
袖が破れるんじゃないかと言う勢いで引っ張られ、傾いたままの
体勢で引き摺られる。
﹁思い出した事があるの﹂
意思を持つ手に引かれ、俺はどうする事も出来ず従うしかなかっ
た。
引く手が導く先は校門方向ではなく、体育館⋮⋮、部室とバスケ
部の本拠地がある中体育館ではない。
俺と四条さんが出会った場所。大体育館だった。
﹁一度だけ⋮⋮一度だけね。大体育館を使った事があるの。祭事で
中体育館が使えなかったから⋮⋮台帳書いてて思い出した﹂
日が沈みかけ、闇が支配し始めた。もうすぐ宵闇だ。
一番アンバランスな時間⋮⋮、危険だ。
﹁いや、今の時間はヤバイ。理由はないけど、ヤバイとしか言えな
893
い﹂
俺は深夜より夕暮れから宵の頃が嫌いだ。
本能的にとしか言いようがない。体系立てられた理由は何一つ無
いから。
けれど闇の住人が動き出す時間の始まりとして、俺は忌み嫌って
いる。
﹁大丈夫、三室くんが居るから﹂
そう言いながらも俺の袖を掴む手が震えている。
無理しているのが見え見えだ。
少し脅かしてみようか。
﹁わっ!﹂
その大声と共に飛び上がる四条さん。
平然と立つ俺を見つめ、涙目になって睨む。
﹁ひどい⋮⋮⋮﹂
いや、ほんとに泣くな。ちょっとした悪ふざけだから。
まあこういう事で脅かしておくと、恐怖に耐性が付くから、満更
悪い事でもないんだが。
俺は四条さんの手を握り、大体育館の周囲を回る事にした。
木々が植えられ、昼間はムード良い場所も、宵闇の中だと違った
雰囲気に変わる。
﹁表は施錠済み⋮と。簡単に開きそうな雰囲気でもないか﹂
894
歩きながらも、進入ルートを模索する。無ければ無い方が良いの
だ。
明日にした方が良いと俺の中で警報が鳴っているから。
﹁三室くん⋮⋮ごめん、ちょっと怖い⋮⋮かも﹂
四条さんも感じたか。なにか居る雰囲気を。
裏口を見つけ立ち止まる。そして裏口にゆっくりと手を掛けた⋮⋮
﹃ギィィ﹄
錆びた扉は、押す手で抵抗無く揺らいだ。まるで俺たちを招いて
いるかのように⋮⋮。
その扉を見て、俺はため息が出た。最終確認をしなくてはいけな
くなった。
もし何かあっても、自主的に入ったのだと。
俺に連れられ無理やり入った訳では無いと⋮⋮確認する必要があ
る。
大抵のホラー話では、無理やり連れてこられた奴は最初の犠牲者
になる。
これは俺なりのジンクスだ。﹃望んで﹄入る事、それが﹃生還﹄
の鍵なのだ。
﹁四条さん⋮⋮入るか?﹂
四条さんは、数秒迷い⋮⋮俺の手を強く握り、コクリと頷いた。
迷っている間にも時間は過ぎ去っていく。闇が学校を支配する猶
予を与えてしまったのかも知れない。
895
﹃四条柚名04﹄
﹁一つ疑問に感じるのだが、どうしてバスケ部は大体育館を使わな
いんだ?﹂
扉を一歩踏み込んだ所で、四条さんへ問いかけた。
﹁中体育館の床は緩衝構造で、膝と腰に掛かる負担が少ないし、そ
れに⋮⋮壁面設置のフープなの、リモコン式の﹂
壁面設置⋮⋮壁から突き出した支持形をしているのだろう。
移動型のゴールの場合、設置に対しても監督義務は発生し、自由
度が低くなる。
バスケットボールの設備に投資をして貰って、使わないと言う選
択肢は取れないのだろう。
なんとなくだが、大体育館の立ち位置がわかった。
﹁でも先々代までは、中体育館が無かったから、ここで練習してた
のよ﹂
部室も近いし最新設備の中体育館か。俺が監督する側ならそちら
を優先する。
怪我一つされても大問題になりかねない今のご時世だから。
﹁大体育館を使う部があると聞いたんだけど、そいつらは無事なの
が不思議だ⋮⋮﹂
大なり小なり影響が出て、俺や美咲さんらの耳に入っても可笑し
くない。
896
それなのに噂一つ聞かないというのが疑問として残るのだ。
﹁そんな部は無いです。屋内競技の部は全て中体育館で活動してま
すから﹂
﹁そうなのか?﹂
式典関係は講堂でやるし、大体育館で執り行われる行事と言って
も限られる。
そんな状況で維持に予算が捻出されるとは思えない。
よく見るとあちこちに傷みや経年劣化の後が見受けられ、補修を
されておる様子も伺えない。
⋮⋮取り壊しも近い状況なのかも知れない。
おそらく裏口の鍵が閉まらないのも、そういった背景があるのか
も知れない。
二枚目の扉を開けば体育館へ入れる所まで来た。俺は立ち止まり
中の様子を感覚の目で伺う。
俺の嫌いな瘴気特有の気配、本能の警鐘が俺に知らせてくる。
﹁この先は何があっても俺の側を離れないで﹂
脅かさない様に言ったつもりではあったが、どうにも俺はそう言
った気遣いが苦手らしい。
逆に驚かしてしまったようで、ビクリと体を震わせ萎縮させてし
まったようだ。
鉄の扉に手を触れ、そっと押し開き広々とした体育館を一望する。
眼前には飛ぶ瘴気の塊。浮かんでは消え、消えては形を成す。
﹁三室くん! アレなに?﹂
897
⋮⋮四条さんにも見えるのか? 意思を持たぬ瘴気の塊が。
﹁瘴気。人の通わぬ場所には溜まりやすい﹂
瘴気⋮⋮。
古代から病を引き起こす悪い空気を総称して瘴気と呼んだ。
おそらく伝染病を引き起こす者が原虫やウイルスである事を知ら
なかった時代に、穢れや汚染された空気として、害を為す空気を総
称して瘴気と呼んだのだと思う。
俺達退魔士達は、害のなす悪気想念の塊を瘴気と呼んでいる。
人は全て聖人ではない、むしろその逆だと言える。
人に対する恨みの念、殺意、妬みなどの感情を負の要素とするの
なら、そう言った物の集合体が瘴気だと呼べるだろう。
人の纏う霊気には、その瘴気の分散要素があり、俺達退魔士は霊
力を用いて魔物を狩る。
ゆえに人の通る場所は、自然浄化作用が生じ、瘴気を分散するの
だ。
だが人の通りの絶えた場所には自浄作用が働かない。
大体育館の周りが告白のメッカになっているのも、瘴気を集める
要因になっているのかも知れない。
﹁私たちが体育館を使わなくなったから? だから?﹂
ふうひょうか
四条さんだけの責任じゃない⋮⋮俺たちみんなの問題だ。
﹁風飄花﹂
風に舞う桃の花が、俺達を中心に渦巻く。
桃の金気が周囲の瘴気と触れ合い、火花を散らし中和、分解して
いく。
898
ふうひょうか
﹁なに? これ﹂
風飄花も見えるのか⋮⋮。もしかして四条さんにはその手の能力
があるのか?
﹁桃は金気。陰陽五行では金気は魔を祓う力があるとされている。
桃太郎が鬼を退治するのも金気を持つ桃の生まれ変わりだから﹂
身近な話で説明をいれてみたが、我ながら即興の説明にしては判
りやすいと思った。
ちなみにお供の雉は鳥として西の方角で金気、つき従う猿も金、
酉と隣り合う犬は土気に分類されるが、西の方角の干支を従者とす
るのは、陰陽五行論からなぞられたものだと思う。ちなみに黍団子
の黍も金気に分類される。
あいつは金気のスーパーエリートなのだ。
﹁不思議⋮⋮。三室くんの手を握っていないと見えないのね。手を
離したら真っ暗闇で、見える時より怖い﹂
その手を二度と離さないと、握る手を強め四条さんが俺を見つめ
た。
﹁カオルの霊気が手を伝い、その者に流れておるのじゃろうな﹂
⋮⋮木刀に霊気を籠めたように、手から流れて四条さんに伝わっ
ているのか。
やっぱり俺は﹃電池﹄みたいだな⋮⋮。
﹁女の子の声も聞こえる⋮⋮﹂
899
カナタの声も聞こえたか⋮⋮。不意にいたずら心が芽生え、膝を
折り四条さんと目線を合わせた。
四条さんはキョトンとした表情で、俺の顔をゆっくりと確かめ、
頭の上のカナタと目をあわす。
﹁んぐ!!﹂
言葉にならぬ悲鳴を上げ、仰け反った。そして遠くなる意識に耐
え踏ん張った。
さすが体育会系少女。ギリギリの所で踏みとどまったな。
﹁刺激が強すぎたか。その小さいのは俺の相棒だ。名はカナタ﹂
﹁相棒と言うより保護者のようなものじゃ﹂
遠くなる意識を奮い立たせ、頭を振って意識を保とうとする四条
さん。
こういう所、この子の強さみたいなものを感じるな。
肝っ玉母ちゃん⋮⋮。こんな事を言ったらぶん殴られるかもな。
﹁三室くんの背が高くて見えなかったのね⋮⋮そうね。納得だわ﹂
勝手に自分の中の不都合を、無理やり納得させ言い聞かせていた。
その様子を見て、ため息を付いたカナタ。呆れ顔で四条さんを見
下ろした。
﹁四条柚名です﹂
ペコリと頭を下げカナタに挨拶をかわす四条さん。
900
少しパニックに陥っているのかもしれない。
ふうひょうか
﹁とりあえず⋮⋮﹂
風飄花の渦が瘴気を祓い、一時的にではあるが周囲に清浄な空気
が立ち込めた。
目を凝らし周囲を窺う余裕の出来た俺は、体育館を見回した。
﹁居た﹂
四条さんは俺の小さな呟きに反応し、ギュッと俺の手を両手で抱
き身を寄せてきた。
息使いと手に伝わる体温、柔らかい体の弾力を感じ、俺の鼓動を
ペースアップさせた。
そんな俺の動揺も四条さんには伝わらなかったようで、目の前の
現象に目を奪われていた。
﹁うん⋮⋮なにか光ってる﹂
見つめる先にあるのは、体育館の至る所に光る燐光。
男でもあり女でもあり、人であって人でない中性的な存在が飛び
交っている。
﹁蛍みたい⋮⋮﹂
一歩前を歩き左手にナイフ、右手に守り刀の柄を手にし、ゆっく
りと引き抜いた。
その様子を見て、四条さんがそっと手を離し、背中に触れるよう
後ろへ回った。
901
﹁カオルにはアレが悪しき物に見えるか?﹂
叱責するカナタの言葉を聞いても、正体不明なモノ。善悪付きに
くいと言うのが本音だ。
瘴気を発する完全な魔の匂いはしない。けれど人に害をなす存在
は⋮⋮。
﹁あれは残留思念じゃ。この学び舎を巣立ったもの達のな﹂
その言葉を聞き、燐光を放つ物体を見る。
俺たちに何かを語り掛けたいという思いを強く感じる。
俺はトウカのナイフを鞘へ戻し、四条さんの手を再び握った。少
しでも安心して欲しい思いがそうさせた。
﹁四条さん、アレは先輩達の思いの塊らしい﹂
﹁先輩方の⋮⋮?﹂
その言葉を聞いて、俺の影に隠れるようにしていた四条さんが、
一歩前に出て燐光をまじまじと見た。
燐光が飛び交い、瘴気を祓う。穏やかな代謝がそこで行われてい
た。
俺の霊気が四条さんに伝わっているのなら、近づけば意図するメ
ッセージが流れ込んでくるだろう。
﹁先輩達の意思に触れてみるか?﹂
俺は確認の意味で問いかける。もちろん問いかけた人は四条さん
に他ならない。
902
﹁もちろん! なにを言いたいのか確かめたい!﹂
四条さんの意志の強さを感じる一言だ。
普通の女の子なら尻込みをして、考えを纏める事すら出来ないだ
ろう。
さすが次期キャプテンと言う訳か。肝の据わり方が並じゃない。
﹁行こう﹂
燐光に向かいゆっくりと歩を進め、付き従う四条さんの手を強く
握った。
残留思念⋮⋮、物や場所に残る強い意志の塊。
何を伝えたいのか、なにが心残りなのか。
歩を進めるに従い流れ込む意思、波打ち際のさざ波のように、体
に染み込む意思の波。
﹃⋮⋮⋮﹄
言葉に出来ない慈愛の気持ち、いたわりと厳しさ、相反する気持
ちが流れ込んで来た。
四条さんになら判るんじゃないか?、後輩達を見守る慈愛に満ち
た先輩方の思いが。
﹁先輩の方々の思いが、大体育館を守っていたのね⋮⋮﹂
それでも、瘴気の押し寄せる波には勝てず、押し切られそうにな
っている。
そんな健気にも護り続ける念の強さに、胸を打たれる思いだ。
﹁ねぇ、どうしたら⋮⋮﹂
903
言葉を詰まらせ俺を見上げる。
それは言わなくても判る事だろ? 気を通わせ建物を護るしかな
い。
そして四条さんの代もこの思いに心を重ね、愛する気持ちを乗せ
ていくしかない。
﹁それは俺たち、そして学校も巻き込んで考えなくてはならない事
だ。四条さん一人じゃ荷が重過ぎる﹂
老朽化した設備を直し、再びこの場所に風を通す。人の活気が建
物を生き返らせ、慈愛の思いを残せば。
﹁この先輩達の気持ちを大切にしたい⋮⋮﹂
口をギュッと閉じ強い思いを胸に抱く四条さん。手を伝い強い思
いが俺に流れ込んでくる。
﹁私⋮⋮学校に掛け合ってみる。このままここを朽ちさせる訳には
いかないわ﹂
この子らしい判断だ。行動に移さず後悔したくないのだろう。
そんな気持ちに少しでも応えてやりたい気持ちで一杯になる。
﹁トウカ! 力を貸してくれ!﹂
左手に持つナイフの文様が赤く光り、零れ落ちるようにトウカが
顕現した。
素早く俺の頭の上、カナタの横へ飛び移り扇を手に舞い踊る。
優しい風が周囲を吹き、桃の花びらが風に身を任せて舞い散る。
904
渦を巻く花びらの一つ一つに籠められた、強い浄化の力が周囲の
瘴気を取り祓って行く。
﹁綺麗⋮⋮﹂
風に舞う花びらと、蛍の光のような燐光が、ダンスを踊るかのよ
うに飛び交っていた。
﹁今日は遅い。送っていくよ﹂
﹁うん。これ以上遅くなっちゃうと怒られちゃう﹂
俺達は飛び交う燐光を見つめ、そっと体育館を後にした。
外はすっかり日が落ち、夜空に星が瞬いていた。
﹁ねえ⋮⋮三室くん?﹂
学校から駅までの帰り道。長い沈黙に耐えかねたのか、四条さん
が話しかけてきた。
俺は沈黙と言う時間の感覚が人と違うようで、逆に心地よかった
りするのだが。
﹁わたしね。また大体育館に行くと思う。先輩の思いを大切にした
いし⋮⋮﹂
言葉を区切り、思いつめた表情で、深呼吸をする四条さん。
﹁私の思い出の場所になっちゃったから﹂
905
ぎこちない笑みの中に、俺の理解しえぬ思いがあるのだろう。
澄んだ青の霊気が、少女の清純さと美しさを際立たせていた。
日差しに力強さを感じ始める季節、いや力強すぎてうんざりしそ
うな季節。
ねむい
眠気まなこを擦りながら、駅から学校まで人の流れに身を任せ歩
みやのさかさん
いていた。
﹁みにゃのさかひゃん。めむい﹂
you
bored
with
me?﹂
欠伸まじりの言葉を聞き、隣を歩く宮之阪さんがクスクスと笑う。
﹁Are
宮之阪さんが英語で語り掛ける時、それは正しく言葉を伝えたい
時だ。
悲しげなトーンで語る言葉に、俺は危機を感じた。
﹁⋮⋮ごめん﹂
意味を理解して返答した訳じゃないが、悲しませた事に変わりは
無い。
今の謝罪はそれに対したものだ。
﹁で?なんて言ったの?﹂
906
﹁内緒です﹂
くそう。教室に言ったら辞書を引こう。
退魔士の世界もワールドワイドになるし、英語⋮⋮勉強した方が
良いかな⋮⋮。
校門を抜け俺達の校舎へと向かう道すがら、ふと気になる事を確
認したくなった。
﹁宮之阪さん、ちょっと寄り道していい?﹂
俺は校舎の入り口の守衛室へと立ち寄った。
大理石の受付のカウンターに広げられた貸し出し台帳⋮⋮、今日
の日付の最初を確認した。
﹁カオルさん、どうしました? なんだか嬉しそうな顔してますよ﹂
台帳に四条柚名の名前を見つけて、嬉しくなる。
貸し出しキー、中体育館、女子バスケ部室、そして大体育館と書
かれていた。
907
﹃四条柚名04﹄︵後書き︶
数ヵ月後、学校中が奇妙な噂で持ち切りになった。
﹃大体育館で、季節外れの蛍を見ると想い人に巡りあえる﹄と言う
物だった。
その噂を聞きつけ、日参する女子が後を絶たない。
四条さんら体育会系で掃除や草引きをし、見違えるように綺麗にな
った大体育館ではあったが、今や願掛けスポットと化していた。
﹁あの噂を流したの、四条さんだろ?﹂
人が通う状況を見事に作り出した四条さんの機転に脱帽する。
大体育館の復興も、女バスの面々が学校・各部員に話し、生徒を動
かしたらしい。
﹁ええ、今日も願掛けと言うか、蛍探しにたくさん来たみたい﹂
したり顔でニコニコしている四条さん。
作戦通りという訳か。
﹁そんなデマを流すなんて⋮⋮﹂
人集めだとは言え、デマで扇動するのはどうかと思う。
信じている女子が知ったらどう思うだろうか
﹁デマじゃないわ、本当の話なんだから⋮⋮﹂
四条さんの強い意志を持つ眼差しは、俺を食いいるように見つめ⋮
そして深いため息を付いた。
908
﹁でも⋮⋮出会えても、相手が鈍感な場合、保証の限りじゃないけ
れど⋮⋮﹂
909
﹃彼方01﹄
﹁天野様のお宅でしょうか? 三室と申します。美苑様いらっしゃ
いますでしょうか?﹂
掛けなれない電話、しかも電話の相手は美咲さんのお母さんだ。
緊張し、携帯電話を何度も持ち直した。
﹃もしも∼し、カオルくん? もしかしてデートのお誘い?﹄
久しぶりの美苑さんは相変わらず軽いノリだった。
もしかしてここで ﹃そうです、デートしましょか?﹄ なんて
言えば、地雷を踏むのだろうか。
﹁お誘いしたいのは山々なのですが、今日は別件でご相談したい事
が⋮⋮﹂
最近一癖も二癖もある人々と親交が深くなり、こういった地雷も
サラリとかわせるようになってしまった。
それを成長ととるか、汚れたと取るかは本人次第なのだが。
﹃デートじゃないとすれば⋮⋮、美咲と結婚を前提に⋮⋮なんて相
談じゃ?﹄
再び地雷を設置する美苑さん。相手はかなりの難敵だ⋮⋮話がま
ともに進まない。
﹁そういう事は電話でするものではないと思います。 違います﹂
910
二個目の地雷もひらりとかわす。俺も成長したな。
﹃あんまり女を待たせるものじゃないわよ。一度デートに誘ってみ
なさいよ。オッケーだから﹄
﹁マジですか?﹂
ばら撒かれた餌に食いついてしまい、しばらくの間男と女の講釈
を聞かされた。
あ∼、何時になったら本題に入れるんだろう⋮⋮。
﹃あ∼、面白かった。 カオルくんって聞き上手ね。 また電話し
て来てね♪﹄
一方的に話しにつき合わされた挙句、電話を切られそうになって
しまう。
ここで切られたら何のために電話を掛けたか分からんじゃないか。
﹁ちょっと待った。本題が⋮⋮﹂
危うく切られそうに成った所でようやく本題に入れた。
﹃本題? もしかしてデートのお誘い?﹄
﹁なんで、そこでループするんですか﹂
危うく最初に戻ってしまう所だった。美苑さん恐るべし。
百戦錬磨の話術にはまってしまう所だった。
﹁日本刀のメンテをしていただける方を探しています﹂
911
ようやく本題を話す事が出来た。長かった⋮⋮。
そして再び日本刀のウンチクを語られてしまった。
日本刀の本身、刀身の部分は刀匠が打つ。仕上げの研磨は研磨士。
刃を鯉口にあわせるハバキ。鞘、柄巻き、漆などそれぞれが分業ら
しい。一概にメンテと言っても幅広いし奥が深い。
﹃退魔刀を扱える人は⋮⋮奈良の星川さんて方かな∼﹄
﹁奈良⋮ですか﹂
新幹線で移動すれば京都まで2時間、そこから1時間ほどか。連
休を利用すれば行けそうだ。
﹁ご紹介いただけますか?、今週末の連休を利用して看てもらいに
行きます﹂
看て⋮⋮か。自分で言っておきながら言いえて妙だと思える。
俺はカナタと生涯付き合うと決めた。相棒の状態を知るのは、俺
の義務であり責任だ。
﹃ええ、わかったわ、無形文化財クラスの人だから失礼ないように
ね﹄
電話を切られ、ふと考えを巡らした。無形文化財ってなんだ?
形のない存在を想像して、身震いした。そういうものじゃない、
偉い人だよな。
﹁あとは宮之阪師匠に休みを貰わないとな﹂
912
俺は携帯の短縮を探り、続けざまに宮之阪さんへ電話を掛けた。
﹁宮之阪さん? 今週末の連休なんだけど、刀のメンテしたくて⋮
⋮﹂
﹁修行を休むの却下﹂
先読みされた⋮⋮まるでニュータイプの動きだ。そして即答で却
下された。
だがこの機会を逃したくない。カナタの体調管理は、何が何でも
やっておきたい。
﹁なんとかなりませんか?﹂
﹁カオルさん⋮⋮今、育ち盛り。 休むと今までの修行、無駄﹂
ぐうの音も出ない正論で畳み込まれた。
けれどもう美苑さんにお願いした手前、休みは貰わないと⋮⋮。
﹁刀と修行を両方出来る方法が⋮⋮﹂
なんと!、そんな事が可能なのか? そういう名案は是非とも聞
いておきたい。
﹁その名案いただき。どんな方法?﹂
﹁私を⋮⋮連れて行くことです﹂
がっ⋮⋮、確かに両立できるな⋮⋮。
913
土曜の朝の事、俺はぼさぼさの髪を何とかすべく、ドレッサーの
前で呆然と立ち尽くす。
前髪が荒々しく7・3分け、髪の毛の両サイドが外ハネし、トッ
プは怒髪天を突く状態。見事なまでに前衛的な髪型を形成していた。
﹁こりゃ、櫛とドライヤーで何とかなるもんじゃないな⋮⋮﹂
修復作業をあきらめ、ドレッサー備え付けの椅子に腰掛け、朝シ
ャンを試みた。
我が家の無駄な設備の代表格、シャンプードレッサー。カッコよ
さそうだから購入してみたが、一度使って家族全員が無言になった。
そして洗面台としてしか使用しない。
そんな彼に本日やっと活躍の場が設けられた訳だ。
シャワーノズルを引き出し、勢いで頭を濡らした所でハタと気が
付いた。
﹁シャンプー無え⋮⋮﹂
使い慣れない物を使うものではない。
ずぶ濡れの髪を振り乱し、風呂場から調達して来ても良いのだが、
めんどくさいし足元が濡れる。
俺は非常用のアイテムに目をつけた。
﹁薬用石鹸⋮⋮﹂
殺菌力が最近アップしたと噂の石鹸だ。よく洗い流せば問題ある
まい。
俺がオレンジ色の石鹸を手で揉み、泡立てて髪の毛とシャッフル
914
してみた。
シャンプーなん無い時代は、石鹸使っていたのだろうし害は無い
⋮⋮筈だ。
髪と地肌を丹念に洗い、シャワーノズルを引き出して、お湯で洗
い流す。
いつも以上に時間をかけた髪の毛は、見事なまでに油分を喪失し
ていた。
﹁トニックシャンプーなんて目じゃないな。すげぇ爽快感⋮⋮﹂
指通りさせる度にキュキュと音を立てる髪の毛。その洗浄力に満
足しドライヤーで乾かした。
櫛で整えシャツを羽織り、家を飛び出し駅へと向かった。
とりあえず財布の中身も服装も準備万端だ。
けれどそんな大事な日に限って、少しばかり遅刻気味の俺だった。
﹁約束の時間を過ぎてるよ⋮⋮、怒ってるかな﹂
駅前の噴水の脇のベンチで待つ宮之阪さんが見えた。
時計を確認してキョロキョロと周りを見回している。そして俺を
見つけた時、今まで見た中で最高の微笑みで迎えてくれた。
﹁ごめん﹂
微笑みに迎えられ、小手技の言い訳は失礼だと思い、素直に頭を
下げた。
そんな俺を見てハンカチを手渡してくれた。
﹁一生懸命走って来てくれたから、許してあげます﹂
915
遠慮して受け取れないハンカチで、俺の額に浮き出た汗を拭いて
くれている。
いやぁ、真面目に走ってきて良かった。余裕こいて歩いて来たら
ぶっ殺されてるな。
何気に感じ取ったバッドエンドの香り、地雷を一つクリアしてホ
ッと一安心だ。
﹁新幹線と在来線の乗り継ぎになります。行きましょうか﹂
新幹線で京都まで、そこから在来線に乗り換え奈良へ。
インターネット検索では京都︱奈良間は特急を利用するのが最速
みたいだ。
緑の窓口へ向かい、新幹線の予約をチケットへと引き換えた。
リッチな旅にするつもりは無かったが、宮之阪師匠が同行するの
だし、少し背伸びをして禁煙グリーン席を予約した。
﹁宮之阪さん、ご同行してもらってすいません。正直一人だと少し
不安でした﹂
見知らぬ大人の方との折衝だ。アポ有りだとしても、少し腰が引
けると言うものだ。
そんな中で同行してもらえるのは、正直有り難かった。
﹁それにしても、お祭り好きな面々が大人しくしているなんて、珍
しい事もあるものですね﹂
美咲さん部隊の面々だ。ちょっと遠出となると旅行♪ 旅行♪と
うるさいのに。
﹁言いそびれ⋮⋮た﹂
916
⋮⋮? 今なんと?
目が点になっている俺を見て、宮之阪さんが苦笑した。
﹁美咲達に内緒で一緒に旅行⋮⋮ドキドキ。死の予感﹂
俺の頭の中で、言おう言おうとして、言葉が出ない宮之阪さんが
思い浮かぶ。
元々口下手な宮之阪さんに、そんな重責を押し付けた俺が悪いの
か⋮⋮。
ええい、余計な事を考えても仕方あるまい。終わってから考えれ
ば良い事だ。
﹁と、とりあえず、新幹線乗りましょうか﹂
おっかないダーク美咲さんを思い出し、身震いがした。
新幹線に揺られる事数時間、静かな席は惰眠を貪るのに最適だっ
た。
けれど俺より宮之阪さんが先に寝るとは予想外だった。俺の修行
に付き合って貰って、睡眠不足にさせてしまっていたかな。
そんな寝顔を見てしまった俺は、旅行中だけはゆっくりとして貰
おうと心に誓った。
﹁すんません、宮之阪さん﹂
その寝顔に一礼し、俺は目を閉じた。
けれど何故か眠りにつくことが出来なかった。
﹁カオル。眠ってしまったか?﹂
917
遠慮がちにカナタから声を掛けられた。
どうも最近大人しいんだよな⋮⋮、そんなカナタが見せる態度の
変化が、俺の心を騒がせる原因になっているのだが。
﹁寝てねぇよ。出て来いよ﹂
俺の言葉に反応し、顕現するカナタ。
膝の上の手にもたれて、モジモジとしている。
﹁なんだよ、大人しいな。どうしたんだ?﹂
俺は手の上にカナタを座らせ、目の前まで持ち上げて表情をよく
見る。
目が合うと逸らし、逸らした先でもう一度目を合わす。
﹁目的地は奈良⋮⋮じゃろ? 寄って欲しい場所がある﹂
カナタにしては珍しい事を言うもんだ。現世に気になる場所があ
ったとは。
てっきりお菓子にしか興味が無いものとばかり思っていた。
﹁カナタが興味を示す場所があるなんてな。どんな場所だ?﹂
﹁⋮⋮我の産まれた場所じゃ﹂
カナタの産まれた場所?
それは是非とも行って見たい場所だな。それに今見せているカナ
タの表情、悲しげな表情の意味も判るんだろ?
﹁良かったら、そこに到着するまで色々聞かせてくれないか? 俺
918
カナタの事もっともっと知りたい﹂
カナタはコクリと頷いた。
時代は江戸、振袖火事と呼ばれる明暦の大火の頃、カナタは打た
れた。
生まれは大坂、ある刀鍛冶が奇妙な依頼を受け、打った刀の内の
一本だ。
﹃鎮魂の刀﹄
﹃魑魅魍魎を斬れる刀﹄
﹃鬼を斬れる刀﹄
﹃神を斬る刀﹄
その当時の大火事で十万を超える人が亡くなった。
死者を鎮魂し、幽鬼になった死者を天に返し、死者を見放した神
を斬る刀として⋮⋮。
おおよそこう言った場合の刀は、その使命をまっとう出来る刀を
作成する為に、一本の完成品に対し数十本の試し刀を打つ。
その内最上の物を表打ち、表に匹敵する出来の物を裏打ちとして
一対で完成品とする。
同じ出来であるならば、甲乙を付けず、先打ちとして表、後打ち
として裏とされる。
それぞれ裏・表二本で対になる剣、四種八本の剣が打たれた。
919
その当時のカナタの記憶は曖昧だそうだか、カナタは鎮魂の刀な
のだそうだ。
受け取った者は、法力僧、武士、忍くずれ、遊女
それがし
もののふ
依頼者は恐らく、その当時の退魔士なのだと思う。
﹃某はこの一振りを貰おう﹄
カナタを受け取ったのは、武士。心に﹃悔﹄を持つ武士は、迷わ
ずをの剣を選んだそうだ。
そして四人はその剣を用い、大火の後始末を行ったのだ。
﹃世も変われば人も変わると言うが﹄
武士の嘆きにも似た呟きは、その世の世情を現していたのだろう。
鎮魂の武士、鬼斬りの忍び、破邪の僧、神斬りの女に追っ手が掛
けられた。
混乱が収まれば、次に来るのは粛清だ。
特に異能を極めた四人を、飼い慣らすには手に余る。
野心を持つ者に手を貸せば、政府転覆など容易ではないか。そう
判断した当時の権力者は、脅威の芽を摘む事を決意した。
﹃捕らえる必要はない。討て﹄
鶴の一声で、腕に自信のあるもの、手柄を立て出世を目論む者が
動き出した。
その気配を悟った四人は、忽然と姿を消した。
そのうちの武士は江戸を離れ京を越え大和へ逃れた。だが追っ手
やしろ
の追跡は執拗を極め、大和の国で足が着いた。
﹃血塗られた某が社でしぬるか﹄
920
武士が追われ逃げ込んだ先は、由緒正しき神社の領地。
だが武士も人外の獣、数百の追っ手を薙ぎ払った。
剣に意を籠める異能の剣士の持つ剣は、腰も伸びず刃こぼれ一つ
しなかったと言う。
どっかと神木の幹に身を預け、しばしの休息を取っていた時の事。
鳥が飛び立ち、虫の声が止んだ。
﹃!﹄
はらわた
人外の気配を感じ、膝を立て即抜刀の構えをして、辺りを窺う武
士。
気が付けば腸から剣が伸び屹立した。
﹃油断召されたか? 鎮魂の﹄
血塗られた剣の刃紋を見て、その声の主を悟る武士。
腹に力を籠め、腕で剣を叩き折った。
﹃神斬りか﹄
なるほど四人では手に余る異能。けれど一人なら飼い慣らせるか。
色で落としたか、色を見初められたか。
当の権力者が選んだのは、神を恐れぬ剣の持ち主だった。
﹃ぬぅん﹄
武士が空を斬り、姿の見えぬアヤカシの術を持つ女を薙ぐ。
目を閉じ気配を探れど、空気の淀みをも感じることは出来ない。
痛む腹がより、武士の集中力を削いで、命を削っていく。
921
あるじ
﹃主殿、右じゃ﹄
初めて武士が心を通わした瞬間の事、武士は神木を貫く突きを見
舞った。
神速の踏み込みが刀を木の幹へ剣を押しこんでいく。
﹃これくらいせぬと、鬼の末裔は討てぬな。神木の気は鬼には効く
だろう?﹄
目の前には、胸を貫かれた女。雲の切れ間から姿を出した月、月
光に照らし出された姿は美しかった。
﹃何故?﹄
かつては心を通わせた女だ。最後の言葉でも聞いてやりたい。
﹃⋮⋮⋮﹄
女の最後の言葉を聞くことは叶わなかった。
そして女は、姿を鬼女へと変え、虚ろい霧散して消えた。
再び神木に身を寄せた武士は、腹に手を置き自分の命の残り時間
を確認していた。
﹃さっきの声、あれはうぬか?﹄
見上げ幹に刺さったままの剣へ声を掛ける。
心に思ったことが相手に伝わる⋮⋮不思議な感覚。
その思いを心に籠めて見た。
922
あるじ
﹃主殿⋮⋮傷は大丈夫か?﹄
武士は傷を確認する事もなく、月を見上剣へ話しかけた。
あるじ
﹃もう剣を抜いてやる力も残っておらぬ。無念だがここまで﹄
あるじ
血を吐いて虚ろな目をする武士、主の近い死を感じ取った。
あるじ
﹃主殿⋮⋮最後の願いがある。聞いてくれぬか?﹄
あるじ
もはや返事すら声にならぬ主に声を掛けた。
﹃主殿は我を正しく使うてくれた、けれどその後は正しく使われる
とは限らぬ。残った力で我を折ってはくれぬか?﹄
退魔の刀に籠められた力は甚大。もちいれば無敵の力を有する。
時の権力者はそれを欲し、忌嫌った。
退魔の剣の行く末は、その刀にとって意にそぐわないものになろ
う。
それに刀と言うのは、突く、斬るには適している。
けれど堅く突き通った刀を引き抜く事には適していない。
所詮目止めの釘で固定されているだけなのだから。
﹃しばし待て⋮⋮﹄
はらわた
武士は目を閉じ呼吸を整えた。
突かれた腹に力を籠め、腸が飛び出ぬ事を確認し、幽鬼の如く立
ち上がった。
しばらくして、闇夜の中、剣の折れる音が響き渡った。
923
924
﹃彼方01﹄︵後書き︶
カナタの過去が語られるお話です。
4話位でまとまると良いな。
925
﹃彼方02﹄
﹁ちょっと疑問を口にしていいか?﹂
奈良駅からタクシーを飛ばし、目的の神社へと到着した。
ひと目を憚り、会話もままならなかった時間が長く、その時間が
より一層話の謎を深めていた。
﹁私も気になる﹂
宮之阪さんも途中で目を覚まし、カナタの身の上話を聞いてしま
っていた。
眠りを妨げてしまったのは心苦しかったが、寄り道をする以上話
しておく必要があるし、丁度良かったとも思える。
﹁カナタが打たれた場所は大阪、だったら産まれた場所は大阪じゃ
ないのか?﹂
隣の宮之阪さんもコクコクと頷き、俺の意見に同意してくれた。
あめのこやねのみこと
だが当のカナタは周りの風景を眺め、風を感じ、木々の匂いを嗅
ぐ。心ここに有らずの状態だった。
たけみかずちのみこと ふつぬしのみこと
﹁とりあえず行ってみるか。神木の辺り﹂
ひめのかみ
この神社は本殿が四つあり、武甕槌命、経津主命、天児屋根命、
比売神が祀られている。この大社の比売神は天児屋根命の妻、天美
津玉照比売命だ。
雷神、剣神、祭神と妻か。なんとも贅沢な社だ。
けれど俺たちの目指す場所は、本殿付近ではなく一つ目の鳥居を
926
くぐった岡の上にあった。
﹁到着したぞ﹂
おそらく到着としたのでは?と言うのが正しい。なぜなら神木は
無く、大きな切り株がそこにあったからだ。
カナタは切り株の上に飛び移り、年輪を手で撫ぜ始めた。
﹁カナタ、続き聞か⋮⋮﹂
俺の言葉は宮之阪さんに制され、言葉を呑んだ。
優しげにカナタを見つめる宮之阪さんの目は、しばらくソッとし
ておいてやれと俺に語りかけた。
﹁我はここで産まれたのじゃ、刀としての命は終えたがの﹂
しばらくの沈黙の後、カナタの語りが始まり、俺たちは小さな語
り部の話しに耳を傾けた。
﹁我の主殿の剣は石をも貫く剣。その主殿の突きを食ろうて、神斬
りはここで絶命したのじゃ﹂
俺は頷いてカナタの語りを待った。
﹁神木とは言え﹃木気﹄、体内奥深くに突き立てられた﹃金気﹄は
神木を痛める事に繋がった﹂
その言葉を聞きようやくカナタが年輪に触れていた理由が判った。
朽ち掛け表面が風化しつつある切り株の年輪はある時を境に、明
らかに育ちが悪くなっていた。
927
恐らく剣が神木の門脈を妨げ、成長を阻害してしまったのだろう。
﹁社の神気は地を流れ、神木ではなく我に流れこんだのじゃ。貫か
れ百年、引き抜かれるまでの間⋮⋮﹂
振袖火事は1657年、カナタが打たれたのはそれより数年後の
事だろう。退魔士の活躍があり没するまでさらに数年か。
それから100年と言えば田沼意次の時代⋮⋮それ以前の話にな
るか。
﹁神木は我を嫌う事無く、我が朽ちぬ様に守ってくれたのじゃ。そ
の百年は母に抱かれた子の様に幸せじゃった﹂
神木が母⋮⋮か。カナタが﹃産まれた﹄と言うのはこの事だろう。
社の神気を吸い続け、神木に守られて刀の精として産まれた。
まさしくここはカナタの故郷なのだ。
﹁神木より引き抜かれた剣は、神の授かり物として小刀として打ち
直された。社に奉納され、祀られ、奪われ、人の手に渡ったのじゃ﹂
そして紆余曲折の後、うちの爺ちゃんが手に入れ俺の手元へと渡
ったのか。
桃の木のトウカと相性が良い訳だ。金気と木気、木気と金気だも
のな。
そういえば年輪も成長の悪い時期を越えると、再び年輪を元気よ
く刻みだしている。年輪を目で追えないが、切り株が現在まで残っ
ているのだ、かなり長寿の木だったのだろう。
﹁カナタ。そんな悲しげな顔をしていたら、お母さんも悲しむ。こ
ういう時は元気な姿を見せてやるもんだ﹂
928
俺の顔を見上げ力なく笑うカナタ。
そんなカナタを見かね、優しく声を掛けてくれる宮之阪さん。
﹁ねえ、カナタさん。周りを見て⋮⋮。この辺りの木々はご神木か
ら芽吹いた新芽。カナタのお仲間ばかりよ﹂
見回す木々は、泣き虫カナタを笑うように優しくざわめく。
鼻につく仲間を励ますような匂い。良い森の香りだ。
﹁あ⋮⋮これ? 宮之阪さん﹂
森の木々が発する信号⋮⋮、木々がお互いに発する言葉、優しげ
な森の香りだった。
俺の言葉に﹃よく出来ました!﹄とニッコリ笑って頭を撫でてく
れた。
その匂いを体一杯に深呼吸し、ほろりと涙を流すカナタ。
そして切り株の上で舞いを踊り始めた。
まるで森の精霊の舞いの様に、美しく、幻想的な踊りだった。
﹁む∼ 我慢出来ん!﹂
大人しくしていたトウカが顕現し、カナタの側で舞いを踊る。
カナタの動きに木々が枝葉を揺らし、トウカの舞いで風に揺られ
葉がざわめいた。
俺はしばしの間、木々と一緒に精霊の舞を眺めていた。
ふと手に感じる温かい温度、宮之阪さんの手が俺の手に触れ、遠
慮がちに握られた。
俺はそんな戸惑いの手を優しく握り返した。それがとても自然な
行為の様に思えたからだ。
929
﹁木々の信号のせいですよ。きっと﹂
俺へ身を寄せくる宮之阪さんから発せられた呟き。
果たしてそれだけだろうか、俺の心臓が高鳴っているのも、木々
のせいなのだろうか。
この細い肩を抱きしめたいと思う気持ちも。
俺たちは神木の森を後にし、美苑さんに紹介いただいた刀匠の住
む街へ向かった。
カナタが産まれた場所の隣町だというのも、何かの縁なのだろう
か。
﹁カナタ、元気になったみたいだな﹂
手の上で元気一杯のカナタを見て、少しホッとした気持ちになる。
木々達に元気を貰って回復したのだろうか。
﹁我は元から元気一杯じゃ﹂
手から頭へ飛び移り、鼻歌まじりで歌うカナタ。余程機嫌が良い
らしい。
向かった先の刀匠。俺は小さな庵を構え、世捨て人のような生活
をしているものだと思っていた。
けれどその予想は大きく覆された。
倉作りの大きな刀剣記念館。博物館の様に人が入り、刀剣の歴史
930
を肌で感じる事が出来る様になっている。
その奥に鍛刀道場があった。
俺は緊張する指で呼び鈴を押した。
﹁どちら様?﹂
しばらく後、女性の声と共に玄関が開かれた。年の頃は20代後
半のその女性と目が合い、ペコリと会釈を交わした。
その女性は隣にいる宮之阪さんを一瞥し、クスリと笑い口に手を
当てた。
﹁何処へ迷い込まれたか、わからへんけど。お間違いやありません
か?﹂
どうやら若いカップルが迷い込んだと思われたらしい。
京ことばに近いニュアンスだと、貴方達の来る所ではないですよ
とやんわりと諭された感じの言葉だ。
﹁いえ、間違いでここへ来た訳ではありません。星川先生にお会い
したくて、天野美苑を通じて連絡を入れさせていただいた者です。
三室と申します﹂
再度頭を下げ物言いを付けた。
隣の宮之阪さんは、何も語らず俺にあわせ静々と礼をして合わせ
てくれた。
﹁あら、カップルさんが迷わはったのかと思うた。ごめんなさいね。
今お呼びします﹂
俺たちは手振りで玄関を上がるよう招かれ、玄関横の応接室に通
931
された。
応接室というと洋風なイメージを想像するが、ここは完全な和風。
京都風数奇屋建築8畳ほどの間に畳敷き、床の間の掛け軸と金箔の
黒漆で仕立てられた日本刀が二振り飾られ、欄間の施しや、光取り
の小窓から見える坪庭を楽しめるようになっている。
﹁日本の美⋮⋮﹂
宮之阪さんが、掛け軸を横目で見て感嘆の言葉を上げる。
水墨画の押韻を見て俺も感嘆の言葉を上げた。﹃星川﹄と銘を打
たれた水墨画は素人目で見てもすばらしい。
恐らくはここの主か縁者の者の作品だろうが、刀匠と言うのは芸
術家でもあるのだと思わされた。
そんな事を考えていたら、応接室の襖の奥から声を掛けられ、そ
っと襖を開けられた。
﹁お待たせいたしました。 星川です﹂
頭をスッと下げ入って来たのは、白髪の老人だった。
年の頃は70過ぎ、顔に年輪と呼べる皺が見受けられる。刀匠と
いう厳しい職ではありながら、体から発散される気は、やんわりと
した穏やかなものだった。
﹁天野さんから話は聞いています。細かい事は抜きにして、一度拝
見してよろしいか?﹂
やんわりとした雰囲気だが、目に宿る力というか、眼力は大した
ものだと思う。
見つめられると心の中を見透かされているように感じるからだ。
932
﹁よろしくお願いします﹂
俺は腰のホルダーから鞘ごとカナタを取り出し、そっと星川さん
へ手渡した。
星川さんは漆塗りの鞘や、柄の状態には目を向けず、抜き取った
刀身のみをじっくりと見つめていた。
なかこじり
やすりめ
懐のたとう紙を二つ折りし刀身を掴み、鞘の目釘を押し、あっと
なかご
いう間にカナタを分解してしまった。
なかご
﹁茎は振袖、茎尻は刃上栗、銘は無し、鑢目は化粧の筋違⋮⋮﹂
息を止めて茎を眺めていたのだろうか、長い息を吐き目を閉じた。
えにし
目を閉じ何かを考えているかのように、長く沈黙の時間が過ぎて
いった。
なかご
﹁この刀を打ち直したのは、恐らくうち縁の者ですな。縁と言うの
は恐ろしくもある﹂
なかこじり
刃先は河内守藤原国助。けれど茎︵鞘の内側︶は後で加工した物
だ。銘の打ち方、やすり目の掛け方、茎尻と言う末端の処理で、お
およその作者が鑑定できると言う。星川さんはその部分を見ていた
のだろう。
﹁見た所刀身には異常が見受けられんようだが、なにか心配事でも
おありですかな?﹂
その言葉を聞いて、内心胸を撫で下ろした。俺の心配事が杞憂に
終わったからだ。
正直言ってこの言葉を聞けただけでも、この旅は有益なものであ
ったと言える。
933
﹁その刀に憑いている神様の様子が、最近おかしいもので、刀に異
常でもあるのかと思っていました﹂
普通の人が聞けば気でも狂ったのかと思われかねない言葉を聞き、
刀匠星川さんは大笑いをした。
﹁その頭の上の女の子、いや女性の神が、この刀の﹃刀神﹄か﹂
笑いを噛み締め手で口を覆った。
﹁いやぁな。客人の頭の上で大人しく座っておる神様をみて、あま
りに頭の座りが良いのか考えておった所でしてな﹂
刀を見ていた長い時間は、俺の頭の形を考えていたのか。ちょっ
と失礼だな。
﹁別段異常は見られんでな。他の要因を考えておった﹂
ちょいちょいっと指で子猫を呼ぶように、カナタへ合図を送る星
川さん。
動くものに反応する猫の様に興味を示し、ぴょんと星川さんの手
へと飛び移った。
なるほど刀匠と言うのは、神の扱いにも長けているのだと思わさ
れた。
手に乗るカナタの顔をまじまじと見つめ、そして俺の顔を見つめ
た。
﹁なるほど﹂
934
なにやら一人で納得したように頷いて苦笑する。
そして咳払いを一つして、俺に話を聞かせてくれた。
﹁長い事刀匠をやってますとな。こうやって神を見る事が稀にある。
自身の作で二度出合うた。大抵の場合夢に出て来よります﹂
手の上のカナタを見て、刀匠はほくそえむ。
﹁そのうち客人の夢にも出てくるかもしれませんな。ふぉふぉふぉ﹂
いやらしい狒々爺の笑みを見せ、組み立てたカナタを俺に手渡し
た。
﹁夢⋮⋮ですか? 実体が見えるのに、夢で?﹂
その謎掛けに答えが見つからず、さりとて疑問も形を成さない。
手渡されたカナタを受け取り、カナタも飛び手の上へ飛び移った。
﹁器量よしの神じゃ、夢に出る姿はさぞかし美しいじゃろうな﹂
その言葉を受け、俺は夢でなにが行われるのか悟ってしまい、赤
面してしまう。
難しい言葉に頭を捻る宮之阪さんと、同じく赤面して俯くカナタ。
﹁刀は金気、五行で言う所の﹃殺﹄の気じゃ、けれどそれゆえ誰よ
り﹃生﹄への渇望があるのやもしれぬ。故に子を宿したいとおもう
のじゃろう⋮⋮客人も憎う思っておらんから余計じゃな﹂
てことは、待て、なに? 遠まわしで言ってくれているが、カナ
タの様子がおかしいのは⋮⋮
935
﹁恋煩い﹂
俺の脳裏に浮かんだと同時に、星川さんから同じ言葉を聞かされ
た。
応接間に高らかと笑い声が響き、赤面するカナタが手で顔を覆い、
イヤイヤをするように首を振った。
936
﹃彼方03﹄
﹁客人に ﹃丁度良い﹄ と言うのは失礼かも知れんが、刀剣の鑑
定をしていただけませんかな?﹂
程よく場が和んだ頃に、星川さんからあるお願いがなされた。
日本刀の鑑定なんて俺には出来ない。それは星川さんも重々承知
の上の話だろう。そしてその俺に頼む意味を考え、そして頷いた。
﹁俺なんかに出来る事があれば﹂
力を貸してくれた星川さんに、少しでも礼を尽くしたいという気
持ちからだ。
﹁守り刀展覧会と言うのが来月開催されますのでな、うちの弟子達
から一振り出展させようと思うておりましてな﹂
応接間を離れ星川さんの案内の下、工房近くの板間の部屋へと通
された。
棚のうえに神棚が有り、刀神と火の神を祀ってある。
そして何もない部屋に一つだけある展示台。赤絹の布が敷かれた
だけの簡素な展示台に、守り刀が三振り展示されていた。
﹁目利きが出来る程、目は肥えていません⋮⋮、それでも?﹂
俺と宮之阪さんが刀の前に立ち、そのすぐ脇に星川さん。そして
弟子達が正座で俺たちの振る舞いを見つめている。
正直言うと、弟子達の目が怖いのだ。真剣そのものと言うか⋮⋮
殺気すら感じれる。
937
展覧会への出品といえば、認められれば弟子と言えど、一人前だ
と認められる。
そんな自分の作品に対する思いがひしひしと伝わってくるのだ。
手に汗を握るとはこういう事をいうのかも知れない。
﹁客人方には、他の人に出来ない鑑定の仕方がお有りですやろ?﹂
退魔士としての見立てと言う事か。より実戦的に刀を見る。そし
て気の通りを感じる事は出来そうだ。
﹁まずは一本目、松田の作から行こか﹂
星川さんの言葉に即座に反応する弟子、そのうちの一人が松田さ
んだ。
年の頃は四十過ぎ。並み居る弟子の中では最年長と言えるだろう。
松田さんは展示台から一振りを両手で恭しく取り、俺へそっと手
渡した。
茶の塗り、木の温かみを感じる鞘と柄、丸みを持った守り刀であ
る。
﹁あくまで俺達の主観で判断します。見た目の美しさはそちらの方
々で判断してください﹂
俺はそっと抜刀し刃紋を見た。
丸みを帯びた外のイメージにぴったりな互の目の紋。古風で繊細
な女性のイメージを感じる。
そしてゆっくりと刃へ、霊気を通した。
内から陽の光りがあふれる様に輝き、剣が透けて見えた。
﹁おおっ⋮⋮﹂
938
弟子達から感嘆の声が上がった。
正座をしながらにじり寄り、我先に刃の美しさを見ようとする。
貪欲な職人魂を感じる。
霊気を通された刃は、満遍なく気が行き渡り、造りの精細さを感
じれる。
そして浮き出る刃紋が自然光の元で見るより、さらに美しさを増
しているようだ。
﹁宮之阪さん、どうぞ﹂
俺と同じく鑑定を行うと手を上げた宮之阪さん。
右手で受け取り、氷の霊気を籠める。
蒼く光る剣の刃先は、見た目の冷気とは相反し冷気を帯びずに輝
いた。
俺とまた違った光を放つ剣を眺め、職人達が食い入り、松田さん
が満足そうに笑みを浮かべている。
﹁他の方のを見ていませんが、霊気の通りは申し分ありません。実
用という意味では満点を上げても良いです﹂
木刀やカナタ、トウカへと霊気を通した経験則で物を言った。
良い造りの物は、霊気の偏りが無く全体に行き渡る。力を籠める
事無くスッと流れた松田さんの作は良刀と言える。
満遍なく霊気を通すのに力を籠めれば、強弱の差が刃に残り、無
駄に力を使う事になるからだ。
﹁次、吉田の作﹂
黒ぶちの眼鏡をかけた40代の男性だ。働き盛りと言える筋肉質
939
な体から漲る胆力を感じる。
手渡された守り刀は朱の漆、柄の部分も鋳物で出来た戦場の小刀
だ。
刃の厚みは繊細な松田さんとは一線を画し、二倍の幅を持つ。小
刀と言うより鉈に近い。トウカのナイフに近いと思わされた。
パッと抜刀して見せ霊気を籠めた。刃先にのみ霊気が流れ、松田
さんの刀より強く光り輝く。これは美術品と言うより実用に適した
造りをしている。
平造りの刃に広直刃の刃紋。これはよく斬れそうだ。
剣を宮之阪さんへ手渡し、蒼の霊気を籠めた。
これも同じく刃先に霊気が乗り、触れれば凍りつきそうな光を発
した。
﹁この剣を用いれば、自然石を両断出来る切れ味を持つでしょう。
全体に霊気が乗らないので、耐久度に問題は残りますが、ここ一発
の強みはあります﹂
吉田さんは自分の作品の違う面を諭され、神妙な面持ちで剣を受
け取った。
まるで自分の刀じゃない剣を扱う様に、うやうやしく展示台へと
戻した。
﹁次、沢渡の作﹂
スッと立ち上がったのは、俺達をカップルと間違った女性。女性
が刀匠の道を目指すとは、異色なのではないだろうか。
手に持ったのは総漆の守り刀。一流の美術品のような美しい刀だ
った。
そっと引き抜いて驚く。両刃の剣だったからだ。昔の銅剣を思い
出させる先太りの剣。真ん中に一本砂通りの溝が燐と引かれ、とて
940
も美しいと思えた。
霊気を籠めて二重に驚く。俺の呼吸に合わせるように光ったから
だ、まるで蛍の光の様に。
﹁宮之阪さん﹂
手に汗を握るその手で、宮之阪さんへ手渡した。蒼の霊気を籠め
てみて、今度は宮之阪さんが驚いた。
部屋の室温が下がり、冷凍庫のような冷気があふれ出したからだ。
弟子達は白い息を吐きながら、それでも剣の姿を食い入るように
見た。
そして今まで出していなかった赤の霊気を籠める。
真っ赤に色を成した剣は、冷気を即座に打ち消して温かく光り輝
いた。
﹁すいません。霊気の乗りも通りも悪いです。けれどこの剣は退魔
士なら喉から手が出るほど欲しい剣です﹂
﹁増幅器⋮⋮﹂
宮之阪さんが俺が言いたい言葉を一言で言い切った。
まさしく魔剣⋮⋮霊力の増幅装置といえる出来だった。
そして火属性と水属性に反応が激しかったこの剣は、属性剣と言
えるのかも知れない。
沢渡さんは剣を受け取り、鞘へと戻し何かを考えていた。
﹁刀匠冥利に尽きるな。よい褒め言葉じゃ﹂
結局俺達の助言が、出展にどう影響するか分からない。
けれど三者三様の剣は、それぞれの個性を現しているように思え
941
る。
漢字一文字で表すなら、質、剛、奇と表せる。
﹁俺の知り合いに頼りない奴等が居まして、沢渡さんの剣を二振り
ほど用立てて欲しいのですが﹂
俺の横に立つ沢渡さんへ声を掛け、用立てをお願いしてみた。
頼りない奴等とは別所姉妹、静音・綾音の事だ。誕生日のプレゼ
ントには高価すぎるが、サプライズと言う意味では文句なしだろう。
俺は剣に霊気を籠めて思った、蛍の様に光り頼りなく見えるが、
呼吸に呼応するほど繊細であると思えた。
霊気の通りは悪いが、使いようによっては正しく流せる。
ああいう奴等には松田さん、吉田さんの作は出来が良すぎて、逆
に腕を落とすように思う。自分の腕を過信してしまうからだ。
沢渡さんの作ならそういう事はないし、うまく使えば増幅器とし
て後押ししてくれる筈だ。
﹁沢渡の初めてのお客さんと言う訳だ。刀匠は剣を作るだけでは半
人前、使って貰えて一人前。作品の評判で良くも悪くも変わる。名
を上げるのは賞を取るだけじゃないという事じゃな﹂
神妙な面持ちで星川さんの言葉を聞き入る弟子達。いい師匠に勤
勉な弟子、ここは本当に良い物作りの場所なのだと思わされた。
﹁こちらへどうぞ﹂
942
俺と宮之阪さんは沢渡さんの専用の工房へ案内された。
沢渡さんの作品が刀箪笥へ収納されており、一品一品を手に取り
見せてくれた。
﹁さっきの評価、私嬉しかった。弟子の序列じゃ私は下の下だった
し、今回コンテストに出してみろと言われた時は担がれてるんだと
思った﹂
さっきからニコニコとえびす顔の沢渡さん。こうして見ると人の
良いお姉さんだなと思える。初対面の印象が悪すぎたのかもしれな
い。
﹁なんで沢渡さんは両刃の守り刀なんですか?﹂
ふと湧き上がる疑問をぶつけてみた。先の両人が片刃のスタンダ
ートな形状をしていたのに比べ、沢渡さんの作は両刃の禍々しい剣
だったからだ。
﹁守り刀って嫁入り道具って側面があるでしょ?。昔は嫁入りした
嫁の自害の道具だったのね。だから自害に使うものじゃなく、未来
を切り開く剣として思いを籠めたの﹂
自分の喉を突くのではなく、障害を薙ぎ一歩でも前へ進める武器
として⋮⋮か。
現代の女性独特の感性なのかもしれないな。
﹁色々作品を見せて戴いてありがとうございます。これとこれをお
願いできますか?﹂
刀箪笥前が、即興の展示会、即売会に早変わりしていた。
943
選んだのは、黒の総漆に赤の紅葉をあしらった、両刃の剣。そし
て同じく黒の総漆に川の流れを模した蒼の装飾の剣だった。
双方とも先ほどの剣に負けず劣らずの良い剣だった。
﹁お値段はいか程でしょうか﹂
俺はリュックに納められたお金を探り、値段を聞いてみた。
法外な値段を言われたら払えないが、カナタの様子を見る⋮⋮修
理を依頼する代金を用意した。
研磨一回50万∼100万を超えるメンテの費用、フルコースの
メンテナンスなら莫大な費用が掛かる。
俺は即座に対応できる金額を用意していたのだ。
﹁意地悪言って良い? 貴方が値段を付けて欲しいの﹂
本当に意地悪な表情をした。苦笑しながらでなければ、本気なの
だと取られかねない表情。
作り手は評価されてナンボだと言う事か。
俺は目を閉じて、剣の価値を見出した。そして思い描いた金額を
リュックから取り出し、沢渡さんへ手渡した。
﹁俺の評価は正直もう少し上なんですが、これ以上高くなると⋮⋮
これからお付き合いできなくなりそうです。ですので、これで許し
てください﹂
手渡した額は封印された束が三つ。俺の月給の三分の一だ。
現代刀の守り刀は名工作で50∼100程で買える。けれどこれ
ほどの物はそれ以上出しても惜しくない。
﹁⋮⋮﹂
944
沢渡さんは、その評価を見て涙を流した。
評価されにくい厳しい世界で生きてきて、初めて受け取ったであ
ろう対価だ。万感の想いは俺には理解できないものなのだろうと思
えた。
﹁夏物の服をたくさん買えるわ⋮⋮オシャレに気を使えるかも⋮⋮
彼氏が出来るかも⋮⋮﹂
グスグスと鼻を啜り、万感の想いを馳せる沢渡さん。
この人も普通の女性なんだと、呆れつつ苦笑してしまう。
﹁この剣の使い手は、刀使いです。恐らくこれを使えば病み付きに
なると思いますから、その時は儲けてください﹂
沢渡さんは手で口を押さえて、大笑いした。
﹁ありがとうございました﹂
俺と宮之阪さんは、星川さんやお弟子さん方に見送られ、道場を
後にした。
最後に手を振ってくれた沢渡さんの ﹃良いお客さんをたくさん
紹介してね♪﹄ ってのが笑えた。
もしかして独立して刀匠を営んだら、結構儲けるんじゃないだろ
うか。そんな気がしてならない。
945
﹃彼方04﹄
ホテルに到着し、チェックインの手続きをすべくフロントへと向
かった。
フロントのカウンターはオリエントピンクの大理石、内に控える
フロント係は、紺の制服にスカーフのタイ、凛とした女性が応対し
てくれた。
さすが一流ホテルだ、フロントに配置している女性も隙が無い。
﹁予約していた三室です。チェックインの手続きお願いします﹂
予約した部屋はデラックスツインの洋室。
シングル2部屋が基本なのだろうが、二人部屋がなにかと便利と
の意見もあり、ツインを選択した。
雑魚寝も経験してるし、一緒に部屋に泊まった事がある。今更感
も多々あるのだ。
﹁﹃デ・ラ・ッ・ク・ス・ツ・イ・ン﹄のご予約でしたね。こちら
へサインをお願いいたします﹂
涼しい顔で好戦的な言葉を発するフロントだ⋮⋮。何故大声で滑
舌良く喋るかな。
ici,
s'il
vou
こう言う時はフランス人を見習って、聞き取りにくく。 シニェ
シルブプレ Signez
plait だ。モゴモゴ喋りやがれ。
イシ
s
かくして高校生カップルに見える俺達が、﹃デラックスツイン﹄
に泊まるというのは、ロビー中に人々へ周知の事実となった。
あ∼、穴があったら入りてぇ。フロント係よ⋮⋮空気読め。
隣接するカフェで、﹃最初は背伸びして、いい部屋取るんだよな﹄
946
と揶揄する声が聞こえてきた。
あーあ、俺達をネタに話が弾んでいる⋮⋮。
﹁﹃朝食﹄は2階のカフェで、6時から10時まで。 ﹃ご宿泊﹄
プランにはビュッフェ形式の﹃朝食﹄を含んでおりますので、この
カードキーを提示していただければ結構です﹂
そう説明を受けながら、カードキーを二枚手渡された。
なぜに﹃朝食﹄﹃宿泊﹄を強調するかなぁ。
隣の宮之阪さん、少しソワソワしたような素振りを見せ、俺に耳
打ちをしてきた。
﹁カオル⋮⋮変です。 生温かい視線を感じます﹂
流石にボンヤリ系の宮之阪さんも気が付いたか。
フロント付近にいる宿泊客らは、俺達をネタに暇をつぶしてるん
だと思う。
﹁あの∼すいません、この辺りの土地勘ないんですが、周囲のお店
紹介していただけますか?﹂
お腹空いたとゼスチャー入りで懇切丁寧に説明した。
せっかくの夕食だもの、ホテル内の味気ない店じゃない方が、気
分が晴れて良いもんな。
こう言う時は闇雲に歩き回るより、ホテルで聞いて参考にするの
がベターなのだ。
﹁お食事でしたら、あちらの出口を出られてすぐ右に。 ﹃ドラッ
グストア﹄でしたら出られて左へございます﹂
947
明らかに食事を案内する時と、トーンを3段ほど上げた大声で、
薬局を薦めやがったな。
フロント嬢のニヤリと笑う口元が憎たらしい。
﹃お腹すいた﹄が﹃お腹痛い﹄と解釈できる⋮⋮そう言いたげだな。
やるなフロント係。
﹁カオル? 私達⋮⋮ドラッグストア、必要ないですよ?﹂
宮之阪さんが私が治してあげますと胸をトンと叩く。
﹃ザワッ﹄
その天然100%の台詞に、ロビー中の客がざわめく。
﹃ちょっ!﹄、﹃責任とれんのかよ﹄、﹃貸してやれよ﹄、﹃安全
日?﹄的な言葉が飛び交う。
ここのホテルって、結構評判の良い有名な所なんだけどな。フロ
ントの対応と客層は最悪だ。
”姉さん事件です”も真っ青のホテルだ。
﹁と⋮⋮とりあえず部屋へ行きましょうか﹂
カードキーを引ったくり、足早にエレベーターホールへと逃げ出
した。
完全晒し者だ。ストレスで寿命が縮まりそうだ。
﹁カードキーを一枚渡しておきます﹂
俺は二枚のカードキーのうち一枚を宮之阪さんへ手渡す。
カードキーと同じナンバーのドアへカードを差し込み、ロックが
解除された音が廊下に響いた。
948
部屋に入ると自動感知式の照明が点灯し、乳白色の自然光で室内
を照らし出した。
アイボリーの壁紙、二つ並んだベッドは清潔そうな白のシーツ。
窓際に小さな円卓が配置してあり、籐のシングルソファが二脚配
置されていた。
﹁割と良い部屋ですね。ホテルの対応は最悪でしたが⋮⋮﹂
思い出しただけでもムカッ腹が立ってくる。
俺は荷物をキャビネットの上に置き、ベッドに座る宮之阪さんを
見た。
乳白色の光りに照らされた密室⋮⋮、栗色のロングの髪が光りに
照らされ、端正な顔をさらに際立たせていた。
ふとフロント係の対応を思い出し⋮⋮俺は生唾を飲み込んだ。
﹁カオル﹂
人差し指をクイクイっと動かし、こっちへ来いと俺を呼ぶ宮之阪
さん。
やべぇ、意識したら平静で居られなくなってきたじゃないか⋮⋮。
﹁ここに座って﹂
宮之阪さんの目が心なしか潤んで見える。
ドックン⋮⋮ドックン⋮⋮ドックン。
脈打つ首筋が痙攣しているかのように動き、俺は何も考えるとこ
が出来ず、言われるがまま宮之阪さんの隣に座った。
﹁宮之阪さん⋮⋮﹂
949
俺の言葉を人差し指で塞いだ宮之阪さん。⋮⋮言葉は要らないと
いうゼスチャー。
細い指が俺の首へ回され、俺の羽織っていたシャツをスルリと脱
がす。
そして下に着ていたTシャツを少しずらし、手を這わして腹部を
撫ぜる。
あ∼、やべっ⋮⋮限界かも。
﹁お腹痛いの治してあげます﹂
グンと腸がせり上がるような違和感の後、治癒の力が優しく籠め
られた。
﹁⋮⋮は?﹂
あ∼、そゆこと?
俺の中で猛り狂ったリビドーが木っ端微塵に打ち砕かれた。
腹部に添えられた手はひんやりと冷たく、けれど不快な感じはし
ない⋮⋮むしろ心地良い。
お母さんが昔に俺の背中をポンポン叩き、泣き止むまであやして
くれた時のような。
俺は目を閉じて、ずっと心地よさを味わっていたかった。
﹁ごめん。 宮之阪さん﹂
心地よさに身を任せてはいけない気がした。⋮⋮騙しているよう
で心が苦しい。
宮之阪さんの手を振り解き、恥ずかしさの余り、目を合わせずに
背を向けた。
こんな態度しか取れない俺は、まだまだ子供なんだなと、自己嫌
950
悪に陥ってしまう。
﹁カオル?﹂
悲しそうな宮之阪さんの声が、俺を一層責め立てる。
背を向けた俺の肩へ細い両の手がそっと触れ、優しく後ろから抱
きしめ⋮⋮
﹁がっ﹂
チョークスリーパーとなって俺を襲った。油断した俺は気管がモ
ロに潰され、声が出せない。
宮之阪さんの細い手が逆に凶器となって俺を締め上げる。
﹁ぎ⋮⋮やの⋮⋮さか⋮ひゃ﹂
まともに声を出せぬ俺は、バンバンとベッドを叩きギブアップを
宣言した。
understand
how
I
fe
あと数秒⋮⋮もうちょっとで落とされると言う所で、スッと手の
never
力を抜いてくれた。
﹁You
el﹂
頭をグイっと両手で持ち、自分の膝の上に引きよせた。
ポフッ⋮⋮いい香りに包まれ、ふわっと柔らかな感触が頭に伝わ
ってきた。
﹁︱︱︱﹂
951
言葉が出なかった。こ⋮⋮これは膝枕という奴か。
宮之阪さんは照れ隠しからか、ほっぺたをギュっと摘みもて遊び
だした。
けれど少し悲しそうな彼女の表情を見て、どうして良いか判らず
目を離せなかった。
﹁ごめん。 お腹痛いの誤解なんだ。 騙してるみたいで嫌だった﹂
謝罪の意味を込めて、本音を語った。
宮之阪さんは何も言わず、俺の熱を持った頬に手を当てた。
冷たい手が、熱を冷ましてくれて心地よい。
﹁そんな事どうでも良かった﹂
恥ずかしそうに、か細い声でボソリとそう告げた。
﹁なんですと?﹂
宮之阪さんの台詞が、俺の思考判定ルーチンを範疇を飛び越え、
即座にエラー判定を返した。
リターンコードは72⋮⋮。 ﹃なに﹄
﹁あの⋮⋮じゃあ、無かった事にして、続けていただけませんか?﹂
﹁嫌です⋮⋮﹂
即答で却下された。 気難しいお姫様には無かった事には出来な
いか。
しかし膝枕はオッケーなんだよな。 その辺り微妙な匙加減と言
うか、乙女心はよく判らん。
952
﹁あ⋮、お腹が痛くなってきたかも﹂
お腹を押さえ、苦しそうな演技をしてみた。
目を閉じて迫真の演技で。
﹁ソウデスカ、ポンポンイタイデスカ? タイヘンデスネ∼﹂
何気に外国人の会話口調になる宮之阪さん。
堂に入った似非外人っぷりがいい感じ。
﹁ホントホント﹂
食い下がる俺に宮之阪さんの態度が急変した。
﹁ホント? 痛い?﹂
やった∼♪俺の勝利。嬉しさのあまり目を開けて宮之阪さんの顔
を見た。
けれど宮之阪さんの表情は暗く殺意に満ち溢れていた。
手にはいつの間にか抜き取られたトウカのナイフを構え、ニヤリ
と笑っている。
嫌ぁぁぁ、そんな痛いの嫌ですぅ。
﹁あ!アレ? 宮之阪さんの顔を見たら治っちゃいました。 ハハ
ハ⋮⋮﹂
苦しい言い訳をして殺意のナイフを遠ざける。
宮之阪さんの舌打ちが聞こえた様な気がするが、聞かなかった事
にする。
953
﹁カオル、体を動かしてから夕食にしましょう﹂
体を動かす⋮⋮勘違いするな? 修行の事だ。朝もサボってるし、
明日は移動で無理っぽい。
出来れば木の信号を嗅ぎ取った感覚が、体に残っているうちにや
っておきたい。
鉄は熱いうちに打てというものな。
﹁了解、感覚が確かなうちに試しておきたい﹂
俺は飛び起き、腰を捻って柔軟体操をする。気が早いと思うだろ
うが、日課になっていて体が反応してしまう。
よっしゃ!
コースが変わるから10分なんてサンプルタイムは当てにならん。
けど宮之阪さんの相対タイムで判断できるだろう。
﹁土地勘が無いので、タクシーで移動しちゃいましょか﹂
宮之阪さんもその意見に同意のようだ。あても無く彷徨うよりは、
パッと移動して済ませてしまおう。
俺達は部屋を施錠し、ロビーへと降りた。
﹁⋮⋮⋮﹂
澄ました顔したフロント嬢が、チラッとこちらを一瞥し、見て見
ぬ振りをする。
こちらも意識をしないよう心がけ、ホテルを出た。しかしなんで
ここまで気を使わないといけないんだろう。
954
﹁なんか納得行かないな⋮⋮﹂
そんな不満もホテルを出るまでの事。
ホテルを出てすぐのホテル前のロータリーでタクシーを拾い乗り
込んだ。
﹁どちらまで?﹂
タクシーの運転手が振り返り、俺と宮之阪さんを見やる。
俺は迷いもせず言い切った。
﹁人の通わぬ山奥、木の一杯生えてる場所。 お代はずむから1時
間程貸し切って、その⋮⋮待ってて欲しいんだけど﹂
真顔で言う俺の横で、苦笑して運ちゃんに愛想を振りまく宮之阪
さん。
運転手の怪訝そうな顔がとても面白い。
運転手の脳内では、色々な想像が駆け巡っているだろう。けれど
答えは教えてやらん。
だって、その方が面白いから。
たっぷり一時間走り回った俺と宮之阪さんだが、夕方の森と言う
事でそれ程汗をかかなかった。
効率よく動けたのかもしれないし、気候が良かったのかもしれな
い。
けれどポジティブに考え、効率良く動けたと思うことにする。
タクシーへ戻った俺達は、﹃ああ、ちゃんと帰ってきた﹄と心配
顔の運転手に手を振った。
955
﹁宮之阪さんのタイムが4分のコースで、俺が8分って長足の進歩
じゃないですか?﹂
いつもの山に換算すると、7・8分のタイムだ。長足の進歩だと
いえる。
この修行は運動すると言うより、感覚を磨く事に重きを置いてい
るのだし、きっかけ一つでガラリとタイムが変わるのだろう。
しかし⋮⋮まだ真琴のタイムに勝ててないんだよな。面目立たず。
﹁カオル⋮⋮お腹が空きました﹂
宮之阪さんの泣きそうな声。そう言えば朝・昼兼用で軽くしか食
べてないんだよな。
﹁ブランチしか食ってないですね。夕御飯はちゃんと食べましょう﹂
俺はタクシーの運転手に、ホテル付近で美味しいお店を聞いてみ
た。
ホテル付近にある焼き鳥屋が超美味いらしい。
﹁YAKITORI?﹂
宮之阪さんがキョトンとした顔で考え込む。
chicken
on
sticks かな﹂
あはは、宮之阪さんの辞書には焼き鳥は無かったか。
﹁grilled
俺のやけっぱちの英語に、目を輝かせて柏手をポンと打つ宮之阪
さん。
956
あーなんとなく伝わったか。よかったよかった。
﹁私ツクネ好きです。チキンミートボールファンタスティック﹂
知ってるじゃん⋮⋮。
﹁やっぱりツクネは最高ですね﹂
ぽややんと満足そうに、口をもぐもぐさせる宮之阪さん。
宮之阪さんがツクネスキーだとは予想だにしなかった。﹃はいか
らさんが通る﹄の花村紅緒さんみたいだ。
﹁それは何ですか?﹂
並べられた盛り合わせの串を指差し、部位を聞いてきた。
﹁えっと、軟骨、キモ、ココロの順です﹂
﹁ココロ?﹂
不思議そうに見つめる部位は、ココロ、心臓、ハートと言われる
やつだ。
﹁心臓です。﹁ココロ﹂は心臓にあると思ってたんですよ﹂
心を痛めれば、胸が苦しくなる。やましい気持ちが胸をチクリと
痛める。はやる気持ちが動悸を早める。
俺は今でも心は胸の内にあると思ってる。
957
﹁ロマンチックですね﹂
そう言いながらココロの串をパクリと食べる宮之阪さん。頬っぺ
たを膨らませて食べるのが、子供っぽくてカワイイ。
﹁もう少し頼みませんか? 二人だとちょっと物足りないし﹂
俺は必殺のメニューがあるのをチェックしていた。
﹁宮之阪さん⋮⋮実は鳥つくね丼ってメニューがあるのですが﹂
ココロを頬張っていた宮之阪さんの頭上にエクスクラメーション
マークが点灯した。
﹁トリ ツクネ ドン♪﹂
幸せの絶頂といわんばかりの蕩けた表情。
脳内では、宝を見つけた冒険者のような歓喜の状態なのだろうか。
それともお花畑を走り回っているのか?
﹁鳥つくね丼 2丁﹂
カウンター内で焼き物をしていた親父さん。宮之阪さんの表情を
見て苦笑している。
宮之阪さんの新しい一面を見出せた。焼き鳥屋は貴重な時間を与
えてくれたと思う。
こんなに嬉しそうに食べられたら、俺も幸せになってくる。
958
﹃彼方05 由佳×真琴﹄
﹁マコ! 緊急会議や!﹂
お風呂上りの牛乳を飲み干した私に、ユカさんが慌てた声で緊急
招集を掛けてきた。
毎日牛乳⋮⋮成長不良の私にとって、大事な儀式だと言うのに⋮
⋮。
牛乳は良く噛んでゆっくり飲み込むものです。祈りをこめてね。
マコ? ユカさんは二人の時は、真琴をマコって呼ぶんです。あ
だ名みたいなモノでしょうか?
﹁はぁい、なんです?﹂
濡れ髪をタオルで包み、ユカさんの待つリビングへと向かった。
リビングでは座卓に座り、茶を啜るユカさんと、座卓の上飛び回
る忠実な下僕グラビティさんが待ち構えていた。
﹁マコちゃん、相変わらずかわええなぁ﹂
私の周りを飛び回り、濡れ髪の匂いを嗅いでいるグラビティさん。
行動がオヤジっぽいのが難点だけど、とってもカワイイの。
サイズはゲームセンターのヌイグルミサイズで、プニプニしてい
て抱き心地がとても良いのです。
それにつぶらな瞳をしていて、見てて愛らしく感じてしまいます。
私の周りで飛び回るグラビティさんを、ヒョイっと抱きしめてユ
カさんの横へ座る。
﹁そいつに触ったらアホになるで﹂
959
相変わらずグラビティさんに手厳しい。けれど実は仲が良いのは
気付いてます。
漫才のボケとツッコミのように阿吽の呼吸なんですよね。
﹁で、緊急会議とは?﹂
真顔でなにやら考え込んでしまったユカさんに、緊急会議の意味
を問う。
この山科家では、ほとんどの相談事は緊急会議となってしまう為、
事の重要性を把握しにくいのが難点です。
最初はドキドキしたものですが、最近はちょっと慣れてしまいま
した。狼少年効果って言うんです。
﹁魔法組に裏切り者が出たんや⋮⋮﹂
声のトーンを三段落とし、声を潜めるかのように囁いた。
魔法組と言えば、ユカさんこと山科由佳さん、私、藤森真琴、宮
之阪まりえさんの三人だ。ここで二人が相談していると言う事は⋮⋮
﹁まさか﹂
まさかマリエさんに限ってそういう事はしない⋮⋮はず。
けれどビッグチャンス到来で魔が差したとか、私ならやってしま
うかも知れない。
自分に置き換えて考え、絶対と言う言葉は無いと思い知らされま
した。
﹁証人がおるんや。 メタボ。 言ってかませ﹂
960
私の膝の上に乗っていたメタボ、もといグラビティさんが座卓の
上に乗り、演技掛かった身振り手振りで説明を始めた。
﹁え∼、私グラビティはユカ姉さんパンツに飽きて、魔法使いの姉
さんのパンツを漁りに行っとったんですが⋮⋮﹂
﹁ドアホ! 浮気もん!﹂
証人喚問中真っ只中のグラビティさんを、ユカさんのハリセンが
叩き潰す。
グラビティさんが座卓の上でぺラペラの餅みたいになってしまい
ました。
このグラビティさんの悪い所は、オヤジ臭い他に下着泥棒しちゃ
う所なのです。
ユカさんは﹃買っても買ってもいつの間にか数減るねん﹄と嘆い
ています。
一体何処へ隠しているのでしょうか。むーっ謎です。
私には、﹃これ履いてみ?﹄ってプレゼントしてれます。ちょっ
と大人びたデザインなので、私にはちょっと早いかも知れません。
とかなんとか考えているうちに、グラビティさんが復活しました。
雑草のように強いです。さすがグラビティさん⋮⋮ファイトですよ。
﹁タンスの中で一眠りしとりましたら、魔法使いの姉さんの電話を
聞いてもうて⋮⋮﹂
ふむふむ⋮⋮。
電話の内容は⋮⋮﹃修行休んじゃ駄目、私も一緒に行く﹄だとか。
﹁これは由々しき事態ですね﹂
961
グラビティさんの話から、事の重大さが推理できた。
修行を休むって事は、帰ってこれない場所に行くって事。もちろ
ん宿泊付きで。
まりえさんが一緒に行くって事は、二人っきりでお泊りすると言
う事。
不味いです。若い二人が︵キャー︶から恋に発展する可能性大で
すよ。
﹁マコ⋮⋮魔女狩りせんとあかんな﹂
﹁ええ⋮⋮全力で﹂
カオル先生への不可侵条約。
﹃その1、抜け駆け禁止。対等な立場で奪い合うべし﹄、いきなり
の条約違反です。
かくしてユカ・マコ師弟コンビは、魔女狩りに出かける事にあい
なりました。
変な団結力と言うか、結束力が魔法組の持ち味でもあるのです。
裏切り者許すまじです、羨ましいです∼。
日曜の朝、遠出用の鞄を脇に置いて待つ。
静かなリビングに時を刻む時計の音が響きます。
﹁姉さん姉さん。魔法使いの姉さんが動き出しましたで∼﹂
監視していたグラビティさんが戻ってきました。とうとう動き出
しましたよ∼。
962
﹁よっしゃ! 真琴! 行くでぇ﹂
スックと立ち上がり、指で眼鏡を直すユカさん。とっても凛々し
いです。
短期決戦の宿泊に備えた中装備。鞄を肩からタスキがけして、マ
リエさんを追いかけて行きました。
私はと言えば、ガスの元栓と締めて、使わない電気のブレーカー
を落とします。
待機電力って結構馬鹿にならないんですよね。節約です。
窓の施錠を指差し確認し、水道もチェック、準備万端です。
﹁あ∼ん ユカさん。待ってください﹂
扉のロックも確認したら、大急ぎでダッシュです。
﹁マコちゃん急いでや∼﹂
玄関先で私を待っていてくれたグラビティさん。
こういうさり気無い優しさが、彼の魅力なんですよね。
﹁グラちゃん乗って﹂
グラビティさんを頭に乗っけて、ユカさんを追います。
基礎体力からみっちりしごかれましたから、脚の速さはちょっと
自信があるんです。
カウントダウンしていくエレベーターのパネルを見て、非常階段
を三段跳びに駆け下りた。
963
﹁待ち合わせしとるみたいやな﹂
駅の噴水前で佇むマリエさん。
ただ噴水前に立っているだけなのに、一枚の絵画のように見える
のは何故でしょうか。⋮⋮ちょっと悔しいです。
腕の時計をチラッと見て、駅の時計を見つめています。
﹁こういう場合キリの良い時間をしていするもんやろ? カオルの
やつ遅刻しとるみたいやな﹂
カオル先生⋮⋮遅刻はダメですよ。
こういう時女の子は、事故にあったんじゃないか、心変わりした
のかな?と不安になるものです。
早すぎるのもダメ、少し待つのが楽しいから。丁度約束の時間に
来るのがベストなんです。
﹁あ、おもろ。マリリンに蝿が集って来よった﹂
見れば男性の方がお二人、マリエさんに声を掛けてます。
恐らく﹃ねぇ彼女、俺ら暇してるんだけど、どっか遊びに行かな
い?﹄とか言われてるんでしょうね。
人待ちしてるのに、場所を離れる事は出来ないんだから、そうい
う誘い方はNGなんだけどな。
私なら⋮⋮んー。
﹃待ちの時間、お暇を潰しましょうか?﹄って、面白いお話してく
れたら楽しいかも。
でも多分側に居て欲しくないと思うかな。
マリエさん、ちょっとムッとした表情で男の人を見ています。
普段大人しいんですが、怒るとすんごく怖いんです。性格変わり
ますから。
964
愛らしい見た目に騙されちゃダメですよ。燃やされますよ∼。
﹁あ、人払いの魔法を掛けよった⋮⋮﹂
ナンパしていた二人は、虚ろな目をして呆けた顔でその場を離れ
ていきます。
平和的に解決して良かったです。あの二人は命拾いしましたね。
思い出の場所になるかもしれない待ち合わせの場所、血で汚した
くないと言う事ですね。分かります。
そんな事を考えていたら、目端にカオル先生の姿が。
﹁ユカさん、カオル先生来た⋮⋮﹂
浮気現場を押さえてしまった探偵の気分。胸の内がなんだかモヤ
モヤとしてしまいます。
手を膝に当てて息を切らせ体を上下させています。遅刻しておき
ながら、なんて爽やかな登場をするんでしょうか。
言い訳せずに謝っている所も好感度UPです。他人事ながら胸キ
ュンです。
﹁マコ、先回りすんで。駅集合やから新幹線経路や﹂
﹁了解﹂
﹁グラビティはコレを、隙見て取り付けるんや﹂
絆創膏のようなソレをグラビティさんに手渡した。
﹁ユカさんソレは?﹂
965
私の問い掛けに何も言わず、眼鏡を指で位置を整えるユカさん。
﹃何も言うな﹄と言う事ですね、分かりました。きっとお約束の定
番、アレですね。
﹁グラビティ、見つかったら黙秘を通すか⋮⋮死して沈黙を守れ﹂
ガクブルで震えるグラビティさんを残し、ユカ・マコ師弟コンビ
はホームの電車へ急ぎます。
グラビティさん、がんばって!
新幹線の切符を買うべくみどりの窓口の前、ユカさんは腕を組ん
で考え込んでいます。
微動だにせず数分の後、目をクワッと見開いて窓口へ向かってい
きました。
﹁京都まで2名 禁煙グリーン﹂
淀みなく自信に満ち溢れた言葉でした。私はその自信の源につい
て問いただしたくなります。
﹁なぜに京都だと?﹂
ユカさんは私の問い掛けにニヤリと笑い、耳に掛けていたヘッド
フォンを手渡してくれました。
そっと耳に当てて聞いてみたら⋮⋮
﹁あっ⋮⋮盗聴器だったんですね。私は発信機かと思ってました﹂
966
さすがユカさん、いやさすがグラビティさんと言いたい所です。
グラビティさんは生きていました。捕虜にもなっていません。
﹁さ、いくで。音が聞こえてくるって事はそう遠くない筈や﹂
その声にドキッとしてしまい、周囲を見渡す私。
ユカさんに手を引っ張られ、新幹線のホームへと走り出しました。
席に座りヘッドフォンの左右を分け合い、ユカさんと私身を寄せ
ながら聞き入っています。
それなのに右耳と左耳が近似値の音を拾っています。
これは⋮⋮不味いです。
ユカさんの顔に笑みが消えました。鋭く一言言い放ち、身を屈め
ます。
﹁近い!﹂
身を屈め席と席の隙間から様子を窺うと⋮、居ました。対象発見!
前方の車両入り口から席のナンバーを確認しつつ、こちらに歩い
てきます。
一歩一歩と近づいて、ピンチです。見つかっちゃいます。
﹃あ、ここですね﹄
偶然とは恐ろしいものです。身を屈めた席と席の間から、お二人
の背中が丸見えです。
967
私とユカさんは口を押さえ、笑いを堪えるので必死です。
人は追い込まれると何故笑うのでしょうね。意味も無く可笑しく
て仕方がありません。
席に付いてしばらくの無言の後、カオル先生がマリエさんを見て
います。
﹃すんません、宮之阪さん﹄
マリエさんからの返事が無いと言う事は、寝ちゃったのでしょう
か。
ちょっとホッとしました。
意外とマリエさんは鋭いので、私達の気配に気づいてしまうかと
ドキドキしていました。
﹃カオル。寝ってしまったか?﹄
むぐぅ。今度はカナタさんの声が⋮⋮。
気を抜く暇がありません。抑圧されて大声を上げてしまいそうで
す。
﹃寝てねぇよ。出て来いよ﹄
私とユカさんは、耳がダンボの状態で聞き入っています。
ボソボソと話す二人の会話の声に、真剣さが増していきます。
﹃良かったら、そこに到着するまで色々聞かせてくれないか? 俺
カナタの事もっともっと知りたい﹄
どうやらカナタさんの身の上話を聞けるみたいです。
トイレに行きたいけど、聞き逃したら勿体無い。ここは我慢です。
968
969
﹃彼方06 美咲×乃江﹄
﹁ねぇ? ノエは今日暇?﹂
土曜の朝この事、美咲お嬢様と朝食を取っていた時の事、珍しく
私の予定を伺ってこられた。
お嬢様が目的を言わずにいた場合、大抵は良くない事の様のお付
き合いをさせられる。
それは幼少の頃からお付き合いさせていただいている上での経験
則だ。
一番酷かったのは幼稚園の、いいや⋮⋮思い出したくない、やめ
よう。
﹁特に用事はありません。お部屋の掃除でもしようかと思っていた
位ですから﹂
お供させていただけるのは光栄至極だ。
掃除と言っても、台所のシンクを酢で磨こうかと思っている位の
用事だ、今日やらねばならぬ用事でもない。
私の言葉を受け、美咲お嬢様はちょっとホッとしたような表情を
浮かべた。
そういう態度⋮⋮物凄く怖いのですが。
﹁人に合おうと思ってるの。一人じゃ心細いし⋮⋮﹂
ふむふむ。心細いと言う事は、面識の無い人だと言う事だと思わ
れる。
物怖じしない美咲お嬢様にしては珍しい。
970
﹁⋮⋮それに、一人じゃ、生きて帰れるか分からないんですもの﹂
ギョッとさせられる一言だ。私より上位のランクであるお嬢様に
そう言わせるなんて。
恐竜か、人と違う生物じゃないだろうか。
﹁宜しければ、少しお話しをお聞かせ願えませんか?﹂
お嬢様は少し考え、ニコリと笑って意地悪な表情を浮かべた。
﹁ノエを驚かせたいって言うのも、私の思惑のうちなのよね。ここ
は黙って付き合うと言うのはどうかしら?﹂
私の経験則でいう、最悪のシナリオに突き進んでいる⋮⋮。そう
思えて仕方ない。
炎天下の昼下がり、とある住宅街へと足を伸ばした。
目標の位置は分かっているであろう。けれどお嬢様はうろうろと、
二の足を踏んでいる。相手がよっぽどの強敵だという証拠。
家を出てかれこれ2時間、私の緊張も時が経つにつれ高まってく
る。
﹁お嬢様、このままでは熱中症か脱水症になってしまいます。どこ
か日陰へ移動しましょう﹂
私がお嬢様の身を案じた瞬間に、美咲お嬢様が機敏な動作で電柱
に身を寄せた。
971
﹁シッ! 目標が動き出した﹂
お嬢様が電柱に隠れ注視する先には、一軒屋から今まさに出掛け
ようとする女性。肩持ちのバッグを持ち、年の頃は30後半。
見た目の年齢はもう少し下にみえるが、腰回りに蓄えられた女性
らしさ、加齢と共に出て来る色香が年齢を表わしている。
身長160cm程、丁度私と同じくらいだが、出るところは出て、
くびれる所はくびれる。女性が思う理想の体型をしていた。
特にウエスト。加齢と共にコントロールの難しい場所を、見事に
調整しているあたり、尊敬の念を籠め見てしまう。
﹁主婦のお買い物⋮⋮ではありませんか?﹂
お嬢様に問う。確かにあれだけ脅かされ、出てきたのが普通の主
婦だと驚くだろう。
けれどそう言う思惑でお嬢様が動いているとは思えないのだ。
﹁ノエには只の主婦にみえるのかしら。いえ⋮⋮私も先入観なしで
見れば、そう見えるかもしれない﹂
相変わらず緊張を崩さないお嬢様に、主婦が只者ではない事を想
像させる。
カットソーに長袖で薄手のサマーセーター。ジーンズにサンダル
履き。どう見ても普通の主婦に見えるのだが。
コツコツと音を鳴らし、急ぐでもなく自然体で歩いている姿を見
て、私の率直な感想だ。
﹁尾行するわよ。ノエ﹂
目標が角を曲がった瞬間に、素早く動きだすお嬢様。
972
私は主婦の出てきた家。その表札を確認し驚きを隠せない。
﹁三室⋮⋮﹂
私はカオルの家へお邪魔した事は無い。玄関先まで行ったのは宮
之阪だけと聞いている。
色んな女性が家を訪ねる。訳知りの葵ちゃんになら問題は無いだ
しずか
ろうが、家人はどう思うか?そう考え遠慮していた。
﹁種明かし。三室静、年齢36歳。一人の夫と二人の子供を持った
専業主婦﹂
主婦が曲がった角から様子を窺うお嬢様。そのお嬢様から聞かさ
れた驚愕の事実。
えー、カオルが17歳、逆算すると⋮⋮19か18の頃の子だと
言うのか。むう若い⋮⋮。
﹁カオルのお母さん、美人さんでしょ?﹂
ふふふっと笑うお嬢様。
横顔が何処と無くカオルを髣髴させる。かなりお母さん似だ。
けれどカオルのお母さんを追跡する理由⋮⋮。多少思い当たる点
があるのだが⋮⋮。
﹁カオルを修行の末ボッコボコにした事を詫びるとか?﹂
﹁違いま∼す﹂
﹁外泊の多いカオル。その原因について謝るとか?﹂
973
﹁それも違いま∼す﹂
するとなんだ?、私一人が取り残されているようで凄く居心地が
悪い。
お嬢様は意地悪っぽい表情を浮かべ、私の困惑した顔を見つめて
いる。
﹁ノエにはわからないかしら? よく見て﹂
電柱の影からカオルのお母さんを観察してみた。
サンダルを鳴らし、青一色の空を眺めゆったりと歩いている。時
折すれ違う人に挨拶し、気の良い主婦にしか見えない。
けれどほんの少し⋮⋮違和感を感じる。何故だ⋮⋮?。
注意深く見つめる私は、その違和感の原因を垣間見る事が出来た。
カオルのお母さんが歩く後ろから、勢いよく走る宅配バイク。後
ろを振り向きもせず足運びだけで避け、驚いた様子すら見せない。
﹁あ⋮⋮﹂
見てはいけないものを見てしまったような消失感が私を襲う。
一度気が付いてしまうと、全てが計算された動きに見える。
足運びは無音歩行、それを隠すように取って付けた様、サンダル
で音を鳴らしている。
体の軸も線を一本引いたように真っ直ぐ。人には利き腕、効き足
があり、普通は緩い波を描いた体幹になるが、それが全く見受けら
れない。
﹁気付いたみたいね。カオルの成長の異常性、妹の葵ちゃんが言霊
が効かない子。行き着く先は一つだと思わない?﹂
974
確かにカオルの成長は目を見張るものがある。
お嬢様が戯言で見せた長考をすぐさま体現して見せ、私の体術を
見て理解し動きをトレース出来る。
味方ゆえ楽観して見ていれるが、敵に回れば脅威だと言える。
口には出せないが、私はこう思うのだ。
﹃魂喰いに似ている﹄⋮⋮と。
能力のサンプリングを人の死で実行できる﹃魂喰い﹄。
カオルは﹃見る﹄事でサンプリングを行えるのでは?と推測して
いた。
そしてカオルの精神世界で見た、自己を拒絶する壁。何重にも張
り巡らせた拒絶の壁。あんな壁を形成していて﹃正常﹄で居られる
カオルに驚きを隠せない。
カオルの⋮⋮いやカオルには、まだ私達の知らない何かがあると
思っている。
﹁お嬢様は私の考えを全てお見通しですか?﹂
全てを見抜かれている。そんな確信を持ってお嬢様に問う。
振り返り苦笑するお嬢様の、申し訳なさそうな顔が全てを物語っ
ている。
﹁だって、ノエちゃんとは物心ついた頃から一緒なんだもん。わか
るよ﹂
昔の美咲ちゃんだった頃のままの口調でそう言った。
時折見せる懐かしい表情と口調、その甘美な響きが私を虜にして
しまうのだ。
975
カオルのお母さんがふと立ち止まる。
駅前のパチンコ店の看板を見つめ何かを考えている。
看板の先には一子相伝の拳法、胸に七つの傷を持つ男を描いたコ
ミックスのキャラ。そのポスターがあった。
そのお兄さんのキャラを見つめ、うっとりとした表情を浮かべて
いる。
そして自分の腕に力こぶを作って比べている。
﹁なかなか愉快なお母さんですね﹂
お嬢様はその様子を窺い、苦笑して振り返る。
さすがにカオルのお母さんだ。そう言う所も似ていると言えるの
かも知れない。
﹁あ、飽きちゃったみたい﹂
力こぶに飽きたお母さんは、テクテクと通りを歩き、スッと細い
路地を曲がった。
細い路地の先は商店街、見失うと厄介だ。
少し焦りを感じ足早に追いかける私とお嬢様、細い路地を見て愕
然とする。
﹁見失った⋮⋮いや巻かれたのか?﹂
細い路地はその先の大通りに繋がっている、その先30m。一呼
吸置いたとは言え、見失う距離じゃない。
意図的に私達を振り切った⋮⋮、そう考えた方がこの状況を説明
976
しやすい。
路地を足早に抜け、大通りに抜けた所で辺りを見回して肩を落と
す。
目標を完全にロストした。
﹁お嬢⋮⋮﹂
私は言葉を飲み込まざるをえなかった。
細い路地を索敵していたお嬢様の背後に立つ女性。カオルのお母
さんの冷たい表情と、喉元に突き立てたれた手術用のメスのような
小型ナイフ。
そのナイフが脅しではない証拠に、首に浅く刺さり、刃先を頚動
脈に引っ掛けている。
お嬢様はそっと頭の上に手を置き、投降のゼスチャーをしている。
パチンコ店の前からの伏線だったか。あれで油断をさせて置いて
路地に誘い込む。そして姿を消して二手に別れる機を覗ったか。
乱戦を好まず、固体殲滅する無駄の無い動き、まさに暗殺者の動
きだ。
﹁名を﹂
死を予感させる低い声。端的に自分の意図を相手に伝える無駄の
無い素振り。
身動き取れず、声も出せないお嬢様に代わり答えた。
﹁真倉乃江。そちらは天野美咲﹂
その名を聞いてカオルのお母さんの表情がパッと明るくなる。
そして首に刺さったナイフをゆっくり引き抜き、肩持ちのバッグ
へナイフをしまいこんだ。
977
首の出血も最小にナイフを刺し、引き抜く技量は相当のものだ。
恐らくだが、お嬢様は刺された瞬間、蚊に刺された程しか感じて
いないのではないだろうか。
私の身内にそういう使い手がいるが、その者は対峙した敵の指を
一本一本⋮⋮五本全てを気づかせず切り取る事が出来る。
おそらくはそのレベルの技量、もしかするとそれ以上の。
﹁あらあら、カオルのご学友やないの。え∼⋮⋮ごほん。愚息がお
世話になってます﹂
緊張感を吹き飛ばし、深々と挨拶をした。
関西なまりのイントネーション。ユカの口調に近い。
あまりのほのぼのとした雰囲気に、思わずこちらもお辞儀をして
しまう。
頭を上げても頭を垂れているお母さんに、再び頭をさげてしまう。
﹁そのご学友の方が、﹃ただの主婦﹄の私に、どういった御用でし
ょうか?﹂
さりげなく誤魔化そうとしているのがひしひしと感じれた。
いまさらただの主婦とか言い訳されても、無理があると言うのに
⋮⋮。
﹁あ⋮⋮、私今日はご機嫌だから、二人に甘い物でも奢っちゃおう
かなぁ⋮⋮とか﹂
今度は物で口止めをしようというハラか。
必死すぎて楽しくなってきた。
﹁ノエ? せっかくだから、ご一緒しましょうか﹂
978
お嬢様は首の手当てを済ましていた。守人であるお嬢様からは、
弛まなく治癒の力が溢れており、あの程度の傷であれば即完治して
しまう。
退魔士の意図的な治癒とは、次元が違うと言わざるをえない。
﹁その先に、美味しい甘味処があるんよ。白玉団子、美味しいぇ﹂
威風堂々とした背中を見つめ、その後を付き従うしか選択肢は見
つからない。
当初の予定は、﹃会う﹄事だ。第一目的はクリアした、その後の
目的は恐らく﹃話す・聞く﹄事だろう。
表通りに出たすぐの甘味処、和風の装いで落ち着いた雰囲気だ。
店に入るなりスッと手を上げてオーダーを頼むカオルのお母さん。
メニューすら目を通さない所を見ると、相当ここへ通っているよ
うだ。
﹁お抹茶白玉団子∼、貴方達は何にする?﹂
私とお嬢様は、写真つきのメニューを見て心躍らせる。
どれもこれも美味しそうな品ばかりだ。
﹁私、白玉クリームあんみつ、粒あんで!﹂
物怖じしないお嬢様はサッさと決めて、オーダーを通してしまう。
残るは私だけなのだが、こういう時の決断力の乏しさには定評が
ある。自慢にはならないが⋮⋮。
979
﹁冷やししるこ 白玉増量で!﹂
短時間に全ての選択肢を網羅し、最高の選択に行き着いた。
普段の食べ物はどうでもいいのだが、こと甘味となると話は変わ
る。調子に乗って食べると大変な事になるからだ。
ホッペがふっくら、制服のスカートがキツくなり、服が着れなく
なる。そんな危険を孕んでいる。けれど甘いものには目がないのだ。
オーダーを通し、店員が奥へと下がったタイミングを見計らい、
カオルのお母さんが話を切り出した。
﹁聞いてええ? なんで﹃主婦﹄の私、尾行してたん?﹂
まだ言い張っている。最後までこの調子で押し通しそうな気がす
る。
みむろしずか
お様様は自信に満ち溢れた余裕の笑みで、その台詞を押し返した。
さがの
﹁私は三室カオルさんのお母さんに会いに来ました。三室静さん⋮
⋮旧姓は嵯峨野さんでしたね﹂
ひい
お嬢様の問い詰めるような口調の言葉、それを聞きカオルのお母
さんは頭をポリポリと掻き苦笑する。
﹁よう調べたなぁ⋮⋮、けどそれは過去の話やで? 天野の姫さん﹂
カオルのお母さんは、とうとう引き返せない言葉を吐いてしまう。
その言葉を投げかけると言うのは、相当の覚悟の上なのだろう。
発する殺気が不利益を及ぼすと判れば⋮⋮、と語りかけてくる。
対峙していない私でさえ、その気迫に飲まれそうになっている。
面と向かったお嬢様は相当のプレッシャーを受けているだろう。
980
﹁ええ⋮⋮過去の話です。私は今現在の話をしに来ました。カオル
さんの話です。お聞かせ願えませんか?﹂
カオルのお母さんは、目を閉じてため息を一つ吐いて、物言いを
付ける。
﹁私の事、お母さんて言えるのは、娘・息子とその嫁だけや。今の
所﹃静さん﹄とか﹃静姉さん﹄とか呼んだってくれへん。こそばゆ
いねん﹂
どこかで聞いた事のある台詞だ。恐らくこの次に忠告される台詞
は⋮⋮
﹁うちの事﹃おばさん﹄とか言うたら⋮⋮、判ってるな?﹂
やはり天野家の美苑様と同義の言葉を言うのですね。
どこと無く雰囲気が似てると言うか⋮⋮、同じナイフ使いと言う
のも、その妄想を助長している気がする。
﹁甘いもん来るまで、三つだけ質問に答えたる。わけあって多くを
語れん事情があるんや。YesかNoで答えれる質問に限らせてや﹂
けんき
そういい終わると、テーブルに手を置きお嬢様と私を見つめた。
話せない訳⋮⋮。どういうことだろうか。
﹁じゃあ、まずカオルさんの﹃見る﹄能力ですが、見鬼の能力とは
また違います。それは危険な能力ですか?﹂
お嬢様の淡々とした質問に対し、コクリと頷いた⋮⋮静さん。
981
その頷きを見て、お嬢様はため息をついた。
そして私に目配せし、質問を続けよと指示された。
私は一番気になっていた事象を問うた。
﹁カオルさんの心の壁。あの壁は自分自身で造ったものではありま
せん。第三者がカオルの精神崩壊を防ぐために造った物でしょうか
?﹂
︱︱︱胸のつかえが下りた。お嬢様にも言えず、一人悶々と考え
ていた事柄だ。
お嬢様に聞いてもらえた事、前向きに解決へ向かいその事を言え
た事で、安堵の気持ちで一杯になる。
静さんは目を大きく開き、しばし考え込んだ。
そして首を縦に振り、私に笑みを浮かべた。
たしな
﹁あんたやったか。息子が一皮剥けて男らしゅうなったのは気い付
いてる。けど無理はいかんで?﹂
いたずらをした子供を諭すように優しく、そして厳しく私を窘め
た。
﹁はい⋮⋮、すいませんでした。軽率だったと思います﹂
私は精神世界での失態、カオルを消滅させてしまう事態に陥った
事を素直にわびた。
ひい
運良く切り抜けたものの、頭を下げて許していただける問題では
ない。
﹁いいや、怒ってるんやないで? 真倉の姫さん﹂
982
下げた私の頭をポンポンと撫ぜ、ニコリと笑って許してくれた。
﹁最後の質問や。お手柔らかに頼むわな﹂
お嬢様は胸に手を当てて、深呼吸を一つ。そして最後の問いを投
げかけた。
﹁漆塗りの守り刀⋮⋮、私達はカナタと呼んでいます。その刀をカ
オルさんが手にしているのは偶然ですか?﹂
静さんは手を額に手を当てて、堪える笑いが止まらない。
そしてYESでもNOでもない一言を呟いた。
﹁あれは元々うちの家のもんや。カオルが手にしたのは必然。助力
はしたけどな﹂
983
﹃彼方06 カオル×カナタ﹄
焼き鳥を堪能した俺達は、店を後にしてホテルへ向かって歩いて
いた。
昼間の熱気が街に残り、陽が沈んでも蒸し暑い夜だった。
﹁お腹は満ちたりましたか?﹂
俺の問い掛けに対し、笑顔で頷いてくれた。
今日は焼き鳥と言うよりつくね三昧だった⋮⋮、けれどあれほど
楽しい食事は久しぶりだ。
料理と言うのは、味が美味いだけでは満ち足りない。
楽しい時間を過ごしてくれる仲間がいてこそ、最高の料理になる
という事が、身に染みてよく判った。
﹁カオルは、お腹一杯になりましたか?﹂
宮之阪さんが上目使いで、俺の顔を覗きこむ。
俺の顔は楽しい食事を思い浮かべ、とても締まりのない顔をして
いた事だろう。
﹁ええ⋮⋮とっても。また行きましょうね、焼き鳥﹂
またこんな楽しい時間を過ごしたい⋮⋮。そんな気持ちで一杯だ。
﹁喜んで!﹂
俺の手に絡む腕、身を寄せる隣の人の温かみを感じた。
肩に寄り添うようにしている宮之阪さんの頬。
984
﹁わ! 宮之阪さんマズいよ⋮⋮﹂
身を寄せ合う恋人同士のような密着感に、思わず声が出てしまう。
ちょっと、いや⋮⋮かなり恥ずかしい⋮⋮。
﹁英国では紳士が淑女をエスコート、当たり前のコトですよ。恥ず
かしくないですよ?﹂
挨拶でキスするお国柄だから、イギリスでは当たり前なのだろう
か⋮⋮。
日本人遅れてる? むうう⋮⋮。
﹁嘘ですよ。誰かれ無しにはしませんよ﹂
ふふふと笑って握る手に力を籠めた。俺はくすぐったくもあるそ
の手を、ホテルに着くまで離す事は出来なかった。
ホテルに着き、フロントを覗き込む。フロントにはあの女性が背
筋を伸ばし立っていた。
﹁まだ居る⋮⋮仕事だから仕方ないか﹂
出来るだけ足早にフロントを通過し、エレベーターホールへと駆
け込んだ。
明日のチェックアウトには居ませんように⋮⋮。
﹁どうしたのですか? 急がなくても⋮⋮﹂
腕を引っ張られ少々困惑気味の宮之阪さん。
初々しいお泊りカップルだと思われてる⋮⋮、なんて言える訳も
985
なく、苦笑で答えるしかなかった。
エレベータを使い部屋のある階へ、部屋の前に着いた所で、ふと
違和感を感じる。
時を同じくして、宮之阪さんも扉を見つめ、眉を吊り上げ目配せ
している。
﹃人の気配がする﹄
アイコンタクトでお互いの気持ちを確認した。
部屋の中を動き回るような派手な気配ではない、息を潜めるよう
な穏やかな呼吸を感じる。
腰のナイフの位置を確認し、逆の手で扉のカードを挿入する。
﹃ガチャリ﹄
扉の開錠と同時に扉を開け放ち、ナイフを抜き部屋へ乗り込んだ。
部屋の照明は点灯しており、扉からは人を確認出来ない。
足早に踏み込んで、俺と宮之阪さんは目を点にした。
﹁山科⋮⋮さん、それに真琴﹂
二人はベッドへ横たわり完全熟睡。真琴に至っては枕を抱き、は
したなくスカートがはだけている。
ピンクのコットン。かわいい小さなハートマークが沢山の⋮⋮。
俺は手早く真琴のスカートを直し、ゴホンと咳払いを入れた。
﹁う⋮ん﹂
まったくを持って起きる気配なし。
二人を見て腕を組んで呆れた顔をしていた宮之阪さん、寝ている
986
真琴にのしかかり、耳元へ息を吹きかけた。
﹁あひゃ∼うう﹂
一瞬のうちに真琴が目を覚まし、跳ねるように飛び起きた。
こそばゆい耳をゴシゴシと手で擦り、眠そうな目を左へ右へと泳
がせた。
﹁あっ⋮⋮カオル先生⋮⋮⋮、こんばんわぁ⋮⋮⋮﹂
真琴がベッドに正座し、ペタンと頭を擦りつけてお辞儀をしてい
る。
まだちょっと寝ぼけてそうな感じだが⋮⋮。
宮之阪さんは隣の山科さんの布団へと潜り込み、体を密着させて
⋮⋮
﹁ぐえっ﹂
チョークスリーパーを極めた。
アレ効くんだよな⋮⋮、死すら予感させるぐらいに⋮⋮。
そして落とす寸前で力を緩め、山科さんに眼鏡を手渡した。
眼鏡をしていない所を初めて見たが、眼鏡美人は外しても美人な
のだな。
宮之阪さんはベッドでお辞儀をしたままの真琴に蹴りを入れ、山
科さんと真琴を床に正座させた。
意外と宮之阪さん怒ると怖いな⋮⋮。
﹁山科さん、事情を話してくれないかな?﹂
付いて来た意表を付かれたが、まあ美咲小隊らしいというか⋮⋮、
987
納得してしまった。
折角なら一緒に行動すれば良いのに、こんな時間まで一体何をし
ていたのやら。
﹁話せば長い事ながら⋮⋮﹂
山科さん達は俺達を同じ新幹線に乗り込んだらしい。座席が俺達
の席の後ろだと聞いて驚かされた。
そして俺達が降りた京都駅を降りれずに、新大阪駅まで行ってし
まったそうだ。
なんでも俺達がゆっくりと降車し、なおかつ降りた場所で駅員に
乗り換え先を聞いたからだと言う。
そんな事を言って八つ当たりされたが、俺は二人が悪いと思う。
﹁でな? 時間を計算して新大阪から大阪へ。環状線で鶴橋まで、
そこから近鉄に乗り換えよう思たんや﹂
俺達は京都駅から特急待ちで30分弱、朝昼兼用の食事を済ませ
ている間に移動を試みたらしい。
こちらは30分待ちでも特急の区間時間は35分なので、新幹線
を降りて65分後に奈良へ着ける。
山科さんは京都∼新大阪間で14分ロスしたが、環状15+α分、
近鉄線が30分少々でリカバリーを試みたそうだ。
カオルチーム:︱︱14分経過︱[京都]︱︱︱︱︱︱[15分
待ち]︱︱︱︱︱︱35分︱︱︱︱︱︱︱[奈良]
ユカマコ師弟:[京都]︱14分︱[新大阪]︱︱4分︱︱[大
阪]︱︱15分︱︱[近鉄鶴橋]︱︱30分︱︱[奈良]
﹁ん? がんばれば追いつく計算なんだが⋮⋮﹂
988
俺の問い掛けに、真琴と山科さんがため息を付いた。
﹁環状線のホームでな? 電車が来てたから、慌てて乗ってんけど
な⋮⋮外回り、内回りを間違うたんや⋮⋮﹂
ぷっ⋮⋮山科さん、意外とドジっ子属性だな。けれど迷ったのな
ら電話連絡してくれたら良いのに⋮⋮。
﹁ホテルの場所はグラビティが知っとるやろし、ここは大阪観光を
⋮⋮と﹂
﹁ユカさんの案内でお好み焼き食べたり、冷やし飴飲んだり、水上
バスに乗ったりしてました∼﹂
お好み焼きは良いとして⋮⋮ちょっと待て!
﹁なんでグラビティがホテルの場所を知っている?﹂
俺は率直な疑問を口にし、山科さんに詰問する。
その鋭い視線に耐えかねたのか、そっと目を逸らす山科さん。や
ましい心を持つ人の動きだ。
﹁今、白状すれば許してやる⋮⋮﹂
﹁あっ、あのな? 盗聴⋮⋮機をグラビティに付けさせたんや。ア
イツのやりそうな事は予想が付くから⋮⋮その、あのな。マリリン
の鞄に忍んどると予想したんや﹂
盗聴器かよ⋮⋮。聞かれて困る会話はしてないけど、それはどう
989
かと思うぞ?
けれど水に流すって言ったし、許してやるか。
しかし宮之阪さんの表情は硬く、自分の鞄へ歩み寄りじっと見つ
めている。
そしてジッパーを開き、むんずとグラビティをつかみ出した。
花柄のブラを頭にかぶったグラビティ。短い足と手をジタバタと
動かしてもがいている。
鬼の形相でブラジャーを引ったくり、ベランダの窓を開けて、す
ぅ∼と息を吸い込んだ。
﹁死んで償え、へちゃむくれ!﹂
ドスの聞いた叫び声と共に、﹃これでもか﹄って位の剛速球でグ
ラビティを放り投げた。
星になったグラビティを確認し、荒い息で肩を震わせた宮之阪さ
ん。ピシャリと窓を閉め鍵を閉め振り返った。
﹁かんにんしたってな? アイツのアレ病気やから⋮⋮﹂
幽鬼のように立ち、冷ややかな目で山科さんを睨みつける宮之阪
さん。
その圧倒的な怒気に押されて、山科さんはご機嫌を取るのに必死
になっている。
やっぱ、宮之阪さんちょっと怖ええ。
宮之阪さんは手に持ったブラに気が付き、赤面して鞄に詰めた。
そして目つきも口調もいつも通りに戻り、泣きそうな声で愚痴を言
う。
﹁酷いですぅ⋮⋮﹂
990
ちょっと裏表の激しい性格なのかもしれないと、心の中の﹃俺ノ
ート﹄にメモをした。
宿泊人数の増えた俺達はフロントに連絡し、ベッドと宿泊人数を
追加してもらった。
嫌味の一つでも言われるかと予想していたが、むしろ快くベッド
を追加してくれた。
さすがサービス業、気持ちいい応対だった。
﹁山科さん達は、晩御飯は食べないの?﹂
俺達が御飯を食ってた時間に熟睡していのだ、お腹も減っている
だろう。
けれど山科さんも真琴も、真っ青になって首を振る。
﹁お好み、たこ焼き、鶴橋の焼肉、冷やし飴に甘いもん。一日の摂
取カロリーを遥かにオーバーしとるねん。疲れて寝てたんやなくて、
お腹一杯で寝とってん⋮⋮﹂
悲しそうな顔をして、お腹を擦る山科さん。
どっちかと言うと痩せ型の気がするのだが、男と女の感覚は違う
のだろうか。
﹁山科さんはどっちかと言うと痩せ型のような気がするけど⋮⋮﹂
﹁痩せの方がヤバイんや。お腹ポッコリ目立つし見苦しい。服がキ
ツクなるんは、痩せてても太ってても一緒や﹂
991
なるほどな。それは言えてる。スリムな人がお腹ポッコリは不味
いな。
スタイルが目を惹きつけるだけあって、羞恥の的になるか。
﹁じゃ、みんな明日も早いし、風呂入って寝るか﹂
このまま起きてると、また西と東の横綱が呑みくらべしそうだし、
荒れる前に寝ようと思う。
と⋮⋮その前に、寝る場所を決めないといけない。
デラックスツインが広いとはいえ、追加ベットは一つしか設置出
来なかった。
3ベットに人数は4だ、一人あぶれる計算になる。
﹁ベッド一つ足りないけど⋮⋮、どうする? 真琴なら一緒に寝て
も問題ないが⋮⋮﹂
セミダブルのベッドだし、真琴サイズなら邪魔にならんだろうし。
そんな提案に、真琴は顔を真っ赤にして頷いた。
﹁カオル先生が良いの⋮⋮ぐえっ﹂
真琴の後ろから山科さんがはだか締め、宮之阪さんがアイアンク
ローで真琴の顔を掴んでいる。
﹁真琴は私が⋮⋮﹂
﹁真琴はうちの抱き枕やんな?﹂
真琴⋮⋮何気に大人気だな。引く手数多とはこの事か⋮⋮、人気
992
者は辛いな。
それならそれで、俺が気を使う事もあるまい⋮⋮。
﹁んじゃ、そう言う事で、俺は端っこのベッドに寝ます。 先に風
呂行かせて貰いますね﹂
鞄から着替えを取り出して、風呂へと向かう。
いつもながら思うのだが、ユニットバスを考えた奴は頭が悪いと
思う。
いや国別の風土の違いは理解しよう。けれど日本のホテルでユニ
ットバスを使う意味が判らん。
そもそも防水カーテンをバスタブの内側に入れて、水が外に漏れ
ないように気を使わねばならん。これを欠陥品と言わずしてどうす
る?
水が外に飛び出れば、トイレが水浸しだ⋮⋮訳判らんよ。
そんな愚痴を思い浮かべながらも、シャワーを浴びた。
シャワーの音にかき消されてよく聞こえないが、なにやら3人の
声が聞こえる。三人寄ればかしましいとこの事だ。
仲の良い魔法組、派手に騒いでいるだけかもしれないな。
シャワーを浴びた俺は、ベッドに横になり目を閉じて、いつの間
にか眠りに落ちてしまっていた。
そしてしばしの眠りに落ちた俺は、ふと何かの気配を感じ目を開
けた。
薄暗い部屋の灯りと見慣れぬ天井が見え、隣では規則正しい寝息
993
が聞こえてくる。
﹃深夜か⋮⋮、みんなも寝ちまったか﹄
目を覚まし、身を起こそうとして異変に気付いた。体が痺れた様
に自由が利かず、首を横に振ることも出来ない。
﹃金縛り?﹄
どうやっても動かない手足がもどかしく、唯一動かせる眼球を駆
使し、辺りを覗ってみた。
俺の枕元に立つ燐光。人型の燐光が俺を見下ろしている。
俺は最大限動かせる目で、発光体を見ようと試みた。
年の頃は10代の少女、長く癖の無い髪と、白い肌の⋮⋮。
﹃カナタか?﹄
その見覚えのある顔を見て、心の中で俺は叫んだ。
カナタは表情を変えず、そっとベッドへ膝をついた。
﹃ギシリ⋮⋮﹄
耳から聞こえないベッドの軋む音、心の中に響いてきた。
寝ている俺に跨るようにペタンと座り込んだカナタ。表情にそこ
はかとなく色気を感じる。
もしや⋮⋮星川さんが言っていた、刀神とのアレか?
﹃器量よしの神じゃ、夢に出る姿はさぞかし美しいじゃろうな﹄
星川さんの言葉が頭をよぎる。確かにカナタは、心を奪われるほ
994
どに美しい。
﹃誰より﹃生﹄への渇望があるのやもしれぬ。故に子を宿したいと
おもうのじゃろう⋮⋮客人も憎う思っておらんから余計じゃな。﹄
その後に言った星川さんの言葉を思い出して、ドキリとさせられ
た。
子を宿すって⋮⋮まさか。
俺の心がカナタへリンクしているのか、白の肌が赤く色付き朱に
染まった。
俺の肩を押さえるように両手で圧し掛かり、顔を近づけ目と目が
合った。
吐息を感じ、唇が肌に触れていると思えるほどに近く感じた。
﹃カオル⋮⋮﹄
俺は目を閉じてカナタを受け入れようと思った。
抱きしめたいと思う手が自然に動き、カナタの細い背に手を絡め
力いっぱい抱きしめた。
俺の胸に頬を横たえたカナタが恨み言の様に俺の名を呼び続ける。
﹃カオルの⋮⋮﹄
﹃浮気者∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼﹄
耳をつんざく様な大声と共に、俺の首に噛り付いたカナタ。
ガジガジと子供のように噛み付いて、わんわんと泣き始めた。
﹃一心同体、共に生きると言いつつ、四条という女と仲良くなった
り、宮之阪と逢引するなどもってのほか!﹄
995
手で俺の胸をポカポカと叩き、日頃の不平不満を吐露するカナタ。
﹃もしかして、ヤキモチ焼いてるのか?﹄
俺はカナタの頭に手を置いて、優しくそっと撫ぜた。
カナタは猫の様に細く目を閉じて、ぽとぽとと涙を流す。
﹃そうじゃ⋮⋮、何故か判らんがカオルの事を思うと胸が苦しゅう
なる⋮⋮﹄
俺は衝動的にカナタを抱きしめた。
性欲で動かされたわけじゃない。けれど何かが胸の中でざわつく。
そんな不確かな気持ちを確かめたかったのかも知れない。けれど
抱いて見て気付ける事もある。
﹃なんか⋮⋮懐かしいようなくすぐったい様な、不思議な感覚だな﹄
胸の上に感じるカナタの温もりと重さが心地良い。
細く長い髪を手で透くように撫ぜ、肩から腰へ、腕から手のひら
へと撫ぜ上げた。
﹃カオル⋮⋮﹄
カナタの吐息に情熱を感じる。身を捩るように俺の上で身悶えて
いる。
腿と腿を擦り合わせて、悩ましい表情を浮かべ親指を噛むカナタ。
朱に染まった頬と幼さを残す端正な顔が、大人の女性の表情を浮
かべる。
996
﹃続き⋮⋮する?﹄
俺の問い掛けに、カナタがボッとさらに顔を赤らめ、ポカポカと
俺を叩く。
﹃我はそんな尻軽ではない∼。わきまえよ∼﹄
そう言って俺の腕へ絡みつき、腕枕をさせ気持ち良さそう目を閉
じた。
﹃腕枕⋮⋮気持ち良いか?﹄
カナタは何も言わず、コクリと頷いた。
星川さんが言っていた様な事⋮⋮、カナタにはまだまだ早いのか
も知れないな。
胸の中で眠る小さな姫様を見つめてそう思った。
﹃腕枕で良かったら、何時でもやってやる。金縛り無しなら大歓迎
だ﹄
俺の言葉を受け、カナタが身を捩った。
頬に伝う人肌の温もり。ほんの一瞬触れただけのキスをして、再
びカナタは目を閉じた。
俺は天井を見つめながらため息をついた。己の中で火のついたリ
ビドーと、屹立して収まらない体の一部分をどうしたものかと悩ま
しく思った。
997
ONLY>
﹃彼方06 カオル×カナタ﹄︵後書き︶
<覆面会議 SOUND
覆面 蹴:私達がアレしている間に、楽しそうな事してますね︵毒︶
覆面 拳:確かに⋮⋮。
覆面 剣:私達お邪魔虫なだけでした∼。ポイントダウンですよぉ
覆面 風:せやなぁ、せめてもの救いは食い倒れただけやし。
<全員の視線が集中する>
覆面 魔:あうっ、お邪魔虫のせいで、せっかくの夜が台無しです
∼ ><、
覆面 剣、覆面 風:︵ニヤリ︶
覆面 蹴:私達はそれなりに進捗ありましたから、まあ良いです。
覆面 拳:進捗? それは?
覆面 蹴:カオルのお母⋮⋮もとい静さんがお母さんと呼ぶな、﹃
今の所﹄静と呼べと。
覆面 拳:なるほど! 今の所って事は先はどうなるか判りません
って言っているようなものですね。
覆面 蹴:外堀から攻めるのも正攻法です。
understand
how
覆面 剣、覆面 風:ギャース。てことは一番ナンも無しはうちら
だけやん。
覆面 魔:いえいえ、お邪魔虫のせいで私も⋮⋮
魔以外 :そうかな?
never
覆面 剣:カオル先生のお腹サワサワしてました。
覆面 風:﹁You
998
I
feel﹂ってな。戸田なっちゃん意訳どうぞ∼
覆面 剣:ん、もう!鈍感ね!︵ハアト︶
覆面 拳:楽しい食事をしたり⋮⋮
覆面 蹴:腕を組んで寄り添ったり⋮⋮
覆面 魔:あうう⋮⋮
全員 :けれど一番の強敵はアイツね。
覆面 神:ん?
999
﹃放課後の儀式 01﹄
奈良の一件でカナタの過去を知り、カナタに生い立ちに触れた。
江戸時代の刀匠で退魔刀として打たれたカナタ。
主の最後の瞬間に目覚め、ご神木に育まれた存在だった。
社の神気、神木の霊気を注ぎ込まれ、本当の退魔刀として産まれ
た。
カナタは折れる事によって本来以上の力を持ち、ご神木の加護の
もと錆び朽ちる事も無く、現代まで過ごしてきた。
それを俺が手にする⋮⋮、カナタを手にする事で、俺は死なずに
生き長らえた。
しかし、カナタを手にしたことにより、俺の人生はレールを外れ、
道なき道を突き進んでいる。
とてつもなく低い確率の元に、俺は生かされている事を実感し、
そして感謝している。
しかしレールを外れた人生も満更ではない。
今までの俺は日々を惰性で延命していただけ、今は生きていると
実感があるからだ。
俺を信頼し、﹃カオル﹄として見てくれる仲間がいる。
仲間が俺を支え背中を押してくれるのなら、俺は力強くどんな道
であろうと突き進み生きていく。今はそう考えられるようになった。
その後のカナタだが、夢に出る事も無く平和な夜を過ごしている。
ホッとしたような少し寂しいような複雑な気分だ。
カナタはといえば明るく元気一杯、今まで以上にハツラツとして
いる。
最近は起動しっぱなしのパソコンで﹃検索﹄するのが楽しみなよ
うだ。
カナタも現代を生きるために変化している。模索して歩いている
1000
のだ。
俺はカナタの不調と言う心のつかえが取れ、再び非日常めいた日
常を過ごしている。
ここは竹林が鬱蒼と茂る町外れの神社。
退魔士マンションからほど近い場所だが、こんなに神気に溢れ、
清浄な気を湛えた神社は稀だと思う。
地脈が良いと言うか、身を寄せてホッとできる場所。そんな神社
だった。
周りの竹林から世俗の穢れを祓う様に笹鳴りがして、耳を澄ます
と穏やかな気持ちにさせる。
俺の今日からの修行の場は、この神社だった。
﹁一回だけや、よう見ときや!﹂
山科さんは境内の真ん中に立ち、ナイフを頭上に高く振り上げて
叫んだ。
スゥっと息を吸い、ナイフを強く握りこみ、手に霊力を籠め目を
ふうひょうか
閉じた。
﹁風飄花﹂
手先から一気に霊気が流れ込み、トウカのナイフがまばゆい光を
発し爆ぜる。
周囲の竹林が唸りを上げ、竹が折れんばかりにしなり、枝葉の笹
1001
鳴りが激しく音を立てた。
小型の竜巻と呼べる大型の旋風が巻き起こり、砂塵を巻き上げ桃
の花びらを空へ高く押し上げた。
山科さんの頭の上で天を見上げるトウカ、呆れた顔をして扇で口
元を押さえた。
﹁旋風に舞う花の情緒が無いのう⋮⋮、あれでは荒れ狂う竜の咆哮
じゃ﹂
山科さんは携えたナイフを一振り空を斬り、風に舞う落ち葉を両
断した。
﹁ええナイフや﹂
そっと鞘にナイフを収め、握りなおし柄を向け手渡された。
俺は手渡されたナイフに気がつけぬほど、舞い上がる桃の花びら
ふうひょうか
と旋風を見上げ唖然としていた。
ふうひょうか
俺の風飄花は山科さんのソレと比べると子供のお遊び。規模も威
力も違いすぎる。
血の契約をした俺専用の武器を使い、無理やり風飄花を発動して
⋮⋮結果はアレか。
レベルの違いをまざまざと見せ付けられた。
﹁自分の限界を決めてしもたら、それ以上成長は望めんのや。今の
を目標にがんばろか?﹂
ふうひょうか
師匠は弟子に手本を示す。そう言いながら、座興で見せてくれた
風飄花だった。
俺に実現可能と言いたげな口調だが、俺の霊力を絞り尽くし旋風
が限界。いや限界だと思っていた。
1002
ふうひょうか
﹁俺の風飄花は、保持霊力の1/5を籠めている。あれほどの規模
を発生させるのは無理だ⋮⋮﹂
俺は両手を見つめ、己の不甲斐なさと力の無さに嘆くしかなかっ
た。
注ぐ霊力の限界値はおおよそ全霊力の半分。それ以上を籠めるの
は実質不可能だ。宿主の霊気が希薄になれば、霊気を押し出す事も
出来ない。
そんなに大量の霊気を放出したら、生命活動を終え死に至るだろ
う。
そんな俺を元気付けるように、軽く笑い俺の肩をポンポンと叩く。
﹁簡単に出来てもうたら、うちの立場ないやんか、それを学ぶ為の
修行やんか﹂
うちにまかしときぃと言わんばかりに、胸をポンと叩きニコリと
笑った。
﹁カオルには潤沢に霊力がありすぎるんやな。ある事にかまけて使
い方が成ってへんねん。いっそ無いほうが有り難味判るんちゃうや
ろか﹂
それは美咲さんにも、乃江さんにも言われてきた事だ。
美咲さんには、乃江さんの技を盗めと言われたのだが、とうとう
その技もコツもよく判らなかった。
﹁前衛での修行の時は、乃江さんの技を盗めと言われたんだが、皆
目⋮⋮﹂
1003
山科さんはため息をついて、両手を天に仰いた。
﹁乃江は霊力コントロールの天才やからな。しょぼい霊力使うてA
ランクやもん。うちの自尊心が傷つくわ﹂
しょぼいって⋮⋮、ちょっと言いすぎではないか?
けれど乃江さんを語る山科さんの顔は、友人を誇らしげに自慢す
る良い顔をしていた。
表面上対立したりしてるけど、乃江さんと山科さんは誰よりも仲
が良い。
似たもの同士でお互いを意識してしまったりするけど、誰よりも
理解しあっていると言うか⋮⋮見ていて羨ましい関係だと思う。
ふうひょうか
﹁あのレベルのコントロールは10年掛かるな。乃江やったら小指
の先ほどの霊力で風飄花を発動出来るやろ﹂
⋮⋮小指の先ですか。乃江さんはやっぱり凄い。
でも山科さんの技を見て、ヒントめいたモノを垣間見た。そして
乃江さんのインパクトの瞬間に霊気を出すという技量、行き着く先
の答えは一つだ。
﹁漫然と霊気を籠めてもダメだと言う事ですね。山科さんはナイフ
に霊気を通さず、手で一度溜めて送り込んだ﹂
俺の台詞に驚いた表情を浮かべ眼鏡を指で整えた。
俺を見つめる顔に﹃正解﹄と書いてあるようなもんだ。
﹁さすが ﹃目﹄ が良いと言うだけあるな。その通り! タメが
必要なんや。ペットボトルロケットも漫才の笑いも﹃タメ﹄が必要
なんや﹂
1004
最後の例には首を傾げるが、言いたい事はよく判る。
一度だけしか見ていないので確証は得れないが、俺はナイフに霊
気を注ぎ込んでナイフ上の霊力飽和を起している。
対する山科さんは、手に溜めた霊気をナイフへ一気に送り、早期
に飽和状態を作り出している。
ナイフと言えど霊気が通せると言うだけ、一度籠めればそれで良
いと言う訳ではない。霊気が抜けてしまうのだ。
例えると穴の開いたバケツの様なもの。水道で水を入れても満タ
ンに出来るには途方も無い水を使う。そしていつかは霊気が抜けて
しまう。
山科さんは穴の開いたバケツに水を入れるのに、バケツをもう一
つ用意し、一気に注ぎ満タンにした。
俺の霊気注入と違い格段に効率が良い。
﹁理屈では判るんだが⋮⋮﹂
ニヤリと笑う山科さんが、ポケットをまさぐり俺の目の前に突き
出した。
ゆっくりと開けられた両手には、40cmはあろうかと言う皮の
紐だった。
﹁なにこれ?﹂
細い皮ひも⋮⋮いや、バンドだな。幅1cm程の長いバンドで先
端に時計の留め金具がついている。
例えて言うなら、細くて長い犬の首輪⋮⋮。
そしてなにより怪しいのが、びっしりと書き込まれた呪文のよう
な文字。
一見すると﹃呪われたアイテム﹄。ゲームだと装着後外せなくな
1005
るアレだ。
﹁パワーリストや。カオルの霊力を抑えて、霊力を絞る役目をする
ねん。ちょっと不自由して霊力の有り難味を味わおうか﹂
書き込まれた呪文はその為の物か。
山科さんは俺の手を取り、グルグルと乱雑に巻いてバンド留めを
した。
﹁なんかブレスレットみたいでカッコイイですね﹂
両手に巻かれた皮のブレスレットっぽいアイテム。見た目ファッ
ショナブルで結構いけてる。
みそぎはらいことば
﹁そりゃそうやろ、元はレザーブレスレットのグルグル君やもん。
神道の禊祓詞が書かれてる以外は⋮⋮﹂
バンドにびっしりと書き込まれた行書文字、意外と山科さん達筆
だなぁ。
﹁神道? 山科さんって神道の知識もあるんだ?﹂
神道と言えば、神主さんが﹃祓いたまへ清めたまへ﹄ってやるア
レの事だろ?
紙がヒラヒラした棒⋮⋮、えとなんてったっけ、祓い棒? 大麻
? あれを振って⋮⋮。
﹁ありゃ? カオルは知らんかった? うち神道系退魔士やで?﹂
いや、初耳ですが。
1006
けれど神道系と言えば、巫女さんと巫女さん、そして巫女さん、
あと巫女さん。
山科さんは巫女さんでしょうか?
﹁巫女さん?﹂
俺の期待する目に、手で顔を覆う山科さん。アチャーって表情だ。
そんな態度を取られても、男として、人として譲れないナニカが
ある。
﹁男の子は巫女さん好きやなぁ。うちは神道系の大学行くつもり無
いから資格無しや。神降ろしするちゅう意味では巫女かいな﹂
山科さんはリアル巫女かあ。ああ⋮⋮もう巫女装束着てる山科さ
んしか想像できない。
赤と白の織り成すハーモニー、清楚で可憐な⋮⋮。
俺の中で神楽舞いをする巫女さんの姿が妄想される。
﹁ちょ、カオルしっかりしい!﹂
ガクガクと揺さぶられてハタと気が付く。俺の呆けた顔を見て、
現世へと引き戻してくれたのか⋮⋮山科さんサンクス。
恥かきついでに、男なら一つ聞いてみたい未知の領域を問いただ
した。
﹁巫女服の袴の下ってどうなっているんでしょうか。いえ、やまし
い気持ちからではなく、知的探究心というか⋮⋮﹂
おとこ
あからさまに好奇心からなのだが、気になるよね。男として、い
や漢として⋮⋮。
1007
そんな煩悩全開の問いに素直に答えてくれる山科さん、素敵です。
﹁巫女服ちゃう。巫女装束や。白襦袢を着てるから足の先まで着物
やで? その上から朱袴着て、千早を羽織るんやで﹂
俺の脳内では、説明にあわせ山科さんに着せ替えをしていた。
すっげー似合う。きっと似合う。絶対似合う。
﹁山科さんは巫女装束⋮⋮持ってないの?﹂
﹁持ってるで? カオル巫女装束好きやなぁ⋮⋮着せたろか?﹂
いや俺が着ても仕方あるまい。むしろ服が穢れるし勿体無い。
俺の心を判って言っているだろ?、ここは一丁﹃着て見せたろか﹄
と何故言えぬのだ?。
﹁しゃーないな。修行がんばったら着て見せたるから、一生懸命が
んばるんやで?﹂
その言葉を聞いて恥も外聞も無く、小躍りして大喜びしたのは言
うまでも無い。
修行を終え山科さんとの初の登校。駅から学校までの道すがら、
山科さんと共に歩き、違和感のある手を見つめていた。
修行の後のシャワーも、その後の朝ごはんの時もブレスレットを
外せずにいたのだ。
1008
﹁やっぱ、呪いのアイテムじゃないか﹂
俺は恨み言を言うように、半べそで山科さんに非難の目を向けた。
みそぎはらいことば
山科さんは滝のような汗を掻き、苦笑いを浮かべている。
﹁禊祓詞を書きながら、念を籠めるんやけど、雑念が入ってもうた
⋮⋮カナ﹂
山科さんの呪いのアイテムは、たかがバンドであるにも拘らず、
外れようとしない。
外そうとすると激痛が走るのだ。それも耐え難い程の⋮⋮。
トウカのナイフでの治癒を経験した俺が耐えれないと言う事は、
無理やり外そうとしたらショック死する。そう思える程のの激痛だ。
﹁そのうち外れると思うで、そんなに賞味期限長く祈って無いし﹂
他人事の様に気軽に言ってくれる。
まさに他人事なのだろうが、手から霊気を発せ無ければ、どうし
ようもない。
そうだ⋮⋮、カナタの栄養補給はどうなる? 枯れて死んでしま
うではないか。
﹁カナタ! お腹減ってないか? 大丈夫か?﹂
霊力補給が出来ずにひもじい思いをしてないか?
補給が出来なければ、お菓子を大量に食うから大変なんだ。
﹃ん? 体からはいつも通り霊力垂れ流し⋮⋮心地よいぞ﹄
1009
腰の退魔刀から声が響く。
垂れ流しは酷い言われようだが、問題無いと判って少しホッとし
た。
てことは霊力そのものを削がれている訳でない、手の放出を制限
されていると言う訳だな。
﹁むん!﹂
無理やり手に霊力を集めてみた。
ホースの先をゴムで縛られているように、糞づまりの状態だ。全
開にしてチョロチョロと放出出来る感じだな。
﹁これが山科さんの意図する修行? 物凄く扱い難しいんだけど﹂
隣でクスクスと笑い、鞄で背中を叩く山科さん。
﹁カオルの真剣な顔で笑ってしもうた。 全然判ってないんやもん
⋮⋮﹂
理由を問い正したが、山科さんは答えてくれず⋮⋮。むう、自分
で考えろって事か。
⋮⋮手を見つめていても答えが返る訳も無く、暗中模索してみる
か。
昇降口を越えてふと気が付いた。他のメンバーとは校舎に入る手
前で別れ周りの目を気にしていたのだ。
﹁やべ﹂
気が付いたときには教室前。どうにもブレスレットに気を取られ、
周りが全然見えていなかった。
1010
﹁んじゃ、カオル! 勉強がんばってな∼!﹂
教室の入り口で手を振り挨拶してくれた山科さん。透る声が廊下
と教室に響き渡った。
そして教室に入るとジト目で睨む、男子生徒達の視線が痛かった。
﹁あ⋮⋮、おはよ﹂
その挨拶に答えてくれる奴は一人としていなかった。そう言う態
度、割とへこむんだけど。
1011
﹃放課後の儀式 02﹄
西日の差す星ヶ丘学園の西館の三階、中等部の三年の教室がある
フロア。
西の窓を一つ開け放ち、誰でも一度は聞いた事のあるであろう呪
文を唱える。
﹃こっくりさん、こっくりさん、西の方角からおいでください﹄
向かい合った二人が畏まった顔をして、紙の上に置かれた十円玉
に指を添えている。
それはオカルト好きが高じて集まった﹃オカルト研究会﹄略称﹃
オカ研﹄の会合だった。
普段は怪談やオカルト系の雑誌を回し読みしたり、たわいも無い
みついさなえ
雑談したりと、とても部活動とは呼べない集い。
はしもとかな
せんばやしみき
こばたのりこ
メンバーはクラスメイトの三井早苗さんを中心に、別のクラスの
橋本香奈さんと千林美紀さん、それと私、木幡法子。
たった四人の同好会ではあったが、放課後の部活は楽しいもので
あった。
﹃こっくりさん、こっくりさん、おいでください。おいでになられ
ましたら﹃はい﹄へお進みください﹄
雑談のネタも尽きたある日の会合。誰とも無しに、﹃こっくりさ
ん﹄やろうよと言い始めた。
数月前のオカルト系雑誌に、﹃こっくりさん特集﹄なる危険に満
ちた記事があり、言い出したキッカケも記事を読んだからに相違な
い。
学校で禁じられている禁忌だと言う事も、私達の好奇心に拍車を
1012
かけた。
ほぼ満了一致の採決の元、使い古しのプリント用紙の裏へ五十音
と鳥居を書き、数字の項目と、﹁はい﹂と﹁いいえ﹂を書いて準備
を整えた。
﹁途中で指を離さなければ大丈夫だって書いてる﹂
私は手に持ったオカルト誌のバックナンバーに目を落とし、全員
に言い聞かせるようにメンバーへ周知した、
その言葉を皮切りに、千林さんと三井さんで指を添え呪文を唱え
始めたのだった。
こっくりさんの注意点
・途中でやめない
・10円玉から指を離さない
・こっくりさんが帰るまで、何度もお願いする事。
・使った文字盤を細かく破るか、燃やしてしまう事。
たぶー
・使った10円玉は二度と使わない様に手放す事
これだけの禁忌で可能なのだという。
少しのリスクで味わえるスリル。私はこっくりさんをそう言うも
のだと思っていた。
そして放課後の教室は人の気配も絶え、そういったスリルを楽し
むには持ってこいだった。
﹃こっくりさん、こっくりさん、おいでください。おいでになられ
ましたら﹃はい﹄へお進みください﹄
好奇心で始めた放課後のお遊び。本当に10円玉が動くとは思わ
1013
なかった。
10円玉はスゥッと﹁はい﹂の方へ動き、丸で囲んだYesでピ
タリと止まった。
手を添えているどちらもが、相手の顔を見てキョトンとした顔を
している。
﹁ぎゃ∼!! 本当に動いたぁ!!﹂
二人の指先を見ていた橋本さんの悲鳴めいた台詞に、その場の全
員がドキリとさせられる。
千林さんに至っては、思わず指を離しそうになったと見えて、無
言で非難の目を向けた。
相方の三井さんも同様の気持ちらしく、空いている手でシィっと
指を立てた。
橋本さんは、手で口を覆い、コクコクと頷いて滝汗を掻いている。
千林さんがその様子を見て苦笑し、周囲を見回しながら疑問を口
にした。
﹁で? なにをお伺いするの?﹂
そんな事は定番中の定番でしょうに。純情乙女の恋心を相談する
に決まってる。
恋心を抱く憧れの先輩の事を。
﹁え∼、お慕いする真倉乃江先輩に、彼氏は居ますか? これでど
うでしょうか?﹂
数ヶ月前、中等部へ来られた乃江先輩に、制服のリボンを直して
もらって以来、私の心は乃江先輩のもの。
私に近づく顔と大人の雰囲気、リボンを整えてもらっている間は
1014
夢心地。あの時の心の高揚感は今も忘れられない。
私! 乃江先輩だったら初めて許しちゃう。キスだけじゃない全
部!
けれど私が特殊って訳じゃない。なにせ乃江先輩は、我が中等部
女子の﹃恋人にしたいランキング﹄ブッチギリのトップだもん。
千林さんと三井さんは、私の台詞を復唱するように、こっくりさ
んへ問いかけた。
﹁いやあん、背徳の香りがするぅ﹂
またも橋本さんが騒ぎ出し、自分で自分を抱くように身悶えてい
る。
そんな彼女も動き出す10円玉に、身悶えるフリをやめ文字盤を
見入った。
10円玉は文字盤をぐるりと一周して、﹁いいえ﹂でピタリと止
まった。
﹁いいえだって⋮⋮、ちょっとホッとしたかも﹂
私だけではなく、千林さんもホッとした顔を浮かべ、私に目配せ
をしている。
オカ研の乃江先輩同盟だもんね。心の同志よ。
﹁鳥居の位置までお戻りください﹂
一つお伺いをする度に、一旦鳥居の位置に10円玉を戻さねばな
らない決まりだ。
千林さんと三井さんは指を鳥居の位置へ移動させた。
﹁じゃあじゃあ! 次は牧野先輩!﹂
1015
そんな事を占って貰い、最初に抱いていたスリルが薄れつつあっ
た。
楽しい時間を過ごし、締めくくりの儀式を執り行う。
﹁こっくりさん、こっくりさん、どうぞお戻りください﹂
ここで﹁はい﹂へ動き、そして鳥居の位置に戻ったら終了だった。
けれど10円玉が不規則に動き出し、いっこうに止まろうとしな
い。
この時初めて⋮⋮こんな事するんじゃなかったと後悔し始めた。
三井さんは、顔面蒼白で歯の根も合わない。千林さんも声を出す
事が出来ずにオロオロとするばかりだ。
﹁嫌、どうしよう⋮⋮﹂
今にも逃げ出しそうな三井は、泣き言のように声を絞り出した。
﹁ダメ、今止めるとダメなんだから!﹂
みんなに⋮⋮、いや自分に言い聞かすように叫んだ。
声を出さないと泣いてしまいそうだったから。
﹁こっくりさん、こっくりさん、どうぞお戻りください﹂
二人は再度お帰りいただく様にお願いした。
不規則に動いていた十円玉がピタリと止まった。
そして内心ホッとした瞬間に動き出し、﹁いいえ﹂の位置で停止
した。
こっくりさんは一向に帰ろうとしない上に、拒否の意思を示した。
1016
﹁ノリコ⋮⋮、私怖いよ﹂
三井さんは涙をポロポロと流しながら、それでも気を強く持ち指
を離さずにいてくれた。
私は今にも折れそうな二人を勇気付け、オカルト誌のバックナン
バーを慌てて開いた。
﹃こっくりさんが帰ってくれなかった場合⋮⋮﹄
その項目を見つけ、対応策が書かれた数少ない活字を見て愕然と
した。
﹃こっくりさんが帰ってくれなかった場合、帰ってもらえるまで
何度も繰り返す﹄
私はグッと唇を噛んで、その文字を見つめた。
もし帰らなかったらと言う解決策は書いていない。もし⋮⋮帰ら
なかったらどうするの?
﹁何度かやれば帰ってくれるって、帰るまで何度かやるみたい﹂
私は少し嘘をついた。そうでもしなければここに居る全員の心が
折れそうだったから。
四人は腹を決めて、帰るまで何度も何度も繰り返した。
﹁ひーん、帰ってくれないよ∼﹂
﹁ノリコ誰か呼んで来て﹂
指を離せない二人が私を見つめ、泣きそうな顔で懇願した。
とは言えど、こんな状況で一人になるの⋮⋮、ちょっと怖い。
けれど橋本さんを連れて行ったら、きっと二人は耐えられないと
思う。
1017
﹁うん、判った。先生呼んで来る!﹂
一人になる恐怖を押し殺し、踵を返し走り出した。
﹁ノリコ! 先生はダメ。怒られちゃう。それ最終手段!﹂
橋本さんが声を張り上げて私を諭す。
校則で禁じられている訳じゃない、だけどオカルト研究会を発足
するに当たり、禁止されている事項に触れるのだ。
私の頭の中に側に居てくれ、安心出来る人を思い浮かべた。
﹁乃江先輩⋮⋮﹂
無我夢中で走り出した私の足は、高等部の校舎へと向かっていた。
三年の階は人の気配を感じない。私は乃江先輩の居る二階へと駆
け下りた。
﹁⋮⋮うぇえん。誰も居ないよ﹂
二階を端から端まで見回し、生徒の姿を探した。
けれど締め切った教室の扉からは、人の気配を感じず物音一つし
ない。
あてもなくさ迷い歩き、心が折れそうになる。けれど私の何倍も
怖い思いをしている仲間がいる。そして私の帰りを待っているのだ。
唇を噛み、心の動揺を沈める為に深呼吸をした。
﹁?﹂
南校舎の端、東校舎への渡り廊下の扉の前で、花の匂いが風に運
1018
ばれて香った。
﹁コロンの匂い? 人がいるの?﹂
吹き込んだ風は上から香ってきた。
私は藁をもすがる気持ちで風の方向へ、花の匂いのする方向へ走
り出した。
さっき見た三年の階を越え、恐らくは屋上からのすきま風に乗っ
てくる匂い。
﹁女子生徒かな?﹂
屋上の扉に手を掛け、思い切って屋上に飛び出した。
私の予想は裏切られ、屋上に立っていたのは男子生徒。
身長が高くスラリと伸びた長い足、頼りげ無い雰囲気と長い前髪、
西日に照らされた端正な横顔。そして私の方を、無言で見つめてい
る。
あれは確か、Cクラスの三室葵さんのお兄さん。そして牧野先輩
のお友達。
なぜ﹃彼氏にしたい﹄ランキングに入らないのか謎の一つになっ
ている三室先輩。
先輩はこんな時間に屋上で何をしていたの?
﹁見回りか?﹂
短く簡潔に問いかけられた。
綺麗な横顔に見とれて、問いかけられた意味を理解するのに数秒
を要した。
意味を理解した私は、ブルブルと首を振った。違うと言いたかっ
たが、面識の無い人に話しをするのが怖かった。
1019
﹁そうか⋮⋮、遅くまで校舎に残っていたから、注意に来たのかと
思った﹂
手首を握り、忌々しそうに見つめている。
手に巻かれた皮のブレスレットがとてもオシャレ。高等部になれ
ばああいうオシャレも許可されるのだろうか。
私の脳裏に泣きそうな皆の顔がよぎった。不謹慎な想像を振り払
い、目を閉じて思い切って声を上げた。
﹁三室先輩! 助けて!﹂
声を出した時、自分が泣きそうな声を出したのに気が付いた。
言葉と共に足の力が抜け、その場に座り込んで泣き出してしまっ
た。
泣き出した私の案内に、何も言わずについて来てくれる三室先輩。
私は三室先輩のハンカチで涙を拭い、教室でがんばっている仲間
の元へ案内した。
無口で人を拒絶していそうな雰囲気のする先輩だが、本当は優し
いのかも知れない。
教室の手前で隣に立つ三室先輩が、﹃うっ﹄と呻き声を上げた。
﹁先輩、この教室です﹂
先輩が来てくれて問題が解決する訳じゃない。けれど男の人にい
1020
て貰うだけで心強いと思う。
扉を開けて案内し振り返ると、怪訝そうに周りを見回す三室先輩。
私たちの仲間の事が目に入っていないように、教室を見回し険し
い顔をしている。
﹁先輩、あそこです!﹂
戻ってきた私を見て、涙目になっている三人。
そのちょっとホッとしたような顔を見て、私もホッと胸を撫で下
ろした。
三室先輩は、クモの巣を避けるように仲間の側に歩み寄り、空き
席の一つを引き出して机の横へ座った。
そして脂汗を掻いて、指を添えたままの二人を見つめ、ニッコリ
と優しい表情を浮かべた。
﹁よくがんばったね。辛かっただろう?﹂
優しい言葉をかけて、二人の手をゆっくりと撫で上げた。
いきなり女子生徒の手を触るなんて! とんでもない人を連れて
きちゃったかも。
何かあったら先生に通報してやる⋮⋮と決心した時、三井さんが
涙を拭い三室先輩へお礼を言った。
﹁先輩、ありがとう。もう限界だと思ってたけど、もうちょっとが
んばれそう﹂
指を添えていた三井さんが、涙をこぼし安堵の表情を浮かべた。
千林さんも触られている事への不快感など無いようで、三井さん
と同じく力の入った肩を落とし、ホッとした表情を浮かべている。
1021
﹁二人の体力はそう長くは持たんだろう。もって20分が限界だ﹂
二人の顔色を見て三室先輩が呟く。
そしてドッカリと椅子に腰を下ろし、私達を谷底へと突き落とす
様な一言を言い放った。
﹁こっくりさん、続けようか?﹂
腕を組んで落ち着き払った態度で周りを見渡し、同意を求めてい
るようだった。
1022
﹃放課後の儀式 03﹄
こっくりさんを続けるってどういう事?
私達やめたくて、やめれなくて困ってるんだけど⋮⋮。
メンバー全員が同様の思いのようで、複雑な表情をして先輩を見
つめている。
﹁先輩⋮⋮、なに言ってんの?﹂
しんと静まり返った教室に響く声。
私は声を絞り出すと共に、怒りが込み上げてきた。
そんな私の怒りなど、歯牙にも掛けていない先輩は、腕を組んだ
まま文字盤の先を見つめている。
﹁このまま終わりたくない⋮⋮と、思ってるんじゃないか?﹂
何かに問いかけるように、先輩は呟いた。
その表情は無機質そうに見えて、少し優しそうに見えた。
﹁自分達の願いを聞いて貰って、叶えてくれた人に礼も無く。一方
的に話を終えたらどう思う?﹂
そ⋮⋮、そりゃ、普通はそんな礼儀知らずな事しないわよ。
いつもならお礼を言うし、自分に出来る事なら聞いてもいいと思
うわよ。
けれど今回はそういう状況じゃないでしょ?
﹁話を聞いてやったら、大人しく帰ると思うんだ﹂
1023
自信に満ちた先輩の一言。
解決策を見出せなかった私達には福音の様に響き渡った。
本にも書かれていない方法論だったけど、なぜか本当にそうなる
のだと思ってしまった。
﹁掃除機のコードも、ボタンを押して巻き取れなかったら、一度引
っ張るだろ? そう言う感じじゃないか?﹂
押してだめなら引いてみなって論理?、ちょっと信じちゃった私
が馬鹿だった。
けれどその馬鹿馬鹿しい論理で、周りの皆が和んだのは間違いな
い。
﹁立ってる奴らも、座ったらどうだ?﹂
優しく諭す様な口調ではなく、どちらかと言うと命令口調だ、ち
ょっと年上だからって何様なのだと思う。
けれどその冷ややかな目に睨まれ、仕方なく椅子に腰掛けるしか
なかった。
﹁座ったわよ!﹂
あまりに横柄な態度に、先輩を敬うような気持ちは吹っ飛んだ。
ほとんど喧嘩腰の口調で、先輩へ突っ掛かかった。
けれど先輩は苦笑して、頷き納得したように言った。
﹁それでいい﹂
私達が座ったのを見て、文字盤に向かう二人に声を掛ける。
しかも話す口調は一変して、凄く優しい声で手を握った。
1024
﹁もうちょっとだけ、頑張ってみようか?﹂
微笑む先輩の顔は、とっても頼り甲斐があって、凄く優しい顔を
していた。
ブルブル! いいえ、こんな冷血漢の先輩に騙されちゃダメ。き
っと二重人格の変質者なんだから。
そんな事を考えていたら、クルリと振り返って私に尋ねてきた。
﹁おい、お前! こっくりさん⋮⋮、何を聞いたかは聞かない。何
回聞いた?﹂
なによう。なんでそんなキツイ口調に変わるのよ⋮⋮。えこひい
きじゃないの?
えっと、乃江先輩、牧野先輩と、あとは⋮⋮。
﹁四回よ。全部で四回﹂
指を折って数えたから間違いなし。
一人一回ずつお伺いしたもんね。数の計算は間違いっこない。
﹁そうか⋮⋮﹂
先輩は目を閉じて、考え込んでしまった。
四人とも先輩のその姿を見つめて、次の行動を息を呑んで待った。
﹁四回⋮⋮、四回だけ話を聞いてやろう。それで良いか?﹂
目を開けた先輩が虚空を見つめ、誰かに言い聞かせるように、淡
々と話しだした。
1025
そのゾッとするような光景を見て、全員が見つめる虚空を見つめ、
ガタガタと震えだした。
﹁返事は﹃はい﹄か﹃いいえ﹄で答えろ﹂
先輩の言葉と共に、10円玉がスゥっと動き出し、﹃はい﹄の位
置でピタリと止まった。
それを見た先輩が誰も居ない先に向かい、ニヤリと笑った。
私はこっくりさんと会話する驚きより、こんな状況で笑う先輩の
方が怖かった。
なぜこんなに落ち着き払っていられるのだろうか?
恐らくメンバー四人もこっくりさんの恐怖を忘れ、先輩に見入っ
ているのだと思う。
なぜなら、嫌悪を抱く私でさえ、目が離せないんだもの。
﹁まず自己紹介をしようか。俺は三室カオル。お前は?﹂
動く10円玉を見つめ、その足跡を辿る。
10円玉は五十音の位置で、動き、止まり、その文字を私達に伝
えてきた。
い、ち、は、ら⋮⋮ゆ、り、こ、⋮⋮人の霊なの?
﹁いちはらゆりこさんか⋮⋮、呼び名はユリでいいか?﹂
この極限の状況で先輩は、事もあろうか笑いながら霊に呼び名を
つけた。
なんの捻りも無い愛称だったが、10円玉はスゥっと動き﹃ハイ﹄
の所へ移動した。
先輩が満足そうな笑みを浮かべ、口を開いた。
1026
﹁じゃあユリと呼ぶことにする。あと3回だ。次は核心触れてみよ
う。﹃何を伝えたい?﹄﹂
腕を組んだ先輩は文字盤を見つめ、10円玉の行方を目で追って
いる。
私も負けじと文字盤を睨む。10円玉の動きは速くない。ゆっく
りと噛み締めるように文字が読める。
う、ら、や、ま、し、か、つ、た? 羨ましい? 学校が? 私
達が?
姿の無い者の意思が文字盤に刻まれる度に、膝が振るえ怖さ余り、
体中から力が抜けていく。
椅子に腰掛けて正解だったと思う。立っていたら腰が抜けて、へ
たり込んでしまっていただろう。
文字盤にの10円玉はピタリと止まり、全員の視線が先輩に注が
れた。
﹁この子達が楽しそうに見えたか?﹂
10円玉はピクリと動き、戸惑ったように彷徨い、﹃はい﹄で停
止した。
とうとう最後の質問だ、これが終われば開放される⋮⋮。そんな
気持ちで一杯になる。
﹁ラスト。﹃どうして欲しい?﹄、聞ける望みなら聞いてやろう﹂
先輩の目が一層厳しく見えた。
怒っているようでもあり、諭す様表情でもある、お父さんが私を
叱る時の様な不思議な表情。
その問い掛けに10円玉が動き出した。戸惑いも無く、力強い意
志を感じる動き。
1027
わ、た、し、の、そ、ん、ざ、い、り、ゆ、う、わ、か、ら、な、
い
舌ったらずな言葉。けれど胸に込み上げてくる気持ちが、私に涙
を流させた。
きっとこの子は、自分の生きる意味を見つけられないうちに⋮⋮
亡くなったのだと思う。
そんな無念の気持ちが少し判る。将来の見えぬ、不安な日々を送
っている私には。
私もたまに考えるもん。自分の生きている意味について⋮⋮。
けれど先輩はバッサリと切り捨てるように言い切った。
﹁それは俺には判らない、故にユリに教えてやる事は出来ない。け
れどユリが生きていた時間は無意味なのか? 不幸せだったか? 楽しい時間はこれっぽっちも無かったのか? 俺にはこうやって問
いかける事しか出来ない。答えを出すのは自分自身、ユリの生きた
意味はユリで見つけるんだ﹂
淡々と話す先輩の言葉。けれどその言葉には口調の冷たさと相反
する、優しさを感じた。
そしてユリだけじゃなく、私の心にグサリと突き刺さった。
私はもう一度、もう一度自分の生きている意味について考えよう
⋮⋮、そう心に強く思った。
﹁ユリの存在を知りえる者がここに5人居る。ユリが今ここに居る
証を心に刻もう。それではダメか?﹂
先輩の問い掛けに10円玉は動かない。
長い長い時間の沈黙。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
1028
先輩は表情を変えず、腕を組んだまま微動だにしない。強い意思
を湛えた眼差しで虚空を見つめている。
そしてピクリと動いて、文字を二つ辿った。
み、て ⋮⋮見て。
その10円玉が止まった瞬間に、重苦しかった空気が晴れ、教室
の雰囲気が一変した。
先輩は10円玉を押さえている二人の手を、そっと掴み10円玉
から引き離した。
三井さんと千林さんは、堰を切ったように泣き出し、先輩にすが
りついた。
先輩は二人を優しく抱きしめ、そして窓の外へ目をうつしていた。
じっと見つめる先には、体育館の森が見え、ほんの一瞬だが少女
が手を振っている姿が見えた。
私はきっとあれがユリなんだと思えた。
私達は教室を施錠して、守衛室へ鍵を返しに行った。
三井さんと千林さんは、抱きついた事で先輩への警戒心が解けた
のか、先輩の横で寄り添うように歩いている。
私はその光景を見て、心の中がモヤモヤっと⋮⋮。ヤキモチなの
? コレ?
守衛室を後にした私達の眼前には、校門が見え、それが明るい道
へと続く道に感じた。
けれど先輩は踵を返し、西校舎の方を見つめていた。
1029
﹁まさかな。試してみるか﹂
そう独り言を言って校門を背に、校舎に向かい歩き始めた。
私達はしばし取り残されて考え込んだが、先輩の後を追った。
先輩は何にも目をくれず、西校舎を沿うように歩き、体育館の森
へ向かっていた。
日も暮れてはいたが、夏の季節。辺りはまだ暗闇と言うほどでは
なく、目も効く程の明るさだった。
そして私が一瞬見たユリの人影の辺りでピタリと足を止めた。
森を形成する大きな木の下、さっきはここにユリが立っていたの
だ。
先輩は木の下にしゃがんで、ユリの足元だった場所を掘り始めた。
道具も使わず手で掘り起こし、先輩の手はすぐに汚れ、手に血が
滲んだ。
﹁先輩、手、血が出てる﹂
先輩の肩を持って止める様に力を籠めた。けれど先輩は取り憑か
れたように掘るのを止めなかった。
私は居ても立っても居られず、先輩と同じようにしゃがんで一緒
に掘った。
固い土、掘るというより指先で削るような発掘作業は、硬い物に
行き当たり終わりを迎えた。
先輩が手に持った四角い物、ビニールに包まれた缶ペンケースだ
った。
先輩は手で砂を落とし、ピニールを取り外して中を開けた。
未使用の消しゴムとシャープペンシル。鉛筆も、色ペンも包装さ
れたままだった。
そしてペン達に隠れるように、折り畳まれた紙。私達が手紙を折
る様に、コースター折りされた手紙だった。
1030
﹁少し借りるぞ﹂
木に向かい⋮⋮、まるでそこにユリがいる様に話しかける先輩。
土にまみれたペンケースを鞄へ大事そうに入れ、木を背に歩き出
した。
私達は先輩が話しかけた木に、お辞儀をしてその場を後にした。
﹁おい、木幡。手を洗おう﹂
先輩に手を掴まれ校庭の端にある水道まで引っ張られた。明るい
所でよく見ると手がドロドロだ。
先輩は手を洗い、傷にしみたようで顔をしかめた。
そしてポケットを探ってハンカチを探しているようだった。
﹁あ、先輩のハンカチ。私が涙拭いちゃった﹂
泣く私に貸してくれたハンカチ。涙を拭っちゃったから返しにく
い。
私は鞄のポケットからハンカチを取り出して手渡した。
﹁先輩のは洗って返します。今の所それを使ってください﹂
お気に入りのハンカチだったが、先輩に使ってもらいたい。
私は素直にそんな気持ちになれた。
先輩って、無表情で、無愛想で、冷血漢に見えて優しいのに気が
付いたから。
﹁俺に貸したら、お前はどうする? 制服でゴシゴシ拭くのか?﹂
1031
手渡したハンカチで手を拭きながら、先輩は私を憐れむように見
つめていた。
そうだ! 私の手を拭くハンカチが無い。先輩のハンカチで拭く
わけにもいかず⋮⋮。
悩んでいた私の手にハンカチが手渡された、少し冷たいハンカチ
だけど、先輩の手を拭いたハンカチだ。
私は少し幸せな気分で手を拭いた。拭き終わりハンカチを畳んで
鞄に入れようとした時、先輩がハンカチをパッと取り上げ自分の制
服のポケットへしまい込んだ。
﹁少し血がついたかもしれん。新しいの買って返すよ﹂
そう言いながら、少し照れたような顔をした先輩を見て、やっぱ
り私の思った通りだと思った。
先輩って、自分を表現するのが壊滅的に下手だと思う。人見知り
する性格なのかな? 笑ったらカッコイイのに。
﹁じゃあ私も先輩のハンカチ買って返す﹂
率直に言おう。先輩のハンカチが欲しい!
誰がなんと言おうとアレは私の宝物にするんだから。
先輩の困った顔を背に、みんなの待つ場所へ走り出した。
﹁お前達、門限は大丈夫か?﹂
校門を抜けた所で、先輩が私達を心配してくれた。
1032
うちの家は連絡さえしておけば大丈夫。部活の日はメールで帰り
が遅い事を連絡している。
おそらく他のメンバーも同様だと思う。前にもこんな時間になっ
たことがあるし。
﹁大丈夫です! オカ研の時は遅くなりますから﹂
私の言葉にみんなが頷き、同意を示した。
先輩はしばし考え込んだ、そして私達を見て驚きの言葉を口にし
た。
﹁お前達、夕飯でも食いに行くか。仕方ないから奢ってやるよ﹂
夕飯の言葉に反応して、途端に胃袋が活性化した。
手でお腹を押さえれば押さえるほど、音が鳴りそうにお腹が減っ
てきた。
﹁お付き合いします!﹂
ほぼ四人が大声で叫び、先輩が手で顔を覆い天を見上げた。
学校最寄の駅近くのイタリアン。ちょっと中学生には敷居の高そ
うな店へと入り、緊張でカチコチになった四人を引き連れて席に付
く先輩。
メニューも見ずに店員に向かいオーダーを通した。
﹁軽めのコースで﹂
そう言ってオーダーを通した先輩を尊敬の眼差しで見つめる四人。
その視線に気が付いて、言い訳をするように口を尖らせた。
1033
﹁初めて来た店は、お任せするのがアタリを引くコツなんだよ。今
ので判らなければ、具体的に薦めてくれる。そう言う時は悪い物を
薦めない。二度と来なくなるからな﹂
照れた様に言い訳した先輩の顔は、教室で見た冷たい雰囲気は微
塵も感じれない。
本当はこんな人だったんだと、他の三人に知られたくないような、
もっと知って欲しいような複雑な気分。
こう言うのをジレンマっていうのよね。
﹁さてと、食べ物が来る前に、ユリの手紙を読もうか﹂
その言葉を聞いてハッと気が付いた。ユリが最後に残した言葉、
﹃見て﹄って、姿を見たことじゃなく、手紙を見て欲しいと言う事
なのね。
手紙なら﹃読む﹄のだと、自分の中の固定観念で除外してしまっ
ていた。
これは恐らくユリが埋めたカンペンなのだ。ユリが誰かに宛てた
手紙じゃない。
﹁うん、読もう﹂
私は先輩の目を見つめ、頷いた。
三井さんも、千林さんも、橋本さんも、私と同じ気持ちでいてく
れている筈。
だって仲良しが高じてオカ研作ったようなもんなんだもん。
﹁じゃ、開くぞ﹂
テーブルに置かれたコースター折りの手紙。先輩は慎重に開いて
1034
いく。
そしてそれはユリがユリに宛てた手紙だった。
せっかく試験に受かった星ヶ丘学園。楽しい学校生活が待っ
ているはずと思っていた。
けれど今日でお休みしてしまう。
病気だから仕方ない、しっかり治して学校に通うんだ。
一年遅れになっちゃうかも知れない。ちょっと恥ずかしいか
もしれないけど。
この手紙を読んで勇気を持って。
友達一杯作ろうね。
きっと私は幸せになれる。
未来の私へ
それは一年後の自分に宛てたタイムカプセルだった。
溢れる涙を止める事が出来ず、嗚咽して泣いた。
店の人は怪訝そうな顔をしているが、そんな事は些細な事。今泣
ける事が大切なのだと思う。
ユリはもしかして、タイムカプセルを埋めた時に判っていたのじ
ゃないだろうか?
自分の命があと僅かだと言う事に。
それでも希望を未来の自分に託して、これを埋めたのだと思う。
その日の夕食は、ちょっと塩味はキツメだった。
1035
翌朝私は原因不明の熱にうなされる事も、奇妙な金縛りに会う事
もなかった。
いつも通りに学校に向かい。いつも通りに教室に入った。
ちょっとお疲れ気味の三井さんも、席に着席していてこちらへ手
を振ってきた。
ユリの手前、学校休めないよね。がんばらないと。
私に出来ることは、ユリの分まで学校を楽しむ事。友達を一杯作
ってね。
席について鞄を机の横へ引っ掛けた。
黒板に一番近い扉から、教室の中を覗きこんで居るのは先輩の妹、
葵さんだ。
教室の雰囲気を確かめ、足早にこちらへ駆けて来た。
そして深々と頭を下げて、私に手を合わした。
﹁ごめんね。うちの馬鹿アニキがハンカチ借りちゃったらしいじゃ
ない? ちゃんと返すから待っていてくれって⋮⋮伝言頼まれた﹂
そう言い終わると再び頭を下げた。
そんな、こっちが悪いのに⋮⋮。誤解は解いておかないと。
﹁わわ、わたしが悪いのよ。先輩は悪くないんだから﹂
その弁解の言葉と、﹃先輩﹄と言う私の顔を見て、怪訝そうな表
情を浮かべる。
そして先輩同様に腕を組んで、目を閉じ考え込む。
わぁ、こう言う所は兄妹なんだって思えるな。凄く似てるかも。
1036
﹁あの馬鹿⋮⋮﹂
苦虫でも噛み潰したような表情で、眉を顰めた葵さん、とっても
怖い。
そして踵を返し、自分の教室に戻ろうとした。
﹁ねえ、三室さん。聞いていい?﹂
私の声に首だけクルリと振り返った彼女に、私は疑問をぶつけた。
﹁先輩が﹃彼氏にしたい﹄ランクに入ってないの、すっごく謎なん
だけど﹂
その言葉を聞いて、滝のような汗を掻き苦笑を浮かべ、何も言わ
ずに教室へと戻っていく。
そんな背中を見つめ、ハタと思い当たった。
﹁ランキング集計係の子。三室さんのお友達だわね⋮⋮﹂
私の中では不正操作に躍起になっている三室葵さんの姿が思い浮
かぶ。まあ、あんなお兄さんだったら分からないでもないか、と葵
さんに賛同した。
このまま先輩を、ランク外にしておいて欲しい気持ちは、私も同
じだから。
夏の風が窓から吹き込み、本格的な夏の到来を予感させる。
カーテンがふわりと揺れ、楽しそうにはためいた。
その風に誘われるように窓の外へ目を落とすと、体育館の森の木
の一つに、ひっそりと花が供えてあった。
私はそれを見て、とても幸せな気分になった。
1037
﹃放課後の儀式 03﹄︵後書き︶
1038
﹃Happy Birthday 01﹄
﹃先週﹄
たった二文字のメールだったが、俺を驚愕させるには十分すぎる
内容だった。
メールの送信者は別所綾音。剣道娘で双子の妹の方。
先ほどメールで﹃誕生日いつ?﹄と聞いた返事がこの二文字だっ
た。
元より俺に好印象を抱いていない綾音だが、印象をさらに悪化さ
せたに違いない。
うーん、やっちまった⋮⋮。
﹁違う意味でサプライズだったか。誕生日過ぎてしまった⋮⋮﹂
俺はベッドに寝転がりため息をついた。
約束を破るつもりは毛頭無かったのだが⋮⋮。ここ最近は身の回
りが慌ただしく、それにかまけて失念していた。
どうしたものかと考えつ天井を見上げ、そしてやはりため息しか
出ない⋮⋮。
﹁心配事かの?﹂
机の上のノートパソコン。
キーボードの上でツイスターゲームの様に動き回り、キーを押さ
えていたカナタとトウカ。俺の方を見て動きを止めた。
ノートパソコンの画面に映るのは﹁Wikipedia﹂のメイ
ンページだ。
最近めっきりOA化が進んだ﹃刀精﹄と﹃桃の仙女﹄の楽しみだ
1039
った。
Wikipediaは検索サイト、ニュースサイトと並んでお気
に入りのページだそうだ。
﹁誕生日のお祝いをする約束していたんだが、うっかり忘れて⋮⋮﹂
俺の言葉をフムフムと聞き、検索サイトで﹁誕生日 忘れた 男
最低﹂と入力した。いや⋮⋮、最後の単語はどうかと。
ヒットしたページを見て、考え込むカナタ。そしてクスクス笑う
トウカ。
﹁今からでも遅くはないので正直に謝罪しお祝いして欲しい。⋮⋮
らしい﹂
ある質問サイトを端から端まで読んだカナタ、振り返り自信満々
に答えた。
けれどこういう時は他人の意見じゃなくて、カナタの意見を聞か
せて欲しいのだが⋮⋮。
﹁カナタは約束⋮⋮反故にされたらどうする?﹂
﹁噛むじゃろうな。本気でガジガジと﹂
健康そうな歯を噛み締め、俺を睨む。
カナタの中では約束反故の相手は、俺を想定しているのだろうか
⋮⋮、鋭い眼光で睨みつけてくる。
﹁約束破った事あったっけ?﹂
噛まれた記憶は沢山あるが、約束を破った事は無いように思う。
1040
カナタもちょっと考え込み、得心言ったように頷いた。
そして気を良くしたのか、カナタ自身の意見を言ってくれた。
﹁己が憤りを相手に伝えると同時に、その相手の心を知りたいと思
うはず﹂
なるほど⋮⋮。今の綾音はどちらも出来ずに鬱憤が溜まっている
と。イライラが募って噴火寸前の状態。それを解消してやるのが、
解決への道だと言う事か。
うむ⋮⋮、綾音も鬼じゃない、きっと話せば分かるはず。
ベッドから身を起こして、気合を入れた。
﹁よっし! 怒られてくるか!﹂
机の上の時計で時刻確認、16時30分だ。クララで高速道路を
突っ切れば、30分で着ける。
部屋の片隅に置いてあるリュックを引っ張り出し、机の上の桐箱
を詰め込んだ。
そしてポケットの鍵束を確認し、家を後にした。
別所邸の玄関先へ到着。道場のある敷地があって、その隣が家に
なっている。
あらためて見たら、静音と綾音の家も立派だし、敷地面積も相当
あるぞ。もしかしてお金持ちの家か?
門の前に立ちインターフォンを押す前に、携帯のメール着信を確
認した。
出掛ける前に、﹃今から行く、30分少々で到着出来る﹄とメー
1041
ルを入れて置いたのだが、それに対する返答は来ていなかった。
こりゃ・・・かなり怒ってるなと覚悟してボタンを押した。
インターフォンの小さなスピーカーに、電子的な呼び鈴の音が響
き渡り、一呼吸置いたところで声が聞こえた。
﹁はぁい﹂
綾音の声ではないな。てことは静音か?
俺の中の綾音は﹃はぁい﹄なんて、絶対言わないからな。
﹁すいません⋮⋮、三室です。こんばんは。静音さん、綾音さんい
らっしゃいますか?﹂
夕方に﹃こんばんは﹄が適当なのか悩みつつも、スピーカーの先
へ来訪を告げた。
その途端、スピーカーの向こうが、にわかに騒がしくなり、声を
潜めた様なセリフが飛び交う。
﹃三室さん ︵ボソッ︶﹄
﹃ちょっと⋮⋮、もうちょっと引き伸ばして! ︵ボソッ︶﹄
﹃了解 ︵ボソッ︶﹄
丸聞こえなのですが⋮⋮。こういう時は聞かないフリをした方が
良いのだろうか? それが大人の対応なのだろうか?
おっとり型の静音がその後どう出て来るか、少し楽しみになって
きた。
﹃こんばんは∼、静音です。お元気でしたか?﹄
1042
なるほど⋮⋮、そう来たか⋮⋮。あくまでもインターフォン越し
で時間を稼ぐ気か。まったくもって愉快な姉妹だ。
それが俺に通用すると思っているとはな。⋮⋮浅はかな奴よ。
もう少し高度な戦術を用いてきたら、大人の対応を楽しめたのに
⋮⋮。
﹁あれ? もしもし? 聞こえないなぁ⋮⋮、いないのかな? お
ーい! 帰っちゃうぞ∼﹂
聞こえないフリをしてやった。
案の定スピーカー越しにテンパった声を上げた静音は、インター
フォンを切り玄関から顔を出した。
﹁こんばんわ∼。インターフォンの調子が悪いのかなぁ⋮⋮﹂
ペコリと頭を下げて挨拶した静音。
いや⋮⋮、お宅のインターフォンはすごぶる正常に動作していま
す。ひそひそ話も筒抜けな位に、マイク感度も良好です。
そう考えつつ、俺も挨拶を済ませて静音に耳打ちした。
﹁あと何分、時間を稼げれば良いのだ?﹂
俺の耳打ちでバレたかと苦笑いを浮かべている。
玄関扉のはるか向こう、奥の部屋で掃除機の作動音が響き渡って
いる状況だ、隠し事など無理だと思う。
恐らく時間を稼いでいる間に、綾音が部屋の掃除をしているのだ
ろう。
その掃除機のBGMを聞き、諦めたように呟いた。
1043
﹁20分程いただければ⋮⋮﹂
突然押し掛けた俺が悪いし、20分と言う時間は丁度良い時間に
思えた。
かと言って玄関先で立ち話も世間体が良くない。
﹁了解。ちょっと出掛けないか?﹂
ついでにと言うと聞こえが悪いが、手ぶらじゃカッコつかんしケ
クララ
ーキ買いに行きたい。
SDRで来た俺は、買う余裕はあったが運べる状態じゃないのだ。
﹁ん⋮⋮、判りました。散歩しましょうか﹂
そんな俺の申し出に、快く了承してくれた静音と二人で散歩に出
掛けた。
俺はついでに近くのケーキ屋を案内してくれる様に頼み、その道
すがら聞くに聞けなかった事柄を口にした。
﹁そういやさ、試験の結果はどうだった?﹂
綾音vs人形繰り戦は、結果として勝ったものの、ダメージを受
けすぎたイメージが払拭できない。
静音の場合、対戦者が俺だから、評価の一旦は俺が担っている事
になる。
双方とも当落線上、際どい判定なのじゃないだろうかと思ってい
たのだ。
俺の問い掛けに、隣を歩く静音は無言のまま俯いてしまった。
そのリアクションは⋮⋮、もしかして地雷踏んだか?
1044
﹁わ、悪い⋮⋮﹂
慌てて取り成す俺を見て、静音が笑いを堪え切れずに吹き出した。
﹁綾音も私も無事合格ですよ﹂
笑いすぎて零した涙を指で拭い、楽しそうに笑みを浮かべた。
こいつ俺以上に悪質だ、絶対狙ってやっていると思うぞ。
そう思いながらも静音を見ていたら、怒りも湧かずホッとした気
分になった。
﹁そうか⋮⋮、ちょっと心配してたんだ。静音の相手は俺だったか
ら⋮⋮﹂
手加減無しだったし、静音の実力が正当に評価されたか不安だっ
た。
それに⋮⋮、気になる事もあるしな。
﹁C++、最高の評価をいただきました﹂
﹁そりゃ、あれだけブチキレたらな﹂
思い出すだけで吹き出す位、プッツンしてたからな。
倉庫内に雷落とすし、水の散弾を撃ちまくっていたからな。巻き
添えで重傷者まで出たという噂も聞いてる。
﹁酷いです。⋮⋮けれどカオルさんが相手だから、いい評価に繋が
ったのだと感謝しています﹂
そう言って貰えると、ちょっとホッとした気にさせられる。
1045
だが気になっているのは、それだけじゃないのだ。
﹁静音⋮⋮、胸の傷は治ったか?﹂
戦闘中の傷と治癒だから、治癒の完成度が分からないのだ。
下手をすると嫁入り前の娘に傷を残したのではと、内心心穏やか
じゃなかった。
俺の見つめる胸元⋮⋮、刺し傷付近を手で押さえ、上目使いで俺
を見つめた。
﹁キズモノにしたのなら、責任取ってくれるとか?﹂
そう言う責任の取り方はどうかと思う。けれど明確に拒絶するこ
とも出来ず、表現できないストレスで頭を掻いた。
静音は俺の表情を窺い、苦笑しつつもキッパリと言い切った。
﹁傷は少し残っています。けれどこの傷は私の自信に繋がる思い出
の傷。治したくも無いし、むしろ残しておきたい﹂
指先でそっと撫でる胸元の位置。俺がナイフで突き通し、捻りを
加えた場所だった。
﹁私と戦って負傷した人が、Aランクに昇格した。それだけで私の
自信に繋がりますし⋮⋮﹂
俺を見る目は、クラス上に憧れるような敬う目ではなかった。
今度は覚えてろって気持ちに満ちた目だった。
水の散弾を食らったの、しっかりバレているようだ。意外とあの
時は冷静だったとか。それならそれで怖いのだけれど。
1046
﹁俺はお前と戦いたくないな⋮⋮、だってキレた静音怖いし﹂
あの時の目は、殺してやるって目をしてたもんな。全力で俺の息
の根を止めに来てた。
俺の呆れた顔を見て、静音は背中を押して俺を抗議した。
﹁でも、あれで良いと思う。お前が迷うと綾音も迷ってしまう。少
なからず妹に影響を与えている事⋮⋮分かるだろ?﹂
俺も兄妹として、葵に影響を与えてしまっている。
もっと兄らしく振舞って妹の面倒を見ていれば、妹は飛び膝蹴り
などせずにいたかも知れない。
⋮⋮いや、どうだろ。
﹁かも知れませんね⋮⋮。もっとしっかりしなっくっちゃ﹂
静音の良い所は表に出ない信念の強さだ、人に評価されにくい表
現の下手な子なんだと思う。
けれど内に秘めた思いの強さは、妹には負けないくらい激しい。
ナイフで傷を治した時も、対戦した時も⋮⋮、その強さに圧倒さ
れそうになった。
技量の良し悪しではない、気持ちの強さだけは本物だと思えた。
﹁静音はもっと強くなるよ。姉だから妹を⋮⋮なんて事は言わない。
素質があるんだから、妹に手本を示してやればいい﹂
おっとり顔の顔がほんの少しだが、引き締まったいい顔に変貌し
た。
そして微笑を返して、元気よく返事をした。
1047
﹁あ、そう言えば⋮⋮、誕生日の事気付いてました。綾音って嘘付
くの下手だし、それに私達⋮⋮、考えがなんとなく分かるんです。﹂
双子の不思議な話は色々と逸話があるよな。そういった双子のテ
レパシーみたいなもんだろうか。
便利なようでちょっと怖いかも、隠し事出来ないじゃないか。
﹁修行のメニューが変わったり、身辺でゴタゴタが続いて⋮⋮、気
が付いたら誕生日過ぎてた。ごめん﹂
綾音に言われたから祝う⋮⋮、と最初は思っていた。けれど本当
に二人を祝いたい気持ちに変わってきていたのも確か。
それだけに今回の失態は、俺なりにヘコんでいるのだ。
﹁???﹂
静音がきょとんとした顔で俺を見つめている。
俺は静音と向き合い数秒間思考が停止した。そしてほくそえむ小
悪魔綾音の顔がよぎった。
﹁もしかして、今日?﹂
コクコクと頷いた静音を見て、胸を撫で下ろしたと同時に、綾音
に対し殺意が芽生えてしまった。
1048
﹃Happy Birthday 02﹄
静音の案内でケーキ屋さんへ到着した。
家から数分の閑静な住宅街にピッタリなケーキカフェだった。
夕暮れの食事時にもかかわらず、店内には数人の客の姿が見える。
店のケーキを見る幸せそうな顔で想像が付く。
店に入りショーケースを眺めると、色々な種類のケーキが所狭し
と並べられていた。
そして甘い匂いに誘われるかのように、ひょっこりとカナタとト
ウカが肩の上に現れた。
﹁カナタ、トウカ⋮⋮、お行儀悪いぞ?﹂
俺の嫌味なんかどこ吹く風で聞いちゃいない。意識の全てをショ
ーケースの中のケーキに注ぎ、恍惚とした表情を浮かべている。
静音はそんな二人のちびっ子を、微笑ましげに見ている。
﹁カナタ? ぶっちゃけどれが美味そうだ?﹂
元より知識も豊富なカナタだが、最近はネット検索してより一層
知識を深めている。
今まで欲しがったお菓子で﹃ハズレ﹄は無いから、カナタに聞く
のが一番確実だ。
カナタは俺の言葉を受け、ショーケースを一巡し、お奨めのケー
キを数種類耳打ちしてくれた。
﹁すいません、ガトーショコラ、イチゴのケーキ。6号でください﹂
生チョコたっぷりなフワフワのチョコレートケーキのスポンジに、
1049
コレでもか!と生クリームが乗っかったガトーショコラ。
もう一つはイチゴケーキと言うよりフルーツケーキ、イチゴと彩
りのフルーツ達の量が半端じゃない。フルーツ盛りのようなケーキ
だった。
6号なので直径20cmより少し小さい感じ、これくらいなら二
種類食っても、まあ大丈夫だろう。
﹁あと誕生日のケーキなので、文字を入れていただけますか?﹂
ご希望のメッセージをお入れいたしますとの店内POPを見逃さ
なかった。
味に変化がある訳でもないが、メッセージがあると嬉しいものだ。
﹁チョコプレートのデザインと入れる文字をこちらの紙へご記入く
ださい﹂
マス目入りのちょっとしたアンケート用紙。チョコプレートのサ
ンプルの写真が4種類印字されていた。
︵
二人とももうすぐ大人の仲間入りする年齢だし、シンプルなプレ
ートを選択した。
﹄と記入した。
そして静音用に、﹃静音さん18さいお誕生日おめでとう
´ω`︶
︵︵
;゜Д゜︶︶︶
﹄
なんの捻りも無かったなと少し後悔した俺は、もう一枚の紙に﹃
綾音さんx8さいお誕生日おめでとう
と記入してやった。
その用紙を手渡して、パティシエさんが苦笑した。
﹁えっと、ロウソクは何本お入れしたらよろしいでしょうか?﹂
なるほどね。その為の苦笑か。x8歳じゃ年齢分からないもんな。
1050
﹁とりあえず40本あれば⋮⋮﹂
そういい終わらないうちに、背中に激痛が走った。
いや静音⋮⋮、お前が40歳って訳じゃないぞ? 二人で20本。
そのうち2本は予備だからな?
結局本数の意味を理解してもらうまで、背中の皮をツネられたま
まだった。
家に戻ると、玄関先で仁王立ちしている綾音がいた。
遠目からでも分かる位に電波を発し、眉間に皺を寄せている。時
間を稼がせてやったにも拘らず、超絶不機嫌な顔だった。
﹁人が掃除して待ってるのに、どこほっつき歩いてんの?﹂
ジーンズと長袖のTシャツ、普段着姿の綾音であったが、どうに
も違和感が拭いきれない。
ピヨピヨと書かれたヒヨコのエプロンが。
﹁エプロン⋮⋮﹂
笑いを堪える俺を見て、さらに不機嫌さを加速させる綾音。
そんな二人をオロオロと交互に眺め、静音が場を取りなした。
﹁綾音ちゃんはこう見えても、別所家の家事一般を取り仕切ってい
るのですよ。凄いです﹂
1051
﹁⋮⋮こう見えても?﹂
姉のちょっとした失言も見逃さない綾音、ギロリ!と一睨みして、
目で姉を威圧している。
人は見かけによらないとはこの事かも知れない。
部屋の掃除も満足に出来ないと言われて、納得できる程のガサツ
っぷりなのにな。
﹁まぁまぁ、落ち着け綾音。誕生日のケーキを買ってきた。もちろ
ん綾音用もな﹂
両手に持つケーキ箱、二つ重ねて綾音に手渡す。
たかだかケーキ。されどケーキ。途端に綾音の顔が綻ぶ。
﹁まぁ、これは結構なものを⋮⋮、どうぞお上がりください﹂
気持ち悪いくらい丁寧な綾音に招かれて、居間へと通された。
掃除したての居間は、あたり一面輝きを放ち、不自然なくらい綺
麗に掃除されていた。
照明の電球まで磨いた様な綺麗っぷりだ。
﹁人は見かけによらないというか⋮⋮、見直したぞ? 綾音﹂
短時間で掃除をこなすには、コツと順序の把握、手際の良さが必
要になる。
普段からやり慣れていないと、とっ散らかって逆にカオスになる
のだ。
﹁私がやらないとこの家は、大変な事になってしまう⋮⋮﹂
1052
綾音の表情一つで普段の苦労が窺える。
家事が得意と言うよりは、得意にならざるを得なかったと言うべ
きか。
﹁静音は家事得意そうに見えるんだが、気のせいか?﹂
俺の問い掛けに滝のような汗を掻いて、視線を逸らす静音。
横でやり取りを見ていた綾音が、ため息をついて洩らす。
﹁静音は家事以外は万能なんだ。唯一の欠点は家事が出来ない事⋮
⋮﹂
見た目のかわいく、成績優秀。おしとやかに見えて、一歩弾いて
男性を立てる風なイメージ。
家事出来なくても静音の評価はさほど損なわれないような気がす
るが。
﹁まあ⋮⋮どれくらい出来ないかによるか﹂
﹁調理実習で火災、消防出動﹂
﹁わかった⋮⋮、皆まで言うな﹂
綾音の肩をポンポンと叩き、普段の苦労を労う。
味がドギャーンな料理を作るレベルに達していないと言う事だな。
﹁なんにせよ、人は見かけによらないと言う事だな﹂
なぜかその一言で、綾音と静音から蹴りを食らった。
1053
一言多かったか? 口は災いのもと、気をつけよう⋮⋮。
﹁これから夕食なんだ。用意するから座って待ってろ﹂
俺と静音は居間にあるテーブルへ正座し、台所へと消えた綾音の
背中を見送った。
俺の前で手持ち無沙汰にしていた静音が、気を使って俺に話しか
けてくる。
﹁カオルさん、お茶でも用意しましょうか﹂
そう言って楚々とお茶の用意をしに、台所へ向かっていった。
その様子を窺いつつ、少し不安に駆られたが、お茶だもんな。大
丈夫だろうとタカをくくっていた。
だが俺の読みは甘かった⋮⋮、お茶の葉の缶が開けられる音と、
取り落として床に落ちた缶の音が響き渡る。
﹁あう⋮⋮、止めるべきだったか﹂
BGMが気になって、座っていても落ち着かない。
だがコレも修行。失敗したから止めるのは良くない。失敗を繰り
返して人は成長するのだから。
そしてしばらくして掃除機の音が響き、床に散らばったであろう
茶の葉を吸い取る音が聞こえてきた。
﹁静音⋮⋮、がんばれ﹂
俺はがんばる静音に心からエールを贈った。
しかしその声援も虚しく、乱暴に掃除機を引く車輪の音が聞こえ、
今度は陶器の割れる音と、静音の悲鳴が響き渡った。
1054
﹁静音⋮⋮、もうがんばるな﹂
俺は目を閉じて、もう何も考え無いように努めた。
結局その後、静音の用意したお茶を口にする事はなかった。
綾音の用意した夕食は豪華なものだった。
金目鯛の煮付け、高野豆腐と鞘インゲンの煮物、茹で茄子とミョ
ウガの和え物、いわしのつみれ汁。
そして誕生日らしく赤飯が炊かれていた。
﹁今日は親父がいないようだが?﹂
俺は夕食時になっても姿をあらわさないヒゲ親父が気になった。
﹁ああ、親父は締め切りに追われて、缶詰状態だ。いつもの事だか
ら気にするな﹂
締め切り? 小説家とかそういう職業なのか?
道場主が仕事と思っていたから、意外なセリフに驚かされた。
﹁モノカキだとは思わなかった。意外と言うか、ヒゲだけはモノカ
キっぽいが⋮⋮﹂
あのヒゲは作務衣とか似合いそうだ。剣術家というより芸術家っ
ぽいからな。
﹁親父は良いとして、母親はどうした?﹂
1055
家に母が居ない雰囲気でもなかったので、遠慮なく聞いてみた。
玄関に二人の靴以外の女性物があったからな。
﹁母も同業だ。アシスタントとして締め切りで缶詰⋮⋮運命共同体﹂
小説家にアシスタントっているんだ⋮⋮。代筆したり推敲したり
すんのか?
不思議に思う俺の表情を見て、静音が笑いながら補足を入れてく
れた。
﹁漫画家なんですよ。﹃華と夢﹄って雑誌で連載してます﹂
俺は飲んでいたつみれ汁を鼻から吹きそうになった。
華と夢、略称ハナユメは少女漫画じゃないか⋮⋮。
気管に流し込まれたつみれ汁で、むせながら涙を流して咳き込ん
だ。
﹁似あわねぇ⋮⋮﹂
ヒゲ親父のゴッツイ指で、繊細な少女タッチの恋愛物とか描いて
るのか。
今度ハナユメ立ち読みしてみるか?
﹁なるほどな⋮⋮、人は見かけに寄らないとはこの事だ﹂
今度は蹴りを食らう事無く無事で済んだ。
﹁双子の美少女退魔士が活躍する学園ファンタジーアクション物で
す﹂
1056
俺は再びつみれ汁を気管に流し込んだ。
食休みを兼ねて雑談をしていた時の事、綾音との誕生日の約束の
話になった。
﹁三室酷いよ。誕生日当日まで放置してさ、﹃誕生日何時だっけ?﹄
ってメール寄越すんだもん。ムカついたので嘘の情報を流したんだ﹂
綾音は口を尖らせて不満を口にした。 そりゃ済まなかったが、予め教えてくれても良かろうに。
とりあえず俺の非には頭を下げよう。忙しかったと口にしても、
約束を反故にしそうになった事は覆らない。
﹁どっかで待ち合わせして、デートっぽく誕生日を祝うのかと思っ
ていたのに⋮⋮﹂
それは違うと思うぞ?
三室家の教えに反する行為だ。こればっかりは訂正せねば。
﹁イヤ、誕生日と言うのはだな。歳を重ねた人を祝うのと同時に、
育ててくれた人への感謝の日でもあるのだ。あいにく両親不在だが、
家で祝うのが筋ってもんだ﹂
三室家家訓。誕生日は家で、両親に感謝しつつ執り行う。
産まれてこの方、その論理で生きてきたからそればっかりは曲げ
1057
られん法なのだ。
他にもあるぞ⋮⋮。
齢30を境に年齢は折り返し、引き算されて20代に戻る法。今、
うちの母親は20代真っ盛りなのだ。
その他にも母に一日一回は﹃綺麗﹄と言わないとぶっ飛ばされる
法。最近は規制緩和され、たまに言うだけで許されている。
﹁へぇ∼。カオルって意外と古風なんだね。人は見かけに寄らない
とはこの事だ﹂
綾音が根に持ったように、俺のセリフをそっくり返してきた。
そういや誕生日と言えば、プレゼントを忘れていた。
俺はリュックから桐の箱を二つ取り出して、静音と綾音に手渡す。
﹁誕生日おめでとうございます。静音さん、綾音さん﹂
なんの飾り立てもしていない箱を見て、戸惑いを隠せない二人。
そっと箱を開けた中には、絹の布で包まれた守り刀がある。
黒の総漆に赤の紅葉をあしらった綾音のイメージそのものの守り
刀。そして同じく黒の総漆に川の流れを模した静音のイメージその
ままの蒼の守り刀だった。
﹁俺達は退魔士だから、色気はそっちのけだけどな。旅先で良い剣
に巡り合ったから、二人にと買っておいた物なんだ﹂
綾音は黒の総漆の守り刀をそっと引き抜いて、両刃の刃先を眺め
ている。
それに習い静音も鯉口を切り、剣を引き抜いて見た。
﹁両刃の守り刀って珍しいな⋮⋮﹂
1058
綾音がその美しい刃紋を見つめ、魂を奪われた様に呆けた顔で呟
いた。
珍しいのは刃の形だけじゃないんだけど。
﹁そっと霊気を籠めて見て﹂
綾音は俺に言われるがまま、霊気を籠めた。守り刀は術者に呼応
するように、熱を帯びた気を纏い、刃の色が赤く光り輝いた。
﹁本気で霊気を籠めたら大惨事なるからな。注意して扱え?﹂
退魔士試験での綾音の霊力を思い出して、忠告を入れた。あれが
増幅されたらとんでもない災害になる。
対する静音も青の霊気を纏った守り刀を見つめ、取り憑かれたよ
うに見入っている。
静音にも言える事だが、本気で霊力を流す時は注意が必要だろう。
﹃ダーリンお仕置きだっちゃ﹄な電撃の比では無い。
二人も言われてすぐ霊気を物に籠めれる技量は大したものだ。俺
なんてこの間出来る様になったばかりなのに。
﹁実戦で使えるかどうかは未知数だけど、俺は使えると思って買っ
た。二人を守ってくれる本当の守り刀になりそうだったから﹂
俺は二人の様子を見て、サプライズに成功した事を確信した。
﹁カオル⋮⋮、ありがとう﹂
﹁ありがとうございます﹂
1059
鞘に収めた守り刀を胸に抱くようにお礼を言う二人。似て非なる
双子だが、こういう素振りはそっくりだと思う。
﹁箱に登録証と名義変更の書類が入っているから、名前を書いて投
函したら名義変更出来るぞ﹂
刀匠沢渡さんに譲り受けた際に色々と教わった。
刀匠は刀を打つ際に、自分の名義で登録するのだそうだ。
ゆえに今の所有者は沢渡さん。譲渡の書類に名前を入れて名義変
更をすれば、晴れて二人の所有になるのだそうだ。
静音は桐箱の底に収められていた封筒から、登録証を出してひろ
げた。
﹁沢渡優美子⋮⋮。女性の方なのですね﹂
女刀匠はやはり珍しいのか。感心したように書類を見つめている。
てか、沢渡さん優美子って名前なのか⋮⋮。
﹁その剣に味をしめたら、一振りでも二振りでも打ちますので注文
よろしくねって言ってたぞ﹂
別れ際の沢渡さんのセリフ。商売人の顔をした彼女の顔を思い出
したら、吹き出してしまいそうだ。
ふと我に返った静音が口を真一文字に引き締め、こちらへ桐箱を
差し出して頭を下げた。
﹁せっかくの贈り物だけど⋮⋮、こんな高価な物戴けません﹂
綾音もその様子を見て、ハタとその事に気が付いたようだ。
桐箱へ収め、姉と同じく俺につき返した。
1060
﹁大体、これいくらしたんだ? 誕生日にあげる値段じゃないだろ
?﹂
まあそんな事は重々承知の上だが、いただけないと言われても困
る。
﹁値段は二本で三百だ。けれど勘違いするな? 何も無しにそれを
プレゼントする訳じゃない﹂
ニヤリと笑う俺の悪い顔を見て、貞操の危機を感じた二人。
右肩と左腰を抱くように身構えた。
﹁あっいや。そっち方面でも勘違いするな。俺の18の誕生日の時
に、相応の物をプレゼントしてくれ﹂
その提案を耳にして、双子が向き合い目で会話している。
そして納得したのか、桐箱を引き戻してコクリと頷いた。
﹁来年の秋には18だから、それまで貯金するんだな﹂
言ってからハッと気が付き口を押さえたが、その時には手遅れだ
った。
﹁来年?﹂
﹁秋?﹂
すう∼と深呼吸をした双子の美人姉妹。マナカナ並にハモって大
声を上げた。
1061
﹁カオル16歳∼?﹂
そうでございます。お姉さまがた。
そんなにジロジロ見ないでください。
﹁老けて見えるぞ?﹂
綾音⋮⋮、失礼な事を言うな。本人が気にしていたらどうする?
