土田麦僊の関眞次郎あて葉書

土 田麦 悟 の関 員 次郎 あ て葉書
〓 土 田麦磨 あ て書簡 に ついて
横 山 秀 樹
、
土 田麦 僧 ︵一人 人七 ∼ 一九 二六︶は 近代 日本 画を代 表す る画家
、
。
で 京 都 画壇 の 一人 と し て活 躍 し た 優美 さと 緊 張 感 にあ ふれ る
、
、
数多 く の名 作を残 し 内 在 した美 しさを秘 めた気 品 あ る作 品群 は
。
現在 にお いても燦然 た る輝 きを放 って いる
、
麦 悟 は 四十九 歳 と いう 短 い生 涯 の間 勢 力 的 に作 品 を お く と と
も に多 く の書 簡 を 残 し て いる。 書 簡 は妻 の千 代 に宛 てたも のや
以後 ﹂と記載 ︶
田中 皓 一﹁
土 田麦 倦 研 究 ︵こ か ら ︵
十 八江 ﹃
萌 斉 ﹄一七 七 号 ∼
、
一九 五号 昭和 四十 四年 ∼ 昭和 四十 六年 ︵
以後 ﹁
土 田麦悟 研究
十 八こ と記載 ︶
曇 ︶から ︵
土 田麦 の 簡
﹃ 潟 大 学 教養 学 部 紀 産 第
︵
加 藤 信 一﹁
悟
書
こ
﹂
新
、
以後 ﹁
土 田麦 悟 の書 簡 ︵こ ﹂
二十 五巻 第 二号 昭和 五十九 年 ︵
と 記載 ︶
土 田麦 憾 の書 簡 公 0﹂ ﹃
新 潟 大 学 教 養 学 部 紀 要﹄第
加 藤 信 一﹁
、
二十 六巻 第 一号 昭和 五十 九 年 ︵
以後 ﹁
土 田麦 僧 の書 簡 合 0﹂
と記載 ︶
田中 日佐夫 編 ﹁
土 田麦 悟 の野村 一志 あ て書 簡当 美学美 術史論集﹄
、
、
第 四輯 成 城大 学 大 学 院文 学 研 究 室 昭 和 五十 九年 ︵
以後 ﹁
野
村 一志 あ て書 簡﹂と記載 ︶
田中 日佐 夫 編 ﹁
上 回麦 悟 の ヨー ロ ッパ か ら の書 簡 ﹂ ﹃
美 学美 術
、
、
史論集﹄第 六報 成 城大学大学 院文学 研究室 昭和 六十 二年 ︵
以
後 ﹁ヨー ロ ッパから の書簡 ︵
続編 こ と記載 ︶
田中 日佐 夫 編 ﹁
美
土 田麦 倦 の ヨー ロ ッパか ら の書 簡 ︵
続 編と ﹃
、
、
学 美 術 史 論 集﹄第 六 輯 成 城 大 学 大 学 院 文 学 研 究 室 昭 和
六十 二年 ︵
以後 ﹁ヨー ロ ッパから の書簡 ﹂と記載 ︶
土 田麦 僧 の初 期 作 品 と青 年 期 に つ いて﹂ ﹁
新 潟 県美
横 山秀 樹 ﹁
、
以後 ﹁
初 期 作 品 と 青年
術 博 物 館 紀 産 第 一号 昭和 六十 二年 ︵
期 に ついて﹂と記載 ︶
かき つば た 土 田麦憾 の愛 と 芸 術﹄
柏木 加 代 子 ﹁
麦 磨 と パ リ﹂ ﹃
、
以後 ﹁
麦悟 と パリ﹂と記載 ︶
大阪 大学出版会 平成 十 五年 ︵
土 田麦 悟 藍 原 五 三郎 宛 書 輸 ﹂鳩 村 研 究会
計 良 勝範 ・上 田文 ﹁
以後 ﹁
平成 十 五年 ︵
藍 原 五三郎宛書輸 ﹂と 記載 ︶
。
な どが刊 行 さ れ て いる
、
書 簡 に つ いて最 初 に公 にさ れ よう と し た のは 麦 倍 の塾 であ っ
、
た 山南 会 が麦 悟 の亡 く な った後 遺 作 集 と し て昭和 十 七 年 に編纂
。
した ﹃
土 田麦 悟﹄ ︵
註 一︶であ った こ の本 には書 簡 が 八十 五点 掲
、
載 さ れ て いるが 刊 行直 前 に大 原 孫 三郎 の意 見 により 公 にな ら な
(1)
、
後援 者 に宛 てたも のな ど があ り 制 作 途 中 の暇を惜 し ん で書 か れ
、
。
たも のも多 く あ る 麦 層 の書 簡 の特 色 と し て 日常 的 な こと は当
、
、
然 な が ら 制 作 中 の作 品 に つ いて の考 え 方 や 絵 画 に関 す る芸 術
、
論 時 代 の状 況 な ど多 種 にわ た って書 き と めら れ て いる こと であ
、
。
る これを 読 み解 く こと で 麦 倍 芸 術 の真 価 により 肉 薄 す る こと
、
が出 来 ると と も に 近 代 日本 画 が ど のよう な 状 況 のも と で成 立 し
、
。
てき た かを知 る こと が出 来 る 一級 の資料 と な って いる
、
これま でにも 多 く の研 究 者 が麦 倍 の書 簡 に ついて読 み下 しを
、
。
お こな い 研 究 成 果を 発 表 し てき て いる 書 簡 を 複合 的 に研究 す
、
、
る こと により 麦倦 作 品 に対 す る認識 が深ま りを みせ 作 品 研究 も
。
一段 の充実 がな され てき て いる
、
これま でに麦倍 の書簡 を紹介 し てき た文献 には
、
山南会 編 ﹃
土 田麦塵 大 原孫 三郎 昭和十 七年
、
金 井徳 子 ﹁
土 田麦 倦 の滞 欧 書 簡 ﹂ ﹃
比 較 文 色 第 二号 東 京 女 子
、
以後 ﹁
土 田麦 悟 の滞欧 書 簡﹂と記載 ︶
大学紀 要 昭和 〓十 二年 ︵
、
比較 文 化﹄第 四号 東 京
金 井徳 子 ﹁
土 田麦 悟 のイ タ リ ア通 信﹂ ﹃
、
以後 ﹁
土 田麦倦 のイ タリ ア通信﹂
女 子大学紀 要 昭和 三十 三年 ︵
と記載 ︶
、
金 井徳 子 ﹁
麦 憾 の滞 欧 生 活 と そ れ 以後 ﹂ ﹃
比 較 文 埜 第 五号 東
、
以後 ﹁
麦 悟 の滞欧 生活 と そ れ
京女 子大 学紀要 昭和 三十 五年 ︵
口 48
、
か った も のであ る 全 冊廃 棄 処 分 さ れ た こと にな って いるが 現
⋮
。
l
も
ま
古
r
に
本
た
で
に に出 てく る こと があ る ﹃
土 田麦 偲﹄の本文 中
、
⋮
、
一にい人 吹孫 郎 氏 に苑 てた書 間 は紹介 さ れ て いな いが 晩 年 の後
、
てあ った大 原氏 に宛 てた書 簡 類 が 公 にさ れ る こと があ れば
二 /︼
、
主 キL桜公 への出 品作 に つ いて 制 作 におけ る考 え な ど が より
