平成 25 年度 学 位 論 文 論 文 題 目

平成 26 年 11 月 24 日提出
平成 25 年度 学 位 論 文
論
〈邦
文 題 目
文〉
台湾液晶産業発展の研究
〈欧
文〉
Research
Taiwan
into the Development of the TFT-LCD Industry in
名城大学大学院
氏
名
経済学研究科
経済学専攻
呉
嘉鎮
博士後期課程
目
次
はじめに
1
第一章 東アジアの電子産業発展
第一節 東アジアの半導体技術の移転過程
1.日本の半導体産業の発展
2.韓国半導体産業の発展
3.台湾半導体産業の発展
4.台湾の電子産業の特徴とキャッチアップに成功する原因
小括
第二節 東アジアの液晶技術の移転過程
1.液晶構造と部材
2.日本の液晶産業の発展
3.韓国液晶産業の発展
4.サムスンの人材吸収
5.台湾の液晶産業進出
小括
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第二章 台湾液晶産業の人材育成と政府政策
第一節 台湾液晶産業の人材育成ルート
1.交通大学の液晶実験室と光電研究所の設立
2.民営企業におる技術者
小括
第二節 液晶発展における工業研究院の役割-台湾液晶発展計画
1.工業研究院主導の寶晟光電の発展計画
2.経済部が主導した「台湾顯示器」計画
小括
第三節 台湾政府の液晶政策
1.1960 年代半ばから 1980 年代半ば
2.1980 年代半ばから 1990 年
3.1990 年から 1999 年
4.2000 年以降
小括
第四節 「科学工業パーク設置管理条例」と科学パークの役割
1.「科学工業パーク設置管理条例」の成立
2.台中科学パーク
3.台南科学パーク樹谷エリア
小括
第五節 台湾液晶産業の変化
小括
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第三章 日系部材メーカーの台湾進出と部品メーカーの変化分析
第一節 台湾の液晶工程発展と日系部材メーカーの台湾進出
1. 70 年代に台湾進出を始めた日系液晶部材メーカー
2. 90 年代台湾進出を始めた日系液晶部材メーカー
小括
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第二節 2000 年代に急速に変化する部材メーカー市場
1.カラーフィルター
2.偏光板
3.ガラス基板
4.バックライト
5.ドライバ IC
6.液晶生産設備
小括
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第四章 液晶産業の再編と台湾液晶産業の特徴
第一節 液晶専門メーカーが消えた 2000 年代
1.2000 年代前半の液晶産業の急速な成長
2.2000 年代後半リーマン・ショックによって下落した液晶産業
3.韓国の液晶メーカーの再編
4.日本の液晶メーカーの再編
5.台湾の液晶メーカーの再編
小括
第二節 2000 年代以降の台湾液晶産業の変化
1.OEM 的色彩の濃い台湾電子産業の液晶産業への進出
2. EMS メーカーと台湾液晶メーカーの関係
小括
第三節 2000 年代末からの液晶市場の多様化
1.タッチパネル
2.有機 EL(EL AMOLED)
3.電子ペーパー
小括
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おわりに
67
参考文献
74
はじめに
1960 年代から日本は、家電産業をはじめ、半導体、液晶産業等、次々と発展させ、電子
産業とハイテク産業で成功を収めた。このような電子中心の発展モードは近隣の東アジア
の国々に影響し、韓国や台湾の産業の発展方向に大きな影響を及ばした。日本から両国へ
の技術移転は、企業間の提携を通じて行われることが多かった。台湾企業と日本企業の提
携の第一号として 60 年代から東芝の技術を受けてきた大同製鋼機械は台湾最大の総合電子
メーカーに成長し、台湾初期液晶メーカーの一つとなった1。80 年代に入り、日本は技術
イノベーションによって新分野の液晶産業を創造した。90 年代に入り、製造技術を掌握す
ることによって日本の液晶メーカーは薄型テレビで市場を制覇した。半導体に次いで日本
は液晶産業が国の産業として世界に知られるようになった。そして、日本の液晶メーカー
が起こした映像革命は韓国だけでなく、当時大量にノートパソコンを生産していた台湾に
も大きな影響を及ぼした。台湾は特殊な歴史的背景と独特な地理的要因で日本や韓国に次
いで液晶産業が発展した。台湾の液晶産業は日本へのキャッチアップ成功で短期間に顕着
な成果を現わし、半導体ファウンドリーの次なる代表産業となっている。産業規模と市場
シェアが急速な拡大をしている一方で、台湾液晶産業の産業構造は急速に進化している。
パソコン産業の中で日本企業と協力関係を持っていた台湾企業は 80 年代から TN/STN
モニターの生産を始めた。90 年代、韓国液晶事業が拡大していく中で、台湾パソコンメー
カーからの TFT-LCD 技術移転要求があり、1999 年以降日本側が液晶技術力を台湾に供与
し戦略パートナー関係を結成した。これによって台湾メーカーは相次ぎ液晶産業に参入し、
急速に液晶の生産量が拡大した。その後、2002 年からの中国進出によって生産能力を拡大
する台湾液晶メーカーと韓国液晶メーカーの液晶ディスプレイの生産能力は、2006 年まで
に、各々約 38%、約 45%のシェアを持つに至り、一時期世界の 8 割を超えるシェアを占め
て日本との差異が際立つことになった。
台湾政府は 2002 年から国策で液晶産業を育てようとしていた。その頃から台湾の研究
者と中央研究院による台湾の液晶産業を対象とする研究が多くなってきた。その主な内容
は、液晶製造技術と日台液晶提携関係及び当時の日台韓の液晶産業界の比較などである。
台湾液晶産業の成立についての研究では日系液晶メーカーの技術提携を受けた典型事例と
して後発国の技術吸収と成功要因を研究する研究者が多かった。台湾の液晶産業研究では
2003 年の王淑真の著作「台湾邁向液晶王國之秘」がこの研究の代表である。台湾液晶産業
の発展の歴史を調査し、台湾の見地から液晶産業の発展理由を探した王は、台湾ノートパ
ソコン OEM 業務の急成長によって組立工程を行っていた事業者が生産者に変わったこと
が、台湾の液晶産業発展のきっかけとなったと指摘した2。そして台湾に液晶産業が成立し
た理由を外来技術の導入、コストや資金面のリスクの低さ、電子産業の川下での集積など
三つの理由にまとめ、 台湾液晶産業の優位性を主張した。
一方、日本の液晶産業研究者は異なる角度から後発国の台湾が液晶産業に成功した要因
を考察するとともに、日本の液晶産業を主体とする液晶産業の研究を行った。赤羽淳3と新
宅純二郎4は日本企業や台湾政府の役割 と台湾液晶産業の発展と技術移転の仕組みを分析
した 。中田行彦は 2000 年以降、日本メーカーが液晶産業への大量投資をやめてパネルの
大型化を中止した頃、韓国が液晶に投資し続けて不況の損失を最小限にしたことを指摘し
た。そして、その頃台湾の液晶産業の発展が期待され、液晶メーカーによる新世代の生産
1佐々木,絵所(1987)270
頁
2王(2003)153
頁
3赤羽(2004)12-14 頁
4新宅(2006)9 頁
1
ライン建設が進められたと述べ、技術移転と同時に導入した大量生産体制の確立が台湾液
晶産業を急速に成長させた要因と分析した5。
これまでのほとんどの研究が台湾はどのようにして日本から技術を導入したのかという
点についてばかり注目し、90 年代末からの日台液晶技術提携関係を中心に議論していると
ころまででとどまっている。しかし、80 年代と 90 年代の台湾液晶産業を繋ぐ研究者はあま
りなく、2000 年代末から転換期に入った液晶産業についての研究も行われてこなかった。
ここにはいくつの問題点がある。
まず確かに日本が最初の TFT-LCD テレビの量産化を開始した 80 年代末に TFT-LCD の
製造は台湾では行っていなかったが、台湾の液晶人材の育成は 80 年代から既に始まってい
た。そして、80 年代に台湾の液晶産業に最初に投資したメーカーは当時のパソコンメーカ
ーという事実があるので液晶産業を研究する研究者は台湾液晶産業とパソコン産業の拡大
と関係があると主張したが、その原因についてまとめる人はなかった。例えば当時製造技
術の進化したパソコンメーカーが台湾液晶産業発展のきっかけとなったというように王は
パソコン産業の成長と液晶産業の繋がりを主張した。しかしパソコンメーカーによる液晶
