第 18 回 外国人による 日本語スピーチコンテスト スピーチ集

第 18 回
外国人による
日本語スピーチコンテスト
スピーチ集
とき:平成 21 年 2 月 7 日 (土)
ところ:県民文化センター
小ホール
受
賞
名
茨城県
知事賞
8
14
茨城県
教育長賞
ひばり賞
ちょう
きんかい
張
金愷
13
身
中
国
国
マレーシア
ハマド
カーラ・ファラグーナ
ヴィンセント・エチェ
特別賞
7
李
特別賞
10
ラティーフ・アリー
い
じゅ み
特別賞
9
李
周美
特別賞
11
い
さん
アメリカ
コスタリカ
品
商品券 10 万円
協賛企業・団体
株式会社常陽銀行
こんにちは赤ちゃん・お
商品券 5 万円
ペットボトルに何が起こ
商品券 3 万円
水戸さくらロータリ
ークラブ
茨城県信用保証協会
言葉は宝石
任天堂 DSi
茨城県市長会
カナダ
自分の国は一番
デジタルカメラ
キヤノン株式会社
取手事業所
韓
国
アメリカ
韓
国
ウクライナ
初体験!日本
おとうさんはどこ?
ジェルジェットプ
リコー販売株式会社
リンター
茨城支社
ジェルジェットプ
広沢商事株式会社
リンター
祭りを通じて感じたこと
デジタルフォトフ
関彰商事株式会社
レーム
外界とふるさとの出会い
iPod nano
日東電気株式会社
ィトラナ
きむら
3
木村 プラタナ
特別賞
12
スプリヤント
特別賞
5
タイ
お墓とお盆行事から見た
折りたたみ自転車
インドネシア
小琪
システム手帳・高
中
国
私の夢は大学の日本語教
カーボンヒーター
い
あんにょん
15
李
安龍
くらた
いん
特別賞
1
倉田
穎
特別賞
2
ムラット・チャクル
若人賞
8
ちょう
きんかい
張
金愷
韓
国
茨城へ嫁いで
中
国
日本の生活
グリルパン
日本原子力発電株式
会社
ランニング時計
日本通運株式会社
水戸支店
トルコ
不思議な国、ニッポン!
東京ディズニーリゾ
ートペアチケット
中
国
もう一度お礼を申し上げ
トロフィー
たい
カーラ・ファラグーナ
株式会社日立製作所
電力グループ
授
特別賞
ぺんてる株式会社
級ボールペン
しょう き
趙
心は宝物ということです
日本原子力開発機構
那珂核融合研究所
日本とタイの文化
ちょう
ンティア賞
もう一度お礼を申し上げ
賞
茨城県町村会
うん
相恩
トカチェンコ・スヴ
13
タイトル
ロン・エリー
6
日本語ボラ
覧
っているか?
特別賞
特別賞
一
疲れ様です・桜
メナ・アラヤ・アー
4
出
者
たい
ロスディ・ビン・ア
茨城県議会
議長賞
受賞者名
No
賞
アメリカ
ペットボトルに何が起こ
っているか?
楯
日本の生活
くら た
倉田
出
いん
穎
身
中
国
職 業 等
主
婦
在日期間
3 年 4 ヶ月
皆様,こんにちは。
私は中国から参りました。日本に来てもう3年になりました。
以前,テレビや日本のドラマやアニメを通して日本のイメージは少し持っていました。
町は中国と似ていて,そんなに変わらないようにも思えました。でも,日本に来て生活し
てみると,中国といろいろ違っています。今回は3つのことについて話します。
まず,日本では新鮮さが大切にされていることです。新しいものは値段が高く,生鮮食
品は,夕方5時過ぎには昼前の値段から割引され,半額になったりします。日本人は本当
に新鮮さを大切にして,健康に気をつかっていると思いました。中国もそういうふうにな
ったらいいなと思っています。
次は,ごみ処理について話します。中国ではごみ捨ての日は決まっていません。日本で
は,私が住んでいるところのごみ出しの日は,火曜日と金曜日は燃えるごみ,土曜日はビ
ンと缶の資源ごみです。
どうして自分でごみを分別して出すの?
実を言うと面倒くさいと思いました。特に土
曜日は夫が休みなので,私たちは寝坊したいです。でも,ごみの収集の時間に遅れないよ
うに目覚まし時計をかけなければなりません。中国では毎日ごみを捨てられるので楽だと
思いました。
でも,ある日,テレビを見ていました。今,地球の資源は毎日減っているそうです。そ
れで,地球環境を守るために努力をして,資源を大切にして,できるだけこれからの人の
た め に 資 源 を 残 し て あ げ た い と 思 い ま し た 。そ う い う ふ う に 考 え た ら ,ご み を 捨 て る と き ,
分別することは面倒くさいと思わなくなりました。
最 後 に ,日 本 の 食 べ 物 と そ の 作 法 に つ い て 話 し ま す 。初 め て お 母 さ ん の 家 に 行 っ た と き ,
お母さんがマグロ寿司,イカ寿司を準備してくれていました。あ!生のお魚がご飯の上に
乗 っ て い る 。中 国 で は 生 の お 魚 は 食 べ た こ と が な か っ た の で す が ,思 い 切 っ て 食 べ ま し た 。
と っ て も お い し か っ た で す 。 あ ! 「 い た だ き ま す 」 を 言 う の を 忘 れ ま し た 。「 す み ま せ ん ,
い た だ き ま す ! 」。何 で 食 事 を す る 前 に「 い た だ き ま す 」を 言 う の ,と 夫 に 聞 き ま し た 。
「い
ただきますは感謝の気持ちを伝えることだよ」と夫が言いました。地球上には食べ物がな
い人もたくさんいます。食べられることは感謝です。
日本では日常の生活の中に感謝の気持ちを表す言葉が多いと思いました。
常に感謝の気持ちを持って,一人一人が健康に気をつけて,環境に気を配る丁寧な暮ら
し方を日本で学んでよかったと思いました。
ご清聴ありがとうございました。
不思議な国、ニッポン!
