第二章 胎児の世界

第二章 胎児の世界
女性の身体は不思議が一杯ある。月の満ち欠けに応じて生理が生じるのも不思議だ
し、「祈りの科学」シリーズで述べた胎児が「天空の音楽」を聴いているというのも不思
議だ。しかし、私が今ここで言いたいことはそんなことではない。私が言いたいのはそん
なことではなく、妊娠直後の実に驚くべきことが母親の腹の中で起っている、そのこと
だ。では、以下においてその摩訶不思議なことの説明をしたい。
まず、お腹の胎児の成長過程を説明する。
妊娠初期の一週目までは、まだ着床していない。二∼三週でやっと着床し、胎芽(たい
が)が形成される。この胎芽の時期における形はタツノオトシゴのようだといわれる。体
重は約一グラム、身長約一センチメートルである。母体すなわち子宮の大きさは変わらな
い。鶏卵くらいの大きさぐらいだといわれる。二ヶ月めに入ると、まだ胎芽の時期だが、
胎盤が出来始め母体との繋がりがしっかりしてくる。頭と胴体の区別ができ、手足目鼻口
や、内臓、脳などが作り始められる。七週の終わりで体重約四グラム、身長約二・五セン
チメートル。子宮はガチョウの卵ほどになる。
三ヶ月目からが胎児期に入る。内臓、中枢神経の発達が盛ん。肝臓が出来、排泄を行
う。外性器が形作られ、男女の区別ができ、三等身になってくる。へその緒が長くなり、
胎児は羊水の中で動き始める。体重約二十グラム、身長約八センチメートル。子宮は握り
こぶし大になるが、お腹はまだ目立たない。四ヶ月目からは、胎盤が完成、内蔵がほぼ完
成し、活発に動く。人間らしい体になり、手足が少しずつ動き始める。超音波ドプラー法で
心音が聞ける。超音波診断法で男女の区別がつく。頭部はピンポン玉くらい。重約百二十グ
ラム、身長約十七センチメートルぐらい。子宮は新生児の頭程度の大きさになる。基礎体
温が低温期に入る。妊娠中期(五ヶ月目)になると、髪の毛、うぶ毛、爪が生える。心臓
の動きが活発になり、神経、骨、筋肉などの発達が進む。胎児の頭は、鶏卵ほどの大きさ
で、体重約三百グラム、身長約二十三センチぐらい。子宮は胎児の頭大。六ヶ月目で、ま
ゆ、まつ毛が生え、顔がはっきりしてくる。皮膚の表面に胎脂が付き始める。聴覚が発達
し、外の音も聞いているらしい。体重約六百グラム、身長約三十センチメートルぐらい。
母体の下腹部が大きくなる。胎動が感じられるようになる。七ヶ月目になると、脳が発達
する。外性器が完成する。まぶたが上下に分かれ、鼻の穴が通る。皮膚はまだシワだら
け。体重約一〇〇〇グラム、身長約三十五センチメートルぐらい。母体のおなか全体が大
きくなる。
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こんな状態で胎児は成長していくのだが、摩訶不思議なのは、胎芽(たいが)の段階、
しかもそのごく初期の段階で、母親の腹の中で、個体発生を通じて、系統発生がくり返さ
れているというこことだ。何故そういうことが起り得るのか、その科学的説明は次の章で
行うとして、ここではそのまま不思議な現象そのものを見ておきたい。驚くべきスピード
で系統発生がくり返されているのである。
三木成夫(しげお)という人がいる。三木成夫は、1925年生まれで1987年に六
十二歳で死去。戦争末期は九大で航空工学を専攻したが、戦後は東大の医学部に移り、解
剖学を専攻。のちに東京医科歯科大学、東京芸術大学などで教鞭をとった。生前も知る人
ぞ知るで高い評価お受けていたが、死後その評価と影響力はますます高まっており、「三
木学」という言葉さえ使われるにいたっている。
生前に出版された本は「胎児の世界」「内蔵のはたらきと子供のこころ」「人間生命の
誕生」「生命形態の自然詩」「海・呼吸・古代形象」「ヒトのからだ」と偉大な学者とし
ては比較的少ないでが、死後続々と遺稿が出版され、解剖学者・発生学者としてよりも、