﹁口調が偉そうだったから、てっきり同年かと﹂
静音さん歯に衣を着せない言葉ですね。偉そうなのは口だけです。
人を見て口調を変えていますから。
﹁バレたら仕方ない。これから綾音お姉さん、静音お姉さんと呼ば
せてもらう﹂
﹁却下!﹂
﹁却下です!﹂
即答で二人に却下を食らった。
そして年上扱いされ、少しご立腹の様子。女性は年齢に関係する
事柄に敏感なのですね。
﹁しかし、なぜ18の誕生日なのだ? 今年の秋でもよかろうに?﹂
綾音姉さん⋮⋮、もとい綾音が疑問を口にした。
それは壮大な計画があっての事でございますよ。
1062
﹁18になると大型二輪の免許を取得出来る。プレゼントはドゥカ
ティの1098Rを所望する﹂
贈り物は倍返しが基本だ。1098Rは倍には届かないが、それ
相応の値段のバイク。
ランクC退魔士二人がいれば造作も無い事だ。
二人もまぁ、バイクならと言う事で、1098Rを知らずに頷い
たようだ。
いつかインターネット検索でもして、盛大に吹くが良い。
1063
﹃Happy Birthday 03﹄
﹁この皮のブレスレットで霊力に制限が掛けられてるって訳?﹂
ケーキを美味しく戴いた後、綾音が手合わせを申し出てきた。
初対面の時の敗戦の悔しさを、未だに根に持ち続けているようだ。
しかし俺には山科さん特製の、スペシャル呪いアイテムで縛られて
いる。
俺は霊力制限の掛かった状態なのだと説明し、全力でない状態で
の手合わせは無意味だと固辞した。
みそぎはらいことば
筑紫乃日向乃
橘小戸乃阿波岐
綾音は理解したのかそうでないのか、腑に落ちない表情を浮かべ
伊邪那岐大神
つつ、手首を掴み禊祓詞を読み始めた。
﹁掛介麻久母畏伎
恐美恐
諸乃禍事罪
白須事乎聞食世登
生里坐世留祓戸乃大神等
祓閉給比清米給閉登
御禊祓閉給比志時爾
有良牟乎婆
原爾
穢
美母白須﹂
みそぎはらいことば
おおよそ勉学に長けていると思えない綾音が、山科さんの達筆で
書かれた禊祓詞を読めるとは⋮⋮。
やっぱり人は見かけによらないと、改めて認識させられた。
﹁読めるんだ⋮⋮。もしかして常識とか?﹂
﹁常識中の常識﹂
唖然とした俺の表情を見て、綾音が意地悪そうに笑う。
常識と言われても、見るだけで拒絶反応が出てしまうのですが⋮
⋮。
1064
のりと
はらいことば
ことば
﹁祝詞・祓詞を読む神道系の場合、詞が呪文であり、長さが詠唱速
度と言える。効果は絶大だが長詠唱が弱点なのだ。あらかじめ全文
を知っていれば、詠唱完了の時間が予測できる訳だ﹂
敵、味方にかかわらず、その完了時間を読める事は大事だと⋮⋮、
そういう事だな。
綾音の言わんとする事が理解できた。俺のような前衛でも知識と
して必要になると言う事だ。
筑紫の日向の橘の小戸の阿波
諸々の禍事
伊邪那岐大神
禊ぎ祓へ給ひし時に生り坐せる祓戸の大神等
聞こし召せ
﹁﹃掛けまくも畏き
岐原に
清め給へと白すことを
はらえことば
穢有らむをば祓へ給ひ
恐み恐みも白す﹄ 祓詞では定番中の定番だから、知っていて
罪
と
も不思議じゃない﹂
そう言いながら自慢げに口語訳してくれた。
俺は綾音⋮⋮、もとい綾音姉さんを尊敬の眼差しで見つめた。
﹁綾音姉さん⋮⋮、凄いっス⋮⋮﹂
﹁その下っ端口調も、姉さんと呼ぶのもやめい﹂
尊敬に値する知識の持ち主とわかって、どうにも頭が上がらない
気持ちになる。
けれど綾音姉さんの言うとおり、いつも通りのタメ口をきかせて
もらおう。
﹁じゃ綾音、意味教えてくれ。 口語訳でもよく判らん⋮⋮﹂
1065
読解して貰わねば理解不能だ。出来ればもっと判りやすく意味を
教えてくれると良いのだが。
だがしかし綾音は視線を避けるように目を逸らし、救援を求める
様に静音の袖を引っ張った。
その様子を見かねて静音が助け舟を出した。
﹁お名前を呼ぶのも畏れ多いイザナギ様が阿波岐原︵宮崎県の辺り︶
で禊祓をなされた時に生まれた神々よ、禍、罪、穢れを御祓い、お
清め下さいます様に恐れ多く申し上げます。かな?﹂
静音は本日一番の自慢げな顔をして、鼻高々に反り返った。
今日はマイナスイメージ先行したから、帳尻合ったとしてもプラ
スには転していないと思うのだが⋮⋮。
﹁イザナギが創生した神々全てに祈りを籠めている。生半可な呪詛
じゃないぞ?﹂
やっぱりか⋮⋮。取ろうとすると死を予感させる激痛が走るもん
な。
山科さんが言うように、賞味期限が切れるまで取れないのかも知
れない。
﹁しばらくこいつと一緒か⋮⋮﹂
ちょっと落ち込み気味の俺を見て、遠慮がちに静音が声を掛けた。
﹁カオルさん、チャクラの基本⋮⋮ご存知ですか?﹂
胸の前でモジモジと手を合わせる静音。どうにも改まって話す事
が苦手なようで、汗を掻き引き攣った笑みになっている。
1066
そんな静音が何か俺に教えようとしているようだ。これは襟元を
正して拝聴せねば。
﹁チャクラの概念なら仲間に教わった。言葉と概念だけは知ってい
るけど⋮⋮﹂
コクリと頷いて説明を続ける静音。
﹁背骨の最下部の﹃ルート﹄、へその下﹃サクラル﹄、鳩尾付近﹃
ソーラプレクサス﹄、心臓﹃ハート﹄、喉﹃スロート﹄、額﹃サー
ドアイ﹄、頭上﹃クラウン﹄です﹂
うむうむ。美咲さんに教わった通りの概念だな。
生命力を司る﹃ルート﹄
感情の﹃サクラル﹄
知性の﹃ソーラプレクサス﹄
愛情の﹃ハート﹄
意思伝達の﹃スロート﹄
見鬼、遠隔視﹃サードアイ﹄
超意識﹃クラウン﹄
退魔士に必要な最小限のチャクラは、魔を退ける力の源はルート、
増幅炉としてサクラル。魔物を知覚するサードアイだ。
その他のチャクラの目覚めの程度、質によって特化能力が変化す
ると聞いた。
けれど退魔士のチャクラが人より優れているかと言うと﹃否﹄だ。
人とほんの少し違った状態なだけで、一般の人と大差無い状態と
言うのが正しい。
1067
ことわり
﹁カオルさんは持って生まれた見鬼と伺いました。チャクラで言う
とサードアイが強い。 目に見えぬ物事の理が見えてしまうから、
容易に霊力コントロール出来たのではありませんか?﹂
チャクラがどうとか意識した事は無い。けれど心の持ち様で霊力
が増減したりするのは分かる。
心を静めて淀みなく流れ、激しい感情で揺れ動く波の様に。
霊気を高める手法は知らないが、どう言う心の状態で霊気が強く
作用するのかを知っている。
数学に例えると、途中の式が分からないのに、答えが分かってし
まう⋮⋮、そんな状態だと言える。
﹁私はカオルさんと戦って、霊力の豊富さを羨ましいと思う反面、
それらのコントロールが拙いと感じました﹂
資格試験の戦い⋮⋮、あの短い戦闘で、そこまで見られていたか
⋮⋮。
仲間が口を揃えて言う言葉だが、自分の中で消化し切れていない
事柄の一つだ。
霊力コントロールが未熟だと言う事に⋮⋮。
﹁霊力の流れる道⋮⋮霊脈。私が1とするとカオルさんは3、一本
の道か三車線道路かの違いがあると思います﹂
ふむ⋮⋮例えとしては極端だな。俺は静音の三倍だとは到底思え
ない。
けれどその辺りに、何かヒントが隠されているような気がする。
﹁霊気の総容量が同じだとすれば、瞬間の霊力量はカオルさんが三
倍、逆に持続力は私が三倍になる計算です﹂
1068
図式にするとこうなるか。
→<−−−−持続性−−−−>
| ■■■■■■■■■︵静音︶ 瞬
発 ■■■
力 ■■■︵俺︶
| ■■■
← 確かに瞬間的な霊力の搬送力は俺が有利、けれど持続に関しては
まるっきりダメだな。
けれどその論理で山科さんの爆発的な霊力は説明が付かない。
﹁カオルさんがまず学ぶべきは、三本を一本、一本を三本へとコン
トロールする事だと思います﹂
押し出す力と持続のコントロール。
俺が力任せに霊力を放出しようとしている時に、山科さんはどう
言った? ﹁分かってへん﹂って言ってなかったか?
なるほど⋮⋮、山科さんの意図する事が見えてきた。
﹁もしかして⋮⋮、俺の手が三車線だとしても、流す対象がそれに
見合った道を持っていないと上手く流れない⋮⋮。そう言う事か?﹂
﹁Yes 正解です﹂
おのれ
トウカのナイフもカナタの守り刀も、霊気の流れは一級品だ。け
れど己の肉体と比べるとどうだろうか?
三車線の交通の激しい道が、いきなり一本道になったらどうなる?
一気に許容量を超えて、渋滞になっちまう。抵抗が混乱を生み、
1069
普通に流すより無駄で効率が悪くなる。
﹁そしてそれに見合った流れを作り、より多くの霊気を流そうとす
れば⋮⋮﹂
﹁そうですね。押し出す力を強めれば良いだけです﹂
なるほどな⋮⋮。静音が俺の三分の一と言っておきながら、余裕
の笑みを浮かべていられるのは、そのコントロールに長けているか
らか。
﹁静音が綾音に勉強を教えても、綾音のペースに合わせないと、逆
に混乱して勉強自体無意味になる⋮⋮と? そんな感じ?﹂
﹁まさにその通りです⋮⋮﹂
二人のやり取りを見て、綾音がムッとした表情を浮かべるが、図
星だったのか何も言わずに睨んでいるだけだった。
絞る霊力⋮⋮か。言葉で言うと簡単だが、実際やれと言われても
どうやって良いのか分からない。
ここは一つ静音にお願いしてみるか⋮⋮。
﹁静音⋮⋮、絞る霊力。見せて貰っていいだろうか?﹂
式も答えも分からない状態だが、一度見ればヒントが掴めるかも
しれない。
静音はコクリと頷いて、そっと人差し指を立てた。隣で控えてい
た綾音がスッと立ち、部屋の照明を消してその様子を見つめている。
暗闇の中で立つ指先に、ゆっくりと霊気の光が籠もる。
まるで蛍の光のように淡い、儚い小さな光だった。
1070
俺は手全体に霊気を籠める事は出来ても、指先一つに霊気を集約
する事は出来ない。
それが霊気をコントロールするって事なのか⋮⋮。
答えを見つけたような気分になった俺は、静音の霊気を見て再び
驚かされる。
指先に灯った霊気の光が指を離れ、綿毛のように空へ舞った。
隣に控えていた綾音が、そっと指を差し出して、シャボン玉でも
扱うかのように、優しくすくい取った。
淡い光りが立ち消えず綾音の指で光っている。
﹁⋮⋮すげえ﹂
小さく霊気を滞留させた静音も凄いが、その霊気を容易に受け止
める綾音も驚嘆に値する。
霊気の絞り、コントロールに相当の修練を積まないと出来ない技
だ。
綾音も空に舞う霊気の量を瞬時に見極め、自分の纏う霊気を舞う
霊気と同じ強さに調整した。
とど
﹁私達は子供の頃からこうやって鍛錬していました﹂
静音は﹃絞る霊気の形﹄だけはなく、﹃留める霊気の形﹄も見せ
てくれていたのだ。
俺にとって霊気のイメージは液体。流れる川のイメージだった。
流れに逆らわず、元の場所に戻らぬ物と決めて掛かっていた。
綾音は指を軽く振り、綿毛のようにフワフワとその霊気を投げて
寄越した。
目の前で漂う霊気を、出来るだけ慎重に⋮⋮、人差し指で受けよ
うと触れた瞬間、霊気が弾け電気が体を駆け巡った。
1071
﹁⋮⋮ってぇ。ビリッと来たぁ﹂
とど
電気治療のような微弱な感電だったが、霊気を受け止めることが
出来ない悔しさと相まって、ダブルでショックを受けた。
とど
けれど触れてみて少し判ったような気がする。
﹁留める霊気の形はお手玉の要領だな。固定してその場に留めるの
ではなく、あくまで流動して⋮⋮循環させる﹂
儚いように見えた霊気、触れてみて分かったが、渦を巻くように
回転していた。
﹁掬い取れなかったのは、飛ぶ霊気に対してカオルさんの纏う霊気
が強すぎるからです。対象の霊力の強弱を見極め、それに対応出来
る様にならないと⋮⋮﹂
カナタやトウカの武器は、日々の感覚で流量を覚える事が出来る。
けれどそれは見極めた事にはならない。
綾音に木刀を借りた時のような場合はどうする? 使い慣れるま
で敵は待ってくれない、⋮⋮そういう事だろう。
﹁なるほどな。静音の言っていた﹃拙い﹄の意味がよく判った﹂
俺は左手首を右手で持ち、左手に霊気を籠めた。
放出された霊気が左手に伝い、体を駆け巡り再び右手に力を与え
る。
大きい循環としてはこれで完成。小さく循環させ大量の霊気を籠
めるには、針の穴を通すような精密な動きが必要になる。
俺のような大味な霊気操作では、一生たどり着けない境地だ。
1072
﹁ええ、カオルさんの考えで正解です。ブレスレットに念を籠めた
術者の方は、繊細な霊力操作が出来るように、これを作られたのだ
と思います﹂
きっとそうだ。制限されていると言っても、完全に能力を殺すよ
うな締め付けではない。踏ん張って小さな旋風が出せるギリギリに
調整されている。
深呼吸を一つ入れ、肩の力を抜いて手に霊気を籠めた。
手全体が淡く光るこの感じ、これがブレスレットの制限枠、例え
るなら一車線の道か。力まず流せる限界の分量を、速く、淀みなく
送り出すイメージを⋮⋮。
手の光りが増し、より強く輝いて見える。
﹁細く速く送り出す感覚は、﹃コレ﹄か﹂
もどかしいような、くすぐったい感じ。
空腹を満たしたいのに、箸で煮豆を一つ掴んで口に放り込むよう
なもどかしさ。満足感を得ようとすれば、高回転で箸を口に運ばな
ければならない。
けれど効率が悪いようで悪くない。
とど
大量に口に放り込めば、口の中で咀嚼に時間が掛かる。結局胃に
放り込んだ量は、思ったほど変わらない。
﹁絞る感覚はなんとなく分かった。けれど留めるって難しいな⋮⋮﹂
俺のつぶやきを聞いて、二人は顔を見合わせて笑う。
とど
とど
俺⋮⋮、そんな変な事言いましたっけ?
﹁留めるより絞る方が難しいんですよ。留めるは普段から自然に行
っていますし﹂
1073
とど
﹁カオルの体に留まっているだろ?﹂
とど
二人に言われて気づいた。なるほどな⋮⋮。静音のやった小さな
留めに目が行き過ぎて、それに気が付かなかった。
霊気は体内で左から右へと循環している。
気功の世界観で言う、左で気を受け、右で放出する反時計回りに
似ている。
一般的に霊障は左側に受けやすく、左手に指輪や時計を付けると
右手の握力が弱まったり、逆に強まったりする。
それらは霊気の流れが干渉しているとされている。
俺の感覚だと、心臓を中心とした体幹部分で沸き上がり、ハート
を通じて左手に送られる。左手の指先で折り返して、右手に流れる
感じだ。
心臓が左寄りに配置されている為じゃないかと思うのだが、実際
の所はどうなのか文献を読み漁らないと分からない。
﹁まあ、一朝一夕では上手くいかない。日々の鍛錬が自分の力とな
る⋮⋮か﹂
前途多難な道のりだが、諦めて足を止めれば成長は出来ない。出
来た事は繰り返し、出来ない事も諦めず続ける事が必要なのだ。
まあ⋮⋮、この言葉は山科さんの受け売りなんだけど。
﹁簡単に出来てしまうと、修行を積んだ私達の立場が無くなります
から⋮⋮、血の滲む様な努力をしてくださいね﹂
静音がニコリと笑って、キツイ言葉を投げかけた。
確かにその通りなのだと思う。俺は見鬼ゆえに、答えを見て経験
をすっ飛ばした。
1074
ズルをしたとは思えないけど、積み重ねた経験が無いから、いざ
壁にぶち当たると方法論が見つからないのだ。
ここは言葉通りに、経験を積むのが必要なのだと思う。
﹁絞る概念が分かっただけでもめっけ物だ。今日は有意義な一日だ
った﹂
満足げな俺の表情を見て、静音も綾音も顔が綻ぶ。
﹁勉強の出来ない綾音には、綾音のペースで教える事が肝心⋮⋮と﹂
﹁そうそう﹂
腕を組んで納得する二人の頭に、ハリセンが炸裂する。
煙の立ち込めるハリセンを抱え、涙目の綾音が絶叫した。
﹁何度も何度も言うな∼﹂
綾音の成績は相当悪いらしい。
1075
﹃Happy Birthday 04﹄
﹁そろそろ良い時間だし、帰るとするか﹂
時計の針が19時を少し過ぎた辺りを指し示している。
まだまだ宵の口ではあるが、女性しか居ない家に長居をするもの
ではない。
一応誕生日を祝うと言う目的は達したし、ここは退散するとしよ
う。
﹁え∼、もう帰るのか? まだ良いじゃないか﹂
テーブルの上を片付けていた綾音が、不満そうに口を尖らせて愚
痴を言う。
引き止めてくれるのは正直嬉しいものだ、帰れ帰れと言われるよ
りよっぽどな。
けれど世間体ってものが有るだろう? 玄関先や静音のとの散歩
で、ご近所さんにも少なかれ見られている。
嫁入り前だし、なにかと気を使わないといけないと思うのだが。
特に静音や綾音は見た目も良いし、素行も悪くないと聞く。
普段から素行の悪い子より、噂は立ちやすいものだと思うのだが。
﹁そうはいかんだろ。親が居れば話は変わるが、この時間が限界だ
ろ?﹂
二人とも顎に手をあて考え込む。同じポーズで考える素振りをす
ると、双子だなと実感させられる。
顔は見れば瓜二つなのだが、おっとり顔の静音と気の強そうな綾
音は、その顔つきで双子だと忘れさせる。
1076
﹁私たちの心配なら、無用ですよ? 今更⋮⋮って感じです﹂
世間体を気にしているのに気がついたようで、苦笑し複雑な表情
を浮かべている。
﹁あ⋮⋮なるほど、そんな事に気を使っていたのか? その事なら
心配無用。手遅れだ﹂
手遅れって⋮⋮、一体なんだ?
考え込もうとした俺の思考は、インターフォンの呼び鈴の音で中
断させられた。
﹁あらあら⋮⋮﹂
﹁噂をすれば⋮⋮かな﹂
そんな物騒な言葉を残し、綾音がインターフォンのTVモニター
を確認して、玄関先へと席を立った。
残された俺と静音は、綾音の背を見つめながら⋮⋮、見るとも無
しに静音を見て、目があった。
こういう瞬間って気まずいもんだよな。ちょっと目を合わし目を
逸らす、そんな瞬間が⋮⋮。
けれど静音は俺の目を見て、目を逸らそうとしない。
﹁む?﹂
そうなると俺が目を逸らすしかなくなる。けれどそれは嫌だな、
負けた気分になる。
目を逸らすと襲ってくる物の怪も居るし、普段から目を逸らさな
1077
い訓練でもしているのか?
そう思い巡らせる数秒の事だったが、無言の時間は果てしなく長
く感じた。
﹁カオルさんって、前髪で損してますよね⋮⋮﹂
微笑んでテーブルに頬杖を付き、それでもなお目を逸らさない静
音。
損⋮⋮ですか。子供の頃から伸ばしていて、今更変えれない感じ
なんだけど。
小学校の頃、クラスで孤立した時に、反抗の意味を込めて髪を伸
ばした。
人の顔を見るのも、霊が見えるもの、そして人に顔を見られるの
も嫌だったから。
﹁そうか? 今となっては何の意味も無いんだけど、惰性というか
習慣みたいなもので⋮⋮﹂
前髪を引っ張ると鼻の頭に来るくらいの長さだ。
中途半端だと目に入って痛いんだけど、これ位まで伸ばしちまう
とかえって心地いいのだが。
﹁勿体無いですよ。素顔のカオルさんを知っているだけに、余計そ
う思うのかも﹂
﹁俺の素顔? 俺はいつも素顔だけどな﹂
そう言いながら静音に笑って見せたが、どうにも納得していない
表情を見せた。
頬杖を崩し、身を乗り出して手を伸ばし、俺の前髪をかき上げて
1078
言った。
﹁ほら! こんなにカッコイイのに、隠しちゃうなんて勿体無い﹂
静音の細い指が髪に絡み、なお見つめてくる視線に耐えかねて目
を逸らした。
俺の視線を追っていた静音も、ハタと気が付いて赤面してパッと
手を離した。
そんなバッドなタイミングで、戻って来た綾音がわざとらしく咳
払いを入れた。
﹁うぉっほん! ちょっと目を離したらコレだ。お客さんだから遠
慮してくれる?﹂
綾音はそう言いながら、俺と静音に目配せをして合図を送った。
綾音の後ろに立つ背広姿の男の人影。既製品のスーツに身を包ん
だサラリーマン風の男だが、どうにも雰囲気が堅気の職じゃない感
じ。
探るような目と威圧する雰囲気が体を包み込んでいる。それに⋮
⋮。
綾音の目配せの意味が分かった⋮⋮。
﹁あっ⋮⋮、はひっ﹂
静音は真っ赤だった顔を隠すように俯き、正座して座りなおし、
手を膝の上に置いて小さくなった。
綾音の案内で座布団に座った男が、俺と静音を交互に見つめ、険
しい顔をして俺へ挨拶をした。
﹁こんばんは﹂
1079
ありきたりの挨拶をしながら、それでも目が言っているよ⋮⋮。
キミは誰だって。
自分の事を棚に上げてなんだけど、名前も名乗れない奴に名乗っ
てやる義理は無い。
俺はその意味を籠め、短く挨拶をしてやった。
﹁こんばんは﹂
俺の意図することが分かったのか、苦虫を噛み潰したような渋い
顔をして俺を見つめる。
安物のスーツで堅気じゃない雰囲気と、この高圧的な態度、上か
らの目線で物を言う職。ひとつだけ心当たりがある。
権力を笠に着て、勘違いしている奴が多い職業⋮⋮。
テーブルに置かれた鍵束で確信した。
﹁手遅れの意味がわかった﹂
俺のセリフを聞いて、静音と綾音が目を丸くして⋮⋮、そして耐
え切れなくなって吹き出した。
笑っている二人を見て、その真意を読み取れない男は苦笑いを浮
かべ、それでもなお俺を見つめ離さない。
二人のやり取りを見て、埒が明かないと判断したのか、静音が口
添えして場を取り持った。
﹁中之島さん⋮⋮、この人は﹃同業者﹄です。ランクは私たちより
遥か上。そう言う人ですから、まずご自身から自己紹介なさってく
ださい﹂
退魔士業界は完全秘密主義。自分から自己紹介などして回るもの
1080
では無い。
誘導尋問で口を開くほど、立場を分かって無い訳じゃない。
けれど静音がああ言って促すと言う事は、それなりにその筋の関
係者ってわけか
﹁県警の中之島です﹂
あくまで簡潔に自己紹介をする中之島。スーツが割と傷んでいな
いのに肘のテカリ具合⋮⋮、現場一筋って訳じゃない感じ⋮⋮、事
務職なのか?
現場の刑事じゃ、こんなに身綺麗な服装じゃないだろうしな。
﹁三室です﹂
ペコリと頭を下げて最低限の挨拶を交わす。
同業だと静音が言ったのなら、肩書きの紹介は必要ない。相手が
名前しか名乗らないのだ。こちらもその路線で名前だけ名乗るのが
筋ってものだろう。
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
無言で相対する二人を見かねて、静音がフォローに回る。その後
ろで笑いを堪えている綾音が憎たらしい⋮⋮。
恐らく中之島刑事は、静音と綾音に会いに来たのだろう。
そんな時、家に居座っている俺と出会った⋮⋮と。その心中は穏
やかならぬものがあるだろう。
誰だ? 俺の静音ちゃんと綾音ちゃんに⋮⋮とな。年齢も20代
後半だし、狙っていてもおかしくない。
1081
﹁中之島さんは、うちの道場に出入りしているのです。たまに来て
剣を振るっていらっしゃいます。職業は刑事さん。たまに家の父母
に精神鑑定の仕事を持ってきてくれるのです﹂
退魔士業界で言う﹃精神鑑定﹄か⋮⋮。
美咲小隊では、そう言った依頼はシャットアウトしてあるが、い
わゆる憑き物の鑑定をする依頼の事だ。
気が付いたら人を殺めたって事例の中には、精神的錯乱状態にあ
って罪に問えない場合がある。
憑き物による精神状態不安だと、精神科医では手に負えない。そ
う言う場合横の繋がりで退魔士業界に依頼が来るのだ。
最近ではそれを装った犯行もあるようで、厄介な世の中になった
ものだと思う。
﹁で、こちらが三室さん。ランクだと私たちより二つ上の凄腕の退
魔士さんです﹂
静音達のランクを知っていたのか、中之島刑事が少し驚きの表情
を浮かべた。
打って変わって表情を綻ばした。そして身を乗り出して、手を差
し伸べた。
﹁職業柄、話す言葉が限られてしまって、どうにも口数が少なくな
る。凄腕の退魔士と言うなら別。是非とも知り合いになりたいね﹂
俺は差し伸べられた手を見つめ、中之島の顔を見た。
腰に手を回し、カナタを引き抜いて中之島に切っ先を突きつけた。
﹁精神鑑定が必要なのは、中之島さんですか?﹂
1082
その言葉を皮切りに、テーブルの下で守り刀を抜刀した静音が喉
元、立っていた綾音が中之島の背後で、印を構えている。
そんな三人に目を白黒とさせながら、中之島が口を開いた。
﹁ちょ、ちょっと待ってよ。どういう事? 冗談じゃない。シャレ
になんないよ?﹂
激しい動揺を見せた中之島は、そっと手を上げながら緊張した雰
囲気に緩和を求めた。
けれど口を真一文字に引き締めた静音、後ろに立つ綾音もそれに
対し返答しない。
﹁中之島さんの纏う気が、少し⋮⋮、いやかなり瘴気に汚染されて
います。この状態で平然としている方が、まともな状態だとは思え
ない﹂
俺の手の上に乗ったカナタが、鼻を鳴らしそのモノの正体を探る。
くるりと振り返り、緊張感の無い言葉を吐く。
﹁カオル、この残りカス食って良いか?﹂
そういうなり中之島の頭上に乗り、纏う瘴気を食い始めた。
って⋮⋮残りカス? この瘴気の濃さで残りカスって、本体は一
体どんなモノなんだ?
中之島は頭の上で飛び跳ねるナニかを感じながら、自分の異常に
気付き始めた。
﹁なんだ? コレ? 頭の上になにか乗ってるぞ?﹂
1083
こいつも緊張感無い。
心霊スポットのビックリな瘴気を纏って、平気な顔してるかと思
いきや、飛び跳ねるカナタの感触でビックリしている。
背後の綾音が、ホッと一息を付いて、緊張した雰囲気を解除した。
﹁あ∼、ややこしい。お茶煎れてくる﹂
スタスタと台所へ向かって行った。
静音は刃を自分に向け、鞘をおくり出すように納刀した。
しかしこの瘴気の濃さはただ事ではない。
﹁中之島さん⋮⋮、刑事と言う職は大変なのは分かりました。どこ
で霊気を汚染されたか判断したい。先ほどまで何をしていました?﹂
テーブルに置かれた鍵束には、個人でつけるとは思えない事務的
なタグは付いていた。
恐らく公用車、公務のついでにここへ寄ったと推察していた。
綾音、静音が手遅れと言ったのは、表に警察車両が横付けされて
いるからだろう。
白と黒の目立つ車両じゃないと思うが、ちょっと見れば違いが分
かる。近所じゃ頻繁に警察が出入りする家となれば、風評被害もは
なはだしい。
それにここへ入ってきた時に、鞄一つ持たず手ぶらだった。スー
ツ姿の男が手ぶらはかえって珍しがられる。
嘘でも鞄を持っているのが普通だと思える。
よって車に置いてあるか、元々持っていない仕事中だと考えたの
だ。
﹁え∼? 言わなきゃダメかな。 静音ちゃん、綾音ちゃんに明日
の仕事⋮⋮、時間を伝えるのを理由に家に寄ったんだけど⋮⋮﹂
1084
肩に乗り瘴気をチギっては食い、食っては飛び跳ねるカナタの感
触を感じて、どうにも落ち着かない様子。
さすがはカナタ。あっという間に瘴気を食い尽くしている。
﹁父母が不在の時は、私と綾音で精神鑑定をするのですよ。最近は
隠居を決め込んで、殆ど私達が⋮⋮﹂
別所姉妹の退魔業は、警察関連がバックについているのか。
うまい飯のタネを持ってるな。安くても定期的にもらえる軽作業
は、ガテン系のこの職には有り難いものだ。
﹁あっ⋮⋮、来る前に明日の被疑者の所へ寄ったな。二、三言話し
て明日の鑑定を伝えた⋮⋮﹂
瘴気の真新しさを考えれば、ソコで貰ったと考えるのが筋が通る。
しかし、留置場か拘置場か⋮⋮。出来れば行きたくない場所だ。
﹁恐らくそこで何らかの接触があったはずです。被疑者に手を触れ
たとかそういう事ありませんでした?﹂
あの瘴気は立ち込めた瘴気の中に身を置いたなんて生易しい状態
じゃない、俺が剣に霊気を流すように、瘴気を籠められたのだと思
う。
知らずに過ごしていれば、今日眠りに付いても明日は目覚めない
程の量だ。
﹁鑑定の同意書にサインを貰った時、手首を掴まれて睨まれたよ⋮
⋮。やな商売だな。警察って職は⋮⋮﹂
1085
その時か⋮⋮。
中之島刑事の死を願ったとなると、人であれ魔物であれ、既に道
を踏み外しているな。
そしてその瘴気の量を鑑みれば⋮⋮
﹁恐らく相手は、ランクA並の難敵と思っていいです。留置場でも
危険です。すぐさま手を打たないと、警察署が廃墟になりますよ﹂
静音と綾音がひょっこり鑑定に行かなくて良かった。
行っていたら返り討ちにあっていたかも知れない⋮⋮。
ここは美咲さん達に連絡して、手を打った方が良いな。
俺が感じていた緊迫感ほど、中之島刑事は感じていなかった。の
んびりとした口調でとんでもない事を言い出した。
﹁え? いや、負傷していたからね。病院に入院中だよ。一応監視
はつけてあるけどね﹂
俺と静音は呆然とし、綾音に至っては急須を取りこぼした。
なんてこった⋮⋮最悪だ⋮⋮。腹を空かせたライオンを病院に放
したようなものだ。
﹁行こう⋮⋮、いますぐ手を打たないと大変な事になる。健常な人
なら耐え切れても、病を患っている人には瘴気を纏うだけでも死に
至る。それに⋮﹂
手を握り呪いの念を籠めた被疑者が、己の力に気が付いていない
訳が無い。
俺の表情を見て話を聞き、尋常ならざる事態だと初めて気が付い
た中之島刑事。立ち上がり鍵束を掴んだ。
俺は自身の想像が的中していない事を祈りつつ、カナタとトウカ
1086
を腰に差し直した。
1087
﹃Happy Birthday 05﹄
﹁ごめん、カオル。すぐ着替えるから!﹂
さすがにピヨピヨのエプロン姿はマズイと判断したか、綾音と静
音が部屋へと駆け込んだ。
40秒待ってやると言わなくても、あいつらの事だから、すぐに
取って返して来るだろう。
んー、しかし着替えってのは、やっぱりアレか。
﹁やっぱ剣道着なんだろうか⋮⋮、やれやれだ﹂
俺のため息を聞き、中之島刑事が人指し指を立てて指を振った。
﹁三室君⋮⋮わかって無いね! あのコスチュームの良さが﹂
頬を赤らめ、鼻の穴を広げて熱弁する中之島刑事。どうやら別所
姉妹狙いだと言う予想は、あながち的外れでは無かったらしい。
だが別所姉妹は双子だ⋮⋮、二人のうちどちらが本命なのだろう
か?
﹁中之島刑事はどちらかというと、おっとり静音派? それともツ
ンツン綾音派?﹂
門をくぐろうとしている中之島刑事へ、究極の選択を投げかけた。
中之島刑事は俺の言葉に反応し、手を顎にやりながら空一点を見
つめて硬直した。
﹁どちらか一人を選ぶなんて、俺には出来ないなぁ⋮⋮﹂
1088
それは二人ともモノにしたいと言う言葉なのか、手をつけずそっ
と見守りたいと言う気持ちなのか。
俺には半々の思いが入り混じっているように聞こえた。
﹁そうですよね⋮⋮、誰か一人を選ぶなんて、出来ないですよね⋮
⋮﹂
俺は心の隅にあった本音の部分、そして同時仲間達の顔を思い浮
かべた。
中之島刑事は俺の言葉を聞き、それがが別所姉妹に向けられた言
葉では無い事を覚ったのか、無言で握手を求めてきた。
瘴気騒ぎで求められた握手を拒否してしまったが、今度はがっし
りと力強く握りこんでやった。
﹁そろそろ静音達も着替えて来る。車で待ちましょう﹂
﹁ん、そうだね。準備万端で待とうか﹂
中之島刑事が手招く先、門の横の駐車スペースにひっそりと停め
られた白黒の車。
いわゆるパンダカラーのパトロールカーだ。地球環境の優しいと
される低燃費なハイブリッドカーだった。
俺は先ほどの静音達の顔を思い出し、苦笑するしかなかった。
﹁中之島さん⋮⋮、虫除けですか?﹂
運転席の扉を開いた中之島刑事が、俺を見てニヤリと笑って運転
席に乗り込んだ。
やっぱり確信犯的な行動なんだ⋮⋮。姉妹に悪い虫が付かないか
1089
ら良しと思っている顔をした。
﹁ま、気にしても仕方ない﹂
俺はロックの解除された助手席側から車に乗り込んだ。
こじんまりとした室内はパトカーだけあって、タバコの匂い一つ
しない。
助手席前のグローブボックスには、指紋認証型のPDAがあり、
違反や過去履歴を検索できる仕組みになっている。
そしてパトカーの位置を中央管制できる様に、位置検索システム
の装置が取り付けられていた。
シフトノブ付近にトグルスイッチが数個、カーステレオが取り付
けられている付近には正体不明の機械が埋め込まれていた。
複雑怪奇な機器を見て、小さくてもパトカーなんだと実感させら
れた。
﹁そう言えば三室君、さっきまで気だるかった体調が、快眠した後
の朝くらい快調なんだけど⋮⋮、これも﹃瘴気﹄の影響だったのか
な﹂
うーん、瘴気を取り祓ったからと言って、普通の状態に戻るだけ
だと思うんだけど。
むしろ快調の原因と言えば、中之島さんの頭上で寝ているカナタ
の影響じゃないかと思う。
カナタは俺の霊気を吸い、自分自身を維持している。そのカナタ
が中之島さんの不足した霊気を補っているのは間違いない。
間接的に俺の霊気で元気一杯になっていると⋮⋮。なんかやだな。
﹁カナタ⋮⋮戻って来い﹂
1090
呼ばれた猫の様にピクリと反応したカナタ。食後の惰眠を妨げら
れ、少しご機嫌ナナメな表情を浮かべている。
面倒臭そうに俺の頭上にジャンプして戻って来た。
そして再びパタリと横になり、寝息を立て始めた。
﹁お? なんか頭の上が軽くなった﹂
手を頭の上に置き、首をコキコキと鳴らして、ご機嫌な表情を浮
かべる中之島刑事。俺に笑顔で問いかけてきた。
﹁ぶっちゃけ、精神鑑定が必要そうな俺って⋮⋮、どんな風に見え
てたの?﹂
さっきまでの自分の姿が気になったらしい。
表現するのが難しいんだけど、見たままを伝えれば良いのだろう
か。それとも感じたままで伝えるべきか。
﹁健康な人は、朝日に照らされた霧氷のような⋮⋮キラキラとした
霊気を纏っています。さっきの中之島さんはその逆ですね﹂
光り輝き周りに良い影響を与えるのが霊気、逆にその光を吸収し
無に返そうとするのが瘴気だ。
﹁逆か⋮⋮、想像だに出来ないけどよっぽどの姿をしてたんだね﹂
﹁ゴミバケツを頭からかぶった位の嫌悪感がありましたよ﹂
実の所いつ暴れだすかとドキドキさせられた。
にこやかに案内してきた綾音も凄いが、様子を探ろうといつも通
りに接した静音も凄い。二人とも根性座ってると感心してしまった
1091
ものだ。
﹁ゴミバケツ⋮⋮それは酷い有様だ﹂
中之島が口に手を当てて笑いを堪えている。こう言う笑顔と明る
い対応を見たら、案外いい奴なのかも⋮⋮と思わされる。
静音達には迷惑なのかもしれないけど⋮⋮。
﹁おっ! 来たね。相変わらずカワイイ﹂
玄関を施錠する綾音を見守る静音の姿。白の剣道着に紺色の袴、
白い足袋を履き、赤の鼻緒の草履を履いている。
手に木刀を携え。胸元に挿された守り刀がワンポイントのアクセ
ントになっている。
﹁完全戦闘態勢という訳か﹂
二人は後部座席に雪崩れ込むように乗り込んだ。
乱れる息で言葉を出せず、二人は頭を下げ時間のロスを詫びた。
ミラー越しにその姿を確認した中之島刑事が、アクセルを踏み込
み車を発進させた。
﹁シートベルトの装着確認、オッケー。行くよ﹂
緊迫したムードの中、物音一つ立てずに前に進んでいく車。
耳を澄ましてかすかに聞こえるくらいの微弱なエンジン音。その
のんびりとした音が焦る気持ちをさらに駆り立てた。
音がデカけりゃ良いってものじゃないが、静かすぎて一生懸命走
っている気がしない。
特にバイク乗りの感性から言わせると乗ってる気分がしない。
1092
俺のSDRはタコメーターが付いていないので、排気音がタコメ
ーター替わりなのだ。
音が鳴らないと今何千回転で回しているか分かんないじゃないか
⋮⋮と。
﹁中之島さん、もうチョット急げませんか?﹂
サイレン鳴らしてかっ飛ばせ!とは声には出せないが、心の中で
は叫んでいた。
﹁俺さぁ、内務免許資格Cなんだよね⋮⋮、それに一人じゃ緊急走
行出来ないんだ。﹂
警察の内規について語られてもよく分からんのだが、それ相応に
ショボイ資格なのだろう。
パトカーは、サイレン鳴らしてナンボの乗り物じゃないか。
緊急走行出来ないんじゃ、ただのセンスの悪い車に過ぎん。
﹁カオルさん、焦っても仕方がありません。私たちは状況を知らな
さ過ぎます。今の内に整理しましょう﹂
︱︱っ。そういやそうだ。敵の素性も分かってない。このまま突
入しても敵か味方か分からんな。
静音に言って聞かされるとは⋮⋮。ランクAだ凄腕だと、煽てら
れてばかりじゃ立場が無い。
﹁中之島さん⋮⋮、まず事件の事を教えていただけますか?﹂
静音は身を乗り出し、中之島刑事の運転を妨げない落ち着いたト
ーンで言った。
1093
中之島刑事が静音を見つめるように振り返る。言わせて貰うが運
転者は君だ。ハンドルを握っている間は後ろを振り向くなと言いた
い。
﹁オッケー、退魔士資格持ちだし、守秘義務については重々承知の
上だろう。これから話す事は他言無用で﹂
神妙な顔つきに一変した中之島刑事は、ギュッとハンドルを握り
締め前方を見つめながら事件の事を語り始めた。
事件が発生したのは、2日前の事。
会社を経営する園田正雄さん︵42︶宅で家族4人が胸や首など
を刺殺される事件が発生した。
園田正雄さん祖母はほぼ即死状態。妻はあらそった後背後から数
箇所刺され出血多量で間もなく死亡した。
長男はベッドで就寝した状態のまま刺殺。争う物音と悲鳴を聞き
つけた隣家が通報し発覚した。
生存者は一人。長女の茜ちゃんだけは、胸や腹に刺し傷があるも
のの傷は浅く、病院に搬送された。
犯人の特定は容易かった。茜ちゃんの側に落ちていた凶器に付い
た指紋。園田家の台所にあった包丁だった。
そして妻の芳江さんが争い抵抗した痕跡。爪の間から発見された
皮膚の一部が、茜ちゃんの物と一致し緊急確保と相成った。
﹁病院に搬送された茜ちゃんの自供も取れたんだよね。﹃私がやり
ました﹄って﹂
1094
神妙そうな中之島の表情、やりきれない気持ちがひしひしと俺に
伝わってくる。
最近子供が家族を殺害する事件が多発している。俺は心理的に不
安定な子供だからこそ、魔に憑かれて背中を押されるのではないか
と感じていた。
﹁茜ちゃんはまだ小学生⋮⋮、罪に問えるか微妙な所だけど﹂
そう言えば俺の仲間の一人、真琴がそう言う事を言っていた。
彼女も人形繰りに操られて、自分の父親を殺害させられたのだ。
14歳未満の年齢だと法で裁く事が出来ない。罪に問われない以
上、たとえ殺人を犯しても警察には﹃逮捕﹄はされない。あくまで
も補導となるのだ。
警察は補導した少年を児童相談所に送る。児童相談所は殺人のよ
うに凶悪な事件を起こした子供は家庭裁判所に送る。
真琴はその時の精神状態に酌量の余地有りと判断され、また自己
の能力を用い退魔士となる決意を理由に司法取引したのだと聞いた。
おそらく今回の被疑者⋮⋮、正確には触法少年扱いとして自立支
援施設で更正するか保護観察処分となる。
﹁その茜ちゃんだけど、供述の中で殺害の理由についてこう言って
いたんだ。﹃私の家は犬神筋だから、私が一人死んでも血は絶えな
い﹄って﹂
犬神筋? 犬神家の一族だったら知ってるけど、犬神筋ってなん
だ?
こういう時に乃江さんが居てくれたなら、即答で答えてくれるん
だろうけど⋮⋮。
俺は携帯の画面に映るメール送信履歴を見つめて、ポケットに仕
舞い込んだ。
1095
﹁二人とも、犬神筋って知っているか?﹂
後部座席で神妙な顔つきの二人に、犬神筋について聞いてみた。
その問い掛けに口を開いたのは、綾音の方だった。
﹁犬神筋について語るのなら、先に犬神について語らないといけな
い。簡単に言ってしまうと狐憑きの様に、犬霊の憑き物の事だ﹂
﹁犬の霊?﹂
狐憑きはかなり厄介だと聞くが、犬⋮⋮だろ? 容易く祓える雑
霊の一種のように思えるのだが?
けれど中之島刑事に付いた瘴気の濃さと犬霊が結びつかない。
﹁綾音、犬霊ってのはそんなに厄介なのか?﹂
綾音は引き攣ったような笑みを浮かべ、自虐的に言い切った。
﹁私には手に余るほどの強敵だ。普通の犬の霊だと思ってかかると
痛い目に会う。 犬神って奴は蠱毒を用いた、呪詛の類で生まれた
霊だ。製法は土に犬を首だけ出して埋め、目の前にご馳走を並べ立
て、食わせず餓えさせる。餓死する寸前に首を切り飛ばして殺すの
だ。その首を人の往来の多い辻に埋め、多くの人に跨がせる。そう
やって飢餓、怨念を増大させた霊だ﹂
蠱毒と言えば大陸の呪詛だな。ありとあらゆる毒虫を瓶に積め、
蓋を閉めて土に埋める。餌の無い毒虫たちは、お互いを食い合い食
われたモノの怨念を蓄積させる。
最後に生き残ったものは、全ての毒虫たちの怨念を体内に受け継
1096
ぎ、物凄い能力を発揮すると言い伝えられている。
同様の事例が人間界でもあった。
昔の話だが、炭鉱の岩盤が崩れ炭鉱夫が十数人生き埋めになった。
身動きの取れぬほどの崩落ではないが、出口を塞がれて外界に出
れぬ状態に陥ったのだ。
当然外からの救援活動を行ったが、崩落して岩盤の緩くなった炭
鉱ゆえ、掘り進むのに数十日かかってしまった。
一日二日三日と飢餓状態に追い込まれた炭鉱夫は、一種の蠱毒状
態にあったのだと思える。
唯一生還した一人の男は、共食いする仲間達の頂点に立ち、呪い
の念を受け継ぎ鬼になったと聞く。
﹁蠱毒によって強い念の力を持った犬霊は、人ではなく家に憑くの
だ。子へ孫へと粛々と受け継がれ、家を繁栄させると聞く。退魔士
の世界では唯一﹃遺伝する憑き物﹄として恐れている﹂
遺伝する憑き物だって?
そんなものを祓えるのか⋮⋮。
﹁狐憑きと座敷童を足して二で割ったような言い伝えだが、犬神伝
承のある地方だと、婚姻を結ぶ際の身元調査をして犬神筋かどうか
を調べるそうだ。今でもな﹂
それじゃあ、家族を殺害した娘は、血脈を絶つ為に自分の親や弟
を殺したと言うのか?
そんな決断を小学生にさせるほどの因縁、強迫感はすさまじいモ
ノがある。
﹁外道、犬神、狗神、狐神、オサキ、イズナ、ヤコなど、名前は変
われどどこの地方にも伝承されている憑き物だが、犬神だけは危険
1097
だと思う﹂
﹁恐らく退魔ランクで言う所のA指定⋮⋮です﹂
犬神の説明をする綾音に、現実的な補足を入れる静音。
俺はポケットの携帯を再び取り出し、犬神憑きとだけ打ち込みメ
ールを送信した。
﹁きな臭くなってきたな。仲間に連絡を取って急行してもらってい
るが、それまでは霊力制限付きのA、元気一杯のランクCが二名と
無印の刑事さんが一人⋮⋮か﹂
﹁無印って、なんか引っかかるなぁ﹂
ハンドルを握り締めた中之島刑事の顔がため息と共に落胆の表情
を浮かべた。
だがその表情もすぐさま変化し、引き締まった顔つきなった。
視線の先に見えるのは、病院の建物の遠映。夜の闇に立つ白い巨
塔だった。
﹁警察病院かと思ったら、普通の病院を使ってるんだ﹂
個人名を冠した病院名。恐らくは個人経営の病院だった。
車を緊急車両の入り口へ向かい、妨げにならぬように停車した。
四人は車を降り、耳を澄まし、視覚、嗅覚を研ぎ澄ました。
シンと静まり返った病院前の駐車場に、瀟洒なガス灯を模した街
灯が照らしていた。
﹁静か⋮⋮だね。病院は無事だったようだね﹂
1098
胸を撫で下ろした中之島刑事。俺達に安堵の表情を向けた。
﹁いや、静かすぎると思いませんか? 夏だと言うのに虫の鳴き声
すら聞こえてこない⋮⋮﹂
俺の言葉に、顔を強張らせてみせた中之島刑事。
見上げる先は4階のフロア、恐らくそこに犬神憑きの少女は居る
はず。
こうして二の足を踏んでいても仕方ない。
﹁中之島刑事はここで応援を呼んください。俺と静音、綾音で見に
行ってきます。病室は何号室ですか?﹂
﹁420号だ。フロアの一番端の病室だ﹂
車の警察無線で応援を呼ぶため、車に乗り込んだ中之島刑事。
俺は緊急搬送口へ向かい、ガラス越しに病院内を覗き込んだ。
煌々と照明を惜しみなく照らした病院内、視界には人の姿は見え
ないが、薄っすらと瘴気で汚染されているのが分かる。
﹁四階に居て、一階まで瘴気を放つ敵⋮⋮、気を引き締めないと飲
まれるぞ﹂
俺の警告にコクリと頷く静音と綾音。
俺は一歩病院に踏み込み、自動扉を作動させた。
緊急搬送口はいわゆる裏口に近い場所だった。右手に搬送用のエ
レベータ、左手には外来の窓口と待合場所の椅子が広がっている。
﹁カオルさん、誰か居ます﹂
1099
静音の指差す方向。外来付近にあるナースステーションのカウン
ター付近に、しなだれかかるように白衣の天使が昏倒していた。
恐らく瘴気を吸い、前後不覚になったのだろう。これが通常の反
応だ。
中之島刑事の場合が特殊なのだ。普段から剣を振るう剣士として
の研鑽で、並の人より抵抗力が付いたのだと思う。
昏倒した看護師の首元を押さえ、脈と肌の温かみを感じ取った。
このまま放置しても死ぬことは無さそうだが、戦力としてこれか
ら必要になるだろう。
たたき起こしてキリキリ働いてもらわないといけなくなりそうだ。
﹁静音、綾音。治癒が得意なのはどっちだ﹂
静音と綾音はお互いの顔を覗き込み。静音が指差し、綾音が手を
上げた。
やっぱり意外性の綾音だな。どちらかと言うと静音かと思ってい
たが。
﹁よし、綾音はバックアップ。医師、看護師達で動けない奴等を叩
き起こせ。一階でこの有様なら上層はカオスになってるからな。先
行は俺と静音で行く﹂
静音と綾音はコクリと頷いて、現状の指揮に同意した。
エレベータで四階に向かっても良いが、ここは階段で向かうか。
途中の様子を把握しておかないと、戦術の立てようが無くなるか
らな。
﹁静音! 道すがら昏倒してる人に霊気を打ち込め。優しく癒して
いる暇は無い﹂
1100
俺の想像する上の階は地獄絵図だ。
ナースステーション内部で点灯する光⋮⋮、ナースコールのラン
プが物語っている。
病室の表示とランプで構成されているナースコールの受信機は、
殆どの病室が点滅している。
腰のトウカのナイフを引き抜いて、慎重に右手に持ち直した。
﹁一本道へ霊気を流し込む!﹂
手に流れる霊気を束ね、トウカのナイフへ霊気を押し込む。
俺の周囲に風がそよぎ、渦を巻き力を蓄えていく。
三本の霊気を細く束ねるイメージを心で念じ、そして激流の川の
ふうひょうか
イメージで霊気を循環させた。
﹁風飄花﹂
渦巻いた風が、より強く暴力的な突風に変化した。桃の花びらが
いつも以上に舞い散り、風の勢いに負けない花吹雪になった。
鼓膜が強く押され耳の奥がズキリと痛んだ。同時にキンッと耳鳴
ふうひょうか
りを発し、病院内部の気圧の変化を感じ取った。
風飄花はナースステーション内のカルテを吹き飛ばし、ドアを強
く叩き、窓のサッシを力強く何度も押した。
﹁もっと力を!!﹂
全開の霊力をトウカのナイフに通した。
その瞬間に病院内のガラスが割れ、同時に周囲の瘴気を吹き飛ば
した。
渦巻く竜巻は階段を登り、上層階のガラスを叩き割っていった。
1101
ふうひょうか
﹁出来た⋮⋮⋮⋮。 風飄花火事場の馬鹿力バージョン! 病院全
体の瘴気をかなり希釈できたはず⋮⋮﹂
俺の周囲に渦巻く風で、静音と綾音は長い髪をなびかせている。
まだ目を開ける事も出来ない静音の手を取り、階段を駆け上がっ
た。
1102
﹃Happy Birthday 06﹄
﹁静音は2階、俺は3階、4階で合流!﹂
﹁はい!﹂
お互い﹃何が目的で﹄、﹃どうすべきか﹄は理解出来ている。
それさえ理解出来ていれば、短い会話でも阿吽の呼吸で立ち回れ
る。いかに集合場所まで到達すれば良いか、優先順位は何か、何も
言わなくても行動出来る。
それは階下で治癒を行っている綾音も同様の事。
俺達は短い会話で為すべき事を分担し別れた。二階に留まった静
音に、俺は後ろを振り返る事無く、上を目指し階段を駆け上がった。
﹁カナタ、起きろ。トウカもそろそろ出て来い﹂
頭の上で惰眠を貪っている刀精に、そろそろ働いて貰わねばなら
ない。
それにいつも重役出勤してくる生意気な仙女も⋮⋮な。
ふうひょうか
広範囲の浄化はトウカのナイフが有効。接近戦の浄化能力はカナ
タ守り刀が数段上。
トウカは独自の力で風飄花を出せ、単体でも広範囲の範囲の浄化
が出来る。対するカナタは短時間だが守り刀をバージョンアップさ
せる技を持っている。
情けない話だがこの二つの武器、二人の力無しでは、ランクAの
実力を出せるとは到底思えないのだ。
﹁呼んだかえ?﹂
1103
のん気に欠伸などかましつつ、生返事をするトウカ。
ちょこんと俺の頭の上に乗ったのが、感触で分かる。
その横で明らかに眠そうなカナタの声が響いた。
﹁うむ。さっきから起きておるぞ∼。かぐわしい瘴気じゃからの﹂
このえげつない瘴気を、そんな風に言えるのはカナタくらいだろ
う。
だがそのさりげない言葉の中に、安心して戦えとのメッセージが
こめられている。
だから俺はカナタを信じて、目の前の敵に集中できるのだ。
﹁カナタの⋮⋮、その根拠の無い自信が頼もしい﹂
俺の言葉に何も返答を返さないカナタだが、どの様な気持ちでい
るのか伝わってくる。
カナタもこの瘴気に、多少なりとも脅威を感じているのは確かだ。
階段を駆け上がり、病室へと向かう廊下を目の前にして、正直息
を呑んだ。
﹁︱︱︱酷いな﹂
瘴気の量ではない。目の前の扉のガラスが大量に割れ、今まさに
ガラス片の感触が靴底に伝わってくる。
自分でやっておきながら、その物理的な破壊っぷりに、少し腰が
引ける思いがした。
前方に伸びる廊下、左右に病室の扉を配置し、その先に一人看護
師が倒れて身悶えていた。
手で体を抱え込むように縮み上がり、身体を小刻みに痙攣させて、
口から吐瀉物を吐いて苦しんでしている。
1104
吐瀉物が口中に溜まり、呼吸は吐息のみ、唇が紫に変色し、白目
をむいている。
瘴気を急激に吸い込んだ拒絶反応だ。こういう時には二人に指示
したように、霊気を打ち込んで、その圧で押し出す様に中和するの
が最良の方法なのだが⋮⋮。
﹁⋮⋮とは言え、俺は霊気注入、苦手だからな﹂
体内に霊気を入れる方法は、乃江さん直伝の浸透頚まがいの技、
気ではなく霊気を代用する技しか伝授されていない。
拳に集めて殴る事は出来ても、通したり体内に送り込むのは、デ
リケートかつ高度な技なのだ。
俺に出来る事はナイフに通すように、対象を握り流し込む事しか
出来ない。
﹁やるしかないか⋮⋮﹂
霊気の循環は半時計回り、左から入り右から出やすい。俺は看護
師の左手を握り、その細い手にそっと霊気を流し込んだ。
﹁んっ! ぐっ!﹂
瞬く間に表情が険しくなり、苦悶の表情を浮かべる看護師。体を
しきりに跳ねさせ、激しい拒絶反応を起こしている。
﹁カオルの霊気が﹃痛い﹄ようじゃの﹂
カナタが俺の肩へ降り、看護師の様子を見て苦笑した。
相変わらず治癒に向かない霊気だと、そう言いたげなカナタの笑
いだった。
1105
﹁うるせぇよ。命が助かるだけでもめっけもんだ。良薬口に苦しだ
よ﹂
そう言いながらも、他に倒れている人がいないか、辺りを見回し
た。
まだ見ぬ先の廊下と、割れたガラス越しの病室を覗き込んだ。
廊下にはこの看護師以外の人影は見当たらず、病室内も身悶える
患者がいたが、この看護師ほどの状態ではない。
廊下と病室を隔離していたドアが、瘴気を遮断して命拾いをして
いたのだろうか。
﹁元を根絶しないと⋮⋮。次が来たら危ない﹂
ふうひょうか
病室と廊下を隔離するドアだが、今度はまず役に立たない。
瘴気をぶっ飛ばすのに、風飄花を使ったのが仇となったか。
けれど使っていなければ、この看護師はもっと酷い状態に陥って
いたろう。
﹁うぅ⋮⋮。ごほっ﹂
抱きかかえた俺の手に、派手に胃液をぶち撒けた看護師が、うっ
すらと目を開け意識を取り戻した。
俺の顔を見上げて、戸惑いの表情を浮かべている。
頬を汚した吐瀉物を、手でそっと拭って綺麗にして、まだ自分の
置かれた状況を理解しえない看護師に声を掛けた。
﹁目が覚めたか? 苦しいだろうが⋮⋮、患者がお前を待っている。
その状態で出来る事は少ないが、声をかけて安心させてやれ﹂
1106
生気を失いつつある力ない瞳は、﹃患者﹄の一言で焦点を合わせ、
力を取り戻した様に見えた。
さすが人の命を預かる職だけあって、その責任感と使命感は尊敬
に値する。
﹁とりあえず、窓を開けて患者に声を掛け安心させろ。そして4階
には絶対来るな。分かったか?﹂
俺の問い掛けにコクリと頷いた看護師は、膝を震わせ立ち上がっ
た。
まだ言葉を発する事も出来ない様子だが、凄惨な状態になった病
室へ向かい、胸を張って扉を開いた。
俺は看護師に背を向け、四階へと走り出した。
廊下と階段を隔離する観音開きの防火扉へ蹴りを入れ、防火扉の
ロックを解除させた。
ゆっくりと左右から閉じる防火扉をすり抜け、四階へと階段を駆
け上がった。
四階の防火扉も同様に、蹴りをくれてロックを解除し、廊下へと
躍り出た。
﹁防火扉で多少は瘴気を防げるだろう﹂
完全に密閉出来る訳ではない防火扉が、現状どれだけの役に立つ
か分からない、けれど防火扉は毒ガスの蔓延や煙突効果の抑制のた
めに、高い気密性を持っている筈だ。
割れた天井照明の破片を踏み、手探りで左右の扉を開き、その病
室内に人の気配が無い事を確認した。
正直カオスになっているかと思っていただけに、ホッと胸を撫で
下ろした。
1107
﹁看護師達が逃がしたか? ⋮⋮あるいは﹂
まるで人影の見えない階に、一歩一歩と歩を進める。
中之島刑事が言っていた﹃420号室﹄、この廊下の最果ての場
所にあるのだろう。
その号室⋮⋮というより、瘴気の濃い方向へ歩けば、自然と42
0号にたどり着くはず。
﹁カオル、誰か倒れておるぞ﹂
今度は白衣の天使じゃない。グレーのスーツ姿の女性が一人廊下
の中央を這うように倒れていた。
俺は絶望的な予感を胸に、忍び足から駆け足へと自然に脚を踏み
込んでいた。
そしてうつ伏せて倒れていた女性を抱え込み、その顔色を確認し
左手の脈を探った。
﹁くそ! 脈無ぇぞ﹂
耳を口元へ近づけ、呼吸音を探り、左手で胸元を押さえ鼓動を確
認した。
﹁呼吸も心臓も止まってる﹂
緊急時に﹁胸が﹂なんてつまらん事で時間は取ってられない。
俺はブラウスのボタンを引きちぎり、スーツとブラウスを両手で
肌蹴けさせた。
ベージュのブラジャーを強引に首まで引き上げて、気道を開かせ
息を吹き込み、心臓を両手で強く押した。
分速百回のペースで数十回押す、そして人工呼吸を数回、それを
1108
繰り返す⋮⋮だよな。
俺は学校の授業、保健で習った不確かな記憶を探った。
﹁トウカ! ナイフの治癒はこういう場合効くのか?﹂
痛みを感じて傷を治す。意識が無くても痛みは感じるが、心臓停
止状態だと危うい。
刺すだけで回復しないのなら、体を傷つけて傷だけを負わせてし
まう恐れがある。
﹁カオルの思うておる通り。恐らく効かんであろ﹂
力なく首を振るトウカは、扇を振るい女性の瘴気を祓うので手一
杯の様子だ。
ちくしょう。ドラマじゃここらで気が付くのに⋮⋮、現実はドラ
マの様にはいかないのか。
いくら押してもピクリともしない心臓に、絶望感を感じていた。
病院に任せて正当な治療を受けるのが最良。しかし看護師もあの
有様で、医師も同等に使えない状況だ。
心停止したら数分で生存率は5割を切る。いつ心停止したか分か
らないこの状況で、満足に動けない医師にバトンタッチなんて、悠
長な事はやってられない。
﹃ギィィ⋮⋮﹄
絶望感に打ちひしがれていた時、階段の方向で防火扉を押し開く
音が聞こえた。
後追いの静音が追いついたのか。
⋮⋮そうか静音か。このままじゃ100%助からない。ここは静
音に託してみるか。
1109
﹁静音!﹂
﹁はひっ!﹂
俺の叫び声に驚いたのか、情けない返事を返してくる静音。
その彼女に一分一秒を争う重大任務を叫んだ。
﹁心停止一名。カウンターショック用意。ダッシュで走れ!﹂
俺の意図する事を理解したのか、薄暗い廊下が紫電の光が照らし
出された。返事も無く駆け寄ってくる静音の足音にあわせ、ナイフ
でブラジャーを両断し、胸元を全て曝け出した。
ほぼ同時に紫電の手を携えた静音が滑り込み、心臓の左横へ手を
置き、﹃南無⋮⋮﹄とつぶやきながら、右肺付近に手を置いた。
スパーク音と肉の焦げる匂い、同時に女性の体は、両手足を先ま
で伸ばして跳ね上がった。
全身の筋肉を収縮させ、弛緩させていくその姿は、まるすぐに動
き出しそうに見えた。
けれどそれは錯覚に過ぎない。自発的に鼓動を開始し、自立呼吸
を復帰させないと意味は無い事は分かっている。
俺は胸に手を当てて鼓動を探った。
冷たくなっていく少し汗ばんだ体が、死の感触を強く感じさせる。
﹁静音、もう一回やってダメなら⋮⋮﹂
俺は乾いた喉から声を絞り出した。
静音も苦悶の表情を浮かべ、手に霊力を籠めた。
﹁行きます!﹂
1110
掛け声と共に俺は身を引き、静音は祈りを込めるように胸に手を
当てた。
再び肉の焼ける匂いとスパーク音が響き、静音は胸に顔を埋める
様に耳を当てた。
土気色になった肌が、ほんのりと赤みを帯びたように見えた。
静音は何も言わず、すぐさま首の後ろへ手を置き、人工呼吸を始
めた。
一回、二回と胸の上下を確認しながらの懸命の表情に、カウンタ
ーショックの成功を確信させた。
﹁もう少しで自発呼吸しそうな感じです。ここは私が﹂
静音は見つめる先は俺ではなかった。振り返る先にある病室。4
20号室の病室だった。
﹁静音は綾音を待ってここでバックアップ。俺の仲間がまもなく到
着する。それまで踏み込むな﹂
俺でさえ二の足を踏んでしまいそうな気配、静音と同時に踏み込
んでも俺はフォローをする余裕は無い。
俺が時間を稼いで、静音と綾音でバックアップさせるのが最良だ
し、それまでに乃江さん達が到着してくれれば、俺がダメでも⋮⋮
何とかなる。
﹁仲間? カオルさんの?﹂
まだ見ぬ俺の仲間に頭を巡らせる静音。静音に一発で理解出来る
良い言葉を思いついた。
1111
﹁最高に頼りになる人達だよ。一人は﹃バーサーカー﹄の妹だ。そ
っくりだから顔で分かるよ﹂
﹁ま⋮⋮、真倉綾乃の妹!?﹂
病院に向かう前にメールしておいた。あの人なら美咲さんをタン
デムシートに乗せて、カッ飛んで来てくれる筈だ。
俺のSDRで30分の距離だ。もしかするとアプリリアなら、タ
ンデム走行でも俺より早く到着出来るかもしれない。
﹁という訳で、この人を頼む﹂
まだ介抱に手を取られている静音を残し、病室へと向かった。
扉越しでもその存在感をありありと感じる病室。汗でぬるついた
手をジーンズで拭き取り、勢いに任せて扉を開けた。
開けた瞬間に⋮⋮と、片手ナイフで身構えたが、病室内は静かそ
のものだった。月明かりでうっすらと映し出されたのは、ベッドに
身を起こした少女の影だけ。
俺は外へ瘴気が漏れるのを防ぐ為、後ろ手で扉をゆっくりと閉じ
た。
少女の影は俺の存在など気にした様子も無く、ぼんやりと輝く夜
空の月を眺めて身じろぎ一つしない。
少女の影をした何か別の物かと思えだした時、ユラリと影が揺れ
て声を発した。
﹁だぁれ?﹂
その場に似つかわしくない澄んだ子供の声だった。
意表を付かれたその声、そして誰と言われて返答に窮する。この
場合名前を言っても意味は無いだろう⋮⋮。
1112
﹁通りすがりの正義の味方だ。犬神を退治しに来た﹂
月下の影がふらりと揺らめき、可聴域ギリギリの小声で﹃いぬか
み﹄と何度も呟きだした。
瘴気が膨らんでは、消え、消えてはまた膨らむ。
﹁おにいちゃん、おもしろい。シロがおにいちゃんをこわがってる﹂
クスクスと笑いこちらに白い歯を見せた。
怖がっている? どう考えても力量的に俺が勝ってるとは到底思
えないのだが。
それに犬神を﹃シロ﹄だなんて、笑えないジョークだ。
﹁俺は犬神が怖いよ。そんな腰抜けの俺に、どうしてシロは怖がる
んだ?﹂
こうやって会話で均衡を保ってる間は、瘴気の噴出が少ない。
咄嗟に感じた直感だけを頼りに、もう少しこの会話を続けてみる
事にした。
みそぎはらいことば
﹁おにいちゃんはね、すごくよわい。だけどね、てのおまもりがキ
ライなんだって﹂
俺は両手を見つめて、その意味を探った。
手にあるのは山科さんがくれた呪いのアイテム。禊祓詞の書かれ
た皮のブレスレットだった。
まさかそう言うご利益があるとは⋮⋮、あの山科さんの事だ、き
っと内緒にしていたに違いない。
1113
﹁へぇ。そうなのか⋮⋮。仲間がくれたプレゼントなんだ。そうい
うご利益があるとは知らなかった﹂
ゆらりと首を傾げるような素振りを見せた影。﹃なかま﹄﹃ぷれ
ぜんと﹄と数回繰り返した。
﹁なかまって何? ぷれぜんとって何?﹂
なんだ? どう言う意味でオウム返しをするのだ?
小学六年生で仲間とプレゼントを聞き返す理由⋮⋮。
﹁仲間って言うのは、一緒に同じ事をする人の事だ。親しい友達だ
から俺の為に、ご利益のある物をくれたんだよ﹂
再び首をかしげた影は、今度は友達について何度も何度も繰り返
した。
﹁ともだち⋮⋮しってる。わたしにはともだちいないけど⋮⋮。本
でよんだことがある﹂
⋮⋮その言葉を聞き、俺の中で最悪の予想が思い浮かんだ。
だが今までの矛盾点がそれでクリアになる。そう思ってしまうと
それしか無いのではと思えるほどに。
﹁茜ちゃんは、学校に通えなかったの?﹂
俺の問い掛けに、身を硬くして言葉を失った茜ちゃん。
オウム返しも、単純な問い掛けもしなくなった。
少し頭を整理したい⋮⋮。こういう時は乃江さん方式がしっくり
来るか。
1114
・園田茜は犬神憑き。
・園田茜の心理状態で瘴気が変化する。
・上記二点の理由で、学校に通っていない。単純な国語の単語を
聞き返したと言う事は、義務教育すら受けさせてもらっていない可
能性がある。
・予想の範疇だが、家族全員に犬神は憑いていない。家族全員が
家に篭もっては、生活が維持する事が出来ないからだ。
ここで疑問に感じるのは、園田茜を憑き物落としさせなかったか
⋮⋮と言う事だ。
相応の法力を持った僧なりで、お祓いをする事は可能だったはず
だ。
犬神について綾音は言っていなかったか?﹃子へ孫へと粛々と受
け継がれ、家を繁栄させると聞く﹄と⋮⋮。
そこで俺の最悪のシナリオは。
・園田正雄は、家の繁栄の為に園田茜を犬神の入れ物にし、家に
監禁した⋮⋮と言う事だ。
﹁︱︱︱﹂
俺の思考が完全に組み立てられる前に、茜ちゃんからの声で中断
を余儀なくされた。
﹁おにいちゃん、だまりこくって。ねちゃったの?﹂
こんな極限状態で寝れる奴は、頭上の神様くらいだろう。
筋肉を痛いぐらいに身を固めてるんだ⋮⋮、冗談はよしてくれ。
1115
﹁いや? 今晩なに食ったか思い出してた所だ﹂
園田茜を家に住まわせれば、家はその力で繁栄する。
恐らくは社長職に付いているのも、そのご利益の賜物か⋮⋮。
これじゃ、まるで座敷童じゃないか⋮⋮。
﹁ごはん⋮⋮なにをたべたの?﹂
気がかりなのは、なぜ園田茜が凶行に走ったか。その心理と背景
が知りたい。
園田茜はまさしく法で裁けない子女にあたる。シロかクロかなん
て無粋な選別は出来ない。例えるなら﹃何も無い﹄のが正解だから。
﹁ん、赤飯と煮魚、小鉢が⋮⋮、あとつみれ汁か﹂
凶行に走ったキッカケ、そのキッカケを制御出来るのなら、社会
に復帰も見込めるだろう。
それはある程度の礎の元に成り立った論理だ。﹃なにもない﹄と
予想した茜には、それを定理つける根底が無い。
﹁茜の親は、犬神についてどう思ってた?﹂
俺はあえて茜目線の返答が来るように仕向けてみた。
どう言っていた? ではなく どう思っていたか? と言う事だ。
茜に親の気持ちを汲み取る事が出来るのか、出来たとしてどう思
っていたと﹃自分﹄で理解してるかを確認したかった。
その返答に沈黙を返す茜ちゃん。だが無視する訳でも答えたくな
い訳でもなさそうだ。
必死で答えを探そうとしているのが、雰囲気で伝わってくる。
1116
﹁ゆっくりで良いから考えてみて⋮⋮﹂
長い時間の沈黙が続いたが、それは俺にとってありがたい時間か
も知れない。
手探りの問答を続けていたが、それなりの成果はあった。今はそ
れを纏め上げたい。
・園田茜は好奇心が旺盛であると言う事。人の行動や会話を受身
じゃなく能動的に行っている。
これは重要なキーとなりうる。積極的に人と接する事が出来るの
なら、自立支援を受けて更正する事が可能だから。
だが、一つ俺の中に残っているピース、﹃なぜ殺したか﹄﹃なぜ
死のうとしたか﹄についてだ。
・両親と息子、祖母を殺害している。
・同様に自傷して死を選ぼうとした。
この二点を理解したい。視点を変えれば善にも悪にも変わる、⋮
⋮いや変えれるポイントだから。
あと一つ⋮⋮忘れてはいけない点が。
・園田茜と犬神⋮⋮二つの個性が一つの体に共有していると言う
事だ。一般的な憑き物は二重人格の様に入れ替わる。なにかのキッ
カケで入れ替わりは発生するのかも知れないが、今現在この子はそ
うじゃない。
俺は呼吸を整えて、リラックスして脚の位置を整えた。
前にも、右にも、左にも動きやすいニュートラルな立ち方。腰を
ほんの僅か落として重心を下げ、近く起こりうる行動に備えた。
1117
目の前の影が俺を見つめ、微妙に揺れた。
﹁お父さんとおかあさん、昔は優しかった。けど家に訪ねてきたお
友達の人に﹃うちは息子一人だから﹄と言って笑っていたの。それ
で私をどう思っているかわかっちゃった⋮⋮﹂
みそぎはらいことば
︱︱︱最悪のシナリオに突入したか。どこかの学校に寄付でもし
て、子供の学歴を買ったか⋮⋮くそオヤジ。
犬神と同化している茜ちゃんは、俺の強さや禊祓詞の書かれた皮
のブレスレットを即座に察知した。
そんな超感覚を持ちえる子供に、嘘は通用しない。
この子を絶望に追い込んだのは家族だ。
俺は口中の唾を飲み、喉を潤して核心に迫った。
﹁茜ちゃんは、犬神をどうしたい?﹂
二つの意識があるのなら、それを分離して考えさせる事。
唯一の解決策はこの一手しか思い浮かばない。
茜ちゃんは考えこみ、身を縮めるように膝を抱きかかえた。その
背後に膨らんでいく瘴気の塊。
﹁おにいちゃんなら出来るかも⋮⋮、私を殺してくれないかな?﹂
茜ちゃんに負の意識が高まり、それに影響されるように犬神の瘴
気が形を成していく。
暗がりでもわかる凶悪な顔、肉を食いちぎる尖った歯を見せつけ、
俺を威圧している瘴気。犬なのかイタチなのか判別のつきにくい、
そんな猛獣の巨大な顔だけが空に浮かんでこちらを見下ろしている。
﹁俺には犬神を殺せる力がある。けれど茜ちゃんには未来がある。
1118
この先に幸せになれる可能性がある。その為には犬神と決別しなく
てはいけないよ﹂
言葉には﹃力﹄がある。美咲さんがそう言っていた。
俺は自分の力をさらに上げる呪文と園田茜と犬神を分離する呪文
を口にした。
それがどう言う結果に繋がるのか、体が理解している。
﹁わたしにミライなんてあるの? 幸せになれるの?﹂
揺れる茜ちゃんの声が響き、犬神の恫喝する唸り声が窓ガラスを
揺らした。
そして⋮⋮
大きな泣き声と共に、茜ちゃんが心の中を曝け出した。
﹁わたし⋮⋮幸せになりたい!!﹂
その叫び声と同時に、園田茜から開放された犬神が、自身の思考
で行動を始めた。
1119
﹃Happy Birthday 07﹄
目の前で解き放たれた犬神は、思考の切り替えをも許さぬ速さで
突進して来た。
ナイフを持つ手で構えを固める事も出来ず、俺は無防備な体勢で
犬神の前に身を晒した。
一拍遅く目の前にナイフを突き出した時には、既に頭上近くまで
ふうひょうか
牙を落とされ、下顎は俺の胸元に到達しようとしていた。
﹁風飄花!﹂
トウカが俺の目の前に飛び、優雅に舞い扇を振るった。
扇を一振りする度に金気に満ちた桃の花を散らせ、犬神を捕縛す
るように障壁を構築した。
﹁⋮⋮トウカ!﹂
ナイフを構えた手に着地し、大口を開けた犬神を間近に見て、獣
の吐息に眉を顰めるトウカ。
振り返り俺に向かって言い放った。
﹁呪縛⋮⋮。カオルは既に縛られておった。蛇に睨まれたネズミが、
身を硬くして﹃呑まれやすい﹄体勢になってしまう様に⋮⋮﹂
体のキレが悪かったのは、そう言う事か⋮⋮。
長考へのスイッチが入らず、木偶の様に立ち尽くすしか出来なか
った。
これが格上との戦いか⋮⋮、あっけなく一撃で終わっちまう所だ
った。
1120
﹁なんにしてもナイスフォロー、この対価はケーキ食い放題で﹂
トウカの支援は常に対価を求める。トウカの能力が対価に縛られ
ているのかも知れない、それ故に無償で何かをする事はない。
戦場の傭兵のようだが、その能力と信頼性は他に得難い物だと思
える。
﹁約束したぞ。けどそんな余裕で良いのか? 障壁は数秒しか保た
ん﹂
その言葉と同時に火花を散らし消えていく障壁。犬神は当初の勢
いのまま、障壁を突き破って突進してきた。
即座に﹃食う﹄選択肢を捨てたのか、口を閉じ俺の体に体当たり
し、そのまま病室のドアを突き破った。
﹁言うの遅っ⋮⋮﹂
それでもギリギリのタイミングで、両手でガードする事が出来た
のは有り難かった。
ジョージ・フォアマンばりのクロスガードってのが微妙な所だが、
勢いと質量が違いすぎて受けきれない。
足止めをする事も出来ずに、廊下を挟んだ向かいの病室へ突っ込
んだ。
二枚の扉にしたたかと背を打ちつけ、肺に蓄えた空気は全て吐き
出された。
﹁カオル、このままだと窓の外に投げ出されるぞ﹂
カナタの声、心の響きが脳裏によぎった。
1121
流石に受身なしで4階から落ちれば、戦線離脱を余儀無くされる。
そして身体はただじゃ済まされない。
俺がゲームオーバーになれば、次に静音や綾音が殺られる。そし
て再び茜に取り憑き災いを成す。
﹁⋮⋮そんな事、やらせるか﹂
ガードしていた両手に力を籠め、ガードを解除すると共に両手で
十字に斬った。
鼻っ面を斬り付けられた犬神は、突進を止め仰け反って吼えた。
勢いを殺せぬまま放り出された俺は、窓のサッシに背中を打ち付け
病室に留まった。
三度打ち付けた背中に、感覚と言うモノが残っていたら、悶絶し
て動けなくなっていただろう。
しかし鈍痛にしか感じず、目の前の犬神にナイフと守り刀を向け、
敵を見据えることが出来た。
﹁脳内麻薬って奴か?﹂
傷みと恐怖でソレが大量に分泌されているのが分かる。
鎮痛効果をもたらし命拾いをしたが、逆に背中がどうなっている
のか察する事が難しい。
身竦められた副作用で、全身に防衛本能が働きまくってる。
見据える先の犬神は常に学習している様子。﹃突進して食う﹄の
を止め、斬り付けられ安直に﹃突進する﹄のも止めた。
距離を取り、隙をうかがう様に動き回り、俺の集中力が切れるの
を待つ戦法に切り替えた様に見受けられる。
﹁割と賢いのな⋮⋮犬神って奴は﹂
1122
獲物を狙う肉食動物の動きだった。常に俺の目を見て、手先を含
めて射程距離を探っている。
ほんの少しでも隙を見せたら殺られる⋮⋮、そんな殺気を身に纏
っている。
俺はそんな中で、乱された呼吸を整えるのに努めた。心を乱され
るのは相手の戦法だ、ある程度は仕方ないと諦めがつく。
けれど呼吸は俺を突き動かすのに必要なエネルギーだ。補給はし
っかりさせて貰う。
﹁力量が不足しているなら、戦い方を変えたら良い﹂
何の為にバックアップ系の魔法組に弟子入りしたのか。そう言う
考え方を学ぶ為だった筈。絶対不利を有利に変える思考が必要なの
だ。
廊下に静音が居る。ぶっ飛ばされている間に一瞬見えたが、医師
が一人心肺停止の女性を看ていた。
おそらく俺と犬神を見て、医師と患者を安全圏内に撤退させる筈
だ。
エレベーターまで移動して下へ。恐らく静音もその位置に居るは
ず。
綾音もそろそろ三階付近まで上がって来てる頃だろうし、救援の
乃江さんらも到着間近だと思う。
静音らをバックアップで使うには、病室も廊下も狭すぎる。
﹁戦術⋮⋮決定﹂
まずは犬神を散歩に連れ出さないといけない。
程よく距離を取り、元気な愛犬と追いかけっこと洒落込むか。
俺は無防備に犬神に近寄り、噛み付きやすい位置に左手を差し出
した。
1123
案の定犬神は、供物である左手に飛び掛り食い付こうと大口を開
ふうひょうか
けた。
﹁風飄花﹂
念入りに霊気を通したナイフから、堅固な障壁を口に展開し、オ
マケで旋風を口の中に発生させた。
口を閉じれずに、もがき苦しむ犬神を尻目に、病室から廊下へ飛
び出した。
ふうひょうか
﹁トウカ。もう一度頼む﹂
﹁風飄花﹂
阿吽の呼吸で、トウカは病室の入り口に障壁を構築した。
これで数秒時間が稼げる。
﹁静音! 屋上!﹂
﹁はいっ!﹂
その返事を待たずに駆け出した俺は、廊下の先にある階段を目指
した。
先行して階段に向かった静音が、屋上のルートと扉を開け、俺が
引き付けた犬神を引っ張り出す作戦。
そこで前衛の俺と、後衛の静音の二人で力量差を埋める。そこで
拮抗しても、綾音が来ればパワーバランスが崩れ、犬神を押し込め
る事が出来る。
ふうひょうか
走り出した俺の背後で、轟音と共に病室の壁が揺れた。
一枚目の風飄花を無効化して、二枚目の障壁を破ろうとしている
1124
のか。
ふうひょうか
俺の風飄花は、一撃だけなら綾乃さんの拳を止めれるんだぞ?、
早すぎやしないか?
︱︱技の力不足を嘆いても仕方ない。縮まった時間は脚で稼ぐし
かないと、地を蹴る脚に力を籠めた。
階段に差し掛かり、駆け上がろうとする間際、静音の叫び声が響
いた。
﹁カオルさん。来ちゃ駄目!﹂
ジリジリと階段を後ろ足に下がる静音。構える木刀の先に瘴気の
塊が見え、犬神の気配がそこにあった⋮⋮。
明らかに先ほどの奴より希薄な気配ではあるが、それでも俺達を
圧倒するには十分な瘴気の塊だった。
犬神の野郎、分離しやがったのか⋮⋮、病室の窓から先回りしや
がったな⋮⋮。
廊下の先で聞こえる破砕音、もう一方の本体が解き放たれた音が
響き渡った。
﹁やべぇ⋮⋮、挟み撃ちになる﹂
奴が来るまでの数秒の内に、こいつをぶった斬るしかない。
一足飛びで階段を駆け上がり、守り刀に霊力を注ぎ込んだ。
﹁カナタ!﹂
﹁承知﹂
カナタが光の粒に変わり、守り刀の刀身に力を籠める。鋼の刀身
に光が集まり、2尺の剣を構成した。
1125
前に構える静音の脇から剣を突き出し、犬神の分体を一呼吸で三
度突き刺した。
﹁嘘⋮⋮だろ?﹂
犬神は勢い余って突き抜いた壁に串刺しになりながら、もがき苦
しみながらも俺に近づき、大口を開いて食らい付こうとしていた。
希薄になりつつある犬神を左手のナイフで横薙ぎに斬り、その分
体に止めを刺した。
俺が驚愕させられたのは、その往生際の悪さじゃない。退路であ
る屋上からもう一体、犬神の分体が睨みを効かせていた事だった。
﹁グルル⋮⋮﹂
最悪な事に背後に聞こえた唸り声が、敵の挟撃に嵌った証拠。背
後の敵に背を向ける事も出来なくなった。
俺と静音は階段の壁に背を付いて、上の敵と下の本体に意識を向
けた。ほんの少し拮抗した状態になったが、それは敵の間であり、
俺達の間ではなかった。
恐らく敵は同時攻撃か、上の奴が先手で本体が遅れて止めを刺し
に来るか。
かえ
学習能力に長けた犬神の事だ、後者の戦術で万全を期すに違いな
い。
ここは優秀な傭兵の働きに期待するしかないか。
﹁トウカ、背後を頼む﹂
ふうひょうか
その言葉を残して、上の分体に踏み込み、斬り下ろし、刀を反し
てて斬り上げた。
当然襲い掛かって来た背後の本体に、トウカが三度目の風飄花を
1126
ふうひょうか
唱えようとした。
﹁⋮⋮﹂
しかし風飄花が最後まで詠唱される事はなかった。
それもその筈⋮⋮、暗がりから伸びる、見惚れるほどの美脚が、
犬神を壁に押さえ付けていたからだ。
その見慣れた脚を見て、嬉しさのあまりその名を呼んだ。
﹁美咲さん!﹂
耐刃繊維の黒いニーソックスも、チタンで防護されている革靴も。
片足で立ち微動だにせぬバランス感覚も、その長い髪の毛も⋮⋮。
間違いなく全てが天野美咲だった。
﹁この子⋮⋮硬いですね。カオルさん無事でしたか?﹂
いつもと変わらぬ美咲さんの口調が心強い、けれど美咲さんに硬
いと言わしめる犬神も恐るべし。
霊気を籠めた美咲さんの蹴りを食らい、中和されずにいるのは、
その強さの証。
中和されずにいるだけでは無く、身を捩り暴れて呪縛から逃れよ
うとしている。
美咲さんは逃れ切られる前に、蹴る足を引いて一歩下がった。
壁に縫い付けられていた犬神は、呪縛の解けた瞬間に、美咲さん
に向かって口を開いた。
﹁美咲さん! 危ない!﹂
大口を開けて恫喝する犬神。その脅威に眉一つ動かさず、身構え
1127
る事もしない。ただ一点犬神を睨みつけているだけだった。
﹁乃江﹂
美咲さんの声が静かに響いた。
同時に美咲さんの影が揺れ、その影が光る拳で犬神を吹き飛ばし
た。
影から人へ姿を変えたその人影は、美咲さんの前に立ち、再び襲
い掛からんとする犬神に拳を連打した。
細身の体から繰り出されているとは思えない重い拳、突き出され
た拳を前に構え、腰を落として身構えている。
﹁乃江さん!﹂
拳の感触を確かめるように、一発一発犬神に打ち込む。
犬神はひび割れ崩れていく壁と拳の隙間で、再び動きを封じられ
ていた。
﹁お嬢様の言われる通り⋮⋮硬い﹂
一発で魔物を滅殺する、乃江さんの拳を数十発食らいながら、犬
神の存在は希薄にならない。
打つ手を休め、ほんの一瞬考えた乃江さんは、大振りのアッパー
カットで犬神を吹き飛ばした。
﹁お嬢様、屋上へ。ここでは手狭です﹂
乃江さんは美咲さんの手を取り、俺は静音と目を会わせ屋上へ駆
け上がった。
背後に追いすがろうとする犬神の気配は、すぐ後ろまで迫ってい
1128
ると感じるほどに大きく膨れ上がった。
﹁やべぇ、相当怒ってる﹂
巫蠱術で産まれた犬神に、感情が有るとするならば、間違いなく
怒っている。
さっきから俺に対し、相当の怒りの念を感じるのは、茜と犬神を
引き離したからか?
もしかして美咲さんや乃江さんの攻撃が効かないのも、そう言う
事と関係するのだろうか。
目の前の扉を開き屋上へと飛び出した俺は、後追いの乃江さんと
美咲さんの背後を守るべく振り返り、剣を構えた。
﹁静音、バックアップを頼む﹂
俺と同じく扉を見据えた静音は、飛び出してきた二人を確認し、
絶妙のタイミングで水の流弾を撃ち込んだ。
し
こつ
ごう
りん
うんよう
その攻撃で足の止まった犬神に、俺は蜻蛉の構えから神速の一撃
を振るった。
時を割りて、刻、分、秒、絲、忽、毫、釐とし、極まりて雲燿と
する、示現流の太刀の速さは稲妻の速さ。
その剣速を持って犬神の頭上から、一刀両断した。
刀に返る手応えも、両断された犬神の姿も、全てが終わりを告げ
ている。
けれど先ほどの分身でさえ、意地汚いまでに生き、俺を食おうと
した。頭の片隅で終わりではないと警鐘を告げた。
﹁まだだ﹂
武装解除しようとした静音を抱きかかえ、そのままの勢いで後ろ
1129
へ飛んだ。
犬神は割れた頭をものともせず、屋上に躍り出て一吼えした。先
ほど俺の立っていた場所に爪を落とし、地を蹴るように憤っている。
﹁乃江さん⋮⋮、弱点ってないのでしょうかね? 犬神⋮⋮﹂
決め手に欠き、攻めることも引き事も出来ない状況で、歩く演算
装置の乃江さんにお伺いを立ててみた。
乃江さんは、構えを崩さず、目を向ける事も無くつぶやいた。
﹁無い⋮⋮。弱点と言うなら本体。取り憑いた人間に本体は居るの
だから﹂
取り憑いた人間と言う事は茜ちゃん。茜ちゃんにまだ本体が居て、
目の前のは本体じゃない⋮⋮と?
﹁倒せない?﹂
俺の問い掛けに、軽く首を振った乃江さんは、厳しい表情を見せ、
言葉を搾り出した。
﹁目の前のソレは攻撃が効いている。ほんの少しだが気配が虚ろに
なった。けれど本体にコアが居る以上、負の感情を持てば力を持つ﹂
こいつの往生際の悪さの理由が分かった気がする。
未だ園田茜は負の感情を持ち続けていると言う事か⋮⋮。
犬神を止めるには園田茜を止めるしかない⋮⋮と言う事なのか。
﹁俺⋮⋮もう一度茜ちゃんと話をして来るよ。彼女は話せば分かっ
てくれる子だから⋮⋮﹂
1130
とは言え屋上の入り口を塞がれて、身動き取れない。
それに犬神は俺を主軸に怒りの念を燃やしている。俺が動けば戦
場を移動させ混乱させるだけ。
その思いを察してか、乃江さんが口を開いた。
﹁⋮⋮真琴が向かっている。下で刑事に話を聞いた時、自らその役
を買って出た。今頃病室に着いた頃じゃないか?﹂
真琴⋮⋮、確かに真琴は適任かも知れない、なぜなら共通の過去
を持っているから。
けれどそれは癒えかけた心の傷を、人に話して聞かせると言う事
だ。
俺の胸の奥がズキリと傷んだ⋮⋮。まるで真琴と心の傷を共有す
るかのように⋮⋮。
1131
﹃Happy Birthday 08﹄
割れたガラスを踏みしめ、病室の前に立った。
付き添ってくれた刑事さんに手で合図し、これ以上踏み込まない
ようにお願いした。
ノックをする扉の無い病室の前で、一歩病室に入り壁を二度叩い
た。
﹁だぁれ﹂
病室内は相部屋にも関わらず個室のようにベッドが一つ、そのベ
ッドで身を起こしていた月下の影が鈴のような声を鳴らした。
私は一礼をして病室に入り、ベッドサイドまで無言で歩いていっ
た。
ベッドサイドで、月の光に照らされた少女を見て、息を呑んだ。
真っ白な髪に病的なまでの白い肌、骨に少し肉を盛り付けたよう
な骨格、そして何より表情を持たない顔に圧倒されそうになる。
それでも言葉を搾り出して、努めて明るく挨拶をした。
﹁こんばんは、少しお話しして良いかな?﹂
園田茜は瞬きもせず私を見つめた。私を透かして何処か遠くを見
ているような視線。そして表情を一つも変えず、茜はコクリと頷い
た。
そして意外な事に彼女から言葉が発せられたのだ。
﹁セイギノミカタのお兄ちゃんの仲間?﹂
きっとカオル先生の事だ。カオル先生ならそういう事、言うかも
1132
しれないもの。
私は自信を持って頷いた。
﹁お兄ちゃんには、仲間が一杯⋮⋮﹂
視線は私を離れ、ゆっくりと顔の向きを変えた。そして漆黒の病
室の影を見つめて、茜はボソリと呟いた。
ううっ⋮⋮、手強い。それが園田茜に感じた第一印象だった。
会話を成立させるのは、かなり手こずりそうだ⋮⋮。
でもカオル先生の話をしてきたって事は、先生はこの子とおしゃ
べりしたって事だよね。
やっぱりカオル先生は凄いな⋮⋮。
﹁あのお兄ちゃんは素敵な人。みんなその人柄が好きなの。⋮⋮惚
れ込んでいるのね﹂
私の言葉に、園田茜がオウム返しの様に、復唱を始める。
いい人⋮⋮、好き⋮⋮、仲間⋮⋮。単語を咀嚼する様に何度も繰
り返した。
﹁あのお兄ちゃんは他の人とちょっと違う⋮⋮。呪われた血を受け
継いだ私に⋮⋮、幸せになれるって言ってくれた﹂
その時園田茜に、表情が産まれた。惚ける様な⋮⋮本当に幸せそ
うな表情を。
私はその表情を見て、少し胸が苦しくなった。ヤキモチとも違う
⋮⋮、そう⋮⋮言葉一つでこんな幸福感を持てる、彼女の純粋さに
嫉妬したのかもしれない。
﹁あなたの今の顔⋮⋮、鏡があったら見せてあげたい。物凄く幸せ
1133
そうな顔をしているよ﹂
ふと漏らした私の言葉に、園田茜は自分の手を顔に当てて撫ぜる。
ゆっくりと頬や目、眉を触り、最後に口を丹念に撫でた。
そして微笑を浮かべ呟いた。
﹁こんな顔が出来るなんて知らなかった﹂
この子の言葉は全てにおいて、私に響いてくる。
私が数年前の事件以後、笑えなくなった時期に思った事と、同じ
様な言葉を使う。
その時私は思ったのだ。﹃笑顔をどこかに置き忘れた﹄と。
﹁お姉ちゃんも少し変ね⋮⋮。私とお話ししたい人なんて、今まで
居なかったから⋮⋮﹂
やはりこの子は隔絶した環境で暮らしていたのだ。
言葉を咀嚼するのは、話し相手がいなかったから。第三者からの
会話に反応する訓練が殆ど出来ていない。
日に焼けない部屋、白い髪、そしてなにより手で触って表情が判
る事が、この子の置かれた環境を物語っている。
﹁そうね。私は少し人と違うから。あなたの話を聞いて、どうして
も話をしたくなった﹂
園田茜の視線がこちらへ戻ってきた。私を見つめて⋮⋮、なにか
違いを見つけようとしている。
しばらく視線を泳がせて、私に問いかけた。
﹁違いがわからない⋮⋮。何が違うの?﹂
1134
その視線は容姿の違いを探ろうとした、少し好奇心に満ちた表情
だった。
こういう表情も持ってるんだ⋮⋮。能面をつけたような、本当の
無表情ではないようだ。
﹁見た目じゃなくて、中身の事だよ。私もあなたと同じ罪を犯した
事があるから﹂
罪と言う言葉を聞き、園田茜の表情は一変した。口元をキュッと
結び、険しい表情を浮かべたのだ。
私はこの子を見て思った。この子は﹃やり直せる人種﹄だと。
落ちる所まで落ちた側の視点で見ると、この子はまだ﹃人間﹄で
あると言える。
どん底まで落ちて、いろんな種類の人と接した。それこそ、社会
に居て出会うことの無い種類の人にも。
その視点だから自信を持って言える。この子はまだやり直せる側
にいる。
﹁私は父を殺した罪を背負う人。一生その罪を背負って生きる人﹂
園田茜に戸惑いの表情が産まれた。恐らく対応できない種類の感
情を、言葉に出来ない状態だと思う。
言いたくても言えない。言う言葉を知らないといった、そんな戸
惑いに見えた。
﹁あなたもこれから家族を殺した罪を背負って、その罪を償って生
きねばなりません﹂
刑事さんに聞かされた園田家の惨事。この子の今の有り様を見れ
1135
ば、何故惨劇が起きたのか容易に察する事は出来る。
でもこの子は人であり続けるためには、心を逃避させてはいけな
い。
やった事、これからするべき事を明確に理解する事こそ、やり直
す上で必要な事なのだ。
﹁同じ罪を背負っていると言っても、あなたと私は対極に居て、似
て非なる存在。なぜなら私は父を愛していたから⋮⋮﹂
父を愛するが故に、手を掛けた自分が憎い。そして殺させた魂喰
いを仇と追いかけている。
私は父の死が憎しみを生んだ。園田茜は、まず心の葛藤があって、
それから死と言う方法を選んだのだ。
私と園田茜は対極にいる、けれど園田茜を見れば私が見え、私の
考える事と近しい事を園田茜も考える⋮⋮、そう思えてならなかっ
た。
それゆえに私はこの役を買って出たのだ。
﹁わ⋮⋮私は⋮⋮﹂
﹁私は? 園田茜は犬神憑き⋮⋮だから、人を殺めても良いと?﹂
精神的に逃避はさせない。逃げては一時の平穏しか生まないから。
﹁犬神の血を⋮⋮⋮⋮﹂
﹁あなたが引き継いだ犬神は、死ぬまで他の人には憑きません。そ
れは知っていたはずです﹂
園田茜の視線が揺れている。私にはその気持ちが痛いほどわかる。
1136
恐らく⋮⋮この子は一度生きるのを諦めたのだと思う。死んでし
まいたいと思った時に、家族に累が及ばないように心中したかった
のだと思う。
﹁あなたは犬神が嫌い?﹂
その問い掛けに、園田茜は少し考えて首を振った。
私は核心をつく⋮⋮一つの問いを織り交ぜた。
﹁もう一つ⋮⋮。あなたは自分が嫌い?﹂
園田茜は、考える事無く首を縦に振った。
⋮⋮嫌になるほど私と同じ思考をする。驚きを越えて、少し腹が
立ってくるほどだ。
大体の⋮⋮園田茜の骨子が見えてきた。少し考えを纏めてみたい。
先ほど乃江さんに犬神の事を聞いた。聞けば聞くほどに厄介な憑
き物だと思う。
犬神を祓う方法について問うた時、乃江さんは首を振り、巫蠱術
の⋮⋮遠い昔の大陸での逸話を話してくれた。
スウロウという清貧の男が妻と二人で暮らしていた。
ある朝戸を開け門の外へでた時、小さな包みに入った銀製の器を
拾った。
飾りも豪華で相当に価値のある物と言う事は、スウロウの目にも
すぐに分かった。
かいこ
スウロウは家に持ち帰り、妻に﹃これは天からの授かり物だ﹄と
言い喜んだそうだ。
だがその言葉を言うた時、金色に輝く蚕が足元から這い上がって
きた。
掃っても、遠くに捨てても、火中に投じても、気付くといつのま
1137
にか蚕は体を這い回っていると言う。
困り果てたスウロウは、村で一番の呪術師に相談した。
呪術師曰く、それは金蚕蠱と言い、災いと幸運をもたらす巫蠱術
だと言う。
うまく飼い慣らせば富を、飼い慣らせぬ場合には、腹中に入り臓
物を食うて、初めてその人から離れると言う。
縁を切る方法は、財を得た数倍の価値のある供物と一緒に、家か
ら送り返さねばならない。
まさしくスウロウが拾った銀の器は、その供物であったと気が付
いた。
スウロウが得たのは、優れた銀の器。細工も鑑みて宝と呼べる物
だった。スウロウには一生掛かってもその倍の財を成す事など出来
ない。
﹃財を成したとして、送り出しても人に憑く。もとより財を成す事
も出来ぬし、この蚕を放置も出来ぬな⋮⋮﹄
スウロウは害を成す蚕をあえて呑みこんだ。
呪術師も妻もスウロウの死を確信した。けれどスウロウは幾日経
っても死ぬことはなく、得た財で家も富み、妻と二人天寿をまっと
うしたと言う。
その逸話を聞かされた時は、首をかしげるしか出来なかった。
けれど今思い返したら、その話の意味が少し理解できた。
よこしま
スウロウは偶然に﹃蚕を飼い慣らす手法﹄を取ったのではない。
最初、邪な心を持って金蚕蠱と関わったので害を成した。
よこしま
逆に元の清貧なスウロウに戻った為に、金蚕蠱は害をなさなかっ
たのではないだろうか?
私達の能力も犬神も、邪な心で行使すれば、瘴気を帯びて人に災
いを成す。
1138
そう言った心を捨て去った時に、初めて光明が見えてくるのでは
ないだろうか⋮⋮と。
﹁そうね⋮⋮私も⋮⋮私が嫌いだった。父を殺し生き永らえた私が。
けれど⋮⋮今は違う﹂
園田茜は不思議そうな顔をして、私の顔を覗き込む。
よっぽど酷い顔をしているのだろう⋮⋮。手を触れなくても、自
分がどんな顔をしているのか分かるから。
﹁私は今、幸せです。友と呼べる仲間を見つけたから﹂
酷い顔をしていた私の顔が変化するのが分かる。
私もさっき見せた園田茜に負けないくらい、幸せな顔をしている
に違いない。
園田茜は食い入るように私の顔を見て、ボソリと呟いた。
﹁私もそんな顔⋮⋮出来るかな?﹂
きっと出来る。
そう言ってやりたい⋮⋮。けれど心を鬼にして言わねばならない。
﹁その為には自分の犯した罪を理解する事。そして心から償う事が
必要です。時と罰の重さは関係ありません。悔い改めてもう一度生
まれ変わらないと、前に進めない﹂
園田茜の目に、一粒の涙が零れ落ちた。
私に責められて泣いたのではない事は、涙の質で分かる。
もう一度だけ、人として踏みとどまれるか⋮⋮私は確かめた。
1139
﹁お父さん好きだった?﹂
園田茜は、涙を流しながらコクリと頷いた。
﹁家族みんなも?﹂
再び園田茜は、首を縦に二度振った。そして堰を切ったように大
粒の涙が溢れた。
私は涙する園田茜を抱きしめて、頭を撫でた。
﹁最後に⋮⋮、自分を嫌わないで? 貴方には未来があるから。好
きになれる自分を探せる時間は⋮⋮いくらでもあるから﹂
その言葉は園田茜へ、そして私へ伝えたかった一言だった。
園田茜の嗚咽なのか、私が発した嗚咽なのか分からない。
その涙が収まるまで、私と園田茜は抱き合い、生きている事を確
かめ合うように、指に⋮⋮手に⋮⋮力を籠めた。
﹁おねえちゃん⋮⋮名前教えてくれる?﹂
私の胸の中で、しゃくりを上げていた園田茜は、上目使いで私を
見つめた。
その白い髪を手で梳く様に、髪を撫でて穏やかな声で答えた。
﹁私は藤森真琴。みんなは真琴!って大きな声で呼ぶわ﹂
園田茜は、オウム返しではなく、小さな小さな声で真琴⋮⋮と呟
1140
いた。
とても恥ずかしそうに⋮⋮。
うはぁ、妹ってこんな感じなのかなぁ。無茶苦茶カワイイ。
由佳さんが私をこんな風に思っていてくれるのかなぁ⋮⋮、そう
だとすると凄く嬉しいっ!
﹁真琴おねえちゃん⋮⋮、私の話を聞いて?﹂
﹁ひゃ、ひゃい﹂
不謹慎な考えを巡らせていて、返事が少しおかしくなってしまっ
た。
私は抱きかかえるのを止めて、茜ちゃんと同じ高さの目線に合わ
せて話を聞いた。
﹁私は家でとても大切に育てられました⋮⋮、犬神憑きなのでお外
で遊ぶ事も、学校に行く事も出来ませんでした⋮⋮。でも家族がい
れば十分だと思っていました﹂
私は何も言わず、茜ちゃんに相槌を打つように、コクリと頷いた。
﹁お父さんもお母さんも⋮⋮みんな優しくしてくれた﹂
茜ちゃんに目に、再び涙が溜まっていく。
言葉を紡ぎたくても、言葉が続かない⋮⋮。けれど私はなんの苦
もなく、その泣き顔を見つめて、茜ちゃんの言葉を待った。
﹁けれど⋮⋮私は聞いてしまった。﹃この家に息子が一人﹄って言
葉を。私は⋮⋮優しくしてもらった分、余計にショックだった。私
の存在を否定された様に思えたの﹂
1141
園田茜としての⋮⋮心の吐露だった。
私も由佳さんやカオル先生に冷たくされたら、泣いてしまうかも
知れない。
恐らく茜ちゃんには、家族しかいなかったのだから、存在否定ど
ころか、立っている場所が崩れるほどにショックだったかもしれな
い。
﹁私は家族が見てくれないと、無いに等しい人間なのだと思った。
そんな事をずっと考えていたら、心の奥底で﹃もういいや﹄と思え
てきたの﹂
人は誰かに見られて育つ。まずは母の目に⋮⋮。そして家族。親
戚縁者や知人の人。
いろんな人に見られることによって、自己と他者の区別がついて
くる。触れ合うことによって色々と学んでいく。
良い事も悪い事も、快楽も苦痛も⋮⋮。
誰の目にも映らない人はどうなるのだろうか⋮⋮。残念ながら私
には想像出来ない。
﹁黒い犬神を身に纏って⋮⋮、突き動かされるように⋮⋮、気がつ
くと⋮⋮﹂
心を魅了されたのか⋮⋮。弱い心には魔が付くというけれど、そ
れも実体験で分かる。
私もカオル先生に出会わなかったら、こんなに強い気持ちでいら
れたか分からない。
﹁自分のやった事から目を逸らさないで⋮⋮。それでも強い気持ち
で乗り越えて、幸せを探して行けば良いよ﹂
1142
私はそうやって生きていく。強い恨みはなにも生まない事⋮⋮、
分かったから⋮⋮。私は魂喰いといつか出会うだろう。その時に恨
みを持って敵の前に居たくない。
私の前の茜ちゃんが強張った表情を浮かべた。私の肩を力強く掴
んで、涙目で叫んだ。
﹁真琴おねえちゃん! お願いがあるの!﹂
切羽詰ったその表情。その並々ならぬ表情と気迫に押され、私は
言葉を失った。
1143
﹃Happy Birthday 09﹄
夜の屋上を高速で動く影。人影と獣の影が重なり、弾き弾かれて
戦場を少しづつ移動している。
人影が斬り、拳を振るい、蹴りを見舞い、水の流弾を打ち込む。
だが大型の影は、その猛攻をものともせず、少しずつ前進している。
﹁乃江さん! 危ない﹂
最前衛での乃江さんが少し揺らめいた。
それと共に拳のラッシュにキレが無くなり、ほんの少しガードが
下がった。
その一瞬の変化を犬神は見逃さなかった。拳の猛威に下がりつつ
あった犬神は、乃江さんの喉下を狙い飛び掛ってきた。
俺は乃江さんの脇から剣を突き入れ、犬神との距離を稼いだ。そ
して踏み込んだ脚を前へ二歩進めて、乃江さんと体を入れ替え連撃
を見舞った。
斬る手応えも、感じるカナタの退魔の力も、いつも通りかそれ以
上のパワーを感じる。しかし犬神を祓う事が出来ない。
まるで壊れた水道を手で押さえているようだ。
﹁カオル⋮⋮、ありがと⋮⋮﹂
息絶え絶えの乃江さんの言葉を聞くのは初めてだ。
それほどに犬神の耐久力がすば抜けていると言う事だ。
ゲームで言うと、PTメンバーの最大スキルで攻撃して、一ター
ンを過ぎたときに敵に与えたダメージが、わずか一ドットだったよ
うなモノだ。
しかも犬神は時間と共に回復していっているように思える。
1144
四人の総力戦で削った効果は⋮⋮無いに等しい。
﹁ちょっと不味いですね⋮⋮﹂
俺は戦況を客観的に見た。園田茜への思いが無ければ、とっくの
昔に撤収を選択している。
俺はカナタを完全バージョンで剣を振るい、それに見合った効果
が出ない。
美咲さんはまだまだ行ける安定感はあるが決め手を欠き、最前衛
で戦い続けた乃江さんは、少し息が上がってきている。
後ろで控える静音も同様に、大型の魔法を撃ち込み続け、キレも
回復力も落ちてきている。
俺達は霊力量が残弾だが、その弾は残り少なくなってきていた。
弾が無ければ戦いは続けられない。
﹁終わりの無いマラソンを走らされているみたいだ。ペース配分が
無茶苦茶になっている﹂
俺の横で乃江さんが、珍しく弱音を吐いた。
即殲滅をモットーとした短距離選手型の乃江さんは、スプリンタ
ーの走り方で既に数キロ走っている感じだ⋮⋮疲弊してもおかしく
ない。
だがこのメンバーの大砲は間違いなく乃江さんだ。
乃江さんが戦線離脱したら、他のメンバーは間違いなく押されて
いく。
﹃カオル⋮⋮お前の⋮⋮﹄
剣に宿るカナタが、俺の心に話しかけてきた。
︱︱なるほどそう言う事か⋮⋮。四条さんと一緒に体育館に行っ
1145
た時の⋮⋮。
もし可能なら、一発逆転出来る可能性があるかもな。
それが俺の唯一の特技であり、使える能力だからな⋮⋮。
﹁美咲さん! 静音とペアで30秒稼げますか?﹂
予備動作にそれ位の時間がかかるはずだ。その間は戦力半減して
しまう。
けれど美咲さんならその時間を稼げると踏んだ。
﹁30秒と言わずに1分位なら!﹂
余裕の顔の美咲さんと、顔面蒼白で首を振る静音の対比。やはり
30秒が限界って所だろう。
俺は戸惑う乃江さんの手を引き、一旦後方に下がった。その動き
に合わせて、美咲さんと静音が素早く動いた。
向かい合った俺と乃江さん。俺は剣を屋上の地に突き刺し、乃江
さんの手を取った。
﹁乃江さん⋮⋮、時間がありません。⋮⋮許してください﹂
﹁カオル? なにを?﹂
素早く乃江さんのグローブを取り、手と手を合わせて指を絡め握
り締めた。熱を帯びた小さな手が、少し力を籠めて、俺の手を握り
返した。
手を胸の位置に持ち上げ、乃江さんとの距離を一歩縮め、息のか
かりそうな距離で優しく囁いた。
﹁乃江さん⋮⋮、心の準備は良いですか?﹂
1146
ちょっと背を押されるだけで、抱き合ってしまいそうな距離だっ
た。
乃江さんの顔が見る見るうちに赤面して、目に戸惑いの色が濃く
なっていく。
後ずさりする乃江さんを、追いかけるように一歩寄り、逃がさな
いように力を籠め強引に引き寄せた。
﹁あっ⋮⋮カオル⋮⋮嫌っ⋮⋮、ごめん⋮⋮うそ⋮⋮嫌じゃ⋮⋮﹂
フルフルと首を振って、俺を涙目で見上げる乃江さん。
困ったような眉と表情を見てしまったら、本当にその気になって
しまいそうになる。
でもね、ごめんなさい乃江さん、いつぞやの水着の仕返しです。
﹁痛いですよ?﹂
﹁へっ??﹂
きょとんとした乃江さんの表情が、一瞬のうちに苦悶の表情に変
わる。
俺は乃江さんに霊気を籠めたのだ。先ほどの看護師は四肢をバタ
つかせたが、さすがの乃江さんは脚を踏ん張り、歯を食い縛り苦痛
に耐えている。
つい最近俺は、バスケ部の四条柚名と学校の体育館を探索した。
その時彼女は素養が無いにも拘らず、俺に触れ霊力がアップした。
触れる事で霊を感じる事も出来なかった彼女が、﹃見鬼﹄の力を
持ったのだ。
素人の四条さんにそういった効果が出たと言う事は、退魔士に霊
気を籠めればどうなるのだろうか。その事件以後疑問に思っていた
1147
事なのだ。
先ほどのカナタの言葉は、﹃カオルの霊気を乃江に籠めよ。お前
の唯一の自慢は﹃電池能力﹄なのじゃろ?﹄だった。
ならば俺は電池に徹し、大砲を復活させる。あわよくば⋮⋮。
﹁全開で籠めるよ? 我慢してくださいね?﹂
今まではサワリ。乃江さんの霊脈を探る為の小手調べだ。
乃江さんの﹃道﹄は、俺が全開にしても破綻する事の無い、綺麗
な﹃道﹄だった。
霊気を最大限に放出し、それを受け入れる乃江さん。
俺の手を握る指に力が籠もり、爪が俺の手に食い込んでいく。
乃江さんの膝がガクガクと揺れ、崩れそうになる体を支え、心を
鬼にして霊力を注ぎ込んだ。
﹁乃江さん⋮⋮﹂
俺が乃江さんのグローブを手渡した時、地に突き刺さった剣が実
体を失い、元の守り刀の姿に戻った。そして音を立てて地に落ちた。
同時に膝から崩れ落ちたのは俺の体、そのまま前のめりに倒れて
しまいそうになった。
今出せる霊気全部を注いで、受け止められる乃江さんは⋮⋮やっ
ぱ凄い。
﹁カオル⋮⋮。今の私は心象風景の時とは比較にならん。犬神どこ
ろか、病院を一発で破壊出来そうな気がする⋮⋮﹂
自信に満ち溢れた顔をした乃江さん。口をキュっと閉じ、グロー
ブを装着した。
でも病院を壊したらダメです⋮⋮。
1148
乃江さんは不吉な例え話を訂正する事無く、地を蹴って劣勢の仲
間の元へ走り出した。
美咲さんが目端でそれを確認し、渾身の力で犬神を蹴り飛ばした。
乃江さんは、犬神の着地点に回り込み、腰を落として渾身の正拳
を犬神に打ち込んだ。
大気が震える様な打撃音が響き渡った。同時に俺とカナタの作戦
の成功を確信した。
一拍の間を置き、構造物の破壊される音が響き渡った。
吹き飛ばされた犬神が、エレベーターホールへの建物に突き刺さ
り、破壊と共にその存在を希薄にさせた。
﹁効いているな⋮⋮﹂
これほどに効果が現れると思っていなかった。
あわよくば⋮⋮くらいの予想であったが、最低限乃江さんに充電
出来れば、残弾としての損失は無いと思った程度の考えだったのだ。
霊気をセーブして、その最小限の霊気を最大限に行使してきた乃
江さんだ、本当のポテンシャルは、まだまだ上にあると予想してい
た。
他のメンバーにも通用するのだろうか⋮⋮、一度試してみたい気
がする。
﹁まだまだ!﹂
希薄になりつつある犬神に、拳を打ち込む。免震構造のせいか、
一発一発に対して、病院自体が揺れているのが分かる。
拳が触れる度に、犬神の瘴気が吹き飛び、何度目かの拳が打ち込
まれた時には、犬神の気配は霧散して消えた。
1149
﹁やった!﹂
夜風に吹かれ、存在の希薄になった犬神は、完全に消え失せた。
静音が木刀を取り落とし、そのまま崩れへたり込んだ。美咲さん
が構えを解き、ホッと安堵の吐息を吐き、手を膝に当て、肩を上下
させている。
俺は落ちたカナタを手に、鞘へと滑り込ませた。
乃江さんが突き出した拳を収め、振り返った⋮⋮その時。
﹃ガラン﹄
壊れたエレベーターホールの瓦礫が一つ転がり落ちた。その音が
俺達の耳に届いたと同時に、犬神が瓦礫の中から飛び出してきた。
意表を付かれた乃江さんが、振り返った時には、犬神が大口を開
けて乃江さんを飲み込もうとしていた。
俺達は攻撃を出す事も、防御で身を固める事も出来なかった。
全員が目の前の惨事を予想した時、夜空から天使の声が響き渡っ
た。
﹁Aigis!!﹂
赤と蒼の光が乃江さんの目の前に光り、犬神の攻撃を弾き返した。
犬神の周囲の瓦礫が崩れ、音を立てて砕けていく。床が僅かな亀
裂生じ、犬神が頭から床に伏せていく。
これは宮之阪さんの﹃イージスの盾﹄と山科さんの﹃グラビティ﹄
だ。
そう確信した時に、夜空から関西弁が響き渡った。
﹁災害ペア参上や。病院の患者は全員叩き起して来たからな∼。乃
1150
江∼、うちらを災害ペアとか言うて、治癒班に回すからピンチにな
んねん﹂
夜空に舞う魔法の箒﹃マニセンマキ﹄、その箒にまたがる二人の
姿が見えた。
二人乗りのアプリリアで、何故真琴が来れたのか⋮⋮。その謎が
今解けた。
﹁ユカ!﹂
身構えた乃江さんが叫んだ。マニセンマキから飛び降りた山科さ
んが、キョトンとした顔で乃江さんを見つめた。
﹁なんや?﹂
山科さんの声を聞き、乃江さんが聞こえないような声でボソリと。
﹁︱︱︱︱ありがと﹂
照れ臭そうな乃江さんの背中を見つめ、山科さんの顔が真っ赤に
染まっていく。
隣に降り立った宮之阪さんが苦笑して、山科さんの背中をポンと
叩いた。
﹁しかし⋮⋮犬神を倒すことは容易ではない⋮⋮﹂
そうだ⋮⋮、さっき犬神は完全に霧散させたはず、なのに復活し
てくるなんて⋮⋮。奴は不死身なのか?
乃江さんは、そんな俺の心を読んだようにボソリと呟いた。
1151
﹁一杯食わされた。トカゲの尻尾切りだよ﹂
そうか⋮⋮。犬神は瘴気を分散させて、二体以上に分離出来る。
さっき一発食らって吹っ飛んだ時に、影武者を置いて自分は瓦礫
の中に隠れていたのか。
やはり犬神⋮⋮狡猾と言うか、生き意地汚いと言うか⋮⋮ここま
で頭の回る奴だったとは。
こちらも戦力増強で一気に形勢逆転と言いたい所だが、広範囲型
の災害ペアは全開で戦えない。
山科さんのグラビティも犬神を押さえるのが精一杯。それ以上の
パワーを籠めると病院が崩れてしまう。
宮之阪さんのバックドラフトにしてもそうだ。本気なら犬神など
敵じゃないかもしれないが、病院を巻き込んで火災に発展する。
それくらいのパワーをぶつけないと、この犬神は倒せない。
﹁⋮⋮風弾も使えへんし、押さえつけるにも限界があるな。マリリ
ンはどや?﹂
﹁⋮⋮全滅させるくらいなら⋮⋮病院ごと⋮⋮焼く﹂
そして肝心のスーパー乃江さんも、あの状態は解除されてしまっ
たようだ。急速充電は時間との勝負か。
二人が増えて、休める時間が増えるが、状況は好転しているとは
言い難い。
乃江さんが一歩一歩と下がり、犬神との間合いを取っていく。
﹁俺も霊力尽きかけなんですよね⋮⋮﹂
俺達は決め手を欠き、無策のまま一歩一歩と後退を余儀なくされ
た。
1152
そんな時、再び瓦礫が音を立てて崩れ、園田茜を背負った真琴が
扉を蹴り開けた。
真琴はその場に膝を付き、脚のついた園田茜が腹部に手を当てな
がら、ヨロヨロと歩き出した。
﹁真琴! 茜ちゃん!﹂
犬神の注意がそちらに向かった。首を向け牙を向けたのは、真琴
ではなく茜ちゃんの方だった。
まさか⋮⋮自分の母体である茜ちゃんを攻撃するのか?
細い脚でゆっくりと歩く茜。
子供用のパジャマが大きく見える程に痩せた体⋮⋮、月夜の下で
もはっきり分かる白い髪と、強い意志を持った瞳が犬神を見据えて
いる。
茜は⋮⋮犬神と戦う気なのだ。その気を感じて犬神が防衛本能を
働かせている。
俺は無意識のうちにカナタを抜き、茜ちゃんを守るために飛び出
した。
だが時既に遅く、神速の勢いで犬神が茜ちゃんに飛び掛り、喉元
を食い千切ろうとしている。
茜ちゃんは顔色一つ変える事無く、立ち尽くしてその様子を見て
いた。
間近に迫る犬神を、悲しそうな瞳で見つめ、涙を零しながら叫ん
だ。
﹁シロ!﹂
短く叫んだ言葉、その号令と同時に茜の体を龍のような長い体が
包み込んだ。
真っ白な体と犬神に瓜二つの顔だった。
1153
茜を包み込んだ体が黒の犬神を弾き飛ばした。受身も取れず地に
打ち付けられた黒の犬神を、シロが首元に食らい付き、地面に押さ
え込んだ。
﹁なるほど⋮⋮シロだ﹂
園田茜が言っていた犬神﹃シロ﹄を見つめて苦笑がもれた。
俺が戦っていた犬神は分離した犬神か⋮⋮。あの時、園田茜が叫
んだ時に、瘴気の部分⋮⋮、黒い犬神が外に出たのか。
﹁シロ⋮⋮私の心が弱くて⋮⋮ごめんね。これからもっと強くなる
から⋮⋮許して⋮⋮﹂
その言葉に同調するように、シロの動きが激しさを増し、黒の犬
神の喉を食い千切り、その瘴気を食らった。
まるで野生の狼が獲物を食らうように⋮⋮。
喉、はらわたを食い、喉を鳴らすシロ。自然界の強者と弱者を、
俺達は見つめるしかなかった。
そしてあんなに手こずった黒の犬神は、シロの遠吠えと共に霧散
して消えた。
消えていく黒い犬神と、茜ちゃんの体へ戻って行くシロ。
茜ちゃんは膝を付いて大声で泣いた。
俺はその小さい体を抱きしめて、勇気づけるように背中を撫でた。
病院の一階。待合室の長椅子に背中を預ける様に深々と座った。
俺の隣に座り、真琴に持たれかかった状態で泣き疲れて眠ってし
1154
まった茜ちゃん。
疲れ果てた乃江さんは山科さんの体にもたれ掛り、目を閉じて静
かに回復を待っている。
美咲さんは相変わらずの表情でノホホンとして、宮之阪さんはマ
ニセンマキでガラスを掃除している。
静音と綾音は疲れ果て、フルラウンドを戦いきったボクサーの様
に、体を上下させて疲弊している。
﹁おい。静音は分かるが綾音がなんで疲れている?﹂
俺のツッコミに首を上げて眉を吊り上げるが、何も言わずにいる。
そんな綾音に代わり、山科さんがフォローをいれた。
﹁この子凄いで? 実は病院内の患者も相当ヤバかったんやけど、
私ら二人よりハイペースで治癒しとったからな。そりゃ疲れるやろ﹂
ふうん。実は見かけに寄らず治癒が得意。実は困った人を見てみ
ぬフリが出来ない。実は料理も上手い⋮⋮ときたか。
﹁綾音⋮⋮お前退魔士辞めて、看護師とか介護の仕事向いてそうだ
な。意外と﹂
﹁意外とが余計﹂
短い言葉で文句を言ってくる綾音。だが二の句が出ずに、背もた
れに背を預け脱力した。
相当疲れてるな⋮⋮、もういじるのやめて置こう⋮⋮後が怖い。
﹁皆さんお手数おかけいたしました。おかげで命拾いいたしました﹂
1155
静音がペコリと頭を下げ、全員の労をねぎらった。
そんな静音に対して美咲さんが明るく手を振った。
﹁いえいえ、我等退魔士ですから、有事の際にはちゃんと働きます
よ。あの犬神は大物ですから、協会とのやり取りは私共で執り行い
ますね。振込先はこちらへご連絡おねがいします﹂
そう言いながら名刺を差し出す美咲さん。美咲さんの名刺⋮⋮初
めてみたな。
まるでビジネスマンの様だ。いや⋮⋮少し目が$マークになって
いそうなサラリーマンだな。
そういやそうだな⋮⋮あの犬神はA以上の大物と言って過言では
ない。
ランクCの静音と綾音は討伐申請出来ても、金貰えないからなぁ。
そんな二人のやり取りの向こうで、中之島刑事が電話を終え、こ
ちらへ歩み寄ってきた。
﹁園田茜は転院する事になりそうだ。移送の手配が出来たから、連
れて行くよ﹂
眠る茜ちゃんを見つめる中之島刑事。その表情は相当複雑なもの
だ。
そんな表情を見て俺は不安を抱かずにはいれなかった。
﹁茜ちゃんは今後⋮⋮どうなるんでしょうか?﹂
その問い掛けに答えたのは、中之島刑事ではなく、茜ちゃんを抱
いた真琴だった。
﹁能力者が送られる自立支援施設で、能力を封じられて生活します。
1156
研究対象として利用されたり、私のように退魔士として使われるか
も知れませんね﹂
能力を封じるって、このブレスレットの強力な奴みたいなもんか?
研究対象⋮⋮か、俺の知らない世界がまだあるのだと実感させら
れる。
﹁でも茜ちゃんなら、大丈夫。多くの事を学んで更正出来る﹂
﹁うん⋮⋮、真琴お姉ちゃんと約束したからね﹂
真琴の胸の中で、茜ちゃんが言葉を紡ぐ。
薄っすらと目を開けた茜ちゃんは、ゆっくりと立ち上がり、名残
惜しそうに真琴の手を握っていた。
口を固く結びその手を離し、中之島刑事の側に歩を進めた。
﹁私は今日⋮⋮お兄ちゃんや真琴お姉ちゃんに出会えて、生まれ変
わった気分。新しい自分でがんばります﹂
ペコリと頭を下げて背を向けた茜ちゃん。
中之島刑事に付き添われて遠ざかる茜ちゃんに、俺は叫んだ。
﹁生まれ変わったんなら、今日が茜の誕生日だ。また会おうぜ! 茜!﹂
直立不動で立ち尽くした茜は、ペコリと頭を下げ再び歩みだした。
その力強い歩みを見て俺は、真琴と同じ様に、﹃茜は大丈夫だ﹄
と自信を持って言える。
そして何時か⋮⋮真琴と出会った時の様に、偶然の出会いをしそ
うな⋮⋮そんな気がしてならない。
1157
1158
﹃Happy Birthday 09﹄︵後書き︶
茂みの中から突き出た双眼鏡。
俺はカモフラージュで両手に持った枝で身を隠し、その隣で地面に
寝そべった真琴が唸る。
﹁むぅ⋮⋮あれはヤバイ﹂
﹁なにが? 虐められてるのか? そんな奴は正義の味方が成敗し
てくれる﹂
俺の問い掛けとセリフを完全に無視して、再び唸り声を上げた。
﹁相変わらずの白い肌。けれど病弱さは感じられず、目立つ白い髪
もこれはこれで⋮⋮。そして何より驚いたのは、痩せていない茜ち
ゃんは、ヤバイ位にカワイイっす﹂
﹁なに? 俺にも見せろ! コラ﹂
自立支援施設での面会を断られた俺達は、こうやってコッソリ覗き
込むしか出来なかった。
携えたケーキの箱を開けて、真琴は手掴みで口に入れる。
﹁そう言えば、自立プログラムが進むまで、面会出来ないの忘れて
いました。こんな事しなくても、もう少ししたら会えるんですけど
ね﹂
茂みで脚をバタつかせ、真琴が頬杖を付いて双眼鏡を手渡す。
どれどれ?
1159
﹁おおおっ 外人さんみたいな雰囲気じゃないか。 ちょっ そこ
の男、気安く話しかけるんじゃない。 こら! 手を握るな!﹂
﹁体育実習だもんね。隙があれば手くらい握るっしょ?﹂
もう一つ⋮⋮と、箱に手を伸ばした真琴の手をペチンと叩き、食い
入るように双眼鏡を覗き込んだ。
﹁なんか見違えるな⋮⋮、楽しそうじゃないか﹂
﹁ここの生活も悪くないですよ。先生良い人ばっかりだもん﹂
出身者の真琴が言うなら間違いないのだろう。
﹁元気な姿を見て、ちょっと安心したな﹂
眩しいくらいに輝いている園田茜は、この先どんな道を辿るのか分
からない。
けれどこうやって真っ直ぐ生きていこうとする彼女を影ながら応援
するのは、おせっかいなのだろうか?
1160
﹃美咲隊の慰安旅行 01﹄
もう少しで夏休みと、学生達がカウントダウンを始め浮き足立つ
⋮⋮そんなある日の事。
俺と真琴は美咲さんに呼び出されて、集合場所である茶室へ向か
っていた。
理由も告げられないのは慣れているが、伝言した後見せた美咲さ
んの微笑が気になっていた。
よからぬ事でない事を祈ろう。
﹁カオル先生⋮⋮なんでしょうね。また無茶な修行でもさせられる
のでしょうか⋮⋮﹂
隣に立つ真琴の表情は暗い。噂では前衛二人にビシビシしごかれ
て、少々気が滅入っているのだとか。
あの二人は、飴と鞭じゃなくて、﹃鞭と鞭ごく稀に飴﹄だからな
ぁ。
﹁まぁ、これ以上の苦役は想像つかんし、やばくなったら逃げよう﹂
﹁これ以上なら、逆さ釣りで鞭百回みたいな⋮⋮あははっ﹂
どんな修行しとるんだとツッコミ入れたいが、妙に現実味を帯び
ていて怖くなった。
俺達は意を決して、茶室のドアを引き開けた。
美咲さん達は既に集合を済ませて、和気あいあいと茶室でくつろ
いでいた。
﹁おまたせしました∼﹂
1161
ペコリと頭を下げる真琴と俺。
その声にピクリと反応して、宮之阪さんが立ち上がり座布団を、
山科さんが茶菓子と湯呑みを、乃江さんが手馴れた動作で、それに
お茶を注いだ。
う∼ん、相変わらず流れるような共同作業だな。思わずお礼も忘
れて見惚れてしまう。
俺と真琴は用意された座布団に座り、軽く頭を下げて礼を交わし
た。
中央に座る悪の親玉⋮⋮もとい、美咲さんが微笑を浮かべ、一呼
吸置いて口を開いた。
﹁集まりいただいたのは他でもありません。我が隊の⋮⋮、夏休み
を利用した慰安旅行の相談です﹂
山科さんも宮之阪さんも、キョトンとした表情でその話を聞いて
いる。
その表情から察するに、これは周知された呼び出しではなかった
ようだ。
唯一、敏腕秘書⋮⋮乃江さんだけは顔色一つ変えずに、その話を
聞いていた。
その中で一人宮之阪さんだけは、周りをキョロキョロと見回し、
少し恥ずかしげに手を上げた。
﹁イアンリョコウ?﹂
ふむっ。慰安旅行はグローバルスタンダードな言葉じゃなかった
か。
宮之阪さんは、英語に対比語がある日本語は、ほとんどマスター
しているが、こういった固有語はまだまだ覚え切れていない。
1162
むしろ覚えなくても生きていける言葉は、かなり優先順位が低い
らしい。
﹁会社とかで、﹃社員の皆さんお仕事ご苦労さん、しょっぼい旅行
連れてったるから、仕事キリキリ働くんやで?﹄っていう、息抜き
の旅行の事や﹂
つわもの
的を射ているのか、外しているのかよく判らない例え。経営者の
視点からしか見ていない強者の視点だ。本当は社員同士コミュニケ
ーションを潤滑にするのに、非常に役立つ旅行だったりするのだが
⋮⋮。
このやり取りを見て、こうやって宮之阪さんは、山科さん色に染
められていくんだなと思わされた。
﹁ナルホド、チープな旅行って事ですね﹂
手をポンと叩き、得心いったように頷く宮之阪さん。
ああ⋮⋮、完全に洗脳されちゃった。また一つ不思議な国ニッポ
ンとして誤解が広がった訳だ。
そんな失礼なやり取りを聞き、額に青筋が立った美咲さん。表情
だけは変わらないが、少しご立腹の様子。
﹁むう⋮⋮、しょっぼくないです! 旅費は全額自腹だけど、行き
たい場所行けますっ!﹂
がくっ! 自腹かよ。しょぼくても公費から出た方が、お得だと
思ってしまう。⋮⋮俺庶民。
そんな中、山科さんが嬉々とした表情で、手を上げた。
﹁え∼、ほんま? 南アのヨハネスブルグとかOK?﹂
1163
何故に世界でも指折りの、治安の悪い場所を名指しするかな。
中心街で200m歩行する間に、強盗にあう確率200%の所だ。
一度強盗にあって、逃げ出す前にもう一回襲われると言う噂の⋮⋮
世紀末救世主伝説を地で行ってる都市。
車は赤信号で止まったら殺られる。タクシー乗って鍵閉めないと、
引き摺り下ろされると⋮⋮。
本当に20x0年のWカップが、実現可能か疑問視していたりす
るのだ。
﹁それじゃ、慰安にならんでしょうが⋮⋮﹂
俺の弱いツッコミに、山科さんは苦笑しつつ頭を掻いている。
﹁なんかなぁ、修行的な意味合いなら、それもアリかと⋮⋮。それ
に生カキ美味いで?﹂
なんで慰安旅行で修行せねばならんのだ。カキなら広島で十分美
味い。
そんな二人のやり取りに辟易とした表情を浮かべ、乃江さんが咳
払いをした。
﹁うぉっほん! 旅行は各自で候補地を選び、そのうち票の多い場
所を多数決で決定する。票が割れたらくじ引きで選ぶが。本当にヨ
ハネに行きたいなら書くが良い﹂
なるほど⋮⋮この乃江さんの口調と余裕⋮⋮、この勝負の勝ちパ
ターンが見えた。
俺の隣に座る真琴もそれに気が付いたようで、お互い意識せぬよ
うにして肘をつつきあう。心は一つ⋮⋮﹃共闘しましょう﹄であっ
1164
た。
一見この勝負は公平を期したように見えるが、美咲さんと乃江さ
んが圧倒的に有利に仕組まれている。
美咲さんと腹心の乃江さんは、以心伝心⋮⋮。阿吽の呼吸で共通
の候補地を選出するだろう。
この勝負に勝つには、ワンペア以上⋮⋮、最低でもワンペアでく
じ引き戦に持ち込むしかない。
磐石の布陣にするのなら、山科さんか宮之阪さんを引き込むしか
ない。
﹁ちなみに北極・南極は寒いから却下。紛争地域は渡航許可が取れ
ないので却下だ﹂
その言葉を言い終わると同時に、記入用紙らしき白い紙を配って
回った。
なんと⋮⋮。 策士美咲&乃江チームは、磐石の布陣に加え、完
全包囲網を敷いてきた。
俺達に相談する時間を与えないとは⋮⋮、このままでは間違いな
く負ける、絶対負ける。ああ⋮⋮どうすれば⋮⋮。
俺は苦しまぎれの時間稼ぎに打って出た。真琴と意思統一を図ら
ねば⋮⋮。
﹁はいはい∼! 旅行日程と言うか、旅行会社の手配とか、どうす
るんです? そんな余裕無いような⋮⋮﹂
もうすぐ夏休みで、パック旅行なんて予約が一杯だ。選択肢も狭
まるのでは?
俺の問い掛けに、余裕の微笑みで答えたのは美咲さん。
﹁日程は8月の頭から適当に。旅行会社のツアーじゃなく、ビザと
1165
航空券、ホテルの手配は全て自前でいたします﹂
ちっ! 海外に物怖じする人なんて、この場には俺と真琴しかい
なかった。
宮之阪さんは、日本が外国だし、乃江さんも美咲さんも、口調か
ら察するに場慣れしていそうだ。
ついでに言うと、第一声で南アを希望する山科さんに至っては、
﹃ジョーカー﹄扱いだな。
﹁はいはい∼! 俺達不在の時には、また臨時に人を雇うんですか
?﹂
長期の退魔士日雇いなんて、無茶苦茶お金がかかっちまう。そこ
らを加味すると、日程も絞らねばならなくなり、当然行ける場所も
限られてくるはずだ。
その質問にさえ、余裕の表情でスラスラと答える美咲さん。
﹁あ∼、それについては問題なしです。食費と心付けくらいで引き
受けた人達がいますから⋮⋮﹂
﹁お嬢様の兄上キョウ様と私の姉だ﹂
ぶっ! 国内最強ペアじゃないか。
フッかけたら一日一人﹃百﹄は堅い人材が、食費+アルファーな
んて⋮⋮安売りしすぎ、なんかこの二人に弱みでも握られているの
か?
ちっ⋮⋮これじゃあ、安心しすぎてどこでも行けてしまうじゃな
いか。⋮⋮なんか無いかな∼。
﹁質問無ければご記入どうぞ∼﹂
1166
ああ⋮⋮質問タイム終了してしまった。万事休すだ。
頭を抱える俺に、真琴がワザとらしく咳払いをして合図を送って
きた。
﹁ゴホン﹂
真琴がチラリと見えるように国名を書いた。
さすが中等部の才媛と名高いちびっ子、小ズルイ⋮⋮いや、機転
が利く。
俺はそれに合わせて国名を記載すれば、ワンペアの出来上がりと
いう事か。
ふむふむ、なるほど。それなら俺も行ってみたい。
書き終ったメモを二つ折りにして、乃江さんが回収を始める。俺
もメモを手渡し、全員の候補が乃江さんの手に渡った。
全員の視線を一身に集め、ちょっと照れくさそうに発表を始めた。
﹁まず一つ目の候補地発表。アイスランド⋮⋮﹂
全員の目が左右に動き、誰の候補地か探ろうとしている。
その中で一人俯いて座っているのは、マリリンこと宮之阪さん。
全員の視線に気が付いた宮之阪さんは、か細い声で理由を述べた。
﹁エネルギーを地熱と水力で賄っている国⋮⋮。今世界が学ぶべき
政策を実現できている国。⋮⋮空気がきれい。⋮⋮温泉もあるし、
⋮⋮オーロラも⋮⋮見える﹂
なるほど⋮⋮、そういう視点で旅行先を決めるなんて、ちょっと
尊敬した。
どこぞのバイオレンスジョーカーとは大違いだ。
1167
俺の中で宮之阪さんへのトキメキ指数が上昇し、それを告げる指
数アップのBGMが鳴り響いた。
﹁次⋮⋮、発表します。 小笠原、父島﹂
おおっ、日本の誇る自然と独自の生態系、東京都が誇る自然の楽
園⋮⋮小笠原諸島か。
これも捨てがたいな⋮⋮、これが美咲さんと乃江さんの切り札か?
自然と向いてしまう視線を受ける美咲さん。俺と目が合った美咲
さんは、首をブンブンと横に振った。
美咲さんじゃないという事は、まさか⋮⋮J⋮⋮ジョーカーか。
﹁クジラ見たり、綺麗な星空見たり、うまいもん食って、パスポー
トも要らんし﹂
声を出したのは、バイオレンスジョーカー山科さんだった。
ヨハネスブルグに騙されてしまった。割とまともな人でホッと一
安心。それならそうと言ってくれ⋮⋮俺、それに乗っかりたい。
﹁次、オーストラリア﹂
これは俺と真琴だな。くそ暑い夏だし、逆転気候の南半球は涼し
いだろうとの予測。でかい大陸だし、都市によるんだろうけど。
ヨーロッパとかアメリカは今後旅行で行くかもしれないが、オー
ストラリアはこんな機会でないと行かない気がするし⋮⋮。
﹁向こうは冬かなぁと思いまして⋮⋮、コアラ抱っこしたり、カン
ガルーと戯れたり⋮⋮﹂
理由を述べたのは真琴だった。
1168
他の二人に比べると理由は弱いが、この猛暑だ。宮之阪さんも山
科さんも同意を示すように首を振っている。
完全勝利などありえないはずなのに⋮⋮。
乃江さんと美咲さんは、それでもなお余裕の表情を崩さない。
何故だ?
乃江さんが、無言で残りのメモを開いて、一枚一枚手元に並べた。
なっ⋮⋮、オーストラリアが三枚⋮⋮。
﹁以上、第一回慰安旅行はオーストラリアに決定﹂
偶然にも美咲さん達と同じ場所を指定したのか。悔しいようなホ
ッとしたような⋮⋮。
それでも最初見せた美咲さんの微笑が気になる⋮⋮。
俺は小声で真琴に耳打ちした。
﹁真琴⋮⋮なんでオーストラリアにしたんだ?﹂
真琴は俺の問いに、腕を組み考え込んでしまった。
﹁何故でしょうね⋮⋮。いつもの私なら迷わずイタリアにして、美
術館めぐりを想像するのに⋮⋮﹂
その言葉を聞いて、美咲さんの唇が微妙に釣り上がり、一瞬笑み
を浮かべた。その顔はもの凄い悪人の表情だった。
ま⋮⋮、まさか。洗⋮⋮脳⋮⋮。
その一瞬見せた表情はすぐに消し去り、何も無かったかのように
場を纏め始めた。
はわわ⋮⋮、真琴よ⋮⋮。俺達は最初から負けていたっぽいぞ。
﹁オンラインでビザ発給出来ますので、個人の旅行もそれほど難し
くありませんし、英語圏だから気楽ですものね﹂
1169
美咲さんの言葉に、俺以外の全員がニコニコ顔で頷いた。
そうだ⋮⋮、俺は標準的な語学力しかないが、真琴も含め英語は
ペラペラだ。宮之阪さんに至っては、母国語だもんな。
くそう⋮⋮悔しいから、旅行用語くらいは勉強しよう⋮⋮。
﹁美咲さん⋮⋮、本日の要件は旅行の話だけですか?﹂
最後のどんでん返しがあると思い、ビクビクしながら真琴が問い
かけた。
美咲さんはその表情を見て、少し意地悪い顔をして首を振った。
﹁ふふふ、そんなハズ無いでしょ?﹂
﹁ひぃぃ⋮⋮﹂
目をグルグルに回し身悶える真琴。⋮⋮なあ、真琴。お前の性格
は完全に掌握されているぞ? その上で遊ばれているっぽい。
リアクション大王の真琴を見たら、美咲さんじゃなくても弄りた
くなる。
﹁真琴とカオルさんには⋮⋮﹂
美咲さんの見せる冷ややかな目。
俺には演技かかって見えるが、真琴は戦々恐々と次の言葉を待っ
ている。
﹁給料の振込先を検討してもらおうかと⋮⋮﹂
﹁は?﹂
1170
﹁なんと?﹂
俺と真琴は口を開け、間の抜けた返事をした。
銀行振り込みって、いつもの銀行で良いんだけど⋮⋮。
あの銀行って何処にでもあるから便利なんだよね。
﹁いつもの銀行じゃマズイんでしょうか?﹂
俺の問い掛けに、美咲さんは首を縦にも横にも振らない。
そして否定も肯定もない中立の口調で、俺と真琴に話をしてくれ
た。
﹁カオルさんも真琴もそろそろ口座の金額が、アレ∼な事になって
きてるでしょ?﹂
アレってのは、アレだ。
俺はとうとう一桁アップしてしまった。守り刀を買ったり、SD
Rのお礼を乃江さんに返したりしても、余裕でアレな感じ。中古の
マンションなら買えてしまいそうな金額。
真琴も一ヶ月遅れで入隊したけど、給料は俺と同額が振り込まれ
ペイオフ
ているはず。真琴もアレな感じだろう。
﹁銀行には預金保護って枠があって、上限は1000万円なのです。
最近の日本の状態を見ると、銀行も安全じゃないと思いませんか?﹂
確かに⋮⋮。大国では優良顧客向けじゃないローンでの、延滞や
貸し倒れが金融不安を引き起こしたな。
最近ではよく名の通った証券会社が、事実上倒産してしまったり、
吸収合併が頻繁に行われている。
1171
日本も他人事のように報じているが、決して対岸の火事じゃない
と思う。
﹁恐らくカオルさん達の口座には、預金保護以上のお金が入ってる
と思うんですけど﹂
俺はコクリと頷いた。真琴もその話を神妙な表情で聞き入ってい
る。
あれって銀行破たんしたら、半分くらい返ってこないって事か。
そりゃまずいな。
﹁国内の銀行なら預金保護金額内で、分散するのも手です。預金保
護枠を確保出来ますから。けれど日本の円自体が暴落したら、ジ・
エンドですよ?﹂
﹁そういえばアフリカの某国じゃ、一億ドルでパン一個買えないと
か⋮⋮﹂
真琴がおっかなびっくりで、美咲さんの言葉を補足した。
そういや報道番組でやってたな。スーパーに行くのに、アタッシ
ュケースに満杯の札を持って出る主婦とか。
結局紙幣ってのは、使える紙切れ。百貨店の金券みたいなもんだ。
その百貨店が倒産すれば、紙切れになっちまう。
﹁美咲さんは、銀行を分散したりしてるんですか?﹂
俺の疑問にコクリと頷いた。それは美咲さんだけじゃなく、乃江
さん、山科さん、宮之阪さんも⋮⋮、全員が頷いていた。
﹁例えば国内の銀行を財布代わりにして、それ以外の銀行に外貨を
1172
分散して預金していますね。マリリンは英国。ユカはデンマークの
銀行。私と乃江はスイスの銀行で、それぞれユーロとポンド、スイ
スフラン等を分散して預けてます﹂
スイス銀行? デュークトウゴウ⋮⋮13某みたいじゃないか。
本格的な感じだな。
﹁うちはデンマーククローネとユーロ、ポンドやな。一部一任で資
産投資して貰ってる、インターネットバンキング出来るから、そん
なに不便やないで?﹂
﹁私は、メインバンクがロイズなので⋮⋮﹂
ほえ∼、みんななんだかんだとやってるなぁ。
為替投資家達みたいな口調で、頭がグルグル回ってきそうだ。
﹁国内の銀行の利息は誤差の範囲。日本の貨幣価値は10年前と比
較して落ちているのですが、利息はそれより下回ってるの。銀行に
預ければ盗まれる事が無いだけで、実質は損をしている事に⋮⋮﹂
そう言えばそうだよな。昔100円だった缶コーヒーが今じゃ1
20円だし。その間に銀行に預けてれば二割も利息が付くかと言え
ば嘘になる。
昔の公務員が初任給x万とかTVでやってた。﹃そんなんで食っ
ていけるのか﹄と思ったが、その当時じゃそれが十分食っていける
給料だったりするのだ。
﹁ふむ∼、なるほどな。タメになると言うか⋮⋮、日本の未来は暗
いなぁ﹂
1173
マジでめげてしまいそうになる。
地下資源に恵まれてもいないし、一つなにか特技があるわけでも
ない。
金勘定と流用が上手くても、消費の上に成り立った自転車操業だ
し、最近じゃ加工やマンパワーもアジア諸国に食われている。
外国の不作の煽りを直接受けるし、大国が慌てる事態になれば、
日本が先に潰えそうだ。
それに男ならスイス銀行に口座を持つのが夢だ。﹃スイス銀行に
振り込んでくれ! 話はそれからだ﹄ってのやってみたい。
﹁スイスの銀行⋮⋮どうやって口座開設したら良いのでしょうか?﹂
俺に同意する様に真琴もコクコクと頷いている。
そんな二人を見て美咲さんは、にこやかに答えてくれた。
﹁プライベートバンカーと言う担当者が来て、面談して口座開設と
なる運びです。日本人の担当を紹介しましょうか?﹂
俺と真琴は、大きく頭を振った。
憧れのデュークに一歩近づけそうな、そんな予感がする。
1174
﹃美咲隊の慰安旅行 01﹄︵後書き︶
この話を大筋考えていたときには、マサカねとは思っていましたが、
米国の風邪がアイスランドを国家破綻寸前まで追い込むとは思って
も見ませんでした。
国家通貨も値を下げて、国際間の融資で破綻を免れようと努力して
ます。
いつか日本もこうなるなと思える重大ニュースでした。
1175
﹃美咲隊の慰安旅行 02﹄
今日の帰宅は美咲隊のメンバーと一緒だった。
一人一人と帰るのはいつもの事だが、こうやって全員で帰るのは、
今日が初めてかもしれない。
ちょっと距離を取って離れていても、男子達の刺すような視線を
感じるのは、気のせいではないだろう。
茶室で言い渡された旅行の段取り、オンラインビザの申請をする
為だった。
﹁カオルはクレジットカード持って無いだろ? 私の名義で決済す
るから一緒に登録しよう﹂
気を利かせて言ってくれたのは乃江さんだった。
学生の身分でクレジットカード持ちですか⋮⋮。退魔士ならアリ
なのかも知れないが、普通はそういうの持ってません。
俺は運転免許と銀行のキャッシュカード、EDYが限界です。
﹁は∼い。私も持ってません﹂
真琴も悪びれる事無く手を上げた。
女子中学生で預金額がアレな真琴も、ちょっと前は退魔士見習い
みたいなもんだった。
部屋と冷蔵庫の中は慎ましやかで、越境して寮暮らししてる女の
子みたいな生活だったしな。
﹁それじゃあ、俺は先に⋮⋮﹂
気を使って先に席を立とうとした時、美咲さんが嬉しそうな声を
1176
あげた。
﹁今日はいい機会だから、みんな一緒に帰りましょうか?﹂
一人でも目立つ存在ばかりなのに、それが五人集まれば破壊力は
物凄い。
校舎から出るまでに、物凄い数の視線を感じた。
普段からこういう視線に晒されているのだから、この人達の気苦
労は想像の範疇を越えてるよな。
俺なんてちょっと寝癖があっても、まあいいかで済ませられるが、
彼女らはそうはいかなそうだ。
﹁カオルさん⋮⋮﹂
美咲さんが振り返り、俺に視線で知らせてくれた。
少し離れた水場に腰掛け、汗を拭いながら手を振っているのは、
我が親友の牧野だ。
﹁校門を出た所で待ってますね﹂
そう言って気を使ってくれた美咲さん。
そのお気遣いはありがたかった。妬み嫉みの視線に耐えかねて、
胃が痛くなってきた所です。
俺は背を向けた美咲さん達と別れ、牧野の元へ駆け寄った。
﹁部活ごくろうさん。部活中も合気道の胴衣と袴って着るんだな?
試合だけだと思ってたよ﹂
丈夫そうな白の胴衣に、藍色の袴を着て、素足に靴の踵を踏んで
いる姿だった。
1177
試合で着てるのはよく知っているが、学校だとジャージとかでや
ってるのかと思ってた。
﹁実戦ベースの練習のときは着るな。基礎体力系だとジャージだけ
ど﹂
相変わらず何を着ても似合う奴だ。そのうえカッコイイときてる。
帰宅する女子もチラッと横目で見て、幸せそうな顔をして帰って
いく。
﹁で?、俺を呼び止めるなんて、珍しいじゃないか? 普段のお前
なら生温かく見守って、ニヤニヤするところだろ?﹂
女に縁のない俺が、美咲さん達と絡むのが面白いらしく、いつも
ニヤニヤと見ている。
そんな牧野が、最大級のチャンスで呼び止めるなんて、らしくな
い。
﹁まぁな、夏休み前で、天野さんからの呼び出し、集団下校となれ
ばな。夏のイベントの計画かなと﹂
牧野の顔がファントムの顔に変わっていった。
真剣なその表情のなかに、複雑な思惑が隠されている。だが俺に
はその理由を知る由もない。
﹁俺さ、北海道にツーリング行こうと思ってんだ。天野さん達がこ
の地を離れるなら、その間自由になれるしな﹂
﹁なんだ、隠れて護衛しに来るのかと思ったよ﹂
1178
ちょっと肩透かしを食らったように、脱力感が押し寄せてきた。
うーん、そうだよな。夏の北海道は二輪の天国。俺も機会があれ
ば行ってみたい。
﹁予定の期間と代理の性能次第だけどな。ヘボが来たらそれどころ
じゃなくなるからな﹂
この地の守護代行だよな。これは言って良いのか悪いのか⋮⋮、
情報の漏洩に繋がるような気がするが。
⋮⋮けれどファントムは、俺達のバックアップをしてくれている。
相互に疎通は無いとは言え、同じ目的の為にこの地に居るのだか
ら、それに牧野なら信頼出来る。
﹁ここからは俺の独り言だからな。お前は聞いていない前提で話す﹂
ファントムが牧野の表情に戻り、クスリと笑って目を閉じた。
俺は牧野に背を向けて、聞こえるように独り言を始めた。
﹁8月の頭から、オーストラリア。期間は少なくとも1週間以上。
代理は天野響、真倉綾乃の二名﹂
﹁!!!﹂
目を閉じていた牧野が、盛大に噴いた。
だよなぁ、日本の退魔界の頂点って言われつつある、新進気鋭の
守人キョウさんと、最強最悪のバーサーカー真倉綾乃さんのペアは、
それほどにインパクトが大きい。
牧野は苦笑しながら、俺の背を叩いた。
﹁あ∼、安心して北海道行って来るわ。お土産必要なら餞別希望﹂
1179
手をヒラヒラと俺の前に持ってきて、目を輝かしながらにこやか
に笑う牧野。
俺は財布から諭吉を二枚取り出して、その手に置いて握らせた。
﹁今流行の⋮⋮牧場のキャラメルとホワイトラバーズなチョコな。
毛蟹とか海の幸とひっくるめて家に宅配してくれい﹂
﹁へっへっへ⋮⋮了解いたしました、だんな﹂
ニヤリと笑って悪い顔をする牧野。こいつのこう言うノリが大好
きだ。
諭吉を二枚ふところに収めて、手のホコリを掃った。
﹁よっこらしょ。部活に戻るわ﹂
牧野は、靴の踵を整えて立ち上がった。
汗を拭っていたスポーツタオルを首に引っさげ、俺に背を向けて
ボソリと呟いた。
﹁旅行中のみんなの安全は、お前が護るんだぞ﹂
その声はファントムのソレ。低く響き、聞くものを脅えさす様な
迫力に満ちていた。
そんなに脅すなよ⋮⋮、そんな事言われなくても分かってる。
﹁ああ、命を賭けて護る。安心して北海道を満喫して来い﹂
そのまま牧野は振り返る事無く、後ろ手で手を振り離れていった。
俺はその背中を見送り、美咲さん達の待つ校門へと向かった。
1180
﹁すいません∼、お待たせしました﹂
校門を過ぎた所で、俺を待っていたみんなに詫びた。
頭を上げた時の、みんなの表情に戸惑ってしまった。憐れむよう
な、心配するような⋮⋮そんな表情だった。
﹁あの? なにか?﹂
真琴が一歩前に出て、申し訳無さそうな口調で、その憐れみの理
由を話してくれた。
﹁⋮⋮あのう。カナタもトウカも⋮⋮刃物は海外に持って出れませ
ん⋮⋮、どうしましょう?﹂
なんと! そう言えばそうだ。911事件以来、空港のテロ対策
は物凄く厳しくなっている。
手荷物は絶対無理だし、機内に持ち込まない荷物もX線で完全チ
ェックだ。
なんか理由をつけて空輸しても、カナタがお腹を空かせて死んで
しまう。
﹁あわわ⋮⋮。ばあちゃんに貰ってから手放した事がないから、手
放すと死んでしまうかも﹂
寝る時は机の上だが、それでも数メータ。部屋に霊気が満ちてい
る状況だし、ばあちゃん家もそう言う感じだったと聞いた。
実際手放すと、どうなるか分からんぞ。
﹁聞いてみたらいかがでしょうか? 意外と長生きするかも。和三
1181
盆を山盛りに置いておいて、食いつないでもらうとか﹂
そんな、家でお留守番するペットじゃないんだから。
しかし悩んでいても仕方ないのは確かだ。俺はカナタに聞いてみ
る事にした。
﹁カナタ⋮⋮どうなんだ?﹂
﹁許さん﹂
﹁和三盆山盛りでも駄目か?﹂
﹁駄目じゃ﹂
完全に怒っている声。姿も見せない程に怒っている。
その声は美咲さん達にも聞こえてる⋮⋮、全員が神妙な顔をして、
考え込んでしまった。
こんな状態では、旅行に出かける事は出来ない。
﹁⋮⋮俺﹂
盛り上がってきた旅行の話に、水を差すようで心苦しい。けれど
俺はカナタを置いて旅行なんて行けない。
言いにくいが⋮⋮、この話は無かったことにしてもらおう。
﹁カオルよ。諦めてしまうのはどうか? 私に任せてみぬか?﹂
俺の言葉を止めたのは、トウカだった。
俺の肩に乗り、優雅に扇を扇いだ。相変わらずののほほんとした
顔で、余裕すら感じれる。
1182
まさか秘策をお持ちでしょうか?
﹁なんか打開策をお持ちで?﹂
溺れる者は藁をも掴む。トウカが頼りにならないという意味じゃ
ないが、案があるなら是非とも聞かせて欲しい。
俺はトウカへ⋮⋮いやトウカ様へお伺いを立てた。
﹁あまりに便利すぎて、カオルが悪用するから黙っておいたのじゃ
が⋮⋮。ナイフに刻んだ刻印は何の為じゃ?﹂
えーと、あれは霊気をアップさせる為でも、退魔の力を向上する
ためでもない。
刃物の浄化、そしてトウカを仙界から呼び寄せる為の、時空歪曲
の呪だったはず⋮⋮。
﹁時空歪曲ナントカ?﹂
トウカはコクリと頷いて、満足そうに微笑んだ。
﹁まあ刃物の事じゃし、ここでは不味い。人目につかない場所で教
えてやろう﹂
確かに⋮⋮。校門前で刃物を抜いたら、守衛が全力疾走で走って
くる。
ここは一旦マンションに帰ってから、再度お伺いを立てよう。
1183
マンションに戻り、全員が美咲さんの部屋に集合した。
俺はテーブルを取り囲んだ全員の前に、カナタの守り刀とトウカ
のナイフを並べて、二人を召喚した。
﹁カナタ、トウカ。お姿をおみせくださいませ﹂
へそを曲げてしまったカナタに合わせ、いつもより優しく呼び出
した。
トウカがまず姿を現し、守り刀から引っ張り出すようにカナタを
呼び出した。
いつものような元気な笑顔はなく、ツンとしてそっぽを向いてい
る。
俺の肩に乗ることも無く、無言で守り刀に腰掛けた。
﹁カナタ⋮⋮、俺はカナタと一緒じゃないとどこへも行かないよ。
いつも一緒にいるって約束したもんな。ごめんよ﹂
そういいつつ、拗ねたカナタを突っついた。
カナタはその指に噛み付くかと思ったが、抱きしめるように指へ
へばりついて、ポロポロと泣き出した。
﹁わぁ∼ん。置いていくな∼。カオルの阿呆∼﹂
恐らくカナタは、日本に置いていても大丈夫なのだろう。けれど
刀が大丈夫でも、カナタには心がある。
寂しがるのも無理は無い。
﹁連れて行けないなら、旅行は行かない。行けるか行けないか、ト
ウカの案次第だな﹂
1184
俺とカナタがトウカを見やり、周囲の全員がトウカの発言を待っ
た。
そんな緊張度MAXの状態で、トウカは余裕の微笑みを浮かべて、
腕を右へ左へと振った。
その動きに合わせて、トウカのナイフが鞘とわかれ、剥き出しに
なった刀身を見せた。
﹁この紅の紋は、時空歪曲の呪。我が故郷の仙人界と繋がっておる
⋮⋮。ここまで言えば分かるじゃろ?﹂
俺とカナタは素直に首を横に振った。そんな謎掛けで分かる筈も
無い。
当然の事ながら、周囲の全員が同じ思いでいるようだ。
﹁おぬし等もこの呪を使えば、仙界へと通じる道を通る事が出来る。
カナタも一度仙界に行っておるからの﹂
退魔士試験の時、カナタの調子が悪いと言い、トウカは仙界へと
連れて行った。
カナタに頼りすぎた戦いをしすぎた俺に、カナタの重要性を訴え
る為の芝居だったと、その後に聞かされたのだが。
俺はカナタとトウカが居なくなって、腹をくくったような気持ち
になったのだ。
あの芝居が無ければ、甘っちょろい考えばかりで、良い結果を出
す事は出来なかっただろう。
﹁このナイフで、カナタの守り刀を仙界に運ぶと言う事か? ⋮⋮
ちょっと待て、トウカのナイフも持っては、空路で移動できない。
結局駄目じゃないのか?﹂
1185
まずトウカのナイフで守り刀を送り込む。オーストラリアに着い
て、仙界から守り刀を取り出す。
だがトウカのナイフを所持出来る前提の話だ。見た目で言えばト
ウカのナイフの方が、禍々しくて危険に見える。
﹁まだその思考には到達せぬか。そらそうじゃろうの⋮⋮、使い方
を教えておらんからの﹂
そう言ってテーブルの上にあった、新聞広告のチラシを取り出し
た。
マンションの広告らしき、その紙を四つ折りにして、ナイフの刃
に当てて小さく切った。
四つ折りにした紙を一枚、俺に手渡してこう言った。
﹁念を籠めて刀身の紋に押し当ててみよ。道を開く霊符に早変わり
する﹂
なるほど⋮⋮、トウカが悪用を恐れるわけだ。
﹁それを応用すれば、旅費を浮かせたり出来る訳だな﹂
それ見た事かと、呆れたような表情を浮かべたトウカ。
いやいや言っただけで、実際はそんな悪用しないって⋮⋮。しな
いよな。
﹁はーい。トウカさん﹂
突然美咲さんが手を上げた。その横で乃江さんが、ギョッとした
顔を見せている。
その二人を見て、俺の心臓が高鳴った。ドキドキするような高鳴
1186
る気持ちじゃないぞ? これはまさしく動悸だ。ついでに息切れと
眩暈がしてきた。
もしかして⋮⋮
﹁私、仙人界へ行ってみたいです﹂
案の定かと手を顔に当てて、頭痛に耐える乃江さん。
すいません⋮⋮、俺も頭痛がしてきました。
けれどそんな良識を持った人は、乃江さんと俺だけだったようで、
山科さんと宮之阪さん、真琴も玄関から靴を摘んで持ってきて、ニ
コニコとその様子を見ていた。
行く気満々だし⋮⋮。
その様子を見て、美咲さんは、きっとこう言うはずだ。
﹁いっその事、慰安旅行は仙人界にしましょうか﹂
と⋮⋮。
1187
﹃美咲隊の慰安旅行 03﹄
あるじ
﹁いっその事、慰安旅行は仙っ、むぐう⋮⋮﹂
身を乗り出した主⋮⋮、美咲さんを後ろから羽交い絞めにし、何
食わぬ顔で口を押さえ付けた乃江さん。
美咲さんは言い出したら、絶対人の言う事を聞かない人だ。なら
ば言い出させないのが、最大の防御か⋮⋮。
幼少の頃からの付き合いだけあって、美咲さんの攻略方法を熟知
している。
そう言えば乃江さんは、美咲さんの精神世界に行って、トラウマ
になったと言っていたな⋮⋮。
あの時の辟易とした表情は、今も忘れられない。まぁ⋮⋮、必死
になるのも無理は無いか。
がんばれ乃江さん、がんばれ下克上⋮⋮。表立って応援は出来な
いが、心から声援を送ろう⋮⋮。
俺は知らず知らずの内に、手を熱く握り締めていた。
﹁私は⋮⋮、ま、前々から⋮⋮、気になって⋮⋮、いたのだが⋮⋮。
縁渓行⋮⋮、忘路之遠近⋮⋮、忽逢桃花林⋮⋮、トウカの言ってい
る仙界とは、桃源境の事じゃないか?﹂
﹁むぐ∼っ! むーっ!﹂
そんな乃江さんが、息を荒げながらもトウカに尋ねた。
腕の中で暴れる主人を力任せに御して、トウカの反応を待った。
何気に美咲さんの顔がチアノーゼっぽくなっているが、今の状況
では気にしない方が賢明だ。
1188
﹁若いのによう知っておるな。まさしくその通りじゃ﹂
トウカが驚いたように目を見開いた。さすが乃江さん、よく分か
らんが凄い。
しかしここで黙っていると、分からんままに置いてけぼりを食ら
いそうだ。乃江さんに説明を願おう。
﹁は∼い乃江さん。その漢文はどういう意味なんでしょうか?﹂
トウカの名前﹃桃花﹄が入ってる詩⋮⋮。
文字だけ見れば、花見にでも行くような、ほのぼのとした情景を
思い描くのだが⋮⋮。
俺の問いかけは、その他全員の疑問でもあったようだ。みんなが
とうえんめい
乃江さんの解説を待っている
﹁陶淵明という詩人の書いた﹃桃花源記﹄という漢詩から来ている。
いわゆる桃源境︵郷︶を書き綴った雑文だ﹂
乃江さんはぐったりとした美咲さんを脇に捨て置き、情景を思い
ぶりょう
浮かべるように、かろやかな口語調で漢詩を訳し、俺達に話してく
れた。
大陸がまだ晋王朝の頃、武陵という場所に漁夫がいた。彼は渓流
で魚を取って日々の糧としていた。
ある日の事、糧となる魚にめぐり合えず、渓流を遡り遥か上流ま
で分け入った。
すると突然川の両岸を埋め尽くす程の⋮⋮、香りの良い桃の木々
が目の前に現れた。
草は緑をなし色鮮やかで、桃の花は風に揺られ、蝶のように美し
く舞っていた。
1189
ろ
彼はその光景を不思議に思い、何かに惹かれるように更に奥へ、
その終わりまで行ってみようと艪を漕いだ。
さらに先、船を捨て洞窟に分け入った先に、不思議な異界が広が
っていた。
すばらしいまでの田畑、見るものの心を癒す美しい池、美しい桑
畑や竹林が広がり、のどかな雰囲気の中に犬や鶏の鳴き声が響き、
人々の面持ちは穏やかで、老若男女が実に楽しそうに振舞っていた。
彼を見た人々は大層珍しがり、ここまで来た経緯を問い、家に案
内し酒食をもてなした。
秦の時代にこの地に来たという人々は、現世の時代も漢の時代も
知らなかったそうだ。
彼は数日をそこで過ごし、わが家に戻っていった。
後に役所の太守を引き連れて、再びその地を訪れたが、二度とそ
の地を探し当てることは出来なかった。
﹁私はトウカの人となり、技、能力を鑑みて、桃源境を守護する桃
花仙ではないかと思っていた。ちがうか?﹂
ふうひょうか
乃江さんの問いかけに、トウカは笑いを浮かべるだけで、否定も
肯定もしない。
確かにトウカの技、風飄花は、障壁と幻惑の技だし、桃の香りの
する仙気を巻き散らかして、人を惑わしたよな。
桃源境を守護するガーディアンとして、その能力はあまりにピッ
タリと当てはまる。
全員の見守る中、トウカは悪びれる事無く、ボソリと呟いた。
﹁乃江の言う通り⋮⋮、じゃが生まれてより数千年、人を寄せ付け
た事など無いからのう。それは別の﹃役目﹄の者じゃろうな﹂
詩に書き綴られた桃源境は、トウカの生まれ故郷では無いらしい。
1190
けれど桃源境を護る桃の花である事は認めたか。
仙界と聞くと切り立った岩山で、霞を食って生きる髭の仙人が居
るイメージだが、桃源境となると話は別だな。
景色が良く穏やかで、美しい美女と最高の料理、争いごとが無く、
平和なイメージだ。まさに理想郷だな。
そういう所なら行ってみたい気がするのだが⋮⋮。
﹁行ってみたいか?﹂
トウカの問いかけに、思わずコクコクと頷いてしまうメンバー達。
転がった状態の美咲さんはもとより、他のみんなも好奇心に満ち
た顔つきに変わっている。
その表情を見たトウカが、ため息を付いて天を仰いだ。
﹁案内してもよかろう。が⋮⋮おぬしらの心に多大な影響を及ぼす
が、それでも良いのか?﹂
その言葉に全員が息を呑んだ。
そんなおっかない事を言われると、誰でも尻込みしてしまうに決
まっている。
問題はどんな影響が出るか、その一点次第だと思うのだ。
﹁なあ、トウカ。実際そこに行けば、俺達はどうなってしまうんだ
? わかりやすく説明してくれないか?﹂
トウカは俺の目をジッと見つめ、なにか俺の本心を探るように思
かせ
案した。そして重い口を開いた。
﹁この世の枷、それが全く無い世界。生きる枷、束縛される枷、愛
欲の枷、執着の枷、使命の枷⋮⋮、人を縛る全ての枷が無い﹂
1191
枷ってのは、手枷、足枷等の拘束具の事だ。一般に人を自由にし
ない為に用いられる⋮⋮。
トウカが言っているのは、そういった実体を帯びたものではなく、
行動を制限する制約のような物の事だろう。
直球に考えると、勉強なんてしなくても生きていける。学びたか
ったら学べ。生きるも死ぬも自由。
盗みを働いても罰せられない。物に対する執着がない訳だから、
盗まれようと知ったことではないという事か。
いや待て⋮⋮。物への執着が無いのだから、盗む理由も無くなる
⋮⋮か。
人を愛し束縛したい気持ちも無く、愛され束縛されたい願望も無
い。何かをやらねばならぬという使命感も無い状態か。
それって死んでいるのと同じ状態じゃねえか?
一見楽なようで楽ではなく、都合が良いようで充足感が全く無い。
しんせんしそう
しんせん
そんな所⋮⋮、俺は御免こうむりたい。
﹁まさに神仙思想やな。神道で言う﹃神遷﹄や。人の器を捨て、神
格化する為に解脱するのような感じかいな﹂
﹁魔法学にも、人の器を捨て、高次の世界を垣間見る⋮⋮とある﹂
山科さんと宮之阪さんが、神妙な面持ちでそれぞれの分野の言葉
を口にした。
神道も大陸文化を受け継いでいるし、西洋と東洋は遠いようで学
問の共有がなされている。似通った思想を持っていてもおかしくな
い。
﹁おぬしらが使命と思っておる﹃退魔﹄や﹃魂喰い﹄の事ですら、
些細な事の様に感じるじゃろう。それでも行くと言うのなら⋮⋮﹂
1192
﹁俺はパスする﹂
そんな面白みの無い世界に行っても、数分で飽きてしまう。
俺は俗っぽいかもしれないが、この世界が好きだし、ここで過ご
すかけがえない時間を大切にしたい。
縁側で渋茶をすする生活は、俺にはまだ早い。
﹁うちもパス∼。この山科由佳さまから煩悩を取っ払ったら、なん
も残らへんやん﹂
苦笑しながら頬をポリポリと掻く山科さん。
﹁私も⋮⋮、器を捨てる方法は⋮⋮理解しているから﹂
宮之阪さんも、強制された解脱は望まないようだ。
壁抜けの時に、魂の器について話をしてくれた事があるし、やる
気になればいつでも出来るって事か。
﹁当然私もパスです﹂
真琴の表情が怒りに満ちている。
親の仇の﹃魂喰い﹄、それが些事と言われ、拒絶と怒りを抱いて
いるのだろう。
﹁美咲はどうじゃ? それでも行ってみたいか?﹂
美咲さんはしばらくの間、言葉を発さず考え込んだ。そして苦笑
しながら首を振り、トウカの言葉へ無言の返答をした。
1193
﹁でも⋮⋮いつか成長して、トウカさんの故郷は見てみたい気がし
ます﹂
そうだな⋮⋮。何事にも動じない強い心があれば、人や環境に流
されずに生きていける。それはトウカの世界も同じだろう。
そういう意味で俺達はまだ未熟だし、学ぶことも多い。もっと人
の心に触れ、自分自身や感性を磨かないと⋮⋮。
トウカはその返答に満足したように頷き、ニコリと笑ってとんで
やから
もない事を口にした。
﹁行きたいと言う輩には、対価を引き換えて貰わねばならぬ。今の
おぬしらでは到底払えぬ程のな⋮⋮。じゃが聞き分けの良い褒美と
して、ほんの少し垣間見る程度なら許してやろう﹂
手に持ったチラシの紙片をナイフに押し当て、天高く放り投げた。
紙片が俺達の目の高さに落ちてきた時に、まばゆい光を発して輝
きだし、視界が白く染まった。
頬を撫でる温かい手、鼻をくすぐる心地よい桃の香り、続いて頭
に感じる痛みが襲ってきた。
﹁痛てて⋮⋮﹂
1194
痛む頭を咄嗟に押さえ、目を開けた。
俺の頭を膝に乗せ、手で撫でていてくれたのは、トウカだった。
回廊に立つ東屋、天井には色鮮やかな壁画が彩られ、抜ける風は
緩く心地よかった。
トウカは窓辺の長椅子に腰掛けて、透かし彫りの窓に頬杖をつい
て、遠くを眺めていた。
﹁起きたか? カオル﹂
チャイナドレス
撫でていた手をスッと引き、俺の顔を見下ろしたトウカ。
いつもと同じ桜色の旗袍、漆黒の濡髪のような美しい髪に、透け
るような白い肌⋮⋮。白い肌に相反する薄ピンクの唇は、色付いた
花の様に綺麗だった。
﹁ていうか、デカっ! トウカ実寸大?﹂
ヘチャむくれのピンキー二号だったトウカが実寸大になっていた。
年の頃は俺より年上の20代。姿形から年齢を察する事が出来な
いが、漂う色香だけは年齢を隠しきれていない。
トウカの面影を残した、幼い顔立ちの大人の女性だった。
実物大トウカってこんな感じなんだ。いつも落ち着いていて、理
性的だとは思っていたけど、大人の女性だったとは⋮⋮。
﹁誰が年増じゃ!﹂
手に持っていた扇で、頭を一閃された。
なんで考えている事がわかるのやら⋮⋮、しかも思ってる事とち
ょっと違うし⋮⋮。
﹁カオルの考えておる事など、心を探らずともわかる。単純な思考
1195
回路じゃし﹂
だ∼か∼ら∼、トウカの被害妄想⋮⋮、勘違いだってば。
口には出すのはちと恥ずかしいが、大陸の絵巻物に出てきそうな、
少し儚げな女仙そのものだった。
それは人間の造形美を超越した、神がかった美しさに見えた。
﹁そろそろ頭を膝からよいてくれぬか? 我は気にせぬが、カナタ
が鬼の形相でおぬしを睨んでおるでな﹂
この窓際の長椅子、間を挟んだテーブルと対を成す位置に、もう
一つの椅子があり、着物を着た少女がちょこんと座っていた。
少女は着物の裾を力一杯握り締め、テーブル越しに俺を睨みつけ
ていた。
﹁おわっ、カナタも原寸大だ。しかも着物バージョン! これはレ
アだ。初めてのパターンじゃねぇか?﹂
あまりの物珍しさに俺は跳ね起きた。
カナタの手を取り、そっと立たせた。そして黒髪を撫で、カナタ
の感触を確かめて、手をゆっくり引き寄せて、独楽を回すように一
回転させた。
ゆっくりと回るカナタの髪がフワリと風になびき、袖のたもとが
軽やかに舞った。
﹁グゥレイトッ!﹂
俺の口から魂の言葉が紡ぎだされた。
カナタも呆気に取られ、俺を睨みつけていた事などスッ飛んでし
まった様だ。
1196
いつしか普段通りのカナタの表情に戻っていた。
﹁なぁ? ひとつ聞いていいか? なんで俺の頭にコブが出来てい
る?﹂
俺は額に出来たたんこぶを擦りながら、その原因について二人に
問うた。
﹁カオルがまずこの地に降り立ち、続けざまに美咲、乃江、まりえ、
真琴、由佳の順じゃったか⋮⋮﹂
﹁美咲の尻がカオルを押し潰し、次に乃江が膝で、他の三人もカオ
ルの上に着地したからの⋮⋮。気を失っても仕方あるまい﹂
トウカとカナタが薄笑いを浮かべ、その時の状況を話してくれた。
なんと⋮⋮、そんなオイシイ状況⋮⋮、いや、なんと申しますか、
気を失ってしまったのが悔やまれる展開だな。
﹁それで? みんなはどこへ?﹂
この小さな東屋は回廊と通じ、透かし彫りの窓からは、蓮の葉が
よく茂った美しい池を眺めるように出来ていた。
庭を眺める休憩場所のような扱いになっているんだろうな⋮⋮。
﹁こちらで遊んでおるわ。ついてまいれ﹂
扉もない東屋の、回廊へぬけるくぐり戸で手招くトウカ。俺とカ
ナタはトウカに付き従い、くぐり戸を抜けた。
石造りの回廊は先の見えないほど一直線に伸び、風雨に曝されな
いように屋根が付き、朱塗りの柱がそれを支えていた。
1197
長い回廊を目で楽しめるように、天井には彩り鮮やかな壁画が描
き込まれている。
﹁なんかすげぇ豪華な雰囲気だな﹂
皇帝の別邸と言われても納得する程の造りだった。
回廊だけではなく、そこからの眺めがまた格別に美しかった。
蓮の池には、島を模した島があり、色とりどりの花が咲いている。
回廊の脇には玉砂利が敷き詰められ、苔むす石がその奥の竹林に
一味添えている。
遠くの方で風雅な楽器の音色が、緩やかに風に乗って流れてきた。
近づくにつれ、その風雅な音色がしっかりと旋律を帯び⋮⋮、レ
ッドツェッペリンの﹃移民の歌﹄に聞こえてきた。
﹁あれ?﹂
聞こえてくるのは、琵琶の音色⋮⋮その音色が奏でるのはツェッ
ペリン⋮⋮。
そんな雰囲気台無しな事をするのは、うちの隊ではあの人しか思
い当たらなかった。
しかもまた古い歌をチョイスするよな⋮⋮。
竹林を抜け小さな川のせせらぎを跨いだ所、庭石に腰掛けて五弦
琵琶を抱いているのは、やはり美咲さんだった。
﹁ジミーペイジかよ⋮⋮﹂
美咲さんの奏でる﹃移民の歌﹄を聞き、乃江さん、山科さんがお
茶を啜り、真琴と宮之阪さんがにこやかに談笑していた。
その側に淡い桃色の衣装を着た女性達が立ち、美咲さんの聞きな
れない旋律を珍しげに聞きいっていた。
1198
⋮⋮顔立ちがなんとなくトウカに似ている。
俺の指差す仕草を横目に、トウカはなにも答えず苦笑しているだ
けだった。
女性達は俺達の存在に気が付き、歓声をあげた。
﹁煩くてすまぬな。この里に人が訪ねる事など滅多に無い、それ故
に妹達がはしゃいておるじゃ﹂
トウカが手招くと、ウズウズしていた妹達が一斉に俺達を取り囲
んだ。
しにおん
﹁わぁ⋮⋮背が高い⋮⋮﹂
左にのみ髪を束ね、お団子結びをしている小さなトウカが、手を
さんご
高く上げてぴょんぴょんと飛び跳ねている。
さんご
﹁珊瑚、はしたないカモですよ﹂
なでしこ
飛び跳ねた珊瑚の袖を引き、たしなめる娘。丁度珊瑚と左右対称
にお団子結びをし、顔立ちも珊瑚と瓜二つだった。
﹁え∼、人間の男なんて珍しい生き物じゃない? それより撫子も
匂いを嗅いでみて? なんか不思議な匂いがするから!﹂
なでしこ
そう言いながら、くんくんと鼻を鳴らし、俺の胸に顔を埋めた。
隣で見ていた撫子も、その様子を見習い、同じように顔を近づけ
て匂いを嗅いできた。
丁度カナタと同じくらいの年齢に見える二人。おそらく双子の姉
妹なのだろう。
1199
さんご
﹁ホントだね。珊瑚の言う通り⋮⋮﹂
﹁でしょでしょでしょ?﹂
なんだか微笑ましいんだが、もの凄∼くこそばゆい。
トウカは二人の襟元を摘み、子猫を抱え上げるように引き離して
くれた。
﹁二人ともはしたない。客人に迷惑じゃろう?﹂
引き剥がされた二人の子猫は、ブーブーと不満のブーイングを鳴
トウカ
らし、手をバタバタと上下してもがいている。
さ
﹁あー、桃花お姉さまが、人間の男を独り占めしようとしてる∼。
私達わかるもんね。わかっちゃうもんね∼﹂
んご
なでしこ
手をあごに当て、意味深な素振りでトウカをジト目で見つめる珊
瑚。
その横で撫子も同じ素振りで、コクコクと頷いてみせる撫子。
﹁私達姉妹は男性の好みが似るっていいますからね。隠し事は出来
さんご
なでしこ
ませんよ∼﹂
珊瑚と撫子は、そう言ってトウカの袖にぶら下がった。
この二人はすっげぇ元気だ。まるでイタズラ好きな妖精そのもの
だな。
﹁カオル、この子達の言う事など気にするでない⋮⋮﹂
ゴホンと咳払いして、俺に釘を刺してくるトウカ。頬を赤く染め
1200
て恥らいの表情を浮かべている。
そんな事を言われても⋮⋮。そんな顔で言われると余計に意識し
トウカ
てしまうじゃないか⋮⋮。
さんご
﹁わ∼、桃花お姉さまが赤くなってる∼﹂
﹁ほんとだ、図星ってヤツだね、珊瑚!﹂
そう言いながら、トウカの元を離れ、キャーキャーと走り回って
大騒ぎしている。
つね
そんな二人を眺めながら、美咲さん達がクスクスと笑っている。
カナタだけは俺の側に立ち、無表情で俺の手をギュっと抓ってい
る。⋮⋮てか、痛てぇよ。
なでしこ
トウカは再び大きく咳払いをして、女性達の前に立った。そして
さんご
くつろぐ俺達に妹達を紹介してくれた。
しののめ
くれない
﹁この小うるさいのが、珊瑚、双子の妹で撫子、その奥に控えるの
が東雲と紅じゃ﹂
しののめ
くれない
二人の子猫珊瑚と撫子を優しく抱くように、寄り添う二人。
東雲と紹介された女性はトウカより少し若く、紅と呼ばれた女性
は俺達と同年代に見える。
しののめ
どの年代の彼女らも、それぞれに儚く美しい。
しののめ
﹁東雲は、琵琶の名手。奏でる音は聞く者全てを、穏やかな気持ち
にさせてくれる﹂
トウカの紹介にあわせて、ペコリと頭を下げた東雲。恥らう表情
がスレてないトウカみたいでカワイイ。
そう思った矢先に、ピクリ!と何かを感じとったトウカは、ジト
1201
目で俺を睨みつけた。なんだか心の中を読まれているような気がす
る⋮⋮。トウカの悪口は慎もう。
げっきん
にこ
﹁この双子は珊瑚と撫子。少し落ち着きが無いのが難点じゃが、珊
瑚が月琴、撫子が二胡の名手じゃ﹂
珊瑚と撫子は手を振って軽やかに笑う。無邪気で元気いっぱいだ。
うぐいすつぐみ
琵琶より小ぶりな弦楽器、月琴と、東洋のバイオリンと呼ばれる
二胡︵胡弓︶か。
﹁最後に紅は楽器を使いこなす事は苦手じゃが、その歌声は鶯や鶫
でさえ霞ませる。それに⋮⋮﹂
紅は褒められて、袖で顔を隠してしまった。ちらりと見える顔は、
真っ赤に染まっている。相当の恥ずかしがり屋さんだな。
くれない
トウカは乃江さんを手招きし、にこやかに紹介を続けた。
﹁紅は武術の達人じゃ、乃江が望めば手合わせさせても良いがの?﹂
その一言で乃江さんの顔つきが豹変した。
好敵手を求めてやまない乃江さんには、異世界の武術の名手とい
う響きは、何ものにも変えがたい魅力を感じるのだろう。
﹁是非に⋮⋮﹂
久しぶりに見た嬉しそうな乃江さんの表情だった。
美咲さんのかき鳴らす﹃移民の歌﹄がピッタリの状況に変わって
いった。
1202
﹃美咲隊の慰安旅行 03﹄︵後書き︶
ジミーペイジ:天才って言っていい位のギタリスト。もはや古臭い
と言われてしかるべきレッドツェッペリンですが、ボーナムのドラ
ムと双璧をなして﹃グッと来る﹄バンドの一つでもあります。
移民の歌は、耳慣れたコーラスだと思います。ようつべとかで聴い
て見て下さい。
コロンブス以前にアメリカ大陸に上陸したバイキングの歌だったと
思います。
雄雄しくてファンタジックで好きです。
1203
﹃美咲隊の慰安旅行 04﹄
くれない
平らな芝生の上に乃江さんと紅が立ち、歩を進めて距離を取った。
見合う二人の間は3メートルほど、一歩踏み込めば打撃を打てる
最良の距離と言える。
乃江さんは肩幅に足を広げ、左手を胸の位置、右手を腰の位置に
くれない
手をおさめ、軽く拳を握っている。
くれない
対する紅は、足を閉じ直立不動の状態で、手をだらりと下げて微
笑んだ。
一見隙だらけの紅の姿だが、どの状態への準備状態にも見えるか
ら不思議だ。
俺は美咲さんの隣に座り、見守る美咲さんに問いかけた。
﹁美咲さん、この戦いをどう思います?﹂
トウカが段取りしたこの勝負。その意味について考えていた。ト
ウカの事だから何か考えがあっての事だと思うのだが⋮⋮。
まず⋮⋮、なぜ乃江さんなのか。
我が隊最強の拳術使いである事は、俺を含め全員異論は無い筈だ。
けれどなぜ、こちらの土俵で戦うのか⋮⋮、それが気になる。
﹁カオルさん、中国武術についての知識は?﹂
中国武術の知識⋮⋮ねぇ。香港スターの武術物の映画はもれなく
なかみがない
見ているし、ハリウッド物もおさえてる。
ほとんどがマカロニウエスタンな作品ばっかりだが、弱い主人公
が修行の上強くなる所や、仇討ち物、勧善懲悪の分かり易い世界観。
肩肘張らずに見られるのが特徴だ。
特に俺はその手の映画は必ず見る方だな。
1204
﹁映画でなら一通り見てます﹂
中国武術についての知識と問われて、10年ほど修行を⋮⋮なん
て答えれる人間は一握りだ。
ほとんどの人々は、そういう知識は皆無であり、テレビで見た事
がある程度だろう。
﹁真倉の家も天野の家も、霊気のコントロールや呼吸法を学ぶのに、
陳式太極拳と八卦掌を学びます。けれど⋮⋮﹂
太極拳は健康体操と思われがちだが、拳法として見る太極拳の套
路とか、空手のナイファンチなどより強く荒々しい風格がある。
そう言えば乃江さんの受けの型は、泊手の受けの型ではない。空
手系は打ち掃う形だし、太極拳の推手の流れかもしれないな。
﹁拳術の強さは、より多くの武術を修めた者が強いのではなく、一
くれない
つの事を突き詰めて極めた者が強い。人には学ぶ年月に限界があり
ますが、紅はどうでしょうか?﹂
確かにそれは言える。空手が中国武術より強いか弱いか、そんな
事はどうでも良い。重要な事はどれだけ技を磨いたかと言う事だ。
正拳一つにしても模倣するのは容易いが、本当の正拳を打てるに
は途方も無い時間が必要になる。
沖縄古流の神クラス、赤帯の先生のビデオを見せてもらった事が
あるが、まだ正拳すら極めていないとコメントしていた。
数年に一度、偶然にその域の技を出せるのだとか。
俺の目には全ての技が完成しているように見えたが、長年修練を
積んだからこそ見えてくる境地もあるのだと思わされた。
それ程に奥が深いものなのだ。
1205
﹁トウカほど長寿じゃないにしても、数千年⋮⋮。その錬度の技っ
てのは興味がありますね﹂
是非にと乞うた乃江さんの気持ちがよく分かる。
これから見るのは、人間界ではありえない程の練られた技だ。
よく見ると乃江さんも無表情を装っているが、とても楽しそうな
のがよく分かる。口元の締まり具合がミリ単位で変化しているもん
な。
﹁そろそろ始まりそうですね﹂
雰囲気を察した撫子が、二胡の弦に弓をそっと落とした。
その音色に合わせて、珊瑚が月琴を鳴らし、東雲は琵琶の音色で
二つの個性を調和させた。
﹁始めよ﹂
トウカの声が響き渡り、二人の間に緊張が走った。
くれない
二人の間を緩やかに風が吹き、竹林に葉擦れの音を響かせた。
乃江さんが先に動き、独特の歩法で間合いを縮め、一挙動で紅の
くれない
頭部へ拳を振るった。
紅は速さと強さを兼ね備えた正拳をものともせず、手をひらりと
舞を踊るように受け流した。
くれない
拳の踏み込みの分重心が前に移り、お互いの距離がゼロに縮まっ
た。足と足、胸と胸がピタリと付くほどの距離で、驚いた事に紅の
連打が乃江さんを痛打した。
手を擦り合わせるような独特の手技、伸び手で打つ基本を無視し
たような連打は⋮⋮。
1206
﹁詠春拳だ⋮⋮﹂
あまりに有名すぎる拳法。ブルースリーが学んだという詠春拳だ
った。
人と人の戦いの場合、ルールに縛られない限り、最適な距離で殴
りあうなんて事にはならない。
ルールに縛られた状態だからこそ、ボクシングという競技が成り
立つのだ。クリンチに近い状態が、攻撃を抑える最良の方法だから。
喧嘩にしてもそう、最初の一発目は距離を取るものだが、二手目
からは今の様にゼロ距離、いわゆる組んだ状態になる事がほとんど
だ。
そうなると腰の乗ったパンチなど打てない。詠春拳はそういう距
くれない
離で戦うに適した拳法の一つなのだ。
﹁紅の立ち姿が足を開いた馬歩で無い所から、乃江も予想はしてい
たのでは?﹂
美咲さんの余裕の解説。乃江さんも木偶のようにその連打を受け
た訳ではない。
ほとんどの有効打を見切り、肘と首の動きだけで避けている。
北方の拳術は騎馬状態を想定して構える。海側で栄えた南の拳法
は騎馬立ちする事無く、船の上、細い路地で戦う為、独特の構えを
する事が多い。
くれない
しかし、長考状態で残像すら感じさせるあの連打を、ものの見事
に避けている乃江さんがスゴイ。
くれない
そして避けつつも距離を更に縮め、体を重ねるように紅に肩を入
れ、距離を稼いだ。
﹁乃江さんは霊力で底上げしてますけど、紅はあくまで技だけで戦
っています。底が見えなくて怖いですね⋮⋮﹂
1207
あくまでも少女のような膂力で、人の技を駆使して戦っているの
だ。
最初の正拳を受け流したのも、ここしかないというタイミングで
の崩しだった。
詠春拳のラッシュも、あくまで人のレベルの技。だけど一発一発
くれない
が狙撃兵の弾丸の様に、正確無比に急所を狙って来るのだ。それが
恐ろしい。
距離を取った二人の様相に変化が生じた。棒立ちだった紅が乃江
さんに構えを見せたのだ。
﹁あの構えは⋮⋮﹂
演舞する様に、円を描く歩法。これは美咲さんの言っていた八卦
掌ではないか?
美咲さんもその動きに目を奪われ、コクリと頷くのが精一杯の様
子。
くれない
映画で見た八卦掌の走圏は、頼りなく意味の無いモノに見えたが、
紅のソレは獲物を狙う蛇の動き。
頭を揺すり、胴はターゲットを取り巻いていく様な怖さがある。
大振りの手が空を舞い、頭上から打ち下ろし、着地した脚はすぐ
さま乃江さんの顎を捉えようと、蹴り上げられた。
くれない
その双方の攻撃をかわし、一歩下がって拳を強く握った。
乃江さんの脚が攻撃に転じようかと言う刹那に、紅の口が初めて
開かれ、凛とした声が響き渡った。
﹁乃江﹂
鳥達が意気消沈して鳴くのを止める声⋮⋮、その評価に相応しい
美声だった。
1208
くれない
紅は首を緩やかに振り、手本を示すように、手を脱力させ肩を揺
すり、掌をピンと伸ばした。
くれない
そして事もあろうか、無防備のまま乃江さんの肩に触れ、肩と腰
の位置を整えさせた。
決して険しい顔で嗜めているのでは無く、紅の顔もにこやか。ま
るで友達と一緒にダンスの練習を勤しむように。
﹁体内の気を一度収めて、大気と一体化するように⋮⋮﹂
両手で円を描き、少しばかりの長い呼吸、吸って、吐いてを繰り
返す。乃江さんもそれにあわせて円の動きを模倣し、呼吸をあわせ
た。
﹁めぐらせた気は体を強く保つ事が出来ますが、筋肉はしなやかさ
くれない
を失い、本当の強さが出せません﹂
紅の言う意味が俺にはよく分かる。
綾乃さんにあって、乃江さんにない物、それはしなやかさと適度
な脱力だ。
例えていうなら乃江さんは、破城槌。力強く一点に破壊の力を伝
えてくる。
まだ俺の域ではそれを避ける術はないが、同等の力量を持つ者に
は、打点をずらす事が出来るのではないかと予想していた。
対する綾乃さんは、戦いの巧者。常に脱力を試み、虚を突く動き
が俊敏だ。打法も肉体を強化し打つのではない。しなやかな鞭の動
きで手を振るい、そこから肉体の強化を始め、インパクトの瞬間に
強化が完了する、二段ロケットの速さと破城槌の強さを兼ね備えて
いた。
﹁だんだんトウカの意図する事がわかってきた気がします﹂
1209
くれない
トウカの目、紅の目から見ると、乃江さんは描きかけのキャンパ
ス。
下絵の済んだ状態で、色を乗せる白とグレーの素地に見るのかも
くれない
しれない。いや⋮⋮、もしかするとまっさらのキャンパスに見える
のかも
﹁最後に⋮⋮、乃江の一番良い動きを見せてください﹂
くれない
そう言って一歩下がり、乃江さんの射程上に身を置いた紅。掌を
開き頭上に掲げ、もう一方の手は腰の位置で留めた。
くれない
乃江さんは吸息を一瞬止め、踏み込む脚を鳴り響かせ、紅の腹部
に正拳を押し当てた。
その正拳は肩の入れと腰の振りを拳に伝える前に、紅の手に巻き
くれない
取られた。
紅は巻き取った手を胸に、腰で構えた手をそれに添うように合わ
せた。
﹁︱︱双掌打﹂
俺の心の声が言葉に変換される前に、静かに勝負はついた。
くれない
﹁︱︱︱︱﹂
紅の掌打が乃江さんを粉砕する事は無かった。撫でる様に優しく
乃江さんを突き飛ばし、乃江さんから背を向けた。
あれが本気の双掌打なら、乃江さんの心臓は即停止、数メートル
ぶっ飛ばされて事切れていただろう。
それほど完璧なカウンターだった。
俺の攻撃に当てはめると、剣で掃い突く。ただそれだけの単純な
1210
くれない
動作だか、頭で思い描いても実際にあの動きは出来ない。
結局の所、人の膂力で戦った紅に、乃江さんは何一つ出来なかっ
た。
トウカは乃江の肩をポンポンと叩き、力の入った筋肉をほぐし、
優しく声を掛けた。
﹁あの域に達してみたいと思わんか?﹂
意気消沈していた乃江さんの表情が一変した。
くれない
貪欲に欲するような目ではなく、どちらかと言うと戸惑いを湛え
くれない
た目で。
﹁紅はな⋮⋮、気に入った者でないと話をせんのじゃ。その紅が話
すだけではなく手解きして見せた⋮⋮、数千年来そう言った事をし
くれない
た事がない。乃江を相当気に入っている様子じゃ﹂
背を向けて無言で立つ紅からは、想像もつかない評価だった。
くれない
乃江さんは唇をグッと噛み締め、喜びの表情を噛み殺した。そし
て紅の元へ歩み寄り、両の手を握り頭を下げた。
くれない
﹁この未熟者に指南していただけませんか?﹂
くれない
スッと頭を上げ、紅を見つめた乃江さん。目と目が合い、途端に
紅の顔が赤く染まっていく。
まるで茹蛸のように赤く、見つめられる目に戸惑い、恥ずかしそ
うに揺らし見つめ返した。
﹁あ⋮⋮﹂
山科さんの呆気に取られた声があがる。
1211
おなご
そうだ⋮⋮、乃江さんの必殺技が炸裂しているのだ。
﹃女子の心を虜にする魅了﹄
実際に見るのは初めてだが、まさかこれほどのパワーを持ってい
るとは⋮⋮。
心の中の俺ノートに、今の技をメモした。⋮⋮これは使える。⋮
⋮要チェックや。
くれない
まさに肉を切らせて骨を立つ⋮⋮いや骨抜きにした。この勝負は
乃江さんの勝ちかもしれない。
意図せずに魅了している天然の乃江さんは、了承されるまで紅の
くれない
手を離さない。
対する紅も羞恥の限界なのだろうか、声も出せずに潤んだ瞳で見
つめ返すのがやっとだった。
︱︱まるでタカラヅカのエンディングの様なシーンだった。
ほくそえんだ珊瑚も撫子も東雲も、それっぽい曲にチェンジして、
雰囲気を盛り上げている。
くれない
トウカは俺の元へ歩み寄り、そっと耳打ちをしてくれた。
﹁紅はの、人見知りが過ぎて里の者達とも交流がない。端的に言う
と友達がおらんのじゃ。乃江ならもしかすると⋮⋮と思っての﹂
!!! トモダチヅクリ?
俺達に武術のなんたるかを教える為じゃなかったのか。
くれない
呆気に取られている俺の表情を見て、トウカが慌てて取りなした。
﹁あっ、いや、乃江もな⋮⋮、紅と出会うことは、プラスに働くじ
ゃろうと⋮⋮思うて⋮⋮の?﹂
絶対ウソだ。偶然上手くいっただけだろ?
1212
苦笑して俺の背中をバンバンと叩くトウカ。そんな些細な事は気
くれない
にするなってか?