″
=〓 らか にな ると 思わ れ る。
、
上高友 倦 一
は刊行 さ れ な か った ので 麦 悟 の書 簡 に つ いて最 初
、
一牛ネ 拘 にた災 した のは 金 井徳 子 氏 であ る。 東 京 女 子大 学 の紀
一 工教文 化 一のな か で発表 さ れた論 文 は、〓一
回 に分 け ら れ て掲載
、
﹁ ︰′一
f 多 く の青 簡 類 を も と に 麦 悟 研 究 と し て級 密 で系 統 だ っ
■1■ であ り、ヨー ロ ッパか ら留 守 宅 の千 代 夫 人 に宛 てた書 簡 が
itて公 にな ったも のも あ った。 また他 の書簡 類を変 え麦 偲 の生
、
、
こ
も
し
し
ら
・
な
を
れ
の
た
ふ
が
介
麦
観
校
証
紹
悟
芸
術
優 れた論考 で
、
ゴ つ これ以降、
々
麦 偲 の作 品 に ついて論ず るとき には 書 筒類 によ
う 慎証 が大き な比重を占 め るよう にな ってき て いる。
︱
︱
中 国佐夫氏 が編集 ・解説 した ﹁
︱
土 田麦偲 の野村 一志あ て書簡 ﹂
1
L1
1
友 悟 のヨー ロ ッパか ら の書 簡 ﹂ ﹁
一
土 田麦 偲 の ヨー ロ ッパから
。
のど 簡 ︵
続 編 こ の〓冊 は質 ・量と も すぐ れたも のであ った こ の
、
同
三冊 の ﹃
美術美 学史 論集﹄は 主
年 時代 か ら の野村 一志 氏 と の交 流
、
によ る書 簡 ︵
明治 四十 四年 か ら 昭和 十 一年 ま で︶麦 偲 が千代 夫 人
、
に宛 てた 大 正 十 年 十 一月 か ら 大 正 十 二年 三月 ま でに至 る ﹁ヨー
、
ロ ツパか ら の書簡 ﹂続篇 では ヨー ロ ッパか ら の ハガ キ類を 中心 に
し て収 録 さ れ ており、ヽ
﹂の資 料 を み るだ け でも 麦 偲 の筆 ま め さ が
よく わか る。
、
田中 皓 一氏 は ﹃
萌 春﹄に十 八 回連 続 で掲 載 し た ﹁
土 田麦 僧 研 究
。
十 人と の中 で麦 悟 の論考 を 行 った 書 筒 やそ の他 の資
曇 ︶か ら ︵
、
料を 基 に級密 な考 証を行 って いるが 村 松 梢風 の ﹁
本朝 画人伝 ﹂的
、
な趣 が見 られ ると こ ろがあ り 力 作 であ るが 一般 的 にあ ま り 知 ら
。
れ て いな い
、
麦 悟 と パ リ﹂の中 で 柏 木 加 代 子氏 は欧 州留 学時 代 に フラ ン ス
﹁
、
で知 り 合 った ア ンリ エ ツト ・コル デ イ エか ら麦 倦 に宛 てた書 簡
、
を 紹介 し 滞 欧 時 に麦 偲 がど のよう な生 活 を おく って いた のか垣
、
。
間見 て いる アンリ エット の書 間 には甘 い想 いが級 ら れ て いるが
麦 悟 が フラ ンス滞在 中 に制 作 した作 品 に ついては触 れら れ て いな
、
。
い 柏 木 氏 によ ると 麦 悟 は帰 国後 友 人 の画家 に ア ンリ エ ツト か
ら送 られた書簡 を預け て いたと いう。
計良 勝 範 氏 と 上 回文 氏 によ る ﹁
土 田麦 偲 藍 原 五 三郎 宛 書 翰 ﹂
、
。
は 明治 三十 七年 か ら 昭和 三年 ま で の十 通を 紹 介 し て いる 藍 原
五 三郎 は麦 僧 が生 ま れ育 った新 潟 県 佐 渡 郡新 穂 村 ︵
現佐 渡 市 ︶に
、
、
あ る 新穂 尋常小 学校時 代 に教 えを受 け た恩 師 で 京都 に上京 し て
。
から藍 原氏 が亡く な るま でに背 き 送 った書 簡 であ る ま た計良 氏
、
によ ると 新 穂高 等 小 学 校 から の友 人 であ った高 野詢 二氏 に宛 て
。
た未 発表 の書 簡 が 二十七 通残 さ れ て いる 藍 原先生 に宛 てた書 簡
、
、
は明治 時 代 のも のが 五通あ り 麦 徳 が上京 し て栖鳳塾 に入 り 竹 杖
。
会 で勉 強し て いる頃 の様 子 が伺え る内 容 のも のであ る
、
拙論 の ﹁
土 田麦 倍 の初 期作 品と 青年 期 に つ いて﹂の中 では 麦 偲
、
が法 衣商 であ った峯 芳 吉 氏を 頼 って京 都 へ上京 し たあ と 峯 氏 に
。
宛 てた書 簡 を 紹介 した こ の書 簡 は現在 に新 潟 県立 近 代美 術館 ・
。
万代島美 術館 の所 蔵と な って いる
、
関員次郎 あ て書 簡﹂ に ついて
二 ﹁
、
加 藤 信 一氏 は ﹁
土 田麦 悟 の書 簡 ︵こ ﹂﹁
土 田麦 僧 の書 簡 含 こ﹂
、
を 新潟 大 学 教 養 学 部紀 要 に発 表 し ハロ計 五十 五通 の書 簡 を 紹介 し
、
。
て いる ここ で紹介 された書 簡 は 新潟 県加 茂 町 ︵
現加 茂 市 ︶で当
、
時 大 規模 に機 械 織 物 業 を 行 って いた 関員 次 郎 氏 に宛 てた も ので
、
、
、
。
あ る 関 氏 は美 術 収 集 家 と し ても 知 ら れ 古 美 術 書 画 道 具 類 な
ど多 方 面 にわたり亮集 し て いた。
、
昭和 四年 ︵一九 二九︶ ニ ュー ヨー ク のウ オー ル街 で起 き た株 価
、
の大 暴 落 によ る世 界 大 恐慌 は 翌 五年 には 日本 も 巻 き 込 み全 国 で
、
大 恐 慌 に陥 り 農 村 部 でも 生 糸 や農 産物 の大 暴 落 など 経 済 的 な破
、
。
綻 が起 こ った 関氏 の事 業 も 不況 に巻き 込ま れ て経営 不振 と なり
関 民 次 郎 あ て■ 価
(2)
ヽ
4ア
昭和九 年 には美術 品 などを整 理 し て入札 にかけざ るを得 な い状況
。
に陥 った
、
、
加 藤 氏 は 関員次 郎 氏宛 て の書 簡 五十 五通を紹介 した が 関家 に
。
は こ の他 十 四通 の葉書 が残 さ れ て いた そ のう ち十 通 が大 正十年