ムラット・チャクル
出
身
トルコ
職 業 等
筑波大学大学院
在日期間
2 年 9 ヶ月
皆さん,こんにちは。
トルコから来ましたチャクル・ムラットと申します。
私は日本に来て2年になりますが,きょうは,これまでに感じた日本人の不思議のことについてお話ししたいと
思います。
私は中学校でトルコの紹介をしていますが,日本の生徒たちにトルコがあまり知られていないことがわかり,ち
ょっと寂しくなりました。なぜなら,トルコ人は,好きな国の一つに「日本」と答える人は多いからです。オスマ
ントルコ時代,日本の明治時代にトルコのアットール船が日本に来て,帰っている途中で台風で沈んで,そのとき
に日本の和歌山県の漁村の人たちはトルコ人を救って,その恩を今はトルコでは子どもから大人までみんな知って
います。
このような環境で育ってきた私ですから,日本に来る前に,生徒たちは,大体トルコはどこにあり,首都はどこ
か,言語は何かということを知っていると思いました。ですから,ある生徒が「トルコはインドのどこにあるので
すか?」と聞かれたとき,びっくりしました。そして,生徒たちは,アメリカ,フランス,中国,韓国という国々
をよく知っていますが,トルコやそのほかの国々についてあまり知らないことはなぜだろうかと不思議に思いまし
た。
日本の生活の中で気がついたことの一つは,日本人は料理をきっかけにしてその国のことを知っていくのではな
いかということです。
私が不思議だなと思ったもう一つのことは,近所付き合いと家族関係です。トルコでは「近所をよく選んでから
家を買う」という言葉があります。トルコ人の性格として,知らない人ともまるで何十年間の知り合いのように話
せるほど人間関係がつくりやすいということが言えます。これは近所付き合いに対しても同じく,近所の人の家に
気軽に行って,電話しないで,お茶を飲んだりおしゃべりをしたりします。
私はつくばに来て2年目になりますが,いまだに隣の部屋にどんな人が住んでいるかよく知らないです。隣の人
と顔を合わせ,こちらがあいさつしたとしても,相手は返事してくれません。また,日本人の友達の家に行くとき
は電話しなければならなくて,見えない壁があるなといつも感じています。皆さんは近所の人のことを知っていま
すか。
また,トルコ人にとって家族はとても重要で,仕事先に必ず家族も連れていきます。家族と離れて1カ月間また
は2カ月間離れて働くことがありますが,二,三年離れて別の土地で働くことはまずあり得ないです。日本で使わ
れている単身赴任の意味や,実際に単身赴任している人の話を聞いて不思議だなと思いました。日本人はどうやっ
て家族と離れて働けるのか,仕事は家族よりは重要なのか,もし子どもがいたとしたら,お父さんのいない家庭で
のお母さんの負担は大きいのではないだろうか,こういうふうな疑問が次々浮かび上がりました。
以上のようなことは,日常の生活習慣や文化の違いから感じる不思議はいっぱいありますが,私はいろいろな日
本人にその不思議について話しました。その中で学んだのは,
『みんな違って,みんな家,十人十色』という考え
方です。その国の事情があり,違いがあることは当たり前のことです。その違いをそのまま受け止めて,お互いに
不思議だなと思ったことを話し合っていくことは本当の異文化の理解につながるのではないかと思っています。皆
さんはいかがですか。
ご清聴ありがとうございました。
お墓とお盆行事から見た日本とタイの文化
きむら
木村
出
プラタナ
身
中
国
職 業 等
主
婦
在日期間
10 年 11 ヶ月
皆さん,こんにちは。
私 は 木 村 プ ラ タ ナ と 申 し ま す 。 タ イ か ら 来 ま し た 。 日 本 に 来 て 10 年 に な り ま す 。 今 , 石
岡市に住んでいます。
さて,きょうは日本とタイのお墓やお盆のことで,私が感じたことをお話ししたいと思い
ます。
日本に来て一番驚いたことはお墓の場所でした。日本では,スーパーの前や線路の脇,道
路のすぐそばにもお墓があります。いつも車が通るので,うるさくて仏様がゆっくり眠れな
いかもしれないと心配しました。でも,地元の人によく聞いたら,お墓があった場所に後か
らスーパーが建ち,道路や線路ができたのだそうです。それで納得しました。
タイのお墓は全部お寺の敷地にあります。家族は,月一,二回,亡くなった人の好物やお
花や線香,ローソクを持ってお寺に行きます。また,お寺に泊まって座禅したりお坊さんの
説教を聞いたりします。心が落ち着いたり,自分が幸せになったら,仏様も同じ気持ちで,
いっぱい幸せになると信じていますし,生まれ変わることや天国に行けることをみんなが信
じているからです。
お墓の形ですが,日本のお墓は四角い台座の上に石塔のお墓が多いです。とてもきれいで
すね。タイのお墓は四角い台座の上にアイスクリームコーンを逆さまにした形のお墓です。
飾りがきらきらして,タイのお墓もとってもきれいですよ。
次に,お盆のことですが,日本のお盆,特に新盆のやり方が気に入っています。新盆は新
し い 仏 様 の い る 家 で ,玄 関 や 庭 に 灯 籠 提 灯 が 立 っ て い ま す 。仏 様 が 迷 わ な い た め だ そ う で す 。
灯籠提灯はきれいだし,私にはとっても珍しいものでした。また,仏壇にもお供え物や提灯
を飾っているし,本当に仏様を大事にしているのだと思います。その灯籠提灯は兄弟か親戚
の人が贈るのだと聞きました。とってもいいことだと思います。
タイにも,日本と同じように,家の中に仏壇があったらいいなと思います。お盆やお彼岸
のとき家に帰ってこられると仏様はきっと喜ぶと思います。タイでも日本でもお墓や仏壇に
亡くなった人の好物をお供えしたり,お坊さんに拝んでもらったりしますが,それらの好物
を亡くなった人が食べているのか,あちらの世界で幸せにしているのかどうか,誰にもわか
りません。ですから,私の考えは,生きている間に両親の世話をしたり,家族にいい時間を
持たせてあげたり,仲良くしたり,一生懸命することだと思います。皆さん,賛成してくれ
ますか。
私のスピーチを聞いてくださってありがとうございました。
言葉は宝石
メナ・アラヤ・アーロン・エリー
出
身
コスタリカ
職 業 等
茨城大学
在日期間
10 ヶ月
皆さん,こんにちは。
私はアーロン・メナと申します。去年の4月にコスタリカから来日しました。茨城大学の研究生です。
きょうは言葉の偉大さについて話したいと思います。
言葉は人々が自分の考えや感情を表現する大切な方法です。どんなに遠く離れていても愛する人々に心を
伝えることができます。言葉は人類が発明,発見したものの中で一番すばらしい宝石ではないでしょうか。