くれない
まあ良いか。紅の手解きを受けたら乃江さんは確実に強くなれる。
紅もお友達が出来て大団円としよう。
芝生の上は冷えると言う事で、近くの東屋に避難した俺達。
トウカの妹達が用意した茶請けの菓子とお茶を啜り、ため息をつ
いて人心地をついた。
﹁という事で、大分寄り道しちゃいましたけど、慰安旅行の相談で
もしちゃいましょうか?﹂
美咲さんは手をポンと叩いて、その場を取り纏めた。
俺達は当初の予定通り、目的地を絞り込む相談に花を咲かせた。
オーストラリアは都市により、様相が一変するらしい。気候も熱
帯から温暖な気候までさまざま。
紫外線の量が半端無く多いらしく、紫外線対策は男でも必要なの
だとか。
海を満喫しながら観光も楽しめる街ゴールドコースト。
本気で海を楽しむなら、ケアンズ、グレートバリアリーフ。
古風な西洋建築と歴史の街、メルボルン。
シドニー、アデレード、ダーウィン⋮⋮、それぞれの間が空路で
移動を余儀なくされるほど広大な国だ。
長期の滞在ならともかく、俺達は1週間程の短期旅行だ。数多く
の都市を巡るより、数箇所に絞って滞在する方が楽しめるとの判断
だった。
﹁うち、ゴールドコースト希望∼、宿泊先はコンラッドジュピター
1213
ズホテル限定でな﹂
旅行パンフレットを手に、ニンマリと笑う山科さん。仙界に旅行
のパンフレットを忍ばせる周到さには恐れ入る。
そして相変わらず決断が速ええ。
ゴールドコーストって響きはスゴイ良いんだけどな。﹃黄金海岸﹄
だし、なにか金でも落ちていそうな感じ。
そんなえびす顔の山科さんに、乃江さんがため息を一つ吐き、冷
たく言葉を浴びせかけた。
﹁見え見えの考えだが、国営カジノは18歳以上でないと入場出来
ない。そうなるとカジノホテルに泊まる必要もない。コンラッドジ
ュピターズはパスだな﹂
その言葉を聞き、この世の終わりを表情で表わし、風船がしぼん
だように萎れていく山科さん。よっぽどカジノに行きたかったんだ
⋮⋮。
俺もちょっと興味が惹かれたけど、年齢制限があるならダメだな。
もし潜りこめても支払いしてくれないだろうし、負けに行くような
ものだ。
そんな萎れた山科さんを見て美咲さんが、とても危険な一言を口
にした。
﹁国営はダメだけど、非合法カジノなら知ってますよ。レートも半
端じゃないですけど﹂
その一言で山科さんの目がピカーンと光り輝いた。
﹁豪ドルは70円チョイや。最小単価が10や100なら全然イケ
るで? 一発儲けてカァ∼っと花火のような人生送ろうや?﹂
1214
俺マジでパス。俺は慎ましやかに生きていたい。それに最小単価
700円とかありえないっす。
コインゲームを想像するに、コイン一枚700円∼7000円っ
て事だろ? ポーカーゲームするのにどんだけ使うんだよ。
俺と同じ計算をしたのか、真琴が苦笑いを浮かべて滝汗を掻いて
いる。
我が姉と慕う山科さんの奇行に、嗜めることも出来ずにいて、い
ざ旅行に行けばいの一番に犠牲になるのは真琴だ。近未来の不幸が
見えているのだろう。
がんばれ⋮⋮真琴。俺は絶対逃げるから⋮⋮。
﹁私は⋮⋮ペンギンの群れ⋮⋮が見たい⋮⋮﹂
宮之阪さんが指差すのは、メルボルンから空で二時間。フェアリ
ーペンギンの海岸パレードが見れる記事を指差している。
ペンギンと言うより、雛のような小さな可愛らしいペンギン達が
数十匹ほど、砂浜を歩く姿が写真に写し出されて、⋮⋮とてもカワ
イイ。
海に狩りをしに出かけた群れが、子供達の待つ家に帰る、その上
陸のシーンを見るツアーのようだった。
これには全員が毒気を抜かれ、目をウルウルしながら見入ってい
た。
﹁メルボルン⋮⋮決定﹂
無類のカワイイ物好きな乃江さんが、紙に﹁メルボルン決定﹂と
記述し、ついでにホテル名を数箇所ピックアップして書き込んだ。
その有無を言わせぬ速さと迫力は、山科さん顔負けのモノだった。
1215
﹁メルボルンは英国式の歴史的建造物が多くて、街並みに歴史を感
じれますから、散歩するだけでも面白いですよ﹂
強引な乃江さんをフォローするように、美咲さんが説明を入れて
くれた。
確かに石作りの建物とか、複雑な洋風建築も見てて面白い。
所々で遊びが入っていて、ビルの四隅に動物の絵が描かれていた
り、羊のブロンズ像が建物を支えていたりするんだよな。
無機質の近代的な建物より、古臭い建物は見てて飽きない。写真
写りも良いからね。
その後、数時間の検討会を経て、ゴールドコースト↓メルボルン
↓シドニーの三都市に滞在する事に決定した。
﹁服装はほとんどカジュアルな物で構いませんが、正装を数点お持
ちになってください。場所によっては服装で拒否されますからね﹂
美咲さんがニコニコし、俺と真琴は凍りついた。
なんだ?正装って⋮⋮。燕尾服とかタキシードとか?
ついでに言うと、旅行鞄なんて持ってねぇ。そんな大量の服なん
て、スーツケース要るじゃないか⋮⋮。
﹁カッチリとしたスーツじゃなくて、カジュアルスーツでも、仕立
てが良いとそれなりに見えますから⋮⋮、非合法カジノとか⋮⋮、
服装で舐められますよ?﹂
カァ∼ッ! だから、行かねーってばよ。
なんか知らない間に、全員カジノに行くことになってる気がする
よ⋮⋮。くうぅ。
1216
﹁真琴⋮⋮、急ぎで買いに行かんと、仕立て間に合わんぞ⋮⋮。明
日の放課後にでも行こうか⋮⋮﹂
コクリと頷いて渋い顔をする真琴と、同様の顔つきで腕を組む俺
⋮⋮。
明日採寸してオーダーして貰って、運が良ければ旅行に間に合う。
むしろ間に合う物を探しに行くってのが目的になりそうだ。
小隊一・二を争う庶民派二人には、海外旅行はハードル高けえ。
﹁向こうは生活必需品は安くて、贅沢品の課税率はもの凄いらしい
で? 部屋着とかその手のヤツは、適当に向こうで買うっちゅうの
も、ええかもな?﹂
そういや食料品が安く、嗜好品は激高らしい。俺達には関係ない
がタバコも激高、マジで1000円近くするらしい。
車も日本で400万位で買えるものが、向こうでは700万位か
かるとか。
﹁ん? まてよ﹂
当初の懸案事項だった、刀剣類の持込の話。それが紆余曲折して
ここへ来たが、解決の方法を聞いていない。
それがブレイクスルーしないと、オーストラリア行きは無しだ。
﹁トウカ? 短剣の持ち込みは、あの紙を使用するのか?﹂
くれない
トウカが首をかしげて考え込む。
そして乃江さんと紅を見つめて、再び考え込んだ。
1217
﹁そうじゃの、紋様のある紙一つで片方向の移動が可能になる。二
枚あれば行きと帰りをフォロー出来る。故に合計四枚あれば単独で
行き帰りして、守り刀とナイフを置きに来れるじゃろ﹂
置く為の一枚、取りに来る一枚か⋮⋮。て事は一枚で往復出来る
と言う事か。
﹁けれどその必要もなさそうじゃが﹂
くれない
再び乃江さんと見つめて微笑んだ。
くれない
トウカは紅に耳打ちして、なにやら相談を行っている。
紅は、自分の胸元へ手を入れ、ふくよかな双丘からペンダントを
取り出した。
くれない
俺のナイフの紋様が飾り彫りされた銀製のペンダントだった。
くれない
紅は乃江の首へ手を回し、その銀のペンダントを掛けさせた。
﹁これは?﹂
くれない
胸の前にぶら下がる飾りを手に取り、乃江さんが紅に問うた。
紅は俯きながら、小さな声で囁いた。
﹁乃江様が我を欲するとき、いつでも参上できる為の証。手解きの
時も危機の時も﹂
まるで恋人が意中の人へプレゼントをするかのような、くそ暑苦
しい有様だった。
周りの面々も頬をポリポリと所在無い。
俺もちょっとお邪魔かなと思わされるほど、居心地悪いです。
﹁霊気を通し、この場を思い浮かべれば、道を開く事が出来る。カ
1218
オルの剣も乃江の飾りもな﹂
なるほど⋮⋮。乃江さんに道を開いて貰えれば、行き来が出来る
と言う訳か。
単独で送り込まれても、俺のナイフで符を作れば帰れると。
くれない
﹁乃江様はご自由にこの場を行き来できますから、いつでもお手合
くれない
わせできますね﹂
紅が満面の笑みを湛え、乃江さんも紅を見つめて、微笑み返した。
あ∼、お似合いのカップルに見えるとか言えば、ぶっ飛ばされる
んだろうな。いつの間にか呼び名も﹃乃江﹄から﹃乃江様﹄にラン
クアップしてるし。
﹁あ∼っ!! 珊瑚も現世に行きたい∼﹂
﹁わたしもわたしも!!﹂
ちびトウカの二人が騒ぎ出した。まるでお腹を空かせた猫の騒ぎ
様だった。
騒がしすぎて大変だから来て欲しくないんだけど⋮⋮。
ギャースカと聞き分けのない駄々っ子達を、東雲があやしそっと
耳打ちをして落ち着かせた。
﹁すごいな東雲って、一発で二人を大人しくさせるなんて⋮⋮﹂
嵐の様に騒ぐ子猫達を、あやしきるお姉さん。こういう所はトウ
カの上を行っている気がするな。
そんな尊敬の眼差しに、ニコリと笑って東雲が手を振り恐縮する。
1219
﹁いえいえ、大した事ではございません。時空歪曲の紋様があるの
だから、私達も行けば良いじゃないと言っただけですから﹂
ふふふと笑う東雲の顔を見て、真琴が震え涙目になった。
これはまさしく美咲さんのダークオーラそのものだった。
トウカはその顔を見て、疲れ果てた様にため息をついたのだった。
俺はふと思った。
もしかしてトウカが一番まともな性格をしているかも知れない。
そして気苦労も絶えないだろうな⋮⋮と。
1220
﹃インテルメディオ ファントム﹄
夕暮れ時を少し過ぎた時刻、車通りの激しい道を一本入り、うら
ぶれた路地の一角でバイクを停車させた。
ヘルメットのバイザーを引き上げ、駅前の雑居ビルを下から眺め、
言葉が漏れた。
﹁相変わらず怪しげなビルだぜ⋮⋮﹂
聞いた事の無い看板がこじんまりと掲げられて、夕暮れ時だとい
うのに窓から漏れる灯りなど皆無。
残業のない会社ばかりという考え方もあるが、このご時世にそん
な余裕のある会社が、こんな雑居ビルに事務所を構えている訳ねえ
って。
社員一名とか登記だけの幽霊会社が軒を並べていそうで怖い。
何度かここへ足を運んだ事があるが、居眠りしている守衛しか見
たことねえし。
﹁まあ⋮⋮、胡散臭さの根源は、あの事務所かも知れんがな﹂
あさまでどっぷり
そう言いつつポケットの札入れを開き、諭吉の枚数を数えた。
ひい、ふう、みい⋮⋮の10枚か、フルコースになるとちょっと
心細いが、そんときゃコンビニATMのお世話になるか。
愛車を停め、携帯錠をブレーキローターに引っ掛けた。
当然の事ながら正面玄関は閉まっているが、勝手知ったるなんと
やらで非常口から堂々と侵入を試みた。
﹁うぃ∼っす﹂
1221
相変わらず寝てるのか起きてるのか分からねえ守衛をスルーし、
小汚ねぇエレベータに乗った。
階指定のボタン達は、擦り切れちまって色あせて見える⋮⋮、あ
る階を除いてな。
﹁偽装工作がなってねぇな⋮⋮、玄人がみりゃ怪しむだろうが﹂
所詮は公務員の考える事だ、どこか抜けている。
ぶっちゃけテロ対策するなら、上下の階も押さえて置くべきだと
思うのだが。
安物臭いベルの音が鳴り、階到着の合図を知らせてくれた。
文字盤のランプが一部死んでるから、このベルの音は有り難かっ
たりするのだが。
ビニールタイルが敷き詰められた廊下を歩き、ある事務所の前に
到着した。
﹃青島貿易﹄
鉄の扉に書かれた部屋番号と、その真下に申し訳程度の会社表記。
アオシマなのかチンタオなのかさえわかんねえが、とにかく貿易
やってますっぽい名前だな。
社名が変わってるような気がするが、遊んでるとしか思えねえな。
俺はノック代わりに挨拶を入れて、事務所内に足を踏み入れた。
﹁ひゃほ∼い、亜里沙ちゃんお元気?﹂
扉を開けたすぐにパーティションが置かれ、その奥に広々とした
事務所がある。その中央に机が寂しげに一つ。
黒のストッキングに包まれた美脚を机の上に投げ出し、膝の上に
抱きかかえたノートパソコンへ指を走らせている。
1222
﹁うっす! ファントムちゃん?﹂
亜里沙ちゃんこと東山亜里沙は、振り向きもせずにおっさん臭い
挨拶を返した。
ブラインドの閉じられた薄暗い事務所。その奥には分不相応な設
備⋮⋮、浮き床とアクリルパネルで完全に仕切られたサーバ室から
は、ファンの高周波音が鳴り響いている。
そしてサーバ室の中には、ネットワーク機器とサーバが詰め込ま
れた19インチラックが乱立していた。
隔離されているとはいえ、相変わらずうるさい部屋だこと。
﹁まさか辺境の地で埋没しかけた、公務員をデートにでも誘いに来
た?﹂
﹁そのまさか﹂
適当に話を合わせた訳じゃねえ。
みっしょん
こいつには少しばかり借りがあって、そいつを返しに来たっての
が本日の用事。
亜里沙ちゃんこと東山亜里沙は、このサーバ室の番人をしている。
表の看板は適当に捏造してるが、裏の事業は退魔士の地区情報室。
日本中にある退魔士の情報をつかさどる網の一端だ。
中央の省庁内にあるメインサーバの一部、レプリケートされた情
報をディザスタ・リカバリする為の施設の内の一つ。
ぶっちゃけここらの退魔士達は、意図せずにこのサーバ達に接続
されるのだ。
そして亜里沙が言うように、公務員っちゃ公務員だが、筋金入り
の省庁キャリア組だったりするのだが⋮⋮。
1223
あさまでどっぷり
﹁前に俺のデータベースを改竄して貰ったっしょ? そのお礼を兼
ねて、亜里沙ちゃんとフルコースしようかと思ってね﹂
東山亜里沙のおかげでデータの改竄、閲覧が特権で可能になって
いる。
魔物の情報も最優先で俺に入り、調査の依頼も亜里沙経由で仕入
れている。
無論報酬もそれなりに要求されるが、そこらの情報屋なんか話に
ならない程の正確な情報だ⋮⋮、このパイプは手放せない。
俺が﹃ファントム﹄でいられるのも、この亜里沙のお陰でもある
のだ。
﹁うぐぅ⋮⋮残念ながら、私は今まさに生理になったばかり。お腹
痛いのでフルコースはだめよん﹂
お腹を擦りながらも、ノートPCから目を離さない。
相変わらずの仕事の虫だ。職務態度は最低だが、こいつは出来る
部類の女だ。それも特上のな⋮⋮。
俺は無防備な背中に回りこみ、両の手でうなじを抱きながら、⋮
⋮⋮⋮力一杯脱力した。
﹁インターネット囲碁かよ⋮⋮﹂
ちょっとでも褒めた自分が悲しくなってきた。
俺への挨拶がおざなりだったのは、インターネット囲碁に負けた
ということか⋮⋮。自信喪失してしまいそうだ。
﹁いやいや、この人中々の凄腕で、指南を希望して一局打って貰っ
ていたの﹂
1224
画面をみたら﹁ARISA﹂と﹁KYO﹂と表示されていた。対
戦者はKYOか。
俺も囲碁はたしなむ程度には知っている。吉原由香里のファンだ
からな。
﹁メシどうする?﹂
﹁生理は嘘だけど、今日は勝負パンツ履いてないから、お泊りはパ
スしたい。でもメシは奢って欲しい﹂
抜群のスタイルと美貌を持ちながら、東山亜里沙はサバサバした
性格だったりする。
だがこういうハッキリとした物言いは嫌いじゃない。
﹁んじゃ、対戦者に挨拶してメシにしようぜ﹂
﹁あいよう﹂
亜里沙は流れるように指先を動かし、チャットウインドウに高速
打鍵する。
< ママがご飯食べなさいってうるさいの。KYOさんごめんね、
今日はここまで。
> こんな時間になっていたか。こちらこそ気づかず申し訳ない。
KYOってヤツ、布石に厚みがあって面白い打ち方をするヤツだ
が、チャット慣れしてない口調だな。
って事は、どこかの親父か?
< また教えてね︵はあと。
1225
> よろしく、ではでは⋮⋮。
亜里沙もかなり年齢詐称気味なキャラ作りしてるな。
実物見たらKYOってヤツ、ぶっ飛ぶんじゃないか?
KYOのログアウトを確認し自分も落ち、CTRL+ESCでO
Sのシャットダウンを速やかに行った。
ハードディスクの切ない断末魔を聞き、ノートPCを折りたたん
だ亜里沙は、サーバ室の鍵を確認して上着を羽織った。
﹁泥棒に入られると、速攻で左遷だから⋮⋮。あ∼、ここ以下の場
所はそんなに無いか⋮⋮﹂
泥棒なんて入れっこないのだが⋮⋮。
古臭いビルではあるが、この階は特殊な作りになっている。階段
からは防火扉が閉じたまま、階段経由でこの階に来る事が出来ない。
エレベータも亜里沙不在時は、この階に停まらない仕様になって
いる。
まさに消防法を無視したような作りだったりする。
きちんとした手順を踏まなければ、床下に設置された指向性爆弾
︵ゴム弾︶が破裂するし、サーバ室をこじ開ければ、天井裏から入
り口付近を掃討する。
まさに地雷原みたいな事務所の作りになっている。
そういう設備にさせたのは、俺のせいでもあるのだが⋮⋮。
亜里沙との出会いは一年前の⋮⋮、うだるような熱帯夜だった。
その頃の俺は孤立無援の一匹狼、気の利いた情報屋の一人も持た
いちげん
ずに焦っていた。
そんな中で一見の情報屋に売ってもらったのが、この施設の場所
だった。
退魔データへのアクセス、中央省庁へのハッキングが可能になる
1226
拠点サーバの所在は、喉から手が出るほど欲しい情報の一つだった。
今思い返すと、相当焦っていたのだろう。
早速俺は、人の不在になる時間を見計らい、事務所に侵入した。
きーぼーどびでおでぃすぷれいまうす
呆気ないほどに容易く進入でき、その時も公務員のする事は間が
抜けていると笑ったものだ。
俺はサーバ室のロックを解除し、意気揚々と1UのKVMを引き
出した。
﹁泥棒さん、手を上げて﹂
迂闊な事に、サーバのファンの金きり音にまぎれた、亜里沙の寝
息に気が付かなかった。
サーバ室の奥に設置された長椅子の上、毛布にくるまれた細い体
が、こちらへ銃口を向けていた。
﹁なんでサーバ室で寝てるんだ? 風邪引くぞ?﹂
そもそも、この音の中で安眠できるヤツは、頭のネジがぶっ飛ん
だシステムエンジニアだけだろう。
ほとんどのヤツは、サーバに快適な空調とファンの金きり音で、
耳鳴りがしてくるはずだ。
﹁外は熱帯夜だし、サーバのメンテ作業で終電逃したから﹂
その言葉を聞き、この声の主の立場が透けて見えた。
おそらくはここの番人。省庁から左遷されたエリートくずれか⋮
⋮。
﹁俺は声で美人かそうでないかを聞き分ける特技がある。お前は美
人だな⋮⋮﹂
1227
キーボードから手を離さず、特権ユーザを一つ作り、パスワード
を設定した。
すとれーじばっくあっぷ
お試しのログインを確認して、KVMを閉じ、ラックに収納した。
﹁そんなことしても、スナップショットから上書きしちゃうから、
意味無いよ﹂
そんな呆れ声を無視して、ゆっくりとその声の方向へ歩み寄った。
硝煙の匂いのしないハンドガンなど、突きつけられても意味は無
い。
サーバの番人ならここで発砲なんて馬鹿な事はしないはずだ。な
にせサーバ達はデリケートだからな。
ディスクのアクセスするLEDの僅かな灯りを頼りに、その女の
顔を拝み⋮⋮、あてずっぽうの言葉を補足した。
﹁予想は外れ。ただの美人じゃなく、とびっきりの美人だった⋮⋮﹂
震える手で支えていた拳銃を、そっと明後日の方向に向け、一本
ずつ指を引き剥がしていく。
手に取った鉄の塊を長椅子に放り投げ、震える女を抱きしめた。
﹁︱︱!﹂
﹁怖がるな。ただの好奇心旺盛な退魔士が、イタズラ心で忍び込ん
だだけだから⋮⋮﹂
震える女を脅すのは俺の性分じゃない。俺の中で女性は慈愛する
べき対象であり、護るべき存在だから。
ふと香る女の匂いと肌の温かさを感じ、俺の中の野生がムクムク
1228
と頭をもたげて来る。
肌の温度と匂いで分かる⋮⋮、この女は相性がいい。
震えのおさまった体を強く抱きしめ、拒絶する唇に軽く触れるキ
スをした。
一度目は拒絶、二度目も⋮⋮。三度目に触れた時には、貪るよう
なキスへと変化させた。
絡め合う舌と唾液の交換作業を済ませ、最初は受身だったその舌
は、絡む唾液の分だけ積極的になっていった。
俺はその粘膜質な触感を味わった後、落ち着いた女へ問いかけた。
﹁なんて呼べば良い?﹂
﹁︱︱亜里沙﹂
俺の服を脱がせにかかった細い手を、邪魔することなくブラウス
を脱がせて、持ち上げた手で、ブラのホックに手をかけた。
ただ⋮⋮、従順すぎる彼女を見て、意地悪な事を言ってやりたく
なり、亜里沙を言葉で責め立てた。
﹁俺はケツの軽い女は嫌いなんだがな﹂
﹁私は初物﹂
大卒のキャリアだったら、歳は察してしかるべしだが、初物と言
てきれいき
われて二の足を踏んでしまうのは男の性か。
年齢と初物の、二大地雷を踏み越えなくてはいけないからな⋮⋮。
﹁なんで?﹂
1229
強引に押し倒しておいて、その言葉が出るかと思うだろうが、こ
の時少し亜里沙が自暴自棄になっているように感じていた。
きっかけは何でもいい。落ちるところまで落ちてみたいという、
自虐行為に見えて仕方が無かった。
﹁独り寝が寂しく感じていた時に、カッコイイ泥棒さんが優しいキ
スするんだもの﹂
その言葉に感情が籠もっていない訳ではなかった。
けれどまだ本音を聞いていないような、満ち足りない気分にさせ
られた。
俺は女の顎を掴み上げ、顔を向け目と目を合わせた。
﹁本音を聞かせろ。でないとこのまま名も告げずに帰るぞ!﹂
俺のその一言を聞き、亜里沙の顔が微妙に変化した。
情欲を満たす相手に去られるのと違う、少し寂しげで、切ない表
情だった。
﹁正直な所日常に絶望していた⋮⋮、わき目も振らずに勉強して、
登りつめた仕事場は私の思い描いた場所ではなかった、それにこん
な所へ配置転換されたから﹂
亜里沙はその寂しげな表情のまま、口を開いた。
その言葉に偽りが無い事は、目と目端に溜まった涙で証明してい
た。
﹁平坦な日常に、一振りのスパイス。諦めかけた人生に彩りをくれ
るかも⋮⋮、そう思った﹂
1230
亜里沙の心の中を吐露した台詞。その言葉で俺の心が満たされた
気分になった。
俺は嘘が嫌いだ⋮⋮。うわべの付き合いが嫌い⋮⋮。見た目で判
断する多くの人々が嫌いだった。
亜里沙は俺を見ずに、俺の存在だけを感じ、今こうして話をして
くれている。
そう考えるだけで、俺の中の理性を抑え続けることが出来なくな
っていた。
﹁じゃあ、今日から非日常を歩んでみるか?﹂
亜里沙は潤んだ目を閉じ、全身の力を抜いて俺を受け入れた。
あくせすらんぷ
サーバ室には不似合いな熱源を、急ピッチで空調が冷やし、数百
を超えるLED達が、躍動する二人を照らし出した。
﹁ごちっす!﹂
店を出て満足げに笑う亜里沙が、俺に敬礼するようにおどけて見
せた。
亜里沙はあれ以来、隙を見せない。
楽しげにしているが、どこか距離をとっている様に思える。おど
けた素振りもサバサバした態度も、全てがそれに符合する。
﹁亜里沙、乗れよ﹂
バイクのタンデムを指差して、家まで送ろうと囁いた。
1231
亜里沙は少し困ったような顔をして、首を振った。
﹁うんにゃ、電車で帰る⋮⋮、まだ余裕で帰れるから⋮⋮﹂
年下で頼りなく、亜里沙の人生を輝かせるほど、スパイスも効か
せれねえ。
けれど人を見る目ってのは持ち合わせている。このまま帰せば間
違いなく、一人部屋で泣くはずだ。
俺は遠慮する亜里沙の手を、強引に引き寄せて、力任せに抱きし
めた。
耳元にかかる息が、ため息を帯びて俺をくすぐる。
﹁私はいつも勝負パンツ。ファントムが来ないかな∼って、毎日寂
しく帰ってるんだから⋮⋮、たまには見てよね﹂
そう言って頬にキスをした。
恐らく亜里沙は不安なのだろう。俺が年下と思っているように、
亜里沙は年上だというコンプレックスを抱えている。
本音と語り、甘えてみたい。けれど不誠実な態度を取られるのも
怖い⋮⋮。
原因の全ては俺に起因するのだと、唇を噛んだ。
﹁じゃ、久々にフルコース行きましょか﹂
なるだけそういった雰囲気を感じさせないでおきたい。
言い寄る女子生徒、その全てを袖にしているのは誰の為だろうか。
歌姫たちのためか⋮⋮それとも⋮⋮。
結論を出すには、まだ時間が欲しい。先伸ばしして目を背けたい
訳ではない。大切な事だからこそ、時間が欲しい。
俺はタンデムシートに跨る亜里沙を見つめて、そういい聞かせた。
1232
街道を突っ走り、一夜を過ごせる場所を探していた。
ただ屋根があって、壁があれば良いと言う訳ではない。それなり
の設備が整ってこそ夜を楽しめるというものだ。
特に風呂とトイレが綺麗で、ベッドメイキングが最高であれば問
題ないのだが、場所が場所だけに清潔感漂う場所を探し出すのは至
難の業だった。
いつもご贔屓にさせてもらっている場所は、ここより数キロ先の
辺鄙な場所にあるのだ。
ふと眼前の信号が赤に変わり、信号待ちにしていた時のこと、黒
のメルセデスが俺の横で停車した。
フルスモークの窓が開き、ニヤつく顔と口元が見えた瞬間に、俺
の中の警告音が最大級に鳴り響いた。
﹁保命護身符!﹂
突きつけられた銃口のマズルフラッシュが閃光を上げ、スローモ
ーションに見える亜音速の弾丸を、護符が包み込んだ。
続けざまに三発発せられた弾丸は、護符を穿ち、弾かれ、虚空に
消えた。
﹁やべ⋮⋮﹂
俺はアクセル引き絞り、赤の交差点に進入した。
レトロゲームのフロッガーの気分満点だが、脚を止めると即座に
撃たれる。
俺なら撃たれても何とかなるが、タンデムシートに座る亜里沙が
危ない。
俺は前照灯の明るさで距離を読み、交差点に進入する車を予測し
た。
1233
俺の神風アタックで交差点の機能が麻痺し、激しいスキール音と
共に黒のメルセデスが急発進し、交差点を通り抜けた。
俺のバリ牛二号は40馬力、俺と亜里沙を合わせて、おおよそ0.
1トンを背負って走る。
対するメルセデスは、一瞬の判断だが、AMGの63じゃないだ
ろうか。6リッターちょいのエンジンで500馬力以上のバケモノ。
一人乗りでも危うい性能差、二人乗りじゃ確実に追いつかれる。
﹁亜里沙、俺のポケットの護符を握ってろ﹂
ぎゅっと俺の腰に手を回していた亜里沙は、コクリと頷き上着の
ポケットから取り出した護符を握りしめた。
俺の護符は半自動で働く。新しい命令を追加しない限り、さっき
のように俺達を護るだろう。
だが問題が一つ⋮⋮、護符の枚数が極端に少ないということだ。
昨晩の退魔で護符を大量に消費した。難敵という訳でなかったが、
圧倒的に数が多すぎたのだ。
即座にうちのばあちゃんに護符の注文を頼んだが、昨日の今日で
はさすがに書ききれないだろうと、受け取りに行っていない。
おまけに俺の手元には武器一つ無い状態、そして背中には亜里沙
が乗っている。
亜里沙を下ろせば、恐らく敵は俺ではなく亜里沙を拉致るだろう。
このまま逃げ切れるのがベストなんだけど、半狂乱のように踏み
しめるエンジン音を聞く限り、その望みも薄いと思われる。
たま
﹁しかし⋮⋮﹂
俺の命を狙っているのは誰だ?
あいつの銃口は確実に俺を狙っていた。しかし俺はヤーサンに狙
われる覚えなどないのだが⋮⋮。
1234
思案にふける俺をたたき起こすように衝撃が走った。
ズルリと後輪が滑った感覚で察知した。俺達の真後ろにヤツがい
る⋮⋮、一発体当たりくれたか。
勘弁してくれよ⋮⋮バリ牛とは一緒に北海道行く約束してんだよ。
﹁ファントム⋮⋮、不謹慎だが、ちょっとワクワクしてきた﹂
背中に感じる亜里沙の笑い声。恐怖を通り越して笑いに変わった
か。
命のやり取りで、笑える亜里沙も少しイカレてる。まぁ笑ってる
のは彼女だけじゃないが⋮⋮。
﹁にしても、ちょっとジリ貧﹂
後方の車を避け、急制動してやり過ごす。
スモーク越しに見えたヤツの睨みつける顔とテールに張り付いた
AMG6.3のエンブレムを確認し、中央分離帯の隙間から後輪を
滑らせて、対向車線に移った。
﹁やりい!﹂
ゆっくりとした車の流れに乗り、余裕を持って後ろを振り返った。
﹁うげっ﹂
事もあろうかAMGはテールを振り、慣性を利用してサイドター
ン気味にUターンしてきた。
惚れぼれするほどの見事なターンに、思わず見とれてしまう。
﹁ファントム⋮⋮アイツは完全にイカレてる。幹線道路からバイパ
1235
スに抜け、山道に誘おう。このままでは周りに被害が出てしまう⋮
⋮﹂
確かに⋮⋮、今のアイツのテンションなら、人の横断している交
差点でも、アクセルを踏み込むだろう。
ならば、信号の少ないバイパス路を選択するのは、最良の考え、
人気の無い道への選択肢も申し分なし。
ただし護符の枚数が少ないのが痛い。
体術での一対一なら負ける気はしないが、銃口が亜里沙に向けら
れて、平然と敵を打ちのめすほど、俺の精神は出来ちゃいない。
あまり好ましくないが、アイツに頼るか⋮⋮。
﹁亜里沙、携帯で⋮⋮ミムロカオルに電話しろ﹂
ピクリとその名前で反応した亜里沙は、事もあろうか俺の脇腹に
レバー打ちを決めやがった。
その拳がめり込んだ時に、憤りの原因に思い当たった。
﹁カオルは男だ﹂
謝りの一言も無く携帯を探り、登録された名前の中からカオルを
探し出したようだ。
﹁すいません⋮⋮、牧野の身内のものだけど﹂
﹁えっ⋮⋮はい⋮⋮はい⋮⋮、そのように伝えます。それじゃあ⋮
⋮﹂
おいおい、電話を切っちまったよ⋮⋮、忙しいからってお断りさ
れてしまったか?
1236
亜里沙は俺に聞こえる声で、手短に叫んで知らせた。
﹁バイパスの工場地帯の脇道へ逸れろって言ってた﹂
嘘だろ⋮⋮、人気の無い所はアリだと思うが、ドン詰まりの行き
止まりだ。
万歳アタック仕掛けられたら、即ゲームオーバーじゃないか。
しかもなんでカオルがアレだけの会話で、状況を把握できるって
んだ?
﹁最後に⋮⋮、俺を信じろって言ってた﹂
﹁!!!﹂
よっしゃ。あいつの言うことなら、騙されてやってもいい。
俺の気持ちがガチリと音を立て切り替わった。
人気の無いバイパスを滑走するバリオス2、一万回転を超えるエ
ンジン音が、周囲に響き渡り、バイクの限界を知らせている。
対するAMGは、四速高回転状態で、踏み込む度にスキール音を
僅かに鳴らし、俺達の後ろにピッタリと張り付く。
完全に煽られている状態だが、時々殺意のアタックを仕掛け、俺
達を踏み潰そうと目論んでいる。
﹁四速で踏み込んで、なんでタイヤが鳴るんだよ⋮⋮﹂
それは圧倒的な加速力とトルクのなせる技だ。
どんなスピードと回転数でも、一踏みで戦闘的な状態に変化する
バケモノ。
バリオスには右へ左へと旋回し、やり過ごすのがやっとだという
のに⋮⋮。
1237
﹁ファントム! あそこ﹂
亜里沙が声を枯らせて叫ぶ先、工場地帯への入り口だった。
トラックを主体に設計された道幅は広く、ほんの少しの減速で曲
がれそうな程広大だった。
﹁亜里沙掴まってろよ﹂
相手に曲がる挙動を知らせ、AMGを後方にやり過ごした急制動。
膝を擦るほどのバンク角で、道幅一杯にカーブをキメた。
﹁うっほ。タイヤの端まで使い切った﹂
安全運転をモットーに、亀を尊敬しつつ限界走行をしない俺は、
ああやってバイクを曲げるのは本日初めての事だった。
漫画では見たことあるが、曲がるもんだな⋮⋮と感心した。
しかし、静まり返った工場地帯は、道路の末端まであと僅か⋮⋮。
先に待っているのは高い壁と、誰の目にも触れない暗がりだった。
案の定AMGもそのカーブをクリアし、俺の背後すぐに追いすが
る。
窓から突き出された左手からは、マズルフラッシュの閃光と、轟
音が響き、符が弾く金属音が響き渡る。
四枚、三枚、二枚⋮⋮、護る符がそぎ落とされていく。
﹁南無⋮⋮﹂
あと数百メートルで行き止まりという土壇場の窮地。遥か先に見
えるのは燐光を纏った双刀のナイフ使い。
その脇に停められたSDRの黒光りするタンクが目に映り、不覚
1238
ながら涙が零れそうになる。
﹁カオル!﹂
すれ違いざまに俺は叫んだ。
表情の見えない顔ではあったが、口元が釣り上がり、笑顔の表情
ふうひょうか
を作っていた。
﹁風飄花!﹂
眼前に迫るAMGの猛威に、表情一つ変えずにカオルは口を開い
た。
目の前に構築された花びらの障壁が、猛スピードAMGを捕らえ、
そのスピードをゼロにした。
僅かに聞こえたタイヤの鳴き、そのほとんどの音を構成した衝撃
音。
砕けるガラスの破砕音が響き、AMGはフレームを圧壊させ鉄の
塊へと変化した。
﹁これが噂の障壁か⋮⋮。凄い性能じゃねぇか﹂
車の形をしていたフロントノーズは運転席まで圧縮され、運転者
はエアバックに包まれて動きを止めていた。
カオルは右手に持つ守り刀に、意を込めて燐光まばゆい2尺の刀
を構成した。
﹁ふん!﹂
一挙動で刀を三度振り、運転席のピラーを両断し、ひしゃげたド
アの付け根を切り飛ばした。
1239
その様子を見ながら、バイクを降りた俺達は、カオルの元へと駆
け寄った。
﹁こいつに見覚えある?﹂
引きずり出した運転手の襟元を掴み、俺と亜里沙に問いかけたカ
オル。
俺は最初から見覚えはないのだが、亜里沙がその男をマジマジと
見て、呆れた声を上げた。
﹁この人⋮⋮ファントムと同業者だわ⋮⋮、つい最近禁止地区立ち
入りで訓告、その際の支払い問題がこじれた事がある。⋮⋮んで顔
覚えてる。要注意人物﹂
カオルが額に手を当てて、苦悶の表情を浮かべ、その男を見つめ
ている。
そして手に持った守り刀を一振りし、男の頭上近くの空を切り裂
いた。
﹁てことはなんだ? 自分が貰い損ねた禁止地区での報酬の恨みが
捻じ曲がって、その場で狩りをしてる俺に嫉妬したとか?﹂
まぁ、人のいないのを良い事に、荒稼ぎしているのは事実だが、
こちらも大変なのだぞと言ってやりたい。
理由が分かれば胸のつかえも取れた。亜里沙の安全も確保できた
し、ぶっ殺してやるほど怒りも沸かない。
まぁ、一つ気になる事といえば⋮⋮。
﹁なぁ、カオルよ。お前ニュータイプだっけ? なんで俺の事わか
ったんだ?﹂
1240
カオルはキョトンとした表情を見せ、思い当たった様な顔で苦笑
して見せた。
﹁珊瑚と撫子に教えてもらったんだ。友達が危険だってな⋮⋮。俺
の友達なんて牧野しかいないだろ?﹂
らけいばん
そう言うカオルの頭上には、いつもの刀神の他に、見慣れない小
さいのが二匹乗っかり、小さな羅経盤を二人で抱えていた。
珊瑚と撫子と呼ばれた二人は、ペコリと頭を下げ、声を潜めて話
し出した。
﹁ねえ、あの人もカッコ良くない?﹂
﹁う∼ん、でも⋮⋮ちょっとチャラそう。カオルのが良いな﹂
﹁彼女つきだしね⋮⋮﹂
﹁だよねだよね﹂
くう∼っ、言いたい事言いやがって⋮⋮丸聞こえだ。
ムカツクやつらだが、助けてもらった恩義は忘れちゃいけない。
﹁こいつどうしようか? 膝は打ってるけど、エアバッグのおかげ
でピンピンしてるよ?﹂
失神した男の顔を見て、思わず笑いが漏れる。
その男のズボンのポケットに突き刺さった札入れを取り出して、
手でポンポンとホコリを掃う。
1241
﹁バリ牛の修理代にこいつは貰っとくか。おいらこれから大事な用
事があるから、後日こいつにはちゃんと挨拶しに行くよ﹂
そう言って亜里沙を抱きかかえ、カオルに見せ付けた。
カオルもその様子を見て苦笑し、気の利いた言葉を投げかけた。
﹁牧野にピッタリの女性だね。美人だし気が利くし、なにより⋮⋮、
逸脱した日常に表情一つ変えない﹂
さすがの亜里沙もカオルの率直な意見には、赤面して俯いた。
こいつの良い所は、素直な所と人を見る目が長けている事だ⋮⋮、
気が利くしな。
﹁年上の女性は金のわらじを履いてでも探せって言うからね。⋮⋮
牧野の事よろしくお願いします﹂
ペコリと頭を下げるカオルに、恐縮してしまう亜里沙。
けれどその表情は先ほど見せた、少し寂しげな表情ではなく、自
信に満ち溢れたいい顔をしていた。
﹁明日はちょっと遅刻気味かもしれんが、寂しがるな?﹂
俺の言葉を聞きカオルは笑い、背を向けてSDRに跨った。
そして悪びれる事無く、口を開いた。
﹁今度ちゃんと紹介しろよ﹂
手を振ってアクセルを捻り、紫煙と共に去っていく。
良いパイプラインだから紹介するの勿体無いんだけどな⋮⋮。
俺は道端に転がる男を足蹴にして、その場を去る事にした。愛し
1242
合う二人に残された時間は少ないのだ。
1243
﹃追跡 01﹄
暗がりに立つ男の影、口元に湛えた小馬鹿にしたような笑み。届
かない俺の攻撃と、俺の命を削ってくる奴の攻撃⋮⋮。
吐く息は乱れ、薄ら笑いを浮かべた奴の口元から、笑い声が漏れ
る。
奴に捕らわれた仲間達を救いたい! その気持ちだけが俺を突き
ふうひょうか
動かしている。
俺は風飄花を目くらましにばら撒き、コンテナの陰に身を潜めた。
﹁逃げるのは上手くなったみたいだな﹂
奴は楽しみながら人を殺す。まさに快楽殺人者だった。
腱を切られ動かない手と、俺の命令を聞かない脚を引き摺り、後
退を余儀なくされる。
﹁コソコソ隠れてないで、でてこいよう。でないと仲間が酷い目に
あっちゃうぜ﹂
足元に転がる仲間を見てニヤリと笑い、その中で一際長い髪の女
を右手で掴み上げ、俺に見せ付けるように、美しい顔に刃を落とし
た。
気を失っていた彼女が絶叫を上げ、鮮血の飛び散る音が響き渡っ
た。
1244
﹁おにいちゃん! おにいちゃん!﹂
俺を呼ぶ懐かしい声に叩き起こされた。
汗でベッタリと張り付いた前髪をかき上げ、俺の上に馬乗りして
見下ろす心配そうな妹を見上げた。
﹁葵⋮⋮か、どうした? 年頃の娘がはしたない﹂
パジャマ姿の葵が頭をポリポリと掻き、いつもの俺らしいセリフ
を聞いて、安堵の表情を浮かべている。
チラリと見た壁時計は、6時を少し回ったところだった。
いつもなら稽古に出かけている時間だが、山科さんパートになっ
てからは、夜間トレーニングに切り替わり、起きる時間も通常通り
に変更していた。
そして時間から予想するに、遅刻しそうな俺を叩き起こしに来て
くれた⋮⋮という訳ではないようだ。
まだハッキリとしない頭の片隅に残る⋮⋮夢の残滓。
うな
今思い出さないと、起き上がった瞬間に霧散してしまいそうな、
残り滓だった。
﹁もしかして⋮⋮、魘されていたか?﹂
その問いかけにコクリと頷いた葵。神妙そうな表情を見せている
と言う事は、よっぽどの状態だったのだと思わされた。
目を閉じて消えそうな夢の滓を紐解き、最後に見た夢のシーンを
思い出してみた。
︱︱夢の残り滓は、美咲さんの苦悶に満ちた絶叫だった。
流石に夢か⋮⋮、現実ではありえん状況だったな、俺が最後まで
1245
残る状況には絶対にならん、真っ先にやられるからな。それだけは
自信を持って言える。
﹁ありがとう⋮⋮、もう少しで呑まれてしまう所だったよ﹂
心のどこかでアイツと戦えばそうなる⋮⋮、そう思っている自分
がいるのかも知れない。
負けを確信した戦いほど、結末の見えた戦いは無い。心のどこか
に恐怖を刷り込まれているのだろうか。
﹁お弁当を作ろうかなと思って早起きしたら、おにいちゃんの部屋
で声が⋮⋮﹂
葵の顔は心配そうな表情を見せたが、どこか懐かしい表情に見え
た。
俺と距離を取り始めた思春期を過ぎた葵ではなく、俺を慕ってい
つも後ろを歩いていた頃の顔だ。
﹁おにいちゃんの夢って⋮⋮、もしかしてアレ?﹂
俺と葵の接点は、多いようで少ない。こと非日常の世界で言えば、
唯一の接点である﹃魂喰い﹄の事だろう。
葵の嫌悪に満ちた表情を見て、俺はコクリと頷いた。
こういう場合心配をさせない様に、嘘を付くべきなのかも知れな
い。
けれど葵は一度アイツに囚われているし、二度目が無いとは言い
切れない。用心を怠らないように、注意を与えておくべきだと思う。
﹁残念ながら、アイツは生きていた⋮⋮、人を操る糸を見たよ﹂
1246
夢の原因は昨晩の工場地帯の事件。そこで見た人形繰りの﹃繰り
糸﹄のせいだろう。
頭痛がするほどに目を凝らして、やっと見えるほどの蜘蛛の糸。
斬った瞬間に流れてきた思念の塊が、アイツの存在を確信づけた。
﹁葵も注意するんだぞ⋮⋮、俺のウィークポイントだからな﹂
嗜める様にいった言葉⋮⋮、それをどう勘違いしたのか、葵の顔
が紅潮していく。
手で胸を押さえ、パジャマをギュッと握り締めた。
﹁おにいちゃんの弱みって⋮⋮、おにいちゃんの大切な人って事だ
よね﹂
葵はニヤリと笑って、俺の布団に潜り込んできた。物心つかない
子供の頃は、よくこうして一緒に寝たが、もう俺達の年代だとアウ
トじゃないか?
そんな俺の心配などお構い無しに、もぞもぞと布団に入りへばり
ついてきた。
﹁おい! 葵⋮⋮﹂
﹁うぁ、汗臭い﹂
魘されていて寝汗をかいたんだ、当然と言えば当然だろう。
そう言いながらも鼻を擦りつけて葵はすり寄る。布団から叩き出
してやろうかと思ったが、思い直して天井を見上げた。
気丈に振舞っていたが、葵は少し震えているように感じたからだ。
1247
﹁怖がらせたか?﹂
布団を頭まで被って表情は見えない。けれど首を振る僅かな動き
で、俺に知らせてくる。
葵は昔から﹃超﹄が付くほど怖がりだった。
ホラー映画や怪談物を見終わった後の夜などは、大抵こうして布
団に潜り込んで来たものだ。
﹁心を囚われないコツ⋮⋮なのかも知れないし﹂
ボソリと呟く葵の声に、俺はなにか引っ掛かるモノを感じた。
そう言えば昔から葵は、隠し事をする時には顔を隠す習性がある。
その意味深な言葉に、深い疑念を抱かずにはいられなかった。
﹁どういう事だ?﹂
問い詰めた所で、素直に返事が返ってくると思わない。
俺は問い詰める事はせず、葵の言葉を待った。
時計の針を刻む音が耳に残るほどの沈黙の後、ようやく葵の口か
ら言葉が発せられた。
﹁心が不安定だと、繰り糸に引っ掛かる⋮⋮。そんな気がする﹂
不安定な心か⋮⋮。なるほど⋮⋮人形繰りの発動条件なのかも知
れない。
牧野を狙った退魔士は、憤りを感じていた。
真琴は優しい父の怪我を案じ、いつも不安を感じていた。
葵は⋮⋮。
﹁葵は何か悩みでもあったのか? 俺に相談しても解決出来るか分
1248
からんが⋮⋮、相談してみて気が晴れる事もあるぞ?﹂
長い長い沈黙が続いた。葵の反応を少し待ったが、スースーと寝
息にも似た呼吸音しか聞こえてこない。
まあいいさ、話したくなれば話をするだろうし、話したくない理
由も人それぞれだ。それは葵次第だから。
﹁どうしたものか⋮⋮﹂
目を閉じて今後の行動を考えつつ、差し迫った選択肢を決断しき
れずに悶々としてしまった。
魂喰いの件であるなら、美咲さんにも牧野にも知らせてやるべき
だろう。
牧野はコッソリ教えてやれば良い。けれど美咲さん達にはどうす
る? 知らせると言う事は、ファントムの事も知らせると言う事に
なる。
纏まらない考えを続け、堂々巡りの迷宮に迷い込んでしまってい
た。
そんな時俺の隣でひょっこりと葵が顔を出し、上気した顔を火照
らせて深い息を吐いた。
﹁私の心が不安定だったのは、おにいちゃんのせい!﹂
ちょっと逆ギレ口調で、葵が言い切った。
は? え? 俺がなにかしましたか?
﹁あの時は、宮之阪先輩がおにいちゃんの彼女なんだってパニクる
し、そんな時に限って﹃お兄さんにコレを渡してくれない?﹄なん
て、友達からラブレター預かっちゃうし、年頃だから我慢して距離
を置いたら、おにいちゃんが冷たくなるし⋮⋮﹂
1249
﹁ま、ま、まて⋮⋮、ちょっと落ち着け﹂
葵のマシンガントークの弾幕に怯んだのは俺だ。俺が落ち着きた
い。
﹁一個一個を処理しよう。宮之阪さんは彼女じゃない、分かるよな
?﹂
﹁うん、わかってる。まだ彼女じゃないね﹂
まだってのが少し気にかかるが、彼女じゃないと理解してるなら
些事だろう。
そのあたりは、美咲さんの家でお泊りした時に、疑念が晴れてる
と思っていいか。
﹁同級生のラブレター?﹂
﹁ごめんなさいって言って返した﹂
それは初耳です。誰ですか? カワイイ子でしょうか?
そんな事を聞きたくなったが、断腸の思いで呑みこんだ。
﹁俺が冷たい? 葵が俺を避けてると思っていたぞ? キモイとか
思われてるのかと凄くへこんでた﹂
﹁それはおにいちゃんの勘違い﹂
俺は呆れてモノが言えなくなっていた。
唯一の救いは、マシンガントークを浴びせられ、ボンヤリしてい
1250
た頭が少し晴れた事だ。
俺は葵の頭を撫で、心の不安を取り除く事にした。
﹁俺の唯一の妹だ。冷たくするつもりも無いし、凄く大事に思って
いる。いつも昔の葵を思い出して、少し寂しい思いをしていたのは
嘘じゃない﹂
﹁ほんと? 後ろを付いてまわっても鬱陶しくない? ヤキモチ焼
いても怒らない? カワイイ洋服も買ってくれる?﹂
最後のセリフが気になるが、これが葵の本心なのだろう。
流石にカルガモの子の様に後ろを付いてまわられると困るし、ヤ
キモチ焼かれても困るのだが⋮⋮。
﹁ヤキモチってな? 兄妹だぞ? 兄に良い彼女が出来ますように
って、祈るべきじゃないか?﹂
そんな問いかけに、わかってないなぁって呆れ顔を見せる葵。
的外れな事を言ってますか?
﹁私に彼氏が出来たら、おにいちゃんどう思う? 良い彼氏であり
ますように⋮⋮、なんてノンビリとした事、考えられるかなぁ?﹂
むぅ⋮⋮確かに。
どんな奴と付き合うのか、物凄く気になるな。
体目当てじゃないのか? 騙されてんじゃないのかとか、若い思
慮の範疇で、勢いだけで付き合ってんじゃないかとか、こんこんと
問い詰めたいね。
特にチャラい男に﹃お兄さん﹄なんて呼ばれたら、ぶん殴りたく
なるかもな。
1251
﹁ごめん、ちょっとわかった気がする﹂
﹁わかればよろしい﹂
葵はムクっと起き上がり、跳ねるようにベッドから飛び降りた。
そして振り向きざまに微笑んで、右手の指を向けガンマンの様に
構えた。
﹁私が選ぶとしたら、おにいちゃんよりカッコよくて、おにいちゃ
んより優しくてしっかりした人。でもね、中々いないんだよね。そ
ういう人﹂
微笑みと共に発射された弾丸は、俺の胸を打ち抜いた。
そう言い残し、部屋を後にした葵。⋮⋮今のセリフ物凄く嬉しい
んだけど。
さっき見た悪夢を吹き飛ばす程の、元気を注入された気分になり、
再び布団に潜り込んで二度寝を楽しむ事にした。
学校に到着して席についた俺は、まだ来ぬ牧野の席を見てため息
を付いた。
そういや、遅刻気味になるとか言っていたな。あいつの事だから
遅刻気味ってのは、遅刻を意味するんだよな。
俺は机に突っ伏して、ポケットから携帯を探り出す。
数少ないアドレス帳を開き、トップに出てきた美咲さんにメール
1252
を入れた。
﹁2限前の休み時間、西校舎側渡り廊下で、お話があります﹂
無い頭で考えた結果だ。少なくとも美咲さんには、魂喰いの存在
を知らせておく。
夢のような結果にならない為、俺に出来ることは全てやると決め
たのだ。
伝えたいもう一人の退魔士は、今頃ホテルのチェックアウトに追
われ、慌てて着替えをしている最中なのだろうか。
﹁とりあえず、安否確認の意味で、メール送っておくか﹂
俺は再び携帯を操作し、牧野宛てにメールを送った。
予測通り1限目の授業の時間になっても、牧野は学校に来なかっ
た。
メールでの安否の確認には、間の抜けた返答しか返してこなかっ
たが、どうやら亜里沙さんを送り届け、制服に着替える必要があっ
たらしい。
そうなると2限目も登校して来るか怪しいものだ。最悪は昼に重
役出勤してくるかもしれない。
﹁しゃーねぇな﹂
俺は席を立ち、西校舎側の渡り廊下へと向かった。
急いで渡り廊下に向かったが、既に美咲さんは到着しており、夏
の風に髪を揺らせて遠くの風景を眺めていた。
﹁おまたせ﹂
1253
この西校舎と南校舎を結ぶ渡り廊下は、使用頻度が限られている。
高等部と中等部を結ぶ連絡通路と言う事もあり、ほとんどの生徒
が特別教室の北校舎へ向かう際に迂回する。
こうして内緒話をするにはもってこいの場所なのだ。
﹁カオルさんが呼び出すなんて⋮⋮、しかも渡り廊下だから少しド
キドキしましたよ﹂
美咲さんは真顔で、思ってもみない事を口にしてみせた。
なんとなく事態を察せられているのはわかっている。
トウカの桃源境で、珊瑚と撫子に耳打ちされた後、俺は目に見え
て挙動不審だったもんな。
﹁魂喰いにでも会いましたか?﹂
美咲さんの言葉が、あまりに核心を付きすぎていて返答を返せな
い。
言葉を失った俺を見て、美咲さんがクスリと笑い口を開いた。
﹁カオルさんの性格だと、こういう場合には隊全員へ公平に話をす
るはず。けれど私限定にしたという事は、それだけ自分の判断が付
きにくい表れかと思いました。そういう事態って事は察しがつきま
すよ﹂
﹁ええ⋮⋮、魂喰い本体に会った訳ではなく、人形繰りの繰り糸を
斬りました﹂
﹁⋮⋮⋮⋮それで、牧野君は無事だった?﹂
ニコリと笑って見せ、再び俺を絶句させた美咲さん。
1254
種明かしと言わんばかりに、自分の胸に手を当てて細い赤い糸を
えにし
紡いで見せた。
﹁赤い糸は、縁の具現化したものです。私にはカオルさんも牧野君
も、葵ちゃんもお母さんの静さんも縁を持ってますから。どこにい
てどうしているか、赤い糸を出せば、なんとなく分かってしまうの
ですよ。覗き見みたいで気が咎めましたが、昨日のカオルさんを見
たらやむなしかと⋮⋮﹂
家に問題があれば、葵とお母さんに異常を感じる。俺が動いて牧
野も動けば一目瞭然か⋮⋮。やはり赤い糸は美咲さんが思うより凄
い能力だと思う。
﹁その様子では牧野の事も薄々気が付いていそうですね﹂
牧野=ファントム。ファントム事件の後、美咲さんはファントム
の動向を探ってもおかしくなかった。けれど意図してそれをしなか
ったように思える。
怪我して美咲さんの部屋に転がり込んだ時もそうだった。何も言
わずに傷を治し、口外しなかった。
﹁いつかカオルさんが話してくれるだろうと待っていました。言い
にくいのは重々承知していますし、カオルさんが把握していれば、
安心して一任できるかなと﹂
美咲さんの顔は、個人天野美咲の表情ではなく、隊を束ねる美咲
隊のリーダーとしての表情を見せた。
自分の任務、命だけではなく、メンバー全員の事を考える者の表
情を。
1255
﹁すいません⋮⋮、気苦労ばかりかけている気がします﹂
俺は素直に頭を下げた。
しみずのぶよし
美咲さんはそんな俺を見つめて、表情を崩し夏風に揺れる髪を手
で押さえた。
﹁繰り糸を結ばれた退魔士は、﹃清水信義﹄、事故後に省庁から手
が回り、現在この地区の警察病院に入院中です﹂
俺は三度目の絶句と共に、美咲さんの髪の毛に隠れるようにして
いた、珊瑚と撫子の姿を見た。
涙目になった二人の表情を見て、驚きを通り越し笑いが込み上げ
てきた。
俺はずっとこの人の掌で、動き回っていただけなのだ。まるで孫
悟空とお釈迦様の関係のような、スケールの違いをまざまざと感じ
ていた。
﹁ごめんなさいね。珊瑚と撫子を連れて行ったから、詳しい事情は
彼女達に聞けば分かるかな? なんて思って、乃江に道を開いても
らい⋮⋮、聞いちゃいました﹂
聞いちゃいましたって、二人の表情を見たら、尋問されたように
憔悴してるのだが⋮⋮。
美咲さんから飛び移るように跳ねた二人を手ですくい、無言でフ
ルフルと首を振り、涙を溜めた二人を見つめた。
仙人を脅したのか? どうして? どうやって?
疑問だけが頭をよぎるが、二人は貝の様に口を閉じ、美咲さんは
微笑んでいるばかりだった。
﹁カオルさん、清水信義と魂喰いに接点があれば、もしかすると追
1256
跡できるかもしれませんよ?﹂
そう言って、俺と美咲さんの間にある﹃赤い糸﹄を指で弄んで見
せた。
1257
﹃追跡 02﹄
美咲さんとの密会の後、昼休みまで牧野を待ってみたが、結局姿
を現さなかった。
注意を促すメールを見てくれていたら良いのだが⋮⋮。
﹁なあ珊瑚、撫子?﹂
机の上で飛び跳ねていた珊瑚と撫子が、ピタリと動きを止め、シ
ュンとした様子で身を固くした。
二人の様子を見かねたカナタが、しょんぼりとした二人の頭を撫
でている。
﹁⋮⋮﹂
こりゃかなり重傷だな、心的外傷後ストレス障害になってんじゃ
ねえか?
反省の色が無ければ、苦言の一つでも言ってやろうかと思ったが、
こうまで反省されると言葉も出ない。
﹁今回の場合、相手が悪かったと諦めろ﹂
二人は涙を溜め、頭を下げて謝罪している。
情報漏えいが悪い事だと分かってるのなら、俺が言う事は何も無
い。口が軽いという訳じゃなさそうだし、今回は許してやろう。
二人は手と手を取り合い、双子の妖精のように、ハモリながら口
を開いた。
﹁気が付くと心を丸裸にされていた⋮⋮﹂
1258
﹁怖っ!﹂
思わず俺は声を上げ、全身に鳥肌が立った。
敏腕の心理学者の前では、何気ない会話をするだけで、心理、行
動全て解析されてしまうというが⋮⋮。
⋮⋮あの美咲さんならありうるかも知れないな。
﹁今回の失敗は、次に繋げる反省点にすべし。次回は全力で逃げろ﹂
コクコクと頷いて、反省の意を表わす二人。
二人の話しっぷりを聞くと、頭の悪いコギャルみたいだが、トウ
カの妹だけあって頭はそんなに悪く無いようだ。
そう言えば昨日、予言めいた言葉を聞いて、そのまま突っ走った
しののめ
から⋮⋮、詳しい二人の能力を聞いていなかった。
東雲のも聞きそびれたな⋮⋮、今度呼び出して聞いてみよう。
﹁そう言えば、﹃友達が危ない﹄、﹃工業地帯の場所﹄、時間まで
は分からなかったみたいだけど、よく分かったな﹂
らけいばん
昨日の桃源境で、トウカが妹達の紹介をしている最中だった。
撫子が羅経盤を取り出して、俺の運勢を占ってくれたのが事の始
まり。
俺の運気を占い、引き攣ったような笑みを浮かべ、滝汗を流しな
がら耳打ちをしてくれたのだ。
﹃お友達に危機が迫り、カオルさんにも影響を及ぼします。行動を
起こすのが吉です﹄
俺はその占いを信じ、数時間も工場地帯で待ったのだ。
1259
らけいばん
﹁私は占学が得意、カオルの運気の流れを読んで、最良の場所へ案
内しただけ﹂
手に持った羅経盤は、撫子一人では支えることが出来ない程大き
い。珊瑚がそれを支えて二人で易盤を操作している。
なるほど、紅は中国武術の達人、撫子は風水易の達人と言う訳か。
だとすると、残り二人の能力が気になってくる訳だが。
﹁珊瑚の能力はなんだ? 慌ててこちらの世界へ戻ったから聞きそ
びれたし、こっそり教えてくれよ﹂
俺の言葉を聞き機嫌を良くしたのか、表情を明るくさせコクコク
と頷いて見せた。
そしてキョロキョロと周りを見渡し、懐から小さな折り紙を取り
出して、机の上でせっせと折りだした。
折り紙を作成する珊瑚を見つめて、待つこと10分⋮⋮。
満足のいく作品が出来上がったのか、満面の笑みを湛え折り紙を
突き出した。
せんしせいへいじゅつ
それは指先に乗るほどの、小さな鶴の折り紙だった。
﹁剪紙成兵術。人の形に折れば鬼を使役し、鳥の形に折れば魔が宿
る﹂
ひとがた
ほぉ∼、そいつは凄い。
予め人形をたくさん用意しておけば、兵士として使用できる。劣
勢の時に使えば、一発逆転もありえるじゃないか?
﹁羽ばたかせて見せようか?﹂
1260
いや、それは不味い。休み時間だとはいえ人の目があるから。
首を振って見せると、珊瑚は残念そうに懐へ折り紙を仕舞った。
﹁凄い、カッコイイ、尊敬した。珊瑚エライ!﹂
えっへんと自慢げに小さな体を反り返らせた珊瑚。
ただし、折るのに時間が掛かるんだよな⋮⋮きっと。
けどここはPTSDを治してあげないと、今後に差し障るからな
ぁ⋮⋮、ヨイショしておこう。
元気を取り戻しつつある二人の桃の仙女を、お姉さんのように見
守るカナタが面白い。
同い年くらいに見えるが、自分が面倒見なくてはと意気込んでい
るのか、ちょっと背伸びしているカナタがかわいい。
ほのぼのと3人を眺めていると、ピクリとカナタが首を振り、俺
を見上げて胸の位置を指差している。
﹁カオル、メールが来ておるぞ?﹂
俺は携帯をほとんどサイレントモード、バイブ無しで使っている。
大抵の場合カナタが着信を知らせてくれるので、音や振動で知る
必要が無いし、電池も長待ちするから。
俺は胸ポケットから携帯を取り出して、メールを確認した。
>重要情報サンクス。今日は護符の手配と亜里沙の護衛に回る。
二度目が無いとは言えないからな。カオルも十分注意しろよ。
ファントムからのメールだった。
昨日の事件は﹃魂喰い﹄の繰り糸の可能性があると知らせたのだ
が、流石にファントムの取る布石は隙が無い。
亜里沙さんを狙われたらアウト、ファントム一人を襲われてもア
1261
ウト。この際二人でフォローし合うのが望ましい。
﹃魂喰い﹄の恐ろしいところは、ファントムを狙ったという事。
情報を隠蔽し、姿を隠していたファントムの足取りを掴み、街を動
き回る一瞬の隙を狙ったのだ。
どれだけの情報収集能力があるのか⋮⋮、そう考えると身震いが
してくる。
深刻な顔をしていたのだろうか、それとも俺の心を読んだのか、
カナタがため息を吐いて言葉を投げかけた。
﹁カオルよ、考えすぎて思慮の範疇を狭めるでない。考え急がなく
とも良いではないか?﹂
カナタの言う通りだ。予想して対策を練るのも重要だが、全容が
見えていない今、策を巡らせるのは愚の骨頂か⋮⋮。
今は追う事に専念し、より正確な情報を掴む事が必要だと言う事
だな。
なんだか久しぶりにカナタが頼もしく見える。
放課後になり、帰宅準備を済ませた俺は、中等部の校舎へとやっ
てきた。
もちろんオーストラリア行きの準備を整える為だ。
取り急ぎ必要なのは、正装に見える服⋮⋮、スーツケースは急が
ずとも買えそうだし。
しかし⋮⋮成長期の今正装のスーツを買っても、そのうちサイズ
が合わなくなるのは目に見えている。
真琴にしても、いつまでも小学生の体型では無い。人より少し成
長が遅いというだけで、ほんの少しづつだが女らしい体型になりつ
つある。
1262
もうぶっちゃけ使い捨てに近い感覚で、うん十万のスーツやナイ
トドレスを買うのは、庶民派の俺達からすると断腸の思いなのだ。
中等部二年の階へ向かい、好奇に満ちた視線を掻い潜り、廊下を
歩きながら後悔した。⋮⋮やめときゃ良かった。
真琴は確かA組だと思ったが、不確かだからといって、手当たり
次第教室を覗き見するのは避けたい、ぶっちゃけ変質者だと思われ
かねんからな。
仕方なしに暇そうにしている男子生徒に声を掛けた。
﹁そこの少年、ちと尋ねたい事があるのだが?﹂
少年Aは俺のほうを振り返り、胸の位置から見上げる様に俺を見
た。
﹃ハイ﹄とか﹃どうしましたか?﹄と言う返答を期待したが、どう
やら上級生だと理解して萎縮しているのか、無言のまま俺を見つめ
ている。
﹁見た目は子供、頭脳は大人、子犬みたいに元気が良い天才少女が
いるよな? 何組だっけ?﹂
真琴といって通じるほど、名前が売れていると思わなかったので、
曖昧な真琴像を語ってみたのだが、一瞬で理解したのか即答で答え
てくれた。
﹁あ∼っ、藤森さんですよね。A組です﹂
ペコリと挨拶をして、帰宅していく少年A。
出来れば呼んで来てくれると嬉しかったのだが、男子生徒じゃ声
を掛け辛いのかも知れない。
仕方なしにA組に足を運び、教室の入り口から覗き見た。
1263
真琴は自分の席に座り、クラスメイト2∼3人に囲まれて雑談を
している様子、幸せそうな笑みを浮かべてクラスに溶け込んでいる。
そんな姿を見て涙が出そうになる。
いつもと違うと言えば、水玉模様の髪留めを付けて、ツインテー
ル風に髪を纏めている所か⋮⋮。
中等部は高等部以上に校則が厳しいから、髪を束ねるのが義務づ
けられているのかも知れない。
しかし⋮⋮、こうやって何気ない学校生活を見るのは初めてじゃ
ないだろうか?
﹁ねぇねぇ⋮⋮﹂
どうやら俺の存在に気づかれたようだ。クラスメイトの一人がチ
ラッとこちらを見て、他の子達に耳打ちするようにヒソヒソ話をし
ている。
それに気がついた真琴は、何気なしに俺の方へ振り返り、ツイン
テールを跳ね上げ驚いて見せた。
﹁カ⋮⋮カオ⋮⋮﹂
顔を真っ赤に染め、かなりテンパった表情をして、慌てて俺のも
とに駆け寄ってきた。
俺は予想通りのリアクションを見れて、内心ほくそえんだ。
﹁ど、ど、どうして⋮⋮﹂
﹁まあ、落ち着け﹂
俺は真琴の前で深呼吸をして見せ、真琴がそれに習い深く息を吸
う。
1264
そうして落ち着き始めた真琴に、本日の用件を手短に伝えた。
﹁慰安旅行の準備、買い物に行く約束したけど、具体的な事を何一
つ決めてなかったから⋮⋮、先に出て待ってるから﹂
踵を返し高等部へ帰ろうとした時、真琴が慌てて声を上げた。
﹁カオルせんせ、ちょっと待って∼。すぐ帰る用意するから!!﹂
俺の返事も聞かずに、教室に駆け込んだ真琴。ざわめく教室を覗
き見ずとも、冷やかされているのが分かる。
配慮が足りなかったかと反省するが、気になるものは仕方なし。
真琴の学校生活が気になる?、いや違う⋮⋮、気になるのは﹃魂
喰い﹄の出現による真琴の心の変化。
真琴の心は微妙なバランスで成り立っていると思っている。
今回の追跡での結果如何によっては、真琴は﹃魂喰い﹄と対峙す
ることになるだろう。その時に真琴は⋮⋮。
﹁おまたせ!﹂
教室から飛び出して来て、鞄を両手で抱えている真琴。その満面
の笑みを見て、心がズキリと痛んだ。
俺達は校門を抜け駅方向ではなく、山科さんに教えてもらった神
社へと向かった。
真琴もそれに対し疑問を感じつつも、やんごとない事情を感じ取
ったのか、無言で付き従ってくれた。
神社の境内は相変わらず清浄な気に満ち溢れ、極度に緊張した心
を解きほぐしてくれた。
俺は振り返り、不安と戸惑いの入り混じった表情をした真琴に、
思い切って現状を伝えた。
1265
﹁⋮⋮魂喰いは生きている﹂
その言葉を言い終わると共に、境内の穏やかな空気が吹き飛び、
皮膚に針を突き立てられたように痛みが走った。
真琴の体から怒気とも殺気とも取れる霊気が、抑えの効かない状
態で溢れ出している。
﹁まだ100%の確証がある訳じゃない。ヒントになりそうな人物
を当たり、俺と美咲さんで追尾を試みる﹂
﹁私も連れて行って!﹂
真琴は今にも泣きそうな表情をして懇願した。しかし俺は首を振
ってそれを拒絶した。
これは美咲さんと俺で相談した結果の判断だった。
﹁追尾中に魂喰いに気取られては元も子もない。それに人形繰りは
心の不安定な状態に強く作用する可能性がある。今の真琴は最悪の
コンディションだと思わないか?﹂
唇を噛み締め両手を痛いほどに握り、真琴の瞳からは大粒の涙が
止め処なく溢れていた。
俺は折れてしまいそうな姿を見て、抱きしめて力づけてあげたか
った。そんな同情が真琴に良くないと分かっているけれど⋮⋮。
﹁冷静にならないと痛い目を見る事になる⋮⋮﹂
真琴に話せばこうなる事は目に見えていた。そして真琴の顔を見
たら、俺は強く拒絶できないと分かっていたのに。
1266
真琴は俺の言葉を聞き、なお力強い視線で俺を射抜いた。
﹁心を強く持て、感情に流されない、そして後悔する選択はしない﹂
自分に言い聞かすように真琴が呟く。そして涙を拭い自分の頬を
両手で叩いた。
こちらが痛みを感じるほど音を立て、先ほどと違う涙を見せて真
琴が微笑んだ。
﹁ユカさんに言い聞かされている言葉です。私に足りないパーツな
んだそうです﹂
微笑んで見せても、涙で潤んだ瞳と赤くなった頬が痛々しい。
俺は真琴の頭を撫で、慰めではない本音を語った。
﹁奴は想像以上に俺達を熟知している。俺と美咲さんが追えば、必
ずなにかアクションを起こす。燻された煙に向かってくるか、反対
方向に逃げるのか⋮⋮、真琴だけが蚊帳の外というわけじゃないん
だ﹂
狡猾な魂喰いが、俺達の意図通りに動くはずがない。それは俺と
美咲さん双方に共通する意見だった。
二人の出した結論は、﹃釣り針に付ける餌はそれらしく見えたほ
うが良い﹄だった。
大人数で追えば、追跡隊の安全と追尾は万全になる、けど手負い
きょうげき
の魂喰いが意図しない行動に転じた場合、打つ手が限られてくる。
待機組に最強の前衛を配備して挟撃を可能にする。それが俺と美
咲さんの戦術だった。
﹁その時真琴は心を強く持ち、感情に流されず、後悔しない選択肢
1267
を選ぶんだ﹂
真琴は俺の言葉を噛み締め力強く頷いた。
用件を伝え終わり、声のトーンを日常に戻した。作戦の成功の鍵
は不自然な挙動を覚られず、何時もどおりに行動する事だ。
﹁さってと、買い物済ませて美咲さんと合流しないと﹂
俺に先立って動き始めている美咲さんに合流しないと。
真琴は俺の顔を覗き見て、心配そうに囁いた。 ﹁カオル先生⋮⋮、無理しないでね。⋮⋮でも期待して待ってる﹂
真琴のアンビバレンツな言葉を聞き、思わず笑いふきだしてしま
った。
一体どっちなんだと問い詰めてやりたいが、これが真琴の本音な
んだろうと思う事にした。
﹁期待して待ってろよ。大物を釣り上げて来てやるから﹂
魂喰いを追い詰める千載一遇のチャンスだ、言われなくてもそん
な機会を逃してたまるものか。
1268
﹃追跡 03﹄
真琴との買い物を済ませ自宅に戻った俺は、急ぎSDRを駆り退
魔士マンションに向かっていた。
事前調査を済ませている﹃はずの﹄美咲さんと連絡が取れない。
単独行動なんて軽率な事はしないと思うのだが。
電話を取れない理由は色々考えられる。最悪の展開になっていな
い事を祈り、アクセルを握る手に力を籠めた。
そして退魔士マンションに到着し、脱力と安堵が同時に襲ってき
て立ちコケしそうになった。
﹁美咲さん、なにをやってるんですか?﹂
ピッカピカの新車DRZ−400の前で工具類を使い散らかし、
地面にペタンと座り込んで泣いている美咲さん。
﹁ふぇ⋮⋮﹂
涙を溜めてこちらを振り返った。工具に混じりプラグの箱が転が
っているのを見て、おおよその見当はついてしまった。
こっそり免許を取得して新車で登場!、⋮⋮と意気込んでみたも
のの、エンジンがかからずに意地になって修理中。当然俺からの電
話も気付いていない⋮⋮と。
乃江さんにレスキューを求めれない状況とすると、紅と修行中な
のかも知れないな。
﹁納車したてのDRZがうんともすんとも言わないんですっ、プラ
グを交換してみたのですが⋮⋮﹂
1269
ぐらべる
たーまっく
黄色のDRZ−400はスズキの400ccのバイク。デュアル
パーパスと言う分類のバイクで、未舗装路から舗装路までをターゲ
スーパーモタオ
ーフ
ドロード
ットにしたバイクだ。
味付け別でSM、Sモデルなどが販売されている。40馬力とト
ルクフルなセッティングで、街乗りも悪路も扱いやすいという噂。
美咲さんのDRZはSの改良型、オフロード用のラグタイヤがガ
ッチリ履かされたエンデューロ仕様に仕上がっている。
俺はSDRを降り、美咲さんの手に持っていたプラグレンチを取
り、締めの甘かったプラグを増し締めして、バッテリーからの配線
を目で追った。
﹁美咲さん⋮⋮、疑う所が間違ってます﹂
俺はハンドル横のキルスイッチを解除して、キーをイグニッショ
ンの位置へ回し、セルを始動させた。
セルモーターが唸りを上げた瞬間にエンジンは一発始動し、小気
味良い排気音がヨシムラの排気管から奏でられた。
なんて事はない、エンジン全オフのキルスイッチが作動してだけ、
バイク乗りが一度や二度は体験する大ポカだ。
かく言う俺も一度やっている。美咲さんのように分解までしなか
ったが、10回ほどキックしてプラグがかぶり涙目になったものだ。
﹁カオルさん凄い﹂
尊敬の眼差しで見つめられても困る。それよりなにより気になる
事があるのだが、聞いても良いのだろうか?
聞かなきゃ良かったと後悔するような気がするんだが。
﹁美咲さん、二輪の免許は何時?﹂
1270
﹁一週間前﹂
﹁DRZの走行距離が果てしなくゼロに近いのですが?﹂
﹁新品納車したてだよん﹂
ヤバイ、完全初心者じゃないか。公道走行の経験値はゼロだと言
う事か、なのに﹃追跡﹄する状況でバイクを選択するか?
待てよ⋮⋮、ランクAの美咲さんだ、バイクに乗ったら凄い上手
だとか、﹃魂を吹き込んでやる!﹄レベルで乗りこなしちゃうとか?
﹁ちなみに免許取るのは大変でした?﹂
﹁実技で6回落ちてます﹂
無茶苦茶一般人レベルじゃないか⋮⋮、しかも相当ヤバイ水準で。
美咲さんレベルの美貌の持ち主だったら、教官に愛想良くするだ
けで完全スルー出来るだろうに、それすら効かないレベルだとする
と。
︱︱︱︱いや今のは聞かなかった事にしよう。
﹁暖気も済んだみたいですし、行きましょうか﹂
﹁ハイ、よろしくね!﹂
元気良く立ち上がり、手に付いた汚れを掃う。
サテン地のホットパンツにいつものニーソ、皮のショートブーツ
に薄手のTシャツ、アクアリウムカラーの長袖シャツを羽織ってお
る姿。
見た目だけで言うと、バイクに跨る格好じゃないよな。どうにも
1271
危なっかしく見えてしまう。
美咲さんは颯爽とDRZへ跨り、お約束のエンストをかました。
警察病院に辿り着くまでの美咲さんは、初心者技のオンパレード
だった。
ウインカー出しっ放しはご愛嬌、信号が変わってもすぐに発進出
来ず、クラクションの嵐。ノーウィンカーで曲がりそうな車に不用
意に近づくし、正直無事故で来れたのは奇跡である。
けれど汗で張り付いた髪の毛をかき上げる美咲さんの表情は、そ
んな事を忘れさせる程良い表情をしていた。
﹁まぁ、誰でも最初は初心者だからな﹂
俺も乗りたての頃はあんなもんだったし、そのうち経験を積んで
上手くなっていくもんだ。
バイクのメットを脱ぎ、美咲さんと一緒に入院棟へ歩を進めた。
風が生温く湿気を帯び、木々の幹からはクマゼミの鳴く声が響き渡
っている。
足元に咲く草花の生長する音とその周囲を蠢く小さな生命の音が
聞こえる。
俺の本能が音を聞こうとしている時、それがどういう時か︱︱、
色々な経験をして嫌というほど味わっていた。
俺は立ち止まりポケットを探るフリをして周囲を覗った。
﹁見られてますね﹂
美咲さんも腕の時計を気にする素振りをして、にこやかな表情を
浮かべた顔で返答した。
1272
﹁ですね、探るような﹂
それは俺も感じている。明確な殺意が混じれば、視線はそれその
ものが武器になる。しかし肌に感じる視線は観察する目、淡々と見
つめるだけの定点観測装置のように。
ため息を吐いて携帯を取り出し、美咲隊全員のグループメールに、
注意を促す一文を添えて送信した。
本文には﹃定点観測に注意。覗かれるなよ!﹄とだけ。
﹁行きましょうか?﹂
この視線は﹃魂喰い﹄ではない。繰り糸を切った時に流れ込んで
きた思念の種類は、こんな生易しいものじゃなかった。
俺と美咲さん、そして魂喰いが演技する舞台に、どういう訳かノ
ーキャストの役者が上がりこんで来た。
セリフも台本も用意されていないその役者は、どういったアドリ
ブをして演技をこなすのか。
喉に引っ掛かるような渇きを覚え、病院に向かう美咲さんの背後
を歩き出した。
病院の入り口が自動で開き、外気を押しのけるように風が吹いた。
それと共に雑多な薬品の匂いが溢れ、俺の鼻は一瞬にして麻痺させ
られた。
警察病院と言っても婦警さんがナース服を着ている訳じゃない。
あくまでも警察の外郭団体の運営する病院というだけで、看護師も
医者も普通の民間人である。
もちろん病室が牢獄になってる訳でもなく、ごく一般の病室のみ、
入院患者もほとんどはカタギの人間で、ドラマの様に被疑者が入院
する場所として造られた訳じゃない。
1273
﹁カオルさん、清水の病室は815号室﹂
情報収集したメモを携帯で読み、エレベーターに向かって行った。
さすがに病院内に定点観測者の目は届かないようで、緊張してい
た皮膚が緩み、無意識に力の入った首と肩をコキコキと鳴らした。
エレベーターで8階へ上がり周囲を見回した。中央にナースステ
ーションを配備して北と南へ二分された病室の入り口。その中で8
15号室は個室で北の角部屋だった。
足音を極力立てないように歩き、その病室を斜めに覗った。
相手は腐っても退魔士の端くれ、ドアの前に立った瞬間にズドン
ってのは勘弁して欲しい。
﹁お邪魔します﹂
美咲さんは扉の前に立たず、手だけを伸ばしてドアをノックし、
一呼吸置いて病室の扉を開けた。
覗き込んだ病室の中では膝に包帯を巻き、コルセットで首を固定
した清水が、俺達に銃口を向けていた。
﹁誰だ?﹂
自分がひき殺そうとした人間に向かって誰だ?とは面白い奴だ。
この距離の音速の弾なら、美咲さんはもとより、俺にも当たらな
い。
長時間の長考が出来る美咲さんと違い、俺の場合連射されると危
ないが、その前に武装解除してしまえば問題ない。
俺達はドアの影から病室に入り、悠然とした態度で清水と向き合
った。 ﹁同業者﹂
1274
美咲さん表情一つ変えずに、端的にその問いかけに答えて見せた。
清水の表情が強張り、引き金を引く指に力が籠もった。その一瞬
の動作を見て、俺と美咲さんが長考状態に入った。
美咲さんは一歩、二歩と清水に駆け寄り、銃口下のリコイルスプ
リング部分を指で押さえ、銃口のスプリングノッチを時計回りに指
で弾いた。
流れる動作でスライドを後方にずらし、マガジンをリリースして
安全装置を引き上げた。そしてあっという間にコルトガバメント1
911を分解して見せた。
俺はナイフを抜き、清水の鼻先に突きつけて次の動きを止めた。
﹁1911は単純な作りだから壊れにくく、メンテナンスが楽だけ
ど、構造が単純すぎて分解も楽﹂
リコイルスプリングを清水に手渡し、美咲さんが表情を変えず口
を開いた。
清水は呆然とスライドとバレルが無くなった愛銃を見つめていた。
そして観念したように枕元へ1911を放り投げ、武装解除の意味
で手を軽く上げた。
﹁貴方は聞かれた事に答えれば良い。用が済めば私達はこの場を立
ち去り、再び閉じたドアを見つめて脅える生活に戻れる﹂
清水を見下ろす美咲さんは冷ややかな瞳を向け、清水にそう言っ
て危害を加えない旨を伝えた。
俺はナイフを腰の位置まで戻し納刀せずに構えた。ただ一呼吸で
首を掻っ切れる位置にある事、目の前に刃先がないだけで、状況は
変わらないと理解しているだろう。
1275
﹁貴方を操ったモノの正体を理解している?﹂
美咲さんの第一の問い掛けに対し、清水は首を振り無言で返答し
た。
この問い掛けには複数の意味が含まれている。いや段階と言って
良いだろう。﹃魂喰いと接触したか﹄﹃姿を見たか﹄それらの問い
掛けを集約して、﹃理解しているか﹄と聞いている。
しかし首を振ったという事は、姿を見ずに行動を掌握されたパタ
ーン、葵のパターンと同一のものだ。
ただ、葵と清水の状況は似て非なるものがある。繰られた相手﹃
魂喰い﹄のアストラル体が消滅したか、そうでないか。
心は魂喰いを傍観したが、体は魂喰いに支配された。体には赤い
糸の縁が見つかるのではとの推測のもとに動いている。
﹁この地区が何故封鎖されているか、退魔士ならご存知よね?﹂
清水の顔が顔面蒼白になっていく。理由は聞かなくても分かる、
魂喰いは術者を殺して、能力を食うとされているから。
能力を喰われなくて良かったと安堵するのは間違い、いつでも喰
えると宣告されている様なものだ。
例えると、寝ている間に家に勝手に上がりこみ、飯を食い、風呂
に入られ愛妻を寝取られた気分だろう。
﹁彼に銃弾は効かない。ゼロ距離から全弾撃っても当たらない。け
れど貴方の力量で、彼に喰われないで済む方法を知っています﹂
顔面蒼白だった清水の表情に、一縷の望みが芽生え始めた。
そして懇願するような表情をして、美咲さんにすがる目を向けた。
﹁そ、その方法っ! 頼む! 教えてくれ!﹂
1276
美咲さんは懇願する清水に冷ややかな目を向けて、ゆっくりと首
を振った。
そしてため息を吐いて、清水の顔へ手を伸ばしボソリと呟いた。
﹁私の望む結果が出れば教えてやらなくも無い。良い結果が出るよ
うに目を閉じて祈りなさい﹂
光る手が照らし出す無数の赤い糸は、清水の体が解けて糸になる
ような錯覚を覚えるほど力強い。
美咲さんは目を閉じ、その一本一本をトレースするように、心の
中で手繰り寄せた。
そして病室に来て初めて笑みを浮かべた。
﹁捕まえた⋮⋮﹂
そう言って糸を指に絡めるように手に取り、踵を返し病室を出よ
うとした。
俺はナイフを鞘に収め、無言で美咲さんの後を追った。
病室に一人残された清水が、激高したような大声を上げて叫んで
呼び止めた。
﹁あんたの望む結果が出たんだろ? な? 教えてくれよ! 喰わ
れなくて済む方法を!﹂
俺は美咲さんの意図を代弁して、病室に残された清水に憐みの言
葉を投げかけた。
﹁銃弾はお前になら当たるだろ? 引き金を引けば喰われずに済む、
俺達が追い詰め倒す事を祈祈るしかないな﹂
1277
扉をパタンと閉めて病室を後にした。 言ってから後悔したが、
アイツに祈られると成功率がダウンしそうだ。
﹁美咲さ⋮⋮﹂
俺は呼び止める言葉をグッと呑みこんだ。
縁の赤い糸を手に手繰り、夢遊病患者の様にフラフラと歩み、意
味不明の言葉を口走っている。
焦点の合わない視線と、聞き取れないほど小さな呟きは、誰の目
から見てもまっとうな状態でない。
美咲さんから予め聞かされていなければ、パニクって頬の一発や
二発張っているかもしれない。
﹃わたしが糸を手繰る時、意識のほとんどを糸に集中します。熱に
冒されたようにボーっとして集中力を欠きます、その時は︱︱﹄
聞いていた状況より酷いのは、魂喰いの縁だからだろうか。
葵の縁の時は、母親との縁が太く力強かったと聞いた、ゆえに自
力でトレースする事も出来たそうだ。
逆に病室で見た糸は、すぐに切れてしまいそうな弱々しい糸だっ
た、そもそも魂喰いは清水に対する執着が薄いのかもしれない。
病院を出て空を見上げ、美咲さんに問いかけた。
﹁遠いですか?﹂ 美咲さんは呆けた表情で、コクリと頷いた。
俺は暫く思案してため息を吐いた。そしてヘルメットを被せ顎紐
を締めてやり、胸ポケットに入っていたDRZの鍵を取り出した。
俺のSDRは一人乗りのバイク。この状態の美咲さんを運ぶには、
1278
DRZに乗るしかない。
再び肌に張り付くように感じる視線を感じ、美咲さんを後ろに乗
せアクセルを捻った。
﹁掴まっててくださいね。カナタ!通訳頼む﹂
カナタと俺は心を通じあわせる事が出来る。
複雑じゃない単語なら直接語りかける事が出来るし、美咲さんの
声を届けて貰えばトランシーバー代わりになれるはずだ。
DRZに跨った俺の腰に細く長い手が巻きつき、力が籠められた。
同時に美咲さんの双丘の柔らかさが背中に伝わってきた。
﹁これが二人乗りの醍醐味か!﹂
俺はアクセルを開け、黄昏時の街へと走り出した。
1279
﹃追跡 04﹄
オフロード仕様という事でDRZに一欠片の期待も抱いていなか
った。しかし一度アクセルを開くと、その食わず嫌いも何処かへす
っ飛んで行った。
まずエンジン特性は4ストローク単気筒らしく、アクが無いフラ
ットな吹け上がり、トルクはスタート時にフロントを浮き上がらせ
る程のパワー、その暴れ馬のような挙動を押さえ込んでの加速は申
し分ない。
次に操舵性は鈍重だがSDRに無い安定性を感じる。アルミフレ
ームの頑強さと前後輪のショックの性能を、コーナーリング中全身
で感じる事が出来る。
と、まあ乗りながら性能評価をして気を紛らした、そうでもしな
いと集中力が切れてしまいそうなのだ。
﹃ふにっ﹄
背中一面に感じる幸せの触感が、立て直した集中力を削ぎ落とし
ていく。
美咲さんは並盛りかと思っていたが、その考えは訂正させてもら
う。十分に攻撃的であると。
﹁あー、DRZは⋮⋮﹂
︱︱ネタが尽きた。次、九九だ、一の桁の九九を唱えて集中だ。
しかしアクセルと連動して背中に感じる柔らかさ、ギュッと締め
付ける細い腕が、煩悩を刺激して九九を唱えさせてくれない。
﹁カオル、西の方角だそうじゃ﹂
1280
﹁ひゃいっ!﹂
そんな不謹慎な事を考えて運転していたら、絶妙のタイミングで
カナタの声が響いてきた。俺は口から心臓が飛び出そうなほど驚か
された。
慌てて一の桁を暗唱し始めて集中力を高め、当面は監視者と魂喰
いに思考を巡らせる事にした。
運転は目立たず騒がず淡々と、出来れば警察のご厄介になりたく
ない。
なにせ俺と美咲さんは、免許取立ての﹃初心運転期間﹄だから、
二人乗りは減点対象だし、罰金と初心再講習が待っている。出来れ
ばそれはご勘弁願いたい。
しかし病院から結構な距離を移動したにもかかわらず、相変わら
ず監視者の視線を感じる。一体どこでどうやって見ているのやら。
その視線から逃げたくなるのを抑えつつも、運転中では視線の投
げ先を探る事もままならない。
美咲さんは糸を手繰るので精一杯の状態、ほとんど方向指示器状
態だし、頼りになるのはカナタだけか。
﹁頼りにしているぞ、カナタ﹂
﹁助平に頼りにされたくないわ﹂
うはっ、即答で罵声。しかも思考回路筒抜け⋮⋮、プライバシー
もなにもあったものじゃない。
俺も思春期真っ只中の16歳だ。理性が崩壊してしまうのも仕方
ないだろ? 仕方ないですよね?
﹁そのような余裕で大丈夫か?﹂
1281
カナタの警告が頭に響き渡る。
言われなくてもわかっているさ、誰かは知らないけど、このまま
魂喰いの場所まで案内する訳にはいかない。
﹁要は監視者を燻り出せばいいんだろ?﹂
信号待ちの車の列を見計らい、その隙間を縫うようにしてひた走
る。そのまま大通りから脇道へ分け入った。
これで監視の目から逃れればラッキーだし、追尾してくれば一目
瞭然だ、バイクで車を撒くのは容易い事、要は車の通れない道を走
ればいいだけ。
道幅の狭い住宅街をスルリと抜け、小高い土手の遊歩道に乗り上
げた。
途中の道は細く複雑に入り組んでいた、よっぽどの土地勘が無い
とここまで追尾は出来ない。
エンジンを止め、目を閉じて五感を研ぎ澄ました。
﹁まだ見てやがるな⋮⋮﹂
相変わらず感じる視線⋮⋮、もはや車やバイクの追尾では無い。
人の常識を超えたナニカだ。
﹁カオル、北の方角から見ておるようじゃ﹂
カナタの言う方角に目を凝らし、遥か先の空中に舞うモノを見つ
けた。
青の霊気を纏った妖精、バービーちゃん人形サイズの体で羽が生
え飛んでいる。しかもこちらの様子を窺い、なにやら必死でメモを
取っている。
1282
じっと見つめる俺とカナタ、その視線に気が付いたのか、プイと
横を向いて知らんぷりをしている。
口笛なんか吹くマネしちゃってますな。
﹁呼んでみたら釣られるかな?﹂
俺は妖精に向かい指をクイクイッと動かして、意識をこちらへ向
けてみた。
妖精は落ち着き無く飛び回り、口に指をくわえジッとこちらを向
いている。しかし警戒心が強いのか、反応は見せたものの近寄ろう
としない。
俺は道の脇に生えていたエノコログサを引っこ抜き、妖精に向か
いユサユサと振ってみた。
エノコログサは通称猫じゃらし、これで釣れないはずがない。
今度は今まで以上に反応した、不思議な動きをする先端部分に興
味を示したようだ。ゆっくりとゆっくりとだがこちらへ飛んできて
いる。
5、4、3メートルと近づいてきて、不思議そうな表情を浮かべ
ている。
見れば青一色って訳ではなく、青みがかった銀髪と大きな瞳、レ
オタードみたいな服と、透ける絹の様な衣を一枚上に羽織っていた。
﹁こっちゃこ∼い﹂
更に興味を惹くように猫じゃらしを振ってみたが、それ以上近づ
いてこない。仕方なく俺は奥の手に打って出た。
ポケットから取り出したるは金属の箱、カナタやトウカへの甘味
を入れておく、通称﹃餌箱﹄だ。
そこから小粒のキャンディを取り出して、妖精の前にチラつかせ
てみた。
1283
流石にカナタ推奨のキャンディだけはある、呆けた様な表情でフ
ラフラと近寄ってきた。カナタやトウカにも言える事だが、なぜ小
さい奴は甘い物に弱いんだろうか?
﹁捕まえた!﹂
妖精がキャンディを掴んだ瞬間に、その無防備な体を片手で掴ん
だ。
しかも捕まったにも係わらず、悠然とした態度でキャンディを頬
張り、口をモゴモゴさせて幸せそうな顔をしていた。
﹁あぁ、春山養蜂場の蜂蜜キャンディが⋮⋮﹂
カナタが空を掴むように手を伸ばし、一筋の涙とともに身悶えた。
まあまあ、また買ってやるから一個くらい食わせてやってもいい
じゃないか。
俺は苦笑しながらカナタを宥め、手の中で飴を食らっている、ふ
てぶてしい妖精に尋問を始めた。
﹁お前の主人は何処だ?、目的はなんだ?﹂
俺の問い掛けに慌てず騒がず、余裕表情で手に持ったメモにサラ
サラっとペンを走らせる。
silent? 黙秘するってのか?﹂
そしてメモ帳をひっくり返して、俺に見せた。
﹁Keeping
妖精はコクコクと頷いて、口を両手で押さえて黙秘の姿勢を崩さ
ない。
けれど何処か人を食ったような陽気な表情をしている。
1284
こういう場合はアレだ、気さくに話せる環境作り、まずは名前か
ら聞いてみよう。
﹁お前の名前は? 名前はあるのか?﹂
再び手に持ったメモにサラサラっとペンを走らせ、ひっくり返し
て見せた。
書いてくれるのは良いんだけど、字が小さいんだよな。
﹁Iris? イリスで良いのか?﹂
またニコニコとした表情で、口を押さえたイリス。
恐らくこいつは俺とカナタのように、術者と意思を通わせる事が
出来るのだろう。
今こうして話している事も、飴をくれてやったのも筒抜けなのだ
ろうか⋮⋮。
﹁イリスちゃん? 監視するのを止めてくれないかなぁ?﹂
イリスは俺の表情を見て、物凄く困った顔をした。暫くウンウン
と悩み、泣きそうな顔で首を振った。
こいつも悪意があって監視してるわけじゃないんだよな、ご主人
様に逆らえない板挟みの気持ちが伝わってくる。
痛めつけてやれば追跡も出来ないんだろうけど、なんだろうね、
憎めないんだよね。
俺はイリスを掴まえていた手を離し、もう一つキャンディを取り
出して、イリスに手渡した。
イリスはペコリと一礼して、自分の持ち場へと戻っていった。
﹁当初の目論見通りに煙に巻くか﹂
1285
﹁そうじゃの、早めに帰ってやらぬと、トウカが怒り出すぞ? 手
遅れかも知れんがの﹂
だよなぁ⋮⋮、トウカだけじゃなく美苑さんにぶっ殺されるし。
俺は胸ポケットから二枚の紙切れを取り出して、その一枚に念を
籠めた。
紙が炎に包まれ一瞬の内に燃え尽き、まばゆい光を発して視界が
白く染まった。
﹁ご主人様に怒られるなよ∼﹂
そして二枚目の紙が手の中から消えた時には、警察病院の駐車場
に戻っていた。
俺はSDRのメットホルダーにぶら下げていたナイフを手に取り、
いつものポジションに差し直した。
そして周囲を見回し、監視者の視線を探ってみたが、心地よい虫
の泣き声だけが耳に届いてきた。
﹁作戦成功っと﹂
美咲さんを連れて慣れない二人乗りの状態で、監視者の目を振り
切るのは容易ならざるものだと踏んでいた。
仕方なくトウカとナイフをSDRに残し、監視者を引き付けてこ
こに戻る作戦に打って出たのだ。
紋様を燃やし歪曲空間に入り込めば、桃源境の東屋近くに辿り着
ける。戻る際にこちらにナイフが無い場合、戻る先は元の場所に限
定される。
しかしトウカのナイフと東屋は、トウカの能力で強く結びついて
いる。ナイフを現世に残しておけば、転移した場所よりナイフがあ
1286
る場所が優先される。
トウカに教えてもらった歪曲転移の法則だが、なるほどこれは便
利かもしれない。トウカが悪用をされるのを嫌い、俺に教えなかっ
たのがよく分かる。
便利だからといって多用は出来ない。なにしろ一枚の紋様を使う
際の四分の一の霊力を消費する。合計二枚の紋様を燃やし、俺の霊
気は半分近く消費していた。
﹁トウカ! 留守番ご苦労様!﹂
憤怒の形相でSDRのシートに座っていたトウカが、ピョンと肩
に飛び乗り耳元で大声を張り上げた。
﹁罰当たりめが! 人にナイフのお守をさせるとは⋮⋮、ぬうう⋮
⋮、この対価はどうしてくれようか﹂
普段温厚な人が怒ると怖いってのは本当だ⋮⋮、何時もニコニコ、
ホクホク顔のトウカが怒るとマジ怖い。 俺はとんでもない対価を請求される前に、殺し文句をボソリと呟
いた。
﹁並んでも買えない例のロールケーキ、姉妹全員とカナタの分を用
意しよう⋮⋮、それででどうだ?﹂
つい先日パソコンで巷のスイーツ特集を熱心に見ていたトウカ。
とりわけこのロールケーキにご執心のようで、チラチラと画面と俺
を交互に見て、意思表示をしていたのを忘れちゃいない。
メットの顎ひもを引っ張って抗議をしていたトウカは、怒気を孕
んだ顔つきから一変しえびす顔に変化した。
1287
﹁そ、そういう事なら許してやらなくもない﹂
厳しい口調を装っているトウカだが、羽が生えて飛びそうなくら
い浮き足立っている。
トウカの機嫌も治ったし、ついでに監視の目も逃がれたしで、や
っと落ち着いて探索出来る。
﹁美咲さん、手間取りましたが、赤い糸はまだ大丈夫ですか?﹂
美咲さんは虚ろな目をしながらも、俺の問いかけにコクリと頷い
て見せた。
ホッとして胸を撫で下ろした俺に、美咲さんが口を開き、たどた
どしく言葉を搾り出した。
﹁けれど魂喰い⋮⋮の、執着が薄れてます、これ以上希薄になると、
トレース出来なくなる恐れがあります﹂
もとより細かった糸を鑑みれば、魂喰いにとって清水は使い捨て
の駒だったのかも知れない。となると時間の経過とともに糸が薄れ
ていくのは当然の事か。
﹁カナタ、トウカ、監視者の目に注意しててくれ。俺は道を変えて
西に向かう﹂
俺は急き立てられるようにDRZのエンジンを掛け、再び西の方
角へと急ぎ走らせた。
東西に市内を横断している主要道、そのバイパス路である旧道を
利用して西へ突き進み、山の裾野まで辿り着いた所で次の指示がカ
ナタから届けられた。
1288
﹁次は北東じゃと﹂
どうやら赤い糸は、対象の座標を割り出せるほど正確なものでは
ないようだ。
おおよその方角を感知して、数多くの観測地点から対象を絞り込
んで場所を特定するのか。
観測地点が多ければ多いほど正確な場所を特定できる⋮⋮と。
﹁こりゃ、急がないとヤバイな﹂
集中している美咲さんにも限界があるだろうし、糸の寿命も気に
なる所だ。
最低でも三箇所は回らないと、正確な位置の特定は出来ない。
病院のある東から西の現在地で二箇所、北東まで行けば三方位で
位置を割り出せる。
DRZのアクセルを軽く吹かし、右足を軸にタイヤを滑らせてタ
ーンをきめた。
生憎この地点から北東への一本道は無い、碁盤の目のように整備
された道路だがら、東から北へもしくは北から東へのルートを取る
しかない。三点方位測定が目的なのだから、まず北へ向うのが得策
だ。
﹁もう少しの辛抱です、がんばってくださいね﹂
俺はタンデムシートで集中を切らさない様懸命にがんばっている
美咲さんを気遣った。
かれこれ一時間程集中している、俺ならとっくの昔に糸を手放し
ているだろう。
俺はアクセルと捻りながら山道ルートで北へ向かった。
主要道から離れているこの道は、信号も少なく車通りは無かった。
1289
後方からの車のヘッドライトも、前方から擦れ違う車も無く、異
様な雰囲気に包まれていた。
﹁主要道が便利だからって、人っ子一人通らないのはおかしいだろ﹂
まるで人のいないパラレルワールドに迷い込んだ気分になった。
そんな折、一台の車が後方から走ってきて、そんな不気味な雰囲
気を一掃してくれた。
しかし安心したのもつかの間、その車の排気音に異常を感じた。
﹁オイオイ、回し過ぎだろ﹂
異常な高回転域のエンジン音、そして変速の度に鳴り響くブロー
オフバルブの抜ける音。
この細い道を殺人的なスピードで走る車に脅威を覚えた。
俺は急き立てられるようにアクセルを吹かし、その音源がら逃げ
るように走り出した。
しかし稼げた時間は僅かなものだった、ヘッドライトのハイビー
ムで逆光になった見慣れないフォルムのSUV。
跳ね馬と鹿の角のエンブレムがチラリと見え、そのバケモンの正
体が虚ろに理解できた。
ドイツを代表するのスポーツカーメーカー、水平対向エンジンの
音がしないSUV、しかもターボ⋮⋮。
﹁カイエンターボか!﹂
ポルシェが誇るSUV車、その最上位モデルはターボ付きで50
0馬力オーバーのバケモノだ。
DZRに鞭を振り加速した瞬間に、DRZを遥かに上回るスピー
ドで追い越したカイエンターボS
1290
フルブレーキを掛けて白煙を撒き散らしタイヤを滑らせながら反
転、こちらへ前照灯を向け50メートルほど先で停車した。
俺もDRZにブレーキを掛け、横を向けながら停車し様子を窺う。
﹁ちっ⋮⋮﹂
カイエンターボの周囲を飛び回る青の妖精、その姿を見て思わず
舌打ちをした。
1291
﹃追跡 05﹄
ポルシェカイエンのサスペンションが二度揺れ、運転席から巨漢
の男が、助手席から少女が降りてきた。
巨漢の男は身長2メートル近くの白人で茶髪の短髪。
軍属のような戦闘的な雰囲気と鍛え上げられた体、それを隠すか
のように黒のスーツに身を固め靴の踵を鳴らした。
もう一人の少女は年齢不詳の白人で金髪、年の頃は十二、三歳に
も見えるし、表情一つで二十歳過ぎにも見える。
妖精イリスが側を飛び回っている事から、どうやら彼女がイリス
のご主人様の様だ。
﹁守人の天野美咲とエレメンタルマスターの三室カオルね?﹂
まず最初に口を開いたのは少女の方だった。
目を閉じていれば外国人だと思えないほど流暢な日本語で話し、
会話が成立する距離で足を止め、遠間から俺の表情を窺っている。
何を訳の分からない事を言ってやがる、俺達には戯言に付き合っ
てる暇は無いんだ。
ヘルメットを脱ぎ二人に向かい口を開いた。
﹁なにヘンチクリンな呼び名を付けてるんだ。聞いた事も無い呼び
名で人を呼ぶな﹂
少女は怪訝そうな顔をして、ポケットの中から電卓のような機械
を取り出し、手早く入力を済ませて耳を済ませている。
機械から電子音で﹁henchikurin、ヘンチクリン﹂と
発音されている。どうやら翻訳機のようだ。
1292
﹁申し訳ないけど、正しい日本語で話してくれない? ヘンチクリ
ンなんて言葉は習ってない﹂
﹁それは申し訳ない。﹃変﹄の最上級の表現だと思ってくれ﹂
ペコリと頭を下げて、ポケットからメモを取り出しサラサラとメ
モをした。
もしかして今のを真に受けてメモしたのだろうか?、さすがイリ
スのご主人様だけあって行動が似ているな。
ステイツ
﹁守護精霊を何種類も飼ってる能力者なんて、世界でも数えるほど
しか存在しない。我が国の機関ではそういう変人をエレメンタルマ
スターと呼称するの。アジアの五行説でいう元素は、西洋四属性で
のエレメンタルなんだから間違っていないでしょ?﹂
なるほど、﹃習得﹄のマスターではなく﹃主人﹄のマスターか。
言われてみるとそういう事になるかもな。
別に飼ってる訳じゃないし、むしろ憑かれてると言ったほうが正
しいのだが、金気のカナタ、金気・木気のトウカの能力を借りてい
るのは間違いない。
﹁渋々だがその呼び名の響きは悪くない、納得しておく﹂
コクリと頷いて再びメモに筆を走らせる少女。
もしかすると乃江さんとタメを張れるほどのメモ魔なのかも知れ
ないな。
﹁日本語を喋れないんで黙ってるけど、このウドの大木はアビゴー
ル、私はチェンジリングと呼ばれてる﹂
1293
俺達の実名を調べておいて、自分達の紹介はコードネームか⋮⋮、
胡散臭い奴等だ。
しかもソロモン72柱の悪魔︽Abigor︾の名前と妖精の取
替え子︽changeling︾と来たか。見たまんま、何の捻り
も無い呼び名だな。
﹁悪魔の大御所と妖精の取替え子が、俺達になんの用だ? 出来れ
ば事を荒立てず穏便に、道を開けて欲しいのだが﹂
俺の問い掛けに対し、チェンジリングはゆっくりと首を振り、浮
かぬ顔つきで口を開いた。
﹁戦闘機のパイロットが一人前になるのに掛かる費用はどれくらい
か知っている?﹂
疑問に疑問で返してきやがった。
そういうのはルール違反で嫌われる素だってのに、分かってない
な。
﹁最新鋭戦闘機で300万ドル。アストロノーツを育成するのにそ
の十倍、その殆どが実戦・実務を経ず退役してしまう。培ったノウ
ハウを、老い朽ち果てる体に蓄積して﹂
しかもよく分からん話をしてやがる。
俺はともかく美咲さんの限界が近いんだ。くらだない時間稼ぎに
付き合ってる暇は無い。
﹁それが何の関係あるんだ! そういう話は急いでる奴じゃなく、
心理カウンセラーにでもするんだな﹂
1294
少女は隣の男に英語で一言二言話をして、俺に向き直り話を続け
た。
どうやらその素振りを見ていると、隣の男は日本語の聞き取りす
らままならない様子、少女が通訳の役割を果たしているようだ。
﹁関係あるわよ。その欠点を補える﹃能力﹄を持った人間が極東に
現れ、我が国の有識者達は大喜びしたもの﹂
おいおい、ふざけた事をいってるんじゃねぇ。まさかそんな悪魔
の思考を持った奴がいるのかよ。
俺の中で嫌な予感って奴が駆け巡った、怒りと驚愕で反論する口
が動かない。
﹁二人とも遺伝型の能力者なのに、そういう発想を持った事はない
の? 現代のテクノロジーを持ってすれば、ヒトのゲノムマップは
解析完了。そうなると学者は普通の人では物足りなくなって、次は
特殊な塩基配列を求めるのね。私たちのように変わり者の﹂
︱︱最悪だ。こいつらは魂喰いをサンプルとして欲している。い
や⋮⋮、遺伝子を欲している。
俺の表情を見て、やっと伝わったかと呆れた顔をしてため息をつ
いた。
﹁成長型の能力者のサンプルは、研究のし甲斐があるのでしょうね。
生きたままだと1000万ドル、死亡していても500万ドルの高
値が付いている﹂
頭が混乱してきて思考がまとまらない。
もし魂喰いの能力が﹃量産﹄されたらどうなる? もし超能力だ
けではなく能力を食うものだとして。
1295
例えば戦争、戦地にはずぶの素人として送り込む。手っ取り早く
そこらの人から能力を喰い、一流の軍人として成長を遂げるかもし
れない。
ひと
能力の数が力の優劣に繋がるのなら、たくさん喰った奴が強く、
優秀な兵器に変貌する。
﹁まさしく呪術でいう所の蠱毒じゃな。壷の中の毒虫は一人残らず
食い尽くされてしまうじゃろう﹂
身震いのするような言葉がトウカの口から漏れた。
﹁人類を滅ぼしたいのか?﹂
なぜこの地区が封鎖地区になったのか。その事については美咲さ
んから嫌と言うほど聞かされたのだ。
退魔士10人を喰らえばアイツが人の頂点に立てる。まさにそん
な危険因子がここにいる事が分かっているからだ。
﹁アオカビからペニシリンが出来て、多くの人が救われた。一見害
毒にしかないものでも、視点を変えれば役立つものよ﹂
駄目だ⋮⋮、こいつら話にならねぇ。
お前達が人類の英知だといって作った爆弾はどこで使われた?
世界の警察だとか寝ぼけた事を言って他国を戦地にし、今泣いて
いるのは女子供だろうが。
﹁すまん、寝言は寝てから言え。聞くに堪えん﹂
俺はストールしたエンジンを掛け、二人の付け入る隙を探った。
だがしかし、チェンジリングはニヤリと笑い両手で天を仰いだ。
1296
﹁私達は時間稼ぎ、本隊が魂喰いと接触している頃よ。彼をサーチ
出来る能力者が天野美咲だけとは限らないでしょう?﹂
肩の上で座っていたイリスを撫でて、ほくそえんだ。
そうか⋮⋮イリスか。アイツは空間転移した俺達を追尾出来る性
能を持っていた。
美咲さんの赤い糸とはまた違う、別の追尾手段を持っているのか
もしれない。
﹁魂喰いの肩を持つわけじゃないが、舐めてかかると酷い目に会う
ぜ?﹂
あいつと一度対峙したから言える。風弾があったからなんとかな
ったようなものだ。
アストラル体のあいつなら超高速で動き、距離の概念をぶっ飛ば
してしまう。
﹁平気よ、本隊の4人は日本のレベルで言う所のAかそれ以上と思
って貰っていい。弱い能力者の貴方達が行くと、余計戦場が混乱す
るの﹂
弱いと言い切られるとぐうの音も出ない。
そんな弱気な俺の肩に、美咲さんの震える手が乗せられ、聞いた
こと無いほどおっかない声で囁いた。
﹁切れた⋮⋮﹂
ゾッとするほど冷え切った声が響き渡り、DRZのリアサスがギ
シリと沈み込んだ。
1297
怒気を纏った美咲さんがバイクのタンデムシートを降り、ゆっく
りと二人の方へ歩いていく。
﹁美咲さん!﹂
油断するなと声を掛けるのもおっかない。
俺はバイクのエンジンを切り、サイドスタンドを立てて腰の守り
刀に手を掛けた。
﹁カオルさんはそこに﹂
振り返り俺を一瞥した美咲さんの表情は、︽ピー︾なほど︽ピー
︾だった。
俺はそのダークオーラにあてられて、真琴のように泣いてしまい
そうだった。
立ちはだかる二人の能力者を前に、無人の野を歩くが如く歩を進
め、射程内に入る直前に、俺の目に追えない速さで駆け出した。
﹁速ぇっ﹂
長考モードでトレース出来る限界速度を超え、美咲さんの像が網
膜に焼きつかない。
手ブレをした写真の様に、数メートルの幻影を背負い、再び形を
成したときにはアビゴールに蹴りを見舞っていた。
これが本気モードの美咲さんの﹃長考﹄か、流石に本家の切れ味
は凄い。
﹁何?﹂
チェンジリングが振り返った時には、アビゴールの巨体は空に舞
1298
い、ポルシェカイエンのフロントガラスに突き刺さっていた。
一発目に蹴り上げてアビゴールの体を浮かし、前蹴りと回し蹴り
で止めを刺した⋮⋮足技だとは思えない程の速射砲だった。
クルリと振り返った美咲さんが、ゆっくりとチェンジリングの側
へ歩いていく。
物凄い視線で睨みつけながら⋮⋮。
美咲さんの怒気に圧倒されて、後ずさりするチェンジリングの胸
座をグイッと掴み、どこぞのヤンキー顔負けのガンをたれた。
﹁仲間は全滅したわよ﹂
そう言うと空に浮き足をバタつかせていたチェンジリングを地に
下ろし、怒りの拳を振り下ろした。
ゴツンと鈍い音がして、チェンジリングの頭部にでっかいタンコ
ブを作り上げた。
﹁糸の切れる前の感覚で分かる。新たな能力を得てそちらに意識が
集中した⋮⋮、だから切れた﹂
美咲さんの言葉を受け入れず、涙目で青ざめつつ耳を塞いで首を
振った。
﹁そんな筈はないわ。狩りの経験も豊富なハンター達よ? 能力も
⋮⋮﹂
そう言いながらポケットから携帯を取り出して、何度も何度も電
話を掛ける。
繰り返す度にチェンジリングの涙が溢れて、終いにはその役立た
1299
ずの携帯を地面に投げ捨て、携帯の破片が飛び散り、音を立てて砕
け散った。
﹁イリス! みんなの燐光を探せる? 奴はどこにいるの?﹂
まくし立てる主を心配そうに見つめるイリスは、空高くに飛び上
がった。
燐光か⋮⋮、能力者の燐光、オーラの光が見えるのか。一般の人
より能力者は強い光を出す。ただし能力を発現させている時にしか
溢れ出るモノではない。
通常のリラックスした状態でも光が見えるのなら、イリスの索敵
能力は、対能力者で考えるなら優秀だといえるかもしれない。
﹁ご主人様⋮⋮、駄目です。光が見えません﹂
しょんぼりとした表情をして、ペコペコと申し訳無さそうに頭を
下げているイリス。
喋れるじゃないか⋮⋮、しかも流暢に日本語で喋ってる。
不思議がる俺の表情を見て、イリスが予備にあげた飴を見せて、
ウインクした。
︱︱飴を頬張っていて喋れなかったと?
﹁カオルさん、切れる前に大体の場所が予測出来ました。行きまし
ょう﹂
駆け寄る美咲さんはいつもの表情に戻っていた。
俺は再び背中に感じる柔らかさに、どこか釈然としない気持ちに
なり、首を傾げつつヘルメットを装着した。
俺達の動きを見て、ハッとした表情をしたチェンジリングは、大
声を張り上げた。
1300
﹁Wake
up,
Abigor !!﹂
チェンジリングの叫び声に合わせて、ムクリと起き上がったアビ
ゴール。
まるでターミネーターの様に、首を二度コキコキと鳴らし、カイ
エンの運転席に乗り込んだ。
ヒビの入ったフロントガラスを内から足で蹴りだし、すっきりと
した表情で親指を立てた。
﹁場所わかってんのか?﹂
策敵した場所がイリスによって仲間に伝えられたとして、その場
所で戦闘を開始しているとは限らない。
能力者同士の戦いとなると場所を選ぶ可能性の方が大きいと思わ
れる。
チェンジリングは俺の言葉を聞いて、馬鹿にされたと思ったのか
顔を真っ赤にして怒り出した。
こうして見れば普通に十二・三歳に見えるから不思議だ。持って
いる雰囲気や知識のせいで歳を見間違っていたのかもしれない。
﹁アビゴール、あいつらを追うわよ﹂
結局俺達頼みなんじゃないか?
やれやれ、後ろからひき殺すような事は勘弁してくれよ。
1301
戦地は先ほどの場所からそう遠くない場所にあった。
森林を伐採して出来た新興住宅地と医科大学や技術系大学など、
数多くの学校が立ち並ぶ学研都市。そのすぐ近くの雑木林だった。
﹁酷い有様だな⋮⋮﹂
雑木林の木々が見事なまでに根っこから引き抜かれ、戦火のすさ
まじさを物語っていた。
そして金髪の女性が血まみれで息絶え、その傍らにもう一人金髪
の男性が散らばっていた。
その残忍なまでの状況に、眩暈と吐き気を覚えて目を背けた。
チェンジリングとアビゴールは二人の様子を傍らで見て、ワナワ
ナと震える手で地面を叩いていた。
﹁チェンジリング! 二人の能力を教えてくれ﹂
故人をいたわる言葉の一つでも掛けてやれば良かったのかも知れ
ない。
けれどこうなった以上、情報は必要だ。今も魂喰いは近くにいる
かもしれないのだから。
﹁兄がPsychokinesis、いわゆる念動力者を、妹はp
yrokinesis発火能力者だった﹂
︱︱兄妹か。一瞬俺の頭に葵の顔が過ぎった。
妹が殺されれば、死ぬ気であいつを追い詰めるだろう。逆もまた
同様に。
二人の無念を噛み締め、追悼の念をこめて目を閉じた。
1302
﹁チェンジ⋮⋮﹂
俺は肩を落として泣く彼女に、慰めの言葉を掛けようとした、し
かし美咲さんが首を振り俺の肩に手をポンと乗せた。
無用な慰めは必要ないと言う事か。それが二人にとってプラスに
働かないという事なのかもしれない。
俺は先に一人歩く美咲さんを追い、雑木林を抜けて歩道に出た。
﹁魂喰いの気配は感じれないですね。妖精も反応を示さなかった⋮
⋮、どう言う風に身を隠しているのかは不明ですが、流れてきた意
識が私に残っています﹂
美咲さんは真剣な表情で、俺の目を見つめている。
そして周囲を見回して俺に耳打ちをするように話してくれた。
﹁途方もない孤独感﹂﹁何も無い白の部屋﹂﹁複数の意識﹂
まるで謎掛けのような単語を口から紡ぎだして、ため息を吐いて月
を見上げた。
俺もその単語から実像を結ぶ事が出来ず、頭を掻いて美咲さんの見
つめる方向を眺めるしかなかった。
1303
﹃三室家 朝の食卓 01﹄
﹁母さん今日の新聞は?﹂
普段新聞など読まない俺は、新聞がどう扱われているのか、まっ
たく知らなかった。
インターネットでいつでもニュースを見れるし、テレビ欄も不自
由しない、前時代的な代物だと思っていたからだ。
郵便受けとテーブルの上に見当たらず、自分で探すのを諦めて母
に尋ねた。
﹁あらあら、めずらしいやん? カオルが新聞やなんて。テレビの
横にある本立てにあるよ?﹂
テーブルに両肘を付いてニヤニヤしながら俺を覗う母。
スッピンなのに肌の衰えを感じず、相変わらず年齢不詳な母は、
指先に絆創膏を大量に巻きつけていた。
﹁絆創膏の数が凄いね。また無理したの?﹂
うちの母は壊滅的に包丁使いが下手だ。千切りキャベツが切れな
いし、ピーマンのヘタを取る事も出来ない。
魚に至っては目が怖く、キッチンペーパーで魚の顔を隠して包丁
を使う。
料理も数をこなすと扱いが上手くなる筈なのだが、子供の頃から
見続けた感じ成長したような痕跡は無い。
﹁久しぶりの休日やからね。軽く朝食でも作ったろかと思ったんや
けど、ブロッコリーが曲者でなぁ﹂
1304
なぜブロッコリーを切り分けるだけで指を数箇所切るんだろう。
テーブルには用意された和洋折衷の朝食が並べられ、温野菜のブ
ロッコリーが湯気をなして盛り付けられていた。
温野菜ブロッコリーは葵の好物だった。マヨネーズを少し付けて
食べると止まらないらしい。
具沢山の味噌汁とカリカリベーコンが添えられた目玉焼き、ホウ
レン草の湯通しに鰹節が載せられている。
﹁あ、お母さん、おにいちゃんおはよ∼﹂
眠気まなこで目を擦りながら、ボサボサ頭の葵が起きて来た。
焦点の合わない目を左右に泳がせて、返事も待たずに洗面台に歩
いていった。
俺はテレビの横にある本立てから新聞を引き抜き、地域欄と事件
欄に目を通した。
巷に溢れる物騒な事件の見出しを見つめ、ため息を付いて新聞を
四つ折りに畳んで本立てに戻した。
昨日の﹃魂喰い﹄の件、完全にマスコミをシャットアウトしてあ
るのか、記事の欠片さえ掲載されていない。
チェンジリングが我が国と言った時、﹃ステイツ﹄と呼んでいた、
あいつらは合衆国の退魔士の筈なのだが。
日本の退魔士機関を経由して圧力を掛けたのが昨日の結末か。
﹁死んだ者は浮かばれないな﹂
美咲さんは今回の事例を上申して、今後の介入をシャットアウト
して貰うと言っていたが⋮⋮。
日本はアノ国に弱いからな、言わないよりはマシ程度の抑止力に
しかならない気がする。はてさてどうなる事やら。
1305
俺はテーブルに着き、炊きたてのご飯をよそい、両手を合わせた。
﹁いただきまふ﹂
ブロッコリーとホウレン草を小皿に取り分けて、温かいブロッコ
リーを口に放り込んだ。
遅れて席に付いた葵がその様子を渋い顔で見つめている。
俺はブロッコリーにはマヨネーズやドレッシングを掛けないで食
べる。サラダも千切りキャベツにも何も掛けない。
生の風味を味わうのに味の濃い物を掛けては、その素材の旨みを
感じる事が出来ないとの持論からだが、マヨラーの葵からするとか
なり変に見えるらしい。
﹁お父さんは? もう仕事に行っちゃった?﹂
休日も働くサービス業だから、祭日は稼ぎ時なのだ。
楽器屋といっても客は多い。近所の音大生が足繁く通ってくるし、
吹奏楽で有名な高校も有力な顧客だったりする。
中の上までのラインナップだけど、展示を多く抱え品揃え豊富、
商品を見て安心して買える楽器店として、わりと評判が良かったり
するのだ。
﹁どっかの中学校に楽器を卸すとか言うて、準備で忙しいらしいわ﹂
て事はもう出勤したか。
音楽室の備品の入れ替えとか結構旨い仕事らしいし、三室家の大
黒柱らしくがんばっとるねぇ。
﹁そういや楽器屋のバイトの女の子さ、美人が多いけど親父の趣味
なのかな﹂
1306
何気ない朝の会話だったが、葵の肘撃ちで目が覚めた。
無言で味噌汁を啜る母の額に血管が浮き出て、椀を持つ手が震え
ている。
﹁そういう人の気にしている事を言わないの﹂
耳打ちしてくる葵の言葉も、小さな食卓では全員に丸聞こえだっ
た。
冷静さを失った母は、震える箸先でブロッコリーを摘み、ポロリ
と取りこぼして、何度も何度もお手玉していた。
これはヤバイ⋮⋮、かなり動揺させてしまったか。和やかな食卓
が一気に冷え切った。
俺は慌ててフォローの言葉を脳内で組み立てて、一気に吐き出し
た。
﹁まぁ美人って言っても、スッピンで20代まっしぐら︵に見える︶
の母さんには敵わないけど﹂
うちの母は贔屓目に見ても美人の類。授業参観の時は居並ぶ母親
達と見比べて、いつも誇らしい気持ちになったものだ。
その言葉一つでツンドラ気候にまで冷え切った食卓に、春風を運
んで来てくれた。
﹁そうやろか? うちまだまだ現役で通用する?﹂
俺と葵はコクコクと頷いてご飯を咀嚼する。
図に乗せるのもよろしくないが、自信を失った母はかなりヤバイ。
過去にも﹃子供におばちゃん言われてもうた﹄と泣きながらエス
テ通い、化粧品に金を注ぎ込んだ。
1307
小さい子供から見れば、俺でもオジちゃんだろうし、気にする事
ないのにな。
﹁お母さんとお父さんの出会いってどんな感じだった?﹂
葵の何気ない問い掛けに、母は両手を握り締め、夢見る乙女の表
情を浮かべた。
言いたげでウズウズしている素振りを見せて、ゆっくりと回想シ
ーンに突入した。
聞かなきゃ駄目なんだろうな。
﹁うちな、若い頃夜遅い仕事しててな? いやや水商売と違うで?
んでなぁ仕事の帰りにオトンに会うてん﹂
聞けばアコースティックギターの練習がてら、駅のコンコースに
座って弾き語りしていた親父と、お水じゃないと言い張る母が出会
ったそうだ。
ストリートミュージシャンっぽい事してたんだ⋮⋮、ギターは上
手いの知ってるけど、修行の成果だったのか。
﹁うちその時ちょっと酔うててな? 何時もは通り過ぎるところや
ったんやけど、なんかなぁ絡んでもうたんよ﹂
絡み酒⋮⋮、最悪の出会いじゃないか?
温和で大人しい親父だから、その時は大変だっただろうな。
﹁ギターケースに千円放り込んで、私らしい曲を頼むわ! ってな
?﹂
その時の様子を話している母は、幸せそうな表情を浮かべて笑っ
1308
ていた。
葵がつられて微笑み、その先のシナリオを口にした。
﹁で? ピッタリの曲を弾くお父さんに胸キュンしたの?﹂
ワクワクして次の展開を期待する葵に向かい、母はゆっくりと首
を振って否定した。
﹁全然本質を分かってない。うわべで人を見るようじゃ、ええ曲弾
けへんよって言って、曲半ばで帰った﹂
ぐはっ、すんごいツン女じゃないか。デレなしツンのみ、ドSな
感じだなぁ。
しかも初対面で本質とか、無茶苦茶言うなぁ、ある意味うちの母
らしいと言えるけど。
﹁その後その時の事忘れててんけどな、暫らくして通りがかったら、
うちの事じぃ∼とみとるんよ﹂
﹁くやしかったから?﹂
﹁うんにゃ、私の本質を見極めようとしてたみたい。大声で呼び止
められて、一曲聴かされたわ﹂
それを繰り返す事26回目、ようやく母の琴線に触れるメロディ
が奏でられたらしい。
﹁ほんまは15回目で合格やってんけど、なんかなぁ楽しくてなぁ
⋮⋮﹂
1309
このドS女め⋮⋮。
しかしその時の曲はなんだったんだろうか? 音楽に疎い母に聞
いても答えは返って来ない気がするし、今度親父に聞いてみるか。
﹁恋とか愛とか無縁やったしな、あんなに必死になられると、母性
本能がくすぐられたというか、途中からベタ惚れしてもうたという
か﹂
その時の母の表情は、まさしく恋する乙女の表情だった。
葵は母の表情を見て、天に昇るような幸せそうな顔をした。
そして箸をテーブルに置いて、正気とは思えない言葉を発したの
だ。
﹁よし! おにいちゃん、デートしよう﹂
俺は盛大に味噌汁を噴き、テーブルの上を台無しにした。
テーブルを掃除し終わり、残りのブロッコリーを責任を持って始
末し、お腹一杯に満たされた頃。
﹁準備オッケー﹂
能天気な声を上げ葵がリビングに飛び込んできた。
どうやら彼女には否定されるとかお断りされるという分岐は無か
ったようだ。
さも当たり前の様にテーブルについて、俺の横顔をニコニコと見
1310
つめている。
﹁あのな? その遊んで欲しそうな子犬の表情はやめろ﹂
俺の言葉に耳を貸さず、笑いながら肩肘を突いてへこたれない葵。
兄キモイと距離を置かれるのも悲しいが、こうやって昔の様に懐
かれると、それまた困る。
﹁かわいい洋服買ってくれるって言ったよね? インド更紗まだ買
ってもらってないよね?﹂
あのなぁ、かわいい服買ってくれってのは葵が言った言葉だろ?
インド更紗⋮⋮、そう言えばそんな約束もしたか。仕方ないな⋮
⋮、俺も買い物あるし軽く見に行くか。
﹁母さん、ちょっと駄々っ子をあやしてくる﹂
苦笑して手を振る母を横目に、自室に戻り外出着に着替えた。
外出着とは言っても、白のTシャツに半袖のシャツを重ね着、ボ
トムはいつものジーンズだ。
鏡に映る服と手に持った守り刀を見つめて、ため息をついた。
﹁夏場は薄着になるから、携帯が厳しいな﹂
ワンショルダーのリュックに守り刀とトウカのナイフを詰め込み、
少し心細いウエスト周りを擦りながら部屋を出た。
葵は部屋を一歩出た所で待ち構えていた。散歩に連れて行って貰
える犬の様に、ご機嫌な表情で俺を見上げている。
﹁おいポチ、散歩行くぞ﹂
1311
﹁ワゥ∼ン﹂
こういうリアクションする時の葵は要注意だ。
本気で俺に服を買わそうとしているのがひしひしと伝わってくる。
葵は乃江さんとメル友だし、俺が小金持ちだってのは薄々伝わっ
ているのかも知れないな。
﹁愚妹に懐かれる兄の姿は微笑ましいが、よもやロールケーキの約
束を忘れておらぬよな﹂
俺の頭の上に顕現したトウカとカナタが飛び跳ね、扇で頭を叩き
合図を送ってきた。
そういえばロールケーキも買いに行かないと⋮⋮、苦し紛れで言
い訳を続けると、首が回らなくなってくるな、⋮⋮気をつけよう。
﹁愚妹?﹂
ピクリと葵が反応し、耳をタンボの様に巨大化させた。
カラクリ人形の様にギシギシと首を回し、俺を睨みつけてきた。
あ、いや。俺が言ったんじゃありません。
久しぶりに飛び膝蹴りが炸裂するかと思ったら、ふと気がついた
ように俺の頭の上を眺めている。
﹁おにいちゃんの頭の上⋮⋮﹂
手を振るトウカとカナタに合わせて、呆けた顔で手を振っている。
しまったな⋮⋮、葵には見えていないと思っていたが、こいつに
もそういう素養があると言われていた。
俺と同じ血筋なら、見えても不思議はないか。
1312
﹁葵⋮⋮、見えるのか? 何時からだ?﹂
俺の問い掛けに葵はコクリと頷いてみせた。⋮⋮と言う事は、そ
れ以外もモノも見えてるのか。
葵は困ったような顔をして、指を一本二本と折って見せた。
そして苦笑して折った四本の指を見せた。
﹁四年前位かなぁ、ご近所さんのお葬式で見えたのが始まりかな﹂
両手で自分を抱き、身震いして目を閉じ涙を浮かべた。
カナタとトウカが飛び跳ねて、葵の頭へ着地し優しく声を掛けた。
﹁我等は神仏の類、人の魂とはちと違うから、そんなに怖くないぞ
?﹂
なるほど、葵が怖がっていると思ってフォローしてるのか、意外
とこいつらは気が効くな。
そして葵の頭に座って、二人が顔を見合わせた。
﹁カオルの頭に似て、座り心地が良い﹂
驚いたような顔が腹立つが、頭の形も似るものなのか?
俺は思わず座り心地の良いといわれる自分の頭を撫でて感触を確
かめた。 葵もそんな俺を見て、複雑そうな表情を浮かべて苦笑した。
﹁こいつらは刀の神様のカナタ、桃の木の仙女のトウカだ。見かけ
ても驚かないように、これからもよろしく頼む﹂
1313
カナタとトウカが葵の掌の上に飛び乗り、ペコリと頭を下げて微
笑んだ。
葵もおっかなびっくりではあるが、頭を下げて挨拶をかわした。
﹁この子達がおにいちゃんを護ってくれてるのね? 最近のおにい
ちゃん、表情明るいもん﹂
まるで宝物を手渡すように、掌に載せた二人を俺に突き出して見
せた。
いつも頭の上でピョンピョン飛び回っているだけだから、面と向
かって顔を見合わせる事もなかったな。
言われてみて思えば、こいつらの存在は俺の中で大きく感じられ
る。
こいつらだけではない、美咲さん、乃江さん、山科さん、宮之阪
さん、真琴の存在が少しずつ俺を変えてくれている様に感じる。
﹁そうだな、こいつらの存在は大きいな⋮⋮、独り悶々と考え込む
暇がないし、いい助言をくれる﹂
二人は褒められてむず痒そうにモジモジと身をよじった。
そしてピョンと飛び、いつもの指定席に落ち着き、トウカは扇を
扇ぎ、カナタは髪の毛を引っ張って意思表示を示している。
﹁我等だけではなかろう? 仲間の女子達の存在が大きいのではな
いか?﹂
そんなトウカの言葉を聞き葵の表情が一変し、俺の袖を掴んで大
声を張り上げた。
﹁そう言えば、おにいちゃん!﹂
1314
﹁ひゃい?﹂
表情がコロコロと変わるのは、この年代だからだろうか、それと
も葵の特徴なのか⋮⋮。
たった二つしか歳が違わないのに、少し年代間ギャップを感じさ
せられる。
﹁乃江さんに聞いたよ! また家族に内緒で旅行に行くでしょ!﹂
その剣幕に押され、俺は思わず頷いてしまっていた。
葵はニヤリと笑い、ポケットの中からパスポートを取り出して見
せた。
﹁乃江さんが、家族の許可とおにいちゃんの財布が許せば、葵も一
緒にどうだ?って﹂
俺は脱力して地面に突っ伏してしまった。
乃江さんの馬鹿⋮⋮。葵に甘すぎるっす。
どうせ葵に夏の予定を聞かれて、嘘のつけない乃江さんは真面目
に答えてしまったのだろう。
乃江さんが行くなら、俺も行くのではと名探偵葵ちゃんの追及が
始まったと。 さっきのセリフも乃江さんの苦し紛れの言葉に違いない。
﹁ねぇ∼、おにいちゃん﹂
主語も述語も省かれた究極のおねだりだった。
俺の目から大量の水分が失われ、地面にポツポツとシミを作って
いった。
1315
﹁おにいちゃんは男だし一人部屋、女性が5人でツイン取るから1
人追加すると丁度良いんだって、大歓迎って﹂
なるほど、ホテルの宿泊を考えるとそうなるか。
逆に葵を連れて行かないと、強引に誰かとペアにさせられそうで
ツライよな。
真琴だったら気を使わなくてよさげだけど、あいつも女の端くれ
だし、朝のトイレとか気を使うよな。
葵を連れて行けば、最悪ペアにさせられても葵と同室になれるか。
﹁わかった、許可する、むしろ歓迎する﹂
﹁やった∼、旅行、旅行﹂
安易に返事をしてしまったが、葵の分の旅費とお小遣い、ドレス
や旅行着、スーツケースと一揃えしなくてはいけない。
ざっくりと計算して、青色吐息を吐いてしまう。
かくして犬の散歩気分で家を出たが、本気で買い物をしなくては
いけなくなった。
それにしても今日の買い物にしても、パスポートをポケットに忍
ばせていたり、葵の確信犯っぷりには頭が下がる。
もしかしておにいちゃんと懐いてきたのも、それが原因だったら
どうしよう。
凄く悲しくなって泣いてしまうかもしれないな。
﹁葵⋮⋮、おにいちゃん好きか?﹂
﹁うん! お小遣いも期待してるね﹂
1316
俺はグッと堪えてみたが耐え切れず、涙が一筋頬を流れていった。
1317
﹃三室家 朝の食卓 02﹄
落涙の儀式を済ませ、俺と葵は駅前の百貨店へと足を運んだ。
取り急ぎ必要な物といえば正装になるのだが、我が妹はしっかり
者だという事を再認識させられた。
﹁ドレスは乃江さんのお下がりを頂ける約束してるから﹂
正装が一番時間もお金も掛かるのだが、葵はそれを遠慮してくれ
た。
一時は妹の本質を疑って涙したが、やっぱり葵は良い子、自慢の
妹だ。
それよりなにより乃江さんだ⋮⋮、感謝感激雨霰です。助かりま
す。
﹁葵は中学生の頃の私と体型が殆ど同じだから⋮⋮、だって!﹂
幸せの絶頂を星が散りばめられた瞳で表現し、目に見えぬ羽を羽
ばたかせて飛び立ちそうな葵。
言い方を変えると地に足が着いてない子なのだが。
﹁乃江さんは超が付くほどスタイル良いんだが、本当に大丈夫か?
胴回りとか?﹂
﹁死にたいの?﹂
ほにゃららとした顔付きから、いきなり豹変し殺意の視線を向け、
ドスの効いた声をあげた。
いざ本番となって現地で泣きを見ないように注意しただけなのだ
1318
が、葵も女子の端くれウエストの話は厳禁の様だ。
﹁死んだら葵は旅行に行けない﹂
﹁むぐう﹂
頬っぺたを膨らませ不満の表情だが、渋々納得したようだ。
しかしどちらかと言えば母親似の葵だから、成長すれば乃江さん
とはまた違った感じになると思うのだが。
ドレスを着れる事より、服を共有できる事の方が嬉しいのかも知
れない。お姉さんが欲しそうだったもんな。
葵が母にベッタリなのは、そういう気持ちのあらわれだろう。う
ちの母も若いからな。
﹁乃江さんって実は金持ちのお嬢様だから、ドレスも半端ないと思
うぞ。高価な物なら遠慮しろよ?﹂
なにせ﹃真倉の姫﹄だからな⋮⋮。由緒正しき士族の末裔らしい
し、天野家、真倉家は謎が多い。
けれどその家柄とか背景を感じさせないのも、彼女らの良い所な
のだと思う。
﹁でも乃江さんならきっと﹂
服は着て初めて価値を成すもの、箪笥に仕舞って大切にされるよ
り、袖を通して貰う方が嬉しいに決まっている、なんて言うだろう
な。
服の価値より、身に纏う人の喜ぶ顔の方が価値があると思う人だ
から。
1319
﹁そうだね、遠慮したら逆に悲しんでしまいそう﹂
さすがメル友の葵だ。乃江さんの事を良く理解している。
そこまで理解しているなら何も言う事は無いか。
﹁でも乃江さんに嫌われちゃったかも﹂
消え入りそうな声で下を向く葵。
その落ち込みようを見ると、どうやって声を掛けたら良いのか判
らないほどだった。
﹁最近メールの返事が遅いの。いつもなら間を開けずに返って来る
んだけど⋮⋮﹂
たったそれだけでこれほど悲しめるモノなのか。メル友どころか
友の少ない俺には理解不能だ。
最近の乃江さんの変化か、あ、なんとなく理解してしまった。あ
の場所は圏外だからなぁ⋮⋮。
時間を見つけては足繁く通っているのだろうか? より強くなる
ために。
﹁乃江さんは何も変わっちゃいないよ。あとで乃江さんに直接会い
に行けばいいさ。居場所なら知ってるよ﹂
とはいえ区切りの良い所でお邪魔しないと、修行の邪魔になって
しまうな。
ロールケーキの件もあるし、息抜きのタイミングを見計らおう。
﹁買い物済ませたら行ってみるか﹂
1320
﹁うん!﹂
落ち込んでいたと思ったらこの笑顔、やっぱり葵には笑顔が似合
うな。
百貨店でスーツケースを見繕い、普段着のバリエーションを数点
増やした。
特に俺はジーンズに穴が開き、シャツは血で汚れてしまって着れ
なくなったのが多い。
ほとほと退魔士って職は、収入と支出のバランスが微妙だな。
美咲さんのニーソックスが黒なのも、多少の血のシミを隠せるか
ららしい。
美咲さんが血を流している所見たことないけど、ちょっとした心
使いが貯蓄を増やす秘訣なのだそうだ。
﹁スーツケースと服を宅配しちゃうなんて、庶民の感覚じゃないよ
ね﹂
買ったスーツケースに服を入れて、宅配サービスに送料払ってお
願いしただけだが、葵はその行動を見て感心しっぱなしだった。
世間ずれしているかもしれないが、山盛りの服を抱えスーツケー
スを引き摺って、ロールケーキのウェイティングしている方があり
えない。
1321
﹁葵は大荷物抱え疲れ果て、その様子を乃江さんに見られたい?﹂
葵は顎に人差し指をあて、その様子を想像し苦笑した。
ていうか庶民の感覚じゃないのは葵、お前だろう?
お気に入りのデザイナーズブランドの店に行って、手当たり次第
に気に入った服を買い漁った癖に。
店員さんが大忙しで一人では捌き切れず、二人に増え、最終的に
三人付いた客ってのも珍しいだろう。
﹁はい、レシート。一生の記念にどうぞ﹂
ゆうに四十センチはありそうなレシートを手渡した。
葵は上から下まで神妙そうな顔で眺め、合計欄を凝視してしばし
固まった。
そしてニヤリと笑って俺の手にぶら下がってきた。
﹁おにいさま! 秋もデートしようね﹂
魂胆見え見えだってぇの。
でもこうやってタカられるのも、兄の役目だって誰かが言ってい
たよな。
言い得て妙というか、相手にされないよりは幸せな気分だ。
﹁ロールケーキ買ったら、乃江さんのところへ行ってお茶でもしよ
うか﹂
噂のケーキ屋は百貨店と目と鼻の先、ビジネス街にひっそりと建
っている。
地味な店なのに、口コミだけで長蛇の列を成すんだから、味は期
待できると予想される。
1322
﹁おにいちゃん、ラッキーかも。五人しか並んでないよ﹂
葵の指差す先にその店があった。遠く離れたこの場所にさえ、甘
いケーキの匂いが漂ってきている。
二人は甘さに惹かれる様に早足で店へと向かった。
﹁しかももうすぐ焼き上がりのタイミング! ラッキーが二度続い
てる﹂
葵と葵の頭に乗ったトウカ、カナタがニコニコ顔で諸手を上げて
大喜びした。
特にトウカは願いが叶った喜びと相まって、蕩けた様な表情で舞
い上がっている。
恐らく焼き上がり前の看板が上がっているって事は、そっからケ
ーキを作り出すんだよな。
二十分待ちくらいかな。
ガラス越しで職人さんの動きを眺めていたら、袖を引っ張る葵に
促されて振り返った。
﹁おにいちゃん⋮⋮、見て﹂
葵の指差す方角には宮之阪さんが歩いていた。
夏の強い日差しを物ともしない、ゴシック調の黒のロングドレス
を着て、優雅に黒の日傘を差している。
奇異なのは足元に居る猫達だった。一匹二匹じゃなく数十匹。
文字で表すと﹃宮猫猫猫猫猫猫猫﹂
無言でスルーして欲しい気持ちより、その状況を知りたい好奇心
が先に立ち、手を振って大声を張り上げた。
1323
﹁マリリーン!﹂
俯きがちに差されていた傘がピクリと揺れ、ゆっくりと宮之阪さ
んが首を振って周りを見渡した。
やがて手を振る俺に気が付いたのか、ニコっと表情を柔らかくし
て会釈をしてくれた。
足元の猫達に気を使いながら、ゆっくりと歩いてくる宮之阪さん
に、ウエイティングしていた人々が目を丸くし凝視していた。
﹁こんにちは、カオルさん、葵さん﹂
再びペコリと頭を下げて微笑んでいた。
相も変らぬ自然体の大和撫子っぷりだったが、足元の猫達が俺達
をジッと見つめている。旗から見れば異様な光景だった。
﹁なんですか? この状況は﹂
俺は整然とつき従う猫達に指を差し、宮之阪さんに問うた。
宮之阪さんは指の方向へゆっくりと顔を向け、苦笑しながら俺と
葵に耳打ちをしてくれた。
﹁私の使い魔候補の猫ちゃんが、この町のボスなもので⋮⋮その匂
いに惹かれて寄って来るのですよ﹂
むぅ、どこかで聞いた事のあるセリフ。それも百話近く前に⋮⋮。
もしかしてその猫ってのは。
﹁タマさん?﹂
宮之阪さんは何も言わずに微笑みだけを返してくれた。
1324
この街の猫はタマさんが牛耳ってるのか⋮⋮出世したなぁ。
ん?、待てよ?、魔女の使い魔は黒猫かカラスってのが定番じゃ
ないのだろうか⋮⋮。タマさんは三毛猫のオスだった様な。
﹁これから生まれたての赤ちゃん猫に餌を持って行く所なんです﹂
手に持った鞄の中には猫まっしぐらな缶がたくさん入っていた。
﹁宮之阪さんに使い魔がいるなんて初耳です、そのわりにタマさん
を見掛けませんが?﹂
並み居る猫達の中には、タマさんが居ない。
そもそもあの存在感を持つ猫は滅多に見かけないのだが。
﹁タマさんには普段、店の番をしてもらってますから⋮⋮﹂
そう言いつつハッとした表情で口を押さえた宮之阪さん。
今、店って言ったよな。絶対言ったよな。
﹁お店?﹂
無言で逃げようとする宮之阪さんの襟元をグイと掴み、目の前に
立たせて真偽を問うた。
宮之阪さんは目を逸らし続け、滝のような汗を掻いている。
﹁宮之阪さんが無理なら美咲さんに聞いてみようかな﹂
ポケットから携帯を取り出して、ピポパと住所録を表示させた。
慌てて宮之阪さんが携帯を引ったくり、パタンと畳んで観念した
様な表情を浮かべた。
1325
﹁魔法学を修得する為にはとてもお金がかかるのです。今のお給料
Mari
マリ
じゃレアな材料が買えないし、魔法ショップを経営して内職を⋮⋮﹂
ー
懐から取り出して見せたチラシには、﹃魔法ショップ
e﹄と書かれていた。
しかも毎週水曜日営業、時間20時から24時って⋮⋮。
﹁通販がメインなのですが、実物を見たいって人が多いので﹂
チラシの下にはURLが書かれている。
現代の魔法ショップはインターネット通販型の店舗展開をしてい
るのか。
﹁若返りの薬や万病に効く薬、一回きりだけど四元素の精霊を使役
するパワーストーン、恋を成就させる呪いのアイテムなど⋮⋮﹂
チラシに書いてある妖しげな言葉を読み上げて、ため息を吐いた。
うちの小隊は内職不可だからなぁ⋮⋮、人の拘束も含めてあの給
料だし、内緒にしたい気持ちはよく分かる。
﹁美咲さんに隠し事は通用しないと思いますよ。知っていて相手の
リアクションを楽しむ人ですから﹂
その事は牧野=ファントムと看破された時に味わった。
牧野自身は公にされる事を嫌うので、内緒にして欲しいとお願い
した時の事。
﹁みんなに黙っている代わりに、私がその事を知っている事、牧野
君に内緒にして置いてくださいね﹂
1326
理由は隠し事をしている人、その後ろ暗さを見るのが楽しいのだ
とか。
悪質な事この上ない。
﹁美咲には絶対バレたくないのですが⋮⋮﹂
﹁無理でしょうな﹂
涙目で俺の袖を引っ張る宮之阪さん。しょんぼりと肩を落として
歩き出した。
猫達が落ち込んだ宮之阪さんを慰めるように、輪唱してニャーニ
ャー鳴いている。
﹁宮之阪さん! もうちょっとしたらロールケーキでお茶するので、
良かったらみんなを誘って来て下さい﹂
財布の中から数枚紙片を手渡した。
新聞広告のチラシを切ったモノだが、表にはトウカのナイフの焼
印が押されている。
紙を持って霊気を籠めれば誰でも使える、桃源境行きの片道切符
だ。
﹁じゃあ猫ちゃん達に餌をあげたら、そちらへ向かいますね﹂
かくしてハーメルンの笛吹きの如き宮之阪さんは、猫達と優雅に
歩いていった。
﹁宮之阪先輩って一番まともな人だと思ってたのに⋮⋮﹂
1327
目を丸くした葵は、さり気無く失礼な事を口にした。
俺はそれでもあのメンバーの中ではまともな人だと思うのだが。
﹁お待たせしました∼﹂
丁度良いタイミングの出来上がった合図に、待っていた人の列が
動き出す。
大人数になりそうだから、一本じゃ足りないだろうな。母さんに
も買って帰りたいし。
ワクワクとしてメニューを見つめている葵と指折り人数を数えて
いる俺。
あっという間に待ち人の列は捌けて行った。
﹁シンプルロール3本、プリンスロール3本、幸せ包み焼き15個
ください﹂
生クリームをふんだんに盛り付けたシンプル、フルーツと生クリ
ームを巻いたプリンス、クレープ生地でクリームとチーズケーキを
包んだ一口大の幸せ包み。磐石の布陣だ。
これでもロールケーキ一本1200円∼1600円だ。
和菓子に比べれば安いものだ。
ホッカホッカのケーキを紙袋で手渡され、店を後にした俺達は薄
暗い路地へ向かい、前後の人通りを確かめた。
﹁これから行くのはトウカの故郷だ。言わなくても分かっているだ
ろうが、他言無用でな?﹂
人差し指を立てて口を塞く素振りを見せた。
俺はトウカの焼印入りの紙を取り出して、念を籠めようと目を閉
1328
じた。
その一瞬の隙を見計らい、葵が紙を引ったくり、印を押された紙
を好奇心たっぷりな表情で見つめていた。
﹁おいおい⋮⋮、それは素人では発動させられない特別な紙なんだ
から﹂
﹁マンションのチラシの紙片じゃない。ペットと住むマンションっ
て書いてあるし⋮⋮﹂
いぶかしげな目を向けて、チラシの裏を鼻先に突きつけてきた。
イヤ⋮⋮、マンションのチラシってば、しっかりとした良い紙を
使ってるじゃないか。それ専用に紙を買うほど凝り性じゃないんだ
よな。
﹁念を籠めたら発動するんでしょ? 私と乃江さんの愛があれば行
ける!﹂
そう言って紙を握り締めてウンウンと唸り続ける葵。
数分頑張って見つめていたが、いくら唸っても紙は変化を起さな
かった。
そりゃそうだ⋮⋮、物に霊気を籠めるなんて、俺でも実現するの
にかなりの時間を労したのだ、いきなりおにいちゃん出来たと言わ
れてもそれはそれで困る。
素養ありと言われている葵だが、一般人と殆ど変わりは無いのだ
し。
唸っていた葵は、ため息をついてガックリと肩を落とした。
﹁使いこなせたら何時でも乃江さんに会えると思ったのになぁ⋮⋮﹂
1329
悔しさの余りか、苦笑する顔が痛々しい。 なるほどな。メールでの連絡が取れないんじゃ、またさみしくメ
ールの返事を待つだけの生活に戻る⋮⋮か。
ため息を吐いて路地の脇にあった階段に腰掛けた。
﹁会いたいと思う気持ちを紙に念じるんじゃない。手に流れる血液
が紙に染み渡るように、そして血液が自分に戻ってくるイメージを
持ち続けるんだ﹂
﹁血が通うような?﹂
目を閉じた葵の手から、ほんの少し霊気が零れ落ちた。
しかし紙を起爆させる程の霊気には程遠く、ほんのりと蒼に色付
く程度のモノだった。
﹁言ってすぐにそれだけ出来れば大したものだ。練習すれば跳べる
かもな﹂
実際その素養を見て鳥肌が立ったのは事実だ。
言ってすぐにやってのける資質は、稀に見るものじゃないだろう
か。
俺はこれ以上この世界に踏み込んで欲しくない気持ちで一杯にな
った。
そして葵の手にあった紙を取り戻し、霊気を籠めて爆ぜさせた。
﹁そのうち嫌でも出来るようになる﹂
葵の手を握り、光の中へ吸い込まれるように跳び込んだ。
そして再び目を開けると、清浄な空気に包まれた桃源境に辿り着
1330
いていた。
時を同じくして目を開けた葵の口から感嘆の言葉が溢れ出た。
﹁空気が美味しいし、風景も綺麗﹂
東屋の飾り彫りされた窓から、蓮の花の咲く池を眺めてため息を
吐いた。
俺が来た時には風景を眺める余裕もなかったが、今見てもその感
動は薄れる事が無い。
﹁乃江は芝生の上じゃろうな﹂
実寸大になったトウカが手招きをして、東屋を後にした。
その後を同じく実寸大のカナタが着いて行き、一人葵が硬直して
それを見守った。
﹁トウカちゃん⋮⋮もといトウカさん? カナタちゃんも﹂
頭の上を撫でながら、目を丸くして指差している。
そう言えば葵にはそのあたりの説明を端折っていたな。現世では
霊力節約の為にピンキー大だけど、霊気に満ち溢れた世界だと原寸
大に戻る事を。
霊力の節約をしなければ、現世でも少しの間は実寸に戻れるらし
いのだが、俺の纏う霊気を頼りに動いている訳だし、消費も半端じ
ゃないので却下した。
先ほどまで葵に引っ付いていて、葵の霊力で維持できたんだから、
霊気の保有量は以前の俺と同等レベルだと思っていた。
いつか能力が開眼して辛い思いをしなければ良いが。
﹁ぼーっとしてると置いていくぞ、乃江さんに会うんだろ?﹂
1331
俺の一言で我に返り、足早にトウカ達を追いかけて行った。
いつか葵にもコツを伝授しなければならない日が来るかもな。そ
れもそう遠くない日に。
長い回廊へ出た時には、遥か遠く先にもトウカ達の姿が見えなく
なっていた。
恐らく場所はお茶会を開いた場所だろうし、前に眺める事の出来
なかった風景を堪能しつつゆっくりと歩いた。
回廊の脇に咲く花も、決して幻想のものではない。露を纏いみず
みずしく咲き生命力を感じる本物の花だった。
池に住まう鯉や鮒達も、水の上を歩くアメンボも、ここでしっか
りと生きていた。
﹁異次元世界って訳じゃないんだよな。多分﹂
太陽が地球の理通りに動き、夜になれば星降る夜空が見えるのだ
ろう。
その中に、人工の光が一番星の様に輝くのだろうか。
﹁それは興ざめするかもな﹂
北極星が見えるのなら、その角度からこの場所を予測するのは容
易いと宮之阪さんが言っていた。
でも出来れば何時までも謎のままでいて欲しい気がする。
耳を済ませると、風を切る音、拳で掌を打ちつける音、踏み込む
脚の響きと衣摺れの音が聞こえてきた。
くれない
予想通りに修行中だったか。
乃江さんと紅の組み手を見ていた葵は、何も言わずに立ち尽くし
ていた。
1332
﹁乃江は遊んでいて返事できない訳じゃなかったろ?﹂
俺の言葉を聞いて、無言で頷いて見せた。
眼前の二人はそれほどまでに葵にとってショッキングに見えたか
もしれない。
﹁凄い⋮⋮﹂
葵の口からこぼれたのは、感嘆の気持ちそのものだった・
目の上をボクサーの様に腫らし、鼻からは幾度と無く流れ落ちた
血の跡がこびり付いて固まり、どす黒く見えるほど吐血して服を汚
していた。
いつもの麗しい乃江さんを想像していたら、言葉も出ないだろう。
俺と乃江さんの力量差以上に、紅と乃江さんの力量差はある。あ
あなるのは目に見えていた事だが、それでも乃江さんの表情に暗い
影は無い。
だが俺の目にはその光景は、無様にも憐れに見えない。むしろ何
時もより乃江さんが輝いて見える。
くれない
﹁楽しそうにやってるな﹂
紅が乃江さんに惚れ込んだのは、こういう性格も含んでの事だろ
う。
勤勉で真面目、それを通り越してそれを辛いと思わず楽しめる人
なのだ。
くれない
側に立つトウカが微笑んで二人を見つめて囁いた。
﹁紅は限られた郷の者としか触れ合わん。乃江なら良い友達になっ
てくれるんじゃないかと思っておった﹂
1333
トウカのしてやったりな顔を見つつ、芝生に寝転がった。
﹁次に乃江さんがぶっ倒れたら、休憩しようか。それとも宮之阪さ
ん達が着くのが早いかな。それまで一眠りする﹂
空の雲が風に吹かれて流れる風景が、こんなに面白いものだとは
思わなかった
カナタが俺の側に座り呆れたような顔で見下ろしていた。
1334
﹃黄金海岸 カジノへGO 01﹄
戻り梅雨だった七月も終わり、最高気温を日々更新し続ける真夏
に移り変わった。
このうだるような暑さも今日でオサラバ、今日からは冬の気候を
味わうことが出来る。
逆転の季節とは言えゴールドコーストは亜熱帯、真夏の日本より
ほんの少し涼しいくらいだと思うのだが。
﹁さってと、着替えて出かける準備をしますか﹂
いつものシャツとジーンズを取り出し、手早く着替えを済ませ鏡
の前に立ってみた。
守り刀もナイフも無い腰周りは、相変わらず頼りなさを感じてし
まうが、その分体が軽く感じられる。
二振りの武器は前日のうちに桃源境に送り、今は東屋で大切に保
よりしろ
管されている。
代わりに依代の無いカナタとトウカは、姿を消すことが出来ずベ
ッドの上で大の字で寝ていた。
俺はそっと二人を持ち上げて頭の上に乗せ、部屋の片隅に準備し
ておいたスーツケースを抱え上げた。
﹁おにいちゃん、準備出来た?﹂
ノックする音と同時に扉が開かれ、元気一杯の葵が部屋に飛び込
んできた。
葵も準備万端のようで、ネイビーカラーのワンピースを着て、セ
ミショルダーのバックを襷掛けていた。
1335
﹁どう? 似合ってる﹂
スカートの裾を摘み、くるっと一回転して微笑んで見せた。
隙の無いお嬢様ルックだが、バッグを襷掛けしているのがお子様
っぽくて葵らしい。
﹁似合ってるじゃないか﹂
そんな歯の浮いた台詞が素直に出るほど、今日の葵は非の打ち所
がなかった。
こんなに喜んでもらえるなら、また買ってやろうかって気になる
な。
服装は良いとして、それよりなにより気になるのは、頭の上で笑
顔を見せている珊瑚と撫子の存在だった。
﹁珊瑚と撫子に憑かれていて、体調悪くなったりしてないか? 疲
れやすくなったとか⋮⋮﹂
珊瑚と撫子はロールケーキのお茶会以来、葵と意気投合してしま
った。
見た目の年齢というより、精神年齢が近しい珊瑚と撫子になら、
気兼ねなく話せるのかもしれない。
珊瑚と撫子も同様で、暇さえあれば紋様を越えて、葵の元へ遊び
に来てしまう有様だった。
友達になったのは良しとして、彼女らも葵の霊気を頼りに姿を現
しているし、二人ともなれば体の負担は大きくなる。
葵への負荷を考えると、手放しで喜べなかったりするのだ。
多少の訓練を受けた俺とは違い、素養があってもコントロールが
出来ない葵は、一般人と変わりないはずなのだが。
1336
﹁全然平気だよ? むしろいない時の方が不自然なくらい﹂ 頭の上でピョコピョコと跳ねまわる珊瑚と撫子を、苦笑しながら
手であやしている葵。
顔色も良い様だし霊力的には問題なしか。それはそれで頭痛の種
でもあるのだが。
けれど珊瑚と撫子のおかげで、最近の葵は目に見えて明るい。
それに護衛という意味では、憑いてくれている方が安心出来ると
いうものだ。
﹁おかあさんが空港まで送ってくれるって、車の前で待ってるよ﹂
冗談かと思ったが、本当に送ってくれる気でいたのか⋮⋮。
母の不得意とする事が二つ、包丁捌きと車の運転だ、無事に辿り
着けると良いが。
待たせると不機嫌になり、輪を掛けて運転が荒くなる⋮⋮、急が
ないと不味い。
﹁そういう事は先に言え﹂
葵と俺の二つのスーツケースを抱えて、玄関を飛び出した。
玄関先では腕時計を気にしている母が立ち、その脇で調子の良い
アイドリング音を奏でている母の愛車があった。
母の愛車はフィアット500。昔ながらのチンクチェントではな
く、最近復刻モデルとして発売された新車だ。
日本の道路事情と母の運転技量に合わせて、小型車のお買い物車
という位置づけで購入された。
本当の所は自分の愛車に乗って欲しくないという親父の思惑があ
るのだが。
1337
﹁はよせな飛行機行ってまうで?﹂
トランクに荷物を載せながら、せっかちな母を見て苦笑した。
家から空港まで高速を使えば1時間かからないし、出発時間まで
相当余裕を持っている。
出国手続きに手間取ったとしても十分時間が余る計算なのだが。
﹁玄関の戸締りオッケー!﹂
戸締りを済ませた葵が息急き切って車に乗り込んだ。
イライラしていた母が運転席に身を沈め、俺は祈る気持ちで助手
席に座った。
﹁ほな行くで、シートベルトしてな﹂
言われなくても俺も葵もシートベルトを真っ先に装着している。
車重1トンで160馬力のフィアット500、見た目の愛らしさ
とは裏腹に、一線級のスポーツカーに匹敵する潜在能力がある。
その車に命を吹き込むのは我が母なのだ。
シートベルトをしないなんて命取りになる。
﹁おかあさん! 安全運転でね!﹂
後部座席に座る葵が無駄な抵抗を試みた。
そんな声など耳に届いていないのか、母はハンドルにしがみつき
前しか見ていない。
無言でアクセルを踏み込み、それに呼応するフィアット500は、
元気良く走り出した。
次第に流れていく外の風景を横目に、俺は目を閉じ胸の前で十字
を切った。
1338
わが街から最寄の国際空港は、高速を乗り継いで一時間圏内にあ
る。
便利になるといいつつ、恩恵を預かるのは今回が初めての事だっ
た。
﹁無事到着∼﹂
空港のバスターミナルに到着して、意気揚々と車を止めた母
青ざめ目を回している葵を放置して、トランクから荷物を降ろし
た。
途中の道で強化ブレーキと、ハイグリップタイヤの性能を遺憾無
く発揮したが、着いてしまえばこっちのものだ。
﹁帰りも迎えに来たるわな!﹂
﹁いいえ、結構です﹂
俺は即答で母の申し出を却下して、トランクを力強く閉めた。
よたつきながら車から降りた葵を見計らい、手を振って車を走ら
せて行った母。
その運転を見ながら葵がため息を吐いてつぶやいた。
﹁無事帰れるといいね﹂
﹁そうだな﹂
俺達は母の車が見えなくなるまで見送って、集合場所である国際
線出発ロビーへと向かった。
1339
約束より少し早い時間だったが、待ち合わせ場所には乃江さんが
一人立っていた。
﹁カオル、早いじゃないか﹂
手に持った封筒に目を通し、そのうちの二通を俺と葵に手渡して
くれた。
中には往復の航空券と、乃江さんお手製の旅のしおりが入ってい
た。
﹁みんなはどこへ?﹂
乃江さんが美咲さんと別に空港へ来るなんて考えられない。
むしろまじめな乃江さんに番をさせて、遊びに行っていると考え
るほうが自然だからだ。
﹁空港の両替所に行っている。カオルは両替しなくて大丈夫か?﹂
そのあたりは準備万端だったりする。
銀行のキャッシュカードをインターナショナルキャッシュカード
へ変更したし、その際に豪ドルの両替を済ませている。
﹁日本円の預金を現地の外貨で引き落とせるんで、足りない分は日
本円か現地調達しようかと﹂
現金を大量に持ち歩くのは、精神衛生上良くない。
強盗に襲われても撃退する自信はあるが、置き引きやホテル荒ら
しにはどうしようもないからな。
それに為替レートと両替手数料が馬鹿にならん。使う分だけ両替
するのが賢い旅人の姿なのだ。
1340
インターナショナルキャッシュカードだと両替手数料は高いけど、
日本のいつもの口座から引き下ろせるのが魅力。
要は使わなければ良いのだ。
﹁なるほど、迂闊者の魔法組とは大違いだな﹂
苦笑して見つめる先には両替所。そこで大枚を片手に右往左往し
ている魔法組の三人が居た。
美咲さんの姿が見えないなと思っていたら、両替所の為替レート
を見て、電卓を叩いて首を傾げている。もしかして価格調査中なの
か?
両替で思い出した。葵にお小遣いをあげないと、都度俺の財布を
当てにされても困るから。
﹁はい葵、お小遣い。無駄遣いするんじゃないぞ﹂
鞄の中から取り出したのは、銀行で調達しておいたトラベラーズ
チェックとオーストラリアドル、合わせて20万相当になる3千ド
ルだった。
封筒の中を開け、見慣れない紙幣に首を傾げている葵。貨幣価値
を全く理解していない模様。
それを見た乃江さんが、怪訝そうな葵を嗜めた。
﹁葵、1ドル70円位で計算してみると良い。それと兄にお礼を言
うべきだな﹂
オーストラリアの紙幣は大半がプラスチック札だ。耐久性重視な
のだが、かなり見た目で損している。
葵は封筒の中の100ドル札を一枚一枚数え、次第に驚きの表情
を浮かべていく。
1341
﹁うわっ⋮⋮、落としたら洒落にならないカモ﹂
ドル束を持つ手が震え言葉にならない葵、頭をしきりに下げ感謝
の気持ちを表現している。
ちなみに家のお土産担当だから多めに支給したのだ。決して妹に
甘い訳ではない。
しかし喜ぶ顔を見たら、自然と頬が緩むのはどうしようもないと
いうモノだ。
俺は乃江さんお手製の旅のしおりを手に取り、表紙をめくって中
身を見てみた。
乃江さんの事だから、びっしりと重要情報が所狭しと書かれてい
るのかと思ったが、予想に反してとてもファンシーな感じで纏めら
れていた。
ゴールドコーストと書かれた見開きの横には、浮き輪を抱えたウ
サギの絵が描いてあり、到着予想時間と宿泊先のホテル名が書かれ
ていた。
下の方にもイラストが描かれていて、こちらはワニがサーフィン
をしているデフォルメ絵。
挿絵が多すぎて肝心の情報が少ない。
﹁乃江さん⋮⋮?﹂
﹁そ、その目は何だ? わ、私じゃないぞ。お嬢様のお手製だ﹂
乃江さんは俺の視線に気が付き、赤面して手を振り必死で否定し
ている。
美咲さんのお手製? ファンシー過ぎるだろう。高校生にもなっ
てうさちゃんやワニさんは無い。
しかもかなり絵が上手いのが、余計に笑いを誘ってくる。
1342
これは面白いしおりだ。一度に見てしまうのは惜しい。メルボル
ンとシドニーのは後の楽しみに取っておこう。
笑いを堪え旅のしおりをリュックに放り込んだ。
﹁カオル先生∼、おはようございます﹂
両替を済ませた真琴が走ってきてペコリと頭を下げ、その後ろに
山科さんと宮之阪さん、そして電卓を片手に美咲さんが戻ってきた。
ふと三人の手に持った封筒が尋常じゃない厚さなのに気が付いた。
彼女等は一体幾ら両替したのだろうか?
﹁真琴⋮⋮、幾ら両替したんだ?﹂
ボソリと耳元へ問いかけると、真琴は指を3本立てて涙を流した。
30でこのブ厚さはありえない、と言う事は300、100ドル
札で450枚以上か⋮⋮。あ、ありえない⋮⋮。
恐らくカジノ狂の山科さんにそそのかされて、両替をさせられた
に違いない。
真琴の分厚さを基準に考えると、山科さんがその三倍、宮之阪さ
んは真琴と同等か。
﹁山科さん⋮⋮、やる気満々過ぎます﹂
俺の嫌味を物ともせず、ニパッと笑って眼鏡を光らせる山科さん。
その後ろで真琴と同じように涙目の宮之阪さんが、しょんぼりと
した表情で封筒を眺めている。
美咲さんはそんな三人を憐れみの目で見つめて、手をポンと叩い
てその場を取りまとめた。
﹁この三人のおかげでハイローラー扱いとなり、旅費に補助が入り
1343
ました。皆さんお礼をしましょうね﹂
ハイローラー? なんすかソレ?
ニヤリと笑った山科さんが、鼻高々と反り返り無い胸を突き出し
て説明を始めた。
﹁カジノの優良顧客や。羽振りのええ客には招待する意味合いで旅
費を負担したりしてくれるんや﹂
それがいわゆるハイローラー?
それってカジノが儲ける為に客をかき集めてるって事じゃないだ
ろうか。
スーパーの目玉商品みたいに、釣りを目的としたサービスで⋮⋮、
結局の所カジノが儲かる仕組みになっているとか。
俺は恐る恐る美咲さんの目を見つめ、美咲さんはその視線を避け
るように目を逸らした。
やっぱり⋮⋮。
﹁そ⋮⋮、そういう訳で、搭乗手続きしましょうか﹂
滝の様な汗を掻いて、美咲さんが航空会社の登場口へ歩き出した。
とりあえず俺は無言で真琴の肩に手を置いて、憐れみの念を送り
込んだ。
手荷物以外のスーツケースを搭乗手続き時に預け、航空券とパス
ポートを提示して飛行機の搭乗券を発行してもらった。
そこから手荷物検査・身体検査を受け、出国審査を受ける事にな
る。
昨今のテロ事件対策として、手荷物検査がかなり厳しくなり、飛
行機に持ち込める物も制限されている。
刃物や危険物はもとより、液体が100ml以上の持込には専用
1344
の袋に入れなければならない。
言われなければペットボトルにコーラとか平気で持ち込みそうだ。
このあたりは事前に乃江さんからレクチャーを受けていて、俺た
ちは完全にスルー出来た。 ﹁免税店や! 突入! 真琴! マリリン! 行くでぇ﹂
出国審査を済ませれば、そこは日本であり日本でない微妙な位置
付けの場所。
国内価格に税金が上乗せされている商品は安く販売されている。
葵は真琴達と免税店に突入し、俺と乃江さん、美咲さんが保護者
の様にそれを眺めていた。
つうかいきなり荷物を増やしてどうする。
高級ブランド品にも興味は無いし、酒を買っても嗜まない。
もしかして山科さん、宮之阪さんだと嬉しい商品がてんこ盛りな
のかもしれないけど。
隣で微笑ましく皆を眺めている乃江さんに声を掛けた。
﹁そう言えば乃江さん、最近葵がメールしたり電話したりで迷惑し
てませんか? あいつ加減ってものが分かって無いから⋮⋮﹂
葵のベッタリさ加減を鑑みると、乃江さんは何も言わないけど負
担になっている。
憧れの先輩とメール出来るのだから嬉しいのは分かる。しかし頻
繁にメールされると退魔士であり学生でる乃江さんには、重荷にな
っている筈だ。
﹁迷惑なんて思ってないよ。葵はメールでも電話でも、ほとんどカ
オルの事ばかり。最近家を留守にして修行に入り浸っていたから、
寂しいんじゃないのかな﹂
1345
二の語が出ないとはこの事だ。
そういえばここ最近、家には寝に帰っている状況だったし、試験
で遠征したり家を留守にする事が多かった。
俺自身も葵に話しかけられても上の空って事が何度もあったから
な。反省せねば。
﹁おにいちゃんは怪我してませんか、元気でしょうか、助けてやっ
てくださいね。最近お話できなくて遠く感じます⋮⋮とな﹂
葵を情緒不安定にさせたのは俺か⋮⋮。
買い物を一緒にした時も、時折見せる不安な表情が気になってい
たのだ。
もしかして乃江さんが葵を旅行に誘ったのは。
﹁私もお嬢様も修行は手を抜かなかった、その点は反省している。
だからユカに修行を任せる時に、カオルの時間を作れるようにお願
いしたのだ﹂
そう言えば腕輪を付けられてからこの方、修行は殆ど自主トレに
切り替えられた。
やっても夜間の短時間だけ⋮⋮、物足りないと思っていたら、そ
れは乃江さんと山科さんの気遣いだったのか。
﹁これからはもう少し葵と接して、俺の事を話し葵の話を聞くよう
にします﹂
珊瑚や撫子と友達になって、同じ世界を共有出来ている事が楽し
いのかも知れない。
あいつに霊力のコントロールを教える必要もありそうだし、少し
1346
構ってやるとするか。
﹁私はずっとお姉ちゃん子だったから、葵の気持ちがよく分かる。
姉や兄は身近で憧れる対象でもあり、最大の嫌悪の対象でもある。
私は姉が大好きで、一生追い続けたい好敵手でもある。心の根底に
は対等になりたい気持ちがあるのだ﹂
遠い目で綾乃さんを思う乃江さんの表情は、手放しで姉を慕うよ
うな単純な表情ではない、複雑な面持ちでいるのが分かる。
葵に置き換えて考えると、いくつになっても葵は俺の妹で、多分
10年経っても同じ目線で慈しむだろう。
綾乃さんと乃江さんもその関係で、姉であり妹である以上、本当
の好敵手には成り得ないと言う事なのだと思う。
﹁私と兄もそんな感じですね。厳しいけど優しいし、孤高だけど私
にはそういう所を見せようとしない。本当のキョウ兄さんを知らな
いと不安になる時がありますもの﹂
美咲さんも兄と妹の間柄だ。ちょうど俺と葵の関係に近いのかも
しれない。
俺は自分の苦労や魂喰いの脅威、魔物の怖さを葵に知られたくな
い。そういううわべの努力も、妹には見透かされているのだろうか。
﹁そういう時⋮⋮、私の技量がその域に達していないから、同じ目
線に立てないのだと思ってました。これは私の勘違いだったのです
が⋮⋮﹂
ニコリと微笑んだ美咲さんの表情は、俺に何かを伝えようとして
くれている。
自分の事を話したがらない美咲さんが、敢えて話をしてくれる意
1347
味を感じつつ、感謝の気持ちで頭を下げた。
そして頭を上げて免税店に目を向けた。
﹁すいません、免税店に突入してきます﹂
微笑む二人を残して、葵の元へ走った。
今でも出来る事は一杯ある。折角の楽しい旅行なのだし、この機
会に妹と話をすればいい。そして馬鹿になってみても良いじゃない
かと思った。
1348
﹃黄金海岸 カジノへGO 02﹄
日本から7時間以上の空の旅は退屈なものだった。
定期的に差し出される味気の無い機内食と、行き届いた客室乗務
員のサービスも、そろそろウンザリし始めていた。
﹁カオル⋮⋮、﹃キナイショク﹄のデザートは酷い。天使のババロ
アとは言わんが、限度があるじゃろ?﹂
カナタとトウカは機内食のデザートを一口食べて、スプーンを放
り投げた。
最近のカナタとトウカは完全にパソコンを使いこなしている。
インターネット通販を利用して、全国の厳選スイーツを着払いで
申し込んでしまうのだ。
天使のババロアもその一つ、アレは確かに美味かったが⋮⋮。
﹁あのなぁ、機内食ってのは軍隊のレーションみたいなもんだ。省
スペースで暖めて食える、味にも限界がある﹂
数種類のオカズとパン、サラダとデザートにコーヒーカップが2
0cm四方に納まってるだけで感動ものだ。
その上宗教の戒律に合わせたり、アレルギー対策まで考慮してく
れる。航空会社の努力は並々ならぬものだ。
﹁美味いものは正義、不味いものは悪じゃ﹂
まるで海原雄山のような一言⋮⋮、こいつらが雑食だったらとん
でもない事になりそうだ。スイーツだけのグルメで良かった。
ふと隣の席に座る葵と珊瑚、撫子を見比べて、ため息を吐いてし
1349
まう。
﹁珊瑚と撫子を見習え、美味しそうにデザート食ってるぞ?﹂
葵のテーブルではプラスティックのスプーンを振り回し、珊瑚と
撫子がデザートを掘削していた。
カナタとトウカは目を細めて二人を睨み、呆れた表情で天を仰い
だ。
﹁あの子らは本物の味を知らんだけじゃ﹂
お前達が知りすぎてるんだろうが!
くれない しののめ
即ツッコミを入れたくなったが、寸での所で堪えて目を閉じた。
通路を挟んだ乃江さんの席でも、紅と東雲がスプーンを操り、二
人とも機嫌良く食べている。
どうしてトウカとカナタだけこんな我侭に育ったのだろうか。俺
が甘やかしたからかなぁ⋮⋮。
前の席に座っていた宮之阪さんが振り返り、カナタとトウカに意
味深な笑いを浮かべた。
﹁オーストラリアの文化の原点は英国式⋮⋮、英国の食文化と言え
ば︿ピー︵自主規制︶﹀。食べておけば良かったと後悔しますよ⋮
⋮﹂
薄笑いを浮かべる宮之阪さんは、デザートを一口食べて頬を押さ
えた。
その表情を見て、カナタとトウカが青ざめてガクガクと震え出し
た。彼女等にしたら死活問題だから、その気持ちはよく分かる。
確かに英国のお菓子って言えば、スコーンとかチョコウエハース、
プティングを思い出すが、俺の味覚から言えば美味しくない部類の
1350
お菓子だ。
宮之阪さんは事ある毎に、英国の歴史は素晴らしいが、食文化は
最悪だと言い切っている。
日本食や中華を食べた時は、こちらが嬉しくなるほど美味しそう
に食べる。
諭されたカナタとトウカは見つめ合い、複雑な表情を浮かべつつ
も、残りのデザートを平らげてしまった。
﹁料理は大味なものが多いんです。お茶菓子は美味しいですよ﹂
そう言って食べ終わった二人に満足したのか、向き直り自分の席
に座りなおした。
駄々っ子の御し方は、宮之阪さんの方が一歩も二歩も上を行って
いるな。これは見習わねばなるまい。
周囲を見回すと美咲さんは完全爆睡状態で、機内食にも手をつけ
ていない。
真琴も山科さんも人心地付いて、眠りに入ったようだ。
﹁一眠りしたら到着時間になるだろう、俺も寝るか﹂
旅のしおりに書かれていたが、初日からオールナイトでカジノ三
昧になる。
途中で帰りたくても帰れない、不安一杯のカジノ。寝ておいたほ
うが身の為だ。
仮眠をするつもりで目を閉じたが、いつの間にか深い眠りについ
ていた。
次に気が付いた時には、ゴールドコースト国際空港へ到着してい
た。
1351
飛行機を降り、入国審査を済ませた俺達は、搬送されてきたスー
ツケースを無事受け取れた。
外国旅行で一番困るのが、手荒に扱われたスーツケースが故障す
る事だ。特に鍵や車輪を壊されると大変不便になるらしい。
時には別の便に荷物が紛れたり、別の国に送られた事例もあるら
しい。
空港を一歩出ると乾いた風が吹き、気温が高いにもかかわらず涼
しさを感じられる夕暮れ時だった。
﹁みんな疲れてるだろうから、タクシーで移動しようか﹂
乃江さんがタクシー乗り場へと向かい、指を二つ立てて流暢な英
語で運転手に話しかけた。
そう言えば英会話出来ないのは、俺と葵だけか⋮⋮。少し不安に
なってきた。
﹁二台タクシーに声を掛けてきた。トランクを運転手に預けて乗っ
てくれ﹂
英語が堪能なのは必須スキルだよな。今からでも遅くないし、こ
の旅をキッカケに勉強しよう。
俺達はタクシーに分乗し、今夜の仮の宿であるゴールドコースト
インターナショナルホテルへと向かった。
空港から20km程の距離にあるゴールドコーストの中心街、サ
ーファーズパラダイスに位置し、ビーチまで目と鼻の先にある。
手早くチェックインを済ませた俺達は、乃江さんからルームキー
を受け取った。
真琴と宮之阪さん、乃江さんと葵、山科さんと美咲さん、そして
俺の四部屋だ。
だがこの部屋割りもあまり意味は無い。今夜の宿泊先はカジノ⋮
1352
⋮、途中下車の出来ないカジノ船だ。
ひとはちごうまるじ
のえさん
﹁カジノからの迎えが19時に到着する、1850時にロビーに集
合﹂
部屋の前で乃江さんが皆に号令をかけ、皆は鬼軍曹に敬礼し、部
屋へと入っていった。
集合時間まで一時間程しかないし、靴を脱いでシャワーでも入れ
ば丁度良い時間になる。
皆はカードキーを扉へ差し込み、部屋へと入っていった。
﹁おー、凄い部屋だ﹂
落ち着いた感じの広い部屋に、キングサイズのベットが二つ。
カーテンを開けると静かな波の音が聞こえ、漆黒の海が眼前に広
がっている。
大きなベッドが当たり前に見える程の広々とした部屋は、通路も
広く調度品も良い物を使用している。
﹁カナタとトウカのベッドはこっち﹂
窓際のベッドを指差し、それを合図とばかりにカナタとトウカが
ベッドへダイビングした。
まるでトランポリンの様にピョコピョコと飛び跳ね、上機嫌な二
人を見つつ、俺は靴を脱いでベットへとダイブした。
﹁このまま目を閉じたら気持ち良いだろうな﹂
飛行機であれだけ寝たのに、目を閉じればすぐに寝てしまいそう
だ。
1353
俺は一念発起してシャワーを浴びにバスルームへと向かった。
洗面台とトイレバスタブが配置され、いつものバスルームではあ
るが、バスタブがゆったりと大きめで開放感がある。
お湯を張って人心地付くにはいい大きさだ。
とはいえ、一時間ほどしか休憩出来ないし、濡れ髪でカジノは不
味いだろ。
俺は手早くシャワーで汗を流し、バスローブを身に纏い濡れ髪を
タオルで乾かした。
部屋に戻るとトウカとカナタが痙攣しベッドの上で身悶えている。
﹁どうした? 燃料切れか?﹂
痙攣する二人を摘み上げ、霊気を籠めて延命措置を施した。
ホッとした様子で脱力した二人を肩に乗せ、スーツケースを開け
て着替えの準備を始めた。
﹁はしゃぎ過ぎた⋮⋮﹂
しょんぼりとしたカナタと頭をポリポリと掻くトウカ。
お菓子で自家発電できず、俺からの霊気補給が出来ないと小一時
間で燃料が切れる。
全開で暴れると数分で電池切れになるらしい。離れる時にはじっ
として動かないのが秘訣とか。
少なくともトイレと風呂は一人で入りたい⋮⋮、そういう時は大
人しくして欲しいものだ。
﹁今夜もボディチェックされるだろうし、刀に戻れるのは明日以降
だと覚悟しておいてくれ﹂
鏡に向かいグレーのシルクのシャツに袖を通した。
1354
シットリと馴染む生地や縫製の良さが気に入って、スーツと合わ
せて買ったものだ。
紺色のジャケットと同系色のパンツ。植物繊維とシルクの混合繊
維で、着こなし一つでカジュアルにも見えるし、正装にも見える。
靴下を履いて皮のひも靴を履けば完成っと。
﹁カオル、ネクタイを忘れておるぞ﹂
トウカのチェックで慌ててネクタイを引っ張り出す。
ネクタイの結び方の冊子を広げて、ハーフウインザーノットとい
う方法で結んでみた。
﹁どう?﹂
﹁よう似合うとる﹂
﹁背筋をピンと張ると良いな﹂
服装にうるさい二人にお伺いを立ててみたが、素直にお褒めの言
葉を頂けた。
俺はパスポートを手にし、有り金全部をポケットに入れ、出発準
備を整えた。
﹁部屋で閉じこもっていても仕方ないし、フロント横のラウンジで
お茶でも飲もうか?﹂
お茶といえば甘味。長旅でストレスも溜まってるだろうし、甘い
物でも食ってみるのも良い。
唯一の難点と言えば英語⋮⋮、それも勉強のうちか。
カナタとトウカを頭の上に乗っけて、部屋を後にした。
1355
高速エレベータでフロント階へ到着し、集合場所が見える位置の
カフェへ入った。
右も左も言葉の通じそうな気がしない人々ばかり。少しドキドキ
しながらも気取られないようにメニューに目を落とした。
﹁やべぇ⋮⋮﹂
ジックリと読めばなんとなくわかってしまう。けれど写真が付い
ていないので、どういう物かが想像出来ない。
SandwichもP
Friedは焼くもの、揚げ物
Gourmet
GrillsやらGolden
だよな。Toasted
astaも違うし。
時間的に夕食時間だから、それ用のメニューを持ってきやがった
か?
Lat
おっと、あったあった。Espresso、Macchiato、
White、Cafe
Latte⋮⋮。
Cappuccino、Flat
te、Chai
チャイラッテてのが気になるな。
カナタとトウカのはどれにするか⋮⋮、ケーキって欄が無いんだ
よな。
あった! SWEET。スイーツは公用語だったんだ⋮⋮。
しかもこれには写真が付いている。無茶苦茶助かるなぁ⋮⋮。
have
a
Chai
Latte
and
T
俺はダイナマイツボディのウェイトレスを呼び止めて、オーダー
I
を通してみた。
﹁Can
please?﹂
else?﹂
Crepe,
anything
ropicana
﹁Yes,
1356
﹁No,
thank
﹁Yes﹂
you.﹂
笑顔でメニューを書きとめて、オーダーを聞き取ってくれた。
うはぁ⋮⋮、英語の勉強した所をそのまま言ったら通用したよ。
奇跡が起こったな。
学校で習う英語なんて役に立たないものと思っていたが、割と使
えるじゃないか。
﹁クレープの上にバナナとチョコアイス、生クリームが乗って美味
そうじゃ﹂
メニューの写真を見ながら、トウカとカナタがヨダレを垂らして
いる。
俺はメニューを汚さないように畳み、テーブルの横へ立てた。
﹁相席よろしいですか?﹂
女性の声がテーブル脇から響き、見上げると超が付くほどの美女
が微笑んで立っていた。
身長は165センチほど、小柄でもなく大柄でも無い、柔らかい
物腰を感じさせ、見る物を幸せにしてしまう。
艶やかな黒髪をアクセサリーで纏め上げ、白の上品なドレスとブ
ルガリの時計とハンドバックを持っていた。
﹁あ⋮⋮、はい、どうぞ⋮⋮﹂
あっけに取られ向かいの席に手を伸ばした。
下心も何も無く、当然そうするものと本能が動いていたのだ。
1357
女性は俺の顔を見てニコニコと笑い、口元に手を当てて肩を震わ
せている。
﹁美咲! うちの勝ちや! 100ドルゲット!﹂
うち? その関西弁はもしかして、⋮⋮山科さん?
植え込みに身を潜めていた美咲さんが指をパチンと鳴らし、恨め
しそうに俺を睨んでいる。
そして何も言わずに俺の隣にドスンと座り、鼻息荒く恨み言を言
い始めた。
﹁物の本質を見極める目の持ち主が、よもやこの程度とは⋮⋮ あ
あ情けない﹂
そんな事を言われても、メガネっ子山科さんじゃなくて、化粧も
上手くて、標準語だったし⋮⋮。
それに凄く綺麗なんだもの⋮⋮。
﹁なぁ、うちイケテル? かわいい? 綺麗?﹂
美咲さんの差し出す100ドルをピシッと奪い、素早くバッグに
仕舞い込んだ。
顔だけ見ていると素直にかわいいと言えるのだが、行動が伴って
いないっす。
﹁てか、俺をダシに賭けをするのやめてください、勘弁してくださ
い﹂
山科さんに見惚れてしまったバツの悪さを感じつつ、二人に向き
直った。
1358
美咲さんは黒と赤のドレスを身に纏い、モデル体型な事もあり目
のやり場に困る。
薄っすらと施された化粧が、上品な日本女性を損なわず、カフェ
に居る客の視線を釘付けにしている。
もちろん視線の半分は山科さんにも注がれていて、カフェ全体が
華やいだように明るく感じる。
﹁山科さんも美咲さんも綺麗です、俺だけじゃなくカフェの男性客
全員がそう思ってます﹂
少し投げやり気味に言ったのは照れ隠し。
優れた意匠の芸術品を見て感嘆するように、二人を見て素直にそ
ういう気持ちになるのは自然なものだ。
二人は俯きがちに頬を赤らめ、周囲を見るとも無しに見て、様子
を窺っている。
こういうリアクションをするから、この二人に好感が持てる。周
りが思ってるほど、自分では綺麗だとか思ってないのだろう。
不思議と二人を見ていると微笑ましく感じてしまう。
そんな雰囲気をいいタイミングでウエイトレスが打ち消してくれ
た。
please?﹂
pleas
テーブルに並べられたのは、皿一杯のクレープケーキ。どう考え
てもカナタ達には多すぎる分量だ。
White,
﹁私もオーダーしようかな。Cappuccino,
e?﹂
﹁じゃ、うちも。Flat
ウエイトレスはニコリと笑い、テーブルを後にした。
美咲さんの注文したカプチーノは分かるけど、山科さんの注文し
1359
たフラットホワイトってなんだ?
﹁フラットホワイト?﹂
メニューに目を落として、怪訝そうな俺を見て、山科さんが苦笑
して説明を入れてくれた。
﹁フラットホワイトてのは、エスプレッソにスティームドミルクや。
泡なしカフェラテって感じや﹂
なるほどflat=平らなと思いがちだが、マイルドと言う意味
なのかな。逆説的に棘が無いコーヒーとか。
そんな山科さんを見て、ふと疑問が湧き上がる。
﹁コンタクトに変えたんですか?﹂
こんな言い方をすれば、今の顔が変だと思われかねない。
出来るだけそういう意味を感じさせない様に聞いてみたのだが、
その意図は脆くも崩れ去った。
﹁うん、コンタクト。変かな? カジノで理知的な雰囲気出さへん
方がええかもなぁと思っただけやねん﹂
そういえばメガネを掛けた山科さんは委員長タイプに見えるもん
な。それを相手に気取られれば負けか。
山科さんてばホント、カジノに命かけるなぁ。
﹁変じゃない、逆ですよ逆。学校でやると大騒ぎになる﹂
学校にはメガネっ子を愛でる秘密結社があるらしいし、崇拝の対
1360
象が一人居なくなると大騒ぎになるな。それはそれで面白そうだけ
ど。
メガネっ子がメガネを外すと美少女っていう法則は健在だと思う。
﹁そうやろか、メガネ無くって落ちつかへんねんけど﹂
そう言っていた山科さんがフロントの方を向いて手を振った。
真琴と宮之阪さんが手を振り返していた。
真琴は光沢のある白のドレスを着て、さり気無く背中を隠してい
るクラッシックなドレス。清楚な感じがとても良い。
対する宮之阪さんは驚きの服装だった。長い髪を結い上げ和風の
髪留めで纏め上げ、白地に朝顔柄の振袖を着ていた。
これにはホテル中の観光客が歓声を上げ、至るところでカメラの
フラッシュが焚かれていた。
﹁うはぁ⋮⋮、派手ですね。マリリン﹂
英国と日本の二重国籍だから、和服はナショナルドレスとして完
璧な正装だよな。
真琴と宮之阪さんは隣の席に付き、ニコリとしながらウエイトレ
スに流暢な英語で話しかけている。
どうやら時間が無いので、お構いなさらずにと言っているようだ。
約束の時間まで間が無いからな。
﹁真琴のドレス、試着の時はどうなる事かと思ったけど⋮⋮﹂
なにせ合わせる服が無かったからなぁ。服のデザインと採寸をし
て一発勝負で特注したものだ。
余裕が無かったから不安だったみたいだけど、ものの見事にピッ
タリ。そしてよく似合っている。
1361
﹁バッチリ! 似合ってる﹂
真琴は満面の笑みを浮かべて、頬っぺたを押さえて幸せそうだ。
宮之阪さんも真琴の服装には同意のようで、羨む様な表情で見つ
めている。
﹁宮之阪さんもバッチリ! だけどビックリしましたよ﹂
俺達の視線を一身に浴び、ちょっと居心地悪そうに何度も座りな
おして落ち着かない。
ハーフっぽい顔立ちだけど誰よりも大和撫子だし、雰囲気と服装
はピッタリなのだ。着付けも完璧だし、宮之阪さんのスキルは底が
知れない。
これにはトウカもカナタも見惚れていて、クレープもそっちのけ
でため息を吐いている。
﹁マリリンはこの日の為に乃江から着付けを習ってましたものね﹂
日本フリークな宮之阪さんは、兼ねてから和服に強い憧れを感じ
ていた。
いつかは着てみたいと漏らしていたが、このタイミングで着ると
は思いもしなかった。
﹁あら? 噂をすれば⋮⋮﹂
丁度乃江さんの名前が出た所で、乃江さんと葵がフロント前でキ
ョロキョロとしている。
黒のドレスを着て女性らしく見える乃江さんと、その側で一輪の
花の様に赤のドレスを着た葵。
1362
ペアで見ると良い対比でお互いが引き立てあって良い感じだ。 特に葵はまさに﹃馬子にも衣装﹄。こんな事を言うと飛び膝蹴り
を喰らいそうだが。
﹁そろそろ行きましょうか? 時間も丁度良いし﹂
俺は席を立ち、一足先に会計を済ませた。
こういう時女性に払わせるのはなんとなく気が引ける。自然と男
が払ってしまうものなのだと実感した。
﹁みんな準備は良いみたいだな。迎えも来ている。行こうか?﹂
乃江さんが目を向けた先には、黒服を着込んだ男が二人。
無言で頭を下げているが、身に纏う雰囲気はカタギの人間ではな
い。
案内されたホテル前には、ロールスロイスのリムジンカーが停車
していた。
慇懃な態度でドアを開け手招いて頭を下げる男と、運転席の所で
微笑んで立つ運転手。
硝煙臭い雰囲気を感じながら革張りのシートに滑り込んだ。
全員が乗り込んだのを見計らい、上品な手で扉を閉じた男は、周
囲に気を配りながら助手席に乗り込んだ。
﹁うぁ⋮⋮怖いです﹂
真琴が雰囲気にあてられて涙目になり、山科さんが引き攣った笑
みを浮かべている。
﹁このカジノ⋮⋮、うちと美咲のおかあはんが上客やってん。普段
仲悪い癖に、こっそり遊びに行っとったみたいやな﹂
1363
美苑さん⋮⋮、自重してほしいっす。この人たちマフィアっぽい
ですよ⋮⋮。
腰の辺りになにか釣ってるみたいだし、普通の人々では絶対に無
い。
﹁それでハイローラーっすか。俺ら一見さんなのに上客扱いっての
が解せなかったんですが、納得しました﹂
ロールスロイスは完全に防音されて、走行音が全く聞こえてこな
い。けれど窓から見える景色の移り変わりが、そのスピードを視覚
で教えてくれる。
どうやら高速道路をかなりのスピードで走っている。
暫らく高速道路を走らせて、何処かの出口で一般道に降りた様だ。
葵はこの雰囲気の中、珊瑚と撫子を手に乗せて笑みを絶やさず話
しかけている。意外と肝が据わってるのかも知れない。
乃江さんはいつも通り、落ち着いた雰囲気で目を閉じている。
美咲さんはのほほんとした表情で、宮之阪さんの髪留めを整えて
いる。
心を乱しているのは、俺と真琴、山科さんだけか。
﹁着いたみたいやな⋮⋮﹂
緊張の面持ちから、勝負師の表情に切り替えた山科さんが呟いた。
ロールスロイスは音も無く車を停車させ、一呼吸置いたタイミン
グで扉が開かれた。 潮の香りとデーゼルエンジンのオイル臭さ、漆黒の海と生暖かい
風が教えてくれた。
車を降りて眼前の大型客船を見上げた。豪華客船という雰囲気だ
が、何処か後ろ暗さを感じさせる照明、ピリリと肌に感じる視線が
1364
警戒心を煽ってくる。
今夜の宿となるカジノ船は、上客を多く腹の中にくわえ込み、こ
の港を出て公海上に移動する。
そして船籍に則ったヨーロッパ式のゲームを楽しめると言う訳だ。
この船は20時にこの港を出航し、明け方まで港に戻ってこない。
勝てば最高の夜になるが、負けると最悪の夜を演出してくれる。
﹁世界恐慌の赤字を損失補填したるで∼﹂
脇をカッポンカッポンと鳴らし、やる気満々の山科さん。そして
山科さんを姉と慕う真琴は、青ざめた表情で心配そうに見つめてい
る。
明らかに分の悪い勝負を挑む姉、それを思いやる妹といった所か
⋮⋮。
マイナスのマイナスは決してプラスにはならない。真琴よ⋮⋮頑
張ってフォローしてくれ。
﹁ようこそ、ご遠方からおいでくださいました﹂
目の前にスッと姿を現した一人の男は、明らかに先ほどの男達と
違う、仕立ての良い服装に身を固めていた。
金髪と青い瞳、彫りの深い顔立ちで、流暢な日本語と慇懃な態度
で俺達を労った。
客船のタラップへ手招いた男だが、俺には死神に見える。既にこ
の船の雰囲気に呑まれているのだろうか。
1365
﹃黄金海岸 カジノへGO 03﹄
この豪華客船の全長は200m、全幅は25m。五万トンの大型
客船で客室は300、総収容人員600名。
大きさだけでいえば日本の誇る豪華客船飛鳥を凌駕している。
航海速力21ノットか。
俺は船の構造を記した金属プレートの前で唸りをあげた。
﹁山科さん、1ノットって時速換算で1.8km/h程ですよね。
計算合わないんですが⋮⋮﹂
この船の賭博は公海上で行われると聞いている。
公海といえば排他的経済水域の先になるから、200海里ほど先
に進まないとならない計算になる。
1海里が1.8km程だから360kmは離岸しないと公海に辿
り着かない訳だ。
︵1.8km/h x 21ノット︶=時速37.8km/hだか
ら、片道10時間は全速航行しないとならなくなる。
あわせていうとこの船は、明日の朝には同じ場所に帰港するのだ。
﹁実際長期クルーズの場合は公海上のみらしいけど、アトラクショ
ンクルーズの場合は、領海越えやと思うで?﹂
領海=12海里=21kmか。それなら計算が合う。
けれど俺たちが乗り込む前から、カジノは運営されているようで
すが⋮⋮。
﹁本音と建前っちゅう奴やろな。この盛況ぶりを見たら、接岸して
いる時から始まっとるみたいやし﹂
1366
それってオーストラリアの国内で違法カジノをやっているのと一
緒じゃないのか?
しょうきょにん
当局のメスが入ると、全員逮捕⋮⋮。日本に帰国出来なくなって
しまう。
﹁せやから客は全員身分を照会されとるし、それ用のイレイサーが
ようさん乗っとるみたいやで?﹂
消去人って何を消去するのでしょうか?