、
︵一九 二 一︶か ら大 正十 一年 にかけ て書 か れたも のであ り 麦 悟 が
ヨー ロ ッパ遊学を行 って いた時期 のも のであ る。 残 り の四通 は昭
和 四年 ︵一九 二九 ︶か ら 昭和 十年 ︵一九 三 五︶ま で に出 さ れた絵 葉
、
。
書 で 帝 展 への出品作 に ついて記載 され て いる
、
関氏 宛 て の書 簡 類 は 明治 四十 四 ︵一九 一一︶年 十 一月 十 六 日 に
、
出 さ れ たも のが最初 であ り 最後 は昭和 十 ︵一九 三五︶年 六月 十 五
、
、
日だ ったと思わ れ る。 こ の間 ﹃
関家蔵 品 入札﹄によれば 関氏 は麦
、
悟 の作 品 を多 く 所 蔵 し て いるが 麦 倍 の斡 旋 によ って購 入 したと
、
考 え ら れ る竹内 栖 鳳 の作 品 が多 く含 ま れ ており そ の数 は麦 倦 の
、
。
作 品数 を は るか に凌 いで いる 書簡 には小 野竹喬作品 の斡旋 依頼
、
黒 田重 太 郎 の新 潟 で の画 会 開催 の打診 など も 書 か れ ており 関氏
と麦 偲 と の関係を知 る こと の出 来 る資料 と な って いる。書 簡類 は
、
切手 収 集 のた め に剥 が さ れ て いるも のが多 く 一部 には差 し出 し
、
年 月 日 が判読 不能 のも のも あ るが 野村 一志 宛 の書 簡 を参 考 にす
。
る こと によ って差 出年 月 日を類推 す る こと は出 来 る
、
関真 次郎 氏 にあ てた 土 田麦 偲 書 筒 類 は ひ孫 の関岳 夫 氏 が所 蔵
、
、
し て いたが 平成 七年 ︵一九九 五︶に新 潟県 立近代美術 館 が購 入 し
。
現在 は新 潟 県 立 近 代美 術 館 ・万 代島 美 術 館 の所 蔵 と な って いる
、
、
購 入 し たと き には書 簡 が 五十 三通 葉書 が十 四通と な っており 加
藤 氏 が発表 したとき より書簡 が 二通少 なくな って いる状態 であ っ
。
た 加 藤 氏 が解読 した書 簡 に ついては後 日改 め て論考 した いと考
、
え て いるが こ の稿 では今 ま で未 発 表 であ った葉 書 の十 四通 に つ
、
。
いて読 み下しを行 い 内 容 に ついて紹介 し て いき た い
、
三 関員次郎 あ て葉書
5
1 ・2
消印 不明 19 21 ・0
①・
大 日本新潟 懸加 茂 町 関員次 郎様
︵
絵葉室昌本 弓汀 ,将 洋 澪営幣目 じ
香港 に て 土 田麦悟
出帆 の際 はわざ わざ御 見 送 り 下 されあ り がたく御 礼申 上げ 門司
を出 ると少 しば かり波 によわりま した がそ れも 三十 分斗 り で元気
を 回復 づ っと 平穏 の航 海を つづ け て八 日上海 に入港 しま した。
上海 は 二泊其 間 に蘇 州 に参 り 有名 な寒 山寺 に参 り月落鳥 鳴 の旧
。
。
蹟 を 見ま した 実 に いい処 でも 一度 来 なく ては いけま せ ん それ
から十 日上海出 帆 今 十 三 日朝 五時香 港 に入港 山上を 支 那人 の
。
資 に の って練 る有様 は新 し い五十 三次 です
、
麦 倦 は 上海 に寄 港 した際 幾枚 か の スケ ッチ ︵
註 二︶を 残 し て い
。
る 何隻 も の舟 ︵
サ ンパ ン︶を 描 いた 一枚 には ﹁
十月 八日午 前 上
、
、
。
海 に て﹂と の記 載 があ り 午 前 に到 着 し た こと がわ か る ま た 川
弓甫 に て
に って てら れた を いた
には ﹁八 日午 後 立
沿
家
描
一
建
枚
。
麦﹂と書 かれ て いる 上海 では中 国娘 ︵
支 那歌疲 ︶に興を そ そら れ
た ら しく 同 じ画帳 に ﹁
時 鴻﹂ ﹁
楽 第 ﹂と書 か れた素 描 も書 き 残 し て
。
いる
、
、
十月九 日 上海 から汽 車 で二時 間 かけ蘇 州 城外 の停車 場 に着 き
。
寒 山寺 ﹂ 研田園 ﹂な ど を訪 れ夕 方 五時 の汽 車 で戻 って いる 香 港
﹁
、
では ケ ー ブ ルカ ー でピ ー ク の上 に上 り 午 後 には自 動 車 で香 港 一
関 員 次 郎 あ て葉 書
(3)
。
周を行 った
、
欧 洲芸 術 巡礼 紀行﹄︵
野村 一志 あ て書簡 ﹂大阪時事 新 報社 編 ﹃
﹁
註
、
、
一 ﹁
絵 葉書 ﹂や スケ ッチ によ ると コロンボま で の行 程 は次 のと
こ
。
おり であ る ︵
註 四︶
、
。
十月 一
二日 汽車 で京 都出発
■ 46
、
。
卜
日
月
に
四
出
午
十
一
時
郵
賀
丸
て
前
船
茂
帆
、
、
。
。
十 月 八日 午前 六時 上海 入港 午後竜 甫を散 策 夜 には 支 那
。
歌疲 置屋 に いく
、
、
。
十 月 九 日 午前 に蘇州 着 寒 山寺 などを訪 ね 午 後 に賀 茂丸 に
。
帰る
、
。
。
十 月 十 日 午前 八時 上海出帆
、
。
十 月十 三日 香港 に朝 五時 に入港
、
十 月十 九 日 シ ンガポ ー ル
、
シ ンガ ポ ー ル ︵
新嘉 坂 ︶には 午後 三時過 ぎ に町 の西端 に
。
接岸 し翌 二十 日 の夕 方 に出帆 した 一泊す る間 に自 動車
、
、
を 展 い 現地 人 の集 落 や植物 園 に行 って いるが 麦 偲 は小
、
。
舟 や荷車を 引く牛 現地 人などを スケ ツチし て いる
、
、
十 月 二十 一日 マラ ッカ ︵
馬 粒 加 ︶には未 明 に到 着 出 帆 ま で の
、
わず かな時 間 に上 陸 し 麦悟 は船 着 場 の風 景を スケ ッチ
し て いる。
、
。
十 月 二十 一日 ペナ ンに午 後 到着
。
馬車 で支那寺 院 の極楽寺 を見学
、
。
十月 二十 二日 ペナ ンを午前 四時 に出帆
、
。
十月 二十七 日 コロンボ ︵
古 倫 母 ︶に夕方 到着