新しい言語,新しい言葉を習うと世界が広がっていく感じがしませんか。
私が新しい言語,日本語に興味を持つきっかけになったのはアニメです。日本のアニメはドラマ性があり,
優れた映像技術を使い,とてもきれいです。私は姉と一緒に『アルプスの少女ハイジ』や『母をたずねて三
千里』を夢中になって見ました。マルコに成りきってみたものです。高校生のころには,学校を抜け出して
近くの友達の家で日本のアニメを見たりしたこともありました。そして,このような作品を生み出す日本と
いう国に興味がわき,日本語を勉強したくなったのです。ところが,私の町には日本語の本を売っている店
もなければ,日本語を教えてくれる人もいませんでした。
ある日のことです。仕事で首都のサンホセに行っていた父が『3週間で日本語を話す』という本を買って
きてくれました。父は私の気持ちを知っていたのです。もちろん,3週間というのはちょっと怪しいタイト
ルですが,日本への道をつくってくれた確かな道具になりました。
さて,言葉は人の心を写す鏡になるときもありますね。例えば,平和と耳にすれば,恐怖のない世界で遊
ぶ子どもたちの笑い声が私には聞こえてきます。戦争の暗闇に包囲されているときには,平和という夜明け
の輝きは来ないでしょう。
正義と耳にすれば,貧困の日々を数える南米の兄弟の希望が見えてきます。共産主義も資本主義も兄弟の
ぼろぼろの傘を貫いていく苦い味の雨になってしまいます。その雨は,やむ日はいつ来るでしょうか。
愛情と耳にすれば,新しい世界を目指している人たちを結びつける心の鼓動が響いてきます。世界中の母
親が幸せに満ちた子どもを抱きしめる朝が訪れる予感がします。
私は,このように自分の考えを日本語で表すことができるようになりました。
日本語の言葉というレンガを積み上げて,家が少しずつできてきたのです。まだまだレンガは足りません
が,新しい言葉を一つ一つ確実なものにして,美しい家を築いていきたいと思っています。
この美しい家を築きながら,4月には大学院に入り,教育番組とドラマについて研究する予定です。でき
るだけ多くのことを経験し,技術を学び,吸収するつもりです。そして,コスタリカに戻ってからは,日本
語という宝石で学んだ番組制作技術を使って,今度は私の母語,スペイン語という宝石の小説をドラマ化し
たいと考えています。
ドラマ制作と放送文化を通してコスタリカ人の心を日本に,そして,世界に伝えるのが私の夢です。
Muchas Gracias por
su atencion.ご清聴ありがとうございました。
私の夢は大学の日本語教授
ちょう
趙
出
身
しょう き
小琪
中国
職 業 等
技能実習生
在日期間
1年
皆さん,こんにちは。
私は趙小琪と申します。
今年,22 歳です。中国のナシで有名な莱陽から参りました。今,日本ハムの研修生として,中国で先生を
していたなら絶対に体験できない貴重なことを学んでいます。
今,食の安全性が求められている現実を理解しています。この経験を大学で教鞭をとるようになったとき,
日本での経験とともに,食べること,健康への影響に取り組みたいと思いながら,ハム,ソーセージの製造
の仕事をしています。
夢といえば,誰でもいろいろな夢があります。私ももちろんあります。子どものころ,私の夢は警察官や
弁護士,そして大統領などでした。それらはとても偉い人と感じていたからです。でも,成長するとともに,
大学の教授になりたいという思いが強くなってきました。今,私の夢は大学の日本語教授になることです。
私は中国で師範大学に入学し,文学を専攻しました。卒業後,高校の中国語の教師になりましたが,学校
時代のクラスメートは大学院に進学してさらに研修をする人が多かったのです。でも,先生になったばかり
の私は,教える仕事はとても楽しかったのです。しかし,1年後,
「これでいいのだろうか」と苦しんでいま
した。本当はクラスメートと同じようにもっともっとレベルの高い勉強がしたいことに気がつきました。日
本でいう大学院の試験に挑戦しました。残念ながら不合格でした。毎日 10 時間以上勉強した。私はあんなに
勉強したのに……。とっても落ち込みました。
そんなとき,家族から,日本ハム研修生募集があることを知りました。日本に渡って,未知の世界へ飛び
込んで,さまざまなことを吸収するのは人間としての幅も広がるのではないかと思いました。
高校の先生を辞めて,外国である日本に行こうと決心しました。高校の先生を辞めたことで,みんなは「ど
うして,どうして,こんないい仕事を辞めるの」,生徒は「先生,日本は遠いから行かないで」と涙を流し,
同僚は「日本語は大丈夫」と心配しながら強く引き留めてくれました。でも,そんなとき,私の気持ちが先
に日本に飛んでいたのです。
今,筑西市の日本語教室で,毎週火曜日の夜,1時間半勉強しています。寮に帰ってからも4時間くらい
復習します。勉強が進むにつれて新しい目標が出てきました。日本語能力検定試験の1級合格を目指します。
昨年 12 月に2級の試験を受けました。結果が楽しみです。
日本での研修が終わって中国に戻ったら,大学の日本語教授になるために受験します。条件の一つが,日
本語能力検定試験の1級があるのです。この夢を実現するために,生徒に報いるためにも,一生懸命勉強す
るとともに,本で知る日本ではなく,実際に生活した日本の話を教壇から学生たちに伝えるようになりたい
です。
これからも一層努力し,一生懸命頑張ります。
ありがとうございます。
自分の国は一番
ヴィンセント・エチェ
出
身
カナダ
職 業 等
外国語指導助手
在日期間
6 ヶ月
皆さん,こんにちは。
外国で暮らすということは,私たちにとって大きな変化となります。そして,滞在期間にかかわらず,ほとんどの人は
必然的に外国と母国とを比べ始めます。その結果は,
「わぁ,すご〜い,電車がいつも時間どおりに来るんだな〜,すて
きな国だな」という外国に利点がある場合が多いのですが,正直に言わせてもらえば,
「寒い〜,この国には,何できち
んとしたセントラルヒーティングシステムがないんだろ〜」という母国に利点のある場合もあります。
外国に住んでいる人は,このような出来事を何度か体験すると,無意識であってもそうでなくても,どちらの国のほう
がよいと言わなければいけない感じがするのです。しかし,そんな議論は無駄だと私は思います。つまり,その質問に対
して正しく答えることは絶対に無理なのです。しかも,そのようなどちらか一方の国に優劣をつけるような考え方は,国
際関係や移民政策に対して摩擦を生むことがあるのではないでしょうか。何といっても,1年間,日本で英語教育に携わ