﹁気にしたって捕まるときは捕まるしなぁ、それにうちらには切り
札があるから﹂
そう言って懐から取り出したのはチラシ片。わんわんと住むマン
ションの広告の切れ端だった。
俺がロールケーキのお茶会の時、宮之阪さんへ手渡したものか⋮
⋮。
全員が一緒に来るとは思ってなかったから、数枚纏めて手渡した
っけ⋮⋮、全部使わず取っていたのか。
﹁乃江は命がけで葵と美咲を守るやろし、マリリンとうちが真琴を
連れて逃げれば、全員ドロン出来る訳や﹂
この人の悪知恵には頭が下がる。
常日頃からこういった思考をしていないと、到達できない悪知恵
だよな。
﹁チート使って桃源境を利用するのは良くないっす。天罰が下りま
すよ?﹂
1367
天罰を下すのはトウカだけど、甘いもので懐柔出来そうな気もす
る。
それでも桃源境に踏み入る感謝の気持ちを忘れたら駄目だと思う。
﹁うち捕まるの嫌やし、当局の方々とバトルするより平和的やと思
わへん?﹂
悪びれない表情でサラリと言い放つ山科さん。
きっと俺は頑固者で頭が固いと言いたげなんだろう。
﹁もうチート使って良いです﹂
山科さんのグラビティを船で使うと、タイタニック号の二の舞に
なってしまう。
そんな危険な目に遭うくらいなら、チートの罰を食らったほうが
マシだ。
﹁そんな事より真琴はどこやろか。一緒にブラックジャックしよう
言うて約束してたのに⋮⋮﹂
辺りを見回して真琴を探す山科さん。
真琴に限って山科さんを見捨てる事はしないはず、きっとどこか
で山科さん探しているに決まってる。
﹁真琴の事だから、ブラックジャックの台の前で待ってるんじゃな
いですか?﹂
山科さんは俺の言葉を聞き、納得したように手をポンと叩いて移
動を開始した。
1368
俺もカジノ会場を一回りして、みんなの様子を見て時間を潰そう
か。
﹁俺は一回りします。真琴に会ったら伝言しておきますよ﹂
山科さんは笑顔で親指を立てて、了解したとボディランゲージを
返してきた。
早足で駆けて行った後を追うようにカジノ会場へ入り、その雰囲
気と広さに圧倒されそうになった。
﹁会場とかいうレベルじゃないな﹂
ショッピングモールが丸ごと入りそうな場所に、所狭しと遊戯台
が並べられ、たくさんの人々がゲームに興じていた。
ある者は目の色を変えてカードを睨み、ある者はそれを横目に会
話を楽しんでいる。
ルーレット、ポーカー、ブラックジャックにバカラ、大小、機械
モノならビデオポーカー、スロットマシンと色々な種類のゲームが
設置されている。
まず目を引かれるのがルーレット。
女性のディーラーがビリヤード台のようなオッズテーブルに立ち、
それを取り囲むように客が陣取っている。
オッズテーブルの上に36種+0の数字が三列に描かれ、その脇
に列賭け、赤と黒、奇数、偶数、大か小か、色んなパターンの賭け
を楽しめる場所が描かれている。
ディーラーがノーモアベットと合図をするまで、客が賭ける事が
出来るルールのように見受けられる。
ディーラーの横には電光掲示板が設置され、過去の出目が履歴表
示されている。
1369
﹁ふむ⋮⋮﹂
過去10回の統計で見ると赤が8分、黒が2分の割合で表示され
ている。 台の癖みたいなものも存在するらしいし、この台は赤が出やすい
Bet
Please.﹂
のかもしれない。ここは赤に100ドルかな? と仮想的にゲーム
More
に参加してみる事にした。
﹁No
リールを回転させ、玉を放り込んだディーラーは、一呼吸置いて
賭けの終了を予告した。
ふむ、これならイカサマをする事は出来ない。
故意に狙った場所に玉を置けたとしても、賭け終了前にチップを
配置すれば問題ない訳だ。
﹁Black 10﹂
ディーラーが微笑み、出目を読み出した。
うは⋮⋮、流れを読みきれずにいきなり外した。俺にはルーレッ
トの才能がないかも知れん。
ふと二つ先の台で、乃江さんと葵がテーブルに着き、ルーレット
に興じている姿が見えた。
手元にはチップの山を形成し、あのテーブルの上では勝ち組の様
相を呈している。
﹁勝ってますね、さすが乃江さん!﹂
振り返って渋い顔を見せる乃江さんは、力なく首を振り少し涙目
に見える。
1370
葵は満面の笑みを見せてVサイン、100ドルチップを惜しげも
なく奇数の位置に配置した。
﹁えっ? まさか﹂
乃江さんは手元のチップを三枚広げて見せ、ディーラーの手元を
見て赤の位置にチップを配置した。
大勝ちしているのは、うちの妹で対照的に乃江さんは萎れてるっ
ぽい。
﹁むうう﹂
博打に励ましも情けも無用、言葉を掛けるだけ傷つけてしまう。
俺は生暖かい目で、乃江さんを見つめるしか出来なかった。
﹁控除目が0︽ゼロ︾一目のヨーロッパ仕様、控除率は2.7%な
のだが、良心的と見るべきか、場のコントロールが巧みなディーラ
ーを褒めるべきか﹂
恨み言の様にブツブツと呟き、客のチップの配置とディーラーを
見つめる乃江さん。
ちなみに控除率ってのは、親の勝ちの割合。ルーレットの場合0
の場所が控除になる。インサイドベットという数字の掛けの場合、
ゼロへの掛けは出来るが、アウトサイドベットという、大小、列賭
け、奇数偶数、赤と黒はゼロを含まない。この場合親の総取りとな
り、カジノの儲けとなる。
ちなみに宝くじで控除率は50%、競馬で20%未満、ルーレッ
More
Bet
Please. ⋮⋮⋮⋮⋮⋮ Re
トの控除は日本の賭博より良心的なのだ。
﹁No
1371
d 7﹂
鬼気迫る表情をした乃江さんが、ホッと表情を崩し、掛け金の二
倍のチップをディーラーから受け取った。
それにしても葵⋮⋮、博才あるなぁ。もしかしてビギナーズラッ
ク?
﹁そんじゃ、俺真琴を探しに行ってきます﹂
機嫌の良いうちに乃江さんから離れろと、俺の本能が警鐘を鳴ら
している。俺はその予感に従って戦術的撤退を行った。
ピリピリとした戦場を後にして、俺の動悸が少しおさまった頃、
ブラックジャックの台に鎮座した山科さんと真琴を発見した。
ブラックジャックはご存知の通り、配布されたカードの合計を2
1にするゲーム。
複数のプレイヤーが同時にゲームをすることが出来るが、それぞ
れが競いあう訳ではなく、ディーラー対客、1対Nの戦いになる。
ディーラーは最初、客に対し二枚のカードを配る。2∼10のカ
ードはそのままの数値で計算し、エースは1か11どちらでも、絵
札はすべて10と計算する。
最初に絵札とエースが来れば21、ヒットとコールすれば一枚追
加、スタンドとコールすれば、そのまま配布されず手札をそのまま
で終了を待つ。
ディーラーのハンディは、17を越えるまでヒットしなくてはな
らず、17を越えるとそれ以上のヒットは出来ない。
ブラックジャックは完全な対人戦闘、カジノの花形なのだ。
実はブラックジャックには必勝法があるので、そうそう負けがこ
む事は無い。
キモになるのは、二枚中一枚をオープンしているディーラーのカ
ード。それと17で縛るハンディを利用すれば、ある程度の勝ちを
1372
収める事が出来る。
例えばディーラーのオープンされた札がAの場合、伏せられた札
のパターンはA、2、3、4、5、6、7、8、9、10、J、Q、
Kだ。
Aは11と数えることが出来るので、10、J、Q、Kだとブラ
ックジャック。6、7、8、9だと17以上、A、2、3、4、5
の場合ヒットを一度入れて、21を超えた場合はAを1と数えれば
よい。ディーラーは高確率でかつ複数回のチャレンジが出来るとい
う訳だ。
分かり易いのはAだが、その他のカードでも同様に予測できる。
ディーラーの挙動で手持ちのカードが読める訳だ。
どうせ負けると分かったのなら、そうなるとギリギリまで行ける
し、ディーラーが17以上21に収まりにくいと踏めば、16以下
でもそのままにする事だ。
俺の視線に気が付いた山科さんが、ニヤリと不敵な笑みを浮かべ
100ドルコインを三枚ベットした。
その様子から察するに必勝法は熟知している、皆まで言うなとい
う表情だな。
若干涙目の真琴が気になるが、掛け金も少ない様だし、大火事に
はならないか。
﹁健闘を祈る﹂
俺は口パクで無言の応援をし、ブラックジャックの台を後にした。
スロットマシンの前で一息ついて、周囲の客層を改めて確認して
みた。
明らかに軍人っぽい肉付きの集団や、ナイフとフォーク以上重い
物を持った事の無さそうな金持ち、色気を振りまき社交界気取りで
飛び回る女性、余生を楽しんでいる老婆、東洋系や黒人、白人に中
東系、色んな人種が雑多に乗り込んでいる。
1373
金と暇を持て余している人は多いと改めて思わされた。
その中で目を引くのは、楚々とした佇まいで立っている宮之阪さ
ん。自然な振る舞いで、キョロキョロせず俺達を探している
俺は目立たぬように手を振り、宮之阪さんに合図を送った。
﹁お∼い、マリリン!﹂
口パクで言ったにも係わらず、ピクリと反応してこちらを見つめ
た。
宮之阪さんにマリリンって言うと発見してくれるから面白いな。
﹁カオルさん﹂
静々と歩く様子を見て、本当に英国籍の人なのかと疑うほどに様
になっている。
夏祭りなどで見かける浴衣を着た日本女性に見せてやりたい。こ
れが正しい歩き方だと!
﹁宮之阪さんが素面なんて珍しいですね。お酒も軽食も無料みたい
ですよ?﹂
俺の中で宮之阪さんは東の横綱、歩くアルコール分解酵素、イン
ディカーだと思っている。
そんな宮之阪さんが嗜むこともせず立っているのは異常としか思
えない。
﹁帯がキツくて呑むなんて無理です⋮⋮﹂
なるほどな⋮⋮、着物は着慣れないとそういう事があるらしい。
うちの母が留袖を着た時も、豪華な食事を目の前に苦笑いしてい
1374
たからなぁ。
﹁着付けも飲食しやすい結びとか、裏技が色々あるみたいですよ。
もしかしたら乃江さんなら知ってるかも﹂
その一言を聞いてパァァと表情を明るくさせた。よっぽど呑みた
かったのかな。
客室もビジター用の部屋があるらしいし、着付けのしなおしも出
来るだろう。
﹁乃江さんはルーレットの三番台に座ってましたよ。負けてそうだ
し、気分転換に誘ってみてはどうです?﹂
宮之阪さんはコクコクと頷き、楚々とした⋮⋮、いや足早に歩い
て行った。
切羽詰ると大和撫子も化けの皮が剥がれるか⋮⋮。
遠めに消えていく宮之阪さんを見送りながら、深いため息が漏れ
てしまった。
﹁カオルさん おーい﹂
カクテルグラスを片手に、頬を少し赤らめた美咲さんが歩み寄っ
てきた。
ちょっと陽気な雰囲気は、隊長天野美咲ではなく、肩の力の抜け
た美咲さんだった。
﹁カオルさん楽しんでる?﹂
遊ぶことを知らない子供を諭すように、少し意地悪な表情を浮か
べ、ウリウリと肘で突付いてくる。
1375
なんだか良い意味でフレンドリーな感じがするなぁ。ちょっとこ
ういう美咲さん好きかも。
﹁見てるだけでお腹一杯ですよ。後でちょっとスロットでも回して
見ますけど、味見程度でやめようと思ってます﹂
俺の目をジッと見つめて、表情を崩して笑う美咲さん。
唇を濡らす程度にカクテルに口を付け、いつもの口調で俺を諭し
た。
﹁何事も経験ですよ。お金を儲ける手段として見るのではなく、賭
け事を楽しむ事です。負けた、勝ったと結果は出ますが、負けても
得られる物はありますよ﹂
お金を儲けたいけど負けたくないと思えば、ここでは壁の花とな
って、場に彩を添える人垣にしかなれない。
この場の雰囲気で言うと、自分は金にうるさいと自分で言ってい
る様なものか⋮⋮。
真剣勝負を楽しむなんて、日本では出来ない事だし、経験は糧に
なるという事なのだろうか。
﹁なんとなく美咲さんの言う事、分かるような気がします﹂
勝つも経験、負けるも経験。やらずしてカジノなんて駄目、儲か
った話を聞いてカジノって凄いと思わない。自分で経験し、目で見
て判断し、良し悪しを決めろって事だよな。
真剣勝負に身を置けば、それは何らかのプラスになる⋮⋮と。
﹁カジノの楽しみ方は、負ける事を学ぶ事です。勝つ事を学ぶより
為になりますよ﹂
1376
そう一言だけ残し踵を返した美咲さんは、人ごみの中へ消えてい
った。
ふむっ。洗脳されているような気がするが、火傷をしない程度に
嗜めと言われたような気がする。
いっちょやってみるか。100ドルくらい⋮⋮。
﹁カジノの事を研究してた割に、賭け事に興じない奴じゃの。堅物
め﹂
肩の上でトウカが吼え、カナタが同意するように頷いている。
あ、折角やる気になったのに⋮⋮、水を差された気分になった。
まるで勉強しようとした時に﹃勉強しなさい﹄と言われた気分。
しかもコッソリとカジノ情報をチェックして、事前に対策してい
た事が筒抜けになっているし。
﹁燃え上がる博打魂が、一瞬にして鎮火された﹂
そう言いつつも両替カウンターへ向かい、100ドル札を数枚手
渡して、コインに交換した。
いきなり体人ゲームは敷居が高い、まずは機械相手にウォーミン
グアップして、テンションを上げねばな。
﹁まずはオーソドックスにスロットマシンでGO! 機械だから怖
くない﹂
機械は英語を喋らないからな。日本にあるコインゲームと同じよ
うなものだし、安心してゲーム出来るってもんだ。
と意気込んで見たものの、スロット台を見回して、どうにも違和
感を拭い去れない。
1377
回転式のリールではなく、液晶表示のカラフルな物ばかり。コン
ピューター仕掛けだとイカサマされ放題じゃないか?
﹁カオル! 台の上にデカデカと表示されている数字はなんじゃ?﹂
カナタが株価指数の表示の様に、リアルタイムで数字をカウント
している電光掲示板をしげしげと見つめている。
俺はスロット台に群がる人を見つめて、一つの情報が頭を過ぎっ
た。
﹁プログレッシブ、ジャックポットか。同一台の課金情報を共有し
て、利益を蓄積してるんだ。サッカーくじでいうとキャリーオーバ
ー? 定額ジャックポットじゃなくて+アルファで表示からボーナ
スが付く仕組みになっているんだ﹂
事前に予習したカジノ本に書いてあった。
店の同一台共有から、世界共通の物までスケールは色々だ。
天文学的数字がドルで表示されてるって事は、全世界バージョン
かなぁ。要はそれだけ負けてる人が居るって事だよな。
﹁なるほどのう⋮⋮、世の中上手く出来とるな﹂
ネットの概念が分かっている二人だから、飲み込みも早い。現代
の神様はインターネットで通販するからな。
俺は意を決して、一台のスロットマシンに座り込んだ。1ライン
1ドルのゲームだ。当たればデカイぞ。
俺は数十枚のコインを投入口に流し込み、フルベットでレバーを
引いた。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
1378
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁全然出んではないか?﹂
まるで砂漠に水を撒く様に、スッキリサッパリと飲み込まれた。
俺が打つ度にプログレッシブ表示がチラついてカウントアップさ
れていくのがムカツク。
俺はスロットマシンに頭突きをして、負けの意味を噛み締めた。
﹁完敗っす﹂
﹁いや、まだじゃ﹂
カナタとトウカが何かを発見したように声をあげ、スロットマシ
ンの受け皿に飛び移り、一枚のコインを拾い上げた。
お?、一枚残っていたか。死角になっていたのか、前の客が残し
たコインなのか。
﹁やってみてもよいか?﹂
トウカとカナタはまるで子供の様に表情を輝かせている。
そんな表情をされて、駄目ですなんて言えるわけは無い。それに
1ラインの確率なんてフルベッドしてる俺の5分の1だ。
ジャックポットになっても1コインじゃフルベット状態には遠く
及ばない。
俺はコインを一枚投入して、カナタとトウカをレバーにしがみ付
かせた。
1379
﹁当たったら二人ともケーキを嫌と言うほど食えるぞ﹂
渾身の力で引き下げ、きらびやかに表示される画面をワクワクし
て見つめている二人。
ガッコンガッコンと音を立て、コインが数枚落ちてきた。
﹁チェリーが2連、小当たりですなぁ。ショートケーキ3個分位か
な﹂
そうは言えども、砂漠の水撒きからすれば神技。まさに神技。
俺は出てきたコインを投入して、フルベット状態にしてみせた。
﹁あいよ﹂
再びカナタとトウカを持ち上げ、レバーにしがみ付かせて、渾身
の力でレバーを引き下ろす二人を見守った。
きらびやかに表示される画面は、異常なまでに綺麗に絵柄が揃っ
ていく。
そして非常ベルが鳴り響き、台の上のパトライトが激しく点灯し
た。
ジャックポットを告げる合図と、慌しく血相変えて走ってくる黒
服の集団を見つめて、俺は呆然とするしかなかった。
﹁カオルの言う通り、トウカと二人で分けるべきじゃろな。ケーキ
何個買えるかのう。楽しみじゃの﹂
二人のチビ神はコクコクと頷き、にんまりと笑って黒服達に囲ま
れる俺を見つめていた。
1380
﹃黄金海岸 カジノへGO 03﹄︵後書き︶
公海と排他的経済水域、領海の勉強不足をご指摘いただきました。
出来るだけ小修正で留めましたが、大幅な改編いたしましたことを
お詫びいたします。
領海についてメッセージを送っていただいた方、ありがとうござい
ました。
Mercurius
一応海上保安庁のHPと領海の概念を確認いたしましたが、ご指摘
通りのようでございます。
200811181814 W6206C:
┐○
1381
﹃黄金海岸 カジノへGO 04﹄
ジャックポットの史上最高賞金は、3971万3982ドル25
21日、当時バスケットボールの試合を観戦
セント。現在の為替レートで約39億円、当時のレートでは48億
3月
円相当になる。
2003年
Bucks﹄と言うスロットマシンに座り、ゲームの
しにやって来た若者が、ラスベガスのエクスカリバーホテルにある、
めがばっくす
﹃Mega
ルールを知らず100ドルベットして幸運を手に入れた。
知人と会話をしながらリールを回し、運命の瞬間を見ていなかっ
たという逸話が残っている。
﹁俺のは1ドル機だからそんな金額にはなるまい﹂
蓄積値を表示していた電光掲示板は既にリセットされ、初期値の
Fortuneだ。
ふぉーちゅーん
Bucks機とは違い、俺のプ
100万ドルを指し示している。金額を確認していなかった事が少
し悔やまれる。
めがばっくす
おぶ
of
史上最高を叩き出したMega
ほいーる
レイした台はWheel
おぶ
of
Fortuneは週に1度は高額配当が出
ふぉーちゅーん
Bucks機でのジャックポット率は年に2,3度だ
規模的には1/10程の安牌機、伝説に残るような事にはなるま
めがばっくす
い。
Mega
ほいーる
が、Wheel
る。当然上積みも少なく、リセット後の金額も控えめに設定されて
いる。それでも1ドル機の場合100万ドルが初期値なのだが。
﹁カオル、現実逃避も程ほどにな、毛唐共が頻りに話しかけておる
ぞ﹂
1382
ああ、聞いてるよ。Congratulationsとか
Lu
ckeyMan、Japanese Utamaroとか好き勝手
言ってるよ。最後のは違うだろ。
それに現実逃避させてもらったったおかげで、ちょっと冷静さを
取り戻せた。
俺を客から遮るように立つ黒服達のうち一人、いかにも切れ者っ
ぽい外人が話しかけてきた。
﹁おめでとうございます、三室様。幸運を手に入れましたね﹂
放心状態の俺を気遣ってか、日本語で話しかけてくれる黒服。も
しかして船に乗る時に案内してくれた男か。
外人さんってどの人も同じ顔に見えるから、見分けが付かない。
逆も真なりで、俺を判別し日本語で声を掛けるコイツは有能だと
いう事だ。
﹁ご存知かも知れませんが、ご説明させていただきます﹂
そう言って慇懃に頭を下げ、手を軽く頭の上に差し上げた。
周囲を取り囲む黒服達が二列に割れ、一人の男が磨き上げたグラ
ス差し出した。
俺は無言でグラスを受け取り、静かに開栓されたシャンパンが注
がれるのを見つめていた。
﹁三室様には、これから支払いのお手続きを兼ねて、別室へおいで
願います。パスポートはお持ちですよね?﹂
俺はポケットを手で押さえ、その感触を確かめてから頷いた。
しかし男の言う﹃兼ねて﹄という言葉に引っかかりを感じ、思わ
ず声に出た。
1383
﹁兼ねてとは、どういう?﹂
俺の問い掛けに、さも当然という表情を浮かべ、閉じた口をゆっ
くーるだうん
くり開いた。
﹁冷却期間ですね。他のお客様方も三室様も、相当熱くなられてい
るご様子です。今表立てば、暇を弄ばせた紳士や、懐を探りに来る
ご婦人達に、何度も愛想笑いを浮かべなくてはなりません。そうい
う時は一杯のお茶を嗜む余裕が必要です﹂
なるほど、言ってる事は正論だな。
騒ぎになればカジノの運営側にも不利益になる。
客もゲームをそっちのけで見物に来るだろうし、暴漢に襲われる
可能性も無くは無い。
ほんの少し人目を避けるだけで、そういう事があったと認識でき
る客層だから、クールダウンさせろという事だな。
﹁分かりました、お茶を一杯頂きましょう﹂
そう言ってグラスを手渡そうとした時、黒服はにこやかに手を妨
げ、そっと耳元で囁いた。
﹁レゼルヴ・ド ラヴェイでございます。勝利の美酒としてお客様
に味わって頂いております﹂
レゼルヴ・ド ラヴェイという、聞き慣れない名前のシャンパン
を見て、グラスに口を付け一息で煽った。
酸味が効いて、深みがあり、サラリと飲めてとても美味い。
空いたグラスを手渡して、日本語の通じる黒服に付き従い、カジ
1384
ノを後にした。
両替所のカウンターに入り、壁のカーテンを左右に分けると扉が
一つ。まるでマフィアの隠し部屋の様だ。
男の案内でその扉を潜り抜け、細い通路をひたすら歩く。
たしか日本のヤクザの事務所はこんな作りになっているとか。一
度に進入出来る人の数を制限し、突入の際の戦術を制限する為だ。
﹁こちらでございます﹂
右手で扉を開き頭を下げて部屋へと迎え入れ、部屋に入ると何も
言わずに後ろ手で鍵を閉めた。
豪華な大統領執務室のような部屋を想像していたが、味気の無い
調度品が置かれた4畳程の小さな部屋だった。
﹁こちらへ﹂
まるで警察の取調室、一つの机に椅子が二つ。向き合うように配
置されている。
こころつもり
指示されるまま椅子へ腰掛けて、男の出方を待った。
﹁カジノではジャックポッドを出す心算も、専用の部屋という物も
用意しません。質素な部屋だと驚かれたのではないですか?﹂
心を見透かされた様な気分になり、苦笑する事しか出来なかった。
男はテーブルに数枚の紙を並べ、微笑んでそのうちの一枚を差し
出した。
﹁三室様への賞金総額の10分の1の金額を記した小切手です。残
りの賞金は向こう10年間、毎年6月1日にご指定頂いた方法で送
金をさせていただきます。一括で受け取られる場合、現在の金利水
1385
準を考慮し、全体の賞金の65%とさせていただきます。よろしい
ですか?﹂
なるほど海外の高額くじと同じ方式だな。
確か向こう30年で満額か、50%程度の一括払いかを選択でき
る方式だったような気がする。
受け取った小切手の金額に目を通し、一瞬眩暈がして言葉を失っ
た。
$230、000⋮⋮、しかも米ドル表示だ。てことは1ドル1
00円として2300万程。合計で2億3千万円⋮⋮。
﹁カオル、ケーキで換算するといかほどじゃ?﹂
肩の上で座っていたトウカが耳元で囁き、カナタも興味津々で頷
いている。
ドル−< 円−< ケーキかよ。為替レート計算だけでも面倒な
のに⋮⋮。
俺は指を折り、2000円のホールケーキで計算を始めた。
﹁20cmサイズのケーキを2000円として、11万5千個 1
日1個食っても315年間食える﹂
あまりにもバカバカしい計算を済ませ、小声で二人に計算結果を
伝えた。
トウカとカナタはその天文学的な数字に目を回し、肩の上から床
にポトリと落ちた。気を失ったか、感極まったか、ピクピクと痙攣
している。
﹁切羽詰って必要な訳じゃないし、分割⋮⋮、その条件で良いです﹂
1386
ざっと計算して毎年2000万。毎日5、6万円以上使わないと
困る事は無い。ケーキレートでいうと一日30ホールとか、ありえ
ないだろうし。
それに大金を持たせると何をするか分かった物じゃない。
﹁承知いたしました。ではこちらの書類にサインを頂けますでしょ
うか?﹂
差し出された紙には受理承諾書と書かれてあり、署名と送金先を
書き記す場所が空欄となっていた。
もちろん英語で書かれているが、紙に書いたものなら読める。
署名の所にカナタとトウカと書いてやろうかと思ったが、素直に
自分の名を書き、口座名を書き記した。
男はゆっくりと膝を折り、床で目を回しているトウカとカナタを
拾い上げ、机の上にそっと置いて笑顔を見せた。
﹁︱︱二人が見えるのか?﹂
俺の問い掛けに微笑でだけで答え、シッと口に人差し指を立て、
ゆっくりと扉の方へ移動し鍵を開けた。
銀のトレイを片手で持ち、給仕らしき男が入ってきた。トレイの
上には蒸らされた紅茶のポットとカップが二つ。流れる動作でテー
ブルに配置した。
給仕は一礼すると、無言のまま部屋を後にし、再び男は鍵を閉め
て振り返った。
﹁呪術的に、魔術的に、または超常能力を持った者は、時としてカ
ジノで悪戯心を働かせる。私の様な若輩者が支配人の地位に居られ
るのも、そういう者達に対抗する為でございます﹂
1387
ゆっくりとテーブルに戻り、スッと紅茶ポットを撫でるように温
度を測り、被せてあった布を取り払い、白のカップへ注ぎだした。
ツンと鼻に付く独特のベルガモットの芳香は、瞬く間に部屋中に
広がって鼻腔をくすぐる。
この匂いはうちの母が愛飲しているアールグレイに違いない。
﹁お茶をご一緒してもよろしいですか?﹂
カップが二つあったので、当然一緒に飲むものだと思っていたが、
立場上断りを入れるのが礼儀なのだろうか。
目上の人より先に酒を呑むのはNGだという国もあるようだし、
そういう暗黙の習慣ってのがあるのかも知れない。
﹁もちろん、ご一緒してください﹂
男はその言葉を待って、一度置いたポットに手を付け、ゆっくり
ともう一つのカップにお茶を注いだ。
席に座り布のかけられた小皿を置き、深呼吸するように芳香を楽
しんでいる。
小皿には角砂糖、ジャム、ミルク、輪切りのレモンが添えられて
いた。
﹁先ほどの話の続きですが、誤解なさらないでください。決して三
室様をイカサマ師と言っている訳ではございません﹂
そう言って小皿を俺へ勧めてくれたが、俺は手を振り、ゼスチャ
ーで辞した。
﹁私は生来、そのようなモノを見る目を持っておりますが、それ以
上に人を見る目を養っております。やましい心を持った者は、頭の
1388
上に妖精を乗せるような、堂々とした素振りはなさらないものです﹂
その時の光景を思い出したのか、クスクスと笑い肩を揺らしてい
る。
やはりこの人が乗船の際に迎えてくれた人なのだ。支配人という
には若いし、そういう立場の人であれば、奥にふんぞり返っている
ものじゃないのか?
﹁それに乗船いただくお客様は、全て身分を照会させていただいて
おります。退魔士である事も、ランクがAである事も、家族構成も、
財産についても﹂
それって俺の全部を調べたって事じゃないのか。財産って事は銀
行残高まで知られてるって事?
この食えない男の周到さに、圧倒されるやら呆れるやら、なんと
Martinon、ジャンとお呼びくださ
返答して良いのか分からない。
﹁私の名前はJean
い。お近づきになれて光栄です。三室カオル様﹂
ジャンと名乗った男は、俺が紅茶に口をつけるまで飲もうとしな
い。やはり独特の習慣とか思想があるのだろうか。
このまま冷めるまでお見合いしても良いが、不毛な精神戦をして
も何の利益にもならない。
急かされる様に軽くカップに唇をつけて、アールグレイの芳香と
味を確かめた。
﹁私の国は退魔士という制度がございません、そこでお伺いさせて
頂くのですが、日本の退魔士という職業は、一般市民からの依頼も
お受けなされるのですか?﹂
1389
一般の依頼ね。そりゃもちろんそれを専門にしている奴もいるし、
企業専属の奴もいる。
国からのリストも市民の代行みたいなものだし、報酬も税金から
支払われている。
国に対してというより、市民からと思わないと罰が当たる。
﹁もちろん、それなりの報酬を頂く事になりますが﹂
ジャンはその言葉を聞いて、今日初めて人間らしい表情を浮かべ
た。
あまり深く追求したくはないが、口元をキュッと吊り上げるよう
な、少し嬉しそうな表情だった。
嫌な予感の時にだけ、俺の予感は当たる。今がその時だと感じて
いる。
その予感を裏付けするように、ジャンの口から途方も無い提案が
なされた。
﹁では三室様、貴方様を秒給100ドルでお雇したい﹂
俺はアールグレイを噴き出し、トウカとカナタにぶちまけた。
秒給って事は1秒で100ドル、1分で6000ドル。金銭感覚
が壊れてるのか、それともそれ程に厄介な依頼なのか。
咳き込む俺を見て悪びれる事無く、ジャンは依頼の内容を端的に
言った。
﹁あるお客様にお灸をすえて戴きたい。﹃おそらく﹄ですが、カジ
ノで悪戯心を働かしている、その手のお客様でございます﹂
能力者か⋮⋮、それならその金額も妥当。相手次第では少し安い
1390
かも知れない。
依頼が冗談ではない証明に、防犯カメラから起こされた写真が二
枚、紙にクリップで留められ、正面と横顔、そして名前が書き記さ
れていた。
﹁荒事は好みません。イカサマの手口を暴く事で秒給50ドル、お
灸を据えてプラス50ドルで如何でしょうか?﹂
なるほどそれはこっちにとっても好都合。本格戦闘になると客の
安全を考慮しなくてはならない。そんな不利益はまっぴら御免だ。
﹁聞きたい事があります。この人が何をしたんでしょうか?﹂
机の上の写真を指差し、その端正な顔を見つめた。
ジャンは苦笑しながら更に数十枚の紙を取り出して、机に並べて
見せた。
紙にはラスベガス、アトランティックシティ、マカオ、モンテカ
ルロと単語を斜め読みできる手配書がズラリ、どれもこれも指名手
配犯扱いで書き記している。
﹁どこのカジノでも100%お勝ちになられるお客様で、色々な手
段を講じて﹃なにかやっている﹄事だけは分かっています﹂
色々な手段って、カジノ側がチートを使って対抗したって事だろ?
その上でケチョンケチョンに負かされた。ありえない、あいつは
不正をやっているとね。
﹁なるほど。ジャンさんが見てもわからないんじゃ、俺が見ても同
じじゃないでしょうか?﹂
1391
ジャンさんはその問い掛けに対し、ゆっくりと首を振って否定し
た。
﹁私が見ている前では、不正をしません。カジノに設置されたカメ
ラの位置を把握するように、いつも背中向けで遊ばれている﹂
事前調査はバッチリ済ませているって事か。それは相当厄介な敵
だぞ。
はてさて、俺に見破れるのか⋮⋮。
﹁もう一つ聞きたい事が。なぜ俺に依頼を?﹂
退魔士として事前に調査をしているのは分かる。でもどうして美
咲さん達じゃなく俺なのか、それがどうも引っ掛かる。
﹁それは三室さんの運でしょう。200ドルほどの小銭でジャック
ポットを引き当てる運。カジノでの人の優劣は、金の有る無しと強
運かそうでないかです﹂
ジャンさん読み違えてる。ジャックポットを引き当てたのはカナ
タとトウカであって、俺ではない。そこらへんお間違えないように。
﹁それに三室様に依頼すれば、天野様ほか有数の女性を一緒に雇う
事が出来るでしょう?﹂
それこそ買い被りだ。だがしかしノッて来そうな気もするな。
さすが見かけ30歳そこそこで、カジノ船の支配人をやっている
だけはある。やっぱこの人は有能かもしれない。
もしかすると初めからそのつもりで、ハイローラーとして招待し
たのかも知れないな。
1392
﹁わかりました。やれるだけやってみます。有数のカジノを渡り歩
いた人を俺が見抜けるか騙せるか⋮⋮。駄目で元々の心算でお願い
します﹂
﹁ええ、モニター室で一杯やりながら、楽しみに見ています﹂
俺はその一言を聞いて部屋を後にした。
カジノに戻りつつ依頼の成功に対して最適なキャストを模索した。
配役をミスっても、声を掛けなくても拗ねる人ばっかりだから、
ここは隊長を巻き込んで隊全体で動きたい所だな。
﹁よっ! 葵! 勝ってるか? ちょっと乃江さんを借りていくぞ﹂
葵の横で屍の様に萎れていた乃江さんの襟首を持ち、美咲さんの
下へ向かった。
途中で山科さんと真琴に目配せして、外人に囲まれていた宮之阪
さんを拉致してデッキに向かった。
怪訝そうな表情を浮かべる山科さんと真琴が後追いで到着し、夕
涼みしていた美咲さんと合流して、全員集合が完了した。
﹁なんやの? カオル? やっとイーブンまで持ち込んだのに⋮⋮﹂
﹁助かりましたカオル先生⋮⋮えぐっ﹂
﹁帯結びなおして、これから⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
屍の乃江さんだけはなんの応答も無いようだが、キョトンとして
1393
いる美咲さんに今までの経緯を告げた。
﹁かくかくしかじか⋮⋮秒給で⋮⋮お灸﹂
無茶苦茶掻い摘んだが、皆の表情が好奇心に満ち溢れた。
﹁それ山分け? マジで? 時給3千6百万やん。一人頭600万
! ブラックジャックでチマチマやるより確実やん﹂
いや成功報酬だから、手口を見つけて半分、キャンと言わせて半
とうじつばらい
分です。
﹁とっぱらいですか? カオル先生?﹂
真琴よ⋮⋮、お前どれだけ負けたんだ?
しかも物凄く嬉しそうにしてるぞ? 大事な事だからもう一度言
う。成功報酬だからな?
﹁600⋮⋮﹂
宮之阪さんも両手をギュッと握り、思いつめた様に意気込んでい
る。
コソコソ隠れて内職するくらい、お金に困ってる人だからなぁ。
分からんでもないが。
﹁600⋮⋮﹂
金額を聞いて瞬時に蘇生を完了した乃江さん。この人もかなり大
火傷したんだろうな。
何気にジャンさんは、みんなの赤字を見越して秒給弾んだんじゃ
1394
ないだろうか?
﹁600⋮⋮﹂
美咲さんの目に光が宿った。
なんだろう。賭け事をしていないのに、この意気込みは。不吉な
予感がする。
1395
﹃黄金海岸 カジノへGO 05﹄
まず第一の配役、俺の恋人役は美咲さん
・・・・
俺の隣に寄り添い、ポケットに突っ込んだ手に、腕を絡めていた。
切れ者の恋人役として、優秀なブレインとして、そして意思疎通
の相手として欠かせない配役だった。
﹁美咲さん、近すぎますよ。もっと自然な方が良いんじゃ﹂
傍から見れば睦みあう恋人。キスをするほどに近い場所での台詞
だった。
間近で見ている俺だけに分かる程度に眉を顰め、美咲さんが不満
の表情を顕わにした。
カナタ達をポケットに入れて正解だったかも知れない。見ていれ
ばヤキモチ全開、髪の毛を引っ張られて、無茶苦茶にされてそうだ。
ままごと
﹁あのですね⋮⋮。見る人が見れば分かるんです。体が近いか遠い
か、体を許した関係か、本物か偽物か⋮⋮。このままではお飯事に
見えてしまいますよ?﹂
うーん確かに、言われて見ればそうかも知れない。連休中に見た
キョウさんと綾乃さんの距離は、夫婦や同年代の恋人と違う距離だ
った。
体を︱︱なんて邪推はしたくないが、心を許し合い、お互いに支
えあっているように見えた。ああいう風に見えてしまうのか。
﹁了解しました。程ほどに⋮⋮お願いします﹂
いや演技とはいえ本当⋮⋮、心臓がもたない。
1396
隊長然としている美咲さんは、何処か距離を置いてとっつき難い
けど、今日の美咲さんはど真ん中のストライク。
必要以上に気を使って、依頼をこなす前にココロが壊れてしまい
そうだ。
﹁程ほど? カオルさんは私の事、嫌いですか?﹂
正装に合わせた靴は高めのパンプス。そのおかげでいつもより美
咲さんの顔が近い。
少し非難するような目が、顔の間近にズイと寄り、口元は少し笑
みを浮かべている。
﹁演技をしているんだと思うと、少し複雑な︱︱﹂
そんな美咲さんの後ろを老紳士が通り、ドンと背中を突き飛ばす
ように肩が当たった。
受身の取れなかった美咲さんはよろめき、同じく美咲さんの肩を
受け止めようとした手は空を切った。
﹁Excusez−moi.﹂
カジノ会場の端で抱擁し、キスするカップルを見て、老紳士がニ
ヤリと笑って謝罪の言葉を発した。
結果オーライと言いたげな表情で、何事も無かったかのように向
き直り、襟を正して歩き出した。
﹁︱︱︱︱﹂
完全に硬直した二人は、数秒見つめ合って、ハッと我に返った。
ちょっと距離を取るように押し戻され、美咲さんは俺の手の中か
1397
らスルリと抜け出し、背を向けて唇を指で押さえている。
俺は美咲さんの様子を見て、自分のしでかした事に気が付き、も
の凄い罪悪感に襲われた。
﹁美咲さん⋮⋮あの⋮⋮今⋮⋮キ﹂
﹁し、してない! 気のせい!﹂
さっきまで﹃体を許した︱︱﹂とか言っていた二人なのに、今は
まるで手も触れられない初々しいカップルの様だ。
お互いの反応にビクビク、ギクシャクと落ち着かない。
柔らかな感触の残る唇を指で撫ぜてみると、指先にほんのりと紅
の色が移っていた。
﹁気のせい?﹂
﹁と⋮⋮思います﹂
背を向けている美咲さんにバレないように、サッとハンカチで唇
を拭い、素早くポケットに仕舞い込んだ。
心を落ち着けるように深呼吸して、落ち込む美咲さんの手を取っ
た。
﹁あのフランス紳士に感謝です﹂
グイっと美咲さんを引き寄せて、恋人の役目をやり直した。
キッカケはどうアレ、なにか吹っ切れた。距離が近いとか遠いと
か、細かい事に気を使う事も無い。
俺はほくそえむ老紳士の顔を思い出し、肩を揺らして苦笑した。
1398
﹁感謝って⋮⋮えっ、ホント?﹂
頬を赤く染め、俯き加減な美咲さんも、演技のやり直しはバッチ
リのようだ。
心を許し、支えあうカップルにはまだ見えないけど、それなりの
関係には見えるだろう。
﹁俺の役は彼女の尻に敷かれている、うだつの上がらない彼氏役。
凡庸で頭の回転は悪く、小心者﹂
自分に言い聞かせるように、配役の仮面を被る。
美咲さんも俺の表情を見て、引き締まった顔に戻った。
﹁カオルさん、今回のターゲットはどちらに?﹂
今回のターゲットの写真を見ているのは俺だけ、必然的に探せる
のも俺だけとなる。
たーさい
俺はスロットマシンやテーブルゲームに興じている客を見回し、
大小のテーブルに座る一人の客に目が止まった。
髭を蓄えたがっしりとした体躯、スペイン人とのデータを見たが、
実際顔付きで国籍を判断出来るほど、俺の目は肥えていない。
ただ、テーブルに積まれていたチップの量と、見せられた写真の
顔に一致するのはアイツしかいない。
ダニエル・エレナ、年齢は35、笑う口元と相反し、勝負に興じ
る目は、一線級の勝負師の顔付きだった。
たーさい
美咲さんは俺の視線をトレースし、納得したように頷いた。
﹁なるほど、大小って事は、ありきたりのイカサマ師ではない、と
言う事でしょうね﹂
1399
イカサマ師には種類がある。客側が不正を行いゲームを操作する
方法。ディーラーを懐柔して客に勝たせる方法。
たーさい
今回はそのどちらの方法でもない事だけは見て分かる。
大小は容器内で目が確定した後に、客が賭けを始めるルール。デ
たーさい
ィーラーと客が通じていても、阿吽の呼吸でイカサマは出来ない。
大小は名前から予想できるが、アジア発のカジノゲーム。
たーさい
三つのサイコロの出目で3から18までを予想する。4から10
までを﹃小﹄11から17までを﹃大﹄と呼ぶ事からゲーム名大小
たーさい
となる。︵3、18等のゾロ目は控除、親の勝ち︶
ルーレットの様なオープンなリールと異なり、大小のサイコロは、
見えない密閉された容器内で、機械によるシャッフルが行われる。
賭け方は大小、数字を直接当てるやり方はルーレットと同じだが、
3個のサイコロを使用する点で、最小、最大付近の確率は低く、高
配当になっている。
﹁ディーラーは、美人のド素人。チップの計算とボタンを操作する
だけ。純粋に﹃能力﹄だけで稼いでるみたいですね﹂
密閉容器内に何が入っているか、それを当てるだけでも高等技術。
その上大小では、容器内で目が確定した後に、客が賭けを始める
ルール。
物を見通せると言われている俺でさえ、精神を全開に集中して、
サイコロが3個有る程度しか判らない。
昔の様に動物の骨から作られていれば、ある程度の判断が付くか
も知れないが、人工的な無機質の物、その表面を見るのは難しい。
たーさい
﹁相当に訓練された透視と思えるけど、過去の手配書の事例では、
それだけでは勝てないゲームもあったんです﹂
透視で勝てるゲームは、ブラックジャック、大小、ポーカー等。
1400
けれどダニエルはその他のオープンゲームでも勝ちを収めている。
﹁霊気を放出している様子もないですね⋮⋮、カオルさん。間近で
見てみましょうか?﹂
俺の手を引っ張って、強引にダニエル・エレナに向かい合う席に
座った。
台の上限は、制限無しの天井知らず。幾ら賭けようとそれをカジ
ノ側が保障する仕組みだ。
極端にいえば2億の2倍をゲットしても、当然の如く支払われる。
高リスク高リターンが可能なテーブルだった。
﹁カオル! ドカーンと賭けてドキドキしようよう﹂
俺の腕に手を絡めて、役通りに演じる美咲さん。俺はそのアドリ
ブに合わせるだけ、楽な役者だった。
たーさい
ディーラーさんに指で合図を送り、100ドルの束を一つテーブ
ルに置き、大小用のチップに交換して貰った。
内心そんな大金を手渡しただけで血圧は上昇。賭けなくてもドキ
ドキしている。
﹁美咲はどこに賭ける?﹂
あくまで俺は傀儡、主体性のないキャラを演じるのは楽で良い。
美咲さんはダニエルの手をチラッと見て、ニヤリと笑った。
﹁小に全部ぅ﹂
俺は言われるがままチップの全てを﹃小﹄へ注ぎ込んだ。
なるほど、ダニエルが一点張りしている場所は、大か小かでいう
1401
と小にあたる。
ディーラーは客の動向を見て、テーブルを一撫でし、容器をオー
プンするボタンを操作した。
﹁2・3・6の﹃9﹄﹂
俺の手元に掛け金の倍掛けが戻ってきた。
ダニエルにもチップが払い戻され、ディーラーは引き攣った笑み
を浮かべている。
俺達がここでやるべき事は、場を荒らす事とダニエルの手口を掴
む事。決して金を儲ける事ではない。
﹁美咲⋮⋮、次⋮⋮﹂
横に居る美咲さんの目にドルマークが浮かび、俺の言葉が耳に入
っていない。
俺は肘で突付いて、正気を取り戻させた。
﹁え、あ、次はねぇ∼、大に全部かなぁ﹂
言葉の語尾を伸ばし、ダニエルの手をコッソリ覗っている。
当然俺は馬鹿な男を演じつつ、心の目でダニエルの動きを見張っ
ている。
ダニエルの手は単一数字の15へ100ドルコイン一枚。高配当
に一点張りからか、目立たぬ様に一枚づつ賭けている。
顔面蒼白のディーラーは、涙目で容器をオープンして、出目をコ
ールした。
﹁3・6・6の﹃15﹄﹂
1402
二度連続して低配当に大枚を注ぎ込む俺達。ダニエルは二度目に
して、渋い顔をして俺達をチラッと見た。
ようやく俺達の存在に気が付いたか。自分の手をトレースしてい
るのではと、疑いを持ち始めている筈。
ふとダニエルがポケットに手を入れる動作を見せた。俺と美咲さ
んは息を飲み、お互いが違う場所に目をやった。
さっきも一度その動作をしている。単なる癖か、あるいは⋮⋮。
美咲さんが見つめる先には、宮之阪さん。そして俺が見た先には
真琴が立っていた。
立ち位置から真琴が見やすい筈だが、腕を組んで首を傾げている。
宮之阪さんも手で天を仰ぎ、お手上げとゼスチャーしている。
俺はポケットをポンと一つ叩き、遊撃部隊であるカナタとトウカ
に合図を送った。
﹁美咲、次はどうしようか? そろそろハズレそうな気がするよ﹂
ダニエルは100ドルチップで楽に賭けている。ブラフを一回か
まされるだけで、俺達は全滅だが、ダニエルは痛くも痒くもない。
トレースし続けるか、逆目を狙ってみるか。
﹁そんな弱腰でどうするの? 小に全部で良いじゃない﹂
最初の1万ドルと配当を合わせて9万ドル、その全部を小に賭け
る合図が来た。
当たれば9万+18万ドル。日本円換算で一発2000万オーバ
ーの大勝負だ。
﹁仕方ないなぁ、美咲は言い出したら聞かないんだから⋮⋮﹂
余裕の笑みを見せつつ、内心はドキドキで手に汗を掻いている。
1403
見てはいけないダニエルの方向を、見たくて仕方が無い。乗るか
反るか⋮⋮。
﹁2・2・4の﹃小﹄﹂
声が上擦りヒステリックになっているディーラーは、誰の目から
見ても半狂乱気味。
ディーラーにも職務責任があり、控除率に沿ったノルマが課せら
れている。この人、今夜の査定は最悪になるだろう。
ジャンさんが大目に見てくれる事を期待しつつ、憐れなディーラ
ーに黙祷を捧げた。
俺の手元には、積み上げるのも億劫になるほどのチップが積まれ、
その状況に野次馬の客が増えてきた。
ポケットの中の遊撃隊が帰還し、俺の心に話しかけてきた。
﹁なにやら毛玉のようなキーホルダーが入っておったぞ﹂
﹁動物の剥製のようだの。しかも足だけの⋮⋮、悪趣味じゃの﹂
カナタがトウカと話している状況が俺の心に響いてきた。
遊撃隊と役割を与えたが、ポケットの中まで入り込めとは言って
いなかった。無事だったから良かったが、ヤバイ事するなぁ。
それに動物の足のキーホルダー? 毛玉? モーラみたいな物だ
ろうか?
こんな事は乃江さんに聞くのが早いんだけど、別の配役の為に今
は使えない。
﹁美咲、シャンパンを取ってくるよ。飲むよね?﹂
大袈裟に声を出し、使いっ走りの男を演じた。
1404
振り返って席を立ち、すれ違い様に耳元で﹃動物の足﹄、﹃剥製
のキーホルダー﹄と囁き席を立った。
ダニエルの背後に回り、真琴と宮之阪さんの元へ行き、今の状況
を伝えた。
﹁ふむ⋮⋮、それって﹂
腕を組んで考え込んだ真琴が、何かに思い当たった様だ。同時に
宮之阪さんも、苦虫を噛み潰したような表情で頷いた。
﹁魔女を殺した証。ラビット・フットだと思います﹂
真琴が宮之阪さんの顔を見て、恐る恐る俺に告げた。その異名だ
と、宮之阪さんの前では言いにくいのだろう。
ラビットフットといえば、アメリカンネイティブのお守りじゃな
かったろうか? ギャンブルに勝つアイテムではなかったと思うの
だが。
腑に落ちない俺の表情を見て、宮之阪さんが真琴の言葉に補足を
入れた。
﹁銀の銃弾、斜視の射手、新月、13日の金曜、生きたまま、古い
墓場、後ろ足で左。色々な条件を付ければ、呪術のアイテムになり
ます﹂
宮之阪さんにしては珍しく饒舌に語ってくれた。
土の中に住むドワーフとしてのウサギは、冥界に通じ土の魔力を
持っているとされている。
時に魔女の化身としてウサギが民話に登場し、それにあやかって
ウサギの足を﹁魔女殺し﹂として扱ったそうだ。
ウサギは多産で多くの子供を一度に産む、年中いつでもサカリだ
1405
という事で、種族の繁栄の象徴として、お守りにするそうだ。
アメリカンネイティブより歴史は古く、ケルト人が伝えたものだ
そうだ。
ラビットフットというとミッションインポッシブル3を思い出す
が、そういうのとは違う様だ。俺の知識って役に立たないなぁ。
﹁なにか対策って無いものですかね?﹂
呪術ならば呪術を返す方法がある。無効化出来ればミッションク
リア。
大抵の呪術アイテムは、なにか苦手とするモノがあったりするの
だが。
﹁アイテムを無効化する方法はあります。新月に墓場で、13種の
火種で燃やす事です﹂
この船には教会はあっても、墓場は無い。しかも火種は13種の
マジックアイテムらしい。アイテムの即時無効化は無理か。
考えあぐねた俺に、宮之阪さんが力なく呟いた。
﹁もし最悪の状態で作成されたラビットフットなら、所持する人に
最高の幸福を与えます。100パーセント、必ず、絶対に、です﹂
100パーセントの勝率はそこから来ているのか。
恐るべしアイテムだ⋮⋮。手段を見つけた事で50%の報酬で我
慢するか。それとも⋮⋮。
﹁私と真琴、待機している由佳と、呪術を解く方法を模索してみま
す﹂
1406
宮之阪さんは真琴を連れて背を向けた。魔法組の本領発揮に期待
するか。
俺も席を立って時間が経っている。不審がられても問題だし、戻
るとするか。
バーでシャンパンを二つ取り、美咲さんの待つテーブルへと戻っ
た。
﹁カオル! テーブルが荒れておるぞ!﹂
上着のポケットからコッソリ顔を出したカナタとトウカが、美咲
さんの待つテーブルで、なにやら異様な気配を察知した。
俺は足早に険悪なムード漂うテーブルで、先ほどの席に座った。
﹁美咲、どうした?﹂
俺の姿を見たダニエルが舌打ちし、涙目の美咲さんは大袈裟に抱
きついてきた。
手元のチップに変動も見られないが、客の様子やディーラーの憤
慨する表情はただ事ではない。
﹁カオルが席を立ってすぐ、﹃彼にフラれたのか?﹄とか﹃日本人
の女はすぐヤラせるって本当か﹄とか酷い事を⋮⋮﹂
よよよと泣く美咲さんをヒシッと抱き、俺はダニエルを睨んだ。
そして震える声を上げて、ダニエルを指差した。
﹁お、お前、よくも俺の大切な人を侮辱したな! サシで勝負しろ
!﹂
ポケットの中で、トウカとカナタが呆れた様にため息を吐いて、
1407
コロンと転がった。
1408
﹃黄金海岸 カジノへGO 06﹄
ポケット中からクスクスと失笑が漏れ、その声を外に漏らさない
様に手で押さえた。
むぐうと断末魔が聞こえた様な気がするが、このシーンにはミス
は許されないのだ、我慢してくれ。
﹁お、お前の様な奴を許す訳にはいかない!﹂
自分で言いながら、その大根役者っぷりに笑えて来た。
俺は歯を食いしばって笑いを堪えたが、それが悔しさを噛み締め
ている様に見え無くも無い。
俺の演技がかったセリフを聞きつけ、周囲の客がダニエルを食い
入るように見つめている。
そんな中にありダニエルは俺と美咲さんを見て、なお不敵な笑み
を浮かべ続けている。
そりゃあ強力な魔法アイテムを持っていれば、余裕もあるだろう
さ。俺はまだ打開策が見付からなくてガクブルなんだけど。
﹁場も荒れたし、騒ぎも大きくなった。潮時にしたい所だが、お前
の申し出は魅力的だな﹂
またもチラリと美咲さんを見て、下卑た笑いを見せたダニエル。
一部の外国では日本の女性に対し、偏見に満ちた情報で伝えられ
ていると聞くが、ダニエルもそのクチだろうか?
慎ましやかで控えめな美徳は、どんな事も嫌がらず受け入れ、決
して男に逆らわないと⋮⋮。
体の良い娼婦と勘違いしている国もあるという。
カジノ会場を巡回しているジャンさんの息のかかった黒服達に聞
1409
いてみた。
﹃この5人の女の子達、どの子が一番外人ウケしますかね?﹄と。
意外な事に真琴がダントツのトップ、次点で美咲さんだった訳だ。
病んでいるロリコン外人の意見は、この際除外するとしてだ。
一般的にウケる可能性を見越して、美咲さんが恋人役に抜擢され
た訳だが、さすがラテン系と言うべきか、ものの見事に釣られてく
れた。
ダニエルの手をトレースし、大勝ちしているカップルとして強く
印象付けたから、かわいさ余って憎さ百倍になったのかも知れない。
とにもかくにも場を荒らして、一般客から隔離する事が第一の目
標。
あくまでも運が良ければ的な意味で、美咲さんを配置したのだが、
餌の無い釣り針で魚が釣れ、少し拍子抜けの感が否めない。
ここは釣り上げた美咲さんを褒めるべきか、女性を見たら声を掛
けるラテンの血を褒めるべきか。
﹁ケツの毛まで引っこ抜いて、女を貰うってのは痛快でいいな﹂
ポケットの中から部屋の鍵を取り出し、チラつかせて口元を曲げ
笑う。
まるでもう勝ったかのように、美咲さんを値踏みし始めた。
さすがの美咲さんもその視線に耐えかね、両腕で体を抱きしめ嫌
悪の身震いをした。
﹁俺は初物が好きなんだ。匂いで分かるぜ。初めての男になってや
るよ﹂
言い回しを複雑にしているが、バージンって事だよな。
1410
美咲さんはバージン。身持ちも堅いし、そうだろうなとは思って
いたが、改めて言われると複雑な気分になる。
横目で美咲さんを窺ってみたが、羞恥に耐えかねて顔を真っ赤に
染めていた。
美咲さんを怒らすと怖いんだぞ⋮⋮。責任取ってくれよ、ダニエ
ル。
﹁俺は全財産を賭ける。お前はそれに見合ったモノを賭けろ﹂
ポケットから取り出した小切手の山。まるで財布の中に溜まるレ
シートの様にぞんざいな扱いだが、そのどれもが天文学的な数字が
綴られていた。
俺の小切手がゴミに見えるほどの金額だ。
グッと悔しさを噛み締めた俺を見て、ダニエルはクイっと顎をし
ゃくり、美咲さんの方へ動かした。
お前のはした金は必要ない。女を賭けろと言っているのだ。
﹁カオル⋮⋮﹂
美咲さんは俺の背をそっと撫で、不安そうな声を上げた。
しかし背中を指で撫で﹁O﹂と書き、その勝負を受けろと指示し
てきた。
その強気な勝負、行けと言われて即座に受けれるか? もし万が
一の事があったら⋮⋮。
美咲さんは躊躇している俺の足をヒールで踏み、キツイ合図を送
ってきた。
﹁痛っ⋮⋮、お前の望むモノを賭ける。だが日本では3回勝負とい
うルールがある。先に2勝すれば勝ち。古式に則った戦い方だ﹂
1411
出鱈目を言い張ってみたが、ダニエルは不審に思う素振りは見せ
なかった。
そんな些細なルール設定で、自分の勝利が揺らぐとは思ってない
のだろう。
﹁了解した。一回ですんなり勝つより、相手の悔しがる顔を見れる。
良いルールじゃないか﹂
やはり⋮⋮か。
こいつは、絶対なる自信を持って、逆に俺を揺さぶりに掛けてい
る。
一流の賭博師は精神戦が上手いと言うが、カードゲームならウサ
ギの足が無くても負けそうだ。
﹁場所を変えてルーレットで勝負しよう﹂
俺はディーラーに合図して、俺とダニエルの持ちチップを小切手
化するように指示した。
ディーラーは俺と美咲さん贔屓なのか、心配そうに見つめ困惑し
た表情を浮かべた。
台を後に歩き出す俺達に、ダニエルは余裕の態度で付き従い、ル
ーレットのテーブルへと移動した。
﹁オリジナルルールでディーラーを困らせても仕方ない。100ド
ルのチップを3枚チェンジして、大か小かで勝負を決めようか﹂
ポケットから3枚の100ドル札を取り出し、それぞれが台の上
に並べた。
ディーラーは二人のお金を取り、3枚のチップに換えて手元に押
し出した。
1412
ディーラーは東洋系でショートカットの女性、形の良い眉を顰め、
眼光鋭くリールの横に立っている。
ぶっちゃけ乃江さんなワケだが、これをダニエルに知られると不
味い。連絡役として以心伝心の美咲さんが鍵となる。
ジャンさんに頼んで制服を借りた割には、堂に入ったコスプレっ
ぷりだ。タイトなミニスカートから伸びた美脚が黒のタイツに包ま
れていて良い感じ。
﹁カオル!﹂
乃江さんの足に注視しすぎて、美咲さんにカツを入れられた。
またもヒールで踏まれた訳だが、向かい合うダニエルには、痴話
喧嘩をしているように見えただろうか。
涙目でこの台の履歴を見て、ラビットフットの威力を試すにはい
い機会だと理解した。
台の直近履歴は7、0、1、30、25だった。701は乃江さ
んの部屋番、3025は電話番号の末尾。
先ほどまで山科さんを客に配置し、練習に練習を重ねた結果なの
だろう。
﹃私はルーレットなら思った出目を出せる。熟練の技ではなく、霊
気のコントロールでな﹄
微量の霊気を玉に流し込み、玉を操作する事など容易いと言い切
った、その腕前を見せてもらおう。
あの山科さんをもって﹃霊気のコントロールの天才﹄と言わしめ
る程の腕だ。もしかするとラビットフットの魔力を無効化出来るか
も知れない。
﹁俺はスモールに賭ける﹂
1413
100ドルチップを一つ摘み、1−18の場所へそっと置いた。
ルーレットは大抵、大、小と隣り合わせでリールに配置されてい
る。奇数と偶数もしかり。
けれど完全に二分化する事は難しく、小が隣り合う場所が存在す
る。赤の10と黒の5だ。
1マスを狙いコントロールするのは難しいだろうが、隣り合う2
マスを狙うのなら容易いと踏んだ。
しかしダニエルは余裕の笑みを崩さない。笑いをかみ殺しながら、
チップを摘み放り投げた。
﹁どちらでもないってのはアリだろ?﹂
回転したチップが動きを止めた場所は﹃0﹄、数字を一点張りを
する位置だった。
丁度10と5の対極の位置にある0、俺の作戦が見透かされてい
るのかと、内心ドキリとさせられた。
いやダニエルは、﹃0﹄という36分の1を引き当てる自信があ
るのだと、揺ぎ無い余裕と笑みで語っている。
表情一つ変えず、乃江さんはリールを回転させ、人差し指で玉を
More
Bet
Please.﹂
固定し、円周に沿うように玉を投じた。
﹁No
回転した玉が勢いよく回り、ベット終了を宣言する乃江さんは、
涼しい顔で回転するリールを見つめて、無表情で玉の動きを目で追
っている。
物凄い集中力が必要なのだろう、澄ました顔でいるが、微妙な表
情の変化でその難易度が察せられる。
ゆっくりと止まっていくリールをみつめ、吸い込まれるように1
1414
0の位置に転々とバウンドを開始した。
﹁赤の10﹂
ホッと安堵のため息を付き、乃江さんから200ドルのリターン
を貰う。
逆にダニエルは100ドルのチップを取られた。勝敗は1対0で、
まず一勝をゲットした。
ラビットフットの効力も、霊気のコントロールには無力なのだろ
うか。少し拍子抜けしダニエルを覗き見た。
ダニエルは頬杖を付き、笑いながら俺を見ている。そして美咲さ
んを見つめ舌舐め摺りをした。
頬杖を崩し、ジャケットのポケットに手を入れて、再びチップを
放り投げた。
﹁今度もゼロで良い﹂
その余裕もこの勝負でオサラバ。俺は再び小の位置に掛け、ディ
ーラーの動きを待った。
乃江さんは再びリールを回転させ、人差し指で玉を固定し、円周
に沿うように玉を投じた。
長考で見ている俺と美咲さんにだけ分かる。さっきと寸分違わぬ
More
Bet
Please.﹂
タイミングで投じた事に⋮⋮。
﹁No
前回とおなじ様にリールがゆっくりと動きを止め、転々と10の
位置を目指して玉が跳ねた。
﹁!﹂
1415
乃江さんが微妙に眉を顰め、コントロールされていた筈の玉が、
10の位置で勢い良く跳ねた。
意思を持ったように動く玉を見つめて、ダニエルがニヤリと笑い、
逆に俺の顔は引き攣った。
﹁︱︱0﹂
36倍のチップをダニエルが取り、俺の掛けたチップは乃江さん
の手元へ運ばれた。
手元でチップを弄び、驚愕した俺を見つめてダニエルが口を開い
た。
﹁後が無いな⋮⋮、次で勝負が決するが、先に一勝した兄ちゃんに
免じて、ヤッてる最中⋮⋮部屋に招待するよ。見るだけで申し訳な
いが、それなりに楽しめるだろう?﹂
ニヤリと笑って椅子をゆすり、馬に乗るように体を動かし始めた。
むう⋮⋮、こいつ最悪。
冷静を装っていた美咲さんも耐えかねたのか、怒気顕にし手が震
え、その様子を見た乃江さんも眉を顰めた。
ダニエルは試しの意味で、そしてこのセリフを言う為に、一度目
を外したのだと思えた。
現に勝負の前にはラビットフットに手を触れている。一度目はそ
の仕草をしなかった。
﹁やっぱりなぁ、そのディーラーは仲間だろ。鼻薬を効かせてある
んじゃないか?﹂
ダニエルは乃江さんをキッと睨み、強い口調で恫喝した。
1416
流石に乃江さんは、その手には乗らない。無表情で立ち、一欠片
の動揺さえ感じさせない演技をした。
確実に証拠を掴んでいるわけじゃないから、揺さぶりカマをかけ
ているのだ。乃江さんの対応で問題ない。
﹁まぁいいや。ルールを少し弄らせて貰う。赤か黒かに変更しよう。
確率は変わらないから問題ないだろ?﹂
問題大有りだよ⋮⋮。赤と黒は完全に二分化されている。隣り合
わせは無いのだ。
コントロールする乃江さんに、より高度な集中力を強いる事にな
るのだ。
﹁それと⋮⋮もう一つ。ディーラーが投じてからベットしようか。
これも問題ないだろ?﹂
完全に俺の逃げ道を塞いできたな。
ラビットフットの効力は、イレギュラバウンドだけで、対極の位
置まで玉を動かせる。
対して俺は、乃江さんとの連携を絶たれる事になる。圧倒的に不
利になるじゃないか。
考えあぐねる俺の手を、美咲さんがギュッと握ってきた。
汗ばんでいる俺の手が、乾いていると錯覚するほど、美咲さんは
手に汗を握っていた。
不安なのは俺だけではない。賭けの対象にされている美咲さんも、
俺以上に不安を抱えているという事か。
﹁了解した。投じた後にベットする。先に賭けても後に賭けても同
じだからな﹂
1417
俺にはまだ美咲さんがいる。不利になった訳じゃない。
乃江さんと美咲さんは心を通じ合わせる事が出来る。不安要素は
無い。
﹁続けようか﹂
出来るだけ平静さを装い、俺はチップを一摘みして乃江さんの動
きを待った。
ダニエルは笑いながらチップを手の上で弾ませ、乃江さんに目配
せして見せた。
乃江さんは再びリールを回転させ、人差し指で玉を固定し、円周
に沿うように玉を投じた。そして無表情で立ち、何食わぬ顔で澄ま
して立っている。
俺は黒に投じようとして、チップをそっと指で滑らせた。しかし
美咲さんが拒絶するように、キツく俺の手を強く握ってきた。
﹁︱︱赤﹂
迷う素振りを見せつつ、チップを赤に配置し、ダニエルの動向を
窺った。
More
Bet
Please.﹂
ダニエルは迷う事無くチップを放り投げ、ゼロの位置に配置した。
﹁No
淡々とベット終了の合図を送り、乃江さんは姿勢を正して目を閉
じた。
ふとテーブルの上のグラスに目を落とすと、シャンパンに波紋が
立っていた。。
ちっ⋮⋮、これもラビットフットのパワーなのか、微妙な揺れが
船体を襲っている。
1418
この船の横揺れ防止装置は、コンピュータ制御の加速センサーと
フィン・スタビライザー、多少の揺れは無効化出来る筈なのに。
これには流石の乃江さんも、ピクリと眉を動かした。
この船のスタビライザーを無効化するパワーって事は、外の波は
かなり高いと言う事。勝利の為には天変地異をも発生させると言う
事か?
﹁ちっ﹂
船の揺れで玉がイレギュラバウンドを起こした。乃江さんも片目
を閉じ口惜しさを滲ませている。
玉は転々とリールを飛びまわり、まるで予定調和のようにゼロの
位置へと移動していく。
ダニエルがニヤリと口元を歪ませ、俺は歯軋りをするしかなかっ
た。
﹁︱︱っ﹂
まさにゼロの位置へ玉が入ろうとした瞬間に、船が大きく揺れ真
横にある黒の26で停止した。
俺は首の皮一枚で安堵のため息を吐き、そっとダニエルの表情を
窺った。
ダニエルは目を見開き、信じられないと言った表情をして、慌て
てポケットに手を突っ込んだ。
そして何度も何度もラビットフットを握り直していた。
そんなダニエルの背後、遥か遠くに真琴が立ち、両手を振ってブ
ロックサインを送っている。
両手の指で丸を二つ作り、顔の前に持ってきた。なるほどメガネ。
山科さんか?
箒を掃く動作とその箒に跨る素振り、むう、宮之阪さんの事ね。
1419
指を上に立て、合掌のポーズをして、理解不能なポーズをしてい
る。
真琴は俺のキョトンとした表情を見て、落胆のゼスチャーを見せ
た。そして口をパクパクと動かして説明をして見せた。
﹁なるほど⋮⋮、さすが宮之阪さん﹂
土の属性を持つラビットフットは、海上を航行する船の上では効
力が半減している。周りは海だし陸地が無い場所だからな⋮⋮。
山科さんが、周囲の風属性を高め、宮之阪さんが火属性を高めて
いる。
強い水︵海︶・風・火の属性に妨害されて、ラビットフットの効
力は弱まっている⋮⋮と。
しかし完全に遮断は出来ず、不安定な状態が精一杯である。
なお高波が船を襲っているのは、災害レベルの霊力放出の為仕方
なし?
それじゃあ、乃江さんのコントロールも役に立たないじゃないか?
ビリビリと船体が揺れ、グラスの中でシャンパンが大きく波打っ
ている。
乃江さんは努めて冷静さを装い、リールを回して玉を走らせた。
美咲さんの手が俺の手を離れ、優しく肩に手を置いた。
﹁カオルさんに任せます﹂
この振動と揺れでは、決め打ちをする事が出来ないと判断したの
だろう。
乃江さんも背を向けて玉をコントロールする事を諦めた。
黒か赤か二択なのだし、ゼロにベットするダニエルよりは確率が
上だ。
俺は根拠の無い自信に後押しされ、チップを一つベットした。
1420
﹁黒﹂
ダニエルはチップを一つ摘んで、いつもの通りに放り投げた。
てっきりゼロに一点張りするのかと思いきや、差し出した手は違
う場所へと伸びた。
﹁赤﹂
ラビットフットの効力に疑いを持ったのか、ゼロではなく赤に賭
けて来やがった。
これでは確率は五分五分、完全にラビットフットを封じ込めてい
ない以上、助力で勝るダニエルが有利。
緩まるリールの回転と、跳ね回る玉の動きを追いつつも、負けを
確信して唇を噛んだ。
転々とリールを飛び回る玉が、リールの停止を待たずに、ある数
字の位置に収まった。
赤の目に転がり落ちる光景を見つめて、美咲さんが目を閉じてギ
ュッと手を強張らせた。
そしてリールはゆっくりと回転を緩めいく。
完全にリールが止まりきる寸前に、俺の頭上に声が響き渡った。
﹁カオルはん、ユカ姉さんの命令で飛んできたで∼﹂
見上げる頭上には、白のメタボ体型。風の精霊グラビティがニヤ
リと笑い、手に持ったラビットフットを俺に手渡した。
ラビットフットを手にした瞬間に船が大きく揺れ、シャンパング
ラスが倒れて床に落ちた。
赤の18に収まっていた玉がフワリと跳ね、隣の黒に22へ音も
無く移動した。
1421
そして完全に止まりきったリールを見つめ、乃江さんが力強くコ
ールした。
﹁黒、22﹂
ダニエルの手元にあった小切手を、一枚一枚乃江さんが手で拾い
上げ、俺の前にポンと置いた。
そして何事無かったかのようにリールの横に立ち、ニコリと微笑
んだ姿を見て勝利を確信した。
空をブーンと飛び回るグラビティは、俺の隣に立つ美咲さんの肩
へ着地した。
ダニエルはしばし呆然としていたが、俺の手に収まったラビット
フットを見つめ、しきりにポケットの中を探っている。
﹁お探し物はコレですか?﹂
目の前で揺らして見せたウサギの足に、激高したダニエルが掴み
かかってきた。
しかし俺が身構えるより早く、ダニエルはバランスを崩して転倒
した。あるはずの無いバナナの皮に足を滑らせて⋮⋮。
﹁これもラビットフットの効力だとすると、とんでもないアイテム
だよな﹂
術者を幸福にするアイテム。敵対する者には不幸が襲う⋮⋮か。
攻撃が跳ね返って来ると聞いていたが、あながち誇張ではないの
かも知れない。
この効力まざまざと見せ付けられ、俺は身震いがしてきた。
﹁もし万が一負けた場合、美咲さんが部屋でフルボッコにする案、
1422
かなりヤバイ選択肢だったような気がします﹂
隣で苦笑していた美咲さんも、表情を強張らせて身震いした。
勝負を受けろと指示した筆談、次に背中に書かれた言葉は﹃フル
ボッコ﹄だった。
﹁しかしパンツ無しで働かないグラビティが、よくもまぁ⋮⋮﹂
こいつの燃料はずばり女性のパンツ。それも美人のパンツに限る
というから性質が悪い。山科さんが﹃恥ずかしい﹄って嘆いていた
ぞ。
そんな俺の言葉に、グラビティが指をチッチと動かし、ニヤリと
笑って口を開いた。
﹁前人未到、難攻不落、現代のアルカトラズ、ガードがメッチャ硬
い拳法姉さんのんや。凄いやろ?﹂
拳法姉さんって⋮⋮、もしや。
俺の目がディーラー姿の乃江さんに注がれた。乃江さんもキョト
ンとした顔で、頭の上にハテナマークを3つ浮かべている。
﹁しかも今履いてる奴や﹂
﹁マジで?﹂
﹁コラ∼、勝手に人の下着で取引するな∼!﹂
グラビティに掴みかかる乃江さんと、素早く手を掻い潜るグラビ
ティが戦闘モードへと突入した。
それを見て、俺と美咲さんがため息を吐いて天を仰いだ。
1423
﹁そういえば、カオルさん。手を広げて見せて下さい﹂
ラビットフットを持つ手を指差し、美咲さんが真面目な顔をして
言った。
俺は言われた通り、手を広げ掌に収まっていた、小さなウサギの
足を見つめた。
﹁そのまま、そのままですよ﹂
何処から取り出したのか、竹の箸と小さなビニール袋を手に持ち、
震える端先でラビットフットを摘み上げた。
そして散歩するペットの後始末をする様に、ビニール袋に放り込
んで口をキツク縛った。
﹁え?、なんすか? その爆発物でも触るような怪しい動きは?﹂
ビニール袋の中で転がるウサギの足を見つめ、足元に転がってい
るダニエルに目を落とした。
そしてクスリと笑いもをせず、神妙な顔で美咲さんが囁いた。
﹁人に訪れる幸福は一定量と言われています。呪術アイテムで幸福
を増やせば、その反動で不幸が訪れます﹂
なるほど⋮⋮。
だからさっきダニエルは、バナナの皮で滑ったんだな。石に躓く
より不幸だよな⋮⋮バナナって。
儲けた分だけ不幸が訪れると言うことは、ダニエルは一生不幸体
質になると言う事か?
哀れなり、なむ∼。
1424
﹁他人事の様に笑ってますが、カオルさんはラビットフットを使っ
て、小切手の山を手に入れたのを忘れましたか?﹂
手に持った小切手、その一枚一枚の額面を確認して、顔面蒼白に
なった。
俺ってばダニエルと同罪じゃないか? バナナ、踏んじゃう?
足元をゆっくりと確認し、さりげなく置かれたバナナの皮を見つ
け絶望した。
﹁美咲しゃん⋮⋮、どうしましょう⋮⋮、バナナで滑って、豆腐の
角で頭をぶつけてしまいそうです。今ならチワワにだって襲われる
自信があります!﹂
何故ダニエルが立ちあがらずに、頭を押さえて床に伏せているか
納得できた。
一歩でも動けば、死が訪れるからだろう。頬を伝う汗が顎に溜ま
り、ポトリと床に落ちた。
﹁簡単な事ですよ。幸福を手放せば相殺されます﹂
そう言って俺の手から小切手の束を取り、床に伏せるダニエルの
頭の上に置いた。
俺は恐る恐る足元を覗き見て、バナナの皮が消え失せているのを
確認した。
美咲さんはダニエルに向かって、取引を持ちかけるような口調で、
淡々と話し始めた。
﹁貴方もこの小切手を放棄するのがベター。少しは不幸を軽減出来
ると思いますよ?﹂
1425
ダニエルはうつ伏せたまま、頭をしきりに上下させている。
美咲さんは防犯カメラへ向かい、手に持った小切手を突き出して
合図を送った。
﹁まだまだ余罪がありそうだから、弁護士を雇って財産の処分を依
頼するのね。そして新月の夜までそうやって身を守りなさい﹂
新月の晩まであと1週間以上もある。
現金化して使ってしまったお金もあるだろうし、それまで生きて
いけるのだろうか。
美咲さんは駆け寄ってきたジャンさんに小切手を手渡し、手をパ
ンパンと掃い厄払いをした。
﹁この人に電話を貸してあげて、弁護士を雇って財産の処分をさせ
てください。カジノへの返金を約束させてあげれば、不幸は軽減で
きる筈です﹂
ジャンさんは黒服に命じ、横たわるダニエルを担架に乗せて運び
去った。
そして俺に向かい、堅く握手を交わして表情を崩した。
﹁三室さんに頼んで正解でした。監視室で手に汗を握りましたよ﹂
喜ぶ顔のまま美咲さんの手を取り、にこやかに感謝の意を表した。
しかし美咲さんは、表情を変えず握手していた手を離し、ポケッ
トから電卓を取り出してポツポツとキーを打ち始めた。
﹁正体を暴く事秒給50ドル、ギャフンと言わせる事50ドル、そ
れに私達は小切手を取り返しましたよね?﹂
1426
ここで初めて満面の笑みを浮かべ、電卓の数字をジャンさんに突
きつけた。
勝敗を決するまでに要した時間、1時間46分。63万6千米ド
ル。日本円で6千3百60万円。
電卓に表示された金額は、その金額を遥かにオーバーした数字だ
った。
﹁笑って誤魔化そうかと思ったが⋮⋮、君の仲間はしっかり者だね﹂
俺に向けた満面の笑みは、偽りの笑みだったのかよ。ジャンさん
そりゃ無いです。
ポケットから小切手帳を取り出して、スラスラっと数字と署名を
記入した。
﹁私の顧客の中には、こういったオカルトで頭を悩ませている方が
大勢おられます。ご紹介しても構いませんか?﹂
美咲さんに小切手を手渡して、再び握手の手を差し出した。
小切手のサインと数字を確認した美咲さんは、ニッっと笑ってそ
の手を握り締めた。
﹁ジャンさんの顔に泥を塗るような事は無いと思います。安心して
ご紹介ください﹂
二人の笑みは、それぞれ違う種類の笑みなのだと感じた。
そして退魔士はこうやって知名度を上げていくのだと思わされた。
6人の小さな小隊が世界へ進出するキッカケになると良いのだけ
れど。
1427
﹁カオルさん、アレ﹂
握手を取り交わした美咲さんが、遠くでブロックサインを送って
いる真琴を指差した。
上のデッキに通じる階段の下で、顔面蒼白の真琴が腕を振り、俺
にメッセージを伝えている。
﹁勝負は決しましたか? 上の二人がキレそうで、外は天災一歩手
前の状態です⋮⋮。だって﹂
ははは、まだ山科さんと宮之阪さんが頑張ってるんだ。
外の面々には伝わってなかったか。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
美咲さんと俺は見つめ合って、しばし硬直した。
その硬直を解き放ったのは、強い衝撃と船の揺れ、客達の絶叫す
る悲鳴だった。
1428
﹃黄金海岸 カジノへGO 06﹄︵後書き︶
少々思うところがあり、NNR︵ネット小説ランキング︶から撤退
させていただきました。
今まで影から応援していただいた方々、感謝の気持ちとお詫びの言
葉を残したいと思います。
今までNNRから来ていただいていた方にはご不便をおかけいたし
ます。
これからもよろしくお願いいたします。
1429
﹃Surfers
Paradise﹄
一夜明けてカジノ船を後にした俺達は、ホテルへと戻りしばしの
休息を取っていた。
部屋の窓側に置かれたソファに座り、コーラの缶を開け喉を潤し
た。
昨日のカジノでの騒ぎも、真琴の機転により転覆を免れ、無事な
んとか生還する事が出来た。
真琴曰く、
﹁竜巻が天高く海水を巻き上げ、周りは火の海で海水が沸き立ち、
物凄い高波が押し寄せ、靄の立ちこめる⋮⋮﹂
とまあ、涙ながらに状況を話してくれたのだが、正直怖いから話
半分に聞いておいた。
五万トンクラスの船を揺らすパワーも凄いが、もし転覆したら弁
償なんて話になったのだろうか。
あの船の建造費は不明だが、同じサイズの船で考えると、300
億円は下らない。
﹁おにいちゃんってば、いつもあんな事しているの?﹂
ツインのベット、その内の一つに横たわり、頬杖をついてリラッ
クスムードの葵。
ポテチの紛い物をポリポリと食べながら、俺に問いかけてきた。
ぶっちゃけあんな仕事は初めてなのだが、普段の仕事っぷりを知
らない葵にとっては、あれが全てなのかも知れない。
﹁アレは特殊な事例、いつもは⋮⋮﹂
1430
いつもは何しているのだろう?
見回りと称して街の浄化をしたり、イレギュラで降りかかって来
る、オカルトな事件を解決してるだけだ。
魂喰いの件を放置して、旅行なんて行ってて良いのだろうか。
﹁美咲さん⋮⋮、旅行の事をとやかく言う心算はないけれど、こん
なにのんびりしてて良いのでしょうか?﹂
壁際の机に座り、電卓を叩きまくっている美咲さん。
俺の問い掛けに対して、ムクリと顔を上げた。
俺に向けられた表情から、言葉を濁したその意味を察している様
に窺える。
﹁この旅は逃避行ではありません。むしろ攻撃に転じている⋮⋮と
思って下さい。そのうち分かります﹂
そう言って再び電卓とメモに没頭した。
美咲さんの横に立つ乃江さんも、美咲さんの言葉に苦笑している
様だ。
恐らくその理由を知っていながら、口には出せないと言いたげな
表情だった。
美咲さんと乃江さん、この二人が思慮を巡らせてるなら、あえて
苦言を呈する必要もない。
口に出せない理由も理解できるのだ。
魂喰いは牧野がファントムである事を知り、その上バイクで移動
している時を狙い、車で襲ってきた。
実際バイクで移動する目標に対し、車で追う事は技量云々を抜き
にして難しい。何故ならばバイクは車の間を抜け、追い越しが可能
だが、車はそのような事は出来ない。
1431
しかし魂喰いはそれをやってのけた。その事から鑑みるに魂喰い
は、何らかの能力を手に入れたのでは無いかと推察している。
特に遠隔地の状況を把握する能力が、格段に向上しているように
思える。
調査能力が心を読むレベルだとすると、口を閉ざしても無意味。
しかし盗聴レベル、行動トレースレベルだとすれば、公言しない
方が事を有利に運べる。
美咲さんもその辺り、慎重になっていると思われる。
美咲さんと乃江さんの思慮の深さは、信用を超えて信頼に値する。
二人を信じてみようと思う。
﹁そういえば葵はルーレットで大勝ちしていたな。いくら儲けたん
だ?﹂
俺は納得の意味も含めて話を変えた。
撃沈し干乾びた乃江さんを横目に、葵は一人勝ちを収めていた。
赤か黒の簡単な賭けをやっていた様子だが、獲得していたチップ
の量は凄かった。
﹁んー。これくらい﹂
指を二本立ててVサインを送った葵。その指にしがみつく様に、
珊瑚と撫子がぶら下がっていた。
二本という事は2万、20万、200万。チップの量から想像す
るに2万ドル程か? ビギナーズラックにしては出来すぎている。
﹁撫子がこういうの得意なんだって。言う通りに賭けたら殆ど正解
だったよ﹂
撫子⋮⋮? その名前を聞いて、俺は冷や汗が出てきた。
1432
撫子の得意とするのは、占い⋮⋮。もしかしてチートではないの
だろうか?
ジト目で睨む俺の視線に耐えかねて、撫子が大慌てで珊瑚の後ろ
へ隠れた。珊瑚は撫子を庇うように身を盾にし、俺にアカンベーを
して見せた。
こいつら⋮⋮、事の重大性を理解していない。
ジャンさんすいません。うちの妹も霊能イカサマ師でした。指名
手配だけはご勘弁を⋮⋮。
﹁まあいい。金銭感覚が狂って、無駄使いするんじゃないぞ﹂
﹁はぁい﹂
まあシッカリ者の葵の事だ、そのへんは今更言わなくても貯金し
そうだ。
そして貯金があるにもかかわらず、親にシッカリお小遣いを貰う
タイプだからな。
﹁勝負の世界は厳しいです。私は賭け事に向いてないです﹂
ベッドに横たわる山科さんと宮之阪さん、二人の間に座って宮之
阪さんの肩を揉む真琴。
ブラックジャックに興じた時を思い出しているだろうか、しょん
ぼりと俯いてしまった。
そして無言で山科さんに向き直り、セッセと肩揉みを開始した。
﹁今回のMVP候補は間違いなく宮之阪さんと山科さんだよね。二
人が居なければ負けていただろうし、美咲さんも危なかった﹂
安易な作戦は全滅のモトだ。
1433
部屋に連れ込まれても、美咲さんなら大丈夫とタカを括ったが、
実際負けていればどうなっていた事か。
バナナで転んで昏倒し、その間にダニエルが⋮⋮。ああっ! 想
像したくもない。
﹁せやな、もしもの時はどうするつもりやったんや? 美咲﹂
よっこらしょと身を起こし、美咲さんに意地悪い微笑を浮かべた
山科さん。
美咲さんは電卓を机に置いて、平然とした表情でクルリと振り返
った。
﹁術者に危害を加えない限り、ラビットフットは発動しない。 方
法はいくらでもあります。﹂
乃江さんの胸元を指で差し、それに気がついた乃江さんが、時空
歪曲ペンダントを取り出して見せた。
なるほどな⋮⋮逃げるという手段もアリか。そういう場合の戦術
的撤退は有効手段だな。
﹁昨夜の収支の計算が終了しましたよ﹂
電卓の横に置いてあったメモを手に持ち、美咲さんが口を開いた。
消耗が激しく横たわっていた宮之阪さんも身を起こし、興味津々
で見つめている。
たーさい
﹁秒給100ドルで就業6360秒、小切手回収にあたり、上乗せ
金額は100万ドル。作戦中に大小で勝利した18万ドルです﹂
おおっ!と周囲から歓声があがり、ペチペチと力ない拍手が巻き
1434
起こった。そしてすぐさま拍手はフェードアウトして掻き消えた。
死んだ魚の目に戻った宮之阪さんが、首をコテッと倒しベッドに
横たわった。
山科さんも再び真琴に肩を揉まれ、あ∼う∼と、マッサージ中独
特の唸り声を上げている。
二人とも霊力・魔力を消費して疲弊してるなぁ。
﹁美咲さん、質問。小切手代100万ドルという具体的な理由は一
体?﹂
俺がスッと手を上げて質問する演技をして見せ、美咲さんは指で
クルクル回していたペンを、ズイっと俺に向けてニヤリと笑った。
きっと聞いて欲しかったんだろうな。全員疲れてリアクション薄
いから、物足りなかったに違いない。
﹁拾得物の謝礼は10分の1が定番。ですのでこのような数字にな
りました﹂
なるほど。ダニエルの持っていたのは1000万ドルって訳か。
ジャンさんのカジノからの損失だとすると、不渡り起こしてもお
かしくない金額だ。
小切手が手元に戻ってきて、内心ホッとしてるんじゃないか?
﹁合法カジノと違い、あの船は高額収入申告が不要、有難い事です
ね﹂
それってまさか所得税を払わないって事? マルサの女に査察さ
れるのではないでしょうか。
良識を持った人間は、この場では俺と真琴だけだったようだ。葵
はキョトンとしてお菓子を食べ、その他全員はニヤリと笑ってた。
1435
﹁船の帰港が予定より早かったから、ホテルで朝食を摂らないとい
けなくなりましたね。皆さんご一緒にいかが?﹂
船の上でほとんど食事を口にしていない美咲さん。
よくよく考えると機内食から、ろくに食事をしていないのでは無
いだろうか?
﹁俺もご一緒します。葵も行くよな? 真琴はどうする?﹂
葵は複雑そうにポテチを見つめ、意を決したように封をして立ち
上がった。
﹁うちも行くで∼。栄養付けんと、寝てても回復せぇへん﹂
﹁同意﹂
築地の冷凍マグロから一変し、山科さんと宮之阪さんが復活した。
真琴はそんな二人を見つめ、嬉しそうにコクリと頷いた。
フロントのあるフロアに、ビュッフェ形式で英国式の朝食を食わ
せる店があり、俺達はその店に陣取った。
丁度朝食の時間という事で、店の中には朝食を取っている大勢の
宿泊客がいた。
物怖じをしない葵は、乃江さんと真琴を引き連れメニューの並ぶ
場所へ走っていった。
1436
俺は美咲さんと山科さんと席を立ち、ゆっくりとメニューを見て
回った。
﹁宮之阪さんの部屋で食ったカリカリベーコンにハマってしまって
⋮⋮﹂
朝に肉という習慣がなかったのだが、アレはアレで理に適ってい
る。
朝と昼としっかりと食べる習慣は、働き盛りや若い人には向いて
いると思う。
﹁時差ボケを治すには、朝に肉を食べて陽に当たると良いと言いま
すからね。徹夜明けにもお肉はピッタリですよ﹂
美咲さんは微笑んで、ベーコン二枚と茹でた腸詰めを皿に盛り付
けた。
そして俺の皿へもベーコンを取ってくれて、手渡してくれた。
﹁炭水化物は眠りを誘い、肉類のタンパク質は覚醒を促すのだそう
です﹂
欧米人のビジネスマンがパワーブレックファーストって、飯食っ
て仕事するらしい。時間が惜しいというより覚醒する意味が強いの
だろうか?
今日はサーファーズパラダイスを一回りしてみようと思うし、モ
リモリ食うか。
そう思って何気なく山科さん達の方を振り返った。
﹁マリリン、肉、肉、肉。野菜は後や﹂
1437
﹁ベーコンもう少し⋮⋮﹂
山科さんがテキパキとベーコン、ウインナー、ハムを宮之阪さん
の皿に盛り付け、自分の皿にも同量を盛り付けていた。
漫画とかでよく見られる表現、てんこ盛り。実際に見る事になろ
うとは⋮⋮。
野生の動物は、体の不調時には食って治すらしいが、二人は正に
野獣になっているな。
﹁オカワリすれば良いのでは?﹂
周りの観光客がドン引きする中、俺は申し訳程度に苦言を呈した。
しかし二人の野獣は、ギロリと一睨みするだけで、言葉を発しな
い。怖ええ⋮⋮。
﹁カオルさん、パンはクロワッサンで良い?﹂
美咲さんがクロワッサンを二つ、バターを添えて手渡してくれた。
美咲さんってば、俺の嗜好を把握してるなぁ⋮⋮。ふわふわ、ホ
カホカのクロワッサン、好きなんだよな。
甲斐甲斐しく恋人の様に接してくれる美咲さんに、ほんわか幸せ
な気分にさせられる。
棘のない美咲さんは最強だなぁ⋮⋮。
そんな事を考えつつ席へと戻り、コーヒーで口を湿らせてクロワ
ッサンを一千切りした。
ほんのりとパターの味、噛み締める毎に湧き出てくる甘み。むぅ
ぅ⋮⋮、至高の時だ。
ふと視線を感じて頭を上げると、目の前で美咲さんがクスクスと
笑っていた。
1438
﹁ごめんなさい。本当に嬉しそうに食べてるなぁと⋮⋮﹂
俺は手に持ったクロワッサンを口に放り込み、微妙に感じる甘み
を堪能した。
﹁美味いものを食うと幸せになりますよ。俺が変な訳じゃないです
よね?﹂
見つめられて感じる照れを隠すように、もう一千切りクロワッサ
ンを頬張った。
美咲さんはキョロキョロを周囲を窺い、身を乗り出して囁いた。
﹁話を蒸し返すようですが⋮⋮、昨日のアレ、﹃初めて﹄なのです
よ﹂
他のメンバーがテーブルに戻って来てない事を確認していたのか。
俺はなんと返答して良いか分からず、ピキリと硬直してしまった。
アレといえばアレ。事故とはいえ美咲さんとキスをしてしまった
時の事だ。
﹁い、あ、そ、せ⋮⋮︵いや、あの、その、責任とか?︶﹂
ろくろく言葉が見つからず、クロワッサンを飲み込んで、コーヒ
ーで心を落ち着かせた。
良く良く考えると美咲さんはうら若き乙女、その上清廉なる守人
で生き神様。もしかして知らず知らずに穢してしまったか?
嫌な汗が噴き出し、まるで針のむしろに座っている気分にさせら
れた。
美咲さんは神妙な顔で、人差し指を立ててシッと合図し、目配せ
をしてみせた。
1439
美咲さんの見つめる先、俺の背後からテーブルに近寄る人の気配。
俺は口を閉ざして冷や汗を拭った。
黙りこくる二人の見守る中、宮之阪さん山科さんが山盛りの皿を
テーブルへ置き、再びビュッフェコーナーへ向かっていった。
﹁そんな事で男の人が慌てたらダメです。悲しくなるじゃないです
か﹂
人が居ない事を確かめつつ、美咲さんが口を尖らせた。
フォークで腸詰めを突き刺し、落胆の表情で拗ねた美咲さんを見
つめ、俺もお返しの意味で言い返した。
﹁俺も﹃初めて﹄です﹂
同じ立場だという意味で口にしたが、美咲さんはどう取り違えた
のか、嬉しそうな顔をして俯いた。
フォークで何度も何度も腸詰めを突き刺し、俯いたまま茹った様
に真っ赤になっていた。
﹁どうしたんや? 美咲。 喉でも詰まらせたんか?﹂
良いタイミングで席に戻ってきた山科さんが、美咲さんの挙動を
見て怪訝そうな表情を浮かべている。
宮之阪さんも両手一杯の皿をテーブルに置き、美咲さんの顔を覗
き込んだ。
俺は素知らぬ振りをして、明後日の方向を眺めながらコーヒーに
口を付けた。
今度人のいない時にちゃんと謝ろう⋮⋮。
﹁カナタ、トウカ。二人の分取って来たったで﹂
1440
山科さんが小ぶりなケーキ皿を差し出し、カナタ達は頭から飛び
降りケーキに群がった。
明らかに二人のキャパシティを超えた物量だったが、葵と乃江さ
んに引っ付いていた紅、東雲、珊瑚、撫子の戦線介入で、ものの見
事に平らげてしまった。
﹁カオルは食後に予定はあるか?﹂
フォークとナイフを置いた乃江さんが、紅茶に口を付け俺に話し
かけてきた。
食後ねぇ⋮⋮、散歩がてらに街を一周しようと思っていたが、取
り立てて目的がある訳でもない。
部屋でゴロゴロするのが嫌なだけなのだ。
﹁土産を見に行く位ですかね。特に用事はないですよ?﹂
二人のやり取りを興味津々で見つめているその他大勢。
その視線を気にすることも無く、乃江さんが口を開いた。
﹁久しぶりに手合わせしてみないか?﹂
葵がテーブルに突っ伏し、その他大勢が安堵のため息を吐いた。
みんなのリアクションが理解出来ないのだが、どうせ近接戦闘馬
鹿と思われてるのだろうか。
それにしても乃江さんの提案は有難い。最近自主トレばっかりで、
物足りなかったのだ。
﹁良いですね、ちょっと本気になってみたいですね﹂
1441
元々鬼神のように強かった乃江さん。
そんな彼女が紅との修行で、顔を腫らし血を流して、這いつくば
って泥を舐めていた。
どれだけ進化を遂げたのか、戦闘狂じゃなくても気になる所だと
思う。
俺は飲み終えたコーヒーカップを置き、それに呼応するように乃
江さんが立ち上がった。
チョコレートで口の周りを汚したカナタとトウカが二人を見つめ、
最後の一欠片のケーキを口に放り込んだ。
ホテルから海に向かい、俺達は閑散とした砂浜に辿り着いた。
この季節南半球は冬、亜熱帯のゴールドコーストとはいえ、日の
差さない午前の気温は20度ほどしかない。
午後になればサーファー達で賑わうのかも知れないが、午前の浜
辺はプライベートビーチの様に静かだった。
俺が屈伸や柔軟をする横で、乃江さんが中国拳法の套路を踏み、
くれない
緩やかな連続動作を見せている。
乃江さんの頭の上では、紅が満足げに見下ろし、その技の完成度
を俺達に伝えている。
時折見せる緩やかな動作は太極拳、しかし良く知るゆっくりとし
た動作ではなく、時に機敏に、時に力強く、激しくもあり柳のよう
に静やかでもあった。
﹁お待たせした。試合おうか﹂
木目の細かい砂浜は、体重移動を行うだけで踝まで埋まってしま
う。
1442
乃江さんはそんな悪条件を、意に介さない様に套路を踏んだ。余
程のバランス感覚を持ち得ないと出来ない芸当だ。
これは気を抜くと一発で終わってしまうかも知れない。
俺は何時にも増して、気を引き締めた。
﹁いつでも準備出来ていますよ﹂
乃江さんとの距離は3メートル、少し遠間で身構えて立った。
乃江さんに教わった基礎だけじゃない。宮之阪さんや山科さん、
美咲さんに手解きを受けた技もある。
俺は腰を落とし、踏み込んで乃江さんに向かって行った。
総合格闘技でいうテイクダウンを奪う為のタックル⋮⋮。乃江さ
んは瞬時に腰を落として前かがみになり、セオリー通りに体重移動
を行った。
﹁読み通り!﹂
乃江さんの弱点は良くも悪くも素直な所。
知識が体を動かして、常識から外れた動作をしない事だ。
俺は乃江さんの手前で砂浜に手を付き、反転するように蹴りを入
れた。
前転前受身と蹴りを連動させた動きは、美咲さんに教わった浴び
せ蹴りだ。
踵を使い相手の頭や肩に蹴りを入れ、普通の蹴りとは違い全体重
を乗せる事が出来る。
前かがみになった乃江さんは、後ろに引く事が出来ずに左右か前
に出るしかない。
﹁甘い﹂
1443
くれない
紅の声が響いた。
振り上げた踵は乃江さんに掠る事もなく砂浜に叩きつけられ、回
転の勢いそのままに前転し、背後にいる乃江さんを振り返った。
乃江さんは最初に踏み込んだ姿勢のまま立ち、ここで初めて新し
い足跡を砂浜に残した。
﹁嘘⋮⋮、すり抜けた?﹂
サイズの違う乃江さんの靴跡は、俺のサイズと一目瞭然。
明らかに回避をした足跡が残っていないのに、幻影をすり抜ける
様に技を無効化された。
驚いているのは俺だけじゃない、当の本人が一番驚いているよう
に見える。
その一瞬の隙を狙うべく、即座に立ち上がり接近戦に持ち込んだ。
乃江さんと俺の距離は、歩幅で半歩。大技狙いをせず、出来るだ
け小さく、コンパクトに当てていく。
掌打で顎を狙い、もう一方の手で無防備な乃江さんの手を掴んだ。
掴んだ腕に捻りを入れて体を固定、動きの止まった顎を掌打する。
山科さんから教わった古流の術。えげつないまでに実戦的な技の一
つだった。
しかし乃江さんは捻られた手に逆らわず、逆にその手を軸にして
前転を極めた。
﹁にゃんこ先生みたいな動き﹂
﹁変な例えをするな﹂
動きはまるで山猫のように、俊敏でしなやか。
目の前で一回転され、逆に体勢が苦しくなったのは俺の方だ。
1444
﹁綾乃姉さんと比べてどうだ?﹂
乃江さんは俺を通して、姉である綾乃さんを見ている。
剛拳一本槍だった以前の乃江さんと比べ、格段にディフェンス力
が上がっているし、身のこなしに隙が無い。
俊敏性でいうと互角⋮⋮、いや、少し落ちるか。
﹁綾乃さんはもっと速かったですね。 回避する動きは目で追えま
せんでしたし﹂
その言葉を聞いて落胆の表情を浮かべるかと思ったが、逆に微笑
み嬉しそうな表情を浮かべた。
﹁だろうな﹂
掴んでいた俺の手を逆に握り返し、軽く捻りこむ様に力を入れた。
たったそれだけの動作で、俺は体を反転させられ、気が付くと砂
浜に叩きつけられていた。
﹁カオルの捻りは平面的すぎるんだ。引いて捻る、押して捻るとい
った崩しを入れないと﹂
﹁う⋮⋮了解!﹂
山科さんに言われた言葉、そのままのセリフで叱責された。
やっぱ付け焼刃ではこの人に通用しないか。
しかしやられっぱなしも癪だもんな。ここは宮之阪さんに聞いた
情報、﹃アレ﹄を試してみよう。
﹁あっ! 乃江さんの肩に毛虫が!﹂
1445
なにもない肩を指差して、驚いた演技をして見せた。
乃江さんはギョッとした表情で飛び上がり、慌てて服を引っ張り
肩の辺りを見た。
﹁乃江さんの弱点は、むいむい︵虫︶、その情報に偽りなし﹂
体勢の崩れた乃江さんの腕を掴み、身を縮めて背中に乗せた、そ
して跳ね上げるように一本背負いを決めた。
一本背負いは小兵がやると決まりやすいが、俺の様な上背がある
と決まりにくく、その上返し技を貰いやすい。
しかしパニックになった乃江さんには、そのような気遣いは無用
だった。
体重の軽い乃江さんは、何の抵抗も無く空へ舞った。
その様子を見つめて、ホッとしたようなガッカリとした様な、複
雑な気分にさせられた。
﹁やはりにゃんこ先生だな﹂
乃江さんは空中で身を翻し、両手両足で着地した。
そして凄まじい怒気を俺に向けて、ジト目で睨みつけた。
﹁カオル⋮⋮、人には触れてはいけないモノがあってな。それに触
れてしまうと引くに引けなくなるのだ﹂
某漫画に出てくる真田幸村のようなセリフを吐いて、どす黒いオ
ーラを身に纏った。
そして沈みかけの船から逃げるように、トウカとカナタが俺から
脱出し、遠くの方へ走っていった。
1446
﹁乃江さん、落ち着いてくださいよ。話し合えば平和的解決が出来
るはずです﹂
﹁時、既に遅し﹂
くれない
俺の目の前で指を鳴らす乃江さん、そして頭の上で薄ら笑いを浮
かべている紅がムカつく。
しかし、俺にはまだ秘策が残されているのだ。
﹁そんな余裕で良いんですか? 足元にフナムシが寄って来ていま
すよ?﹂
﹁!﹂
再び飛び上がりパニックになったのを見計らい、俺は背を向けて
逃げ出した。
乃江さんは何度でもこの技に引っかかるってのは本当だった。
遠くで俺を呼ぶ声が聞こえるが、今足を止めることは死を意味す
る。
全力で逃げほとぼりが冷めるまで待つのだ。
﹁カオルのバカ∼!﹂
浜辺に響き渡る乃江さんの声、そして必死で俺を追うカナタとト
ウカ。俺はそれらに目もくれず一目散に走り去った。
1447
﹃Surfers
Paradise﹄︵後書き︶
少々思うところがあり、NNR︵ネット小説ランキング︶から撤退
させていただきました。
今まで影から応援していただいた方々、感謝の気持ちとお詫びの言
葉を残したいと思います。
今までNNRから来ていただいていた方にはご不便をおかけいたし
ます。
これからもよろしくお願いいたします。
1448
﹃戦う女子中学生 01﹄
カオル先生と乃江さんが、浜辺で手合わせをしている﹃であろう﹄
時刻。
私は葵さんに連れられて、海岸通りを南向かい歩いていた。
乃江さんとカオル先生が席を立った時、後を追おうとした私を捕
まえ、葵さんはこう言った。
﹁真琴さん⋮⋮、もう少し空気読まないとね。こういう時は二人っ
きりになるお約束なの﹂
⋮⋮お約束ってなんですか?
いまいち納得できない私の顔を見て、葵さんがチクチクと説教し
始めた。
葵さんは私より一つ上の三年生。キツイ口調ではなく、下級生を
叱るお姉さま口調だった。
ついでに散歩するから付き合えと、引っ張り出されて今に至る。
けれど空気読んだからこそなのですよね。
二人の腕前も見たかったけれど、二人っきりにするのが嫌だった
のです⋮⋮。
お二人はお似合いのカップルっぽくって、ちょっぴり嫉妬してし
まうのです。
﹁おにいちゃんの彼女という事は、私の義姉候補。乃江さんは他の
方よりオクテだから、影ながら応援してるの﹂
早足で海岸通りを歩き、晴れ渡った空へ向かって、握りこぶしを
振り上げた。
言わせて貰うけど、乃江さんはオクテだからこそ最強なのだ。
1449
葵さんは乃江さんの無敵っぷりが分かってない。
武道の達人にしてキュートで爽やか。スタイルも良く、家事全般
はプロ級、その上カオル先生と同じバイク好き。完璧超人ですよ。
わたしは美咲小隊の中で、一番の恋敵だと思って要注意している。
男女の関係を意識していない二人が、いつしか恋に落ちるパター
ンです。⋮⋮ベタだけど。
﹁おにいちゃんは、真琴さんの事を気に掛けてると思うのね。家で
も良く話に出て来るし⋮⋮。だから今回は譲ってあげて﹂
︱︱なんと! 今、言われた事は本当でしょうか? 初耳ですよ。
そんな事言われると赤面してしまいます。
カァァと顔が上気し、耳まで赤くなっているのが分かります。
足を止めて頬を手で押さえている私を見て、葵さんが振り返って
目を細めた。
﹁そういう所がカワイイんだよね。なんだか腹が立ってくる⋮⋮﹂
今度はお姉さま口調ではなく、素の葵さんとしての言葉を頂戴し
た。
いやはや、今は何を言われても良い。天に昇るが如くハッピーな
気分ですから、少々ご機嫌を損ねても、気分はパライソですよ。
ニヤニヤ笑っている私の顔を覗き込み、葵さんがボソリと耳打ち
した。
﹁おにいちゃんがなんて言ってたか、知りたい?﹂
葵さんが小悪魔の微笑みで私に問いかけた。
私は一瞬思慮を巡らせ、首がもげるほど全力で上下させて、目を
輝かせながら肯定した。
1450
あおいさん
わんこ
私の前の小悪魔は、フッと鼻で失笑し、顎に手を当てながらポー
ズを取った。
﹁真琴ってさぁ、ドン臭いし、子犬だし、目を離すと知らない人に
連れて行かれそうだし⋮⋮﹂
期待したセリフは欠片も出て来ず、耳を塞ぎたくなるような悪口
ばっかりだった。
私は脱力して地面に突っ伏し、意図せず大粒の涙が零れてきた。
﹁あっ、ウソウソ。ドジで子犬みたいに元気、目が離せなくて、口
に出さないけど、お互い分かり合える⋮⋮ってね﹂
小悪魔の表情をした天使が舞い降りて、落胆していた私の手を握
り、力付けてくれた。
うぉぉっ、エネルギー充填120パーセントですよ。
﹁本当ですか?﹂
﹁嘘に決まってるじゃない﹂
﹁⋮⋮﹂
私は葵さんの性格を掴むには、まだまだ修行が足りなさそうです。
それにしても葵さん、飴と鞭の使い分けが絶妙です。頭がパニッ
クになりそうです⋮⋮。
﹁落ち込んでないで。行くよっ!﹂
私の手を取って力強く引っ張り、手近にあったお土産物屋さんへ
1451
突入した。
入ったのは雑貨屋さんではなく、オパールの専門店だった。どう
やらオーストラリアはオパールの最大の産地らしい。
第二位がメキシコらしく、私の頭の中でプレートテクトニクス理
ただ
論とゴンドワナ大陸説が否定された。
﹁何難しい顔してるの? 見るのは無料。楽しまないと損だよ﹂
ただ
そう言ってショーケースの指輪を見つめ、歳相応の羨ましそうな
表情を浮かべていた。
なるほど、見るだけなら無料か。言われてみればその通りかも知
れない。
どうにも私は同年代と感性がズレている。一般の中学生の楽しみ
方がよく分かっていない。
﹁むぅ⋮⋮、リングとか見てもよく分からないですよ。飾りっ気な
いですもん﹂
宝石が綺麗だとか、デザインがカワイイとか、それは分かる。分
かるんだけど、何処か他人事の様に思えてしまう。
有体に言うと、自分の飾り立てている姿が想像出来ないのだ。
葵さんは呆れたような表情を浮かべ、頭をポリポリと掻いて口を
開いた。
﹁あのねぇ⋮⋮、私達みたいな中学生が、高そうな指輪付けてて似
合う訳ないじゃない。こういうのは少し大人になった自分を想像し
て、頭の中で付ける物なの﹂
なるほど、未来の自分を想像するキッカケみたいな物か。
もやもやもや⋮⋮っと未来の自分を想像してみようか。
1452
背が伸びてユカさんやマリリンさん位になって、いっぱしのお洒
落が似合うスタイルになって⋮⋮
﹁ん? やっとるね。そうそう。大学生になったおにいちゃんが、
爽やかに微笑んで隣に立って⋮⋮、﹃真琴! 誕生日おめでとう﹄
ってプレゼントしてくれるのね。それがこのリング﹂
おおっ! リングが目の前に有ってリアルさを醸し出して来る。
そこで私がはにかんで、受け取って良いのか悩んでいると、カオ
ル先生がリングケースを開けて、私の左手をやさしく掴んで⋮⋮、
はわわぁ。
﹁ね? 楽しめるでしょ?﹂
ニッと微笑んだ葵さんが、やっぱり天使の様に見えてしまいまし
た。
葵さんは妄想を済ませた私の手を引き、店の外へ引っ張り出した。
そして次なる目標を探して、キョロキョロと辺りを見回している。
﹁あの雑貨屋さんにいってみよっか?﹂
指差す先には、アボリジニアートや工芸品を生業にしている店だ
った。
そして一歩足を踏み出した時、頭の上で寝転んでいた撫子がピョ
コっと跳ねて、大きな声を上げた。
﹁葵! 運気が低下中だよ。注意注意!﹂
その声を聞きつけ珊瑚も飛び起きた。そして双眼鏡のようなモノ
を取り出して、辺りをじっくり見回した。
1453
葵さんと居る楽しさが先に立ち、周囲に対し注意を払う事を怠っ
ていた。
﹁!﹂
商店街を西に2人、東に3人。明らかに私達を監視している人達
がいる。
突き刺すような視線。こんな分かりやすい監視を気付かないなん
て、私ってば馬鹿馬鹿。
﹁葵さん、出来るだけ自然に振舞いながら聞いてください。私達ち
ょっと危ない人達に監視されてます﹂
葵さんは出来るだけ表情を出さない様に努めていたが、ギョッと
した表情は隠せなかった。
そして反射的に振り返り、不審な動きをしている集団を見てしま
った。
﹁あちゃ⋮⋮﹂
監視者に尾行がバレた事を伝えてしまった。
明らかにそれまでと立ち居を変化させた男達は、口を真一文字に
閉ざし、こちらへと歩き出した。
﹁あやや⋮⋮、ごめん。つい﹂
訓練されていない葵さんに、突然あんな事を言ってしまった私が
悪い。
何も無かったように歩き出して、距離を取ってから伝えるべきだ
った⋮⋮。
1454
このままではあの男達に拿捕されてしまう。私は葵さんの手を引
き、細い路地に入ろうとした。
﹁真琴、ちょっと待って。こういう時こそ撫子なのよ﹂
指を頭に向けて慌てつつも余裕の表情を見せた。
こういう所は、カオル先生の妹さんだなぁと思う。土壇場で慌て
ない、肝が据わっているというか⋮⋮。
葵さんの頭の上で、撫子が唸り声を上げ、矢継ぎ早に神託を告げ
た。
﹁現在位置運気凶、西東北南どれも良くない。あえて言うならあの
場所!﹂
撫子が指差す先は、このエリアで最大のショッピングセンター。
南西の方角だ。
葵さんは逆に私の手を引き、すうっと息を吸い込んで走り出した。
私は振り向きながらも引かれる手に従い、ショッピングセンター
の連絡通路へと走り出した。
監視者は私達の様子を確認し、慌てた様に動き出した。やはり初
見の通り5名。観光客や呼び込む店員達と違う動きを示した。
﹁あいつらの目的は私ね﹂
﹁!﹂
やはりカオル先生の妹だけはある。頭の回転が速く、現在の状況
を把握する能力が優れている。
﹁恐らく、葵さんの仰るとおりだと思います﹂
1455
葵さんは、走りながらも少し考えを巡らせて、乱れた息の合間に
言葉を吐いた。
﹁私がカワイイから︱︱﹂
﹁多分違うと思います﹂
お約束のボケを入れるタイミングも兄妹だと実感した。
プッと吹き出してしまい、葵さんにはちょっと失礼かも知れない
が、失笑を我慢する事が出来なかった。
﹁真琴って見かけに寄らず失礼な奴ね﹂
ショッピングセンターの連絡橋をひた走り、眼下に2人の追跡者
と、背後の3人の気配を感じ取った。
Swords﹂
一般人の姿が無い事を確認し、私は背後の追跡者に﹃試し﹄を入
of
れた。
﹁3
目の前の空間に3本の剣を具現化し、背後の追跡者へ投擲した。
曖昧に狙いを定めたその剣の行方を、葵さんが目で追い追跡者は
足を止めて剣をかわした。
﹁うぅ、最悪です﹂
私の剣は霊気の塊なのだ。
故に一般人には目視する事が出来ない。知覚してそれをかわす事
が出来るのは、﹃能力者﹄のみなのだ。
1456
ショッピングセンターの入り口に辿り着き、ガラスドアを閉めた。
そして輪になった取っ手の部分に剣を具現化し、簡易な鍵を拵えた。
これで暫らく時間が稼げる。
﹁真琴の能力って、便利ねぇ﹂
ドアの取っ手を見つめながら葵さんが感心し、後追いで来た監視
者にアッカンベーをして走り出した。
ショッピングセンターの二階に辿り着き、なるほど撫子が凶中に
吉を見つけた場所だと理解出来た。
巨大な人工建造物、その中は一つの街が形成されていた。
見下ろす先には、有名ブランドの店から大手のコーヒーチェーン
店、挙句の果てには歯科医まで開業している。
そしてその街に相応しい人の多さがありがたい。
﹁真琴! こっち!﹂
葵さんが手招いたのは、上の階へ向かう階段下のデッドスペース。
観葉植物がワザとらしく置かれた空間だった。
私と葵さんは観葉植物の陰に隠れ、乱れた息を整えた。
﹁ここなら時間が稼げそうね﹂
華奢な葵さんと自称ちびっ子の私だから、パッと見では分からな
いと予想される。
けれど5人が虱潰しに探し始めれば、見つかるのは時間の問題だ
と思うけど。
﹁話は戻るけど、アレよね。ウサギの足⋮⋮﹂
1457
葵さんが頭に指を当てて、指圧するように考え込んだ。
私も葵さんの意見に同意したい。恐らくはそうだと思う。
﹁億万長者になった人が一夜で足元を掬われた場合、命惜しさに財
産を処分するかも知れないけど、逆に取り返す事を考える可能性が
あるわよね﹂
ふむ、正にその通りだと思う。
そして退魔士Aランク5人+オマケで私。このメンツと殺りあう
程馬鹿ではないという事だ。容易に手に入れたい場合、取引の材料
として葵さんを拉致するのが常套手段。
そしてセオリー通りに狙ってきたと。
﹁葵さんと引き換えにラビットフットを手に入れる心算ですね﹂
呪いの解けていないダニエルが直接手を下すことは出来ない。
そこで財産を全て処分する事を抵当に、その手の能力者を雇い入
れたと考えるのが容易い。
﹁そっか、私の美貌に⋮⋮﹂
﹁メロメロですね﹂
私と葵さんは目と目が合い、どちらからともなく笑い出した。
やっぱりカオル先生の妹さんだなと、重ね重ね実感した。極限の
余裕というより、気の合う波動を感じる。目と目で会話できるよう
な阿吽の呼吸を。
﹁よっし、ここで私の出番となる訳ね﹂
1458
葵さんは腕まくりして、鼻息を荒くした。
張り切るのは良いですが、どうしてそのような結論に至るのでし
ょうか?
﹁珊瑚! 行くよ。例のアレ、ヨロシク!﹂
﹁あいな﹂
珊瑚が懐に手をいれ、花吹雪にように小さい折り紙を幾枚も放り
投げた。
せんしせいへいじゅつ
そして彫刻刀の先ほどに小さいナイフで、流れるように折り紙に
切り目を入れていった。
﹁珊瑚はね、一生懸命鶴を折ったのに、お兄ちゃんに剪紙成兵術を
見て貰えなくて、少し落ち込んでいたの﹂
ナイフを一生懸命振るう珊瑚を見つめながら、葵さんは穏やかな
顔をして見つめていた。
﹁そして見返してやりたい一心で努力し、新たな技を編み出したの﹂
切り刻まれて床に落ちた紙は、全てが人型に切り目が入っていた。
せんしせいへいじゅつ
珊瑚はその紙に息を吹きかけた。
﹁剪紙成兵術﹂
息を吹きかけられて飛ばされた紙が、ムクムクと実体化し、小人
の兵士になっていった。
騎馬兵や、槍兵、弓兵、雑兵、斥候。それぞれが特徴を持った姿
となり、私達の周りを取り囲んだ。
1459
葵さんは100は下らない兵士達を見下ろし、咳払いを一つして
号令をかけた。
﹁方円の陣!﹂
凛とした掛け声と共に、軍勢が動き出し、騎馬兵、弓兵、雑兵が
数名ずつ小隊を作り、真四角の陣形を取った。
その訓練された動きは、見ていてため息が出るほどに統率されて
いる。
﹁方円の陣は周囲の守りを固め、その方角にもある程度対応できる
陣形なの﹂
方円⋮⋮、諸葛孔明が編み出したと言われる八陣の一つでは無い
だろうか。
しかし何故、葵さんが諸葛孔明の知識を持っているのだろう⋮⋮。
﹁斥候、並べ﹂
丁度珊瑚達を同じ位の背丈をした小人の内、忍者装束を着た斥候
兵が葵さんの前に並び、キーだかイーだか分かり難い返答をした。
葵さんは観葉植物の隙間から、ショッピングセンターをジッと見
つめ、ブツブツと独り言をいう様に考え込んだ。
そして振り返り、再び号令を掛けた。
﹁斥候二人組、索敵のみ、戦闘は避けよ。右から順にBファイル4
ランク、Dファイル1ランク、Gファイル7ランク、Gファイル2
ランク、Hファイル7ランク﹂
矢継ぎ早に号令を掛け、斥候兵は二人のペアで順に走り出し姿を
1460
消した。
そして号令を掛け終えた時には、斥候兵達は持ち場へ走り去った
後だった。
私は葵さんに向かい、恐る恐る内に秘めた疑問をぶつけてみた。
﹁ファイルとかランクって⋮⋮何?﹂
上目使いで見上げた私を、葵さんは呆れた顔をしてため息をつい
た。
﹁真琴⋮⋮、もしかしてチェスも知らないの? 常識を疑ってしま
うかも⋮⋮﹂
﹁あうぅ﹂
チェスが一般常識だなんて知りませんでしたよ。ボードゲームは
オセロしか知りませんもの。
葵さんは涙目で訴えた私の目を見て、仕方ないなぁと頭を掻いた。
﹁えっと、チェスのボードは8x8マス 自分の近い左のマスをA
1として右にH1まで、対戦者に向かい1から8の深さを持つの。
XとY軸座標をファイル、ランクと言うの﹂
﹁ふむむ﹂
﹁このショッピングセンターをボードに例え、斥候兵に座標を指示
した訳よ。分かりやすいでしょ?﹂
私はその問い掛けに対し、即座に首を横に振った。
葵さんは意地悪そうな表情を浮かべ、顔を近くに持ってきて説明
1461
を始めた。
﹁郵便チェス、電報チェス、国によって棋譜の仕方や記号が違うけ
ど、Kキング、Nナイト、Qクィーン、Bビショップ、Rルーク、
Pポーンがよく使われるわね﹂
﹁はうう﹂
﹁ナイトをE4に動かしたらNE4、敵をキャプチャーした場合に
は﹃x﹄で表記したりするの、例えばNxE4って感じ?﹂
﹁奥が深いです⋮⋮﹂
葵さんは見かけに寄らず頭脳派だという事が理解出来ました。
もしかして諸葛孔明を知っていたのも、兵法を学ぶ為の事でしょ
うか。チェス道恐るべしです。
そうこうしている内に一組の斥候が戻り、葵さんの肩に飛び乗っ
てヒソヒソと耳打ちをしている。
﹁一番隊、二番隊、三番隊出ませい。B4の敵に対し﹃鋒矢の陣﹄
にてC3からA2の方角へ進軍、敵を撃破せよ!﹂
号令と共に私達を守護していた方円の陣が動き、輪を縮めて三つ
小隊が飛び出した。
うあぁ、なんか葵さんカッコイイかも。
﹁ちなみに、自慢じゃないけどインターネットを通じて、通信チェ
スの日本支部グランドマスターに1度勝った事がある。メール戦で
ね﹂
1462
葵さんは自慢げに反り返り、自慢げに鼻高々だった。
けれど無知な私には、それがどれ程の事か分からなかった。しか
し無言で居る訳にもいかず、パチパチを手を叩き褒め称えておいた。
﹁そろそろ戦闘開始の頃ね﹂
観葉植物の間から顔を出し、小人の三小隊の戦いぶりを観察した。
B4の位置に居るのは黒のサングラスにダークなスーツ。身長が
高く痩せ型で、よく斬れるナイフの様なオーラを放っている。
一纏まりになった小人の小隊が、矢印の形に陣形を整え、南東の
方角から勢いよく進軍した。
人の目線で私達を探していた男は、足元まで容易に接近を許し、
騎馬兵と槍兵が足元を囲んだ時に、その様相に気が付いた。
﹁キャプチャー、ビショップ﹂
葵さんの呟きと共に、取り囲んだ弓兵が一斉射撃し、騎馬兵に足
元を掬われた男は、受身も出来ずに転倒した。
砂糖にに群がる蟻、ガリバーに取り付く小人の様に、チクチクと
槍で刺して痛めつけている。
﹁小人の攻撃は霊気の攻撃。私の霊気が作用するみたい﹂
意地悪そうな微笑みを浮かべた葵さんは、男の有様を見てほくそ
えんだ。
さっと陣が引き上げ、取り残された男は、全身蜂に刺されたよう
に服をボロボロにし、大きないびきを掻きながら眠ってしまった。
﹁私の霊気は眠りを誘うみたい。そういえば授業中の眠くなったり
するもん﹂
1463
いや⋮⋮、それは違うと思います。
大きな声で否定してやりたかったが、第二の斥候が戻りそれを遮
った。
1464
﹃戦う女子中学生 02﹄
葵さんは斥候を肩に乗せ、神妙な表情で報告に耳を傾けている
そして瞬きを忘れたかのように空を見つめ、再びブツブツと考え
を巡らせている。
恐らく彼女の頭の中で、何通りもの戦術が組み立てられ、高速に
駒が移動しているに違いない。
そうして知略縦横した葵さんは、私の見つめる視線に気が付き、
神妙な面持ちで口を開いた。
﹁真琴はこの状況どう思う?﹂
まるで私を試すように、小悪魔の微笑みを湛えていた。
状況把握か、ユカさんやマリリンさんから教わった戦術観、それ
をこの状況に当てはめてみよう。
まずは戦況、半人前の私、そして素養はあるが殆ど素人の葵さん。
対する敵は能力も実力も未知数、人数も2:4で不利。
次にマリリンさんが口を酸っぱくして言っていた事、それは勝利
の条件と戦闘のルールを明確にする事だ。
敵は葵さんを拉致する事が第一の目的、最終目的はラビットフッ
トの奪回。
対する私達は拉致されない事が勝利の条件。決して戦い傷つけあ
う必要は無い。
戦闘期間、ラビットフットの廃棄が完了するのは、新月の夜。そ
れまで持久戦を続けるか、それとも潰しあうか、そこが判断のポイ
ントだと思う。
﹁私の能力を彼らは見ていますよね。ですので﹃それ以外の能力﹄
で倒された痕跡を見れば、葵さんも能力者だと警戒するでしょうね﹂
1465
﹁⋮⋮さすが天才少女。腹が立つくらいデキが良いわね﹂
恐らく最初の男、その男に対し小隊三つを率い攻撃させたのは、
相手に警戒心を植え付ける為だと思った。
敵もそろそろ現状を把握する頃だと思う、行動を起こすなら今が
好機だと思う。
﹁敗北の条件は、拉致される事、勝利の最低条件は逃げ果せる事で
すね﹂
﹁そうよね。でも旅行中ずっと追い回されるのはウンザリ﹂
そう言って葵さんは腕を組んで考え込んだ。
閉じた目が片目うっすらと開き、ジッと私の方を見て口元を微妙
に吊り上げた。
﹁せっかくの楽しい旅行なのにね。おにいちゃんもピリピリしちゃ
うだろうし、いいムードも台無しだわね⋮⋮﹂
がぁん⋮⋮そ、それは困るなぁ。
隙を見て二人っきりになりたいと思うのは、誰しもが思っている
事。それくらい夢見ても良いと思うし、そう思えないとツライ。
﹁全員ぶっ倒しましょう!﹂
私の中の勝利の条件が変更された。
葵さんはそんな私を苦笑しながら見つめ、意を決したように立ち
上がった。
1466
﹁そうと決まれば一蓮托生、こちらの目標にブレが無ければ、勝負
に勝てる⋮⋮ハズよね?﹂
語尾が少し弱気だったように思えるが、ツッコむとキリが無いの
で聞き流した。
私は葵さんに手を引かれ、観葉植物の影にある本陣から舞台を戦
場に移した。
﹁四番隊から六番隊まで、先行の隊が本体合流を見計らいH6へ、
そこでゴニョゴニョ⋮⋮﹂
葵さんは私を一瞥し、まるで隠し事をするかのように、ヒソヒソ
と命令を伝えた。
﹁七番隊、八番隊は⋮⋮、斥候達は⋮⋮して⋮⋮ね﹂
チラッと私を見て、更に声のトーンを落とし、小人達にヒソヒソ
と命令を下している。
やっぱり私を意識している⋮⋮、意地悪な所はカオル先生にソッ
クリだ。
半ば呆れて天を仰いでいると、珊瑚が私の肩に乗り事情を説明し
てくれた。
﹁剪紙成兵術は非常に繊細な術。人に聞かれると言葉の力が半減し、
細かい指示が鈍る恐れがある﹂
なるほど、意地悪でやってる訳じゃないのか。
美咲さんの﹁言霊﹂に近い概念かも知れない、剪紙成兵術の命令
って。
1467
﹁キーキー﹂
私には奇声を上げている様にしか聞こえないが、葵さんは納得し
たように頷いて手を振った。
先発隊が到着し、私達の周りを三方向でガードし、残りの小隊が
隊列を離れ、持ち場に消えていった。
﹁真琴! 依り代があるとは言え、100の軍隊を率いるのは初め
て、いつ燃料切れになるか分からない。早期決戦で行くよ!﹂
そう言って走り出した葵さんの表情は、先ほどまでと違い、少し
余裕が無いように感じられた。
小人の軍を率いてはいるが、思い返せば訓練を積んでいない一般
人。素養はあれど持久力は持ち合わせていない。
霊力のコントロールで何が一番難しいか、それは霊力を絞り込む
事。細く長く発し続けるのが一番大変なのだ。
﹁ガス欠になっても、私がいます。無理しないでください!﹂
手を引く葵さんの手を強く握り返し、気持ちを強く伝えようとし
た。
しかし葵さんは振り返り、ギョッとするような言葉を言い放った。
﹁真琴は1対多数の勝負に向いてない気がする﹂
︱︱図星を突かれてしまった。
私の剣の操作は、非常にデリケートな能力。物を形作るメンタリ
ティと操作するメンタリティ、二つの念を同時にコントロールしな
くてはならない。
単一の敵に対して、もしく無差別の攻撃を仕掛ける事は容易でも、
1468
二人の敵を相手に精密な操作をする事が出来ないのだ。
﹁さっき敵に投じた剣を見て、そうじゃないか思った。鹿狩りの名
手も、群れを成す鹿を射抜く際には狙いを外す。⋮⋮そんな感じ?﹂
有体にいうと集中力が保たないのだ。
一つ一つをこなせても、同時に複数の事をこなせない。ユカさん
に告げられた私の弱点、そして今後の課題の部分だ。
﹁やれる所までゲリラ戦で敵を減らそう。駒を減らして敵の戦術パ
ターンを狭めるのは、ゲームの必勝法だから﹂
そう言って階段を駆け下り、柱の影に隠れて身を潜めた。
口を閉じ目で語りかける二人ではあったが、表情と目の動きでな
んとなく言っている事が分かる。⋮⋮少しくすぐったい気分。
﹃柱の向こう、一人いる﹄
ペアを組んでいるであろう二人のうちの一人、もう一人は少し離
れた位置にいて周囲を見回している。
黒服にサングラス、ノッポと小男。まるでブルースブラザーズの
ような二人。
葵さんは唇とぐっと噛み深呼吸を一つして、自然な振る舞いで柱
の影から姿を曝した。
手を引かれて私も柱の影から出され、当然の事ながら男に見つか
ってしまった。
﹁真琴、ダッシュ!﹂
男の神経を逆撫でするように、おどけた表情を一瞬見せて一目散
1469
に走り出した。
しんがり
案の定そこで男は相棒に声を掛け、連携して私たちの後を追いか
けてきた。
﹁釣れた∼﹂
走る私たちを援護するかのように、殿を務める三つの小隊が、男
達に向かい威嚇射撃で牽制している。
されど目の前に投じられるマッチ棒程の矢に、易々とやられてく
れるほどボンクラではなかった。
軽い身のこなしで矢の雨を避け、私たちに追いすがってくる。
﹁この店⋮⋮むふふ﹂
葵さんに引かれるまま専門店の入り口をくぐり抜けた。
店内は数名の客が商品を手にとって品定めをしていた。小さい割
に客の数は多く活気のある店のように窺える。
ENDではないのか。
しかし店の中は入り口を押えられては袋小路、結局身動き取れず
THE
﹁ふふふっ、羞恥心を捨てて入ってきなさい﹂
ニヤリと店外に不敵な笑みを浮かべ、挑発するように葵さんが手
招いている。そして男は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべてい
る。
⋮⋮なるほど、ここはランジェリーショップ。店頭には最新のブ
ラジャーやショーツが展示され、入り口を塞ぐように特価のショー
ツがワゴンに山積みされていた。
試着室にも女性がいるし、奥のご婦人は服越しにブラを当て、色
合いとデザインを確かめている。
1470
真っ当な羞恥心を持ち合わせていたら、足を踏み入れるのは躊躇
う⋮⋮か。
しかし入り口を塞がれていては袋小路、いずれは敵の手に落ちる
事は目に見えている。葵さんはどう動くのか⋮⋮。
﹁さてと、降参してみようか﹂
葵さんは腕を一振りし、小人の軍勢を下がらせ、軽く手をあげて
降参のポーズを取った。
男達もその様子を見て気が緩んだのか、店内に足を踏み入れ迎え
る動作を見せた。
そうして店内に数歩足を踏み入れた男達に向かい、葵さんは手を
差し伸べた。そして二人に囲まれた瞬間に口を開いた。
﹁今よ!﹂
葵さんの一言で、ワゴンセールの下着の山が崩れ、弓兵が矢尻を
向けて構えていた。
葵さんは掴まれた手を逆に捻り返し、男達を盾に構えた。
﹁攻撃!﹂
合図と共に矢が放たれ、身を潜めていた槍兵と騎兵が突撃した。
腕を掴まれた男達はその攻撃に身を曝し、無数の矢を受けて⋮⋮
⋮眠ってしまった。
葵さんはワゴンセールの中から、一際派手なショーツを見繕い、
男の頭に被せて走り去った。
﹁なんと悪質な⋮⋮﹂
1471
そう思いながらも、適当に見繕ったショーツを一枚取り出して、
相方の頭へ被せて一目散に走り出した。
倒れこむ男達に店員が気が付いたようで、絹を裂くような悲鳴が
背後で上がった。
下着泥棒として御用になれば、精神的にヘコむだろうな⋮⋮。
この業界の情報は早いから、しばらくまともな依頼は来なくなる
んじゃないだろうか。
と、不幸な男達を案じつつ、次なる作戦に考えを巡らせた。
﹁次はアイツね﹂
遠い間合いからジッと見つめた先には、腕っ節の強そうな大柄の
男。見た目はどう見ても前衛っぽい。
葵さんはクイクイっと親指で合図をして、指差す先の場所を見て
男の末路を案じさせた。
﹁なるほど⋮⋮﹂
まなこ
私の納得する声を聞き、葵さんは後ろ手にスキップしつつ、男の
前を通り過ぎた。
ピタリと足を止め男の方へと振り返り、ビックリ眼でキョトンと
した表情を浮かべている。
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
男と目が合う事数秒の後、葵さんは再びスキップし、男は顔を真
っ赤に染め走り出した。
1472
﹁釣れた∼﹂
悪そうな笑みを浮かべた葵さんは、私の元へ走り寄り、手を引っ
張り走り出した。
目的地は打ち合わせ通り、急いで女子トイレに駆け込んだ。
トイレへ足を踏み入れ静かに耳を澄ますと、落ち着きの無い足音
わきま
が入り口の前を行ったり来たり。さすがに踏み込んで来なかった。
意外と外人さんってこういう所を弁えているのね。
﹁ちっ! いっぱしの羞恥心持っちゃって⋮⋮﹂
口惜しそうに表情を歪めた葵さんは、芸かかった突拍子も無い声
を上げた。
﹁真琴∼、このドアからコッソリ逃げよう!﹂
地団駄を踏むように荒い足音を立てて、外の男に知らしめている。
もちろんセリフは日本語だが、トイレの前の男を驚かせたのは間
違いない。
慌てて踏み込んできた男は、私達以外に利用客がいない事を確認
してニヤリと笑って見せた。
﹁やらしい笑い⋮⋮﹂
﹁ですね﹂
手を大きく広げて入り口を塞ぎ、一歩一歩と間合いを縮めてくる。
当然私達は下がらざるを得ず、ジリジリと後ずさった。
壁際まで追い詰められ、男の手が鼻先に届こうかという時、男は
個室の影に隠れていた騎兵に気が付いた。
1473
﹁ゲリラ戦法って訳か、小細工を⋮⋮︵真琴同時翻訳︶﹂
ニヤリと笑い、扉の影に隠れていた騎兵達を蹴散らした。
騎兵達は悲鳴を上げ、あっけなく元の折り紙へと戻っていった。
葵さんは観念したようにホールドアップし、私もそれに従い手を
上げた。
﹁こういう時が一番油断するのよね﹂
クルリと背を向けた葵さんの背には、数十の弓兵がへばりつき、
矢を引き絞って狙いを定めていた。
私も同時に背を向け、そこにはしがみついた槍兵が、投擲の準備
を済ませ、敵を討ち取らんと待ちわびていた。
﹁撃て!﹂
矢継ぎ早に連射された無数の矢と、力強く投擲された槍が、男の
全身を深々と刺し貫いた。
しかし男はその攻撃に屈せず、一歩踏み込んで葵さんを両手で抱
え上げた。
一瞬ギョッとした表情を浮かべた葵さんだったが、すぐさま体を
捻り男の顔面に肘打ちを叩き込んだ。
﹁エッチ!﹂
男は肘うちの衝撃で仰け反り、掴む手が緩んだ隙に、男の髪の毛
を両手で掴んだ。そして着地した瞬間に飛び膝蹴りを見舞った。
これが噂のジョー東の飛び膝蹴りか⋮⋮、カオル先生から聞いて
いたけど、これは⋮⋮痛そう。
1474
しかも肘打ちも飛び膝蹴りも、キッチリ霊気を纏っているし、血
は争えないというけれど、末恐ろしい才能だ。
大の字で倒れた男を見下ろし、荒い息で肩を上下させた葵さんは、
指でブイサインを作り力なく微笑んだ。
そしてガックリと膝を付いてへばり込んでしまった。
﹁葵さん!﹂
いわゆる霊気切れの症状だ。貧脈や動悸が酷くなり一時的な貧血
症状になっている。
それが証拠に小人の軍隊が色褪せ、元の折り紙へと姿を変えてし
まっている。
それでも尚震える足で立ち上がり、整わない呼吸の合間で言葉を
搾り出した。
﹁ラスト一人、行こう﹂
そんな言葉を吐く余裕も無い筈なのに⋮⋮。
私は葵さんに肩を貸し、ゆっくりと歩き出した。
ゲリラ戦が通用したのも、今回が最後のチャンス。一人になった
男は警戒を強め、今度は捕縛を目的とせず、身を守る為に攻撃を仕
掛けてくる。
﹁どうして、そんなに頑張るんです? 私だって戦えます﹂
正直葵さん一人が頑張らなくても、私の方が戦闘に向いている。
葵さんは私の事を過小評価してるのではないか。
そう思っていたが、葵さんは私の言葉に苦笑して、頭を撫で囁い
た。
1475
﹁真琴が強いのは分かってる。けどね、私から見ればかわいい後輩
にしか見えないの。後輩を犠牲にして、一人のうのうと安全な場所
に居れる訳無いじゃない﹂
はう⋮⋮。
そんな優しい言葉を頂けるとは思いもしなかった。
不覚にも涙が零れそうになる。普通の人扱いされたのは何年ぶり
だろうか。
﹁でも⋮⋮、小人さん達は居なくなっちゃいましたよ?﹂
さすがの葵さんも攻撃手段が無ければ戦えない。頑張るって言っ
ても、どうしようも無いではないか。
﹁いや、まだ少し残っている。全ての軍を維持できなかったけど、
7体程生き残っているよ﹂
たったの7? それで勝とうというのか。
けれど葵さんの表情には、一片の曇りも無い。それどころか、こ
の状況を楽しんでいる感がある。
﹁勝負師の顔してますよ?﹂
﹁私は勝負事では負けたくないんだ。一度負けると癖になるから⋮
⋮﹂
そう言ってピタリと足を止め、眼前の男に向かい合った。
男は胸元に手を入れジッとこちらを見つめ、そのままの姿勢で品
定めをしている。
そして意を決したのか、一歩足を踏みしめ歩み寄ってくる。
1476
﹁真琴、下がっていて﹂
手を私の前で遮り、庇うように盾になった。
そして周囲を見渡すように首を振り、肩を震わせて⋮⋮笑った。
私は葵さんの突然の奇行に一時呆然としたが、その笑いの意味を
悟り、私も苦笑してしまった。
﹁チェックメイト﹂
斥候に導かれた乃江さんとカオル先生が男の背後に立ち、物凄い
怒気を放ちながら神速の拳を叩き込んだ。
不意を付かれた男は身構える事すら出来ず、白目をむいてその場
に崩れ落ちた。
乃江さんとカオル先生は男を肩で支え、すぐ側のベンチに座らせ、
手っ取り早く偽装工作をしている。
足元に歩み寄って心配そうに見上げる斥候達。そんな彼らを手で
掬い上げ、満面の笑みで頬擦りしている。
﹁斥候に新たな勝負駒を用意させていたんですね﹂
感心の余りそれ以上の言葉が出なかった。
葵さんは斥候達に別れを告げ、目を閉じて霊気の放出を止めた。
そして微笑んで立つカオル先生を見て、ポロポロと涙を流して駆
け出した。
感動の兄妹愛⋮⋮、そんな光景にウルルと涙が溢れそうになり、
次の瞬間我が目を疑った。
﹁かわいい妹の危機だってのに、もっと早く来んかぁ!﹂
1477
必殺の飛び膝蹴りが炸裂した。
先ほどの飛び膝蹴りより、数段キレが良い様に見えるのは目の錯
覚か。
血を吐き仰け反るカオル先生と、ちょっと照れ臭そうに笑う葵さ
んを見て思う。
三室家の兄妹愛は、すごくハード。痛そうだけど羨ましい⋮⋮と。
1478
﹃守人﹄
モノクロームの風景。
白と黒というよりは、色褪せたセピア色の、酷く懐かしい気持ち
にさせる風景だ。
オーストラリアでも日本でもない。遠い昔の日本の風景。
澄んだ空気と川のせせらぎ、見渡す限り野山が広がり、視界を隔
てるのは山々のみ。
森で鳥が囀り、畦で百姓が腰を屈め、山菜を売る婆と、傍らで飛
び跳ねる女童が並んで歩く。生きとし生ける者全てが力強い。
細く長い宿場街に通じる街道を歩きつつ、周りを取り囲む杉の木
の香を嗅いだ。
夏の間近のこの季節、日も高く旅慣れている者でも難渋する。木
しゅったつ
陰を歩ける恩恵を感じ、杉達に向かい頭を下げた。
﹁美緒殿、疲れてはおりませぬか?﹂
この季節であれ一人の旅ならば、早朝に出立し早駆け出来る。暑
にょしょう
をしのいでいても、日が落ちる刻までには宿場へと辿り着ける。
けれど女性連れであればそうも行くまい。
気遣い振り返る先には、汗を掻きにこやかに笑う女子の姿がある。
やはり箱根の山は東海道の難所。女子供には難渋な場所だと再認
識し、覚られぬ程度歩を緩めた。
﹁正十郎はんにはご不便かけて⋮⋮﹂
京なまりの声色はどこか楽しげで、釣られて微笑んでいる事に気
1479
付かされる。
不自由な二人での旅が苦痛に感じられないのは、美緒殿の人柄の
良さから来るものだろう。
﹁ほんに、こんな調子で﹃守人﹄なんて職、務まるのですやろか?﹂
まじな
己が行く末を案じ、深いため息を付いて足を止めた。
守人。法師の術や陰陽の呪いを用いず、体に宿る力で魔を滅する
事の出来る者を指す。
土地毎に生き神と崇められて、住まう土地を守護する役目を持つ
者達の事。
この美緒殿も私と同じ宿命を背負う守人。
﹁正十郎はんは後悔しとるんやおへんか? 世間知らずな小娘を、
一人前の守人へ育てるやなんて﹂
この美緒殿の家柄は、代々京の都を守護してきた守人の系譜。
ひとかけら
応仁の乱以後、荒れ果てた都を霊的に守護し、今の華やかな街へ
と復興させた影の立役者だった。
だが美緒殿に至っては蝶よ花よと育てられ、素養はあれど一欠片
の修行すら積んではいない。
﹁いいえ、それも私を見込んでのお話。お受けいたしました以上、
必ず﹂
対する私は吉野の田舎者。幼き頃から霊山に住まい、結界を走り
回っていた。
おのれ
幼き頃から退魔の修行に明け暮れ、役目に没頭し、数え切れない
程の魔を打ち倒してきた。
この穢れた私に退魔以外の事が出来る、そう思うと少し己の可能
1480
あやかし
性が広がったように思えたのだ。
﹁妖の血が入ったうちにも、毛嫌いせずに接してくれる。正十郎は
あやかし
んが師匠で、うちは幸せ者や﹂
守人の系譜には妖の血が色濃く混じっていると言われている。
あやかし
ことわり
同じく私の家系も同様。世にいるであろう数百の守人達は、すべ
あやかし
て妖の子と謳われている。
妖の血が魔を祓うとは、いまだに理解出来ぬ理なのだが。
﹁私が美緒殿を、美緒殿が次代の守人を育てる。土地に縛られる守
人であるなら、これが当たり前の事﹂
木々の葉鳴りを耳にし、吹き抜ける心地よい風に感謝し、額に伝
う汗を拭い去った。
﹁江戸は華やかな街と耳にしますけど、水あうやろか。それが心配
⋮⋮﹂
そう言って袂で口を押さえ、コロコロと微笑んでみせた。
どこか俗世からかけ離れ、雅さが際立つ美緒殿だ。どこへ行って
も浮いてしまうだろう。
けれど持ち前の天性の明るさで、そんな苦境も乗り切ってくれる
と信じている。
﹁箱根を過ぎると江戸は目と鼻の先、土地に馴染む事も大切ですが
⋮⋮﹂
﹁まず第一は修行!、ですやろ?﹂
1481
微笑んで立つ美緒の笑顔を見て、胸に込み上げてくるものを感じ
る。
美緒殿と同様に世俗に疎く、人と触れ合う機会が少なかったから
か。
それとも︱︱。
﹁江戸は⋮⋮、まだ燃えているんですやろうか﹂
美緒殿の見据える先は遠い。遠く焼け落ちた江戸の方角を見据え、
唇をぐっと噛んでいる。
振袖火事と呼ばれる江戸の大火事。
一説には10万といわれる犠牲者が出て、江戸城はおろか全ての
街を消失し、過去に類をみない大惨事となった。
今も浮かばれぬ人の霊が漂い、今も火に焼かれ続けている。
鎮魂を司る退魔の者も、当地を守っていた守人も命を落とし、表
向き復興しつつも霊的に酷い有様らしい。
遠く京や吉野の守人にお声が掛かるほど、切羽詰っているのかと
勘繰ってしまうほどだ。
﹁十万の人の霊、地の戒めを解いて成仏させてやらねば﹂
再び顔を撫でる様に吹き抜ける風。
癒される思いでその風に身を任せ、まだ見ぬ江戸の様相に心を痛
める事しか出来なかった。
優しく光る手が額を撫で、心地よい気分にさせてくれている。
顔にかかる前髪を優しく掃い、額から頬を撫で下ろし、優しい声
1482
で俺の名を呼んだ。
﹁カオルさん?﹂
気が付くとホテルに戻り、いつの間にかベットに横たわっていた。
そして美咲さんがホッとした表情で俺を見つめている。
﹁あれ? なんで俺、ベッドに寝てんの?﹂
ショッピングセンターで葵を探していて⋮⋮、そこからの記憶が
全く無い。
そもそもなんでショッピングセンターに行ったのやら。
﹁カオルさんが倒れたと聞いて、医療班の私にお声がかかったので
す﹂
﹁はへ⋮⋮、それはどうも⋮⋮すいません﹂
身を起こそうとして、酷い頭痛を感じ顔を顰めて、再び床へつい
た。どうやら倒れたってのは本当らしい。
美咲さんは苦笑しながら額に手を当て、治癒の力を注ぎ込んでく
れた。
﹁あぁ∼、なんか夢を見てました。美咲さんの夢﹂
目を閉じると夢の残滓がフラッシュバックしてきた。微笑む美咲
さんの顔が⋮⋮。
けれど口に出して少し後悔した。
よくよく考えると、俺が美咲さんを夢想していたって事だし、無
茶苦茶恥ずかしい事じゃないだろうか。
1483
けれど美咲さんは、少し複雑そうな表情を浮かべ、苦笑して首を
振った。
﹁それは多分私じゃありませんね。カオルさんはうわ言で、何度も
﹃ミオ﹄って言っていましたもの⋮⋮﹂
︱︱ミオ。言われてみると夢の中でそう言っていた気がする。
どんな夢だったかは定かではないが、うん、そうだ、確かにミオ
と呼んでいた。
﹁でも、美咲さんに生き写しだった﹂
もう目を閉じてみても、ミオの夢には辿り着けなかった。
目の前の美咲さんと、イメージが完全に同化してしまったかのよ
うだ。
﹁世の中には同じ顔をした人が三人いるって言いますものね。もし
かすると二人目なのかも﹂
苦笑しながらも霊気を籠め、癒される思いでその能力に身を任せ
⋮⋮。
再び夢のフラッシュバックがよぎった。
街道沿いの癒しの風
美緒
地に縛られた10万の霊。
コマ飛びの映画を見ているように、映像の切れ端が頭を過ぎる。
1484
俺の中でふと過ぎる予感。俺は美咲さんに触れると、遠い昔を思
い出してしまう。そんな予感だった。
﹁美咲さん﹂
心で否定しつつも、確信めいた気持ちが強く心をざわめかせる。
俺はボンヤリとした何かを確かめたく、美咲さんの手を引き寄せ、
強く抱きしめていた。
﹁ごめん⋮⋮﹂
言葉で許しを請いながら、俺の腕は強く、手は何かを確かめるよ
うに髪を撫で、柔らかな体の隅々まで感じ取った。
船のアクシデントでのキス。あの時に感じた不思議な気持ち、そ
の時気付けば良かったのかも知れない。
今なら確信を持って言える。口付けする事も、この女を抱いた事
も。
︱︱初めてではない、と。
﹁やっぱり夢に出来てた人は、美咲さんだった﹂
夢の中で感じた風は、美咲さんの霊気。心地よさは癒しの力だっ
た。
懐かしい心地よさが、俺の心の奥底に眠る﹃何か﹄を揺り動かし
たのだと⋮⋮。
﹁痛っ﹂
非難めいた美咲さんの声、けれど拒絶する事は無かった。
俺は少しだけ腕の力を抜き、いとおしむように髪を撫でて、美咲
1485
さんの体温を感じた。
﹁霊気治癒でそんな影響が出るとは、思ってもみませんでした﹂
美咲さんは観念したように俺の胸元へ顔を埋め、しばし無言の間
を作った。
考える時間を作ったのか、それとも決意を固める為だったのか。
けれど無言の間でさえ俺には心地よく、何時までだって待てる、そ
んな気がしていた。
﹁美緒は私の記憶。それが流れ込んでしまったのかも知れません﹂
あの夢は美咲さんの記憶。
大火に見舞われた江戸の記憶。
﹁カナタから振袖火事の鎮魂を勤めた退魔士の話を聞きました。も
しかして?﹂
ふと我に帰り頭や肩を撫でて見るが、カナタやトウカの姿は見当
たらない。
気配すら感じないとなると、どこか別の部屋へ行っているのか?
﹁カナタ達は霊気を吸ってしまうから、乃江と葵さんの部屋へ。霊
気を吸われると回復が遅れてしまうから﹂
なるほど⋮⋮。
そうでないと美咲さんを抱きしめた瞬間に、天誅を食らっている
よな。
﹁正十郎は鎮魂の刀を持つ、カナタの主だった人です﹂
1486
やはり、そうだったのか。
江戸の大火を鎮魂に行く武士とカナタに聞いていたから、もしか
してと思っていた。
箱根の山を越えて江戸に辿り着き、鎮魂を成しえて霊の呪縛を解
いた人。
﹁そしてカオルさんの遠い祖先だった人です﹂
なぜだろう。
こんな突拍子も無い言葉を聞いて、ああ、そうなのだと納得が出
来る。
俺は正十郎の記憶の欠片を持って生まれている。そうでないと説
明が付かない事が多すぎる。
初めて抱いた美咲さんを懐かしく感じ、心の底から湧き上がる情
慕の気持ちが抑えきれない。
﹁カオルさんを最初に見たカフェ⋮⋮、私はその時からそう思って
いました﹂
美咲さんと最初に会ったカフェ。
いつもの俺なら声を掛けてはいなかった。けれどあの時は、そう
するのが自然だと感じていた。
ほとんど初対面に近かった美咲さんと話せた時間が、親兄弟より
身近に感じれた。
あの時から。
﹁確信を持ったのは守り刀を手渡された時です。鎮魂の刀を目にし
た時に、私がどれ程心を乱されたか⋮⋮﹂
1487
そういえば天野家の人々も、カナタを見て一様に驚きの表情を見
せていた。
キョウさんも美苑さんも、あれが鎮魂の刀だと知っていたのか。
﹁正十郎と美緒の子が今の天野家の起源、江戸の鎮魂を成しえた﹃
守人﹄として、時代を超えて超法規的に護られてきました﹂
そうか⋮⋮、美緒さんと所帯を持って子を成したのか。
けれど心の奥底で、どこか釈然としない気持ちになった。正十郎
の末路、鎮魂の刀とカナタの話の事。
酷く悲しい結末だった筈だ。
﹁俺がカナタに聞いた話と違う、そんなハッピーエンドじゃない﹂
美咲さんはピクリと体を震わせて、涙を拭うように俺の胸元にす
り寄った。
俺の手は自然と美咲さんの頭を抱き、優しくあやしていた。
﹁幕府の敵として追われた正十郎と美緒は、子を人質に取られてし
まい、お互いに殺めあう事になりました﹂
なるほど、その言葉に嘘が無いことは、俺の心が知っている。
苦渋に満ちた心の揺れが、真実だと語りかけている。
﹁正十郎は最後まで、美緒を愛していた﹂
言葉にしないと胸が弾けてしまいそうだった。
伝えたかった思いが溢れてきて、俺の口を借りて自然と言葉が紡
ぎだされた。
1488
﹁美緒も手に掛かるなら正十郎様にと。女の情と母の情に板挟みに
なっていました﹂
そうか⋮⋮、最後まで二人は愛し合っていたのだ。
ホッとした気持ちが心を支配し、何時しか涙が零れてきた。
止め処なく溢れてくる涙を、拭う事無く天井を見つめ、万感の想
いを感じていた。
美咲さんはゆっくりと身を起こし、俺の頬を撫でて垂れる髪を掻
き上げた。
言葉には出さないが、俺と同じ気持ちでいるはず。
﹁正十郎の気持ちが抑えられない﹂
﹁美緒も﹂
俺はゆっくりと身を起こし、美咲さんに口付けた。
触れるか触れないかの優しいキス。けれど二人の気持ちはその触
れ合いで満たされていった。
ゆっくりと離れていく唇に惜しみなく、高鳴る胸を押さえて身を
離した。
胸の中からスッと消えていく正十郎の念。それと共に湧き上がっ
てくるのは、正常な判断力だった。
﹁あわわっ、とんでもない事をしでかしたような﹂
﹁い? え、あ、ですか?﹂
偶然の事故ではなく、今度は本当にキスしてしまった。
モジモジと恥ずかしがる美咲さんを見て、更に羞恥と後悔の念が
押し寄せてきた。
1489
﹁今のは、正十郎と美緒の⋮⋮﹂
﹁そ、そうですよね。あの二人のキスですよね﹂
﹁キ? キス?﹂
﹁そんな事しましたっけ?﹂
完全にテンパってしまっている二人は、全く会話が噛み合ってい
ない。
そして何時しか二人は顔を見つめあい、大笑いしてしまっていた。
ひとしきり笑いあった二人は、乱れた息を整えて深呼吸して落ち
着いた。
﹁一つ聞いて良いですか? 納得出来ない部分があって⋮⋮。二人
の子が天野って事は、辻褄があってない気がします﹂
美咲さんは目を丸くして、手をポンと叩き納得した。
そして咳払いを一つして、少し偉そうに話し出した。
﹁子は一人ではなかったのですよ。一人が天野、もう一人は嵯峨野
の系譜です。静さんに確認いたしましたので間違いありません﹂
静? うちの母の名だ。嵯峨野? うちの母方の姓だな。
そして美咲さんと出会った頃の言葉がリフレインしてきた。
﹃でも、こういった守護を生業とする家系も、今では数えるほどし
か存在しません﹄ 1490
廃業した守人の系譜。それが嵯峨野家だと言うのか。
ボンヤリと頭に浮かぶ符号が形を成し、その結論を形作った。
﹁てことは美咲さんと俺は親戚って事?﹂
いえいえ、遠縁って事ですね。自己ツッコミを軽く入れ、心を落
ち着ける為に深呼吸をした。
うちの母のほくそえむ笑顔が頭をよぎり、忌々しく思え手で払い
のけた。
﹁正十郎の持ち技は刀に霊気を籠める事、そして長考による神速の
剣﹂
ボソリと呟いた美咲さんの一言が、グサリと胸を刺し貫いて決定
打となった。
そしてニヤリと笑い、毒々しい笑顔を見せた。
﹁カオルさんは私の師に会って、内に眠る本当の力に目覚めて貰い
ます。この旅の目的は、隊員全員の力量アップ! なのですから﹂
美咲さんの師匠? オーストラリアに師匠? なんで?
また修行をしなくてはいけないのでしょうか?
欝な気分で渋い顔をしていたら、美咲さんが俺の頬を引っ張り、
有無を言わせぬ表情でもう一度黒いオーラを放った。
﹁イ・イ・で・す・ねっ?﹂
﹁ひゃい﹂
どす黒い強制のオーラが肌を刺激し、優しげな美緒の笑顔が懐か
1491
しく思えた。
1492
﹃世界を見渡す目﹄
ゴールドコーストからメルボルンまで空路で2時間。
近隣都市間の移動だが、それでも移動距離は1700キロ。本州
の端から端まで移動する感覚だ。
やはりオーストラリアはスケールが違う。
俺は機内サービスをアイコンタクトでお断りし、感慨深くため息
をついた。
﹁カオルさん? 少し伺ってもよろしい?﹂
隣の席に座った宮之阪さんが、らくしないツンケンした口調で問
いかけた。
その理由について見当は付いているが、俺としてはいつも通り振
舞う事しか出来ない。
﹁な、なんでしょう?﹂
どもりながら聞き返してみたものの、宮之阪さんの視線は一点に
釘づけ。
じっくりと観察するように右腕を見つめ、そしてゆっくりと俺の
顔を見上げた。
そして氷の女王の如き微笑みで、冷たく言い放った。
﹁なぜ美咲はカオルさんに寄り添い、忌々し⋮⋮ゴホン。熟睡して
いるのです?﹂
いや、それは俺も聞きたい。
美咲さんは飛行機の離陸と同時に爆睡した。
1493
最初は眠りながら凭れ掛かかっていただけだが、次に気が付くと
腕にしがみついていたのだ。
﹁そしてなにより許せないのは、カオルさんは振り解く事もせず、
なすがまま、されるがまま⋮⋮こともあろうか⋮⋮誰の許可⋮⋮﹂
くどくどと愚痴を言い始めた。
簡単に言ってくれますが、振り解くなんて怖くて出来ないです。
きっと振り解いた瞬間にほっぺたを摘まれ、眼光鋭く威嚇される
に決まっている。
﹁ほら、寝ぼけてるだけですから⋮⋮﹂
苦しい言い訳をしつつ、乾いた笑いを浮かべるしかない。
ジト目で睨む宮之阪さんだったが、その言い訳を聞いた瞬間ニヤ
リと笑い、納得したようにウンウンと頷いた。
そして俺の肩へ頭を凭れ掛け、あっという間に左手をホールドさ
れてしまった。
﹁ちょ、宮之阪さん。両手はヤバイ。なんにも出来ないですよ﹂
両手が不自由になった途端に顔が痒くなる時ってないか?
今がそんな気分。むず痒くって仕方ない。
﹁美咲は良くて私は駄目⋮⋮と?﹂
眠るフリをしながらも、毒を吐き続ける宮之阪さん。
俺は大岡裁き﹃子争い﹄を思い出しつつ、板挟みの子の辛さを味
わった。
周囲に救いの手を求めてみたが、遠くで山科さんと真琴が俺を睨
1494
み、電波を発しつつ歯軋りしていた。
﹁むう、寝よう﹂
俺は無駄な争い事を避け、目を閉じて着陸の瞬間を心待ちした。
そしていつしか本当の眠りに付いていた。
メルボルン空港からタクシーで12マイル、メルボルンの中心街
から少し離れた場所に到着した。
これから数日お世話になるホテルは、ウィンザーメルボルン。
古きゆかしき英国建築のこのホテルは、建物自体が文化財扱い。
心なしかホテルマン一人一人の物腰も違い、他のホテルとは一線
を画す格式の高さをうかがわせた。
今回は早朝移動という事で、まだチェックインの時間には早いら
しい。俺達はフロントへ荷物を預けて身を軽くした。
﹁一応貴重品とパスポートは手荷物で持っておく事﹂
引率の先生のように、全員に周知して回る乃江さんに従い、各人
手荷物をチェックして頷いている。
さすがに一流ホテルのフロントとはいえ、なにが起こるかわから
ないのが外国。用心に越した事はないという事だ。
ちなみに迂闊者の葵なんかは、手で持っていた方が危なかったり
する。しかし鞄をたすき掛けバッグを抱えるように持っている所を
見ると、それなりに自覚があるのだろう。
﹁これから何処で時間潰すんや? チェックイン時間まで3時間ほ
1495
どあるで?﹂
﹁王立博覧会ビルとカールトン公園が近いですね。世界遺産登録さ
れているみたいですよ﹂
山科さんと真琴が旅行案内を手に持ち、喧々諤々と観光名所を指
差している。
乃江さんは二人の間に割って入り、旅行案内を取り上げて本を閉
じた。
﹁これからこの旅のメインイベント、ある人物に面会する事になっ
ている。観光するならその後でな﹂
ブーイングする山科さんにヘッドロックを極め、乃江さんは引き
ずるようにホテルを出た。
俺は確かめるように美咲さんを見つめ、美咲さんはそれに答える
ように頷いて見せた。
ついに美咲さんの師匠に会うのか⋮⋮。
心なしか胃がキリキリと痛み出した。まるで歯医者の順番待ちを
しているような気分だ。
﹁そんなに硬くならなくても大丈夫ですよ。師匠は優しくて穏やか
な人ですから﹂
そう言い残し美咲さんは乃江さんの後を追った。
俺は美咲さんの言葉を信じ、意を決してその後に続いた。
﹁移動はトラム︵路面電車︶に乗っていく。観光客向けのシティサ
ークルトラムだから無料だぞ﹂
1496
乃江さんの指差す先は、車道の中央付近。路面電車の看板が立っ
ており、簡素なトラムストップがある。
旅行ガイドで事前に調べた知識だと、通常のトラム︵有料︶、シ
ティサークルトラム︵無料︶があるらしい。
前者は近代的な路面電車、後者はちょっとレトロな路面電車でア
ズキ色が目印になっている。
シティサークルは10分毎に到着する。もちろん路面電車なので
多少の遅れはご愛嬌なのだとか。
俺達が乗り場に辿り着き、間もなくシティサークルトラムが到着
した。
乗り込んでまず気が付くのは古い木の匂いと、温かみを感じる皮
の座席。
男性乗客は嫌な顔一つせず席を立ち、英国紳士さながらに女性達
に席を譲った。
さすがレディファーストの国なのだと感嘆し、こういう所を日本
人は見習うべきだと感じさせられた。
そしてしばらく市内を巡りつつ、古いヨーロッパを思わせる街並
みを眺めていた。
近代的な街並みに、点在する洋風建築。無味乾燥な近代建築とは
違い、見る者に何か影響を与えてくれる。
しばらくの間ボンヤリと風景を楽しんでいたら、乃江さんに肩を
叩かれて親指で合図を送られた。
﹁降りるぞ﹂
癒しの風景を見せてくれたトラムに、少しばかり後ろ髪引かれる
思いが残った。
時間を見つけてもう一度乗ってみようと心に決め、乃江さんの後
を追いトラムを降りた。
トラムストップから歩く事数分、俺達はあるマンションに辿り着
1497
いた。
とても高級そうには見えない、どこから見ても普通のマンション。
どちらかというと古ぼけて見え、入るのに勇気を必要と感じさせ
る。
﹁到着しました、ここです﹂
陽気な声で美咲さんが手を上げ、その﹃味のある﹄マンションを
見上げた。
美咲さんの晴れやかな表情を見ると、心優しい師匠が待っている、
そして再会を心待ちにしている、そう言いたげな表情に見える。
古びたアパートを思わせるエントランスを抜け、これまた古い様
式のエレベータに乗った。
﹁階表示が矢印のエレベータって、初めて乗りましたよ﹂
とても乗り心地が良いとはいえないエレベータを降り、目的地の
部屋への通路を歩く。
美咲さんと乃江さんが足を止め、ノックもせずにいきなり扉を開
いた。
その奇行に驚き、慌てた他のメンバーを見て、美咲さんは苦笑し
ながら言い訳を始めた。
﹁お師匠様は何でもお見通しなのです。今来たことも、なぜここに
来たのかも。⋮⋮会えば分かりますよ﹂
そう言って玄関をくぐりぬけ、居間の手前で俺達を手招いた。
どうにも人の家で靴を脱がない習慣に慣れない。納得できない気
分のまま居間へと向かった。
広い家の中は、全てがバリアフリーに改造され、要所要所に手す
1498
りが設けられている。
小物が少なく簡素な居間には、申し訳程度の調度品が置かれ、そ
の奥に車椅子に乗った家の主が微笑んでいた。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
英語でもない独特の言語。マネの出来ない発音。
主の姿は褐色の肌と大きな瞳、縮れた黒髪に白髪を蓄えた恰幅の
良いご婦人だった。
アボリジニ⋮⋮。美咲さんの師匠はオーストラリアの先住民の人
だったのか。
美咲さんと乃江さんは涙を堪え、そのご婦人の足元に跪き、優し
く抱擁を交わしている。
二人を見下ろすご婦人は、聖母と例えるのがチープにさえ感じる
ほど、慈愛に満ちた表情を浮かべている。
﹁アンお母さん、私達の仲間よ﹂
美咲さんの言葉を聞き、アンさんは目を泳がせる。
その定まらない目の動きを見て、この人は盲目なのだと気づかさ
れた。
美咲さんはアンさんの傍へ来るように手招いた。
そして山科さんの手を取り、アンさんの手と重ね合わせた。そし
て二つの手に自分の手を重ね合わせ優しげな言葉で囁いた。
﹁山科由佳さん。情に厚く慈愛に満ちた人。私達に力を貸してくれ
た最初の仲間﹂
触れ合った二つの手が淡い光を発した。そして手と手に﹃赤い糸﹄
が繋がれたように見えた。
1499
美咲さんの赤い糸とまた違った赤い糸。強く太く、霊力に満ち溢
れていた。
﹁赤い糸⋮⋮﹂
呆気に取られたように、山科さんがアンさんを呆然と見つめてい
る。
山科さんだけじゃない、宮之阪さんも真琴も⋮⋮俺も同じ思いだ。
美咲さんは仲間の手を取り、アンさんの手と合わせ、一人一人丁
寧に紹介していく。
﹁宮之阪まりえさん。強い心と優しい心をあわせ持つ、頼れる仲間﹂
﹁藤森真琴ちゃん。痛みと悲しみを知り、それでもまっすぐ育った
若葉。私の新しい仲間﹂
そして俺の手を取り、美咲さんはニヤリと微笑んだ。
﹁三室カオルさん⋮⋮、私の未来の旦那様です﹂
その場にいた全員が目を見開き、盛大に吹き出した。一瞬その場
が騒然とし全員の頭がパニックに陥った。
そして俺はからかってるのだと理解し呆れ果て、その他のメンバ
ーはジト目で美咲さんを睨みつけている。
美咲さんは滝汗を掻いて、誤魔化すように苦笑した。そして仕方
ないなぁと小声で呟き、フォローの言葉を口にした。
﹁︱︱の予定﹂
情報を下方修正してみたが、ジト目の集中砲火は止まず、美咲さ
1500
んは咳払いを一つ入れた。
﹁︱︱の可能性﹂
まだ納得していない面々のオーラを感じ、ため息を一つ吐き渋々
ながら呟いた。
﹁34億分の1の可能性﹂
ざっくりと地球総人口を半分で割って見せた。
そこまで確率を落とされると、それはそれでへこむ。なにせ宝く
じの大当たりより確率が少ないのだから。
けれど美咲さん渾身のギャグは、アンさんの表情をほころばせる
事には成功したようだ。
﹃ミサキは相変わらずだね。体は成長しても心は子供のまま、先が
思いやられるよ﹄
軽い耳鳴りと共に、アンさんの声が頭に響いてきた。
山科さん達も顔を顰め、慣れない状況に戸惑っている。
﹁赤い糸でアンお母さんと繋がると、心が通じ合うのですよ。テレ
パシーみたいなものです﹂
これがテレパシー? 右耳と左耳が取り替えられたような違和感
を感じる。
赤い糸の効果って事か? さすが美咲さんの師匠、一味違う。
俺は確かめるように葵を見つめた。葵は目を細め、俺達の挙動を
いぶかしげに見つめている。
美咲さんは葵の手を取って、アンさんの手を重ね合わせた。
1501
﹁三室葵さん、将来の義妹候補﹂
キッと見つめる魔法組の面々に、なんか文句あるかと言いたげに
睨み返した。
まるでサル山のボス争いのように、直情的な攻防を繰り広げてい
る。
そして美咲さんはアンさんを見つめて、俺達に紹介を始めた。
﹁幼い頃私と乃江が自分の能力を制御出来なくなった時、助けてい
ただいた方なの﹂
乃江さんがコクリと頷き、どこか遠くを見つめるような、懐かし
む表情をした。
美咲さんの﹃赤い糸﹄と乃江さんの﹃心象風景﹄。それが制御不
能⋮⋮。
﹁私は触れるもの全てから残留思念を読み取れるようになった。知
らなくて良い情報が頭へ流れ込み、病院送り一歩手前の状態だった﹂
電車に乗り吊革を持てば、利用者の心が流れ込む。
触れ合う人の本当の気持ちが伝わってくる。
剥き出しの心が心を傷つけ、茨の檻に入れられた気分だろうか。
﹁私は意図せず赤い糸が見え、町中が真っ赤に染まりました⋮⋮﹂
人と人の縁なんてものは無数に繋がっている。
友の少ない俺でさえ、赤い糸は数え切れない程繋がっていた。
街行く人の赤い糸が解け、全ての赤い糸が露出する⋮⋮、考える
だけで頭が痛くなってくる。
1502
知らなくていい人の繋がりが見えるのは、乃江さんとはまた違っ
た苦痛を感じるだろうな。
﹁親の紹介で二人が訪ねた先がここ。アンさんの家だった﹂
﹁小学6年生の時でしたね﹂
微笑む二人の笑顔からは想像出来ないほどの過去だ。
そして美咲さんがアンさんの手を取って、モノマネをするように
おどけた表情を見せた。
﹁なんだいヒヨッ子が。私なんてね7つ先まで見えちまうよ。1つ
見えたくらいで悲観してどうする! ってね﹂
7つ⋮⋮。それは凄すぎる能力じゃないか?
例えば俺を越えて葵への縁が見える。それが美咲さんの能力。そ
の繋がりを7つ先まで見通せるって事だろ?
一人が10の縁を持つと仮定して、数人のサンプルがあれば全人
類をトレース出来るって事じゃないだろうか?
美咲さんが言っていた﹃師匠はなんでもお見通し﹄の言葉。あれ
は誇張でもなんでもないという事か。
﹁私にも言ってくれた。聞く事しかできないのかい? 修行不足だ
ねってね﹂
それを言われた時もテレパシー経由だったのだろう。
二人の驚く顔が想像出来る。自分達よりもっと凄い物を見せられ
ると、悲観してばっかりではいられないものな。
﹁そしてここで暫く厄介になりながら、能力を閉じる事を学んだの
1503
だ﹂
なにか心に引っ掛かりを感じた。
俺も昔見える力が手に負えなくなった。なったはずなのに⋮⋮、
その後の記憶がサッパリ無い。
俺の目は鳥になり、自分の器を抜け出して外から見えた筈なのに
⋮⋮。
ズキリと頭が痛み出した。
心が俺を誤魔化そうとしているのがわかる。
考えないように、見ないように、感じないように、無かった事に
しようとしている。
俺は眩暈を覚え、気が付くと床に跪いていた。
﹁おにいちゃん﹂
心配そうに俺の顔色を見つめ、額に手を当てているのは⋮⋮葵。
俺の肩を抱え、宮之阪さんと山科さんが近くのソファーへ運んで
くれた。
いきなりの状況に一番戸惑っているのは、間違いなく俺だ。
そんな俺を見透かすように、アンさんが重い口を開いた。
﹃他の娘らに力を貸すことは出来ても、この兄妹には力を貸すこと
は出来ないね。壊れてしまうかも知れないし⋮⋮ね﹄
アンさんが苦笑し、俺と葵を見えない筈の目で見つめていた。
俺は頭痛を堪えながら、アンさんに問いかけた。
﹁どういう事ですか?﹂
この訳の分からない状況を唯一理解しているはアンさん。その確
1504
信を持って疑問を投げかけた。
アンさんは糸を撫でる様に手繰り、目を閉じてニヤリと笑って見
せた。
﹃子想いの母がお節介にも力を押さえ込んでおる。それが原因で正
常だと言える。不用意に触れれば元には戻らない状況になる﹄
か、母さんか。
未だ母さんが守人の系譜だと信じれないのだが、そう仮定すると
全ての辻褄が合う。
身内に霊感が強い人を問うた時、ミサオおばあちゃんの名を出し
た。
ミサオおばあちゃんは鎮魂の刀を俺に手渡し、俺はカナタと出会
ったのだ。
﹁わ、私も?﹂
顔面蒼白の葵が、自分を指差して膝を震わせた。
乃江さんと心象世界に行った時の番人、ギュンター・Gの顔を思
い出した。
アイツは外敵を護る役目ではなく、俺から深層心理を護っていた。
アイツが何より恐れるのは、自分自身の本質に気づいてしまう事
なのかもしれない。
﹃力を貸すと言ってもね。そんな大層な事は出来ないよ。一言二言
声を掛けてやる程度の事さね﹄
アンさんはそう言って山科さんに手招きをした。
山科さんは恐る恐るアンさんに近づき、目を閉じて身を硬くした。
1505
﹃あんたは家で半端モノ扱いされてるけど、両親の本当の気持ちは
逆さ。好きな様にやったらいいと思ってる。全ての属性を極めなく
ても、一つの取り得を伸ばして欲しいと思っている。立場がそれを
言わせないだけさ﹄
その言葉を聞いて、山科さんはまるで憑き物が落ちたような表情
をしている。
そしてポロポロと涙を零し、大きな声を上げて泣き出した。
泣きじゃくる山科さんを抱きかかえ、アンさんが優しく頭を撫で
てあやしてくれている。
﹁うちは風の属性しか巧い事使えへんねん。火や水や言われてもな、
できひんもんはできひんし、家出同然でこっちに来たんや﹂
涙を拭いて鼻を啜る山科さんが、初めて聞く身の上話をしてくれ
た。
そういえばグラビティの能力が凄すぎて、他の属性観については
聞いてなかった。
他の属性が制御出来なくても、十分化け物じみているのだけど⋮
⋮。
そしてアンさんが山科さんが落ち着くのを見計らい、宮之阪さん
を呼び寄せて口を開いた。
﹃あんたは人の通った道を歩くタイプじゃないね。古い事を学ぶの
は大切だけど、そればっかりじゃいけない。自分で道を拓いて歩く
事が大事だよ﹄
宮之阪さんはその言葉を目を閉じて噛み締め、コクリと頷いて見
せた。
たった一言二言の言葉を聞いただけなのに、宮之阪さんの表情が
1506
豹変したように見えた。
信念を持った顔。そんな風に見えた。
﹁恐らくおばあさまの学問を引き継ぐだけじゃ、なんの意味も無い
と言う事だと理解しました。自分の道は自分だけのものだと言う事
ですね﹂
腕を組んで頷いている宮之阪さんが、いつもとは違い饒舌に言葉
の意味を語ってくれた。
後を追い続けるだけじゃ、おばあちゃんの用意した道を歩くだけ
⋮⋮か。深いな⋮⋮。
アンさんは最後に真琴を手招いて、神妙な顔で真琴の様子を窺っ
た。
﹃素直に育った若葉⋮⋮。とてもそうには見えないね。むしろ心は
傷だらけに見える。背中の傷がそうさせるのかい?﹄
その言葉を聞き、真琴がビクリと身を固くした。
そして訳を知る山科さんが心配そうに見つめ、口を挟むべきかど
うか戸惑っている。
﹁はい⋮⋮、恐らく﹂
真琴は怯えながらも、口を開いた。
そして俯いて悔しそうに涙を流している。
﹃私はあんたの傷を消せるよ。望むならいつでも消してやる。悔し
さを動機に生きるなんてやめちまいな。幸せになる為に生きないと
ね﹄
1507
真琴が膝から崩れ落ち、身を震わせて泣いた。
声も無く震えるだけの嗚咽。けれどその気持ちはみんなに伝わっ
ている。
﹃そこの男、気が効かないね。隣の部屋で目を閉じて待ってな、治
療が済んだら呼んでやるから﹄
アンさんはそう言い、手を振って俺を部屋から遠ざけた。
けれど真琴は首を振って、止まらぬ嗚咽の合間に言葉を搾り出し
た。
﹁カオル先生に隠し事したくない。恥ずかしいけど⋮⋮傷を見て欲
しい﹂
そう言って背を向けて、ゆっくりと上着を脱いだ。
ほっそりとした体を包むカットソー、それをたくし上げて手を前
に胸を隠した。
山科さん以外の全員が言葉を失った。
その山科さんでさえ、苦渋に満ちた表情で唇を噛んでいる。
真琴の背中の傷。服の上から撫でた事はあるが、実際目にするの
は初めてだ。
怒りで目の前が真っ赤になり、無意識に奥歯を噛み締めて、魂喰
いに対する殺意を湧き上がらせた。
鈍い切れ味の刃物で、肉を抉るように付けられた傷。
傷と傷で構成された辱めの言葉⋮⋮。女を家畜と同義にした言葉
が、真琴の背に刻印されていた。
﹁くっ﹂
俺は目を背ける事しか出来なかった。
1508
真琴はこの刻印を背負って今まで生きてきたのだ。
日毎に蓄積する悲しみと憎しみを背負って⋮⋮。
﹃美咲も手伝いな。乃江もだよ。この子を救ってやろうじゃないか﹄
怒ることしか出来ない自分が歯痒く、己の無力さにやるせない気
持ちで一杯になった。
1509
﹃ガーデンシティ﹄
﹃人の能力なんてものは、心持ち一つでどうにでも変わる。嫌々や
るのか、そうでないかだけでもね﹄
俺達はソファーに腰掛けてくつろぎ、お茶をご馳走になりながら、
アンさんの重みのある言葉に耳を傾けていた。
アンさんは一言二言助言をするだけで、魔法組のわだかまりを取
り除いた。
それは心の奥底を読みとり、人との繋がりを見極める事が出来る、
アンさんにしか成し得ない特殊スキルだ。
聞けば退魔士界でも屈指の預言者であり、呪術者なのだとか。
アンさんの言葉を傾聴する為に、政界、財界のトップ達がここへ
足を運ぶらしい。
まさに世界を見渡す目、影のフィクサーと言っても過言ではない
だろう。
﹃どうだね? 若葉の女の子?﹄
真琴は衣服を整えて別室から戻ってきた。
少し戸惑いの表情を見せ、曖昧に首を縦に振り、手招く山科さん
の隣へ座った。
俯いて小さくなっている真琴を、山科さんが優しく抱きしめてい
る。
心の傷、体の傷、その両方をバネに生きてきた真琴。
体の傷が消えたとはいえ、まだ心の傷は生々しく残っている。
だが真琴の気持ちを察する事は出来ても、痛みを分かち慰め合う
事は出来ない。
普段の真琴に戻るには、もう少し時間が必要だろう。
1510
けれどすぐに立ち直る。俺の知る真琴は強い子だから。
﹁アンお母さん、例の件ですが探せそうですか?﹂
手に持った紅茶のカップを休め、美咲さんが話を切り出した。
7つ先まで見通せるという強力な赤い糸。
アストラルボディ
その能力で﹃魂喰い﹄を見つける事は出来ないかと考えたからだ。
﹃人形繰り、幻獣召喚、スキルを盗め、意識体で動き回れる能力者
ねぇ⋮⋮。そんな変り種の魂に出会った事無いねぇ﹄
さすがのアンさんでも、魂喰いを見つける事は容易ではないのか。
今までの経験と、俺達から辿れる糸。その両方から辿れないとい
う事は、魂喰いの正体を知る者は皆無に近いと言う事だ。
恐らく奴は、自分を知る者をこの世から消し去り、周到に痕跡を
消しているに違いない。
﹃そんな落胆した顔するんじゃないよ。どんな魂も一人では生きら
れないんだ。そのうち見つかるさ﹂
悔しがる美咲さんの背をポンポンと叩き、大きな声で笑って見せ
た。
俺達はアンさんのマンションを後にし、トラムに乗りホテルへ向
かっていた。
思惑通りに事が運ばなかった悔しさで、美咲さんの表情は冴えな
かった。
1511
腹心である乃江さんと神妙な面持ちで話をし、近寄りがたい雰囲
気を醸し出している。
山科さんと宮之阪さんは、そんな雰囲気もそっちのけ。真琴寄り
添い、これまた近寄りがたい雰囲気を醸し出している。
﹁おにいちゃん﹂
葵は小声で俺に囁きかけ、重苦しい元凶の方を向いた。
元気印だった真琴が無言になるだけで、隊全体の雰囲気がこんな
に変わるとは。
何時も元気の無駄使いしているだけと思ったが、真琴の影響力は
恐ろしいものがある。
﹁真琴を元気付けるのは、おにいちゃんの役目だよ﹂
むう⋮⋮。
異性である俺に体の傷を見られたのは、同性に見られるのとは違
い嫌なものだろう。
たとえ傷が消えたとしても、見られたという事実は消えないもん
な。
俺も美咲さんに﹃リトルマグナム﹄を見られた時、そして苦笑さ
れたショックは大きかった。未だに傷は癒えていないもんな⋮⋮。
﹁よっしゃ、分かった。何とかしてみよう﹂
なんて安請け合いしてみたが、どうやって元気付けるかなんて考
えちゃいない。
真琴の喜びそうなもの、元気が付きそうな事。そう考えて行き詰
ってしまった。
⋮⋮思い浮かばん。
1512
俺の顔色を窺っていた葵は、深いため息をついて見せた。
そして呆れた表情で、俺の耳を引っ張り顔を近づけた。
﹁真琴が元気になる特効薬は、おにいちゃんでしょ? ね? カオ
ル先生?﹂
カオル先生⋮⋮か。
真琴は出会った当初から俺の事を﹃先生﹄と呼んでくれている。
大した事は教えていないのだが、嬉しくもそう呼んでくれる。
真琴が俺に見出した価値というか、そんな何かあるのかもしれな
い。そういう事か。
﹁なんとなく葵の言わんとすることが分かった。さすが俺の愚妹、
稀に賢いな﹂
トラムが乗り場で停車し、観光客が物珍しそうに乗り込んできた。
俺は降車のベルを鳴り響かせ、運転手に合図を送った。
そして気落ちした真琴の前に立ち、両脇を持って抱え上げた。
﹁すんません、真琴を借ります。アディオス、アミーゴ﹂
俺はそれだけ言い残し、乗客達が呆気に取られる中、真琴を抱え
悠然とトラムを降りた。
誘拐と間違われてもおかしくない状況だったが、手を振って見送
ってくれたメンバー達のおかげで事なきを得た。
そしてトラムが走り去るのを見送って、真琴を抱えたまま無言で
歩き出した。
﹁カオル先生、恥ずかしいです﹂
1513
肩に抱え上げられたまま、真琴が赤面し手で顔を覆った。
道路を通行している車からは、怪訝そうなドライバーの顔。通り
を歩く人も、俺と真琴の様子を訝しげに見つめている。
﹁ん、分かった﹂
そう一言だけ告げて、俺は真琴を抱えたまま歩き出した。
真琴はしばし思考を巡らせ、ジタバタを手足を動かして暴れ始め
た。
﹁分かってな∼い! 全然分かってない!﹂
ふむ、この状態もここらが限界だな。通行人の刺す様な視線が痛
すぎる。
外国人は幼子の誘拐には過敏に反応するからな、マジで通報され
たらシャレにならん。
俺は腰をかがめ、そっと真琴のつま先を地に付けた。そして乱れ
た服を手早く整えた。
真琴も俺の突飛な行動につき合わされ、ほんの少しだが落ち着き
を取り戻したようだ。ふむ、良い傾向だ。
﹁真琴、ここは何処だろうか?﹂
勢いに任せてトラムを降りてしまったが、よくよく考えると異国
の地。
右を見ても左を見ても、見覚えのある風景には出会えない。
﹁知らないのに降りたんですか? カオル先生ってダメですね﹂
そう言って鞄から旅行雑誌と、メルボルンの市街地図を取り出し
1514
た。
そしてキョロキョロと道路標識を見回して、広げた地図を指で擦
っている。
﹁シティサークルトラムって、市内をぐるりと回ってるだけだから、
ホテルからそんなに遠くないですよ?﹂
真琴は現在位置からホテルの位置まで、スッと指を動かして俺に
教えてくれた。
なるほど地図の縮尺から換算するに、1キロちょっとの距離か。
﹁よし、道案内は任せた。歩いて帰ろう﹂
真琴の頭をポンポンと撫でて、道案内役に任命した。
そして安心して歩き出した俺を見て、真琴は慌てて服の裾を掴ん
だ。
﹁先生!そっち逆。逆方向﹂
あうっ⋮⋮。
俺は風景を記憶して覚えるタイプだから、地図見るの苦手なんだ
よな。
地図も北を上にして見るの苦手だしな。
﹁じゃ、こっちか?﹂
逆方向を指してみても、心の中に不安が残る。
俺はバックパッカーな旅は向いてないわ。
けれど戸惑ったお陰で、真琴の苦笑する顔を見れた。真琴は仕方
ないなと小声で呟き、迷子の子を安心させるように手を握った。
1515
﹁方向音痴のカオルセンセ。ナビゲーターの真琴に任せなさい﹂
﹁あいよ﹂
少し明るさを取り戻した真琴を見て、ホッと胸を撫で下ろした。
街を見回すと、車窓から眺めるのとまた違った風景が広がってい
た。
美しい街並みに、住む人々の笑顔が加わり、より一層街を奥深い
物にしている。
﹁人の作った自然。聞こえが悪いかもしれないけど、この街はそん
な言葉が似合うね。人の歴史を感じるよ﹂
草木や山々の見せる本当の自然。残念ながらその自然には、人の
匂いは似つかわしくない。
この街は人工の美だけど、ここで生まれ育った人の匂いがする。
俗っぽいのかもしれないけど、どちらも捨てがたい良さがある様
に思える。
﹁突き詰めると、枯山水って感じですね。苔生す岩で山や島を模し、
波を表現した玉砂利。人の作った完成された美﹂
なるほどな、龍安寺の雰囲気と似てるかもしれないな。
メルボルンは整備された公園が多く、旧世代の建造物が多い。見
立てるものは違うけれど、これも一つの侘び寂びの世界か。
﹁しかしメルボルンってさ、公園多くないか?﹂
空港からタクシーに乗った時も、トラムに乗って風景を眺めた時
1516
も、公園の多さが目に付いてしまった。
良く整備されたごみ一つ落ちていない芝生が、新旧の建築物の合
間に溶け込んでいた。
﹁メルボルンは別名ガーデンシティです。街の1/4が公園ですよ﹂
旅行ガイドを広げて、薀蓄を語る真琴。
なるほど公園の街か。子供達は遊び場に困らないだろう。
土地の乏しい日本から見ると、羨ましく思えてしまう。
﹁そういや真琴と言えば公園のイメージだよな。公園にとっては迷
惑極まりないダメっ子だったけど﹂
出会った当初の真琴は、自分の能力すらコントロール出来ない半
人前だった。
課題をクリアするまで家に帰らないし、公園の土を耕すしホント
困った奴だった。
﹁その話は勘弁ですよぅ。反省してますってば﹂
真琴もその頃を思い出したのか、苦笑しながら胸の前で手をバタ
つかせている。
﹁あれ以来真琴の能力を見てやれてないけど、どうだ? 強くなれ
たか?﹂
バックアップ系という事で、真琴の育成は山科さんと宮之阪さん
に任せっきりだった。
俺も二人に修行を付けて貰ったが、相当ハードな内容だったし、
苦労したのじゃないだろうか。
1517
﹁試してみます?﹂
真琴の指差す方向には、小さな公園があった。
人のいない寂れた公園だったが、それを目的とするならば最高の
場所だった。
﹁真琴の癖にちょございな。AとB、記号の差だけじゃない事を教
えてやる﹂
俺は背負っていたリュックを紐解き、守り刀とナイフを取り出し
腰に差した。
そしてカンガルー皮のグローブを手に取り、完全装備で公園に足
を踏み入れた。
道路と公園を区切る大きな木をくぐり抜け、綺麗な芝生の広場に
たどり着いた。
﹁カナタ、トウカ。本気でいくぞ﹂
真琴の戦闘は試験の時に垣間見た。
余裕を持って胸を貸してやれるほど、俺と真琴の力量差はないと
思ってる。
本気で行かないと大怪我してしまうからな。
﹁負けたら面目丸潰れじゃ、心してかかれ﹂
頭上の顕現した二人の神は、俺の気にしている事を言い放った。
真琴は遠間で立ち、抱えていたトートバッグを地面にそっと置い
た。
そして開始の合図も無く、徒手のまま全速で踏み込んできた。
1518
﹁前衛に接近戦を挑むなんて、気概を感じるねぇ﹂
ナイフに手を添えていたが、そういう心算なら刃物は無粋という
物だ。
手を胸の前に突き出し、もう一方の手を腰に落とした。
闇雲に突っ込んでくる真琴に向かい、けん制の拳を振るい足を止
めた。そして半歩下がって蹴りを見舞った。
真琴は一発目の拳を、持ち前の俊敏さで軽々と避け、サイドステ
ップした。
半歩下がった俺の挙動を見て、回し蹴り気味に薙いだ脚を、背面
飛びの要領で軽やかにかわした。
そして俺の左手の袖を掴み、背後に回りこむように腕を極め、後
ろ足で膝の裏を蹴って崩された
﹁ユカちゃん流古武術 小手返し﹂
そっちがユカちゃん流なら、こっちは乃江さん流だ。
刈られてない脚で地を蹴り、側転気味に力を加え、真琴の体に背
を預けた。
空中で再度捻りを加え、猫のように四脚で着地した。
﹁真琴⋮⋮、ユカちゃん流ってさ。言ってて恥ずかしくないか?﹂
﹁先生こそ猫みたいで、気持ち悪いよ﹂
技の罵り合いは両者痛み分けとなった。
舌打ちをしながら一旦距離を取り、反撃を待たずに攻めに転じた。
思考を長考モード全開にし、真琴の胸元に正拳を放った。
コマ落としのスローな世界で、真琴は正拳を視認し両手で押さえ
1519
た。そして脇に挟もうと導いている。
しかし俺も山科さんの古流の怖さを知っている。関節と極め壊し
に来るからな。
一撃目の拳を変化させて、次の手で勝負を掛ける。
正拳の勢いを止め、肘打ちに変化させて真琴の顔を狙った。
真琴は拳から手を離すかと思ったが、逆に引き落とすように力を
加え、肘打ちの自由度を奪った。
しかしその防御も、肘打ちを完全に殺す事は出来なかった。
肘は額を掠めるようにダメージを加え、苦痛に呻く真琴の声が耳
に響いた。
よろめく真琴に追い討ちを掛け、脚で腹部と胸部を狙い蹴り込ん
だ。
肘打ちをかろうじ避け、その二段蹴りを手と膝で捌いた真琴は、
一足飛びで後方に下がり、肩を上下させ息を乱している。
﹁接近戦で勝とうなんて甘い﹂
﹁むぅぅ﹂
不満そうな表情を浮かべたが、接近戦は分が悪いと踏んだのであ
ろう。
両手を頭上に掲げ、荒げる息を整えつつ剣を召喚し始めた。
﹁Swords Fifty−five﹂
無数の剣が真琴の頭上に具現化されていく。
恐らく1から10全ての剣、その数55本。一本一本に意が籠め
られ、敵対する俺に剣先を向ける。
一本二本なら避けて払い落とせるが、55本となると話は別だ。
恐らく真琴は一斉射撃で止めを刺す筈だ。
1520
﹁降参するなら今の内ですよ﹂
ちょっと勘弁して欲しいかなと思ったが、あからさまに情けを掛
けられると、それはそれでカチンと来る。
真琴の実力で55本の操作は難しいと予測される。
恐らくは対象に向かい射出するだけで、精度の高いコントロール
は出来ない筈だ。
故に初手を掻い潜れば、二の太刀は無い。
﹁真琴のヘナチョコ技なんて、数撃てば当たるってもんじゃ無い﹂
﹁なにおう! 今のはかなりカチンと来ましたよ。そこまで言うな
ら仕方ないです﹂
真琴は顔を真っ赤にして地団駄を踏んだ。
そして両手10本の指を大きく広げて、俺の方向へと腕を差し出
した。
攻撃対象を俺と定めた剣達は、真琴の手元から一斉に放たれた。
長考モードで射出された剣の軌跡を追い、よく出来た技だと感心
した。
直線状に穿つ剣は1/4。その他3/4の剣は、放物線を描くよ
ふうひょうか
うに上と左右から回り込んでくる。
こりゃ風飄花でも避けきれないな。
冷静に観察してみた物の、何もせずに穴だらけにされる訳にはい
くれないかすみ
かないし、トウカのナイフを抜刀し目の前で身構えた。
﹁紅霞﹂
トウカのナイフに霊気を籠め、55本の剣の行方を目で追った。
1521
いち早く到達した刃先が体をすり抜け、恐怖感を感じつつ歯を食
いしばった。
全ての剣は俺を通過し、後方の地面に突き刺さっていった。
真琴は恐る恐る目を開き、あっと驚いた表情をして駆け出した。
﹁カオル先生、大丈夫?﹂
俺の手を取り裏返して見、続いてお腹と背中を見て、呆気に取ら
れている。
俺が浜辺で手合わせした時に、乃江さんが使った技だった。
あの後浜辺でその技のコツを教わり、ついでにニャンコの受身技
くれない
も教わったのだ。
﹁乃江さんと紅が開発した技だ。コツは簡単でな﹂
﹁ふむふむ﹂
真琴も技の正体には興味を惹かれている様だ。
目を輝かせてウンウンと頷いている。
﹁桃源境に行こうとして止める。それだけ﹂
真琴はそれを聞き、ガックリと肩を落とした。
俺も聞いた時は同様のリアクションをしたのだが、これはこれで
使い勝手が良い。
桃源境へ渡るのに相当の霊力を消費する。けれどこの技だと霊力
が失われる前にキャンセルする事が出来る。
連発が効かないが、ここ一番の回避には持って来いなのだ。
﹁油断すると桃源境に行ってしまうし、発動とキャンセルするタイ
1522
ミングが微妙でな。ギリギリまで引き付けないと出来んのだが﹂
ちなみに技の名前は乃江さんが付けた。
バリエーションが幾つかあるそうだが、詰め込みすぎるのは良く
ないと叱責されたのだ。
今度また教わらねば。
﹁しかし真琴のアレ、中々良いな。手元で剣を具現化せずに、周囲
を取り囲むように作り出してみたらどうだ? 恐らく回避不能だぞ
?﹂
﹁ほぇ、なるほど。メモメモですよ﹂
﹁技名は俺が付けてやろう。﹃黒ヒゲ君危機一髪﹄とか﹂
真琴は脱力系ネーミングが好きかと思ったが、本当に脱力して突
っ伏してしまった。
しくしくと泣く真琴の横で、芝生の上に大の字になった。
﹁真琴の実力は分かった。安心して背中を任せられるよ﹂
﹁私がカオル先生のバックアップを?﹂
お世辞じゃなく本心からそう思える。
体術も相応に切れるし、身のこなしが軽い。長距離に難があるか
と思ったが、敏捷性で十分カバー出来るだろう。
﹁俺も真琴もまだまだ未完成だけどな﹂
﹁精進あるのみですね!﹂
1523
そう言って真琴も大の字に寝転んだ。
荒れた呼吸が徐々に収まりを見せ、それと共に周りの木々の葉鳴
りが聞こえてきた。
﹁真琴は傷の事、どう思ってるんだ?﹂
唐突ではあったが本題を切り出した。
途端に真琴が息を飲んだのが分かったが、腫れ物を避けてばかり
はいられない。
気の利いた奴なら、それとなく伝えれるんだろうけど、そんな回
りくどい事は俺にはムリだ。
﹁正直消えて嬉しいです。でも⋮⋮本当に良いのかなって思ったん
ですよ﹂
真琴は親を亡くした事、そして背中の傷を糧に生きてきた。
背負ってきた十字架だとはいえ、真琴を今まで支えてきた事は確
かだ。
﹁怖いんですよね。普通に戻るのが。弱くなっちゃいそうで﹂
けれどそんな支えが無くても、強く生きて行くべきだと思う。
真琴もその事は分かっている、けれど一歩を踏み出すのが怖いの
だと思う。
﹁真琴が笑えば山科さんも喜ぶ。真琴の事を一番気遣ってくれてい
る人だろ?﹂
﹁うん、ユカさんには心配かけたもんね。いつも私が寝ている時に、
1524
こっそり霊気治療してくれてるの知ってるから﹂
傍から見ていて本当の姉妹以上に感じるものな。
本当に良い関係だと思う、羨ましい位に⋮⋮。
﹁真琴は自分を過小評価してると思うぞ。隊の新参者でランクBで
中坊でちびっ子だと思ってるだろ?﹂
﹁ん∼。今はそんな事ないけど親の件があるから、お情けで隊に加
えて貰ってる気がしていました﹂
そんな事ないんだけど、出会い方が唐突だったからな。
こちらもそういう理由で加入させるしかなかったし、口実が見つ
からなかったんだよな。
﹁でもさ凄い低い確率だったんだよ。真琴がメールを入れたのは、
俺がライセンスを貰った直後なんだぜ?﹂
ほんの少しすれ違っていたら、俺達と真琴は出会ってなかった。
俺はあの必然ともいえる偶然に感謝している。
﹁真琴が来てからみんなの様子が変わったの知ってるか?﹂
﹁そうなんですか?﹂
これまで俺はぼんやりとそう思っていた。悪く言うと個人主義で
個々の繋がりが薄い。
魂喰い討伐を目的に寄せ集めたメンバーだから、仕方ないのかも
知れないけど、確かに良い意味で変化している。
1525
﹁真琴の笑顔と元気で、隊を明るく照らし出して、漆喰のように人
と人の隙間を埋めている﹂
照れ臭い言葉を吐き、俺は真琴に背を向けた。
俺にはこれ以上の言葉も考え付かない。
心に思っている事を言うだけなのに、こっ恥ずかしくて変な汗が
出て来る。
﹁カオル先生、ありがと﹂
真琴は俺の背に向かい言葉を投げかけた。
振り向かなくてもどんな顔をしているのか分かる。
俺の好きないつもの真琴の笑顔だ。
1526
﹃美咲隊 存続の危機
01﹄
真琴と俺はホテルに戻り、フロントに預けた荷物と部屋の鍵を受
け取った。
団体行動を乱して挨拶無しに部屋に戻る訳にもいかず、無事を伝
えるべく美咲さんの部屋の扉を叩いた。
しかし扉の向こうからは何の応答も無く、人の気配も感じられな
い。
隣の部屋へ挨拶しに行った真琴も首を傾げている。
﹁乃江さんと葵さん、部屋にいないみたいです﹂
真琴は自室の鍵を差し込み、中を窺った後怪訝そうな表情で俺を
手招いた。
宮之阪さんの部屋に集合していたのか⋮⋮。そう思って真琴と共
に部屋を覗き見た。
しかし部屋から感じる雰囲気は、和気藹々とした雰囲気では無か
った。
例えると⋮そう、議論をぶつけ合う様な、ささくれ立った雰囲気
だった。
﹁美咲はその通達、ハイそうですかって呑むんか?﹂
山科さんが手に持った書類を叩き付け、顔を真っ赤にして憤慨し
ている。
宮之阪さんは無言で書類に目を落とし、物憂げな表情で頬杖を付
いた。
乃江さんと美咲さんは無言のまま立ちすくみ、みんなの輪の外で
葵が一人オロオロと戸惑っていた。
1527
﹁あのう、ただいま⋮⋮﹂
声を掛けるのも躊躇われる雰囲気に、尻込みしながらも挨拶を交
わした。
乃江さんは挨拶も半ばで、俺と真琴に紙を一枚ずつ手渡してくれ
た。
﹁まずはその書類を読んで、それから意見を聞かせてくれないか?﹂
乃江さんの表情と、この場の雰囲気から察するに、この書類の内
容はとんでもない内容だという事は分かった。
俺は書類に目を落とし、その内容に驚愕させられた。
手渡された書類、それは退魔士を束ねる組織からの通達書だった。
それも美咲さんに依頼した﹃魂喰い﹄案件の契約解除の⋮⋮。
期限は9月末日、9月1日からは後続の部隊に引継ぎだって?