、
。
上陸 し ホ テ ルに宿泊 翌 日自 動車 で市 中を 見学
、
。
十月 二十 八日 コロンボを午 後 二時 に出帆
日本新潟 懸加 茂 町 関真次 郎様
1 ・1
7
工卜殿尚H
FFDl o>刃D l92 1 ・1
②・
十 一月十 二日
。
一行 はま こと に元気 □ □□ 十 一月 九 日 に ス エズ に着 き ま し た
コロンボを 出 て十 三昼夜 日 です。 それ から船 が ス エズ の運河を 通
る間 にカイ ロを見 てま わ る事 にしま した。 十 一時 に立 つと其夕 方
。
五時 に カイ ロに着 き ます そ れから ラクダ でピ ラミ ッド の立 って
。
丁度 月夜 だ った ので
居 る丘を上ります
︵
絵葉 書裏 ラクダ四匹︶
ピ ラ ミ ッドが星 の輝 く空 に浮 き 上 って居 るし□□ ロ スピ ンク ス
。
生 れ て初 め て の深 い感 動
が月 の光 に半 面白 く 照 らさ れ て居 ます
。
でした ︵
以 下イ ンクが渉 ん で いるた め不明 ︶
一
軍 刃あ
1 ・7
1921 ・1
2
、
同 日麦 偲 は 野村 一志 氏 宛 てに葉 書 を 出 し ており 京 都 か ら欧 州
に向 か った 一行 が総 勢 二十 五 人 と書 いて いる。 ス エズ ︵
蘇 士 ︶に
、
着 いた 一行 は 翌 日 に船 が出 帆 す るま で の時 間 を 利 用 し てカイ ロ
。
見 学 を 行 った カイ ロま で汽 車 で六 時 間 の行 程 で夕 方 五時 に到
、
、
着 し そ こ か ら自 動 車 でピ ラ ミ ッド の近 く ま で行 き 後 は ラ ク ダ
、
に乗 って見 学 を し 現 地 のホ テ ルに宿 泊 し て早朝 ポ ート サ イ ド に
。
一
戻 って いる
③
大 日本新潟 懸加茂 町 関員次 郎様
上 回麦 仙拝
F島L 田︻
の
の
op ∞﹃ つF単 a
F∽〇ヽ
チ句ヽ
いo毎¢>Eい●4ま∽円臣
ヽ
い■命
o
。
大 変 御 無 沙 汰 致 し ま し た フラ ン ス ヘは十 六 日 に無 事 着 そ れ
、
か ら途 中 アビ ニオ ン リオ ンと博 物館 を 見 物 し つ つ十 八 日朝 十 時
。
□ て□ ね て憧 憬 の地 巴里 に着 き ま した
そう し てこ のホ テ ルに落
。
物 価 な ど は 日本
付 き 質 素 な 留 学 生 と 同様 な 生 活 を し て居 ま す
と殆 ど 同様 で□ □ □ 月 六七 十 円 食 費 ︵
外 出 し て食 べる のです ︶月
。
百 五十 円も あ れば やれま す 毎 日博 物館 を 廻 ってと ても 人 間業 で
。
はな いと 思 ふ名 画 に驚嘆 し て居ま す
□ す ると いふ事 は□ て の想 像 す る以 上 の効 果 が あ ると 思 いま
。 日
。
毎 疲 れ切 る ので つい手 紙も 書 けず失 礼 し ておりま した こ
絵葉書裏 >吾 ①Zoz︶
︵
す
ち らは随 分寒 く京 都あ たり より は寒 いけ れど や つと□ 頃 では慣 れ
。
。
て来 ま した 来月 二十 日頃 には以太 利 に行く かも知 れま せ ん
1 7
ゼ ー 9 2 1 1 1 ス エズ
45
(4)
軍 呂 ∽ 1922 ・1 ・1
︺
画家 であり また自 分 の手 に入 れた
⑤
日本新潟懸加 茂 町 関員次郎 様
。
そ れが ふと画商
三 一日 土 田麦 仙拝
第 二︶も のは世界 の画家 に知 ら れたも のです
︵
の手 にあ る事 が知 れた ので思 い切 って六 千 円を投 じ て手 に入 れま
。
ほど の喜 び でし た これな ど はす き な音 楽 を 聞 かさ れた時 同様 の
、
欧 洲 巡礼 紀 空 によ れば 麦 偲 一行 が パ リ で最 初 に行 李 を 開 い
﹃
、
た のは グ ラン ザオギ ュスタ ン河岸 の三十七番地 にあ るホ テル
、
ビ ツソ ンであ つた。 ホ テ ルは セ ー ヌ川 の左 岸 沿 いに位 置 し 上 に
、
、
聖 ミ ツゼ ル 下 にボ ン ヌ フの二 つの橋 があ り 近く には ルーブ ル
。
美 術館 やリ ュクサ ンブ ル宮 殿 があ った こ の実書 も ホ テルから出
されたも のであ る。
、
麦 層 は こ の葉 書 を 関氏 に出 し たと き に は す で に ル ノ ヮー ル の
、
。
十 五日
作 品 を 一点 購 入 し て いる 十 一月 十 八 日 に パ リ に着 き 一一
。
感 じを持 つ画 です 兎 に角 こう した画 が手 に入 ると いふ事 は こ の
。もし
景
し た。 これ は日本美術 界 の驚異 です。 其 外素晴 ら し いも のを 三 四
パリか ら千代夫 人 にあ てた手 紙 にはす でに作 品を蒐集 した こと が
、
、
。
書 かれ ており 麦 倦 の行 動 の素 早 さ には驚 かさ れ る こ のとき ピ
、
、
、
サ ロの作 品 にも 興味 を 示 し てお り セザ ン ヌ ゴ ッホ マイ ヨー ル
、
の名 前 も 同時 に書 き 挙 げ ら れ 絵 を購 入 す るた め千 代 夫 人 に五千
。
円 のお金 を至急 送 るよう に指 示 し て いる
︵フラ ンが︶仏国 の金 が安 く 日本 の金 が比較的高 い為 です
そ れ で自 分 はどう し ても こ の内 のク ル ベー の
あ てた手 紙 の中 で ﹁
、
麦 悟 は ﹃ヨー ロ ッパか ら の書 屋 によれ ば 十 二月 六 日 に千代 に
画を手 に入 れ て居ります
オ ヂ ロンルド ンと いふ人 の画な ど は 一晩 自 分 は眠 る事 が出来 な い
帰 る迄 にあ まり 評判 にな る事 を 恐 れた か ら です
。
点 手 に入 れま し た処 日本 の人 には 一切 い つて□ □ □ にあ り ます
。
昨秋手 に入 れた
日本新 潟懸加茂 町 関員 次郎様
□御 回 では御多 忙 を極 め て居ら れ る事