むしろ特異な思想家として注目されている。ここ数年来、思想界の巨人と言われる吉本隆
明をはじめ、養老孟司、中村雄二郎、市川浩など、現在日本のトップクラスの思想家たち
が、その著書などの中で三木成夫について言及している。
彼の思想・生命観を一言で表現すれば、「すべての生物は、太古の昔から宇宙のリズム
を宿している小宇宙である。」ということになるが、これは私のすすめる「リズム人類
学」そのものである。
では三木成夫の著書「胎児の世界」(一九八三年五月、中央公論新社)から核心部分を
紹介しておく。詳しくは、是非、「胎児の世界」を読んでもらいたい。
『ニワトリの胚、いわゆる胎児は、黄味の天辺に張り付いた臍のような「胚盤」からでき
てくる。最初は小さな小さな<ちょん髷(まげ)>のようだ。卵を温めはじめて三日目に
もうそれはできかかる。そして、あたかもこれと併行して、まん丸い血管の網が、その髷
の周りの黄味の表面に姿を現す。卵黄血管網である。一方、この楊枝(ようじ)の先にも
満たない胎児にも、その頸(くび)の付け根には、S字にうねった原始の心臓の管が姿を
見せ、ここから細い大動脈の芽がのびて体軸を貫く。
こうして発生の初期、ニワトリの血液は心臓管から大動脈を経て、周りの卵黄血管網に流
れ込み、やがてその円の周りに沿って左右からふたたび心臓管にもどるというかたちで、
ぐるぐると循環を開始する。それは親の<遺産>の黄味によって胎児が養われ、刻一刻と
成長していくのである。』
『「個体発生は系統発生をくり返す」という呪文のようなことばが私の頭から離れず、人
体のなりたちを知るためには、やはり、こうした動物の胎児の世界も避けて通ることはで
きないだろう。ニワトリの卵に手を出し、肉眼では見えない血管に墨を注入し、その網の
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目のでき方を調べようとしたのも、すべてこのような経緯からにほかならなかった。』
『原始の脊椎動物である八つ目ウナギは出羽鳥海山の麓で、硬骨魚類のニジマスは青梅の
寒村で、両生類のサンショウウオは山陰の山奥で、爬虫類のアオウミガメは阿波の海岸
で、それぞれ卵が採集され、その少なくとも数百個が慎重に研究室に運ばれる。そこで細
心の注意を払ってそれらの卵を育てながら、毎日毎日の変化をにらみ、発生の段階を追っ
て、それぞれの時期の標本をつくっていく。これが私の取り組んだ「比較解剖学」の研究
内容である。』
『孵卵器の卵は、こうしていよいよ四日目の後半に入る。成長はめざましい。ひとまわり
大きくなった勾玉(まがたま)のからだを激しくうねらせながら、胎児は心臓を怒濤のよ
うに波打たせる。』
『そこにはまぎれもない<ニワトリ>の顔があるではないか。昨夜からひとまわり大きく
なったといっても、勾玉はまだせいぜい小指の先ほどだ。しかし、見るがいい。それまで
の鰭(ひれ)のような前肢(ぜんし)の突起は、明らかにもう将来の翼の方向を目ざして
いる。その口もとは、だれが見ても、ヒヨコの嘴(くちばし)だ。やっぱり、ニワトリ
だった・・・。』
『ふつう、胎児の発生は、生体の顔かたちができてきたら、そこでまず一息つく。発生の
スピードは、それ以降は急速に衰える。』
『陸上動物のどんな脾臓(ひぞう)も、発生の初めはみな腸管にくっついていたに相違な
い。それが次第に独立していく。』
『胎児は、受胎の日から指折り数えて30日を過ぎてから僅か一週間で、あの一億年を費
やした脊椎動物の上陸誌が夢のごとく再現する。』
どうです。胎児の成長というのはまことに摩訶不思議ではありませんか。こんな摩訶不
思議な現象がどうして母親の腹の中で起り得るのか? それが私の問題提起であり、みな
さん方に是非考えてほしいことなのだ。
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