事務的に文言を選んでいるが、有体に言うと﹃クビ﹄って事じゃ
ないか?
みんなの深刻な表情、その意味が理解できた。
この商売は情報が早い。
任務不履行となれば、今まで培ってきた評判も水の泡になるし、
最悪の場合ランク査定に影響すると聞く。
俺のように名を売る事が目的でない場合、そんな事は大した問題
ではない。
けれど家柄も腕も名の通っているみんなの気持ちは複雑だろう。
自分一人の問題では済まされないからな。
﹁美咲さん、マジっすか?﹂
美咲さんは無言で頷き、深いため息を付いた。
1528
そう言えばアンさんの家からの帰り、美咲さんの表情は冴えなか
った。
アンさんの能力が空振りに終わった事を、誰よりも落胆していた
のは美咲さんだった。
オーストラリア旅行も美咲さんの差し金だったし、もしかして前
から解任になる事を予測していたのか。
﹁任について1年と6ヶ月、その間の成果は皆無に近い。それに今
回また犠牲者を出してしまった﹂
言葉も出ない美咲さんの代わりに、乃江さんが状況を話してくれ
た。
確かに長期にわたり成果を上げていない。そう言われるとぐうの
音も出ない。
けれど犠牲者に関しては当局のミスだろうに、なんで現場が責任
を取る必要がある?
﹁隊は解体、引継ぎ人員を残して、みんなバラバラや﹂
山科さんはそう息巻いて天を仰いだ。
宮之阪さんも寂しそうな表情を浮かべ、再び通達に目を落として
いる。
美咲さんが旅の間食が細かったのも、この事に気を病んでの事か
も知れない。ここ数日まともに食事をしていないもんな。
美咲さんだけじゃなく乃江さんもそうだ。この旅行中笑っている
所を見てないからな。
二人にとってアンさんの赤い糸は、現状を打破する切り札だった
のだろう。
そして突然話を聞かされた山科さん達も、青天の霹靂、寝耳に水
だろうし、心の準備もあったものじゃない。
1529
﹁うち、ちょっと頭を冷やしてくる﹂
そう一言だけ告げて山科さんは席を立った。
真琴も山科さんの表情を窺い、いても立ってもいられず後を追い
かけた。
美咲さんは悲しげな表情で二人の背を見つめ、ガックリと肩を落
として意気消沈してしまっている。
そして消え入りそうな声で、俺達に向かい口を開いた。
﹁すいません、今後の身の振り方について、考えていただけますか
?﹂
山科さんと真琴を欠いた状態で、話を進めるのは欠席裁判みたい
なもの。
これ以上話を進めるわけにもいかず、美咲さんと乃江さんは部屋
を後にした。
宮之阪さんと葵、そして俺が残された部屋には、重苦しい雰囲気
が立ち込め、苦笑する雰囲気ですら無い。
葵は床に散らばった書類を拾い集め、テーブルの上を片付けなが
ら口を開いた。
﹁おにいちゃんが悩む事なんてないじゃない。引越し費用出します
から、退去してくださいと言われた訳じゃないし﹂
葵はサラリと言いのけて、テーブルの上へ書類を束ねた。
俺は葵の一言で、漠然とした閃きが頭を過ぎった。そしてその事
を確認すべく、再び書類に目を通して確認をした。
﹁愚妹よ⋮⋮、お前やっぱり賢いよ﹂
1530
まだ纏まらない現状打破の方法。
それを頭の中で模索し、具体的な問題点を一つ一つ潰していく。
まずは現状維持の方法論、そしてプラスアルファーの考え方だな。
俺は落ち込んだ宮之阪さんの前に座り、漠然とした思いを口にし
た。
﹁宮之阪さんが真面目に狩りをしたら、一ヶ月でどれ位の報酬を得
る事が出来ますか?﹂
突然の俺からの質問に、面を食らいながらも指折りして計算を始
めた。
そして指を四つ折った所で、戸惑いながらも口を開いた。
﹁B∼Aランクの魔物で10体程。大型案件でも4つはこなせると
思います﹂
ふむ、大体俺の予想をクリアしているな。
魂喰いの人月費用を説明された時に、美咲さんが言ってたもんな。
”ランクAが真面目に働いたら月3千万位稼げる”と。
逆転の論理で言うなれば、不真面目に狩りをしていても、今まで
の給料分は稼げるという事だ。
﹁宮之阪さんはこの状況をどう考えます?﹂
俺の考えは方法論の一つに過ぎない。
あくまでも個人の気持ちを尊重すべきだし、方法論のお仕着せは
良くない。
﹁私はこのまま日本に留まろうかと思っています。お店の事も、タ
1531
マちゃんの事も気掛かりだし、なにより携わった以上、最後まで見
届けたい気持ちが強いです﹂
なるほど⋮⋮。俺と同じ意見と考えて良い。
それならば腹を割って話を進めていいかも知れない。
俺は宮之阪さんに耳打ちし、俺の思いについて相談してみた。
﹁そうですね、真面目にやれば⋮⋮、足りない分は手分けすれば可
能だと思います﹂
かなり色よい返事を頂けた。
けれどこの件は宮之阪さんに無理強いをしている。このまま話を
続けて良い物やら。
﹁けど、元々は研究費の為だったんですよね。無理してませんか?﹂
宮之阪さんの言いにくいであろう言葉、俺がそれを代弁して宮之
阪さんを察してみた。
けれど宮之阪さんは首を振り、笑顔でそれを否定してくれた。
﹁アイテム作りの過程で研究を兼ねています。元手を取れれば問題
ないですし、むしろ大手を振って出来るなら、それはそれに越した
事は無いですから﹂
ふむ、なるほど。
それじゃあ黒字を出してうまく事を運べば、利益については分配
できるな。
﹁了解。葵と宮之阪さんはみんなを呼び戻してくれないか? 俺は
ちょっと考えを纏めてくる﹂
1532
俺は部屋を飛び出し、自室に駆け込んだ。
そしてリュックから携帯を取り出し、部屋に備え付けの電話で、
よく知る番号に電話を掛けた。
電話は呼び出し音を数回鳴らし、音も無くコールが鳴り止んだ。
﹁牧野? カオルだけど⋮⋮﹂
俺が電話を掛けた相手はファントムだった。
そして現状の確認と、今後の意識あわせを試みた。
﹁⋮⋮で解散となれば、お前にも影響あるだろ?﹂
﹃ああ、確かにな。依頼主からは打ち切りの連絡が来るだろうし、
そうなると干されるな﹄
やはりファントムも俺達と一連托生の運命か。
ファントムは亜里沙さんを置いてこの地を離れられない。それが
ファントムのウィークポイント。
俺はその点を切り札に、ファントムと交渉を進めた。
﹃2? 足元見すぎだろ? 半分は貰わないと﹄
﹁こっちが立たなきゃ意味が無い。煽りを食って牧野も干されるん
だ。これは譲れないな﹂
﹃すいません、3でお願いします。カオル様﹄
﹁仕方ない、3で手を打とうよ⋮⋮。ついでに過去案件を纏めて置
いてくれたら、期限内のは回収するから﹂
1533
﹃了解﹄
予想通りファントムとの交渉は成立した。
あとはみんなの気持ち次第だな。
俺は電話を置き部屋を出て、みんなの待つ部屋へと向かった。
宮之阪さんの部屋では既に全員が待機し、部屋に入る俺の姿をジ
ッと見つめている。
﹁カオル話したい事ってなんや? うちは気が滅入っとるんやけど﹂
山科さんが浮かない顔をして、ため息交じりに口を開いた。
俺は先ほどの書類を片手に、深呼吸をして﹃書面の内容﹄を再確
認した。
﹁この書面に書かれている内容は、﹃案件の依頼打ち切り﹄と﹃後
続への引継ぎ﹄についてだけですよね?﹂
一同は書類に目を通し、一様に頷いて見せた。
そしてそれがどう言う事か問いかけるように、俺を見据えて首を
傾げている。
﹁屁理屈かも知れませんが、この地を去れとも書かれていない訳で
す﹂
書類には契約の解除と、引継ぎの日時しか記載されていなかった。
魂喰い対策班以外の地区不可侵という条項が問題なのだ。皆は契
約解除=撤退と固定概念を持ちすぎている。
書類に記載されている事は契約の解除と引継ぎの件だけ。
覚悟すべきは契約が切れた後、報酬が払われないという事だけだ。
1534
﹁拡大解釈すれば、当地の滞在と狩り、その他一切を禁じられてい
ない。ならば狩りをしながら、この地に留まる選択肢も残されてい
ると思いませんか?﹂
その言葉に真琴が素早く反応し、嬉しそうに口を開いて俺の結論
を口にした。
﹁ですね、魂喰いを討伐しないでくださいとも書かれてません﹂
俺は真琴の言葉にその通りだと頷いて見せた。
そして契約不履行としても、最低限の目的は達することが出来る。
ある程度は汚名を返上出来るという訳だ。
真琴の言葉を聞き、山科さんは表情をパッと明るくして、いつも
の調子で話し始めた。
﹁退魔士が踏み込めへん閉鎖地区やし、狩り放題ちゃうか? 案外
イケるかも知れへんで?﹂
山科さんを牽制する様に、乃江さんが口を開き、嗜める様に意見
を口にした。
﹁いや、この地にいる退魔士を忘れているぞ。ファントムだ⋮⋮、
アイツのおかげで我らは殆ど狩りをしなくて済んだ。逆を返せば狩
りをする余地なんて無いという事じゃないか?﹂
だよな、普通はそう考える。
俺達を魂喰いに集中させる事、手を煩わせない事、いざとなれば
俺達を護るのがアイツの役目だから。
これを口にするのは憚られるが、この際仕方ない。
1535
﹁唐突にこんな事を言って驚かれるかもしれませんが、ファントム
はヘッドハンティングしました。契約内容は簡単です、討伐した魔
物の情報と引き換えに、報酬の三割を支払う事、そして存在を追求
しない事です﹂
チラリと美咲さんを見て、目配せをして見せた。
牧野=ファントムと知っているのは美咲さん一人だ。美咲さんも
俺の意図を理解し、阿吽の呼吸で微笑んでくれた。
﹁ファントムって⋮⋮、カオルが落としたんか? どうやって?﹂
当然そういう言葉が出るよな。嘘を吐くのは心苦しいが、これも
隊の為だ⋮⋮。ごめんなさい、みんな。
﹁情報屋から連絡先を入手していまして。姿を隠す為に討伐届けを
出していない事は、前から分かっていた事ですし、それならば⋮⋮
と﹂
﹁なるほどな。代わりに届出するから、手数料をよこせと脅した訳
や﹂
そう言われると二の語が出ない。言い方は悪いけどその通りだし。
牧野の契約と俺達の立場、その両方を生かしつつ、更にいい条件
に整えただけ。
あいつの契約を不履行にした訳じゃないし、むしろ﹃守る﹄意味
では契約に則った行為だと言える。
﹁ビジネスパートナーという位置づけで考えましょう。傭兵と言っ
た方がしっくりくるかも知れないけど﹂
1536
そう言ってみんなを納得させた。
細かいツッコミが来るとかわし切れないと思っていたが、意外や
意外すんなりと受け入れてくれた。
俺は反論が無い事を確認した後、状況説明を続けた。
﹁けれど狩りをして、今まで通りの生計を立てるのは難しいです﹂
給料なんて大した問題では無いと思うだろうが、退魔の世界では
そうは行かない。
情報屋一人に手渡す金額も法外だし、戦力を補う人員補強も然り
だ。
狩りなんてものは湯水のようにお金を使い、それ以上の利益をう
る博打の様な物だ。
当局の後ろ盾が無ければ尚更、軍資金は必要になってくる。 その点については乃江さんも同じ考えのようで、口添えするよう
に意見を言った。
﹁その通りだな。例えファントムが月に3千万稼いだとして、3割
差っぴくと2千万にしかならん。軍資金の目減りは避けられんぞ﹂
その3千万ってのも理論値だし、2千万ってのも皮算用だ。
どちらにしろ給料は満額出ないと覚悟する必要はある。けれどや
りようによっては、もう少し損失を減らせるかもしれないのだ。
﹁そこでですね、商売をしようと思うんです。これは宮之阪さんに
相談した事ですが、魔法アイテムを売って利益を得ようと思うんで
す﹂
既にショップを経営しているとは、口が裂けても言えない事。
1537
だけどそれを既成事実に持っていければ、俺と宮之阪さんの思う
壺だったりする。
﹁魔法アイテム?﹂
目を見開いて真琴が声を漏らした。
自力で狩りが出来る者からすると、そういうアイテムは不要と思
うのだろうが、世の中にはそういうアイテムを欲しがっている人も
居るのだ。
﹁例えば山科さんの風弾とか、一個100万付けても売れると思い
ますよ﹂
あくまでも保険の意味で、ああいう一発を持つ事は余裕に繋がる。
それに俺も風弾で命を救われたような物だし、その価値を換算す
ると100でも安い。
﹁ほえ、そやろか? あんなビー球みたいな奴が100ねぇ⋮⋮﹂
﹁風弾だけじゃなく神道のお守りとか、宮之阪さんの治癒薬や魔法
付与薬を通販すれば、幾らか足しになると思います﹂
宮之阪さんは趣味の範囲でしか商売をしていない。
週に数時間だけ営業しても採算が取れているらしいし、本気で商
売すればそれなりの需要にも対応出来るだろう。
﹁美咲さんは得意のパソコンで通販部門、宮之阪さん山科さんはア
イテム作り、残りの面々でお手伝いすれば、夜には狩りも出来ます
し、魂喰いを追跡する事も可能です﹂
1538
そして一番大切な一言。
一番言いたかった事を口にした。
﹁それに猶予は9月末まであるんです。まだ諦めるのは早いです﹂
その一言でみんなの気持ちを一つに纏める事が出来た。
そんな自惚れを感じてしまうほどに、みんなの表情が引き締まっ
た。
みんなもこのままでは終われないと思っている。
そんな強い気持ちがあれば、美咲隊に解散は無い⋮⋮。俺はそう
確信した。
1539
﹃美咲隊 存続の危機
02﹄
隊の雰囲気も落ち着きを取り戻し、全員で現状の課題を討論して
いた。
魂喰いの探索手段や隊の編成について、各人それぞれが思いの丈
を語り始めた。
そして話の方向性は新しく来る討伐部隊の事に⋮⋮。
﹁考えたらムカつく話やなぁ。うちらが一年以上蓄積したデータ、
ごっそり持っていかれてポイやもんな。やってられんわ﹂
確かにそれには同意する。
魂喰いがアストラル体で動く事や、能力と性質を調べ上げたのは
美咲隊の実績だ。
故に今まで犠牲者を出さずに済んでいたと言える。
今回チェンジリングやアビゴール達の仲間が犠牲になったのも、
当局は入国の段階で規制、もしくは監視をつけるべきだった。
そして俺達に情報を提示していれば、無用の争い事を避ける事が
出来、犠牲者を出さずに済んだかも知れない。
結果的に後手に回り、犠牲者を出すことになり、魂喰いは新たな
能力を身に付けた可能性が高い。
﹁個人の資質はどうあれ、小隊規模で考えると、相当強いと思うん
やけどな。後続部隊はそれ以上なんやろか﹂
山科さんが腕を組んで考え込んだ。
記号だけで考えると美咲隊はB++からAまでの混成部隊。全員
AかA+以上の部隊であれば格上と言える。
けれど美咲隊の阿吽の呼吸と言えるほどの連携力、前衛と後衛の
1540
バランスが取れた隊編成は、稀有な部類に入ると思うだ。
考え込む山科さんをチラリと一瞥し、壁に凭れていた乃江さんが、
深いため息と共に話し始めた。
﹁逆かも知れん。力比べで勝負するのを止め、能力を封じる術者を
呼んだのかも知れんな﹂
霊力、魔力、瘴気封じ。
乃江さんに以前教えてもらった事がある。
能力者の中には特異な部類ではあるが、人の能力をかき消す力を
持った者がいると。
発動の条件は様々だけど、一旦封じられると解除するのは並大抵
ではないと聞く。解除の方法は術者にしか知り得ないから。
故に退魔士は霊力一辺倒の戦い方だけではなく、霊力以外の戦い
方をマスターしなくてはならない。
山科さんや宮之阪さんら魔法組が、近接技を取得している理由は
そこにある。
﹁霊力封じはうちの得意分野やねんけどな。戦闘中に祝詞を唱える
隙なんかあらへんもんな﹂
そう言えば山科さんの霊力封じの腕輪、未だ健在なのだけど⋮⋮。
封じられているのに慣れたのか、効力が弱まっているのか、付け
ていて違和感を感じないんだけど、大丈夫なのだろうか。
﹁霊力封じの件だけど、俺の腕輪の消費期限はまだなのでしょうか
?﹂
両手に巻かれた腕輪を突き出し、山科さんに問いかけた。
皮の良い匂いが汗と合体して、違うフレーバーを醸し出してるん
1541
だけど。
﹁あ、そやそや、よう我慢したなぁ。ちょっと待っててな﹂
山科さんはスクっと立ち上がり、慌てて部屋を飛び出した。
そしてしばし静寂の後、廊下をけたたましく駆ける音が響き、豪
快に扉が開かれた。
﹁おまた!﹂
湯気の立ったマグカップを片手に、山科さんがやって来た。
そして俺の向かいの椅子に座り、おもむろにマグカップに指を差
し入れ、爪弾くように俺の手にお湯を振り掛けた。
﹁山科さん、これ何?﹂
手に掛かったお湯の匂いを嗅いでも、取り立てて危険な匂いはし
ない。いやむしろ腕輪の方が匂う。
山科さんは指でメガネを整え、ニヤリと笑い説明を始めた。
﹁塩水や、お米さんとかあればよかってんけど、外国やしなぁ。お
清めや﹂
なんでも神道の儀式では、塩水を使いお清めするとか。
供物として塩水やお米を捧げたりもするらしい。
そう説明して山科さんは、俺の両手を掴み祓詞を口にした。
﹁掛けまくも畏き伊邪那岐大神 筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原
に⋮⋮﹂
1542
山科さんの声が部屋中に響きわたった。
気のせいか部屋が重苦しく、厳かな雰囲気に包まれた。
そして右手を翳して、有無を言わせぬ口調でこう言った。
﹁カオル。ここからが重要なパートや。目を閉じて3回ほど深呼吸
してみて﹂
目を閉じて心穏やかに深呼吸を始めた。
ここで手を抜くと術が解除されずに、臨死級のショックを食らっ
てしまう。俺は言われるがまま深い息を吸って吐いた。
﹁うん、もうええで﹂
山科さんの優しい声が響き渡った。
ゆっくりと目を見開いた俺の目の前には、あの忌々しい腕輪が外
されてあった。
﹁やった!﹂
喜んだのも束の間、山科さんからバンドを手渡された時、俺の手
にあってはならない物を見つけてしまった。
真新しい腕輪と色褪せていない呪いの詞。
俺は軽い眩暈を感じながら、山科さんをジト目で睨んだ。
﹁バージョンアップ版や。今度は着脱可能になっとるで﹂
うそ臭い笑いを浮かべる山科さんを睨み、一回目の時を思い出し
て涙が出てきた。
一回目の時もそうやって騙されたような気がする。一度ある事は
二度あるって言うじゃないか。
1543
しかし山科さんの表情は一回目とは違い、根拠のない自信に満ち
溢れていた。
ほれほれ外してみいと訴えかける目に背中を押され、恐る恐る腕
輪を外そうと試みた。
俺は来るであろう痛みを堪えつつ、震える手で腕輪の金具に手を
掛けた。
﹁あれ?﹂
﹁あれ? ちゃうわ。信用してへんかったな?﹂
腕輪は痛みを感じる事なく、すんなりと外れてくれた。
何とも言えない開放感が手首を包んで⋮⋮、キモチイイ。
﹁今度の腕輪は前のより強力なんや。50パーセントの制限が掛か
るようになっとるでぇ﹂
前のが30パーセント、今回のは50パーセント、数値ほど違和
感は感じないけど、ちょっと試してみるか。
俺は腰に差した守り刀を引き抜き、制限付きの手で霊気を流し込
んだ。
最初一呼吸は戸惑いを感じたが、それほど苦も無く霊気が流れ込
んでくれる。
これだけ流れてくれれば、実用的に問題はないレベルだ。
﹁腕輪の外れてる方の手で持ってみ?﹂
ニコニコして俺の手を指差す山科さん。
俺は言われるがまま守り刀を持ち替えて、何気ない動作で霊気を
流し込んだ。
1544
霊気の放出と共に、肩から腕が引き抜かれるかと思う衝撃を感じ
た。
そして守り刀は眩いばかりに光り輝き、漏れ出した霊気が本身の
刀を形取り、カナタ本来の二尺三寸の姿に変えた。
﹁カナタのサポートなしに二尺の姿に戻った﹂
すんなりと形作られた刀を、しばし呆然と眺めていた。 この状態でカナタの助力が加わったらどうなるんだ?
そんな疑問が頭をよぎったが、山科さんの話しかける声にかき消
された。
﹁腕輪をしてた方とおんなじ感覚で放出してみ?﹂
左手と同じ感覚ね。それならサンプルがあるから楽勝だ。
守り刀に籠めていた霊気を細く絞り込み、二尺だった刀は元の守
り刀へと戻っていった。
なるほど、これが制限された霊力の出力か、体の負担も少ないし
かなりエコな霊気だよな。
﹁今の絞る感覚を忘れんうちに、出来るだけ霊力を抑えて、刀に流
し込んでみ?﹂
ふむふむ、絞った感覚が残っているし、それもそんなに難しく無
い。
眩い光を発していた守り刀は、霊力を絞っていくに従い、すこし
づつ光を失っていく。
光はどんどん弱く儚く光を失い、そして元の鋼の刀身へ戻ってし
まった。
俺は霊力の失われた守り刀を鞘へ収め、額に掻いた汗を手で拭っ
1545
た。
﹁それが霊気をコントロールするっちゅう事や、今までのカオルは
何をするにも全開やってん。そな休む間もなく放出しとったら、い
ざ本番で力が出えへんし、長い時間ふんばりも効かんやろ?﹂
物を切断する時に霊力を籠めれば、その他の状態は維持するレベ
ルで良いと。そういう事か?
ふうひょうか
そう言えば両刀を使っている時、攻守ともどちらの武器にも全開
で籠め続けていたな。
右手と左手合わせて100パーセントなのだから、風飄花を出す
時に、逆手側をセーブしていれば、より強く出せていたという事か。
片手でコントロールするだけじゃなく、右手と左手をバランス良
く制御出来なくては、本当の意味で霊力コントロールとは言えない
訳だ。
﹁ふふん、カオル杯育成競争は魔法組の勝利やな﹂
山科さんは挑戦的な態度で乃江さんに微笑みかけた。
乃江さんは歯噛みをしながらその様子を見つめ、そして怒りの矛
先を俺に向けてきた。
﹁むぎい⋮⋮﹂
そんな涙目で睨まなくとも、ええやんねん⋮⋮。
俺は興奮する乃江さんに、ドウドウと声を掛けて落ち着かせた。
そして怒りの矛先を変えるべく、話の途中だった今後についてネ
タを振った。
﹁話は戻りますが、霊力封じと言っても正攻法に弱いのが定石。そ
1546
んな手で来ますかね?﹂
山科さんの様に正攻法が滅法強く、霊力封じもマスターしている
術者、そんな特異な例もいるのだが。
人の持つ能力はその人の性格が強く反映される。細かい事が苦手
な人に、精細な動きが出来ないように。
そして霊力封じのような特殊な能力は、おおよその場合ハメ技が
好きなタイプに分類される。
ビリヤードで例えると、安易に的球を落とすのでなく、クッショ
ンさせてナインボールを落とすタイプ。
うちの隊はどちらかというと、ハメ系とは逆の方向性で直情型の
性格が多い。
ブレイクエースを狙う乃江さん、山科さんタイプ。正確に的球を
狙う美咲さん、宮之阪さんタイプ。
俺と真琴はまだまだだけど、性質としては後者のタイプじゃない
かと思っている。わかんないけど。
﹁中には半径数キロをカバー出来る奴もいると聞く。広いとツメが
甘くなるから完全では無いらしいが﹂
それも乃江さんに教わった通り。
千円のお小遣いを持っている奴が、より多くの人に分け与えたい
場合、最高で1000人に分ける事が出来る。
けれど一人に対し1円しか分け与える事が出来ず、人々全てを裕
福にする事は難しい⋮⋮と。
﹁しかし、そんな能力が奪われたら⋮⋮、考えるとゾッとしますね﹂
能力が奪われるだけではない、DNAサンプル採取を狙うハンタ
ーも増えるだろう。
1547
任を解かれたから終わりなんて、デジタルに物を考える事は出来
ない。
後の世の混乱を考えたら、未然に防げる可能性がある俺達に課せ
られた任務だと言えるだろう。
﹁アンお母さんが手を貸してくれます。私達が縁がしっかり保って
いる限り、網の目の様に縁が広がり続け、魂喰いも何時か見つかり
ます﹂
アンさんは俺たちと見据えて、先に繋がる人を探してくれている。
俺たちの捜索手段は人と結びつく事にある。多くの縁を繋げれば、
魂喰いもいずれ見つける事が出来る。
﹁そうですよね。お友達を一杯作れて仕事もこなせるって、本当す
ごく良い事ですよ﹂
真琴が目を輝かせ、夢心地の表情で舞い上がっている。
真琴の場合お友達のフレーズに酔ってるとしか思えないのだが⋮
⋮。
﹁ですね! がんばりましょう﹂
全員が頷き隊の士気も高まった。
これで日本に戻ってもやっていけると感じた時の事。
﹁ちょっと待ち。問題はまだまだ山積みや﹂
山科さんと宮之阪さんが立ち上がり、美咲さんに向かって厳しい
目を向けた。
1548
﹁一つ言うとかんとアカン事があるねん。美咲! 乃江! そこに
座り!﹂
山科さんは目の前の床を指差し、美咲さん達にキツイ口調を言い
放った。
何の事やら理解不能だったが、美咲さんと乃江さんは納得してい
る様子で、床に正座して小さくなっている。
﹁隊員に隠し事をしないで下さい! 仲間でしょ? 悲しくなって
しまいます!﹂
あの大人しい宮之阪さんが、厳しい口調で美咲さん達を責め立て
た。
普段温厚な人が怒ると怖いってのはよく分かる。ギャップが激し
くて凄く怖い。
﹁すいませんでした⋮⋮﹂
﹁すまん⋮⋮﹂
美咲さん達は消え入るような小さな声で、シュンと肩を窄めて頭
を下げた。
宮之阪さんは乃江さんの前に立ち、人差し指をグググッと引き絞
り、強烈なデコピンを一発炸裂させた。
﹁あぅ⋮⋮﹂
涙目でオデコを押さえている乃江さんを見つめて、宮之阪さんが
怒りの口調で語りかけた。
1549
﹁自分がされて悲しむような事は、他の人にやってはいけません!﹂
うるうると涙ぐむ乃江さんの表情を見て、納得したように引き下
がった。
次に山科さんが美咲さんの前に立ち、膝を屈めて睨みを効かせた。
﹁うちはな、美咲が言ってくれれば、どこでだって何だってやれる
と思ってた﹂
ジッと山科さんの目を見つめている美咲さん。
涙腺が決壊しそうな美咲さんだったが、グッとを堪え頷いて意思
表示をしている。
﹁だから一緒に戦おうって言って欲しかったんや﹂
﹁ごめん⋮⋮なさい﹂
山科さんは冷ややかな表情のまま、美咲さんを責め立てた。
﹁聞きたい言葉はごめんやない。隊長として言い忘れた言葉を待っ
とるんや﹂
そしてスッと目を閉じて、美咲さんの言葉を待った。
既に涙腺が決壊し、嗚咽している美咲さんだったが、必死で呼吸
を整え、短く隊長として言葉を発した。
﹁お願い。一緒に戦って⋮⋮﹂
山科さんは満足そうな笑みを浮かべ、嗚咽する美咲さんを抱きし
めた。
1550
そして美咲さんと乃江さんに手を差し伸べて、力いっぱい声を張
り上げた。
﹁美咲らの気持ちは分かる。けど、こんな時に遠慮はアカン。 辛
い時も楽しい時も一緒に分かち合うのが仲間や﹂
抱え込みすぎる美咲さんの性格も、気を使いすぎる遠慮がちな所
も、長所であり短所でもある。
ただ仲間として時と遠慮は溝となり、人と人の繋がりを隔ててし
まう。
本当の仲間ってのは楽しい事より、辛い事を分かち合えるのが本
物じゃないかと思う。
これから辛い事が待っているかもしれないけど、本音で語れる事
が重要なのではないか思う。
今湧き上がる気持ちを忘れない限り、何時までも仲間として一緒
に居られると、そう感じた。
1551
﹃AYANO+﹄
朝の陽の光がカーテンの隙間を通り抜け、寝室を明るく照らし出
した。
夏らしい風が部屋を吹き抜けて、いつしか私は夢の国を抜け出し
ていた。
惰眠をむさぼりたい朝の一時。ベッドサイドの目覚まし時計に手
を伸ばし、指し示す時間を見て絶望した。
﹁慣れない部屋だから、眠りが浅いのかしら﹂
時計をベッドサイドに置いて、陽の光を背に寝返りを打った。
朝の10分は昼間の1時間より貴重な時間、起床予定時刻より1
2分も早く目覚め、物凄く損をした気分にさせられた。
﹁仕方ない。起きよ⋮⋮﹂
目覚めた部屋はいつもの私の部屋ではない。住人が女の子とは思
えない程、飾り気が無く簡素な部屋だった。
マットレスに脚が付いただけのシンプルなベッド、籐の箪笥に味
気の無い机。
身だしなみを気遣う鏡もない最低限の部屋。
我が妹ながら色気が無いなと苦笑しつつ、やはり血は争えないと
感心した。
逆に似ていない所といえば、潔癖なまでに掃除が好きだと言う事
か。あと胸のサイズとか。
﹁しかしここまで綺麗好きだと、逆に男の子に敬遠されるんじゃ?﹂
1552
とは言え、妹の本命はおそらくカオル君。
あの子はだらしなさそうだから、釣り合いが取れて良いかもね。
そう考えつつ寝室を出て、洗面所で顔を洗う。鏡を見て乱れた髪
の毛を整え、右向き、左向き、最後の正面を向いて納得した。
そしていつもの習慣で冷蔵庫を開け、牛乳パックを手に取りコッ
プに注いだ。
冷蔵庫の中は食品がきちんと並べられ、なおかつ無駄に物を詰め
込んでいない。
卵も古いものを手前に並べ、新しい物を置くに配置してある。
使い残しの食材もラップに包まれ、次に使う時に確認できるよう
に、使った日時がペンで書き込まれている。
キッチンも同様だった。
フライパン、鍋、食器から、流しの隅に置いてある三角コーナー
まで、完全に隙が無い。
料理をしない人のキッチンではなく、ちゃんと使い込まれて完全
にカスタマイズされているキッチン。
電磁調理器の周りには、油はねの一つどころか、油膜の一つも見
当たらない。
忘れがちなレンジフードの金網でさえ、卸したての新品の輝きを
誇っている。
いもうと
﹁病気の域に突入してるわね﹂
乃江の事だから、私の為を思って清潔にしてくれたのだろう。
けれどここまで完璧だと、私も汚さないように気を使わなくては
ならない。その辺り配慮が足りないように思う。
﹁乃江レベルの掃除が出来るとは思えないし、今日も隣人さんに食
べさせて貰うとするか﹂
1553
牛乳で喉を潤し、使い終わったコップを流しに置いて水を注いで
おく。
手っ取り早く着替えを済ませ、玄関を出て隣の部屋をノックした。
同居していつも顔を付き合わせる間柄だが、こうして距離を置い
てみるのも新鮮に感じる。
かといって離れて暮らすかと問われると、絶対嫌!なのだが。
住人の気配がドア越しに感じられ、鍵の捻る音が鳴り響いた。
そして開かれた扉から顔を出したのは、我が最愛のキョウ様だ。
﹁綾乃、おはよう。入って﹂
扉を開き部屋へと手招いてくれたキョウ様に、心の中で感謝しつ
つお邪魔した。
部屋には良い匂いが立ち込め、食事抜きの私には耐え難い苦痛を
感じる。
胃が早く食料を放り込めと命令し、キュルキュルと音を鳴らした。
お腹の音は当然キョウ様にも聞かれてしまったであろう。
だがしかしキョウ様は気にする様子も無く、食器棚から茶碗を取
り出してご飯をよそってくれた。
﹁綾乃も大変だね。あの部屋だと何をするのも気を使うだろ?﹂
美咲お嬢様から非常勤の申し出があったのは、かれこれ数週間前
の事。
これも未来の布石と涙を呑んで引き受け、この仮宿の暮らしを始
めて数日経った。
なにせ依頼文が、
﹁お父様方、お母様方に、結婚を反対されていると聞き及んでおり
ます。けれど私と乃江は味方です。︱︱多分﹂
なんでしょうか、多分って。
1554
キョウ様が素直にお育ちになった反面、美咲お嬢様はひねくれて
お育ちになられた気がします。
しかも今時二人で時給1000円だなんて、酷すぎます。
腐ってもランクA++とA+の退魔士二名を雇い入れ、労働基準
法以下の薄給とは⋮⋮。
けれどキョウ様はその手紙を読んで大笑いし、
﹁相変わらず美咲のやる事は面白いな﹂
なんて感心してしまっている始末。
挙句の果てには時給1000円だから日給24000円だ。そん
なに悪くない条件だと言い、笑顔で承諾してしまった。
確かに私達の地区は平和でしたし、食料、宿付きで、薄給ながら
も条件は悪くなかった。
なにせ退魔士が不在で狩り放題、瓢箪から駒とはこの事だ。
﹁今日は母さん達に付き添って、会食に同行しないといけないな⋮
⋮﹂
深いため息をついてキョウ様がガックリと肩を落とされた。
ため息吐きたいのは私も同様です。
私の母とキョウ様のお母様、美苑様の会食と言えば、業界トップ
レベルの重鎮が集うのだろう。
そんなストレスMAXな場所に、自分から進んで行きたいと思う
者などいないのだ。
﹁急病で入院なんて言い訳は通用しそうにない﹂
﹁お互い健康ですものね﹂
1555
自己治癒能力のある退魔士が入院するなんてありえない。
それこそ﹃修行不足、恥を知りなさい﹄なんて叱責されるのが目
に見えてるし、最後には﹃そんな未熟者が所帯を持つなんて︱︱﹄
と締めくくられるに決まっている。
﹁けれどルーテシアスポールに乗ってこなくて良かった。不幸中の
幸いだ﹂
﹁二人乗りですものね⋮⋮﹂
会食の話を切り出されたのは一昨日の晩の事だった。
美苑様から連絡があり、今日空港に向かうから迎えに来てと連絡
があったのだ。
この地区の外れにあるホテルで会食があるから、私の母も同行し
ているらしく、最低でも2名を乗せなくてはならない。
運良く⋮⋮、運悪くか。愛車のスポールちゃんは入院中、別の車
を調達し乗ってきていて良かった。
﹁余裕を見て空港に迎えに行かないと。数秒遅れても嫌味を言われ
そうだからな﹂
﹁あい⋮⋮﹂
キョウ様が作ってくれた愛の朝食も、喉を通り抜ける際に引っ掛
かる。それほどのプレッシャーを感じているのだ。
私はご飯を味噌汁で流し込み、お漬物で締めくくって手を合わし
た。
﹁しかし、奥様と母が出張るなんて滅多に無い事です。相手はそれ
ほどの?﹂
1556
天野家と真倉が同時に動くと言う事は、余程の事態。
明日戦争が勃発すると言われても納得出来るほどの珍事だから。
﹁だね。﹃呼び付けられた﹄と言っていたからね﹂
国家元首クラスでさえ、吉兆を占うのに天野の家へ足を運ぶのだ。
その美苑様を呼び付ける⋮⋮、そして美苑様が動く人物。そうせ
ざるをえない事態だと言う事か。
﹁鳥肌が立ってきました。風邪かも知れません﹂
﹁俺も胃が痛い。胃潰瘍かも知れん﹂
楽しいはずの食卓は、お通夜のようにシンと静まり返った。
私はキョウ様に運転を任せ、助手席で見知らぬ土地の地図を見て
いた。
空港までゆっくり走って1時間程の距離で、高速道路の渋滞にも
出会わず、意外とあっさり到着してしまった。
車を駐車場へ停めた私達は、到着時間を確認しホッと胸を撫で下
ろした。
そして悠々と到着ロビーへ向かって行った。
だが到着ロビーで見た光景は、私達を絶望のどん底へ叩き込んだ。
1557
﹁あわわ⋮⋮﹂
頭がパニックになって言葉が出ない。
到着ロビーに立つ和装の人物が二人⋮⋮。それが夢か幻で無い証
拠に、こちらを一瞥し軽く怒気を放っている。
そして無言で歩み寄り、手に持った鞄を差し出した。
﹁飛行機が思ったより早く着きました﹂
キョウ様は苦笑し、美苑様の鞄を受け取った。
うう、ツッコミたい。飛行機はがんばっても早く着きませんから!
一本早い便に乗って、私達を驚かそうと企んだに違いない。
ついついジト目になってしまった私を一瞥し、美苑様は手に持っ
た本を手渡してくれた。
書店のカバーが掛けられた文庫本。ハラリと表紙を捲って、激し
い頭痛に襲われた。
﹁飛行機の中で読んでた本よ。良かったら使って頂戴ね﹂
美苑様がニコリと笑って袂で口を押さえた。
本の題名は﹃姑いびり﹄、家庭内DVを赤裸々に書いた本だった。
逆だろ!ってツッコミを入れたかったが、グッと堪えて後ろで控
える母に会釈をした。
﹁綾乃 ︵我慢よ︶﹂
母からアイコンタクトで応援をいただき、ちょっと気分が持ち直
した。
私は母の荷物を受け取り、二人を車へと案内した。
遠くからでも分かる私達の車を指差して、二人の母を手招いた。
1558
美苑様が眉を顰め、母が苦笑して滝のような汗を掻いている。
﹁綾乃さん? この車は?﹂
﹁ランサーエボリューションXRSですが?﹂
白無垢のボディに、協賛メーカーのカッティングシートが貼られ、
凄く戦闘的なフォルムに仕上がっている。
チューンを依頼された知り合いの車だが、中身はまだ手付かずで、
ほとんどノーマルと言って良い。
一応断って置くが、勝手に乗り回しているわけではない。オーナ
ーも了承済みでの事なのだ。
私はテスト走行をし、車の特性を知った上でないとチューンしな
いのだ。
そしてにこやかに後部の扉を開け、嫌そうな顔をしている美苑様
を車の中へ押し込んだ。
私の母がそっと近づいてきて、私の耳元で囁いた。
﹁美苑様は綾乃の前ではあんなだけど、実はうるさい位に綾乃ちゃ
ん、綾乃ちゃんって言ってるのよ﹂
そう言い残して車へと乗り込んだ。
私はその言葉をかみ締め、天に昇るほどやる気を充電された。
﹁よっしゃ! キョウ様。私が運転します!﹂
キョウ様から鍵を受け取り、意気揚々と運転席へ乗り込んだ。
助手席に座ったキョウ様は、そんな私の顔を見て怪訝そうな表情
を浮かべていた。
目的地は乃江のマンションから10駅ほど先、P・Hホテルの最
1559
上階にある中国料理店だった。
高速道路へ乗り、来た道を戻り車を走らせた。
新型エボリューションは、四人を乗せているとは思えない軽快な
走りを見せた。
低速回転域から車を押し出すターボの特性は、乗り手を選ばない
万人受けするセッティングになっていた。
排気系をいじると抜けすぎて、低速が駄目になる。逆に詰まらせ
るとトルクが出るが、高速の伸びがなくなってしまう。
足の固さを求めると極端な挙動を抑制する事ができるが、しなや
かさを失ってしまい、蹴り足を地面に伝えられない。
﹁綾乃さん、少しスピードが⋮⋮﹂
後部座席の美苑様から嗜める様な声が上がった。
私はニヤリと笑い、右足に力を込めた。
﹁スピードが足りませんね。分かります﹂
シフトダウンし4速5千回転から、踏み込む足に合わせてタコメ
ーターが躍動した。
同時に頭がヘッドレストにめり込む程の加速感を感じ、周囲を走
る車達を視界から消した。
﹁うわぁん、詩乃さん。綾乃さんが私を苛めてますよ﹂
美苑様は母の胸元へ顔を埋め、これ見よがしに私への不満を口に
した。
母もわれ知らぬ素振りをし、平然と車を褒め称えた。
﹁4人乗せてこのレスポンス。4B11、MIVECターボって良
1560
いわね﹂
私のメカフェチは母譲りだったりする。
今でもたまに納屋のバイク達をメンテしてくれている。
お手伝いさん達からすると、かなり迷惑な当主かもしれないが、
私はこの母が大好きだ。
﹁でも、まあ、程ほどにね﹂
この微妙な匙加減で、真倉の家だけはなく天野家をも執り仕切っ
ている。
天賦の天野、実権は真倉と揶揄されているのも、ひとえに母の才
能だと信じている。
P・Hホテルへ到着し、駐車場へ車を停めた。
さすが一流ホテルだ。高級車が所狭しと並び、まるでメルセデス
のショールームのようだ。
変り種の車といえば、新型のFIAT500アバルト、ホンダS
600、ロータスエランか。変わり者も宿泊しているらしい。
﹁行きましょうか﹂
駐車場から最上階までエレベーターに乗り移動した。
目的の会食の会場は、店の屋号すら掲げていない中国料理店。
客を威圧するような門構え。黒塗りの大きな扉が閉ざされていて、
ドアの前にはチャイナドレスを着た女性が二人。
立ち居に隙が無く、ただの店員ではない事は一目瞭然だ。
1561
﹁お待ち致しておりまシた。天野様、真倉様でしょうか?﹂
扉の前に控えているチャイナドレスの女性が、片言の日本語で話
しかけて来た。
近づく事すら拒まれる隙の無い立ち居を崩し、ゆったりとした笑
みを浮かべ手招いてくれた。
﹁ただの料理屋じゃありませんね﹂
二人の母の前に立って、キョウ様が深いため息を吐いた。
店員と一定の距離を保ち、案内に従って店内へ足を運んだ。
しかし私達が警戒するほど母達は身構えておらず、まだ私達の知
らない何かがあるのだと覚った。
案内された場所は円卓を囲む一般客と隔絶した、黒壇の扉の奥の
部屋。
中には既に数人の待ち人が居て、テーブルを取り囲んでいた。
﹁遅いやないの﹂
一人の女性がはんなりとした口調で、私の後ろの二人へ話しかけ
た。
しかし美苑様は馴れ合うような態度を取らず、その御婦人へ愛想
の無い返答をした。
﹁田舎者ですから﹂
二人のやり取りを見て、母がプッと吹き出し笑いを必死で堪えて
いる。
そして店員の引いてくれた椅子に腰掛けて、そっと耳打ちをして
1562
くれた。
﹁悪名高い山科の⋮⋮、ああ見えて美苑様と仲が良いのですよ﹂
神道系退魔士を取り仕切るあの⋮⋮。
大物の魔物を滅する為に、街をひとつ壊滅させた。そんなうそ臭
ダブルエー
い噂が先行して、実質誰も本当の事を知らない。
退魔士ランクに初めてAAという例外を作った人。退魔士ランク
AA+
﹁そして奥にのほほんと座ってボーっとしてる人は、グレース宮之
阪、その隣は︱︱﹂
乃江の仲間、宮之阪まりえちゃんのお母さん。イギリスで有名な
ハンターの一人。
海を越えて日本にも名を轟かせているバンパイアハンター。
﹁その隣は︱︱﹂
母が再び口を開いた時、黒壇の扉が開かれて従者を引き連れ、一
人の女性が入って来た。
秋月。人前に姿を現す
総白髪の髪を翡翠の髪飾りで束ね、見た目は20代。だけど感じ
る雰囲気はそんな若者には思えない。
むしろ⋮⋮。
﹁お呼び立てして申し訳ない。私の名は邱
秋月、台湾系であり
のは久しぶりじゃて、知らぬ者も多いじゃろな﹂
その女性は流暢な日本語で話し始めた。
その名を知らぬ退魔士はモグリだろう。邱
1563
ながら、中国本土に強い影響力を持つ。
秋月﹄の名前があがる。
中国人が台湾に盗まれた物として、故宮の財宝と並び賞されて﹃
邱
齢百を越え未だ健在、現代の仙人と言われている。台湾・中国華
僑の影のドン。
・・
この人の一声で、台湾・中国本土だけはなく、東アジア全域の退
魔士が動き出すと聞く。
﹁うちの孫がの、おぬしらの誰かに雇われておってな⋮⋮。牧野と
いう名に心当たりがあるじゃろ?﹂
シンと静まり返った部屋で、一人落ち着かない目をしている者が
いた。
恐らくあのご婦人がそうなのだろう。
秋月は話を続
﹁まあ、うちの孫を使う辺り、大した眼力と褒めておこうかの﹂
ホッと一息吐いたご婦人をにこやかに見つめ、邱
け口を開いた。
﹁最近日本の市場にチョッカイを出してくる国があって、場が荒れ
る前にこうやって集まって貰った訳じゃが⋮⋮﹂
そういえば最近、退魔士を取り仕切る省庁に、大幅な人事異動が
あったらしい。
元々外交を取り仕切る省庁だけに、力のある国には逆らえない。
有力なポストを押さえたのは、アメリカの息が掛かった者ばかり
と聞いている。
﹁天野のお嬢達はクビになり、後釜に座るのはあの国のハンターじ
1564
ゃ﹂
美咲お嬢様がクビ?、それは初耳だ。
そう言えば今日のメンバーは天野、真倉、山科、宮之阪⋮⋮、そ
してもう一人は多分。
﹁子の喧嘩に親が出ては駄目だと言うが、もう子の喧嘩のレベルじ
秋月は一人一人の顔を見つめて、ニッコリと笑い話を締めく
ゃなくなっとる﹂
邱
くった。
﹁うちの孫が関わったのも縁、一緒に喧嘩してみてはいかがかの?﹂
うう、乃江⋮⋮、早く帰って来て。
あんたの身辺が大変なことになりそうだよ。
明日帰国するであろう妹を気遣い、こうやって祈る事しか出来な
い自分の非力さを呪った。 1565
﹃帰国﹄
俺達は旅行の行程を終え、帰路の飛行機の機内にいた。
海の町ゴールドコーストは温暖な気候で過ごしやすかった。けれ
ど残念だったのは泳げる程の気候でなかった事、それが悔やまれる。
ワーキングホリデーを利用し、働きながらサーフィンを楽しんで
る日本人も多かったし、食文化も発達していた。
正直な所お世辞じゃなく、また旅行に来たいと思えた。
次の都市メルボルンは俺のツボを付いていた。
歴史的な街並みと美食の街、子をなして永住するのであれば最高
の環境だと思う。
最後の都市シドニーは帰路の飛行機に乗る為に宿泊した都市。
メルボルンのような旧世代の建造物は少なかったが、古き良きオ
ペラハウスとハーバーブリッジを望む夜景は、今でも目に焼きつい
ている。
﹁なんか、あっと言う間でしたね﹂
隣の席で欠伸を噛み殺していた山科さんに話しかけた。
眼鏡を避けるように涙を拭い、満足げに微笑んでくれた。
﹁せやなぁ、メルボルンの夜に食べたシーフードが良かったなぁ﹂
その言葉を聞き、寝入りそうだった真琴がピクリと反応した。
寝ぼけまなこが見開かれ、いきなりエンジンが掛かってしまった。
﹁牡蠣⋮⋮、レモン、一人12個⋮⋮、ジュル﹂
トロンと惚けた顔をして、うわ言の様に断片的な単語を羅列し、
1566
口元のよだれを拭う素振りを見せた。
シーフードは俺達が気持ちを新たにした日、その晩に美咲さんが
紹介してくれた店で食べた夕食だ。
キングスストリートにあるオイスターバー、その店はタスマニア
直送の生牡蠣が絶品だった。
生牡蠣24個、ロブスターや手長海老、その他諸々の海鮮料理が
2人前だった。
その量に驚いたが、ボイルされた海の幸はあっさりとして美味し
く、ついつい食いすぎてしまった。
﹁真琴は旅グルメ好きだからな﹂
そう言えば退魔士試験の時も、真っ先にグルメ旅行行くぞって叫
んでたもんな。
ゴールドコーストで肉料理を食べた時も、真琴は一人ワニ肉とカ
ンガルー肉にチャレンジしていた。
一口分けて貰ったが、ワニは鳥の腿肉のようでアッサリと、カン
ガルーは筋が多かったが美味かった。
﹁また行きたいですね﹂
この旅を思い起こす様な真琴の言葉に、俺も山科さんも頷いて同
意した。
良い結果をアンさんに報告する為にもう一度来たい。そうなる様
に努力をしなくては⋮⋮。
﹁日本に帰ったら、うちら魔法組は強化合宿する予定や。カオルは
どうするんや?﹂
みんなの決意を新たにした日、その時に俺達の欠けているモノを
1567
話し合った。
全体的な戦闘力、戦う際の連携も、調査能力や戦いの決め手にな
る技も⋮⋮全てが足りない事を再確認した。
くれない
全員が少しでも欠点を補えるように、帰国後に短期合宿をしよう
と決めたのだ。
﹁前衛は桃源境で修行ですね。乃江さんや紅に手伝って貰おうかと﹂
あの場所なら人目を憚らずに修行する事が出来る。
さすがに魔法組の本気は被害を出しそうで不味いけど、体術メイ
くれない
ンの前衛なら集中して暴れる事が出来る。
紅の体術は本物だし、技の一部なりとも身に付けれればプラスに
働くと思うのだ。
けれど山科さんは俺も答えを聞き、物足りない表情をして口を開
いた。
﹁いや、うちが聞いてるのは﹃決め手﹄の方や。勝負の流れを引き
寄せ、戦いを決する技の事や﹂
それは俺が言い出した事だった。
俺は自分の弱点をみんなに伝えた。
小手技はなんとか見れるレベル。攻撃を無難にしのげるが、敵を
征圧する決定力が欠けていると。
技量を上げれば全体的に安定するだろうが、それだけでは個性が
無く足手纏いになるだけだ。
前衛らしくバックアップを信じ、最後の一手で殲滅する力を手に
入れなくてはならない。
﹁一応考えてます。自分の霊力だけで2尺の霊刀を作れた。そこに
カナタの力を上乗せしてみようかと思ってます﹂
1568
腕輪を外した状態での2尺の刀。ホテルの部屋では全開出来なか
ったが、それでもその状態で刀を形作れた。
俺が思う全開の状態に加え、カナタの能力を上乗せすれば⋮⋮。
しかし山科さんは浮かぬ顔でため息を吐いた。
そして飲みかけのコーヒーのマドラーを手に取り、俺の目の前に
差し出した。
﹁これに霊力を籠めてみ? プラスチックやし程ほどにな﹂
俺はマドラーを受け取り、そっと霊力を籠めてみた。
流れの悪い小さなマドラーは、限界値近くまで霊気を纏い、激し
い燐光を放っている。
山科さんはその状態で俺の手を固定し、マドラーの根元をポキッ
と折った。
同時に霊気が飽和状態になり、耐え切れなくなったマドラーは、
ひび割れを起こして飛散した。
﹁物には完全な形、不完全な形があるんや。摘む場所があってマド
ラーは役に立つ。摘む場所が無ければマドラーとして使えない、た
だの棒や﹂
抽象的で難しい事を言っているような気がする。
マドラーの摘む部分を折れば、マドラーとして役に立たない。そ
れはマドラーではなくプラスティックの棒になる。
けれどひび割れて砕ける意味が分からない。山科さんは何を俺に
伝えようとしているのだろうか。
﹁カナタの刀はあくまでも守り刀やねん。完全な形を記憶している
守り刀。やから2尺の刀に戻ろうとするんや﹂
1569
なるほど⋮⋮、そういう概念があるのか。
マドラーも加減していれば、折れた部分を霊気で補える。
けれどプラスティックの棒はマドラーに戻らない。完全な形でな
い物は、元のように霊気を受けきれない。
﹁カナタは折れた刀や。元の形は記憶しとるけど、鋼の質量は半分
以下やし、背伸びしとるだけにすぎんのや﹂
俺は手に残ったマドラーの破片を見つめ、言葉を失った。
山科さんがなぜ回りくどく言ったのか理解できた。
霊気を籠めすぎると力が増すが、限界を超えるとカナタが折れる
⋮⋮。そんな苦言を呈する為に、実演して見せたのだ。
﹁前にトウカのナイフを借りた事あったやろ? あの時にもそうい
ふうひょうか
う手応えを感じたんや。トウカのナイフも限界を越えると壊れる﹂
退魔刀のカナタと風飄花のトウカ。
技の発動に必要な刀やナイフだが、それがボトルネックになって
ふうひょうか
限界値を越えれない⋮⋮と。
﹁風飄花は連発する事でカバー出来るけど、カナタは人を殺める刀
やなく守り刀やねん﹂
折れた事で刀の役目が変わったと、そういう事か。
元々の藤原国助は、退魔刀として生まれた。その状態なら正十郎
の霊気を全て受け止めれただろう。
けれど折れた事により、鎮魂の刀では無くなった。性質が変わっ
てしまったと、そういう事か。
1570
﹁カナタはカオルの霊気を溜め込んだ蓄電池や。倍掛けの霊気を発
するのは凄い技やねんけど、触媒が完全やないからな﹂
折れた事により魔を滅する力を持った。鎮魂の刀が完全で今は不
完全という訳ではない。
けれど霊気を籠め受けきれる鎮魂とは違い、別の使い方をしなけ
ればならないと⋮⋮。
﹁どの物質にも霊気を通せる限界がある。カナタが悪いわけやない
ねんで? 力押しだけが強くなる方法やないんや﹂
本身の刀に霊気を通しても、今のカナタを超えるとは思えない。
カナタもトウカもそれほどに霊気が通しやすいのだ。
通せないもの、無いものを追い求めても上限は必ずある。それに
カナタは他の刀に憑依出来ないだろうし、それこそ絵に描いた餅だ。
﹁うちから助言出来るのはそんなとこや。嫌な事言うてしもうてご
めんやで?﹂
﹁うん、正直ショックだけど、本当の事を言って貰って助かった﹂
そう返事するのがやっとだった。
思い描いたパワーアップ方法が否定され、混乱してまともな思考
回路が成り立てない。
いつものように少し冷静になって整理をしてみよう。
・カナタの守り刀には霊力を流す限界がある。
・トウカのナイフも同様。
・二本とも言える事だが、上限値を超えると折れる。
1571
折れると考えた時、犬神戦で回復させた看護師を思い出した。
拙い霊力コントロールしか出来ない俺は、受け手に拒絶反応に近
い状態を引き起こした。
運良く息を吹き返したが、運が悪ければ殺していた⋮⋮。そう考
えてぞっとした。
・物には全て霊気を受け止める限界がある。
そういえば乃江さんが言っていた。
拳のインパクトの際に、霊気を飽和させて相手にダメージを与え
ていると。
打撃インパクトと同時に相手に霊気を流し、振動した霊体を少な
い霊気で壊すのだと。
逆転の発想ならどうだろうか、急激に霊気を流せば壊れやすいが、
ゆっくりと流せば壊れにくい。
だから美咲さん達が霊気治癒する時には、ゆっくりと流している
のか。
少ない量で最大のダメージを与えるタイミング、触媒の特性に合
わせる事を学ばなくてはならない。
だから山科さんは霊気をコントロールさせる修行を選んだのだ。
﹁答えが出たよ。やっぱり山科さんは偉大だね﹂
山科さんは満足そうに微笑んだ。
そして何も聞かずに俺に凭れ掛かり、目を閉じて俺の腕を握り締
めた。
﹁うちはカオルのそういう所が⋮⋮、がんばってる姿が好きや﹂
そう言って嘘臭い寝息を立てた。
1572
またこのパターン? てぇ事は次に来るのは⋮⋮。
恐る恐る真琴の方へ首を回し、不機嫌そうな表情と刺すような視
線を感じた。
そして真琴は指をワキワキと動かして、ニヤリと笑ってみせた。
﹁どうぞ﹂
俺は左腕を差し出し目を閉じた。
俺が今望む事が二つ。一刻も早く睡魔が襲う事、そして着陸まで
目を覚まさない事だ。
運良く睡魔に襲われた俺は、日本への到着までぐっすりと眠りに
ついた。
俺達は飛行機を降り入国審査を済ませ、スーツケースを受け取っ
た。
手荒く扱われたスーツケースは壊れると聞くが、今回は運良く壊
されなかった。
また次回使えるとホッと胸を撫で下ろし、葵を引き連れて税関を
くぐり抜けた。
﹁よかった∼、スーツケース開けられたら元に戻せない所だったよ﹂
どんだけ圧縮して詰め込んでるんだ?
お土産担当だから仕方ないかも知れないが、それにしても買いす
ぎだろ。
1573
そんな二人のやり取りを見て、メンバー全員が微笑んだ。
俺はポケットに入れた携帯を取り出して、時刻とメール着信を確
認した。
﹁美咲さん、うちの母が迎えに来てるんで、今日はここで解散しま
す﹂
迷惑な話だが、律儀に迎えに来てくれたようだ。
まあ問いただしたい事もあるし、好都合と言えるのだが。
﹁穏便にお願いします。あんまり怒らせると私達の身が危ないので﹂
美咲さんはそう言って乃江さんを後ろから抱きしめた。
面が割れてるのは美咲さんと乃江さんか、けれどうちの母はそん
なに怖いのだろうか?
身近贔屓かもしれないが、普通の母なのだけど。
﹁ええ、葵と打ち合わせ済みです。穏便にね⋮⋮﹂
そう言って手を振るメンバーと別れ、到着口の広場へ向かって行
った。
広場の中央に立ち、こちらへ手を振っている母の姿を一目で発見
した。
母を見て日本に戻ってきた実感が湧き上がり、決心していた気持
ちがグラリと揺らいだ。
﹁おにいちゃん、本当に大丈夫かな。ドキドキするよぅ﹂
﹁ちょっと自信が無いけど、やるしかない。俺が全責任を持つ!﹂
1574
ニコニコと笑う母を見て、俺は心を鬼にして拳を固めた。
隣を歩く葵が緊張の限界に達した時、俺はスーツケースを蹴り母
の足元へ転がした。
﹁あ、なん⋮⋮﹂
母がスーツケースを手で止めた瞬間、俺は母の間合いに踏み込ん
で蹴りを見舞った。
回避も取れない絶妙のタイミング。避ける事は︱︱。
﹁おかあさん、ごめん!﹂
葵も服の下に隠していた小人の兵を出し、引き絞る矢の雨を母に
降らせた。
蹴り足が母の顔を捉えるかと思われた瞬間、母は半身をずらして
俺の足に手を添えた。
﹁自分の親にっ!﹂
母は叫び声を上げて足を抱え、軸足を蹴り払った。
受身の取れない俺を押さえ込み、額にデコピンを食らわせた。
そしてスーツケースを軽々と片手で持ち上げ、
﹁なにすんねん!﹂
叫び声一発で空中の矢を薙ぎ払った。
あっけに取られた葵の前に立ち、もう片手を引き絞りデコピンを
食らわせた。
デコを押さえた俺と葵の顔を見て、母は眉を顰めて悲しそうな表
情を見せた。
1575
そんな表情を見て葵が涙目になり、俺は申し訳ない気分にさせら
れた。
﹁おかあさん、ごめん﹂
﹁同じく、ごめん﹂
母は俺の手を掴んで立たせ、汚れた背中を手で掃ってくれた。
そして今にも泣きそうな葵の頭を撫でて、ぎゅっと抱きしめた。
﹁うちは普通の母親がええのやけど﹂
俺は心臓を鷲掴みにされた様な気分になった。
取り返しのつかない事をしてしまったと後悔した。
母はそんな俺を見つめて、笑っているのか泣いているのか分から
ない表情を見せた。
﹁けどそんな状況や無い事は知ってる。カオルが危ない立場やとい
う事も、普通の母をやってられへん事もな﹂
母は葵の手を握り、背を向けて歩き出した。
そしていつもの母の声で、振り向きもせず声を上げた。
﹁しばらく家に帰れへんで。覚悟しときや﹂
遠ざかる母の背をじっと見つめ、引き返せない一歩を踏み出した。
そして頼もしく見える母に追いつき、俺の心の中を吐露した。
﹁母さんはどんなに強くても俺の母さんだ﹂
1576
母はそんな言葉を聞き、そっぽ向いて口を開いた。
照れ臭そうな表情をしているのは、見なくても分かる。極端にテ
レ屋だから。
﹁おかあさん、どこへ行くの?﹂
不安そうな葵が母の袂を引き、恐る恐ると口を開いた。
母はそんな葵の背をポンと叩き、いつもの調子で大笑いした。
﹁京都や。カオルと葵が生まれた家や⋮⋮。覚えてへんやろな﹂
そう言って俺の手を握り、二人の不安を拭うように明るく笑って
見せた。
1577
﹃鎮魂の刀﹄
母の運転するFIAT500は、俺と葵を乗せ高速道路をひた走
っていた。
車中で聞きたい事も多かったが、それより先に襲い来る自己嫌悪
に苛まれ、言葉を発する事すら出来なかった。
後部座席に乗る葵も、おそらく俺と同じ気持ちだと思う。
﹁⋮⋮﹂
何度も口を開こうとして溜息しか吐けない。
自分の親に手を上げようとした事と、母の本音を聞いてしまった
事、その両方が俺の心を責め立てていた。
子供の頃に﹃見える目﹄を持った事で、他人との溝を感じ好奇の
目で見られた。そんな事もあって人の心が分からなくなった。
だからもっと心を知りたいと思ったのに、一番身近な母の心でさ
え見えていなかった。
見える目ってなんだろう。
肝心な事が見えない目って、見えていないのと一緒ではないのだ
ろうか?
﹁カオル、葵、どうしたんや? 元気出しぃな﹂
﹁うん⋮⋮、ごめん﹂
﹁⋮⋮ごめんなさい﹂
幾度と無く繰り返されている言葉のやり取り。
母はガックリと肩を落とし、仕方ないと一言呟いて口を開いた。
1578
﹁カオルは当てる心算で蹴ってへんかったし、いつでもうちを庇え
る様に予備動作してたやろ?﹂
﹁うん⋮⋮﹂
正直な所、母の見立て通り、驚かす程度の蹴りを出した。
美咲さんが母の事を﹃音も無く後ろを取られ、首にナイフが刺さ
るまで気が付かなかった﹄と言っていた。
あの美咲さんにそこまで言わせるなら、楽々蹴りも避わすだろう
と⋮⋮。
﹁正直頭の中を弄られてるって聞いて、母さんに不信感が芽生えた
のは間違いない。けど今は凄く後悔している。﹂
母はハンドルから片手を離し、頭をポリポリと掻いて苦笑した。
そしてしばらく思慮を巡らせ、俺と葵に聞こえる声でハッキリと
言った。
﹁うちはお母はんから仕事を継いだ時にな、子にはこの世界に関わ
って欲しくないと思たんや。普通に生きて欲しいとな﹂
遠い昔を思い出すような、切なそうな母の横顔。
俺も自分勝手と言われるかも知れないが、この業界に葵は関わっ
て欲しくない。
そして何時か母と同じく子を授かった時、同じ事を思うだろう。
﹁あの時のカオルの顔な、泣きそうな顔しとったんや。あぁ、ホン
マに困っとるんやなぁと思うて。何とかしてやりたい気持ちになっ
たんや﹂
1579
母の言葉が嘘ではない証拠に、とても嬉しそうな笑顔を見せた。
しかし俺が困っていて、何で嬉しそうにするかな。
﹁母さん、俺が困ってるのに顔が笑ってるよ?﹂
不貞腐れた様な素振りを見せ、非難する口調で物言いをつけた。
母は非難される事など思いもしなかったのか、慌てて取り成し始
めた。
﹁い、いやや、違うて。子供の時のカオルを思い出してな? 葵も
可愛かったけど、泣き顔だけはカオルが上やった。あの顔見るとな、
母性本能くすぐられんねん﹂
むぐう。物凄く嬉しくない評価だ。男としてのプライドがズタズ
タにされた気がする。
そんな泣き顔を褒められて、嬉しい男子はいないと思うのだが。
﹁それにな? 子供が困っている時に芽生える感情に気が付いて、
なんや、うちは普通の母親やて思たんや﹂
そう言って俺達を慰めてくれた。
俺はこの声を聞くと安心出来る。すぐ側にいるだけで、安心感を
与えてくれる。
今感じている気持ちをずっと持ち続け、忘れたくないと思った。
﹁うちみたいな母親から生まれへんかったら、普通の子と一緒で平
々凡々と暮らせたのにな﹂
これが母の本音なのだと思う。
1580
退魔士の世界を捨て、守人という役割を捨てた母の。
俺と葵に施された能力の封印も、多分、そういう事なのだろう。
﹁でも、もし自分で母親を選べるのなら、俺はもう一度母さんを選
ぶ﹂
﹁そ、そうか?﹂
﹁わたしも、おかあさんがいい﹂
﹁うん⋮⋮﹂
母は目を細めFIAT500が照らす、遥か前方を見つめて頷い
た。
高速道路の表示が視界を走り抜け、目的地が間近に迫っている事
を知らせていた。
母は盛大に鼻を啜り、気丈に振る舞い元気な声で声を掛けた。
﹁そろそろ京都東インターや、そっから地道やから﹂
FIAT500はインター出口へと舵を切り、三条通りを通り抜
け、そのまま白川通りを北上した。
白川通りと合流する367号線を更に突き進んだ所、それが母の
言う目的地だった。
﹁えと、どこやったかいな﹂
暗闇を徐行し前照灯を上向きに切り替え、車の灯りだけを頼りに
周囲を見回している。
ここは367号線から一本それた山道。街灯の灯りも無く周囲は
1581
漆黒の闇で、土地勘のある母でさえ難渋していた。
そして明るい声をあげて、嬉々として手を振って見せた。
﹁これが目印やねん、由美カヲルの鉄看板。金鳥マークや﹂
これが無いと辿りつけへんねんなどと言いつつ、ウインカーを操
作しハンドルを左に切った。
そして獣道と見紛う細い道を走り、大きな門構えの旧家へ辿り着
いた。
薄ぼんやりと灯された門灯と、年代がかった木の門は、見る人を
尻込みさせるには十分すぎた。
﹁怖!﹂
まるで幽霊屋敷のような雰囲気だ。
母は車を降りて周囲の森の香りを嗅ぎ、微笑んで俺達を手招いた。
ヘッドライトで照らし出された表札には、間違いなく﹃嵯峨野﹄
と書かれていた。
﹁廃墟というには手入れが行き届いているけど⋮⋮﹂
道の端に積もった木の葉は、明らかに人の手で寄せられたものだ。
それにFIAT500以外のタイヤ跡が道に残っていた。
﹁お母はんがたまに帰って来とるし、手入れしてくれる人もおるん
や。電気も通ってるやろ?﹂
母が門灯を指差し、ニコリと微笑んだ。
そして通用門を出て押し開き、中に入って門の閂を外した。
1582
﹁ここは道が細いから、うちの運転技術やとバックは不可能や。車
を中に入れるからカオルらは、入っといて﹂
そう言って再び車へ乗り込んだ。
FIAT500は門をくぐり抜け、エンジンの音が停止した。
途端に襲い来る静寂の闇と野生の気配に、思わず身震いがしてし
まった。
﹁行こうか? 中に入ろう﹂
足元の見えない暗闇の中、葵は身を固め一歩を踏み出せずにいた。
俺は葵の手を引き、足元を確かめ一歩一歩ゆっくりと門をくぐっ
た。
こじんまりとした庭を通り抜け、母の待つ玄関へと歩きながら、
ぼんやりと懐かしさの様なモノを感じていた。
先回りした母は玄関を開け、家の灯りをつけて回った。
玄関も手入れが行き届いており、ゴミ一つ落ちていなかった。
﹁おじゃまします﹂
靴を脱いで母の後を追い、居間らしき場所へ通された。
柱のくすみ具合や電灯のデザイン、調度品の趣きは古きよき大正
の頃を思わせた。
俺達は畳の上に座り、足を崩して人心地ついた。
﹁カオルは覚えてるかもしれへんな。葵が生まれるまで良く来てた
から﹂
﹁ん、なんとなくだけど﹂
1583
ここに来て度々感じる既視感のような、ハッキリ覚えていないん
だけど懐かしさを感じる。
葵はよその家に上がりこんだように、キョロキョロと見回し落ち
着きがない。
母は席を立ちしばらく居間に戻ってこなかった。そして急須と湯
呑みをお盆に乗せ戻ってきた。
﹁お茶飲みながら、昔話しようか﹂
注がれるお茶の香りが部屋一杯に立ち込め、心なしか家に息吹を
感じた。
まるで長らく不在だった住人の帰宅を喜んでいるかのように⋮⋮。
俺は差し出されたお茶で口を湿らせ、落ち着いて母の言葉を待っ
た。
﹁まずは家の事からやな⋮⋮﹂
それは長い、長い話だった。
嵯峨野の家は京都を守護していた守人の系譜。
残された文献を紐解いて見ても、室町の頃には京都を守護してい
たらしい。
江戸の頃には幕府の命を受け、日本各地を鎮めて回ったそうだ。
明治の混乱の時期をくぐり抜け、人と変わらぬ暮らしを手に入れ
たものの、災悪の度にその時毎の政府から依頼を受け、退魔を行っ
ていたらしい。
旅行で目覚めた正十郎の記憶、美咲さんの言葉と相違ない内容だ
った。
﹁ある時お母はんが病気を患ってな。その時うちは葵と同い年の頃
やった。あれが初仕事やってんやろなぁ﹂
1584
そう言って再び席を立った。
再び戻って来た時には桐箱を携えて、俺と葵の前にそっと置いた。
埃のかぶった桐箱にはなんの飾りもなく、赤の紐と青の紐で封印
されているだけだった。
﹁うちはこれを使こうて、なんとかかんとか生きて帰れた﹂
そう言って母はその桐箱を紐解いた。
桐箱の中には油紙に包まれた刀の本身、下げ緒が巻かれた鞘、松
の木模様の鍔とはばき、そして絹糸を巻かれた青の柄がバラバラに
納められていた。
母は無言で拭い紙を数枚手に持ち、刀を紙ではさみ両手で持った。
刃に残る油を紙で拭い、打ち粉を刃にまぶしては拭い、その動作
を何度も繰り返した。
そしてはばきと鍔、切羽を刀にくぐらせて、鞘へと収めた。
右手で柄を持ち、左手で数度叩き目釘をいれ、最後にもう一度紙
で拭った。
﹁藤原国助⋮⋮﹂
刃紋を見て心臓を握り潰されたような、落ち着かない気分にさせ
られた。
有無を言わせぬ母の気迫に押され、ここまで言葉を発せられなか
ったが、ここに来てやっと口を開く事が出来た。
﹁そうや鎮魂の刀の裏打ちや。あんたの守り刀と一対のな﹂
俺は慌ててリュックからカナタの守り刀を取り出した。
そして震える手で守り刀の柄と鞘をそっと二つに分けた。
1585
﹁︵久しぶり︶ちゃっき∼ん♪﹂
鯉口から零れ落ちるようにカナタが現れ、守り刀もその身をさら
した。
相変わらずシリアスムード台無しな登場の仕方だったが、眠るカ
ナタを抜刀と同時に叩き起こすのは久しぶりだし、今回は多めに見
よう。
機嫌良く俺の手に乗ったカナタは、ひょいと跳躍して母の手元に
移り、しげしげと刀を見つめている。
﹁あんたが守り刀に憑いている神様か。お母はんがよう言うてた。
表の刀には神様が憑いてるって﹂
ニコリと笑って母に頭を下げ、カナタはスッと姿を消し刀に吸い
込まれた。
柔らかな燐光が鎮魂の刀に宿り、心なしか刀が生き返ったように
見えた。
﹁うちの予測やけど、本物と偽物、メインとサブやない。神が宿っ
たほうが表になるように、二本作ったんちゃうやろかと思てんねん﹂
母は刀を鞘に収め、一息ついて俺に鎮魂の刀を手渡した。
手に渡されたズッシリと感じる重みは、夢や幻出ない事を俺に伝
えてきた。
﹁鎮魂は嵯峨野、神斬りは天野。昔からの決まりでニ家にわかれて
管理する事になってるんや。当主である者が所有する決まりになっ
とる﹂
1586
俺は下げ緒を掴み、刀を引き抜いて、僅かに鳴る鍔鳴りを耳にし
た。
﹁♪﹂
惚けたような表情をしたカナタが刀から零れ落ち、畳の上で悶絶
し身を捩っている。
リアル鍔鳴りを聞いて感極まったか?
再びシリアスムードを台無しにされた気になったが、気分を取り
直して咳払いを一つした。
刀の素性を確かめるように握り締め、探るように霊気を流し込ん
だ。
だか鎮魂の刀はあっけないほどに俺の霊気を飲み込み、まだ足り
ぬと言っているようにすら感じられた。
腕輪で絞り込まれているとはいえ、この手応えの無さは底が知れ
ない。
﹁鎮魂はおとなしい名前やけど、正体は逆や。慈悲の心を持った暴
力の塊やから、使いこなすには鍛錬が必要やと思うで?﹂
母はニヤリと笑って悶絶するカナタを両手で掬い取り、自分の頭
の上に乗せている。
そして思い出したように笑い出し、葵の頭の上に乗った珊瑚と撫
子を指差した。
﹁あんたらうちが見えてへん思て、ちんまい子らを頭の上に乗っけ
てたやろ? 想像してみ? うちがどんだけ笑いを堪えてたか﹂
あ、そう言えば。
朝起きて飯食ってる時とか、進路の事を真剣に話し合った時も、
1587
カナタとトウカ、珊瑚と撫子がいたよな。
母は話半分でテレビを見て、肩を震わせて笑ってたけど⋮⋮、テ
レビを見てたわけじゃないのか?
﹁俯いても落ちひんし、どんな頭しとんねんって、心の中でツッコ
ミ入れとった﹂
そう言って頭を右へ左へと揺すり、上目使いでカナタの様子を窺
っている。
そして再びツボに入ったように笑い出し、目に涙を溜めて転げま
わった。
﹁ほんま、落ちひんな! こりゃおもろい!﹂
ツボに入った母はヒィヒィと言いいながら笑い転げ、落ち着くま
で俺と葵は無言で押し黙った。
笑う門には福来たると言うが、神様を頭に乗せ笑う母は幸せ者だ
と思う。
見える人に出会ったらこんなに笑われるのだと理解し、見つから
ないように頭に乗せる事を決意した。
茶を飲んで落ち着いた母は、カナタを頭に乗せたまま真顔で話し
始めた。
なるほど。真顔になればなるほど、笑いを誘うのだと理解し、笑
いを堪え目を逸らしながら、母の話に耳を澄ました。
﹁今退魔の業界も変わろうとしてる。日米の情報共有は布石で、こ
れからはわんさと海外のハンターが日本に押し寄せてくる﹂
1588
腕の良いハンターなら、日本にとって願ったり叶ったりだろう。
けれど別の目的でハンターが押し寄せてくる可能性も否定できな
い。
﹁このままでは退魔士の育成にも影響でるやろし、国際的に外交戦
略として使われかねんのや﹂
俺はその話を聞いて、外来種の話を思い出した。
繁殖力の旺盛な外来種は、日本固有の種を駆逐する。
退魔士の世界なら話は別だと思うだろうが、今まで育成に注力し
てきた日本は、育成の打ち切りを考え方針を転換する可能性もある。
けれど外国産のハンターが日本の為に働くと思えない。
そして純国産の退魔士が居なくなった時に、命令一つで本国に引
き上げさせる事も出来るわけだ。
日米安保の上で成り立っている米軍基地のように、守ってやって
秋月って華僑の人がその事を憂いではってな。呼び付けられ
いる事柄の一つになりうると。
﹁邱
て説教食らったんや﹂
﹁秋月!﹂
母の言葉に反応するように、リュックからトウカが飛び出てきた。
そして俺の肩に乗り、神妙な面持ちで口を開いた。
﹁秋月がそう思うのなら、恐らくその通りに動くじゃろ﹂
トウカが腕を組み、うんうんと頷いて押し黙った。
俺はふと湧いた疑問をトウカにぶつけてみた。
1589
﹁トウカは邱
秋月って人を知っているのか?﹂
秋月の物じゃ。あやつほどの呪でないと
トウカは俺の問いかけにしばし小首を傾げ、なにか思い立ったよ
うに声を張り上げた。
﹁カオルが使った符は邱
我は呼び出せん。カオルはてっきり身内かと思うておったわ﹂
退魔士試験の時の護符の事か。
あれは牧野に貰った物で⋮⋮、あれ? 牧野は言ってなかったか
秋月。牧野のお母さんは日本の人じゃ
?﹃ばあちゃんから仕入れてる﹄って。
一枚1万円の護符⋮⋮邱
なかった⋮⋮。
﹁牧野のおばあちゃんか?﹂
俺の驚きをよそに、母はニコリと頷いて見せた。
トウカはひょひょいと母の頭へ飛び移り、カナタと抱擁をかわし
て座り込んだ。
﹁あやつは人間の域を超えて、より我らに近い存在じゃ。人はそう
いう者の事を﹃仙人﹄と呼ぶのじゃがな﹂
﹁うちより若ぁ見えたもんな。仙人ちゅうより妖怪やろ?﹂
牧野のおばあちゃんて事は、相当年を食ってるだろうに。
うちの母も見た目は二人の子持ちとは思えないけど、それ以上に
奇異だという事か。
1590
﹁霊気のコントロールが出来る奴は、年より若く見えるのは鉄板や
けど、それは老化を遅らせるだけで、若返りは出来ん。あれは絶対
若返っとる﹂
その言葉を聞き、葵が目を輝かせ身を乗り出した。
言いたい事は分かるが、その期待に満ちた顔つきはヤメレ。
﹁てことは、私もおかあさんの様に若いまんま? ブイブイ言わせ
れる?﹂
いやいや、素人同然の葵にはコントロールは無理だと思うぞ?
俺と同様に母も苦笑して、葵の頭を撫でて言い聞かせた。
﹁修行を積まんと無理や。葵には私がちょっとづつ教えたるわな?﹂
母の言葉を聞き、微笑んで両手を上げて喜んでいる。
どんな辛い苦行が待っているか知らずに⋮⋮。
そして母は話を転換させる為に咳払いを一つ入れ、もう冷めてし
まったお茶で喉を潤した。
﹁んでな? うちだけやなく天野、真倉、山科、宮之阪も呼び付け
られてたから、今頃説教食らっとるやろな。仲間の子らも﹂
て事は美苑さんも来てるのか。それは⋮⋮うはぁ。
心の中で美咲さん達を応援しつつ、何故か手は胸の前で十字を切
っていた。
﹁カオルと葵はこれからどうしたい? 力を手に入れてどうする心
算や?﹂
1591
これから⋮⋮か。そんな先の事を考えた事無かった。
高校を出て、大学に行って、どっかで就職して⋮⋮。そんな先の
事はわからない。けど。
﹁これからより今だ。俺はみんなを手助けして守りたい。まずは魂
喰いの件が片付かないと先に進めない﹂
目の前の問題を抜きにして先の事を考えるなんて出来ない。
魂喰いの問題は、美咲隊にとっての最重要課題だから。
﹁葵はどうや?﹂
葵は押し黙って目を閉じた。
壁の時計が時を刻む音だけが部屋に響き渡り、ゆっくりと目を開
けてこう口にした。
﹁私がいまから背伸びしても、おにいちゃんや乃江さん、真琴達と
一緒に戦う事は出来ない。けど、なにかしないといけない気がする
の﹂
葵に芽生えた気持ちは、俺と同じ思いなのだと思う。
人に守られ暮らしていく、知らなければ、見なければ、気付かね
ば通り過ぎていた事。
けれど代わりに傷つき、守り、慈しむ存在がいる事を知ってしま
ったから。
﹁私は傷ついた人を癒せる力を学ぼうと思う﹂
葵は小さくガッツポーズを取り、やる気に満ちた笑顔で決意を固
めた。
1592
1593
﹃静の推論﹄
﹁癒し系か、葵にはピッタリかも知れへんな﹂
母は感心するように頷き、テーブルの上にあったペンを手にとっ
て、手元の紙へ﹃葵﹄という文字を大きく書いた。
そして母は俺達の前に紙を差し出し、感慨深げに口を開いた。
みずのと
﹁葵は生まれもって﹃水﹄の気が強かったんや。せやから名前に﹃
癸﹄を入れて﹃水気﹄を表し、それだけやと辛気臭いから﹃花﹄を
添えて﹃木気﹄を足したんや。水は命の源、木は生育の象徴、ええ
名前やろ?﹂
なるほど⋮⋮。
ワサビ
陰陽五行で水は冬であり死のイメージ。木気を添えて転生、成長
のイメージを付けたという事だな。
そんな思いを込めてくれていたとは思わなかった。てっきり山葵
をイメージしたのかと思っていた。
名づけの妙を感心していたら、次に母はペンを走らせ﹃薫﹄とい
う字を書いてみせた。
も
﹁カオルは﹃火﹄の気が強かったんや。けど火が燃えるには理由が
必要や。香高い草花を冠して燃し昇華させる。これまたええ名やろ
?﹂
。擦れ合った枝葉が燃え、炎は天へ昇
薫の字は草冠とレンガ、二つの部首を背負っている。言い換える
と木と火か。
陰陽五行でいうと木生火
っていく⋮⋮か。
1594
母は最後に自分の名前である﹃静﹄と紙に書き、謎掛けをするよ
うにニヤリと笑った。
﹁さて、うちの名は陰陽五行で表現すると、なんでしょう?﹂
俺と葵は静の文字を見つめて困惑した。
目に見えて水、木、火、土、金の表現が入っていないからだ。
難しいな、静のイメージは水っぽいんだけど⋮⋮。
﹁ジャン∼ピング∼チャンス! ヒントは﹃静﹄の﹃青﹄と﹃争﹄
やで﹂
むむ?争いのイメージは殺か。殺といえば金気⋮⋮、ということ
は。
俺はすっと手を上げて自信満々で答えを口にした。
﹁金生水 金気と水の両方!﹂
﹁半分正解! 争い収め沈静化するイメージ﹃静﹄やけど、オシイ
!﹂
母は感慨深げな表情で、紙に﹃青﹄の字を書いて俺達に向け直し
た。
﹁お母はんが、金、水やと殺伐とした子になるやろいうて、﹃青﹄
を入れて緑を表現したんや。うちの名は木気も含んで三元素入って
るんやで﹂
さすがばあちゃん⋮⋮、一つの漢字に3つの意味を込めるなんて、
達人クラスの漢字博士だ。
1595
争いを終わらせ、後に静寂が訪れる。金と水だと死によって終わ
らせるイメージだけど、木気が入れば生命を感じさせる。
戦う者としての強さ、守人としての清浄なイメージ、母としての
生命力。母にピッタリな名前だと思う。
葵は水木、俺は木火、母は金水木⋮⋮。
トウカが葵を見つめて、感慨深げに口を開いた。
﹁確かに葵は水気が強い。珊瑚と撫子は伸び盛りじゃから、葵の気
が心地よいのかも知れぬな﹂
そう言いながらトウカは元気良く跳ねる二人の妹達を見つめた。
水が木へ栄養を与えるという割に、トウカは珊瑚達とは違い余裕
の眼差しだよな。二人は伸び盛りの新芽、トウカは盛りが⋮⋮。
﹁カオル? 今⋮⋮、なにか良からぬ事を考えなんだか?﹂
鋭い眼光で俺を睨みつけた。俺は慌てて頭の中に浮かんだ単語を
払いのけた。
相変わらず自分の悪口だけは、高感度センサーで感知するなぁ。
﹁美しく花咲くトウカ様には、水は必要ないという事、ですね?﹂
思いっきりヨイショする言葉を並べ立て、トウカのご機嫌を取り
繕った。
トウカもその言葉に満足したのか、コクコクと頷いて納得した表
情を見せた。
ふひぃ⋮⋮、トウカは怒ると怖いんだよな。普段温厚だけに怒っ
た時のギャップがありすぎて怖い。
﹁せやせや、ええもんが﹂
1596
母は思い立ったようにカバンの中を引っ掻き回し、小さな紙袋を
取り出して葵に手渡した。
ひまわりの写真が印刷された袋⋮⋮、園芸店でよく見る種の袋だ
った。
﹁庭に咲かせようと思ってた種やけど、種まきの時期を逃してん。
ええ機会やし花咲かせてみよか?﹂
そういって台所へ向かい大皿と、濡れたキッチンペーパーを手に
持って戻って来た。
母はテーブルの上に皿を置き、キッチンペーパーを重ねて置いた。
そして人差し指を少し濡らして、ひまわりの種を一つ摘んで目の
前に差し出した。
﹁葵の修行はひまわりの育成﹂
母はそう言いつつ、指先に霊気を籠め種に一点集中させた。
小さな種に霊気を籠める技量も凄いが、それ以上に驚いたのは、
あっという間に種を発芽させた事だ。
ビデオの早回しのように種は成長していき、種から根を出し始め
双葉を開かせた。
まるで手品のような光景を見て、葵は目を丸くして驚いていた。
﹁これくらいになったら土に植えたらんと。葵は残りを発芽させて
ここに並べてみ?﹂
芽吹いた双葉を濡れたキッチンペーパー上へ置き、残りの種と共
に葵の前に差し出した。
葵は手に持ったひまわりの種を見つめて、やがて意を決したよう
1597
に霊気を籠め始めた。
﹁水は冬の雪解け水、泉に湧き出る生命の根源や。無から有、冬で
ありながら春の一面を持つ⋮⋮、眠りと目覚め、死と生⋮⋮﹂
﹁眠りと目覚め⋮⋮﹂
葵は神妙な顔つきで、手に持った種子を見つめている。
ぼんやりと手全体に霊気が集中し、種子へ影響を与えている。
やがて種がピクリと動き、種からほんのちょっぴり根が伸びた。
﹁わっ!﹂
葵は大きく目を見開いて、子供の様に目を輝かせている。
母ほどの霊気もコントロールも出来ないが、それでも数分で発芽
させてしまった。
一つ成功させて気を良くしたのか、無言のまま異様な集中力を発
揮させ、続けざまに種子へ霊気を籠めた。
母は俺を見て苦笑を見せながら、人差し指を口に当てた。
葵もだんだんとコツを掴んできたのか、回数をこなすにつれスピ
ードアップし、そして全ての種を芽吹かせて、深いため息を吐いた。
﹁ちょ、ちょっと疲れたかも⋮⋮﹂
そう言って畳の上で大の字になった。
初心者であれほどの霊力を出せば、当然疲れもするだろう。
けれど驚嘆するのは母の教え方だ。霊力を流す対象を小さくすれ
ば消耗も少ないし、芽が出るという達成感が集中力を掻き立てる。
ここまでやる葵も褒めたいが、それを引き出した母の作戦も大し
たものだ。
1598
﹁明日早う起きて、柔らかい土に埋めたるさかいな?﹂
母が話しかけると、双葉達は返事をするように葉を揺らした。
そして母は俺に向き直り手首を指差し、腕輪を外せと合図を送っ
てきた。
この腕輪の効能も見抜いているのか⋮⋮、さすがだな。
俺は言われるがまま両手の腕輪を外し、テーブルの上へ置いた。
﹁カオルは霊気を物に籠めるのは出来るみたいやし、こういうのは
どうや?﹂
母は五本の指を広げて俺に見せ、目を閉じて深呼吸した。
ふぅっと小指に霊気が集中し、ぼんやりと光る緑の霊気を帯びさ
せた。
﹁これが木気﹂
そして今度は薬指に霊気が集中し、紅の霊気を帯びた。
﹁これが火気﹂
そして残り三本に霊気を纏わせ、中指に黄色、人差し指に白、親
指に黒の霊気が光を帯びた。
﹁順番に土気、金気、水気や﹂
剣道娘の静音が見せてくれた霊気コントロール⋮⋮、指先に霊気
を纏わせる技。
しかし母が見せてくれたのは、それとは別次元の高度な技だ。
1599
五行の元素全てをコントロール出来て、初めて可能になる技。
﹁人には強弱、得手不得手はあるけど、属性全てを内包しとるんや。
うちの場合水と金が強いから、ワザとその他を引き立たせてバラン
ス取ってるねん﹂
理屈を聞くのは容易いが、実際にどうやっていいのかさえ分から
ない。
レベルが違いすぎてちょっとヘコんだ。
それに俺の知る属性色と食い違いもあるし、ちょっと心を落ち着
ける意味で聞いてみるか。
﹁ごめん話の腰を折るけど、俺の知り合いの﹃水﹄って奴と色が違
うみたい。そいつのは青というか蒼っぽいんだけど⋮⋮﹂
別所静音の属性色だ。あいつは水の使い手だったが、母の黒とち
ょっと違う。
﹁蒼なぁ⋮⋮、その子は木気寄りの水気とちゃうか? 水使えるけ
ど、風や雷使うんとちゃう?﹂
ドンピシャリ! その通りだ。
てことは本人がそうとは知らず霊気を混合している場合もあると
いうことか。
今母が見せてくれているのが純粋な色分けだとして、静音のよう
に中間色になる場合もあると。
﹁そいつ水使いの電気娘だ。歩くAED︵自動体外式除細動器︶と
命名した﹂
1600
母はジト目で蔑むように見つめ、引き攣った笑みを見せた。
そして小指を弾いて俺に霊気を飛ばし、軽く電気ショックを見舞
ってくれた。
俺はそれを避け損ない、ビリッと軽い感電をして身を震わせた。
﹁雷娘? あの子ら5人の誰かが本命やと思ってたんやけど、違ご
たか?﹂
﹁あ、いや、本命とかそういうのじゃなくて、知り合いだってば﹂
母は浮気者には容赦が無い。
なぜならば親父の浮気を疑った時、三日三晩夫婦喧嘩した記録が
残っている。
三日三晩といっても72時間連続。二人の精神力、体力共にギネ
スものだと思う。
﹁しゃーない、その言葉信用しといたる﹂
仕方ないとか言われても⋮⋮本当の事だし。
しかしこのタイミングで不平不満を口にしても、話を蒸し返すだ
けでこちらに利がない。
それにもう一つ気になる事があるのだ。それも最重要事項で。
﹁俺の霊気の色は白っぽいんだけど、火だよね? 金気とちょっと
違うみたいな﹂
母は俺の言葉を聞き、なんやと呆れ顔になった。
そして指先に残る光を俺に見せ、謎掛けするようにニコリと笑っ
た。
そういえばさっき母が霊気を集める前の状態、あれは白っぽかっ
1601
た。もしかして⋮⋮。
﹁光が合わさった状態が白?﹂
母は指先に残った霊気を、ロウソクの火の様に吹き消した。
そして改めて手全体に霊気を集め、白の霊気を放出した。
﹁守人の系譜はどこの家系でも、全ての属性をマスターするんや。
そして属性を誇示せず﹃光﹄と言うんや﹂
そういえば美咲さんが自己紹介してくれた時、自分の属性を﹃光﹄
と言っていた。
そして同時に母の言いたい事がなんとなく分かってきた。
﹁もしかして一芸に秀でる属性より、バランスの良い光のが強いと
か?﹂
五行相生という考えは水が木を潤し、木が火を燃す、火は灰をな
し土に帰る、土は金を生じ、金は水を湛えるというもの。
しかし逆に五行相剋という強弱関係も存在する。
水は火を消し、木は土を痩せさせ、火は金を溶かし、金は木を切
り、土は水を止めるというものだ。
﹁疑問に思うやろけど、カオルの霊気とカナタは相性悪いか?﹂
強弱関係を並べると俺︵火︶↓カナタ︵金木︶↓トウカ︵木金︶
だが、実際の強弱は正反対だからな。
それに日本刀は火と金属の調和によって作られた物だ。火によっ
て粘りと強度が増した産物だと言える。
もしかして守り刀が本来の姿に戻ったのは、火の金への変化が引
1602
き起こした事だとか?
﹁水は火を消すいうけど、程よい水は火を勢いつけるんや﹂
火が燃える為に酸素が必要になる。大きな火は酸素を食い尽くし、
火の勢いを殺してしまう場合もある。
金で木を切れば、切られた木は土に帰る。しかし切らねば木々達
は、日光と栄養を取り合って共倒れしてしまう。
すべては良いも悪いもバランスが重要だという訳か。
﹁光の極意は調和とバランスの取れた相乗効果⋮⋮か﹂
﹁その通り!﹂
母は笑みを浮かべて親指を立て、いつの間にか葵は眠りについて
いた。
葵さん⋮⋮、今、物凄く重要な話をしていたのだけれど、聞き逃
しましたね?
母は押入れから布団を取り出し、眠る葵にそっと掛けた。
そして神妙な顔付きをして、テーブルの上で頬杖を付いた。
﹁魂喰いの話やけど⋮⋮、うちも資料を見せてもろただけで、さっ
ぱりや。カオルの持ってる情報を聞かせてくれへん?﹂
母はそう言って俺の言葉を待った。
俺は提出した資料だけではなく、俺の見聞きした事を全て箇条書
1603
きにしつつ話をした。
・魂喰いが人形繰りのスキルを喰った。
・次に真琴の父親の幻獣召喚のスキルを喰った。
・その二つのスキルを操っている事を確認した。
・この二つの事件は別の地区で行われた。
・もう一人スキルを持たない能力者が食われた。
そして美咲さん達と俺が出会い。
・魂喰いが﹃鬼ごっこ﹄を邪魔した俺をターゲットに選び、葵を
拉致し﹃かくれんぼ﹄を強要された。
・そして学校に囚われていた葵を発見する為に幻獣︵幻獣召喚の
スキル︶と戦闘になった。
・葵を繰る糸が一瞬見えた。
・魂喰いは意識体で存在していた。省庁と隊は総称してアストラ
ル体と呼んでいる。
・長考という超高速視認のスキルでも動きを捉えられなかった。
・風弾という爆弾で相打ちに持ち込んだ。
・5人力をあわせて消滅させた。
魂喰いの消滅に確信が持てないメンバー達
・退魔士清水を操作して、牧野を狙って来た。
・清水に絡まる人形繰りの糸を俺が視認し、守り刀で斬った。
・一瞬だが、糸を切った時に奴の意識が俺に伝わった。↓ 葵も
同様の意見︵糸で心が繋がる︶
・精神不安が繰り糸を発動させる鍵になっている ↓ 葵の意見
・清水に残る縁︵赤い糸︶を追い、俺と美咲さんで追跡をした。
1604
アメリカのハンター達に妨害された。
・アメリカのハンター達、チェンジリング、アビゴール、その他
二名︵兄妹︶の名は不明。
・死亡したハンター兄妹は超能力者︵念動力、発火能力︶を有し
た。↓喰われている可能性大
オーストラリア在住の能力者アンさんに追跡依頼。
・人の繋がりを7つ先まで見極める彼女でさえ、魂喰いを発見す
る事が出来なかった。
天野美咲への依頼打ち切り、引継ぎの命令
そして今に至る⋮⋮。
﹁なるほどな。紙に書いてある報告書と違い、現場の意見は分かり
やすい﹂
母はニヤリと笑って、俺の書いた紙をひっくり返した。
そして追記するようにペンを走らせた。
﹁まず一つ。別地区で行われた退魔士殺人と、うちらの地区に来た
タイミングや﹂
!!!。
魂喰いは﹃鬼ごっこ﹄を邪魔するなと言っていた。
だから先入観が入ってしまい、ターゲットは美咲さん達だと思い
込んだ。
美咲さんは魂喰いの討伐を依頼されて、この地区へ転居してきた
のだ。
1605
時間軸でいうと俺の思い描いた﹃鬼ごっこ﹄論理とズレが生じる。
二つの事件↓移動↓能力者殺害 退魔士省庁の依頼↓天野美咲へ
という流れだ。
﹁魂喰いは何かの理由でここに居続けている?﹂
﹁その通りや、鬼ごっこをして﹃逃げ続け﹄なければならない程、
ここに居続ける必要があるんや﹂
居続ける理由、転居する理由がそれぞれの街でもある。
それは何か? そうする理由が人物像を浮かび上がらせる可能性
もある。
﹁二つ目や。真倉のお嬢の推論の上乗せやけど、奴はかくれんぼの
ルールに則った。けどやな⋮⋮、同時に鬼ごっこも終わっとる筈や﹂
目隠ししている間に隠れる論理。
鬼の側から離れすぎるとかくれんぼの意味が無い事。
そこまでルールに拘る奴だという﹁前提﹂
そして屋上で奴は確かに捕獲された。そこでペナルティを付けな
い事への疑念か。
﹁あとはなんで意識体なんやという事や﹂
﹁それは時間と空間の概念が無いからじゃないかな?﹂
アストラル体は本体である肉体を離れ、空を飛べ、瞬間的に移動
も出来る。
戦闘をするなら便利だと思うのだが。 1606
﹁それは理屈で知っとる。けど魂の器を置いて長時間動くのは肉体
へ負担が掛かる。それに意識体の損傷は魂の欠損に繋がるんや﹂
そう考えるとマズイよな。
動きが早いだけで、鎧を身に纏わないだけじゃなく、長期戦にな
ればなるほど肉体を弱らせる。
果たして力をつけていった魂喰いが、最初の頃と同じリスクを背
負うだろうか?
俺が魂喰いならどうする?
もし美咲さん達が手ごわいなら場所を移動するだろう。
そして手ごろな退魔士を狙い、能力を奪い、そしてまた移動をす
る。
﹁あのアボリジニのおばちゃんでさえ、奴を見つけれへんって所が
おかしいんや。7つ先やで? 中学高校に通う子らの縁で﹂
俺は別として、美咲さんらが退魔士だからとはいえ、学校に友達
がいないわけじゃない。
あの地区の子から親に、子から子にと枝分かれする縁の網に、引
っ掛かる確率は非常に高い。
1人が10の縁を持つとして、乗数計算すると天文学的数字にな
る。
﹁最後に⋮⋮、なんで牧野君を狙ったんかわからへん。カオルの時
は人質を取って、牧野君時は無策に近い﹂
確かに⋮⋮。
ファントムが美咲さんのバックアップをしているとして、奴にと
って一番実害の少ないキャラクターだ。
それをわざわざ狙う理由。亜里沙さんを操れば、より殺害する確
1607
率を上げる事が出来る。けれど清水を使った。
亜里沙さんはダメで清水なら良かった理由は、精神的な負の要素
かもしれない。
けれどあまりに無策すぎる気がする。
﹁しっかりとしたイメージを持てるとしたら、﹃自由に動けない奴﹄
﹃人の接点が乏しい奴﹄﹃牧野に動き回って欲しくない奴﹄って所
か﹂
あれ以来牧野は動きを制限されている。
それが魂喰いの意図する事なのだとしたら⋮⋮。
牧野の動き回るルートの近くに魂喰いが﹃自由に動けないで居る﹄
という事ではないのか?
俺はポケットから携帯を取り出して、がっくりと肩を落とした。
﹁圏外だ⋮⋮﹂
せめて無事は確認したかった。
恐らくあいつの事だから無事でいるのは間違いないだろうけど⋮
⋮。
﹁牧野君やったら大丈夫や。 秋月ばあさんがこっそり見守るて﹂
トウカが同類って言うレベルの人なら、安心していいかもな。
そして再びメモ書きに目を落とし、一つ書き忘れていた事項に気
が付いた。
﹁母さん言い忘れた事が⋮⋮、美咲さんと追った糸事件の後、美咲
さんが意味不明な言葉を残したんだ﹂
1608
﹁なんて?﹂
﹁確か⋮⋮、﹁途方もない孤独感﹂﹁何も無い白の部屋﹂﹁複数の
意識﹂って﹂
1609
﹃静の推論﹄︵後書き︶
キャラクター投票にご協力の皆様、この場を借りてお礼申し上げま
する。
特に理由を書いてくれる皆様、大変貴重なご意見ばかりで、作者の
意図を大きく外れ、キャラ達が動いているのだと思わされました。
︵特に美咲に蹴られたいと書かれた方、大爆笑させていただきまし
た︶
期間を設けていませんでしたが、新春1/15日までと線引きしよ
うと思います。
結果を踏まえA++初のサイドストーリーを書かせていただこうか
と思っております。
ヒロイン達がんばれ! 多分2/14のお話になる予定です。
その他の非恋愛キャラが来た場合は、それとは違うお話になると思
います。
それはそれで面白いカモ。
1610
﹃怪僧﹄
母は押入れの布団袋を紐解き、川の字に布団を敷き始めた。
真空パックで保存されていた布団は、樟脳の匂いがキツかったけ
れど、保存は申し分無く安心して眠れそうだった。
先に寝てしまった葵を母と二人で持ち上げ、敷いた布団の上に移
動させた。
修行で疲れていたのだろうか、こんな扱いをされても目を覚まさ
ない。これはちょっと凄いと思う。
﹁夜も遅いし、葵も脱落したからなぁ。続きは明日にしよか﹂
兄妹を分け隔てなく育てるのが母のモットーだ。
妹が足踏みしたら兄が待つのが当たり前、俺もそうやって育てら
れてきた。
思う通りに進まないもどかしさを感じるが、母の教え方の上手さ、
思考の柔軟さは驚嘆に値する。
きっと足踏みなど感じさせない程の成果を授けてくれる。そう期
待させる奥の深さを感じるのだ。
俺は枕元に守り刀とナイフと並べ置いた。そして鎮魂の刀を置い
て、二人を刀の前に降ろしてやった。
﹁トウカにカナタ、これからもよろしくな﹂
ふうひょうか
母に聞いた属性観、五行の相関図で考えると、トウカは俺を補助
する木気が強い。
確かにトウカに授けて貰った風飄花は、俺にとって無くてはなら
ない技になった。
カナタと俺の相性の良さも、神木から得た神気︵木気︶が作用し
1611
ているのだと思える。
ただカナタとトウカの持つ金気、それを最大限に活用出来ている
かといえばNOになる。退魔の力はカナタ達に頼りっきりだしな。
母も五つの気を扱う時に﹁うちの場合水と金が強い﹂と言ってい
た。
その言葉を信じるなら、母レベルの達人でさえ、生まれ持った属
性を覆せないという事になる。
そういう事から思うに霊気の質を見極める事、己の苦手とする属
性を感じる事こそが大切なのだと思う。
今までがむしゃらに霊気を籠めていたが、それだけではダメだと
いう事だけは分かった。
﹁カオル、今の日本では帯刀は許可されておらぬのよな?﹂
守り刀に座っていたカナタが、困惑した表情を見せ問いかけてき
た。
帯刀? 腰に刀をぶら下げる事か。そんな事をすれば、ものの数
分で警察のお世話になる事になる。
﹁今までの守り刀もそうだが、おおっぴらに持ち歩く事はできない。
いざという時はやむ無しだけど、常に身に付けるのは無理だな﹂
カナタはコクコクと頷いて、納得した様子を見せた。
そして守り刀へと消えていった。
一人残されたトウカはカナタの様子を見つめ、納得したように手
をポンと叩き、ニヤリと笑い俺に耳打ちした。
﹁カオルと常に一緒に居たい、カナタはそう思うておるのじゃな﹂
それだけ言い残して、自分もナイフの紋様へと消えていった。
1612
鎮魂の刀に憑けばお留守番しなくちゃいけない。ならばいつも通
りに守り刀に居ると、そういう事か?
﹁誤解するでない! 我は住み慣れた方を選んだだけじゃ!﹂
守り刀がコトコトと揺れ、必死で言い訳をし始めた。
散歩に連れて行って欲しい子犬みたいだな⋮⋮。まあ留守番させ
る気は毛頭ないけど。
﹁守り刀の方が寝心地いいのか? それじゃ鎮魂の刀がかわいそう
だぞ?﹂
﹁⋮⋮うるさい﹂
﹁明日は鎮魂の刀を持って修行に行こうかな﹂
そう言い残して目を閉じた。
そして頃合を見計らって薄目を開けると、守り刀からソッと抜け
出したカナタが、鎮魂の刀に入り込むのが見えた。
ほんと、素直じゃないんだから。
しかし鎮魂の刀を持ち歩く方法を考えないと、この先大変だよな。
俺はおぼろげに浮かぶ攻略の方法を考えつつ、いつしか深い眠り
についてしまった。
朝目覚めてみると、母と葵の布団は片付けられ、姿も見当たらな
かった。
テーブルの上にあったひまわりの双葉も無いし、もしかして土に
1613
植えに行ったのだろうか。
いつもの条件反射でナイフと守り刀を腰に差し、枕元に置いた鎮
魂の刀へ声をかけた。
﹁カナタ起きろ、行くぞ﹂
カナタに声を掛けてみたが、一向に反応がない。鎮魂の刀に憑い
ているのは間違いなのだが、もしかしてまだ眠っているのか?
俺は鎮魂の刀を手に持ち、目の前の敵を想定し抜刀してみた。
はばきと鍔に遊びがあるのか、やはり微妙に鍔鳴りがして、鯉口
辺りからポトリとカナタが落ちてきた。
﹁♪∼﹂
﹁カナタ⋮⋮お前⋮⋮﹂
惚けた表情を浮かべ、転げまわる刀精を見て脱力してしまった。
ワザと返事をしないで抜刀するのを待っていたな?
俺は鎮魂の刀を納刀し、ピクピクと痙攣するカナタを拾い上げた。
そして鎮魂の刀を見つめ、乃江さんにゴールドコーストで教わっ
た技の発展形を試みた。
﹁右手に鎮魂、左手にトウカのナイフを持ち⋮⋮﹂
乃江さんは桃源境への紋様をこう言っていた。
発動とキャンセルが出来るのであれば、一瞬姿を虚ろに出来る。
それは攻防どちらも可能だと思うのだと。
そして見せてくれた技は﹃防﹄の回避だった。
攻撃対象からの回避が可能なら、攻撃対象そのものを虚ろにし、
回避するも可能だという事だ。
1614
体を虚ろにし攻撃を避けるか、攻撃そのものを虚ろにし当たらな
くするか。表裏一体という事。
﹁ならば﹂
術者以外の物を行き帰りさせる事が可能なのではないかと⋮⋮。
俺は乃江さんのように、完璧なタイミングで隙を見極められない。
だから長考を併用してコンマ何秒かの隙を見出している。タイミン
グを外す事は技が未熟という事だ。
トウカのナイフに霊気を籠め、体の周囲に桃源境への道開いた。
﹁鎮魂の刀を桃源境へ運び、キャンセルをする﹂
手元にあった鎮魂の刀が消え、俺は嵯峨野家の居間へと戻ってい
た。
体に残る霊気の損失は、回避の時と大差ないほど少ない。
一発で成功出来た事に、ホッと安堵のため息を吐いた。長考使い
のプライドに係わるからな。
﹁それに、ここ最近頻繁に行き帰りしてるから、タイミングを掴み
やすかった﹂
今感じたコツを忘れないように、行き帰りを繰り返し試してみた。
靴を履いて庭に出て見回し、母と葵の元へ駆け寄った。
庭の外れにある花壇の前で、鍬を持った母が腰を下ろし、葵は掘
1615
り起こした土を見守っていた。
柔らかくなった土には均等に双葉が植えられ、昨日より幾分生長
しているように見えた。
﹁カオル、起きたん?﹂
母はあくびを噛み殺し、葵は好奇心一杯の目を俺に向けた。
葵は手に持った霧吹きを自慢げに見せ、霊気を籠めつつ双葉に吹
きかけた。
﹁おにいちゃん見て見て、この子達かわいいんだから﹂
葵が霧吹きで水を吹きかけると、双葉達は呼応するように葉を揺
らし始めた。
まるで小さなロックンロールフラワーのように、もっと水をくれ
と言っているようだ。
﹁葵の天職は花屋さんやな﹂
母はそう言って鍬を塀に立て掛け、俺に向かい合図を送ってきた。
手合わせしてやる。そう言いたげな表情だった。
ついに母さんの本領発揮か⋮⋮、武者震いがしてきた。
﹁カオルの腕前を見とかんと﹂
そう言い残し母屋に姿を消し、手に包丁を持ち戻ってきた。
どこにでも売っていそうなステンレスの包丁、小型のぺティナイ
フを呼ばれるものだ。
﹁それで?﹂
1616
果物ナイフのような小ぶりの包丁一つ。それで戦闘しようという
のだろうか。
戸惑う俺を尻目に、母は返答せずに踏み込んできた。
最初ゆっくりと歩を進め、射程に入り込む寸前に速く。慌てて身
構えた時には、息が掛る程の間近に身を置いていた。
﹁遅い!﹂
ナイフを探る手を掴まれ、軽く捻られ体がフッと軽くなった。
天地が逆転する映像が一瞬目に入り、同時に背中をしたたかに打
ちつけ、気が付くと喉元に包丁を突きつけられていた。
﹁これでリタイヤ。仲間を助ける事も出来ず死んでいく。残された
仲間もすぐに後を追う事になる﹂
ゾッとする様な冷たい声だった。
母は俺に気付かせたいのだと思う。俺の油断は即、仲間の危機に
繋がると。
俺は歯を食いしばりトウカのナイフを握りこんだ。
桃源境への光に包まれた瞬間に、母と切っ先をすり抜け、背後に
身を置いた。そして虚を付き母の背にナイフを突き立てた。
しかし母は事も無げにそのナイフを避け向かい合い、逃げるどこ
ろか一歩、二歩とこちらへ向かってきた。
﹁見え見えの太刀筋や、目を閉じてても回避出来るで?﹂
そう言ってニヤリと余裕の微笑みを見せた。
その瞬間頬にジクリと痛みが走り、血を纏ったナイフが通り抜け
た事に気付かされた。
1617
﹁ナイフは死角から走らせるもんや、相手に見せ付ける構えは抑止
力にしかならん。相手を怖がっとる二流のやり方や﹂
母の包丁は精妙な位置に構えられていた。
包丁に気を取られると、目や足さばきを見定める事が出来ない。
逆に足捌きや目の動きに気を取られると、包丁は死角から意図せぬ
タイミングで切り裂いてくる。
︱︱ナイフってこうやって使うんだ。
恥ずかしながら初めてナイフの使い方を理解する事が出来た。
そして俺は母を真似て、トウカのナイフを腰の位置に落とした。
﹁そうや、相手がナイフを見たら脚を動かし手を使う。足に気を逸
らしたら、逆にナイフを走らせるんや﹂
そう言って、これ見よがしに軽い足裁きを誇示した。
ナイフの位置はまったく動いていないのに、体が右へ左へと移動
している。
まるで赤いムレタを振る闘牛士の様に、俺の目を幻惑している。
﹁一度傷を負った武器には魔法が宿るんや。本能的にそちらへ注意
が行って︱︱﹂
目の前の包丁がポトリと音を立てて地に落ち、その後ろにあった
ハズの母の姿が消えていた。
気が付くと声は真後ろから聞こえ、血の吹き出していた頬を撫で
られていた。
﹁︱︱気が付くと全てが終わっとる﹂
1618
頬の傷を止血されながら、呆気に取られ身動き一つ出来なかった。
﹁看護師の出番や、ナース葵!﹂
そう言って俺から離れ葵を手招いた。
力の差⋮⋮、そんな比べる事さえおこがましいほどに、戦い方、
力量の次元が違う。
美咲さんの総評通りの強さ、俺なんかが足元にも及ばない程強い。
﹁おにいちゃん、大丈夫?﹂
葵は俺の目の前に顔を寄せ、頬の傷を確かめている。
そして頬に手を当てて、水の霊気を流し始めた。
冷たい清流のような霊気を感じ、汗ばんだ体を冷やしてくれた。
俺はその心地よさに目を閉じて、葵になすがまま身を預けた。
そして母との戦いを振り返り、敗因を探った。
気が付かない内に母に遠慮していたのだろうか?
それとも虚を付かれて手も足も出なかっただけか?
どちらもNOだ。
遠慮などする暇は無かったし、虚を付かれていなくても、同じよ
うにやられていた。
だが一つだけ分かった事がある。俺が全開で戦っても、傷一つ負
わせる事が出来ないという事を。
﹁カオルの技もおもろいな。ほんのちょっとビックリしたで﹂
母は傷を押さえていた葵の手をそっと外し、傷の様子を見て満足
そうな笑みを浮かべた。
ひんやりとした手は傷の痛みを取り去り、触れてみて傷が完全に
塞がっているのを確かめた。
1619
﹁時間かかったけど、治っとるな。続きやろうか?﹂
母は葵を手で遠ざけ、再び包丁を構えた。
今度は傷つけるんじゃないかなんて、身の程を弁えない驕りは捨
てよう。
左手にトウカのナイフを構え腰の位置に、カナタの守り刀を抜き
胸の位置に構えた。
母が一本の包丁とフットワークを使うなら、俺は右と左、そして
足を使おう。それでも足りないのなら︱︱。
﹁行くよ!﹂
守り刀に霊気を籠め、切っ先を伸ばして母の残像を薙いだ。
長考が作り出すコマ送りの世界で、母は左へと動き包丁の握りを
固めたのが見えた。
俺は刃を合わせる様にトウカのナイフを振るい、鈍い金属音を響
かせた。
しかし鉄をも切り裂くトウカのナイフは、母の持つ包丁に刃こぼ
れ一つ負わす事が出来なかった。
﹁このナイフは鉄を斬る目的で作られたんだけど⋮⋮﹂
ゾッとするような光景を目にし、一歩飛びのいて呆れてみせた。
母はニヤリと笑い、目の前に刃先を突き出し、当たり前の様に言
ってのけた。
﹁うちの霊気は水と金気。金物に命を吹き込むのは容易い﹂
目の前に二度往復する刃、それをかろうじて引き避し、トウカの
1620
ふうひょうか
ナイフで小さな旋風を巻き起こした。
風飄花になる一歩手前の目眩まし、けれど一瞬の隙を作るには十
分だった。
飛びのく母を追いかける様に踏み込み、懐へと滑り込んで守り刀
を一閃した。
手に手応えを感じつつ、さらに追い討ちの刃を振り下ろした。
﹁よし! ええ感じや!﹂
手の甲から血を流し、その傷ついた片手で2尺の刀を軽々と受け
止めていた。
左手一本で刀を受ける力も凄いが、右手でナイフを持つ手を押さ
え、次に来る一撃を警戒した﹃したたかさ﹄にも脱帽させられた。
俺の力量がアップした訳じゃない、俺と同じ土俵で戦ってくれた
のだと、その余裕から感じられた。
﹁まだ全然本気じゃないね? 続けて良いかな﹂
母は何も言わず振り下ろした刀を弾き、俺の鳩尾に当身を入れ突
き飛ばした。
吐き出された息を吸い込む前に、母は刃を振るい喉元に突き入れ
ふうひょうか
てきた。
﹁風飄花!﹂
眼前に構築された桃の花びらは、母の包丁を足止めする事に成功
した。
しかし母は表情一つ変える事無く、そのまま包丁を両手に持ち変
え突き入れてきた。
1621
﹁甘い!﹂
再び襲い掛かる刃は囮。母は俺の見えぬ死角から蹴りを見舞い、
吹き飛ぶ俺にもう一度回し蹴りで追い討ちをかけた。
包丁に気を取られたら足、先ほどそう教わったばかりなのに⋮⋮。
俺は腹の痛みをグッと堪え、手に持った守り刀を突き出して構え
た。
﹁いくでぇ、カオルちゃん!﹂
母はそう言いながら踏み込んできた。けれど明らかにカナタの守
り刀を警戒している。
切っ先を伸ばし距離を稼げる刀の形と、接近戦でも有効に働く本
来の守り刀は、俺の射程距離に自由度を与えてくれる。
守り刀の射程と侮れば一撃で斬り伏せる事が出来る、間合いを詰
められても守り刀で薙げる。それが唯一母に無い、俺だけの利点だ。
俺は一歩飛び退き、伸ばした刀を振り下ろした。
母は余裕の笑みを浮かべ、刀を包丁で絡ませ弾き飛ばした。
勝機と見た母は俺の目を見た。⋮⋮その余裕が出る瞬間が、本当
の勝機。
俺は弾かれた守り刀の行方を追わず、道を開き鎮魂の刀を取り出
した。そしてトウカのナイフを捨て一気に抜刀した。
﹁わっ!﹂
母は胸元から斬り上げた刀を弾き、返す刀で振り下ろした斬撃を
受け止めた。
俺の霊気の喰らい鎮魂の刀が勢いを増し、ゆっくりと包丁に食い
込んでいき、チーズを切る様に容易く両断していった。
1622
﹁ちょ、タンマ!
カオルにはまだ鎮魂の刀は︱︱﹂
母は半身をずらし、振り下ろされた刀をかろうじて回避し、瞬時
に飛び退いて俺を顔を見つめた。
俺は強烈に失われていく霊気と血の気を感じつつ、虚ろう視界を
感じ地に伏せ力尽きた。
気が付くと俺は再び布団に寝かされていた。
枕元に座る葵が俺を見下ろし、ホッとした表情を浮かべていた。
﹁母さんは?﹂
部屋を見回したが母の姿は見当たらず、葵に尋ねてみたが返答は
無い。
葵はスウっと深呼吸して見せ、微笑んで見せた。
葵の素振りを見て、部屋を包む違和感に思い当たり、部屋の嗅ぎ
鼻を鳴らせた。
味噌と、刻んだ葱の香り。そして炊きたてご飯の良い匂いがした。
あの後に母は買出しに行ったのだろうか。とすると料理する時間
も含め、俺は数時間眠っていた事になる。
血を流したからか? それとも⋮⋮。
﹁カオル! 起きた?﹂
母はお盆に味噌汁を乗せ、颯爽とやって来た。
お盆には刻み葱がふんだんに入った豆腐と薄揚げの味噌汁。卵焼
きを作ろうとして断念したスクランブルエッグが乗せられていた。
1623
葵はそれを受け取りテーブルの上へ配膳し、追加で手渡されたご
飯を受け取った。
﹁謎だ⋮⋮﹂
あれほどの包丁捌きを見せておきながら、葱を刻み損ねて数珠つ
なぎにしてしまう母。
繊細な足運びや思考回路を持ちながら、厚焼き玉子を焼く事が出
来ない大雑把な性格。
なんでやねん⋮⋮。
﹁なんや?﹂
母はキョトンとした表情で正座してテーブルに付いた。
俺は疑問を感じつつも、味噌汁と一緒にその言葉を飲み込んだ。
葵と母は気を取り直し手を合わせ、ご飯をパクリと口に放り込ん
だ。
見てくれは悪いけど、味は美味いんだよな。三室家七不思議の一
つだ。
俺の怪訝そうな表情を見抜かれたのか、母は口を尖らせて不満顔
を見せた。
﹁葱が切れてへんとか、豆腐の形がチグハグやとか思てるやろ?﹂
豆腐は気が付かなかったが半分図星。
俺は連なった葱を口に放り込み、無言で首を振った。
そして話を逸らす意味で、先ほどの顛末を問いただした。
﹁母さん、さっきのは。俺はどうなったんだ?﹂
1624
おおよその見当はついているが、母に聞くのが一番だと思う。
なにせ一度使っているのだから⋮⋮。
母は部屋の端に置かれた鎮魂の刀へ目をやり、口を動かしてゴク
リと飲み込んだ。
﹁アレは底なしに霊気を吸うんや、吸えば吸うほど強くなる。人の
霊気を喰って力を発揮する妖刀の類や﹂
トウカのナイフですら刃が立たなかった包丁を、柔らかい物でも
切るように両断した。
あれが本領の一部? いまいち強さが分からないんだけど⋮⋮。
﹁うちの霊気で強化した包丁を斬るって事は、カオルの霊気がうち
の霊気を上回ったって事や﹂
その言葉を聞き、しばし考えて驚きの声を上げた。
﹁母さんの霊気ってそんなに凄いの?﹂
﹁そっちかい!﹂
母は手を二度振り﹃なんでやねん﹄とツッコミをいれた。
鎮魂の刀を抜いた時から、霊気が一気に減ったのは分かっていた。
霊気を通す道がどうとか、そんなレベルではない。まるで底なし
の井戸に水を注ぐように⋮⋮。
しかし注いだ分の力は発揮されたと思うのだ。けれどその渾身の
一撃ともいえる斬撃を、包丁一本で受け止めた母の方が驚きだ。
﹁俺はまだまだ強くなれる。手本となる人がいてくれるから﹂
1625
俺は照れる母を余所目に、味噌汁を啜りご飯を掻き込んだ。
おべんちゃらでもなんでも無い。
前人未到の道を進むのでない。険しい山に登りつめた母がいる、
だからなんの迷いもなく登って行ける。
﹁ご飯食べたら行こうか?﹂
母はスクランブルエッグを箸で摘み、取り皿に移し醤油を垂らし
た。
俺と葵は母の言葉を待ち、箸を止めて見つめるしか出来なかった。
﹁比叡山⋮⋮、偉い坊さんがいてはる所や。あんたらの封印を解い
てもらわなあかんやろ?﹂
母はサラリと言いのけて、醤油のかかったスクランブルエッグを
口に放り込んだ。
食事を済ませた俺達は、母の愛車FIAT500に乗り、細い山
道を右へ左へと走りぬけた。
向かう先は京都と滋賀を分ける比叡山、延暦寺を総本山とする天
台法華円宗の寺の一つ。
三塔十六谷二別所と言われ点在する寺社のどれか⋮⋮、母も場所
しか知らないそうだ。
﹁守人と天台宗は縁が深くてな﹂
母は運転の合間に天台宗と守人について話をしてくれた。
1626
江戸初期天台宗の僧侶だった天海は、徳川家康のブレーンとして
知恵を授けていた。
江戸幕府の設立にも強い影響を及ぼし、霊的守護の乏しい江戸に
寺社仏閣を建立し、今も強い影響を及ぼす結界を形成した。
1643年に没するまで三大の将軍の背後で暗躍し、200年も
続く徳川安泰の世を作り上げた。
当然江戸の大火を鎮める為に、守人を派遣したのも天海の影響と
伝えられている。
﹁天海は鬼門封じの天才でな。家康の死後に日光東照宮を建立し、
天帝として祀ったんも天海。水戸からお世継ぎが出るなら、徳川の
世が終わると予言したもの天海や。江戸から水戸の方角は鬼門やか
らな﹂
色々な文献で﹃妖怪﹄として恐れられている天海。
没するまで100以上齢を重ねたと言われ、諸説では135まで
生きたとさえ言われている。
現代の年齢としても高齢、当時の寿命からするとバケモノの域に
達している。
水戸。確かに水戸家の出身の将軍は、徳川慶喜まで無かった。そ
れを予言するとは、怪僧なんて生易しいな。やはり妖怪という呼び
名がピッタリくる。
﹁嵯峨野家は台密︵天台密教︶に縁が深くてな、親戚縁者が一人偉
い坊さんになっとるんや﹂
そう言って簡単に説明を入れてくれた。
もしかして当時の守人だった二人が京都、奈良から呼び寄せられ
たのも、総本山に近い縁があったのかもしれない。
俺はそんな事を考えつつ、遠い江戸の頃に思いをはせていた。
1627
﹁到着∼﹂
母はそう言い砂利道の端へ車を停めた。
細い砂利道が目の前に延び、見上げる木々の隙間から寺社が姿を
少し覗かせていた。
俺は名も知らぬ寺社を見上げ、逸る気持ちを押さえていた。
﹁行こか?﹂
母と葵の後を追うように、俺は車を降りて深呼吸を一つした。
砂利に隠れるように見える苔生した石畳を一歩、一歩と登り、大
きな寺社の脇へと出た。
母は勝手知ったるなんとやら、荘厳な建物を物ともせずに歩き、
奉仕をする一人の坊主を掴まえて、一言二言と言葉を交わした。
そして坊主の指差す先を見つめ、俺と葵を手招いた。
﹁アポ取ってへんかったけど、暇してるみたいやな。ちょっと待っ
とけって﹂
アポなしだったのかよ⋮⋮。入れ違いになったらどうする心算だ
ったんだ?
半ば呆れながらも、指差した先にある建物へと歩いて行った。
そこは社務所なんかじゃなく、立派な寺社の一部だった。坊さん
が大勢座って読経するような、畳敷きの場所。
母は臆する事無く靴を脱ぎ、畳敷きの場所へと上がり込んだ。そ
して座布団を発見し三枚抱えて戻ってきた。
俺と葵は恐る恐る畳の上に上がり、座布団に座って回りを窺った。
抹香とカビ臭い匂いが建物を取り巻き、高い天井と年代を感じさ
せる梁の木々、全てが歴史を感じさせた。
1628
そして十数分程待たされた所で、一人の僧侶が静々と歩いてきた。
それが誰かなんてどうでも良かった。しかしコイツが封印を施し
たのだと確信を持てた。なぜならば⋮⋮。
﹁ギュンター・G!﹂
心象世界の番人だったアイツが姿を現したからだ。
1629
﹃解呪﹄
藤色の法衣に輪袈裟という身軽な服装で現れ、俺の顔を見るなり
含み笑いを浮かべた。
そして肩の力を抜き胡坐をかいて、俺達の前へドッカリと腰を下
ろした。
﹁お久しぶりやな? カオル君﹂
僧侶の見せた笑みの意味。
ギュンター・Gとしての記憶を持っている。恐らく僧侶はそう言
いたいのだ。
母はそのやり取りの間、呆気に取られて見つめていたが、やがて
納得した表情を浮かべ声を上げた。
﹁なんや二人は面識あんねんや。ちょっと前に一皮剥けた感じにな
った、あん時かいな?﹂
顔を覗き込んで問う母に、俺は無言で頷いた。
じえいあじゃり
母は微笑んで僧侶に頭を下げ、俺と葵に紹介してくれた。
﹁慈英阿闍梨や。方術や経文を後世に引き継ぐ役職についてはるん
や。こう見えても徳の高い坊さんや﹂
慈英阿闍梨は苦笑し、剃り上げた頭を撫でた。
しず
そして口を覆うように笑い、母へ向かい口を開いた。
﹁静ちゃん⋮⋮、こう見えてもって、相変わらず口が悪い﹂
1630
しず
しかし母の事を静ちゃんって⋮⋮。
こりゃまた似合わない呼び名だよな。
﹁うちの父方の親戚や、いつまで経ってもうちの事子ども扱いしは
る。いけずな人やねん﹂
母はそう言いながら、照れ臭そうな顔を隠すようにソッポを向い
た。
母の親戚という事は、この人も守人・退魔士の系譜なのだろうか。
﹁一つ聞いていいですかね? なんでギュンター・Gって名乗った
んです?﹂
さっきか心に引っ掛かっていた謎。これを聞かないと話が始まら
ない。
俺はジッと慈英阿闍梨を見つめ、その答えを待った。
﹁本名や法名語れば足が付くじゃろ、せやから読んどった小説の作
家を捩ったんや。ドイツの作家でギュンター・グラスという名や。
一度読んでみるがええ﹂
慈英阿闍梨はさも当たり前の様に胸を張って答えた。
確かにその通りなのだが、なんか腹が立ってくるな。
﹁今日の用件は聞かんでも分かる。けど覚悟は出来てるんか?﹂
慈英阿闍梨は俺、そして葵の目をジッと見つめて語りかけた。
方術の類で押さえられていた能力の開放、それを是とするか非と
するのか、それに答えられるのは本人のみ。そう言いたいのだろう。
能力を開放することにより、真っ当な人の規格を大きく外れる。
1631
その覚悟を持ちえているか、そう問い質したいのだと思う。
﹁本来の俺を否定するという事は、今の俺を否定するという事と同
義です。覚悟もなにも必要ありません﹂
言葉では強気で言ったけれど、本当の所は怖かった。
心象世界で壁を一つ壊した時、一歩間違えば俺は消滅していた。
いくえ
俺一人の力で壊せた訳じゃない、乃江さん達の力があったからこそ
だ。
それにあれ以上の壁が幾重もあったし、それを取り払う事は相当
のリスクを伴うだろう。
嫌な想像だけが掻き立てられるが、ここで尻込みしてた所で何も
始まらない。
﹁わ、わたし⋮⋮、ちょっと怖い﹂
葵は青ざめて胸のあたりを手で押さえている。定まらない視線と
震える唇が、どれほどの動揺かを表している。
俯いて言葉を失ってしまった葵を見つめ、慈英阿闍梨が母に目配
せをした。
リタイアするのは恥ずかしい事じゃないと思う。むしろ俺はそう
して欲しいとさえ思っていた。
﹁葵、無理せんでええよ﹂
母は葵の頭を撫で優しく抱きかかえた。
慈英阿闍梨はその様子を見て、優しい口調で話し始めた。
﹁わしが口下手なせいで、怖い思いをさせたかもしれぬな。ちょっ
と聞いてくれぬか?﹂
1632
その優しげな口調にほだされ、葵が恐る恐る顔を上げた。
確かに理由も無く﹃覚悟﹄なんて言葉を出されると、誰でも葵の
ようになってしまうだろう。
今どうなのか、先にどうなるのか。それを知らせた上で判断させ
るのが良いのではないか。
恐らく慈英阿闍梨はそう思ったのだろう。
﹁仏教の教えの中に﹃止観﹄という言葉がある。瞑想をし心を鎮め、
物事の心理を見出すと共に、心の奥底を見つめる事じゃ﹂
慈英阿闍梨は諭すように話し、俺と葵は優しげな語りに聞き入っ
た。
﹃止観﹄それは座禅のように無念無想の域に到達する事を目的を
せず、観て考え真理に達する事だという。
﹁おぬしらに施した術は、止観封じ。己が心の真理に到達せぬよう
封じる邪法じゃ﹂
ざっくりと止観を表すなら﹁心を止め、真理を観察する﹂こと。
それをさせない邪法⋮⋮。
俺が心を開放して物を観る時、反動で体力が酷く消耗してしまう。
最近では四条さんと体育館に行った時、広く深く見定めようとし
て、ぶっ倒れる程酷く消耗した。
霊気が消耗するのではない。心が消耗させられたのだ。止観封じ
とはああいう状況を指すのかもしれない。
﹁それに術も徐々に解けつつあり、いま解呪せずとも数年で外れる
ようになっておる。心が成長すれば術も必要ないからのう﹂
1633
葵が数年前から見える体質になった事も、術が解けつつある事と
関係あるのだろうか。
葵もその事に気が付いたのか、神妙な面持ちでその言葉を聞いて
いた。
﹁おかあさんは封印しなかったの?﹂
葵は寄り添ってくれている母に問いかけた。
母は首を振って否定し、昔を思い出すように葵に返答した。
﹁うちは小さい頃から修行してたし、守人として生きる覚悟も決ま
ってた。せやから必要なかってん﹂
子供の頃から能力を受け入れ、人外のモノを感じながら育ったの
だろうか。
俺の様に闇を恐れ、抗う術も持たぬうちから⋮⋮。
﹁けど、想う人に出会って、カオルと葵が生まれてからやなぁ。普
通が良いなぁと思い始めたんは﹂
母が思いを曲げたのは俺達の為。守人の連鎖を切ろうとしたのは、
俺達を思っての事だ。
母の気持ちを分かっていながら、俺は再び守人への連鎖を継ごう
としている。
﹁母さん、ごめん﹂
俺はそう言うのが精一杯だった。
今日の決心を明日は後悔するかも知れない。けど今の気持ちに嘘
はつけない。
1634
そんな湿っぽい雰囲気の中、葵は母の言葉に頷いて、元気良く声
を荒げた。
﹁私も封印解除してもらう。私の目標はおかあさんだし、いつか子
供と一緒に花を咲かせたい﹂
葵は握りこぶしを突き上げて、﹃我が人生に一片の悔い無し﹄の
ポーズを取った。
母は呆気に取られ葵を見上げたが、まんざらでもない表情で目を
閉じた。
その様子を見て慈英阿闍梨は髭を弄り、物も言わず立ち上がった。
﹁さ、行くで﹂
母は俺達の背をポンと合図し、慈英阿闍梨を追った。
畳敷きの広間を抜け、板間の廊下を付き従い、重い木戸で閉ざさ
れた部屋へと案内された。
中に入って見ると、暗く何も無い板の間の部屋だった。
護摩を焚く祈祷の部屋を想像していて、少し肩透かしを食らった
気分だ。
母は訳知ったりの様子で、部屋の隅にある座布団を用意し、俺と
葵の座布団を部屋の中央に配置した。
二つの座布団を並べ、少し離れた位置にもう一つ。そして部屋の
隅へ移動し、座り込んだ。
俺と葵は二つ並べられた座布団へと座り、慈英阿闍梨は控えの部
屋から大きな木箱を抱えてきた。
目の前で紐解かれた木箱からは、大きな銅製の器がいくつも重ね
て出され、まるで大きなどんぶりの様に見えた。
﹁どんぶり﹂
1635
俺と葵はほぼ同時に声を揃えた。
托鉢に出る僧侶が手に持っているような器、それの巨大なもの。
﹁どんぶりちゃう。聖音法具て言うんや﹂
慈英阿闍梨はそう叱責し、俺達の周囲に一個、一個と並べていっ
た。
合計8つの器で取り囲まれた俺達を見て、慈英阿闍梨は頷いて目
の前の座布団に座った。
﹁少し手荒い術かも知れんが、じっと我慢じゃぞ﹂
ニヤリと笑ったと思ったら、箱から鈴を幾つも取り出し、目の前
に一つ一つ並べ置いた。
そして静かに読経を始め、俺は目を閉じて心を静めた。
読経の合間に振られる鈴の音を聞いて、なぜ周りに鉢を置いたの
か理解出来た。
俺達の周囲に配置されたのは巨大な音叉だ。鈴の音に合わせて特
定の鉢が共鳴をし始める。
そして空気の振動が体を突き抜けて、体の内部を的確に揺らして
いる。
臍の緒、胃、肺と特定の部位に音叉は作用する。そんな感じた事
の無い感覚に、歯を食いしばり我慢するしかなかった。
﹁︱︱っ﹂
胃を揺らす鈴の音が鳴り、思わず呻き声を上げてしまう。
直接的な衝撃とは違う内部の共鳴は、痛みとはまた違う不快感を
もたらしてくれる。
1636
連続的な鈴の音が読経の合間に響き、その度に体が何度も揺らさ
れた。
しかし読経が続き徐々にその不快感にも慣れ、共鳴させられる事
に心地よさを感じ始めた。
そして読経の声が少しづつ遠ざかり、酷く耳鳴りがして膝に置い
た手が振えてきた。そして頭が痺れるように揺れ始めた。
音叉とは関係なく体全体にピリピリと痒みを感じ、あまりの感覚
に耐えかねて目を開けた。
﹁︱︱︱︱﹂
痒みを感じていたのは誰だ。
俺の体は床に伏せて倒れており、﹃俺﹄は﹃俺の体﹄をまるで他
人事のように見つめていた。
色あせた白と黒の世界、小さな音が耳から聞こえ、それ以上に感
覚の耳が音を拾う。
周りを包む粘度の高い空気は息をするのも難渋し、そして粘質の
高い空気に縛られる様に、指一本思い通りに動かす事が出来ない。
﹁︱︱︱︱﹂
俺に異変が起こっている事に気が付いた。
魂が体を離れているからではない。
部屋に満ちた気を吸い込む毎に力に満ち溢れ、感覚の目と耳が情
報を聞き取った。聖音法具が軽やかに語り、鈴の音が楽しげに俺を
包んでいく。
俺は回らない首を必死に曲げ、葵の方へゆっくりと向き直った。
葵も俺と同様に前のめりに倒れ、人型の白い霧のようなものを身
に纏っている。
それが葵であると理解すると共に、俺も同様の姿なのだと実感し
1637
た。
﹁能除一切苦 真実不虚 故説般若波羅蜜多呪﹂
慈英阿闍梨は﹃俺の体﹄を越えて﹃俺﹄の前に立ち、目の前で鈴
を二度振り響かせた。
音の波長が体全体を振動させ、狭まる視界に抗う事が出来ず心の
目を閉ざした。
額に当てられた心地よい温かみを感じ、それが母の手である事を
本能的に感じ取った。
目を開けて見上げた視界には、くすんだ梁と古ぼけた照明の灯り、
そして母の笑顔があった。
俺は震える手を目の前に持ち上げ、掌を握って違和感を感じてい
た。
まるで痺れが切れたように、いう事を聞かない。
﹁感覚と体がまだズレとるんや、もうちょっとしたら馴染む。しば
らく寝とき﹂
母はそう言って強制的に目を塞いだ。
俺は見る事を諦め、心の目をそっと開け周囲を窺った。
母は柱に凭れて俺と葵を見下ろし、部屋の中に慈英阿闍梨の姿は
無い。
俺達を悩ませた聖音法具も片付けられており、周囲数十メートル
に俺達以外の気配は無い。
1638
﹁母さん、手の怪我治りきってないよ﹂
俺の目の前にある傷は、真皮が引っ付いているけれど、表皮がま
だ治りきっていない。
母は苦笑して俺の目の前にあった手を、ゆっくり癒し始めた。
﹁うちの霊気は鎮魂の刀にごっそり吸われてもうたんや。癒せるほ
ど回復もしてへんし、ほんま年だけは取りたくないわ﹂
鎮魂の刀は振るう者だけじゃなく、斬る対象からも霊気を吸うの
か⋮⋮。
直接刃が触れた訳でもないのに、霊気を纏った包丁から吸い取っ
た。
あの刀の使い方がいまいち理解できん。果たして俺に使いこなせ
るのだろうか⋮⋮。
﹁母さん、手握るよ。俺に癒しは出来ないけど、代わりに出来る事
があるんだ﹂
俺は母の手を握り、出来るだけ優しく霊気を流し込んだ。
俺に出来る限り弱い霊気の流れを作り、ゆっくりと力強く母に流
し込んだ。
﹁へぇ⋮⋮、変わった事出来るんやな﹂
母は感心したように声を上げ、俺を見下ろした。
電池効果を褒められたのは初めてだったが、人の役に立つのは満
更でもない気分だ。
﹁母さん。俺凄くショックなんだけど。何も変わってない気がする﹂
1639
封印の解除とその効果、俺は期待した程の変化を感じず、肩透か
しを食らっていた。
魂喰いに対抗できる力の発現を、俺は自分の潜在能力に賭けてい
た。
けれどなんら変わることのない霊気を感じ、俺は少しばかり失望
していた。
しかし母は俺の顔を覗き込んで、不安を振り払うように大声で笑
った。
﹁アホ言いな。カオルはうちの子やで? 誰よりも強い子になるの
は必然や﹂
俺のオデコをペチペチと叩き、心配ないと言い切ってくれた。
しばらくして葵が目を覚まし、俺は体に感じる痺れも取れつつあ
った。
母は葵を抱えて立ち上がり、俺は自分の体を確かめるように母の
後を追った。
﹁カオル﹂
先に部屋を出た母が外を見て、首を振って俺に合図を送ってきた。
部屋を出て板間の廊下があり、その先に玉砂利を敷き詰めた庭が
あった。
玉砂利の上には法衣ではなく作務衣を着た慈英阿闍梨が立ってい
た。
部屋から感じた感覚の目を欺き、今実際に目で見ても気配一つ感
じさせない。庭の岩、砂、池や木々と一体化しているように見えた。
﹁腕前を見たいんやて。年甲斐もなく張り切ってはんねん﹂
1640
年甲斐もなくって気軽に言うけど、あれはバケモノの域に達して
るだろうに。
ただ徒手で立っているだけなのに、俺は手にジットリと汗を掻い
ていた。
しかも玄関に脱いだはずの靴を、こちらへ用意している念の入れ
様、完全に退路を断ってきたな。
﹁勉強だと思って行ってくる﹂
俺は庭に降り靴を履きながら、深呼吸を二度して高鳴る鼓動を押
さえ込んだ。
もう一度短く息を吐き、心の中で覚悟を決めた。
﹁どうじゃ? 体の調子は?﹂
慈英阿闍梨の探るような目は、俺を気遣う目ではない。敵情を探
る本気の目をしていた。
俺は首をコキコキと鳴らし、手首を揺らして体を温めた。そして
違和感が無い事を確かめて、拳の握りを固めた。
﹁問題ないっす﹂
その言葉を待っていたかのように、慈英阿闍梨は霊気を放出し始
めた。
体全体を包み込む力強い霊気は、体全体に満遍なく行き渡り、筋
肉を一回り大きく見せ躍動させた。
乃江さんと同じタイプか? 肉体強化する霊気。
慈英阿闍梨はスゥっと息吹を吐き、目を見開いて踏み込んできた。
玉砂利が踏み込む足で砕かれたように飛び散り、15ポンドのボ
1641
ウリング玉と錯覚する鉄拳が、もう俺の目の前に迫っていた。
俺は頭の中で超高速の世界を見るスイッチを入れた。
頭を後方に下げ、仰け反るように鉄拳を避け、右手を添えて軌道
修正を試みた。
逸れた鉄拳の僅かな隙を確認し、身を起こして慈英阿闍梨の胸元
へ滑り込んだ。
振りかぶる距離さえないゼロ距離の肉迫戦、俺は右手に霊気を注
ぎ、慈英阿闍梨の鳩尾にピタリと当てた。
体内に浸透させる霊気の掌底だったが、霊気が掌に集まるまでに
慈英阿闍梨に払いのけられた。
手がダメならと左手で慈英阿闍梨の首を抱え、遅れて右手を覆い
被せた。
首相撲。乃江さんが教えてくれたゼロ距離の格闘方法。ムエタイ
の抱え膝蹴りだ。
だが慈英阿闍梨は落ち着いて右手、左手を繰り出し連続する俺の
膝を払いのけ、致命打を回避した。
﹁︱︱︱︱﹂
無駄な千日手を諦め一歩飛び退いた。そして俺の感覚が受け止め
る違和感を感じていた。
0.5秒。
俺の長考出来る限界時間をとっくに越え、今尚衰える事は無かっ
た。
慈英阿闍梨の繰り出す蹴りも、靴底の汚れさえ確認できるほどク
リアに見える。
1.0秒。
連続した三本の前蹴りを回避し、体勢を崩す為に肘を入れて足を
払った。
1.5秒。
1642
まだまだ長考時間が切れる事は無い。俺は慈英阿闍梨の右手の袖
口を掴み、真琴が見せた由佳ちゃん流の投げ技を狙ってみた。
慈英阿闍梨の後方まで袖を釣り込み、後ろ足で軸足に蹴りを入れ
た。
倒れてくる慈英阿闍梨の体を背で受けて、一本背負いの要領で放
り投げた。
﹁︱︱︱︱﹂
俺の耳には吐息と血流の音しか聞こえてこない。
慈英阿闍梨は予想通りに自分で飛び回避、そして予想に反した行
動に出た。
俺を飛び越えるのではなく、相手の力を利用して上に飛び、その
まま蹴りを俺に放ってきた。
なるほど。こういう場合は飛び退くのではなく、こうして攻撃に
転じてもいいわけか。
俺は感心しながら、地に付いた両手を軸に向きを変えた。
俺の居た位置に蹴りこみ着地した慈英阿闍梨に向かい、地に付い
た両手を交差し、捻りをくわえ足を開き蹴りを見舞った。
山科さんに教わった古流の技は、ガードする慈英阿闍梨ごと蹴り
飛ばした。
後方に下がる慈英阿闍梨を見つつ、頭の中で外の時間と内の時間
がシンクロし始めた。
長考の終わりを告げる合図だったが、いつも以上に粘りを感じる。
﹁5秒⋮⋮﹂
たったの5秒かと思うだろうが、今までどうやっても超えられな
かった壁、それをすんなりを越える事ができた。
俺は体全体に武者震いを感じつつ、身構えて慈英阿闍梨を見つめ
1643
た。
﹁年は取りたくないのう。右肩上がりに調子を上げてくる若者を見
ると、思わず小手技を使うて逃げたくなる﹂
慈英阿闍梨はそう言って、作務衣に付いた汚れを手で掃った。
そして緊張の解けぬ俺の肩に両手を置き、解きほぐすように服に
付いた汚れを掃ってくれた。
煽てた言葉を使ったが、この人は全然本気じゃなかった。
・・
子をあやす大人の様に、俺のレベルに合わせてくれたのだ。
﹁こんな老体やけど、まだ相手をしてやる事が出来そうや。相手に
恵まれんようやったら、またおいで﹂
そう言って高笑いを浮かべて背を向けた。
その言葉は﹃腕を磨いてまたおいで﹄と、そう言っているように
聞こえた。
1644
﹃師匠﹄
俺達は比叡山を後にし、再び旧嵯峨野家へと向かっていた。
5秒の壁を越えた以外目立った変化は訪れず、俺は首を傾げるし
かなかった。
母曰く、早急に変化が訪れる訳ではなく、徐々に目覚めていくら
しい。
﹁そんなすぐに精神構造に変化があったら大事やで? 発狂してし
まうやん﹂
なんて脅し文句も忘れずに。
確かにいきなり考え方や感じ方が変われば、人格にさえ影響を及
ぼす可能性もある。
葵は失った年月の分、ゆっくりと目覚めていけばいい。
俺はゆったりと待つ時間が無い。いつ目覚めるか分からないなん
て、のんびりとは待てない。
じえいあじゃり
まずは長考。あのスキルだけでも使いこなせないと話にならん。
外部の刺激が目覚める要因になると慈英阿闍梨は教えてくれた。
ならば徹底的に刺激を受けまくるしかないだろう。
﹁母さん、家に帰ったら早速手合わせしてくれないか﹂
俺は母に懇願した。
身近に居てこれほど刺激を与えてくれる人はいない。
今まで手合わせした中で、一番の使い手だと言い切れる。
けれど母は首を振り、治ったばかりの手を差し出してこう言った。
﹁うちはロートルや、10年以上も実戦から離れて、霊気回復もま
1645
まならんし。カオルに徒手やナイフの使い方を教える事は出来ても、
刀の使い方は教えられん。それに霊気吸われたらこの美貌に影響が
出るからなぁ﹂
そう言って染み一つ無い自慢の肌を撫で苦笑した。
俺と葵だけは無かった。母も俺達を育てるのに、自分の時間を捨
ててくれたのだ。
けれど徒手やナイフを教わるだけでも、物凄い進歩を見込めると
思う。
﹁じゃ、徒手で⋮⋮﹂
﹁いや、カオルには鎮魂を使いこなして貰わんと。ま、安心してえ
えで? 刀の先生を頼んでおいたから﹂
刀の先生?
母の知人に頼んでくれたのだろうか。
金鳥の鉄看板が見え、母がハンドルを切って嵯峨野家へ舵を取っ
た。
母がそういうなら期待して待とう。俺にマイナスになる事はしな
いと思うから。
嵯峨野家に到着し、母がニヤリと笑い目配せをしてくれた。
﹁あっ﹂
行きに閉めたはずの門が開かれていた。
誰かが⋮⋮、いや、母の言っていた先生が到着しているのだろう。
車に乗ったまま門をゆっくりと通過し、前方に先客の車が停車さ
れているのが目に入った。
白の軽自動車、スバルのヴィヴィオ。
1646
いかがわしいまでにチューンされていそうなその車は、後部座席
が取り払われ、運転席、助手席共にフルバケットシート。
内装も全て取り外され、室内にロールケージを縦横無尽に張りめ
ぐらせていた。
﹁京都ナンバーか﹂
俺は車を降り、しげしげとヴィヴィオを覗き込んだ。
モモのステアリングにジュラコンシフトノブ。カーステレオもエ
アコンも取り払われていて、潔いまでに走りに特化している。
車の中にはSタイヤが四本バンド止めされて後部に固定され、カ
ヤバのシサーズジャッキと工具箱が置いてあるだけ。
走り屋というより競技屋の車だな。
って事は若い人なのか⋮⋮。
そんな事を考えつつ、俺は異変に気が付いた。同時に葵もそれに
気が付いたのか、嬉しそうに声を上げた。
﹁うわっ、なんか良い匂いがする﹂
朝飯を食って以来何も食べていないから、この匂いはたまらない。
とその時玄関が開き、竹篭を手にしたキョウさんがエプロン姿で
現れた。
庭に自生している白葱を取りに来たのだろうか、いそいそと畑へ
向かい屈んで収穫している。
﹁母さん⋮⋮刀の先生って、キョウさん?﹂
﹁せや、天野の小倅や。エライ強いらしいし、日本刀使うって聞い
たからな。カオルに教えたってて頼んだんや﹂
1647
キョウさんか⋮⋮。
先生としては十分すぎる腕前の持ち主だし、願っても無いチャン
スだ。
しかし、母さんが美苑さんと面識があったなんて初耳だな。
﹁母さん、美苑さんを知ってるの?﹂
母はキョトンとした表情をし、俺の肩をポンポンと叩いて諭し始
めた。
﹁あのなぁ、裏と表、守人の系譜を分けた天野と嵯峨野やで? 狭
い退魔の世界やし、どっちの実力が上か競てた時もあったんや、知
らん筈はないやん﹂
なるほど⋮⋮、家宝とも言える刀を分けた遠縁だもんな。知らな
い筈はないか。
俺は納得してキョウさんの元へ駆け寄った。
母は偉そうにポケットから財布を取り出して、諭吉を二枚キョウ
さんに手渡した。
﹁お使いごくろうさん。これで食料備蓄も万全やし、しばらくここ
に籠もれるなぁ﹂
キョウさんは笑いながら諭吉を二枚受け取り、俺の顔を見て苦笑
した。
﹁カオるんに剣術を教えてやれと母に頼まれた。ついでに買い物も
頼まれてな﹂
なるほど、キョウさんは京都に籍を置く守人だもんな。
1648
K大に通っているし、車のナンバーが京都でも納得がいく。
35.135001
,
135.814877
﹂
キョウさんはポケットから紙を取り出して、俺達に見せてくれた。
﹁
見た事のある数字の羅列。この家の緯度と経度か。美苑さんはこ
うやって場所を知らせるのか。
﹁買い物頼んだんはうちや。ミソノっちにメールしておいたんよ﹂
﹁ミソノっち?﹂
﹁ちなみにうちはシズちゃんと呼ばれとる﹂
なんだか﹁たまごっち﹂みたいだと思ってしまった。
と同時にジェネレーションギャップを少し感じたが、口に出すと
ぶっ殺される気がしてツッコむのを止めた。
﹁そう言えばキョウさん、白葱?﹂
﹁あっ! 鍋が!﹂
慌てて家に飛び込んで行ったキョウさんに、俺達は呆気に取られ
見送るしかなかった。
食卓を囲んだ俺と葵、そして瓶ビールを手酌している母。
1649
キョウさんはイソイソと鍋の支度を整え、ポン酢の封を切って小
皿を配膳している。
薬味は青葱、もみじおろし、大根おろしを準備しており、一分の
隙も無い鍋奉行を演じきっている。
煮えた鍋から昆布を取り、朝引き地鶏と蛤を鍋に沈めた。
竹篭にはシメジ、しいたけ、白菜、青菜、焼き豆腐、白身魚、包
丁を入れてサクラの形に整えたニンジンが用意されていた。
﹁これ、キョウさんが作ったんですか?﹂
コトコトと浮き立つ鳥のダシを見つめ、よだれを我慢しつつ聞い
てみた。
キョウさんは鍋の灰汁を綺麗に掬い取り、当たり前の様に頷いて
見せた。
﹁人の和を醸すには鍋が定番だ。葵ちゃんは初対面だからね。がん
ばってみたんだよ﹂
いや、がんばりすぎです。
しかも今は夏本番です。真夏日に鍋はどうかと思いますが。
しかし白葱も青葱も庭に自生していた野生化した野菜だし、それ
を見つけて鍋の具にしてしまうキョウさんは凄い。
﹁今は夏野菜が手に入るし、来る途中で見た養鶏所に﹃即引き﹄と
あったからね。こりゃ鍋だなと思ったんだよ﹂
普通そんな看板を見て、胸躍らせる男子はいませんよ?
こりゃ相当熟練してるなと感じさせられた。と共に浮かぶ一人の
顔。真倉家の長女綾乃さんの顔だ。
1650
﹁綾乃さんも料理上手いんですよね? 乃江さんが達人級の腕前だ
し、もしかして綾乃さんは神レベル?﹂
しかしキョウさんはどこか遠い目をして、俺の言葉を聞き流した。
そして何事も無かったかのように、鍋に白菜を放り込んだ。
﹁あれ? 地雷踏んだ?﹂
母は渋い顔をして手酌の速度を早め、葵はどっちつかずの表情で
天井を見上げた。
キョウさんはシメジを箸で掴み鍋に沈めて、ため息を吐いて畳の
目を数え始めた。
﹁カオるんはチキンラーメンって知ってるか?﹂
﹁はい、お湯を入れて三分待つのだ∼の即席麺ですね﹂
﹁綾乃はチキンラーメンの達人だ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁卵は十中八九溶き卵にしてしまうが﹂
﹁すいません、すいません。ほんと、すいません﹂
真倉の姫様は、生粋のお嬢様だったようだ。
じつ
乃江さんは綾乃さんを反面教師と見習ったのか。あの姉妹も仲良
くしていて、その実奥が深いな。
何故キョウさんが料理の腕を上げたのか、なんとなく察してしま
った。
1651
﹁気を取り直して鍋だ。取り皿を集めてくれたまえ﹂
俺はキョウさんの言うがまま、取り皿を揃えて差し出した。
キョウさんは地鶏、シメジ、白菜を小皿に取り、一人一人に配膳
してくれた。
しかも彩りを考えて盛り付けする巧みさを見て、俺はキョウさん
の食に対する信念を感じていた。
﹁お、ええダシ出とる﹂
母は取り皿に一口付けて、舌鼓を打った。
葵はハフハフと地鶏を頬張り、おでこを叩いて唸っている。
俺も地鶏を一口齧り、口の中に広がる旨みに痺れが来た。
﹁うんめ∼﹂
料理番組で若手芸人がするリアクション。思わずそんな表現しか
出来なかった。
鶏の出す旨みが出汁にでて、なおかつ出涸らしにならないとは。
白菜の甘みが汁に移り、絶妙のコラボレーションを醸しだしてい
る。
﹁ふふふ﹂
キョウさんは俺達のリアクションを見て、ニヤリと笑いつつして
やったりの表情だ。
そして納得したかのように、箸を付け白菜を頬張った。
いつしか四人では多すぎだろうと感じていた具は無くなり、俺達
の胃は満たされていった。
1652
﹁キョウさん。早速ですが剣の指南をお願いできますか?﹂
キョウさんは俺の顔をジッと見て、ゆっくりと首を振った。
そして手に持った箸を見つめ、ため息を付いた。
﹁カオるんは鍋を理解していない。鍋のシメは雑炊だよ﹂
そう言って炊きたてご飯の入ったお櫃をドンとテーブルに置いた。
葵がその言葉に反応し大喜びし、母はニヤリと笑い取り皿をキョ
ウさんに差し出した。
鍋を片付けて、四人は居間で食休みをしていた。
母は葵を抱えてすやすやと眠り、最初嫌がっていた葵だったが、
満更ではない表情で昼寝を始めた。
キョウさんは﹃カオるんに見せたい物がある﹄と言って手招き、
俺は後を追い庭へと出た。
白のヴィヴィオの後部に立ち、キョウさんはポケットから取り出
した鍵を差し、ハッチバックを引き上げた。
ツンとするタイヤの匂いが鼻を通り抜け、キョウさんはスペアタ
イヤのスペースを捲り、重そうな木箱を引き出した。
﹁見てくれ﹂
縦一メートルはある木箱には、日本刀が数本並べ入れられていた。
名も知らぬ日本刀ばかりだったが、キョウさんは一つ一つを指差
1653
して名を教えてくれた。
﹁これが和泉守兼定二尺二寸。かの土方歳三が愛用していたのは1
1代目だが、これは2代目の兼定だ﹂
その刀の中で一際オーラを出している日本刀だった。
物に力を感じるというか、語りかけてくる何かを感じる。
﹁日本刀には魂が籠もりやすい。カオるんの鎮魂の表打ちも、この
兼定も同じく﹂
えっ、今なんと?
俺が驚き見上げた先で、キョウさんが一歩下がり刀を引き抜いた。
スラリと抜いた刀身は鎮魂の刀とはまた違う刃紋で、冷たい水に
濡れているように見えた。
しかし何かが憑いていると言った割に、何の変化も起こらなかっ
た。
キョウさんは俺の顔を覗き込み、プッと吹き出して大笑いした。
﹁カナタのようなのは稀だよ。兼定は霊気を籠めないと出てこない﹂
キョウさんはそう言って柄をぐっと握り、目を細めて霊気を籠め
た。
白の霊気が刀に流れ、剣先から吹き出てきた。
物凄く練られた霊気だった。
気体と液体の合間の物質と言っていいほどの実体を持つ霊気だっ
た。
﹁霊気は気体に近い性質を持つ。体内に満ちる霊気と外気に溢れる
気、それを体内で凝縮した気だ。私はそれを錬気と呼んでいる﹂
1654
錬気⋮⋮、まさにその呼び名にふさわしい。
俺が見惚れていると、キョウさんは苦々しい表情をして一声掛け
た。
﹁芙蓉、お前の人見知りは相変わらずだな。このままでは私は嘘つ
きと思われてしまうぞ﹂
同時に刀に纏っていた錬気が形を成し、赤の袴を着た白拍子が現
れた。
黒の烏帽子を頭に乗せた男装の女性は、キョウさんの後ろに隠れ
てしまい、肩口から覗き込むようにジッと見つめ眉を顰めていた。
﹁これ、芙蓉。そんなに睨むな。カオるんが困っている﹂
﹁カオるん?﹂
﹁いえ、カオルです﹂
キョウさんには何を言っても無駄だが、この白拍子にまでカオる
ん呼ばわりされるのは勘弁して欲しい。
しかし無駄なあがきだったようで、微笑んで何度も復唱するよう
に﹃カオるん﹄と言い始めた。
﹁さて、試合おうか。鎮魂はレアだから刀箱に入ったものを使うと
良い﹂
鎮魂の刀を使えないのか⋮⋮。それはそれで有難い。今のところ
アレを使えば即ぶっ倒れるからな。
俺はキョウさんに言われるがまま、刀箱から一振り選び取った。
1655
﹁やるなカオるん。それは孫六兼元二尺三寸。俺のお気に入りだ﹂
キョウさんが俺の選び取った刀を褒め、その瞬間火がついたよう
に芙蓉が暴れだした。
ポカポカとキョウさんを殴り、泣きそうな顔をしている。いや泣
いている。
﹁これ、芙蓉。最高のお気に入りは兼定だ。兼定だからやめてくれ﹂
まるでカナタと俺の様じゃないか。
どこかで見たような光景を見つめ、俺は本当にこの人を師匠とし
ていいのか不安になった。
1656
﹃強化﹄
気を取り直したキョウさんが、まず俺に物言いをつけたのは刀の
持ち方だった。
﹁打ち刀は本来刃を上に向け携帯する。抜刀の際も同じだ。京反り
の打ち刀は︱︱﹂
そういえば先ほどのキョウさんも、両手で柄と鞘を持ち、刃を上
にして引き抜いていた。
星川さんの所でもそうだ。刀は全て刃を上に展示されていた。
キョウさんが言うには、刀は刃を上向きに、太刀は刃を下向きに
携えるらしい。
太刀持ちの場合、抜刀直後は斬り上げの形になる。上段に構えた
敵を想定した場合、致命傷を負わせる確率は低い。
それに上向きに刀を携えれば、抜刀と共に自然と正眼の構えにな
る。
ただし抜刀する時、柄の持ち方は太刀と刀では違う気がする。
親指の付け根から握りこめば、太刀だと自然に指先側に刃先が向
くが、刀の場合は逆刃になる。
刀の場合は手首を捻り、指先を上に柄を握りこまねばならない。
﹁刀の場合、指の第一関節辺りを柄の上部に当てて、下から親指を
むね
回り込ませて握りこむんだ﹂
鞘の中で棟︵刃の反対側︶が滑る様に抜け、反りが入っているか
ら自然と刃先が前方に向く
なるほど合理的な構造になっていると感心させられる。
太刀は馬上から足元を制するに適し、刀は地に足をつけて戦闘す
1657
るのに適している。
﹁とりあえずカオるん、抜刀、正眼、斬り下ろし、斬り上げ、正眼、
納刀と基本的な動きをやってみてくれないか﹂
キョウさんの見せてくれた手本は、俺に分かり易い様にゆっくり
たて
と、そして流れるような一連の動作で二度見せてくれた。
まるで時代劇の殺陣のようだが、ド素人がいきなり調子に乗れば、
まず間違いなく怪我をする。
それに俺の中からは、カナタから受け継いだ薩摩武士の意識は抜
けてしまっている。
俺の中の経験値は高が知れている。まずは一つ一つの動作を身に
さげお
付けて、繋げれる所は繋げていこう。
俺はキョウさんを真似て、鞘の下緒|︵鞘に通して用いる紐のこ
と︶を、ベルトに通して固定した。
むね
まず初めに左手で鞘を持ち、親指で鍔を押し上げ軽く鯉口を切る。
右手で柄を握り込み、棟を鞘の中で滑らせ刀を抜き、左手を鞘か
ら離し柄に持ち変える。
敵が前方にいる事を想定し、正眼に構え一歩踏み込んで斬り下す。
刀が地に付く前に腕の振りを止め、刃を上に向き変えて斬り上げ
る。
むね
そして再び腕の振りを止め、刃を下へ向き変えて正眼に構える。
左手で鞘を持ち、指の上で棟を滑らせて切っ先を鯉口に誘導し、
静かに納刀する。
﹁ふへぇ∼﹂
何もかもが難しい。
抜刀は元より最後の納刀も高度な技量を要する。
それに刀を振り回すには、俺の握力は貧弱すぎる。刀の振りが鈍
1658
いし、切っ先がブレる。振りを止める制動に時間を要してしまう。
﹁なにが必要か分かったかね?﹂
キョウさんは微笑み自分の掌を俺に見せてくれた。
スタイルが良くモデル体型なキョウさんではあったが、掌は分厚
い角質が覆い、深い古傷がたくさんあった。
恐らく何度も何度も豆を潰し、手を傷つけてあの抜刀を身につけ
たのだろう。
﹁まずは握力が足りません。強い振りを止めるだけで悲鳴を上げて
ました﹂
キョウさんは納得したように頷き、家の縁側近くまで俺を手招い
た。
水道の側にあった古びたバケツを二つ手に取り、その一つに蛇口
を捻り水を注ぎ始めた。
﹁水の入ったバケツから、もう一方に移し替える修行をしようか﹂
キョウさんはポケットからハンカチを取り出して、ロールキャベ
ツの様に丸め始めた。
そして俺の手を取り、左手の小指と薬指にハンカチを握らせた。
﹁これは?﹂
﹁ハンカチを浸して水を含ませ、それを絞って水を移し替えるんだ﹂
キョウさんは二コリと笑って腕時計を見つめた。
そして無言で手をスッと上げ、何もいわずに振り下ろした。
1659
ええっ、もしかしてもう始まっちゃった?
俺はバケツに左手を入れ、もう一方のバケツの上でギュッと絞っ
た。
一回で湯呑み半分ほどの水が絞れ、割と楽なんじゃないかと思い
始めた。
そんな楽観主義も束の間の事だった。20回程手を往復させた時、
これは地獄の特訓なのだと理解した。
左手の小指から肘までの、普段使用しない筋肉が悲鳴を上げ始め、
徐々に握力が失われていった。
﹁熱血漫画の修行みたいで面白いだろ?﹂
キョウさんは笑いながら、お気楽な言葉を浴びせて背を向けた。
﹁地味な熱血漫画っすね﹂
俺は軽く悪態をつき、それでも手を休ませずに握りこんだ。
しかしバケツの底に水が溜まり始めた時には、小指と薬指に感覚
は失われていた。
﹁ぬぉお﹂
すじ
水で濡れたハンカチが、鉄の様に硬く感じる。
指を曲げる為の筋が悲鳴を上げ、ポタポタと水滴をバケツに落と
していく。
俺は言う事を聞かなくなった左手を右手で抱え、胸の前で痙攣す
る手を見つめて安堵のため息を吐いた。
1660
﹁キョウさん、終わりました∼﹂
俺は縁側でうたた寝しているキョウさんに声を掛けた。
芙蓉に膝枕をして貰ってる姿を携帯で撮り、綾乃さんにメールし
てやろうかと思ったが、残念ながらそんな気力は残ってなかった。
﹁ん、終わった? カオるんは見掛けとは違い、根性あるね﹂
それは褒めているのか、それともけなしているのか。疲れ果てた
今、そんな事はどうでも良かった。
キョウさんは元気良く跳ね起きて、縁側から降り立った。
そして孫六兼元二尺三寸を俺に手渡して、さも当たり前のように
言い切った。
﹁さっきの一連動作をやってみて。﹂
受け取った俺の左手は、2kg程の孫六兼元がバーベルに様に重
く感じた。
こんな手で孫六兼元を振るうのはマズイんじゃないだろうか。
﹁キョウさん、ヤバイ位に握力無いんですけど、それでも振れと?﹂
﹁いや、その状態がむしろ良いんだ。集中してやれば大丈夫﹂
自信満々で答えるキョウさん。
そこまで言われるとなにも言い返す事は無い。
俺は深呼吸をし、呼吸を整えて孫六兼元を引き抜いた。
右手一本で抜いた時には気づかなかったが、異変に気づいたのは
左手を柄に握りこんだ時だった。
握力の落ちた筈の左手は、柄を握り潰せるのではないかという程
1661
に力強く、柄巻きの絹糸を手の中で軋ませた。
正眼からの振り下ろしはピタリと止まり、斬り上げた刀は面白い
ほど扱いやすかった。
はやる気持ちを押さえて納刀し、この不思議な感覚をキョウさん
に問うた。
﹁キョウさん! なんですかコレ!﹂
かなめ
キョウさんはニヤリと含み笑いを浮かべ、思わせぶりに口を開い
た。
﹁刀を持つ要は左手の小指と薬指だ。限界まで酷使した指は、筋肉
に頼る事が出来ず︱︱﹂
俺はまだ手に残る異様な感覚を反芻していた。
これは多分⋮⋮。
﹁︱︱失われた筋力を補う為に、無意識の内に霊気で強化したのだ
よ﹂
やはり霊気強化か。
手の中に感じた力は、俺の握力を遥かに上回っていた。
鉄パイプくらいなら軽く握りつぶせると確信できる程に。
﹁なんとなく、コツみたいなものが見えました﹂
俺は足元に落ちていた掌大の石ころを手に取り、右手で掴んで力
を籠めた。
手は石を押し潰す事が出来ず、手に返る痛みや筋肉の疲弊を感じ
取り、﹃これが限界﹄と伝えリミッターを働かせる。
1662
けれど霊気をコントロールできる退魔士は、一般の人と違う点が
いくつかある。
まずは霊気を物質に通し、対象の強度を上げる事が出来る事。
俺は石に負けそうな手に霊気を流し、骨格と肉を強化した。
そして再び握り込んだ。
しかし筋肉が悲鳴を上げるだけで、石にはなんの変化も起こらな
い。変化と言えば感じる痛みが減少した事だけだ。
﹁俺はこの状態が限界と感じ、足踏みしていた﹂
強化の真髄はこの先にあったのだ。
手の筋肉が疲れ果て、握る力が弱まったのを確認し、再び握りを
固めた。
霊気が深く浸透していく感覚が広がっていく。不思議な感覚だが
力を抜けば抜くほど、霊気の通りは良い。
俺は一気に掌を握り込み、手の中で石が割れていく感覚を味わっ
た。
﹁不思議な感覚です。力を抜いた方が力強く握れる﹂
感覚的に事象をいうなればこうだ。
膂力と霊気は足して100のキャパシティしかなく、普段は膂力
が95で霊気は5の状態。
その状態に霊気を通しても、肉体の強化は骨格にしか作用しない。
逆に筋肉の力を最大限に抜き、霊気を通せば骨格だけでなく筋力
に作用する。
﹁乃江君や綾乃が、いかに複雑な肉体操作しているか分かるだろ?﹂
言われてみるとその通りだと思う。
1663
人が戦闘態勢に入れば入るほど、力を出しやすい状態を作りだす。
副腎から分泌されるアドレナリンはその典型だと思う。
逆にいうとキャパシティを使い切っていて、肉体強化には適さな
い状態だと言える。
ではどうするか。
簡単なのはキョウさんが俺にしたように、肉体を極限まで疲弊さ
せる事。
そうすれば自然と霊気が満ち溢れ、何を考えなくても霊気強化が
完了する。
けれど乃江さん達は、最初から全開で霊気強化を行っている。コ
ツみたいなものがあるのだろうか。
﹁綾乃の握力は平常時で右30kg、左で25kgだ。あの年代で
は平均的な数値だと思う﹂
うむ、スタイルから想像できる数値だ。
綾乃さんは筋肉を隠してる訳じゃないし、黙っていれば華奢で儚
げな美人さんだもんな。
﹁あのレベルに達するのは並じゃない、けれどある程度のコントロ
ールが出来ないと、上を目指すのは厳しいぞ﹂
﹁はい!﹂
今の俺はにんじんをぶら下げられた馬のようだ。
こんなにハッキリと効果が出れば、もっともっと試したくなる。
俺はもう一度小石を拾い上げ、手の力を抜いて霊気を通し、一息
で握り潰した。
﹁ちょっと野山を走り込んできます﹂
1664
俺はキョウさんにそう言い残して走り出した。
まだ感覚が残っている内に、体中にこの事を教えてやりたい。お
前らの限界はまだまだ上にある、と。
俺は閉じられた門の前で、屈み込み霊気を脚に集中した。
﹁行くぞ! 足!﹂
膝が伸び上がり足の裏に力を伝えていく。ありえない程の力で地
を蹴り上げ、俺の体は空へ運ばれて行った。
視線は青く澄み切った空へ。今まで遠く感じていた空が、ほんの
少し身近に感じれた。
俺は門の上の瓦屋根に手を付き、跳馬を飛び越える様に手を離し
た。
パキリ!と瓦が砕け、反転する勢いをそのままに門を飛び越えた。
力を極限まで抜き、霊気を体全体に満ち溢れさせ、着地と同時に
駆け出した。
俺の耳には風切り音しか聞こえなかった。
﹁風になった気分﹂
100メートルを何秒なんて分からない。けれどそんな細かい事
はどうでも良かった。
小道を抜けて金鳥の看板を横目で確認し、ガードレール蹴り山道
を駆け降りた。
けれど調子に乗って走れたのも束の間の事だった。
異変を感じたのは嵯峨野家から2キロ程走りこんだ頃の事。
﹁あ、あれ?﹂
1665
まるでエンストを起こした様に、俺の脚はスローダウンしていっ
た。
俺は道端に座り込み、痙攣を起こした足を投げ出し、天を仰いで
息を整えた。
霊気切れって訳じゃなさそうだ。まだまだ余力は残っている。
けれど足が棒の様になって言う事を聞かない。
しばらく途方に暮れていたら、白のヴィヴィオが俺の横で停車し、
軽くクラクションを鳴らした。
﹁乗りたまえ﹂
俺は四つんばいのまま立ち上がれず、ズリズリと足を引きずりな
がらヴィヴィオのドアを開けた。
そしてフルバケットと格闘する事数分、やっとの思いで助手席に
乗り込んで、震える足を手で揉み解した。
﹁人間の体はそんなに便利には出来ていない。霊気を籠めて﹃強化﹄
している事を忘れない事だ﹂
だよなぁ、そんな気がした。
酷使して脱力しているけど、霊気が強化するべき筋肉がもう動か
ない。
先ほど指先が程よく疲れたのとは違い、脚は完全に電池切れを起
こしている。
﹁筋肉は酷使↓破壊↓休息と繰り返して育てるのものだ。筋繊維が
破壊されたら強化しても意味は無い﹂
しょぼくれた俺を横目に見て大笑いした。
結局人間のポテンシャルは何時までも付きまとうという事か。
1666
肉体の底上げを怠ると、強化しても底が知れてるな。
﹁魔法のようにはいかないんですね﹂
俺はがっくりとうな垂れて、ヴィヴィオに揺られながら嵯峨野家
に運ばれて行った。
キョウさんは車を止め、助手席に回り込み俺に肩を貸してくれた。
﹁すんません⋮⋮、調子に乗りすぎました﹂
﹁いや、私にも経験がある。私の時は山で動けなくなり遭難しかけ
た﹂
真顔で失敗談を語るキョウさんは、少し照れ笑いを浮かべ、つい
つい釣られて俺も苦笑した。
縁側に体を横たえ、動かない脚を擦って労わった。
﹁治癒の基本は体をいとおしく思う事だ。お腹が痛くなったら手を
当てる。あの感覚だよ﹂
そういって俺に背を向け、母屋に入っていった。
キョウさんってば人当たりが良いんだけど、結構厳しい教育する
よな。自分の事は自分で治せって事か。
﹁お腹が痛いときの手か⋮⋮﹂
確かに腹が痛い時って、手を当てると痛みが和らぐよな。
あの感覚ねぇ⋮⋮。
俺は霊気を使う事に慣れ、人間の持つ本当の力を忘れてしまった
のかも知れないな。
1667
ジーンズを捲くり上げ、痙攣を起こしているふくらはぎを見つめ
て、何も考えず手を添えた。
手の温もりがふくらはぎに伝わり、心なしか痙攣が治まり、落ち
着き始めた。
俺は小一時間程そうして手を当て続けていた。
﹁カオるん、どうだ?﹂
痙攣は治まったけど、まだ本調子には程遠い。
俺は苦笑して足の指を動かし、ゆっくりと膝を立てた。
キョウさんは再び俺に肩を貸し、母屋へ俺を連れて入ってくれた。
玄関脇の土間を通り抜け、勝手口付近で靴を脱がせてくれた。
﹁風呂を沸かしてある。ゆっくりと入り、体を癒すといい﹂
そ、そうか。キョウさんは俺の為に風呂を沸かしてくれていたの
か。
ちょっと感動して、不覚にも涙が出そうになった。
俺は頷いてキョウさんに返事をして、ゆっくりと風呂へ向かって
いった。
キョウさん優しいっす。俺惚れてしまいそうです。
﹁カオるん。風呂から上がったら修行再開するぞ﹂
キョウさんは飴と鞭の使い分けが絶妙だった。
俺はゆっくりと風呂に入ろうと心に決め、脚を引き摺り歩き始め
た。
1668
1669
﹃依頼﹄
俺達が旧嵯峨野家に来て2週間が経った。
その間休む事無く母から霊気の属性観と近距離戦闘を教わり、キ
ョウさんからは刀を使った戦闘と治癒について教わっている。
葵は俺と入れ替わりで母に霊気コントロールを、キョウさんから
は治癒と護身術、そして料理を教わっている。
﹁カオル∼、ドンくさいにも程があるで、まだ水の場所にすら辿り
着いてへんやん﹂
母と俺はロードワークを兼ねて、いま道なき道を走っている。
いや道ではない。腐葉土が堆積した木々の隙間、それを山頂に向
かい駆け上がっている。
右足、左足、枝を分ける右手、左手をたゆまなく動かし続ける。
強化、解除、強化、解除⋮⋮、ほんの一瞬気を抜いただけで、リ
ズムが狂ってしまいそうになりながら⋮⋮。
﹁ドンくさい言うな。これでも昨日よりタイムが上がってんだぞ﹂
宮之阪さんの林間コースを経験していて良かった。
あの修行がなければ、今こうして走り続ける事は出来なかっただ
ろう。
木々が発する安らぎの信号、肌に感じる湿気が目的地が近い事を
教えてくれている。
第一目標地点、それは嵯峨野家の立っている山の中腹にある泉だ
った。
﹁到着∼﹂
1670
小さい川の源流。天然の濾過が完了した綺麗な湧き水だった。。
水道の水とは比べ物にならない程澄んだ水は、川を下り山裾の集
落を潤し、京都の街をへと流れ込んでいる。
その源の水、出来るだけ汚さないように掬い上げ、山の恵みに感
謝しつつ喉を潤した。
﹁水は水道水のようなチープなイメージではアカン。大自然の湧水、
そして木々を潤し人を育てる水や!﹂
これはロードワークを兼ねたイメージトレーニングだった。
生命の営みに欠かせない水を、よりクリアにイメージできる。母
お奨めの場所だった。
確かに山に湧く水は、五行の水属性をイメージするにはピッタリ
だ。
一メートル程の小さな泉だったが、泉を取り巻く岩に生す苔に見
守られら、休む事無く水を押し上げている。
そして流れる水が土を押し流し、いつしか川を作り生命を育てて
いる。
﹁川は海に帰るまで生命を育て続け、陽の光と風に作用されて再び
雨に変わり、そしてもう一度山に帰る﹂
壮大な水のサイクルだな。
途中で生命の中で寄り道をしたり、近道をして海まで行かずに戻
ってくる水もある。
中には酒として重宝され、何十年も樽と瓶の中で過ごす水もある。
﹁生命を生かすも殺すも水次第、人間の体は6割は水や。そのうち
2割を失えば生存可能限界を越えるんや﹂
1671
母はニヤリと笑い湧き水で喉を潤した。
俺は体重75kg程だから45kgは水。その内2割といえば9
リットルか。
水の大切さ、それは美咲さんに口が酸っぱくなるほど聞かされて
いる事だ。
長考を発動させる為に必要な糖分、それを体中に運ぶのは血液だ。
酸素が不足してもダメ、糖分が不足してもダメ。けれど最も注意
すべきは水分不足だと⋮⋮。
﹁次いこか﹂
母はおしりを両手で叩き、腰を上げた。
次の目的地は泉から程なく行った場所、大きな木々が立つ聖域だ。
走り出した母を追い、苔生す岩を正確に蹴り飛んだ。
山の木々は栄養を取り合って、したたかに生きている。
次に行く場所は生存競争の結末、勝ち誇った大きな木が君臨して
いる場所だ。
母はまるで無人の野を走るように、木々の隙間を通り抜けていく。
木々の隙間が細ければ細いほど、スピードを増していく。
まるで風だな。
﹁風が木行だっての、わかる気がするな﹂
風は姿を現さない。けれど木の動きを通して、風が姿を現せる。
葉をざわめかせる微風、枝を揺らす強い風、落ち葉を巻き上げる
旋風。
﹁第二チェックポイント到着∼﹂
1672
木々の中にポッカリと空いた空間。幾本もの木々が淘汰され、全
てを滅ぼしてそそり立つ一本の木。
奈良で見た神木とは違う、荒々しさすら感じる巨木だった。
俺は木の幹に凭れ、整わない呼吸をゆっくりと静めた。
﹁カオル、聞いてみ? 地中深くから水を汲み上げて吸うとる﹂
母は巨木の幹に耳を当て、目を閉じながら俺に話してくれた。
俺も母と同じように幹に耳を当てて、巨木の営みを感じてみた。
人の血液循環とはまた違った静かな水の流れ。ゆっくりと確実に
水を吸い上げ、葉の門脈まで行き渡らせている。
葉は光を浴び栄養を、幹は水を伝え、根は土を穿ち広く深く根付
いていく。
風を纏い、雷を呼ぶ巨木。そして火行を促進させる。
﹁水を糧とし力強く生き、葉摺れは火を起こす。山を支えて、嵐を
呼ぶ⋮⋮か﹂
俺は心の中で山科さんを思い浮かべ、イメージがピッタリすぎて
笑えてきた。
メンバーの中で激情型だけど誰よりも心優しい。みんなを一つに
纏めているかと思えば、たまに大火事を起こして嵐を呼ぶ。
けれどみんなは彼女の事が大好きだ。
真琴もどちらかというと木行っぽい。西洋四属性はよく分からん
が、今度こっそり聞いてみよう。
﹁さ、次々行かんとキョウちゃんの昼飯食いっぱぐれるで?﹂
母はキョウさんの作る食事を気に入ったようで、嵯峨野家の食事
当番に任命してしまった。
1673
ちなみに今日は茄子をふんだんに使ったカレーらしい。
鶏肉の骨を砕き一昼夜煮込んだダシ入りカレー、食いっぱぐれて
なるもんか。
﹁あー、よだれが出てきた﹂
﹁あほか! 油断してると葵に食われてまうで? カレー大好きや
から﹂
母と俺は木々を通り抜け、山道という名の国道へと飛び出した。
ガードレールに足を掛け、一直線に集落を目指した。
切り立った崖を駆け下り、時折覗かせている岩に足を掛け、落下
スピードを殺しつつ、いつもの木の枝に着地した。
目指す先は、世捨て人の様に暮らしている陶芸家の窯。
ちょうど数日前から登り窯に火を入れて、しばらくの間燃やし続
けるらしい。
なんの焼物か俺の耳には右から左だったが、火と土を学べる窯は
重要なチェックポイントだ。
向こうも変わり者の親子が窯を見に来ると大笑いし、今では茶な
ど振舞ってくれる。
﹁カレー食うぞ﹂
俺は集落の外れに向かって全力疾走した。
1674
ロードワークを終え家に戻ってきた時には、太陽は真上まで移動
していた。
キョウさんと葵は庭で柔軟体操をし、運動後の体をほぐしている
様だ。
ちなみに葵は母のお古の体操服を着て運動をしている。嵯峨野と
書かれたゼッケン付きの⋮⋮。
そんな珍妙なコスチュームの葵を、黄色い花を咲かせたひまわり
達が見守っていた。
﹁おーい、ただいま﹂
俺が手を振り声を掛けると、背を向けていたキョウさんが振り返
り、葵は両手を振って迎えてくれた。
葵も俺に触発されたのか、それともキョウさんを気に入ったのか、
積極的に護身用の体術を教わっている。
本人曰く﹃ダイエット﹄と言い張っているが、キョウさんが教え
る体術がそんなものじゃない事は、実際目にしなくても分かる。
﹁葵、どうだ? ダイエット効果はあったか?﹂
俺は葵のわき腹を突付き、弾力のあるウエストを指で摘みあげた。
﹁ムッカ∼、セクハラ! パワハラ! 児童虐待!﹂
葵は慌てて俺の手を払いのけ、半身捻りを入れた回し蹴りを放っ
た。
俺は軽く手でその蹴りをガードしたが、手に残る重い衝撃に冷や
汗を掻かされた。
だが調子に乗せて良い事なんて一つも無い。俺は葵に覚られぬ様
に、涼しい顔で笑って誤魔化した。
1675
そして不発に終わった足を地に付けるかと思いきや、絶妙のバラ
ンス感覚でもう一度振り上げ、天高く蹴り上げ足を振り下ろしてき
た。
﹁まるで︱︱﹂
小さな美咲さんだ。
足を払いのけられられたら、普通は体の軸がぶれてしまう。
しかし美咲さんは柳の木のように、しっかりと根を張り、鞭の様
に枝を振るう。
今の葵の動きはそれを彷彿させる動きだ。完成度は段違いだけど、
短期間の成果としては目を見張るものがある。
﹁美咲さんみたいでしょ?﹂
俺の前髪を揺らすだけで終わった踵落とし。その足は胸の位置で
ピタリと止まり、次の攻撃へ転じようとしている。
キョウさんも美咲さんも扱う武器は両手持ちの武器。刀かギター
かの違いはあれ、足技を使うのは変わりない。
多分二人とも手を使わないだけで、しっかり隠し持ってるんだろ
うけど。
﹁参った参った。葵はベリーキュートでスリムビューテイだ﹂
むしろ出る所が出ていなくてスリムだけど⋮⋮、これを言ったら
後には引けなくなる。
俺は両手を軽く上げ、ホールドアップして微笑んだ。
葵は褒め言葉に満更でもない表情をし、足をゆっくりと地におろ
した。
1676
﹁カオるん、天気良いから縁側で昼にしようか?﹂
キョウさんは庭先の水道で手を洗い、首にかけていたタオルで汗
を拭った。
そしてそれ以上何も言わず、母屋へ向かい歩いていった。
﹁キョウ先生∼、私もお手伝いします∼﹂
葵も慌ててキョウさんの後を追い走り出した。
先生か。キョウさんの持っている雰囲気は先生ぽい。
落ち着いていて、教える口調は自信が満ち溢れ淀みが無い。その
上話も面白いからなぁ。
﹁さ、カレーが来るまで体動かしとこか?﹂
ひまわりに水をやっていた母が、空になった如雨露を水道の側へ
置き、庭の真ん中へ立ち俺を手招いた。
近接の母の動きは、柔軟性のある真倉流ってイメージだ。
一発一発の破壊力より、手数で敵を征圧するスタンダードな動き。
けれど大振りの一発が無いからこそ、見せる隙は皆無に等しい。
﹁お願いします、セ・ン・セ・イ﹂
﹁キモっ! サブイボ出るわ﹂
母は拳を胸の前に置き、上体を動かさずに踏み込んできた。
母を迎え撃つべく牽制の正拳を放った。出足を止める意味で牽制
したのだが、そんな思惑さえ見切られていた。
俺は拳の行方を確認するまでも無く、膝を立てて胴体部の防御に
回った。
1677
膝に感じる二つの衝撃は、母の拳と膝蹴りだ。まだ衝撃で痺れる
足を前に蹴り、母の左手を防御に回らせた。
母の修行はここからがキツイ。普段なら一歩下がって距離を取る
が、後手に回れば着地の瞬間に一発貰ってノックアウト。
ならばゼロ距離に近い位置で、インサイドファイトをするほうが
まだマシ。
﹁神風特攻隊やな﹂
母が言葉で注意を逸らし、死角の位置から耳下に掌打を打つ。
俺は肘で頭を抱え込むように三半規管を守り、肘をぐるりと回し
て母の掌を脇の下へ挟んだ。
隙の出来た右胸元目掛けてショートパンチを滅多打ちする。
拳は当たる事を前提に握りを強めるが、握りを固めると筋肉が硬
直しスピードが出ない。出来るだけ握りこまない方が速い連撃を打
てる。
そして筋肉に頼らない方が霊気の通りが良い、拳より抜き手、掌
打の方が強化しやすいのだ。
母は一歩、二歩とジリジリ下がり、確実に俺の手を捌いていく。
俺の様に遠くに飛び間合いを取るのではない、捌く手に余裕を与
える為の最小限の引き。
見習うべきはこういう冷静な対処だ。
﹁はい、次、攻守交代﹂
そう言うなり母は、俺に攻撃を始めた。
細い腕から繰り出されているとは思えない正確かつ重い突き。
俺は母を見習って一発に対し数センチ後退し、ほんの少しの衝撃
緩和と時間を稼いだ。
︱︱なるほど。
1678
相手が思った打撃位置をほんの少し外すだけで、拳から発生させ
られる衝撃はかなり失われる。
ついでに言うと相手の軸が少し前掛かりになるから、二発目を打
つ際に軸の戻りが発生し、引き絞った後攻撃となる。軸の戻りの間
だけ少しの遅延が見込める、か。
俺は今まで敵の動きに合わせようとして、体を速く動かす事しか
考えなかった。
相手を操作して、自分が有利になる方法︱︱、か。母ってば天才。
﹁二人ともカレー出来たよ∼∼∼﹂
葵の大声が庭中に響き渡った。
同時に受け止めた母の拳が俺の鼻先で止まり、もう一方の手は母
の胸の前で押し戻されていた。
﹁食おか?﹂
﹁もう腹ペコで力でないって﹂
俺と母は示し合わせた様に手を離し、縁側に並べられたカレー皿
に飛びついた。
予想通りの茄子カレーだった。玉ねぎとトマト、ジャガイモの代
わりにかぼちゃが入っていた。
どれもこれもご近所の農家で分けてもらった野菜ばかり。
﹁農家の方々に感謝﹂
俺は両手を合わせてカレーを頬張った。
1679
お腹を満たされた俺達は、猫の様に縁側で日向ぼっこし、一人元
気な葵は皿を纏めて後片付けしている。
キョウさんは多機能携帯を両手で操作し、なにやらイソイソと打
ち込んでいる。
圏外じゃ?と思ったが、真琴と同タイプの退魔士用携帯だと気が
付いた。
退魔携帯は可能な限り、地上をサポートしている。俺も有効活用
せねば。
﹁キョウさん、メールですか?﹂
特に気になった訳ではないが、真顔で携帯を操作しているキョウ
さんを見たら、そんな言葉を掛けてしまった。
キョウさんは横目で俺を一瞥し、しばらくの間無言で携帯を操作
していた。そして携帯を閉じ、ゆっくりと口を開いた。
﹁ランクA++は厄介なものでな。誰もが二の足を踏む仕事しか回
ってこない。そういうメールだよ﹂
美咲さんから聞かされた事がある。
AになるとB以下では出来ない仕事が優先的に回ってくる。
けれど上位のキョウさんや綾乃さんは、そんなランクAですらヤ
バイ仕事を回される事があるのだと。
ランクを上げるのは出世ではない。だから与えられた仕事をこな
せなくて、キョウさんに迷惑をかけたくないのだと。
﹁ヤバイ仕事ですか?﹂
1680
キョウさんは俺を横目に見て、苦笑して目を逸らした。
俺はそのぎこちない態度を見て、相当にヤバイのだと理解させら
れた。
﹁二件同時に回してきた。私の体は一つだというのに、お役所仕事
ってのはどこかヌケている﹂
キョウさんはそう言って縁側から身を起こし、ひなたに出て大き
く伸びをした。
・・・
そして頭をポリポリと掻き、背を向けたまま俺に話しかけた。
﹁カオル君にも手伝って貰おうかと思う。命がけの仕事だが、手伝
ってくれるね?﹂
キョウさんは初めて俺をカオルと呼び、そう言って俺に協力を求
めてきた。
キョウさんに頼られる事への感動より、武者震いが先に立ち鳥肌
が立ってきた。
﹁もちろん!﹂
俺は掌を拳で叩き、特訓の成果を試す機会に恵まれた事に感謝し
た。
1681
﹃松原橋の義経と弁慶 01﹄
まぶ
夕食を済ませたキョウさんと俺は、黙々と狩りの準備を行ってい
た。
俺は守り刀とナイフを分解し、打ち粉を塗して刀身を磨き上げた。
つつが
正直こうしてメンテナンスするのは初めてだったが、キョウさん
は手取り足取りと手順を教えてくれ、恙無く作業を終えることが出
来た。
さが
心なしか美しさが増し妖しく輝く二振りを眺め、ニンマリとして
しまうのは男の性と言える。
キョウさんは和泉守兼定、孫六兼元、そして鎮魂の刀である和泉
守藤原国助を手入れしてくれた。
孫六兼元は俺が借用していたものだし、鎮魂の刀共々俺がメンテ
すべきだったが、
﹁長物は扱いが難しい。手順を覚え追々手入れしてやればいい﹂
そう言って嫌な顔一つせず、鎮魂の刀を手入れをしてくれた。
キョウさんは最後の一本を納刀し、俺の前に鎮魂の刀と孫六兼元
を差し出した。
﹁今日は鎮魂ではなく孫六を使え。まだ鎮魂は君の手に余るからな﹂
あれから幾度と無く、鎮魂の刀を使いこなそうとして挫折した。
なんとなくコツみたいな物は見えてきたが、完全に使いこなすに
はまだまだ訓練が必要だ。
俺は手に取った鎮魂を桃源境へと運び、もう一本の孫六兼元を手
に取り、思案に暮れていた。
1682
﹁これも桃源境に運んでおくか⋮⋮﹂
長物は一目に付くのが欠点だ。
言い咎められなければ携えて戦いに赴くのが一番良い。けれど法
治国家の日本では先ず無理な話だろう。
そうでなくとも俺は腰に二本差ししている。職務質問されたら一
発でアウトだ。
俺は手に霊気を集中し、孫六兼元を桃源境へと転送した。
﹁もう、返さなくても良いぞ。アレはカオルにくれてやる﹂
キョウさんとは違う声色、ツンケンとした台詞が部屋に響いた。
俺は和泉守兼定を見つめ苦笑し、キョウさんは滝汗を掻いて否定
した。
﹁これ、芙蓉! 滅多な事を言うものではない﹂
﹁キョウは節操が無い。千両兼定と五十両の孫六を並べ置くなども
ってのほか﹂
刀には女性の神が宿ると星川刀匠も言っていたが、ヤキモチ焼き
だとは聞いていなかった。
カナタも孫六を扱いだしてからというもの、俺に対し妙にツンケ
ンしている。もしかしてヤキモチを焼いているのだろうか。
﹁じゃあ、お言葉に甘えてしばらく預からせて頂きます﹂
﹁う、うむ﹂
芙蓉の前で明確な意思表示はマズイと判断したのか、それ以上何
1683
も言わず目で語りかけてきた。
そんな不安そうな表情をせずとも、ちゃんと返しますっ。安心し
てください。
﹁キョウさん、本題ですが︱︱﹂
俺は本日のミッションについて確認を行った。
ランクA以上の特務といえば、超が付く重要案件だ。果たして俺
にサポート出来るのだろうか。
修行の成果を確かめるにはもってこいと思ったが、分不相応な案
件に首を突っ込み、足を引っ張る事にならないだろうか。
﹁まずは夜な夜な現れる源義経の霊を討伐せよ、だ﹂
キョウさんは苦々しい表情を浮かべ、案件の内容について話し始
めた。
聞けば数週間前程から、ランクA以上討伐対象として、義経の霊
が登録された。
報酬は破格の500万、出現時刻と場所も特定されていて、調査
不要の好案件だった。
もちろん近隣のランクAがこぞって集結したらしい。
﹁しかし、ミッションクリア出来る退魔士はいなかったそうだ﹂
出現する場所は京都の五条通りの少し北、松原橋の上で24時か
ら25:00の間。
出現前には松原通りの信号が全て赤に変わるのだそうだ。
俺は今の話に疑問に感じ、京都在住のキョウさんにその事を伺っ
てみた。
1684
﹁義経と言えば、五条大橋で弁慶と戦うのが有名ですよね。なんで
五条大橋でなく松原橋なんでしょう?﹂
こういった少し疑問は、狩りをする上で重要な鍵となる場合があ
る。
霊の法則というか、どうして出現するのかを探らなくてはならな
いからだ。
キョウさんはそんな疑問に対し、いとも簡単に答えを教えてくれ
た。
﹁京都は平安の頃と様変わりしている。あの頃の五条通りは松原通
り。五条大橋は今の松原橋の位置にあったのだ﹂
そういえば五条通りというのは国道一号線。京阪神の動脈といえ
る大きな国道だ。
もしかすると都市化する上で、五条通りは南に移動したのかもし
れないな。
とすれば義経が松原橋に出現するのは、なんら不思議ではない⋮
⋮か。
﹁一般市民への被害は皆無、市民の噂にもなっていない﹂
むむ、それは変だな。
大抵の霊案件は、市民の通報や噂、被害届けを元にし、データベ
ース化して退魔士に依頼する。
被害が無いのに討伐データに登録されたのも変だし、価格も破格、
出現情報が明確すぎる。
﹁案件処理の前提条件がシビア過ぎるのも引っ掛かる。もしやとな﹂
1685
もしや? キョウさんはこの案件に心あたりがあるのだろうか?
そういえば先ほどの苦々しい表情も、それと符合するような⋮⋮。
﹁制限、市街地ゆえに銃火器の使用は不可。か﹂
俺はPDAを操作して、メールで転送してもらった情報に目を通
す。
まあ京都のど真ん中でドンパチはご法度なのは理解する。
しかしここ数週間で、退魔士ランクAがこぞって集結したのにも
係わらず、いまだ討伐出来ないとは⋮⋮。
義経の霊ってのは相当ヤバイぞ。
﹁ふむ、退魔士を病院送りにする訳でもなく、ただ行動不能にさせ
られるだけ﹂
リストを開いて確認したが、全員が打撲傷程度の負傷に留まって
いる。瀕死という程やられていない。
俺はリストの枠外で米印で補足されている情報に目を通した。
※︻昏倒した退魔士には心付けが配られている︼ なんじゃそり
ゃ?