ゆ可営冴 土 田麦 仙拝
④ 可>刃あ 192 2 ・1 ・1
。
気 が 一□ 戦前 と 同様 にな った らと ても自 分 など に画 は買 へるも の
。
。
ではあり ま せ ん そ れ でも 画 の高 いのには驚 きま す 尤 も自 分 の
。
買 ったも のは皆 世 界的な 画家 のも のば かり です どう し ても 二千
。
円 より 下 のも のはあ りま せ ん 自 分 は 三食 を杭 っても そ れ程 の名
。
今 晩 は大晦 日 の晩 です
。
でせう □葉書 が御手 元 に入 る頃 は昨 年 御 厄介 にな ってあ の雪 の
。
庭 に立 って写真を撮 って貰 った頃と 思 います いろ いろ御 □様 に
あ った □□□と いふ事 は実 に想像 の つかな い程有 益 の□□と いふ
。 ー
ル プ ルと いふ博物館 一つ見 るだ け でも
。
一週間 で見 つく せま せ ん
事 を し みじ み感 じ□□
。
そ れ に□ □伊
太 利 英 国 ス ペイ ン等 を 見 ら れ る かと 思 ふと 胸 のおど る気 が し ま
。自
分 は ここに非常 な 興奮 と歓 びを 以 って申 し
これだけ見□帰 つても 充 分だ と いふ気 がします
パイ プ を 喰 へた 男 と ロー ト レ ク の赤 いキ モ ノ の女 と セ ザ ン ヌ の
、
二万 五千 フラ ンの静 物 の中 のど れかを 買 ひた いと 思う ﹂と述 べ さ
ら に 一万 円を 送 ってく れ る よう に頼 ん で いるが、関氏 への手 紙 で
、
ク ルー ベ の作 品を 六千円 で購 入 した こと がわ かる。麦 俸 は こ の後
、
、
、
、 ャ
、
、
ン バ ン ヌ ド ー ミ エ ルド
ゴ ツホ セザ ン ヌ ル ソー ル ノ ヮー ル ヽ
す
葉書裏 ︶
︵
ンなど の作 品 を立 て続 け に購 入 し て いる。 帰 国す るま でに 一部 は
、
他 の作 品 と 交 換 したり し て いるが 日本 に持 ち帰 り 帰 国 後 京 都 の
、
。
画室 にお いて展覧会 ︵
註 五︶を 開催 し て いる 特筆 す る こと は 麦
1922 1 ・1 パリ
④一
⑤ l 9 2 2 1 ・1 パ リ
(5)
上げ な ければな ら ぬ事 は自 分 に世界 に知 られ て居 る名 画 を手 に入
。
れ る事 が出来 た事 です そ れ は パイプを喰 へた男 の首像 でク ル ベ
。
の画 です そ れは近代 の画家 に最も影響 を奥 へた十九世紀 最大 の
■ 44
、
倦 は収 集 し た作 品 す べ て麦 倦 個 人 のお金 と 審 美 眼 で収 集 した こ
と であ る。
7
①︶ Z>円OE l9 22 ・1 ・1
日本新潟懸加茂 町 関員 次郎様
ロウ マにて 土 田麦 悟拝
九 日 に巴里を立 って其 翌 日は南 フラ ンス の エー スと いふ処 に参
りま した。 こ こから 一寸 電車 でカ ア ユスと いふ処 迄参 リ ルノ ワー
。
ル の旧宅 を見 る事 が出来 ま した ここには浮 山 のルノ ヮー ル の画
。
があ った ので嬉 しく 思 いま した そ の処 から伊太 利 に入リピ サと
。
いふ処 では カ ンポ サ ント の壁 画 を 見 て実 に驚嘆 し て了 ひま し た
。
実 に美 しさ の極 み です 全 く 我 々日本 画家 の研究 しなけ ればな ら
。
ぬも のが澤 山ありま す それ から昨 十 四 日 の夜 □□□ に着く事 が
。
。
出来 ま した ︵
以 下不明 ︶ナポ リに向 います
葉書裏 ︶
︵
実 際 こう した名 画を見 る事 が出 来 る のは実 に幸 福 な事 だと 思 っ
。
て居ます
ベ エス 上 回拝
、
の寺 院 な ど に何 が残 さ れ て いる か情 報 を集 め か な り の下準 備 を
、
。
行 って いたも のと 思われ 精力 的 に絵画 を見 て回 って いる
、
② 切手 が剥 がされ ており 消印 は不明
19 22 ・2 ・4︶
︵
新潟懸加 茂 町 関員 次郎様
。
拝啓 昨 二月 三日 フ ロレ ン スから こ のベ エスに着 きま した 停
く 口Z 問 NH> 的 き NS ∪ 属 い正 F ,8 符 あ o宅 車 ︶
車場 を 下り ると直 に赤 帽 がゴ ンド ラに荷 物 を 下 ろす と いふ不思議
。
な 町 です ここ では予期 しな い い い画 がそ れ程澤 山見 ら れま せ ん
。
。
でした 明 日パド ヴ アに行 き ます ここには素 晴 ら し い いい画 が
。
あります から
︵絵 葉 書 裏
7
①︶ コ′刃あ 19 22 ・2 ・2
日本新 潟懸 加茂 町 関員次郎様
二月 二五日 パリ にて 土 田麦仙
。
伊太 利 からは 二月 の九 日に阪 って ︵
註 六︶
参 りました 早速手紙を
一月十 五日拝
、
麦 偲 は大 正 十 一年 一月 九 日 に パリを 出 発 し イ タ リ アに向 か っ
す が無 理 に頼 ん で放 人 が 日常愛 し て居 た浮 山 の参考 品 や又作り か
。
け の数知 れな い彫刻を見 て□□感心 しま した それから先 日自 分
ヴ イ ンセ ント バ ンゴ ー ク ︵
註 七︶の大 変 な い い画 を 自 分 の手 に
絵葉書裏 てき8 白∪F目さ︶
︵
近 来稀 れな暖 かな 日□ □だ った ので友 達 と 巴里 から少 し はな れた
。
郊外 のムード ン の丘 に参 り ま し た こ こには昨年 死 んだ彫 刻 界 の
。
巨人 ロダ ン の家 や工房 が其 まま あ ります 一般 には見 せな いので
。
つい疲 れ て何 にも書 けま せ ん でした 巴里も や っと こ の頃 は灰色
。
の空 か ら春 らし い太陽 が時 々も れ て来 る様 になり ま した 今 日も
書 き た いと 思 って居 つつ巴 里 に阪 ると何 かと見 るも のが多 いので