る者として,その点,日ごろから考えることが非常に大切だと思うのです。
私はカナダ出身ですが,5年ほど前から,それまで住んだことのない未知の国に住む機会に恵まれました。まず,大学
生として「エコール・ポリテクニーク」というフランスのパリにある大学で工学を2年間勉強しました。その後,アメリ
カのボルチモアにある「ジョンズ・ホプキンス大学」へ行き,医用生体工学を専攻して,ここでも2年間過ごしました。
そして,ついにジェットプログラムの参加者として,2008 年7月末から日立第一高校の英語科で働き始めました。
このように外国でかなり長い時間を過ごしたので,私のさまざまな体験をお伝えすれば,先ほどの話がすぐにわかると
思います。
私は,5年前,フランスに到着してしばらくしてから,ご想像のとおり,私も2国間を比較し始めました。それは,多
分当たり前のことなのですが,例えば,パリではしょっちゅうストライキがあったり,レストランに行ったときに,ウエ
イターがお客さんを全く気にかけてくれないので,
「一体,どっちが客なのかな〜」という感じがしたときもあります。
しかし,時間がたつにつれて,劇場やコーヒーショップが多く,コンサートなどもたくさんあり,歴史も深く,パリの生
活に感謝するようになってきました。でも,一番の理由は,親しい友達ができて,いろいろな忘れられない思い出をつく
ったからだと感じています。とにかく,2年が過ぎたころには,もう帰国したくないくらいフランスに対しての気持ちが
大きく変わりました。
その後,アメリカへ引っ越ししたときには,前回の経験に懲りずにアメリカの欠点の批判をしてばかりいて,同じ状況
に陥りました。しかし,フランスに住んだときと同様に,アメリカを離れるころは辛いと感じました。これらの経験は,
自分の故郷がほかの国や大陸に移動したようなとっても奇妙なものでした。
もう一度同じ間違いを繰り返したくなかった私は,日本に行く上で,新たな心構えで頑張ってみました。もちろん,今
でも日本社会と前に住んでいた国の社会の相違には気づいていますが,結局のところ,これが一番大事ではないのです。
なぜなら,日本を去るときが近づいてきたら,茨城で有名なくさい納豆とか,原チャリで学校に通うときの北風の冷たい
感覚など,そして,友情も私の一番大切な日本での思い出となり,日本もまた自分の故郷になるからです。
何が私にとってその国をすばらしい国にするかといえば,私がお話ししたような懐かしさでいっぱいの思い出や,振り
返ったときに思わず笑ってしまうような出来事,そして,それらがほかでは経験できないような思い出であるからだと私
は考えます。ご清聴ありがとうございました。
初体験!日本
い
李
出
身
さんうん
相恩
韓国
職 業 等
茨城キリスト教大学
在日期間
10 ヶ月
アニン,ハセヨ。私は 2008 年の4月,日本に来ました。交換留学生として,茨城キリスト教大学で1年間勉強す
ることになったのです。日本での留学生活は初めての体験であり,初めての海外生活でもありました。
それでは,これから,私が日本に来て感じたことや日本での思い出を話そうと思います。
まず,日本に来たばかりのときは驚きの連続でした。最初に驚いたのは地震でした。何となく日本は地震が多い
ことを知っていたので,ある程度は覚悟をしていましたが,やはり実際に体験してみると,百聞は一見にしかずだ
と思いました。地震で家が揺れ始めると,私の心も一緒に揺らぎ始めました。特に大きい地震が来るとどうしてい
いのかわからなくて,すごく不安になっている自分がいました。しかし,日本人の友達に「きのうの地震,すごか
ったでしょう?怖くなかったの?」と聞いてみると,友達は「全然怖くなかったよ。本当に強い地震じゃないと家
は倒れないから心配しなくてもいいよ」と落ち着いた声で答えました。そのとき私は,日本人って地震に慣れてい
るんだなと思いました。
日本での驚きは地震だけではありませんでした。韓国では食べ過ぎて飛べないかわいそうな鳩たちはいっぱいい
るのですが,カラスはあまりいません。一方,日本ではカラスがたくさんいました。特に燃えるごみを出す日が来
ると,カラスたちは多く町の中に集まってきます。黒くて大きい体でごみの中の食べ物を探している姿はまるでア
フリカの鷲のようでした。近づくと逃げるどころか,私がカラスたちに観察されている気がしました。最初はそん
なカラスが怖くて嫌いでしたが,今や慣れたせいか,カラスのつぶらな瞳が可愛いく思えるようになりました。
そして,最初は驚いた日本での生活も,時間がたつと,日本のよさが見えてくるようになりました。日本のよさ
はいろいろありますが,一番日本のいいところは,優しさがあふれているところです。
私が住んでいるアパートの大家さんは,初めて日本に来て不安を持っていた私に,学校までの近道やショッピン
グをするところなどを親切に教えてくれました。また,バイト先を探していたところ,近くのレストランの店長さ
んは,気持ちよく外国人である私を採用してくれました。たまに日本語の意味がわからなくて焦っている私に,店
長さんは親切に説明してくれました。
日本のよさに感激していたところ,日本の改善すべき点も発見しました。日本人は「日本はだめだ」とよく言い
ます。朝のワイドショーでも「日本はだめだ」
,身近な大人たちも「日本人はだめだよ」
,日本人の友達でさえ「私
は日本の男はあまり……」と言っています。心の中ではそう思っていないかもしれないし,もしかして,日本とい
う国はそういうふうに自分の国を責めることによって成長しているのかもしれません。しかし,日本が大好きな私
には,
「日本はだめだ」ということを聞いてしまうとなぜか落ち込んでしまいます。私は日本が大好きだけど,日
本人は「日本が嫌い」と言っている。では,そんな日本のことが好きな私もだめなのかなという結論にたどり着い
てしまうのです。私が日本や日本人を大好きだからこそ,日本人も自分と自分の国を愛してほしいです。
そろそろ私は1年という留学生活を終えて韓国に帰ります。私は日本に来る前でも日本が好きでしたが,私の思
い出や経験したことがたくさんある今,日本はもっともっと好きになりました。日本での思い出を胸に刻んで,韓
国に帰っても忘れないようにしたいと思います。
カミサンミダ,ご清聴ありがとうございました。
もう一度お礼を申し上げたい
ちょう
張
出
身
きんかい
金愷
中国
職 業 等
水戸国際日本語学校
在日期間
4 ヶ月
皆さん,こんにちは。
私は中国から参りました張金愷と申します。よろしくお願いします。
では,私のスピーチをお聞きください。
2008 年 10 月9日木曜日,この日は一般の方にとっては特別な日ではないかもしれませんが,私にとっては長い