生産設備の導入と技術提携だけでは技術力と専門人材が必要な液晶産業は短時間に立ち上
げられなかったであろう。そして単に最新の生産技術を得られない状況で台湾液晶産業の
確立からわずか 4 年で、中国に生産ラインを敷くことが説明できないであろう。提携重視
のこれまでの液晶産業研究では 1999 年までに発展した台湾 TFT-LCD メーカーの設立経
緯と背景をまとめる人はなく、90 年代後半、台湾メーカーがなぜ TFT-LCD 技術を受け入
れられる条件を持つことができたかの分析も少なかった。つまり、90 年代後半までの台湾
液晶産業発展の研究の省略があったため、台湾液晶産業が急成長した理由は完全に解明さ
れてこなかったのである。
2000 年代後半の液晶産業の研究は同じ問題を抱えていた。台湾液晶産業がキャッチアッ
プに成功してから、台湾液晶産業成立の理由に興味を示す研究者が 2004~2005 年頃に多
かったが、その後また少なくなった。また、2008 年以降、台湾液晶メーカーは海外展開に
よる転換期に入ったが、逆にその変化に目を移す研究者は少なかった。液晶産業のこれま
での研究だけで、2000 年代半ばからの変化が激しい台湾の液晶産業がさらに拡大すること
を説明できないであろう。変化の激しい台湾液晶産業についてさらに詳しく知るには、90
年代の急成長期のみならず、21 世紀の台湾液晶産業の実態に焦点を当てて、近年の台湾と
日本間の技術移転や技術提携アプローチ、部品流通の現状などについて調べる必要がある。
これまでの台湾液晶産業研究の空白の部分を補完するため、本研究は 2000 年代前半の液
晶産業の提携関係だけでなく、80~90 年代、そして 2000 年代後半の液晶産業に着目する。
これらの時期の台湾液晶産業の位置付けを洗い出すことによって、今後、台湾液晶メーカ
ーが急速に変化する市場でどのような対応を示すことになるのかが理解できるようになる
のである。
本論文では、台湾液晶産業の発展要因と特徴を洗い出し、台湾液晶産業が急速に立ち上
がった理由を分析する。本研究の前半は、1999 年から始まる日台の TFT-LCD 技術提携だ
けでなく、台湾の電子産業全体の変化を意識しながら、制度、教育など、液晶産業の発展
の背景となるでき事を年代別でまとめる。次に、1980 年代と 1990 年代に蓄積した液晶知
識と人材が、2000 年代前半の TFT-LCD 技術のキャッチアップ時期に与えた影響について
議論する。後半は、2000 年以降急拡大する台湾液晶産業の海外進出と 2009 年以降の国際
分業進展により、転換期に入った台湾液晶メーカーの位置を探る。
5中田(2004)155 頁
2
本論文では、まずアジア電子産業の流れを意識しながら東アジア諸国の半導体技術移転
の歴史と半導体産業発展の事例を取り上げ、液晶産業と半導体産業の繋がりを明らかにし
て、台湾液晶産業の発展パターンを解明する。そして、2000 年代の液晶産業と部品産業の
特徴を分析し、台湾液晶産業の産業構造と現状を明らかにする。次には台湾液晶産業の歴
史を遡り、政府主導の半導体産業と民間主導の液晶産業を比較しながら台湾の液晶産業の
特徴をまとめて議論する。さらに、半導体技術が東アジアに拡散した同時期に発展した日
本の部材メーカーの台湾進出をまとめる。日本の部材メーカーの動きを分析することによ
り、液晶産業の発展における部材メーカーの役割と近年の液晶部材業界の変化を明らかに
する。最後に、「iPhone」をはじめ、人々の生活に浸透している中小型液晶製品の興隆と
現在の液晶商品製造体制を分析し、東アジア液晶産業内に生じている変化について議論す
る。中国進出によって台湾液晶産業がどのように変わったのかを解明することによって、
現在の台湾液晶の産業構造について深めたい。
日系企業は部品から最終製品まですべて自前で一貫して供給することが利益の拡大につ
ながると考えていた。2007 年、シャープが「21 世紀型コンビナート」6と銘打った液晶第
10 世代パネルと薄膜太陽電池の新工場を大阪府堺市に建設することを表明した。新世代の
生産ラインを導入するだけでなく、川上産業と川下産業を統合することも重視して大型の
液晶パネル工場に加えて、素材、エネルギー、部材、場合によっては装置まで同じ敷地内
で作ると当時のシャープ片山幹雄社長が語った。しかし、大型テレビ市場の飽和とリーマ
ン・ショックなど経済面の影響、韓国や台湾液晶メーカーの成長と液晶事業の国際分業体
制の進展で液晶市場が大きく変化した。
かつて液晶産業は規模の経済と先端技術が両方必要な産業であった。しかし、液晶部材
メーカーの海外進出とメーカーによる部材内製化が進むことによって部材の取得はかつて
と比べて容易となっている。一方、液晶事業不況によって日系メーカーが生産ラインを売
却した結果、余裕資金を持っている新興企業が提携過程を省略し、最新のパネル製造技術
を取得することができるようになった。液晶産業の再編の中で、ソニーも液晶パネルの分
野でサムスンと組んで水平分業を行ってきた。その再編に際してブランド力がそれほど強
くはない台湾液晶メーカーは単純な垂直統合と水平分業の選択ではなく、垂直に注力し
EMS 事業で販売ルートを確保することをメインにして製造力を強化するか、水平を究めて
製造力を確保しようとするメーカーがあった。
90 年代、後発国の液晶産業への進出に際しては「二多一少」(多額な投資、大量生産、
低利潤)という高い制約があったため、液晶パネルの生産プロセスと生産体制でリードす
る日本の液晶メーカーには極めて有利な状況があった。しかし、現在液晶製造の国際分業
が進むことによって液晶製造専門メーカーの優位性が失われて一部のメーカーでは液晶事
業と液晶製造の分離化が進んでいる。EMS メーカーはその産業特性を液晶産業に持ち込
み、世界市場向けの液晶製品の製造によって液晶産業における水平分業の可能性を示して
いる。
本論文は、台湾の電子産業の発展を踏まえ、液晶産業の発展史を遡りながら、これまで
とは異なる視角から台湾液晶産業発展の理由を明らかにし、世界の電子産業の製造体制の
変化によって変容する台湾液晶産業の特徴を分析する。現在、新しい段階に入った台湾液
晶産業がどのような道を切り拓くことができるのかを最後に考察したい。
本論文は四章で構成されている。第一章では、20 世紀後半の東アジア電子産業発展の流
6小谷「シャープ新工場,記者会見での一問一答」日経エレクトロニクス
2007/07/31http://techon.nikkeibp.co.jp/article/NEWS/20070731/137195/
3
れを概観し、80 年代日本、韓国、台湾の半導体発展過程をまとめる。そして、液晶産業と
半導体産業の生産プロセスの類似度を確認することによって、90 年代に韓国と台湾が相次
ぎ液晶産業に進出できた理由を説明する。
第一章第一節では、80 年代半導体産業の発展をリードしてきた日本と韓国・台湾の半導
体キャッチアップについて議論する。同じ半導体産業の発展といっても、韓国と台湾の発
展方向は異なっている。本節は台湾、韓国の半導体キャッチアップ過程を比較し、台湾半
導体産業の特徴とキャッチアップに成功した要因を探し出す。第二節では、液晶パネルの
生産プロセスと半導体生産プロセスを比較する。90 年代前半に液晶産業に進出した韓国の
液晶キャッチアップ過程を説明しながら、その後に参入した台湾液晶産業成立のきっかけ
を説明する。そして半導体製造技術とパソコン製造技術を有する台湾が 1999 年から日系
メーカーの戦略パートナーに選定された理由を明らかにする。
第二章では、台湾の液晶研究と政府産業政策の具体例をまとめることによって台湾液晶
メーカーが技術移転を受けた時、驚異的な受容性を示した原因を探し出したい。これまで
の台湾液晶産業研究は殆どが日本からの技術提携を受けたことによって、台湾の液晶産業
が成立できたということを主張している。しかし、台湾液晶メーカーが 1999 年にから技
術提携を受けはじめてから 4 年で液晶産業を立ち上げることができた理由について、資本
を集める力以外に、台湾側の役割を議論する研究者は少なかった。実際、台湾本国の液晶
研究は 80 年代から既に開始され、工業研究院は液晶産業を育成するため 2 回の発展計画
を作成し、政府の液晶メーカー育成政策も 1991 年から実施されている。それらの液晶研
究者と政策が存在しなければ、台湾が日系液晶企業との提携を行っても、台湾側が人材不
足で技術開発は順調に進まなかったであろう。本章は学術面、国家研究機構、政府政策、
科学パークの成立の役割など、異なる視角から台湾の液晶産業が速やかに立ち上がった理