た 千代夫 人あ て の 一月 五 日 の手 紙 には 一ヶ月位 イ タ リ アを旅 行
、
し パ リ に帰 って半 月 し たら スベイ ンに十 日あまり行 ってき て、そ
。
の後 英 国 に旅行す る 定 であ ると書 いて いる
予
、
、
、
、
イ タリ アで の 一行 は、ゼ ノ ア、
ピ サ ロー マ バチ カ ン ナポ リ ポ
、
、
ンペイ ア ッシジ フイ レ ン ツ エ、ボ ロ エア、ベ エス、パト ヴ ァ、ヽヽラ
、
ンを 見 て回り 一一
月九 日 に汽 車 で パリ に向 け て出 発 し十 一日 の午
。
前 十時 にパリ に ついた 麦悟 は当 初 のホ テルにそ のまま滞在 し て
、
。
お り 荷 物 類 も そ のま ま であ った 一ヶ月 の旅行 であ った が こ の
と き の詳 し い内 容 に つ いては黒 田重 太郎 が書 いた ﹃
欧 州 藝 術 巡礼
、
。
紀 行﹄に掲 載 さ れ て いる 一行 は旅 行 す る事 前 に イ タ リ ア各 地
i
ド`“
1 1 1
斉■ヽそ
43 道
(6)
入 れ た事 を自 分 ば かり でなく 日本美 術 界 の い い収穫 の 一つだと信
じ て居ます。 バ ンゴ ー ク の画 は巴里 の画商 でも殆 ど見 る事 は出 来
。
な いと い って い い位 居 です 自 分 はあ ら ゆる画商 に頼 む でこ こに
。
一 出 の い いも のを に れ て しく てたまりま せ ん もう 一
来
手
入
枚
嬉
。こ
のバ ンゴ ー クは ホ ント天才
枚 も 欲 し いと 思 って捜 し て居ます
、
③ 切手 が剥 がされ ており 消印 不明
192 2 ・4 ・1︶
︵
日本新 潟懸加 茂 町 関員 次郎様
”台ゲ●命
す︻
aや
。
ス ペイ ンか ら は 三 月 の十 七 日 ︵
註 八︶に 阪 り ま し た そ し て
。
二十 七 日から こ の ロンド ンに参 り ま した 今 度 は小 野君と 二人 だ
。し し
か 小 野君 は 二三 日 の中 に巴 里 に寄 って四月九 日 の船
け です
とも い って いい人 で最後 に自 殺 した のです が英 時友 人 であ った ガ
ツセ エと いう 人 の家 にわず か に十枚 ば かり残 って居 た のです。 こ
。
其 □ かなり自 分 の意
の人 のも のを 見 てみな感 心 し て帰 る のです
り た いと 思 って居ます。
1 ・Z96呂げお ぞぢ易︻
①
電 ”均∽
属まαい
新潟 懸加 茂 町 関員次郎様 ︵
絵葉 書表 面 ︶
1 ・2
>冨∽弓円刃∪>玉 192 2 ・1
① ︵
︶絵葉書裏 面
、
、
スペイ ン旅 行 は ﹁
欧 洲 藝 術 巡 礼 紀 行﹄に よ ると 土 田麦 悟 小 野
、
、
、
。
竹喬 野長 瀬 晩 花 黒 田重 太 郎 の四人 で旅 し て いる 三月 十 四 日
、
、
、
オ ルセー駅 か ら汽 車 で出 発 し マド リ ッド エス コリ ア ル ト レド
、
。
の三箇 所 を見 て回り パリ には 三月 二十 二日 に戻 ったと 思 わ れ る
、
小 野 竹 喬 が 四月 に 日本 に帰 る前 に ロ ンド ンを 見 て 回 る 予定 と
、
。
な って いたため 駆け足 で の旅 行 であ った
の咲く郊外 を 写生 し□と思 って居ます
そ し てど こか巴 里 の田舎 に でも 行 って花
。
四月 一日
こち ら に居 た いと 思 って居ま す。 あま り高 いので近 かく 巴 里 に販
岸
いう 甲 巨嶋 ︲
︵
絵葉書裏 FoZ∪oZ十 四出汗 守中
じ
食 はう かなど い って居ります
明 日 の晩 は小 野君 と 二人だ け送別 の日本飯 を
。自
分 はしば らく
。
で日本 に販 ります それ でも自 分 は こ の ロンド ンに自 分 一人だ け
。
残 る事 になりま す
かれたも のは い いも のです から いづ れ 日本 に販 った ら公 開 し て賞
。
は ふと 思 って居ます
、
二月 十 一日 に パ リ に戻 った麦 悟 であ った が 十 八 日付 け ︵
実際
日 に いたも の で
には
人 にあ てた
の中 でゴ ッホ
十
七
書
夫
手
紙
︶
千
代
。
の作 品 を 購 入 し た こと を 書 いて いる 手 紙 の中 で麦悟 は ﹁
昨夜 は
。
バ ンゴ ーグを 買 へた嬉 しさ で眠ら れな か った いい画を買 った時
。
は い つも 眠ら れな い﹂と書 き 記 し て いる ゴ ッホ の作 品 と 同時 に
、
、
、
シ ャバ ン ヌ の素 描 ド ー ミ エの素 描 ルド ン の油 絵 写楽 の画 な ど
、
、
も 購 入 し て いる。 ま た 〓一
月 五 日付 け の千代 夫 人あ て の手紙 では
、
ア ンリ ー ・ル ソー の作 品 を 購 入 し た こと が記 さ れ て いるが こ の
、
作 品 は 現在 ブ リ デ スト ン美 術 館 の所 蔵 と な っており 日本 にあ る
。
ル ソー の作 品 では代表的 な作 品 であ る
麦 悟 は 一九 二三年 二月 二十 一日 に パ リを た ち 日本 に帰 国 し た
、
、
の であ るが 千 代 夫 人 にあ てた 同 じ手 紙 の中 で 一九 二 二年 九 月
、
二十 四 日 に マルセ ー ユ出 帆 す る箱 崎丸 に乗 って 神 戸 には十 一月
、
。
自 分と し て の新 し い
二日 に到着 す る予定 を連 絡 し て いる ま た ﹁
手 法 が 発 見 さ れ れ ば 或 いは 少 し のば し て来 春 にす るか も 知 れ な
、
。
い﹂とも書 いており 実際 には 三月 に帰 国 し て いる
(7)
。
口関 倒 円 □ か ら オ ラ ンダ に参 り ま し た そ し て ア ム ス テ ルダ
■ 42
ムか ら こ の海 の中 にあ る マルケ ンと いう島 に今 日は行 って来ま し
。
。