人生の大きな曲がり角でした。なぜなら,この日,私は幼いころからずっと憧れた日本に来る日だったからです。
日本に着いたときは既に午後3時ごろでした。はるばる水戸から迎えに来てくれた先生たちと合流して,学校行き
のバスに乗って,水戸国際日本語学校へと向かいました。それから,親切な先生たちに囲まれた私は,遠くのふる
さとにいるようにとても充実した1カ月目を送りました。私の想像した以上に日本人は親切でした。
ある日曜日,土浦にいる友達と会う約束をしました。まだ日本に来て,日本の電車に不慣れな私は,当日,中国
から持ってきたお土産を持って水戸駅へ向かいました。自動発券機のパネルを見つめながら,
『聞くは一時の恥,
聞かぬは一生の恥』ということわざを繰り返していました。ちょうどそばに切符を買いにおばさんがやってきまし
た。思わず「あの,土浦行きたいのですが,切符の買い方を教えていただけませんか」
。するとおばさんは「まず,
上の地図を見れば,行きたいところまでの料金がわかります。それからお金を入れてボタン押せばいいです」らし
きことを親切に説明してくれましたが,しかし,日本に来てまだ1カ月半もたっていない私には,方言らしい日本
語はちっとも理解できませんでした。あっという間に後に四,五人の列ができて,おばさんが私の手にあった 1,000
円札を「貸してください」と言って 780 円の切符を買ってくれました。また,改札口で困った私を見たおばさんは
「ついてきて,私も同じ電車だから」と言って,私の前に来て改札の通り方を見せてくれました。おばさんのおか
げで無事に上野行きの常磐線に乗れました。
社内は乗客がいっぱいで,おばさんにお礼を言った後,空いた席に座って発車を静かに待ちました。初めての電
車の旅で,車掌のアナウンスを聞きながら,外の眺めを見たりして,心がどきどきしていました。うとうとしてい
るうちに,かすかに土浦という言葉が耳に入りました。慌ててかばんを持って電車を飛び出しました。人込みの流
れに乗って出口にたどり着いた私は,持ってきたお土産を電車に置き忘れたことに気づきました。改札口で助けて
もらおうと振り返ったら,水戸駅でいろいろと助けてくださったおばさんが,私のお土産を持って駆けつけてきて
くれました。
「あなた,ちょっと待って,これ忘れたでしょう」とハアハアと息を切らしながら言いました。お土
産を受け取った私は,自分の気持ちを表す言葉が見つからなくて,ただ,深くお辞儀して「ありがとうございまし
た」と言って,涙があふれそうになりました。
「初めて電車に乗ったようで,よくあなたのこと見ていました」と
おばさんがにこにこしながら言った後,ポケットからハンカチを出そうとして入っていた切符が床に落ちました。
急いで拾って返した瞬間,2210 の数字が目に入りました。特に考えもなく,その場でおばさんが去っていく姿を見
送りました。
今となってやっとわかりました。水戸から上野まで 2,210 円かかります。よって,あのおばさんはわざわざ私の
置き忘れたお土産を届けるため電車を降りたのだとしか考えられません。初めて電車に乗って,そして,初めて見
知らぬ人に助けられて,とても感激しました。そのとき,名前ぐらい聞けばよかったなと反省しているとともに,
親切な方がいるので,日本での留学生活もきっとうまくいくと心強く思っています。
最後に,この場をお借りして,もう一度あのおばさんに「ありがとうございました」とお礼を申し上げたいです。
以上,ご清聴ありがとうございました。 張金愷でした。
祭りを通して感じたこと
り
李
出
じゅ み
周美
身
韓国
職 業 等
茨城キリスト教大学
在日期間
10 ヶ月
こんにちは。
私は李周美と申します。韓国から来ました。
私は去年の4月に茨城に来て,約 10 カ月間,大甕にある茨城キリスト教大学に通いました。
きょうは,日本での生活の中で一番貴重な経験になったことを皆さんに伝えたく,この場に参りました。
私が日本に来た理由は,日本の文化や生活に直接触れたかったからです。そして,日本の文化の中でも一
番期待していたのは祭りでした。なぜなら,私が初めて見た祭りは,韓国に住んでいる日本人の祭りだった
からです。ソウルの北のほうにあるデハンノ(大学路)という場所で1年に1回開催されます。決められた
時間帯を歩行者天国にして,日本各地の踊りを披露するというものでした。
韓国でも,本当の田舎のほうには巫女さんを呼んで豊作を祈る儀式があります。しかし,それはとてもマ
イナーで,あまり見るチャンスがないため,私は一度も見たことがありませんでした。
そして,日本に来て,日立の桜祭りや勝田祭りなど,直接日本の祭りを見ることができました。そのとき
は祭りを見ただけでその地域の伝統がわかるような気がしてすごく楽しかったです。
さて,それよりも貴重な経験をしました。それは大学で沖縄祭りを企画したことです。皆さん,去年の 11
月 23 日に,大甕駅前で沖縄の文化を伝える祭りが行われたことをご存じでしょうか。それは,私が通ってい
た大学から沖縄の大学に交換留学をした学生が提案して一からつくり上げた祭りです。メンバーは皆学生で
したが,いろいろな学科から集まったのでほとんどの人が初対面でした。そこから私たちの中でも交流が始
まりました。沖縄のことは私たちもさほどわかっていなかったので,みんなで沖縄の食べ物や,今,沖縄が
抱えている米軍の問題などを勉強しながら準備をしました。
いよいよ沖縄の学生が来て祭りを行いました。前夜祭は大甕駅前で行い,本番は学校で行いました。私は
前夜祭でちんすこうや泡盛キャンデーなどの限定商品を売りました。そして,本番では沖縄のソーキそばと
サーダーアンギーをつくりました。祭りが終わった後は,みんなが集まって,沖縄の八重山踊りを教えても
らいながら,夜遅くまで三線の音に合わせて踊りを踊りました。
最後に,この活動を通して私なりに考えたことがあります。それは,日本人の地元を愛する気持ちが一番
込められているのは祭りではないかということです。そして,その気持ちは私にも伝わり,逆に韓国が恋し
くなりました。
学生同士で祭りを企画して成功させた経験は,韓国に帰って地元の集まりをつくりたいという思いにまで
膨らみました。もちろん,伝統的なものは一日でできることではありませんが,私たちがつくり上げた祭り
が,来年,再来年,そして,またその次につながると,それが伝統となっていくでしょう。
今,韓国には代表的な祭りはありません。しかし,これからもつくることができると思います。祭りを通
して韓国を愛する気持ちを高めたいです。
以上です。ご清聴ありがとうございました。
おとうさんは
どこ?