由を分析する。
第二章第一節では、台湾液晶産業の育成人材について議論する。80 年代台湾最初の光電
研究所の成立経緯から台湾と日本の液晶研究の交流の歴史を整理することによって、1999
年の時点で台湾は既に液晶産業を発展させることのできる人材が揃っていた理由を明らか
にする。第二節では、台湾工業研究院が主導する液晶開発計画とその影響を検討する。
1989 年に開始した液晶発展計画が中止されたため、このことを議論する研究者が少なかっ
た。しかし、この計画により液晶産業が注目され始め、台湾民間の液晶事業投資が増え、
間接的に液晶産業の形成に影響した。本節においては、2 回の液晶開発計画の影響を明ら
かにする。第三節では、台湾政府の液晶政策について検討する。台湾政府が液晶産業を対
象に法案を作成したのは 2000 年以降であった。しかし、実際、80 年代後半から台湾のモ
ニター製造は製造業として優遇対象となっていた。90 年代前半から施行されたハイテクメ
ーカー育成政策と奨励法を受けて成立した液晶メーカーも多数あった。本節では、台湾の
電子産業政策をまとめ、液晶産業と関連した法令を探し出す。第四節では、2000 年以降液
晶産業を発展させるために台湾政府が建設した科学パークとその集積効果について議論す
る。液晶産業が半導体の次に台湾の代表産業となってから、液晶産業向けの新しい科学パ
ークも建設され始めた。半導体を発展させるため、中央が資源を集中し建設した新竹科学
パークとは異なり、新しい科学パークは液晶メーカーと地方政府の繋がりを強調している。
本節では、新しく建設された液晶科学パークの特徴と台湾液晶集積地域の形成についてま
とめる。第五節では、日系メーカーの台湾進出による台湾液晶メーカーへの影響をまとめ
る。日系メーカーが台湾に進出したため、2000 年以降台湾 TN/STN メーカーが転落する
ことになる。本節は 90 年代に強かった液晶メーカーが、2000 年代前半に台湾液晶市場で
消えた要因と台湾 TN/STN メーカーが TFT-LCD 事業の転換に失敗した理由を探し出す。
4
第三章では、液晶メーカー以外で、東アジア液晶産業の技術移転に影響するもう一つの
要素、部材メーカーについて議論する。第一節では、日系部材メーカーの台湾進出史、半
導体部材と液晶部材との繋がりを分析し、台湾の電子産業の発展が台湾液晶産業にもたら
した影響を分析する。第一節では、70 年代に台湾液晶産業が誕生した頃からの部材メーカ
ーの動きをまとめ、同時に半導体と液晶事業を行うメーカーの動向を整理する。一方、
2000 年代後半、液晶産業を刺激するため、3D テレビ、2K/4K モデルの高い解像度の液晶テ
レビが相次ぎ打ち出された。しかしながら、2000 年代後半から通信端末の活況によって、
中小型液晶パネル付きの電子製品市場が現在、液晶メーカーの主戦場となっている。タッ
チパネルや有機 EL など応用製品も多様化し、液晶部材メーカーの競争も激しくなっている。
第二節では、台湾の液晶市場を中心に、東アジア 2000 年代前半と後半の日系部材メーカ
ーの市場シェアの推移を整理する。この結論と台湾液晶部材メーカーの現状を比較し、東
アジアでの部材メーカーの勢力変化と各国部材メーカーの現状を把握する。
第四章では、2000 年代後半の世界の液晶産業の再編と台湾液晶産業の構造変化に注目す
る。第一節では、リーマン・ショックによって一度後退した東アジア各国の液晶メーカー
の対応によって変化する各国液晶産業の特徴と現状をまとめる。液晶業界の変化と他国の
液晶メーカーとの比較で台湾液晶メーカーの特徴を洗い出し、TFT-LCD 技術にとらわれ
ずに 80 年代から発展してきた台湾液晶産業の構造と位置付けを明らかにする。2000 年代
後半、液晶不況とリーマン・ショックの衝撃で液晶産業に激しい変化が起こった。第二節
では、現在の台湾の液晶産業を主体にして議論し、2000 年代後半、台湾液晶産業に起こっ
た変化と現在の液晶産業の特徴ついて説明する。そしてこの結論を過去の台湾液晶産業と
比較することによって異同点をまとめ、台湾液晶産業の特徴を再定義する。第三節では、
中小型液晶製品の需要増大によって重要となっている技術の種類と現在の液晶メーカー発
展の現状を把握し、台湾液晶メーカーの今後の成長の可能性について議論する。液晶市場
は激しく変化している。20 年の発展を経て、液晶製造技術の普及と単価の下落で、パネル
の品質で市場を区別しようとする発展方式では利益性が保証されない。成熟期に入った液
晶産業において専門メーカーの生存空間が圧縮された現在、液晶産業構造はどのような変
化が起こっているのかを検討する。
このような順序で、液晶産業の研究を行うことによって、液晶産業が台湾において急成
長した過程について、理論的にも整理することができるであろう。従来の液晶産業研究の
問題点については、最初に指摘しているが、液晶産業研究以外で、本研究にかかわる理論
的な到達点といえるものでは、PC 産業を研究対象とした川上桃子によるものがある7。川
上は、台湾 PC 産業について「圧縮された産業発展」というテーマで研究をまとめた。川
上の問題意識は、液晶産業研究でも共有できる部分がある。第四章の最後に、台湾の PC
産業について「圧縮された産業発展」として理論化を試みた川上の理論を手がかりに、台
湾が液晶産業において、急速な発展を成しえた要因について、理論的な検討を加えたい。
7
川上(2012)
5
第一章 東アジアの電子産業発展
日本の機械情報産業は戦後、急速な拡大を伴いながら日本の経済成長に大きな役割をは
たしてきた。テレビの生産から始まり、半導体の革新から液晶パネルの量産化に至るまで
日本が電子産業の先駆国として東アジアで成功的な経済モデルを構築した。80 年代以降、
日本に影響された東アジアの国々がアメリカからの技術導入と日本企業との提携によって
電子産業に多くの革新を起こしてきた。80 年代後半、専門領域が若干違うが日本に隣接す
る台湾と韓国は台湾工業研究院とサムスンに代表されるように半導体産業の領域で大きな
進歩を遂げた。台湾の場合はパソコン産業の拡大と半導体製造技術の進化により生産プロ
セスの類似度が高い液晶パネルの製造が考えられ始め、半導体メーカーやパソコンメーカ
ーの TFT-LCD 産業への進出のきっかけとなった。
第一章のポイントは東アジア電子産業発展全体の流れの中で同じ後発国の台湾と韓国の
半導体キャッチアップを比較し、台湾半導体産業と液晶産業の繋がりを説明する。本章の
第一節では、東アジアの半導体産業の技術移転について議論する。日本の半導体産業を中
心に韓国と台湾の技術移転の方式をまとめ、台湾の半導体産業の特徴と成功した要因を整
理する。第二節では、液晶部品の説明と東アジアの液晶技術の移転過程についてまとめる。
日本と韓国液晶産業の発展を概観してから日本メーカーが台湾企業と液晶提携をする理由
を分析する。最後に、半導体製造プロセスと液晶製造プロセスとの類似度を検討し、台湾
が液晶産業に参入するメリットを説明する。そして、東アジアで電子産業の発展している
国と比較しながら台湾電子産業の独自な特徴ついて議論する。
第一節 東アジア半導体技術の移転過程
本章の第一節では東アジアの半導体産業の技術移転について議論する。日本の半導体産
業を中心に韓国と台湾の技術移転の方式をまとめ、台湾の半導体産業の特徴と成功した要
因を整理する。
1.日本の半導体産業の発展
メーカー間の競争で新しい商品が相次いで開発され、技術の進化が早まったので 80 年
代に日本は半導体産業の全盛期を迎えた。その中で東芝は 70 年代から既に大分県に工場
を設け半導体開発を行い、80 年代に日本の半導体開発でもっとも技術力を有するメーカー
となった。その少し前、日本政府が半導体発展をサポートするため「超 LSI プロジェクト」
を策定し、国策で半導体産業を育成した。通信用超 LSI の研究開発を目指し、富士通、日
立製作所、NEC の 3 社がこの計画に参加し 8 、1975 年から 3 年間に 64KDRAM と
128KDROM の半導体の開発に成功したのである。その後、1976 年から旧通産省の主導に
よる「超 LSI 技術研究組合」で工業技術院電子技術総合研究所と富士通、日立、NEC、三
菱電機、東芝による共同研究が開始された9。今回の計画で日本の半導体製造技術の標準化
が進み、ステッパー、電子ビーム描画装置などの新しい技術も開発された。「超 LSI プロ
ジェクト」と「超 LSI 技術研究組合」によって、日本は半導体製造技術を大きく発展させ
ることができた。その上、日本は半導体技術の製造装置の開発もこの時期に大幅に拡大し、