た これ は□□ から の雨風 が残 って居 る実 に陰湿 な土地 な のです
少 し寒 く て□ に し オ ラ ンダ は物 価 が と ても 高 く て やり 切 れま せ
『
。
。
ん 早く パリ に引き 上げね ばなりま せ ん
、
オ ラ ンダ旅 行 は パ リを 十 月 十 二日 に出 発 し 十 三 日 に ベ ルリ ン
、
、
、
。
着 十 九 日 に出 発 し 当 日 ミ ュン ヘン着 二十 三 日 ミ ュン ヘン発
、
。
二十 四 日ド レ スデ ン着 二十 七 日頃 ベ ルリ ン着 十 月 三十 日頃 ア
。
。
ム ス テ ルダ ム着 三 十 一日頃 マル ケ ン 十 一月 一日 アム ス テ ル
、
ダ ム。 三 日 ハー グ ア ント ワープ。 四 日ゲ ント。 五 日ブ リ ュ ッセ
、
、
。
ルに滞在 し十 一月 七 日 パリ に戻 って いる ドイ ツ オ ラ ング では
、
、
、
美 術 館 ・博 物 館 を 精 力 的 に見 学 し デ ュー ラー ゴ ヤ ボ ツテチ エ
リ ー、セザ ン ヌ、ル ノ ヮー ル、ゴ ッホ、コ ロー、クー ル ベ、ド ー ミ エ、
、
、
、
ゴ ーギ ヤン マ み マイ ヨー ル レ ンブ ラ ント など の作 品 に感 銘 を
。
受 け て いる
① 西陣 昭和 四年 十 一月十 二日
越後 加茂 町 関員 次郎様
土 田麦 悟
明年 には岩 崎家 から献 上 の六曲 一双 に着手 す る ので帝 展 には出
。
品出 来 な いと おも います
しか しそ の次ぎ にはも っと素晴 らし いも のを描きます。
︵
絵葉書裏 帝回美術院第十 回美術展覧会出品 署栗 土 田麦倦筆 ︶
① 西陣 昭和 5年 消印薄 れ ており 不明
越後 国加 茂町 関員次 郎様
土 田麦 悟
拝 啓 其 後 は御 無 沙 汰 拙 作 帝 展出 品 ハガ キを お 目 にか けま す
。
幸 いにも 非常 の好 評を 得今 年も 亦福 田君 の鯉と美術 院候補 と なり
。
共 に心 中 別紙 批評 の 一部 を お目 にかけま す 其外 清方 氏 の報知
、
。
評 竜 子氏 の時事 新報 共 に拙 作を第 一に推賞 し てく れま した
︵
絵業書裏 帝国美術院第十 一回美術展覧会出品 明粧 土田麦偲筆︶
前年 には帝展 に出品 でき な いかも しれな いと葉書 に書 いて いる
、
、
、
。
が ︽明粧 ︾を 出 品 し 好 評 を 博 し た ほ ぼ同文 の葉 書 は 野村 一志
、
氏 にも 十 一月 二日付 け で出 し てお り ほ ぼ同時 期 に出 し たも のと
、
。
。
川端 龍 子﹂であ る
推 測 され る 清方 氏 は ﹁
鏑 木清方 ﹂竜 子氏 は ﹁
推定 昭和 十年 六月十 五日X 註九 ︶
⑭ 西陣 昭和 年 月 十 五日 ︵
新潟懸 越後加茂 町 関員次 郎様 御内
京 都市 衣笠 土 田麦偲
。
時 候儀 御 一同様 にも 御 機 嫌 よ ろしく 何 より と存 じ上 げ □ □ 候
ご存 じ の如 く□ くとも帝 展 問題 に て東 上致 し居り候。 節句 のち ま
︵
絵葉書裏 束 西大家新 作 小品画 展覧会 ︵
鮮魚 ︶ 竹内栖 鳳先生 ︶
き御 送 り 下 され子供達 は大 よ ろこび に て頂戴致 し有 難御 厚 情厚く
。
御謹 申 上候 尚皆 様方 に御身 大 切 に願 い上 候
越後 加茂 町 関員次 郎様
、
四 終 わり に
辺!
西陣 昭和 四年 十 一月 十 二日
。
出 品 の原色 版 が出来 て来 た のでお目 にかけます かたち よく出
。
来 て居ます 上 回麦 悟
︵
絵葉書裏 帝国美術院第十 回美術展覧会出品 磐粟 土 田麦悟筆 ︶
、
関員 次 郎 氏 あ て の葉 書 十 四葉 に ついて紹介 し てき た が 最 初 に
。
記 した よう に書簡 が こ の他 五十 五通あ る 野村 一志 氏ま で の数 は
、
、月
な いが 関氏も麦 僧 が作 品制作 を 行う 上 で 主
年 期 から晩 年 に至 る
o
――ヽ
一
丁
'「
,ふ 丁!f`
珊
(8)
rr
41
ま で支 え てき た後 援 者 ︵
パト ロン︶の 一人 であ った こと には 間違
。
いがな い
麦 倦 が ヨー ロ ッパ滞 在 中 に収集 した西洋絵 画 コレク シ ョンに つ
、
いては 拙稿 ﹁
大 原孫 二郎 と 土 田麦 悟 の西洋絵 画 コレクシ ョン﹂︵
註
、
。
十︶の中 で紹介 し て いる ので 参 考 にし て いただき た い
、
関員 次 郎 氏 は経 営 不振 に陥 り 昭和 九 年 新 潟 市 で所 蔵 品 を 入 札
、
。
にか け た そ のとき の目 録 が残 さ れ て いる ので 所 蔵 し て いた麦
。
悟 と竹内栖 鳳 の作品を最後 に紹介 した い
、
昭和九年 四月 二十 一日 一一
﹁
十 二日両日下見 一一
十 三日 入札競売
加茂町 関家蔵品入札 会場 新潟市 西堀通 二番 町 超願寺﹂
上 田麦僧作 品
① ︽百 日紅 ︾ 絹 本 共箱 ② ︽
椿 ︾ 共箱 ③ ︽最 上観 音 ︾ 絹 本
共箱 ④ 谷昌岳 ︾ 絹 本横物 共箱 ⑤ ︽小帖 ︾ ③ ︽
静物 額 ︾ ︵
琉業 ︶
春魚横 物︾ 絹本共箱 ③ ︽ツ ツジ エ
② ︽双兎横物 ︾ 共箱 ③ ︽
農夫 扇 面 ︾ ① ︽
金 魚 三枚 張 込 二枚 折屏 風 ︾ ② ︽
海
鮎 捲 り︾ ① ︽
女 之 図 六 尺六曲 ︾ 一双 ① ︽椿 画香 合 ︾ 共箱 ① ︽画 一枝 生︾
⑤︽
椿 絵 抹茶 碗︾ 一ヶ
。
麦 憾 の作 品 は そ れ ほど 多 く 見 ら れ な い 特 筆 す る のは ︽海女 ︾
、
、
の六山 一双 ︵
流
現在 京 都国立 近代美 術館所蔵 ︶︽静物 額︾︵
現在 は ︽
、
。
点 く ら いであ る ま た 関員 次郎 氏 にあ てた書
莱 ︾で知 ら れ ると 一
、
簡 の中 に 大 正十年 同 墨光 堂 の火 事 により消失 し た ︽
冬 ︾を 譲 る予