ラティーフ・アリー
出
身
アメリカ
職 業 等
外国語指導助手
在日期間
3 年 10 ヶ月
皆さん,こんにちは。
ラティーフと申します。
茨城に着いて間もなく,アパートの近くのばあちゃんが僕に話しかけてきました。
「ごはんたけっけ」,
「ご
はんたけっけ」,これは何語なんだろうと僕は考えました。日本語を勉強したとき,習ったことがない言葉で
す。アメリカでは,スペイン語,韓国語,中国語,フランス語,いろいろな言葉が飛び交っています。日本
に来るとき,日本語を話せると日本中どこでも通じると思って,不思議な出来事でした。
最近,その言葉の温かさがわかってきました。日本語は奥が深いなと思います。
さて,そのおばあちゃんは,孫が一人で暮らしているが,食事をつくれず外食ばかりしている。だけど,
僕が何でもつくっているのは「すごい」と言ったのです。僕は小さいときから母の手伝いをしていたから,
一人で暮らすことは何も問題ありません。
僕は7歳ごろからお皿洗いを続けてきました。母が楽しそうに仕事をして,
「僕もやりたい」と言ってやり
始めました。母も「もう7歳だから頼むよ」とうれしそうに言いました。家族の喜ぶ手伝いをすることは僕
もうれしかったのです。
日本の子どもはあまり手伝いしないと聞きましたが,アメリカでは手伝いすることは当然のことです。日
本では,毎朝,お母さんが重いごみ袋を出すのを見て,僕は不思議だと思います。アメリカではごみ袋を出
すのは当然子どもやお父さんの仕事です。
さて,皆さん,もっと不思議なことを聞きました。日本の子どもはお手伝いしなくてもお金をもらえるの
です。僕たちは何かを買うためにお金が欲しいときは,窓ふき,庭掃除,台所掃除など,親と相談して,1
週間とか1カ月続けてやってお金をもらいます。日本ではお手伝いしなくてもお金をもらうのは不思議です。
親も子どもも不思議と感じないのはもっともっと不思議だと思います。お父さん,お母さん,何もしない子
どもにどうしてお金をあげるのですか。
ところで,この間,中学校で授業参観がありました。僕にとって初めてで,お父さん,お母さんなどたく
さんの家族が来ると思って緊張してクラスへ行きました。ところが,お父さんは全然見ません。
「お父さんは
どこですか,お父さんはなぜ来ないのですか」
。お父さんは忙しいと思います。しかし,子どもが学校でどん
な生活をするのか見ることは大切だと思います。
子どもとコミュニケーションをとって,家族で共通の話を家族で話すことができます。お父さんも授業参
観に行って,
「おめえの先生,美人だ」なんて言ったら,子どもはきっとお手伝いすると思います。お手伝い
してもらったお金は大切に使うはずです。働くことの喜び,家族の喜びを感じると思います。
僕がお父さんになったら,授業参観にもちろん行きますよ。
ご清聴ありがとうございました。
外界とふるさとの出会い
トカチェンコ・スヴィトラナ
出
身
ウクライナ
職 業 等
筑波大学
在日期間
1 年 4 ヶ月
皆さん,こんにちは。
ウクライナから来ましたラーナと申します。
これから『外界とふるさとの出会い』についてスピーチをいたします。
日本は国際交流がとても上手な国だと思います。外国人のため,日本語教室がたくさんあって,それぞれのとこ
ろに国際交流センターもあって,多くの日本人は留学生のホストファミリーとして参加しています。これは非常に
いいことだと思います。
日本人は外国人の生活を見て外国の文化がわかります。外国人は日本の生活をしてみたら日本の習慣や性格など
もわかります。みんなはふるさとの伝統的な習慣や文化を調べて,好きになって,守り続けると思います。
今,日本人は外国人があまり珍しいと思いません。みんなは大体外国の人に慣れてきましたね。でも,当たり前
でも気がつかないことがまだまだよく出てきます。例えば,よく知らない人に道を聞くと,説明は英語になってし
まいます。それはおもしろいことです。どうして英語でしょうか。ヨーロッパの顔がある私は英語ができるわけで
はないでしょう。日本人はよく外国人ならアメリカ人だと思ってしまいます。同時に,イタリアとフランスのワイ
ンが好きで,ドイツパンも時々買いますね。その国の人は英語ではなくて,ドイツ語,フランス語,イタリア語で
話すでしょう。何で英語でしょうか。もし道を聞いた人は,英語がわからないと困ると思います。
さて,私の夏の一番楽しい思い出はホームスティです。日本人と数日間過ごして,日本の生活を体験してみたら,
それは一番おもしろいと思います。いろいろな習慣の違いが出てきます。例えば,飲み物,あるホストファミリー
と朝ご飯のとき「紅茶とコーヒー,どちらがいい?」と聞かれました。そのとき冷蔵庫から出してテーブルの上に
置いたのはペットボトルの冷たいコーヒーと冷たい紅茶でした。私はこれを見てびっくりしました。ヨーロッパの
私に,朝ご飯のコーヒーか紅茶は熱いものだというのは当然でした。日本のホストファミリーで,夏の暑いとき,
どんな飲み物でも冷たいものだと知りました。
また,ほかのホームスティのとき,熱いコーヒーを頼みました。飲んでみたら,何かおかしい味でした。その理
由は,次の日,コーヒーのつくり方を見てわかりました。このコーヒーはペットボトルからカップに入れて電子レ
ンジで温めたものでした。やはり日本人とヨーロッパの人の味が違うのです。ヨーロッパの人には,つくったばか
り,熱いコーヒーがおいしいです。紅茶も同じです。日本の人には,夏の暑いときのおいしいものは冷たいもので
す。日本にいる私には,夏の大好きな飲み物は冷たいウーロン茶になりました。新しいものを試してみて,とても
いいものを発見しました。
次に,国際交流にすばらしいポイントがあります。それは,それぞれの国の文化を守る役割です。
実は,私が初めて日本に来たとき,自分の国のことはあまりわかりませんでした。日本人や外国の人に国のこと
は何回も聞かれました。そのとき説明があまりうまくできなくてとっても恥ずかしかったです。それから国の文化
や習慣を調べました。そうしながら,自分の国の伝統文化を再発見しました。日本人もやはり同じことを感じたこ
とがあると思います。
最後に,人間は体験したことだけを信じるものです。もし,私たちが狭い世界に生まれたら,ずっと自分の世界
や社会の中に生きていたら私たちの考えも狭くなってしまいます。でも,本当の世界は人間が想像できないほど広
くてすばらしいものです。それを体験した人や広い心を持ちたい人は,自分の世界のドアを開けて,外界のすばら
しいところを見つけて,心の豊かな人間になりませんか。
ご清聴どうもありがとうございました。
心は宝物ということです
スプリヤント
出
身
インドネシア
職 業 等
技能実習生
在日期間
2 年 1 ヶ月
皆さん,こんにちは。
私はスプリヤントと申します。インドネシアから2年前に研修生として参りました。
きょうは,このように大勢の方の前でお話しすることができてとてもうれしいです。
日本とインドネシアの文化は違っています。でも,時間がたつとともにだんだんわかるようになりました。
違う国でも,違う文化でも,人間としては同じ心だということがわかりました。
この機会に,私は心について話したいと思います。
心は宝物ということです。皆さん,心って何ですか。このような疑問は誰でも考えたことがあると思いま
す。心は体の中の小さい部分ですけれども,大きい力があります。触ることができないですが,感じること
ができます。世界中の人々がいろいろな心を持っています。人間は,生まれて以来,広いきれいな心を持っ
ていますが,時間が流れるにつれて心が成長していきます。
最近,日本だけではなくて,世界中で人を傷つけるような怖い事件が増える一方です。どうしたのですか,
何かあったのですか,そんなことを考えています。人を傷つける人は体は健康で元気なのですが,心は壊れ
ています。心が壊れている人は,ほかの人を傷つけてしまうことがあるようです。心の健康を守って,広い
きれいな心でいましょう。
また,強い心と弱い心を持っている人もいます。強い心を持っている人はあきらめることなく夢を目指し
ています。悩みがあっても一歩一歩最後まで頑張ります。しかし,弱い心を持っている人はあきらめやすい
です。難しいことに向かってすぐにあきらめます。それなら夢が見えてこないでしょう。
日本語は難しいです。でも,
『塵も積もれば山となる』という言葉があります。毎日少しずつ日本語の言葉
を覚えて,1年間,2年間,たくさん言葉が覚えられました。そして,日本語能力試験の3級に合格しまし
た。これからももっと上の級を目指しています。そのために強い心で頑張らなければなりません。
次に,温かい心と冷たい心を持っている人もいます。温かい心を持っている人は友達ができるし,寂しく
ないと思います。しかし,冷たい心を持っている人は友達ができなくて,寂しくなります。友達がいない一
人の生活を続けていたら心の病気になるかもしれません。だから,心温かくして心の健康を守りましょう。
私も温かい心を持っている人から助けてもらいました。最初,日本に来たばかりのころは仕事のやり方が
全然わかりませんでした。会社の人に心込めて教えていただいて,仕事ができるようになりました。
皆さん,心についていろいろお話をしましたが,広いきれいな心,強い心,温かい心を持っている人にな
りましょう。そうすれば友達がたくさんできるし,それに平和になります。皆さん,
「心は宝物」ということ
です。
最後まで聞いていただきまして,ありがとうございました。
ペットボトルに何が起こっているか?