世界市場の 50%を越えるシェアを持つに至った10。
80 年代後半、世界の半導体生産ランキングで NEC、東芝、日立の 3 社が 1~3 位を占め
た。東芝の技術者舛岡富士雄は 1984 年に世界初の NOR 型フラッシュメモリを開発、
8中島(1985)34 頁
9泉谷(2003)26 頁
10谷光(2002)67 頁
6
1985 年に世界初の 1M DRAM を開発した11。新しい技術によって東芝が次世代メモリー
に開発の重心を移行させた。1988 年当時、サムスンはまだ 256K のフラッシュメモリの生
産技術しか持っていなかった。80 年代後半からIT産業に激しい変化が起き、PC の市場
が急拡大し、この傾向に合わせて PC 用の DRAM が安価に大量生産されるようになった。
日本は官民協同によって半導体産業を立ち上げたが、その品質重視な開発体制の特徴で
製品にかかったコストが大きかった。半導体メーカーが好調な時は膨大な設備投資を伴っ
た開発体制を維持することができたが、景気が悪くなったらその膨大な開発費用が会社の
重い負担になってしまった12。それ故 80 年代後半のプラザ合意以降、日本の半導体メーカ
ーは計画的な開発計画の代わりに保守的な投資行動に陥ってしまった。そして日本の半導
体メーカーの投資が中断したことが台湾韓国勢半導体産業の台頭のきっかけになった。サ
ムスン電子が 90 年代から DRAM を重点投資として行うと共に製造装置が安くなったこと
もあり、日本メーカーの力が弱まる不況期を利用して投資を拡大した。90 年初頭でサムス
ンはこのような経緯で収益を上げられた。一方、台湾は国策で半導体を発展させ、メーカ
ーもパソコン部品の製造や組立からノートパソコンブームに乗ってパソコン最大の輸出国
となった。
2.韓国半導体産業の発展
80 年代から日韓の半導体提携は主にサムスンと当時日本の半導体産業で優位にあった東
芝を巡って進行した。サムスン電子は PC 用の DRAM をより安価に大量生産した。その
結果、技術を集約し高品質にこだわる日本の DRAM が高コストの欠点で逆に駆逐されて
しまった。80 年代半ばから韓国が驚異的なスピードで半導体産業を発展させた。そして、
サムスンは 1992 年に世界初の 64M DRAM の開発に成功し、東芝を抜いてついにシェア
世界 1 位となった。
韓国電子産業の発展は朝鮮戦争以降から開始され、1962 年ラジオチップの輸出時代から
財閥企業を中心に外国資本と技術を導入する韓国が電子産業に投資する強い意欲が見えた。
1965 年韓国が日本の次に高美半導体を設立し、半導体を生産し始め13、70 年代に入り、
半導体産業を育成するため、韓国商工部は財閥の半導体発展計画を支援した。サムスンは
1977 年外資系の KEMCO を買収し、LG は 1979 年に大韓半導体を買収することによって
半導体に進出し始め、現代グループも現代電子を設立した。80 年代韓国商工部は 5 度目の
「経済社会開発 5 ヵ年計画(1981-1986)」を立案した。この計画の中に 1980 年代から韓国
経済全体が電子産業に移行することが見える。政府によって工業団地もたくさん建設され
た。その後、経済の自由化政策で財閥は税制面の優遇措置と金融法の改定によって多角化
経営し始め、勢力を拡大した14。韓国の電子産業も製造技術の導入、外資企業の現地進出
と外国メーカーとの提携によって成長を遂げた。しかし、この時期世界の半導体市場は日
本と米国に握られ、韓国の技術は先進国との格差が大きかった。
さらに産業を発展させるため、韓国政府は 1983 年から 1985 年まで自動車、一般機械産
業、半導体産業などの育成の「10 大戦略産業」政策を制定した。当時日本に負け、
DRAM 製造分野から撤退したのアメリカのメーカーもこの時期から相次ぎ韓国に技術資本
を移し始めた。IT 産業の将来性とメモリーの需要拡大を予想し、サムスンは DRAM 製造
を重点計画として発展させ、1982 年から米国企業 ITT 社と契約を結び、積極的に半導体
産業の提携を行った。そして 1983 年サムスンの創立者李秉喆(イ・ビョンチョル)が
11舛岡富士夫インタビュー
http://next.rikunabi.com/tech/docs/ct_s03600.jsp?p=000500(2005 年 3 月 16 日)
12湯の上(2009)41 頁
13上田(2005)145 頁
14裴(2011)183 頁
7
DRAM 事業に進出することを決断し、「東京宣言」15を発表した。李の「東京宣言」はサ
ムスンが韓国器興に半導体工場を建設する際に、日本から技術移転をしてもらうことを積
極的に実行するという戦略である。その直後サムスン電子の東京支店が開設され、LG 電
子も 1983 年に半導体産業に進出した16。このように 1984 年サムスンはアメリカのマイク
ロン・テクノロジー社から設計技術をシャープから工程技術を導入し 64KDRAM の開発
と量産化に成功した。その影響を受け、現代グループと LG も研究開発環境の整備と半導
体投資拡大を行った。
一方、80 年代中旬から技術集約型の開発理念で高品質な DRAM を生産した東芝は
NAND 型フラッシュメモリで世界一のシェアを得た。1987 年アメリカが日本の半導体を
ダンピング提訴する等の日米貿易摩擦が起き、日本の半導体企業の資金繰りが悪化してし
まった。それ故、日系メーカーのメモリー事業からの撤退や工場閉鎖が起こって、半導体
価格の急落が生じてしまった。それに対し、サムスン電子は 90 年代初頭まで半導体関連
の DRAM 開発に重点投資し、収益を上げた。90 年代に入り、韓国の産官学連携の共同研
究を推進し、韓国政府がサムスン、LG、現代三社で組織結成した「共同研究組合」で組織
や資金面を統合し始め、半導体事業の地位を固めた。東芝は 1989 年 NAND 型フラッシュ
メモリの発表以降、1992 年に 16M ビット製品化を発表し17、1995 年サムスンと 64M フ
ラッシュメモリ技術の共同開発する事例があった。しかし、ノートパソコン用の DRAM
を大量生産するため、サムスン電子は 1992 年、DRAM 世界市場シェアで東芝を抜いてト
ップに立った。
韓国の電子産業も政府資本主導型の産業開発政策を行ったが、台湾メーカーとは異なり、
韓国政府には強烈な決意と支配力があった。韓国政府の狙いは DRAM の開発と量産など
の生産システムを研究することによって、半導体技術を向上させることであった。そして
新製品の開発で韓国の技術力と日本企業との技術格差を縮めることを目指した。サムスン
は R&D 活動を強化し続け、R&D 投資は 1980 年の 850 万ドルから 1994 年 8,916 億ドル
まで増加し、総売上の R&D 比率も 14 年間で 2.1%から 6.2%に増加した 。一方、韓国の
3 社連合開発は 1986 年から 1989 年まで 3 年間に 1 億 1000 万ドルの R&D 費用を費やし、
そのうち、韓国政府が総 R&D の 57%を支出した。このような政府支出金額は他の国家主
導の開発プロジェクトと比べても膨大な金額であった 。
3.台湾半導体産業の発展
主に東芝と提携して DRAM の製造プロセスを強化した韓国のサムスンと比べ、台湾の半
導体産業の設立は主にアメリカ技術を導入するという特徴を持っていた。その後 20 年に
近い発展を経て、DRAM とは異なる領域のウェハー製造のファンウンドリー産業で成功を収
めた。
台湾半導体産業が立ち上がったのは 70 年代後半からである。日本、韓国より遅かった
が台湾半導体産業は政府の力によって育てられ、順調に発展してきた。70 年代初頭までに
台湾は第 2 次産業の比率が高まったが、国家の競争力を失っていることを危惧する蒋介石
の息子、当時の台湾行政院長蒋経国が国の発展方向を考え「十大建設」という大型建設計
画を打ち立てた。電子産業を支援するため、当時台湾行政院経済部長孫運璿の主導で高度
な科学技術産業に投資することを決めて18、当時経済部所属の連合工業研究所、連合鉱業
15曹(2012)39 頁
16日本半導体博物館
http://www.shmj.or.jp/museum2010/exhibi020.html(取得日期 2010 年 11 月 3 日)
17御手洗(2011)121 頁
18佐藤(2007)87 頁
8
研究所、金属工業研究所を合併し工業研究院を設立した。
台湾の産業構造を労働力集約から技術力集約に変えるため 1974 年 7 月、当時の行政院
院長蒋経国の指示で秘書長費燁が国立交通大学時代の友人の電信総局局長の方賢齊や経済