、
。
定 で いた こと が わ か る記 載 があ る お そ らく 欧 州 旅 行 の滞 在 費
。
の 一部 にす るた め であ ったも のと考 え ら れ る 関氏 が麦 倍 の作 品
、
より も多 く 所 蔵 し て いた のは 竹 内 栖 鳳 の作 品 であ る。 栖 鳳 の作
、
品 は麦 倦 の斡 旋 によ って購 入 した も のも あ ると 思 わ れ そ の数 は
、
麦 倦 より は るか に多 く 所 有 し て いるが 麦 倦 のよう に代 表 作 と な
。
るも のは見当 たらな い
竹 内栖鳳 作品
① 谷 潜 ︾ 絹本 本 相 ② 合 対 秋 覧 ﹀ 押 否 盗 仰 ③ 谷 努 物 証∪
絹 本 共 箱 ④ ︽
秋 叢 遊狸︾ ︵
和 戸光 村 氏 旧蔵 ︶ 絹 本 共箱 ⑤ ︽
水
墨 山水 ︾ 横物 共 箱 ⑥ ︽
竹 二雀 ︾ 半 切 共箱 ③
雀 ︾ 共箱 ② ︽
薫 風︾ 共箱 ⑩ ︽篤 ︾ ① ︽
舎解し 絹本共箱 ③ ︽
柳 村晩 泰 ︾ 共
箱 ⑫ ︽瓜 二晶 ︾ ① ︽秋 山食禄 ︾ 共箱 ⑭ ︽
群 羊︾ 絹 本 共箱
若 松︾ 共箱 ① ︽
⑤︽
青 緑 山水 ︾ ︵
神 戸光村 氏 旧蔵 ︶ 絹 本 共箱
候捲 り︾ ④ ︽
慈 姑 捲 り ︾ ② ︽冨士 扇 面額 ︾ ② ︽扇
梅 捲 り︾ ② ︽
落 栗 ︾ 共 箱 ① ︽林 檎 ︾ 横 物 共 箱 ① ︽湧 遊 所 見︾ ④ ︽
猿
⑫︽
面 張 二枚 折屏 風︾ ② ︽
局句 佛 賛 ︾ ② ︽干 子捲
書 簡 横 物 ︾ ④ ︽団 一
り ︾ ② ︽ホ ーゾ キ捲 り︾ ② ︽慈 姑捲 り︾ ⑩ ︽
印
稲 荷色 紙 ︾ ① ︽
譜帖 ︾ ② ︽扇面張 二枚 折屏 風︾ ① ︽冨士 四方盆 ︾ ① ︽画盃 ︾
、
土 田麦 悟﹄は和綴 じ の体 裁 の本 で 全 冊廃菜 処 分 さ れた こ
︵
註 一︶ ﹃
、
、
と にな って いる。内 容 は ﹁
諸家 感 想 ﹂﹁
土 田麦
麦 悟書輸 ﹂ ﹁
、
、
諸家 感想 ﹂は大 原孫 三郎
倦 先 生年 譜 ﹂で構 成 さ れ ており ﹁
、
、
、
、
小 野竹 喬 黒 田重太 郎 回中善 之助 小松 均 吹 田草牧 など の
、
、
。
文章 が掲載 され て いる ﹁
麦 憾書輸 ﹂は ﹁
仮 面会時 代 ま で﹂
、
、
島 の女 より春禽 遂 晴 図ま で﹂﹁
国 展初 期﹂ ﹁
国
渡欧 時 代﹂ ﹁
﹁
、
、
。
展 後 期 ﹂﹁
帝 展 時 代﹂﹁
書 輸 草 稿 ﹂の七 部 門 に別 れ て いる
、
八十 五通 の書 簡 のう ち 野村 一志 氏 あ てが 四十 四通 含 ま れ
、
、
、
、
、
ほ か に志 和 舜 雅 村 上 華 岳 千 代夫 人 土 田杏 村 坂 崎担 池
。
田虹影 など にあ てたも のが掲載 され て いる
、
土 田麦 悟﹄が廃菜処 分 された 理由 はあき らか でな いが ﹁
﹃
書
、
輸草稿 ﹂のな か に帝 展改組 に発 した問 題 に ついて 麦 倦 が感
、
﹂れ が原 因 の 一つでは な いかと
情 を 吐 露 し た文 節 があ り 卜
。
推測 され る
9)
〔
、
、
︵
註 二︶欧州 旅行 の途 中 上海 で描 かれた スケ ッチを はじめ 中国風
、
、
ネ 中 国 ・イ ンド風 景 ヨー ロ ッパを 描 いた画帳 を新 潟 県立
且
。
近代美術館 ・万代島美 術館 が所蔵 し て いる そ の他 シ ンガ
40
■
、
、
、
、
ポール風景 西洋婦人 ﹁
巴里 の女﹂など のス
時鴻﹂﹁
業第﹂﹁
、
ケ ッチも所蔵しており 写真 やデータは平成 五年発行 の 霊利
。
潟県立近代美術館所蔵品目曇 に掲載されて いる
註三︶国画創作協会同人 ・大阪時事新報社編集 頭 洲藝術巡礼紀
︵
欧州﹂の漢字 に ついて
埜 十字館 大正十 二年九月五日 ﹁
、
。
は ﹁
欧洲﹂を使用し て いる ﹁
欧州菫術巡礼糧 と を実際執
。
筆した のは黒田重太郎 であ る 日本を離れてから ヨー ロツ
、
パに着くま での旅行記 ヨー ロッパに着 いてからイタリ ア
、 、
、
、
旅行を行 い 麦悟 小野竹喬 野長瀬晩花 黒田重太郎 の四人
でスペイ ン旅行を行 ったと ころま でを記述している。
、
註 四︶麦倦 の欧州旅程 に ついては 金井徳子氏 の ﹃
︵
土田麦倦 のイ
タリ ア通信﹄の中 で、﹁
土 田麦悟 の欧州旅程 一覧﹂と し て詳
しく紹介され ている。
かき つばた 土 田麦悟 の愛と芸術﹄の中
柏木加代子氏が ﹃
にお いて ﹁
麦悟 の欧州旅程 一覧﹂と し て掲載 し て いるも の
、
と 金井氏 の欧州旅程 一覧と、
関氏あ ての葉書 により判明し
、
。
た部分 で補 い 詳細な旅程とした
、
註五︶麦僧 は ヨー ロッパ滞在 から帰国 の途 に つき 五月 一日神 戸
︵
、
に着 いた。帰 るまもなく 五月十九 日から四日間 ヨー ロツ
、
パ滞在 の成果とし て洛西衣笠国内 にあ る麦倦 の画室 で 西
。
洋絵画 の展覧会を行 った
。
︵
註六︶﹁
販る﹂は ﹁
帰 る﹂である
ヴ ィンセ ント バ ンゴ ー ク﹂は ﹁
ヴ ィ ンセ ント ヴ アン
註七︶﹁
︵
ゴ ッホ﹂のこと である。
。
註八︶麦倦 の書き間違 いと思われる 詳し い旅程ならび に見学先
︵
。
︲.
は﹃
欧洲塾術巡ネ
挿猪巴 に詳し い
、
︵
註九︶
竹内栖鳳 の︽
鮮魚︾は 昭和十年六月 に三越 で開催 された ﹁
東
。
西大家新作小品画展覧会﹂に出品 され て いる 葉書 に記さ
、
れて いる ﹁
節句 のちまき﹂の内容からも 同時期と推定され
るため昭和十年六月 に比定した。このとき関氏は前年 の﹁
蔵
、
品入札﹂により 麦磨 の作品を手放し ている。
註十︶横山秀樹 ﹁
大原孫三郎と土口麦悟 の西洋絵画 コレクシ ョン﹂
︵
﹃
大原美術館展﹂図録 新潟県立 万代島美術館 平成十七年
九月
︵
新潟県立万代島美術館館長︶
(10)
39 ロ