﹁なんすか? 心付けって?﹂
﹁ふむ、参加賞と書かれた封筒だそうだ﹂
俺は激しい頭痛に襲われ、頭を抱え込んでへたり込んだ。
もしかして義経の霊を騙る人間の仕業じゃないだろうか。いや間
違いなくそうだ。絶対にそう。必ずそう。
﹁ありえんですよ。﹃治療費にお使いください﹄って書かれたメモ
1686
と万札って﹂
それが今回の案件の概要だった。
俺は畳の上に脱力して、キョウさんを見上げて再確認をした。
﹁案件が2件って言ってましたよね? もう一つの案件は?﹂
同時案件と聞いて、お手伝いせねばと決意したのだ。
そういうや否、俺のPDAへメールが着信した。
﹁同じ条件下で弁慶の霊も現れる。討伐報酬も同じ︱︱﹂
出現位置も心付けをする行為も同じだった。
なるほど当局がキョウさんに2件同時に依頼をする理由も、キョ
ウさんが渋い顔をする理由も分かった。
﹁まあ、確定している情報は以上だ。まだ不確定要素の部分は話せ
ないが、現場に向かえば明らかになるだろう﹂
キョウさんは多機能携帯を収納し、和泉守兼定を手に取り立ち上
がった。
キョウさんの運転するヴィヴィオは367号線を南下し、白川通
りを南禅寺まで行った所で、三条通りを西に向かい鴨川沿いを下っ
た。
そして一時間程で目的地に到着した。
1687
キョウさんは橋の近くにある有料駐車場へ車を停め、刀袋に納め
た兼定を取り出した。
時刻は23時を少し過ぎた所だが、辺りには殺気に満ちた雰囲気
が漂っている。
橋の近くに路上駐車しているワゴン車や、ハザードランプを点灯
させているアメ車から、その殺気は発せられているようだ。
﹁先客はひいふうみい⋮⋮、三組ですね。橋の向こうに一組います
もんね﹂
一時間も前から殺気ビンビンに発散して、いざ本番までテンショ
ンが持つのだろうか?
俺はなんとなく三組の退魔士の﹃質﹄を感じ取って、出番が回っ
てくる事を悟ってしまった。
ポケットから財布を取り出し、キョウさんに声を掛けた。
﹁缶ジュース買ってきます。コーヒーで良いですか?﹂
長丁場の待ち時間だし、手持ち無沙汰はご勘弁願いたい。
﹁炭酸飲料以外ならなんでも﹂
コーラ大好きな俺からすれば、炭酸の入ってない飲み物は損した
気になるが。
最近では炭酸飲料が嫌いな人も増えているのだそうだ。なげかわ
しや。
俺はコクリと頷いて国道一号線方面へ歩き、適当なコンビニを探
した。
﹁一時間も前から立って待ってるなんて⋮⋮﹂
1688
俺はため息を吐き、手ごろなコンビニに到着し買い物を済ませた。
俺はゼロカロリーのコーラとトウカご推薦のつぶつぶピーチを手
に取り、特選肉まんを2つ持ち帰った。
キョウさんは橋のたもとで腕を組み、まんじりともせず睨みを効
かせている。
俺は袋からつぶつぶピーチと肉まんを手渡し、俺も一かじりして
口を動かした。
﹁まだ時間にもならないのに、キョウさんは何をしているんだろう
? カオル君はそう考えていないか?﹂
俺は肉まんを喉に詰めそうになり、上目使いでキョウさんを見て
ささやかに肯定した。
キョウさんはさもあらんという表情で、橋を指差し話し始めた。
﹁戦う場所、地形、路面、民家の窓の向き、川の流れ、風向き⋮⋮、
戦いの要素は戦場でも街中でも同じだけある﹂
キョウさんは橋の欄干を指差し、一箇所二箇所と数えて俺に向き
直った。
あの場所に音響閃光装置が仕掛けられている。対テロ対策に使う
手榴弾型のを、リモコン制御出来るように改造してあるな。
ふへぇ、俺の考えは甘すぎたか。他の退魔士が既に仕掛けをして
待ち受けてる訳か。
﹁てことは、他の退魔士達も﹃霊﹄ではなく﹃人﹄だと予測してい
る訳ですね﹂
対テロのこけおどしが魔物に効くとは限らんものな。
1689
暗がりの中心の目を開いて見ると、暗視カメラが数個設置されて
いた。車の中に居てもちゃんと見てるってか、ずぼらだな。
キョウさんは肉まんを頬張り、しばし口を動かし飲み込んだ。
﹁これは美味い肉まんだな﹂
﹁特選肉まんですから﹂
気に入ってくれたらしい。
真夏に食う肉まんとおでんは美味しい物だ。温かい物はいつの季
節も人に優しいのだ。
戦いの前の栄養補給と言いたいが、最近規則正しい生活をしてい
て、ジャンクフードが食いたくて仕方なかったのだ。
俺はキョウさんの持っていた包み紙を引ったくり、コンビニの袋
に入れてポケットに突っ込んだ。
﹁キョウさん⋮⋮、なんか車増えてませんか?﹂
さっきまで3台しか居なかった不審な車が、今見回すと10台ほ
どに増え、ハザードランプで松原橋は照らし出されていた。
とか言っている間に、また車が停車した。ちょっとしたお祭り状
態だった。
車からカメラと三脚を手に持ち、ディレクターチェアを抱えた男
達が、橋の袂に椅子を並べて座り込んだ。
立ち見をする風な男や、彼女連れで肩を寄せ合う男⋮⋮、どう見
ても戦いの雰囲気じゃない。
俺達の後ろでも人の気配が多数。
その内の一人が舌打ちをして、睨みを効かせて俺達に声を掛けて
来た。
1690
﹁兄さんら、そこ特等席なんだよね。ギャラリー? よかったら譲
ってくんない?﹂
そして男は足にぶつけるように椅子を広げ、あつかましく座り込
んだ。
この異様な雰囲気に圧倒されたキョウさんに代わり、俺が二人分
の疑問をその男にぶつけた。
﹁お兄さんこそ、退魔士じゃないのか? 悠長に座ってていいのか
? それに何だ、みんなしてポテチに缶ビールとか、やる気あんの
か﹂
退魔士らしい兄さんは、キョトンとした表情をして缶ビールの蓋
を開けた。
そしてキョウさんの持つ刀袋を見て、得心いった様に頷いて喉を
潤した。
﹁兄さんら参加組か。俺は弁慶ちゃんを応援する派。道を挟んだあ
いつらは義経ちゃん派みたいなんだよね﹂
カメラを構えディレクターチェアに座った男達を指差し、いまい
ましげに睨んでみせた。
弁慶ちゃんとか⋮⋮、もう何がなんだか⋮⋮。
よくよく話を聞きだしてみたが、この兄さんも初日に突撃したら
しい。
普通やられてリベンジとか考えそうだが、何を思ったのか一目惚
れしてしまったらしい。
ここらに集まったギャラリーの大半が、そんな風に趣旨変えをし
て応援しつつ、事の成り行きを見守っているらしい。
1691
﹁兄さんらも多分弁慶ちゃん派になるよ。義経ちゃんも捨てがたい
けど、弁慶ちゃんの脚⋮⋮、あれは芸術品だよ﹂
もう一度蹴られてぇなんて呟きながら、ゴクゴクと喉を鳴らして
柿ピーを口に放り込んだ。
周囲に警察車両が数台停車し、公僕が橋の信号機を操作して赤へ
変えた。そして橋への道に進入禁止のコーンを並べ、後ろ手に立ち
見守っている。
あれ?信号が勝手に変わるんじゃなかったのか?
﹁兄さんら参加するんだったら、あの男に声掛けて、整理券を貰っ
て順番待ちして置かないと、翌日に回されるぜ?﹂
橋に立つ男を指差し、親切にも教えてくれた。
キョウさんは無言でその男の方へ歩き出し、ポケットからライセ
ンス証を取り出して見せた。
俺もキョウさんの後を追い、男の前に歩み寄った。
﹁ライセンス証を確認します﹂
表情一つ変えず事務的な声色で応対する男は、俺にライセンス証
の提示を求めてきた。
俺は財布から証明証を取り出して、男の鼻先に突き付けた。
﹁三室カオル様ですね。もう結構です﹂
そう言いながら手に持ったボードに筆を走らせ、サラサラと名前
を記入していった。
まるでファミレスのウェイテリングリストだなと、半ば呆れなが
ら手渡された整理券に目を落とした。
1692
﹁10﹂
﹁私は9だ﹂
俺達以外に8人の退魔士が狩りに参加する訳か⋮⋮。
流石にランクA10人居たら、順番回って来ない可能性があるな。
そう考えつつも腰に差した守り刀に手を触れ、ゆっくりと撫でる
様に心を落ち着かせた。
﹁カナタ、トウカ。多分出番が来るぞ﹂
キョウさんがやられる事を予測している訳じゃない。
もう一方を足止めし、キョウさんの背中を守るためだ。
﹁し、仕方ないのう⋮⋮、手を貸してやるとするか﹂
ポンと頭の上にカナタが顕現し、それに合わせる様にトウカが姿
を現した。
何気に二人とご無沙汰していたので、ちょっぴりの重みが懐かし
かった。
﹁そろそろですね﹂
俺は携帯の時計を確認し、キョウさんはポケットから懐中時計を
取り出した。
そして橋の真ん中を残し、人々が退去し後ずさった。
異様な雰囲気に包まれた橋の上で、誰かが生唾を飲み込みゴクリ
と音を鳴らせた。
しんと静まり返った橋の上で、携帯電話の時報がが鳴り響き、同
1693
時に橋の中央が閃光に包まれた。
﹁む? どこかで見た事のあるエフェクトだな﹂
俺は暗闇に慣れた目を細めて、橋の中央に光り輝く二体の人影を
見つめた。
1694
﹃松原橋の義経と弁慶 01﹄︵後書き︶
後書きに業務連絡すいません。
キャラクター投票の件ですが、1月15日を締め切りとさせていた
だきます。
多数のご投票ありがとうございます。ぺこり。
1695
﹃松原橋の義経と弁慶 02﹄
かづ
かわほり
光と共に現れた義経は、松原橋の中央付近の欄干へ音も無く降り
こむらさき くぐりばかま
立ち、ゆっくりと周囲を見回した。
しゃなおう
あか
白の水干に濃紫の括袴、衣を被き、手に蝙蝠を携えた義経。いや
遮那王と言った方が正しいか。
白粉塗り上げた顔に一輪咲く艶やかな唇の紅は、稚児では成し得
ない色香を放っていた。
﹁ほう∼﹂
周囲のギャラリーから溜息にも似た歓声が上がる。ほんとにこい
つら腕利きの退魔士かと。
対する弁慶は純白の単を大胆に膝上でカットし、黒の羽織りにミ
ごすろりきもの
ニスカート、艶かしい足を隠すようにニーソックスとブーツを着用
していた。
いわゆる洋風着物姿の弁慶ちゃんは、兵装頭巾の代わりに白い布
で長い髪を結い上げていた。
僧兵というより女忍者。弁慶というよりガンダムの歌姫。百歩譲
って元服前の鬼若丸といった所だろうか。
﹁あ、痛たた⋮⋮﹂
いくらコスプレしようとも、美咲さんと乃江さんをを見まごうは
ずが無い。
横に立ったキョウさんも滝のような汗を掻き、和泉守兼定を杖代
わりに膝を折って崩れ落ちた。
しかしキョウさんは脱力こそすれ、事態への驚愕の表情では無か
った。
1696
むぅ、なんとなくそんな気がしていたが⋮⋮。
﹁︱︱キョウさん、この案件について俺に言ってない事があるでし
ょ?﹂
俺はキョウさんをジト目で睨み、拗ねた口調で責め立てた。
今まで見せた含みのある言葉や表情、そのどれもがこの状況を予
測していたと思える。
確かに現場に行ってみれば分かるけど、一言くらい相談して欲し
かったぞ。
﹁うむ、退魔士界に不文律があってな。自分を討伐対象として登録
し、討伐に来た退魔士と手合わせするという⋮⋮、あまりよろしく
ない慣習があるのだ﹂
不文律ねぇ。いわれて見ればなるほどと頷ける。
俺のような一定の人へ師事する修行もあれば、荒稽古の様に不特
定多数と手合わせする修行もある。
これはある意味、賞金が掛かったストリートファイトだし、経験
値を稼ぐならもってこいの方法か。
﹁恥ずかしながら、これを不文律にしたのは綾乃だ。バーサーカー
と呼ばれているのは、その時の名残なのだ﹂
そういやキョウさんが俺を教えに来てくれた様に、美咲さんと乃
江さんには綾乃さんが付いてくれているはずだ。
てことは昼間は綾乃さんと修行して、夜はストリートファイトで
経験値稼ぎか?
腕の差を縮めようとがんばっていたが、縮まる所か引き離されて
しまったのでは無いだろうか。
1697
﹁それに俺の住まいは、ここから目と鼻の先。ピンと来ないはずが
無い﹂
退魔士界の不文律と綾乃さんの関係。
美咲さん、乃江さんとの師匠関係の綾乃さん。
もーめんと
キョウさんと綾乃さんが住んでいるマンション。
全ての線が綾乃さんに向いている。影で糸を引いているのは、ひ
ょっとして綾乃さんか?
﹃ジャン、ケン、ポン。じゃ美咲お嬢様は弁慶、乃江は牛若丸ね﹄
綾乃さんのスーパージャイアニズムっぷりが容易に想像できた。
美咲さん達は口答えできず、渋々付き合わされているのではない
だろうか。
しかし、連日ランクAとストリートファイトって、美咲さん達は
どれだけ経験値を稼いだのだろう。見てみたい気もする。
んー、これが怖い物見たさという奴か。
﹁む! 始まりそうだ﹂
打ちひしがれていたキョウさんだったが、何事も無かったかのよ
うに立ち直り、いつものクールなナイスガイに戻った。
橋の中央で待つ二人の前に、男が一人歩み寄った。
ピリピリと殺気立った雰囲気を纏い、男はポケットから手をゆっ
くりと抜き、受付の男に半券を手渡した。
﹁︱︱弁慶ちゃんでお願いします﹂
強面の見てくれとは打って変わり、男は少し恥ずかしげな口調で
1698
そう告げた。
まるでメイド喫茶のご指名を済ませるかのようだ。
﹁カオル君、棄権していいかな﹂
﹁駄目っす﹂
羞恥心に溢れた表情を浮かべ、なおかつ満更でもない男を見て、
キョウさんが嫌々と首を振り、駄々っ子のように尻込みし始めた。
キョウさんvs妹さんズは是非とも見たいカードだ。この機会逃
してなるものか。
俺はキョウさんの背中を押し、前方を見つめて退魔士の動きを待
った。
美咲さんの前に立った男は、スッと両手を上げ、力比べのポーズ
でジリジリと間合いを縮めた。
美咲さんは警戒しつつ時計回りにゆっくりと回り、その手を牽制
し間合いを保っていた。
男はゆっくりと右手を美咲さんの前に翳し、自分の体を美咲さん
の視界から隠した。
そして一瞬美咲さんが戸惑いを見せた隙を狙い、男は素早く身を
屈め突進を始め、太股に手を回し体勢を崩しに掛かった。
﹁テイクダウンか。対人戦に特化した組み方だな﹂
キョウさんが顎に手を当てて独りごちた。
確かに魔物相手にマウントポジションを取る有利性は見出せない。
橋に仕掛けられた音響閃光弾にしかり、ここにいる全員が﹃人間﹄
を倒そうと特化しているのは間違いない。 相手のタックルを受け止め、美咲さんは脚を後方に投げ出し、前
屈みになり腰を落とした。
1699
棒立ちのままだったら即座に寝技に持ち込まれ、今ごろマウント
ポジションにまで持っていかれたかもしれない。
しかし流石美咲さんといった所か。テイクダウンの処置は完璧だ。
橋の上でこう着状態に陥った男に対し、ギャラリーから容赦ない
ブーイングが巻き起こり、全員が親指を下げて男を罵った。
﹃俺の弁慶ちゃんになにすんだ﹄
﹃エロ親父! マウント狙いか﹄
﹃羨ましいぜ! コンチキショウ!﹄
何がなんだか分からない野次が飛び交い、戦場は異様な雰囲気に
包まれた。
それもその筈、男の顔は絞まり無く半笑い、腿に回した手はホー
ルド目的ではなく臀部へと蠢いていた。
しかしそんな気の抜けた組み技が、美咲さんを足止め出来るはず
も無く。
美咲さんは男の髪の毛を両手で掴み、踏ん張っていた脚を切り返
し、電光石火、男の顔に膝蹴りを決めた。
だが男もランクAの退魔士だ。膝が来ると分かった瞬間に手を離
し、寸での所で自分の顔をガードし無効化した。
﹁おおっ∼!﹂
ギャラリーが歓声を上げたのは、男が派手にぶっ飛ばされたから
ではない。
美咲さんが見せる微妙な恥じらいの表情を見て⋮⋮だ。
確かに薄っすらと頬を染め、困ったように眉を顰める表情は絶品
だった。⋮⋮が、悪ノリしすぎじゃないか?
1700
ちょっと憤慨気味の美咲さんは、ぶっ飛び劣勢になった男に対し、
即座に三連蹴りを見舞った。
相手の側頭部に蹴り降ろし、膝を曲げ、伸ばして顎を掠め、着地
前に踵で膝を横薙ぐローキックの三連弾。
ブラジリアンキック気味の蹴りは、閃光の様に速く、男には逆S
字の軌跡にしか見えなかったであろう。
︱︱しかし相手も木偶の坊ではない。
側頭部をきっちり肘でガードし、肝心の顎は右手の拳が守ってい
た。
おまけの膝蹴りに至っては、脚を軽く上げて衝撃を緩和してしま
っていた。
﹁︱︱っ﹂
優勢に回っていた筈の美咲さんが、苦悶の表情を浮かべよろめき
片膝を付いた。
くない
足元に散る血痕を目で追うと、点々と美咲さんの膝に行き着く。
︱︱苦無。
くない
二発目の蹴りの時だろうか、ガードだけではなく暗器を用いて、
攻撃に転じていたか。
美咲さんは出血覚悟で苦無を引き抜き、ニヤつきながら見下ろす
男に投げ返した。
美咲さんの履く耐刃ニーソ。切り裂く﹃線﹄の防御には秀でてい
るが、突き立てる﹃点﹄の防御はいまいちだ。
くない
その事も見切っての攻撃だとしたら、あの男⋮⋮結構腕が立つの
かも知れん。
﹁!﹂
男は顔の前で苦無を受け止め、袖口からもう一本を取り出して両
1701
手で構えた。
暗器使いか。最初の総合格闘技的な振る舞いは、暗器使いだと思
わせない為のブラフか。
美咲さんは痛む足を庇うように立ち、苦しげな表情隠す事もしな
い。
そして右拳を胸の前にかざし握り込み、左手は脇を閉め腰の辺り
に置き、短く息を吐いた。
﹁美咲が手を使うとは⋮⋮、これは相当怒っている﹂
キョウさんがボソリと溜息混じりに呟き、前髪をくしゃくしゃに
掻き毟った。
俺もその構えを見て、無意識に声が漏れてしまう。
﹁美咲さんが手を使うなんて⋮⋮﹂
俺は美咲さんの手を初めて見て、思わず身震いがしてきた。
﹁カオル君、少し下がっていよう﹂
キョウさんはそう言って、一歩二歩と美咲さんから距離を取った。
俺はそんなキョウさんの慌てっぷりを見て、次に来るはずの美咲
さんの技に目が離せなかった。
見れば欄干の上に立つ乃江さんも、微妙に腰を浮かせ身構えてい
る。
﹁︱︱︱︱﹂
美咲さんは深く息を吸い込み、一拍置いてゆっくりと口を開いた。
人間の可聴域をギリギリ外れた金切り声が響き、呼応するように
1702
綿毛のような霊気が沸き立ち、美咲さんを包み込んだ。
そして烈火の如く踏み込み、右ストレートを相手に放った。
﹁まるで綾乃さんのようだ﹂
美咲さんは技巧派。俺の中のイメージでは力技に走らず、きっち
りとそつがない。
くない
けれど今の美咲さんは違う。ガチの前衛の動きだ。
男は苦無を十字に構え、美咲さんの拳をがっちりと受け止めた。
重機で引き摺られるように靴底を減らし後退する姿は、踏み込む
美咲さんの拳の威力の凄さを物語っている。
また膠着状態かと思った矢先。
くない
美咲さんはニヤリと笑い、相手に向かい息を吹き掛けた。それを
合図に周囲に漂っていた綿毛が、フワフワと男へ飛びかった。
﹁始まった⋮⋮﹂
すべ
キョウさんの呟きと共に、空気を裂くような衝撃音が響き、苦無
の男は為す術も無く吹き飛んだ。
同時に発生した爆風に流されるように、空に舞う綿毛の霊気がフ
ワフワと橋の上へ広がり、いつしか辺りを包み込んでいった。
幻想的な風景。けれど俺は全身の毛が逆立ち、その凶悪な風景か
ら目が離せなかった。
順番待ちの男が一人、好奇心に満ちた表情でその綿毛に手を伸ば
した。
触れた瞬間に轟音と共に周囲の空気が震え、俺の鼓膜はギュッと
内に押しこめられた
再び目を見開くと、男は呻きながらうずくまり、血まみれになっ
た手を押さえていた。
1703
﹁タンポポ爆弾?﹂
気が付けば俺の横に、義経ちゃん⋮⋮、もとい乃江さんが飛び退
き退避していた。
乃江さんは風と共に連れて来た綿毛を、フゥフゥと息を吐き手で
扇ぎ押し戻し、ホッとした表情で汗を拭った。
﹁あいつらもう駄目だな。油断しすぎ﹂
乃江さんは残念そうな表情で、橋の上に立つ参加者を見つめてい
た。
逃げようとした参加者の一人は、肘に一発食らってもんどり打っ
て倒れ、慌てて飛びのいた男が背中に被弾して呻き声をあげた。
その他の者達も、あまりに無防備過ぎた。武器を構えた時には既
に遅く、タンポポ爆弾は間近に迫り、かわす事すら出来ず被弾して
行動不能に陥っていく。
まるで綿毛が意思を持っているように、周囲の者を無差別に爆破
していく。
そして空気が震える度に、綿毛は不規則に動きを変え、しんしん
と降る雪のように、ある時は横殴りの雨のように襲い掛かった。
﹁あわわ⋮⋮タンポポの空爆だ﹂
動けば風を纏い、綿毛もその者に合わせて動きを変える。
一番良いのは美咲さんのように、息を潜め出来るだけ動かない事
だ。
﹁美咲は霊気を放出するのを得手とする術者だ。癒しも、攻撃も、
その時の気分次第。普段ギターを携えるのは、攻撃に指向性を持た
せる為︱︱﹂
1704
キョウさんは死屍累々の橋の上を、他人事のように遠い目で眺め、
溜息混じりに呟き話してくれた。
そういえば最初見た霊気も、綿毛のようなかわいらしい霊気だっ
たっけ。
見た目に惑わされると痛い目にあう。美咲さんにピッタリな攻撃
だと思えた。
そしてフワフワと漂う綿毛の霊気は、少しずつ力を失い、雪の結
晶が溶けて消えるように、儚い光を残して消えていった。
﹁では、後ほど﹂
乃江さんはそう言い残し、橋の欄干を跳躍し戻っていった。
こうべ
対する美咲さんは青ざめた表情で、ふらつきながら欄干に凭れ掛
かかり、短く溜息をついて頭を垂れた。 ﹁あの状態って、美咲さんかなり疲弊してるんじゃ⋮⋮﹂
俺はキョウさんに向かい、美咲さんの状態について気を掛けた。
確か最初の出会いの時も、歌った後フラフラになっていたような
気がする。あの技はかなり負担が大きいのじゃないだろうか。
﹁あの綿毛は俺の出す錬気と同じ。美咲は使い慣れていないからあ
あなるのだ。修行不足も甚だしい﹂
キョウさんは手厳しい言葉を吐きながらも、慈愛に満ちた目を美
咲さんへ向けている。
兄として厳しいポーズを取っていても、妹がかわいくて仕方ない
んだな∼。
世のお兄さんが妹に甘い論理を地で行っている。ちょっと共感出
1705
来る部分があるなぁ。
﹁なんだ? その目は?﹂
﹁なんでもありませんよ﹂
ニヤリとほくそ笑み、キョウさんの視線から目を逸らした。
﹁葵ちゃんに言いつけてやる﹂
キョウさんはちょっと拗ね、俺にとっての殺し文句をサラリと呟
いた。
1706
﹃松原橋の義経と弁慶 03﹄
橋の欄干でにゃんこ座りしていた乃江さんは、受付兼進行係の男
に手招きをして、なにやら耳打ちをしていた。
受付の男は耳を側立てて聞き、すぐさま驚愕の表情を浮かべ、大
きく首を振って乃江さんを嗜めた。
けれど乃江さんも頑として首を縦に振らず、進行は一時停止の状
態になった。
﹁なにを相談しているんでしょうか﹂
俺は小首を傾げ、状況の把握に努めた。
進行の男の表情を見ていると、とんでもない無茶を言い出したよ
うな気がするが。
キョウさんは俯いて苦笑いを浮かべ、俺に聞かせるでなく呟いた。
﹁綾乃ならこう言うだろう。残り全員纏めてかかってこい、と﹂
まさか⋮⋮ね。
まだ順番待ちの生き残りは、俺達を含め6人生き残っている。そ
れは流石に無茶というものだろう。
好戦的な綾乃さんならいざ知らず、乃江さんは⋮⋮、乃江さんな
ら⋮⋮、言うかもしれないな。
キョウさんは刀袋の紐を解き、和泉守兼定二尺二寸を取り出した。
そしてチラリと俺を見て、無言のまま前へ歩き出した。
俺はその目に﹃手出し無用﹄の意を感じ取り、キョウさんの邪魔
をしない程度に後を追った。
キョウさんは受付の男へ歩み寄り、やんわりと言葉を掛けた。
1707
﹁どうした?﹂
受付の男は振り返り、困った表情で戸惑いの言葉を漏らした。
﹁いえね、ここにいる全員と同時に手合わせしたいと⋮⋮、そう申
されまして﹂
やはり真倉家の思考回路は単純明快で面白い。
けれど乃江さんの考えは、綾乃さんのと少し違うと思う。
美咲さんが怪我をし疲弊している状況を考えて、負担を少なくす
る為にそう言っているのだ。
決して全員と戦い勝算がある訳じゃないと思う。
けれどキョウさんは参加待ちの退魔士達を横目で見て、事も無げ
に受付の男に言い切った。
﹁6人はどうかな。だがこの4人なら問題なかろう。その子なら大
丈夫だ﹂
その言葉を侮蔑と捉え、ムッとした退魔士の男がキョウさんに睨
みを効かせた。
そして食って掛かろうとして身を乗り出そうとした矢先、すぐさ
きょう
まもう一人の退魔士に制止を掛けられた。
﹁A++の響だ、やめとけ﹂
それを聞いた男は怒りの表情をサッと消し、畏怖と羨望に満ちた
顔付きでキョウさんを見つめ直した。
キョウさんは抑揚のない声で、受付の男に聞かせる風に話し、周
りの全員に対し言葉を投げかけた。
1708
いもうと
﹁この子は義妹になる予定の娘だ。出来れば五体満足なうちに稽古
をつけてやりたいのだが、一旦引いてはくれぬか?﹂
絶妙の物言いだ。混戦であろうと一対一であろうと、退魔士達と
手合わせすれば五体満足では残れない。
それは退魔士達の腕を認めて言っている事。ランクA++にそう
言われて悪い気はしない。
逆に興味を駆り立てられるのは、4人と対峙して問題ないとお墨
付きの娘とランクA++の対戦だ。
出来ればハンディ無しで見てみたい。腕利きの退魔士ならそう思
うはず。
それに情報通の退魔士なら気づいたのじゃないだろうか。そこに
いる義経は﹃バーサーカー﹄真倉綾乃の妹だという事を。
﹁手、抜くんじゃないぞ?﹂
最初キョウさんに食って掛ろうとした男は、引き際にそう一言だ
け告げて背を向けた。
残りの三人も無言のままその場を去り、少し引いた場所で腕を組
んで見守った。
キョウさんは乃江さんを見つめ、乃江さんも納得した様にコクリ
と頷いた。
﹁︱︱義経ちゃんでお願いします﹂
キョウさんはポケットから半券を取り出し、律儀にお約束の言葉
を吐いた。いや、それは約束事ではないと思いますが⋮⋮。
俺は二人から距離を取り、美咲さんの横へと移動した。
荒い息をして俯いた美咲さんは、すぐ横へ俺が来ても顔を上げら
れず、見上げた後も声すら出なかった。
1709
﹁キョウさんと乃江さんが稼いでくれた時間です。全力で回復に努
めてください﹂
俺はそう言って欄干に掴まっていた手に手を重ねた。
ゆっくりとその手を握り込み、スカスカに霊気が抜けた肉体に霊
気を流し始めた。
﹁敵に塩を送ったのは武田信玄でしたっけ?﹂
﹁いえ、上杉謙信が武田信玄に、です﹂
息も絶え絶えだが、喋れるってのは良い事だ。
俺は霊気の放出を続けたまま、目の前の二人を見つめた。
静まり返った橋の上では、左手で兼定を持ったキョウさんと、グ
くれない
ローブを装着した乃江さんが静かに対峙していた。
乃江さんの頭の上には紅が乗っかり、なにやら小声で話している。
﹁行きます!﹂
乃江さんが軽く一礼を済ませ、両の拳を固めて踏み込んだ。
一挙動で自分のリーチまで踏み込み、右の手を引き絞り強烈な正
拳を放った。
対するキョウさんは必殺の拳を見て眉一つ動かさず、刀のリーチ
を踏み越えられて微塵の動揺すら見せない。
ゆっくりと掌を翳して拳を受け止め、キョウさんの体は微動だに
しなかった。
﹁すげぇ⋮⋮﹂
1710
自然石を叩き割る乃江さんの正拳を、蚊でも掴むように止めてし
まった。
キョウさんはその拳を固く掴み、一歩前に出て乃江さんの利き手
を捻り上げた。
乃江さんはその手を振り解く事が出来ず、苦悶の表情を浮かべて
半身捻り、死に体のまま後ろ手に固められてしまった。
完全に動きを止められた乃江さんは、もう一方の肘を使い脱出を
試みた。
だが手を固められ自由の利かない肘は空を切り、キョウさんの前
髪を揺らすのが精一杯。
キョウさんは捻りを加えた手を離し、兼定の柄で乃江さんの背を
強かに突き入れた。
一歩二歩とよろけながら乃江さんは振り返り、それでもなおキョ
ウさんに向かい突進した。
神速の踏み込みから急停止。そして捻りこんだ回し蹴りだったが、
事も無げにキョウさんに受け止められた。
その後に繰り出した数発の拳も、キョウさんの前には届かなかっ
た。
﹁乃江さんは本気ですね。キョウさんを倒す気です﹂
まだ紅との修行の成果を見せていない。完全に真倉流をキョウさ
んに植え付けさせる作戦に出ている。
美咲さんもそれに気づいているのか、この大人と子供のような戦
いを見て、余裕の笑みさえ浮かべている。
いつびっくり箱を開けるのか、それがこの戦いを左右する。そん
な気がする。
そして戦いがまた動きだした。
乃江さんが急所に狙いを定めて、なんの躊躇いも無く拳を打ち込
んだ。
1711
長考を使っても残像を纏う拳は、その他の目からは無数の拳にし
か見えないだろう。
しかしキョウさんは兼定を持った手を動かさず、右手一本で拳を
受け流している。
キョウさんの動きは本当に参考になる。
掌から受けた衝撃を手首、肘へと曲線的に逃がし、体の軸に影響
させない。
しかも乃江さんが手を伸ばし切るまでに掌に着弾させ、衝撃を緩
和する事も忘れていない。
そこまで見て深く考え始めると、立ち位置ですら幻ではないのか
と錯覚する。
このままでは体力が消耗するだけだ⋮⋮、どうする乃江さん。
乃江さんは攻撃しつつも膠着状態、頑強な城に攻めあぐねる歩兵
の様だ。
攻撃は無駄だと覚ったか、それとも違う手に打って出ようとした
のか。キョウさんとの間合いを広げ、ニヤリと笑い身構え直した。
﹁行くぞ! 紅!﹂
乃江さんの動きに刻まれていたリズムが変化した。
16ビートが32ビートへ。単調から変調へ。ただ速くなっただ
けは無く、一瞬、一瞬のリズムに変化が加わった。
だた踏み込んでいた今までとは違い、ゆっくり、速く、したたか
に。
直線的な拳は円を描く動きへと変化し、虚と実をあわせ持った変
幻自在の動きを見せた。
今までは体を打ち抜こうとしていた拳だが、受ける手そのものに
標的を変えた。
肘を伸ばし切るまでに打ち抜く短打を放ち、キョウさんの掌を捉
え始め、小さな打突音が少しづつ大きく、かすかな音が肉を叩く音
1712
を奏で始めた。
そして強烈な打撃音が空気を震わせ、キョウさんの右手は大きく
弾き返された。
流石のキョウさんも防御手段を失っては敵わない。一歩下がって
乃江さんの攻撃のリズムを乱そうとした。
しかしそんな絶好のチャンスを乃江さんが見逃すはずが無い。
息が掛るほどに身を寄せ、キョウさんの両腕の中に入り込んだ。
しかもキョウさんの靴を踏みつけ、飛び退く事すら許さない念の
入れ様。
両手を体の中心線にピタリと合わせ、乃江さんの肘が淡い光を帯
びた。
竜巻の様に体を捻り肘を左右に振るい、キョウさんのわき腹を強
く抉った。
鈍い衝撃音が一つ響き、キョウさんの体がグラリと揺れた。が、
しかし次の瞬間乃江さんが飛び退き、吹き出た血飛沫が視界を真っ
赤に染めた。
白の水干が瞬く間に赤に染まり、キョウさんの体からヌッと太刀
が顕現し、同時に姿を現した芙蓉が乃江さんを睨みつけ、血塗られ
た太刀を一振りし、血糊を拭い去った。
キョウさんのわき腹付近には、兼定の鞘が添えられ、砕けた鞘が
散り刀身を曝け出していた。
﹃無礼者﹄
真っ赤に染まった芙蓉の目は、鬼神の如く怒りに満ちている。
だがキョウさんはそんな芙蓉を止めもせず、己は剣を両手で持ち
正眼に構えて、乃江さんに対峙した。
芙蓉とキョウさん、二本の切っ先が乃江さんを捉え、それでもな
お乃江さんは、口元に不敵な笑みを浮かべている。
1713
﹁アレが出るか⋮⋮﹂
乃江さんの必殺技。俺に手解きした技の拡張形。アレなら︱︱。
キョウさんは奇声と共に踏み込み、上段から乃江さんを斬り付け
た。同時に芙蓉は胸へ太刀を突き入れた。
神速の同時攻撃を前に、乃江さんは両掌を胸の前で合わせ、胸の
ネックレスに霊気を籠めた。
淡い光が魔法陣のように乃江さんを取り巻き、上段の斬りは虚像
を斬り付け空を切った。
同時に胸元から飛び出た紅の戦士が、芙蓉の胸突きを手の甲で逸
くれない
らせ、そのままの勢いで芙蓉に肘を食い込ませた。
﹁出た、等身大の紅⋮⋮﹂
あの技は現世と桃源境を行き来する拡張形の技。
ぶっちゃけ乃江さんの馬鹿みたいな精神力を使い、ゲートをこじ
開けて周囲に桃源境を導いたにすぎない。
もちろん俺にはまだ無理な技だ。何度か試したがコツさえ掴む事
が出来ない。
乃江さんの周囲は桃源境と同じ。そこでは紅は実体化する事が出
来る。これで二対二、勝負は次の一手で決まる。
キョウさんは吹き飛んだ芙蓉を振り向きもせず、しかし追撃をさ
せまいと自分の体を割り込ませた。
目の前で身構える紅と乃江さんは、スッと深い呼吸を一つして、
キョウさんに襲い掛かった。
四つの拳同時に繰り出される烈火の如き弾幕は、一つかわしても
二つ目は身を貫き、二つかわしても全ては避けきれない。
流石のキョウさんもジリジリと後退を余儀なくされた。
そして二人の拳が一つになり、キョウさんの胸元を深く抉る一発
の拳になった。
1714
﹁︱︱︱︱﹂
しんと静まり返った橋の上で、一つの影が崩れ落ち、光は失われ
て消えていった。
くれない
立っていたのは血塗られた刀を構えたキョウさんだった。
紅と乃江さんの合体技を受け、力尽きた芙蓉は刀へと消え、血糊
を一振りで落としその場に突き立てた。
キョウさんはうつ伏せて倒れた乃江さんの身を起こし、下から上
に袈裟掛けられた傷に手を当てた。
手から発せられた霊気は、すぐさま乃江さんの傷を癒し、とめど
なく流れ出ていた血は、瞬く間に勢いを失い傷を閉ざした。
さすが次代の天野家を背負う人だ。回復の速度がハンパじゃ無い。
﹁っ⋮⋮﹂
乃江さんの睫毛がピクリと揺れ、ゆっくりと目を開けてキョウさ
んを見上げた。
そして敗北を確信したのだろうか、眉毛を寄せて悔しそうにポロ
ポロと涙を流した。
声を殺して泣く乃江さん抱きかかえ、キョウさんはスクッと立ち
上がった。
﹁治療をしてやらねばならん。俺のマンションで待っている。兼定
を頼む﹂
背を向けて立ち、俺と美咲さんにそう告げて歩き出した。
俺は乃江さんをお姫様抱っこして帰り、綾乃さんと出会った時に
どうなるのか、少しだけ気になった。
恐らくキョウさんはそんな事考えてないんだろうな。
1715
キョウさんに降りかかる災悪を想像し、心の中で無事を祈った。
﹁さてと、エネルギーを補充してもらったし︱︱﹂
美咲さんの手が俺の手から離れていった。
見送る俺に背を向けて、橋の中央に刺さった兼定を抜き、手馴れ
た刀捌きで兼定を操って見せた。
キョウさんが刀の達人だとしたら、美咲さんも手解きを受けてい
てもおかしくない。
家に道場を持つ娘だ、ありえるな。
﹁︱︱続き、やりましょうか?﹂
兼定に霊気を籠め、爛々と光る切っ先を俺に向け、美咲さんの唇
が釣り上がった。
初めて見せる美咲さんの本気の顔に、俺の体は総毛立った。
怖い? いや違う。美咲さんの本気を見たいだけだ。
美咲さんもきっと思っている。俺の修行の成果を見せろと。
俺はカナタの守り刀を引き抜き、両手で霊気を流し込み二尺三寸
の形に変化させた。
1716
﹃松原橋の義経と弁慶 04﹄
つかがしら
美咲さんは兼定二尺二寸を両手に持ち、下段の構えから脇構えへ
と変化させた。
正面からは刀を握りこんだ手と柄頭しか見えない。
剣術ではかなり変則的な構え、現代剣道では欠点だらけと称され
るの古流の構え。
だが美咲さんを知っていれば、なるほどと頷ける構えでもある。
正眼や下段の構えは足技を邪魔するし、上段や八相だと足技を併
せて構えが死ぬ。
その点脇構えは刀より人が前に出る形、足技を邪魔する事が少な
いし、刀を携えるメリットも損なわれていない。
美咲さんの脚二本だけでも脅威なのに、最後にもう一太刀攻撃手
段がプラスされる。
﹁行きます﹂
静かな掛け声と共に美咲さんが動いた。
微妙な肩の動きと脚を摺り足で動かし、俺の向けていた切っ先は、
美咲さんの喉元を外されてしまう。
静の中の動。ほんの少しの変化だが、俺には途方も無く大きな変
化に感じられた。
﹁︱︱ちょっと待った!﹂
対峙する俺達を遠巻きに囲むギャラリー。その中から待ったの声
が掛けられた。
気勢を殺がれた俺と美咲さんは、臨戦の構えをほんの少し緩め、
その声がした方向に顔を向けた。
1717
人垣より一歩前に出て手を腰に当てたのは、キョウさんに先を譲
った退魔士達だった。
﹁ふむっ﹂
なるほどだな。キョウさんには譲る約束をしていたが、俺とは取
り交わしていない。
このまま戦闘開始するのは礼儀に反する⋮⋮か。
俺は守り刀への霊気を絞り、腰に差して美咲さんの出方を待った。
美咲さんの表情は冷静そのものに見えるが、微妙に変化した口元
の引きつり具合を見て考えるに、完全に失念していたと予想される。
美咲さんは手の皺を数えるように掌を見つめ、二コリと笑って俺
に向かい小首を傾げて見せた。
﹁作戦タイム!﹂
退魔士達にタイムの合図を送り、俺の元へ滑りこんできた。
滝のような汗を掻き、餌の欲しそうな子犬の笑みを見せ、掌をそ
っと差し出した。
﹁ハイオク満タンお願いします﹂
俺との戦闘に必要な霊気しか、計算に入ってなかったらしい。
俺は差し出された手を見つめ、衆人環視の中で恥かしながら手を
握りこんだ。
もちろん脈でも測るかのように遠慮がちに。
それでもギャラリーからは殺意の波動を感じる。これで手を握っ
たらどうなっていたのだろうか。
俺は心を無にする事で集中力を高め、霊気を放出を始めた。
1718
﹁そういえばカオルさん﹂
﹁なんでございましょ、お客さん﹂
こういう時の美咲さんの発言は要注意だ。
直接手を握っているから察する事が出来るのかも知れないが、あ
くれない
まりよろしくいない事を考えているような気がする。
びじょん
﹁紅にしろ、芙蓉にしろ﹃ゴゴゴゴ⋮⋮﹄な感じでカッコいいです
よね?﹂
﹁は?﹂
生命エネルギーが作り出す、パワーある像の事を言っているだろ
うか?
美咲さんにあのシリーズのDVDを貸すべきではなかったか。
﹁わたしもゴゴゴゴ⋮⋮したいです﹂
ほらキタ。訳わかんない話。
同時に美咲さんの期待に満ちた目が、俺に何かを語りかけ始めて
いる。
何を言いたいのか分かってしまうのは、短いながらも密度の濃い
お付き合いをしたからなのだろうか?
俺は話の矛先を違う方向へと向ける為、美咲さんの持つ兼定を指
差した。
﹁兼定に霊気を籠めれば、ゴゴゴゴ⋮⋮となりませんか?﹂
キョウさんの操る芙蓉だが、霊気を籠めれば誰だって顕現させる
1719
事が出来るのでは?
美咲さんはニコニコしながら首を振り、見つめる目は俺を射抜い
ていた。
ちっ⋮⋮、芙蓉はキョウさんにしか出せないのか。
﹁カオルさん、こんな歌を知ってますか? ﹃ビスケット一枚 あ
ったらあったら ジョリィとボクとで 半分こ ♪﹄﹂
﹁︱︱!﹂
名犬ジョリーのテーマソングだった。
再放送で見た事がある。日本放送協会が放映していた物語。
ピレネー山脈で野犬化したジョリーと、少年セバスチャンが出会
い、生き別れた母を捜し求める旅に出る物語だ。
♪﹂
﹁ちょっぴり悲しく なったらなったら 涙もふたりで 半分こ ♪﹂
﹁そ、それって⋮⋮﹂
﹁退魔士4人と 戦いになって ドキドキするのも 半分こ
﹁力を貸せって事?﹂
﹁Exactly、その通り!﹂
どうやら図星の様だった。
しかしこの退魔士達は、美咲さん達の為に足を運んできてくれた
のだ。
勝手に路線変更したりするのはどうかと思う。
1720
﹁けれど退魔士さん達がなんと思うか⋮⋮。不利になったから増援
した。とか思われないですか﹂
﹁やっぱり駄目でしょうか?﹂
美咲さんはしょんぼりと俯いてしまった。
そういう態度に出られると、なにか悪い事をしたかのような気に
なってしまう。
俺は泣いている子供を見て、見ぬ振りをするかのような、酷い罪
悪感に苛まれてしまった。
そしてオロオロと落ち着かなくなり、俯いた美咲さんに一声掛け
た。
﹁あっ、いや、お手伝いします。させてください﹂
しかし顔を上げた美咲さんの表情は、罪悪感を吹き飛ばすほどお
っかない顔をしていた。
唇を噛みしめ、ゆっくりと首を振った。
﹁いえ、よくよく考えれば私の失策。身から出た錆です。最初の戦
いで激昂して全力を出したから⋮⋮﹂
美咲さんの表情に反省の色が濃く出ていた。
確かにアレは前衛として失格の行為だ。本当の戦いでなら後衛も
不利になるし、一歩間違えば全滅するギャンブルだった。
﹁反省の意味を込め、一人で倒してきます﹂
そう言ってペコリと頭を下げた。
1721
きっと誰かに叱って欲しかった。そんな気持ちなのだろうか。
俺は美咲さんの肩をポンポンと叩き、気に病まなくても良いと態
度で示した。
﹁危なくなったら手助けします﹂
しかし美咲さんは微笑を返し、劣勢とは思えない言葉を吐いた。
﹁本気の私ならキョウ兄さんにも負けません﹂
霊気を籠めていた俺の手を離れ、小さくガッツポーズを取った。
美咲さんは欄干に立て掛けるように兼定二尺二寸を置き、徒手の
まま退魔士達の方を振り返った。
﹁本当ならカオルさんに見せたかった技。︱︱見てて﹂
そう惜しむ言葉を背中越しに聞かせ、美咲さんは懐へ手を差し入
れた。
いなば
グッと握りこんだ手を退魔士達に向け、ゆっくりと広げて叫んだ。
﹁因幡さん、出番ですよ!﹂
全くしまりの無い掛け声だったが、そんな些事より眼前の光景に
目を奪われた。
美咲さんの差し出す手に集まる霊気。そしてそれが少しずつ形を
成していく。
﹁ウサ∼♪﹂
霊気が収束して一匹のウサギが形作られた。
1722
美咲さんの手の上でピョコンと立ち、身を震わせ耳を左右に動か
した。
その愛らしいフォルムとは裏腹に、目つきは悪く非常に落ち着き
が無い。
ウサギは美咲さんの手からピョンと飛び、地面に着地してシッポ
をプルプルと震わせた。
﹁四人纏めてお相手いたします﹂
美咲さんの顔から笑みが消えた。
同時にその言葉を裏づけするような戦闘的なオーラを放ち、目の
前の4人の退魔士を刺激した。
退魔士達は武器を取り出し、美咲さんに負けじと戦闘状態に入っ
た。
ウサギは鼻をヒクヒクとさせ後ろ足で立ち、キョロキョロと周囲
を見回している。
﹁!﹂
ウサギはジッと見つめる俺の視線に気が付き、ぴょこ、ぴょこと
飛び跳ねて俺の前に現れた。
いなば
そして後ろ足で立ち上がり、前足を重ねてペコペコとお辞儀をし
た。
﹁その節はお世話になりました。因幡と名付けられました。﹂
懐から小さな名刺を取り出して、よろしくどうぞと俺に手渡した。
俺は切手大の名刺を受け取り、マジマジと見つめた。
﹁肩書きの所に﹃兎﹄とあるが?﹂
1723
いなば
意味がサッパリわからん。動物霊の類だろうか。
怪訝そうに見つめた俺に対し、因幡と名乗ったウサギは言った。
﹁一枚しかないので返していただけませんか﹂
そういって手に持った名刺を引ったくり、フーと手垢を払い懐に
収めた。
そうこうしている間にも、ジリジリと美咲さんが4人の退魔士に
いなば
包囲され、身動き取る事も出来なくなっている。
いなば
﹁おい、因幡! 美咲さんの切り札じゃないのか? ご主人様がピ
いなば
ンチだぞ?﹂
指差して因幡に美咲さんの危機を知らせたが、因幡は﹃フッ﹄と
鼻で笑い、苦笑いを浮かべ手で天を仰いだ。
八の字眉と人を小馬鹿にしたような目、ワンポイントで光る前歯。
いなば
どれをとっても主人を心配する顔ではない。
﹁まぁまぁ心配しなさんな。因幡様がいれば泥舟に乗った気で⋮⋮﹂
ニヤリと不敵な笑みを浮かべ、4人の退魔士を見つめ、前足を口
に当て﹃ウシシ⋮⋮﹄と品の無い笑いを浮かべた。
一人の退魔士がスッと摺り足をして、美咲さんとの射程距離を縮
めた。
その退魔士が摺り足に体重を乗せた瞬間、受身も取れない勢いで
スッテンコロリンと転倒した。
運悪くも足元に落ちていたバナナの皮に滑り、丁度良い位置に置
かれていた漬物石で後頭部を強打した様子。
ピクピクと痙攣するも、呻き声も上げずに失神してしまった。
1724
﹁バナナの皮⋮⋮、もしやお前は﹂
﹁思い出してくれましたか? カオルさん﹂
ウサギの足のお守り。賭博師ダニエルが持っていたラビットフッ
トだ。
アレは美咲さんが﹃新月の晩﹄に﹃墓場﹄で、天に帰す予定では
なかったか?
﹁ウシャシャ。そんな怪訝そうな表情をしなさんな。むさ苦しいギ
ャンブル男から逃げることができたんだ。しばらく俗世を楽しんで
いなば
もバチは当たらない。そう思わないか?﹂
因幡の見つめる先は、残り三人の退魔士達。
ニヤリと笑い前足を軽く振り、どこからとも無くパチンと音を立
てた。
同時に立て掛けていた兼定二尺二寸が欄干の支えを失い、静かな
橋の上に大きな音を立て倒れた。
一人の退魔士がその音で一瞬集中力を切らせ、反射的に兼定の方
向を見てしまった。
﹁隙あり!﹂
美咲さんの長い脚が伸び、男の側頭部へハイキックを振り下ろし
た。
気を緩めて攻撃を食らった退魔士は、したたかに頭を揺らされて
昏倒させられてしまった。
一度ならず二度までも。明らかにおかしな雰囲気を察知し、二人
の退魔士は表情を変え、一歩二歩と後退を余儀なくされた。
1725
﹁フヒヒ、話は戻るけど、美咲ちゃんにお願いしたんだ。﹃生きる
喜びを味わう前に、人の呪いの為に殺された。悲しいウサ。せめて
思い出の一つくらい欲しい﹄とね﹂
ちっ、泣き落とししやがったのか。
いなば
美咲さん⋮⋮甘い。こいつはそんなタマじゃないぞ?
﹁因幡って言ったか? 美咲さんを舐めると痛い目に遭うぞ﹂
こいつは天性のトリックスター属性。
カードでいえばジョーカー、物事の理をかけ離れてイタズラをす
る不確定要素だ。
そんなイタズラ好きを懐柔するなんて出来っこない。
﹁いやいや、こう見えても美咲ちゃんにゾッコンさぁ。相性は最高
だし、しばらくは大人しくしている心算さ﹂
﹁︱︱相性?﹂
因幡のいう事が少し引っかかった。
なにせコイツは魔物と呼ぶにふさわしい位の存在だ。情報を仕入
れておいて損は無い。
﹁兎の特徴は後ろ足の蹴りと速さ、美咲ちゃんとオレは似た同士な
のさ。美咲ちゃんの霊気も心地良いしね﹂
そういって因幡は自慢の足で地を蹴った。
目の前で三度バク転を決め、着地と共にポーズを決めた。
1726
﹁ま、ほんのちょっとの幸運を押し売りするだけだから、いてもい
なくてもあんまり変わらないと思うよ﹂
﹁変わるわ!﹂
コイツは自分の怖さを自覚していない。
百発百中のバナナの皮は、凶器に値するほどの切れ味だぞ。
﹁美咲ちゃんと約束したからね。一杯一杯約束させられたからね。
いなば
もう悪さはしないよ、多分﹂
因幡はシュンとして、懐から紙を取り出した。
ルーズリーフを半分に切ったメモ程度のものだが、ビッシリと文
字が書き込んであった。
1、不用意に人を幸運にしないでください。
2、今まで幸運を押し売りし、不幸になった人を許してあげてく
ださい。
3、天野美咲が呼んだら困っている時です。助けてください。
ずらずらと10項目以上の箇条書きがあった。そして最後にウサ
ギの足で印を押され、契約が交わされていた。
いなば
﹃以上の約束を守ることが出来れば、天野美咲が責任を持って、
いなば
因幡さんに思い出をプレゼントしちゃいます﹄と。
﹁因幡、お前⋮⋮﹂
﹁ウササ、気に入ったと言っただろ?﹂
プィっと明後日の方向を見つめ、照れ隠しをした因幡。頬を赤く
1727
いなば
染めているのが気配で分かる。
因幡は再び戦況を見つめ、必死の様相で俺に問いかけた。
﹁戦いの邪魔をしたくないんだけど、美咲ちゃんの側に居たい。些
いなば
細な事でも手助けしたいんだ。どうしたらいいか教えてくれ﹂
因幡は二本足で立ち、前足を重ねてペコペコとお辞儀をした。
いなば
コイツの性格上、人に頭を下げるのは本当に気持ちを伝えたい時。
俺は因幡に男気を感じ、俺の思う方法を伝授した。
いなば
﹁美咲さんは動物好き、いや着ぐるみが大好きだ。ウサ耳になって
美咲さんの頭部を守るんだ!﹂
いなば
俺はビシイっと美咲さんの頭部を指差し、迷える因幡道を諭した。
いなば
因幡は﹃おおぅ﹄と感嘆の声を上げ、ピョコ、ピョコと美咲さん
いなば
の方へ飛び跳ねた。
ゆけ!、因幡。主人を守るんだ。
またた
美咲さんとの距離およそ三メートル。因幡は思い切って跳躍し、
美咲さんの頭部へ着地した。
いなば
同時に光り輝く存在へ変化し、ほんの一瞬瞬いて白いウサ耳へと
変化した。
﹁グッジョブ! 因幡﹂
そう思っているのは俺だけは無いはず。
多くのギャラリー達が声を大にして言いたいはずだ。
”お前最高!”と。
当の美咲さんはいきなり生えた耳に困惑し、フワフワとした手触
りを撫でて確かめている。
美咲さんの困った様な表情に合わせ、ピクピクと動く耳。しなだ
1728
れて見えるが時折音を拾い、ピクリと耳が持ち上がる。
いなば
そしてなにやら顎に手を当てて、コクコクと頷いている様子。も
いなば
しかして因幡と会話でもしているのだろうか。
﹁分かった、試してみるね。因幡さん﹂
美咲さんはそういって、距離を取った退魔士達に向かい地を蹴っ
た。
長考の超高速視認でさえ、美咲さんの動きを一瞬ロストしそうに
なった。
美咲さんは目標の退魔士達を飛び抜け、遥か遠くの欄干を蹴り着
地した。
もしかしてウサギの脚の力が、美咲さんに影響を及ぼしていると
か。あの異常な跳躍力を見ると、そうとしか思えない。
美咲さんは何度か跳躍を繰り返し、メキシコレスリングの空中戦
を思わせる四次殺法を繰り返した。
一度目より二度目、二度目より今。少しずつだが跳躍力と美咲さ
んの意図がシンクロし始めている。
そして再び美咲さんが跳躍し、靴底を減らしながら退魔士達の前
へ着地した。
﹁やった!﹂
目の前に飛べただけで、美咲さんの表情は喜び一色に染まってい
る。
それを好機と判断したか、二人の退魔士は武器を振り翳し、隙だ
らけの美咲さんを攻撃した。
﹁よっ!﹂
1729
美咲さんはつま先を伸ばすだけで、退魔士達の武器どころか、頭
上を遥か上に飛び越えた。
さすがはランクAの退魔士。攻撃を外されても躊躇せず、再び振
り返り着地点を見計らった。
二人の退魔士が踏んだバナナの皮を見て、俺は美咲さんの勝利を
確信した。
1730
﹃松原橋の義経と弁慶 05﹄
橋の上では負傷者が運び出され、ギャラリー達に霊気治療を受け
ている。
見た所軽い打撲で済んでいるようだが、逆にその程度で済ます事
の出来る腕の持ち主であるといえる。
タンポポ爆弾で負傷した者も、後半戦はギャラリーと共に観戦し
ていたし、さすがはランクAというべきか。
いなば
同じく橋の上で負傷者達を気遣い、心配そうに見守る美咲さん。
因幡に気を取られて戦いっぷりを見れなかったが、退魔士4人同
時格闘はキツかったのだろう。
息はそれほど乱れていないが、顔色が冴えない。
それにウサ耳の反動だろうか、膝が笑って立っているのもおぼつ
いなば
かない。まるで産まれたばかりの子馬のように膝を震わせている。
そしていつの間にかウサ耳は消え、足元で因幡が飛び跳ねていた。
﹁時間ですので、今日の所はこれまで!﹂
受付兼進行役の男が頭上で腕を大きく振り、今日のイベントが終
了した事を伝えている。
俺は砕け落ちた兼定の鞘を拾い、無造作に倒れ落ちた兼定を納刀
した。
完全に刀身は隠せないが、抜き身で持ち歩くよりよっぽど良い。
俺はTシャツの上に羽織っていたシャツを脱ぎ、そんな兼定を巻
いて人目を避けた。
﹁石山さん⋮⋮、後の事よろしくお願いします﹂
美咲さんは受付兼進行役の男に向き直り、ペコリと頭を下げてそ
1731
う言った。
男は恐縮した様子で何度も頭を下げ、お任せくださいと胸をポン
と叩いた。
この石山という男、美咲さんの、いや天野家の関係筋だろうか。
美咲さんへの気遣いというか、恐縮した振る舞いがそう匂わせてい
る。
﹁またな! 弁慶ちゃん。今度狩りに誘ってくれよ!﹂
何人かのギャラリーが美咲さんに手を振り、一声掛けて夜の闇へ
と消えていく。
音も無く静かに、いつの間にか潮が引く様に。あれだけ居た人の
ひとかど
気配が徐々に薄れ消えていく。まるで夢を見ていたようにさえ思え
る程に。
やっぱ軽薄そうに見えて、あの人達も一廉の男達なのだと再認識
させられた。
﹁美咲さん、行きましょうか﹂
﹁う、うん、そうですね。行きましょうか﹂
取りあえずキョウさんのマンションに行き、乃江さんの様子を窺
って⋮⋮、朝には嵯峨野家に帰って置かないと。
母はキョウさんのご飯を楽しみにしているし、朝食をすっぽかし
たら不機嫌になるのは見えている。
﹁キョウさんと綾乃さんのマンション、ここから近いらしいですね。
帰りましょう﹂
俺は美咲さんの横へ立ち、労いの意味で肩をポンと叩いた。
1732
しかし美咲さんはビクリと体を硬くして、泣きべそを掻きそうな
目でこちらを見つめた。
﹁あ! もしかして怪我してる?﹂
いなば
軽く叩いた程度だったが、体に障ったのだろうかとオロオロして
しまった。
いなば
美咲さんは否定の意味で首を振り、ジト目で足元の因幡を睨みつ
けた。
﹁そう言えば因幡さん⋮⋮、約束破りましたね? 不用意に人を幸
いなば
運にしないでくださいって、アレほど言ったのに!﹂
美咲さんは半べそ掻きながら、因幡へワキワキ指を動かし手を伸
いなば
ばした。
因幡は前足で耳を押さえ、美咲さんにイヤイヤをして縮こまった。
いなば
﹁み、耳は駄目∼、デリケートな器官だから触っちゃ駄目∼﹂
いたがゆ
拒絶する因幡の手を払い除け、美咲さんは耳を掴み指で撫で始め
た。
﹁あ゛∼、だめ∼、やめれ∼、痛痒い∼﹂
いなば
傍から見ると愛玩動物を可愛がっているようにしか見えないが、
いなば
当の因幡にしてみれば拷問のような行為なのだろうか。
身悶えながら絶叫する因幡と、薄ら笑いを浮かべ拷問し続ける美
咲さん。俺は止めることも出来ず見守っていた。
しかし人を幸福にしては駄目とか言っていたな。もしかしてけし
かけた俺も同罪なのではないだろうか。
1733
いなば
いなば
﹁あ∼、美咲さん? ご主人がピンチとか、ウサ耳になれと言った
いなば
のは俺でして⋮⋮、因幡は⋮⋮﹂
狂い悶える因幡に助け舟を出したが、時既に遅く、因幡は口から
いなば
泡を吹き白目を剥いて失神していた。
ピクピクと痙攣する因幡を見つめ、ふぅと溜息を吐いて俺を見上
げた。
﹁むやみやたらと幸運を押し付ける癖を治さないと、この子はこの
いなば
世で生きていけないんです﹂
いなば
美咲さんは転がった因幡を、お尻と背中で支え抱え上げた。
そして因幡の姿が消え、代わりに姿を現したラビットフットを掌
でキャッチした。
﹁説明は追々。マンションに到着するまでに分かる事ですから⋮⋮﹂
美咲さんはそう言って踵を返した。
俺はいつもと違う様子に戸惑いながら、それでも後を追う事しか
出来なかった。
松原橋を渡りきり、鴨川を北へ祇園四条方面へと歩き、美咲さん
はピタリと立ち止まり、泣きそうな顔で振り返った。
﹁わんこのウンチ踏んでしまいました﹂
恐る恐る足を上げると、美咲さんの足元には大型犬が粗相した跡
があった。
暗がりで注意散漫だったとして、一流の退魔士がわんこのアレを
踏んだりしない。
1734
それに先程から美咲さんの様子が変だったし、これはもしかして
⋮⋮。
俺は頭の中で符合する点と点を結び合わせた。
﹁ラビットフット効果ですか?﹂
美咲さんは俺にコクリと頷きつつ、アスファルトへ靴を擦り付け
ている。
そしてびっこを引くように、再び一歩二歩と歩き出しわんこのソ
レから遠ざかった。
﹁マンションまで500m程ですが、途方も無く遠い気がします﹂
うぬぬと唸り声を上げて、それでも前に歩き出す美咲さん。
先程の戦闘で使った運、その反動が今訪れているのか。漬物石が
1、バナナが3、兼定を動かして1か⋮⋮、結構ツケが溜まってる
な。
しかし待て、ラビットフットは所有者を幸福にし続けるのではな
かっただろうか。
今の所有者は美咲さんだ。不幸が訪れるのはおかしいだろう。
﹁美咲さんはラビットフットの所有者でしょ? なのになぜ不幸に
?﹂
俺の問いかけに、美咲さんは歩を止めて振り返った。
いなば
﹁幸福の蓄積は自然の摂理に反するのです。そして自然に反する存
在は淘汰されます。このままだと因幡さんは、消滅する運命にある
のです﹂
1735
恐らく身動き一つでさえ怖い状況なのだろう。美咲さんは足を踏
ん張って、常に有事の際に対応出来る様に身構えている。
そう言えばトウカもそういう事を、常々俺に言い聞かせてくれる。
トウカに助けを求めるには対価を必要とする。けれどトウカ自身
対価が欲しい訳ではない。
もし無償の手助けをすれば、俺にとって負が蓄積していくのだ。
だから対価を受け取っているのだと言っていた。
トウカとラビットフットは、先払い後払いの違いはあれ、同じよ
うなバランスの元で成り立っている。
ラビットフットは知らずの内に負を蓄積するアイテム。その本質
は所持者を滅ぼすアイテムだ。
いなば
﹁ですので、正の効果には即座に負を。過分ない様に躾けているの
ですよ﹂
そういえば美咲さんと因幡の10ヶ条の誓約。
最初の数行しか読まなかったが、﹃即座に負を﹄と誓約条項に記
いなば
したのだろうか。
そんな因幡が切り札と呼べるのだろうか?
バナナで転ばせるレベルならまあ良い。今日の戦いも死闘という
訳ではないし。
けれど命を救われるほどの幸福を受け取れば、対価は命を失う事
で支払う事になる。
それで救われる命もあるだろう。けれど美咲さんの不幸で救われ
いなば
たとして、救われた者がどう思うか。
﹁そんな因幡が切り札? 俺にはよく分かりません﹂
ウサ耳ブースト効果は確かに凄い。けれど2、3度跳躍しただけ
で膝が笑うなら使えない。
1736
いなば
俺が最初に経験した﹃強化﹄の反動と同じじゃないか。
幸運の押し売りも不幸の後払いだし、因幡の奴は使えないアイテ
ムだぞ。
﹁あの子の良さはバナナでもウサ耳でもないのですよ﹂
美咲さんは自身ありげに微笑んで見せた。
バナナでもなく、ウサ耳ブーストでもない、アイツの良さか⋮⋮。
﹁あの子はどこにバナナを置けば転ぶのか、どうすれば相手の気を
逸らす事が出来るのか、本能的に分かっているのです﹂
そう言われるとそうかも知れない。バナナの皮を置いて良いと言
われて、そう簡単に転ばせる事は出来ない。
相手がどちらの軸足に体重を乗せるのか、そういう戦術観みたい
な物があるという事か。
﹁俺に見せたかった︱︱って言っていたけど?﹂
﹁うん。純粋にこんな事も出来るんだよって。えへへ、子供っぽい
ですか?﹂
そういえば美咲さん、ゴゴゴゴ⋮⋮な状態に憧れがあったみたい
いなば
だし。
因幡を召喚出来る事を見せたかったのか。子供っぽいけど美咲さ
いなば
んらしい。
﹁因幡さんはね、ダニエルから解放してくれたカオルさんに感謝し
ていたの。一言お礼がしたいからってお願いされてて﹂
1737
いなば
そんな素振りは見せていなかったが、俺とカナタの様に心が通じ
いなば
合ってる状態なのだろうか。
あの因幡と心が。ちょっと嫌だな。
まてよ、心が通じ合う巧みな戦術観を持つ相棒って事か。因幡の
良さって奴は。
いなば
ラリーでいうコドライバーか。息が合えば結構使える奴かもな。
﹁正直4人相手って厳しくて。ちょっと因幡さんの力に期待して、
短期決戦に持ち込んだのも事実です﹂
いなば
なるほど。今の本音でスッキリとした。
因幡の負の属性を取り払うには、使ってやる事も必要なのだろう。
幸運の押し売りを加減する事を覚えさせないと、いつまでも箱入
りって訳にもいかない。
それに美咲さんが約束したのだ。ウサギであれ人であれ、約束を
反故にする人じゃないから。
﹁ちょっと待った! キョウさんに勝てるって、素の美咲さんの実
力で、って事?﹂
﹃本気の私︱︱﹄ってマジで自力の事を言ってるのか?
美咲さんは照れ臭そうに振り返り、髪の毛をポリポリと掻いて言
い訳した。
﹁ほら、兄さん怪我してましたし⋮⋮。肋骨とわき腹⋮⋮、腎臓の
辺り。乃江の強打を鞘だけで受けきれませんもの﹂
そっか⋮⋮、怪我してたから、もしかして⋮⋮か。なんとなくホ
ッとした。
って、怪我してたの? キョウさん。
1738
てか全然気が付かなかった。ポーカーフェイス過ぎっす。
﹁乃江を抱きかかえる時に、少し顔を顰めましたので間違いないで
す﹂
そう言い終わって、美咲さんが口に手を当ててクスクスと笑い出
した。
﹁兄さんって、極度のフェミニストなんです。女性を抱き抱え苦し
い顔をするなんて、男じゃないと思ってるんですよ。可笑しいです
よね?﹂
ドキリとする一言だった。
俺も男ならばそう思って然りだと考えていた。
﹁女は好いた男性の横へ並び、辛い時はお互いに支え、共に在りた
いと思っています。それは男の独り善がりってモノですよ﹂
ほぇ⋮⋮、美咲さんの一言は薀蓄あるなぁ。
男と女の意識の違いって奴か。こうして考えると大きく隔たりが
ある様に思う。
俺の周りの女性って全員強いから、守りたいという気持ちだけは
持ってるけど、実際はアレだしな∼。
﹁でもキョウさんの相方って、綾乃さんですよね。守るなんて心配
しなくても⋮⋮﹂
そこまで言って俺は口を押さえた。
ちょっと調子に乗りすぎだ。いくらバーサーカーと称される綾乃
さんだって女性なのだ。
1739
将来は肝っ玉母ちゃん、かかあ天下が確定しているからと言って
も⋮⋮。
口が過ぎたと反省し、言葉を濁して心の中でごめんなさいと謝っ
た。
﹁綾乃さんはああ見えて、凄く女らしい方ですよ﹂
そう言って美咲さんも口を手で押さえた。
﹁ああ見えて︱︱﹂
もう一度そう言い直し、俺と美咲さんはどちらからと無く笑い出
した。全然フォローになってない。
美咲さんは苦しそうに腰を曲げ、手でお腹を押さえ大笑いした。
そしてガコンと下水の蓋を踏み外し、俺の視界から消えていった。
﹁小さいドブ川でよかったですよ。マンホールだったらハイパーレ
スキューモノですよ﹂
俺と美咲さんは鴨川のほとりで、身を清めていた。
落ちた美咲さんは元より、助け出した俺も同様に下水に身をさら
した。
二人は汚れた服を川の水で綺麗にし、溜息を吐いて川原の石に腰
掛けていた。
美咲さんの弁慶装束は見事に汚れ、水の重みで動き回れない程に
ずぶ濡れだった。
俺は靴とジーンズの裾が汚水にまみれ、Tシャツには蜘蛛の巣が
1740
引っ掛かっていた。
﹁でも不幸中の幸い。わんこのうんちは綺麗になりました﹂
美咲さんは川でジャブジャブと洗った靴底を見せ、俺に満面の笑
みを向けてくれた。
月明かりの下の川遊びだったが、気持ちが吹っ切れたのかどこか
楽しげに見えた。
美咲さんは俺の上着を羽織り、あまった袖を腕まくりしていた。
大きめのシャツを着る事に慣れていないのか、落ち着かない様子
で裾を押さえていた。
いなば
俺はドブ川事件で話が途切れた、先ほどの続きを口にした。
﹁因幡と話してて戦闘をよく見れなかったんですが、修行の成果は
バッチリですか?﹂
美咲さんは腕を組んで考え込んだ。
実力を問われて自信が無いといった風でもなく、どう言って良い
のか分からない戸惑いの表情だ。
﹁綾乃さんに教わってても、虚実の激しい人だからよく分からない。
乃江と同じメニューをこなしているからモノサシにならないし﹂
大体が俺と同じか。キョウさんは雲上人で加減をしつつ手解きし
てくれる。母とは本当の俺のスタイル、両刀を構えた状態で戦えて
いない。
美咲さんと戦闘すれば成長を測れるかと思ったけど、俺も美咲さ
んも修行をしていて一つ所に留まっていない。
﹁テストの結果待ちみたいな、モヤモヤっとした気分ですよね⋮⋮﹂
1741
﹁あっ!﹂
美咲さんが何かを思い出したように声を上げた。
右手の指を一つ一つ折り、溜息を吐いて萎れてしまった。
﹁夏休み終わっちゃいますね⋮⋮﹂
﹁あ、そう言えば﹂
今年の夏は旅行に行ったし、修行もしたし、旧嵯峨野家で避暑も
したし。結構充実した夏だったな。
美咲さんは俺を横目でチラッと見つつ、分かってないなぁと小声
で呟いた。
﹁え? なにが?﹂
﹁夏休みの提出課題、殆ど手付かずですけれど⋮⋮﹂
美咲さんが人差し指を二本合わせて、うじうじと口を尖らせた。
﹁あ⋮⋮、あはは。そんなモノもありましたね﹂
俺は残り少ない夏休みで、課題をクリアする事を諦めた。
帰りたいとか言い出したらキョウさんに刺され、母に撲殺される
に決まっている。
乃江さんなら⋮⋮、乃江さんならきっとなんとかしてくれる。
月下の鴨川で力ない溜息が二つ。新学期で味わう憂鬱を思いうな
垂れた。
1742
﹃新学期 01﹄
七月ばかり、いみじくあつければ、よろづの所あけながら夜もあ
かすに、
月のころは寝起きて見いだすもいとをかし。闇もまたをかし。有
明はたいふもおろかなり。
清少納言は枕草子で新暦でいう八月の終わり、九月の初旬をこう
書き記した。
残暑の残る過ごしにくい日には、家中の窓を開け放って夜を明か
す。
月が出る頃に目を覚まし、夜空を見上げるのはとても良い。闇夜
もまたしかり。月の残る暁などは言うに及ばないと。
丁度夏休み明け、新学期を迎える気持ちを代弁してくれると思っ
たが、平安の趣きは現代にはそぐわないようだ。
どちらかと言うとこの段の方が親近感が沸く。
七月ばかりに、風のいたう吹き、雨などのさわがしき日、
大かたいと涼しければ、扇もうち忘れたるに、汗の香少しかかへ
たる衣の薄き引きかづきて、晝寢したるこそをかしけれ。
雨が降り風がキツイ日には、ほんの少し過ごしやすく扇も忘れる
ほど。
そんな時には汗が少し気になるけど、上着を打ち掛けて昼寝する
のが最高だよねという意味だ。
新学期の登校時。こんな事を考えている俺は相当ネガティブな心
理状態なのだけど、雨上がりでなくともそんな気分にさせられる。
夏休みの宿題を突貫で済ませた為、今日はかなり寝不足だ。それ
こそ昼寝どころか朝寝をやり直したい程だ。
1743
なんで朝から﹃枕草子﹄かといえば、夏休みの課題が現代語訳だ
ったからだ。
あれが一番堪えた。結局分からない所は全て乃江さんに電話して
聞いてしまった。
﹁それにしてもキツイ夏休みだったよな﹂
独りごちた俺に相槌を打つように、カナタとトウカが微笑んだ。
彼女らも俺とは別の精神修養を行い、一皮剥けたと言っていたの
だが、その成果はいか程のものなのか。
俺はといえば、美咲さん乃江さんと松原橋で再会し、それぞれが
行ってきた修行の質を垣間見た。
特に前衛に求められるのは、確かな攻撃力と揺ぎ無い自信だ。
俺はその両方に手が届きそうで届かない、そんなレベルまでは来
れたと思う。
日本屈指の退魔士キョウさんと、自称ロートル、けれど現役より
腕が確かな母に教わり、過ごしてきた時間は無駄ではないと言える。
揺ぎ無い自信とは言えないけど、それ以上の修行は無いはずだか
ら。
﹁また牧野に手合わせしてもらうか﹂
短剣と棍、徒手と符。相性は最悪の部類に入る牧野だが、女性と
戦うより気兼ねない。
美咲さん達と戦って思う事だが、傷つけたらと思う気持ちが先に
立つ。それ故にもう一歩先に踏み出す事が出来ない。
だから徒手には徒手を体術には体術をと、決して刃物を向ける事
は無かった。
けれどキョウさんは義妹になる乃江さんと戦い、思惑はどうあれ
斬って勝負を終わらせた。残念ながらあの厳しさは俺には無い。
1744
美咲さんもキョウさんを引き合いに出して、﹃男女対等であるべ
き﹄と言い出したのは、暗に驕りを嗜めようとしたのかも知れない。
本気の美咲さんを感じる事が出来たのは、俺が刃を向け立ち塞が
ったからだと思う。
俺が本気であるならば、キチンと本気で返してくれるという事な
のだろう。
﹁俺に一番足りてないのは厳しさか﹂
溜息を吐いて校門をくぐった。
﹁俯いていたって仕方なかろう、シャンとしろ。胸を張れ﹂
﹁胸を張っていた方が見栄えがいいぞ﹂
頭の上の神様達は勝手な事を言っている。
けれど俯いていたって仕方ないのは分かる。
俺の状態がどうあれ、どうするか、何を成すか。そしてどう終わ
らせるかだ。
暦通りに動くなら、日本退魔士界を抑え込んだ米国がそろそろ動
き出す。
秋月と同調する天野、真倉、山科、宮之阪家
魂喰いと俺達美咲小隊、取って代わろうとする米国の奴ら、反抗
勢力の首領である邱
の存在。
俺達は今、台風の目にいる。色々な思惑が交錯する渦の中心に。
﹁よっし!﹂
俺は教室に入り、懐かしささえ感じるクラスメイトを見回した。
小麦色に焼けた者、青白い者、取り巻く仲間と大声で話す者、机
1745
に突っ伏して寝ている者。
その突っ伏す者の一人、俺の友人牧野は相変わらずのようだ。
俺は牧野の横を通り過ぎながら、クラスメイトに気づかれぬ様に
裏拳を叩き込んだ。
﹁!﹂
牧野はさも当たり前のように手で拳を受け止め、ゆっくりと顔を
上げた。
俺達が修行に追われた様に、当然コイツも相応の事をやっている。
握りこまれた手から感じるプレッシャーは並みの迫力じゃない。
いつでも握りつぶしてやると、俺の拳に万力のような力を籠めて
くる。
俺はその手を﹃虚ろ﹄にする事で、スルリと牧野の手から逃れた。
﹁︱︱面白い芸を身に付けてるじゃないか﹂
伊達に日本最高の退魔士に師事していない。
ぶっちゃけ女に甘いキョウさんだが、こと男には容赦は無いのだ。
何度命を落としそうになったか、数えればキリが無い。
その体験が成長を早め、今ではキョウさんの居合いにだって、﹃
虚ろ﹄を合わせる事が出来る。
﹁技名はまだ無い。ネーミングライツは乃江さんにあるからな﹂
ピリピリとするほどに威圧感を感じる。俺が牧野に与え、牧野が
俺に返す殺気に似た試しの気。
俺は牧野の進化を実感し、クスリと笑って背中をポンポンと叩い
た。
1746
﹁頼りにしてる﹂
﹁ああ、片付けちまおうぜ。ケチが付いちまう前に﹂
9月の初旬から末日までに、アメリカ側のハンターへの引継ぎを
しなくてはならない。
双方の思惑はどうあれ、魂喰い案件の早期解決、これが最大の目
的のはずだ。
俺達は引き継ぎながら、同時に探索も手を抜けない訳だ。
表向きには俺達が撤退、そしてアメリカ側が本稼動するまで、一
ヶ月の空白期間が生まれる。
この一ヶ月はいつも以上に辛い毎日になるはず。
﹁お前のばあちゃんが出張って来てるからな。顔出しもやむなしだ
と思ってくれよ﹂
﹁ああ、ファントムは降板かもな﹂
俺はその言葉を聞き、牧野に背を向けて自分の席に着いた。
牧野がいてくれて心強い。
試験前に屋上で戦い感じたあの強さは本物だ。強さもそうだがし
ぶとさ、生き残ろうとするスキルの高さは目を見張る。
強さと安定性は俺が追い求めている形の一つだから。
﹁カオル⋮⋮、なにやら生徒が浮ついておるの﹂
頭の上でカナタが不思議がっている。
まぁ、そりゃアレだ。始業式と頭髪検査、服装検査、ホームルー
ムがあって今日は終わり。
ついでに席替えをして半ドンで終わりだし。
1747
﹁ふむ、考えている事でなんとなく理解出来た。それで守り刀を送
っておいたのじゃな?﹂
服装検査とか生易しい。俺の場合銃刀法違反になるから。
桃源境行きの護符を数枚作り、ポケットに忍ばせてきた。
あれはもう俺の体の一部になりつつある。腰の辺りがスースーし
て落ち着かないから、検査終了したらすぐに取り戻そう。
予鈴が鳴り響き生徒が一人、一人と自席に戻っていく。
そしてまもなく担任が来て、教室の扉を引き開けた。
﹁あれ?﹂
慣れない手付きで引き戸を開けたのは、担任ではなく教頭だった。
うちの担任は健康だけが自慢の教師だったが、オフ明けいきなり
欠勤ってマズイだろう。
クラス全員がそう思ったであろうタイミングで、教頭がバーコー
ドの頭をかき上げて口を開いた。
﹁え∼、田中先生は急遽産休に入られました。今日からは非常勤で
着任された先生に、クラスの担任になってもらう事になりました﹂
ちょ、ちょっと待て。産休って夏休み前には恋人すらいないとか
嘆いていたぞ?
それにハツカネズミじゃないんだから、一ヶ月そこそこで産休は
ないだろう?
俺は十人並みの顔をした田中教諭を思い出し、膨らんだお腹を想
像できなかった。
それに非常勤の教師がいきなり担任って⋮⋮。ありえんだろう。
1748
﹁えぇ∼、ゴホン! 入りたまえ﹂
教頭が教室の扉に向かい、新任の教諭へ声を掛けた。
元気良い音を立て教室の引き戸が開けられ、クラス全員の視線が
集中した。
濃いグレーのリクルートスーツに黒のパンスト、茶色のローファ
ー。赤のメガネにショートカットの髪。
﹁ありえねぇ﹂
牧野が机に突っ伏し、俺は目が点になった。
男子生徒がゴクリと生唾を飲むほど、色っぽく美しい。女子生徒
も同性を見る目で見ていない。
その教諭は物怖じせず教壇に立って、大きな声で挨拶をした。
﹁おはようございます、皆さん。産休に入られた田中先生に代わり、
秋月の恐ろしさを身を持って感じていた。
Bクラスを担任する事になりました︱︱﹂
俺は邱
秋月だけではない、天野、真倉家の﹃本気﹄の意味が理解出来た。
﹁真倉綾乃と申します。よろしくね!﹂
綾乃さんは軽くウインクをして身を捩った。
そんな軽いノリの綾乃先生を見て、教頭が叱責するのかと思った
が、人差し指でポリポリと頬を掻き、照れたような表情を浮かべて
いた。
駄目だ⋮⋮、洗脳完了済みだ。あのお堅い教頭が骨抜きになって
いる。
俺は産休に入った田中教諭を思い、ため息を吐いた。脅迫された
1749
か⋮⋮、札束で叩かれたか。恐らく後者だろうな。
﹁という事だ。あとの事は真倉先生に任せるとして︱︱﹂
教頭はそそくさと教室を後にした。
残された綾乃さんは教室の生徒を見回して、非常勤だと思えない
堂々とした態度で咳払いをした。
﹁私の事を聞きたいだろうけど、恐らくは想像通り、A組の真倉乃
江の姉です。年齢は聞いたらダメよ?﹂
生徒達も綾乃さんに身構える事は無かった。相槌を打つように頷
いて綾乃さんの言葉を聞き入っていた。
綾乃さんの砕けた態度を見て気を許したのか、乃江さんの姉だか
ら油断したか。
いや、違うな。先生っぽくないからだろう。本当に教員免許もっ
てるのだろうか?
﹁婆ちゃん⋮⋮﹂
牧野が突っ伏した状態で、机に頭を何度も打ちつけた。
その奇行に気づいているのは、俺と牧野の隣に座る福島さんだけ
だった。
﹁あわわっ﹂
福島さんは狂気のオーラを発した牧野を見て、オロオロとするば
かり。
気遣い手を差し伸べる事も出来ず、泣きそうな顔をしている。
1750
﹁そこ! 自虐行為をしている少年! えっと牧野君、隣の子が怖
がってるよ﹂
綾乃さんがビシイと指差し、片手でファイルを見る素振りをした。
当然牧野の事も知ってるんだと、その一瞬の動作で察知した。
用意周到⋮⋮調査は万全って訳か。
そしてファイルをパタンと閉じ、生徒の注意を引くように大きく
咳払いを一つした。
﹁新任の先生だけじゃなく、新しく勉学を共にする仲間が増えまし
た。いわゆる転校生ってヤツね﹂
そう言って教室の引き戸を開け、廊下に向かい手招いた。
俺はその生徒の姿を見る前に、教室に飛び込んできた妖精を一目
見て、牧野に習って机に突っ伏した。
妖精イリスは一瞬で俺を判別し、突っ伏した俺の顔の前に飛んで
きた。
﹁カオル∼ キャンディちょうだい∼﹂
俺は軽い頭痛を感じつつ、教壇の横に立つ少女に目を向けた。
ソフトソバージュで足元までの超ロングで金髪。
白い靴下に小さな革靴、青の瞳を生徒に向け、少しオドオドとし
た様子を見せ、まるでフランス人形の様に立っていた。
見た目小学生の風体で、高校の制服がとても違和感を醸しだして
いる。
﹁アンジェリカ=チェンジリングさんね。﹃アメリカ﹄からの留学
生でスキップしまくりなの。小さいからって虐めちゃ駄目よ?﹂
1751
綾乃さんはアメリカを強調し、俺にウインクを向けてきた。
あっ、あれか⋮⋮、交代要員。
チェンジリングだとは思わなかったが、ある意味一番状況を掴ん
でいるのは彼女だもんな。
チェンジリングは救急箱のような、取っ手付きの木箱を両手で持
ち直し、ペコリと頭を下げて挨拶をした。
﹁よろしく⋮⋮、お願いします﹂
たどたどしく装った日本語だったが、初めて会った時より発音が
洗練されている。
綾乃さんは教室を見回し、俺と目が合った。
そしてニヤリと笑い俺の隣の席を指差し、チェンジリングに促し
た。
﹁チェンジリングさんはあの席に座って﹂
えっ? この席は中野君の席では?
そう言えば中野君の姿が見えないが⋮⋮。
俺が思う程クラスメイト達は不思議がらなかった。まるで初めか
らある空席の様に、俺の横を見つめている。
チェンジリングはトコトコと歩き、空いた机の上へ大事そうに薬
箱を置いた。
そして俺を一瞥して、何事も無かったかのように席に座った。
﹁よろしく﹂
俺だけに聞こえるように呟き、ペコリと頭を下げた。 1752
1753
﹃新学期 02﹄
チェンジリングは挨拶を済ませると、教室の中をゆっくりと見回
し、牧野へと視線を移した。
牧野もその視線に気が付いたようで、キョトンとした顔でこちら
を見ている。
﹁マキノ、こちらへ来い﹂
教室中に響き渡る少女らしい高い声。
綾乃さんの声を霞ませるには十分な声量で、一文字一句明瞭な日
本語でそう手招いた。
﹁おいおい⋮⋮﹂
他人事ながらも世間知らずな振る舞いに、俺は身を竦め綾乃さん
の方を窺った。
こら、君達!なんて叱責の言葉が飛んでくると思ったが、何故か
綾乃さんからは一言もお咎めが無かった。
﹁あれ?﹂
それどころか教室内で、こちらを向いている生徒は一人もいない。
綾乃先生は本日のスケジュールを黒板に書き、ニコニコ顔で注意
事項を伝達している。
俺は牧野と目を合わし、この不可解な現象に首を傾げた。
﹁呼び名が違うと返事もしないのか? ︱︱ファントム?﹂
1754
いきなりの爆弾発言に、流石の牧野も焦った様だ。
ダッシュで駆けつけチェンジリングの口を押さえつけた。
﹁何言ってやがんだ!﹂
普段何事にも動じない牧野だが、流石に教室で暴露されるとは思
っていなかったのだろう。
マッハに近いスピードですっ飛んで来て、押さえ付けたチェンジ
リングに睨みを効かせた。
﹁あうっ⋮⋮、慌てるなっ! 周りをよく⋮⋮﹂
牧野の指の隙間から、やっとの思いで声を発したチェンジリング。
そう言われて、俺と牧野はハタと気が付いた。
大声を上げ転校生を押さえつける牧野、抵抗しジタバタと暴れる
いじめよくない
チェンジリング。
こんな珍奇な風景を、教室の誰もが見ていない。いや、全く気に
もしていない。
﹁結界の類か?﹂
牧野はチェンジリングに問い掛けた。
綾乃さんは講堂へと向かう時間を黒板に書き、苦笑しながら始業
式までの時間を持て余していた。
アットホームな先生と生徒の会話の中、俺達だけが切り取られた
ように別の場所に居る。そんな感じがする。
﹁結界とはまた違う。﹃ほんの少し自由を与えられた空間﹄、とで
もいうか⋮⋮﹂
1755
俺はチェンジリングとの共通の記憶、その中で同様の現象を一度
体験している。
ポルシェカイエンに追っかけられた時の事だ。
県下の主要道路でありながら、車の通らない北向きの国道。虫さ
えも息を潜め静まり返った、あの異質な空間の事を。
あれもチェンジリングの能力の一端だったのか。
﹁てことは何か? ここで俺達は何でもアリって事か?﹂
飲み込みの早い牧野が周囲を見渡して、押さえつけていた手を緩
めた。
ニッと笑うその顔は、またろくでもない事を考えているのだろう
と、容易に想像できた。
﹁教室位の広さなら、二つ三つの約束事を決める事が出来る。ここ
にいる三人の自由と無関心⋮⋮﹂
チェンジリングが言い終わらない内に、牧野が嬉しそうに雄たけ
びを上げた。
﹁真倉先生の胸にタッチしても︱︱!﹂
﹁いや、それは流石に⋮⋮﹂
チェンジリングの返答を聞き、ガックリと肩を落とした牧野。
表情から思考回路が読み取れる。恐らく﹃使えねぇな、コンチキ
ショウめ!﹄などと考えているのだろう。
﹁一体どの程度までオッケーなんだ? この中途半端な結界使いめ
!﹂
1756
いや⋮⋮牧野よ、十分凄いと思うんだけど。
仮にも退魔士ランクA+の綾乃さんを封じているんだぞ?
行動自体を制限できている訳じゃないけど、感覚のごく一部を封
じているだけでも凄い事だ。
﹁試してみればいいじゃない。どの程度か﹂
ニヤリと笑い牧野と俺を見た。
そんな﹃ライオンに噛まれない距離﹄を知ろうなんて思わない。
1mまでOKだって分かってどうする?
そうと分かっていながらも、何故か言葉通りに試さずにはいられ
ない。
牧野もそれをチェンジリングの挑戦と受け止めたのか。すぅ∼と
深呼吸をして、とんでもない事を言い出した。
﹁真倉先生のパンツはペパーミントグリーン色!﹂
牧野はちょっと身を竦めて、ゆっくりと目を見開いた。
そして勝者の笑みを浮かべ、俺に向かい顎をしゃくった。
﹁え?﹂
﹁次、カオルな﹂
﹁なんでやねん⋮⋮﹂
友人としての阿吽の呼吸が、このゲームのルールを把握させた。
言葉のチキンレースだ。よりシビアな言葉で綾乃さんを刺激し生
還するという。
1757
1メートルなら、次90cm、その次はそれより厳しい条件で⋮
⋮。
みそじ
俺は無い知恵を絞りながら、地雷を踏まないギリギリの言葉を選
んだ。
﹁四捨五入すれば三十路!﹂
綾乃先生の額にプクリと青筋が立った。ほんの一瞬だが、ナチュ
ラルな怒気が教室を包み込んだ。
実際の歳は四捨五入すると二十歳らしいのだが、あえてソコを踏
み込んでみた。
女性に歳の話は禁句だから、近未来そうなる女性の焦りみたいな
ものを突いてみたのだ。
そして俺はギリギリのラインに踏み込み、生還出来た事を神に祈
った。
﹁牧野﹂
﹁お、おおう⋮⋮﹂
アレがOKかよって表情を浮かべ、滝のような汗を掻いて生唾を
飲み込んだ。
そして顔面蒼白、死相さえ浮かべかねない決死の表情で、ボソリ
と呟いた。
﹁妹さんとの違いを発見! それはウエストのサイズ!﹂
黒板に本日の注意事項を書き記していた指先がピタリと止まり、
チョークが垂直に押し潰され、黒板がガタガタと音を立てた。
咄嗟にチェンジリングの後ろに隠れた牧野だったが、綾乃さんが
1758
見せた笑顔を見て、ホッと胸を撫で下ろしていた。
無論、最前列のクラスメイト達は怒気にあれてられて、涙目にな
っている事は間違いない。
﹁ごめん、もう無理っす﹂
﹁勝った!﹂
不毛な勝利に酔いしれる牧野、そして何故か敗北に打ちひしがれ
る俺。
そして再びハタと気が付いて、俺と牧野でチェンジリングを押さ
えつけた。
﹁むぎゅ!﹂
この馬鹿な行動は俺達の意図した事ではない。何か強制する力が
働いたと感じたからだ。
当然それはチェンジリングの能力の一端。綾乃さんが受けている
制限と同質のモノだ。
﹁テメエ、怪しげな術を使いやがって!﹂
チェンジリングの頭を押さえ、机に擦り付ける牧野。
当然端正な顔は押し潰され、タコの様な口をしながら涙を流して
いる。
散々擦り付けて机が綺麗なった所で、牧野はチェンジリングを開
放した。
﹁自己紹介しただけなのに⋮⋮。 これから仲間になる貴方達だか
ら、私の能力を知っておく必要があると思って⋮⋮﹂
1759
チェンジリングは俺と牧野に向かい、またとんでもない事を言い
出した。
俺達がチェンジリングの仲間に?
米国の手先になって、共に狩りをしろと?
﹁不思議そうな顔をしなくてもいいじゃない。会社の買収でも社員
を全員クビにする事は無い。使える人材は残し、使えない人材は切
るもの﹂
クスリと笑い俺達の無知を嗜めた。
けれど美咲さん達ではなく、俺達を選ぶ理由が分からん。
しんちゅう
実力伯仲の中で選ばれるならともかく、正直俺は引き抜かれる程
の実力は持っていない。
﹁何故、俺達なんだ?﹂
受ける受けないは別として、チェンジリングの心中を測らねばな
らない。
今の所米国との間に出来た、唯一の情報交換の場だから。
﹁魂喰いが気にしているから﹂
チェンジリングは頬杖を付いて、俺の目を見た。
気にしている? 言っている事がいちいち回りくどい。意味が分
からん。
しかし牧野は直立不動で立ち、納得したように頷いて見せた。
﹁俺もカオルも魂喰いに狙われた。しかし彼女らにはそれが無い。
そういう事か?﹂
1760
チェンジリングは微笑を湛え、牧野に対し軽く頷いた。
確かに俺は葵を拉致され、牧野は亜里沙さんと一緒に襲われた。
あえて狙うという事は、他には無い何か、危機感みたいなモノを感
じたという事か。
﹁﹃近い﹄、﹃遠い﹄でいうと﹃近い﹄、﹃快適﹄か、﹃不快﹄か
だと﹃不快﹄だという事ね。パーソナルスペースを侵されたと予想
してるの﹂
そしてもう一度、彼女らにはそれが無いと念を押し、ヘッドハン
ティングの理由として挙げた。
次の言葉を聞き、チェンジリングの本気を知る事になる。
﹁ハンターとして送り込まれたのは私一人、残りは現地雇用する心
算。貴方達もクビになるより、共闘する方がいいでしょ?﹂
確かに米国に案件を掻っ攫われた事例が残れば、日本の退魔士界
は大きな影響を受ける。
秋月もそれを懸念して
一つの事例は次への布石、一度許せば二度、三度、そしてそれが
当たり前になる。
東アジアを牛耳ってる牧野の婆さん、邱
動き出した。
だがチェンジリングの言う様に、共闘ならばどうだろうか。反発
勢力をそれほど刺激はしない。
これも米国の作戦なのかも知れないな。
﹁ふむ。納得はいかんな﹂
﹁右に同じ﹂
1761
俺は牧野の言葉に同調した。チェンジリングの言葉に説得力が無
いからだ。
どうして、どうやって、どうするといった、解決への方法論が盛
り込まれていない。それでは人の心を動かす事は出来ない。
俺と牧野の視線に耐えかね、チェンジリングは溜息を吐いた。
﹁ファントムを押さえれば、反抗勢力を抑止出来る。カオルを押さ
秋月は目立った妨害には出ない
える事で、前任者達の協力を得る事が出来る。⋮⋮そう思った﹂
確かに牧野を手元に置けば、邱
だろう。
それは俺にしても同様だと言える。母さんは様子を見るだろうし、
美咲さん達も⋮⋮。チェンジリング、なかなかの策士だな。
言っている言葉、それが本当か嘘かなんて本人にしか分からない。
けれどチェンジリングの言葉には、俺を納得させるだけの説得力
があった。
﹁もう一つ聞く。お前達の目的は、魂喰いの遺伝子か?﹂
俺は最大の懸念点を確認した。もしYesならば魂喰いと同様、
敵対勢力と見做さなければならない。
チェンジリングは涙目で俺を睨み、端正な顔を引き攣らせた。そ
してゆっくりと否定の意味で首を振った。
﹁私の目的は仲間の無念を晴らす為、ケジメをつけたいだけだ﹂
こと、男は女の涙には弱いというが、チェンジリングの見せた悔
し涙は、俺の心を氷解させた。
魂喰い案件を解決したい気持ち、それは俺達と同じと思っていい
1762
かもしれない。
﹁奴の居場所を見つける方法はあるのか?﹂
俺は一番気になった疑問をぶつけてみた。
チェンジリングは首を曖昧に振り、YesでもNoでもない返事
をした。
﹁私の能力は周囲の空間に強制力を持たせる力。狭ければ強く、広
ければ希薄に。簡単な強制力を働かせる事が出来る﹂
チェンジリングはそう言って、机の上に置いてある薬箱を俺達に
見せた。
薬箱っぽく見えたが、中には簡単な仕切りが施され、フェルトで
作られた人形が幾つも入っていた。
そして指先を彷徨わせ、一つの人形をつまみ上げ、机の上に置い
た。
﹁アビゴール﹂
背広を着て黒いサングラス、口はナミ縫いで閉じられた人形。素
材は違えどブードゥ人形の様な不気味さを感じる。
アビゴールと呼ばれたその人形は、ピクピクっと動き出し、机か
ら起き上がった。
サングラスを指で直す仕草をして、手を胸の前に置き、品の良い
執事のような物腰で挨拶をした。
﹁これ⋮⋮、もしかしてあのアビゴール?﹂
チェンジリングはコクリと頷いて、アビゴールを箱の中に戻した。
1763
まだいろんな種類の人形が入っていたが、それらもアビゴールと
同様のモノなのだろうか。
﹁結界使いで人形使いか。差し詰め結界内で使えるゴーレムの様な
ものだろう? ついでに言えば強制力を使い具現化するとかさ﹂
牧野がニヤリと笑いチェンジリングに問いかけた。いや、断定し
た。
チェンジリングは肯定しない代わりに否定もしない。正解だと言
っているような物だ。
強制された空間を構築出来、人形に戦闘をさせるタイプか。中・
長距離型、遠距離支援タイプだな。
敵の能力を殺ぐ程の強制力を働かせれば、戦闘を有利に進める事
が出来る。こいつは結構厄介な能力だな。
しかし﹃教室位の広さなら、二つ三つの約束事を決める事が出来
る﹄と言っていたし、広範囲になれば約束事が減るか、効果が薄れ
ると予想される。
﹁最後に、なぜ前任者を雇わない? お前が思うほどあの人達は無
能じゃないぞ?﹂
有能な者からヘッドハンティングするのが定石だと思う。
先ほどの言葉の中で一番納得がいかない部分。定石に従わないチ
ェンジリングの思惑が知りたい。
﹁報告書によると魂喰いは﹃彼女らと遊んでいる﹄と記載されてい
た。ならば行動を共にするのは悪手、私の手の内を曝すようなもの
だと思う﹂
チェンジリングはそう言って目を伏せた。
1764
なるほど⋮⋮、チェンジリングの能力は、正面きってねじ伏せる
能力ではなく、どちらかというとハメ技に近いものだ。
それに退魔士は能力を知られる事を嫌うものだ。種が分かれば手
品で無くなるからな。
そうと分かりながらチェンジリングは俺達に種明かしをしてくれ
た。彼女の真摯な気持ちが伝わってくる。
﹁今夜から行動を起こそうと思う。賛同するなら声を掛けてくれ﹂
その言葉を聞き、牧野が無言で背を向け自席に戻った。
丁度そのタイミングでラジオの変調のようなノイズが耳に入り、
綾乃先生とクラスメイト達を身近に感じた。
﹁強制力が解除されたか﹂
そう一人ごちて窓の外を眺め、頭の中で今の事柄を整理し始めた。
一度美咲さんに相談し、判断を仰ぐか。
いや一度対米対策で団結した雰囲気を殺ぐ事にならないだろうか。
あるいはちょっとした雰囲気の違いを覚られる可能性も捨てきれ
ない。
それに報告をした場合、チェンジリングの意図に反する事にもな
る。
では拒絶するか。
恐らくコイツは一人でも行動を起こすだろう。
イリスの持つ霊気を見る能力、コイツのいう空間の強制力をうま
く使えば、見つける事が出来るかもしれない。
では魂喰いと対戦した場合に、確実に勝てるのか。︱︱NOだな。
恐らく殺されてしまうだろう。
1765
じゃあ同意するのか。
美咲さん達に内緒で動くのか?
俺とチェンジリング、そして牧野が入ったとしてどこまで三人で
行動が可能か。
魂喰いの居場所の探索、これはなんとかなるだろう。
魂喰いと戦闘。これは戦力不足と判断する。
美咲小隊と戦力を二分して、気取られずに位置の特定をする。そ
こまでなら協力は出来そうだ。
﹁けど断り無しに行動したら、何言われるか﹂
俺の思考は堂々巡りを続け、結論が出ないまま時間だけが過ぎ去
っていった。
放課後。
俺は鞄を持ち、教室を後にした。
靴を履き替え昇降口を出て、一人歩く少女の姿を遠くから眺めた。
﹁カオル! 行かんのか? 腹は決まっておろう?﹂
腰の守り刀から心に響く声が聞こえてきた。
一日考えて決めた事だ。チェンジリングに結論を伝えよう。
俺は金髪の少女を追いかけ走り出した。
﹁カオル!﹂
1766
走る俺を先にイリスが見つけ袖、主の袖を引っ張った。
涙で赤く腫れた目を向け、驚きの表情を向けたチェンジリング。
気持ちが通じなかった悔しさからか、それとも仲間の死を思って
涙が出たのか。やはりコイツは危険なほど思い詰めている。
﹁俺はやっぱり仲間を裏切る事は出来ない﹂
俺は素直な気持ちを伝えた。
チェンジリングも半ば諦めていたのだろう。それほどショックの
色を見せず、コクリと頷いて了承した。
﹁けど、危なっかしい奴を放置出来ない。仲間には無断でソイツを
見張る事にする﹂
チェンジリングは言葉の意図を汲み取れず、キョトンとした表情
で首を傾げた。
﹁で、そいつが危ない目に遭わないように、側にいて手助けしよう
と思う﹂
俺はチェンジリングの肩をポンと叩き、背を向けて一歩歩き出し
た。
耳を澄まさないと聞こえない程の感謝の声と、不安げで弱々しい
少女の嗚咽が背中に響いた。
1767
﹃新学期 03 ユカ+﹄
退屈な始業式とホームルームが終わり、生徒は放課後すぐに学校
を後にした。
人影まばらな校舎の渡り廊下。上から生徒達の帰る姿を眺めつつ、
物憂げな気分になり溜息を吐いた。
でば
予想されていた事だが、新学期早々から取り巻く状況が一変した。
大胆かつ計画的に、綾乃さんが教諭として出張って来た。
当然ケツ持ちは派遣されると思っていたが、あんな方法で潜り込
んで来るとは思ってもみなかった。
それにカオルのクラスに怪しい生徒が転校して来てるし、アレは
ちち
うちらの後任者と見るべきだろう。
﹁乳の姉さん、手伝ってくれるんとちゃうんか?﹂
周囲を取り巻くつむじ風、グラビティが不謹慎な言葉を口にした。
ケツ持ちって事は、最悪の結末を想定しての事。
うちらがアカン時の尻拭い、綾乃さんにはほんま嫌な役目をさせ
てしまった。
チチにケツって⋮⋮。
下品な言葉で笑いを取るのはうちの流儀やない。軽くツッコミた
しんがり
い所だが、気が付かなかった事にしておこう。
﹁そんな訳あるかいな。殿の役目や。うちらだけやと不安なんやろ
? 雲上人は﹂
うちよりショックなんは、美咲や乃江やろな。
1768
妹の尻拭いで兄貴や姉が出張ってきたら、やりにくいやろし。
なにより急かされてるみたいで、普段の平静さを保つだけでも一
苦労や。
勉強せいって耳元でがなり立てられているようなもんや。ヤル気
も根気も失せてまう。
﹁しっかし、なんで見つからへんねやろか、魂喰いの奴﹂
声に出して考えてみても、行き着く答えはもう見つかっている。
うちらの思慮の範疇外、網の目の隙間にアイツは居るのだ。
届きそうで届かない所、すぐ側かもしれないし、地球の裏側程に
遠い所かも知れない。
よくある事だ。家の鍵が見つからない、大事なアクセサリーは何
処にいったのやろか?
見つけて初めて納得のいく場所にあるものだが、探す際には﹃こ
んな所に置いたはずは無い﹄という場所にある。
横山のヤッサンやないけど、﹃メガネメガネ﹄のメガネは頭の上
って事や。
﹁こういう時は切り替えが必要なんや﹂
自分に言い聞かせる様に何度もそう呟いた。
うちの話し相手であるつむじ風が、人の気配に反応して掻き消え
た。
﹁おまっとうさん﹂
柔らかいテノールの声が渡り廊下に響いた。 うちが声を掛けた理由も薄々分かってるやろうに、せやのに平然
とした態度で接してくる。
1769
相当図太い神経しとるんやろな、でないと⋮⋮。
﹁よう来たな、牧野君﹂
牧野君はニコリと笑い、何か用とでも言いたげな表情をしている。
最後の最後までとぼけるんやな。ほんまに食えん奴っちゃ。
ファントム
﹁素直になったら話も早いのに。うちのお母はんから全部聞いたで
? 牧野はん﹂
オーストラリアから帰って、真琴と二人で帰郷した時の話や。
事の顛末を聞いた時には、顔から火が出るほど恥ずかしかった。
家出同然の娘が心配だったという理由はよく分かる。
うちのお母はん、豪胆に見えて繊細やし、ガスの元栓確認するま
で家を留守にできひん人やから。
けど許されへんのはそんな所や無い。
問題なんは、断り無しで護衛付けた理由の一つや。
﹃色男の退魔士やったら恋に落ちるんちゃうかと。ついでに実家に
帰るかと﹄
うちのお母はんはそんな余計な事を考えとったらしい。過保護も
行き過ぎると毒にしかならん。
うちは家を出て一年以上の間、自分で生活出来てると思ってたん
や。
けれど結局はお母はんの手の中で泳がされとった訳や。恥かしい
やら情けないやらで、美咲らに顔向けが出来ん。
﹁依頼主から情報が漏れたか﹂
1770
牧野はニヤリと悪びれない微笑みを浮かべた。
隙だらけに見えてピリピリと感じる殺気、当初は武道を嗜んでい
るせいやと思っていた。
けれどそれは隠れ蓑だったんやろか。
美咲を上回る思慮の持ち主にして、近接格闘の達人。
うちが持つファントムのイメージは、そんな断片的な情報だけや
った。
けれどお母はんから、﹃魂喰いに狙われた﹄という事を聞かされ
た。
うちらに無い焦燥感みたいなモノ、ファントムは魂喰いに与えた
訳や。
うちは美咲小隊に足りないパーツとして、ファントムの情報が必
ファントム
要やと思っている。
﹁牧野の力を借りたいと思てんねん。手を貸してくれるやろ? 雇
ファントム
用者の契約を守るのがプロ。そしてあんたに仕事へのプライドがあ
るのなら﹂
うちの台詞を聞いて、目をパチクリとさせる牧野。
笑う口元を手で押さえ、目を逸らして抑えきれない感情を噛み殺
していた。
そりゃそうかもしれない。自分で言っていながら都合のいい話や
と思っとる。
けどパズルのピースが足りていないなら、どこからか調達せねば
永久に完成はしない。
セブンプリッジのせめぎ合いの様に、誰かが手札を出さないと先
には進めない様なもの。
駆け引きなんてしてる余裕はないんや。
﹁俺に付くって事は、天野達と別行動を取るという事﹂
1771
笑いながら隙を見せていたと思ったら、鋭利な刃物を喉元に突き
つけるように、尖った殺気をこちらへ向けてくる。
バックアップ
きんせつ
牧野、いやファントムが凄腕だという触れ込みは割と本当のよう
だ。
相性の良し悪しがあるだろうけど、うちはコイツと相性が悪い。
戦えば相当苦戦するやろ⋮⋮、そんな気がする。
﹁せや、誰かが汚れ役にならんとアカンのや。それは美咲達の役目
やない﹂
バックアップの基本は縁の下の力持ち、主役の為の脇役や。
うちはそれを誇りに思ってるし、嫌だと思ったことは無い。
うちは思いの丈を話し、ジッと牧野の出方を窺った。
牧野はうちの目をしばし見つめ、一瞬優しい表情を見せた。⋮⋮
と思ったら、素っ頓狂な言葉を吐いた。
﹁似てる﹂
牧野は笑顔のまま少し物憂げに、溜息を一つ吐いて目を閉じた。
今度はこっちが目をパチクリや。何の事かサッパリや。
﹁カオルの考え方に似てる。︱︱アイツも今、同じ考え方で動き始
めている﹂
そう言って眼下の生徒達に目を落として、しばらくの沈黙を作っ
た。
そして吐き出すようにこういった。
﹁アメリカのおてんば娘、チェンジリングのお目付け役として、最
1772
上級の汚れ役を買って出ているはずだ﹂
そして振り返ってうちの目をジッと見つめ、﹃︱︱そういう考え
方も悪くない﹄と苦笑した。
うちは牧野が通学につこてたバイクのタンデムシートに座ってい
た。
そのバイク、駅から学校への道、学校を少し通り過ぎた神社の近
くに停められていた。
うちの愛用していた神社や。これだけの接点があって、今まで出
会わなかったのが不思議なくらい。
きっと何度かはニアミスしていたのだろう。
そしてうちはコイツに見守られながら、風弾を作ってたんやろか。
ホンマこそばゆい話や。
﹁どこに連れていくんや? アブナイ所やったら、圧死させるで?﹂
﹁あはは、心配すんな。世界一安全な所だ﹂
そう言ってうちを手招いた。
カオルの後ろにも乗った事ないのに、うちの﹃初めて﹄が一個減
ってしもた。
カオルと言えば、ファントムの奴が言ってたな。アメリカのチェ
ンジリングって娘に付いたって。
状況だけ聞くとあんまり良い気分せえへんけど、カオルはカオル
で考えがあっての事。
うちもカオルもやってる事は一緒や。パズルのピース探し。お互
1773
いがんばらな。
﹁ここが目的地だ﹂
学校からバイクで飛ばして数十分。主要道路から一本逸れたあた
り。
駅前やというのに人通りが疎らな路地、すえた匂いの立ち込める
いかがわしさ全開の路地だった。
﹁あんた、バイクと肉体を圧縮して一体化したいんか?﹂
バイクを停車した位置は、事もあろうか連れ込みホテルのまん前。
このシチュエーションやったら、80過ぎのお婆ちゃんでも貞操
の危機を感じるっちゅうねん。 ﹁あ、いや、場所は悪いが、バイクに罪は無い﹂
慌てふためいて、愛車を庇う牧野。
聞いた事の無い看板が軒を連ねる雑居ビルを指差して、己が身の
潔白を証明しようとしている。
﹁胡散臭いビルやな。ラブホとそう大差ないで?﹂
行ってみたらヤーさんの事務所で、如何わしいビデオとか撮影さ
れてもおかしくない。
関西エンコー﹃ユカ1X歳﹄とか勘弁やで。
ほんまにそうやったら、こんなビル6秒で瓦礫の山に変えたるけ
ど。
﹁ほないこか?﹂
1774
ほんのちょっぴり緊張感を残し、雑居ビルの正面玄関を潜り抜け
た。
外観以上に胡散臭いビルや。
床に敷いたビニールタイルには、ビルの外観から察せられる程の
劣化は無い。
フロア貸しやったら、それなりに人の出入りもあるやろに。使用
する人の少なさを物語っとる。
その割に監視カメラ数台、四隅を見張っとる。怪しさ全開や。
おまけにエレベータ、これは傑作や。
一つのフロアへのボタンだけが使い込まれていて、その他のボタ
ンは綺麗なモンや。
フロアの丁度中央付近に居を構えているし、上も下も対テロ対策
も行き届いてそうやな。
﹁⋮⋮﹂
鼻歌でも歌ってそうな牧野の背中を見つめ、種明かしする心算の
無い事を理解した。
指定された階らしき所でエレベータが開き、先を行く牧野に付き
従い廊下を歩いた。
鉄の扉に書かれた部屋番号と、その真下に申し訳程度の会社表記。
事務所の屋号は﹃ハバロフスク貿易﹄と冠していた。
んでもって、屋号を見て牧野が脱力してるんが謎やな。
﹁ひゃっほ∼い、お邪魔するよん﹂
牧野はノック代わりに挨拶を入れて、事務所内に足を踏み入れた。
扉を開けたすぐにパーティションが置かれ、その奥に広々とした
事務所がある。その中央に机が寂しげに一つ。
1775
黒のストッキングに包まれた美脚を机の上に投げ出し、膝の上に
抱きかかえたノートパソコンへ指を走らせている。
その奥にはアクリルで区切られたマシン室があり、19インチラ
ックが乱立していた。
﹁うっす! ファントム⋮⋮ちゃん?﹂
振り返った女性は、まず牧野を見て満面の笑みで挨拶を交わした。
直後にうちの顔を見て、額に青スジを立てて戸惑う表情を見せた。
ハッハ∼ン。アレか、そういう事?
うちは咄嗟の判断で、なにも知らぬ少女を演じ、泣きそうな表情
で牧野の背に隠れた。
お約束やもんな。
﹁牧野クン、この人⋮⋮、誰?﹂
ふむ、決定打。カッキーン。
そう言った途端その女性、机の上にあった分厚いキングファイル
をムンズと掴み、憤怒の表情で投擲してきた。
非力な女性風に見えて豪腕、パーティションが轟音と共に倒れ、
泣きそうな声を発した。
﹁ファントムちゃんの馬鹿ぁ!﹂
うちは慌てる牧野を他所に、ほくそえみながら廊下へと退避した。
廊下で聞き耳を立てる事10分少々。
1776
時々荒げる声が事務所から響き、いつの間にか睦み合うような声
へと変化していった。
牧野の言う﹃世界一安全な場所﹄ってのは、こういう事か。
彼女のヤサで貞操の危機もないやろうしな。
しかしベッピンさんやったなぁ⋮⋮。大卒やとして一人で事務所
を任される程、歳は恐らくうちらより10は上やろに。
見た感じそう見えへん所が素晴らしい。
女たるものああいう歳の食い方したいなぁ。
﹁おう、入れ。ゴミムシ﹂
ようやく落ち着いたのか、牧野が疲れ果てた顔を出して来た。
頬に引っかき傷が数箇所あって、他人事ながら激しいバトルだっ
たのだと感心させられた。
﹁仲直り出来たんか。良かったなぁ﹂
﹁ぶっ殺すぞ、ゴミムシ﹂
うちの言い放った﹃お愛想﹄に、牧野は即答で指を立てた。
激しく四散した資料の山を、踏みつけないように八双飛びし、住
人の机の前に到着し、優雅に軽く会釈をした。
﹁ファントムの雇い主です。 正確には雇い主の娘やけど、この際
どうでもええやんね?﹂
やぶ睨みでうちを見ていた女性の目は、﹃雇い主﹄の単語一つで
恐縮する視線に変化した。
その微妙な変化を見て、この人ほんまにファントムの事好きなん
やと理解し、ほんの少し申し訳ない気持ちになって来た。
1777
﹁ちなみになんの説明もなく、ここまで連れられて来たので⋮⋮﹂
うちはこの建物の意味と、連れてきた理由をこのバカップルに問
いただした。
聞けばこの建物は退魔士データーベースの拠点アクセスポイント。
本庁のディダスターリカバリーも兼ねている要所だという。
ファントムのシンクタンク。この東山亜里沙は省庁キャリアであ
りつつ、情報屋の側面も併せ持つ⋮⋮か。
﹁よっしゃ! 流石ファントムや、ええ所を知っとるな﹂
ビジネスホテルの会議室でも貸し切ろうかと思ってた位や。情報
源も広さも申し分ない。
協力体制は整ったし、後は美咲隊の情報とファントムの情報を重
ね合わせるだけや。
﹁え∼、ここに取り出しましたるは︱︱﹂
うちは学校カバンの中からA0サイズの大きな地図を取り出して、
ファイルが四散する床に広げた。
これはうちらが住む街の詳細地図、ちなみにA0サイズで4枚の
特注品や。
﹁うちの隊長が追っかけた形跡やと、この方角から見て北西、ここ
から見て北に気配を感じたらしい﹂
亜里沙さんの机から拝借したマジックで、地図を無造作に汚して
いく。
1189ミリx841ミリの広大な地図は、見る見るうちに有効
1778
範囲を狭めていく。
おおよそ三分の一に範囲を狭めた地図を見下ろし、うちは牧野に
問いかけた。
﹁牧野と亜里沙さん。二人がここの範囲で動いた形跡を書き記して
んか? それが魂喰いとの接点になるはずやから﹂ うちは牧野と魂喰いの接点、その範囲でうちらの絞込みの要素を
重ね合わせた。
1779
﹃新学期 04 カオル+チェンジリング﹄
学校から駅への通学路。
目を赤く腫らせたチェンジリングは、好奇の目に曝されていた。
ただでさえ悪目立ちする金髪と白い肌、真琴とそう変わらない見
た目とアンバランスな高等部の制服。
極めつけが、涙を拭う姿でトボトボと俺の後を追ってくる状況だ。
捨てられた子犬が、飼い主恋しさに距離を取りながら追ってくる
⋮⋮、そんな感じだ。
必然的に好奇の目は俺へと注がれる。
﹁この状況なんとかならぬのか?﹂
頭の上で唸りを上げるカナタとトウカ。顔を寄せ合い、尻をモジ
モジとさせている。
それもその筈、自分の達の定位置を妖精イリスに陣取られ、居心
地悪そうに座っているからだ。
左からトウカ、カナタ、イリスの順だ。
なんで座っていられるかも謎だが、自身の身体的問題に気付いて
しまいそうで鬱になる。
俺は仕方なく振り返り、チェンジリングへ声を掛けた。
﹁おい﹂
﹁!﹂
たった一言口にしただけで、チェンジリングは表情を激変させた。
戸惑いの揺れる目、ぎゅっと閉じた口、身を硬く両手を前に抱く
ポーズ。そして色付く頬⋮⋮。
1780
完全になにか警戒心を持たれている様な気がする。
加えてかなりヤバイ勘違いされている様な気がしてならない。
これでは監視の意味も成さないし、力を合わせて魂喰いを追う事
など出来やしない。
けれど後ろを付いて来るって事は、俺の意思が多少なりとも伝わ
ってるって事だ。
俺は仕方なく試しの意味で立ち止まった。
後方を歩くチェンジリングもピタリと足を止め、恐らくだが俺を
ジッと見ている筈。
次は少し早足になってみた。
やはりチェンジリングは俺に歩調を合わせ付いてくる。
﹁なんだろ﹂
ちょっと面白くなってきた。
俺は駆ける足を速め、駅まで全力疾走を開始した。
流石は国の威信をかけて送り込まれたハンター。一定の距離を保
ちつつ、ピタリと後ろを付いてくる。
同じ奇異の目で見られるのなら、こちらの方が数段マシ。
どうして早く気付かなかったのかと苦笑した。
駅前の商店は夏休みの間、少しの変化を見せていた。
唯一気を吐いていたイタリアンに触発されたのか、昼は喫茶店、
夜はショットバーという変り種の店が出来ていた。
大手チェーンの真逆の路線、本格派の看板を掲げ意気込みを感じ
させる。
俺はチェンジリングの様子を考え、再度意思の疎通が必要と考え
1781
た。
ついでに人目を避けれればいう事なしと。
﹁アイリッシュ﹂
俺はテーブルを挟んだチェンジリングを睨み、側に立つウェイト
レスへオーダーを通した。
チェンジリングは俯き複雑な表情を見せ、メニューも見ずに口を
開いた。
﹁私も同じ物﹂
消え入りそうな声ではあったが、明瞭な日本語に助けられ恙無く
オーダーが通った。
高校生の飲むものではないという事も重々承知の上だ。
嫌味のつもりでアイリッシュコーヒーを頼んだが、チェンジリン
グは何処吹く風、そう受け止めてはいないようだ。
俺と牧野はチェンジリングの能力を知り得たが、素性については
一切語られていない。
牧野は発した﹃試しの言葉﹄に、チェンジリングは肯定も否定も
せずにいた。
恐らく牧野はその様子を見て、チェンジリングの申し出を拒否し
たのだと思う。
あの朝のホームルームから小一時間の後、俺の携帯にメールが届
いた。
牧野の情報屋にして相棒。東山亜里沙さんからのメールだった。
﹃カオルさんの領域に情報を置いておきます。パスワードは︱︱﹄
PDA経由で自身の領域にログインした俺は、値千金の情報を目
1782
にした。
それは予想通りチェンジリングに関する情報だった。
ひゃくまん
亜里沙さんが提示する情報は﹃省庁﹄が握っている本物。
情報屋経由から手に入れるなら、一本は下らない質の情報だった。
﹁チェンジリング、年齢13歳。ニューハンプシャー州グラフトン
郡ハノーバ在住。ダートマス大学、大学院生﹂
チェンジリングの名で生活を送っているのか、詳しい情報は無か
った。
恐らくはハンターとしての異名の一つだと思う。忌み子の名なの
だから⋮⋮。
チェンジリングはその言葉を聞いても表情一つ変えない。
目の前に置かれたグラスの縁を撫で、クルリと一周してその手を
テーブルへ置いた。
﹁今日からカオルを想って、この髪をブラッシングしようと思うの﹂
惚けた表情で頬を染めた。
どうにも話が噛み合っていない気がするが、俺にはまだ情報が残
されている。
チェンジリングの本音を聞きださないと、先には進めない。
﹁アイルランド系アメリカ人。ハンターとしての異名は﹃ドールメ
ーカー﹄﹂
コーヒーをあえてアイリッシュにしたのはそういう事。
俺はお前を知っていると暗に伝えたかった。
そういう意図を感じながら、平然と態度を変えないチェンジリン
グ。
1783
こともあろうか夢見がちな少女の表情を見せた。
﹁カオルと一緒とオーダーした時、ココとココが切なくなった﹂
そう言って右胸を手で押さえ、右手はお腹を辺りをキュッと掴み、
えも言えぬ表情で俺を見た。
不釣合いな大人の女性の表情に、俺は気後れし息を呑んだ。
物事に疎い俺でも分かる求愛の言葉。アメリカ人が進んでいるっ
てのは本当だったのだ。
しかしストレートすぎて、俺には受け止めきれない剛速球だ。
﹁て⋮⋮、お前俺の話を聞いてるか?﹂
﹁へ?﹂
我に返った二人は噛み合わないやり取りを振り返った。
無言で目の前の水を一気飲みし、同時にグラスをテーブルに置い
た。
﹁カオル! 私の事調べたのね!﹂
﹁13の癖にドキリとする台詞を吐くんじゃねぇ!﹂
俺とチェンジリングは顔を付き合わせ、再び噛み合っていない事
に気が付いた。
そして俺は呆れて苦笑し、チェンジリングはクスクスと笑い始め
た。
﹁お待たせいたしました﹂
1784
驚くべき事にアイリッシュコーヒーが運ばれてきた。
口の広いグラス注がれたコーヒーフロート。
豊かな豆の香りに紛れ、ほのかにアイリッシュウイスキーの香り
がする。
添えられた角砂糖とは別に、ブラウンシュガーが運ばれて来て、
この店の拘りを感じさせる。
カウンターの中で口ひげを蓄えた主人らしき男が、チラリとこち
らを見てほくそ笑んだ。
﹁いただきます﹂
チェンジリングはペコリと頭を下げ、小さな口をグラスに付けた。
微量のアルコールは高温で蒸散し、適度なアクセントをコーヒー
に残す。
人によりカクテルに分類する飲み物だが、俺は落ち着ける飲み物
としてコーヒーに分類している。
一口付けて苦みばしった甘みを、喉の奥へと流し込んだ。
﹁チェンジリングの能力、範囲内で具現化するゴーレム。あれは違
うよな?﹂
牧野の試しの言葉、俺はもう一度繰り返して真偽を問うた。
チェンジリングは小首を傾げ、再び曖昧な笑みを浮かべて返した。
恐らく言わない事が﹃縛り﹄の一つになっているのだと思う。人
に伝える事が出来ない制限。
﹁俺は違うと思う。影響範囲内の人を人形として留める能力、呪術
の類では無いかと思っている﹂
チェンジリングは国を代表してここへ乗り込んできた。
1785
何故チェンジリング一人なのか。まずその疑問に目を向けなくて
はいけない。
現地調達なんて不十分な準備で、本国が快く送り出してくれると
は思えない。
既に2人の犠牲者を出しているのだ、俺なら数倍の戦力を投入し
て早期に決着を付ける。
そこで着目したのは人形アビゴールの存在だ。
常にチェンジリングの側に居て、身を守るゴーレムという使い方
は、ある意味有用な使い方だと思う。
けれど美咲さんに一蹴される力量では、国を代表して乗り込む脅
威を感じない。
そして俺は要素と要素を組み合わせ、最悪のシナリオを構築した。
あの箱に収められていた人形は全てが能力者。ある条件付けで人
を操れる﹃人形繰り﹄の一種では無いかと。
結論、チェンジリングは一人で乗り込んできた訳ではないという
事だ。人形の数を考えると数十名があの箱に収められている筈だ。
﹁不用意な消耗戦で、食事のチャンスを与えるのは愚策。箱の住人
達が食われる事になれば︱︱﹂
俺がチェンジリングに付こうと思った要因の一つ。
最も恐れるのはチェンジリングの能力を食われる事。そうなれば
A++のキョウさんでも、事態を収拾する事は容易ではないだろう。
﹁カオルの能力はソレ。現状を見る能力は、裏を返せば先読みの能
力。危惧する未来が見えている、だから現状が把握できる。︱︱そ
うなるんでしょ? 実際の所﹂
チェンジリングはサラリと言ってのけた。
危惧する事が本当になると思っているのは確かだ。
1786
少し前に夢で見た美咲小隊の全滅も然り、チェンジリング達が全
滅する事も。
確定されつつある未来を見る事が出来る能力。見たいと望んで見
れない、酷く曖昧な能力だが、恐らくそうなのだと思う。
﹁そうだ、そうなる﹂
子供の頃の遠足で、霊障になるクラスメイトを確かに見た。
霊障になる結論を見て、そうなる理由を探したあの時の事を思い
出した。
だがその未来を甘んじて享受するのではない。努力すれば未来は
変えられるという事を知っている。
俺の能力は﹃未来に気付く﹄事と﹃変化﹄を与える事だと思うの
だ。
﹁私は子供の頃から忌み子として扱われた。自分のパーソナルスペ
ースなら、嘘の現実を作り出せたから﹂
チェンジリングは寂しげに自分の身の上を語り始めた。
両親に取替え子として扱われ、遠ざけられた過去の事。
チェンジリングを捨て、両親は本当の子を探し、精神に異常を来
たしたという事。
そしてその過去が能力にアクセントを付け、より強固に空間に条
件をつける事が出来たと。
恐らく思い通りにならない現実への不満が、能力を加速させたの
だと思う。
美咲さんの赤い糸、アレは人の繋がりを欲したから。
乃江さんの心象風景は、他人の心を理解しえない自分への憤りか
ら生まれた能力だ。
二人から告白されたと同時に、問われた一言。
1787
﹃カオルさんは何を考えたのか、それが能力を紐解く鍵になります﹄
能力を形作るのは心の願望だから。
俺は見える事への意味を探していた。
見える物の事への不思議、見えない現実の疑問、何故見え、見え
ないのかについて。
俺に影響を与えた一言は、幼稚園の頃の保母さんの一言。
﹃幽霊なんていないって思えば良い﹄
あの言葉に天啓に近い閃きを感じた。
同時に選択肢を見つけ違う未来が存在する事に気が付いた。普通
なら行き着くハズの無い未来を選択出来る事に。
悲観していたはずの未来は一つで無く、無数に存在するという事
に気付かされた。
﹁私はカオルを知り、この夏全てを費やし過去を調べた。ありきた
りなものから、教員達の日誌に至るまで、全てを﹂
チェンジリングが優しく微笑む。同類を哀れむような悲しげな目
で。
言いたい事は言葉に出さなくても分かる。
チェンジリングと俺は、似た者同士。自分が嫌いだったのだ。
その際の選択肢は複数ある。自分が変わる事によって周りに許容
してもらう方法、周りが変化し自分を許容する方法、全てを無に帰
する事。
俺とチェンジリングは自分を許容する世界を模索したのだ。
チェンジリングは今を変化させる能力を、俺は良い未来を見つけ
る能力を。
1788
﹁けれど、ある時カオルの能力はロストした。全てを失ってしまっ
じえいあじゃり
たの。覚えている?﹂
それは母や慈英阿闍梨に封印されたからではない。アレはむしろ
逆の術、崩壊する精神を留める為のモノだった。
輝かしい未来を見つける能力だったが、使い方を誤れば自分の立
場を悪くする。そう実感し未来を捨てた小学生の頃。
俺はその能力を捨て平凡な少年に戻るつもりだった。
けれど精神の核となる部分を捨て去り、心に穴の開いた不完全な
状態になったのだ。
穴の開いた部分は正常な精神を崩壊させ、地崩れを起こしつつあ
った。
ギュンター・Gが守ってくれたのは、心の無の部分。あの施術が
無ければ今頃は、ここにこうしていない。
﹁そうだ。人の技術を見て自分の物に出来るのは、無の部分が何か
埋めるものを欲していたからだと思う﹂
美咲さんの長考、乃江さんの格闘技術は、結果を知り、その過程
を理解した。
手品のタネを知りやり方を学ぶ。数学の答えを知り式を当てはめ
るように。反則に近い行為で自分のモノにした。
俺は薄らぼんやりと理解していた。
﹁魂喰いと同じではないかという事に気が付いていた﹂
俺と魂喰いは似た者同士かも知れない。いや対極の存在だからこ
そ似るのかも知れない。
未来の放棄、未来への欲求、対極の二人は結局は未来を放棄した。
1789
俺の無の憧れは、魂喰いの無への充足と真逆だが、本意の有る無
しはあるとして、結果としてやっている事は同じ。
﹁私達は一歩間違えば、魂喰いと同じ未来を歩んでいた可能性があ
る。そう気が付いて遺伝子は不要と位置付けた﹂
なるほど、遺伝というより心の育成手法、いや破壊の方法。技術
論より方法論か。
心の有り様なんて曖昧な偶然に頼るなら、金銭的な価値は劇的に
薄れる。いい意味でも悪い意味でも。
そしてチェンジリングの本音も垣間見れたし、今ならまだやり直
せると思うのだ。
﹁これからの方針だが、捜索本部を設けて試行錯誤しよう。チェン
ジリングは何処に住んでいるんだ?﹂
家とチェンジリングの住まい、そして学校通学。移動に無駄があ
りすぎて、時間の浪費に繋がるばかり。
チェンジリングが住んでいる側で、安ホテルと会議室でも借りれ
ば集中できると思うのだ。
﹁えっと、XX町の付近で﹂
主要道をひた走り、一本裏筋に入った所だな。
割といかがわしい裏ぶれた場所だが、あんな所に少女が住まう場
所なんて有っただろうか?
﹁白雪姫に出てくるお城みたいな雰囲気のモーテルに連泊している﹂
アイリッシュコーヒーが鼻から吹き出てきた。
1790
確かにある⋮⋮連れ込みホテルが一軒。マリア様が何とかって名
前の。
俺は何処からとも無くハリセンを取り出し、チェンジリングの頭
を勢い良く叩いた。
店内に響き渡る誇張された炸裂音に、一瞬冷や水を打ったように
静まり返った。
﹁あうっ、何故に⋮⋮﹂
﹁アメリカでモーテルは健全な安宿だが、日本では男女が睦み合う
場所を指す。13のおこちゃまが住まう場所ではない﹂
﹁はぇ⋮⋮、道理でキッチンが無いと思った﹂
顔を真っ赤に染めながら、チェンジリングが頭を掻いた。
既に一ヶ月以上連泊しているのなら手遅れかも知れんが、そうい
う所に住まわすのはどうかと思う。
俺は更なる苦言を呈し、チェンジリングに説教を始めた。
﹁大学院まで通っていながら、変な所で抜けてるな。即刻宿をチェ
ックアウトし、健全なホテルに泊まりなさい﹂
﹁あぅぅ、ベッドとお風呂が広くて気に入っていたのに﹂
最近のそういう所は、インターネット完備でビデオ見放題、出入
りが人目に付かず便利らしいが。
多少高くてもちゃんとしたホテルに住まわせないと、日本の沽券
にかかわる問題だ。
俺はチェンジリングの耳を引っ張り、テーブルに諭吉を一枚置い
て店を出た。
1791
俺が住む地元の駅、その近隣に立つシティホテル。
俺はフロントに立ち、チェンジリングは赤く腫れた耳を撫で、涙
を手で拭っていた。
﹁は? シングル二室の連泊一ヶ月と十人サイズの会議室を同期間、
インターネット回線を二本にPCのレンタルですか?﹂
怪訝そうな表情を浮かべたフロントの対応は、至極真っ当なリア
クションだろう。
一介の高校生が二名、内一名は金髪の少女で、一泊の宿泊を願う
ならよくある光景だが、連泊を願うのなら話は違ってくる。
俺は後ろに控えているチェンジリングに合図を送り、彼女は渋々
ながら財布を取り出して、一枚のカードを提示した。
ローマ兵士が描かれたプラチナカード。一昔前は持つ事がステー
タスと、多くの日本人が勘違いしたカードだった。
﹁先払いで支払いを済ませておくから問題ないだろう? 精々割り
引いてくれると嬉しい﹂
ここまでの道のりの事だ。チェンジリングの宿泊先を決めようと
した時の事。
俺が薦めるホテルに宿泊する代わり、俺も同じホテルで連泊をせ
よと言って来た。
連絡が密に出来るし、夜の行動もし易いという理由だ。
﹃一人寝が寂しいし、ダブルで﹄
1792
﹃アホか!﹄
再びハリセンを振り下ろし、暴走するチェンジリングを粛清した。
家に連れ帰ってもパニックは必死だし、宿を固定するのは悪くな
い。
ついでに全額チェンジリングが払うという事で、作戦会議をする
のに会議室を予約させたのだ。
待たされる事十数分、支配人らしき男が出張り、ニコニコとえび
す顔で案内してくれた。
手渡された部屋の鍵は、よくあるカードキー。俺とチェンジリン
グは高層階の隣り合った部屋を用意してくれた。
会議室も同じ階あり、ホテル側の気遣いを感じさせる。
﹁こちらです﹂
用意された会議室は円卓の10名掛け。中央にプロジェクターが
用意され、既にPCが二台起動して用意されていた。
ホワイトボードに空気清浄機や加湿器まで、割とまともな設備で
安心した。
俺はポケットから目分量の札を折り畳み、支配人に握らせ下がら
せた。
先ほどの喫茶店でも同じ事だが、口止め料という意味を含んでい
る。
パタンと閉じられた扉を見つめ、支配人の靴音が遠ざかるのを確
認した。
﹁さて、やるか﹂
プロジェクターをホワイトボードへ向け、インターネットサービ
1793
スから近隣の地図を呼び出した。
書き込み可能なホワイトボードへ赤のペンを走らせ、魂喰いの出
現ポイントをマークした。
学校、木々が押し倒された雑木林。チェンジリングと出会った場
所、県境まで移動して方向を確かめた場所。
﹁予想の範疇だが、この付近に奴はいると思っている﹂
丸で囲んだ場所は、決して狭い範囲ではない。けれど美咲さんが
感じた方向は、県を四等分するほど狭めた場所なのだ。
住民台帳の情報からも浮き上がってこない。けれど居る。
﹁登録された住民、住所を変更していないが賃貸しているバーチャ
ルな住民、全てを検索済みだ。宿無しなのか第三の方法で居住して
るのか﹂
俺の説明を受けながら、チェンジリングは軽快なキータッチでP
Cを操っていた。
プロジェクターの切り替え器を操作し、画面の情報を表示させた。
全文が英語で書かれた報告書だが、日付と事象が箇条書きされて
いる文章。
俺は人目見て、魂喰いの事件簿だと気が付いた。
﹁パペッター事件、アルカナマスター事件、そしてこの区域。残念
ながら住民からの接点は無い﹂
パペッター︵人形繰り︶、アルカナマスター︵幻獣召喚︶か。呼
称の仕方も国によって違うのか。
美咲小隊でも、同様の調査は済ませている。二点の接点を持つも
のがいても、三点では皆無。しかしどのパターンでも消去法でシロ
1794
と確認済みだ。
﹁結局の所、チェンジリングの空間操作能力が頼りか﹂
俺の問い掛けに対し、チェンジリングはゆっくりと首を振り、複
雑な表情を俺に向けた。
﹁カオルの目もこのプロジェクトには必要不可欠。絶頂期の頃の力
を取り戻さなくてはいけない﹂
そう言ってキーをクリックし、一人の少女を映し出した。
それは涙が出るほどに懐かしい面影を残す少女、八瀬春菜の顔写
真だった。
﹁カオルが能力を失ったとほぼ同時期、この少女に変化が生じてい
じえいあじゃり
る。その二つを結び付けない馬鹿はいない﹂
慈英阿闍梨の封印が解けた今、全ての事を少しずつ思い出し始め
ている。
四条さんの悩みに対し、何故八瀬春菜が俺を指定したのか。
何故俺は能力を失ったのか。
能力を受け継いだ彼女が、数年の間どうやって生きてきたのか。
﹁退魔士ランクA++ 八瀬春菜 能力 近未来知覚、事象操作﹂
目を背けようとしても背けられない単語の羅列、その一文字一文
字が俺の心へと深く突き刺さった。
1795
﹃インターミッション 05﹄
﹁うぇぇぇ∼ん﹂
私は捨てられた子犬の如き悲しみを感じつつ、止め処なく涙が零
れ止まらない。
困り果てた表情の美咲さん、気持ちを表に出せず目を腫らしたマ
リリンさん。
頭を撫でてくれる乃江さんも同様に言葉少なで、私はガラステー
ブルの上に突っ伏し泣いていた。
泣いた所で事態がどうなる物でも無い事は重々承知。けれど泣か
ずにいられないのだ。
﹁ユカのバカ﹂
マリリンさんが恨み言の様にボソリと呟いた。
そうなのだ。我が姉と慕う山科由佳、通称ユカ姉さん︵自称ユカ
ねえやん︶が行方不明なのだ。
たった一言﹃魂喰い探してくるわ﹄とメールを残して。
当然隊のメンバー全員が寝耳に水の事、私とマリリンさんの魔法
組は、結束していた気持ちを反故にされた気分、怒り心頭なのだ。
涙と共に流れた鼻水がテーブルを汚し、見かねた乃江さんが素早
くティッシュでクチュクチュしてくれた。
鼻通りがよくなった所で酸素が脳に回り始め、やっと冷静に物事
を考える事が出来た。
﹁うぐっ、姉さん何処に行ったんでしょう?﹂
夜も遅いし自炊も出来ないダメ人間なのに。お腹を空かせて歩き
1796
回っているのでは無いだろうか?
そんな心配を他所に美咲さんは、クスクスと笑って急須にお湯を
継ぎ足した。
﹁ユカは元気にやってますよ。何処にいるか、おおよその場所は分
かりますし﹂
えっ? 今なんと?
頭を上げて美咲さんをマジマジと見た。
そうか⋮⋮、美咲さんには赤い糸の能力があるのだ。糸を伝わる
気配から、場所や気持ちが伝わると聞いた。
﹁恐らくユカは今まで気を使っていたのでしょう。昔のメンバー構
成では単独行動出来ないですから﹂
美咲さんは自分を指差して、次にマリリンさん、乃江さんの順に
指を動かし、最後に私を指差した。
前衛、後衛、前衛、私⋮⋮後衛。
元々私の居た場所には、ユカ姉さんがいたのだ。
前衛は後衛がいて、初めて本来のポテンシャルを発揮する。一人
欠けても戦力は半減する、それがユカ姉さんの持論だった。
﹁今は真琴がいるから、安心して動けるんじゃないかしら?﹂
﹁うっ⋮⋮﹂
ユカ姉さんの実家に帰郷している時から、どうも様子がおかしか
った。
遺言めいた言葉を何度も言い聞かせるし、実力以上に私の事を褒
めたりする。
1797
それもこれもあの一件から。ユカ姉さんのお母様がとんでもない
事を告白した時から。
私とユカさんだけしか知らない事だけれど、こんな状況になって
しまった事だし、皆の耳に入れておいた方が良いのじゃないだろう
か。
﹁あのですね⋮⋮、非常に言いにくい事で、私の口から言っても良
いのかどうか、悩ましいの⋮⋮ですけど﹂
﹁あっ、ファントムさんの事?﹂
美咲さんはお茶を啜りながら、驚くべき事を平然と言ってのけた。
背後にいる乃江さんも、悔しさの余りに憤怒の顔をしたマリリン
さんも⋮⋮、当たり前の様に動じる様子を見せていない。
あらほれま、もしかして周知の事実なのでしょうか。
﹁お母様方はファントム⋮⋮、いえ牧野さんのお婆さまに召集を掛
ち
けられたの。その席で聞かされた事だから、全員が周知している事
なのよ﹂
はうっ、そうだったのか⋮⋮。
京都に行って思い知った事なのだが、ユカ姉さん家は﹁超﹂が付
くほどのお金持ちだった。
お出迎えの使用人さんは、駅の前で直立不動で待っているし、黒
塗りの車は立派だし⋮⋮、家は区画の端から端まで山科だし⋮⋮。
外を散歩したら町の人が﹃ごきげんよう﹄と会釈するし、なんか
違うなぁと思っていたけど。
﹃お母はん? うち、この子を引き取りたいと思っとるんやけど﹄
1798
﹃ええ、真琴ちゃんなら大歓迎よ﹄
茶菓子を頂きつつの談話、たった一言二言で私の人生が変わって
しまった。
魂喰い案件が片付いて落ち着いたら、私こと藤森真琴は、山科真
琴へと姓を変更する事になる。
身寄りがなく親戚縁者も皆無、お母様もユカ姉さんも大好きだし、
断る理由が見つからなかった。
﹁だからこそなのよ﹂
大切に思う気持ちは十分に伝わっている。だからこそお手伝いし
たい、一緒にいたい気持ちが強いのに。
私がいるから大丈夫なんて数合わせみたいな事をせず、一緒に戦
おうと言って欲しかった。
﹁むうう、美咲さん居場所を教えてくださいよ。一言文句を言わな
いと収まりません﹂
美咲さんは小首を傾げ、苦笑して見せた。
プライバシーや個人情報保護なんて、小難しい事はどうでも良い
のだ。
﹁ふむ、住宅地図ならあるぞ﹂
乃江さんはブックレストに立てていた大判の住宅地図を取り出し
た。
表紙に﹃XX駅前派出所﹄と書かれている住宅地図。これはもし
かしてツッコミ待ちってやつだろうか。
1799
﹁居場所といえば、カオルさんもどうやら単独行動に出たようです﹂
美咲さんは手元にあった携帯を取り出し、受信履歴から一通のメ
ールを見せてくれた。
一見絵文字入りの普通のメールだが、本文がちょっと変。
﹃心ハ美咲小隊二アリ。異国ノ同士トトモニチョウサヲカイシスル。
ヒトフタマルマル カオル二等兵﹄
心なしか美咲さんの手が震えている様に見える。
表情は穏やかだけど、心中はそうではない様子、携帯を握り潰し
そうでちょっと怖い。
聞いた話ではカオル先生のクラスに、アメリカからのハンターが
転校してきたらしい。異国の同士というのは恐らくその子の事。
カオル先生の事だから、考えなしに行動した訳じゃないと思うけ
ど、知らない人と一緒なんてちょっと嫌だ。
それにアメリカ人の女性なんて、ハリウッド映画の女優みたいな
人だろうか。ぼーん、きゅ、ぼーん。
﹁それでは真琴の意見もありますし、二人の居場所をサーチしてみ
ようと思うのですが、賛同の方は挙手を︱︱﹂
美咲さんが言い終わらないうちに、全員の手が差し上げられた。
頬を膨らませた怒りのマリリンさんはともかく、冷静な乃江さん
も何の迷いも無く挙手をした。
美咲さんはつとめて冷静な表情を装い、ほんの少し唇を吊り上げ
た。
﹁では、まずはユカから﹂
1800
えにし
目を閉じて胸の辺りに手を置いた美咲さん。
淡い光と共に、美咲さんの縁の赤い糸が薄っすらと見え始めた。
絹糸を紡ぐような繊細な指先で、その一本に念を籠めた。
他の糸より力強く見えるその糸は、美咲さんとユカ姉さんの絆の
強さを象徴しているように見える。
﹁むっ! 来ました﹂
似非イタコのような唸り声を上げ、美咲さんが住宅地図をパラパ
ラと捲り始めた。
大雑把に数十ページを捲り上げ、ピタリとあるページで指を止め
た。
﹁この付近に山科ユカの霊が⋮⋮﹂
冗談めいた口調で指差す先は、主要道から一本逸れた裏通り。
裏ぶれた飲み屋や雑居ビルが建ち、すえた匂いのする所。夜回り
で歩いた事があるけど、出来るならば敬遠したい場所だ。
﹁えっ﹂
まずマリリンさんが指差す先を見て、ポッと頬を赤く染めた。
続いて乃江さんが眉を顰め、疑問符を浮かべた美咲さんがゆっく
りと目線を下げた。
﹃モーテル マリアサマ ガ ミテル﹄
あからさまに如何わしさ爆発の宿泊施設だった。
マリリンさんは複雑な表情で目を泳がせ、乃江さんは手帳に﹃脱
落者一名﹄とメモをした。
1801
美咲さんはピタリと押さえていた指を彷徨わせ、クルクルと﹃の﹄
の字を書いてページを閉じた。
﹁え∼、何も見なかった事に﹂
﹁ユカと牧野君が、三日夜の餅﹂
﹁まあ、なんだ。確かに元気だ﹂
三者三様のリアクション。とっても大人の会話をしているような、
フワフワとした気分になってきた。
この間まで﹃うちはカオルにゾッコンラブ﹄と言っていたのに⋮
⋮。裏切り者!
﹁じ、じゃあ、気を取り直してカオルさんの安否でも﹂
美咲さんはそういって先程と同じように、胸に手を当て目を閉じ
た。
掴み出した糸はユカ姉さんと同じく力強く、美咲さんのカオルへ
の想いが見て取れる。
﹁来ました、カオルさんの怨霊は⋮⋮﹂
ペラペラっと捲り、迷いも無く指をビッと押さえた。
カオルさんの最寄の駅近くにある割とよく知られた名前のホテル
だった。
二連発で如何わしい所だったらどうしようかと思ったが、モーテ
ルじゃなくて良かった。
て、なにか違うような気がする。
︱︱ホテル?
1802
﹁ホ⋮⋮ホ⋮⋮ホ﹂
家が近いのに、わざわざホテルに泊まる理由⋮⋮、それは⋮⋮何?
周囲を取り巻く面々も、言葉を失ってしまっているようだ。
﹁みっ、皆さん落ち着いてください﹂
そう言っている美咲さんが一番動揺しているように見える。
むしろマリリンさんからは殺意の衝動、乃江さんからはバイオレ
ンスなオーラを感じる。
﹁裏切り者め!﹂
﹁とりあえず女を始末し、カオルさんの言い訳を聞いて⋮⋮﹂
﹁いや、手ぬるい、私なら︱︱﹂
マリリンさんと乃江さんは、殺害方法について議論を始めた。
美咲さんは目がナルトのようにテンパリ、口走る言葉は宇宙語に
なっている。
私だけは、私だけはカオル先生の事を信じなければ。カオル先生
はそんな事は絶対しない。
収集の付かない思考の坩堝、私は大声を出してカオル先生の潔白
を訴えた。
﹁ユカ姉さんとカオルさんの潔白を確かめに行きましょう﹂
美咲小隊は今まで見た事の無い程の結束を見せた。
瞬時の内に召喚され出でた魔法の箒マニセンマキ。乃江さんは上
1803
着を羽織り、バイクの鍵を手に取った。
男女の営みをは不公平、いつの世も泣きを見るのは女の方だ。
取り急ぎユカ姉さんが大変な事にならないよう、モーテル マリ
ア︵略︶へ到着した。
先陣を切るのはマリリンさん、武器は魔法の箒マニセンマキ。続
いて私、乃江さんと美咲さんは物珍しそうに、部屋番号が書かれた
アクリルパネルをジッと見ていた。
﹁お嬢様、ここで部屋を決めてボタンを押すみたいですね﹂
﹁意外と普通の部屋が多いですね。もっと⋮⋮﹂
社会見学する二人を他所に、マリリンさんが受付に歩み寄った。
懐から取り出したのは、ユカ姉さんの写真。受付の狭い窓口にそ
っと置き、ドスの利いた声で話しかけた。
﹁この女は何号室にいる? 隠すとタメにならない﹂
まるで人が変わったように流暢に話すマリリンさん。美咲さんと
はまた違った意味で怖い。
受付の中からご婦人の声で、話し合うような囁き声が聞こえてく
る。
﹁今の時間、学生さん風の人はチェックインしてないよ。この商売
お上がうるさいからねぇ、若い子の顔は覚えてるもんさ﹂
1804
マリリンさんは写真をそっと引き戻し、懐に大事そうにしまった。
映りの良さそうな写真だし、私も一枚焼き増しして欲しいと密か
に思った。
受付でのマリリンさんのやり取りを聞き、美咲さんが小首を傾げ
もう一度赤い糸の儀式を試みた。
﹁来ました﹂
ぼんやりと光る赤い糸は、ホテルの内部へではなく、外の方に繋
がっているように見える。
マリリンさんは頬っぺたをプウッと膨らまし、美咲さんに腹立ち
紛れの膝蹴りを入れ、ツカツカとホテルを出て行った。
赤い糸はホテルを出て表の雑居ビルへと伸び、中層階辺りで見え
なくなっている。
﹁とりあえず貞操の危機は無さそうですね﹂
私はホッと胸を撫で下ろし、建物内で頑張るユカ姉さんを思いや
った。
すいません、疑ってすいません。でも独断で動くユカ姉さんが悪
いのです。ごめんなさい。
雑居ビルに向かい頭を下げ、ユカ姉さんの健闘を祈った。
﹁このまま踏み込む訳にもいくまい。今日の所は無事を確認しただ
けでよしとしよう﹂
﹁そうですね。そんな事してもユカは喜ばないでしょうし﹂
乃江さんのバイクに跨る二人、私はマリリンさんのマニセンマキ
に腰掛けて、目と目で語り合った。
1805
当然次のターゲット。カオル先生の事だ。
乃江さんのバイクは紫煙を巻き上げ走り去り、マニセンマキはゆ
っくりと空へ舞い上がった。
駅前にあるホテルは観光とビジネスどっちつかずの客層の様だ。
高級ホテルって感じじゃないけど、小奇麗な感じがする普通のホテ
ルだ。
男と女が出会う場所っぽくないけど、そこはそれ、可能性はゼロ
ではない。
空路を行く私たちより、数分遅れで乃江さん達が到着し、ライト
アップされたホテルの外観を眺めた。
﹁美咲!﹂
マリリンさんが美咲さんに目で合図を送る。
前回の失敗を反省し、今度は踏み込む前に赤い糸で確かめる作戦
だ。
美咲さんは胸に手を当ててムムムと唸り、ぼんやりと赤い糸を浮
き上がらせた。
摘み上げた赤い糸はホテルの最上階付近へと伸び、カオル先生の
居場所を如実に表していた。
﹁今度は間違いないようだ﹂
乃江さんはホテルの駐輪場へとバイクを停め、私達は無言のまま
フロントを通過し、エレベータホールへと向かった。
マリリンさんは丁度来たエレベータへと乗り込み、最上階付近の
1806
3フロアを素早く押した。
階が分からないから各階停止にした訳か、マリリンさん賢い!
後は赤い糸を手繰り続ける美咲さんの勘頼りだ。
﹁この階ですね﹂
目を閉じた美咲さんがボソリと呟いた。
最上階より一つ下の階で、エレベータの扉が開いた。
﹁カオルと米国のハンターがいるのだ。気配を消して行動せねば﹂
口元で人差し指を立てた乃江さんが、まず気配を虚ろにして周囲
の様子を確認した。
遅れて私たちは気配に気を配り、忍び足で歩く美咲さんの後を追
った。
自然光のダウンライトが照らし出す廊下は、嫌な事にムードたっ
ぷりに見える。
最上階付近って事は夜景も綺麗だろうし、窓辺で身を寄せ合って
街を眺めたりしているのだろうか。
﹁!﹂
悶々と嫌な想像を掻き立てられていたら、マリリンさんがポカリ
と私の頭を叩き、眉を顰めて注意を促してきた。
私は集中を切らせてしまい、気配を殺しきれていなかったようだ。
修行不足だなぁ⋮⋮、反省。
美咲さんはある部屋の前でピタリと歩を止め、ゆっくりと振り返
って部屋を指差した。
﹃ここです﹄
1807
美咲さんは声を出さずに口を動かし、私達に知らせてくれた。
その部屋は一般客が宿泊する部屋ではなく﹃会議室 楓の間﹄と
書かれていた。
乃江さんは扉の前にそっと移動し、注意深く室内の様子を窺って
いる。
そしてプッっと吹き出しそうになり、慌てて口元に手を当てた。
﹃中から寝息が聞こえる。一人分の気配しか感じない﹄
手を当てて耳を澄ませば、イビキに近い豪快な寝息が聞こえてき
た。
この音質は恐らく男性のモノ。中にいるのはカオルさんのようだ。
﹃お疲れのようですね。カオルさん﹄
美咲さんも口元を手で押え、笑いをグッと堪えている。
一人が笑い出すと途端に連鎖反応が起こるのは何故だろう。釣ら
れて私も笑いが込み上げて来て、四人は肩を揺らしながら歯を食い
しばった。
﹃ユカ同様、カオルも一生懸命なんだな。邪魔せずに帰ろう﹄
乃江さんが理性的な言葉で撤収を促したが、半笑いの表情のまま
マリリンさんが首を横に振った。
そして明らかに悪い事を考える目で美咲さんの肩に手を置き、美
咲さんが納得したかのようにコクリと頷きニンマリと笑った。
﹃寝起き、ドッキリ﹄
1808
マリリンさんは単語を二つ口走り、そっと扉のノブを回した。
蝶番の軋み音に細心の注意を払い、ゆっくりゆっくりと扉を開け
た。
部屋の中は10人が腰掛ける事の出来る円卓の会議室。ノートP
Cが二台開かれ、一台はプロジェクターに接続されていた。
ホワイトボードにビッシリと書き込まれた情報は、今日一日の成
果なのだろうか。
そして机に突っ伏して寝ているカオル先生は、私達に気付く事無
くグッスリと眠っていた。
﹃あれま、風邪ひきますよ∼﹄
﹃空気が乾燥してるから、本当に風邪を引いてしまうかもしれん﹄
﹃プロジェクター付けっぱなしだと、エコじゃないですよ﹄
そう言いながら美咲さんが羽織っていたカーディガン脱ぎ、カオ
ル先生に打ち掛けた。
乃江さんは部屋の片隅に設置されていた空気清浄機と加湿器をオ
ンにして、マリリンさんはプロジェクターの電源を落とした。
三人ともなんか悔しい位に甲斐甲斐しい。
﹃さてと、アメリカ娘が姿を現さない内に撤収しましょう﹄
そういって美咲さん達は、忍び足で扉の方へと移動し始めた。
私は何も出来ずにいるのが悔しくて、カオル先生の耳元で起こさ
ないように囁いた。
﹃がんばってね。センセ﹄
1809
ふとカオル先生の表情が優しくなり、口元が笑みを浮かべるよう
に象られた。
私はそれを見て、安心して扉の向こうへと移動した。
1810
﹃八瀬春菜
01﹄
﹃真琴のお陰かな﹄
閉じゆく扉を薄目を開けて確認し、そうと覚られない様に寝息を
立て続けた。
気配を消した存在に気が付き、最初は敵かと思いかなりビビった。
集団が扉の向こうで歩を止めた時、そのうちの一人が真琴だと気
が付いた。
気配を消すのは良いが、もう少し集中しないと。感じた気配がい
きなり消えれば、不自然な事に気が付き誰でも身構える。
いや、そんな大きな口を叩ける立場では無いか。俺とて皆と顔を
合わせるのが気恥ずかしく、寝るフリをするのが精一杯だった事だ
し。
﹁カナタ、トウカ。もう大丈夫だぞ﹂
腰に携えた武器に隠れていた二人は、笑いを堪えながら目の前に
姿を現した。
正直微妙に虚ろう気配に気が付けたのは、トウカとカナタのお陰
でもある。
感じた気配がすぐに消え、気のせいかと考え始めた時、カナタと
トウカは警戒を緩めなかった。
二人の注意力がなければ、今頃どうなっていたか。
﹁あやつらから見れば、カオルは手のかかるやや子のようじゃな﹂
打ち掛けられた薄手のサマーセーターが鼻をくすぐる。
香る残り香は遠い昔、母から感じた優しい匂いがしていた。
1811
﹁けどな、悪い気はしない﹂
美咲さん達の優しさが伝わってくるし、トドメは真琴の一言だな
⋮⋮、ありゃ効くわ。
テーブルの上笑う二人に呆れられても、嬉しいものは仕方が無い。
﹁がんばってね。センセ⋮⋮か﹂
テーブルの上のPCを閉じ、空気清浄機と加湿器の電源を落とし
た。
明日起こる事を何度も何度も考えて、心が押し潰されそうになっ
ていたが、ほんの少しだけ前に進む勇気を貰った様に思う。
翌日の朝、俺は精華大学付属高校へとやってきた。
訪ねる先も方法も分からずアポもなし。校門前で待っていればと、
不審者覚悟で張り込んでいた。
学校の正門付近のガードレールに腰掛け、登校する生徒の流れを
目で追い続けた。
女子生徒達は一様に目の前を足早に駆け抜け、遠く離れて振り返
り俺の様子を窺う。
朝からずっとこの繰り返し、その都度警備に連絡されない事を祈
っていた。
好奇の目で見られるのは、チェンジリングの件で耐性が付いてい
る。
けれどこのリアクションは別格だ。不審者認定されるのは結構堪
えるものだ。
1812
﹁おなごの学校かの?﹂
物珍しそうに通学する女子生徒の見つめ、感嘆のため息を吐くカ
ナタとトウカ。
現代ではそう珍しくも無い女子高だが、過去の歴史を紐解けば珍
しい事なのかも知れない。
﹁そうだ精華大付属﹃女子﹄高校だからな﹂
精華大は女子大、必然的に付属校も女子高だ。
一時期男子にも門戸を開こうとしたらしいが、結局受験者が集ま
らず立ち消えになったそうだ。
分からんでもない、県有数のお嬢様学校だからな⋮⋮、部活には
期待が出来ないし肩身も狭かろう。
﹁おっ﹂
カナタが人波の中を見つめ、髪の毛を引っ張り俺に合図を送って
きた。
女子生徒の人波の中、見慣れた顔ぶれが目に留まった。
あちらも俺の存在に気が付いた様で、いぶかしげにこちらを見つ
めて囁き合っている。
双子の剣道姉妹、別所静音と綾音の二人だ。
﹁こら、ノゾキは犯罪だぞ﹂
手に持った竹刀袋を振り翳し、綾音が俺の前に立ち塞がった。
遅れて静音も綾音に習い、女子生徒との垣根となって両手を広げ
た。
1813
﹁カオルさん⋮⋮、駄目ですよ﹂
いや健全な女子を眺めに来た訳ではないのだが、この状況そう取
られても仕方ないか。
しかし剣道着以外の別所姉妹を見るのは、久方ぶりの事ではない
だろうか。
学校指定の革靴に白の靴下。膝下丈のスカートに古風イメージの
セーラー服。
赤のリボンで髪を束ねるのは綾音、青のリボンは静音のカラーか。
ぱっと見て分かりにくいから、色分けしているのだろうか。
﹁丁度良かった。人を探しているのだが、連絡手段が無くて途方に
暮れている。止む無くこうやって待ち伏せているのだ﹂
﹁うちの生徒を⋮⋮ですか?﹂
俺の話に耳を傾けてくれたのは静音。お人よしの姉と裏腹に、妹
綾音はなお犯罪者を見る目で睨んでいる。
なんでも信じてしまいそうな静音とストッパー役の綾音。この双
子のバランスは絶妙だと思える。
﹁二年の八瀬春菜。多分バスケ部所属。小学校の同級生だ﹂
﹁ああ、彼女なら知ってます﹂
静音はポンと手を叩き、綾音は呆れたように溜息を吐いた。
静音は綾音の吐いた溜息の意味を少し考え、納得したような表情
で口を開いた。
1814
﹁今日は女バスの朝練の日です。早朝に登校しているでしょうし、
今頃体育館で練習しているんじゃないでしょうか?﹂
綾音の言葉を代弁する静音。
あっちゃ∼、そういやうちの四条さんも早起きだ。
そこまで深く考えていなかったが、八瀬と四条さんがお友達とい
う事を忘れてはいけなかった。似たもの同士?
己の思慮の足りなささを痛感し、ガックリと肩を落とし途方に暮
れた。
﹁最寄の喫茶店は西に100m行った所にある﹂
綾音はそう言ってクルリと背を向けた。
静音は歩き去る綾音の背中を見て、クスクスと笑い俺に耳打ちし
てくれた。
﹁呼んで来てあげるから待ってなさいって意味よ﹂
そう言い残して綾音の後を追い、校門をくぐり抜けて走り去った。
俺は二人の背に頭を下げ、ガードレールから貰ったズボンの埃を
掃った。
こじんまりとした喫茶店は綾音が言うように、歩いてすぐの所に
あった。
白の建物でテーブル席が二つだけ、趣味でやっているような店だ
ったが、漂うコーヒーの香りは悪くない。
1815
俺はテーブル席に腰掛けて、カウンターの向こうで洗い物をして
いる女主人に声を掛けた。
﹁モカ﹂
女主人は人の良さそうな笑みを浮かべ、手挽きのミルに豆を仕込
んだ。
ゴリゴリと粉砕される豆の音を聞き、これからの事を考え目を閉
じて待った。
新しいコーヒーの香りが店の中に広がるまで、思慮を巡らせるに
は十分な時間だった。
﹁お待たせしました﹂
女主人の柔らかい声が耳元を撫ぜた。
女主人がテーブルにカップを添えた時、入り口のカウベルが音を
立てて開かれた。
赤のジャージに大き目のTシャツ。スポーツタオルを首に掛けた
八瀬春菜が入ってきた。
綾音の奴仏頂面しながらもすぐに伝えに行ってくれたのか。マジ
で感謝しなくてはならんな。
﹁私もモカ一つ﹂
テーブルの横へ小走りで駆けて来て、二コリと笑い向かいの席に
座った。
こいつ今、﹁私もモカを一つ﹂って言わなかったか?
匂いで嗅ぎ分けたのか⋮⋮、それとも見通していたのか。
恐らくいぶかしげな表情だろう俺を見て、八瀬春菜は分かりきっ
た事を説明するようにボソリと呟いた。
1816
﹁何故ここに来たのか知ってるのよ。カオルちゃん﹂
八瀬春菜は指を顎に置き、少し考えるような素振りを見せた。
八瀬春菜の能力である﹃近未来予知﹄、﹃事象操作﹄という言葉
が頭を過ぎった。
見えているのならなにも言わなくても分かるのだろう、しかしど
の程度まで分かり操作が可能なのだろうか。
﹁知っていたのなら声を掛けて欲しかったぞ。校門前で晒し者にな
らなくて済んだ﹂
そう、分かってるのなら⋮⋮。
俺は小学校の同級生だった八瀬春菜としてではなく、いつの間に
か退魔士ランクA++の八瀬春菜として向き合っていた。
言いたい事や尋ねたい事は山ほどあるが、まずは八瀬のいう事を
理解しないといけないようだ。
﹁それは駄目。今日は別所先輩と校門で会う事になっているから。
イベントを飛ばすと未来が変わっちゃう﹂
イベント? ゲームでいうフラグのようなモノだろうか?
てことは八瀬は静音と綾音と出会う事まで知っていた。その上で
事象を曲げないように待っていた?
﹁そっか⋮⋮、それは気を使わせたと謝るべきなのか? よく分か
らん﹂
﹁いいえ、私は﹃何もしないのが﹄いいのよ﹂
1817
そう言って恐縮する八瀬の前に、遅れてオーダーしたモカが置か
れた。
八瀬春菜は砂糖もミルクも入れず、ブラックのまま口を付けた。
そして俺の視線に気が付き、何か思い当たった様に慌てて手を振っ
た。
﹁えっ、嫌だ。ダイエットじゃないよ。太ってないもん﹂
﹁俺はなんにも言ってない﹂
俺もほんのりと冷めたコーヒーに口を付けた。
特別猫舌という訳では無いが、少し冷めたコーヒーの方が美味く
感じる。
﹁あんまり変わってないな。そそっかしい所とか、思い込みの激し
い所﹂
﹁︱︱人はそう変われるものじゃないよ﹂
八瀬はそう言って目を伏せた。
私はあの時と変わっていない⋮⋮、そう俺に伝えようとしている
のか。
俺はこみ上げてくる想いを抑える事が出来ず、テーブルに擦り付
ける様に頭を下げた。
﹁俺はあの時の事、少し前まで殆ど完璧に忘れていた。今でも完全
に思い出せないけど、俺のせいで八瀬は︱︱﹂
八瀬春菜はプクっと頬を膨らまし、俺の言葉に表情を変えた。
拗ねる様でいて、少し怒りを押し殺している。ジッと堪えて冷静
1818
になるまで言葉を選んでいるようだ。
﹁私が今までどうやって生きてきたか。今なら分かるよね、退魔士
ランクAのカオルちゃんなら﹂
無表情で冷たい瞳。普通の少女が纏う雰囲気ではない、本物のA
++のプレッシャーだ。
拳銃を突きつけられ死を覚悟するほど簡単に、何の武器も携えず
俺に死の予兆を与えてくる。
﹁それに私が退魔の世界に入るキッカケを作ったのは俺じゃないか
? でしょ?﹂
チクリと胸が痛んだ。
八瀬の方から言ってくれた分だけ楽ではあったが、本当は俺の口
から言って謝るべきだった。
八瀬はゆっくりと表情を変え、笑みを湛えた顔へと変化させた。
挙句の果てに肩を揺らし、クスクスと笑って俺の肩をポンポンと
叩いた。
﹁おあいこ﹂
﹁へ?﹂
﹁おあいこだから、気にしなくていいよ﹂
八瀬はそう言い、横に置いていたスポーツバック引き開け、その
中から大きな箱を取り出した。
新品の携帯電話であろう箱、俺と同じ機種の⋮⋮、色違いのシル
バー。
1819
﹁あの日あの時、こうしなかったらカオルちゃんは今ここに来れな
かった﹂
﹁これ、お前が?﹂
﹁うん、私も同じ物を使ってる。予備が家に6個あるよ﹂
苦笑しながらシルバーの携帯をテーブルに置いた。
女の子らしく綺麗に使われていた携帯は、テーブルの上に置いて
いた俺の携帯と同じ形。
あの時足を棒にして探し回った機種だったが、いくら探しても見
つからない訳だ。
﹁確かにあの時一つの分岐点を通過したのかも知れない。あの日が
無ければ俺は、今の俺じゃなかっただろう﹂
携帯を探して妥協した無駄な時間。
あの時間がなければ俺は美咲さんに出会っていなかった。
あの出会いがキッカケで、非現実の住人の事や退魔士の事、危機
を切り抜ける﹃長考﹄の論理を学べなかった。
カナタとの出会いも間に合わずに黒い犬に喰われていた。
﹁いや⋮⋮違うな﹂
カナタを手中に収める﹃イベント﹄があり、その帰り道に黒い犬
との遭遇があった。
未来は俺が思うほど単純では無いという事か。
﹁遅かれ早かれカオルちゃんの目覚めは近かった。覚醒と共にお母
1820
様から守り刀を手に入れるシナリオは、仲間を持たずに孤独な戦い
を強いられる。そして自分の力が及ばない強敵と戦って︱︱﹂
八瀬の能力は未来のビジョンを見る事が出来、分岐を理解し操作
する能力なのか。近未来視、事象操作とはよく言ったものだ。
現実に起こりうる﹁可能性﹂の分岐点へと導き、違う筋書きへと
操作する。
口では簡単に説明が付くが、同じ時間軸を生きながら、分岐点ま
での短時間に判断せねばならない。
見れる未来の時間までに、どれだけの分岐点があるのだろうか。
一つかも知れないし、ゼロかも知れない。逆に無限にあるのかも知
れない。
例えばだ。道を歩いていて石に躓く予知があるとして、石を取り
除けば未来を変えれるだろうか。
もし未来が変わったとして、それが転ぶより良い未来だと分かる
のだろうか。 ﹁カオルちゃんの能力を受け継いだお陰。現実を正しく見定める力
を得たの。でなければ私に未来視は芽生えなかった﹂
現実を正しく見定める力⋮⋮、見鬼の能力の事だろうか、それと
もカナタが俺に言ってくれた﹁真実を見定める眼﹂の事だろうか。
未来視出来る事とソレとは結びつかない。頭が混乱してしまいそ
うだ。
﹁だからキッカケはカオルちゃんだけど、未来視と事象操作は私の
能力として芽生えた。カオルちゃんが気に病む事はないよ﹂
そう言って昔の八瀬春菜らしい笑みを浮かべた。
この時俺は理解した。俺の未来視と八瀬春菜の未来視は全く違う
1821
ものだという事を。
﹁あつかましいお願いだが、俺には戦う力が必要なんだ。嫌だと押
し付けた能力だったが、俺の体に戻せないだろうか?﹂
恥を忍んで勢い任せに言ってみたが、これほど厚顔無恥な言い分
は無い。
人の人生を変えるほどの重荷を背負わせて、必要だからと言って
取り返す。
自分で言って置きながら恥ずかしさで頭が上げられない。
﹁やっぱり覚えていないのね。顔を見たら思い出すかと思ったけど、
まだ無理のようね﹂
八瀬はそう言って頭を上げるように、優しく声を掛けてくれた。
そしてゆっくりと昔話を聞かせてくれた。
1822
﹃八瀬ハルナ 02﹄
﹁私が知っているカオルちゃんは、大人しくて優しくて、そして少
し夢見がちな男の子﹂
八瀬は小学校時代の頃を思い出すかのように、目を閉じてゆっく
りと語り始めた。
客観的に自分の事を語られるのは、少し気恥ずかしい気がする。
けれど俺の知らない過去を知る唯一の人、傾聴しなくてはいけな
いと襟を正した。
﹁遠足の事件が起こるまで、私はそんな漠然としたイメージしか持
ってなかったな﹂
見鬼の能力をは誰もが持ち得る能力ではない。その頃の俺は他人
と違う自分に不安を抱いていた。
人に無い能力を持つ誇らしさを感じるより、どうして人と同じで
はないのだろうと考えていたのだ。
それは自分の中で抱えきれない程のコンプレックスとなって、覚
られてはいけない、言ってはならない事と思い始めていた。
同時に心の奥底を隠すという事に慣れ、うわべで人と接する事を
覚え始めていた頃の事だ。
﹁私は5年生の時、カオルちゃんと隣り合わせの席になった。︱︱
で、率直な感想は、﹃無愛想﹄で﹃つまんない﹄だったかなぁ﹂
八瀬はそう言い、顔を綻ばせて口を押さえた。
こういう時に見せる表情は、あの頃のままの八瀬春菜だ.
しかし時折見せる俺の知らない顔は、知らず歩んできた年月の長
1823
さを感じずにはいられない。
もしかして今見せている俺の表情も、八瀬にとってそう感じさせ
ているのかも知れない。
﹁遠足の事件があった後、私たちのクラスで二人は浮いた存在にな
ったね﹂
俺達以外のクラスで続発した霊障騒ぎ、難を逃れた俺達のクラス
は傍目から見て異常だった。
災難にあったクラスからは気味悪がられ、その矛先は俺へと向け
られた。
﹃アイツが何かしたんじゃねえの?﹄
誰かを犠牲に集団のバランスを取るのは容易い。
結論として俺がトカゲの尻尾切りにあい、全生徒から白い目で見
られるようになり、バランスが取られた訳だ。
だが八瀬春菜だけは俺を庇い、生徒との間に出来た溝を埋めよう
と必死になってくれた。
﹁俺の為に八瀬までつまはじきにあっちまった。友達だった奴らも
離れ、一人ぼっちになっちまった﹂
﹁一人じゃないよ。カオルちゃんがいたもの﹂
俺は八瀬が側にいるから、同じ目に遭うのだと思った。
近寄れば離れ、時には声を上げて拒絶した。けれどそんな俺を見
放す事無く、いつも側に寄り添ってくれた。
﹁あの時の八瀬が見せてくれた勇気に感謝している。素直になれな
1824
かったが、俺にとっての心の拠り所だった﹂
俺の中での八瀬春菜の存在は大きい。
今の俺がいれた理由の一つ。俺の生涯で一番大きな分岐点を共に
切り替えた者同士だから。
目の前で照れ笑いを浮かべた八瀬は、ゆっくり首を横に振っては
にかんだ。
﹁私にとっても同じ事だから。カオルちゃんに拒絶されると、本当
に一人になってしまうと思ってた。とっても怖かった﹂
そうはいえ原因は俺にあるのだし、同じといいながらも八瀬は被
害者だ。
昔からこうと決めたら信念を曲げない所がある。故に疎まれる事
も多いが、慕うものも多かったはず。
大勢の側について日和見を決め込む事は容易い、けれど八瀬はそ
うしなかった。
﹁あの時の事を⋮⋮﹂
﹁保健室の?﹂
極度のストレスからか吐き気を催し、授業を途中で抜けざるをえ
なくなった。
なにせ毎日学校に来るのが拷問のようだったし、精神的にも一杯
一杯だったのだと思う。
付き添うはずの保健委員も知らん顔で、見かねた八瀬が付き添っ
てくれ保健室まで行ったときの事。
寒々とした保健室に到着した時には、すっかり吐き気もおさまっ
ていたが、かといえ教室に戻れば元の木阿弥。
1825
保健医に不調を訴えて、ストレスから開放される事を選択した。
保険医は簡単な問診と体温測定をし、俺をベッドへ寝かせてくれ
た。
﹃あなたは授業に戻りなさい﹄
いつまでも俺の側にいた八瀬に対し、キツイ口調で嗜めた。
俺と同様に八瀬も辛い立場だから、授業に戻りたくない気持ちは
良く分かる。
けれど八瀬は保健医に対し、沈んだ表情で拒絶し首を振るのが精
一杯だった。
﹃ま、いいわ。あと10分で給食の時間だし﹄
保健医は苦笑して俺の隣のベッドを指差した。
戸棚から取り出したもう一つの体温計を八瀬に手渡し、校庭が一
望出来る非常口から出て行ってしまった。
顔色が悪い八瀬を見て休息の必要ありと判断したのか、それとも
ただ単に職務怠慢なのだろうか。そのどちらであれ、その判断に感
謝した。
八瀬は上履きを脱ぎ、ベッドへ横になりホッと安堵した表情を向
けた。
﹃カオルちゃん⋮⋮、これって仮病になるのかなぁ﹄
そう言いながらも悪びれず、ニコニコ微笑んで毛布を口元まで覆
った。
シンと静まり返った保健室は、壁掛け時計の時を刻む音だけが響
いていた。
消毒薬の匂いと寒々とした室内、外で聞こえる生徒達の声が、ど
1826
こか遠くの世界の様に聞こえていた。
﹁俺が覚えているのは、このシーンまでなんだ﹂
俺は女主人にカップを指差し、もう一杯お替りと合図を送った。
女主人は向かいの席に目を向け、八瀬は微笑んで﹃同じものを﹄
と返答し頭を下げた。
﹁じゃあ、その後の事は私から﹂
そう言って手元のカップを下げやすい位置に置き、頬杖をついて
続きを話してくれた。
﹃八瀬さんの方がぼくより辛そうだよ。仮病なんかじゃないよ﹄
俺はそう言って八瀬を慰めた。
そして自分の言葉に照れくさくなったのか、丸くなって布団を被
って背を向けた。
数分、数十分そうしていたが、ふと八瀬に対し寂しげに口を開い
た。
﹃ぼく⋮⋮、なんで人と違うのかな﹄
八瀬はその問いに答えを見つける事が出来ず、慰める事しか出来
なかった。
学級を救ったヒーローは、心が弱く、繊細で、脆い。
体は五体満足だけど、心は取り返しがつかないほどに傷ついてる
⋮⋮と、感じた。
﹃ねぇ、カオルちゃんと私で世界を救うヒーローにならない?﹄
1827
ふいに沸いて出た言葉が、こんなたわいも無い一言だったそうだ。
あまりの幼稚な言葉を聞き、俺は笑いが込み上げて来て現実に引
き戻された。
﹁世界を救うって⋮⋮、お前マジで言ったのか?﹂
﹁うん、大マジ﹂
八瀬は即答で切り返した。
女主人が一礼をして、新しいコーヒーをテーブルへと届けてくれ
た。
空いたカップを下げて、カウンターの奥へと引きこもり、店内は
再び二人の空間になった。
﹁カオルちゃんの能力があれば、世界を救う事だって出来ると思っ
たんだもん﹂
﹁だもんじゃねぇよ﹂
実際の所は世界どころか、仲間を救う事すら危うい。
そんな非力な能力だけど、そう評価して貰えたのは少し嬉しい気
持ちになる。
当時の俺もそうだったのだろうか。恐らくこそばゆい思いをして
いたに違いない。
﹁んで?﹂
﹁へ?﹂
1828
﹁へ? じゃねぇ。続きだ、話の続き﹂
八瀬は俺の物言いが気に食わなかったのか、念入りにコーヒーを
かき混ぜて喉を潤した。
両手持ちで子供がミルクを飲むような仕草をして、豪快に溜息を
吐いた。
﹃私はカオルちゃんの能力、とっても凄いと思うし羨ましい﹄
﹃夜トイレに行けなくなるよ?﹄
﹃それはヤダな﹄
八瀬が怖がって諦めたと思い、俺は話をする事を止めてしまった。
再び保健室に静寂が訪れて、時計の針の音が大きくなった。
﹃カオルちゃんは人と違うのが嫌だって言ってたでしょ? 私と一
緒だったら嫌じゃなくなる?﹄
﹃八瀬さんと?﹄
不意にベッドから跳ね起きて、八瀬は俺をジッと見つめた。
その時の事をぼんやりと思い出した。真剣な目と差し伸べられた
小さな手を。
﹃一人で抱えられない程嫌な事も、二人で分け合えば楽になれると
思う﹄
﹃二人で⋮⋮﹄
1829
その当時の俺は、その言葉が魔法掛ったように感じた。
俺は自然と伸ばされた手を握り締めて、念じたのだ。
﹃俺の力が八瀬さんに宿りますように﹄
﹃私のうーん、なにかとりえがカオルちゃんに宿りますように﹄
今思えば俺の充電の能力は、その時の残り滓かも知れない。
人に付与する能力、見鬼の能力、まだ芽吹いていない能力が交じ
り合った様に感じた。
そして俺と八瀬はその場で倒れ、意識を失ったまま病院に搬送さ
れた。
﹁あの後、俺は心に穴が開いて知人の法師に施術をして貰った﹂
﹁私の能力はカオルちゃんに届かなかった。そして行く宛ての無い
力が体内を駆け巡り、キャパシティオーバーの状態になった﹂
八瀬がそう言い終わると共に、見開かれた双眼に変化が訪れた。
瞳孔が少し閉じるように変化し、纏っていた気配が一変したのだ。
﹁そして、一つの人格で耐え切れなくなり、春菜の言葉通りに体内
で二つに分け分担した﹂
そこにいるのは八瀬の姿をしているが八瀬ではない。
A++として対峙し死の予兆を感じた気配を纏い、ただ静かに笑
っていた。
︱︱まるで死神の微笑みのように。
﹁この状態になる時、ボクは自分をハルナと呼称している。ボクが
1830
表に出ると主人格の春菜は心の奥底で眠りにつく﹂
﹁多重人格症⋮⋮なのか?﹂
解離性同一障害のような記憶の欠落なんてものではない。ハッキ
リと人格交代させたのが分かる。
口調も、目付きも、纏う雰囲気も。何もかもが別人になってる。
﹁異なる能力を制御する場合、その方が合理的なの。人格毎に﹁望
みの形﹂が違うから、この力は春菜では受け止め切れなかった﹂
美咲さんが望む人の繋がり、乃江さんが望んだ心の理解。﹁望み
の形﹂というのはそういうモノだろう。
とすると今見せている姿は、元は俺の能力でソレに合わせた人格
という事か?
﹁キミは八瀬春菜に能力が宿る事を望んだ。芽吹いていない未知の
能力を吹き込んでね﹂
ズキリと胸をえぐるような言葉を吐いて、目の前のハルナはコー
ヒーに砂糖を二杯放り込んだ。
趣味嗜好まで違うと言いたげな目をして、美味そうに喉を鳴らし
コーヒーを飲み干した。
﹁責めている訳ではない。本人もそう望んでいたし、受け入れた事
に対し喜びすら感じているから﹂
﹁八瀬は大丈夫なのか、こんな状態は普通じゃあり無いだろ?﹂
目の前のハルナは我関せずと、苦笑しながらも返答もしない。
1831
コイツは春菜の分身みたいなものじゃない。主人が死のうが知っ
た事ではないと思っている。
﹁今キミはボクを春菜から取り除かないとと思ったね? 普通の少
女に戻るにはそうするしか無いと﹂
目の前のハルナは呆れて首を横に振り、まるで虫けらでも見るよ
うに俺を見下した。
俺の手がトウカのナイフを握るまでに二度殺される。一度目は斬
ると考えた時、二度目は柄に手を掛けた時。
漠然とだが明確に死のタイミングを理解出来た。
春菜が目の前にいて、出来る訳はないのに。明確な死の予兆だけ
はビジョンとして映し出され、脳裏を掠めていく。
﹁春菜はもう普通には戻れない。何故なら未来を見る能力は、死の
淵で理解した自分自身の能力だから﹂
﹁なに?﹂
﹁ボクは春菜を守る人格。見える能力で現実世界の舵取りを手伝っ
ているだけ﹂
コイツのいう事が本当なら、俺の力を送り込んだ事による呼び水
の効果、触発されて能力に目覚めたのかも知れない。
かくりよ
死の淵でと言っていたならば、尚更納得がいく話だ。
死を体験すれば、幽世に近い所に身を置くという事。臨死体験を
経て能力者になる者も多いと聞く。
ならばコイツの力は、真実を見定める目という事になる。
春菜が未来を予知し、ハルナが現実を見て操作する。そういう役
割分担なのかもしれない。
1832
﹁時間が無いから手早く言う。キミの持つ疑問は、自分に芽生えた
未来の予知、能力取得の異常性、後は元通りになれるか? だよね﹂
ハルナとは殆ど言葉を交わしていないのに、スラスラと俺の疑問
を列挙していく。
ゾッとするほどの洞察力、いや春菜の中にいて感じているのかも
知れない。こうなる事を。
﹁未来予知に関しては分かりやすい。キミは今、死に近づいている。
だから死の予兆を敏感に感じてるんだよ。それは動物本来持つ能力、
天変地異の前に予兆を感じるように、魂喰いに反応しているんじゃ
ないか? 継続的に死の予兆を感じ続ければ、春菜と同じ能力にた
どり着けるだろうけど、その前に死ぬよね?﹂
ちっ、俺はネズミか鯰扱いかよ。
確かに予知というには偏りが激しすぎる。魂喰いに全滅させられ
る隊員、同じくチェンジリングの人形達も。
キーになっているのは魂喰いか。
小学生の時の予兆は、鎧武者の影響。同級生の半数を霊障にさせ
るパワーだから、身の危険を如実に感じても不思議ではない。
﹁能力取得にしても簡単だ。比叡の法師は精神を保護するだけの施
術を試みただろうか? 術が薄れる前に穴を埋める導引の法ではな
かったのか?﹂
コイツの言い方は癪に障るが、言っている事は筋道が立っていて
じえいあじゃり
納得できる。
慈英阿闍梨も言っていた筈。
術も徐々に解けつつあり、いま解呪せずとも数年で外れる。心が
1833
成長すれば術も必要ないと。
心の成長というのはズバリ精神にあいた穴が、別の物で埋められ
つつあるという事だ。
そしてそれは俺の心を変調させるほどでは無くなったという事だ。
﹁納得いった様だね、そしてそれが第三の答え。覆水盆に返らず。
空き容量が無いのにダウンロードは出来ない﹂
俺の空白には色々な物が詰まってしまった。
もしかすると美咲さんから受け継いだ長考か、乃江さんの体術か
も知れない。
宮之阪さんや山科さんに教わった霊気コントロールかも知れない。
母やキョウさんに教わった剣術、体術、五行の理かも知れない。
どれもこれもが今日の俺を支えてくれる技ばかり。これ無くして
は戦えないものばかりだ。
﹁ヒント。子供の頃の春菜が50、カオルから与えられた力が15
0だとしよう。春菜は200の容量を得た。今ここで100をマイ
ナスしても、100には戻らない。いずれは200へと戻り春菜を
苛める﹂
小さな泉を大きな泉に変えた理論だな。水は減るがいずれは満ち
る。
一度こじ開けてしまった大きさは、小さくする事は出来ないと。
︱︱︱︱待て、こいつは今ヒントと言った。その論理は俺にも当
てはまらないだろうか。
俺が150で容量一杯。八瀬と同じ様にこじ開ければ、容量アッ
プ出来るという事じゃないだろうか。
﹁理解したね。キミに足りないのは能力でも技でもない、ただキャ
1834
きりふだ
パシティ不足なだけ。開眼しないのも刀を制御できないのも、キャ
パシティ不足から来るもの﹂ 穴の開いた時から俺は成長していない。
ようりょう
能力がではなく容量がだ。不足する穴埋めに躍起になり、本来の
姿のまま成長してしまった。
姿かたちは成長しているが、小学五年生の体で今の能力を詰め込
み限界に来てしまったように。
﹁そろそろ春菜と変わらねば。覚醒と眠りには体力を使うものだ。
またいずれ﹂
そう言って慌しくハルナの気配は消えていった。
もしかして春菜は、ややこしい説明をハルナに任せたのではない
だろうか。
言い方は癪に障るが理知的で説明が上手い。こういう事も分担作
業をしているのかも知れないな。
﹁春菜、大丈夫か?﹂
呆けている春菜は、目の焦点をコーヒーカップへと移した。
そして目を見開いて大粒の涙を流し始めた。
﹁酷い。コーヒーが無い﹂
いや飲んだのはお前だから、ハルナが代理でお前の胃に送り込ん
だのだ。
これはもしかして食の共有感が無いという事か? 夕食後に切り
替わればもう一度夕食を食うみたいな。
体重を気にしているのがよく分かる気がする。
1835
﹁ハルナは砂糖2杯入れて豪快に飲んでいた﹂
﹁嘘っ? ダイエット中なのに⋮⋮﹂
止め処なく流れる涙をオシボリで押え、過ぎ去った過去を惜しん
でいた。いや後悔してるのか?
しかし不意に泣き声が止み、オシボリはテーブルへと置かれ、表
情はしまりの無い笑顔、とても変な表情へと変わっていた。
うつ
﹁今カオルちゃん、私の事﹃春菜﹄って言ったよね?﹂
﹁︱︱︱︱言って無い﹂
ちっ、ハルナが出てきて春菜、春菜と連呼したから感染ってしま
った。
なんか今更八瀬と言う方が違和感を覚えてきたし、ハルナがいる
なら春菜と呼んだ方が便利かも知れない。
﹁これからは春菜と呼ぶ事にする。誤解するなややこしいから統一
する為だ﹂
﹁うむ! 存分に呼ぶがよい﹂
ハルナとのギャップに腰砕けになりそうだが、二人あわせて春菜
でありハルナなのだ。
一つの個性だと思えば、なんとなく理解できるかも知れん。
﹁春菜、容量アップ頼めるか?﹂
1836
﹁やだな、元はカオルちゃんの力じゃないの。けれどこれであの時
の約束守れるね﹂
俺はテーブルの上の春菜の手を握り締めた。
次に起こるハズのインパクトに備え、身を固くして身構える事し
か出来ない。
しかし何時まで経っても変化は訪れず、俺はゆっくりと目を見開
き春菜を見上げた。
﹁やだ⋮⋮﹂
八瀬春菜は真っ赤な顔をして身悶えていた。小学校の時は自分か
ら手を差し伸べた奴が、何を今更と言いたくなる。
こいつ本当にA++なのだろうか⋮⋮。凄く不安になって来た。
1837
﹃八瀬ハルナ 02﹄︵後書き︶
過去の回想シーン。
聞き手のカオル視点で八瀬が語る。
カオルの伝聞調で文章を構成せず、一旦噛み砕いて自分の言葉とし
て伝える。
我ながら無茶な書き方だと思います。
この件に関してこれはちょっと⋮⋮思われた方、ご一報を。
1838
﹃交換の儀式﹄
﹁ごめんね。ちょっと男の人に免疫が無くて⋮⋮。中学校、高校と
女子校だったし。あはは⋮⋮﹂
春菜は口籠もりながら色付いた頬を指で掻いた。
そうあからさまに意識されるとむず痒くて仕方ない。正直どうリ
アクションしていいのか分からない。
ただ小学校の保健室での儀式を再現せねば、容量アップも能力の
揺り起こしも出来やしない。
あの時と同じく相手を思い力を放出し、届けようとする気持ちが
無ければ成功しないだろう。
春菜は落ち着きを取り戻し、深呼吸を一つして、テーブルの上の
手をそっと差し出した。
﹁ごめん。準備オッケー﹂
春菜の表情にもはや羞恥は見えず、迷いの無い目で見つめ返して
きた。
ゆっくりとテーブル上で重なり合おうとする二つの手。
俺の手と春菜の手がテーブルの中央で一つになり、二人の霊気が
反応してまばゆい光を発し始めた。
﹁私の能力がカオルちゃんに宿りますように﹂
﹁春菜に預けていた俺の力をこの手に︱︱﹂
春菜の手から勢い良く霊気がほとばしり、津波の様に俺の手に流
れ始めた。
1839
流れに身を任せ心を開放しようとした時、俺はハタとある事に気
が付いた。
﹁ちょっと待った!﹂
﹁わわっ!!﹂
とど
春菜はもう一つの手で手首を掴み、ほとばしり流れゆく霊気を体
内に留めた。
第一波が体を駆け巡り気が遠くなりそうになったが、同時に襲っ
てきた酷い頭痛のおかげで踏み止まる事が出来た。
一拍置いて鼻腔を流れ出る温かいモノを感じ、制止を掛けて正解
だったと確信した。
﹁ここで﹃儀式﹄をするのは不味い。店に迷惑を掛けてしまう﹂
慌ててポケットからハンカチを取り、勢い良く流れ出る鼻血を拭
った。
ほんの少し霊気を流されただけで、意識は飛びそうになるし、バ
ットで殴られた様に頭が痛い。
おまけに一発貰った後のように勢い良く鼻血が出るし、本格的に
流されたら意識を保っていられるか⋮⋮。
﹁あはは⋮⋮、そういえばそうだ。私達って過去から何も学んでな
いね﹂
うぶ
﹁それに流し込んだ後の春菜も心配だ。ここでダブルノックダウン
は不味い﹂
女主人からみれば、手を握って鼻血を出した初心な男の子に見え
1840
るかも知れん。
けれど正直このまま病院に直行してもおかしくない程のダメージ
を受けている。
今のでどれくらいの霊力が流されたのか、想像するだけで鳥肌が
立ってくる。
﹁目覚めていない小学生の頃と退魔士としての今、同じと考えると
とんでもない事になるかもな﹂
﹁私⋮⋮限界ギリギリまで送り込もうとしてた。それってマズイ?﹂
限界ギリギリって、退魔士が一度に出せる限界値、恐らく全霊力
量の半分か。
春菜の活動が停止するかもしれないし、俺は内部から破壊されて
肉塊になってもおかしくない。
霊力をコントロール出来ていない子供の頃とは違い、今の春菜は
退魔士の最高峰A++の能力を持つ。
質も量もあの頃とは段違いに成長しているはずだから。
﹁逝っちまう前に聞いておきたい事が一つある﹂
﹁なに? あらたまって﹂
﹁真実を見定める目ってなんだ?﹂
運良く俺がリタイヤせずに済んだとして、送り込んだ春菜が無事
だとは限らない。
死ぬまで霊気を放出させる心算は無いが、聞きそびれる前に聞い
ておきたい。
ジッと春菜の目を見つめ、返答に対する答えを待ったが、当の春
1841
菜は苦笑して目を泳がせるばかり。
﹁︱︱もしかして知らんのか?﹂
﹁えっ、ううん、ちがうの。ちょっと説明が難しくて﹂
春菜は鞄からノートを取り出し、使われていない巻末の一ページ
を開いた。
シャーペンを手に取り、真新しいページに﹃真実﹄と小さく書き
俺に問い質した。
﹁真実ってなにか知ってる?﹂
﹁嘘の無い本当の事だろ?﹂
俺は﹃真実を見定める目﹄について長い間考え続けていた。予習
は完璧、お陰で即答する事が出来た。
真実の対義語は虚偽、嘘で真実を偽る事だ。真実は概ね﹃嘘の無
い本当の事﹄という事になる。
春菜は真実の横に﹁嘘﹂と書き、対義語の意味として書き連ねた。
﹁その通り、嘘の無い事が真実。逆に嘘がなければ全てが真実とい
う事ね﹂
﹁ん? どういう事だ?﹂
よく言うじゃねぇか、真実は一つだと。
けれど春菜のいうニュアンスだと、真実は一つではないという風
に聞こえる。
1842
﹁真実は一つではなく、人の数だけ真実が存在するの﹂
例えばと言葉を繋げ、春菜は分かりやすく例を挙げて説明してく
れた。
俺と春菜は小学校の同級生で退魔士をしている。今俺たちは喫茶
店で仕事の話に絡んだ過去の話をしている。
けれど女主人にしてみたらどうだろうか。高校生の男女が学校を
サボってお茶していると思う。これも嘘の無い真実。
通りを歩く精華の女子が見かけたら、真面目な八瀬さんを喫茶店
に引っ張りこんだ、素行の悪いの俺が目に映るはず。
俺を知る仲間が見たとして、この大切な時期に何をイチャついて
いるのかとぶっ飛ばされる訳だ。
全てが事実ではないが、それぞれの人の目に映る真実だ。
﹁真実ってのは、ガッチリとしたモノだと思い込んでいた﹂
﹁真実には主観の意識が付随するの。見る角度・立ち位置、見る人
によって変化するのね﹂
言われて初めて気が付いた。
個人の主観の相違によって、色々な真実が生まれる事を。
カニの苦手な葵と大好物の俺。同じカニを見て思うことが違う。
﹃ご馳走﹄と思うか﹃泣きそう﹄思うかみたいなもんか。
﹁でもね小学生の頃カオルちゃんは考えたはず。見えるボクの目が
真実を見ているのか、見えないみんなが真実を見ているのか? と﹂
俺を見通すような目を向け、語る一言がズキリと胸を刺し貫いた。
小学生⋮⋮、いや、もっと前からこの矛盾について頭を悩ませて
いた。
1843
俺は嘘を言っていない﹃真実﹄を伝えても、見えない他人には﹃
虚偽﹄として伝わってしまう。
俺からすると全員が俺に﹃虚偽﹄を言って、俺を悩ませているよ
うに感じていた。
﹁真に本当の事を﹃事実﹄と仮定して、事実がなく真実だけある事
象もある﹂
﹁そんな事ある訳ないじゃないか﹂
﹁理論的にという意味。誰も見たことの無い箱の中、唯一垣間見た
人が﹃なにも入っていない﹄と言い海に投げ捨てた⋮⋮とか﹂
どこかで聞いた事のある理屈だ。確か﹃シュレーディンガーの猫﹄
という理屈に似ている。
シュレーディンガーの猫というのは、量子力学的な実験の論理だ
ったかと思う。
中を覗く事の出来ない箱の中に猫を一匹、核分裂を起こす可能性
のある放射性物質、核分裂を感知して毒ガスを発生させる装置を入
れる。
物質崩壊がいつか分からない観測者は、箱の外から中の様子を想
像するしか出来ない。
分裂の発生や猫の生死を確認する為には、箱の中をあけて確認し
なくてはならない。
生か死かそのどちらかの状態になっている﹁はず﹂猫は、観測を
終えるまでそのどちらでもなく中間の状態になっているというもの
だ。
生きてるとも言えるし、死んでいるとも言える酷く中途半端な状
態だと言われている。
まぁあくまでも哲学的、論理的な話だが。
1844
﹁投げ捨てた箱を一人が覗き見た﹃真実﹄は、個人の主観による真
実であり事実でない。じゃあもう一人が確かめれば﹃事実﹄になる
のか?﹂
﹁なるほど、一人目と二人目は同じものを見るとは限らない。そし
て例え全人類が覗き見ても事実にはなりえない。真実は数多にある
という訳か﹂
俺と同じく見鬼の能力を持つ人間を何人連れてこようと、それは
見えない他人にとって客観の真実に過ぎない。
見えない第三者に﹃真実﹄を﹃真実﹄として伝える事は出来ない。
﹁この世には主観による相違が存在すると考え、事象はあやふやな
存在だと位置づけた。これがハルナの事象操作能力﹂
春菜の言わんとする事がなんとなく伝わってきた。
言葉遊びのような感性だが、真実を重ね合わせてもより真実に近
い真実にはならない。
100万人が否定する一つの真実は、100万の真実と同等の価
値がある。
﹁ありがとう、それで十分だ﹂
元々能力とはそういう曖昧なものを元に構成されている。
美咲さんの﹃赤い糸﹄は人と人の間には縁があるとして、繋がり
を持っているという﹃前提﹄から生まれている。
乃江さんも同じ、心には目に見える風景が存在するという﹃前提﹄
があり、触れる事によりそれを目にすることが出来ると﹃仮定﹄し
ている。
1845
赤い糸や心象風景が見えるから、自分の能力があると自覚できる。
だが見えないからといって、その能力、赤い糸や心象風景の存在
を否定できるのだろうか。
見えるから赤い糸が存在し、心象風景があると言えるだろうか。
その答えを導き出す事は難しい。
能力は信じる心から生まれる物。見えるのも真実、見えないのも
真実、あるのも真実、無いのも真実。
信じる力の強さ一つで虚偽を真実に変える事が出来る。
﹁これは小学生の頃のカオルちゃんの論理、今とは違うカオルちゃ
んの︱︱﹂
﹁分かってる。能力の芽吹くタイミングを逸しているという事だろ
?﹂
﹁⋮⋮そう。今のカオルちゃんなら違う真実を見定める目になる可
能性が大きい﹂
気付くタイミングを逸してしまい、芽吹きのタイミングを霊力不
足で過ごした。
春菜は言いにくそうだが、俺に能力が芽吹かない可能性も大きい。
芽吹かなければそれはそれ、仕方がないと諦めるしかない。
けれど切り札である鎮魂の刀を持つ事が出来る公算は大きい。そ
れだけでも十分有り難いと思わねば。
﹁出ようか﹂
俺は鼻を押えていたハンカチをポケットに押し込み、替わりにポ
ケットから財布を取り出した。
しかし春菜は俺より早く会計伝票を引っ手繰ると、鞄を背負い足
1846
早にレジへと向かった。
﹁こういうのは先輩が後輩に奢るものよ﹂
手に持った伝票をヒラヒラとはためかせ、先輩退魔士としての威
厳に拘った。
俺は苦笑しながら春菜を見送り、俺は一足早く店を出た。
遅れて出てきた春菜は車道に身を乗り出し、手馴れた動作でタク
シーを呼び止めた。
押し込められるようにタクシーに乗り込んで、二人は精華大前を
後にした。
﹁X町三丁目付近、病院の側まで﹂
春菜はそう運転手に告げ、俺に耳打ちをしてくれた。
倒れるなら病院がベスト。理解のある医者を知っているから頼る、
と。
・・
そう言いつつポケットから携帯を取り出し、手馴れた指捌きで電
話を掛けた。
﹁恐れ入ります八瀬と申しますが、先生いらっしゃいますでしょう
か?﹂
畏まった口調で電話をし、しばらくの間待たされていたようだが、
目的の人物に取り次がれたようだ。
最初の口調と打って変わった気さくな口調で話し、形式的な挨拶
を済ませた。
﹁話していた例の彼を連れて行きます。また後で。ではでは﹂
1847
話し終わり携帯を畳んだ春菜は、一つ溜息を吐いて呼吸を整えた。
事前に話しをしていたという事は、春菜の精神的なケアをしてい
る医者なのだろうか。
ハルナという人格を持つ事は、それほどに負担が掛るという事な
のだろうか。
それとも実験対象か、訳の分からない薬打たれたり、体の隅々ま
で調べられたりするのだろうか。
真琴に聞いた事があるが、採血、脳波、CTスキャン、fMRI
は当たり前。
挙句の果てには何もない真っ白な部屋に缶詰にされ、心理的な変
化もチェックされるらしい。
俺なら大暴れしてそうなメニューだ。
﹁絶望的な事かも知れないけど、私が能力に目覚めたのは中学生に
なった頃、目覚めに一年掛かったわ﹂
﹁分かってる﹂
目覚める前に戦いが始まっている可能性の方が大きい。
でも未来を見通せる春菜なら、この先どうなるか分かるのではな
いだろうか。
﹁見えないのか? 俺の未来﹂
春菜はらしくなく親指の爪を噛み、苦々しい表情で言葉を紡いだ。
﹁未来を知れば未来が変わる。私が係わる未来は固定されない﹂
﹁すまん、理解不能だ﹂
1848
﹁予知した未来は予知する前の私の未来。予知した後の私の未来は
また別の未来になっている。OK?﹂
そうか⋮⋮、春菜は未来を見通し変化を与える。
第三者の未来を見た場合、告げれば未来を変え、何も告げなけれ
ば未来は変わらない。
自分の絡む未来を見る事により変化が加わる、再び変化した未来
を垣間見れば更なる変化が起こる。
当事者である春菜には、事象の変化を固定する術がない。
﹁私は何もしないのが良いといったでしょ? そういう事﹂
占い師は自分を占わない理屈と似てるかも知れない。
占いが自分への変化を与えるパラドックス。無限のループに陥り
未来が不確定になる。
まるで自分の尻尾を追いかけている猫のようなものだ。
﹁お客さん、ここで宜しいか?﹂
不意にタクシーは路肩へと停車した。
道を挟んだ白の建物は、個人病院としてはかなり大きいものに属
するだろう。
門構えと専用の敷地、大きな駐車場を完備した7階建ての建物だ
った。
﹁行こ?﹂
春菜はタクシーの運転手から領収書を受け取り、大事そうに財布
へ入れた。
春菜の奴⋮⋮意外としっかりしてる。個人事業主はこうあるべき
1849
だな。
勝手知ったる春菜は正面玄関を通り抜け、外来受付で一言二言会
話をした。
﹃八瀬院長、程ほどに急いで受付まで﹄
受付の係員は内線電話を操作し、緊迫感のないスタットコールが
院内に鳴り響いた。
米国の医療ドラマだともっと緊迫感があるのに、ここはなんだか
平和だな。
しかし、なんか聞いた事のある名前だよな、八瀬、八瀬⋮⋮。
﹁︱︱八瀬!?﹂
﹁うちのパパだよ。知らなかったっけ? ここは八瀬病院﹂
いいや、聞いた事もないし、話された記憶も無い。
開業医=お金持ちの論理から言えば、八瀬家はお金持ち? デカ
イ個人病院の院長の娘、何気にセレブだ。
﹁春菜はお嬢様?﹂
﹁違うよ、お小遣い1万円だし﹂
退魔士の癖にお小遣い貰っているのかとツッコミ待ちの春菜。美
味しい状況ではあったが、俺はあえてスルーした。
そういえば精華大付属は県内有数のお嬢様学校だ。別所姉妹が通
っていたので、感覚が麻痺してしまっていた。
﹁春菜∼﹂
1850
病院内だというのにドタバタと廊下を走ってくる医者が一人。
風体は髭面のメタボリックな感じだが、貫禄があるといえばそう
とも取れなくもない。
開業医というよりは⋮⋮、ヤクザな感じ?