部長孫運璿、交通部長高玉樹、電信研究所所長康宝煌が当時半導体開発の大手企業アメリ
カ RCA 社部長の潘文淵の意見を伺って、工業技術研究院の半導体技術導入案を作った19。
潘はこのきっかけによって台湾半導体産業のリーダーとして 1976 年から台湾経済部第一
期計画に参加した。
台湾半導体技術の誕生に力を入れたいちばんの貢献者であるアメリカ RCA 研究室の主
任に就任した潘文淵博は現在台湾の半導体の父と呼ばれている。潘は 1935 年中国交通大
学機械工学学科を卒業してからアメリカのスタンフォード大学に留学し、1940 年に博士号
を取得した。その後潘文淵は米 RCA 社に入社し、プリンストン研究室主任を担当した。
彼が台湾の国家建設委員会海外学人会議に参加した時、台湾は半導体技術を発展させるべ
きだとを提案した。潘の意見を受け、孫運璿が 1 千万米ドルを借り 4 年かけて台湾の半導
体産業の基礎を築いた。潘も「積体電路基体草案」を作成した後、アメリカ RCA 研究室
主任の職務を辞退し、台湾に帰って半導体製造技術計画の主催者となった。1974 年 3 月台
湾「電子顧問技術委員会」は提携する会社を探し、国際入札を行った。RCA 社が国際入札
で応札され、台湾半導体の提携メーカーとなった。
4.台湾の電子産業の特徴とキャッチアップに成功する要因
1958 年台湾新竹市の交通大学が台湾最初の電子研究所と半導体研究センターを設立し、
1960 年にドクター課程も設立された。主な教師はアメリカ Bell 研究室、RCA 社及び
Fairchild 社等著名な半導体会社で仕事をしていた研究員と技術者だった。この時期から、
工業研究院電子工業発展センターの設立と台湾最初の半導体メーカー高雄電子の後段工程
工場の建設によって PHILIPS や RCA 等当時有名な半導体メーカーも台湾に進出し始めた
20。
(図表1)
図表1 台湾半導体産業発展初期の提携状況
年
メーカー
1966
高雄電子が半導体事業を開始
1967
高雄電子がウェハーの製造を開始
1969
PHILIPS 建元がウェハー配置作業に参入
1970
徳儀がウェハー配置作業に参入
1971
RCA 社と台湾安培がウェハーの製造を開始
1973
萬邦がウェハー封装業務を開始。三菱と台湾菱生の
提携が始まる
1974
州際電子が二極体の封装業務を開始
出所:
「台湾電子発展月刊」により作成 (1982)
RCA 社から導入した技術を使うことによって電子腕時計の IC 研究成果が 1978 年に開
花した。半導体最初の研究成果として、1978 年から良率が 8 割を超えた台湾が自立腕時計
IC を生産し始めた。1979 年から工業研究院の「電子工業研究発展第二期計画」が開始し、
パソコン用の IC の研究開発が始まった。1980 年台湾最初の半導体メーカー「連華電子」
が設立され、1982 年から新竹科学パークでウェハーを量産し始めた21。電子センターの成
功により、台湾は腕時計 IC、音楽 IC、ウェハーの生産量で世界第 3 位の電子時計の輸出
19水橋(1999)21 頁
20台湾電子発展月刊
1982 年 4 月号
http://www.sunyunsuan.org.tw/
21財団法人孫運璿学術基金
9
国となった。
1980 年代台湾と韓国は国家主導型の産業開発政策を行い、半導体産業発展も日本とは異
なっている。半導体産業をキャッチアップしようとする時、最初台湾と韓国は複数の国か
ら技術を習得し、オリジナルの発想や新技術の開発よりも効率的に先進国から先端技術を
習得することを重視する。それ故、国情によって発展方向を調整し、本国の産業的特徴を
発展させることができたのは 80 年代後半以降になった。台湾最初の半導体研究センター
が設立された時から Bell 研究室、RCA 社及び Fairchild 社等アメリカの大手半導体メーカ
ーの研究員及び技術者を雇い始めた。1974 年からさらに台湾政府が技術者を RCA に送っ
て正式な訓練を受けさせ、アメリカ側の力で技術者を育成した。70 年代後半電子センター
の IC 工場は電子時計用 IC とおもちゃ IC などローエンド IC の製造が多かった。当時、技
術力が低かったが、工業研究院の 4 インチウェハーの開発も始まった。半導体産業の発展
はパソコン産業も牽引し、1982 年に台湾のパソコンは 92%を輸入に頼っていたが、10 年
後の 1992 年に台湾製のパソコンは 95%を海外に輸出した。1990 年台湾政府は 70 億台湾
元の予算で「次世代メモリー製造技術発展 5 ヵ年計画」22が策定した。そして、8 インチ
のウェハーの研究開発をするため、1991 年から「次世代メモリー製造技術発展計画 5 ヵ年
計画」が開始された。
DRAM の研究開発に力を入れた韓国半導体メーカーよりも、製造で高度な技術を集約し
た生産専門のファウンドリー企業が強かったのは台湾半導体の特徴である。台湾企業はプ
ロセスの改良と特化に強く、独自の優位性を獲得した。半導体の生産設備だけを持つ会社
で自らは回路設計を行わないファブレス・メーカーや設計と製造の両方を行う企業からの
要望に応じて半導体の委託生産を行っている TSMC (台湾積体電路製造)、UMC(連華電
子)がその代表企業である。ウェハー関連 IC 設計の強みは、液晶産業の IC ドライバなど
の工程に反映することになる。最近、台湾にスペシャリティ―ファウンドリーとして、
CMOS プロセスやアナログ、パワー、CMOS センサーに特化した企業が現れた。これら
は TSMC や UMC など大手メーカーとは完全に一線を画した事業スタンスを貫いている。
受託企業が持たないようなプロセスを持つことで自ら企業の価値を高めた。90 年代に入り、
アメリカ技術導入によって設立した台湾半導体産業ではウェハーの製造と同時に DRAM
の製造も進んた。1980 年代末期から海外技術者が帰国することによって台湾全体の半導体
関連項目の IC デザインのシェアの成長が速くなって 1993 年頃台湾 IC パーケージの利潤
は既に 14 億ドルに達していた。ウェハーの発展とは異なり、DRAM の製造開発について
は民間メーカーと日本メーカーが主体に行った。1994 年台湾の力晶は三菱から技術移転を
受け、DRAM 事業を始めた。
小括
以上、90 年代まで日本、韓国、台湾半導体産業の発展を明らかにした。後発国の産業が
労働集約型から資本集約型に移行する時、先進国からの技術導入が重要なキャッチアップ
ルートであった。日本は電子産業の先進国として、製品の標準化と優れた生産体制という
特徴を持っていたが、生産設備にも技術力が集約されていた。それ故、台湾と韓国は、半
導体産業や液晶産業を発展させて以来ずっと、日本の設備に頼っている。
日本と異なる所は、80 年代に台湾と韓国が産業の発展をはかろうとした時、政府が国の
資源を集中させて技術を開発する傾向が見えたことである。しかし、90 年代に入ってから
は、台湾政府は、技術提携メーカーを選定し、技術移転がなされた後、市場に干渉せずメ
ーカーを自由に競争させる道を選んだ。それ故、工業研究院が「次世代メモリー製造技術
22陳,郭(1999)52 頁
10
発展計画 5 ヵ年計画」で力を入れた IC デザインのファウンドリー以外の DRAM、IC パー
ケージなどの半導体産業はメーカーを中心に発展してきた。メーカー主導で開発計画を作
った台湾は、国家主導型で産業を発展させてきた韓国より産業発展スピードはやや遅いが、
電子産業ではコスト重視と共にモジュラー設計に力を入れるという強い特徴を持って発展
してきた。
第二節 東アジアの液晶技術の移転過程
本節では液晶に使われる部材について明らかにし、東アジアの液晶技術の移転過程につ
いてまとめる。日本と韓国液晶産業の発展を比較、整理しながら、日本メーカーが台湾企
業に液晶提携のパートナーを求める理由を探る。最後に、半導体製造プロセスと液晶製造
プロセスとの類似度と台湾が液晶産業に参入する理由について検討する。
1.液晶構造と部材
カラーTFT 液晶ディスプレイの構造は二枚のガラス基板に液晶材料を挟み、後ろにバッ
クライトを付けた電子製品である。バックライトのある方のガラスは液晶に遠い方から偏
光板、ガラス基板の順で並んでおり、TFT 液晶ディスプレイ基板では、ガラス基板にはト
ランジスタの上に透明電極と配向膜が付けられている。偏光板は、通過させる光に振動方
向を限定し、透明電極は電圧のオン・オフで液晶の動きをコントロールし、配向膜は液晶
材料の配列に関与する23。反対側は液晶に近い方から配向膜、透明電極、カラーフィルタ