カーラ・ファラグーナ
出
身
職 業 等
アメリカ
外国語指導助
手
在日期間
1 年 6 ヶ月
皆さん,こんにちは。
私はカリフォルニア州のサンフランシスコで生まれ育ちました。
カリフォルニア州は太平洋岸に 1,351 キロの海岸線があることが自慢です。日本に来てからも海岸の近くの町に住め
たのでうれしく思っています。
ある日,仕事が終わった後,アパートの近くの海岸に行きました。県北地区の海はサンフランシスコの海の水と色も
香りもほぼ同じです。夕焼けの光は私に安らぎを与えてくれます。波しぶきから数メートルのところにある石畳の上に
座って夕日を眺めました。そのとき,私はあることに気がつきました。石畳の周りはまるでペットボトルの墓場になっ
ていました。そのあまりのひどさと量に私がどれほど驚いたことでしょう。こんなすてきなところに来て,カルピスを
飲み干し,そのままボトルを捨てていくような人がいるのでしょうか。とっても後味の悪い思いをしながらその場を去り
ました。
どうしてそれらのボトルは浜辺についたのでしょうか。そして,なぜ誰も気にしないのでしょうか。私のアパートの
近くの浜辺は,夏に潮止まりでカニを探している子どもたちに人気があって,丘の上に美しい神社があります。山ほど
のペットボトルを除いて,それは絵のようです。
ある日曜日の朝,その浜辺で私は 10 袋以上のペットボトルを集めました。それを私の車で運んだのですが,車の中が
くさくなって,二,三日の間,窓を開けて運転しなければなりませんでした。でも,資源ごみの収集日に私はペットボ
トルとの戦いに勝った気持ちでした。しかし,私たちは戦争にまだ勝ってなかったようです。
私は最初にペットボトルを拾いに行って以来,数回,浜辺に行きました。私が行くたびにペットボトルがあります。
それはまるで忠犬ハチ公のように私を待ちます。
何回かやっているうちに,私が集めていたボトルのことを知りたくなりました。ごく最近の情報では,2006 年にリサ
イクルされたペットボトルは 66.3%だけでした。それではリサイクルされないペットボトルはどうなるのでしょうか。
幾つかは焼却されます。幾つかは埋められます。そして,幾つかは散らかされます。散らかったペットボトルが我々が
浜辺で発見するものです。
日本は多くの大きい山脈と川や深い峡谷に恵まれています。しかし,そのような自然の美しさは,雨が非常に速く山
をくだり,多くの水が海のほうへ流れていく原因になります。そして,それとともに,途中ですべてのごみを運びます。
私がごみを集めた最初の日から,台風が二,三回,北茨城の近くに来ました。私は,私のバルコニーから浜辺のほう
へ移動しているペットボトルの川を見ることができました。
それでは,我々はこれを変えるために何をすることができるでしょうか。問題は世界的ですが,答えはとっても簡単
です。誰もが環境によいことをすれば,我々は茨城を今以上に美しくすることができます。私はペットボトルを拾うこ
とがディズニーランドのアトラクションのようではないということを知っています。でも,楽しみもあります。次の休
みに浜辺に散歩に行きませんか。あなたの友人や家族も誘ってみたらどうですか。もし友達がいなければ,私を誘って
ください。ちょっと楽しんで,足元にあるどんなペットボトルでも拾ってみましょう。
今,私にできることは,私たちが大事にすべきすべてのものを守っていくように呼びかけることです。私たちは幸運
にもすばらしい茨城に住んでいます。そして,茨城の浜辺を誇りに思いたいです。みんなで浜辺をきれいに守りましょ
う。ありがとうございました。
こんにちは赤ちゃん・お疲れ様です・桜
ロスディ・ビン・アハマド
出
身
マレーシア
職 業 等
会社員
在日期間
2年
皆さん,こんにちは。私はロスディと申します。マレーシアから来ました。どうぞよろしくお願いします。
皆さんは『こんにちは赤ちゃん』という歌をご存じだと思います。
「こんにちは赤ちゃん,あなたの笑顔,
こんにちは赤ちゃん,あなたの泣き声・・・」
,この歌は私が日本と初めて出会ったときの歌です。40 年前,
私のふるさとマレーシアのペナン島に日本人の団体が来てホームスティをしていました。彼らは,時々,島の
公民館で,柔道や空手,日本舞踊などを私たちに見せてくれました。日本の歌も聞かせてくれました。そのと
き聞いた歌が『こんにちは赤ちゃん』でした。この歌は私にとって日本との出会いのキューピットでした。
柔道や空手の実演もとても刺激的でおもしろかったのですが,私が興味を覚えたのは日本語でした。
「大外
刈り,ありがとうございます」
,そして,子どもたちの間で一番気になった日本語は「お疲れ様です」という
言葉でした。もちろん,私たちはどんな意味なのかわかりませんでしたが,子ども同士で「お疲れ様です」は
遊びのキーワードになりました。例えば,何かした後,「あー,お疲れ様でした」と言い合うようになりまし
た。
それからしばらくして,私の家にホームスティをしていた日本人からはがきが届きました。そのはがきには
とてもきれいな花の切手が貼ってありました。そして,Land of the cherry blossom と書いてありました。
そのはがきは桜の国から来たのだと知りました。今までに見たことがないすてきな花,桜,私はそのとき,大
きくなったら絶対に日本に行って本物の桜の花を見たいと思いました。
そして,その日から 40 年後,去年の4月,私の子どものころの夢が叶いました。日本に来て初めて桜を見
ました。すごくきれいでした。ついに憧れの桜の花が私の目の前にあったのです。感激しました。どのぐらい
感激したかって,それは皆様のご想像にお任せしますが,それはそれはすばらしかったです。