﹁パパ∼﹂
外来のど真ん中で抱き合う親子。この病院の日常なのだろうか、
外来で待つ患者達には日常のようで見向きもしない。
俺はコッソリ受付の女性に耳打ちした。
﹁これ、いつもの事なの?﹂
受付の女性は苦笑し、我が事のように恥じて頷いた。
道理で忙しそうに走り回る看護士達は、この光景に目もくれない。
学校の時間に娘が訪ねて来て、満面の笑みで向かい入れる父親、
懐深すぎだろう。
﹁キミが三室カオル君かね?﹂
暑苦しい抱擁を交わした八瀬院長は、見つめる目を娘から俺へと
移した。
静かに見定めるような目は、俺を咎めているように見える。春菜
に起こった事を鑑みれば、非難の目を向けるのも仕方ないか。
﹁ハイ、その節はご迷惑おかけいたしました﹂
物静かに立つその姿は、先程までの馬鹿親の姿ではない。
憤怒の表情で立つ不動明王の姿に見える。
1851
﹁娘はやらんぞ﹂
﹁は?﹂
このシリアスムードにそぐわない、どこか不思議な言葉が聞こえ
て来た。
俺はやっぱり馬鹿親らしき院長に対し、間抜けな返事をするしか
出来なかった。
﹁娘はやらんと言ったのだ﹂
﹁いりません﹂
俺は売り言葉に買い言葉、即答で春菜への誤解を解いた。
だがしかし、馬鹿親に火をつけてしまったのか、顔を真っ赤にし
烈火の如く怒鳴り散らした。
﹁なにぃ、春菜がかわいくないと? お前の目は節穴か!﹂
﹁勘弁して⋮⋮﹂
ホレ見た事かと娘を我が背で隠した院長。
春菜もこの状況を楽しんでいるらしく、何も言わずにいて、親の
背中で笑いを堪えている。
この状況になっても、ガン無視の患者や看護士の様子を見ると、
これもまた八瀬病院の日常のようだ。
﹁春菜⋮⋮、なんとかしてくれ﹂
1852
﹁なっ! 名前で呼び合っとるのか、破廉恥な!﹂
俺は脱力し床に突っ伏すしか出来なかった。
しばらく親父にイジられた後、俺達は病室へと通された。
患者が入院し寝泊りする病室ではなく、重篤患者を扱う部屋、I
CU︵集中治療室︶だった。
俺は言われるがまま上着を脱ぎベッドへと横たわった。
看護師が二名、胸と頭になにやらケーブリングを試み、頭の上の
モニターをチェックしている。
心電図と脳波測定か⋮⋮。ヒーロー物の改造手術みたいな気分に
なってきた。
﹁ほぇぇ、傷だらけだね﹂
枕元に立つ春菜が感心したように見下ろしている。
キョウさんと母の修行の痕だな。手加減されていたとはいえ、何
度も斬られたもんな⋮⋮。
刃物傷はキョウさん、打撲痕は母からのプレゼントだ。
﹁CTスキャンやfMRIでモニターしたい所だが、生憎予約患者
が使用中だ﹂
八瀬院長の表情は、馬鹿親面からマッドサイエンティストへと変
化していた。
まな板の鯉の気持ちが良く分かる。こんな風に諦めの気持ちで見
上げているのだろう。
1853
一思いにやっとくれ!
﹁春菜は心電図取らなくても良いのか?﹂
俺ばっかりが事後対策されていて、少し申し訳ない気持ちになる。
受け取るのも出す方も、その瞬間のリスクは同等だろうに⋮⋮。
春菜は二人の看護師と目と目で語り合い、三人は非難する目を俺
に向けた。
﹁エッチ!﹂
言われてはじめて気が付いたが、胸を肌蹴させるのが嫌らしい。
見たくないと言えば嘘になるが、今はそれ所の話じゃないだろうに。
ヒソヒソと耳打ちしあう看護師達、赤面して胸を隠す春菜。どう
やら八瀬病院はこんなノリらしい。
俺はこの病院には厄介になりたくないと思いつつ、目を閉じて覚
悟を決めた。
﹁何時でも良いぞ。覚悟は決まった﹂
俺は春菜の手を握りこんだ。
院長もこの時ばかりは無駄なツッコミを入れなかった。
春菜は深呼吸をし、看護師達は息を呑んだ。
﹁行くよ?﹂
俺の返答を待たず、一呼吸置いて霊気が放出された。
手に巻いていた山科さん手作りのバンドが紙吹雪のように吹き飛
び、圧縮した霊気が俺の体を駆け巡った。
急激な変化を見せる機器を見て看護士達が悲鳴を上げ、ケーブリ
1854
ングされていた測定器がブツンと音を立てて沈黙した。
1855
﹃吉兆・凶兆﹄
﹁うわっ⋮⋮、縁起悪う﹂
カオルとお揃いのリストバンドが音も無く切れた。
おの
お揃いといっても、浮ついた気持ちで着けていた訳ではない。
人に苦役を強制する時は、己がまず手本を示せという言葉を忠実
に守っただけ。
幼い頃から呪符の類で霊力の矯正されとったし、今更リストバン
ドなど苦にする事も無かったのだが。
能力を最大限出し切れと、考え様によっては吉兆と言えるかも知
れんし、最初に思った通りの凶兆かも知れん。
どちらにしろ気を引き締めて物事に取り組めという啓示に違いな
い。
﹁それカオルのとお揃いじゃねえか?﹂
牧野はニヤリと笑い、からかう様な目を向けてきた。
そんな風に意識はしたこと無いけど、からかわれると途端に頬が
紅潮する。うちは滅法打たれ弱いんや。
﹁そんなんちゃう!﹂
﹁そっかなぁ、ムキになるところがア・ヤ・シ・イ﹂
﹁うっさい、はよ書き﹂
﹁俺の方が枚数多く書いてんだろ!﹂
1856
机を囲みいがみ合う二人を見て、亜里沙さんが咳払いを一つした。
机に詰まれた書類の束をジッと見つめ、何か物言いたげな表情を
している。
﹁あはは、分かってるって﹂
﹁事務処理! 最高!﹂
うちと牧野は亜里沙さんの機嫌を損ねないように、再び書類の束
へと向き合った。
もっと
なにせ事務所を無料で間借りしているし、一つしかない机を占領
してる訳やから、ご機嫌ナナメなのは尤もな話。
昨日一晩で回った建物は十箇所、そのうち不浄な気が溜まりつつ
あった場所が二箇所。
その二箇所でいずれも魔物化した瘴気と格闘となり、滅した魔物
は三十体を超えた。つまりは小粒な魔物が三十匹いた訳だ。
何時もなら戦闘箇所と魔物の形状、数量と時間を美咲に報告して
終わり。けれど今は隊を離れての単独行動中、ゆえに自己申告の真
っ最中なのだ。
かみ
しっかし一匹に対して三枚の報告書が必要ってどういう事や? 一匹一枚でも多いのに、お上は申請して欲しくないんやろか。
そう考えると美咲の事務処理能力、あれは特殊スキルと呼べるシ
ロモンやな。うち、こんなに文字書くの久しぶりやわ。
﹁三枚書いて数十万の利益だったら、この不況の世の中、誰でも喜
んで書きます。世間の価値観をお忘れにならないように﹂
亜里沙さんって人は、表情を見て心の内を読み取るのが得意のよ
うだ。
恐らくうちは、﹃小粒やしええやん﹄と言いたげな表情をしてい
1857
たに違いない。
亜里沙さんは牧野の誤字を指摘しつつ、溜息を吐いて苦言を呈し
た。
﹁価値観の違いは心のすれ違いを生むのよ? 世の主婦は一円でも
安い物を求め、旦那様は数十万をはした金と思う。それでは︱︱﹂
静かな口調で牧野への説教が始まった。
一見牧野が主導権を握っていそうなカップルだが、よくよく見る
と完全に亜里沙さんの尻に敷かれてる。
けれど笑ってばかりはいられないのが本音のトコロ。
狩りをする戦闘能力が高くても、事務処理能力がダメなら商売は
成り立たん。
事務職を一人雇うという方法が一番やけど、やっぱ美咲に敵う者
はおらんなぁ⋮⋮。
将来的には真琴に頼むか、いや、あかんやろな⋮⋮逆に説教され
てしまいそうや。
﹁でけた。後は牧野の分や。将来の為に必死こいて書くんやで?﹂
将来的に亜里沙さんは公務員辞めて、事務処理したら二人はベス
トカップル。⋮⋮とは言えんやろな。
退魔士は社会的に認められとらんし、口憚られる職やしな。
子をなして成長したら﹃おとうさんの仕事はなぁに?﹄って聞か
れるやろ? パパ涙目や。
牧野の頭の出来を考えると大学くらい行くやろし、亜里沙さんの
歳を考えると一人目はよ欲しいやろし。微妙な関係や。
一見するとヒモみたいに見える牧野パパは、ご近所さんの風当た
りは強い。
よう稼ぐやろけど、子や家庭に対して立場は弱いわなぁ。
1858
﹁なに憐れみの目で俺を見つめている? 良からぬ事を考えてない
か?﹂
まだまだ事務処理真っ最中の牧野だが、目を細めて私を睨み付け
た。
ぶっちゃけ牧野の筆が遅い訳やない。コイツの討伐数の方が圧倒
的に多いんや。
将来有望、かつ顔も悪うないと来れば、言い寄る女性も多いやろ
かのじょ
し、亜里沙さんも気が気では無いやろな。
﹁牧野には過ぎた相棒やなぁと、感心して見とってん。美人やし脚
綺麗やし、財布の紐もシッカリしとる﹂
そんでもって褒められると素直に喜べず、俯いてしまうとことか
カワイイやん。
うちも馬に蹴られんように気を使わなアカンかも。
夜勤用に当直するんかして、シャワーもあるし和室に布団も完備
してあるけど、風呂はやっぱりカポーンやろ?
﹁飯食って風呂行ってくるわ。近所に小奇麗な銭湯あったしな。二
時間程したら戻ってくる﹂
﹁︱︱飯?﹂
牧野がキョトンとした表情を向けてきた。対する亜里沙さんはう
ちの意図が通じた様で、目を伏せて頬を赤らめている。
男はこういう時鈍感でいかん。二人っきりの二時間や、言わんで
も分かるやろに⋮⋮。
お邪魔虫はそろそろ退散してと、後ろで手で二人に挨拶しハバロ
1859
フスク貿易を後にした。
この二人のアツアツぶりを見てたら、二時間じゃ足らんやろなと
深い溜息を吐いた。
﹁姉さんも大変でんな﹂
あだな
究極の引込み思案、風の精霊グラビティが姿を現した。
コイツの渾名メタボからヒッキーに変更してやろうか。
周囲を取り巻く旋風が一所に集まり、密度を増してプニプニのメ
タボスタイルへと具現化した。
﹁メタボ、お前⋮⋮風呂って単語に反応したやろ?﹂
﹁そんなぁ、誤解でっせ﹂
有らぬ疑いを掛けられた被害者面しているけど、目が全然笑って
ない⋮⋮まるで狩人の様や。
こいつ着替え持ってないの知ってて、うちが次に行く先を予想し
とるな。
﹁下着。フィッテイングせんと、サイズで選ぶで?﹂
﹁なっ? ちゃんと身に付けて着用感を確かめないと、形崩れしま
っせ?﹂
下着収集家にしてこだわりは一流。けどどんなにこだわりを見せ
ても犯罪者は犯罪者や。
まる一日履き続けた下着とか盗まれでもしたら、それは流石にマ
ズイやろ。
1860
かぜのみや
﹁あんた、お伊勢さんの風宮に帰されたいか?﹂
﹁それギブっす。貴方の忠実なしもべでありたいと思っとります﹂
かぜのみや
そういってうちの肩へしがみついた。
シナツヒコノミコト
シナトベノミコト
コイツと出会ったんは伊勢神宮の風宮。
わけみや
本当やったら級長津彦命と級長戸辺命がおわす場所や。
別宮の結界に封じられて動けんかった風の精霊は、その時通りす
たも
がった幼い頃のうちに声を掛けてきた。
やしろ
﹁そこな稚児、助けて賜れ﹂
元々社扱いの風宮だったが、日本を守った神風以降昇格し﹃風宮﹄
と冠している。
五穀豊穣に欠かせない恵みの雨をもたらすと共に、神国日本を守
わけみや
る存在として手厚く祀られている。
その当時のうちから見た別宮の結界は、日銀の金庫より分厚く強
固に見えたもんな。
﹁無理や、あんたこの結界を見て、あえてうちに話しかけとるんか
?﹂
﹁左様。そなたならこの縛めから解き放てると思うての﹂
昔のメタボは関西弁やなかった。ちょっと世俗からかけ離れた感
じの口調やったっけ。
しゃくりき
結局うちが風の能力に目覚めたんも、コイツがキッカケになった
からや。
本来うちは神道系の巫女、神降ろしして借力する事しか出来なか
った。
1861
かぜのみや
まあ風っていうてもちょっと変わった風の形やけど。
﹁風宮か⋮⋮、あれ以来行ってへんけどお参り行ってこよかな﹂
ビクリと身を震わせるグラビティ。
再び結界に放り込むやなんてせえへんけど、ちょっと身の危険を
感じとった位が丁度ええ。
とりあえずは飯食うて、下着のローテーションを整えんと、風呂
にも行かれへん。
一度脱いだ下着を履くやなんて苦痛やもん。
﹁行こかメタボ﹂
﹁あいな、姉さん﹂
こいつ返事だけはええねんけどな⋮⋮。
近場のイタリアンでラザニアのランチを食べ、商店街で衣料品と
雑貨を仕入れた。
肌着も必要だが、ハンドタオルの類も大量に必要、肌着以外に普
段着も適応に見繕わんと。
牧野と亜里沙さんも着の身着のままやし、放っておいたら大変な
事になる。
風呂に入ってさっぱりした所で、時間通りにハバロフスク貿易へ
と戻ってきた。
案の定机の上の書類はあの時のまま、微妙に落ち着かない二人は、
ぎこちない態度で迎い入れてくれた。
1862
﹁ただいま∼﹂
しょうもない事気にしとっても仕方ない。
腫れ物に触るように立ち回る事なんてしなくても良いと思ってる。
敢えてそこに触れるような無粋な事はせえへんけど。
﹁これ牧野と亜里沙さんのや﹂
手に持っていた紙袋をそれぞれに手渡した。
亜里沙さんには下着と仕事着のブラウス、パンストや。ブラのサ
イズはあらかじめ聞いてたけど、ショーツの方はグラビティの見立
て。
牧野にも下着と肌着兼用のTシャツ、普段着に着れるシャツとジ
ーンズ。サイズは全部勘や。
﹁おお、サンクス。靴まで買ってあるじゃねぇの﹂
回りを気にせず靴の履き心地を確かめる牧野。人目を憚らずトラ
ンクスを広げて見せている。
放っておいたら上から下まで全部この場で着替えてしまいそうや。
﹁牧野はマシン室の端っこで、亜里沙さんは当直室で着替えて﹂
二人を追いやり静かになった事務所で人心地ついた。
牧野の立ち寄る﹃狩場﹄と美咲の見立てた範囲の合致点は三十数
箇所。
昨日のハズレを差っ引けば、今日か明日にはアタリに遭遇する筈
や。
本腰入れて戦わなアカンし、せめて身に着ける物くらいは綺麗に
しておきたい。
1863
﹁吉兆か凶兆か﹂
A0サイズの地図を見て、今日の行く先をマーキングしていく。
もし出会ったらどうする。一旦引くか、それとも叩き潰すか。戦
力的に問題ないかを考えていく。
調査するだけやったら戦力過多、敵と対峙するには戦力不足。今
の所そういう判断のまま揺ぎ無い。
闇雲に突っ込みすぎない、引いて応援を待つ。付かず離れずの長
期戦になるやろな。
﹁今日だと思うか?﹂
音も無く背後に忍び寄り、マークされた地図を眺める牧野。
先程までのふざけた表情は無く、地図の先の敵を想定して思慮に
耽っている。
﹁確率は1/2や。霊力の残量次第では踏み込めん可能性もあるや
ろな﹂
﹁霊力には回復薬ねえもんな﹂
ゲームのように妖しげなクスリを飲めば即回復、そんな便利なも
のは無い。
霊力は自己回復するしか方法は無い。そう考えるとカオルの﹃充
電﹄は特殊スキルと言えるかも。
﹁さあ、仮眠取っとかんとしんどいで?﹂
夜に備えて眠りに就かねば。
1864
限られた霊力なら、その時に最高の状態に持って来るのがプロと
いうもの。
マシン室で寝ようとする牧野を呼び止め、仲間として気遣った。
﹁気使わんでええで? 一緒に寝たらええやん﹂
雑魚寝はカオルで慣れてるし、亜里沙さんが近くに居ておかしな
事はせんやろ。
うちにはグラビティがおるし、何かあったら天罰くれるもん。
﹁アホか。お前が良くても俺の気が休まらんのだ﹂
振り返りもせずマシン室へと姿を消した牧野。
捨て台詞の﹁自分を知らなさ過ぎる﹂ってのが良いね。うちの事
を認めてくれてるんや。
意外とシャイなのか、それとも亜里沙さんに気遣って、うかうか
寝てられんて事やろか?
当直室の布団に潜り込んでも、しばらくその事について考えてし
まった。
21時過ぎ。目覚めたうちらは、身支度も程ほどにハバロフスク
貿易を後にした。
牧野の愛車バリオス2に乗って北へ、今日の目的地へとやってき
た。
第一チェックポイントは地元の景観を損ねると建設が頓挫してい
る高層ビル。
廃墟、廃屋だけではなく人の念の集まりやすい所は、新旧例外な
1865
く瘴気を纏う。
このビルもこのまま放置すれば、工事中の事故が多発し﹃曰く付
き﹄の建造物になる事は間違いない。
﹁風水的にもイケてないな。このビルは﹂
牧野は工事中のビルを見上げながら一人ごちた。
ビルのデザインが今風の一面ガラス張りで、住民の反対理由は太
陽の反射らしいけど。
日照権で日陰になるのもマズイけど、まぶしすぎて近所から苦情
来るやなんて、設計ミスもいい所や。
﹁入り口の扉、壊されるぜ﹂
正面玄関は大きなガラス張りの扉、そちらは流石にイタズラでき
んようにガードされとる。
しかしすぐ脇の非常扉のシリンダー錠は用を成さない程に壊され、
保険で掛けてたであろうチェーンと南京錠も役に足っとらん。
工事の幕の内側やし、いたずらし放題っちゅうことか。
﹁住民の怨恨ってのはパスしたいね。人の念が一番厄介だからな﹂
それにはうちも同意したい。
人の念にも色々あるけど、生きた人の念は厄介や。祓っても祓っ
てもキリが無い。
素人さんでも霊気は人並みに持ってはる。弱い力も大人数で念を
籠めれば強大になる。うちら一人の霊力も凌駕するほどに。
だから昔は家てたら﹃建前﹄ちゅうて、餅撒いたり、お菓子配っ
たりするんや。
魔除けの幣束立てて塩撒くだけやのうて、皆に祝福される家は長
1866
持ちするからな。
﹁行こか﹂
うちは扉を引き開けて、ビルの中へと侵入した。
真新しい建材の匂いの中に、すえた匂いを嗅ぎ分けた。水で建材
が腐った匂い、水そのものが腐った匂いかも知れん。
どちらにしろあんまり嗅いでいたくない匂いだ。
﹁人の通わない建物は、新しくても腐るか﹂
牧野は目を閉じて一階の様子を感じている。
かぜだま
人の足跡が目立つし、イタズラ心で誰かが侵入してんのやろか。
うちはポケットから風弾を取り出して、廊下の先に転がした。
ここで﹃爆発﹄のイメージを抱いたら大事やけど、風弾にはバリ
エーションがあるんや。
﹁浄化﹂
細く小さな穴を穿つイメージを持ち、風弾の行方に念じた。
浄化された空気は少しづつ漏れていき、隅々まで行き渡るはず。
これを応用すれば、口の中に放り込んで長時間水に潜る事も出来
るし、割と重宝すると思うんや。︱︱怖くて試した事無いけど。
﹁いいな、バルサン﹂
﹁バルサン言うな﹂
ありがたい神社の神気を封じた風弾も、牧野にかかったらゴキち
ゃん封じと同じ扱いや。
1867
京都の寺社仏閣の気を封じた特別製やし、さぞかし効くやろな。
流石に建設中とあって、エレベーターは使えなさそう。防火扉の
脇にある非常階段で上へと登って行くしかない。
牧野の足運びは流石というしかない。むしろうちの足音の方が大
きいかもしれん。
うちのは学校指定の革靴やし、牧野のはエアなんたらって高い靴
やもん。ハンデもあるわな。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
牧野がゆっくりと振り返り、目で合図を送ってきた。
耳を澄ましてみると外の騒音とはまた違う、人の気配がしてくる。
言葉もなくなにか蠢く様な衣擦れの音が。
途端に周りの瘴気も濃うなってるし、もしかして1/2のビンゴ
やろか。
非常階段を音も無く駆け上がり、防火扉をそっと押し開く。
確かになにか居る。壁を隔てた事務所らしき扉のいずれかに⋮⋮。
うちはポケットから風弾を一つ、二つと掌に忍ばせ、その内の一
つを指で爪弾けるように持ち直した。
﹁︱︱﹂
牧野は二つ目の扉を指差し、背を屈めて扉の向こうへ回り込んだ。
手に二枚の護符を持ち、いつでも突入出来ると目で合図を送って
きた。
人か、魔か、それとも⋮⋮。
勢い良く扉を蹴り開け、牧野が事務所へと踏み入った。うちは牧
野の死角をサポートすべく背中へ滑りこみ周囲を見やった。
漆黒の室内に薄い光が一つ。携帯電話の灯りらしきイルミネーシ
ョン、その先には折り重なった男女が身を震わせてこちらを見てい
1868
た。
﹁!﹂
言葉にならない悲鳴を上げ、男が腰砕けになり、女はショーツを
たくし上げて胸元を隠していた。
衣擦れの音が聞こえてくると思えば、男女の営みの真っ最中かい
な。
見ればうちらとそう変わらぬ年頃の子等や、予備校帰りに彼女と
寄り道の真っ最中ってとこやろか。
﹁俺はこの建物の警備をやってる者だ。おまえら早く家に帰れ。今
ならもれなく許してやる﹂
うちは呆気に取られて声も出せんでいるのに、牧野の奴は機知に
富んだ嘘を並べ立てて叱責し始めた。
もれなく許してやるってどういう事やと、即ツッコミを入れてや
りたいが、こういう時は頭の回転がええと褒めるべきやろな。
女の方も手早くズレたブラを直し、手元の鞄を手にとって立ち上
がった。
男はベルトのバックルを留めるのに手間取っていたが、それでも
女の手を取ってすごすごと歩いてきた。
良く見れば高校生というには若い感じのする顔立ち、もしかして
中学生なんかな。
夜遅くまで塾に通ってるんかして、こんな時間になっても親はな
んも言わんのやろかな。 ﹁す、すいませんでした!﹂
二人はうちらの横を走り抜け、大慌てで一階へと駆け下りていっ
1869
た。
﹁せめて親のいない時に自分の部屋でヤレ﹂
﹁同意するわ﹂
薄暗い建設中のビルは最初の場所やなんて、死んでも嫌や。
だってこのビル完成したら、なんたら不動産事務所とか屋号を冠
する訳やろ?
最初の思い出もへったくれもあったもんやないな。
﹁気、ぬけてもた⋮⋮いこか﹂
﹁お、おう﹂
うちは再び小粒な風弾を転がして、念を籠めた。
牧野は周囲に気を配りながら上層の階へと歩き、うちは背後を守
るように付き従った。
﹁バルサン﹂
﹁あいよ﹂
そのうち反論するのが面倒になってきて、牧野の言うがままバル
サンを焚きまくった。
建物の階は15層あったけど、魔物化するほど瘴気は溜まってい
なかった。
塩でも撒いておけば、工事中に不幸な出来事は起こらんやろと確
信するほどに。
1870
﹁なんか今日もハズレのような気がしてきた﹂
﹁奇遇だな、俺もだ﹂
うちと牧野は非常階段を下り、建物の半分ほど降りて来た時の事。
ふと怖気がして二人の脚が止まった。暗闇に光る目が四つ、階下
からこちらを見上げている。
この暗闇でうちらを直視出来るなんて尋常や無い。
﹁牧野!﹂
﹁おうよ!﹂
階下の人影は常軌を逸したスピードで駆け上がってきた。
うちらは階段で戦うのを諦め、防火扉を蹴り開けて建物の廊下へ
と躍り出た。
月明かりの差す廊下に三歩後退して迎撃の時を待ち、防火扉から
姿を現した敵に⋮⋮思わず手が止まってしまった。
﹁ボクちゃん達? 今なら許すって言わなかったっけ?﹂
姿を見せたのは先ほどの二人だった。
焦点の合わない虚ろな目でぼんやりとこちらを見て、子供が笑う
ような無邪気な笑顔を見せた。
﹁あんまり嗅ぎまわると︱︱が怒るよ?﹂
アルトを通り抜けた少年の声は、夜の建物に響き渡った。
確かに気配は魂喰いのスキル人形繰りだが、雰囲気がなにか違う。
笑顔のまま表情を変えず、悲壮感さえ漂わせるほどに、何かをう
1871
ちらへ訴えかけてくる。
﹁あんた誰や、いつもの魂喰いとちゃう気がする﹂
言葉とは裏腹に、体は戦えと指令を送ってくる。恐らく未知の恐
怖への正常な心の判断だろう。
うちは敢えてその命令を無視して言葉を紡いだ。
﹁︱︱は強いし、︱︱は頭が良い。どちらももう我慢の限界に来て
る﹂
なにを言ってるんかさっぱりや。
けどこの魂喰いは何かをうちらに伝えようとしている。そんな気
がする。
仲間割れしてる? 情報をリークしようとしている? けれど手
を引けと言っている。
﹁なにが限界なんや? 分かりやすう教えてや﹂
少年は頭を抱えガックリと膝を付いてしまった。
後ろに控えていた少女の口がパクパクと動き、途切れ途切れの言
葉を発した。
﹁あ⋮⋮守る、主⋮⋮ジン⋮⋮、も、が⋮⋮押さえ﹂
プツンと糸が切れた様に少女が崩れ落ち、同時に少年も地に伏せ
た。
繰り糸が切れた。こんな事一度も無かったのに⋮⋮。
うちと牧野は二人を抱え上げ、鼓動と息遣いを確認しホッと胸を
撫で下ろした。
1872
﹁牧野っ!﹂
階下からコツンコツンと足音が聞こえ、思わず牧野の袖を掴んで
しまっていた。
音だけではない圧力が、うちの闘争心を押し込めてしもうた。
学校の屋上で見た奴とは違う、全然別格の雰囲気を纏っとる。
うちらは二人を抱えて、音のする方向から一歩、二歩と後退する
しか手立てが無かった。
﹁二人を頼む﹂
牧野はポケットから護符を一掴みし、非常階段に向かい身構えた。
階段を登りきった気配がし、一呼吸置いて悠然とその人影は姿を
現した。
黒の人影はまぎれも無いアストラル体。そんな酔狂な姿で出歩く
んはアイツ以外に居らん。
﹁魂喰い!﹂
牧野が数十枚の護符を放り投げ攻撃に出た。
投擲された刃の如き護符だったが、閃光が視界を真っ白に焼き、
思わず目を細め手で覆った。
廊下をポツンポツンと照らし出す灯りは、燃やされた護符の消し
炭の赤。
投擲した護符は何の前触れも無く発火し燃え尽きてしまった。
﹁発火能力や﹂
アメリカのハンターが持ってたっちゅう能力、パイロキネシス⋮
1873
⋮。
詠唱もなんも無くいきなり燃えるって反則やろ。
﹁やべぇ、火とは相性悪いんだ﹂
ジリ貧の牧野はそれでも頼りの護符で身を守り、一歩二歩と下が
るしかなかった。
二人を引き摺り廊下の端まで突き当たり追い込まれてしもた。
こういう時はどうするんやったっけ⋮⋮。
ちょっぴりパニックに陥り、いつもの戦術を考える頭が何処かに
行ってしもうた。
黒い人影はゆっくりと歩み寄り、身の回りに狐火のような炎を幾
つも作り上げていた。
最初は数えるほどの狐火だったが、一歩踏み込む毎に十は増えて
いく。
廊下を赤く灯し、炎の熱は肌をチリチリと刺激してくる。
﹁山科!﹂
﹁こういう時は逃げるに限る!﹂
うちはポケットの中から特大の風弾を取り出した。十回やって一
個できるかできひんか。貴重な一個。
﹁五号玉!﹂
うちの風弾は花火の弾と同じ命名規則や。
大きくなれば花火も大きい。
うちらを火が取り囲もうとする瞬間に、魂喰いの足元で風弾が炸
裂した。
1874
爆風は火の勢いを押し戻し、ビルの外へと炎を導いて弾けた。
目端で仕留め損なったのを確認し舌打ちしたが、同時にうちの口
からは次の指示が飛んだ。
﹁牧野、外へ!﹂
﹁嘘だろ?﹂
そう言いながらもうちに続き、割れた窓から身を躍らせた。
二人を抱えて軟着陸なんて流石のうちも無理、地面に打ち付けら
れてTHE ENDや。
﹁風よ!﹂
瞬間的に気圧差を生じさせ、このビルめがけて突風を吹きつけた。
建物の根元から吹き上げるビル風は、落下速度を緩めてうちらの
体を押し戻してくれた。
吹く風を絞り込むように握りつぶし、正真正銘の軟着陸に成功し
た。
﹁痛った⋮⋮﹂
二人を抱えていたうちは、地面に対し受身を取れなかった。
強かに打ちつけたお尻が痛いけど、その他はなんもなく五体満足
のようや。
﹁すげえ! 今飛んだぞ?﹂
牧野は能天気に蝶が羽ばたくような素振りをして目を輝かせた。
アホの子なんか、頭のええ子なんかようわからんわ。
1875
﹁違う、落ちとったんや﹂
落ちる瞬間、風に煽られて助かっただけや。
理屈ではいけるやろと思てた技やけど、試す度胸が無くてやった
事なかってんけど。
﹁この子らを安全な場所に避難させたとして﹂
﹁無理やろな。うちらでは﹂
逃げ果せたのも運がよかったせいや。やっぱりバンドは吉兆なん
かも知れん。
バンドしとったら今頃地面に叩きつけられてアウトや。
焦げた髪の毛がチリチリになっとるし、五号玉を爆ぜるタイミン
グが遅くてもアウトやった。
﹁とりあえず美咲に連絡とって、戦力増強せんとあかんやろ﹂
ポケットをまさぐって牧野の答えを待った。
けれど牧野は無言のまま周囲を見渡し、手を腰の所で振って合図
を送っている。
﹁人形繰りって何人まで操れるんだ?﹂
周囲を取り囲む人垣は、騒ぎを聞きつけた野次馬だと思っていた。
しかし窓ガラスの割れたビルを見上げている者は一人も居ず、全
ての双眼はうちらに注がれていた。
その数数十人。通りを行きかう車も停車して、車の中からこちら
を見ている。
1876
視界の中の全ての眼が、うちらを見ていた。
1877
﹃空中戦﹄
﹁マリリンさん、お茶入りましたよ﹂
真琴は紅茶の葉が開いたティポットとカップを二つお盆に乗せ、
よたよたとキッチンから歩いてくる。
危なっかしく見えるのは真琴の体が華奢だから、決して落とした
り転んだりはしない。
美咲に﹁マリリン﹂って言われるとムカッとくるのだが、真琴に
言われるとそんな気にはならない。
そう呼びたいから呼んでいるといった、自然な感じがするからだ
ろうか。
﹁ありがとう、こちらも一段落出来そう﹂
印字された顧客リストをチェックし、魔法アイテムを発送する準
備を整えていた。
ラピスラズリを聖水に沈めた瓶で雨を呼ぶアイテム。使いように
よっては霧や雹等も発生させる事が出来る。
天候不良の農家の方々に好評のアイテムだ。
水不足に陥りやすい地方では、雨はやはり天からの恵みなのだろ
う。
﹁ペタペタ⋮⋮﹂
タックシールを専用封筒に貼り、エアパッキンで商品を包む。
取り扱い説明書とお買い上げありがとうの直筆メッセージを入れ
て封をするだけだ。
この専用封筒を使うと窓口に届けなくても、ポストに投函するだ
1878
けで発送できる。
﹁今の⋮⋮いくら位するんですか?﹂
紅茶を注ぎながら真琴が小首を傾げた。
あのアイテムの肝になるのは、聖水ではなくラピスラズリのパワ
ーだ。
あの石ならば軽く30回は雨を呼ぶことが出来るだろう。
聖水の代わりに草花に付く朝露でも代用は可能だから、誰でも繰
り返し使えるのがミソなのだ。
﹁300だったかしら?﹂
﹁高っ!﹂
そうは言えど、この顧客も個人で買っている訳ではなく団体様だ。
費用も分担しているだろうし、降って欲しい時に雨にすることが
出来るアイテム、300でも安いと思うのだが。
﹁あの中のラピスラズリは良い物だから、ある程度値がかさむのも
仕方ないわ﹂
こころね
あのラピスラズリの原価はゼロに近い事は伏せておこう。
真琴は心根が優しいから、ぼろ儲けの商売には抵抗ありそうだも
の。
﹁他にお手伝いできる事あれば、どんどん言いつけてくださいね﹂
ニコリと笑って紅茶を差し出す真琴。
ユカが家を出て一人の部屋が寂しいのか、真琴は私の部屋で寝泊
1879
りしている。
私も真琴が居てくれて助かる。気が利くし料理も出来るし、そし
て抱き枕になる。なによりかわいい。
ユカがかわいがる気持ちはよく分かる。
﹁ユカが羨ましい﹂
﹁???﹂
真琴はキョトンとした表情をしているが、私にはユカの本音がな
んとなく理解できる。
この子になら全てを自分の持てる技量、全てを託して育てても良
いと思えるから。
人柄、人徳⋮⋮なのかしらね。雑草ほど良く育つというか、出来
の悪い子ほどかわいいというか⋮⋮。
紅茶に口をつけて人心地付いていたら、玄関の扉で何やら物音が
聞こえてきた。
﹁なにやら引っ掻くような音が⋮⋮﹂
真琴が物音に気が付き、玄関の方を振り返った。
時折私の部屋に訪問者がやってくる事を真琴は知らないのだ。
﹁入って良いわよ﹂
﹁にゃん﹂
私の掛け声と共に玄関の鍵が二つ同時に回る。
ゆっくりと開く扉はチェーンロックが掛っていて開ききらない。
しかしその訪問者は隙間をスルリと身を捩って入ってきた。
1880
白の体に茶と黒の模様を背負った三毛猫。
三毛猫のオスというだけでとても珍しいのに、たまさんは︱︱。
﹁あっ、たまにゃん﹂
﹁いらっしゃい、たまさん﹂
﹁にゃん﹂
たまさんは下駄箱に用意されていたタオルをくわえて引き出し、
玄関マットの上へ広げた。
そして脚の汚れを丹念にふき取り、タオルにじゃれ付く様に身の
汚れも拭った。
気にしなくても良いですよと言っているのだが、脚を綺麗にする
まで部屋に上がろうとしないのだ。
遠慮がちなたまさんの為にタオルを下駄箱に入れて用意している
のだ。
﹁礼儀正しいですねぇ﹂
﹁ボス猫ですから﹂
たまさんはタオルを元の場所へと戻し、トテトテと歩いてきた。
気まぐれの訪問かと思えば、気のせいか何時もと違う険しい表情
をしていた。
﹁にゃん﹂
﹁こんばんわ﹂
1881
少し慌てているようだが、さりとて挨拶は欠かさない。流石です。
心に余裕を持つというのは大切な事ですね。
真琴は私とたまさんを交互に見て、困惑した様な表情を浮かべて
いる。猫語が分からないのでしょうか。
ねこ
﹁にゃ、にゃにゃ。にゃん⋮⋮﹂
﹁町の情報屋がおかしな事を言っていた?﹂
たまさんは言い終わると前足を丹念に舐め、髭を整えてグルーミ
ングをした。
猫独特の間の取り方だが、私はこの間がとても好き。たどたどし
く話す私とテンポが合うのでしょうね。
﹁おかしな事⋮⋮ねぇ﹂
﹁にゃ、にゃん。にゃにゃにゃん⋮⋮にゃ!﹂
﹁縄張りの外、ジョニーの縄張りのさらに北側。とても嫌な気が満
ち溢れているですって?﹂
﹁にゃ∼﹂
町の北側と言えば魂喰いの要注意区域、美咲がカオルさんと追跡
した方面じゃないかしら。
恐らくユカと牧野君、カオルとアイルランド娘が探索に向かって
いる地区。
危険になれば連絡があるはずだけど、連絡を取る事も出来ない事
態に陥っているとも考えられる。
1882
﹁マリリンさん⋮⋮、ユカさんやカオル先生に何かあったのでしょ
うか?﹂
真琴は顔色を変えてとても落ち着かない様子。
真琴が半人前されるのはこういう所。こういう場合危機が迫れば
迫るほど、逆に冷静にならなければならない。
情緒が不安定では能力を100パーセント引き出すことが出来な
い。その上判断を誤りやすいからだ。
﹁ちょっと散歩がてら、見回りに行ってくるわ﹂
﹁私も行きます!﹂
真琴は居ても立ってもいられない様子、私に向かい懇願してきた。
連れて行ってあげたいけれど、私は真琴にそういう心構えを伝え
たい。皆に出来ない汚れ役は私がやるしかない。
﹁ダメよ。そんな様子では連れて行けない﹂
﹁⋮⋮うぐっ﹂
常々真琴に言い聞かせている事だから、真琴も何故ダメなのか分
かっている。
私は涙ぐむ真琴を一瞥し、鬼になれない自分に苦笑した。
﹁美咲と乃江にこの事を伝えて、心を落ち着けて後から追っかけて
きなさい﹂
そう一言告げ頭を撫でると、玄関に立て掛けていたマニセンマキ
を手に取った。
1883
夜空高く上がってみると、なるほどたまさんの言っていた事が頷
ける。
広範囲に広がる瘴気は、まるで街を包み込んでしてまっているよ
うに感じる。
あのマンションの良い所は、地脈の良さと結界の強度。逆に外の
微妙な変化に気付きにくいのは欠点と言えるかも知れない
﹁たまさん、偉い!﹂
﹁にゃ!﹂
私の膝の上に座り、たまさんが﹃見てみろ!﹄と一鳴きした。
delivery
serviceのよう。
黒猫ではなく三毛猫だけど、猫を従え魔法の箒に跨る所は、まる
でkiki's
真琴を連れてこなかった理由、精神的に不安定だという事もある
けれど、マニセンマキの性能が格段に落ちるのも大きな理由。
巡航速度も旋回性能も一人の時とは雲泥の差なのだ。
﹁掴まっててね﹂
﹁にゃにゃん﹂
たまさんは慌てて私の服に爪を立てた。
一般の乗り物では味わう事の無い重力加速度、視界はあっという
間に狭窄し、掌ほどの景色しか見えなくなる。
乃江のバイクが凄いというけど、この加速を味わう事は出来ない。
ゼロヨンのドラッグレーサーってこんな感じかしら。
1884
﹁にゃ!﹂
﹁分かってる﹂
前方に立つ風景にそぐわないビル、その真下に数百の人だかりが
出来ている。
円を描くように包囲されているのは、ユカと牧野君。
動きに精彩欠いているのは、背中に背負っておる一般人のせいか。
﹁助けないと﹂
マニセンマキの舵を取った瞬間、目の前に突然火の塊が発生した。
咄嗟の判断で回避したものの、急速旋回したせいでビルの外壁に
強かに打ち付けた。
火の出元はなんとなく分かる、おどろおどろしいまでに瘴気が満
ちている。ビルの屋上から発せられているのは間違いない。
上から狙撃されたら降りる事は出来ない。ユカ達の脅威を増やす
事にもなるし、周囲を取り囲んでいる者達に累が及ぶ。
マニセンマキの舵を持ち上げ、急速上昇し、ビルの屋上を一望出
来る位置に上昇した。
工事中のビル、フェンスさえ施設されていない屋上に立つ黒い人
影⋮⋮。
﹁魂喰い!﹂
﹁にゃ﹂
火と氷の魔法を行使する私に火だなんて、身の程を知るがいい。
私は右手のルビーのリングに命を吹き込んだ。
1885
﹁ミネルバ、頼むわよ﹂
同時に左手のサファイヤのリングへも命を吹き込んだ。
﹁メドゥーサ、頑張ってね﹂
私の能力はアンティークに生命を与える事。
古ければ古いほど安定したホムンクルスを生成出来る。
とは言えど成功例は樹齢千年の古木から作り出したマニセンマキ、
ルビーとサファイヤの一対のリング、ミネルバとメドゥーサだけ。
リング自体がとても良いアンティークだが、石の生まれは数億年
前と言われている。
赤と青の光点が私を周回し、あらゆる邪悪を討ち祓う無敵のイー
ジスの盾となる。
﹁イグニス!﹂
まずは相手の得意とする火で勝負。
黒い影に向かい特大の火の玉を投擲する。
フロギストン
私の火には触媒を必要としない。大気中に満ち溢れている未知の
燃素に呼びかけ、火を生成している。
投擲された火の玉は僅かな放物線を描き、魂喰いの体をあっけな
く捉えた。
炎に包まれた体が蠢き、上空に位置する私に手を翳した。
﹁!﹂
同時に私の周囲に7つの火が発生し、マシンガンの様に断続的に
撃ち込まれた。
1886
無敵の盾イージス。速度の速いミネルバが三つの火の玉を防ぎ、
強力な石化能力を持つメドゥーサが二つを撃ち落した。
残る二つはマニセンマキを旋回させ、きりもみ状態で一度回避出
来たものの、すぐさま迂回して無防備な私の体に狙いをつけた。
ミネルバもメドゥーサも間に合わない。
﹁にゃ!﹂
絶体絶命のピンチ。身構える事すら出来ないタイミングで、膝の
上に座っていたたまさんが一鳴きした。
同時にたまさんの体から霊気が放出され、獅子の鋭い爪が形成さ
れた。
空間を切り裂く大きな爪痕は、二つの火の玉を分断し撃ち落して
しまった。
﹁流石、ボス猫にして退魔猫﹂
﹁にゃああん﹂
一発の火の強さなら私、数なら魂喰いか。
狙撃銃ドラグノフとマイクロウージーの様な差だ。用途が全く違
う。
確実に敵を穿つのか、弾をばら撒いて周囲を掃討するのか。
しかし、特大の一発を食らったアイツは無事では済むまい。
﹁嘘⋮⋮﹂
私は我が目を疑った。
魂喰いの周囲を包む火が届いていない。強力な力で空気を捻じ曲
げ体から火を遠ざけていた。
1887
パイロキネシス以外にサイコキネシスの能力者が犠牲になったと
聞いたが、イグニスを弾くほどの障壁を作る出せるなんて⋮⋮。
それより何より脅威に感じたのは、魂喰いの能力だけではなく、
同時に複数の能力を行使したという事。
ユカを襲わせている人形繰り、投擲したイグニスを打ち消したサ
イコキネシス、そして私撃ち落すべく発射されたパイロキネシスの
能力。
私に対し100パーセントの力を使っていない事実に対し、心の
奥底に恐怖という感情が生まれ始めていた。
﹁にゃ!﹂
たまさんの鳴き声が私を現実に引き戻した。
再び魂喰いが上空で旋回する私を捉え、ゆっくりと手が翳されよ
うとしていた。
﹁マニセンマキ!﹂
らせん状に錐揉みし、周囲で爆ぜる火の玉を回避しつつ、詠唱の
タイミングを計った。
連続して発光する火の玉の数は、先ほどの小手試しの火とは違う。
完全に私を撃ち落そうとしている。
火が爆ぜる度に周囲は昼間の様にまばゆく照らし出される。
無詠唱というのはこういう場合有利に働く。まるで対空バルカン
砲の様に、連続して発火させる精神力は驚嘆に値するだろう。
このままでは攻撃に転じる事はおろか、運任せの回避運動を止め
る事すら出来ない。
ジリ貧の状態に耐えるしかないと、僅かな攻撃の隙を窺っていた
時の事、突風とも言える強烈なビル風が吹き、運良く魂喰いとの間
合いを広げる事が出来た。
1888
同時に私を包み込むように旋風が吹き、追撃の火の玉を弾き返し
てくれた。
この﹃風﹄は⋮⋮。
﹁魔法使いの姉さん、苦戦してまんな﹂
周囲を取り巻く風が形を成し、私の嫌いなフォルムへと変化した。
風の精霊グラビティだ。有能な精霊という触れ込みだが、その実
犯罪者。下着収集が何より好きなド変態だ。
﹁まだ死んでなかったか、へちゃむくれ﹂
グラビティが覆ってくれた風の障壁のおかげで、相手の攻撃を無
効化してくれた。
同時に攻撃に転じる事も出来ないのだから、片手落ちと言えるけ
れど、この間を作ってくれたのは有り難い。
﹁ユカ姉やんからの命令やし、手を貸しまっせ﹂
眼下で蠢く人垣を風の能力で押しつぶしているユカが見えた。
心なしか私に手を振っているようにも見える。割と余裕なんだ⋮
⋮。
﹁じゃあ、アイツを叩きのめして来て﹂
﹁いきなり酷な命令を⋮⋮﹂
飛び回っていても後手に回るだけ、いっそ屋上に着地して両手を
使えたほうが戦いやすい。
フォーメーションは変則的になるけれど、この面子なら戦えるか
1889
もしれない。
﹁グラビティは後衛、私とたまさんがツートップで戦うからフォロ
ーして﹂
﹁パンツ二枚で手を打ちまひょか﹂
グラビティは服越しに私の体をニヤリと見つめた。同時に怖気が
して総毛だった。 人の足元を見る奴は信用できない。けれど利益で繋がる信頼感は
鉄よりも強固になる場合がある。
私は怒りを堪えて震える声で言葉を紡いだ。
﹁ユカのパンツなら洗濯カゴから取ってきてあげる﹂
ピクリとグラビティの様子が一変した。後一押しで落ちそうだ。
勝利の為なら仲間も売る。これが勝者になる為に必要な要素なの
だ。
﹁体育で使ったスパッツも付けます﹂
﹁なんでも申し付けてくださいませ、マドモアゼル﹂
目がピンクのハートマークを描き、へちゃむくれはビッと敬礼し
た。
成功報酬といいつつ、終わったらこいつを殺そう。
そう心に決め、私は親指を立てた。
﹁行くよ﹂
1890
マニセンマキの舵を切り、魂喰いの立つ屋上へ舳先を向けた。
1891
﹃叱責と愛﹄
私はマリリンさんに言われるがまま、美咲さんと乃江さんに状況
を伝える為、マンションの七階へと走った。
美咲さんの部屋と乃江さんの部屋、扉と扉を指で交互に動かしな
がら、可能性の高い乃江さんのインターフォンを鳴らした。
室内からベルの音に反応する気配を感じ、不在ではない事にホッ
と胸を撫で下ろす。
けれど音が鳴って扉が開かれるまでのわずか数秒、気が急いて落
ち着かなく脚が動いてしまう。
﹁真琴じゃないか、どうした?﹂
扉の向こうから顔を出した乃江さんを見て、ホッとしたのか涙腺
が決壊してポロリと涙が零れ落ちた。
早く説明しないといけないと思えば思うほど、何から話して良い
のか戸惑い言葉は出ない。
私は乃江さんに手招かれ、部屋に入り座布団に座らせられた。
﹁あら⋮⋮真琴、こんばんは﹂
当たり前の様に座って茶を飲んでいる美咲さんを見て、自分の勘
が正しかったと拳を握り締めた。
美咲さんは自炊をほとんどせずに、乃江さんに食事を作ってもら
っている。
乃江さんはそれが役目、美咲さんは当たり前だと思っているが、
今後の事を考えると他人事ながら恐ろしい。
乃江さんに彼氏が出来たらどうするのだろう、この人は餓死して
しまうのではないだろうか。
1892
﹁どうした? 真琴﹂
乃江さんが湯呑みを一つ用意してくれ、私の分のお茶を注いでく
れた。
ゆっくりお茶を飲んでいる暇は無いと思いつつ、香高いお茶が注
がれるのを見て、反射的に喉がゴクリと鳴った。
﹁いや、ゴクリじゃなくて、大変なんです!﹂
私は要点を纏めつつも、マリリンさんの部屋で起こった事を二人
に話した。
二人の口から﹁なんだって!﹂という驚きの言葉が出るかと思え
ば、予想に反して落ち着いた様子で私の事を見つめている。
﹁まあ、マリリンのいう事、凄く理解出来るわね﹂
﹁概ね同意﹂
二人はテーブルの上に用意されたイチゴ大福に手を伸ばした。
大福を一齧りして頬を膨らませ、幸せそうな笑みを浮かべて茶を
啜った。
﹁な、なんでそんなに余裕なんですか!﹂
仲間の一大事にリアクション薄すぎです。
もっとなんか大慌てして欲しいし、私の気持ちに同調して欲しい
と思う。
﹁真琴は本気になったユカやマリリンを見た事ある?﹂
1893
美咲さんはテーブルの上のイチゴ大福を一つ、皿に置いてそっと
私の前に差し出した。
本気かどうかはさておき、修行の合間に二人の模擬戦を見たこと
がある。
瞬時に周囲を野火と化し火で包み込むマリリンさんと、竜巻で周
囲の火そのものを空高く舞い上げるユカ姉さん。
鬼と鬼のぶつかり合い、別次元の戦いっぷりに息を呑んだ記憶が
ある。
﹁彼女達がそう易々と危機に陥るかしら?﹂
もっと強い敵と遭遇するとか、本気を出せない理由があるとか、
考えればキリが無い。
乃江さんはそんな会話に割って入り、私に向かい優しく言い聞か
せた。
﹁私達はいち早く駆けつけるだけで良いのだろうか。こういう時ほ
ど状況を考え行動すべきだと思わないか? 二人が時間を稼いでい
るなら尚の事、冷静に対処するべきだと思うのだ﹂
うぐう⋮⋮。マリリンさんと同じ様な事を言われてしまった。
そんなに思慮の足りない子なのかなぁ。ちょっぴり自己嫌悪に陥
ってしまいそう。
﹁仲間って助けを求める互助会じゃないと思うの。仲間を信じて自
分の成すべき事を探さないとね﹂
みんなで料理を作るような状況を想像したら良いのか。ユカ姉さ
んとマリリンさんが買出しに行った。
1894
私達も買出ししたら料理の下準備をするものはいなくなる。
買出しに行った二人を信用していないのと同じだし、私たちが考
えるべき事は二人の努力を実らせる別の作業か。 ﹁なるほど﹂
私は目の前のイチゴ大福を手に取り、一口パクついて考えた。
私がまずしなくてはいけない事、それはマリリンさんが教えてく
れたはず。落ち着いて考える事、100パーセントの力を出す事だ。
二人がいてファントムさんが居る、三人寄れば戦力的には申し分
ない。
一人で戦うのが不利ならば、きっと複数人が纏まって力を出せる
状況を作る。あの二人に限って無謀な戦闘をする事なんて有り得な
い。
だって私の師匠達だもん。
﹁そうですね、あの二人を倒すには敵も相当苦戦するはず、まずは
さか
包囲網を敷いて魂喰いを逃がさない事と、適切なサポート﹂
賢しいまでに悪知恵の働くユカねえさんと、ぶち切れると鬼より
怖いマリリンさんだ。
海を煮えたぎらせて、暴風雨を呼ぶ二人と戦うなんて無謀もいい
所だ。
﹁真琴に必要なもの、理解出来たかしら?﹂
ニコリと笑い美咲さんが席を立った。
乃江さんはクローゼットからライダージャケットを取り出して羽
織り、戦闘時に装着する黒の手袋を手に取った。
そして手袋越しに指の握りを確認して、予備のヘルメットを私に
1895
手渡してくれた。
﹁真琴は私の後ろに乗れ﹂
﹁はいっ!﹂
お茶を飲んで大福を食い、落ち着きと戦う心構えを教えて貰った。
この人達もそうする為に、あえて余裕を見せたのだろう。
何時もマリリンさんが私に厳しく接するのは、私の事を誰より考
えてくれるから。
そう思うと力になりたいと、素直に思えてくる。
私が行って何が出来るかなんて、本当は二の次なのだと思う。側
にいるだけで力になれる存在に私はなりたい。
乃江さんのアプリリアRS−250は、怒涛の加速を見せた。
美咲さんへの気遣いなど微塵も感じさせないスピードで、あっと
いう間に国道を逸れ北へ向かう道へと舵を向けた。
運転スキルが段違いで、美咲さんはマンション前から追随出来て
いない。
マンションで余裕を見せていたが、この人も私と同じく仲間を思
いやる気持ちが強い。
後塵を拝した美咲さんは﹃赤い糸﹄で追尾できるとして、乃江さ
んはどうするのか⋮⋮そんな心配は北の空を見て杞憂に変わった。
﹁派手だな﹂
乃江さんは苦笑しつつ、迷いも無くアクセルを開ける。
1896
北の空は時折花火が上がったように明るく光る。マリリンさんが
放つ火の魔法か、それとも発火能力を持つ敵の攻撃か。
どちらにしろ私達は、あの方向へ走ればよいのだ。
﹁マリリンさんですから﹂
自分で言いながらおかしな日本語だと苦笑した。
目の前に広がる昼間に似た夜空は、異常な明るさを見せている。
マリリンさんが人目を憚らずに魔法を行使しているという事は、
それ程の敵と見るべきか、それとも状況を気にする必要が無いとい
う事なのか。
﹁真琴、何か変だな﹂
乃江さんがアクセルを少し緩め、周囲を見回して呟いた。
確かに。人の気配が全くしない国道というのは有り得ない。車で
あったり民家から人の気配は溢れているものだから。
しかし私は乃江さんの言った異変以外の事を考えていた。
人の気配が全くしないのに、私達を見つめる無機質な視線がある
事。バイクで移動する私達を追跡する何かの存在を。
﹁乃江さん! 急いで!﹂
私の声に反応し、乃江さんはアクセルを思い切り良く開けた。
前輪が軽くリフトアップしたが、乃江さんは前傾姿勢でそれを力
でねじ伏せた。
推定秒速40mの速度で走るアプリリアRS−250に、ピタリ
と追随出来るなんて有り得ない。
車か、それとも別の何かか。
感覚の目を見開いて周囲に探りを入れたが、不気味な程に静まり
1897
返っているだけ。
けれど確かに見られている。
﹁近いぞ﹂
空を赤く染めていた地点近く。既に空中戦は収束していたが、前
方を見ればそこが目的地である事が見て取れる。
国道に止まる車が長蛇の列を成し、運転席の扉は開かれたまま放
置されている。
中にはエンジンすら切らずに、前方の車に接触してしまっている
車もある。
今まで無かった人の気配が嘘の様に前方に集まっている。感覚的
に計測できないほどの人の数。
﹁人形繰りで街の人を操ってる?﹂
私はその状況を見て、ゾッとさせられた。
前方の人だかりが異常だからだろうか? いや違う。視界の全て
が敵だからか、そうじゃない。
﹁私達は罠に掛りつつある﹂
ここに来るまでに見ていた監視者は、私たちがここに来るのを確
認していた様に思える。
その上なんの妨害も行わないというのが引っ掛かる。
まるでここにたどり着くのを見届けていた様にさえ思える。
繰り糸で操られた街の人は、いくら使っても使い減りしない。
その上私達では、街の人を殲滅させる事ができないのも承知済み
だと思う。
そして非力な街の人を操った所で私達を倒せると思っていないは
1898
ず。これは騒ぎを大きくして人を引き寄せ、一気に殲滅させる為の
罠に思えるのだ。
﹁乃江さん、私は別行動に移ります﹂
車と車の間を徐行していた隙に、私はアプリリアから飛び降りた。
監視者が何を目論んでいるのか、それを突き止めたい。
﹁真琴!﹂
乃江さんはバイクを止め、ヘルメットのバイザーを引き上げた。
目で語るとはこういう事をいうのだろう。一つの言葉を貰うより、
多くの気持ちが伝わってくる。
﹁ユカ姉さんを頼みます﹂
そう言うや否、私は踵を返し監視者の気配を探った。
背後でアプリリアの発進する音を聞き、祈るような気持ちで前を
向き走り出した。
全力疾走で国道を南下しつつ、瘴気の色濃い場所に行き当たった。
﹁ユカ姉さん達から1kmの距離﹂
口の中でその事項を噛み締めながら、国道脇にある商店街のアー
ケードを見つめた。
あちらの敵は魂喰いとして、こちらの敵は誰だという疑問だ。
高速で追随出来る魂喰いの能力を考えた時、この役目だけは人に
は渡せないと決心していた。
街灯の灯りを吸収する漆黒の影、瘴気で象られた三体の犬がこち
らを見つめ牙を剥いていた。
1899
﹁ビンゴ﹂
自分で口に出しながら、怒りで手の震えが止まらない。
あれはトートの大アルカナのカード、おそらく隠者の僕ケルベロ
ス。
そう、父の﹃幻獣召喚﹄の能力だ。
﹁Ace of Swords﹂
震える手を諌め、一本の剣を召喚した。
私の身長程あるブロードソードが目の前に現れ、私は両の手でそ
の剣を掴んだ。
構えは最上段からの打ち下ろし、カオル先生が良くやる大きな構
え。
重みは殆ど感じない。なぜなら私の意のままに動く相棒だから。
私が発した気を察知したのか、三匹のケルベロス達は一斉に動き
出した。
しなやかな体を蹴り脚で運び、一匹が前に、一匹が空へ、そして
残り一匹は隙を探る様に一歩引いて飛び掛ってきた。
﹁無に帰れ﹂
私は剣を振り下ろし、空に舞った一匹を両断した。
鈍い手応えはまるで本物の肉体の様に感じる。
霧散して消える1匹目を感覚で捉え、脇を引き絞り剣の軌道を変
え、二匹目を横に薙いだ。
隙を狙っていた三匹目が、隙だらけの半身に飛び掛ってきたが、
慌てず二匹目から剣を引き抜いた。
1900
﹁Ace of Disks﹂
無防備な半身に展開されたペンタグラムの障壁。
ゲル状のトリモチに引っ掛かった最後の一匹を見つめ、目を閉じ
て剣を突き入れた。
不快な手応えを感じつつ剣を引き抜き、前方の闇へ剣を構えた。
隠者を象った瘴気の塊は、手にカンテラを携え杖をついた老人。
足元に無数のヘビを従えて悠然と立っていた。
そして本当の本体もすぐ後ろに立ち、腕を組んで戦況を見守って
いる。
﹁魂喰い!﹂
私は父の仇を見て瞬間に、体の中に怒りの炎が燃え上がった。
怒りに任せて突進したが、隠者が翳すカンテラから発射された光
弾に阻まれた。
同時に数発発射される紫光の塊は、的確に私の急所を狙ってきた。
﹁くっ!﹂
エースの剣で一発目を弾いたが、二発目、三発目は急所を外すの
が精一杯だった。
私は後方に弾かれ商店のシャッターに背中を強かに打ちつけた。
頭を掠めた一発が強かに頭を揺らした。傷から吹き出した血が視
界を赤く染め、赤い滴で地面を染めていった。
﹁自業自得って奴か﹂
さっきあれほど冷静になれと言われたばかりなのに。
私は頭に受けた傷を確かめて、ギュッと袖で血を拭った。
1901
この傷は軽率な私への報い、甘んじてそのハンディを受け取り傷
は治さない。
手に持ったエースの剣を消し、目の前の敵に目を向けた。
自分で攻めて来ないという事は、攻撃は不得手のカードに違いな
い。足元で威圧しているヘビがその推論を裏付けている。
攻めを受けてカウンターで返すタイプの攻撃か。
﹁ならば﹂
6本の剣を召喚し体の周りを周回させ、一歩一歩とゆっくり歩み
寄った。
光弾は同時に数発、ならば受けてこちらがカウンターを決めよう。
敵との距離6歩の所、攻撃に転じたい剣達が切っ先を向けて蠢く。
しかし私はそれらを諌め、もう一歩前に歩を進めた。
瘴気の塊で出来たヘビ達が一斉に鎌首を上げて威嚇を開始した。
私の剣達もそれに反応して激しく動き回る。
多分あと一歩進んだ時、全てが始まりそして終わる。西部劇のガ
ンマンの気分。先に抜きな、俺の方が早い⋮⋮と。
静かなアーケードに靴音が一つ鳴り響いた。
同時に隠者の手元から光弾が発射され、私はそれらに構わずに手
首をそっと動かした。
鈍い音が六つ鳴り響き、全ての剣が隠者に突き刺さった。
私に向かっていた光弾は、目標をロストしたように私の頬を掠め、
商店街の遥か先へ逸れていった。
隠者の影は霧散して消え、その奥に立つ魂喰いの姿が露になった。
﹁Swords Fifty−five﹂
私に具現化出来る全ての剣を出し、55本の剣で魂喰いを包み込
んだ。
1902
合図一つで刃を食い込ませる事が出来る、チェックメイトの状態
に持ち込んだ。
﹁一つ聞いていいかな?﹂
私は一本の剣を喉元に突き立て、アストラル体を傷つけながら魂
喰いに質問した。
漆黒のアストラル体だが、感情は伝わってくる。怒り、嫉妬、憎
悪⋮⋮、考えうる負の感情を纏い、魂喰いは口元を歪めた。
﹁私の事を覚えてる?﹂
怒りを抑え冷静に問いかけた。
しかし目の前の魂喰いはニヤリと笑い、肩を震わせて笑っている。
﹁ある能力者を倒すのに子供を使ったと聞いた事がある。その子供
は父の死を目にし剣を投じたと﹂
とぼけているのか。いや、それにしては口調に淀みが無い。
父を殺した魂喰いとこの魂喰いは違う。
まだ他にいるのか、それとも︱︱
﹁繰り糸の能力者を手に掛け、追われる立場になった。追って来た
のは幻獣能力の退魔士﹂
アストラル体に張り付いた笑顔を苦痛に満ちた表情に変えたい。
そう思いながらも命令を下せずにいる。
父の話をしているからか、それとも私の心が弱いからか。
﹁直接彼を倒せないと分かると、絡め手から攻撃する方法に転じた。
1903
子を操り人質にし奴を手に掛けたのだ﹂
一拍置いて魂喰いは口を開いた。
﹁心の安息が欲しかった﹂
ゾッとするような低い声。
負の感情をそのまま口にしたような、酷く冷たい言葉だった。
同時に私達を瘴気が取り巻き、旋風の様に渦を巻いた。
空を舞っていた剣達はその突風に煽られ、弾き飛ばされた。
﹁心の安息が欲しいと言ったろ?﹂
目の前の魂喰いは残りの剣を手で払いのけ、腰に手を当てて悠然
と立った。
周囲を取り巻く瘴気は、数体のアルカナに姿を変え、臨戦態勢を
取った。
﹁悪魔、永劫、女司祭、吊られた男﹂
逆位置の雰囲気を纏った四体のカード。
収穫祭のニエとなるヤギ、エジプト神話に出てくるホルス、石で
出来た女性像、脚に荒縄を括り付け、罪人の様に足を引き摺るハン
グマン。
﹁どうだ? 合図一つで死ぬ運命にあるというのは?﹂
完全に立場が逆転した。
そう言いたげな魂喰いは、傷ついた喉元を擦りながらニヤリと笑
った。
1904
彼が一歩下がる毎に、周囲を取り巻くカード達は包囲網を縮めて
くる。
落ち着け、落ち着け、まずは落ち着こう。
﹁死にゆく私を哀れんで、一つ聞かせてくれない? 魂喰いの謎を。
何故死なないのか、どうして複数現れるのかを﹂
完全に勝利を確信したのか、余裕の微笑みを見せて彼は口を開い
た。
﹁なかなか楽しいものだね。死に逝く者から物乞いをされるなんて﹂
魂喰いは笑いを堪え、必死で口を押さえた。
下品な笑いが指の間から漏れ、私の心を逆撫でしたが、グッと堪
えて状況に身を任せた。
﹁良いだろう、七人。一人は君達に葬られたが、そのうち心が耐え
られなくなれば仲間は増えるさ﹂
増える⋮⋮。その一言に酷くリアルな真実を見たような気がした。
耐えられなくなれば増える。私はある本でその現象を読んだ事が
ある。
あれはダニエルキイスの本︱︱。
﹁ありがとう、この事を仲間に伝えなきゃって気持ちになれた﹂
瞬時に後ろへ飛び退き、背後に立つ永劫のカードに肘打ちを決め
た。
吹き飛ぶ敵に手を伸ばし三本の剣を放ち、霧散して消える姿を目
端で確認しつつ、背後の敵に向き直った。
1905
右と左に位置する悪魔と吊られた男。私は8本の剣を召喚し両手
で投擲し一気に穿った。
直線状に位置する魂喰いと女司祭に向かい、今出せるだけ、全て
の剣を投擲した。
時間差で霧散して消える悪魔と吊られた男、目の前の魂喰いと女
司祭が黒い瘴気に戻っていくのを見て、ホッと安堵のため息を吐い
た。
﹁流石に⋮⋮ちょっと⋮⋮疲れた﹂
しかし霧散して消えた瘴気の隙間から、蠢く魂喰いの姿を見た時、
正直嘘だと思いたかった。
けれど五体満足で余裕の微笑みを見せる魂喰いを見て、歯を食い
しばらねばと力を溜めた。
﹁目の前でカードを召喚して盾にしたのね﹂
﹁正解だ。見た目より賢いね﹂
ポンポンと手の埃を払う素振りをして、さっきの数倍の瘴気をば
ら撒いた。
瘴気がゆっくりと形を成し、愚者、魔術師、女帝、神官、戦車へ
と変わっていく。
コイツの霊力は底無しなのだろうか。私が必死の思いで剣を具現
化しているというのに、コイツは何の苦も無く数体のカードを召喚
している。
﹁もっと絶望を与えてやろう﹂
更に瘴気を放出し、ニヤリと笑って肩を揺らした。
1906
絶望的な光景が目の前に広がる。
本能が逃げろと選択肢を指差す。しかし私の中の信念が踏みとど
まれと選択する。
終わりの無いマラソンを走らされている気分だ。心が折れてしま
いそうになる。走るのをやめてその場に座り込んでしまいたい。
けれどそれは許されない事。
﹁根比べなら付き合う﹂
目の前の敵に剣を投擲し、魂喰いまでの道を開く。
この勝負は根比べではない。私が死ぬか、魂喰いが死ぬか。剣も
カード達もその他の要素に過ぎない。
一点突破、霊気の少ない私に残された唯一の作戦だ。
立ちふさがる数体のカードを本能で呼び出した剣で穿つ。一体、
二体と霧散して消え、ほんの一瞬だけ魂喰いの姿が目に入った。
﹁Swords Fifty−five﹂
本当に55本も呼び出せたとは思えない。けれど私の持つ最高の
技だから、この勝負この一手に賭ける。
私の背後から無数の剣が飛び、魂喰いへと向かっていた。
脚に一本、腕に一本、胸元に一本。私の気持ちを乗せて剣が魂喰
いを穿った。
しかし止めを刺す事は出来なかったようだ。
どのカードに攻撃を受けたか、その判断すらつかない。
仰向けに天を見上げ、その視界の端に蠢く瘴気が目に入り、私は
最後の瞬間を目を閉じて待った。
﹁いや、駄目だ﹂
1907
甘んじて死を受け入れるなんて出来やしない。
私には私を誇りに思ってくれる姉や師がいるのだ。恥ずかしい死
に方だけはしたくない。
震える膝に力を籠め、ゆっくりと立ち上がった。
﹁まだ何本か剣を出せる﹂
それが何本かなんて分からない。
まだ一矢報いるチャンスがあるのなら、死の瞬間までそれを待と
う。
﹁往生際が悪いね。子供の頃のまんまだ、背中の傷は治ったのか?﹂
その一言が私の消えかけた闘志に火をつけた。
落ち着いて息を吸い、怒りに身を任せないように落ち着かせた。
怒らせる作戦か、それとも最後の最後に本音を言ったのか。
もう怨みは捨てたつもりでいて、目の前にその相手がいると思う
と血がたぎる。
視界がぼやけているのは涙のせいか、それとも力尽きようとして
いるのか。
しかしいくら時を待っても魂喰いを狙う隙なんて見つからない。
﹁真琴さん、頑張って!﹂
アーケードの隙間から差し込む月の明かり。
その下に立つ小さな少女の姿があった。白く長い髪に細い四肢。
誰よりもか弱く見える少女は、小鳥の鳴くような美しい声で禍々
しい命令を下した。
﹁シロ! 喰え!﹂
1908
少女を包む白の霊気が形を成し、犬神の姿に身を変えた。
猛然と突き進む白の犬神は、魂喰いの周りを守っていたカード達
を薙ぎ倒していく。
﹁茜ちゃん!﹂
白髪の少女はあの頃よりほんの少しふっくらとして見えた。
丸い頬は歳相応の優しい表情を作っている。
﹁Swords︱︱﹂
犬神が作ってくれた絶好の隙、私はその隙を見逃さず剣を投擲し
た。
一本の剣は吸い込まれるように魂喰いの胸を貫き、今度は確実に
葬れたと確信した。
霧散して消えていくアストラル体を見つめ、同時に力を失ってい
くカード達の気配を感じていた。
﹁終わった﹂
私は力尽きてその場に跪いた。
茜ちゃんが私の元に走ってくるのが見えるが、まずは説教をすべ
きか、感謝の気持ちを伝えるべきか悩む。
涙ぐんで私の前に座る茜ちゃんの姿を見て、説教は後回しにしよ
うと心に決めた。
1909
商店街の自動販売機の前。
血で濡れたパリパリの髪の毛をミネラルウォーターで洗い流し、
最後の一口を私と茜ちゃんで分け合った。
頭に擦過傷、胸に一発貰ったが、骨には異常はない様だ。
ゆっくりと手に力が籠もって行くのを感じつつ、心配そうな顔を
している茜ちゃんに詰問した。
﹁どうしてここに?﹂
茜ちゃんは人差し指を顎に当て、ちょっと考え込む素振りを見せ
た。
そして隣に控えていたシロを一撫でし、ゆっくりと跨った。
﹁シロに乗ってきました﹂
いや、交通手段を聞いている訳ではないのだが、二コリと笑う茜
ちゃんがかわいすぎて、何にも言えなくなってしまった。
純真無垢とはこの事だろう。私が忘れていたピュアな心を持って
いる気がする。
﹁空も飛べるんですよ﹂
頭を撫でる茜ちゃんに反応するように、どこかこそばゆいかの様
に目を細めて口を開けた。
禍々しい顔付きのシロだが、表情や素振りはワンコと同じだ。
﹁いや、そうじゃなくて﹂
﹁ふふふ、分かってます。夕方過ぎた所で施設に電話が掛ってきま
して、﹃真琴さん達が危ないから手伝ってあげて﹄って⋮⋮﹂
1910
誰だ⋮⋮。美咲小隊の面子ではない、誰かという事になるが。
乃江さんのお姉さんだろうか⋮⋮、あの人ならそんな回りくどい
事をしないし、いの一番に乗り込んで大暴れするだろう。
美咲さんのお兄さんも同様。A++の称号を持つ人が、茜ちゃん
を頼るなんて話がおかしい。
﹁その電話の人、どんな人か名乗った?﹂
﹁ん∼、女の人の声で﹃セイギノミカタ﹄って言ってました﹂
ますます謎が深まった。思考のパターンはカオル先生っぽいけど、
声が女という事は違うみたい。
えぇい、悩んでいても仕方ない。この話は一段落してから考えよ
う。
﹁茜ちゃん、シロって二人乗り出来る?﹂
﹁余裕です! 乗ってください﹂
シロの背中をポンポンと叩き、私を笑顔で手招いた。
私は恐る恐るシロに跨り、茜ちゃんの腰に手を回した。
そして最後に思いついた質問を茜ちゃんにぶつけてみた。
﹁施設はどういう理由で出してもらえたの?﹂
しばしの沈黙があり、何も聞かなかったかのようにシロに合図を
送った。
無言の回答の理由は一つ、施設を出る理由など申し出ていないと
いう事だ。
1911
私は茜ちゃんの頭をポカリと叩きつつ、マリリンさんの顔を思い
出していた。
マリリンさんもこんな気持ちで、私と接してくれているのだろう
か。
そう思うと胸の奥がキュンと高鳴った。
1912
﹃俺の中の︱︱﹄
医療機器が静かに脈動し、点滴の薬剤が定期的に滴下する。
人は無音の部屋では静かで眠れそうなものだが、逆に気が休まら
ないらしい。
適度に雑音のある場所の方が、より深い眠りをもたらせてくれる
のだそうだ。
そういう意味ではこの部屋は最高の環境かもしれない。
︱︱それは眠れればの話だよな。
俺は病室の天井を眺め、ピクリともしない体を持て余していた。
ちょうど金縛りになるとこんな感じだろうか。
春菜は﹃精神と肉体の接続を再構成している﹄と言っていた。春
菜も小学生の頃に体験済だそうで、その時は半日ほどで元通りに動
いたらしい。
面白いのは痛覚による反射は、意思と別の所でコントロールされ
ているという事実だ。
体は言う事をきかないのに点滴の針に反応したし、時折瞬きもす
るのだ。これには感心させられた。
﹃キミも暇だな﹄
俺の心の中で呆れたような声を上げたハルナ。
不思議な事に、先ほどから頭の中にハルナが映し出され、定期的
に話しかけて来るのだ。
なにもない殺風景な部屋があり、唯一の調度品は一人掛けのソフ
ァー。ハルナはそこで脚を組み、ペーパーバックを片手に読書をし
ている。
1913
俺も何度か声を掛けたのだが、どうもカナタと意思疎通するよう
に、簡単にはいかない様だ。
︱︱俺の声が届くか?
心の中で思いを描いても、その全てはハルナに伝わらない。
話しかけている事は分かっているようだが、会話が成立せずハル
ナは溜息を吐いて本に目を落とした。
しばらくの沈黙があり、ハルナは脚を組み替えて本を閉じた。
﹃会話が成立するまでに本を読み終えてしまいそうだ。私は大切な
本を急ぎ読まない様にしている、キミを待つ為に大切な本の寿命を
短くしたくない﹄
本を膝の上に置き、肘掛に手を添えて頬杖をついた。
言いたい様に言ってくれる。俺は本よりも価値がないとでも言い
たげな口調だ。
﹃私の独り言を聞いてくれるだろうか?﹄
ハルナのツンとデレの配分が分かったような気がした。10:1
だ。
俺がそう心に思った時、不幸にも俺とハルナの心が繋がった様だ。
ハルナは汚物でも見るように俺を見つめ、眉を顰めて頭痛に耐えて
いる。
︱︱すまん。
﹃気にするな。鼻っから期待はしていない﹄
1914
ハルナは気を取り直すと、当初の予定のまま独り言を言い始めた。
﹃私は春菜の霊気に残るハルナの残留思念だ。このままここに居座
る心算はないから安心していい﹄
︱︱残留思念?
﹃そう。本当のハルナは春菜の体の中で眠っている。春菜が霊気を
支えきれなくなれば目覚めるし、春菜が必要としなければ永遠に目
覚めない﹄
︱︱そうか、ハルナは春菜を守っているんだな。例えて言うと春
菜のアニムス︵女性の中の男性像︶の様なものか。
﹃古臭い知識を知っているね。ユングに言わせるとそうなるかも知
れない。春菜がペルソナ︵外面性︶だとすると、ハルナはアニムス
と言えるかも知れない﹄
今は古い心理学理論と言われているが、これはユングの心理学の
一文。
かなり有名な論理なのだが、俺が知るキッカケは邦楽のアルバム
タイトルからだ。
うちの母が好きなアーティストのアルバムを指差して、意味を教
えて貰った事が少し役に立ったようだ。
﹃今は私がキミのアニマ︵男性の中の女性像︶としてここに居る。
居てキミの重荷を少し肩代わりしているという訳だ﹄
︱︱なるほど、荷物と運び屋が同時に来てしまったようなものか。
1915
﹃残念な事にここに居る以上、私の能力について説明をしなくては
ならない﹄
︱︱どうして?
﹃私の能力を使わないと、私が消えないから﹄
︱︱別に居てもいいじゃないか。それほど邪魔になるものでもな
いけどな。
ハルナが居ると分かっていても、思考の合間にアクションを起こ
さないと割り込みは発生しない。
現に天井を見つめている時はハルナの姿が見えないから。
現実世界で生きていくのに、それほど不都合を感じないし、追い
出したいというほど邪魔な存在に感じない。
﹃それではキミの能力が発現しない。キミはキミだけの協力者が必
要になる﹄
︱︱なるほど。ハルナの能力を使えばそれだけ残留思念が薄れる。
使った霊気は回復するにつれ、抱える負荷が増えていく。
﹃そうだね。そうなるとキミにも私のような存在が産まれる筈だし、
それは私とは違うから﹄
︱︱風呂の追い炊きは水を抜いて沸かした方が早い。
﹃キミの例えは同意しかねるね﹄
まあいいさと微笑んでハルナは指をパチンと弾いた。
1916
同時にハルナの前に小さなテーブルが現れ、彼女が目を閉じ手を
翳すと、一丁の古臭いリボルバーと6発の弾丸がテーブルの上に現
れた。
﹃私の能力は﹃現実﹄を﹃違う現実﹄に変える事。春菜の心には後
ブレーク・オープン
ろめたさがあるのだろうか、発現させるには酷く制約が多いのだ﹄
ハルナは弾丸を一つ一つ立てて並べ、中折れ式の銃を手馴れた手
付きで扱い、弾倉を露にして俺に見せるように置いた。
西部劇好きなら知っている名銃、スコフィールド。かの有名なワ
イアットアープが実際に使っていたとされる銃だった。
引き金と撃鉄が連動するダブルアクションではなく、一発撃つ毎
に指で撃鉄を起こすシングルアクション。
ゆえに引き金を早く引く事が出来、神技と呼べる早撃ちを可能に
する。
﹃実際に試して見せる前に、現実を変える方法について知る必要が
ある﹄
︱︱それは俺も興味がある。真実の目と現実操作について聞かさ
れたが、チンプンカンプンで困っていた所だ。
﹃真実の追究は永遠に続く課題だよ。私のライフワークとなってい
る。移ろいやすく酷く曖昧な物だという事は理解しているだろうか﹄
︱︱まあ、概ね。
﹃キミはキミの結論を追うと良い。私とキミは違うから、同じにな
るとは限らないし、概念の押し付けはしたくない﹄
1917
︱︱あのな。言いたい事があるのだが。
﹃なにかわだかまりを持っているのか? 良いだろう聞いてみよう﹄
︱︱そのつっけんどんな喋り方、なんとかならんものか?
﹃ならないね﹄
︱︱見た目がかわいい女の子なのに、人を突き放すような口調だ
から反動が大きいんだけど。
ハルナはこめかみに青筋を立て、俺をジッと見つめていた。
そして溜息を吐き引き攣ったような笑いを浮かべて見せた。
﹃カオルさん、これでどうかしら?﹄
︱︱いや、ごめん。それはキモチ悪い。
﹃だろう? 人との付き合いなどした事がない。察することも思い
やる事もこの世界では不要だからな﹄
そうか⋮⋮、ハルナは日常の殆どをこの部屋で過ごしている。
本を愛し、孤独を愛し、真実を追う探求者だ。
口調にしろなんにしろ、俺の概念を押し付けているのかも知れな
い。
︱︱すまん、俺が悪かった。
﹃こちらこそ。今後からは善処しよう﹄
1918
そう言ってハルナはお互いのわだかまりが解けた事で、満面の笑
みを見せた。
俺はその笑顔を見て、本当の中身は見た目や口調で判断すべきで
はないと気付かされた。
︱︱話の腰を折ってしまったな。
﹃続けよう。まず未来を変える方法だが原理は簡単だ。事が起こる
前に回避するだけで良い﹂
︱︱バイクでこける未来があるなら、その日はバイクに乗らなけ
れば良い。そんな所か?
﹃そうだね。未来を変える事は、全てのモノに与えられた権利だ。
皆は知らず知らずの内に未来を選択して生きている﹄
春菜は見えているから能動的に動ける。そういう能力だ。
春菜はハルナがいるからA++だと言っていたが、個人の資質だ
けで十分脅威だと思う。
見える未来に対して変化のキッカケを与えるだけで良いのだから、
家にいながら電話一本で済ませる事だって出来るはずだ。
安楽椅子探偵ってのがあったが、安楽椅子退魔士だって可能な訳
だ。
﹃しかし現実、﹃今﹄を変えるのはそれほど容易ではない。未来は
無数に選択出来、今は選択肢に直面してる。そして過去は一つにな
って束ねられていく﹄
無数の未来を今選択して、過去は事実として永遠になる。
今現在を変えるってのは確かに難しい事だな。
1919
﹃どうすれば現在を未来の様に、容易に変えれると思う?﹄
︱︱視点を変えるしかない。現在を今の視点でみれば、現実に直
面して変化を起こせない。過去の視点から今を見れば未来になる。
そこでなら現在を選択する事が可能だと思う。理論的にだけど⋮⋮。
﹃そうだね。理論的には今を未来として見つめるしかない。でも現
実操作はタイムリープのような便利な能力ではない﹄
︱︱ガッカリ。良い線いってると思ったんだけど。
﹃そう悲観する事は無い。着眼点は凄く良いから﹄
︱︱そうか?
﹃そうだとも。無数の糸が現実で束ねられ、過去へ紡がれていく。
これがヒントだ﹄
︱︱史実として紡がれる前になんとか出来そうな口調だな。それ
が正解か?
﹃想像してくれ。無数の糸を指先で束ねている絵を。未来の全てを
手に収めてるのだ﹄
︱︱未来の全てを手に収めてる?
﹃そう、全ての可能性を指先に束ねている。過去に手渡す前にね﹄
︱︱そう考えると凄いな。全ての可能性を掌握しているなんて。
1920
﹃そう春菜が未来を観、私が現在を選択する。それが利点でもあり
欠点でもある﹄
︱︱現実と未来の差異。パラドックスを生んでしまう。
﹃その通り。現実の私が春菜を否定してしまう事に繋がる。ともす
れば人格崩壊を起こしかねない﹄
ハルナはゆっくりと手を伸ばし、テーブルの上のスコフィールド
を握り締めた。
弾丸を細い指先をつまみ上げ、弾倉に一発込めてノッチを閉じた。
軽い手捌きで弾倉をクルクルと回し、頭に突きつけてニコリと笑
った。
﹃ロシアンルーレットは弾丸が飛び出ると負け、能力の発現はその
逆。銃に委ねる事で差異を打ち消している﹄
弾丸を良く見ると凝縮された霊気の塊で出来ている。
山科さんの風弾のような極限を超えた圧縮比率で、膨大な霊気が
小さな弾丸に凝縮されている。
︱︱春菜から受け取った霊気ってのは、その弾丸か?
﹃そう、そして残留思念である私の存在そのもの﹄
言われて見ると確かに。
元々の俺が持つ霊気を凝縮した所で、あの弾丸6発を作り出す事
は出来ない。よくて3発が限界だろう。
1921
﹃これで確率は6分の1。確実に現実操作する為には6発を使用す
るしかない。6回か確実な1回をお薦めする。装填する弾丸の数は
自由だが、一度装填した弾丸は、撃鉄が落ちた瞬間に消える﹄
一発使えば霊気が回復するまで確実な操作は出来ない。
5発装填してもハズレを引けば残弾は一発になる。
確実な6発撃ちをすれば最低一回は現実操作が出来るが、1発込
めて6回撃っても確率は上がるだろうがゼロにもなりうる。
﹃そして6発全てを撃ちつくせば、私はこの場から消えうせる。次
に役割を担う者はどういう能力にするのか。それを知る事は出来な
い﹄
︱︱ハルナの能力は分かった。制限がある理由もそれなりの覚悟
を必要とする現われだと理解した。
﹃最後に現実が過去に変わるまで⋮⋮。春菜の思考では現実を過去
と判断するまで数秒から数十秒かかった。カオルは何秒後を過去と
判断するかは不明だが、それまでに心で引き金を引けば良い﹄
ハルナは微笑んで話に区切りをつけた。
そして再び本を手に取り、伝え忘れたかのように口を開いた。
﹃もう動けるはずだよ﹄
俺はベットに横たわったまま今の状況をゆっくりと確認した。
1922
機器のランプが照明代わり。そんな暗い室内も夜目が利くのはあ
りがたい。
体は熱に冒されたような気だるさが体に残り、全身が汗ばんで喉
に渇きを覚えていた。
まずは春菜の様子が気がかりだ。俺の様にどこかの病室で寝てい
るかもしれない。
俺はベッドから起き上がり、点滴の針をそっと引っこ抜いた。
﹁何時間寝ていたんだろ⋮⋮、外は真っ暗だ﹂
薄明かりのままベッドをおり壁際のスイッチを操作して病室の明
かりをつけた。そこで初めて自分が病院着を着せられている事に気
が付いた。
薄いブルーのズボンに作務衣のように脇で縛る上着。薄く頼りな
くもあり裸よりはマシな程度。
俺はベッド脇に畳まれていた俺の着衣を発見し、元の服装に着替
え直した。
守り刀とナイフが無い。春菜が俺を気遣って看護師に指示したか
? アレは霊気を吸うアイテムだし、病人には酷と判断したのだろ
うか。
﹁やれやれ⋮⋮、落ち着かないな﹂
腰の辺りがスースーするような気がする。
あって当たり前の状態になってるから、無いと不安に陥ってしま
う。
﹁先に春菜を探すか﹂
俺は靴紐を結び直し、病室を後にした。
1923
夜の病院内は昼間とは打って変わって静かだった。
病室内からは人の気配がするものの、廊下を歩き回る人は殆ど見
えない。
病室を見渡しやすい位置にナースステーションがあったが、ここ
も今は無人で明かりも消されている。
俺は人影を探して階下に向かい、最初に見つけた時には一階まで
下りていた。
慌しく運び込まれる救急ストレッチャー、患者の容態を口頭で伝
える救急隊員とそれを受ける医者の姿。
看護師達は患者の受け入れに手を取られ、慌しく動き回っていた。
﹁なるほど、人が少ない訳だ。間が悪かったようだ﹂
ここは人の命を救う場所だ。時には入院患者のサービスに影響が
出る場合もあるだろう。
目の前の救急隊員、医者、看護師の表情を見て、﹃春菜はどうな
りましたか?﹄なんて聞ける訳はない。
そう思い踵を返した所で、外来ロビーに人影を見つけた。
病院に不釣合いな人影。刀の神、桃の仙女を頭の上に乗せた八瀬
春菜だった。
俺はホッと胸を撫で下ろし三人の前へと向かった。
﹁春菜は無事だったのか﹂
春菜は膝の上に二本の短刀を置き俺を見上げた。
泣き腫らし目が真っ赤になっていたが、昔の春菜を知ればそれも
彼女らしいと思える。
春菜は俺をジッと見つめ複雑な表情を浮かべていた。
﹁無事じゃない。この子達のお守をするのが精一杯﹂
1924
春菜の言葉通り、全身を覆う霊気に力が無い。
一時乃江さんと手合わせした後にはこういう状態になる事があっ
た、いわゆる霊気切れの状態だろう。
本当は横になって眠りたいほど消耗していると思うが、悪態を吐
けるなら命に係わる心配ない。
﹁カオルちゃんは大丈夫?﹂
﹁ああ、元気貰ったからな﹂
春菜は苦笑しながら俺を上目使いで見て、本当に言葉通りか確認
している。
言葉通り嘘じゃない。俺の霊気は恐ろしい位に漲り、体の中に渦
巻いているからな。
春菜は俺に二振りの短剣を手渡し、それと共にトウカとカナタは
俺の頭の上に跳ねて来た。
﹁おおっ、言葉通り充実しておるな﹂
カナタは深呼吸するように霊気を吸い、感嘆の言葉を発した。
トウカもその言葉が嘘ではないと、春菜に合図を送り微笑んだ。
﹁この子達がそう言うなら間違いないね﹂
春菜はそう言ってポケットの中から鍵を取り出して俺に手渡した。
小さなクマのマスコットが付いた鍵には、﹁Vespa﹂と小さ
く刻印がしてあった。
﹁今の私は霊気が乏しすぎて未来が見えない。さっき残りの一絞り
1925
を使っちゃったから﹂
春菜の表情を見れば、何が起こったのか分かる。
アレが現実になろうとしているのだ。仲間の皆が血まみれで倒れ
る未来が。
﹁戦闘が始まってるんだな﹂
﹁うん、急いで﹂
春菜は俺の手を引いて走り出した。
病院の救急搬送口をくぐり抜け病院の外に出て、駐輪場まで駆け
ていった。
﹁これ使って﹂
春菜が指差すバイクは白のスクーター。
べスパが誇るスポーツバイク。GTS300ieだ。
小さなべスパスクーターに300ccのエンジンを積んだような
フォルム。
軽量ボディと暴力的なエンジンのミスマッチが、刺激的な加速を
生み出すと言われている。
俺は指示されるがままシートの横に鍵を差し、座席を引き開けた。
座席下はメットインスペース。ジェットヘルとゴーグルを取り出
し、そのグラマラスなボディに跨りエンジンを掛けた。
﹁ハルナもいないし、私はこの通り⋮⋮だから﹂
春菜は俺の首に両手を回し、頬に触れるだけのキスをして飛び退
いた。
1926
﹁後はカオルちゃんに任せた! 頑張って!﹂
俺は頬を押さえながら呆然としてしまったが、春菜の掛け声を反
芻し、今しなくてはいけない事を思い出した。
﹁おう、行って来る﹂
メットを被りゴーグルを首に引っ掛けてアクセルを軽く回した。
圧倒的なトルクが発生し、はやる気持ちを抑えきれないと自己主
張している。
俺はGTS300ieの望むまま、アクセルに捻りを加えた。
1927
﹃現実操作﹄
べスパGTS300ieの乗り心地は、一言で言うと素直。
遠心プーリーの特性だろうかか、あくまでもフラットに伸び上が
る。
乾燥重量は俺のSDRより一回りファットな感じだが、有り余る
トルクが鈍重さを感じさせない。
遠めからみたら懐かしいべスパのスタイルそのままだが、シャー
シ剛性はなかなかの物だ。
足回りのセッティングも申し分なく、高速走行を強いても異様な
までの安心感を与えてくれる。
まあちょっとベタ褒めした感はあるが、ラテン臭い適当な作りは
随所に感じられる。
例を挙げるとすればスピードメータ。ゼロから60km/hまで
とそれ以上の目盛りの間隔が違う。
ワイヤーでタイヤの回転情報を引っ張っているのに、なんで目盛
りが大雑把なのだろうか。そこがまた適当でラテンな感じがする。
俺はポケットをまさぐり、携帯電話を取り出して真新しい通話記
録を呼び出した。
フルフェイスだと出来ない脱法行為だが、今は緊急事態だ、断腸
の思いで電話を掛けた。
急造のパートナーだが、このまま放置するのは忍びない。それに
アイツの能力はきっと役に立つ。
呼び出しの相手は3コールで電話を取った。
﹁よう!﹂
﹃この一大事に何をのんびりと︱︱﹄
1928
電話の相手、チェンジリングの声は相手側の風きり音で掻き消さ
れた。
一大事とチェンジリングが言う以上、アイツもこの事態に気が付
いているという事だろう。
﹁戦闘が始まったらしい。俺は直接現場に向かってる。そちらは︱
︱﹂
﹃私も︱︱向かっ︱︱所だ。天野美咲に︱︱れて﹄
断続的に聞えてくるチェンジリングの声。聞き間違いか、美咲さ
んの名前が出てきた様な気がする。
首を傾げつつふと前方を見ると、燐光を纏った妖精イリスが空中
でクロールしている。必死の思いで前方を走るDRZ−400を追
いかけている様に見える。
﹁なるほど﹂
俺は電話を切りポケットに携帯を突っ込むと、GTS300ie
に鞭を振るった。
回転域を外した自分本位の再加速だが、GTS300ieは素直
にメーターの針を跳ね上げた。
そしてスクーターとは思えない加速を見せて、前方にいた美咲さ
んのバイクを猛追し始めた。
﹁カオル∼、キャンディ頂戴﹂
まず真っ先に俺の存在に気が付いたのは、妖精イリスだった。
物欲しそうな表情で俺のリュックへと着地し、遅れてカナタとト
ウカへ挨拶をした。
1929
﹁イリス! 状況を説明しろ。なんで美咲さんとチェンジリングが
一緒に?﹂
イリスは甘味がリュックに中に入っているのを知っている様子。
リュックに潜り込みながら、俺の問いに答えてくれた。
﹁あの髪の長∼い人がホテルにやって来て、ご主人様を摘み上げて
持っていった﹂
あ∼っ、頭痛がするほど容易に想像できる展開だ。
美咲さんは俺がホテルに泊まっているのを知っていた。てことは
チェンジリングの所在も掴んでいるって事だ。
なんで美咲小隊がバラバラに行動しているかは謎だが、計算高い
美咲さんの事、チェンジリングが役に立ちそうだと思って拉致した
に違いない。
﹁なるほど、説明が簡潔で分かりやすい。ご褒美に一個食っていい
ぞ。カナタとトウカにも配ってやってくれ﹂
﹁は∼い﹂
イリスはキャンディを三つ抱えてリュックを飛び出し、カナタと
トウカに配ると残りの一つを頬張った。
そして首にぶら下げていたゴーグルに着地し、ハンモック代わり
に寝そべり口をモゴモゴと動かした。
﹁追え∼っ、カオル!﹂
﹁お前⋮⋮、自分で飛べよ﹂
1930
ずぼらな妖精に指示されたからではないが、前を行く美咲さんに
横並びして合図を送った。
美咲さんは緊張した面持ちでハンドルにしがみ付き、チラリとこ
ちらを見るのが精一杯。
後ろに乗るチェンジリングは大声を張り上げ、泣きそうな表情で
両手を振り上げている。
﹁この女の運転は危なっかしい! そっちに乗せろ!﹂
﹁無茶言うな﹂
元気そうなチェンジリングに苦笑し、アクセルを少し緩めて後方
に着き、このまま美咲さんを追随する事にした。
前回追い詰めた北の方角だろうと予測したが、正直な所目的地ま
では分からなかった。
そういう意味で美咲さんを発見できたのは渡りに船だったのだ。
美咲さんにしては頑張って走らせているみたいだし、このまま後
ろを追いかけて行くのが一番早いと思われる。
﹁カオル﹂
左肩に乗るトウカが耳元で囁いた。
トウカが先んじて俺に声を掛けるのは珍しい。いつもカナタを立
てて一歩引いて見守っているのに。
いつもと違う声のトーンも気になる要素だ。何かあったのか?
﹁どうした?﹂
トウカは俺の頬に両手を当てなにやら考え込んでいる。
1931
俺の霊気を確かめているのだろうか。以前と違う何かを感じ取っ
ているのかも知れない。
﹁カオルは春菜を好いておるのか?﹂
俺はガックリと脱力し、思わずアクセルから手を離してしまう所
だった。
ほっぺたに手を当てていたのはそういう事か。キスされた所を確
認していたんだな。
﹁んな訳ない。小学校の同級生、退魔士仲間、霊気の共有者。それ
以上でも以下でもない﹂
﹁でも接吻しておったが⋮⋮﹂
トウカはそう言ってチラリとカナタを見た。そして反応を楽しむ
かのようにほくそ笑んだ。
どうもこのトウカ、カナタを弄って反応を楽しむのが好きなよう
だ。
小学生の小僧が好きな女の子をからかったりする、ああいう心理
だと思うのだが。
世間知らずのカナタに﹃激うま﹄とウイスキーボンボンを食わせ
て酔わせてみたり、嫌がるカナタを脱がし露出度の高い服を着せた
りと、やりたい放題やっている。
今回も春菜事件をネタにカナタを炊きつけようという魂胆らしい。
そんな地雷原でスキップするような、危険な行為はやめて欲しい。
﹁接吻ってキスの事? アメリカじゃ挨拶代わりにチュッチュして
るよ。普通だよね﹂
1932
イリスはさも当たり前といわんばかりに助け舟を出してくれた。
ナイスだイリス。キャンディをもう一つあげたい位に感謝しよう。
﹁ほう、挨拶で接吻とは節操無い。そういうのは好かぬ﹂
奔放に見えて貞淑、気が強くて大陸気質のトウカは、呆れた表情
で扇を振るい憤慨した。
それには自称大和撫子のカナタも同意のようで、コクコクと頷い
ている。
これが欧米系と東アジア系の違いだろうか。けれど二人に否定さ
れようがどこ吹く風、涼しい顔でイリスはニヤニヤと笑っている。
﹁日本人だって所かまわずチュッチュしてるじゃない。こないだ電
車の中で見たもん﹂
確かに最近目に付くよな、周りに気兼ねせずベタベタチュッチュ
している奴。
イリスは空気の読めないバカップルの事を言ってるのだろう。
﹁嘆かわしや⋮⋮﹂
ため息を吐く二人を見て鼻で笑ったイリスは、挑発するかのよう
に短く強い口調で言い切った。
﹁やってみたい癖にぃ。素直じゃないんだから﹂
そう言ってピョンと飛び上がり、俺の頬にキスをした。
敬愛の意味だと分かる、頬と頬を合わせるようなキスだった。
﹁キャンディ、いつもありがとね。カオル大好き!﹂
1933
﹁ななっ!﹂
﹁うぎぎぎっ!﹂
呆気に取られ絶句したトウカと、歯軋りなのか何なのか分からな
い奇声をあげるカナタ。
刀精、桃仙、妖精は見事に火花を散らしあっている。
まあ⋮⋮、なんだ⋮⋮、どうでも良いんだが、運転の邪魔なんだ
けど。
﹁私のご主人様は、お仕事がんばったらチュってしてくれるよ? 二人も仕事を頑張ってみたら?﹂
﹁ふむ、褒美とな⋮⋮﹂
﹁なるほど⋮⋮、そういう手があったか﹂
ツンツンしているチェンジリングがイリスにそんな事をしている
様子が想像できん。似合わない事やってんなぁ⋮⋮。
イリスは虐げられているのかと思えば、大切にされているようだ
な。
まあそれはさておき、納得しつつある二人を放置する訳にはいか
ない。
﹁こらこら、お前ら。イリスの口車に乗るんじゃないぞ!﹂
ニヤニヤと笑いを浮かべたイリスは俺の目の前に飛び、小さく口
を開け俺だけに聞えるように囁いた。
1934
﹃二人に頑張ってもらったら、カオルも助かるじゃないの。今回だ
けよ﹄
﹃⋮⋮今回だけ?﹄
一回こっきりなら話は別だ。今回はそれだけの大きな山だからな。
それに人形サイズのカナタとトウカにキスされようと、蚊に刺さ
れたようなものだ。
それで戦闘が楽になるなら、一つの作戦だと思って納得できるか。
﹁よし、頑張った人には前向きに検討する!︵かもしれない︶﹂
﹁!!﹂
二人の体がピクリと動いた。
二人には俺の囁いた語尾は伝わっていない模様。作戦勝ちだな。
イリスはそんな二人を見て、クスクスと微笑ましそうに笑って見
せた。
﹁うわっ!﹂
北の空が一瞬明るく光った。
そしてそれが見間違いでないと、もう一度激しく光り、夜空を昼
間の明るさの様に照らし出した。
イリスはその光りを見て空高く舞い上がり、空を一巡して俺の前
に降りて来た。
﹁すぐ近くだよ。距離千﹂
1935
一キロか、言われて見ると前方がにぎやかだ。
車線を埋め尽くすように車が止まり、ヘッドライトもエンジンも
そのまま。無用心にも扉が開かれて放置されている。
周囲の店や建物には人の気配は皆無。恐らくその全ては前方に集
中しているに違いない。
前方に感じる無数の人の気配は、人の持つ陰と陽、その陰の気が
満ち溢れている。
俺も一度体験した異質な気配。人形繰りに操られた人の気配だ。
﹁ビルの上から雷光、下は市民と乱闘か。見事に分断されてる﹂
一刻も早く加勢したい所だが、車が道を塞いでいる。すり抜けら
れる内は良いが、完全に閉ざされてしまうと足止めを食らってしま
う。
俺はスロープから歩道へ上がりアクセルを捻り上げた。
前方に見えるのは山科さんと牧野の姿。二人の動きは精細を欠き、
いつものキレが無い。
それもその筈、牧野が男の子、山科さんが女の子を背負い、片手、
片足で凌いでいるからだ。
﹁カオル!﹂
﹁元気そうで何よりだ、牧野!﹂
存外元気よさそうな二人を見て、俺はビル前にバイクを停車させ
た。
同時に襲い掛かってきた市民を足蹴にし、ヘルメットを脱いでそ
の場に転がした。
﹁さてと﹂
1936
どうしたものか。
二人が背負っている子らは、見た目怪我をしている様には見えな
い。恐らく気を失っているだけと見た。
ならばアレを何とかすれば、二人は戦線に復帰できると言う訳だ。
ビルの上から見えた雷光は、宮之阪さんのサンダーブレーク︵電
撃︶に違いない。
あんなマップ兵器を使って仕留められない敵となると、流石の宮
之阪さんも苦戦中と予想される。
俺達がビル上へ加勢に行くには、まず市民を何とかしないといけ
ない訳だが⋮⋮。
︱︱私の事を忘れていないか?
頭の中でハルナが呟いた。
いやいやそんな無理な事を。そもそも頭の中に居座っているのに、
忘れる訳はないだろうに。
﹃弾は6発しかない、ハルナは使えないだろ?﹂
︱︱それはキミの思い違いだ。使った事のない能力を、いざとい
う時に使いこなせる訳が無い。
ディーラー
﹃試してみろってか? 一発込めの6回でハズレを引いたらどうな
る﹄
︱︱熟練の賽振りは出したい目を出せるもの。さっき込めた一発
はかなりの高確率でアタリになる筈だよ。
﹃マジで?﹄
1937
うまい話には裏があるというが、ハルナの場合は信用しても良い
だろう。逆に騙す理由が見つからない。
ハルナの言う通り、能力の発動手順や時間を知らないと実戦で使
えないのも真実だ。
︱︱心で引き金を引けば、それでいい。
ハルナはリボルバーをテーブルに置き、健闘を祈ると囁いて会話
を終了させた。
﹁カオル、危ない!!﹂
現実に立ち返った俺がまず耳にしたのは、山科さんの悲痛な叫び
声だった。
ハッと我に返ると目の前には車載工具を振り上げ、俺につき立て
ようとする主婦の姿が見えた。
反射的に﹁長考﹂のスイッチを入れたが、かなり回避が難しい位
置まで振り下ろされている。
いや、守り刀を抜き手首を切り飛ばすには十分な距離だが、手で
受け流すには相手に与える衝撃が大きい⋮⋮そんな距離。
俺は迷わず心の中へ意識を移し、リボルバーの銃口を頭に当て引
き金を引いた。
弾丸が頭に食い込み、過剰な霊力を俺に手渡そうとする。
同時にテーブルのペーパーバックが風に捲られるようにページを
開き、その1ページ1ページが空に舞い上がった。
俺の周囲に舞い上がった紙吹雪には、選択されなかった現在の映
像が焼き付いている。
俺はその一枚を手に取って握り潰し、今ある現在の代わりに過去
へと送り込んだ。
1938
﹁︱︱﹂
目の前に迫っていた手は、力を失いスローダウンしていく。
視界の端に美咲さんのバイクが急停車し車体を横に向け、タンデ
ムシートに乗ったチェンジリングが呪文の詠唱を完了させていた。
﹁︱︱糸に操られし者達よ、己が力で立ち住処へ帰れ﹂
その力を持った言葉は、声として伝達するのではなく空間に作用
した。
同時に繰り糸がプツンと切れ、目の前の主婦はその場に跪いた。
そしてぼんやりと焦点の合わない目が、徐々に力を取り戻していっ
た。
その現象は俺の目の前だけで起こっているのではない。その場に
いる全ての人々に同様の現象が起こっている。
チェンジリングの能力、空間に強制力を持たせる能力は、繰り糸
に操られた人々に自立するように命じたのだ。
﹁間一髪、か﹂
ハルナの能力、その一端が見えたような気がする。
現実の操作とは、その場にあり得ない事象を発生させる能力では
ない。
あくまでも﹃あり得る現実﹄のうち、選択されなかった現在をチ
ョイスする能力なのだ。
この場にチェンジリングがいなければ、この現実は起こりえない。
彼女がいるからの選択肢なのだ。
裏を返せばチェンジリングの意思と関係なく、その能力を使わせ
たとも言える。
1939
石が無ければ転ばない。水が無ければ溺れない。火が無いところ
で火事は起こせない。そういう能力なのだ。
︱︱大した事の無い能力と思うだろ?
ハルナは自傷気味に笑って見せた。
確かに見方を変えれば、なんて事の無い能力だ。
恐らく俺が能力を発生させた事すら、周りの皆に気が付かれてい
ないと思う。
一見地味に見える能力だが、こんな恐ろしい能力は無いと思う。
使い方を誤れば、とんでもない事になってしまう。
﹃逆だ。正直恐ろしくてたまらない。春菜が慎重になる理由が分か
るよ⋮⋮﹄
︱︱でも、これで100パーセントはあり得ない。
﹃ハルナがいれば、次も100パーセントだろ? 信じるよ﹄
︱︱人使いが荒いね。けど頼られるって悪くない。キミの為に力
を貸そう。
俺は目を閉じハルナとの交信を切った。
そして再び目を開けて、私利私欲の為にこの能力は使うまいと心
に決めた。
﹁美咲!﹂
山科さんは糸の切れた人々を見つめ、ホッと安堵の溜息を吐いた。
そして涙目になり、美咲さんに飛びついた。
1940
﹁乃江が助勢に行ったけど、屋上はマリリンとメタボと猫ちゃんだ
けや。はよ助けに行かんとマズイんや﹂
美咲さんはビルを見上げ、険しい表情を見せた。
﹁今一番危険なのは乃江かも知れない﹂
この状況で何かを感じたのか、美咲さんは悔しげに歯をかみ締め
た。
1941
﹃二発目﹄
美咲さんは少し冷静さを失っている様に見えた。
バイクから降りてビルを見上げ、らしくなく爪を噛み視点を彷徨
わせている。
俺の師であるキョウさんに、こういう状況に陥った場合、まずは
落ち着いて状況把握をすべしと教わった。
キョウさんがよく引き合いに出す、宮本武蔵の五輪の書ではこう
語られている。
﹃心の持ようは、常の心に替る事なかれ。常にも兵法の時にも、少
しもかはらずして心を広く直にして、きつくひつぱらず少しもたる
まず、心のかたよらぬように心をまん中におきて心を静かにゆるが
せて、其ゆるぎの刹那もゆるぎやまぬように能々吟味すべし﹄
心は平常心でいる事。普段も戦場に身を置く時も、緊張しすぎず
緩みすぎず心をニュートラルに保つ事が大切なのだと。
今の美咲さんは少し心が張り詰めた状態、普段の彼女を知るから
こそ﹃らしくない﹄と言える。
どんな状況であれ飄々と落ち着いて考え、必要とあらば平然とチ
ェンジリングですら拉致して来るのが美咲さんなのだ。
﹁美咲さん、落ち着いて﹂
俺はリュックからキャンディを取り出し、一つを口に放り込んで
心を落ち着かせ、もう一つを美咲さんへと手渡した。
美咲さんはちょっと驚いた表情を見せたが、俺の意図する事を察
してくれたのか、何も言わずに頬張り口を動かし始めた。
1942
﹁状況把握が先決です﹂
俺はそう言うと深呼吸を一つして、緊張で凝り固まった筋肉をほ
ぐした。
俺は美咲さんのように頭の回転は速くない。だからこそこういう
時、余計に落ち着かなくてはならないと思っている。
はやる気持ちは決して悪い事ではないけれど、それで空回りして
しまっては元も子もないと思うから。
特に緊迫した状況だからこそ、次の一手を間違ってはならないの
だ。
﹁牧野、山科さんが怪我していると思う。治療してやってくれない
か?﹂
山科さんの動きが悪いのは先ほどから気になっていた。
足を庇って動き、上体の動きでカバーしていた様に思える。
﹁二人を抱き抱えて着地する時、ちょっと捻ったんや﹂
背負っていた女の子を路上に下ろし、革靴を脱いで足を露にさせ
た。
左足の足首が二倍ほどに腫れ上がって、誰の目にも酷い捻挫だと
言う事が分かる。
だが山科さんは苦しい表情を見せず、気丈に振舞って手を添えて
治癒を始めた。
﹁サリーちゃんの足みたいになってんじゃねえの﹂
牧野は山科さんの足首にそっと手を触れて、患部に負担が掛らな
いよう小型ナイフで靴下を切った。
1943
痛みで顔を顰める山科さんの顔を見て、二、三箇所触診を行い、
どうしんかげんはちれいふぶはちけいしん
ポケットから取り出した護符をペタンと貼り付け念を籠めた。
﹁洞神下元八景霊符部八景神﹂
牧野の出した護符と呪文は屋上で戦った時の物だった。
刀で深手を負わせた時、その傷を瞬時に治したご利益ある護符だ
﹁うはっ、便利な護符やなぁ。痛みがすぅっと引いて行くわ﹂
あの護符の治癒力ならばすぐに立ち上がれるだろう。
山科さんは代えの効かない能力の持ち主、これからも戦力として
必要になるし、離脱してもらう訳にはいかないから。
﹁チェンジリング! 倒れている人々だが、再び操られると厄介だ。
なんとかならないか?﹂
俺達がビル内に突入したとして、再び操られれば当然ビル内に侵
入するだろう。
牧野や山科さんが侵入を食い止めていたのも、そういう意図があ
っての事だ。
外から火をつけられるなんて事になれば、逃げ場を失った人々は
大惨事に巻き込まれる。
﹁この者らを叩き起こし、この場から退散させればいいのだろ?﹂
チェンジリングは手に持った箱から人形を掴み出し、念を籠めて
人形を放り投げた。
放り投げた人形は六体。
ピクリと人形が震え、光を纏い徐々に実体化していき、瞬く間に
1944
実物大の人へと変化した。
NYPDと書かれた黒のジャケットの下にボディアーマーを着た
警官姿。テロ制圧用のゴム弾を片手に武装を固めていた。
おはこ
﹁ニューヨーク市警ってか﹂
﹁交通整理は彼らの十八番だ﹂
人形を人に変えたのか、それとも人だった者が元に戻ったのか、
今見ただけでは分からない。
しかし道端の人を抱え起こし、救護をしている姿は堂に入ってい
る。
チェンジリングの能力恐るべし。
﹁屋上には宮之阪さん一人なのか?﹂
﹁グラビティをサポートさせとる﹂
山科さんは足首をコキコキと動かし、患部の治癒状況を確認して
いる。
手早く靴を履き、立ち上がって屋上を見上げ呟いた。
﹁正確にはマリリン、猫のタマにゃん、グラビティのメンバーや﹂
宮之阪さんはともかく、移りっ気の激しいグラビティとボス猫タ
マさんか。
想像を絶するデコボコトリオだな。
一人で潜入した乃江の気掛かりだが、孤軍奮闘している宮之阪さ
んも放置出来ない。 屋上への戦力補強、乃江さんを追うメンバーと二分したい所だが、
1945
壁をよじ登る訳にもいかんし、どうしたものか。
﹁おっ!﹂
ギョッとした表情で牧野が声を上げた。
俺は咄嗟に振り返り、驚きと共に安堵の溜息をついた。
﹁カオル先生∼っ﹂
白の獣が車の天井を跳ね、猛スピードでこちらへ飛んできている。
背に乗るのは傷だらけの真琴、そして園田茜の姿があった。
犬神シロはしなやかな動作で歩道に降り立ち、俺たちの横で地に
伏せて、茜ちゃんをそっと背から下ろした。
﹁真琴! 怪我してるじゃないか、それに茜ちゃん、どうしてここ
に?﹂
﹁幻獣召喚の魂喰いと戦闘してて、茜ちゃんに助けて貰ったんです﹂
真琴のいう魂喰い。
宮之阪さんと戦っている魂喰い。
俺達が倒したはずの魂喰い。
俺は自分の予想が的中している事を確信した。
俺の中にハルナがいるように、多くの能力を受け継いだ魂喰いに
も、複数の人格が存在するのではないかと予想していたからだ。
そしてアストラル体は意識の集合体。
肉体は一つでも複数の意識が存在すれば、幽体離脱する時には分
離して複数同時に存在できると予想していた。
一体を倒しても、霊力を支えるに精神は必要になる。パーツが足
りなくなれば、新たな意識が芽生え、霊力を支えるのはないかと思
1946
っていた。
少なくとも﹁オリジナル﹂﹁繰り糸﹂﹁霊気﹂﹁幻獣召喚﹂﹁サ
イコキネシス﹂﹁パイロキネシス﹂は存在してもおかしくない。
﹁茜ちゃん!﹂
俺はつい口調を荒げ、茜ちゃんを睨み付けた。
茜ちゃんは身を硬くして目を閉じ、怒られる事を覚悟して頭を下
げた。
どうして茜ちゃんがここに来たか、大方の予想はついている。こ
んな事が出来るのはアイツを置いて他にいない。
﹁あう、先生⋮⋮怒らないで。茜ちゃんも電話で呼び出されただけ
なんだから﹂
﹁電話?﹂
﹁そうそう、正義の味方って女の人、手助けしてやれって⋮⋮﹂
痛⋮⋮。高2にもなって正義の味方とか、恥ずかしくないのか。
俺は電話口でその言葉を口にした春菜の姿を想像してしまった。
最後に未来視の力を使い切ったってこう言う事か。さすが安楽椅
子退魔士。
しかし春菜がそうした以上、茜ちゃんは必要な要素だと﹃見﹄た
のだろう。
俺はうな垂れる茜ちゃんの頭に手を置き、優しく撫でて声を掛け
た。
﹁真琴を助けてくれてありがとう。もう少し手を貸してくれないか
?﹂
1947
茜ちゃんはコクリと頷き、涙を手で拭った。
その瞬間ビルの屋上で轟音が響き渡り、仲間の危機を知らせてく
れた。
真琴はビルの屋上を見上げ、目を細めてシロに再び跨った。
﹁マリリンさんを助けないと。茜ちゃん早く屋上に運んで!﹂
その言葉を聞き、ピンと閃くものがあった。
俺はシロの顔をマジマジと見つめ、同時に手配した春菜に感謝し
た。
﹁その犬神は飛べるのか?﹂
﹁ええ、私はシロに乗ってここまで来ましたから﹂
俺はニヤリと笑い、美咲さんと目を合わせた。
美咲さんも俺と同じ思いでいたのか、含み笑いを浮かべ牧野と山
科さんを見つめた。
﹁茜ちゃん、この二人も運べるか?﹂
俺は牧野と山科さんを指差して、茜ちゃんに問いかけた。
茜ちゃんは自信満々の笑みを浮かべ、コクリと頷いてシロの背中
をポンと叩いた。
﹁よし! 牧野、山科ペアは真琴と茜ちゃんペアと屋上増援。俺、
美咲さん、チェンジリングはビル内の乃江さんと合流して上に向か
う﹂
1948
颯爽とシロに跨り真琴を抱かかえた山科さん。
通常の犬と比較にならない大きさのシロは、三人が背に乗っても
まだ余裕の様子だった。
﹁こら! ファントム。はよ乗りや﹂
引き攣った笑みでシロを見つめる牧野を見て山科さんが吼えた。
もしかして牧野は犬嫌いなのだろうか。
山科さんに耳を引っ張られ渋々背中に乗った牧野、その重みを確
認するかのように立ち上がりシロが飛翔した。
霊気の尾を引き飛ぶ姿は、犬神というより筋斗雲のようだった。
﹁牧野君の叫び声が聞えたような﹂
美咲さんは天を見上げてボソリとつぶやいた。
俺は牧野の健闘を祈りつつ、胸の前で十字を切った。
俺と美咲さん、チェンジリングの三人はビル内へと侵入していた。
一歩踏み込んで中を確認すると、フロアーは予想に反し清浄な気
に満ち溢れていた。
月明かりだけが頼りの暗い室内だったが、夜目が利く俺達にはさ
ほど問題にならない。
清浄な気の発生元に探りを入れ、手を触れてなるほどと頷いた。
﹁風弾だ⋮⋮。一気に膨張させず、少しずつ空気が漏れてる。こん
な使い方もあるのか﹂
1949
いつもドッカーンと爆発させてるイメージを持っていたが、ちょ
っと山科さんを見直した。
流石は一流の退魔士といった所だろうか、⋮⋮隠密行動も出来る
んだ。
褒めてるのか貶しているのかよく分からなくなり、風弾をそのま
まに階を一つ上がった。
﹁上の階も同じですね。浄化済みです﹂
先に上層へと上がり調査を終えた美咲さんと、非常階段で合流し
た。
もう一つ上の階にはチェンジリングが向かっているはず。
俺と美咲さんは階段を上がり、階段の手摺りに凭れかかったチェ
ンジリングを見つけ駆け寄った。
﹁ご主人様∼、異常無しです﹂
パタパタと羽を鳴らせチェンジリングの肩へと着地したイリス。
イリスはチェンジリングに頭を撫でられ、こそばゆいのか目を細
めて喜んでいる。
﹁初っ端から手抜き?﹂
﹁異常なしだそうだ﹂
俺の嫌味も完全にスルー。悪びれた様子もなくチェンジリングは
ボソリと呟いた。
しかし便利なものだ。俺の頭の上でふんぞり返っている二人に、
爪の垢でも煎じて飲ませたいくらいだ。
1950
﹁なにか言ったか?﹂
頭頂の髪の毛を鷲掴みして、カナタが凄みを利かせた。
その横でトウカが含み笑いをし、俺の頭をペチペチと扇で叩いて
いる。
以心伝心というのは恐ろしいものだ。
﹁頑張ったご褒美を目指して張り切る展開じゃないのかよ﹂
﹁我らは斥候ではない。後々の為に力を溜めておるのじゃ﹂
いつもと同じなのは安心だけど、最後の最後まで応援だけっての
は寂しいぞ。
せめてなにか活躍して欲しいものだ。
﹁心配せずともちゃんと二人で相談しておる﹂
トウカはキッパリと言い切り、﹃ささ、急げ﹄と扇でもう一度叩
いた。
まるで牛馬の如き扱いだと心の中で号泣しつつ、上層へと歩を進
めた。
非常階段を登った所で美咲さんが上を指差し、背を向けてその階
へ姿を消した。
俺とチェンジリングはそのまま階段を駆け上がり、今度はチェン
ジリングがその階に留まった。
﹁6階か、そろそろ﹂
俺は階段を二段駆け上がり足を止めた。
今までと違う匂いが香ってくる。血と汗の匂いが⋮⋮。
1951
俺は壁際に背を預け、一歩、一歩確かめるように階段を上がった。
拳と拳が交わされる音が遠くに響いている。
﹁戦闘中か!﹂
俺は残りの階段を一足飛びで駆け上がり、その音源のする場所へ
と躍り出た。
黒い影を向こうに回し、トントンとステップを踏む乃江さんの背
中。
なにか違和感を感じつつ、無事でいてくれた事に胸を撫で下ろし
た。
﹁乃江さん、無事でしたか!﹂
俺は守り刀を抜刀し右に構え、トウカのナイフを引き抜いて左腰
に構えた。
乃江さんは振り返る事も返答する事もなく、ふっと身を屈めて相
手の足元へ踏み込んだ。
同時に肘を打ち、手を伸ばすように顎へ掌底を打ち込んだ。
﹁やった!﹂
震脚からの肘と顎への掌底、まともに食らったら即死コースのコ
ンボだ。
けれど乃江さんは構えをそのままに、敵を食い入るように見てい
る。
おかしい⋮⋮。乃江さんの肘を食らって、無事でいれるわけはな
い。
けれど敵は健在、何事もなかったかのように悠然と立っている。
1952
﹁乃江さん?﹂
名前を呼んで、その違和感の元がはっきりとした。
敵からではない、乃江さんから違和感を感じるのだ。
動きの一つ一つが同じ様で全く違う。同じく洗練された技ではあ
るが、乃江さんの技では無い。
俺は敵にではなく、乃江さんの対し心の目を開いた。
くれない
色付いた紅の霊気が乃江さんの体を覆い、乃江さんと少しブレた
位置で紅の姿が目に入った。
くれない
紅が乃江さんに憑依している?
﹁紅か?﹂
﹁よくわかったな。今は乃江の体を借りている﹂
乃江さんの声だが、イントネーションが違う。
くれない
片言の日本語でも話すかのような不自然な言葉。乃江さんの口を
借りて紅が話しているのだ。
俺は最悪の予想が頭を過ぎった。
﹁︱︱食われたのか﹂
俺の血圧が上昇していくのがわかる。
奥歯を噛み締めて冷静さを保とうとするが、吹き出るアドレナリ
ンの制御が効かない。
﹁違う。乃江から心象世界に飛び込んだのだ。体を私に任せてな﹂
触れると相手の心が読める﹃覚り﹄の能力。過度に疎通を試みれ
ば相手の心へと侵入できる﹃心象世界﹄
1953
どういう意図で相手の心に飛び込んだのか⋮⋮、しかし乃江さん
くれない
の事、なにかの作戦だと思うのだが。
すると紅の一発、一発は手加減されたものか。霊気を籠めない攻
撃で時間を稼いでいる状態か。
﹁乃江さんが侵入してどれくらいの時間が経っている?﹂
俺は最悪の予想を覆すべく、紅の背に問いかけた。
俺が乃江さんと行った心象世界。あの時心の中では長く時間を過
ごした様に感じたが、実際に戻ってみれば進んだ時間は皆無だった。
﹁10⋮⋮いや、15分は経過している﹂
絶望的な言葉が紅の口から聞かされた。
あの時を数日を換算すると、乃江さんはその数倍、数十倍の時間
をあの世界で過ごしている。
周りを取り囲む全てが敵である、心象世界で⋮⋮。
真琴が一人魂喰いを倒したと言っていた。奴らのバランスが大き
く崩れた筈だ。
欠員を埋めるために乃江さんが喰われてしまったら⋮⋮。
﹁帰りたくとも帰れない状況かも知れない。助けに行かないと﹂
しかしどうやってあの世界に行く?
心象世界は乃江さんにしか出来ない能力だ。
乃江さんの体があっても、動かしているのは紅。彼女に発動可能
なのだろうか?
︱︱キミが不可能だと思えば、それで可能性が閉ざされてしまう。
1954
頭の中でハルナが囁いた。
それと同時にスイッチが切り替わり、俺の体はハルナに乗っ取ら
れた。
俺が見ても隙の無い構えで慣れない二本の短刀を扱い、紅の背後
に居たはずがいつの間にか敵の前で刃を振るっていた。
﹃私がこうやっていれる時間は10分に満たない。その間に彼とシ
ンクロして見せろ﹄
俺は白の部屋に座り、ハルナの全てを見て感じている。
目の前には既に弾丸が込められたリボルバーが置いてある。
︱︱肉体を持たない精神体の方が、精神世界へ疎通しやすい?
肉体の殻を脱ぎ捨てる必要は無くなる分、心象世界に行ける可能
性は高い。
俺がハルナとシンクロするように、相手の心に話しかけるだけ。
不可能に近い可能性だが、ゼロでは無い。
﹃大切な人であるなら、自分の力で守れ﹄
俺はハルナが踏み込んだと同時に引き金を引いた。
目の前に広がる無限の可能性、その一ページを掴み取り過去へと
手渡した。
1955
﹃解析﹄
木々が生い茂る薄暗い森の中、頭上を覆う枝葉が風にそよいて葉
鳴りをさせている。
空を見上げると重なり合う二重月が明るく光り、木々の隙間から
鬱蒼とした森を照らしている。
たまたま月夜の晩に出くわしたのか、それともいつも夜に支配さ
れているだろうか。
どちらにしろこの心象風景からは、人と違うなにかを感じる。
﹁月が二つ⋮⋮、現実世界とかけ離れた世界観の持ち主か?﹂
とはいえ、異常度合いは美咲お嬢様の足元にも及ばない。
あのカートゥーンな世界に閉じ込められた時の事を思えば、大抵
の心象風景はまともに見えてくるから不思議だ。
ペルソナ
まあ、それはさておき、まずはこの心象世界を解析してみよう。
まず一つ目、第三者へ向けられる外交の窓とも言える部分が見当
たらなかった。
最初から全てを拒絶する森があり、延々と変わらぬ風景を拝まさ
れ続けている。
人を拒絶したくなる気持ちは誰しも起こりうるもの。しかしおお
よその人は、それに伴う外面性を持っている。
例えば拒絶をしならがも自分は受け入れて欲しいという願望の顔
であったり、拒絶はすれど人の行動が気になるアマテラス型など。
内面に激しい感情があれば、自ずと外面も同様に力強く構築され
る。
しかしこの心象風景には外面が無い⋮⋮、それは何を意味するの
か。
1956
﹁辛抱強い方だと思っていたが、いい加減飽きてきた﹂
こういう時は目先を変える事が必要。
外交の窓付近から方角を決め、迷わぬ様に直線的に進んできたが、
森は途切れる事が無く終わりが見えない。
途切れる事のない程の巨大な森なのか、やはり覚られたくないと
防衛本能を働かせそうしているのか。どちらにしろこのままでは同
じ風景を拝まされ続ける事になる。
まずこういう時は気持ちの切り替えをアピールしてみる事が必要
なのだ。
私は一人ではない。私を見る観客がいて私の存在が成立している
のだから。
そして舞台で演じるように言葉の駆け引きを行い、その変化を確
かめる事も心象風景を探る方法の一つなのだ。
﹁少し休憩を入れるか﹂
私は丁度良い木の根元に腰掛け、目を閉じて腕を組む。
こうやって独り言を言い、状況の変化を感じてみようと試みてい
たが、今の所反応は皆無。
しかし強く拒絶をする気配も見せない。
私との距離を保ちつつ観察し続け、帰したくないと思っているよ
うにさえ感じる。
それが証拠に私が来た道は険しく変化し、帰さないと意思表示し
ている。
逆に今いる場所は歩きやすく、いつの間にか目指す先に道も出来
ている。
﹁かといって、コミュニケーションを取るほど心を許していない。
そういった所かな﹂
1957
この無謀とも取れる精神世界への旅を決意したのは、魂喰いを知
る必要があると直感的に感じたから。
カオルの妹葵を人質に取られた事件の際、奴に拳を叩き込んだ時
に漠然と﹃倒せないのではないだろうか﹄と感じたのだ。
まるで中身のない偽者を掴まされたかのように、手に返る感覚が
薄ら寒かった。
そして今回も同様に逃げられてしまう、そんな気がしたのだ。
美咲お嬢様から伺ったキーワード、﹁途方もない孤独感﹂﹁何も
無い白の部屋﹂﹁複数の意識﹂。
私の知識の中に、それと類似するキーワードがある。
もしそうだとするなら、現れ出る敵を倒すだけでは魂喰いを消し
去る事は出来ない。
むしろ戦闘を回避し、事件を解決する事だって不可能ではない。
﹁その為にも︱︱﹂
私は﹃らしくない﹄無謀な作戦に打って出たのだ。
この状況を仲間が知れば、軽率な行動をしたと思うだろう。けれ
どこの役目を担えるのは私しかいない。
森に侵入してどれ位の時間が経過しただろうか、1日、2日、そ
れ以上の時間を過ごしているような気がする。
しかし時間の経過は満更無駄でもなかった。
最初は強く拒絶され前に進むのも手間取る森の木々が、今はこう
して私に安息をくれている。
私の勘だがもう少し粘れば、なんらかのリアクションが返ってく
ると予想している。
﹁︱︱﹂
1958
私の予想は見事に的中した。絶妙のタイミングで何らかのイベン
トが発生したようだ。
かすかに聞こえる木々の葉擦れの音、その中に微かな不協和音が
発生した。
目をゆっくりと開け、気取られぬように周囲に気を配る。
前方の木の上に一つ、右の茂みに一つ、背後にもう一つの気配を
感じる。
目を閉じて闇に慣れさせたおかげで、月明かりさえ眩しく感じる。
そしてその目は闇に潜む敵の姿を、容易に見い出す事が出来た。
﹁山猫か。それにしては大きい﹂
見た目は猫だが体躯は豹の様に大きい。
心象世界の主が私に見せた最初の反応は﹃拒絶﹄だったようだ。
﹁気になる対象だが拒絶してしまう⋮⋮か。社交性のない子供のよ
うだな﹂
隣の席に座る異性が気になるが、声を掛けるのもためらわれる、
そして話す機会が来たとしても自分を表現できない。
ついついイジメてしまい関心を引こうとする。子供の論理だな。 私はゆっくりと立ち上がり、拳を固めて身構えた。
相手が獣ならばこちらとしてもやりやすい。彼らは食欲を満たす
為に私を付け狙っているのだから。
そういう場合はどちらが食物連鎖の上にいるのか、自分より弱者
なのか強者なのかを教えてやれば済む。
私は前方の敵に向かい、軽く気を放った。
武道でいう﹃気をあてる﹄行為に相当するが、それだけで動物は
理解してくれる。
1959
﹁!﹂
窮鼠猫を噛むとは、こういう事をいうのだろうか。
前方の敵に意識を向けた瞬間、藪の中にいた山猫が飛翔し、私の
喉笛目掛けて鋭い牙を向けてきた。同時に背後の敵も動き出した。
見え見えの陽動だとわかる動き、本命は後ろの攻撃か。
背後に潜んでいた山猫へ軽く裏拳を見舞い、右から飛んできた山
猫をバックステップで避けた。
裏拳の威力は然したる物ではないが、抑えの効かぬ霊力は手加減
を許さなかった。
霊気を体に浸透させた山猫は、断末魔の悲鳴を上げ、草むら深く
に転げ消えていった。
今度は萎縮していたはずの前方の山猫が、仲間の動きに気を良く
したのか勇猛果敢に飛び掛ってきた。
同時にバックステップで避けた山猫も、その動きに併せて私の拳
を狙ってきた。
﹁狙いは悪くない﹂
敵の攻撃を封じるのは兵法の定石。一撃目を見て私の拳を狙うの
は悪くない戦法だと思うから。
けれどこちらも定石通りに攻撃手段を封じられる訳にはいかない。
すばやい抜き手で正面の山猫を穿ち、身を捻って回し蹴りを放ち
もう一匹も退けた。
耳を覆いたくなるような悲痛な叫び声を上げ、それでもしたたか
に藪の中に逃げ込んだ山猫達。飼いならされた獣にはない生命力を
感じる。
﹁︱︱っ﹂
1960
ジクリと頬に痛みを感じた。
指でそっと撫でてみると、ヌルリとした感触と血の温かさを感じ
た。
一撃目に陽動で飛び掛った奴の爪か。避けきれなかったとは修行
不足⋮⋮。
私は指先に霊気を集中し、軽く一撫でして傷を癒した。
山猫が消えていた藪を睨み、気配が消えている事を確認してホッ
と胸を撫で下ろした。
﹁動くな!﹂
周囲に気配が無い事を確認した筈なのに、気が付くと私の背後で
声が響き、硬い﹃なにか﹄をゴリッと背中に押し付けられた。
兵法では戦いに勝った直後が一番脆いと言われている。今がまさ
にそういう時か。
ゆっくりと手を上げ、相手を刺激しないように振り返った。
バックスキンで仕立ての悪いベストを着て、手には猟銃を構えた
中年の男。
もう何日も洗ってないような脂ぎった髪の毛は乱れ、憔悴した表
こくたん
情にぴったりな無精髭を蓄えた、一見猟師風の男だった。
﹁黒檀のような黒髪、雪のような白い肌、血の様に赤く美しい頬⋮
⋮﹂
その男は焦点の合わない目で私を見つめた。
そして信じられない一言を私に浴びせた。
﹁お前が白雪姫か!﹂
私は不覚にもズッコけてしまいそうだった。
1961
先ほどの山猫は回避不能の固定フラグ、私の容姿に更なる特徴付
ける為の﹃用意された﹄イベントか。
確かにグリム童話に出てくる白雪姫は、黒髪、白い肌、血のよう
な赤い頬が特徴だ。
白雪姫がヨーロッパでもてはやされた時、当時の金髪女性はこぞ
って黒髪に染め直したそうだが⋮⋮。
﹁私は白雪姫ではない。頬の赤みはまさしく血の赤だ。拭えば取れ
てしまう﹂
しかし私の言い分にも半ば耳を貸さず、猟銃の先で私を二度小突
き、震える銃口を胸の前に向け直した。
わなわなと口元を震わせ動くけれど、猟師の口からまともな言葉
は出てこない。
見た所かなり動揺しているようだが、落ち着きが無く手元が震え
ていて、何時暴発させてもおかしくない。
バレル
それ専用の修行を積んだとはいえ、至近距離の猟銃を回避するの
は難しい。
冷静に引き金を引いてくれれば、筋肉の動きと銃筒の向きで発射
と弾道を読める。
しかし、こうも手を震わせていたら、少なからず運と勘に頼り回
避する事になる。
﹁もう一度言う。私は白雪姫ではない﹂
精神世界では質問に質問を返してはならない。それともう一つ、
理屈に理屈を重ねてはならない。
例えば白雪姫と問いかけられ否定するのは良いが、私は真倉乃江
だと答えても仕方ないからだ。
そういう返答をする場合は同時に、﹃白雪姫は真倉乃江と同一で
1962
はない﹄という証拠を用意しないといけない。
﹁いや、しかしあまりにも特徴が符合しすぎる﹂
猟師は銃口をそのままに、私の体を嘗め回すように下から上へと
見上げた。
そして軽く首を振り、キッと睨みつけてきっぱりと言い切った。
﹁ここらで黒檀の髪の色を持つ物は珍しい。それに俺が今まで見た
誰よりも⋮⋮美しい﹂
こうもキッパリと褒めちぎられると悪い気はしない。
白い肌は先天的なもので、母も姉も火ぶくれこそすれ、日焼けは
しない体質。
最近の女は黒髪を重く感じ、服を合わせるのが容易な茶に染めた
りするが、私は黒髪が好きだし手を入れる気はさらさら無い。
自分に合った服を選ぶのが本筋であり、服に自分を合わせるなど
愚の骨頂と言うしかない。
﹁女王から白雪姫を殺してくるようにと命じられた。証拠として肺
と肝臓を切り取り、血で染まったハンカチを届けなくてはならん﹂
そういうと持て余していた猟銃をしっかりと持ち、猟師は冷静さ
を取り戻して引き金に指を添えた。
グリム童話で白雪姫はどうやってこのピンチを乗り越えたのだろ
う。
子供の頃お姉ちゃんに読んでもらった覚えがするが、記憶に残っ
ていない事をみると、おざなりに読んで聞かされたか。
﹁ふむ⋮⋮、仕方ない﹂
1963
ロングバレル
私はクルリと体を反転させ、突きつけられた銃口に手を沿え、肩
の上に持ち上げた。
ライフルを敵に接して対峙してはならない、それが長物を扱うプ
ロの鉄則だ。
銃口の位置を相手に教えてしまう事に繋がるし、引き金を引くよ
りナイフの方が数倍速いから。
突然の反逆に驚いた猟師は、それでもなお銃口を私に向けようと
もがき出した。
猟師が引き金を引き絞って暴発させてしまう前に、軽く銃床で突
き倒して猟銃を奪い取った。
﹁白雪姫はこういった事をしない﹂
かぶり
薬室に装てんされていた弾丸を排莢し、猟銃を草むらへ投げ捨て
一睨みした。
猟師は青ざめた表情で頭を振り、尻餅をついたまま後退りし大声
を上げて走り去った。
﹁︱︱思い出した﹂
白雪姫は﹃狩人さん、狩人さん、どうかお助けください。私は森
の奥深くで暮らし、決して人の前に姿を現さないから﹄と言うのだ。
狩人も本意でない暗殺を踏み止まり、イノシシの子を身代わりに
して城に持ち帰るのだ。お姉ちゃん感謝!
しかし何故白雪姫なのだろうか。
こと心象世界では何気ないイベントであっても、心を有する本人
とって重大な事柄であったりするもの。
魂喰いと白雪姫⋮⋮その接点は。
私はしばし思慮を巡らせたが、答えが導き出せそうでいて、あと
1964
少しなのに手の届かない。そういった感覚を覚えた。
﹁先に進めば答えは出る、か﹂
私は再び歩を進め先に進んだ。
歩けど景色はそれ以上の変化をみせない。数分、数十分、数時間
と終わりのない探索を続けた。
そして半日無休で歩き、ようやく周囲の景色に変化が出てきた。
森の木が間引きされ、切り株が一つ見つかったのだ。
鋸を使った切り口ではなく、斧を使用して切り崩した真新しい切
り株。
方角を確認する為に木の年輪を確認したが、残念ながら年輪は均
等に育ち、不自然な作り物の木のようだった。
﹁ふむ⋮⋮﹂
年輪を直に見たことが無いのか。都会育ちならばそれも仕方ない
か。
被験者の見た物、感じた物、記憶の全てで心象風景は構成される。
そして知識以外の物は想像で補われるのだ。
乏しい知識で構成された心象風景は単調で深みが無い事が多い。
﹁二重月、森、山猫、狩人、白雪姫﹂
思案に暮れふと足元を見つめると、そこには小さな子供の足跡が
あった。
右足、左足と踏みしめられた、取って付けたような足跡が、目の
前の森の奥へと続いている。
私は周囲に気を配りながら、その足跡を辿った。
1965
歩く事数分の距離、目の前には一軒の小さな家が見つかった。
﹁今度は七人の小人か⋮⋮﹂
私は周囲と家の中を索敵し、人の気配が無い事を確認した。
白雪姫の物語はその後どう進むのだったか。確か小人の家に厄介
になる展開だと思ったが。
私は小さな扉のノブを掴み、思い切って家の中に入り込んだ。
膝を突き周囲を確認すると、物語とは違う風景が目の前に広がっ
ていた。
白い部屋、手の届かない高い天井、本と人形だけが床に転がって
いる、酷く清潔そうな広い部屋。
外からの見た目と中の広さがアンバランスで、頭の中が一瞬パニ
ックに陥った。
﹁調度品も何も無い部屋⋮⋮白の部屋。まさか⋮⋮﹂
私は慌てて振り返ったが、招き入れてくれたはずの扉は存在しな
かった。
私は悔しさのあまり唇をかみ締め、床を叩いて己の不覚を恥じた。
﹁物語をトレースするとばかり⋮⋮。先入観を持たされた﹂
おおかた木目調の小人サイズの調度品があり、七人分のスープと
寝床があるだけだと思っていた。
これではまるでお嬢様の言っていた白い部屋ではないのか。
落胆ばかりしているわけにはいかない。気を取り直して立ち上が
り、壁伝いに歩いて出口を探した。
丁度教室と同じくらいの広さを持つ白の部屋。やはり予想通り出
口はおろか隠し扉も無かった。
1966
﹁あるのはこれだけか﹂
足元に転がる人形と一冊の本。
外の心象風景と見事に合致するアイテム達だ。
孤独を埋めるアイテムだが、それは無限に心を癒してくれるわけ
でない。
全く何も無い部屋より、こういったアイテムが数点転がっている
方が、より深刻な状況だと言えるだろう。
本を乱雑に置くのは、用済みだという事。それは今現在孤独だと
いう証。
人形は人を嫌いながらも、人恋しいという心理を表現している。
﹁壁は⋮⋮﹂
拳で軽く叩いてみたが、分厚い大理石でも叩いているかのような
手応えが返ってきた。
閉じ込めようとする意思が働く限り、私の力に合わせて強度を増
すだろう。
壁際に腰掛けて背中を預け、次に起こるイベントを待って目を閉
じた。
何時間放置されただろうか。
この音も無く空気さえ流れない部屋に閉じ籠り、何度虚しい溜息
を吐いただろうか。
私はあれから幾日も壁に凭れ、時には床に寝転がり空虚な時を過
ごした。
1967
一つだけ分かった事がある。眠ると酷く不快な悪夢を見るという
事だ。
まず最初の夢は誰かに叩かれている夢。
親が子にするような平手打ちが、徐々に強さを増して行き、目が
開けられなく程延々と打たれる夢。
夢の中で相手は何かを叫んでいるように思えるが、どうにも理解
不能で聞き取れない。
次の夢は寝床の中で熱湯をかけられる夢。
その時に限って夢の中でなにか幸せな夢を見ている。
そして突如襲い来る全身への激痛で目を覚ます。煮えたお湯なの
か油なのかは分からない。
ただ延々と喉が嗄れるまで叫ぶ事しか許されていない。
その次の夢はそれほど酷くは無かった。
また誰かが叫びながら私の前に立ち、木の棒か何かで滅多打ちに
するだけだ。
本能的に手でガードを試みたが、私の手はいとも簡単に折れてし
まった。
片手と片足を犠牲にして、もう片方を守る術しか選択肢になかっ
た。
後は治まらない痛みを我慢しながら、何日も達磨のような生活を
する夢だ。
﹁あれは白雪姫でいう母、女王のイメージかも知れんな﹂
1968
本家のグリム童話では、継母ではなく実母のはず。
冬のある日、女王が黒檀の窓枠があるテラスに座り、雪の降る景
色を眺めて縫い物をしていたが、手元が狂って指を針で刺してしま
った。
雪にポタポタと落ちる血を眺め、﹃黒檀のような黒髪﹄、﹃雪の
様に白く﹄、﹃血の様に美しい頬﹄を持った子を欲した。
その願い︵呪い︶が成就し、しばらくして白雪姫が生まれたのだ。
物語では白雪姫の美貌に嫉妬して暗殺を目論むとあるが、実際は
そうではないのだろう。
白雪姫の登場により、為政者としての立場が脅かされ始めたので
はないだろうか。
先の短い女王より、これから芽吹く白雪姫に取り入ろうとする権
力者がいてもおかしくない。
壁の鏡は側近であり腹心の言葉の現れであると言える。
暗に白雪姫を暗殺せねば、この国も女王としても立場も瓦解する
と。
自分を裏切った狩人のせいで、他の誰もが信用できなくなる心理
の変化。
七人の小人はレジスタンス。白雪姫派の暗躍者達であろう。
近隣の王子を味方につけた白雪姫は、焼けた鉄の靴を女王に履か
せ、気が狂うまで踊らせたそうだ。
︱︱見事に母親を蹴落とし、新しい女王として君臨した訳だ。
﹁何故、白雪姫なのか﹂
もう一度その点に立ち返ろう。
心象世界で﹃夢﹄と認識させるほど、精神的に逃避が行われてい
る。
素直に読むのなら身体的虐待の経験を持ち、そして恐らく性的虐
待も受けている人間像が浮かぶ。
1969
恐らく二番目の夢、煮えた油は性的虐待の象徴だろう。背徳感か
ら生じた自虐行為があの夢を見させているように感じる。
通常安穏と暮らしている者には到底到達できない心の闇だ。
そして魂喰いは幸せだと言えない生涯を送る白雪姫に憧れ、自分
の立場と似通った共通意識を持ったのではないだろうか。
﹁虐待と防衛、精神解離、﹃複数の意識﹄、﹃白い部屋﹄、﹃途方
もない孤独感﹄﹂
私が当初予測した結論に達した。
魂喰いは複数の人格を有し、個々の判断でオリジナルの精神を守
ってきた。
奴が私達との駆け引きを﹁鬼ごっこ﹂と呼び、葵を拉致した事件
では﹁かくれんぼ﹂と表現した。
ルールへの忠実性などを鑑みて思うと、以前から思っていた事だ
が、
︱︱子供っぽい
と言う事。
全ての要素インクルードしてみると、一つの結論が見出せる。
同時に今まで見つける事が出来なかった事も裏打ちできる。
この街に住みながら、住民登録をしていない者。
アンさんの赤い糸で探り当てられない、人との繋がりを持たぬ者
﹁身寄りの無い入院患者、そして恐らくは︱︱﹂
この事を誰かに伝えたい。
仲間に私の考えを託したい。
私は居ても立ってもいられず、壁に向かい手を添えた。
1970
無心になり呼吸を整え、全身全霊の力を振り絞り、拳一点に集め
た。
チャンスは二度しかない。右で駄目なら左がある。
﹁我が拳で砕けぬ物は無い﹂
足の蹴りを回転運動に換え腰へ伝え、右手の正拳は真っ直ぐ壁へ
突き刺さった。
同時に心象世界全体が揺れ動き、分厚い壁に亀裂を発生させた。
手の骨が砕け白の壁面に紅の色をつけたが、脳内麻薬が痛みを消
し去っている。
﹁まだ!﹂
左手の拳を固め、振り子の運動の如く壁に打ち当てた。
亀裂が先程より広がり、外の森の風景が目に飛び込んで来た。
しかし私がくぐり抜ける事が出来る程までには至っていない。
痛む右手にもう一度力を込め様としたが、逆に痛みと共に全身の
力が抜けていき、足が震えて尻餅をついてしまった。
﹁燃料切れか⋮⋮、無念﹂
壁の亀裂はゆっくりと修復を始め、拳大の穴は瞬く間に閉じ始め
た。
心象世界は認識の世界。硬いと思えば硬くなり、無理だと思えば
何もかもが潰える。
力不足というより、私の心が未熟なのだろう。
この世界に囚われてしまう恐怖より、友へ伝える事が出来なかっ
た無念が残る。
1971
﹁カ⋮⋮﹂
﹁カオル! 助けて!﹂
私は絶望と共に、いつも被り続けた仮面を脱ぎ捨てた。
本当は弱い心の持ち主なのだ。誰よりも弱く、それを覚られぬよ
うに表情を殺した。
誰かに支えて貰わなくては生きていけない。
私は震える体を己が腕で抱きしめ、閉じていく壁を見つめるしか
出来なかった。
ピタリと閉じた壁と共に絶望感が押し寄せ、同時に私の心も閉じ
ようとしていた。
﹁︱︱﹂
その刹那、聞き慣れた声が私の耳に届いた。
声を聞いただけで胸が高鳴るあの人の声が。
同時に銃声が轟き、壁に小さな穴を一つ開けた。
ドアを蹴り飛ばす音が響き、壁が切り抜かれた様に開かれた。
長い足が引っ込み地に足を付け、次に顔を覗かせたのはカオルだ
った。
﹁乃江さん⋮⋮迎えに来たよ、みんなの所に帰ろう﹂
レトロな拳銃を腰に差し、膝を突いて私を手招いた。
私は無我夢中でカオルに飛び付き、転げながら白い部屋を脱出し
た。
今思うと唯一の失態はペルソナを脱ぎ捨てた事であろう。
私は恥も外聞も無くカオルにすがり付き、大きな声で泣いていた。
そして思い返しても赤面し、穴があったら入りたい程の、恥ずか
1972
しい一言をカオルに告げていた。
﹁カオル⋮⋮大好き﹂と。
1973
﹃ゼロではない可能性﹄
目をゆっくりと見開けば、木々の生い茂った森の中だった。
ぼ
風に揺られた枝葉の隙間から、木漏れ月が冷たい光を森へと届け
ていた。
見上げれば見慣れぬ月影が頭上にあった。目が暈けたのかと擦り
たくなる二重月。
幻想的な光と影のコントラストだが、まるで影絵でも見ているか
のように薄っぺらく感じる。
﹁確か︱︱﹂
二人で心象世界へ行った時乃江さんは言った。
最初の到着地点は表層であり、人と自分が繋がる外交の窓。人と
の橋渡しとなる部分であり、表面上の個性と呼べる部分だと。
俺の心象風景も森だったが、これほど鬱蒼としてはいなかった。
俺以上に人を拒絶して生きてきたという事だろうか。
まあ俺の所感はさておき、目的は奴の心理状況を探る事ではなく
乃江さんを連れ戻す事だ。
目的を見失わぬようにしなくては。
﹁とは言ったものの、少々心細いな﹂
今回はカナタとトウカも居なければ、腰に武器を携えてもいない。
ブレイクオープン
原因は分かっている。ハルナと俺が入れ替わり、精神の小部屋に
入ったからだ。
そして手にはロシアンルーレットの時に使用した、中折れ式の拳
銃一つ。
心強い相棒に思えるが、残念ながら弾切れしており、空薬莢が一
1974
つ入っているだけだ。
おもし
弾の無い拳銃はただの重石でしかないが、打ち捨てていく事も躊
躇われる。ハルナに怒られそうだしな。
まあ丁度良い。短剣が無くて腰がスースーして落ち着かないし、
替わりに差して置こう。
﹁さてと⋮⋮、乃江さんは何処へ向かったのやら﹂
俺は膝をつき目線を下げて、枝や枯葉が堆積した足元を見た。。
森というのは割と正直なものである。人や獣が通れば必ず痕跡が
残り、後に来た者に知らせてくれる。
足元に落ちた枯れ木や枯葉は、踏めば必ず跡が残る。ひっそりと
咲く草花もしかり。歩幅や足跡で性別、体重、その時の心理状況ま
で特定できる。
﹁全て母さんの受け売りだけど﹂
旧嵯峨野家で母と共に山を駆け、森を知り、泉で喉を潤した。
じねんじょ
前時代的な修行だと思っていたが、思わぬ所で役に立ってくれた。
﹁自然薯の見つけ方まで教わったからな﹂
五行の感性を磨くというより、サバイバル訓練のようなものだっ
た。
すべ
食える野草の知識、木の実から澱粉を抽出する方法、泥水を濾過
する方法。
木の根を齧り飢えをしのぐ術。
まず水を補給する手段が重要、人は食わずに数週間生きる事が出
来るが、水を飲まねば数日で命を落とす。
水は足元を流れ地に潤いを与える。その為に地に伏せて微妙な変
1975
化を目、感覚、知識で探る必要がある。
手を付き四つん這いになって地を這い回るなんて、恥ずかしい事
でもなんでもない。
水と食料を得て生き延びたものが自然界では勝者なのだ。
﹁こっちか⋮⋮﹂
枯葉が踏みしめられて不自然に荒らされている。
最初は歩幅が小さく不安定だが、そのうち等間隔に変化して歩き
出した、そんな印象を受ける足跡。こういう行動、乃江さんっぽい。
俺は足跡を辿りつつ、足早に森の奥へと分け入った。
乃江さんと俺の侵入した時間差を考えると、全速力で走ってもそ
う易々と追いつけない。
とはいえ木漏れ月の明かりだけでは、足跡を見落とす危険性があ
る。
焦りはあるが今出来るのは、可能な限り確実に、早く、歩く事な
のだ。
心象世界に入り込んで、恐らく1日ほど経っただろうか。
時間とは物事の変化を認識する為の指標でしかない。
この心象世界は常に夜であり、変わり映えせぬ森の風景しかない。
そして体内時計も働かない今、時間という意味も薄れつつあった。
俺は木の根元に座り背中を預け、唯一の相棒である中折れ式の拳
銃を手に取っていた。
留め金を解除して弾倉を開き、相棒の構造を確認していた。
中折れ︽ブレークオープン︾すると、イジェクターが作動し排莢
1976
される仕組みになっている。
かざ
押し出されて落ちた薬莢を摘み上げ、押し潰された雷管部分の刻
印を月に翳した。
そこには見慣れた単語と深く刻印された﹁.45﹂の数字があっ
た。
﹁45口径って事か?﹂
直径一センチ程の薬莢は、俺の小指よりも一回り太い。
霊気で出来た擬似弾だとはいえ、二度も頭に撃ち込むなんて馬鹿
げている。そう苦笑しながらハタと思い当たった。
﹁︱︱霊気で出来ている⋮⋮、か。ハルナは確かにそう言っていた
よな﹂
霊気で出来ているのなら、俺にも作り出せるのではないだろうか。
漠然とそんな考えに行き着いてしまった。
物質化、具現化能力。うちのメンバーでは真琴が最も得意として
いる能力だ。
﹁コツの一つでも教われば良かったな﹂
空薬莢を眺めイメージを膨らませたが、弾頭がない真鍮の筒とし
か思えない。
鉛剥き出しのリード弾なのか、フルメタルかセミメタルか、ホロ
ーポイントなのか分からない。
日本は銃社会ではないから、実弾など見たことないし、イメージ
を膨らませようがない。
そして弾丸の無い俺は乃江さんを見つけない限り、この心象世界
から抜け出す方法は無いのだ。
1977
﹁この﹃現実﹄が唯一の望む選択肢だった。行けるだけマシかと思
い掴んだが、今思うと冒険だよな﹂
乃江さんに﹃無謀な事をしちゃ駄目っす!﹄と一言怒ってやろう
かと思ったが、これでは人の事言えない。
そう言えば、ハルナはかなりの高確率で発射位置に止める事が出
来ると言ったが、練習すれば俺にも出来ろうだろうか。
試しに撃鉄を起こし空薬莢を弾倉に詰め、中折れした部分を持ち
上げ留め金に掛けた。
そして軽く弾倉を回し引き金を引き、ガチンと鉄の噛む音が響き
撃鉄が落ちた。
﹁ハズレたか﹂
何度か練習して回す力加減を覚えれば、アタリに近い位置へ持っ
てくる事は不可能ではない。
けれどハルナのようになるには、途方もない程の訓練をこなさね
ばなるまいな。
﹁アイツ⋮⋮意地になって練習したのかな﹂
ソファーと本しかない小部屋で一人、弾を込めては一喜一憂して
いたのだろうか。
そう考えるとアイツもかわいく見えてくるから不思議なもんだ。
﹁そっか⋮⋮、ニワトリが先か、卵が先かだよな﹂
よく考えれば春菜は、しばらくして能力が芽生えたと言っていた。
小学生がこんなリアルな銃を想像出来るだろうか。ましてや物質
1978
化出来るほど実弾に慣れ親しんでいるだろうか。
︱︱違う。
恐らく部屋に閉じ籠ったハルナも同様のはず。あの部屋には本と
ソファー、唯一の窓口である春菜からの情報しかないのだから。
あの部屋にはまず銃があった。そう考えるのが自然に思えてくる。
﹁⋮⋮⋮⋮だよな﹂
俺は馬鹿の一つ覚えで銃に霊気を籠めた。
山科さんが風弾を作るイメージを持ち、多くの霊気を一点に集中
させる。
ハルナの説明が適当過ぎてミスリードされた。銃と弾丸をまった
く別の物と認識してしまっていた。
違うのだ。この銃は六発込められた状態が完成形なのだ。
霊気の質量不足で今、この銃は弾がない。そう考えるのが自然だ
と思う。
呆れるほどに霊気が流れ吸い取られていく⋮⋮。やはりこれが正
解か。
視界が次第に黒く染まって、耳鳴りがして酷い頭痛が襲ってきた。
こめかみの血管がピクピクと動き、息を吸い込むのさえ億劫になっ
ていく。
俺はブラックアウトする寸前に霊気の放出を止め、乱れた心臓の
鼓動を手で押さえ息を吐いた。
﹁逝く所だった﹂
いわゆる﹃落ちる﹄、失神状態だ。寸前まで行くと逆に気持ちが
いい所が憎らしい。
柔道やってる人が言うには、気持ちが良くて癖になるらしいが、
本気で信じてしまいそうになる。
1979
俺は心臓の鼓動が安定した所で、震えの止まらない手を落ち着か
せ、弾倉を露にした。
﹁なんと⋮⋮﹂
空薬莢を除いて二つの弾丸が装填されていた。
あれだけの霊力で二発分しか作れないのかと落胆するより、まず
は弾丸が作れた事への喜びを感じた。
ハルナは全開で六発と言っていたが、マジで思う。バケモノかと
⋮⋮。
しかし⋮⋮、恐らくだがこの弾では現実操作は出来ないのではな
いだろうか。あれはハルナの能力であり、俺の能力ではないから。
それに俺は二発込めであっても、アタリを引ける自信は全くない。
俺は目視で弾の位置を決め、次に撃鉄を起こせば発射出来る状態
にした。
﹁帰る方法よりもまず、乃江さんを見つける事が先決。それには生
き残る相棒としてこいつが必要だ﹂
何が起こるか分からない心象世界。両の拳だけでは生き残れない
場合もあるだろう。
たった二発しかないけれど、心強い相棒が居てくれて良かった。
俺はそっと撃鉄を落とし、相棒を抱いて眠りに落ちた。
目を閉じて数時間経った頃、俺を取り囲む気配に気付き目を覚ま
した。
腐葉土を踏みしめる極々小さな音、草木が擦れる僅かな異音。
1980
俺は心象世界に来て初めての変化に、警戒するより歓迎する気持
ちが強かった。
﹁無視されてるのかと思った﹂
歯牙にもかけない態度は、時として人を苛立たせるもの。
俺はその来訪者を心躍らせながら歓迎し、拳銃のグリップをギュ
っと握り締めた。
距離にして15から20の距離、酷く警戒心の強い来訪者は、そ
れ以上近づこうとせずこちらの様子を窺っている。
音の感じは二足歩行ではなく地に近い四足歩行、大きさは大型犬
のようだが、足運びが非常に柔らかい。
一定の距離を取り寝込みを襲う小心者か⋮⋮、ならば気が付いて
いると教えてやれば、それ以上は近づくまい。
俺は足元に転がっていた握り良い石を掴み、来訪者のいる場所へ
放り投げた。
ガサリと葉の鳴る音がして、同時に驚きと警戒を強める気配が届
いた。
今の距離が俺のパーソナルスペースだと牽制したのだが、小心者
にはこれで十分伝わったであろう。
﹁さて、霊気も安定してきたし、乃江さんを追うか﹂
立ち上がりズボンの汚れを手で掃い、拳銃を腰に差して歩き出し
た。
もう何日歩き続けたか分からない。
1981
延々と変わり映えせぬ森の中を歩き続け、ようやく乃江さんの足
跡に変化が起こった。
真っ直ぐ進路を取っていた足跡が、躊躇うように一箇所でうろう
ろと留まっていた。
迷い?、いや違う、第三者の足跡を見つけたからだ。
小さい子供の足跡が木の切り株に向かい、そして戻っていく。何
度かそれを繰り返した跡が地面に残っていた。
乃江さんもその足跡を追うように進んでいた。
﹁近いな﹂
木を切り倒し疲弊した足跡が、家路を急ぐように力強く変化して
いる。
踵が深く重い足取りが、つま先へ重心移動を移動しているからだ。
前に、前にという微妙な変化が見て取れる。
足元から前方へと目を移すと、木々の切れ間から小さな山小屋が
見えた。
まるで小人の家のように、小さな扉と窓があるだけの家。
乃江さんの足跡もここで途切れている事を思えば、この家に入っ
たと考えるのが適切。
だけど中からは人の気配はおろか、温かみすら伝わってこない。
俺はドアのノブを掴み中の様子を覗き見ようと目論んだが、扉に
触れた瞬間に怖気を感じて手を止めた。
﹁小動物はこういうのに敏感なんだよな﹂
危険の予感。
明確にどう危険かは口では言い表せない。
例えて言うと﹃抜き打ちテストをやるぞ﹄と教師に言い渡された
時に感じる、﹃あの時の嫌な予感はこれか!﹄という感覚。
1982
おおよその人間は後悔と共に襲い来る直感だが、俺は割とそうい
う気持ちを大事にする。
俺はドアノブから手を離し、小屋をぐるりと見回った。
﹁裏口から抜けた跡もなし﹂
やはり乃江さんはここに入り、そしてこの中にはいない。
ここまで状況が教えてくれているのに、俺まで入り囚われる訳に
はいかない。
俺は少々後戻りし、小屋の見える木の根元へ座り込んだ。
ここなら住人に覚られず見張る事が出来る。
そして俺は再び目を閉じて、眠りに落ちた。
見張りを続けて一日が経ち、二日を過ぎ、三日目に突入した。そ
の間何度となく家へ突入しようと思ったが、その都度思い直して今
に至る。
くれない
﹁もう待てないな﹂
外で戦っている紅やハルナは、酸素ボンベを背負っているような
くれない
ものだ。自身で霊気を生み出す事が出来ないから、無限に動き続け
る事は出来ない。
ハルナで10分、紅に至っては、あと数分持てば恩の字だったろ
う。
けれどあいつらも馬鹿じゃない。動けなくなる前に節約するだろ
うし、無理はしないはず。
けれど節約にも限度がある。
1983
俺は扉のノブに手を掛けて、ゆっくりと時計回りに回してみた。
ほんの少しだけ回ってくれたが、鍵が掛かっていてそれ以上回っ
てくれない。
﹁仕方ない。ちょっと贅沢だけど﹂
俺の全霊力を注いだ拳銃を取り出し、撃鉄を起こして銃口を扉の
鍵に向けた。
たかが木の扉一枚だか、念には念を入れてぶっ壊してしまおう。
そう心に決めトリガーに指を添えた時、心象世界に異変が起こった。
まるで俺の行動を拒むかのように、世界が揺れ足元から俺を揺さ
ぶった。
たかだか30センチの距離なのに、銃口を鍵に向ける事ができな
い。
そして二度目の揺り返しが来た時に、その震源地がどこか理解で
きた。
﹁中から! 乃江さんか?﹂
扉の真横にある窓の辺り、まるで壁紙を剥がしたように裂け、そ
の隙間から不自然な空間が顔を覗かせた。
そしてその空間は、まるで自己治癒能力があるかのように、ゆっ
くりと閉じ始め元の空間へと戻っていく。
俺は直感的にそれを凶兆と見た。
﹁空間が繋がっている内に、扉をこじ開けないと﹂
漠然とした勘の様なもの。だけどそれを裏付ける声が俺の耳に届
いた。
酷く絶望感に満ちた泣き声。心の中から叫び声を上げたような乃
1984
江さんの声が。
俺は再び銃口を向け、歯を食いしばってトリガーを引いた。
﹁︱︱︱︱﹂
耳を劈く轟音と、扉の鍵が吹き飛ぶ音が同時に響いた。
俺は扉を蹴り破り、現れた異空間の継ぎ目から中を覗き込んだ。
力なく座り込んだとても華奢な少女の姿。酷くやつれた表情をし、
ゆっくりとこちらを振り向いた。
﹁乃江さん⋮⋮迎えに来たよ、みんなの所に帰ろう﹂
手招く俺に焦点が合った瞬間、乃江さんは子猫のように飛び付い
て来た。
大粒の涙をぽろぽろと流し、誰に気兼ねする事無く大きな声で泣
いた。
俺は乃江さんの髪を撫で、子をあやす様に抱きしめた。
途方も無い長い間閉じ込められていたのだ。弱い精神なら崩壊し
てもおかしくない状況。
それをなんとか持ちこたえたのだから、このような状態になって
もなんの不思議も無い。
外にいるだけで何度も心が折れそうになっていた脆弱な俺と比べ、
乃江さんの忍耐力と精神力はなんと凄いものかと驚きを覚える。
﹁カオル⋮⋮﹂
乃江さんは撫でていた手を押しのけ顔を上げ、なんともいえない
表情で俺の名を呼んだ。
乃江さんにしては珍しい表情をしている、いやあ眼福、眼福。な
どとと気楽に思っていたが、次に続く台詞を聞いて耳を疑った。
1985
﹁カオル、大好き!﹂
俺の心臓は驚きのあまり鼓動が停止した。
天地がひっくり返っても乃江さんの口から出るとは思えない一言。
それも﹃キャピ!﹄って感じの普通の少女のように叫んだからだ。
干し椎茸を口にして、フェリックスガムの味がしたような驚き。
うむむ、呪いの類だろうか⋮⋮。
それとも白い部屋で洗脳されてしまったか。憐れ真倉乃江、洗脳
されにけり⋮⋮。
﹁そうか⋮⋮アレだ﹂
俺と心象世界に行った時、性格反転してしまった事があった。
今の様に不自然な言葉を使い、女の子みたいに息を切らせていた。
あの状態だ。
﹁???﹂
乃江さんは上目使いで俺を見つめ、頭の上にクエッションマーク
を拵えていた。
そして涙で顔がむず痒いのか、俺の胸元に顔を擦り付け、ギュッ
と俺を掴んで離さない。
まるでふかふかのバスタオルで遊ぶ子猫のようなかわいさだ。
もし魂喰いが乃江さんに対しこう望んだのなら、グッジョブと言
わねばなるまい。
﹁いや、待てよ﹂
あの時、少女のような乃江さんにも、いつもの意識と違うと認識
1986
があった。
今回の爆裂少女乃江にも、通常の意識があるという事。
もしこんな痴態を仲間に知られる事があれば、乃江さんは迷わず
死を選ぶはず。
逆にだ、逆に考えよう。その可能性⋮⋮唯一の目撃者を消しに掛
かるという事は考えられないだろうか?
口封じ⋮⋮。鬼より怖い乃江さんに掛かれば、俺なんて一瞬で消
し去られてしまう。
﹁あわわ⋮⋮っ﹂
俺は少女の型をした爆弾を抱えている気分になった。
覚られぬようにそっと体を離そうとしたが、両手合わせて握力5
00kgを誇る乃江さんには無力だった。
﹁痛っ﹂
俺の抵抗とはまた違うところで、乃江さんが顔を顰めた。
背中に回された手を離し、胸の前で手を手を重ねあわし、苦笑し
ながら俺を見た。
右手は指があらぬ方向に曲がり、拳の骨が露出している。左手も
負けじと真っ赤に染まり、とても痛そうな手を俺に見せた。
﹁部屋から出ようとして、壁を叩いたから⋮⋮﹂
どんな力で叩けばそんな傷になるのでしょうか。
普通の人がクスリをキメて、全開で墓石でもぶっ叩けばそうなる、
そんな感じの傷だった。
乃江さんは懸命に霊気を籠めようとしているが、淡い霊気しか搾
り出せず治癒が上手くいかないようだ。
1987
﹁俺もちょっと治癒の修行したんですよ﹂
ここでもまた嵯峨野家での修行が役立ちそうだ。
美咲さんや乃江さんの治癒とは比べ物にならないが、この際ない
よりマシだろう。
俺は痛そうな手をなるべく刺激しないよう、そっと手で包み込ん
で念を籠めた。
﹁カオル⋮⋮﹂
ポッと頬を赤らめて、恥ずかしそうに目を伏せた乃江さん。
心臓に悪いですから勘弁して欲しいんだけど、中身が﹃鬼﹄と分
かっていてもドギマギしてしまう。くぅ∼っ。
隠れ乃江さんファンの山科さんが見たら、この表情一つで憤死す
るんじゃないだろうか?
﹁あっ⋮⋮﹂
乃江さんが慌てて顔を上げ周囲を伺った。
周囲の風景が一瞬希薄に見え、世界が音を立てて崩れ始めた。
物質を構成していた霊気が結びつきを失い、霧散して消えていく
⋮⋮、この感じは。
﹁ヤバイ。外の戦闘が終わろうとしてる!﹂
いくら待っても帰らぬと判断したのか、ハルナ達の攻撃を受けて
魂喰いが消えようとしてる。
お互いタイミングを計っていた訳ではないし、こうなる場合も予
測していたが、⋮⋮ちょっと早い。
1988
﹁早く戻らないと、この世界と共に消える事になる﹂
キリッとした表情に変わった乃江さんは、いつの間にかいつもの
口調に戻っていた。
心象世界の崩壊と共に、呪いが解けたか。
残念なようなホッとしたような複雑な気分だ。
﹁だぁっ! そんな事考える場合じゃねえ。早く出ましょう!﹂
﹁⋮⋮﹂
俺の慌てっぷりとはまた違った、焦燥感漂う乃江さんの態度。
唇をキュッと噛んで、鋭い目で空を見つめた。
﹁もしかして⋮⋮、帰れないとか?﹂
﹁うむ、いつも表層の窓から帰っていた。こんな深層の部分から帰
った事は無い﹂
あう∼っ、入り口からここまで数日掛かった。今から戻るのは無
理だ。
全速力で走っても絶対間に合わない。
そんな無駄な努力をするよりも、いっそダメ元で帰ってみるのが
得策じゃないだろうか。
﹁試してみましょうよ。帰れるかも﹂
霧散して消えていく森を見つめ、乃江さんは自虐の笑みを浮かべ
た。
1989
そして俺の手を振りほどき、もう一度俺の体に手を絡めた。
﹁可能性はゼロではない。やってみよう﹂
俺はその言葉に閃きを覚えた。
目を閉じて帰還を願う乃江さんを片手で抱き寄せ、腰に差したリ
ボルバーを引き抜いた。
乃江さんの可能性はゼロではない、俺の弾が有効かどうかも試し
ていない。
﹁南無︱︱﹂
ジーンズで弾倉を擦り上げて回転させ、撃鉄を引いて頭に押し当
てた。
トリガーを引き絞り撃鉄が落ち、同時に目の前にあのペーパーバ
ックが出現した。
ちぎれ飛ぶページを見つめ、俺は発動に成功した事を覚った。
目の前に現れた無数の可能性を見て、乃江さんが目を丸くして俺
を見上げた。
出来損ないの弾丸で発動させてくれた神様の気まぐれに感謝。
﹁カオル!﹂
乃江さんが一枚のページ指差して声を上げた。
俺と乃江さんが望む現実の一ページ。俺と乃江さんはその一枚を
手にとって、過去へ手渡した。
﹁︱︱﹂
俺の手にズシリとした重みが伝わってきた。
1990
目の前にはアストラル体の魂喰いがいて、俺の首を両手で掴み力
を込めている。
手にはカナタの守り刀持ち、切っ先は魂喰いに突き刺さり瘴気を
吸収し始めている。
俺は左手のナイフ持ち替え、魂喰いに突き刺して霊気を籠めた。
カナタに吸収され魂喰いは形を失い、トウカに浄化されて瘴気は
霧散して消えていく。
くれない
俺の横で拳を握り、俺に微笑んでいるのは間違いなく乃江さん。
頭の上には力尽きた紅が突っ伏し、ピクピクと痙攣している。
﹁ごちそうさまでした﹂
右手の上でカナタが手を合わせて微笑んだ。
トウカも満足そうな表情を浮かべ、左手に腰掛け微笑んだ。
﹁カオルは見ておらぬようだが、我もカナタも大活躍じゃったぞ﹂
ニヤリと笑い扇をパタパタと動かしている。
こ、こいつ、見ていないのを良い事に、出鱈目言ってんじゃない
だろうな?
﹁カオル! カオル! 新技会得した! 納刀してみるがよい﹂
カナタは食事を済ませ上機嫌。右手の上で飛び跳ね意味不明な言
葉を吐いた。
新技⋮⋮?、俺が居ない間に何があったのか⋮⋮?
俺は言われるがまま守り刀を鞘に滑らせた。
﹁ちん!﹂
1991
鞘の中ではばきが当たる納刀の音、それをカナタの口から聞かさ
れてしまった。
⋮⋮⋮⋮これが新技? ちゃっき∼んと対になる裏技なのだろう
か?
﹁どうじゃ?﹂
満足気に微笑むカナタが微笑ましく感じる。鼻で笑ってやろうか
と思ったが止めておく事にした。
俺はサービスしたい気分になり、守り刀を持ち直し一気に引き抜
いて見せた。
﹁ちゃっき∼ん﹂
カナタがそう叫び、俺の手からポトリと落ちた。
床に転がり身悶えるカナタを見て、プッとふきだし腹を抱えて笑
った。
乃江さんも手で口を覆い、懸命に笑いを堪えている。
︱︱絶妙のタイミングだと思わないか?
突然ハルナが頭の中で俺に囁いた。
手馴れた手捌きで拳銃を扱い、中折れさせて中に入っていた薬莢
をイジェクトさせた。
一つ、二つ、三つと転がり落ちた空薬莢を見つめ、複雑な笑みを
俺に向けた。
﹃アホか、もうちょっとで心象世界に取り残される所だったぞ!﹂
︱︱助け出した後に余裕こいて、イチャイチャ、デレデレとして
1992
るからだ。
目を細めジト目で俺を睨み、ハルナは意地悪そうな微笑を浮かべ
た。
ヤキモチなのか?
そう思わせる、冗談なのか怒っているのか分からない、なんとも
言えない表情。
﹃なんでお前には筒抜けなんだよ?﹄
︱︱言わなかったっけ。私は弾丸に込められた霊気そのものだっ
て。
弾丸がハルナを構成する霊気なのなら、銃も同じという訳か。
どうりで抱えてると安心する訳だ。
﹃一人だと心が折れていたかもしれん。なんにせよ助かった﹄
俺は素直に頭を下げ、ハルナに感謝した。
ハルナはそんな俺の心に触れ、照れ臭そうに微笑みを返しはにか
んだ。
1993
﹃もう一つの退魔刀﹄
大団円に思える心象世界の救出劇だったが、どうやら美咲さんと
チェンジリングは快く思っていないようだ。
ホッとした表情ではあるものの、引き攣った笑みを浮かべ冷やや
かな目で俺達を睨んでいる。
まあその理由は良く分かる。無事に帰って来れたから良かったも
のの、一歩間違えば魂喰いの餌になっていたのだから。
その気持ちは乃江さんも理解しているようだ。ガックリとうな垂
れ、弁解の言葉も口に出せずにいる。
そんな乃江さんを前に美咲さんは腕を組み、あからさまに不機嫌
な表情を作り頬を膨らませた。
そして一歩前へ出て意見を言おうとした時、チェンジリングが腕
を伸ばし美咲さんを遮った。
﹁真倉乃江、お前の役割は何だ?﹂
チェンジリングは乃江さんの前へ立ち、見上げながら目を細めた。
表情と口調から察するに、かなりお怒りの様子だ。
﹁宮之阪への助力。分散した戦力の収束⋮⋮です﹂
﹁分かっていたら、何故そう動かない!﹂
落ち込む乃江さんに、チェンジリングは歯に衣着せぬキツイ叱責
を浴びせかけた。
確かにそう、乃江さんの行動で屋上への助力が遅れたと言える。
一人で戦う宮之阪さんを危険に曝したことは、言い訳できない事実
だろう。
1994
二人の目からは俺も危険に曝された者として、同列に見ているか
もしれない。
けれど俺の場合は自己判断で動いたし、乃江さんと同じ扱いだと
思うのだが。
チェンジリングは表情を強張らせ、俯く乃江さんの胸倉を掴み上
げた。
消沈して俯くしか出来ない乃江さんを引き起こし、無理やり仲間
の顔を見せ付けたのだ。
乃江さんの見つめる先には、チェンジリング、そして美咲さんの
顔がある。
﹁仲間を失った者は、一生それを背負って生きねばならない。お前
は天野の気持ちを理解しているか?﹂
︱︱そうか。チェンジリングは自分と美咲さんを重ねて見ている。
同じ隊長として先人として、もう二度と誰かを失わせないと、強
い気持ちを持ってここにいるのだ。
そっと乃江さんを締め上げていた手を離し、チェンジリングは先
程までと違う優しい表情を見せた。
理解している者への苦言など、本当は誰も言いたくないだろう。
チェンジリングはあえて汚れ役をかって出たのだ。美咲さんと乃
江さんの為に。
﹁汚名返上して見せよ。心の中を見て来たのだろう?﹂
チェンジリングは軽く拳を振るい、乃江さんの鳩尾へポンと押し
当てた。
小さくても隊長としての資質は持ち得ている。上に立つ者の目線
で見てくれているのが分かる。
乃江さんは申し訳なさそうに美咲さんを見つめ、胸の前で手を持
1995
て余している。
美咲さんはそんな乃江さんを静かに見つめ、表情を崩して微笑み
を返した。
﹁聞かせて?﹂
一歩踏み出して乃江さんに手を伸ばし、細く震える手を包み込ん
だ。
乃江さんは美咲さんに小さく頭を下げ、それから少し間を空けて
心象世界の事を話し出した。
﹁これは私の見解です︱︱﹂
乃江さんはそう前置きした後、魂喰いの心象世界での事を語りだ
した。
乃江さんの言う解析結果は、素人の俺が見たより詳細にあの世界
の特徴を捉えていた。
﹁夜は死と再生のイメージを持ちます。強い意味では破壊と創造を
︱︱﹂
乃江さんはまず心象風景の﹃夜﹄について説明をしてくれた。
眠りがあるから寝覚める事が出来る。破壊はあるから創造をする
ことが出来る。そういったイメージだと。
俺とはまったく逆の考え。生があるから死がある。目覚めている
から眠る事が出来る。普通はそう考えると思う。
魂喰いは常に死をイメージし、生れ変わる事を望んでいたという
事なのだろうか。
﹁次に二重月。これは太陽を父、月を母の象徴として話します。夜
1996
のみが世界を支配しているのは、片親しか知らずに育った経歴を持
ち、二重に見えるのは母の二面性を象徴していると考えています﹂
暗い森を照らす太陽の代わり。優しい光と冷たい光が混在してい
た様に思える。
けれど森には無くてはならない光であり、魂喰いの心の絶対的な
割合を占めている。
ただのピンボケした月としか思っていなかったが、色々な解釈の
仕方があるものだ。
﹁白雪姫が織り交ぜられていた部分、母からの虐待があったのでは
無いかと推測しています。それと七人の小人の家、これは結論に回
すとして︱︱﹂
虐待といっても色々なパターンが存在する。
暴力を振るう身体的虐待、トラウマを引き起こすよ心への虐待、
性的虐待、育児放棄など。
昔に比べ現代が酷いとは言い切れないが、大人になりきれない大
人が子を儲け、未熟がゆえに問題を引き起こす場合が多いように思
われる。
手短に転がっている性と快楽、安売りされる愛、体から始まる心
を伴わない愛の営み。日常的に目にする暴力表現。
どうにも現代人は多くの情報に踊らされているように思える。
﹁白の部屋で見た夢の解釈、延々と叩かれる夢は長期化する虐待。
寝床で熱湯を浴びせられる夢は、眠りと寝床への嫌悪感。性的虐待。
体が脆く破損していく夢は現在の状況、衰弱、病気、命の危機をイ
メージしています﹂
ひっくるめて考えると、母に虐待されながら、一方で性の対象と
1997
なっていた。その双方が幼心を蝕んだのだ。
恐らく魂喰いも俺や春菜と同じ、多重人格化した精神の持ち主だ
と予想していた。
俺と春菜のキッカケは霊力による体への侵食。霊気が体を壊すほ
ど膨大に膨らみ、それを受け止める補助人格を形成した。
魂喰いの場合は虐待がキーとなり、俺達と同じ様に多重人格を形
成したのだろう。
最初のキッカケである虐待が、魂喰いに眠る能力を引き起こした
可能性がありそうだ。
虐待を受けた場合、往々にして当事者は心が解離を引き起こす。
そして﹃この現実は現実ではない﹄、もしくは﹃これは私ではな
い﹄と思い込み、精神逃避を起こし体と心を切り離す。
例えば私ではないと思う場合、恐らくは虐待に耐えうる屈強の人
間像を構築して、自分はそれを見ている傍観者に徹する。
性的虐待に対しては、母に対し男の象徴として受け止める。ここ
でも主人格はどこか遠くで、第三者に徹してそれを見ている。
この解離という現象は、なにも虐待を受けた者にだけ発生するの
ではない。健常者でも常に行っている行動なのだ。
例えば綺麗な風景を見て、気が付くと思ったより時間が経過して
しまっていた。これも精神解離の一つなのだ。
同じく多重人格にしてもそう。例えば友達誘われ、無理やり遊び
に連れて行かれた場合を例にしよう。
当の本人は家に帰らねばならないと心に強迫感を持つ。けれど遊
んでいる時は酷く楽しいもの。
事後に後悔するオリジナルの人格と、遊びに興じ満足した人格と
は、ある意味別の人格だと言えるだろう。
人はそうやって上手くいかない物事を、心の中で誤魔化して生き
ているのだ。
﹁七人の小人。魂喰いの副人格は七つあり、主人格は現実を否定し
1998
眠り続け、副人格が一連の行動を起こしていると考えられます﹂ 俺に当てはめると、主人格はカオル、副人格はハルナとなる。
俺が心を閉ざし眠りに付くとする。ハルナも俺と同じく眠りに付
くだろうか?
元々俺に無い物を補う為にハルナがいるのだし、俺と同じ考えは
持たないと言い切っていいと思う。
暴力的な心の持ち主ならば、主人格の代わりに何をするだろうか。
性の対象として受け止めた人格ならば、主人格の代わりに何をす
るだろう。
考えるだけで怖気がしてくる。
﹁乃江さんの言う人格論理は理解出来るとして、一つの人格で複数
の能力を行使する点は理解できない﹂
俺達が学校で戦った魂喰い。奴は人形繰りと幻獣召喚を使ってい
た。
﹁私は最初、主人格を含め七つの意識があると思っていました。で
すが︱︱﹂
身体的虐待、性的虐待、繰り糸、幻獣召喚、未開花、サイコキネ
シス、パイロキネシスで計七人か。
眠る白雪姫を守る七人の小人。いつか目覚める事まで主人格を守
り続ける影。
しかしその論理には解せない部分がある。
﹁乃江さんのいう複数人格論は分かりました。けれど複数の能力を
使う理由が分かりません﹂
1999
乃江さんは俺の方をチラリと見て、腕を組み難しそうな顔をして
いる。
しかし言葉に詰まったという風ではなく、曖昧すぎて言っていい
か戸惑っている様子に見える。
けれど思い切ったようにコクリと頷き、俺、チェンジリング、美
咲さんの順に視線を移し、自信に満ちた口調で語りだした。
﹁恐らく⋮⋮、表に出る人格が代替的に主人格となり、他の副人格
を支配できるのだと思う﹂
俺が表に出ながら、ハルナの能力を行使出来るのと同じ原理か。
奴は心の中の武器庫から、都合の良い武器として副人格の能力行
使する。
複数の魂喰いが同時に出現した場合、出現した主人格の能力者を
他の人格が使用することは出来ない。
屋上の魂喰いは炎を使っていた。同時にこの階にいた魂喰いは恐
らく繰り糸、真琴が倒した魂喰いは幻獣召喚。
この場合炎の魂喰いは﹃サイコキネシス﹄を使う可能性はあるが、
繰り糸と幻獣召喚は使用不可。繰り糸の魂喰いも﹃サイコキネシス﹄
を使用できるが、恐らく炎や幻獣召喚は使用できない。 俺は頭の中で推論を推し進め、行き着いた答えを思い描きゾッと
した。
もしそれが正しいなら、もし俺が魂喰いなら。
俺なら虐待人格をメインに置き、二名同時に一斉攻撃を仕掛ける
だろう。
それが俺の思う最も嫌なパターン、恐らく最強の布陣となるだろ
う。
﹁魂喰いの弱点は霊力量。一度に使える霊力が尽きた時、元に戻る
まで長期間眠りに付くのだと思う﹂
2000
そういえば学校事件があった後、奴はしばらく姿を現さなかった。
牧野事件から追跡に転じた時も、その後連続して姿を現さない。
という事は⋮⋮。
﹁今回を逃すと次に姿を現すのは数ヵ月後﹂
乃江さんは目を伏せて俺の言葉に同意し、チェンジリングは唸り
声をあげた。
ただ美咲さんだけはいつもと変わらぬ表情で、キッパリと言い切
った。
﹁今日で終わらせます。次はありません!﹂
しかし魂喰いを完全に消す事は出来ない。副人格を消し去っても、
主人格がいる限り生まれ出てくるだろう。
元を断つには主人格を消し去るしかない。
けれど⋮⋮。
それって人を手に掛けるという事だ。魔物ではなく、異能を持つ
人を。虐待を受けて心が壊れた⋮⋮人を。
﹁私達が見つけられなかった理由ですが、恐らく入院患者だと思わ
れます。届けた住所はそのままで、治療の為に転院して来たのだと
思います﹂
人形繰りの能力者、真琴の父親を手に掛けた別の地区。そして未
開花の能力者とチェンジリングの仲間を手に掛けたこの地区。
転出転入したケース。住民票を移していなくても、賃貸物件の登
記などは擦り合わせしている。もちろん学校や会社の寮も。
だが病院は盲点だった。入院患者が転院してくるパターンは押さ
2001
えていなかった。
﹁魂喰いがアストラル体で動くのは、体が自由にならないからだと
思われます。そんな重篤患者を長期に渡り、入院、延命出来るのは
︱︱﹂
﹁︱︱この近所にデカイ病院があるなぁ、そこかいな?﹂
暗い廊下の先から、聞き慣れた関西弁が響き渡った。
振り返るとそこには山科さんと宮之阪さん、牧野と真琴達だった。
チェンジリングの仲間が亡くなった場所近くには、医科大があり
付属病院があった。
病床数は県下随一の規模を誇るし、なにかの部門の権威がいると
かで、辺鄙な割に評判が良い。
﹁その病院、俺行った事あるわ。婆ちゃん繋がりで依頼を受け病室
を除霊した﹂
牧野が滝汗を掻き頬を掻きながら、申し訳なさそうにボソリと呟
いた。
その途端山科さんの表情が一変し、後退る牧野の足をギュッと踏
み呆れた声を上げた。
﹁あんたその病院、今回のリストから外れとるやん!﹂
﹁この近辺だけでも数十箇所除霊して回ってんだ。全部が全部覚え
てねえよ!﹂
てことは⋮⋮、ここで魂喰いと出会えたのは運って事?
悪運が強いというか運が悪いというのか。どちらにしろ山科さん
2002
と牧野のローラー作戦が功を奏したのは確か。
美咲さんは全員の表情を見て、コクリと頷いて見せた。
この面子なら戦える。そう確信したのだろう。
﹁行きましょうか﹂
美咲さんの一言で、皆の気持ちは一つになった。
最終局面、この一勝負で全てが終わる。
心は冷静なままなのに、体は戦いの準備を始めている。
俺以外の皆も同じだと思う。霊気が昂ぶって痛いほど肌に伝わっ
てくる。
﹁行こか。今日で終わらせて、明日は乃江お手製の弁当食おうな?﹂
山科さんは元気良く手を上げて、足取り軽く階段を駆け下りた。
みんなはその声に救われただろう。肩の力が抜けて自然体になる
事が出来たから。
刺々しい霊気は消え失せ、俺たちは階段を駆け下りた。
そして一階まで降りた俺達は、扉を開けビルの外へ出て、周囲の
様子に目を見張った。
周囲を取り囲む警察車両の山。道路は完全封鎖され、その場にい
た機動隊員達が一斉に身構えた。
﹁もしかして、俺達⋮⋮逮捕されちゃう?﹂
牧野は呑気な声を上げつつも、手には護符を持ち前方に向かい構
えた。
俺達の一挙手一投足に即座に反応する機動隊員達、ポリカードネ
ート製の盾を小刻みに揺らし、目を細めて俺達を注視している。
今誰かが大声を上げれば、抑制の効かない機動隊員が突撃してく
2003
る。そんな緊迫感を纏っていた。
だが第一声はとても柔らかく、そして聞き覚えのある声だった。
﹁カオル君無事だったかい?﹂
機動隊員の間を通り抜け、笑みを浮かべたのは中之島刑事だった。
機動隊員へ向かい手を下げ合図を送り、そのままゆっくりと俺達
に近づいてきた。
﹁中之島さん! どうして?﹂
﹁上役が心労で倒れちゃってね。代わりに厄介事を押し付けられち
ゃったから﹂
苦笑して頭を掻いたが、それは出世したという事でないか?