ー、ガラス基板、偏光板と並んでいる。カラーフィルターは赤、緑、青の 3 色からなり、
微妙な混ざり具合で画面に様々な色を表現することができる。2 枚のガラス基板に挟まれ
ているのは液晶材料とスペーサである。液晶材料は電圧がオンの場合に立ち、オフの場合
は倒れることによって光を通したり遮断したりする、スイッチのような役割を果たしてい
る24。2 枚のガラス基板の間隔を一定に保つためのガラスまたは樹脂製のビーズ(スペー
サ)が液晶材料層に多数散布されている。このような仕組みで、バックライトが発した光
は偏光板によって一定の振動方向の光のみ通過し、電圧のオン・オフにより液晶が遮断さ
れたり、もう一方の偏光板を通過したりすることで画面が黒くなったり、色が付いて見え
たりするのである。
(1)カラーフィルター
カラーフィルターはモノクロの液晶表示をカラー化にするための色合成フィルターで画
面に様々な色を表現することができる。RGB(Red,Green,Blue)が用いられ、画素の一
つとカラーフィルターの一つの色を重ねるようになっている 25。カラーフィルターは液晶
ディスプレイにおいて、映像の色を作り出す役割を持っている。カラーフィルターの製造
方式には染色法、顔料分散法、印刷法、蒸着法があり、技術力が高かった凸版印刷は、90
年代にこれらの技術のうち、顔料分散法を普及させた。カラーフィルターの値段が高いと
発展初期に供給量を安定させたかった液晶メーカーが、ノウハウを蓄積したいという強い
要望があった。それ故、生産プロセスが進化する時期に事業に参入する液晶メーカーは積
極的にカラーフィルター技術の内製化をはかり、成功させた。
(2)偏光板
偏光板は通過させる光の振動方向を限定するフィルムである。真中の PVA(ポリビニル
アルコール)の両側にセルロース系のフィルム、粘着層、フィルムがあって、表面に保護
層が付けられる。光が偏光板に当たると偏光板の方向と一致している振動方向の光だけが
偏光板を通り抜ける。横方向の波だけになった光は 90°の角度で置かれている偏光板を通
23岩井(1993)42 頁
24岩井(1993)42 頁
25
シャープ
http://www.sharp.co.jp/products/lcd/tech/s2_3.html
11
り抜けられないので、これによってバックライトの光がコントロールされる26。パネルに
は 2 枚の偏光板が付いている。2 枚の偏光板の角度によって光が通れたり通れなかったり
する。主な偏光板メーカーとして、有沢製作所、サンリツ、住友化学工業、日東電工、日
本合成化学、三井東圧化学などがある。
(3)ガラス基板
ガラス基板は単純マトリクス系統の TN と STN やアクティブマトリクス系統の a-siTFT、
p-siTFT に分けられている(図表2)。ソーダ系ガラスにはケイ酸、ソーダ灰、石灰などア
ルカリ成分が含まれている。液晶材料に溶け出すとコントラストの低下、画像の劣化等を
招くという欠点があるが、製造価格の低さから、90 年代まで TN/STN ディスプレイが主
流であった。その後、日系メーカーの努力でパネルは TFT の時代に入り、アクティブマト
リクス系統のガラスが主流となった。90 年代から旭ガラス、セントラル硝子、日本電気硝
子、日本板硝子等の日系メーカーが無アルカリ硝子事業に進出し始めた。
図表 2 ガラス基板の種類
液晶ディスプレイ方式 単純マトリクス
パネル型式
TN と STN
ガラスの種類
ソーダライム
ホウケイ酸
参入メーカー
旭ガラス
旭ガラス
日本電気硝
子
アクティブマトリクス系統
a-siTFT
p-siTFT
無アルカリ
無アルカリと石英
旭ガラス
旭ガラス
日本電気硝子
コーニング
コーニング
日本板硝子
日本板硝子
出所:岩井善弘(1993)46 頁
(4)液晶材料
液晶は一旦開封すると空気中の水分やほこりなどが入って液晶に混じって、液晶の電気
的な抵抗値が段々下がるというパネルの機能低下を引き起こす。このような「経年変化」
を防止するため表面に膜を作ることが必要である。このような液晶材料は実現したい機能
に応じて少なくとも 10 数種類の単体材料をミックスして作るが、ミックスする割合等は
ユーザーにより異なっている。このような加温で形成する膜はパーツとして量産できない
化学材料であるため、日系メーカーの強い所である。本論文の中ではこれらは液晶材料に
分類されている。
(5)バックライト
フィルターの機能しか持たない液晶ディスプレイには自分自身で光を出せることができ
ないのでバックライトが必要である。バックライトにはエッジライト方式と直下型方式の
二つの方式がある。エッジライト型の発光方式はディスプレイの端に冷陰極管あるいは
LED でモニターの端から線状の光を出し、導光板を使って面状の光に換えてから液晶に光
を送る方式である27。エッジライト型のバックライト技術がノートパソコンやデスクトッ
プパソコンのモニターの製造に使われてきたので、バックライトの製造ではパソコン産業
に強い台湾メーカーの優位性となった。近年、バックライトの発光方式が直下型方式に改
良された。その発光方式は冷陰極管を液晶の下に並べ、その上に拡散板を置いて液晶に光
を送る方式である。この方式は両側の空間が省略されるので液晶パネルの薄型化が実現し
た。一方、現在様々な場所で液晶ディスプレイが使用されるようになり、その需要に応じ
るため、より輝度が高いバックライト技術が開発された。2011 年以降台湾メーカーが製造
した LED 型のバックライトは市場に出て急速に普及した。
http://www.nitto.com/jp/ja/products/group/optical/structure/001/
バックライトの説明については、さしあたり、以下のサイトを参照
日経ニュース http://techon.nikkeibp.co.jp/article/WORD/20101129/187675/?rt=nocnt
26日東電工
27
12
(6)ドライバ IC
情報がデータから液晶セルに表示される時に必要なドライバ IC は信号の最終端であり、
液晶セルを駆動させるパーツである。パソコン製造にも使われるドライバ IC はグラフィ
クスの複雑な機能をサポートし、大容量の表示メモリーを持っているのが一般的である。
そして、液晶製品のドライバ IC は液晶パネルの各表示セルに電圧を与えるのが仕事であ
る28。バックライトと同じように、パネルプロセスとは関係なかったが、ドライバ IC は液
晶テレビを製造する時に欠かせない部材となる。現在、ドライバ IC はパソコンから、携
帯電話、液晶テレビまでの電子製品に広く使われており、半導体を製造する韓国、台湾、
中国もその技術を持っている。
以上 6 つが、液晶で使われている代表的な部材である。
2.日本の液晶産業の発展
液晶ディスプレイ技術が 1968 年 6 月米 RCA 社によって発表された。当時、アメリカ
IBM で働いていて、半導体を研究していた日本人研究者江崎玲於奈(1973 年ノーベル物
理学賞受賞)がこの新技術を日本国内の大学と企業に紹介した。当時の日本企業はこの新
技術に高い興味を示し、液晶の研究を行う学者が増えていった。国際液晶学会の副会長に
就任した小林駿介は日本の最初の液晶研究者の代表であった。小林氏が液晶の可能性に気
付き、1969 年にアメリカで液晶の知識を勉強し、日本に戻って後、日本初の液晶ディスプ
レイを開発した。
(1)70 年代日本の液晶開発
70 年代までアメリカがヨーロッパの研究を引き継ぎ液晶を研究してきた。技術力が限ら
れていたため、当時のメーカーは小さいサイズの単色パネルしか生産できなかった。液晶
技術に未来のあることが見えなかったので、液晶開発のリーダーであった RCA 社は 1972
年に LCD 工場の稼動を停止し、研究をブラウン管テレビの量産化に移行した。RCA 社の
液晶研究中止が日本企業にチャンスを与え、シャープをはじめ、多数の電子メーカーがこ
の時点で液晶産業に参入した。これは日本が液晶技術競争で優位に立ったもっとも重要な
理由となった。日本企業の中でいち早く液晶産業に力を入れたのはシャープである。当時
まだ会社名を早川電気としていたシャープは 1968 年産業機器事業部長の佐々木正による
アメリカの RCA 本社の液晶ディスプレイの研究調査で液晶開発することを決めた。早川
電気が 1970 年アメリカ RCA 社の液晶技術特許を得て会社名をシャープに変更し、液晶電
卓の開発を始め、1973 年 6 月に世界最初の液晶表示電卓「EL-805」を発売した。同じ時
期セイコーもアメリカ TN-LCD 技術を手に入れて、1973 年 10 月世界最初の液晶腕時計