「こんにちは赤ちゃん,お疲れ様です,桜」
,それぞれの日本語は私の中で一番美しい日本的な表現だと思
います。
「こんにちは赤ちゃん」は母親の子どもに対する慈しみ,究極の愛です。そして,赤ちゃんの笑顔は
誰にとっても最高の贈り物です。
「お疲れ様です」は,平安の昔から培われた人と人との思いやり,世の中がいくら近代的になっても,根底
に流れる人の和の精神はお疲れ様の中に生きています。
「桜」は,日本の自然の美しさの象徴です。桜は単にきれいなだけではありません。日本人は寒さの残る3
月の上旬から桜の開花をそれはそれは首を長くして待っています。桜が咲き始めると,家族や友人,会社の仲
間を誘い合い,花見に出かけます。一面淡いピンクに染まった桜の花の下で心ゆくまでその美しさを堪能しま
す。
このようにして,私はこの3つの言葉をキーワードとして日本への関心を深めてきました。そして,これら
の日本的な表現の根底に共通するものは,感謝する心だということに気づきました。
最後に,皆さん,お母さんに感謝の気持ちを伝えていますか。皆さんは,この美しい日本に生まれてこられ
たことをご先祖様に感謝していますか。それでは,ご一緒に感謝しましょう。
ご清聴ありがとうございました。お疲れ様でした。
茨城へ嫁いで
い
李
出
あんにょん
安龍
身
韓国
職 業 等
主婦
在日期間
1 年 3 ヶ月
皆さん,こんにちは。
韓国から茨城へ嫁に来た李安龍と申します。
だんなと私はインターネットで初めて出会い,二人ともお互いの文化にすごく興味があったからか,すぐに意気投合。し
ばらくして,空を渡りながら付き合うようになり,とうとう結婚することになりました。彼と一緒ならどこで何をしてもい
いと思いました。恋に落ちたら物事すべてがきらきら輝くというのはこんなものでしょうか。でも,やはり結婚は恋とは違
う,現実でした。
では,これから私が日本に来て感じた現実について話したいと思います。
まず,日本語です。私にとって,日本語は,本の中だけではない,生き生きとした日本を知るための道具,つまり,いろ
いろな日本人の友達と話す,微笑むことができる楽しいものでしたが,茨城へ来てみたら,それはそれは微笑むどころが,
むしろ泣きたいぐらいでした。だんなのおじいちゃん,おばあちゃんは茨城弁,最初のころは,同じ日本語のはずなのに通
じないという,
「全く,何言ってっかわかんないっぺよ〜」の状態でした。でも,方言と言えば,日本より狭い韓国にも地
域ごとにきちんとあります。 言葉そのものが違い,通じないこともあれば,ソウルの男の人はおかまっぽいとか,プサン
の人は怒りっぽいなど,イントネーションでイメージが変わることもあります。日本だと東京と大阪みたいでしょうか。
次のびっくりは日本の寒さです。韓国も日本と同じく四季があり,気温もそんなに変わらないと思います。差があるとし
たら,日本は湿気が多いので,夏は蒸し暑く,韓国は大陸とつながっているので,冬の風が冷たいぐらいです。
「あら,ア
ンニョンさん,日本が寒いからびっくりしたと言っているんじゃないの?」
,さすが鋭いですね。私が言いたいのは,気温
の寒さではなくて室内の寒さです。エアコンで部屋中の空気を暖めるのが日本の暖房だとしたら,韓国はお湯のパイプが床
下をぐるぐる回って家中を暖めるオンドルですごく暖かいです。皆さんもよかったら一緒に行きませんか。
ところで,皆さんは韓国料理と言えばどんな食べ物が浮かびますか。キムチに始まり,激辛ものばかりでしょうか。それ
も私にはびっくりでした。確かに,韓国では,風邪をひいたときにも辛いスープを飲んで体を温め,治したりするぐらいな
ので,その言葉も全く間違いというわけではないのですが,韓国料理はそれだけではありません。特に韓国人だから辛いも
のが大好きで得意というふうに思われる人が多いことにもちょっと困ってしまいます。だんなのお父さんがまさにその一人
なのです。辛いもの大好きお父さんがつくる激辛料理にはもうお手上げです。まいりました,お父さん。
最後のびっくりは,私より韓国に詳しい人が多いことです。韓国にいるときから『冬ソナ』がすごく人気だというのは知
っていましたが,まさにここまでとは思わなかったです。思わず,韓国を代表して「ありがとうございます」と言いたいぐ
らいすごくうれしくなります。ですが,
「アンニョンさん,何々ドラマ見た?」と私の知らないドラマについて聞いてくる
お母さんや,日本と違うたびに「何で?」と聞くおばあちゃん。
「え〜と」
,答えに困っていると,私より先に答えてしまう
だんな。そんなときは何だか悔しくなって,もっと韓国のこと勉強しなきゃと思います。でも,それとは逆に,日本人が知
らない日本のことを知っているときはすごくうれしくなるので,勉強してよかったなと思います。
茨城に来てからもう1年,日本語は大学で勉強し,少なからず自信もあった私ですが,日本で日本語を使うということは
また別物だなと感じました。話題に入っていけなかったり,文法は正しくても,その場でニュアンスが合っているか不安に
なったりして,最初のころはちょっと悩みでした。 日本人と韓国人は外見が似ていることもあってか,私が間違えると不
思議な顔をされたこともあり,それも悩みでした。私が金髪で鼻が高かったりしたらどんだけ楽だったことか,どんだけ…。
冗談はさておき,言葉とは,その言語だけではなく,その文化と一緒にいることを学びました。そして,もっと積極的に
ならなければいけないことも学びました。これからはもっといろいろな人と友達になって,幅広く,そして深く,日本,韓
国,そして世界を理解したいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。
ご清聴ありがとうございました。