心霊超常現象を扱う特殊な部署。退魔士界を震撼させる魂喰いが
出没する管轄下だもんな⋮⋮、心労ってのも良く分かる気がする。
﹁この方に情報をいただいたんだよ﹂
そういい中之島刑事は後ろを振り返った。
そこには乃江さんの姉、綾乃さんが腕を組んで立っていた。
警察にしては機動隊員を配備したり、人員配備に抜け目が無いと
思った。綾乃さんが裏で糸を引いていたのか。
綾乃さんは中之島刑事を押しのけて俺達の前に立ち、眉毛を吊り
上げて怒鳴り声を上げた。
﹁三室カオル! 無断欠席しちゃダメでしょ!﹂
俺の頭をポカッと叩き、人差し指を立てて﹃メッ﹄とかわいくポ
2004
ーズした。
バーサーカー綾乃ではなく綾乃先生モードなのか⋮⋮。
それにしてもあの愛の拳骨、見え見えの大きなモーションだった
のに回避できなかった。おっかねぇ。
﹁チェンジリングさんも、ダメよ﹂
言葉を言い終わる前に、鉄拳制裁は完了していた。
チェンジリングは涙目で頭を擦り、綾乃先生に頭を下げている。
﹁牧野⋮⋮﹂
綾乃先生の口調は先程までと一変し、低いドスの利いた声へと変
化した。
綾乃先生の愛の鞭なんて、余裕をぶっこいていたであろう牧野だ
ったが、ただならぬ気配を感じ腰が引けたようだ。
﹁誰が四捨五入で三十路だ!﹂
俺達とは違った角度から拳骨を振り下ろされ、例えようの無い打
撃音が夜の街に響き渡った。
周囲を取り巻く機動隊員がゴクリと息を呑み、中之島刑事は手で
顔を覆い背を向けた。
やっぱチェンジリングの空間操作が効いてなかったか。くわばら
くわばら⋮⋮。
﹁ウエストは︱︱!﹂
大の字でぶっ倒れている牧野を引きずり起こし、次の鉄拳を加え
ようとした所で、乃江さんに羽交い絞めにされ踏みとどまった。
2005
よっぽど腹に据えかねていたようだ。確かに乃江さんと並べて見
ると、ちょっとふっくらしているかな。
﹁カオルっ!﹂
﹁ひぃ! エスパー?﹂
綾乃さんは仁王像の如き憤怒の顔を俺に向けた。牧野に向けられ
る筈だった怒りが俺へと注がれ、隣にいたタマさんがビックリして
毛を逆立てた。
心象世界と覚りの乃江さん、その姉の綾乃さんも同じ力を持って
いるのかもしれない。
収拾の付かない状況を見て。中之島刑事は苦笑して咳払いを一つ
した。
﹁はっ! いけない、忘れるとこだった﹂
ダッと駆け出し機動隊員を踏み越えて、パトカーの脇に停車して
いたランサーエボリューションの扉を開き、荷物を抱えて戻ってき
た。
一メートル少しの物体、それは馴染みのある長さ。金の紐で封印
された高価な刀袋。
綾乃さんは大事そうにそれを両手で持ち、美咲さんの前へと差し
出した。
﹁キョウ様が美咲様にお渡しする様にと﹂
﹁︱︱兄さんが?﹂
手渡されたのは日本刀の類だろう。長さにして二尺ほどの刀が入
2006
っていると思う。
美咲さんもその物には心当たりがある様子。それが何がと問わず、
キョウさんが指示した事への疑問で首を傾げているからだ。
﹁これを渡せば分かると言い残して、京都に帰っちゃいました﹂
﹁私達の後見人として、後始末もせずに⋮⋮ですか?﹂
キョウさんと綾乃さんの任務は、恐らく俺達の尻拭い。
けれどキョウさんはそれを放棄して京都に帰った。それが何を意
味するのか。
﹁俺の妹はそれほどヤワではない。それにこれを手渡しておけば、
綾乃の出番も無い⋮⋮と﹂
刀袋を美咲さんは抱かかえる様に受け取り、何度も何度も頭を下
げた。もしかして綾乃さんを通してキョウさんを見ているのかもし
れない。
さすが師匠。その場にいずともいい方向に導いてくれる。
そんなお気軽な気持ちで見ていたが、体は別の反応を示していた。
﹁︱︱﹂
何かが俺に語りかけてくるような、揺さぶられるような気分。
体が強張り、知らず知らずの内に、視線は刀袋に釘付けになって
いた。
カナタも俺と同じ気持ちでいるのが分かる。身動き一つせず、あ
の︱︱を見つめている。
﹁なんだ?﹂
2007
﹁︱︱神斬り﹂
カナタは刀袋を見て悲しげな表情を見せた。
どこか遠くを見ている様に目を細め、誰かに語りかけるようにそ
う告げた。
2008
﹃遠い記憶﹄
カナタ言う﹃神斬り﹄と、俺の記憶の中の単語が結びついた。
﹃鎮魂﹄の裏打ちを母から授かった時、同時に刀の歴史について
も語ってくれたっけ。
﹃鎮魂は嵯峨野、神斬りは天野。昔からの決まりでニ家にわかれて
管理する事になってるんや﹄
確かに母はそう言った。そしてこうも付け加えて教えてくれたよ
な。
﹃当主である者が所有する決まりになっとる﹄と。
天野家の次代当主は、恐らくキョウさんだ。心技体共に美咲さん
より一歩も二歩も上をいっている。
その当主の証、家宝である退魔刀を、一時的にとはいえ貸し与え
るという意味は深い。
天野の名に恥じぬ働きを示せ⋮⋮か、もしくはその刀を扱うに値
すると認めたとも受け取れる。
刀を受け取った美咲さんも重々承知のこと。掛かる重圧は相当の
ものだろう。
﹁しかし、俺の中にもう一つ﹃神斬り﹄という言葉がある﹂
悲しげな表情をしたカナタが、それを思い出させてくれた。
カナタの故郷である奈良へ旅行した時、鎮魂の刀にまつわる昔話
を聞かせてくれた。
その話の中で﹃鎮魂﹄を持つ正十郎と、﹃神斬り﹄を持つ女が戦
2009
った話を聞いた。
鎮魂の刀は追っ手の女を神木ごと貫き、女の持つ神斬りは正十郎
の体を刺し貫いた。
その時正十郎はこう言っていたのではなかっただろうか? ﹃か
つて心を通わせた女﹄と。
﹁カオルさん﹂
美咲さんは俺の前に歩み寄り、言葉では言い表せない辛い表情を
見せた。
心を見透かしたかのように戸惑う目を揺らし、それでも気丈に振
る舞い弱々しく微笑んだ。
﹁私はカナタを初めて見た時、胸がズキリと痛みました。遠い昔の
記憶が呼び覚まされ、体が無意識に反応したのだと思います﹂
美咲さんは胸を手で押さえた。
周りの誰にも理解できない、俺と美咲さんだけの会話だった。
﹁カオルさんも多分︱︱﹂
美咲さんは刀袋の紐を解き、鍔を親指で押し鯉口を切った。そし
てスラリと抜刀して青白い刀身を露わにした。
︱︱神斬りの刀。
その刀身を見て無意識に怖気がした。同時に軽い眩暈に襲われ鳩
尾の辺りが激しく痛んだ。
きっと刺し貫かれた記憶が呼び覚まされ、痛みを錯覚させたので
あろう。
ほんの一瞬の痛みだったが、深層の記憶が渦を巻き、眠っていた
記憶が呼び覚まされた。
2010
それは俺の中に受け継がれた、正十郎の記憶の欠片だった。
1657年3月、江戸は大火事に見舞われた。二日間燃え続けた
業火により、江戸の大半は消失した。
当時三十八万を数えた江戸の住民のうち、十万八千人の死者を出
す大惨事となった。
そして死者と共に、天台宗僧侶である天海の施した鬼門封じも、
その効力を弱めることとなった。
時の権力者は、亡き天海に代わり江戸を守護する能力者を探して
いた。そこに白羽の矢が立てられたのは、﹃神斬り﹄、﹃魍魎﹄、
﹃鬼斬り﹄、﹃鎮魂﹄を持つ四人の守人だった。
ただ時の権力者が必要としたのは四人ではなく、手駒として自由
に操ること出来る一人だった。
その策略はやがて現実となり、四人の守人は幕府を敵に回し追わ
れる身となった。
当時二つの命を宿していた美緒は、追っ手を差し向けられた仲間
みおも
達を逃がす事に成功した。
しかし身重の体ゆえに自らは幕府に捕らえられてしまった。
やがて美緒は獄中で二人の子を産み、我が子達を抱く事無く人質
とされた。
なぶ
﹁正十郎は腕が立つ、といっても多勢に無勢。四六時中刺客に狙わ
れ、消耗を余儀なくされた﹂
﹁座敷牢で美緒は、顔も知らぬ男達の欲望の対象となり、嬲られ、
慰み者として絶望の日々を過ごしていました﹂
守護聖人を欲するものの、意にそぐわぬ母でなく、何も知らぬ子
らで十分用が足りる。時の権力者はそう考えたのだろう。
手駒として懐柔出来ぬなら﹃女﹄として使い捨てる。世が世だと
2011
はいえ虫唾が走る考え方だ。
﹁何故美緒は正十郎に刃を向けたのだろう?﹂
やはり追っ手として差し向けられたのは美緒に違いない。
またが
けれどあの時美緒は神木に浄化され霧散して消えた。人ではなく
夜叉に成り下がったのだろうか。
じっこん
﹁ある晩の事、男の一人が美緒に跨りこう囁きました。﹃鎮魂﹄は
今頃﹃鬼斬り﹄の女忍と昵懇の仲になっておる。このようにうす汚
れたお前など、誰も見向きもせぬ⋮⋮と﹂
美咲さんは悔しさに顔を歪め、ポロポロと涙を零した。
美緒の心が美咲さんに影響しているのだろうか。もしかすると自
分の体験した事のように感じているのかもしれない。
美緒の気持ちは十分察することが出来る。美緒の心は何時折れて
しまってもおかしくなかった。
正十郎を信じて耐え忍んだのなら尚の事だ。
﹁正十郎は美緒を見捨てた訳ではなかった﹂
むしろボロボロになるまで、何度も美緒を救う為に奔走した。
単身敵地へ乗り込み瀕死の重傷を負い、単独で事を成せないと判
はかりごと
断し、生まれ故郷の大和へ助力を求めたのだ。
﹁篭絡させる謀に惑わされた美緒は、信じ続ける心を蝕まれてしま
いました﹂
美咲さんは唇をキュッと噛み肩を震わせ、それでも懸命に何かを
伝えようとしている。
2012
今にも折れてしまいそうな美咲さんを目の前にして、なにも出来
ない不甲斐なさを感じ、拳を固めることしか出来なかった。
﹁正十郎を愛する美緒。正十郎を憎む夜叉の美緒。耐え切れなくな
った心が崩壊して、複数の人格を持つようになったのです﹂
美咲さんが言わんとしてる事が理解できた。
神木と鎮魂で滅せられた美緒は、生霊の⋮⋮、夜叉の心を持った
美緒だったのか。
囚われた体を抜け出して、正十郎を討つ為に空間を飛び越えた。
あるじ
まるで魂喰いのように⋮⋮。
﹁それでも主殿は、最後は笑っておったよ。死ぬまでに再び顔を見
れるとは思わなんだ、願いが叶ったとな﹂
カナタは美咲さんに向かい、ボソリと呟いた。
美咲さんはカナタを見つめ、小さく頷いて一粒流れた涙を拭った。
﹁この案件が無事片付いたら、二人で奈良を訪ねませんか?﹂
二人であの神木に花でも供えよう。
そして二人の気持ちをもう一度伝え合おう。そうすればきっとわ
かり合える気がする。
それが遠い過去の事であっても、二人はきっと微笑んでくれると
思う。
そう心に決め振り返ると、牧野が腕を組みニヤリと笑い親指を立
おとこ
てた。
﹁漢だねぇ。二人っきりとは隅に置けないねぇ﹂
2013
﹁気持ちの整理ついたら、うちらにも聞かせてな?﹂
﹁二人っきりの外泊は認めません、認められません﹂
﹁聞こえなかった﹂
﹁ニホンゴ、ムズカシイ﹂
周囲を取り巻く仲間達が一様にリアクションを返した。
キョトンとした表情で笑う山科さん、ジト目で睨む真琴、耳を指
で押さえている乃江さん、なぜか片言になっている宮之阪さん。
みんな気を使ってくれたのか、持ち前の明るさで重苦しい雰囲気
を吹き飛ばしてくれた。
何時か落ち着いて話を出来る時が来ると思う。刀にまつわる悲し
い物語を。
﹁ありがと﹂
俺は照れくささを隠す為、頭を掻いて俯いた。
﹁遠い昔に起きた刀の因縁の話だ、心の整理が付いたらきっと⋮⋮﹂
正十郎と美緒には悪いが、俺と美咲さんには違う未来が待ってい
る。
過去に過ちがあってもやり直す事は出来ない。それを繰り返さな
い教訓とするしかないのだ。
俺と美咲さんは今を生き、未来へ向かって歩いて行く。
この事件を終わらせて明日へ向かおう。
2014
﹁中之島さん、医大病院が最終決戦の場になりそうです。ご協力お
願いします﹂
中之島刑事は力強く頷き、機動隊を指示して現場の撤収を始めた。
機動隊員達は訓練された機敏な動きを見せ、あっという間に警察
車両へなだれ込んだ。中之島刑事はパトカーの扉を開いて俺達を手
招いた。
俺は美咲さんの肩を叩き、精一杯笑って力付けた。
先程のビルから一キロ北へ向かった所に、目的の医大病院はあっ
た。
駐車場は回転灯の光で真っ赤に染まり、機動隊員は病院を取り囲
むべく足早に配置に付いた。
中之島刑事は努めて平静を装い、携帯電話を操作して病院内に連
絡を取った。
﹁県警察本部の中之島と申します︱︱﹂
中之島刑事は病床の収容状況や病室の配置、重篤患者の状況を確
認した。
剣道娘にメロメロのロリコン刑事に思えたが、現場の働きだけを
見ると有能な刑事だ。うむっ、見直した。
いや、かなり見直した。俺も負けてられない気分になる。
俺は美咲さんとチェンジリングを手招き、現状の把握に努めた。
﹁ぶっちゃけ今日仕事をしていないの、俺と美咲さんとチェンジリ
2015
ングだけだ。他のメンバーは霊力的にヤバイ﹂
長期戦を強いられた宮之阪さんの霊気はスッカラカン。牧野と山
科さんも底をつきかけている。
心象世界に行った乃江さんは、半分近く霊気を失ってしまってい
る。真琴は霊気も底をついてるし、なにより体力的にヤバそうだ。
ジョーカー的な存在の茜ちゃんだが、夜遅くに耐え切れずシロの
背中でウトウトし始めている。落ちる寸前だ。
﹁カオルと美咲を前衛に据えて、バックアップが私でメイン。乃江
に牧野を付け山科をバックアップとしてサブ。残りの人員は宮之阪
をブレインに据えて、全体の支援活動。といった所かな﹂
チェンジリングは全員の様子を見て、即座に体制を組みなおした。
さすがアメリカ代表だけある。平均に戦力を分散させず、メリハ
リの効いた部隊編成を敷いてきた。
俺もその意見に同意する。恐らく魂喰いは本気で掛かってくるだ
ろうし、平均化した戦力では太刀打ちできないと予想するからだ。
﹁その意見に同意する﹂
﹁私も異存なし﹂
美咲さんはチェンジリングにそう告げ、みんなを呼び今の編成を
伝えた。
みんなは自分の霊力残は誰より自分が一番理解している。不本意
に感じつつも編成通りに纏まりを見せた。
﹁うちサブいうの、ちょっと納得いかんけど。全てお見通しのよう
やな﹂
2016
山科さんは腕を組んで鼻息荒く、さりとてそれ以上の不満も無く
次の指示を待った。
最前線の俺達が戦っている間に、少しでも霊力が回復すればいい
のだが。
﹁カオル君。今医師や看護師達が総出で、避難経路から患者を移動
させている。あと十分少々何も起こらない事を祈っててくれ﹂
中之島刑事は病院棟を見つめ、チラリと腕時計を確認して爪を噛
んだ。
だがその祈りもむなしく一発の銃声が響き、一人の機動隊員が突
き飛ばされるように倒れこんだ。
呻き声を上げ肩を押さえた機動隊員の前に立ち、再び銃口を向け
つつある人影。虚ろな目をした機動隊員だった。
﹁操られてる?﹂
俺は咄嗟に地を蹴り走った。
銃を突き付けている機動隊員、その頭上から細い繰り糸が微かに
見えた。
引き絞られていく引き金。
届かない距離と無力さを痛感しつつ、頭の中でリボルバーを握り
締めた。
﹁カオル、任せろ﹂
背後でチェンジリングの声が響き、機動隊員は糸が切れた操り人
形の如く、膝をついて前のめりに倒れた。
チェンジリングの空間操作能力か。街の人達を解放した時と同じ
2017
く、この地に何か制限を加えたか。
だが気を抜くのはまだ早い。繰り糸が切られたならば、敵は次の
手に打って出る。
俺は周囲を気配を窺いつつ、腰に差した守り刀に手を掛けた。
﹁カオル、相手は本気じゃ。こちらも本気で掛からんと痛い目を見
るぞ﹂
カナタはそう言って頭の上で飛び跳ねた。
﹃本気﹄ね。近接戦闘になるかどうか分からない、少しでもリー
チを稼いでおけってことか。
左手でトウカのナイフを握り霊気を籠めた。目を閉じて桃源境を
イメージし、霊気を開放した瞬間に鎮魂の裏打ちを掴み取った。
右手に感じる重みを感じ、目をゆっくりと開いて左手に持ち替え
た。
そして機動隊員に引き摺られていく二人の機動隊員を確認し、上
を向いて思い切って声を上げた。
﹁おい! 出て来いよ。お前の遊びはかくれんぼじゃなく鬼ごっこ
だろ? ルールを間違えてないか?﹂
馬鹿みたいに聞こえるセリフだったが、かくれんぼの時あれほど
ルールに固執した魂喰いだ、彼なりのプライドを刺激できればと思
ったのだ。
俺の横にはチェンジリングが死角をカバーし、背後で美咲さんが
何時でも抜刀出来るよう鯉口を切った。
﹁それは私の考えたルールではない﹂
回転灯の明かりを頼りに、声のする方向に目を凝らした。
2018
パトカーの天井に音も無く現れた人型の瘴気。こちらを睨み腕を
組み、生意気に回転灯に片足を乗せてポーズを取っている。
学校の屋上で戦った魂喰いとは違う、落ち着いた声が駐車場に響
き渡った。
﹁遊び好きな三番目の奴が、勝手にそうと決めたのだ﹂
魂喰いはそう俺達に告げ、隣に停車していたもう一台のパトカー
に目を向けた。
パトカーは窓ガラスが砕け、遅れてフロントガラスが飛び散った。
天井付近が軋みをあげて曲がり、サスペンションが延び切ってタ
イヤが浮いた。
まるで大きな手で掴み上げている様に、手の形にひしゃげてしま
っている。
﹁なっ!﹂
奴のサイコキネシスは、見えない手を具現化したものか。
車が浮き上がるという異常な光景を目にし、正常な判断力が働か
なかった。
奴が車を持ち上げたって事は、次の一手は︱︱。
﹁やべっ!﹂
大きく車が動き、しなりをつけた様に一度空中で停止した。
ふうひょうか
その直後には空気を裂く音と共に、俺達に向かい放り投げてきた。
あの質量を止めるには、ナイフを握った状態での風飄花しかない。
しかし両手持ちの刀を使用している時は、トウカのナイフを握る
ことが出来ない。
長考の高速視認を使い、俺はチェンジリングの手を握り、横飛び
2019
して回避を試みた。
しかし背後に立つ人の影が目に入り、飛び退く作戦は出来なくな
った。
︱︱中之島さん。
俺は目の前まで迫った車体を見つめ、チェンジリングを抱かかえ
ふうひょうか
て口を開いた。
﹃風飄花!﹄
俺が詠唱する前に、凛とした声が耳に届いた。
絹の衣を纏った桃の仙女が目の前に躍り出て、俺達の前に桃の花
びらの障壁を構築した。
そして手にはいつの間に抜き取ったのか、俺のナイフを両手で持
ち胸の前へ構えた。
﹁接吻はいただき、かの?﹂
等身大のトウカはコロコロと笑い、目の前で砕ける車を意に介さ
ず、ゆったりとした動作で振り返った。
トウカは俺ではなくカナタを見て、ニヤリと意地悪い笑みを浮か
べて見せた。
﹁うぎぎっ⋮⋮﹂
トウカの言葉に歯軋りをして、俺の髪の毛を掴んで悔しがるカナ
タ。
一瞬気が抜けたその時、桃の障壁が火花散らし希薄になった。
まだ車の勢いが止まっていない? いやアイツは放り投げたので
はなく、車で押し潰そうとしてるのだ。
2020
﹁油断大敵じゃぞ﹂
カナタはぴょんと飛び、俺の腰へと着地した。
そして守り刀へ手を触れて、大きな声を上げて存在感を増した。
﹁トウカに出来る事がっ! 我に出来ぬはずがない!﹂
︱︱精神論かよ。
だが有言実行をモットーとするカナタは、理屈を無視して等身大
になった。
抜刀と同時に風の様に疾走し、障壁の向こうにある空間に刃を走
らせた。
障壁が霧散したと同時に、圧力を失った車が地面へ落下し、カナ
タは守り刀を構えたまま後ろ飛びし、俺の隣へと着地した。
﹁やはり我に不可能はないのう﹂
チェンジリングを抱いていた手を抓り、ジト目で俺を睨み付けた。
トウカはしたり顔を袖で隠し、肩を震わせて笑っている。
トウカよ⋮⋮、カナタをけしかけるのやめて欲しいんだけど⋮⋮。
それにしても二人が本来の姿をしているのに、俺の霊気はそれほ
ど影響を受けてない。
いや⋮⋮、霊気は今まで通り消費している。けれど以前と比べ全
体の霊力量が増えているのだ。
トウカはカナタを見つめ、カナタはトウカを睨めつけた。
﹁我らがいる限り、カオルには指一本触れさせぬ!﹂
まるで二人は打ち合わせをしていたかのようにハモった。いや、
どう考えても練習してるだろ⋮⋮今の。
2021
チェンジリングは俺を見上げ、遠い目をして呟いた。
﹁カオルは変なのに好かれる体質なのか?﹂
反論の言葉が喉から出てこない。
胸を張って違うと言い切れないのはなぜだろう。
2022
﹃遠い記憶﹄︵後書き︶
A++も執筆開始から一年が経過いたしました。
本編ももう少しでひと段落つけそうな所まで進行しましたので、
一周年企画の小説を企画しております。
http://ncode.syosetu.com/n6908
g/
作品名﹃PBeM−A++﹄
プレイバイeメール形式の読者参加型小説です。
美咲隊不在時の派遣退魔士として、あの街や星ヶ丘学園に発生する
心霊案件を解決していく事が目的です。
お馴染みのキャラが登場し、相談を受けたり敵対したりします。
たった15日間の学園生活で、貴方は何人の人を救えるか。
2023
﹃Fake﹄
ふうひょうか
風飄花が消失し、支えを失ったパトカーが音を立てて崩れ落ちた。
ガラスの弾け金属の軋む音が響き、同時に独特の刺激臭が鼻を突
いた。
横たわったパトカーの車体から、ジワリとガソリンが漏れ出しア
スファルトを濡らした。
それを見た美咲さんは背を向けたまま手を振り、後方の仲間へ合
図をした。
中之島刑事を安全な場所に︱︱。一旦距離を取れ。
美咲さんの指示はすぐさま後方の仲間へ伝わった。
﹁行きましょう!﹂
美咲さんはそう俺たちに告げ、パトカーを乗り越えて魂喰いへと
疾走した。
遅れて俺とチェンジリングが地を蹴った時、魂喰いが手を翳し火
を放った。
パトカーは瞬時に火に包まれ、黒煙を上げて暗い駐車場を明るく
照らし出した。
ガソリンに引火して燃え上がったといっても、すぐさま爆発する
訳ではない。
バイクで培ったノウハウで言えば空燃比1:15。
最もガソリンが燃焼する比率は、ガソリン1に対し、空気は15
だ。キャブセッティングって奴だ。
それ以上でもそれ以下でも、ガソリンは思うように燃えてくれな
い。
しかしそれも時間の問題だ。
高温で気化したガソリンがタンクから噴出し、より多くの空気を
2024
求めて火の勢いを強めるだろう。
﹁!!!﹂
轟音と共に空気が大きく膨れ上がり、鼓膜が強く内に押し込まれ、
耐え難い熱気が背中を焼いた。
目の前では美咲さんは神斬りの刀を抜き、鞘を惜しげもなく投げ
捨て、同時に身を屈め強く地を蹴った。
﹁無に帰りなさい!﹂
神斬りの退魔刀に白い霊気が流れ込み、物質強化と共に剣速が増
した。
斬り下ろしの速度、タイミング、間合いは完璧、それに美咲さん
の気も充実している。
だが振り下ろされた神斬りの刀は鈍い金属音を響かせ、その切っ
先は魂喰いの頭上で停止した。
パトカーのサスペンションが沈み込むほどの剣圧だったが、魂喰
いは手を翳すだけで易々と受け止めてしまった。
美咲さんは斬り下ろしでダメならばと、刀を寝かせ横に二度薙い
だ。しかし見えない壁が刀を弾き、切っ先は魂喰いに掠る事すら出
来ない。
﹁カオル!﹂
﹁分かってる!﹂
チェンジリングの危惧した事、その言葉の意味は分かっている。
高く跳躍して刀を振り下ろした美咲さんは、着地するまで次の動
作に移れない。地に脚をつけ次の動作に移るまで、そのコンマ何秒
2025
が命取りになる。
案の定魂喰いは美咲さんにゆっくりと手を翳し、奴の手が炎を纏
った。
まずい、奴は美咲さんを焼く気だ。
﹁トウカ! カナタ!﹂
俺の横を併走していたトウカは、何も言わず頷いて片手を美咲さ
んへと向けた。
ふうひょうか
カナタはトウカを飛び越えて高く飛翔し、魂喰いの注意を頭上へ
ふうひょうか
逸らした。
﹁風飄花!﹂
トウカの腕から発せられたのは、障壁を構築する風飄花ではなか
った。
強い突風に飛ばされる花びらの如く、トウカの掌から無数の花び
ふうひょうか
らが舞い、魂喰いへ向かい勢い良く飛散した。
風飄花は魂喰いの見えない壁を直撃し、残身のまま宙に留まって
いた美咲さんを撃ち抜いた。
桃の花びら一枚には、拳一発分の霊気が籠められている。例える
ならショットガンのように指向性を持った霊気の散弾だ。
カナタは着弾で吹き飛ぶ美咲さんを抱きとめ、その場から飛び退
いた。
ふうひょうか
攻防一体。
障壁の風飄花では、美咲さんをガード出来ないタイミングだった。
ならばとトウカは攻撃に転じ、相手の次の手を封じた訳だ。
2026
﹁無茶しやがって。美咲さんにぶっ殺されるぞ﹂
﹁その時はカオルが我を守ればよい﹂
トウカはそう言いながらウインクして俺を見送った。
勝手な言い分だと思うが、他に回避の手段が思い浮かばない。美
咲さんもそれは理解しているはず。
それよりも神斬りを易々と受け止めてしまう、奴の出す見えない
障壁が問題だ。
スポンジのように霊気、瘴気の類を吸い取る神斬りだが、精神エ
ネルギーであるサイコキネシスとは相性が悪いのか。
ならば、それを掻い潜り本体を斬るしかない。
俺はポケットからチラシ片を取り出し、手の内に隠しそのまま柄
を握りこんだ。
﹁よっ!﹂
美咲さんを真似て跳躍し、魂喰いの頭上に刀を走らせた。
一撃目はやはり硬い障壁に弾かれ、手が痺れるほどの衝撃が返っ
てきた。
俺は手の中に握っていたチラシ片を発動し、一瞬だけ鎮魂の刀を
桃源境へと送り込んだ。
紅霞の発展バージョン。回避で体を虚ろにするのではなく、攻撃
対象を虚ろにして防御を掻い潜る。
虚ろな存在になった鎮魂の刀は、何の抵抗も無く障壁を通り抜け
ることが出来、そして障壁の向こう側、魂喰いの体へと食い込んだ
瞬間、いつも通りのタイミングで叫んだ。
﹁戻れ!﹂
2027
合図と共に鎮魂の刀は姿を戻し、魂喰いのわき腹付近をゴッソリ
と吸収した。 唸り声を上げ、身を捩り刀から逃れようとする魂喰い。
だがこのチャンスは逃さない。
俺は渾身の力を手に籠め、柄に捻りを加えた。
剣先は奴の傷口を大きく抉り、さらに多くの瘴気を吸収した。
﹁︱︱調子に乗るな!﹂
断末魔にしては明瞭な叫び声が耳に届いた。
同時に俺の体は見えない障壁に弾かれ、思いっきりぶっ飛ばされ
た。
でっかい手で張り倒されたような衝撃。俺の骨が軋みを上げ、口
から胃液が溢れてきた。
もんどりうって地面を転がり、植え込みに背中を打ち付け、意識
は朦朧とし気を失いそうになった。
反射的に立ち上がろうとして、視界が揺れて胃が痙攣し吐瀉物が
涙と共に溢れ出た。
﹁うげっ⋮⋮﹂
よく考えると今日一日固形物を食ってない。
春菜と飲んだコーヒーと病院で処方されたブドウ糖の点滴だけだ。
思い切って何か出せば気分はマシなんだろうけど⋮⋮、出ないも
のは仕方ない。
俺は口元を袖で拭い、植え込みに凭れ立ち上がった。
﹁折角の一発芸だったのに。あれで消滅させられなかったとなると
⋮⋮﹂
2028
目の前には人型を崩しながらも、まだまだ健在の魂喰い。
右に少し距離を取った位置で、頭を押さえ美咲さんが刀を構え、
左にはチェンジリングが薬箱を抱えている。
美咲さんの様子からみて、最初のキレはまだ戻っていないだろう。
遠距離支援型のチェンジリングには、決定打を見込めない。
後方の乃江さんや牧野を頼るか? いや拳による近接は障壁でガードされるだろうし、車の上では足
場が悪く、乃江さんの能力を100パーセント引き出せない。
牧野も棍を持っていない以上、呪符による攻撃と体術が頼り。呪
符が障壁にどれ程の効果が現れるか未知数だし、乃江さんと同じく
体術は不利。
そうなると頼れそうなのは魔法組の三人だが、どれ程回復してい
るかが問題だ。
次に魂喰い。
奴は障壁に絶対の自信があったと思う。しかし一発芸を見せたお
かげで、今度は近づく物全てに注意を払うだろう。
あの一発芸はもう使えない。そう思っておいた方がいい。
一旦距離を置いて持久戦に持ち込むか、弱っている今を勝機と見
て突撃するか。
どちらを選択するか二択となれば突撃。持久戦に持ち込んだら、
先に俺がへたばってしまう。
鎮魂の刀の握り直し、呼吸を整え魂喰いへと向かった。
俺の持つもう一つの一発芸。これで仕留める。
﹁ハルナ!﹂
俺は思考の中でハルナからリボルバーを受け取った。
頭に銃口を押し付け、何の迷いもなく引き金を引き、弾丸に籠め
られた過剰な霊気が体を駆け巡る。
今起こりうる可能性のある選択肢のうち、俺達に最良の現実を求
2029
めて手を彷徨わせ、俺が選んだ現実は︱︱。
﹁グラビティ!﹂
俺の真後ろで山科さんが叫んだ。
同時に魂喰いは車ごと押し潰され、圧力を受け止めたタイヤは四
輪ともバーストした。
俺の選んだ現実はグラビティの援護による攻撃。
俺は切っ先を魂喰いに向け跳躍した。体ごとぶつけに行くような
突きだが、この勢いは止められない。
グラビティの援護のおかげで障壁が薄い。選んだ選択肢の通りに
切っ先が魂喰いに到達した。
ズブリと手に返る手応えを感じ、俺は勝利を確信し一瞬気が緩ん
だ。選択した現実には魂喰いの消滅も含まれているから。
しかし切っ先は手応えを失い、魂喰いは一瞬の内に姿を消した。
そして奴は俺の真横に立ち、不快な笑みを浮かべた。
﹁便利だね。これ﹂
魂喰いは人差し指をこめかみに押し当て、弾く動作をしてニヤリ
と笑った。
俺は驚愕する間もなく、再び見えない障壁に弾き飛ばされた。
今度は腕でガードをし受身を取りつつ着地し、地を転がりながら
も今の起こった事を振り返った。
﹁さっき一度見た。そして心の中で一度、今も⋮⋮。三度見れば馬
鹿でも理屈が分かる﹂
俺の現実操作は魂喰いに盗まれた?
俺が現実を操作して奴に攻撃を加えた。その一瞬の後、奴は現実
2030
を操作して回避する選択肢を選んだのだ。
奴の残弾は何発だ。どうやって回避を試みたのだろう。盗まれた
時何をされた。どうやって盗まれた。
くだらない事ばかりが頭を過ぎり、俺の思考は混乱をきたした。
しかし混乱を悟られてはならない。俺は努めて余裕を見せ、引き
攣る顔を伏せて呟いた。
﹁⋮⋮殺さないと盗めないと思ってた﹂
﹁それは誰が決めたルールだ? 盗んでしまえば生かしておく価値
もない、だろう?﹂
魂喰いは悪魔の思考を発露させ、人を不快にさせる笑いを浮かべ
た。
その挑発めいた態度に、チェンジリングはいきり立った。俺と魂
喰いの間に立ち、怒りを押さえきれず身を震わせている。
﹁チェンジリング! やめろ!﹂
﹁わかってる!﹂
返答は冷静に聞こえるが、恐らくギリギリの所で踏み止まってい
るだけ。
ポンと一度背中を押されるだけで、チェンジリングの理性は吹き
飛んでしまうだろう。
落ち着け、奴は重要なヒントをくれた。﹃3回﹄という言葉だ。
恐らく奴は﹃三度見る﹄事がキーとなり、能力を我が物にする事
が可能になる。
2031
チェンジリングはここで一度、先程のビルで二度空間操作を使用
している。合計で三度で条件は揃っている。
俺の一発目もあのタイミングで発動している。ならば糸を切った
空間操作は見られている。
もし盗んでいたら奴は空間操作を使う。使わないのなら見ていな
い。
もしくは人形の具現化と空間操作を別の能力と見ているか。
同一の挙動でなければ盗めないのかも知れない。
﹁お前の能力は厄介なんだよ。俺ならもう手遅れ。だから俺に任せ
て後ろに下がれ!﹂
その論理を飛躍させると、既に魔法組の面々はアウト。
だが宮之阪さんの能力は奴の発火能力と類似している。山科さん
の空気圧縮も、足止めならサイコキネシスで十分だ。
厄介なのは真琴の能力だが、剣の生成なら当然アウトだろう。
しかしチェンジリングの事例と重ねると、剣の番号が足枷になっ
ているかも知れん。
けど⋮⋮チェンジリングに任せろなんて大口叩いたが、実際付け
入る隙なんて無いんだよな。
︱︱無い事もない。
ソファーに腰掛けたハルナが口を開き、優雅に足を組み直して微
笑んだ。
テーブルの上には弾丸が三発。既にリボルバーがブレイクオープ
ンしてテーブルに置かれている。
﹃名案か?﹄
2032
︱︱猿真似しか出来ない奴には、到底考え付かない事だよ。応用
力が足りないから。
ハルナは鼻をフンと鳴らして魂喰いを小馬鹿にし、俺だけに聞こ
えるように囁いた。
それは俺ですら考え付かない思考。けれど確実に魂喰いに一杯食
わせる事が出来る。
しかし失敗すれば俺には後がない。確実に現実を塗り替えられて
殺される。
﹃けど、その技ってハルナがヤバイ状態になるんじゃないか? 弾
を使い切ったらハルナは存在出来なくなる﹄
︱︱私がココにいる事が自体が不自然。私は春菜の中にいて初め
てハルナ。気に病むことはない。
ハルナはリボルバーを組み立てて、勢い良く弾倉を回して俺に手
渡した。
短い間だったが、コイツは俺の一部だと認識し始めていた。残留
思念だと分かっていても、躊躇いの一つも沸いてしまう。
﹃分かった。もし後釜が俺に必要なら、次もハルナがいてくれると
嬉しい﹄
︱︱また無茶な事を言う。
ハルナは俯いて笑い、萎れていく表情を見せない様にそっぽを向
いた。
そして表情を隠すように残弾を投げて寄越した。
気が付くと俺は走り出していた。目の前の魂喰いに向かい、馬鹿
2033
の一つ覚えの跳躍をして車の屋根に飛び乗った。
吹き飛ばされる事を予想していたが、魂喰いは俺の行動を許容し、
腕を組んでニヤリと笑った。
手を伸ばせば届く距離に魂喰いがいる。だがそんな無粋な事をす
れば、即座に吹き飛ばされて元も黙阿弥だ。
それに一度戦って知ってるはず、奴の移動速度は俺の拳の何倍も
速いという事を。
﹁俺とお前、どちらが早いか﹂
﹁テメエに西部劇の良さが分かってるとは思えない。ネバダスミス
見た事あるか?﹂
俺の軽口に奴は反応を示さない。
魂喰いは腰の位置で人差し指を伸ばし、まるで西部劇のガンマン
の如く鋭い目で俺を見つめた。
一発勝負の場合だと、最終的に自分の選んだ現実で塗りつぶせる
後手が有利。
魂喰いもその論理は分かっているのだろう。先手を打たせようと
考えつつ、ほくそえんでいるのが分かる。
﹁西部劇ではコインを投げて合図をするが、こういうのはどうだ?﹂
俺は引き攣った笑みを浮かべ、鎮魂の刀を頭上に放り投げた。
くるくると刃の位置を変え回転しながら、最高点に到達した鎮魂
の刀。
この一瞬で俺が何を考えているのか理解出来ただろう。
俺が勝てば奴に、俺が負ければ鎮魂が突き刺さる。勝者だけが生
き残る死のルール。
全く違う現実を選択し、この場を回避する事も出来る。だが遊び
2034
好きの魂喰いは、この勝負に乗ってくると踏んだ。
それにこれならハルナを消さなくて済む可能性が高い。
俺は頭上に迫る鎮魂の刀を目で追い、思考の中で引き金を引いた。
俺の選んだ現実は︱︱。
そして魂喰いは俺の表情を読み、口元をだらしなく歪めた。
そして勝利を確信し、現実操作を発動させた。
﹁︱︱﹂
したり顔で余裕を見せる魂喰いを見て、頭上目掛けて落ちてくる
鎮魂の刀を目で追った。
そして再びリボルバーを頭に押し当て、何の躊躇もなく引き金を
引いた。
魂喰いの体へ鎮魂の刀が深々と突き刺さり、耳を塞ぎたくなるよ
うな断末魔が響き渡った。
鎮魂の刀は勢い衰えず、魂喰いの体を突き抜けパトカーの天井へ
と突き刺さった。
俺は拳を握り締め、渾身の一発を魂喰いに打ち込んだ。
﹁ハルナの入れ知恵。一発目で俺が選んだ選択肢は、鎮魂の位置を
動かす事ではない。二発目のリロードを完了する選択肢﹂
どうせ一発目が塗り替えられるなら、それまでに完了してしまう
現実が良い。ハルナはそう言っていた。
一発目をダミーに発射して次弾をリロードし、二発目にかけろと。
もし二発目がダメなら私を残す意味は無い。宿主が死ねば私も用
済み。迷いも無く弾丸を込めて、六分の一の確率で勝負しろと。
2035
﹁正直真っ向勝負なら読まれていたかも知れん﹂
現実操作をして敵を攻撃をする。そんな無限のパターンの中で勝
負は出来ない。
だから俺はコイントスのように刀を放り投げ、﹃避ける﹄、﹃相
手に突き刺す﹄と思考を狭めたのだ。
﹁一発残せたな。俺とハルナはまだ縁があるという事だ﹂
ハルナは眉を寄せて顔を顰め、満更ではない笑顔を見せた。
2036
﹃カオルの見解﹄
結びつきを失った瘴気が霧散して、風に翻弄され天へと舞い上が
った。
俺はそれを見送りながら、ひとまず胸を撫で下ろした。
そして鎮魂の刀を引き抜き、屋根を窪ませながら地面へと飛び降
りた。
これで魂喰いは今日だけで四体倒した事になる。
奴の出現する原理は分からない。何度倒しても復活し続けるのか、
一回こっきりで現れなくなるのか。
出来れば後者であって欲しいものだが、楽観視して手痛い思いは
したくない。
だが魂喰いも人の霊気の類で行動しているなら、いつかは霊気切
れを起こすだろう。
﹁今回の奴は⋮⋮﹂
屋上で暴れていた奴とは違い、完全にカウンター狙いだった。
俺の考え違いでなければだが、攻撃の回数を減らし消費を抑えて
いた様に見えた。
だがアイツはとてつもないミスを二度犯した。現実操作を二度も
行っているからだ。
俺と同形のリボルバーを使用していると仮定して、100%の現
実操作を二度発動した。
都合良く考えるならば6発を装弾し、二回使用したことになる。
その際消費した霊気は想像を絶する量だろう。
なにせ俺が全開で霊気を籠めても、リボルバーには二発しか弾が
生成されなかった。
得手不得手があると割り引いても、相当量の霊気を失ったはずだ。
2037
﹁カオル? どこか痛いのか?﹂
トウカが俺の側に駆け寄り、顔を窺って小首を傾げた。
考えに没頭してしまって全然回りが見えていなかった。トウカの
目には、かなり変な奴と映っているようだ。
トウカはナイフを俺に差し出し、微笑んでいる。
俺はナイフを受け取りつつ、まだ頭の中では考えがまとまらない
でいた。その瞬間トウカはニヤリと笑い、俺の首に両手を回し頬へ
軽く口づけた。
﹁対価は確かにいただいた﹂
そう一言だけ耳元で囁き、いつものサイズに戻ってしまった。
俺はといえば頬に感じた唇の感触に呆然とし、ナイフを取り落と
しそうになってしまっていた。
我に返った俺は慌ててナイフを腰に差し、呑気に扇をパタつかせ
ているトウカへ吼えた。
﹁なんでトウカはそう、トリッキーな動きをするんだろうな!﹂
﹁カオルの戦いっぷりを見たら、次が無い気がしたからのう。対価
をいただくなら今のうちじゃと、虫が知らせたのじゃ﹂
トウカ
ああ⋮⋮、サラリと不吉な事をおっしゃりましたね。
仙女にそんな事を言われたら、本当にそうなってしまいそうで怖
い。
しかしトウカの言う通り紙一重だった。次はマジでヤバイかもし
れない。残弾は一発しかないし、敵の強さは予想を遥かに超えてい
る。
2038
﹁うぉっほん!﹂
再び俺の思考は、かわいらしい咳払いによって掻き消された。
目の前にはカナタが立ち俺を見上げ、もう一度えっへんと咳払い
をした。
﹁ん? どした?﹂
﹁守り刀﹂
カナタは頬を赤らめつつも、守り刀に手を添えて俺に差し出した。
なんで照れてるのは不明だが、俺は守り刀を受け取り鞘に戻した。
小声でカナタは﹃ちん!﹄と囁いたが、あまりにも小さい声で、
思わず聞き逃してしまいそうだった。
﹁さんきゅ!﹂
そして再び魂喰いの事を考えようとして、今度は大きな咳払いに
掻き消された。
目の前には顎を突き出し、蛸のような口をしたカナタ。
目を力いっぱい閉じて、﹃ん∼﹄と唸っている。
﹁何のマネだ?﹂
﹁トウカだけズルい。我も今日から対価をいただく事にする﹂
カナタはそういいつつ、俺の胸元にしがみつきピョンピョンと飛
び跳ねた。
身長差40センチ以上。越えられない壁がそこにあった。
2039
まるで駄々っ子のようだが、半ベソを掻き、必死に唇を突き出し
う
ている姿は愛らしい。
﹁愛いのう。カナタのこういう所が我の心を掴んで離さぬのじゃ。
たまらんのう⋮⋮﹂
トウカは頭の上でうつ伏せて頬杖をつき、興奮気味に話しかけて
きた。
確かにかわいい。この年代の子供は、何をやっても許される免罪
符を持ってる。
うむむ、拒絶して逃げても良いのだが、今後の戦闘に支障が出そ
うだし、今は揉め事を避けたい所。
ツンツンとした怒るカナタを想像して、結局俺が折れないとダメ
だと諦めた。
﹁はいはい、仕方ないな﹂
俺はカナタを抱え上げた。
カナタは目を輝かせながら、俺の首に細い手を回し力一杯締め付
けた。
ぶちぅう∼∼∼∼∼∼∼、スポン!
己の行動に満足したのか、カナタは小さくなって頭の上に戻って
いった。
カナタよ⋮⋮、お前はなにか間違っている。接吻というのはもっ
と⋮⋮、こう、なんだ。もういいや。
俺の頬は恐らくヒルにでも吸われた様な痕が残っているだろう。
ただ、この痕をキスマークなんて言う奴がいたら、泣いてもいいよ
な。
2040
﹁あー、なんだっけ⋮⋮﹂
考えていた事がぶっ飛んでしまった。
魂喰いの事を考えていたよな、確か。
気が付くと仲間のみんなに取り囲まれていた。引き攣った笑みを
浮かべる者、手で口を押さえ笑いを堪えている者、指をくわえてボ
ンヤリしている者達。
﹁カオル、知ってっか? そういうのペド⋮⋮﹂
俺は無言で牧野に拳を見舞っていた。
フラッシュピストンマッハパンチ
自分でも驚くほどのスピードで拳が走り、イジメッ子牧野をぶっ
倒していた。
うむ、この手応え、この速さ⋮⋮、今の俺ならFPMPも打てて
しまいそうな気がする。
呆れた表情で見守る仲間達の中、一人いじけた素振りを見せる美
咲さん。
人差し指を胸の前で向かい合わせ、眉を寄せて口を尖らせている。
﹁私はどうせ役立たずのやられ役です﹂
一人だけ無茶苦茶拗ねてる。
美咲さんの陣頭指揮も見事だったし、気合の入った一刀だったけ
どな。
跳躍からの攻撃は、あれはあれでいい伏線になった。同じ攻撃を
繰り返して相手の思考を狭める偽装工作。母直伝の戦闘思考なんだ
けど。
ジャンケンでチョキを数回出すと、相手は﹃次も﹄、﹃いや次は﹄
と思い始める。迷いを持った敵にジャンケン以外の勝負を挑めば、
2041
大抵勝つことが出来る。
卑怯やない、兵法と呼び!と母に怒られた卑怯技。
美咲さんは地面に﹃の﹄の字を書き、本格的に落ち込み始めた。
そんな様子を見るに見かねたのか、チェンジリングがニコリと微
笑み励まそうと力つけた。
﹁私も役立たず仲間﹂
チェンジリングと美咲さんはがっしりと握手を交わした。
あー、考えが纏まらない。ここは話す相手を変えたほうが良さそ
うだ。
﹁あの∼、乃江さん﹂
俺はマトモ印の安全牌、乃江さんに声を掛けた。
拳をぶつけ合って意気投合している美咲さん達に背を向けて、乃
江さんにさっきの考えをぶつけてみた。
﹁魂喰いの事ですが、新たに分かった事が︱︱﹂
俺は考えを纏めつつ、乃江さんに魂喰いの情報を伝えた。
先ほど分かった情報と、これまでの魂喰いの行動をすり合わせよ
う。 まず主人格は眠り、七人の副人格がいる前提は、今の所覆す情報
が無い。 主人格Aは病院を渡り歩くほどの重篤患者。精神は眠り体を動か
す事は出来ない。ちょっとした外出もままならないだろう。
事件が発生する前を初期状態として、自由に行動が出来る人格は
二つだった。これは乃江さんの論理をそのまま流用させてもらう。
上記の条件で全てが始まったとしたら、最初の事件﹃人形繰り﹄
2042
殺害は、その二名の副人格の犯行だと言える。
ただ見落としがちな小さな事実だが、相手は仮にも退魔士。なん
の能力もないアストラル体では殺害は困難だろう。
それに⋮⋮。﹃人形繰り﹄殺害時に能力を喰っている。そもそも
能力をコピーするなんて離れ技は、通常ありえない事なのだ。
副人格BかCには﹃能力を三度見る事による能力の複製﹄をする
力が最初から備わっていた。
俺が引っ掛かったのはこの後だ。
俺とハルナのように、霊気の総量が移動した場合、受け止める力
が不足した側に、補う人格が生まれると理論付けている。
けれど初期状態の魂喰いは、主人格A、B,Cの三人格で一人分
の霊力しか持ってない。
主人格Aがその役目を放棄し眠りについた状態だとして、Bが初
期の﹃喰う﹄、Cは﹃人形繰り﹄を受け継ぐ余力があったのではな
いか。
ここで更なる人格が形成され、Dが出来たとする考えは見当違い
のように思える。
B、Cで初期値の霊力と人形繰りの霊力を分け合った。
一旦こう定義つけよう。
では人格Dが出来たのは真琴の父、﹃幻獣召喚﹄を殺害した時と
なる。
人格Dは﹃幻獣召喚﹄を受け継いでいる。
ここで奴は奇異な行動を取る。才能には恵まれたものの、まだ開
花していない能力者を殺した事件。
2043
俺は最初何故そんな事をしたのか分からなかった。
けれど新しいメンバーに真琴が加わり、召喚の能力がどれ程霊気
を消費するか知った。
あの能力は物を具現化するだけではなく、もう一つ重要な才能が
必要なのだ。
霊気の保有量が潤沢である事だ。霊力の乏しい術者には使いこな
せない。
魂喰いの霊力保有量は取り込んだ分だけ大きくなっている。けれ
ど霊気を補充する生命の泉はオリジナルの一つだけ。
小さな泉を大きく掘り、池や沼、湖の大きさにしたとして、中の
水を使えば底をついてしまう。
湧く泉の水は一人分な訳だし、人の何倍も回復に時間が掛かって
しまう。
ここで一見奇異に映る行動が、重要な意味を持ってくる。
奴は慢性的な霊気切れを補う為に、未開花の能力者を殺した。
恐らく霊気切れを起こし、肉体は衰弱してたのだろう。
ちょうどその頃にこの地区に移り、一時的にしろ殺害後に落ち着
きを見せた。
霊気切れで衰弱し体が弱り、病院を転院したのだと予想している。
これなら﹃動けない体﹄で地区を移動した謎も裏づけ出来る。
長期に渡り姿を隠していた期間に、霊気が一杯になるまで動かな
い事を学習した。
美咲さん達が何度か追い詰めているが、その時は霊気を抑えて行
動していたのだろう。
未開花の能力者を殺害し、人格Eが新たに生まれた。
霊力は補え行動する余裕が出ると、魂喰いはさらなるターゲット
2044
を探し始めた。
この街に一人、霊気だけは一丁前で、戦闘力は大した事が無い男
がいた。ぶっちゃけ俺の事だ。
霊気切れを起こして衰弱した経験も持っている。戦うのは問題な
いが、本体に影響が出ては困る。
奴は恐らくこう思った。
︱︱あの厄介な女共を喰うには力がもっと必要だと。
奴は俺に狙いを定めた。そして妹の葵を操り殺そうとした。
ただアイツにとって好都合だったのは葵の存在だろう。
俺と同等の霊力を持ち、既に人形として捕らえている。だからア
イツは俺を半殺しにして放置し、理由をつけて隠れたのだ。
能力を盗むのは三度見れば良いと言っていた。けれど俺は霊力を
取られていない。
そこで俺はこう思ったのだ。
能力を奪うには三度見る事が必要。
霊力を奪うには殺さないといけない。
恐らくアイツが葵を殺さなかった理由は、俺達と戦わせ能力の開
花を促したのではないか。
そして俺を半殺しにした理由もそう。キッカケを与えて、能力の
開花を見定めたかったのではないだろうか。
もしかしてこう思ったのかもしれない。まだ殺すには惜しいと。
結局の所、奴は俺達に敗れ霧散して消えた。
次に奴のするべき事はひとつ。今回使用した霊気を補充する事だ。
しばらくの間姿を隠していれば回復できたかも知れない。けれど
そこで奴に誤算が生じた。
2045
病院に牧野が来た。
牧野の戦闘力は回復中の奴にとって、脅威に映ったと思う。
だが正面切って戦いを挑むほど回復もしていない。
ではどうするか。
︱︱退魔士の弱点を利用しよう。
魂喰いは牧野の行動を逐一チェックしていたに違いない。
そして唯一心を許している女性の存在に気が付いた。東山亜里沙
さんだ。
だが単純に殺しては切り札にならない。かといって操ったとして
も退魔士に火をつけるだけ。
そこでこの地区に潜り込んだ退魔士清水を使い、警告したのだ。
︱︱常にその女の側から離れるな。
時間さえ稼いでしまえば、霊気は回復する。
復活と共に亜里沙さんを利用し、簡単に喰うことが出来る。そう
思ったのだと思う。
だが清水と接触した際に、赤い糸を作ってしまった。
俺と美咲さんは赤い糸、そしてチェンジリング達は、動き回る魂
喰いの霊気から動きを捉えた。
恐らく魂喰いはこの追跡に脅威を感じたと思う。
︱︱どうする?
相当焦ったのじゃないだろうか。
日米の優秀な退魔士が自分を追っかけて来るのだから。
奴の取る行動は二つ、霊力を消費しながら補充をする事。そして
2046
主人格の眠る病院から目を逸らす事。
先に魂喰いの場所に到着した超能力兄妹。同時に戦っては危険だ
と思ったに違いない。
一人を誘い出して殺し、奪った能力でもう一人を殺した。
︱︱上手くいった。
だが二人目を殺した際に使用した霊気が補充できていない。
そして到着した3人の能力者、アビゴールを人だと仮定すると4
人か。その人数と戦うのは無謀だと判断したのだと思う。
主人格のいる病院からは目を逸らす事に成功したし、二人の能力
と霊力を手土産に姿を消したのだ。
人格F、GはPK能力、発火能力者を殺して生まれた。
そして再び眠りについた。
俺達が動き出さなければ、まだ眠っていたかも知れない。 けれど山科さんと牧野があたりを付け、病院近辺を調査し始めた。
病院で迎え撃つか、いやまだ病院は調査されていない。ならばも
う一度目を逸らそう。
﹁山科さんは、最初に魂喰いでない”魂喰い”に出会ったと言って
ましたよね﹂
ビルの中で中学生達二人を操作した、ひどく非力な魂喰いの事。
奴は別の魂喰いに変化するまで、何かを警告しようとしていたと
聞いた。
﹁そやな。二人を操る事も十分に出来てなかった感じや。張り手一
発で倒せそうな⋮⋮﹂
2047
俺はそいつを唯一の交渉人だと位置つけている。
無論主人格を倒そうとする俺達は敵だ、だが俺達に味方の人格の
事を伝え、戦いを収めようとした。
俺はこの人格を、未開花の能力者で生まれたEでないかと推測し
ている。
﹁︱︱まあ、これが今までの事を纏めた結果です。七人ではなく六
人ですけど、ここが計算の合わない所でして⋮⋮﹂
俺は頭を掻き乃江さんの意見を待った。
乃江さんは目を閉じて腕を組み、じっと何かを考えている。
俺の声が聞こえていない訳ではない、思考回路がフル回転してお
り、誰も声を掛けられない⋮⋮近寄りがたい感じがする。
﹁私が七人目になる所だったのかも知れん。小人の家にはそれを示
唆するサインがあった。⋮⋮人形だ。思い返すと小人を模した人形
だったように思える﹂
七人とも出払っていた家だと聞かされたが、あの家には一人留守
番がいた訳だ。何も語らない人形が。
乃江さんに夢を見させた理由が、意思の共有化を狙ったものだと
したら。
自分の体験を重ね合わせて、人格を同化させようとしたと考えれ
ば納得がいく。
人は嘘の体験を聞かされ、または語り続けると、本当に体験した
かのように記憶を置換する。
虐待にしても同じ。健常な者でも、自分が虐待され続けたと聞か
されれば、心的外傷を引き起こし虐待された者と同じ症状になると
いう。
2048
﹁乃江さんに愚問ですが、多重人格の治療ってどうやるか知ってま
すか?﹂
﹁人格の統合、もしくは共存﹂
完璧な解答だった。
俺も知識では知っていたが、実際俺がハルナと意思を共有して分
かった治療法だ。
一つは主人格以外の副人格を消し去る、または主人格と同化させ
る方法。
セラピストが副人格に語りかけ、似通った性質の人格と統合させ
る。もしくは死を実感させて人格を殺す方法。
だがこれは危険な行為だと言える。
元々主人格は一人で抱えきれない心の傷を抱え、分散するために
人格を形成した。
支えてくれていた人格が死ねば、精神を崩壊させてしまう危険性
が伴う。もしくは再度分裂するか。
もう一つは相互理解。俺とハルナのように、お互いの立場を理解
し尊重しあえれば、普通に日常生活を送れる。
俺の場合もしハルナがいなくなれば、霊気の充実と共に精神を崩
壊する事になる。
その前に支えとなる存在が生まれるはずだが、ここの所はまだ未
知数だ。
﹁俺の中にも一人います。ハルナという存在ですが、そいつが言う
には﹃私が消えれば代わりが生まれる﹄と言ってるんです﹂
俺の言わんとする事は乃江さんには即座に伝わったようだ。
遅れて山科さんと宮之阪さん、真琴も理解したようだ。
2049
﹁倒した魂喰いが消えても﹃代わりが生まれる﹄と?﹂
そういう事。
キーは霊気の復活による精神への負荷。
では逆の考え方だと、霊気を過剰に生成しなければ、余剰の人格
は目覚めない。
﹁山科さんって霊気封じの呪い、得意でしたよね?﹂
﹁呪いちゃう!﹂
山科さんは否定して拗ねているが、アレは呪いと言って問題ない。
死なない程度に霊気を抑える呪文。祝詞の類だったと思う。
アレを使えば最初の副人格はともかく、能力を喰って膨れ上がっ
た人格達は抑えれるのではないか、と。
もちろん今、霊気が不足しているという前提だが、再発は防げる
可能性が大きい。
﹁運良く本体にたどり着けた場合に限るんですけど﹂
﹁カオルと美咲らが主戦力を引き付けてる間に、うちらが本体に祝
詞を詠唱するちゅう事か?﹂
運が良ければの話だけど、アイツの目的は俺達と本体を遠ざける
事だ。
当然主戦力は俺より山科さん達に目を向ける。
﹁そうは問屋が卸さない⋮⋮かな。けど一応そういう方法もあると、
頭の隅に置いておいてください﹂
2050
結局の所戦わねばならないのだろうか。
何体出るか分からない。けれど俺達の霊気には限りがある。
慎重になりすぎても解決は出来ないけど、油断して寝首を掻かれ
る恐れもある。
﹁あの⋮⋮、聞いて良いですか?﹂
珍しく宮之阪さんが積極的に話しかけてきた。
それも手を上げて。
俺は思わず宮之阪さんを指差し、教壇に立つ教師の気分を味わっ
た。
﹁カオルさんの﹃現実操作﹄って、一体どういったものでしょうか
?﹂
来た。ついに来た。聞かれたくない質問だ。
説明が難しい事もあるが、理解してもらえるかも謎だ。
それに俺の精神構造を疑われそうで怖いのだ。
﹁んー。さっき山科さんが﹃グラビティ!﹄って叫んだ時、どんな
気分でした?﹂
それは俺も聞いてみたい質問だった。質問に質問を返して誤魔化
しているようで心苦しいが、これは是非とも伺いたい。
山科さんはこめかみに指を当て、うーんと唸って眉を顰めた。
﹁その寸前までは攻撃しようなんて思てへんかってんけど、カオル
が頑張ってる姿見たら、なんかせなアカンと⋮⋮﹂
2051
やっぱり。
まったくありえない現実に塗り替えるのではないのだ。
当然その本人が思う事によって事が成される。現実に揺らぎは生
じても、心は前後で補完されるという事か。
﹁現実は操作出来るけど、可能性のない現実は存在しない。俺と山
科さんがいるだけじゃダメ。今の二人の関係があって初めて可能に
なるモノかな﹂
ハルナのいう﹃大した事の無い能力﹄はそういう意味なのだろう。
可能性を見極める力。けれど本当に大切なのは、可能性を作り出
す事にある。
良好な関係でなければ可能性は生まれない。独りよがりな能力で
はないのだと。
﹁それ、むっちゃ恥ずかしい事言ってへん?﹂
山科さんは頬を手で押さえ、身を捩った。
同時に真琴は俺の脛を蹴り、宮之阪さんは頬を膨らませた。
﹁あの時はグラビティが一番良かったんです。アイツ人が増えると
姿消すし、太ってる割に身が軽いし﹂
正直宮之阪さんの攻撃なら、パトカーが炎上していたし、山科さ
んだったら俺ごと潰されていた。
牧野だと呪符が邪魔して桃源境の道が開けなかった。ちなみに真
琴のは、俺に剣が突き刺さった。
﹁敵が使えば脅威です。あと何回つかえるか分かりませんが、全滅
してしまう現実でさえ、見出せれば可能になります﹂
2052
﹁それって⋮⋮﹂
﹁俺のは、あと一回こっきり。出来れば使わずに済ませたい﹂
みんなにも現実操作の危険性を分かって貰えたようだ。
青ざめる山科さん、押し黙った宮之阪さん。真琴は相変わらず拗
ねたまま俺の靴を踏み、牧野は頬を手で押さえ、神妙な表情をして
いる。
振り返るとチェンジリングと美咲さんは、まだ意気投合していた。
﹁聞いてました?﹂
二人は目を丸くしてコクコクと頷いた。話半分って感じがするが
⋮⋮、まあいい。
ちなみに茜ちゃんはシロの背中で眠っていた。
2053
﹃桃源境﹄
中之島が携帯を耳から離し、二つ折りにしてポケットに放り込ん
だ。
恐らく患者の避難が完了したという知らせだろう。
﹁中之島さん、準備出来ましたか?﹂
先程までと打って変わり、皆の表情から笑みが消えた。
病院内へ突入する時が来た。皆の霊気が昂ぶり、ピリピリとした
緊張感に包まれた。
屋内戦は野外戦に比べ難度が増す。敵はどこに潜んでいるか分か
らないし、狭い室内や通路では包囲する事もままならない。
それに魔法系の大火力は制限される。俺や美咲さんの刀でさえ、
壁や低い天井に阻まれて思うように戦えない。
﹁美咲さん。これを﹂
俺はポケットに入れていた紙切れを数枚手渡した。桃源境への紋
様が写されたチラシ片である。
有事の際には桃源境へ逃げ込めという⋮⋮、まあ保険のようなも
のだが。
﹁皆も。霊気を籠めるだけで発動する。身の危険を感じたら逃げて
欲しい﹂
皆の表情は複雑だ。
敵に背中を見せるのも、仲間を捨てて逃るのも、出来れば選びた
くない行動だから。
2054
けれど皆は理解している。何より恐れるのは、このうちの誰かが
殺されるという事態だという事を。
消耗戦を仕掛けているのに、逆に塩を送る行為に等しいと⋮⋮。
皆の霊気は消耗が激しいとはいえ、霊気切れで意識を失うほどで
はない。まだ半分以上は体に残っているという証。
術者が死んでも構わないなら、残り半分の霊気は補給出来る。魂
喰いはそういう能力を持っている。
それにこのメンバーは﹃粒揃い﹄の退魔士ばかり。
一人喰われるだけで、戦況をひっくり返される可能性は十分にあ
る。
﹁桃源境だって、安全とは言えないけど﹂
俺は皆に紙を配り終え、顔を引き締めた。
そして誰に合図される事無く、俺達は病院へと歩き出した。
正面入り口から俺、美咲さんのペア。大学に続く通路からはチェ
ンジリング、宮之阪さん、真琴。
最後に救急救命口からは、乃江さん、牧野、山科さん。この三方
向から突入を敢行する。
それぞれの突入場所には階段があり、包囲しつつ階上を目指す。
屋内戦ともなれば、一点集中の戦力では他の戦力が心許ない。俺
と美咲さんの以外も出会う可能性は十分にあるのだから。
ちなみに茜ちゃんには少し荷が重過ぎる為、中之島刑事に預けて
おいた。
魂喰いの本体と戦う事になれば、そこには命のやり取りが発生す
る。そんな修羅場をまだ幼い茜ちゃんに見せる訳にはいかない。
﹁行きましょうか﹂
俺と美咲さんは正面玄関を通り、外来受付へとやって来た。
2055
既に通常照明が落とされていたが、有事の際の非常灯が煌々と辺
りを照らしていた。
俺は美咲さんと目を合わし、壁の側にあるアクリルパネルを見る
ように合図した。
病院の見取り図。
一階は外来受付、救急センター、外科系の診察室、二階は内科系
の診察室。三階から病棟になっている。
流石に医大病院だけあって、床面積が広い。三つに分かれて正解
だったかもしれない。
﹁魂喰いは最上階、五階の奥﹂
中之島刑事に聞いた情報では、三階から四階は通常の入院患者。
五階はそれ以上の重篤患者となっている。
転院の経験を持ち、一人では動けぬ患者で、虐待の過去を持つ。
この条件でふるいを掛け患者を絞った。
この病院には魂喰いと俺達しかいない。他に累が及ぶ危険性が無
いのは、こちらとしても大助かりだ。
﹁カオルさん⋮⋮﹂
﹁どうかしましたか? 美咲さん﹂
美咲さんは俺の頬をジッと見つめ、にこやかな表情で口を開いた。
﹁ほっぺのチューですが⋮⋮﹂
﹁ゴフッ!﹂
触れて欲しくない過去に、美咲さんは塩と練辛子をすり込んだ。
2056
頭の上にいるトウカとカナタを見つめ、美咲さんはわき腹を肘で
突付き、赤面する俺をからかった。
﹁この二人に護られてますね。キスの痕に桃と刀の霊気が宿ってま
す﹂
俺は頬に手を当てながら、頭の上のトウカとカナタへと問いただ
した。
トウカは呆れたように溜息を付き、カナタは何も言わずソッポを
向いた。
﹁次はないと虫が知らせた⋮⋮。そういったであろうが?﹂
﹁カオルは朴念仁じゃからのう﹂
二人とも俺の事を心配してくれていたんだ。そう思うと胸が熱く
なってしまう。
ふと気が付くと息が掛かるほどの距離に、美咲さんの顔があった。
俺はギョッとして身を引き、美咲さんとの距離を取ろうとした。
﹁ぐぅ﹂
美咲さんは乱暴に手を伸ばし、俺の胸倉を掴み力任せに引っ張っ
た。
目の前には目を閉じた美咲さんの顔。艶かしい舌がおれの口をこ
じ開け、俺はそのまま壁に押し付けられた。
繋がった口から美咲さんの霊気がどっと押し寄せ、代わりに俺の
霊気をごっそりと吸い込んでいく。
抗う事が出来ない心地良さに、俺は目を閉じてそれを受け入れて
いた。
2057
﹁ぷはぁ!﹂
息をするのも忘れていたか、美咲さんはバッと顔を上げ、飲み屋
のおっさんのような声を上げた。
今俺はどんな顔で美咲さんを見つめているのか⋮⋮、そう考えた
だけで顔が紅潮していくのが分かる。
﹁光の霊気はとても珍しいのです。私は五行では水と木の属性、生
まれ持った光と合わせて三つの属性が備わっています﹂
﹁は、はあ⋮⋮﹂
俺は間の抜けた返事をする事しか出来なかった。
そんな俺に対し、美咲さんは悪戯っ子のように手をワキワキして、
俺の胃をコツンを叩いた。
﹁ぐっ!﹂
反射的に腹筋に力を入れ防御してしまった。
先程の魂喰い戦の時、強かに打ちつけて痛めた箇所だからだ。
けれど美咲さんが手加減したとはいえ、内臓にくる独特の痛みは
感じなかった。
俺は手を当てて胃を擦り、体に起こった異変を感じ取ろうとした。
﹁光は穢れを祓う力、治癒の力両方に優れています。今のカオルさ
んなら軽い傷くらい、すぐに治っちゃいますよ﹂
﹁む、無敵状態?﹂
2058
イタリアの髭の配管工がピカピカ光ってる状態だ。とげとげを踏
んでも大丈夫。
美咲さんは俺から離れ、指先で唇を撫でている。
﹁これが火の霊気なんですね。ふわっと良い気分で、空に飛んでい
ってしまいそう⋮⋮﹂
確かに火は昇華だけど、アップ系のお薬をキメた人みたいに聞こ
えるぞ⋮⋮そのセリフ。
俺はズボンの中で痛いぐらいに屹立する﹃モノ﹄に気が付き、慌
てて身を翻して背を向けた。
そして邪念を捨て去るべく、深呼吸をして心を落ち着けた。
﹁治癒の為⋮⋮ですよね﹂
﹁いえ、ちょっとヤキモチを焼いていまして、理由をつけてキスし
ただけです﹂
美咲さんはしれっと言い切った。
頭の上で爆発寸前だった二人の神は、美咲さんに向かいブーイン
グの嵐を巻き起こした。
﹁この痴れ者が!﹂
﹁恥を知れ!﹂
二人は声を荒げて美咲さんを罵倒したが、当の本人はどこ吹く風、
全く気にしない様子だった。
そして当り前の様に俺の手を握りしめ、階上を見上げた。
2059
﹁さて、行きましょうか﹂
握る手に力を込め、美咲さんは周囲に気を配り階段を上った。
二階は内科系の診察室が整然と並び、その前に待合場所らしき長
椅子が置かれていた。
非常灯の灯りを頼りに見回り、物音一つしない診察室を覗き込み、
不気味な雰囲気に身震いがした。
そういえば牧野はお祓いに来たと言っていたが、なるほどそんな
雰囲気はある。
瘴気がほんのりと漂い、魂喰いの存在を見つけにくくしていた。
﹁病院って溜まりやすいんですね﹂
﹁溜まるというより、集まってくるんですよ。死と生を扱う場所だ
から﹂
そうか⋮⋮。死んでここに留まるというイメージで見ていたが、
仲間を求めて集まるのもいるのか。
死んだ者が全てここに留まったら、この通路は人影で溢れかえっ
ている筈だろう。
﹁上に向かいましょうか﹂
俺達は更に階上を目指し、二階を後にした。
上り終えてみると開け放たれた病室の扉が目に移り、暗い病室か
らはブラウン管の灯りが漏れていた。
無声映画の如く切り替わる光。その光は無人の病室を異様な空間
に変えていた。
目を凝らしても廊下の先が見えない。このフロアがいかに大きい
かを物語っている。
2060
﹁人の温もりがまだ残ってる﹂
﹁焦りや戸惑いの感情が残留していて、勘が働きにくいですね﹂
俺と違う感性で美咲さんがフロアを見つめていた。
人の繋がりが見えてしまう美咲さんの目には、この光景はどう映
っているのだろうか。
靴が擦れる度に甲高い音を鳴らすリノリュームの床。
俺は慎重に足を運び、周囲に目を光らせた。しかし一、二階と同
様に気配は全く感じなかった。
﹁カオルさん、上に向かいましょうか﹂
美咲さんは階段を一歩上った所で、振り返り俺に合図を送ってき
た。
しかし俺の耳に微かな異音が届き、音のする方向に目を凝らして
立ち止まった。
何かを引き摺るような音が廊下の先から聞こえ、徐々に明瞭な音
へと変化していった。
遠くに見える黒の人影。手に持った何かを引き摺りながら、足音
を立ててこちらへと歩いてくる。
美咲さんと俺は刀の鯉口を切り、柄に手を掛けてその方向を凝視
した。
﹁っ!﹂
非常灯に照らされた人影は、黒の瘴気で構成された魂喰いだった。
指に長い栗色の髪を巻き付け、青ざめた表情の宮之阪さんを引き
摺っていた。
2061
肌は血の気を失い青ざめた白。手や足に擦り傷を作りながら、全
くの無反応だった。
﹁武器を捨てろ﹂
そう魂喰いから言葉を聞かされるまで、俺は怒りで思考がパンク
しそうになっていた。
武器を捨てろ⋮⋮か。そう言う以上、まだ宮之阪さんには価値が
あるということ。生きていると考えていい。
しかし戦闘らしき音が全く聞こえなかった。チェンジリングや真
琴はどうした?
俺は心を落ち着け、柄から手を離した。そして探りを入れるべく、
さりげない言葉を口にした。
﹁その人から手を離した方がいいぜ。俺の何倍もおっかない人だか
らな﹂
﹁それは先程の戦いで嫌というほど味わった。だからこの女に目を
付け、力の足しにしてやろうと思ったのだ﹂
﹁他の二人はどうした? 喰わずに殺したのか?﹂
﹁い∼や。ほんのちょっと頚動脈を締め付けてやったら、俺に気が
付く前に昏倒したよ。死んでるかもしれないが、知った事ではない﹂
サイコキネシス⋮⋮、不可視の念動力か。
人の急所を良く知っていやがる。あそこを数秒押さえるだけで、
脳に血が通わず失神してしまう。
無音のハンティング⋮⋮、全く持って厄介な能力だ。
2062
﹁姑息なマネ︱︱﹂
﹁聞こえなかったか? 刀を捨ててこちらへよこせ﹂
有無を言わさぬ恫喝だった。
俺は刀をしっかと納刀し、目の前に投げて手元から離した。
美咲さんも膝を曲げて刀を床に置き、滑らせるように刀を放った。
魂喰いはその刀に目を向けた。コトコトと二度三度刀が揺れ、意
思を持った様に舞い上がった。
そして鞘からスラリと引き抜かれ、二本の刀は切っ先を俺達に向
けた。
﹁動けば即座にこの女の首をへし折る﹂
美咲さんは覚られぬよう俺の目を見て、自分の腰の位置に目を落
とした。
俺は腰にぶら下がるアクセサリーをチラリと見て、美咲さんが何
を言わんとするのか理解した。
﹃私にはラビットフットがある。気遣いは不要﹄
俺には腰に差した二本の短刀がある。刀を投擲されても、急所を
外せば﹃問題ない﹄
俺は体内に息づく光の霊気を感じ、手を胸に当て心を落ち着けた。
だが魂喰いは目の前に神斬りを残し、鎮魂の刀を動かし手元に運
んだ。
奴は恐る恐る指を柄に伸ばし、柄に触れた瞬間、弾ける音と共に
魂喰いの指先が消失した。
魂喰いは露骨に舌打ちをして、刀から手を離して操作した。
もう一度俺達に切っ先を向けるのかと思えば、奴は何を思ったか
2063
宮之阪さんの首に刀を当て、ニヤリと笑ってこう言った。
﹁おい! そこの女⋮⋮、男を斬れ!﹄
空に固定されていた神斬りが、美咲さんの手元に運ばれて来た。
逆らえばどうなるか。奴はさらに宮之阪の首へと刀をめり込ませ、
流れる血が刀身を伝い床に零れ落ちた。
﹁美咲さん⋮⋮﹂
﹁分かっています﹂
俺は目を細めて美咲さんに意思を伝えた。
このままでは鎮魂は宮之阪さんの霊気を吸い尽す。あと数十秒で
霊気切れを起こし、そしてすぐに死ぬ。
俺達に残された時間は、あと僅かしかない。
美咲さんが刀を握り締めたのを見計らい、俺は魂喰いに一歩近づ
いた。
﹁お前⋮⋮、交渉下手だなぁ。譲歩のない取引は成り立たないんだ
ぜ?﹂
奴はミスを犯した。一度手放した刀を美咲さんに戻した事。
空間に固定していれば、それなりに牽制できていたものを⋮⋮。
﹁どうせその人はあと十秒そこらで、霊気を吸われて死んでしまう。
お前は大事な餌を台無しにして、それに気が付かない馬鹿だという
ことだ﹂
腰の守り刀に手を伸ばしたいが、そこまでの隙は見当たらない。
2064
魂食いはギリリと歯噛みをして、宮之阪さんの首から刀を外した。
すばやく空で反転する刀。今度は俺に切っ先を向けてきた。
﹁そう脅えるな。俺が代わりに喰われてやるから、その人を放せ﹂
俺は手を上げて武装解除してみせた。
そして向けられた刀を手で避けて、魂喰いの前で立ち止まった。
魂喰いはニヤリと顔を綻ばせ、宮之阪さんの髪から手を離した。
勝利を確信し俺に手を伸ばした時、俺は身構え攻撃に転じた。
高速視認の世界の中、手がゆっくりとナイフを掴もうとしている。
しかし魂食いは事も無げに俺の手首を掴み、万力のような力を込
めた。
﹁残念だったな。お前には精一杯の速さかもしれないが、俺にはハ
エが止まって見える﹂
魂食いは俺の手首に深く爪を食い込ませた。
手の先から順に力が抜けていく。徐々に霊気が失われて、肩に力
を入れるのも億劫になった。
未知の感覚に怖気がした。霊気を喰われている?
﹁カナタ!﹂
﹁あいよう﹂
カナタは俺の胸ポケットから飛び出し、チラシ片を抱えて俺の手
に飛び乗った。
俺は渾身の力を振り絞り、チラシ片に霊気を送り込んだ。
目の前が明るく光り輝き、俺と魂喰いを飲み込んでいく。
俺は奴を掴まえられると思っていなかった。
2065
仮にナイフを握ったところで、その刃が奴に届くとも思っていな
かった。
︱︱ならば、魂食いから掴ませればいい。
手を離し逃げようとする魂食いを捕まえ、桃源境への道連れにし
た。
目の前で形を成していく東屋。俺は閉じていく光の門を確認し、
腰の守り刀に手を伸ばした。
﹁トウカ⋮⋮、すまん﹂
﹁⋮⋮やると思っておった。この程度穢れなら問題ない。じきに浄
化されるじゃろ﹂
清浄な神気に満ち溢れる桃源境に、悪しき瘴気を持ち込むのはご
法度だった。
しかしあの状況において、これ以外に勝つ方法は思い浮かばなか
った。
﹁なっ、なんだぁ、ここは!!﹂
苦しみ悶える喉を掻き毟る魂喰い。
瘴気で構成されている体は、神々しい神気と交じり合い、中和さ
れて分解していく。
俺はその光景を見つめ、守り刀を魂食いの体に食い込ませた。
﹁劇薬でも浴びせられた気分だろ? ここは仙人の住む場所。神気
に満ち溢れた桃源境だ﹂
2066
突き立てられた守り刀は瘴気を吸収し、カナタは俺の手の上で千
切っては食い、大口を開けてご満悦の様子だった。
俺は消えていく魂食いを見つめ、戦いの終わりを感じ取っていた。
2067
﹃もう一人の︱︱﹄
﹁とりあえず、一段落ついたか﹂
俺は薄れていく瘴気を横目に、穢れを拭い守り刀を腰に差した。
満足そうに食い倒れるカナタを頭の上に置き、トウカのナイフを
握り霊気を籠めた。
色を失っていく東屋の風景。同時に明確になっていく病院の廊下。
俺は足元に転がっていた鎮魂の刀を鞘に収め、振り返り美咲さん
の方を窺った。
﹁いっ!﹂
床に仰向けに眠る宮之阪さんに、美咲さんが折り重なるように身
を預けていた。
そして長い髪同士が絡み合うように床に広がり、美咲さんは宮之
阪さんに口付けていた。
普段お目に掛かる事は出来ない、耽美な光景だった。まるでタカ
ラヅカ。
﹁百合っすか?﹂
﹁じっ、人工呼吸ですっ!﹂
美咲さんはキッと俺を睨みつけ、タイミングを計るようにもう一
度口付けた。
人工呼吸を続けること数回。宮之阪さんの様子に変化が現れた。
ゆっくりと胸が上下し、頬に赤みが差してきた。自発呼吸を始め
たのだ。
2068
揺れる宮之阪さんの睫毛。ゆっくりと見開かれる鳶色の目。そし
てに目を見開いた。
﹁んっ! むぐっ!﹂
目の前に美咲さんの顔があり、驚いたのであろう。両手両足をジ
タバタと動かし、美咲さんを押し退けようと抵抗している。
しかし美咲さんは人工呼吸を止めようとしない。暴れる手を押さ
えつけ、宮之阪さんをねじ伏せた。
いや、もう、息を吹き込む動作は止めている。けれど口を強引に
押し付け、もしかすると接触面は大変な事になっているかも知れな
い。
﹁ん⋮⋮っ、ふ⋮⋮っ﹂
宮之阪さんの声色が変化した。
押し退けていた手が力を失っていき、すがりつくように美咲さん
の腕に指を絡めていた。
目を閉じて美咲さんを積極的に受け入れてしまった。
完全に落とされたような⋮⋮、そんな風に見えた。
﹁ふはぁ!﹂
美咲さんは口元を腕で拭い、豪快に息を吸い込んだ。
力なく崩れていく宮之阪さん。霊気を補充されたのか顔色は良い
が、精神的なショックでぐったりしている。
俺はその様子を見てホッとしたのもつかの間、真琴とチェンジリ
ングの事を思い出し、心臓の鼓動が跳ね上がった。
﹁美咲さん! 俺、真琴達を探してきます!﹂
2069
俺は慌てて廊下を駆け、真琴達の進入路へと向かった。
右手に病室が続き、目の前には階段がある。薄暗がりの階下を見
下ろしたが、真琴達の姿は見当たらない。
﹁あの二人に限って、宮之阪さんを捨てて逃げるなんてしない⋮⋮、
となると﹂
病室に向かう廊下へ足を向け、耳を澄まして辺りを窺った。
機械音や空調の音に紛れ、かすかに聞こえる人の声。声と言うよ
り唸り声に近い。
俺は声のする病室の前に立ち、扉を引きあけ部屋の中へと飛び込
んだ。
守り刀を掴み鯉口を切り、真っ暗な病室に。
﹁むっ∼、むぐっ!﹂
さる
床に転がった真琴とチェンジリング。海老の様に床を跳ね、体の
向きを変えて俺を見た。
ぐつわ
ベッドのシーツをロープ代わりに手足をきつく縛られ、口には猿
轡が噛まされていた。
﹁二人とも無事か?﹂
俺はトウカのナイフを引き抜き、後ろ手で縛られたチェンリング
を解放した。
真琴も必死で何かを訴えようとしているが、暴れてナイフが扱え
ない。
俺は真琴の心配の元、宮之阪さんの無事を知らせ安心させた。
2070
﹁宮之阪さんなら大丈夫。向こうで美咲さんが介抱している﹂
真琴の目にジワリと涙が溜まった。
ほっとしたのだろうか、ぐったりと力を抜いて俺に身を任せた。
俺は真琴の拘束を解き、口に噛まされた猿轡を解いてやった。
﹁うぇ∼ん、なんだか分かんないけど、いきなり気を失ってしまっ
て。気が付くとエビフライみたいにぐるぐる巻きに﹂
縛られて身動きが取れない上に、宮之阪さんの姿が見えない。そ
う口にしたいようだが、上手く言葉が見つからないようだった。
俺は真琴の頭をポンポンと叩き、理解したと伝えてやると、コク
リと頷き落ち着きを取り戻した。
﹁頭に向かう血を止められて失神したんだ。サイコキネシスで頚動
脈を締め付けたらしい﹂
俺はトウカのナイフを腰に差し、スッと立ち上がった。
さっきの奴を倒したとはいえ、まだ終わりと決まった訳じゃない。
俺たちがこの階で時間を食った分、乃江さん達が先行して孤立す
る事になる。
上に行けば行くほど、魂喰いも必死になろう。あの三人だから安
心、とはいかないだろう。間違いなく苦戦するはずだ。
﹁俺は先に行く。準備が整い次第後を追ってくれ﹂
﹁すまない⋮⋮﹂
﹁マリリンさんと合流したら、すぐに行く!﹂
2071
チェンジリング痛む手をほぐし、真琴は首を左右に振って調子を
整えている。
手玉に取られた精神的なダメージは当然あるだろう。
けれど表面上それを見せないなら、まだ負けていない、戦えると
いう意思の表れ。
俺は二人を病室に残し、廊下を駆けて美咲さんのもとへと戻った。
目の前には刀を腰の位置に携えた美咲さん、唇に指を触れ呆けた
表情の宮之阪さんがいた。
﹁宮之阪さん、大丈夫っすか?﹂
﹁精神的ダメージ無限大です﹂
上気した様に頬を赤く染め、眉を潜めた宮之阪さん。
とぼとぼと肩を落とし、力なく歩き出した。
﹁真琴達と合流して⋮⋮、それから⋮⋮えと⋮⋮﹂
どんよりとした雲を引き連れ、宮之阪さんが闇の中に消えた。
足音すら聞こえてこないのがちょっと怖い。
﹁美咲さん、やりすぎでは?﹂
﹁マリリンのファーストキスだったらしいです﹂
ニコニコと笑みを浮かべているが、表情に反して汗が額に一筋伝
う。
ちょっと罪悪感あるんだ⋮⋮。
﹁心停止していたので心臓マッサージをしたら、強く押しすぎて肋
2072
骨がポキリ。まあ動いたから結果オーライと人工呼吸に移り、事が
発覚する前に霊気治癒を﹂
美咲さんの長台詞による言い訳だった。
割と必死だったんだ。美咲さんの事だから遊んでるのかと思って
た。
﹁時間を食いすぎました。乃江さん達が孤立しているかも知れませ
ん。急ぎましょう!﹂
﹁はい!﹂
俺と美咲さんは階段を一足飛びで駆け上がった。
予想通り四階は不穏な空気に包まれていた。刺々しい空気が渦を
巻き、戦闘があったと俺達に知らせた。
俺は美咲さんに目配せて、乃江さんが進入した階段方向へ走った。
霊気と霊気のぶつかり合う感覚。今まさに戦闘真っ最中と、ビン
ビンに伝わってきた。
﹁!﹂
激しい炸裂音が響き、押し出されるように空気が流れた。
徐々に薄れていく戦いの気配。
俺と美咲さんは廊下を突き当たり、壁に手をついて右に折れた。
﹁︱︱﹂
目の前には拳を突き出した乃江さん。
その横で足をゆっくりと地に付ける牧野、そして風弾を手に背後
に立つ山科さんがいた。
2073
目の前には形の崩れた瘴気の塊があり、今まさに消え去ろうとし
ていた。
﹁カオル達も無事だったか﹂
助けに来たつもりでいたが、逆に牧野は俺達を気遣う余裕を見せ
た。
俺と美咲さんは苦笑して見つめ合い、ホッと胸を撫で下ろした。
しかし、よく見れば三人とも、体に纏う霊気が心許ない。それに
肩で息をし疲弊している。
﹁ここで少し休んでいてくれ。先に俺と美咲さん、二人で五階へ向
かう﹂
俺の采配に対し、美咲さんは頷くだけ。
それもそのはず、この三人はしばらく戦えないのは一目瞭然だか
ら。
﹁そりゃないぜ、カオル﹂
牧野が白い歯を見せて笑う。だが体は嘘をつけない。
膝が笑ってガクガクと揺れ、立っているのがやっとの状態だ。
戦闘中はそういったものひっくるめて、アドレナリンや脳内麻薬
でごまかす事が出来る。けれど戦闘が終わってしまっては、もう⋮
⋮。
﹁回復したら追っかけてくれ、頼りにしてるんだからさ﹂
﹁あいよ、すぐ追っかけるわ﹂
2074
牧野はそう言って壁に凭れ、床に腰を落とした。
俺は美咲さんに目配せして、三人をその場に残し、上へと向かっ
た。
美咲さんは廊下を駆けながら、俺の袖を掴んだ。
心配そうに俺を見つめる目。何を語る事なく気持ちが伝わってく
る。
﹁分っちゃいますか?﹂
﹁皆が一緒にいたら駄目だと言ってるみたい。なんだかカオルさん
らしくない﹂
らしくない。
それがどういう意味か重々理解している。一人考えても事態は変
化しない事は理解している。
美咲さんに話せば、また未来が変わってしまうかも知れない。
そうする事により好転するのか、そうでないのか、俺には確かめ
る術がない。
しかし、袖を引く美咲さんの表情を見たら、隠し通せる物でもな
いと気付かされた。
﹁仲間が全滅する未来を見ました﹂
﹁全滅?﹂
﹁未来を見る能力を持っている退魔士が、魂喰いの脅威で発現した
しばたた
一時的な未来視だと言ってました﹂
美咲さんは目を瞬かせ、足を止めて俺の言葉を断続的に反芻した。
そして俺の目をジッと見つめ、戸惑いの表情を見せた。
2075
﹁その未来は必ず起こるものなのでしょうか﹂
﹁いや、未来を知れば自然と回避しようとする。そしてまた違う未
来が待ち受けているらしい。俺が見た未来はもう訪れないと分って
いても、もしかしたらと思うと怖いんだ﹂
美咲さんは神妙な面持ちで俺を横目に見て、納得したように頷い
て見せた。
そしていつもの笑みを見せ、俺のわき腹に肘を入れた。
﹁カオルさんがどう考えていようと、私はカオルさんから離れませ
ん﹂
﹁うん⋮⋮﹂
﹁そんな歯切れの悪い返事しないでください﹂
﹁正直なところ、一人ではどうにもならないと思ってる。美咲さん
がいてくれて心強い﹂
俺の現実操作は可能性があって、初めて﹃使える﹄能力になる。
可能性が減れば減るほど、選択肢も狭まってしまう。
発動するだけで良い現実を掴めず無駄弾を撃つ、なんて事だって
あり得るのだ。
﹁行きましょう。乃江の勘が正しければ後一体ですから﹂
七人⋮⋮、そうか。
真琴が倒した奴、ビル内、屋上、病院の駐車場、桃源境、乃江さ
2076
ん達に倒された奴⋮⋮、合計六体。
七人の小人論理ならば、後一匹。けれど霊気が切れ、出現しない
事を願いたい。
﹁上にいますかね﹂
﹁いるでしょうね。病室を塞ぐ形で待ち構えていると思います﹂
そういい終わると、俺と美咲さんは申し合わせたように、階段を
駆け上がった。
案の定、上の階は瘴気の濃度が半端じゃなかった。
浄化能力に優れた退魔士であっても、むせてしまいそうな濃い瘴
気。
俺達は誘うような瘴気を頼りに、より濃い場所へと歩き出した。
﹁あそこが病室のようですね﹂
﹁はい。やはり⋮⋮﹂
病室への通路に立ち塞がる黒い影。
完全な人型を作り出すことが出来ないのか、酷く曖昧な形で立っ
ている。
﹁相手も最後の力を振り絞って出てきましたね﹂
﹁油断させる罠かもしれません。気を付けて﹂
美咲さんはそういい、神斬りの刀を抜いて正眼に構えた。
俺は刀を抜かず腰に携え、相手の出方を待った。
定石ならサイコキネシス、発火能力が有効な手だろう。俺と美咲
2077
さんには人形繰りは効かない。
後は現実操作と幻獣召喚か。これはカウンター的な使い方が出来
そうだ。
﹁これ以上こっちに来るな⋮⋮﹂
おのの
魂喰いは、何時もの恫喝するような口調ではなかった。
恐れ戦いてるような⋮⋮、酷く不安定な精神状態のように伺える。
しかし来るなと言われても、このまま立ち往生するわけにはいか
ない。
俺は一歩踏み込み、鎮魂の柄に手を掛けた。
ボキッ、ゴキ、ゴキッ、メキッ。
体内から聞こえる破砕音。一瞬何が起こったのか分からなかった。
鎮魂の刀が俺の手から離れ、床に落ちたと分かった瞬間、俺の左
手から激痛が走った。
﹁︱︱︱︱!﹂
あまりの痛みに声が出ない。
風が吹いても痛みが増す、それほどの激痛。
俺は左手首を持ち、目の前に持ち上げて愕然とした。
指が全部バラバラの方向へ向いている。
奴のサイコキネシスで指をへし折られたのだ。
﹁ふぅっ⋮⋮ぐぅっ﹂
﹁カオルさん!﹂
美咲さんが一歩前へ動こうとした。俺は手を差し出してそれを制
止し、痛みを堪えて蹲った。
2078
体内を巡る美咲さんの気がなければ、絶叫して転げまわっていた
だろう。
光の気は曲がった指を治す事は出来ないが、発狂しそうな痛みを
和らげてくれている。
﹁カオルさん、危ない!﹂
絹を切り裂くような声に、頭を起し目を見開いた。
目の前で魂喰いが俺に手を翳している。
ふうひょうか
眼前には火が走り、今まさに俺を包み込もうとしてる。
﹁風飄花!﹂
左手を砕かれ、トウカのナイフを握り込む事が出来ない。
だが火の手を一瞬遮る事が出来た。
瞬時に床を転がり、身を躍らせる。後ろに逃げることは出来ない、
斜め前に身を丸めるように転がった。
何かが焦げる匂い。
熱源を肌で感じ、チラリと目をやる。左手。服に火が点いて燃え
上がっている。
﹁なろっ!﹂
今の俺ならまだ誤魔化せる。
俺は回避した勢いそのままに前へ。力を溜めた脚に蹴る力を与え
た。
背後に風が疾走した。このあたたかい気配は美咲さんの物だ。
俺は美咲さんから注意を逸らす為に、あからさまに大きく動き、
腰に差した守り刀を抜いて見せた。
2079
﹁カナタ!﹂
﹁はいよ!﹂
カナタが光の粒になり、守り刀を二尺三寸の姿へと変えた。
俺は目の前に迫り立つ魂喰いに向かい、思い切って突き込んだ。
ガキンッ! 堅い石英に突き当たったような手応え。
だが俺は柄をグッと握りこみ、ありったけの霊気を放出した。
力と力が空間でぶつかり合った。しなるガラスの手応えを感じ、
空間が木っ端微塵に砕けた。
俺は力尽きる一歩手前で、俺を越えていく美咲さんを見送った。
目で追いきれないスピードで疾る神斬りの刀は、病院の壁ごと魂
喰いを一閃した。
﹁やったか!﹂
転がり顔を上げた俺は、目を見開いて前を見た。
魂喰いは健在だった。いや元々不安定な存在でいた為に、神斬り
の刀を掻い潜ったのだ。
そして弾かれる様に飛ぶ美咲さんに手を伸ばし、抱きかかえるよ
うに包み込んだ。
俺と美咲さんは床を転がり、突き当たった壁に強かに打ちつけた。
﹁つぅ⋮⋮﹂
目の前にチカチカと星が飛び、頭から流れ落ちる血で目が塞がっ
た。
俺は袖で顔を拭い、左手で燻っていた火を揉んで消した。
目の前には手を当てて頭を揺らす美咲さん。
2080
﹁大丈夫か、美咲さん?﹂
﹁ええ、因幡さんが攻撃をガードしてくれたようで、体はなんとも﹂
そう声を上げつつ、舌打ちをする美咲さん。
空っぽになった手を見つめ、遥か先の壁面に目を細めた。
とど
見つめる先には神斬りの刀。壁材を深く切り裂き、食い込んだ状
態で止まっていた。
﹁鎮魂の裏、神斬りの刀。両方が手から離れたか﹂
俺は曲がった左手の指を右手で掴み、形だけでも元へ戻した。
泣き叫びたくなる痛み。奥歯を磨り減らしてそれに耐えた。
﹁美咲さん、トウカのナイフ取ってもらえませんか?﹂
俺は美咲さんの前に這い、背を向けて声を掛けた。
スラリと抜かれるトウカのナイフ。
俺は美咲さんを横目で見て、コクリと頷いて左手を差し出した。
﹁っ!﹂
悲鳴に似た声は俺のものではない。美咲さんが俺の手にナイフを
突き立てて発したものだ。
熱い霊気が流れ込み、激痛と引き換えに傷が治癒していく。
グッと捻られるナイフが更に痛みをくれる。
そして俺の手を貫いていたナイフが引き抜かれ、同時に傷がゆっ
くりと塞がっていく。
俺は右手で床を掻き毟りながらそれに耐え、何度も深く息を吸い
2081
込んだ。
﹁ほぼ完治⋮⋮か﹂
まだ鈍痛は残っているが、拳を握れない程ではない。
俺は頭を振りトウカを振り落とし、右手で掬い美咲さんの頭へと
乗せた。
﹁トウカ、美咲さんを守ってくれ﹂
美咲さんはトウカのナイフ、俺は守り刀のみ。
戦力的には心許ないが、まだチャンスが無いわけじゃない。
﹃ハルナ、すまん﹄
︱︱気にするなと言ったろう? 元の鞘に戻るだけ。また会える
さ。
俺は心の中でハルナに詫びた。
そして遥か先に立つ魂喰いをジッと見つめ、独り言の様に声を発
した。
﹁ラスト一回分の現実操作をやってみます。その為にそのナイフは
握って置いてください﹂
可能性は少しでも広げておきたい。トウカを美咲さんに乗せたの
はそういう事。
ふうひょうか
俺はゆっくりと立ち上がり、美咲さんもそれに倣った。
﹁ナイフに霊気を流し風飄花と唱えるだけ、舞う桃の花を想像する
2082
ふうひょうか
だけでも発動出来ますが、強度は詠唱するより落ちます﹂
﹁風飄花ですね?﹂
﹁トウカの故郷をイメージすれば、桃源境へのゲートが開きます。
同時に体は希薄になり、﹃行かない﹄とすぐさま思い込めば、紅霞
という回避技になります﹂
﹁はい⋮⋮﹂
美咲さんは扱ったことのない武器を手に、不安を隠せない様子。
それでも美咲さんは恐れる事無く、ナイフを握り直し右手で構え
た。
それを合図に俺は地を蹴り、魂喰いに向かい走り出した。
アイツが俺の現実を捻じ伏せてきたら⋮⋮。そう思うと無謀な疾
走のように思えてくる。
けれど出来る限りの布陣を敷いた。
駄目なら撤退をするしかない。けれどそれはアイツに回復する時
間を与える事になる。
﹁カナタ!﹂
﹁分かった!﹂
カナタは二尺三寸の姿を崩し飛び退いた。
ふうひょうか
守り刀一本で突っ込み、現実操作で虚をつく作戦。
美咲さんの風飄花、トウカの見せたショットガンの型を出せるか、
ふうひょうか
作戦の成功はそれに掛かっている。
風飄花を自分で食らったからこそ可能性がある。美咲さんはそう
いうの、忘れないからな。
2083
﹁ハルナ!﹂
俺はハルナからリボルバーを受け取った。
微笑みながら姿を消していくハルナ。最後の弾丸となったハルナ
は、雷管を発火させた。
目の前に広がる可能性。その一枚を掴み取り、過去へと手渡した。
ふうひょうか
﹁風飄花!﹂
ショットガンのように突き進む桃の花弁。
ふうひょうか
俺の背中から正面へと撃ち抜き、俺の体を前へと手荒く運んでく
れた。
目の前には風飄花を食らう魂喰い。
俺は何の迷いも無く、守り刀に霊気を籠めて一閃した。
超高速視認の世界で、瘴気に食い込む刃を見た。
しかし空を切る守り刀。その横で勝ち誇った表情をし、口元を吊
り上げる魂喰い。
﹁ちっ!﹂
︱︱現実を塗り替えられた。
サイコキネシスの力で神斬りの刀が踊った。
俺は絶対不可避の刃を見つめ、心の中では諦め始め、折れようと
していた。
﹁カオル!!﹂
凛としたハルナの声が、俺を現実に引き戻した。
いやハルナではない。アイツだ。
2084
聞こえる筈のない弾丸の発射音が耳に届いた。
俺の耳を掠めるように突き込まれた鎮魂の刃が目に映った。
俺があの場所に残していたカナタが間に合ってくれたのだ。
フワリと俺の背に触れた霊体は、俺の体と同化し一つになった。
そして目の前の刀を弾き、魂喰いを両断した。
刀の知る過去が俺に流れ込んでくる。カナタを携えた剣豪、己が
胸を突いた悲劇の花嫁、銃剣を振るい戦地を走る剣士。その全てが
俺に力を貸してくれた。
稲妻より速い剣速で斬り上げ、女のしなやかな手が切り返した。
敵兵が受け止めた銃剣を砕き、頭を叩き割る剛剣が手に宿る。魂
喰いが苦し紛れに構築した障壁を粉砕し、頭を潰し床まで突き進ん
だ。
手応えが終わりを告げている。
木っ端微塵に吹き飛んだ瘴気の塊は、再び形を成す事無く霧散し
て消えた。
2085
﹃Integration﹄
うずくま
足元に転がった守り刀に手を伸ばし、背中に激痛を感じて蹲った。
その直後、スッと体から力が抜けていく。カナタの憑依が解けた
のだ。
人形サイズに戻ったカナタは、目を回してポトリと落ちた。
ふうひょうか
﹁痛ってぇ⋮⋮﹂
背中の痛みは風飄花の散弾を食らった時のもの。
乃江さんの正拳を何発も食らったみたいな衝撃だった。おかげで
息を吸い込むのさえ難渋する。
腰の鞘に守り刀を差し、ゆっくりと息を吸い込んだ。
﹁カオルさん﹂
背中にそっと触れる優しい手の温もり。
ジワリと手の周りが熱くなり、俺の体を癒してくれる。
目の前にはニューバランスのバッシュ、膝をガーターで守った細
い足があった。
﹁ハルナか?﹂
﹁分かるのか? 嬉しいな﹂
手にはスコフィールド。旧式のリボルバーを構え、無防備な俺達
を守ってくれている。
しばらく俺と意識を共有していたんだ。ハルナの事は自分の事の
様に分かるさ。
2086
﹁春菜は霊気が回復したので、居ても立ってもいられなくなったみ
たいだ﹂
﹁そっか。もしかすると未来を見たのかも知れないな﹂
俺が魂喰いにやられ、死んでしまう未来を見たのかも知れない。
春菜がいなければ、俺は今頃背中の痛みなんか感じていない。
﹁キミが最後の一発を使ってくれたから、春菜に戻ることが出来た
みたいだ﹂
﹁やっぱ、残留思念じゃなかったか。そんな気がしてたよ﹂
俺は痛みの治まった背中を確認し、美咲さんの手からナイフを預
かった。
ピョンと頭から飛び降り、カナタを抱き抱えるトウカ。
俺は二人を掌で掬い、頭の上に乗せ立ち上がった。
﹁彼女は八瀬春菜、俺の小学生の時の同級生。今は﹃未来視の春菜﹄
ではなく、﹃現実操作のハルナ﹄だな﹂
﹁彼女が話していた、あの⋮⋮﹂
美咲さんがハルナの前に立ち、手を差し出した。
ハルナは戸惑いながらもその手を握り、軽く握手を交わした。
﹁キミの事も知ってる。私はカオルの精神を支えていたから、カオ
ルがキミの事をどう思っているかも知っている﹂
2087
目を細め眩しい物を見るかのように、美咲さんを見つめていた。
美咲さんは目を丸くして言葉の意味を理解し、顔を赤らめて俯い
た。
﹁執念深くておっかない、天野美咲だね﹂
ニヤリと笑い握手していた手をスッと引いた。
その言葉を聞き、美咲さんはハルナではなく俺を睨み付けた。
そのジト目に気圧される俺。
確かに執念深くて怖い人だと思ったけどさ。それだけじゃないん
だけど⋮⋮。
﹁ハルナ、立つ鳥後を濁さずと言うだろ?﹂
﹁キミと春菜は同じ霊気を分け合った仲だろ? 彼女もキミの事を
好きなようだし、私もそうなれば嬉しい﹂
﹁にゃ、にゃんですって?﹂
美咲さんは半泣きになり、俺の頬を引っ張った。
俺は口を開くことも出来ず、美咲さんのなすがまま、されるがま
ま涙した。
﹁彼女とカオルはそういう仲だ﹂
﹁私達は三百年以上も前からラブラブです!﹂
野良犬同士が喧嘩するように、牙を剥く二人。
俺は美咲さんに抱きしめられながら、下手に動けずなすがまま、
二人の様子を窺っていた。
2088
﹁む? タイムリミットが来たようだな。今日の所はこれくらいで﹂
ハルナが軽く手を上げて意識を切った。
同時に春菜の手からリボルバーが消え、八瀬春菜が意識を繋げ目
をパチクリとした。
﹁ハ∼ル∼ナ⋮⋮、言いたい事言って逃げたな⋮⋮﹂
春菜は顔を真っ赤にして、バッシュで床を踏み荒らした。
冷めた目でそれを見つめる美咲さん。俺はといえば、まだ美咲さ
んにホールドされていた。
床に当たり散らし息を荒げる春菜を見て、美咲さんと俺は固まっ
てしまっていた。
春菜は俺達の冷めた視線に気づいたのか、我に返って苦笑して見
せた。
﹁カオルさん⋮⋮、なんですか、このややこしい多重人格者は﹂
﹁多重人格をあんま否定しないでください。悲しくなりますから﹂
ふと背後が賑やかになった。
階段を駆け上がる足音。後続のみんなが追い付いてきたのだ。
﹁カオル∼、無事やったか!﹂
山科さんが滑り込み、美咲さんに体当たりして俺を解放してくれ
た。
宮之阪さんは冷やかな目をして美咲さんの肩に爪を立て、真琴は
事故を装い美咲さんの靴を踏んだ。
2089
﹁カオル先生! 大丈夫?﹂
﹁ホッとしました﹂
微笑む真琴と宮之阪さん。その横にはチェンジリングも俺を見つ
めていた。
ただ牧野と乃江さんだけはジッと病室の方を向いていた。
﹁ここが⋮⋮﹂
﹁ああ、ラスボスのねぐらだ﹂
二人は完全に臨戦態勢。その様子を見て他のメンバー達も顔を引
き締めた。
春菜は人差し指を伸ばして息を吸い込み、再び手の中にリボルバ
ーを具現化した。
﹁私が使うと現実操作出来ないけど、霊気を弾丸として飛ばすこと
が出来るんだよね﹂
二つ折りにした弾倉に、霊気の弾を作り出す春菜。
さすがにA++の退魔士だけはある。あっという間に六発の弾を
込めてしまった。
俺と美咲さんが扉の前で刀を構え、ドアの右と左に乃江さんと牧
野が立った。
背後でも魔法組が指を鳴らし、おっかない気を発している。
︵行くぞ︶
2090
乃江さんは口パクで全員に周知し、扉を力強く引き開けた。
美咲さんと俺が突っ込み、後を追うように全員が病室に踏み込む。
目の前にはベッドが一つ。俺と美咲さんが刀を振り上げた。
﹁おい⋮⋮﹂
声を上げたのは俺でも美咲さんでもない。
固まったままの俺達を見て、牧野が声を発したのだ。
ベットの上にいたのは、痩せ細った子供が一人。骨と皮に少しの
肉を盛り付けたような子供が、ベッドの上で眠っていた。
俺はその子の喉元で鎮魂を止め、美咲さんも俺と同様に剣先を鈍
ながせあまみ
らせた。
﹁長瀬天美 性別男 年齢十一歳﹂
春菜がボソリと声を上げた。
銃口はそのまま微動だにせず、冷めた表情でベッドの子供を見つ
めている。
﹁父親は幼くして死別、母一人で育てられた。父親の死亡時に入っ
た保険金を食いつぶして。しかしその子が物心付く頃には、ソレも
底をついてしまった﹂
みんなは春菜を見ずに、ベッドの上をジッと見つめている。
肌の露出した部分には無数の傷跡があり、この子がその後どう育
てられたのか、語られずとも分かる気がする。
﹁一度ついた贅沢癖は治らない。母は子を疎むようになり、虐待を
繰り返すようになったのはその頃から﹂
2091
子供とは思えない老人のような肌。
幾層にも積み重ねられた傷が顔や耳に残り、火傷のような傷跡も
多く見受けられる。
﹁母はその子に肉体的な虐待をし、性的快感を感じていたらしい。
幼い子を性的対象にする事もあった﹂
乃江さんの見立て通りの言葉だった。
恐らく肉体的にも精神的にも限界だったのだろうか、それで心が
壊れてしまった。
﹁その子は数年の後、意識不明になり眠ったように動かなくなった。
母親はそれを苦にしたかどうかは不明だけど、自殺してしまった。
身寄りは無し﹂
そういい終わると春菜はベッドに歩み寄り、動かない刀をリボル
バーで押し退けた。
そして顎に銃口を押し付け、頭頂を狙い引き金に指を掛けた。
﹁貴方達が終わらせないなら、私が終わらせるしかない﹂
ゆっくりと引き絞られる指を見て、俺は咄嗟に春菜の手を払い除
けた。
耳をつんざく発射音が病室内に木霊し、綿の焦げた匂いが鼻をつ
いた。
﹁︱︱やめろ﹂
俺は眠ったままの子供を見下ろした。
頭の横で枕が弾けているのに、眉一つ動かなさい子供の寝顔。
2092
魂喰いという精神を内包してるのに、寝顔は天使の様に見えた。
﹁じゃあ、どうするの? カオルちゃん!﹂
春菜は苦渋に満ちた表情を俺に向けた。
春菜もこの子を殺めたい訳ではないだろう。誰かがやらねばと思
い、買って出ただけの事。
俺はゆっくりと真琴とチェンジリングを見つめ、力なく問い掛け
た。
﹁仇を討つ⋮⋮。前時代的で法的には許されない、けれど俺はお前
達にはその権利があると思ってる。やるか?﹂
真琴はゆっくりと首を振り、チェンジリングも目を伏せた。
真琴はやらないと思っていた。それどころか人を傷つける事に対
し、疑問を感じていた事も知っている。
退魔士試験の時、最後に敵を思いやった優しさ。それが真琴の本
質だと思っている。
チェンジリングも同様だ。仲間を失う事に対してピリピリとして
いた。
彼女は俺達が仲間の二の舞を踏まないよう、母国に働きかけて日
本に残ったのだと思ってる。
﹁山科さん。霊気の封印頼めますか?﹂
﹁一時的にやったらすぐに出来るけど、完全に封印してしまうのは、
偉い術士でないと無理やで?﹂
俺はそれでも構わないと思っている。
少しの霊力でも残してしまえば、喰う能力がある限り予断は許せ
2093
ない。ならば霊力を使い切ったであろう今しかない。
﹁乃江さん⋮⋮﹂
﹁カオルならそう考えると思っていた﹂
乃江さんはそう言って、俺を見つめ微笑んだ。
周りのみんなはキョトンとして俺達を見つめている。ただ美咲さ
ん一人だけその意味を理解しているようだった。
﹁人格統合を試みようと思う。アイツの中には山科さん達に警告し
た﹃敵ではない人格﹄がいる。彼と話してくる﹂
﹁眠る本人の意識を目覚めさせないといけないが、やる価値はある﹂
俺と乃江さんはそうみんなに告げて、手を取り合った。
心象世界。乃江さんの能力無しに、この方法は思い浮かばなかっ
ただろう。
成功するかなんて保証は無い。けれど本音で話をしない事には、
俺は決断を下せない。
もし﹃ダメ﹄なら俺が手を下す。そう覚悟した上での事だ。
﹁私も行きます﹂
美咲さんはニコリともせず、乃江さんの手を取った。
真琴と宮之阪さんも乃江さんの手を掴み、何も言わずに頷いた。
﹁ちょ、待ちや! うちも行くて!﹂
山科さんはお札を数枚ベッドに配置して、俺達に批難の目を向け
2094
た。
そして札を細かく折り、中指にくくりつけた。額の汗を拭った。
﹁よっしゃ! 準備完了や﹂
そう言うと乃江さんの背後から抱きつき、ニコリと微笑んだ。
牧野とチェンジリングは目を合わせ、苦笑しながら頭を掻いた。
﹁霊気を封印したのなら、ここに残って待つ必要もない。ここまで
来たんだ、最後を見届けたい﹂
牧野は乃江さんに軽く一礼をして手を掴み、チェンジリングは何
も言わずに手を乗せた。
春菜はクスクスと笑い、腹を手で押さえた。
﹁類友っていうけど、揃いも揃って馬鹿でお人よしばかりね﹂
そう言って憤慨した表情を見せ、乃江さんへ手を伸ばした。
春菜は口を尖らせて皆の顔を睨み、言い訳がましく口を開いた。
﹁私は、アレよ。心配だからついて行くだけ! 馬鹿でもお人よし
でもないんだから﹂
春菜はそう言って頬を赤く染めた。
乃江さんは全員の手の重みを感じて、スッと表情が失せて目を閉
じた。
重ねた手から何かが抜けるような錯覚を感じ、俺の意識は遠のい
ていった。
2095
﹃名付けの儀式﹄
心象世界の外交の窓は、前回来た時と様相が一変していた。
静かな泉には光が差し、草花が青々と茂っていた。
目の前には鬱蒼とした森ではなく、木漏れ日差す明るい森が広が
っている。
俺は眼前に広がる景色を見て、正直どう判断していいか分からな
いでいた。
﹁乃江さん、これって⋮⋮﹂
俺と同じ気持ちでいるであろう乃江さんに、外交の窓が変化した
事の意味を問うた。
乃江さんは目の前の風景を吟味し、俺を横目に呟いた。
﹁私とカオルは二度目だろう? 拒絶する気持ちが薄れているのか
も知れない。それとも⋮⋮﹂
﹁それとも?﹂
﹁病室での経緯⋮⋮、危害を加える心算はなく、話し合いに来た事
を主人格が知った、⋮⋮とか﹂
前回の森は明らかに俺達を拒絶していた。それは素人の俺にさえ
理解できた強い拒絶。
今回の森は逆に気遣っているようにさえ感じる。しかしこうも手
のひらを返されると、警戒してしまうのも無理はない。
俺と乃江さんを取り巻く仲間。ただ一人美咲さんを除き、全員が
落ち着かない様子でいた。
2096
初めて目にした心象世界に戸惑いを感じ、魂喰いとの対面に気が
急いている。
そして右も左も分からない不安定な世界の中、自分自身で判断出
来ないもどかしさを感じている。
牧野は皆の気持ちを察してか、乃江さんとの会話に割って入った。
﹁来てから言うべきセリフじゃねえけど、魂喰いの心象世界って相
当危険な気がするのだが?﹂
﹁なにを今更って感じだが⋮⋮﹂
﹁ヤバイって本能で分かっていても、警戒すべき尺度が皆目分かん
ねぇ。どれ位の危険度か初心者に分かるように言ってくれ﹂
﹁嫌がる乃江さんにお姫様ドレスを着せ、女の子っぽいセリフを喋
らせることが出来る程度の危険性だ﹂
ザワッ⋮⋮。
驚愕し浮き足立つ仲間たち。その時の乃江さんを想像し戦慄した
のであろう。
全員の警戒レベルがマックス値に跳ね上がり、表情はこれまでに
無い程引き締まった。
﹁カオル、牧野、ちょっと⋮⋮﹂
乃江さんは微笑みながら、俺と牧野の頬を抓りあげ、さりげなく
額には青筋が立っていた。
このリアクションは綾乃さんにソックリ。血は争えないというか、
末恐ろしい気がする。
2097
﹁それにしてもや。人格統合って、そない簡単に出来るんかいな﹂
山科さんはメガネを指で整え、もっともな意見を口にした。
皆もその事には疑問を抱いていたようで、俺と乃江さんを見つめ
意見を待っている。
﹁俺は心理学を学んだ訳でもないし、聞きかじりの知識しか持って
いない。けど同じ人格障害を持つ者の意見として聞いて欲しい﹂
俺は付け焼刃である事を前提に、有り合わせの心理学の知識から、
人格統合の可能性を説明した。
前回ここに来た時、人格障害について考える時間が山ほどあった。
俺は乃江さんを探し待つ時間、その事ばかり考えていた。
まず、俺と春菜、魂喰いは似ているようで違う。
魂喰いは虐待など現実から目を背け、﹃今の自分は自分でない﹄
と解離して精神を保護した。
俺や春菜は体に起こる問題を受け止め、問題を回避する為に副人
格が形成された事を理解した。
この手の人格障害は、主人格と副人格で意思疎通が取れない場合
が多い。
主人格が解離して副人格が出現する時、主人格は記憶を失ったよ
うな状態になるからだ。
気が付くと別の場所にいた、財布のお金が増減しているなんて事
が頻繁に起き、自分が記憶を失ったのかと混乱する場合が多い。
俺達と魂喰いの違いはなんだろうかと考えた。
副人格を自分の分身と認めているか、そうでないかの違いではな
いか。
魂喰いは副人格を自分ではないと思っている。俺と春菜はもう一
つの自分だと思っている。それが大きな違いなのじゃないかと。
主人格と副人格が意思疎通出来るのなら、相互の理解を深める事
2098
が出来る。
俺だってハルナの意見を聞き、よりベストな選択を試みたりもし
いま
た。それはお互いが尊重しあえているからだと思う。
魂喰いだってそうなれば、もっと違う状態になっていたと思う。
﹁バラバラの集団、意見を統合してみようと思う﹂
﹁無駄を省くんやな。人員整理みたいなもんかいな﹂
﹁主人格が副人格を受け入れるかどうかが問題な訳だけど⋮⋮﹂
魂喰いの場合、主人格が眠っている事が現状の解決をより困難に
している。
眠っている間、﹃誰かが守らないと﹄と副人格達が個々に動いて
いる。主人格は副人格の行動を知ってか知らずか、安心して眠りに
付いているわけだ。
ならば相互で成り立った絶妙なバランスを崩すだけでいい。
心象世界ならば、全ての人格と同時に話す事が出来るはずだ。
現実世界では不可能な医療行為だが、この心象世界だと可能にな
る。そこに主人格が加われば⋮⋮。
﹁精神科医でも困難を極める作業なのだし、俺なんか素人が出来る
事といえば、全ての人格を話し合いの場に着かせる位だと思う﹂
俺はそう言って森に一歩踏み入った。
前に来た時よりも足元がしっかりしていて、歩きやすく感じる。
これがもし主人格の意思なのだとすれば、相手も俺達の意見を聞
きたがっていると考えていい。
﹁行こう。この先に心の部屋があるはずだから﹂
2099
俺と乃江さんが先に歩き、皆がそれに従い後を追う。
湿気と寒さを感じた前回とは違い、ハイキングに来たような心地
良さを感じる。
獰猛な獣の姿は無く、野鳥が木の上で囀り、小動物が俺達の姿を
見て姿を消す。
最後まで警戒していた春菜も、手に持ったリボルバーを消し、深
呼吸して森の空気を吸った。
皆に気を抜くなと言いたい所だが、警戒心を露わにして拒絶され
るよりは良い。
これは戦闘ではなく交渉なのだから。
﹁む?﹂
先を歩いていた乃江さんの足が止まった。
あしあと
森に入って数時間のこと。周囲の景色が大きく変化した。
前は数日掛かった足跡のポイント。その地点まで半日も掛からず
到着した。
﹁早く着きすぎますね、警戒心が緩まっていると?﹂
﹁いや、私達の距離感が違う。今回私とカオルは望んでここに来て
いる。前回と時間の感覚が違うのだと思う﹂
なるほど。
現実世界でも嫌々過ごすかそうでないか、時間の進み具合が違う
ように感じる。心象世界はそれが如実に反映されると言う事か。
前回は乃江さんを探すために森に踏み込んだが、望んでここへ来
た訳じゃない。
早く追いつきたいと思う気持ちと、先に待つ脅威への警戒心、二
2100
つの気持ちが交差していた。
警戒し拒絶する心が強く、心象風景の森を複雑にしていたのかも
知れない。
﹁ここで乃江さんの足跡を追って、道を外れたんです﹂
俺は地面に残る小人と俺達の足跡を追い、木々の隙間から目指す
先を指差した。
遠くに見える小さな小屋。明るい森は小屋を隠しきれていなかっ
た。
皆が俺の指を見つめ、その先の小屋を注視する。
﹁あからさまに怪しい小屋や﹂
﹁小人の家って、キノコの形をしていると思ってました﹂
ハードカバーの本を広げたような屋根。腰を屈めないと入れない
玄関の扉に小さな窓。
小人の家というより小さなログハウスを想像させる家だった。
さすがに皆の警戒心も強まり、遠巻きに小屋を窺いつつ、なかな
か足が前に進まない。
俺と乃江さんは扉の前に立ち、目配せをして後ろのメンバーを見
やった。
前回を教訓としてフォーメーションを組もう。乃江さんはそう言
っている様だった。
﹁潜入チームと、待機チームに分けましょう﹂
﹁うむ。当然私は潜入の経験者。入るチームに加えてもらうが⋮⋮﹂
2101
七人の魂喰いと戦闘が生じた場合、過分無いメンバーを中に。
扉が開かない事を想定して、待機するメンバーか。
﹁乃江さんはカウンセラー的位置付けで必須。俺と春菜は人格障害
者として、真琴とチェンジリングは被害者視点で意見が欲しい﹂
﹁ちょ、ちょっと待った!﹂
美咲さんが俺と乃江さんの間に割って入った。
指を立てて俺と乃江さんに説教する素振りをする美咲さん。しか
もしかめっ面で睨んでいる。
﹁隊の方針決定は私の仕事です。そういった重要決定を二人が! 独断で! 断りなしに! ⋮⋮しても良いとお思いですか?﹂
そう言われると辛い物がある。
俺だけは無く、乃江さんも渋い顔で弱々しく首を振った。
﹁中に入るメンバー、乃江さん、美咲さん、俺、春菜、真琴、チェ
ンジリング﹂
﹁うちら外で待機かいな⋮⋮﹂
しょぼくれた表情で人差し指同士をつつき合う山科さん。
宮之阪さんも牧野もガックリ来ている。
﹁中からじゃ乃江さんの正拳でも開かないんだ。火力と前衛が残っ
てくれないと踏み込めない﹂
﹁そんな頑丈なんかいな?﹂
2102
﹁前回は拳が砕けるほど殴って、これくらいしか開かなかった﹂
俺は人差し指と親指で丸を描き、びっくり目の山科さんに見せつ
けた。
目を丸くして嘆息する山科さんと宮之阪さん。乃江さんの力量を
知っているからこその驚きだろう。即座に表情を引き締め頷いてく
れた。
﹁牧野、頼むぞ﹂
﹁分かってる。皆まで言うな﹂
中、長距離での二人の戦闘力は桁違いだが、近接戦闘ではその利
点が半減する。
その為に誰かが前衛に立ち、互いに補い合わないといけない。そ
の役割を牧野も重々理解してる様だ。
しんちゅう
俺は真琴とチェンジリングの前に立ち、膝を曲げて目線を合わせ
た。
病室で手を下さなかったとはいえ、二人の心中は穏やかではない
だろう。
俺は二人の気持ちを察して、頭を下げた。
﹁嫌な役目だと思うが、一緒に来てくれないか?﹂
﹁カオル先生⋮⋮っ﹂
真琴はどう気持ちを表現して良いのか分からない様子。
顔を強張らせ、涙を溜めて口元をギュッと食い縛っている。
チェンジリングも同様だった。青い瞳からは怒りと悲しみ、自責
2103
の念が色濃く見える。
﹁俺が魂喰いならばと置き換えて考えるに、二人の気持ちを聞きた
いと思うんだ。気持ちを誤魔化したりしないで、ありのままを話し
てくれたらいい﹂
俺は真琴とチェンジリングの頭を撫で、そっと背を押した。
乃江さんがドアノブをもって扉を開いた。
神妙な面持ちで中を覗き込む春菜に、目配せをして緊張を解きほ
ぐし、乃江さんの後を追い扉を潜り抜けた。 相も変わらずの白い部屋。率直な感想としては俺の持つ心の部屋
に近い。
しかし前回と違うのは、そこには全ての魂喰いがいた事だった。
﹁ひぃぃん⋮⋮、せんせ﹂
最後に真琴が涙目で扉を潜り、入り口の扉が閉じられた。
俺の背後に隠れ様子を窺う真琴。魂喰い達の姿を見て蚊の泣くよ
うな声を上げた。
背中を丸め顔を膝で隠し蹲る者、壁を凝視して微動だにしない者、
手をジッと見続ける者。ゾッとする様な奇異な姿⋮⋮。
まるで彫像のように凝り固まって部屋の中に座している。
﹁通常主人格が活動中の時には、この様に副人格は部屋の中にいる
のだ﹂
春菜は俺をチラリと見つめ、乃江さんの解説に頷いて見せた。
俺とハルナがそうであった様に、春菜とハルナも同じ関係なのだ
ろう。
一人一人を遠巻きに見つめ、様相のちがう一人を発見した。
2104
ながせあまみ
それは病室にいた子供の姿。長瀬天美本人だった。
女性を象った魂喰いに抱かれるように眠っていた。
﹁これが主人格⋮⋮﹂
美咲さんがその子へ手を伸ばそうとした時、ピクリと反応した魂
喰いが顔を上げた。
それ以上手を伸ばせば攻撃される。そう判断した美咲さんは、ゆ
っくりと手を引っ込めて苦笑した。
俺はその距離をパーソナルスペースと定義し、その領域を侵さぬ
ように目と目を合わせた。
﹁話、出来るか?﹂
女性の魂喰いは一度主人格の寝顔を見て、コクリと頷いて見せた。
﹁俺はカオル。君の名は?﹂
女性の魂喰いは首を振り、名は無いと呟いた。
そして全ての魂喰いをゆっくりと見回し、どれもこれも名前は無
いと語った。
俺は乃江さんをチラリと見て、俺を促すように首を振ったのを確
認した。
﹁仮の名でも付けないと呼びにくい。名前を付けて良いだろうか?﹂
女性の魂喰いはしばらくなんの反応も見せなかった。
しかし諦めずに見つめる俺の目に嫌気が差したのか、コクリと頷
いて見せた。
名付けをする意味は大きい。自分の存在を確定させることが出来、
2105
呼び名を理解することで﹃他﹄を理解できる。
﹁その前に一つ。君はどうして﹃アマミ﹄を抱いているのか聞かせ
てくれないか?﹂
彼女は主人格をジッと見つめ、ゆっくりと口を開いた。
﹁彼が目覚めれば、きっと命を絶とうとするから。眠らせている﹂
初めて彼女の声を聞いた。
病室の前で俺達と戦闘した、最強にして最悪の魂喰いだった。
気弱なセリフに相反して俺の手を砕く周到さを見せた。春菜がい
なければ勝てなかったであろう相手。
﹁君は﹃ニミュエ﹄ アーサー王伝説に出てくる湖の貴婦人の名だ﹂
アーサー王伝説ではマーリンの恋人であったり、エクスカリバー
をアーサー王に渡す湖の精霊であったりする。
彼女の﹃彼が目覚めれば、きっと命を絶とうとするから。眠らせ
ている﹄という一言を聞き、初期の副人格ではないかと想像した。
彼女の名はニュミエ。なぜだかピッタリのような気がした。
﹁君は何番目に生まれた?﹂
俺の予想は最初の副人格。主人格に代わり何年も虐待に耐えた人
格だと思う。
ニュミエは主人格を撫でる手を休め、俺に向かい人差し指を一つ
立てて見せた。
俺はゆっくりと頷き、その他の魂喰いに目を動かした。
2106
﹁︱︱﹂
ニュミエは口を動かして、一人の魂喰いを呼んだ。
膝を丸めて蹲っていた魂喰い。微笑みの面を付けたような表情で、
ジッとこちらを見つめている。
暴力的な雰囲気と相反する表情。二面性を持った魂喰いに見受け
られる。
﹁彼は二番目﹂
微笑みを見せながら内面は怒りに満ちている。
母親の対象になりながら自分を守る為に作った人格。そして恐ら
く⋮⋮
それは真琴が一番理解しているのだろう。俺の背にしがみつく手
が痛いほど俺に食い込んでいる。
人形繰りを殺し、真琴を操り父親を殺させたであろう魂喰い。
﹁君の名はランスロット。そう呼ぶ事にする﹂
ランスロットは膝を抱えたまま、俺の言った名を復唱してる。
円卓の騎士最強にしてアーサー王の妻ギネヴィアと通じた騎士。
裏切りのランスロット。
﹁聞いていいか? 何故人形繰りの退魔士を殺した?﹂
﹁裏切られたからだ﹂
彼は間髪いれずに吐き捨てた。
怒りの言葉を口にしても、目は笑い続けている。けれど目の奥に
はそれが真実だと思える何かがあった。
2107
﹁では二人目の退魔士を殺した理由、そしてこの子の背に消えない
刻印をしたのは何故だ?﹂
笑う目は俺の影に隠れる真琴を射抜いた。
手で顔を覆い肩を震わせるランスロット。今度は吐き捨てる風で
はなく、再び顔を上げて話し始めた。
﹁二人目は強かった。逃げ切れなかった。まともにやりあえば負け
る、そう思ってその子を使った﹂
﹁それで? 勝てばお前の目的は達せたのだろう?﹂
﹁その子が親を殺める光景を見て、薄汚い母親と重なった。そして
許せなくなったのだ。そして一生消えない傷を付け、ビルの屋上か
ら放り投げた﹂
真琴は震える手を自分の手で押さえ、興奮気味に出ようとする声
を押し殺した。
俺は真琴を抱きしめて、支えてやることしか出来ない。
﹁ビルから落とされた時、このままでは死ねないと思ったの。そし
て⋮⋮初めて剣を召喚出来た。ビルの壁面に剣を突き立てて⋮⋮﹂
落下の衝撃を緩和した訳か。
か細い手で親を殴り、骨が突き出た傷だらけの手で、真琴は生き
る事を選んだのだ。
俺は涙ぐむ真琴を見つめて、胸が一杯になった。
﹁ニュミエ、次を紹介してくれないか?﹂
2108
ニュミエは犬笛の様に喉を鳴らし、それに反応した一人が頭を上
げた。
ランスロットと相反しその男は無表情。
冷たく冷めた目で俺達をジッと見つめた。
﹁彼が三番目﹂
ニュミエはそう言うと素っ気無く向き直り、再び主人格を撫で始
めた。
三番目と呼ばれた男はゆっくりと口を開き、太く低い声を出した。
﹁私はじっと死を待っている。死ぬ為に行動する﹂
﹁どういう事だ?﹂
﹁その女が守っていなければ終わらせる事が出来るのに﹂
そういい残してガクリと首を折った。
再び活動を停止した訳ではなさそうだが、どうにも会話が成立し
ない。
﹁君の事をガラハットと呼ぼう。いいな?﹂
首は上げないが、確かに俺の声は届いている。
ガラハットも返答しないだけで、理解はしているようだ。
アーサー王伝説ではランスロットの子として生まれるが、親から
捨てられる不運の騎士。後に円卓の騎士に加わり聖杯探索に出発し
た。
聖杯発見後に穢れ無き騎士として天に召される。
2109
﹁ニュミエ?﹂
ニュミエは再び喉を鳴らせ、一人の魂喰いを呼んだ。
今度の魂喰いは泣き顔。顔を上げるなり爪を噛み、激高して喚き
散らした。
﹁ボクは何時も反対したんだ。よくないって! きみたちも! あ
いつも!﹂
支離滅裂な語彙。癇癪持ちの子供のような口調。
ブツブツと何かを口ずさみ、爪を噛む仕草を見せた。
弱さと繊細さが強い魂喰い。俺は頭の中で一人の人物を思い浮か
べた。
﹁君をトリスタンと呼ぶ事にする﹂
悲しみの騎士トリスタン。
かの騎士は、家庭を捨てた父を悲観した母から、﹃悲しみの子供
︵トリスタン︶﹂と名付けられた。
﹁ビルの中で仲間に警告してくれたのは君だね? トリスタン﹂
﹁仕方なかったんだ。そうでもしないと。ボクは⋮⋮﹂
落ち着きが無く膝を震わせて、バッと顔を伏せた。
しゃくりを上げる泣き声が響き、俺は再びニュミエを見つめた。
さすがに何度も同じ事を言ったせいか、ニュミエも次に何をする
べきかを悟ったようだ。
部屋の端にいる魂喰いに声を掛けた。
2110
今度は一人ではなく、手を握り合った二人の魂喰いがゆっくりと
立ち上がった。
﹁⋮⋮﹂
チェンジリングが二人を見つめ、唇を噛んで目をそむけた。
男と女の魂喰い。チェンジリングの様子を見なくても分かる⋮⋮、
アメリカのハンターだった兄妹だ。
﹁男の方をアーサー、女の方をモルゴースと呼ぶ事にしよう﹂
二人はジッと俺を見つめ、呼吸を合わせた様に二人同時に頷いた。
アーサー王とモルゴースは腹違いの姉弟。この二人を見ていると
そう呼びたくなった。
アーサーの顔はランスロットと違う楽しそうな笑み。モルゴース
の表情は愛おしい愛情を見せていた。
これで部屋にいる魂喰いは全て名付け終わった。
やはり最終的な予想通り、魂喰いは6名。
最初の副人格湖の貴婦人ニュミエ、
二番目の裏切りのランスロット、
三番目は天に召されたガラハット、
四番目は悲しみのトリスタン、
五番目と六番目がアーサー王と姉モルゴース。
我ながら無茶苦茶なネーミングセンスだが、魂喰いを区別するに
は十分だった。
﹁ニュミエ、もう一人を紹介してくれないか?﹂
俺はニュミエの胸の中で眠るアマミを指差した。
同時に全ての魂喰いが身を擡げ、俺の顔を睨み付けた。
2111
2112
﹃名付けの儀式﹄︵後書き︶
告知と言うか宣伝。
A++の世界観で、11人の退魔士達が美咲隊不在の中派遣されて
プレイバイメール
来ました。
PBM方式で、行動を指定し持ちキャラを動かし、学校で発生する
事件を解決します。
http://ncode.syosetu.com/n6908
g/novel.html
11人の参加者がキャラを動かすので、物語がどうなるか書いてる
人にも分かりません。
皆がんばってます!
A++つまんねーと思った貴方!
ついでに読んでみてはいかがだろうか?
2113
﹃現実﹄
敵意を剥き出しにする六人の魂喰い。
無防備な俺を庇う様に拳を固める乃江さん、リボルバーを構えた
春菜が相手の出方を窺っている。
俺はそんな二人に守られながら、主人格を抱くニュミエにもう一
度話しかけた。
﹁眠らせているだけではもう駄目なんだ。それだけじゃアマミを守
る事は出来ない﹂
﹁なぜ?﹂
﹁アマミの居所を把握されている。延命措置を施さなければ、数日
で衰弱して死ぬだろう﹂
俺は子供を諭すように分かりやすく説明をした。
アマミは栄養補給チューブが施されていたが、十分な補給をして
いるとは言えない。
恐らく寝たきりの代謝に合わせ、必要最低限の栄養摂取しかなさ
れていない筈だ。
言葉の全てが伝わったとは思えない。暖簾に腕押しとはこの事だ
ろう。
主人格の年齢を超えた見た目をしていても、精神的な年齢はそう
いくばく
高くない気がする。
それでも幾許かは伝わっている。一言で足りなければ二言、それ
以上の言葉を重ねて伝えていくしかない。
﹁起こせば死んでしまう。起こせない﹂
2114
ニュミエは頑として意思を曲げようとしない。
確かに精神が持たずに死を選ぶならば、衰弱しつつ数日生きる可
能性を選ぶだろう。
しかしそうなればここまで来た意味が無いだけでなく、感情に任
せ事態の収拾を遅らせたと判断されるだろう。
﹁何故アマミを病室で殺さずにここまで来たか分かるか?﹂
﹁分からない、何故?﹂
﹁可能性を問いに来た。罪を悔い生きるのか、死を選ぶのかを問い
に来たんだ。判断はそれからでも良いと思った﹂
俺は主にニュミエに対して話しかけている。
だが全ての魂喰いが耳を傾けているのが分かる。
ある者は死を望み、ある者は葛藤を吐き出す為に存在している。
だが生あるからこそ死を望めると、生きているからこそ葛藤を持
つのだと理解し始めたように感じる。
﹁死ねばどうなる?﹂
ニュミエは俺に問いかけてきた。
不明瞭な言葉の定義を問いただしているのではない。死への不安
がそうさせたのだ。
彼らは凄い勢いで学習を始めたのではないかと感じた。
人との対話を拒み続け、精神の学習が停止した存在だが、知ろう
とする気持ちは持ち続けているようだ。
﹁死ねば彼が生を受けた意味が無くなる。彼は親に虐げられる為だ
2115
けに生まれてきたのか?﹂
俺は虐待で発生したであろうニュミエに問いかけた。
ニュミエは悲しい表情で主人格を見つめ、俺の目を見て首を振っ
た。
﹁そうではないと思いたい﹂
﹁それはこれからの生き方だと思う。殻に閉じこもっていれば、一
時の安らぎは手に入るだろう。けど違う生き方を見つけたとは言え
ない﹂
﹁そう⋮⋮だと思う﹂
俺はニュミエ以外の人格に問いかけた。
彼らも俺とニュミエのやり取りを聞き、何かしらの感情を持った
ように思える。
﹁彼は親の慰めものとしての価値しかないのか? 心を分けても守
りたかった存在が、何も得られず朽ちていくのが見たいのか?﹂
壁際で膝を抱えていたランスロットは、俺の目をジッと見つめて
いる。
彼は首を振り言葉を否定し、主人格を生かしたいと伝えてきた。
他の人格も同様に首を振る。ランスロットと同じ気持ちでいると
伝えてきた。
﹁暴力で人を寄せ付けないなんて、一時凌ぎでしかない。生きる糧
を奪うのも同じだ。本当は痛みを乗り越え、成長しなくてはならな
いんだ。アマミに与えられた痛みは、想像を絶するものだと思う。
2116
けれど乗り越えなくてはいけない事なんだよ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁彼が笑っている所を見たくはないか?﹂
﹁彼が苦難を乗り越えて、自分の足で立つ姿をみたくはないか?﹂
﹁俺は犠牲になった者の為にも、そうあって欲しいと思うんだ﹂
俺は思いの全てを吐き出した。
真琴の為にも、チェンジリングの為にも、彼の死で全てを終わら
せてはいけない。
青臭い言葉だろうし、奇麗事にしか聞こえないだろう。
けれどそんな終わり方は全ての人に傷を残す。
俺は犠牲になった者、それを背負って生きる者の為に、そしてア
マミには罪を悔い、それでも生を受けた以上何かを掴んで欲しいと
思う。
﹁ニュミエ、もう一度だけお願いする。彼を起こしてくれないか?﹂
俺はニュミエに頭を下げて懇願した。
もう彼らに険悪な雰囲気は無い。むしろ戸惑いと不安だけが彼ら
を支配している。
﹁分かった⋮⋮﹂
ニュミエは頷き、恐る恐る主人格へ手を翳した。
額をゆっくりと撫でる手は、何度も何度も髪の毛をかき上げた。
一分? いや何時間待ったかもしれない。時間の概念がおかしく
2117
なるほど、途方も無い時間待たされたような気がする。
けれど睫毛が揺れ口元が動き出すまで、瞬きすら忘れ食い入るよ
うに見つめていた。
﹁︱︱﹂
アマミはゆっくりと目を開けた。
焦点の合わない目でニュミエを見て、ゆっくりと頭を振り俺達を
見た。
俺達一人一人の顔を見つめ、真琴を見てピタリと止まる。
恐怖に引き攣った表情で真琴を見つめ、口がわななき涙を流し嗚
咽し始めた。
彼は眠りに付きながらも無意識下で、他の魂喰い達のやった事を
理解し、記憶に留めているのだろう。
むしろ眠っていた分記憶の劣化が少なく、昨日の事の様に鮮明に
覚えているのかも知れない。
止め処なく流れる涙と、悲痛な叫び声に似た嗚咽、その行動をす
る事によって自我の崩壊から踏みとどまっているように見える。
心が死んでしまう。再び心を閉ざしてしまうのではないか。そう
思った時のこと。
真琴は口元をキュッと結び、涙を流すアマミのそばへ歩み寄った。
真琴の手が大きく振り下ろされ、容赦の無い平手がアマミを打ち
据えた。
驚き目を見開いたアマミは、真琴の顔をジッと見つめて、しばし
涙を流すことすら忘れてしまった。
﹁貴方が傷つけた人達はもっと痛かったと思う。貴方にはその痛み
を知って欲しい。人を傷つけるって事は、その人も周りの人も苦し
い思いをするという事を﹂
2118
そう言って真琴は自分の手を胸の前で押さえつけた。
そうしないと自分が抑えられなくなるのではと思ったに違いない。
けれど真琴は打ち据えたいのではなく、今の一言を聞かせたかっ
ただけなのだ。
手に返った痛みより、心は比較にならない位に痛いはずだ。
﹁夢じゃなかったんだね。お姉ちゃんも、他の人達も知ってる気が
する⋮⋮﹂
﹁夢じゃないよ。現実なの﹂
真琴はつとめて冷静に、優しくアマミに接した。
その目には憎しみの光は一切なく、慈母の様にさえ見える優しい
語り口調で。厳しく言い切った。
﹁現実⋮⋮?﹂
﹁多くの人が死んだのも現実。貴方が、貴方の心がそうしたのも現
実。その前のお母さんの事も、体中にある傷跡も全てが現実﹂
真琴の言葉を聞き、アマミは自分の手を呆然と見つめた。
治った痕も生々しい傷だらけの手。
再びわななき、涙を溜めたアマミに対し、真琴は自分の手をそっ
と差し出した。
アマミの手よりもっと深い傷を残した自分の手を。
﹁貴方のした事はこの傷のように深い。でも傷は癒えていく⋮⋮、
それに私にはこの手を握り心を癒してくれる人達がたくさんいる﹂
アマミは真琴を羨望の眼差しで見つめた。
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真琴はアマミの頭を撫でて、ニコリと微笑んで見せた。
﹁貴方も生き方を変えて、そんな人とめぐり合いなさい。私にも出
来た⋮⋮。貴方にもきっと出来る﹂
﹁できるかな⋮⋮ボクにも⋮⋮﹂
真琴はコクリと頷いた。
光と影。どちらが真琴でアマミなのかは分からない。被害者と加
害者でありながら、二人が心に負った傷は驚くほど似ている。
だからこそ自信を持って頷けるのだろう。︱︱出来ると。
﹁だが、アマミを放置できぬのが現実﹂
チェンジリングは心を抑え静かに呟いた。
彼女自身も仲間を殺され、心に傷を負った一人なのだから。
﹁彼女は最後の二人の仲間だよ﹂
俺はアマミにそっと伝えた。
振り返りアーサー達を見つめるアマミには、それだけで十分伝わ
った筈だ。
﹁アマミの罪は罪として償わねばならない。司法で裁く事が出来な
くても、自分が行った事実は消えない﹂
﹁償わなきゃって、謝らなきゃって思うけど、どうしたらいいのか
分からない﹂
当惑するアマミ。
2120
チェンジリングは膝を折り、アマミに目線を合わせた。
﹁罪を悔いながら生きていく事だ。そして願わくば彼らを解放して
やって欲しい﹂
﹁心を⋮⋮強く﹂
﹁うむ、アマミは人の何倍もの素養を詰め込んだ、いわば膨らみす
ぎた風船のようなもの。心の強さに応じた素養、素養にあった心で
あるべきだと思う。少しずつバランスを整えていく事だ﹂
﹁どうすれば⋮⋮﹂
チェンジリングはその問い掛けに戸惑いを見せた。
霊気を支える術を知らずに膨大な霊気は支えきれない。かといっ
て霊気を封印し続けるのは難しい。
だが俺には一つの希望が見えていた。
﹁それを教えてくれる人を知っている﹂
じえいあじゃり
ギュンター・G⋮⋮英阿闍梨だ。
じえいあじゃり
俺の心が壊れそうになった時、心の壁を作ってくれた怪僧だ。
英阿闍梨なら霊力を封印しつつ、心が成長できるよう導いてくれ
る。
﹁徳の高い坊さんだ。それに比叡の山はアマミが罪を悔い、自分を
見つめ直すには丁度いい場所だと思うぞ。なにしろ空気がうまい﹂
﹁お坊さん⋮⋮﹂
2121
アマミは涙を拭いて力強く頷いた。
俺は立ち上がり彼を見つめる魂喰い達に話しかけた。
極限まで霊気を使い、封じられた今なら。
自我に目覚めた主人格の決意を聞いた今ならば、他の六人も分か
ってくれるはずだ。
﹁彼は一人で歩もうと決意した。彼は強く生きようとしている。暴
力も能力も必要ない﹂
俺はこの言葉に一縷の望みをかけていた。
もしかすると盗んだスキルを解放するのではないかと思っている。
そして主人格への統合が進んでくれれば、アマミへの負担も少な
くなる。
﹁心の中に噴き出す怒りや憎悪はどうする?﹂
ランスロットが戸惑いながら呟いた。
副人格にとっては存在の否定に繋がるような言葉だ、戸惑いを見
せても不思議ではない。
だがあえて伝えなくてはならない。
﹁アマミを汚した母はもういない。過去を振り返り憤る気持ちがあ
っても、それはアマミ本人が抑えなくてはならないんだ﹂
ランスロットは表情を無くし、再び膝を立てて座り込んだ。
透けて見えるほどに存在が希薄になり、虚ろな存在になっていく。
アマミはその姿をジッと見つめ、自分の決意を伝えるように口を
開いた。
﹁さよなら⋮⋮、ぼく⋮⋮、強くなるよ﹂
2122
最後の挨拶を聞き、消え失せたランスロット。
ランスロットの気配がアマミに吸収されていった。
俺は次に死を望むガラハットへ向き直った。
人は誰しも死への恐怖と、死への衝動を併せ持っている。
普段は表に出ない感情だが、事ある毎に剥き出しになる。
﹁死を選ぶならアマミ本人が選ぶ。死を恐怖するかそのまま死を選
ぶのか、逆に生への価値を見出すのか、全ては彼次第だ﹂
﹁俺は不要⋮⋮、そういう事だな﹂
辛い返答であったが、俺は頷いてガラハットを送り出した。
ガラハットはジッと真琴を見つめ、ゆっくりと立ち上がった。
一歩、二歩と真琴へ歩み寄り、胸の前に手を伸ばした。
真琴は恐怖と戸惑いでどうしていいか分からずにいる。だがガラ
ハットはその手を引っ込めようとせず、低い声で真琴へ囁いた。
﹁アマミの気持ち。貴方への償いの気持ちが溢れている。受け取っ
てくれまいか?﹂
希薄になっていくガラハット。真琴は恐る恐る手を伸ばし、その
指先に触れた。
その瞬間にガラハットの存在が弾けて消滅し、真琴の手には一枚
のカードが握られていた。
震える真琴の手。裏返して露にされた絵柄は、蛇の尾を持ち頭を
踏み潰した人の絵だった。
﹁ユニバースのカード⋮⋮。完全なる総合、成就そして輪廻⋮⋮﹂
2123
ワールド
それは一般的なタロットでいう﹃世界﹄のカードだった。
真琴はその絵柄を見つめ、それ以上何も口にする事が出来なかっ
た。
父から娘へ受け継ぐ統合。それを成しえた成就、死は生の始まり
だと暗示する輪廻。全てが父からのメッセージだと受け取れる。
真琴はそのカードを父の遺影のように抱き、声を殺して泣いた。
美咲さんがたまらず真琴を抱き締めた。そして美咲さんも我が事
のように涙した。
俺は込み上げるものをグッと堪え、悲しみの感情トリスタンに話
しかけた。
﹁彼の悲しみは彼の物だ﹂
トリスタンは舌打ちをして爪を噛んだ。
ブツブツとなにが口籠もり、俺の目を再びキッと見つめ返した。
﹁俺は危なくなればすぐに出てくるぜ? 何時も心の中で見張って
いるからな﹂
そう悪態をつきながら、存在を希薄にさせるトリスタン。
薄れ行く気配がアマミの体へ流れ込んでいく。
同時に苦しそうに身悶えるアマミ。爪を立てて自分の体を抱き、
必死に耐えようとしている。
﹁大丈夫か?﹂
﹁うん、大丈夫。⋮⋮これが痛みなんだね。受けた痛みより、与え
た痛みが辛く苦しい。けど乗り越えなくっちゃいけない痛みなんだ
ね﹂
2124
恐らくアマミは、被害者の痛みを自分の痛みとして受け止めてい
るのだろう。
それが彼なりのケジメの付け方ならば、俺はなにも言わない。
﹁アーサー、モルゴース。君達が支えてきた物は、これからアマミ
が背負っていく。それを苦役と取らず、アマミの選んだ生き方だと
理解してくれないか?﹂
アーサーとモルゴースは頷いて、消えていく。
アマミは指を食い込ませながら苦痛に耐え、それでもなお二人が
消えていくのを見つめている。
﹁さよなら⋮⋮、ごめんね。⋮⋮今までありがとう﹂
アマミの体に流れ込むアーサーとモルゴース。
脊髄反射の様に体を仰け反らせ、苦痛に耐えているアマミ。
だが耐えかねたのか手で床を掻き毟り、力任せに何度も殴りつけ
た。
発狂してしまったのかと見紛う光景に、俺達は息を呑んで見つめ
る事しか出来ない。
唇を噛んで息を荒げたアマミだが、俺を振り返ると目に皺を寄せ
て微笑む顔を作った。
心が痛いというのはこういう事なのだと理解させられた。
人を思い心を痛めるのは、風景が心に残ってリフレインするもの
だと思っていたが、主人格の体に内包され常に痛め続けるものなの
だ。
この状態で彼は葛藤と痛みを背負いながら生きていく。
だが小さいなりをしているが、それを必死で受け止めようとして
る。
俺は心を鬼にして、最後の一人に話しかけた。
2125
﹁ニュミエ﹂
名を呼んだだけで拒絶態度を示すニュミエ。
大きく首を振り、心配そうにアマミを見つめている。
だが俺が口を挟む前に、アマミがニュミエを見つめ、二コリと微
笑んで首を振った。
﹁ダメだよ。この痛みはぼくが受けなきゃいけないんだ。ぼくはこ
れを乗り越えて、お姉ちゃんみたいになるんだ﹂
ニュミエは口元を押さえてアマミを見つめ、そして意を決したよ
うにアマミを抱きしめた。
薄れゆくニュミエの体は、アマミを傷つけながら体に染み込んで
いく。
絶叫したいほどの痛みだろう。
しかしアマミはゆっくりと立ち上がり、俺達に頭を下げた。
深く長く謝罪の気持ちを込めて⋮⋮。
俺はそんなアマミを見つめ、何の言葉も掛けられなかった。
俺達の居た白い部屋がアマミと共に消えていく。
そして浮かび上がっていく森の風景。山科さんと宮之阪さん、牧
野の姿がはっきりと見えてきた。
乃江さんは俺の肩に手を置き、顔をくしゃくしゃにしながら微笑
んだ。
﹁彼は逃げない意思を示し、部屋から出て行ったのだと思う﹂
そう言い俺の手をグイッと掴んで、大声で叫んだ。
﹁みんな、帰ろう!﹂
2126
皆は満面の笑みを見せ、乃江さんの手に手を重ね合わせた。
だが俺はハタと気が付き、乃江さんにツッコミを入れた。
﹁入り口まで行かないと帰れないっしょ?﹂
﹁いや⋮⋮、一度成功したしな、今度も出来るかなと⋮⋮﹂
苦笑して目を細める乃江さん。
現実操作のサポートがあったから帰れたのであって、次に帰れる
とは思えないんだが⋮⋮。
﹁ダメっす。ギャンブル厳禁です!﹂
俺は元来た道を走り出した。
行きがあれだけ短時間で来れたのだから、帰りはもっと早いはず。
なぜならば俺は現実世界でアマミに会うのが楽しみだから。
俺の予想通り、外交の窓は森を越えたすぐの場所にあった。
俺達はそこで手と手を合わせゲートを通り抜けた。
薄れゆく心象世界の風景と共に、何時も通り体が重くなる感覚が
襲い来る。
忘れていた呼吸のリズム、血液の循環する音が耳鳴りの様に聞こ
えてきた。
﹁︱︱﹂
2127
だが俺の見た現実は、予想もし得ない物だった。
目の前には小銃を構えた兵士が数人。目をギラつかせ銃口をアマ
ミに向けている。
タンと乾いた音が響き、アマミの体が小さく跳ね上がった。一発、
二発、三発と撃ち込んでいく。
俺は訳も分からずわめき散らしながら、兵士とアマミの間に割っ
て入った。
背中に火箸を押し当てられたような焼ける痛み。肉の焦げた匂い
と鉄臭い匂いが鼻を突いた。
それが俺とアマミの匂いだと気づいた時には、俺の意識は白い霧
の中に飲まれていった。
2128
﹃瑠璃色の少女﹄
弾丸を打ち込まれ気を失った訳ではなかった。
強制的に意識をカットされ、気が付くと俺は心の部屋に押し込め
られていた。
俺の意識を離れて動く肉体を、映画でも見るように眺めていた。
”カオル”は憤怒の形相で振り返ると、銃を構えた兵士目掛けて
バックアップ
ナイフを一閃し、向けられた銃口を真っ二つに切り落とした。
両断された銃を見て動揺する兵士。すぐさま腰の銃に手を伸ばす
が、”カオル”はその手を蹴り、壁に縫いつけた。
病室の蛍光灯が衝撃で大きく揺れ、室内の明かりが光と影を交錯
させる。
”カオル”の足の先には、折れ曲がった手と亀裂の入った壁面。
兵士は苦悶の表情を浮かべ、言葉にならない叫び声を上げた。
﹁︱︱!﹂
扉の所で銃を構えていた兵士が2名、何か、言葉を並べ”カオル
”を制止しようとした。
”カオル”はそんな危機的状況を臆する事なく、壁に蹴り付けた
兵士の髪を鷲掴み、扉の前に立つ兵士達への盾にした。
ゆっくりと扉の前の兵士ににじり寄る”カオル”。表情一つ変え
ず、銃口の射線上に兵士を移動させた。
負傷した兵士から銃口が逸らされたのを見計らい、カオルは惜し
げもなく”盾”を捨てた。
兵士の前に踏み込んで、掌底で顎を砕き、身構え攻撃に転じよう
とする隣の兵士に、裏拳を叩き込んだ。
白目を剥き意識を失い、くの字に倒れていく兵士達。
カオルは膝で蹴り上げて兵士を立たせ、既に昏倒している兵士へ
2129
肘打ちを入れた。
﹁カオルさん!﹂
聞き覚えのある女性の声。
振り返るとそこには美咲さんが立っていた。
﹃カオル﹄は目を細めて美咲さんを見つめ、脚を踏み抜いて床に
蹲る兵士を黙らせた。
俺はこの時初めて、誰かと意識が入れ替わったのだと気付いた。
理知的なハルナではない。とても暴力的で繊細な誰か。
ハルナが言っていた言葉。
”私が消えれば、代わりに誰かが霊気を支える”
恐らく今は、その誰かが俺の体を操作しているのだ。
︱︱誰だ?
﹃その話は後回し。早く治療しないと、その子⋮⋮死んでしまう﹄
今までの暴力的な振る舞いに似つかわしくない少女の声。
その声の主はそう言うと、惜しげもなく意識を手放して俺を解放
した。
意識が繋がると同時に感じる激しい痛み。背中を撃たれた傷もそ
うだが、全身の筋肉が負荷に耐え切れず痙攣していた。
俺は膝を折って全身の痛みに耐え、立つ事も出来ずに床にへたば
った。
体を支え床に触れた手が、赤の色に触れてヌルッと滑った。
それは兵士達から流されたものではない。俺の背中から流れ落ち
た赤だった。
2130
﹁カオルさん!﹂
異変に気付いた美咲さんは、慌てて俺の元へ駆け寄り背中に手を
当てた。
流れ込む霊気に安堵したが、さっきの声を思い出し、荒い息の中
で言葉を搾り出した。
﹁み、美咲さん⋮⋮、俺は、大丈夫。⋮⋮アマミと、こいつらの治
療頼んます﹂
美咲さんはベッドの上を見て、手で口を覆い息を呑んだ。
ベッドの上には死人のようなアマミの姿。血の気を失った青い顔
をして微動だにしていない。
続けざまに目を覚ます仲間の声が耳に入り、俺はゆっくりと目を
閉じた。
バタバタと複数の足音が病室に辿り着き、そのうちの一人が叫び
声を上げた。
﹁怪我人を早く! 当直以外の医師も駆けつけているはずだ!﹂
しずく
その声が中之島刑事のものだと気付いたが、目を開けて確認する
気力もない。
ベッドのシーツから滴り落ちる赤の滴を見つめ、俺は意識を手放
した。
2131
﹁︱︱﹂
端的かつ事務的な会話が耳に入った。同時に背中に鈍痛を感じて
半覚醒した。
気を失って数十分⋮⋮、いや数時間たったのだろうか。
体から感じる感覚だけを手がかりに、経過した時間を探った。
体が痺れて寝返りすら打てない。肉が切られ引っ張られ、体の中
を探られる不快感が伝わってきた。
俺は目を閉じているにもかかわらず、体を取り巻く様子が一望で
きた。
手術台の上で眠った俺を照らす無影燈、薄い青の術着を着て立つ
医師達。
どうやら俺は弾丸摘出手術を受けているらしい。
霊気治癒で傷は塞げるが、体の中に入り込んだものは取り除けな
い。
しかしジクリと痛みを感じる場所は胸の奥⋮⋮、相当ヤバイ場所
に弾が残っている気がする。
︱︱弾丸は心臓の近く止まってるらしいわ。今は動かないほうが
いいわよ。
俺の心に再び少女の声が届いた。
心の部屋が頭の中に映し出され、紺碧のサマードレスを着た少女
が座っているのが見えた。
年の頃は幼稚園児か小学生の低学年。どんぐり眼を見開いて、結
い上げた長い髪をリボンで纏めている。
どこかで見覚えのある顔立ち。⋮⋮小さな頃の葵にとても良く似
ている気がする。
﹃ハルナに代わる相棒か?﹄
2132
︱︱こらっ! 誰かの代わりみたいな言い方しない!
少女は膨れっ面で人差し指を立てて、憤慨した態度を示している。
確かに﹃誰かに︱︱、誰かの︱︱﹄は精神世界では禁句だ。怒ら
れても仕方ない。
俺は心の中で頭を下げた。
﹃すまん、君が﹃本当の﹄相棒だな?﹄
︱︱それでよろしい! 相棒⋮⋮、そうね。これから長い付き合
いになる人生の相棒ね。
少女は見かけの年齢とかけ離れた、大人の口調でそう挨拶した。
知能の発達した少女が、ごく稀にこういう話し方をする。
あおい
大抵そういう時には違和感を感じるが、この少女は堂に入った様
あおい
子で、さほど不自然には感じない。
︱︱ちなみに言っておくけど、妹に似てるんじゃなくて、妹が私
に似てるのよ? 私は貴方の女性像だもの。
﹃子供の姿をしている君に言われると、結構へこむんだけど⋮⋮。
俺は子供だと言われているみたいだ﹄
︱︱本当の価値は内面にあり、姿形は意味を成さないのよ。
﹃外面はともかく、内面は今の俺と同じという訳か?﹄
︱︱いいえ。カオルの見ている姿は、完全な私じゃないもの。
2133
﹃霊気が満ちれば、大人になるとか?﹄
︱︱半分正解。表に出るときには、いい女に成長するの。
俺の頭のには﹃赤と青のキャンディが入った小瓶﹄が通り過ぎた。
呆れてツッコミを入れる気力も損なわれ、溜息だけが口から漏れ
た。
﹃名は? なんと呼べばいい?﹄
少女は目を丸くして首を傾げた。
春菜にはハルナという名のアニムスがいた。俺のアニマだとする
と、カオルか。⋮⋮ダメだ、思いっきり被ってるじゃないか。
︱︱好きな様に呼べばいいわ。私がもう一人のカオルである事は
揺るがない事実だし、私とカオルの間での符号のようなものだから。
俺は少女をあらためて見つめ直した。
紺碧のワンピース、素足にミュールを履いていた。
避暑地のお嬢様の様に見えるが、滲み出る雰囲気はとてもお嬢様
と呼べるシロモノじゃない。
おてんば娘が一張羅のよそ行きを着たような、素朴なイメージを
るり
感じる。
﹃瑠璃。ドレスの色がとても良く似合っているから﹄
︱︱ルリ? 中々良いネーミングセンスね。なんとか太郎みたい
な名前を付けられるかと、内心ドキドキしてたのよ?
薄い胸を手で押さえ、ホッと溜息を吐いたルリ。
2134
撫でた手を目の前で、ポンと叩いて見せた。
︱︱もう一つの相棒を紹介しなくちゃ。
ルリは目の前にあるテーブルに手を伸ばし、その細い腕に見合わ
ない無骨なリボルバーを持ち上げた。
イタリアのマキナ・テルモ・バレスティック社が作り出したMO
DEL6 UNICA。
黒光りする銃身にウッドのグリップ。未来的かつ直線的なデザイ
ン。
ハルナのスコフィールドと同じ回転弾倉だが、発射時の跳ね上が
りを抑制する為、回転弾倉の下部で発射する奇銃。
一発目は引き金と連動し撃鉄が起きるダブルアクション。二発目
以降は発射時の反動で撃鉄が起きるオートマチックリボルバー。
.357マグナム弾以下の弱装弾だと、反動によるスライド量少
なく、オート機構が働かない曲者だ。
﹃6 UNICAか﹄
︱︱現実操作の能力がカオルにフィットしたみたいね。
﹃元を正せば自分の能力だからな﹄
︱︱イタリア語で数字の6はSEI。SEI UNICAを俗語
に訳すと﹃唯一無二の存在﹄、私とカオルを象徴する銃としてふさ
わしいわ。
﹃無二の存在と言いつつ、重傷負った俺の体で大暴れしたのは誰だ﹄
︱︱無二の存在だから! 大切な体を傷つけれられて、カチンと
2135
来たんだもん。
こういう時だけ﹃もん﹄とか子供っぽく語尾につける。
大人の頭と子供の見た目、時には女を使い分ける。見かけによら
ずしたたかな奴だ。
﹃撲殺寸前まで追い込まなくても⋮⋮﹄
︱︱説明して武装解除させるまで、最短で40秒掛かる目算。私
の取った行動なら20秒程で武装解除出来た。時間を優先⋮⋮、人
命優先と言った方が正しいかな?
そういえば、あの時発砲したのは警察の鎮圧部隊だろう。
彼らの目から見れば、俺達は全員目を閉じて身動きしていないし、
魂喰いと戦闘して敗れたと判断されたのかもしれない。
中之島さんに連絡を取らず、独自の判断で動いたこちらも悪いが、
即座にアマミを処分しようとした彼らも迂闊だ。
彼らに与えた傷は仲間たちが治してくれるだろうけど、俺の行動
が帳消しになる訳ではない。
ルリの動きは過剰防衛と言われても仕方ない。
︱︱カオルだって無意識に霊気でガードしてなきゃ即死だったん
だから。
﹃心象世界から帰った瞬間、あの光景が目に入った。咄嗟に飛び出
してしまったからな﹂
︱︱カオルだけの体じゃなく、私のものでもあるんだから、気を
つけてよね。
2136
﹃アマミは助かるかな?﹄
︱︱わかんない。至近距離から三発食らってたから。彼らも素人
じゃない、制圧のプロだもの。微妙な所じゃないかしら?
﹃霊気でガード⋮⋮、それは無理か﹄
︱︱お札で封じてたんでしょ? 自分の都合よく物事を考えるの
は、精神的な逃避ね。
ルリの性格がだんだん掴めて来た。
自分の事は棚上げして、弟でも見るように俺を見ている。自己中
心的でその上リアリスト。
俺に足りない部分を補う意味なら、最高のパートナーなのかも知
れない。
﹃今は麻酔が効いて動けない。あれこれ考えても何も出来ないな﹄
︱︱そうね。仲間を信じて良い結果を期待しましょう。
ルリとの会話の間も、俺の手術は進められていた。
メスで切り開かれた術野から、弾丸が一発摘出された。
看護師に汗を拭われる医師。麻酔医師の向こうに控えていた人物
へ声を掛けた。
大人用の術着を着た小さな体。マスクの隙間から見える顔は真琴
のものだった。
﹁縫合は済んでいます﹂
医師はそう真琴に伝えると、一歩下がって真琴に手術台を譲った。
2137
真琴は手袋をした手を高く掲げ、霊気を練って詠唱を始めた。
﹁Queen of Cups﹂
聖杯を掲げた女王の姿が具現化された。
彼女の持つ聖杯が傾き、俺の背に性質不明の液体が滴り落ちた。
血液と激しく反応し、熱を帯びる患部。立ち上る煙と熱の量だけ、
傷口が治癒していく。
感嘆に満ちた声が医師達から漏れる。
真琴は額の汗を看護師に拭って貰いながら、二度、三度と聖杯を
振るった。
切り広げられた傷はピッタリと口を閉じ、真琴は大きく息を吐い
て聖杯と女王を消した。
﹁カオル先生⋮⋮、命知らずの大馬鹿者⋮⋮﹂
真琴は俺の頬を優しく撫でた。
真琴はクルリと振り返ると、医師達をジッと見つめ、なにかを伝
えようとしている。
キョトンとした医師達に、真琴は咳払いを一つして見せた。
医師達はハタと何かに気付いたようで、真琴に背を向けて目を閉
じた。
真琴はマスク越しでもはっきり分かるほど赤面し、俺の頬に顔を
寄せて軽く触れるだけのキスをした。
﹁報酬は確かに頂いた⋮⋮﹂
BJを彷彿させる渋い声で呟き、真琴は背を向けて俺から離れた。
是非この台詞は大塚明夫に声を当てて欲しい。
BJというよりピノコに近い気がするが、麻酔が効いてツッコめ
2138
ないのが口惜しい。
どうせトウカ辺りに﹃対価はキチンと頂くのじゃ﹄とか、たぶら
かされたに違いない。
︱︱カオルも起きていたら真っ赤になっていたわよ。
﹃うるさい!﹄
看護師達により輸血の針を外され、手術室の機器は電源を落とさ
れた。
体を覆うシートを取り替えられ、俺はストレッチャーに乗せられ
て運び出された。
待合場所に座る仲間達の心配げな顔を見て、俺の心はジクリと痛
んだ。
集中治療室ではなく一般の病室。
病室のベッドに移された所で、俺の体が徐々に反応を始めた。
心の目が閉じていき、ゆっくりと目が開かれていく。
俺を見下ろす仲間達の目が、俺の顔を見つめていた。
﹁おはようございます⋮⋮﹂
俺は仲間の顔を見て、気の利いた言葉が思いつかず、素っ頓狂な
挨拶をしてしまった。
山科さんがプッと吹き出し、目を三角にした乃江さんが鉄拳を振
り下ろした。
ゴツンと額に伝わる衝撃は、嗜めるような優しさが伝わってきた。
宮之阪さんの頭の上にいた、カナタとトウカが俺の元へ飛び、頬
っぺたをペチペチと叩いて元気付けてくれた。
﹁アマミはどうなりました?﹂
2139
その言葉を聞き、皆の表情が曇った。
俺はまだ痛む胸を押さえ、ベッドから跳ね起きた。
﹁まだ手術中や。美咲が霊気を送りこんどるから辛うじて生きてる
って状態やった﹂
そういえば美咲さんの姿が見えない。
手術中も側に付いて治癒をし続けているのだろうか。
俺は痛む体を揺り動かし、ベッドを降りて立ち上がった。
﹁居ても立っても居られないんで⋮⋮﹂
よろける体を宮之阪さんが支え、眉を寄せて俺に肩を貸した。
病室を出てエレベーターに乗り、二階にある手術室の前へと辿り
着いた。
簡素な長椅子に座り、手術中のランプを見つめる事しか出来ない。
それでも病室で寝ているよりは幾分気が紛れた。
﹁心配掛けてすいません﹂
俺は沈黙して一点を見つめる仲間達に詫びた。
﹁無茶はアカンで? あの後鎮圧部隊の人らを治癒するの大変やっ
てんから﹂
﹁羅刹の如く強かったと聞かされたが、今度本気で手合わせしてみ
ようか?﹂
﹁まぁ、カオルちゃんらしいんだけどね﹂
2140
三者三様の返事を聞き、宮之阪さんの表情が綻んだ。
何も言わずにいるが、宮之阪さんも同様の気持ちなのだろうか。
クスクスと笑い出し、俺に耳打ちしてくれた。
﹁みんな強がってますけど、涙ぐんでたんですよ。特に乃⋮⋮﹂
真顔になった乃江さんが、宮之阪さんの口を塞いだ。
手術室前という事で自重しながらも、モゴつく宮之阪さん。
その時手術室の方で人の気配が濃くなった。
控え室らしき出入り口のノブが音を立て、ゆっくりと扉が開かれ
た。
﹁ゴクリ⋮⋮﹂
静かな廊下に生唾を飲み込む音が響いた。
扉から出て来たのは術着を着たピノコ、⋮⋮じゃなく真琴の姿。
しかめっ面の顔のまま裾を引き摺り、俺達の前に立った。
2141
﹃紅霞 絶﹄
﹁手術室へ入って。みんなの力を借りたいの﹂
真琴は俺達にそう告げると、それ以上何も言わずに踵を返した。
そんな真琴の背中を見て、それ以上の追求する必要もないと感じ
た。
何故なら真琴の様子を見ただけで、手術室の中はかなり切羽詰っ
た状態だと理解できる。
真琴は手術室の脇にある扉を開け、俺達の方を一瞥してその中に
入っていった。
⋮⋮どうやらそこに入れと促している様だ。
﹁手術準備室⋮⋮﹂
俺達は真琴に続きその扉を開けた。
準備室に一歩踏み入ると、足元には粘着シートが敷かれ、大きな
洗面台とロッカーが設置されていた。
手術室に入る前に予め清潔にしておく為の部屋なのだろう。
俺達は余分な上着を脱ぎ、洗面台の前へ立った。
石鹸やブラシ、水道の類は全て足踏み式のペダルで制御出来る。
恐らく手を洗浄した後に不潔な所に触れない為のものだろう。
水や石鹸だけではなくペーパータオルも取り出せる仕組みになっ
ている。
まず肘まで捲り上げ、壁に書かれた消毒メニューに取り掛かった。
﹁まずは水洗い2回、消毒薬で手洗い2回、ブラシを用い爪、指の
間を念入りに⋮⋮か﹂
2142
人間の皮膚には億単位の常在菌がいる。体を守る意味では必須の
菌だが、手術に立ち会うには衛生上問題がある。
手洗いをしても無菌にする事は出来ないが、ゼロに近づける事努
力は出来る。
洗浄を終えた俺は、先に待つ介護の看護師さんの手を借りて手術
着を身に着けた。
服を着せマスクや帽子を装着する動きは場慣れしている。無駄も
無く洗練された動きだ。
最後に手袋をはめ終えるまで、ものの1分程しか要していない。
﹁顔や髪、腰より下は不潔ですので手を触れないように﹂
看護師にそう言い含められ、手術室に入る扉へ案内された。
準備室と手術室は二枚扉で仕切られ、中間の隔壁では気圧を低く
保たれている。
恐らく手術室内に外気が入りにくい様に、空調制御されているの
だろう。
背後の扉が閉じられ、隔壁内の空気が入れ替えられた。
そして目の前の扉が開かれ、普段目にする事はない光景が目の前
に広がった。
手術台を照らす無影ライト、執刀医が俺に背を向けて立ち、向こ
うにもう一人医者が補助をしている。
二人の医者をサポートするように看護師が立ち、肝心要の美咲さ
んはアマミのそばで霊気を放出している。
遅れて手術室に入った山科さん、宮之阪さんは、一目美咲さんを
見ると即座に回復補助に入った。
美咲さんはマスク越しにでも分かるほど霊気切れを起こし、肩で
大きく息をして回復の手を休めた。
俺と乃江さんは執刀医のそばに立ち、デリケートな作業を邪魔し
ないよう声を出した。
2143
﹁どのような様子ですか?﹂
マスクで声が出しにくい。
けれど医師達には伝わったようだ。
振り返った執刀医の目が絶望を湛えている。これから聞かされる
話はそういう類のものなのだろう。
執刀医は術野にチラリを目をやると、脇に立てられたパネルを指
差した。
透過された人体の映像。頭と胸、そしてお腹の部位。
弾丸が傷つけた内臓の箇所にマーカーが入れられ、読めない文字
で何か書かれている。
医師が指差したのは頭部の映像。
アマミの頭部には弾丸が食い込んでいる様子が、脳の映像と共に
克明に映し出されている。
﹁弾丸は下顎から口腔を抜け頭部に入り込み、脳幹の脇を掠めて脳
下部に食い込んで停止しています﹂
医師の説明は簡潔だった。
だが医療知識のない俺達には、それ以上なにも想像出来ない。
再び医師が口を開くまで、絶望した目と映像を交互に眺めるしか
出来なかった。
﹁この子の海馬は長年の虐待で、かなり萎縮を起こしています。今
回の弾丸の衝撃も大きい。摘出手術を行う際にも影響が出るでしょ
う﹂
﹁影響?﹂
2144
遠まわしに口籠もる医師に対し、乃江さんが口を開いた。
目を泳がせた医師は、恐らくと前置きして話し始めた。
﹁海馬は記憶を司る重要な部位です。長期に渡る彼の眠りは海馬の
萎縮が影響していると思われます﹂
﹁記憶⋮⋮﹂
﹁今回の衝撃は更に深刻度を上げてしまった。今までの記憶を失う
かも知れない。悪くすると⋮⋮﹂
﹁どうなるのです?﹂
﹁重度の記憶障害を伴う可能性が大きいのです﹂
今言われた症例。何かの本で読んだことがある。
無限と言われる人の記憶容量。その全てを使う事が出来ず、数十
分から数日経つと消去されてしまう事があるらしい。
ご飯を食べた事を忘れる、老人に良く見受けられる認知症の様な
記憶障害。
俺の読んだ文献では80分しか記憶を留められない話だった。
﹁それにあまりに脳幹に近い場所。手をこまねいていたら、天野さ
んから影響を最小限に、弾丸を摘出出来る者がいる、そう聞かされ
まして﹂
俺と乃江さんはお互いの目を見つめあった。
桃源境の門を開き肉体を虚ろにする紅霞。美咲さんは発展系の技
を知っていたのか。
手を透過させて直接体内に霊気を放つ。あまりにも不確定要素が
2145
多く、危険すぎると封印していた技だった。
だが効果は絶大。クッキーを摘むのと同じ感覚で、体の内部を傷
つける事が出来るのだから。
しかし俺はナイフを所持していない。今、紅霞が出来るのは乃江
さんだけだ。
俺は背後に立つ春菜に目を向けた。
﹁現実操作の残弾は?﹂
﹁病室前で撃った一発。アレも残り滓を集めた虎の子の一発なの。
しばらく撃てない﹂
百発百中のハルナが頼りだったが、ハルナの居ない俺に発動出来
るだろうか。
体を纏う霊気の残量は希薄。気だるさを感じるほど底を付いてい
る。
振り絞って一発撃てるかどうか、ギリギリの所だと思う。
俺はマスク越しに見える乃江さんの表情を窺った。
乃江さんの目は揺るぎなく、いつも通りの力を感じられた。
﹁頭の中の座標を計る﹂
縦横に頭部を映し出した映像を見て、乃江さんは目を細めた。
アマミの下顎、口腔、側頭部、色んな角度から見つめ、再び透過
映像に目を向けた。
﹁出来そうですか?﹂
﹁カオルの補助があれば心強い﹂
2146
俺はその言葉を聞いて踏ん切りがついた。
頭の中で瑠璃から新しい拳銃UNICAを受け取り、全身に残る
霊気を掻き集めた。
霊気が一点に凝縮し、手に持ったUNICAに確かな重みを加え
た。
俺は撃鉄を起こして弾倉を軽く回した。
精神の部屋に座る瑠璃は申し訳なさそうな表情をしてその様子を
見ていた。
﹁乃江さん、今度は六分の一の確率です﹂
俺は乃江さんを横目に、心の中で銃口を頭に押し付けた。
乃江さんは俺に掌を広げ、まだ待てと目配せをした。
すぅっと息を吸い目を閉じると、胸のペンダントが光を帯びた。
乃江さんはアマミの鼻先まで手を伸ばし、勢い良く頭の中へ手を
差し込んだ。
二度瞬きをする間、顔から後頭部へ、右から左へと手を泳がせた。
﹁おおっ﹂
医師達は異様な光景を目にし、驚きのあまり声を上げた。
だが彼らは気づいていない。
一秒程の時間で的確に弾丸を摘む、それも脳に影響させずに、⋮
⋮それがどれ程困難な作業か。
﹁行くぞ。カオル﹂
意を決した乃江さん、再び手を差し伸べて目を細めた。
俺はUNICAの引き金に掛けた指を引き絞った。
同時に乃江さんの指が頭部をすり抜けた。
2147
﹁ガチン﹂
金属が打ち合う音が響き、俺の手の中から弾丸の重みが消えた。
目の前に広がったのは単一の現実。二つの眼で見つめる今だけだ
った。
﹁︱︱っ!﹂
不発に終ったと告げる前に、乃江さんの手がアマミの頭を探る。
そして手術台を突き抜くように手が動いた。
静まり返る手術室内。全員の視線が乃江さんの手に注がれている。
握りこんだ乃江さんの手が、皆の前に差し出された。
不安げな表情でその手を見つめる乃江さん。
ゆっくりと広がる掌には、赤く彩られた弾丸が握り締められてい
た。
2148
﹃紅霞 絶﹄︵後書き︶
しばらく体調不良が続き、執筆が滞ってしまいました。
微熱が続き集中力が低下、想像は出来るけど指が動かない。
そうこうしているうちに毛が一房抜けた。
ベッドから起きて枕元に長い髪が一束とぐろを巻いていた。かなり
ショック!
心の病気かなと思っていたのですが、普通に病気でした︵笑︶
今は落ち着いているので、ゆっくりと復調したいと思います。
2149
﹃After 1/2﹄
魂喰い案件が収束して一ヶ月が経った。
案件解決に追われる切迫感を感じる事も無く、目立った事件も発
生しない、至極平和な日々を過ごしている。
だがあの時現実操作を発動出来なかった俺。
そして頭部から弾丸摘出した乃江さんは、心に大きなしこりを残
す事となった。
﹁落ち込んでいても仕方ないです﹂
学校の帰り道、浮かない顔をしている乃江さんへ慰めの言葉をか
けた。
自分の中で何度も辿り着いたあやふやな結論。
こんな言葉を掛けたとしても、なんの慰めにもならない事は重々
承知している。
だが、これ以上の言葉が見つからないのも事実だった。
﹁自分の力の無さを痛感している。不甲斐ない﹂
乃江さんは責任を一身に背負い込み、あの日以来塞ぎ込んでしま
っている。
努めて表には出さないが、身近にいる者には分かってしまう。
俺は意を決して乃江さんの肩を叩き、一軒の喫茶店を指差した。
乃江さんは目を丸くして、そして目を伏せ溜息を吐いた。
﹁カオルと二人で帰るのは初めてだったな﹂
﹁乃江さん、ガードが固いから﹂
2150
俺は立ち竦む乃江さんを強引に引き連れ、喫茶イゾルテへ入った。
店内には煎った豆の香りが溢れ、落ち着いたダウンライトの灯り
が時間の流れを緩やかにさせている。
テーブルに向かい合わせで座り、脇に添えてあったメニューを広
げた。
﹁アイリッシュティ﹂
﹁ジャンボパフェ﹂
ほぼ即答でオーダーを通す乃江さん。
しかも頼んだモノが余程恥ずかしかったのか、赤面して口を尖ら
せている。
﹁別に乃江さんらしくないとか、思ってないですよ?﹂
﹁甘味の魔力には勝てぬ﹂
乃江さんは無類の甘味好きらしい。
密かにそんな噂を聞いていたが、実際目の当たりにしてみると、
逆に乃江さんらしいと微笑ましく感じる。
ボーイッシュな風貌で堅い口調をしていても、乃江さんは誰より
女らしいのだ。
そんな事を考えていると、考えを見透かされたように俺の目をジ
ッと見つめ返した。
﹁私だけではなく、カオルも思い悩んでいるのだろう?﹂
俺は乃江さんを力づけようと一緒にいるつもりだった。
2151
けれど逆に心の中を察せられ、敵わないと苦笑が漏れた。
空っぽの掌を見つめ、指を軽く動かして、心の中を吐露した。
﹁ええ⋮⋮。今でも耳元近くで聞いた撃鉄の音が頭を離れません﹂
不甲斐ないと感じているのは乃江さんだけではない。
あの時現実操作を成功させていれば。そう思わぬ日は無い。
俺は手を乃江さんに突き出して、銃の操作で出来たマメを見せた。
撃鉄に触れる親指は水ぶくれ、人差し指の第二間接は皮が剥けて
しまっている。
﹁もう一つの俺の人格、瑠璃も寝る間を惜しんで練習しています﹂
頭の中で愛銃UNICAを想像する。質感、重み、細部に至る細
やかなディテールを思い描き、手に念を籠める。
手の中にぼんやりとした霊気が蓄積され、UNICAを象ってい
く。
俺はその具現化されたUNICAに対し、更に念を籠め続けた。
﹁霊気による具現化か。男子三日会わざれば、刮目してこれとまみ
えるべしとはこの事だ﹂
俺は弾倉をスライドさせて、弾丸が一発込められているのを確認
した。
再び弾倉を正常位置に戻して、軽く手で弾いた。
クルクルと弾倉が回転し、勢いを失っていく。
もう一度弾倉をスライドさせて弾丸の位置を乃江さんへ見せた。
﹁落ち着いてやれば十中八九、発射口に弾丸運べます。けど戦闘中
の心理状況を考えれば、今の様にはいかないと思います。まだまだ
2152
です﹂
﹁カオルの成長を促すのは⋮⋮悔い、か﹂
乃江さんはUNICAにそっと手を伸ばす。
夕涼みで風を扇ぐような雅やかな手捌きを見せ、広げて見せた掌
の上には弾丸一つ。
乃江さんもあの時以来、相当訓練していたのだろう。
弾丸の重みすら感じる感覚を持ってしても、触れられた事すら感
じられなかった。
﹁技にキレが増せば増すほど、あの時の技が稚拙だと自覚してしま
うんだ﹂
﹁俺も同じです﹂
丁度その時テーブルの横に主人がやってきた。
紅茶のマグカップを二つ俺と乃江さんの前に置き、ミルクとスラ
イスレモンを盛り付けた小皿を置いた。
そして大質量のパフェをテーブルの中央に置き、銀製の匙を二つ
テーブルに配置した。
スッと頭を下げてテーブルから離れる主人。
乃江さんは居心地悪そうに椅子に腰掛け直し、手を口に添えて俺
に囁いた。
﹁なにか勘違いされているのか?﹂
﹁⋮⋮ですかね?﹂
カップルが二人で一つのパフェを突付き合う、そんな二人に見え
2153
たのだろう。
マグカップの上で完成させるはずのアイリッシュティ。ポットに
入れて持ってきた所を見ると、そう勘違いされたに違いない。
﹁そんな大きなパフェを頼むからです!﹂
﹁知るか! 二人用とは書いておらん﹂
乃江さんは頬を膨らませ、大質量パフェを一匙分崩した。
俺は二人分の紅茶を注ぎ、幸せそうに頬を押さえる乃江さんをチ
ラリと見た。
久しぶりに見せる笑顔を見て、俺の心のモヤモヤも少し晴れたよ
うな気がした。
俺は頬杖を付いてその様子を眺め、紅茶で口を潤した。
﹁カオル、食わんのか? 崩れてしまっては味も落ちる﹂
﹁いや、見ているだけで十分ですよ﹂
﹁そうか?﹂
残念そうに匙を見つめる乃江さん。
一口食えばその分、乃江さんを眺める時間が減る。そう考えた俺
は変だろうか。
だが匙を見つめた乃江さんは意を決して、なにか思い切ったよう
に鼻息を荒くした。
生クリームを掬い、アイスと絡める。そしてチョコチップを上手
く掬い取り、俺の前にズイッと差し出した。
﹁ほれ!﹂
2154
最上級の羞恥プレイだった。
俺は口を引き攣らせ、首を振って拒絶した。
だが、乃江さんは頑として匙を引こうとしない。目で威圧しなが
ら、鼻に触れそうな距離まで匙を突きつけた。
目の前で匙の上に乗ったアイスが崩れて、テーブルに毀れようと
している。
俺は反射的に口を開き、パクリと口に収め、頭を動かして匙を引
き抜いた。
﹁頑固者!﹂
俺は口の中でパフェを味わいながら、非難の声を上げた。
だが乃江さんは動じず、もう一盛匙の上にアイスを掬っている。
そして再び鼻先に突き付け、今度は強引に口の中に押し込んだ。
﹁もう遠慮するの、やめようと思う﹂
﹁は?﹂
﹁これまで美咲お嬢様に遠慮していた。由佳やマリリン、真琴にも﹂
﹁ふむ?﹂
﹁でもこれからは遠慮しない事にした﹂
乃江さんは再びパフェを掬い、今度は自分の口へと運んだ。
そしてキッと俺を睨み付け、ザックリと大味に掬い取ったパフェ
を、再び俺の口に押し込んだ。
2155
﹁私はカオルの事が好きなんだと思う。その気持ちは仲間達と同じ
だろう。一歩引いて見ているだけで良いと思っていだが、これから
は遠慮しない﹂
﹁むぐっ!﹂
口の中でかき回された匙が歯に当たる。
今なにかすごい事を言われたような気がするが⋮⋮。
乃江さんが俺に好きって言わなかっただろうか。
﹁マジっすかっ!﹂
﹁真剣に考えてくれ﹂
乃江さんは俺の口から匙をスポンと引き抜き、テーブルの上で匙
を弄んだ。
けれど見つめ返す目は真剣そのものだった。
俺は頭を掻きながら言葉の意味をかみ締め、俺の本心を口にした。
﹁すいません﹂
俺はテーブルに頭を擦り付けるように謝った。
恐らく乃江さんは表情を変え、俺を見つめている事だろう。
﹁身に余る光栄です。けれど俺はまだまだ子供です。今回の魂喰い
案件に携わって、より一層そう思うようになりました﹂
頭を上げて乃江さんの目を見つめ返した。
﹁今回思った事、心が未熟なまま親になって子を成す事は、不幸を
2156
生むのだと思いました。恋をするにも同じ。未熟な心のままでは不
幸を生む、そう思わされました﹂
﹁うん。分かる気がする﹂
﹁俺は子供のまま恋をするのは嫌です。もう少し心を育て、愛情を
受け入れるだけでなく、何かを相手に与えるように成長したい﹂
﹁そうか﹂
﹁それに俺は一度乃江さんを泣かせているんです。精神世界で乃江
さんを⋮⋮﹂
乃江さんは目を見開いて俺を見つめている。
心を開いてくれた乃江さんに、これ以上隠しておく必要もない。
俺はそう踏ん切りをつけ思いを打ち明けた。
﹁俺の初恋は精神世界の乃江さんです。あの時俺は確かに乃江さん
に恋慕の情を持っていた。けれど⋮⋮﹂
泣かせてしまった。
あれは俺の未熟な心が作り出した世界観なのだと思っている。
それを気づく為のイベントだとして、未熟なままでは現実でもい
つかはああなる。
それは自分の不幸だけではない、愛する者に対しても不幸を生む。
成長せず快楽に身を任せ子を成した時、アマミのような不幸を生
むかもしれない。
﹁では⋮⋮もし、今、美咲お嬢様が告白しても?﹂
2157
﹁お断りします﹂
﹁由佳ならば?﹂
﹁同じく﹂
﹁マリリンでも?﹂
﹁はい、すいません﹂
﹁真琴ならばどうだ?﹂
﹁ええい、くどい!﹂
乃江さんは満面の笑みを湛え俺を見つめた。
そして溶けそうなパフェに匙を突き刺し、大きな口を開けてアイ
スを味わった。
﹁初恋の相手がカオルの心の中にいる私ならば、大いに脈はありと
見ても良いな。それに⋮⋮﹂
﹁一度断られた位で諦めたりしない﹂
乃江さんの目は一筋縄ではいかない、強い意思を持っていた。
そして再び匙でパフェを掬い取り、俺の鼻先に突き付けた。
俺はその匙をなんの抵抗も無く口に運び、元々の心のモヤモヤに
ついて口を開いた。
﹁週末の土日は奈良への旅行です。そこで踏ん切りつけませんか?﹂
2158
﹁そうだな﹂
奈良への旅行。最終決戦の折、美咲さんと約束したものだったが、
踏ん切りをつけるには丁度いい。
心の中に住まうモヤモヤとした何か。それを吹き飛ばせるのは︱
︱。
土曜の朝、俺は退魔士マンションにバイクを停め、荷物をくくり
付けていた縄を解いた。
音を聞きつけ駆け下りてきた真琴。まだ眠そうな宮之阪さんが出
迎えてくれた。
彼女らも準備を済ませているらしく、足元には鞄が置かれている。
最近真琴は宮之阪さんにベッタリで、山科さんと宮之阪さんの部
やましな
屋を行き来し、変則的な居候を決め込んでいるらしい。
﹁真琴、義姉さんが悲しんでいたぞ。うちの事嫌いになったんやろ
か⋮⋮って﹂
﹁だってマリリンさんの方が料理も出来るし、頼り甲斐があって師
匠っぽいもん﹂
ジト目で睨み付けた先には、申し訳なさそうな山科さんの顔。
どうやら真琴はこうやって山科さんに訴えかけているらしい。料
理を勉強しろ、技を磨けと叱責しているようだ。
ちなみに藤森真琴は山科家の養女となり、山科真琴と名乗ってい
る。
山科さんの母に受けが良く、姉をすっ飛ばして家督を継いでもら
2159
いたいとまで言われている。
もちろん真琴は山科さんが継ぐべきだと思い、事ある毎に修行、
修行と義姉を追い立てているのだ。
﹁出来のいい義妹を持つと大変だよな﹂
俺は山科さんの肩をポンポンと叩き、同じく出来のいい妹を持つ
者として共感した。
うちの葵も事ある毎に小姑っぷりを発揮して、嫌味たらたらと俺
のケツを叩く。
葵はコッソリとキョウさんに師事していて、週末になれば京都へ
と通っている。
綾乃さんと別居状態のキョウさんだったが、押しかけ女房の如き
葵のお陰で、食生活も向上したようだ。
カジノ船で稼いだ貯金があるから、中学生らしからぬ行動を平気
でするようになった。
ちなみに綾乃さんは未だ学校の教師をしている。
葵が押しかけてキッチンに立っている時に、綾乃さんとものの見
事にかち合ったらしい。
その修羅場がどうなったか、葵の口からは聞かされていない。
だが今も別居状態が続いている事を思えば、関係修復には至って
いないのだろう。
﹁皆さん準備出来てる?﹂
美咲さんが鞄を手にエントランスまで降りて来た。
その後ろに控えていた乃江さんは、俺の顔を見るなり駆け寄って
きた。
﹁カオル、寝癖が付いているぞ? それに服のボタンを掛け違って
2160
いる﹂
俺の髪を撫で、手櫛で梳かしてくれ、掛け違ったボタンを掛け直
してくる。
そんないつもと違う乃江さんの様子を見て、全員の頭にビックリ
マークが点灯した。
口を三角形して、呆然としている宮之阪さん、歯軋りする真琴、
メガネの位置を整える山科さん。
一人美咲さんだけは微笑ましくその様子を見ている。それが怖い。
﹁さあさ、皆さん行きましょうか﹂
手に持った鞄を振り、乃江さんのお尻を叩く美咲さん。
ニコニコしながら怒ってる。そんな気がする。
俺は真琴と宮之阪さんに両脇を固められ、無理矢理その場を後に
した。
2161
﹃After 2/2﹄
地元の駅から在来線で新幹線の発着駅まで乗り継ぎ、新幹線に乗
れば京都駅まではあっという間の旅だった。
相変わらず鉄道オタクの乃江さん、手配に隙がない。
リラックスしたシートで一眠りし、気が付けば目的地まで到着し
てしまった。
JR京都駅で乗り換えて奈良へと向かう前に、京都の地でするこ
とがあった。
俺達は駅前のロータリーでタクシーを拾い、比叡の山へと向かっ
た。
じえいあじゃり
﹁落ち着いたら一度顔をお見せ﹂
慈英阿闍梨がそう俺に電話を掛けて来た。
俺も頃合を見計らい、今こうして対面の機会を設けた。
﹁比叡の高僧いうたら京都では、政治家より権力持っとるんや。一
見さんお断りの置屋も顔パスやで﹂
じえいあじゃり
土地っ子である山科さんが説明してくる。
しかし高僧が芸者遊びするかなぁ⋮⋮、慈英阿闍梨だったら、や
ってそうな気がするが。
﹁山科さん、実家に顔出さなくて良いの?﹂
家の近くまで来たのだし、挨拶くらいしておいた方が良いと思う。
母から聞かされた山科さんのお母さんは、﹃ごっつ強いけど寂し
がりや﹄って聞いてるからな。
2162
﹁ええねん。ええねん。修行とか家督がどうのとかな。耳にタコや﹂
山科さんはメガネの位置を整え、俺の向こうへ目を向けた。
その視線の先には乃江さんのすまし顔。山科さんはなにか言いた
げな表情をし、誰に聞かせるでなしに口を開いた。
﹁いつもやったら美咲にベッタリの乃江やのに、別のタクシーに乗
り込むなんて珍しいなぁ﹂
その呟きを聞いて、眉一つ動かさない乃江さん。
それどころか歯牙にもかけず、どこ吹く風で遠くを見ている。
﹁心気一転、なにかあったのかな∼、乃江ちゃんに﹂
﹁カオルに好きだと言って断られた。それだけだ﹂
山科さんはメガネの奥の目を見開いた。
そして乃江さんと俺の顔を交互に見て、鋭い目つきで俺の頬を引
っ張った。
﹁なんで? こんな上玉そうおらんで? カオルの目は節穴か?﹂
﹁いっ、痛たた﹂
我が事のように怒りを露にし、ポカポカと頭を叩く山科さん。
俺の口から説明するわけも行かず、なすがままにされるしかなか
った。
﹁けれど、私がカオルを好きという気持ちは変わらない。だからこ
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こに座っている。ダメか?﹂
山科さんは涙目で首を振り、それ以上口を開かなかった。
頬を引っ張る手を離し、シュンとして小さく縮こまり、黙って俯
いてしまった。
﹁この旅で自分のした結果を見定め、心に刺さって抜けない棘を抜
きたいと思っている﹂
﹁棘⋮⋮、弾丸摘出の件か﹂
山科さんは力無い溜息を吐き、揺れる目を乃江さんに向けた。
﹁同じ痛みを持っているのは私やカオルだけはない。ユカやマリリ
ン、お嬢様や真琴も同じ痛みを心に納めていると思う﹂
﹁そやな。あの時ああするのが最善の策か、考えん日はなかったわ﹂
﹁それを確かめたいと思っている。今は色恋は後回し。落ち着いた
らデートにでも誘おうかと思う﹂
﹁そっか、うちも応援⋮⋮って、それだけはアカン。抜け駆けは厳
禁や!﹂
俺を挟んで二人の会話がエスカレートする。
明け透けと話され、俺が聞いている事を気にもされていないのか
と、少し心が傷ついてしまう。
そんな折、いいタイミングでタクシーの運転手が声を掛けた。
﹁そろそろ言わはった場所に着きます。駐車場まででよろしいやろ
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か?﹂
タイヤは玉砂利を踏みしめて停止した。
会計係の乃江さんは財布を開けて代金を支払っている。
俺と山科さんは先に降り、目の前に広がる寺社の姿に目を移した。
遠くで僧が二人こちらに気が付き会釈をしている。
その僧達はこちらへ足早に歩み寄り、間近に来てもう一度頭を下
じえいあじゃり
げた。
じえいあじゃり
﹁慈英阿闍梨から伺っております。こちらへ﹂
僧達は慈英阿闍梨の元へ案内してくれた。
座布団を配した広々とした板間の間へ通され、間も無くして慈英
阿闍梨が顔を見せた。
﹁遠うまでご苦労さんやったな﹂
人の良さそうな笑みを浮かべ、音も無く座布団に座った。
目を見張り食い入るように慈英阿闍梨を見つめる乃江さん。
そういえば乃江さんも俺の精神世界でギュンターGと出会ってい
た。その時の事を思い出しているのだろうか。
慈英阿闍梨は一人一人の顔をジッと見つめ、心の内を見透かした
ように笑い出した。
﹁どの御仁もしょぼくれた顔しとるな。こんな爺を見とうて、ここ
まで足を運んだ訳やないもんな﹂
慈英阿闍梨はポンポンと手を叩き、奥の間に合図を送った。
しばしの間があり、奥から一人の僧がお茶を用意して現れた。
そしてその僧を手伝うように付き従う子供の僧。
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小さな僧衣の胸元には生々しい弾丸の痕が見て取れた。
僧が茶を子供の僧へ手渡し、彼が一人一人にお茶を手渡していく。
﹁お茶です。お召し上がりください﹂
皆は一様に喉を詰まらせて言葉が出ない。
小さな僧の顔をじっと見つめ返すのが精一杯だった。
﹁お茶です。お召し上がりください﹂
彼は俺に茶を差し出した。
俺はアマミの顔を見つめ、不覚にも涙が出そうになってしまった。
﹁ありがとう﹂
弾丸摘出の折、彼は過去の記憶を失ってしまった。
弾丸摘出の為か、それとも鎮圧部隊に弾丸を打ち込まれたせいか
は分からない。
不幸な過去だから忘れてしまってもいい、そんな事は決してない
と思う。
俺はアマミから過去を、母と父の記憶を奪い取ってしまったと悔
いていた。
頬を伝う涙を覚られぬように拭い、いただいた茶に口を付ける。
アマミはそれをジッと見つめ、ニコリと微笑んで頭を下げた。
僧に促されるように別室へと戻っていく小さな背中を、俺は閉じ
られる扉に消えるまで見送った。
﹁アレもここに運ばれた当初は、夢でも見とるように過ごしておっ
た。だが人は強いの。今では他の僧侶を見習って手伝いもする﹂
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寝たきりの子供がすぐに社会復帰できるとは思っていなかった。
それどころか数年眠り続けた体が、人と同じように立てるまでか
なりの年月を要する。
美咲さん達の治癒のお陰でもあるだろうが、アマミの霊力による
所が大きいと思う。
手術から数日で立ち上がり、動くことが出来たと聞く。
秋月の力を借りねば成し得なかっただろ
警察や省庁の働きでこの比叡の山へと搬送し、慈英阿闍梨に受け
入れてもらった。
これは牧野の祖母、邱
う。
﹁子供の脳はまだ成長を続ける。今は忘却している過去も、いつか
思い出すかもしれんな﹂
俺の心に刺さった棘を見抜くように、慈英阿闍梨が口を開いた。
俺の顔を見つめ、仲間の顔を見回した。
﹁いや、必ず思い出すじゃろ。その時は過去を悔い、それでも強く
生きていける、そんな心に育っておると良いな﹂
慈英阿闍梨は目尻の皺を深く刻み、俺達の心を優しく撫でた。
俺は横目で仲間達の顔を窺う。
涙ぐむ仲間達の顔、だが来る前とは違う目の輝きを感じた。
﹁悩むのもええが、そればっかりじゃいかん。時にはから元気でも
ええから、上を向いて歩む事も必要や﹂
慈英阿闍梨はそう言って、俺達の背中を押してくれた。
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俺達は比叡の山を後にして、再び京都駅へと向かった。
そこから近鉄特急に乗り、40分足らずで奈良へ到着した。
駅から徒歩で数分の距離、猿沢の池のそばに立つ宿へと到着した。
﹁うわぁ、畳の匂いがたまらん!﹂
真新しい畳敷きの大部屋。
俺達は荷物を置いて手足を伸ばした。
カナタとトウカがちゃぶ台の上に飛び乗り、茶菓子に目を光らせ
ている。
﹁大部屋やから今回はカオルも一緒やな﹂
﹁一人部屋は気が楽ですけど、寂しいですからね﹂
性差を越えた友、戦う仲間、俺と仲間達に垣根は作りたくない。
男と女の間に生まれる感情は愛や恋以外に、友情であってもいい。
最近はそう思うようになった。
﹁カナタの生まれたご神木は、この近くにあるんですよ﹂
宮之阪さんが前回訪ねた神木の方角を指差して、皆に説明してく
れている。
菓子を齧りながらコクコクと頷くカナタ。
興味津々で聞き耳を立てる仲間達。
﹁さぁて、聞かせてもらおうやないか。カオルの前世と美咲の前世、
カナタの事を!﹂
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俺は茶で喉を潤し、これから話す昔話を思い描いた。
俺と美咲さんに全員の視線が集中する。
﹁長くなりますよ。それでも聞いてくれますか?﹂
俺はそう前置きし、目を閉じて昔話を話し始めた。 2169
﹃After 2/2﹄︵後書き︶
これにて魂喰い案件は終劇となります。
次回の活躍をご期待ください。
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PDF小説ネット発足にあたって
http://ncode.syosetu.com/n0981e/
A++
2009年12月16日14時21分発行
ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。
たんのう
公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ
うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、
など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ
行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版
小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流
ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、
PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル
この小説の詳細については以下のURLをご覧ください。
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