06LC 型を公表した。シャープとセイコーの液晶製品開発が大きな成功を収めたことが日
本に液晶ブームを引き起こし、カシオ、東芝、松下など大手企業が相次ぎ液晶に進出し始
めた。
(2)80 年代日本の液晶開発
80 年代半ばからAV製品がたくさん出て日本の映像事業は急速に拡大した。現在液晶と
いえばシャープということが一般に知られているが、実際には液晶パネル開発の主導権を
巡って、多くのメーカーが激しい競争を展開してきた。
1973 年、世界最初の液晶腕時計 06LC 型を公表した後、セイコーは 1977 年からアクテ
ィブマトリクス液晶パネルの開発に着手し、1982 年 TN 式の液晶開発に成功した。さらに
1983 年に独自の技術で開発した薄膜トランジスタ式アクティブマトリクス TN カラー液晶
付きのポケットカラーテレビ「ET-10」も発表された。1983 年の国際 SID(Society for
28宮山(2004)136-137 頁
13
Information Display)学会で発表されたこの TN パネルは、透過型で有効画面サイズが
2.13 インチであり、世界初のカラー液晶パネルとなった。TFT-LCD ではないが、当時カ
ラー液晶パネルを作れるのはセイコーしかなかった。
シャープは日本のテレビ第一号を商品化したことで知られていた。しかし実際にシャー
プはブラウン管を内製しておらず、松下や東芝、ソニーなど他のメーカーからの供給を受
けていた。自社のブラウン管を持っていなかったので、ブラウン管に代わるディスプレイ
技術を手に入れることはシャープが液晶ディスプレイの開発に力を入れる理由となった。
しかし、腕時計メーカーのセイコーと比べ、家電メーカーのシャープは 70 年代前期に大
成功を収めていたが、80 年代前半のパネル開発は最初うまく進められなかった。最初シャ
ープの研究チームが TN パネルより先進的な STN パネルの開発を行ったが大きな成果は
出ていなかった。その後、シャープが 1982 年 2.5 型・デューティ液晶の白黒テレビの試
作に成功した後、1985 年から 3.2 型のアモルファス・シリコンによるカラーポケッタブル
テレビ(A190PT)の開発が全社的プロジェクトとなった。シャープの液晶開発プログラ
ムの特徴は全社の力を集め、事業部の枠を超え、社内の人材を結集させて製品を開発する
ことであった。事業部に経費の制約を受けることがないのでシャープの液晶発展計画は短
時間で急速に進んだ。この時期からシャープは液晶生産ラインを大幅に拡充し、シャープ
の天理 LSI 工場の半分を使った。結果として天理が最初の液晶工場の所在地になった。
松下電器(現、パナソニック)は1986年からNHK放送技術研究所の映像デバイス研究部と
共同研究し、シャープより早く3 インチのノーマリーブラック方式(a-Si TFT液晶)の
小型テレビを発売した。しかし1986年シャープは、開発したアモルファス・シリコンTFT
の3 インチ小型テレビの発売で覇権を取り戻した。液晶事業を育てるため、シャープは、
1986 年11 月に電子部品事業本部においてディスプレイ事業部を廃止する代わりに液晶事
業部を設立し、LED、太陽電池、光磁気ディスクを強化する方針を決めた。一方、日本の
液晶メーカーがTFT液晶の生産設備製造の模索を始めた時、日本の液晶生産設備メーカー
も確立され始めた。生産設備中で最も時間がかかった露光装置の製作依頼をシャープから
受けたニコンとキャノンも液晶パネル設備の生産と開発を開始し、露光装置で優位を占め
る原因となった。
3.韓国液晶産業の発展
多角化の経営を企んだサムスンは 1997 年アジア通貨危機の衝擊を受け、韓国政府から
公的資金が注入される事態が発生した。グローバル企業への成長を加速させるため、サム
スンは重工業部門をスウェーデンメーカーの VOLVO に売却、韓国国内の富川半導体工場
をアメリカの Fairchild Semiconductor 社に売却し、電子産業を主力産業に選定した。
1998 年以降、サムスンの 10.4 インチ以上の TFT 型パネルの世界シェアは常にトップを
占めている。自社の携帯電話事業と連動し、液晶事業規模が急速に拡大するサムスンは
2003 年から第 6 世代の生産ラインを建設し始め、57 インチの大型液晶パネルの製造に成
功した。サムスンは 2003 年蘇州で工場を建設し稼働し始めた時、日本メーカーとの連携
を開始した。2004 年サムスンとソニーの合弁会社「S‐LCD」が発足し、当時約 2000 億
円のパネルをサムスンがソニーに提供した。このような 2000 年代前半の拡張スピードで
2008 年、サムスンパネル製造の部門の輸出額と売上高は半導体部門を越え、サムスン最大
の部門となった(図表 3)
。
14
図表 3 2006-2008 年サムスン液晶事業の変化
2005 年
2006 年
2007 年
22,796
24,000
29,615
売上高(億円)
197.2
262.6
353.1
輸出額(億米ドル)
出所:
「台湾電子機械工業年鑑」2006-2008 のデータより筆者作成
4.サムスンの人材吸収
日本の半導体事業の後退とバブル崩壊は 90 年代に韓国電子産業が台頭する原因となっ
た。その理由の一つは電子産業の不況で、東芝半導体など大手メーカーの技術者が流出し
たことであった。サムスンが半導体の発展で勝利を収めた理由の一つは技術面だけでなく
人材面でも海外の専門家の力を導入したことである。東京宣言をしたサムスン李健熙会長
が 60 年代中央日報理事長を務めた時、外国人顧問として松浦英夫(現サムスン横浜研究
所所長)を雇った。李は海外技術者を獲得するため、専門人材募集の「TOP TALENT
PROGAM」計画を作成し、高い給料と優遇政策によって一時期サムスンの海外人材獲得
は成功した。半導体産業で成果の出たサムスンは 1987 年第二創業宣言によってアメリカ
にいる韓国人技術者とアメリカ人の専門技術者を大量に募集し、シリコンバレーに研究セ
ンターを建設した。そして 1993 年の第三創業宣言によって、サムスンは技術院にアメリ
カアイオワ州州立大学工学院の技術者も誘致した。
韓国の半導体と液晶人材の吸収も日本で行われた。1994 年東芝から東北大学教授に就任
したフラッシュメモリ開発者の舛岡富士雄が NHK スペシャル「日本の群像 再起への 20
年」 第 8 回で、日本から韓国メーカーに転職する技術者が多数いたことを表明した。そし
て 1986 年から東芝半導体事業本部長の川西剛が東芝の部長を務めていた時、サムスン電
子からの訪韓の誘いを受け入れ VIP 歓迎を受けたことにより、その代償として当時いちば
ん新しい建設中の東芝半導体大分工場の見学の要求に同意した。その直後サムスン電子も
1MDRAM の開発に成功したことを語った。同じく吉岡は 256K/1MDRAM のキャッチア
ップ時期にサムスンの人材ハンティングを技術吸収ルートとして整理した時、同様のこと
を述べている29。液晶産業の発展においても、サムスンの有機 EL の元開発者はソニーで、
2010 年以降のサムスンの有機 EL の発展も日本の技術者が重要な役割を果たしてきた。週
刊ダイヤモンドは日本人が出願したサムスンのエレクトロニクス関連特許を整理した。表
によると有機 EL 分野の特許出願についてサムスンで働くことになった。日本人技術者が
2000 年代後半の日本企業に勤務していた時に特許を集中的に出願した。中でもパナソニッ
ク系統技術の有機 EL の比率が高かった。このような液晶産業の人材流出は 2000 年の時
点からもう始まっていた。人材流出や獲得の定義は非常に曖昧なので、正しい人数を計算
するのは難しいが、サムスンの日本人技術者が日本で働いていた時に日本で出願した特許
をまとめた記録が残っている(図表4・5)
。
29 吉岡(2010)「256K/1MDRAM
世代当時のサムスン電子では、製造装置の選定さえ製造装置企業
に依拠しつつ、海外で開発された既存された韓国人エンジニア、米国の半導体企業での勤務経
験がある韓国人エンジニア、日本の半導体企業から転職した日本人エンジニア(役職としては
顧問)-のうち日本人の技術顧問の主導のもと、製造装置企業のエンジニアも動員しながらプ
ロセス開発を行っており韓国国内で採用されたエンジニアは既存技術の吸収・学習に専念して
いた」139 頁
15
図表 4 サムスンで働く日本人技術者ランキング
企業名
姓名
特許出願期年間
N.K
2004~06
SANYO(現パナソニック)
M.M 2009
SANYO(現パナソニック)
SONY
T.Y
2004~10
T.O
2005~11
住友化学
S.T
2009~11
三菱
NEC
S.K
2004~10
Panasonic
A.H
2005~12
液晶専門分野
スコア(特許件数)
1206
有機 EL
1123
液晶.表示装置
935
有機 EL
610
液晶.表示装置
514
液晶.表示装置
460
有機 EL
451
液晶.表示装置
出所:週刊ダイヤモンド編集部(2013) 47 頁30
図表 5 サムスンに吸収された日本パネル・有機 EL メーカー
年度別
形式
サムスンに合併された企業 日本企業が持つ技術
1993
合弁
大日本スクリーン製造
半導体.液晶パネル製造装置
2000
NEC
合弁
有機 EL
2004
合弁
ソニー
有機 EL
2011
合弁
宇部興業
有機 EL 材料
出所:同上
5.台湾の液晶産業進出
液晶産業発展は日本や韓国より遅かったが、台湾のパネル生産は早い時点から開始され
た。台湾のパネル製造は 80 年代から既に始まっている。当時の台湾が生産基地として日
本の STN 型液晶 LCD モニターを提供した。90 年代に入り、台湾のパソコン OEM 事業
が拡大したが、モニターを日本から輸入したものが多かった 31。その頃から台湾パソコン
メーカーは現地で TFT-LCD を生産する可能性を考え始めた。1999 年、韓国と激しい競争
をする日本液晶メーカーが台湾を戦略的なパートナーに選定し、たくさんの日系液晶メー
カーが台湾メーカーに提携先を作った。日系メーカーの技術提携を行け、台湾液晶産業が
大幅に進化し始めた。1999 年、日本 IBM と達碁科技(AUO グループの子会社)の技術
提携事例、三菱電機と中華映管の提携事例32を初め、日本と台湾の TFT‐LCD 生産提携事
例が次々と出てきて、台湾液晶パネル産業の進化を加速した。
90 年代半ばから台湾のメーカーは相次ぎ液晶産業に参入し、急速に液晶の生産量を拡大
した。液晶産業発展はいちばん遅かったが、台湾は液晶メーカーが投資産業転換期の隙間を
探しタイミングを狙っていたが、2002 年、台湾は工程生産ラインを中国へ移行することによって新
世代パネルの大量生産戦略を打ち出した。そして、日本液晶メーカーの技術提携を完全に発揮
することができたのは台湾が半導体技術を持っていたからである。以下では半導体製造プロセスと
液晶製造プロセスとの繋がりをまとめる。
(1)台湾半導体製造プロセスと液晶製造プロセスとの関連性比較
90 年代後半から 2000 年代後半までの 10 年間を経ても、多くの日本の部材メーカーの
シェアは依然 60%を越えていた。変化が大きかったパーツはカラーフィルター、ドライバ
IC や バックライトに集中している(図表6・7)
。そして、この三つのパーツは台湾や韓
国の液晶メーカーによる内製化がうまく進んでいる部分と重なっている特徴がある。TFTLCD 産業の立ち上げ時、台湾国内の周辺素材の基盤産業を整備するため多くの台湾メーカ
ーが日系部材メーカーとの技術提携や合資などによって、カラーフィルター、バックライ
トなどの分野に進出し始めた。日系部材メーカーと台湾メーカーの提携と生産ラインの建
設速度が加速化し、2004 年までに台湾は独資で偏光板メーカーを設立する能力を持つこと
になった。
台湾がうまくこの三つのパーツにだけ高い模倣能力を発揮できた理由はもう一つある。
30週刊ダイヤモンド編集部(2013)『サムスン-日本をおいつめた二番手手法の限界』週刊ダイヤモンド
101 巻 45 号 45、47 頁
31台湾産業研究所編集(2004)
172 頁
32本田(2001)236 頁
16
第
この三つの部品の生産は、台湾が 90 年代前半から得意としてきたパソコン OEM と緊密
な関係を持っていることである。電子産業と関係のあるパーツと光学、化学、材料を応用
し独自に発展してきた液晶パネル構成部品から考えると、パソコン産業と関連度が高い汎
用製品の製造に台湾は強かった。それ以外の偏光板、ガラス基板や化学材料などは 10 年
経っても、日本メーカーが依然絶対優位を占めている。NEC、日立、東芝などのメーカー
がその三つのパーツのシェアの優位性を失ったのは液晶パネルのコア技術との繋がりが意
外に少ないからである。つまり、半導体産業の失速と後退と関係がある。一方、台湾の半
導体生産と台湾液晶産業の発展とは大きな繋がりがある。以下に液晶産業と半導体産業を
比較してみよう。
図表 6 1998 年台湾 TFT-LCD のキーコンポーネントの調達先
液晶のキーコンポーネント 液晶パネル製造原価に占め 主要な日本メーカー 日本メーカーの市場占有率
る素材コストの割合
カラーフィルター
23.2%
凸版印刷、大日本印
80%
刷、東レ
ドライバ IC
20.7%
NEC、シャープ、日
40%
立、東芝
バックライト
15.4%
スタンレー電気、デ
84%
ンソー、茶谷電気、
富士通化成
ガラス基板
5.6%
旭硝子、日本電気硝
62%
子
偏光板
5.4%
日東電工、住本化学
64%
出所:光電科技工業協進会〈1999〉より筆者作成
図表 7 2009 年台湾液晶材料メーカーの生産量とシェア
部品名
台湾部材メーカーと日台提携メーカー
カラーフィルター
達虹
日本凸版印刷と提携した凸版國際彩光
偏光板
日本三立電子と提携した力特光電
日本日東が設立した台湾日東
日本住友化学が設立した住華光電
ドライバ IC
連詠科技
奇景科技
生産量とシェア
達虹の月生産量は 40 万枚で、凸版國際彩光の
月生産量は 16 万枚に達した。
2008 年まで住華光電台湾年生産量が 8,000 枚
に達した
2008 年にドライバ IC のシェアについて、サ
ムスンは世界第一のシェアを占めて連詠科技
は世界第 2 のシェア、奇景科技は世界第 3 の
シェアを占めていた。
バックライト
中光電、瑞儀、輔祥、奈普、大億
2009 年台湾バックライト総生産量は 4,413 百
万ドルに達した。
出所:
「台湾 2009 平面顕示器年鑑」及び「液晶・PDP・ELメーカー計画総覧 2009 年版」のデータにより筆者作成
半導体の製造前工程にも、回路設計やフォトマスク作製作業がある。回路設計ではパネ
ルを生産する前に回路の配置を考える必要があるので、画素や周辺回路を効率よく配置す
るために、回路図を作り検討を積み重ねる。パネル設計用装置、回路設計時には半導体産
業にも液晶産業にもいちばん重要なことである。これはフォトマスク作製のパターンをガ
ラス基板に焼付けするための写真のネガに相当する。こちらの工程も半導体の製造工程と
共通点が多いのである。(図表8)違う所は、液晶パネルの製造プログラムではアレイ工
程、液晶セル工程、液晶モジュール工程の三つに分けられることがある。各工程では特有
の製造装置や部品・材料が使われる。三つのプログラムの中で TFT アレイ工程と液晶セル
工程は液晶パネルの表示性能を左右する重要な工程であり、特に TFT アレイ工程はパネ
ルの製造コストに与える影響も大きい。その中で主に液晶産業に応用される半導体生産プ
ログラムが前工程に集中している。液晶パネルはアレイとカラーフィルターの 2 枚のガラ
ス板で構成されている。アレイ製造工程ではガラス基板上にトランジスタや配線を形成さ
れる。その後ガラス基板の上に各種薄膜の成膜、洗浄、フォトレジスト塗布、パターン露
17
光、現像、エッチング、レジスト剥離、検査の工程を数回繰り返す 33。液晶アレイ工程と
の比較で半導体アレイはウェハーの上に配線を構成するが、同じ電子産業の分野でも両工
程の内容と手順は一致している部分が多い(図表9)。
図表 8 液晶産業と半導体前工程比較と液晶産業後工程の製造プロセスの説明
液晶アレイ工程
アレイ製造工程
1. 回路設計
2. フォトマスク作製
3. 基板製造用装置 - 基板洗浄
4. レジスト塗布
5. 現像
6. ウェットエッチング
7. レジスト剥離
8. アニール
完成
カラーフィルター側製造工程
1.配向処理作業
2.液晶滴下・貼合せ作業
3.切断作業
4.偏光板貼り付け作業
半導体アレイ工程
1. 回路設計
2. フォトマスク作製
a フォトマスクの生産工程
b ガラス基板の研磨
c 遮光膜の形成
d 描画
e 現像
f エッチング
g レジスト除去
完成
セル製造用装置
1.ブラックマトリクス形成
2.着色パターン形成
3.保護膜形成
4.透明電極形成
液晶モジュール工程
1.ドライバ IC 取り付け
2.バックライト設置
3.点灯検査
出所:日本半導体製造装置各企業の資料により筆者作成34
図表9 液晶の生産プロセス
ガラス制作
ガ
ラ
ス
側
工
程
パター二ング
TFT アレイ工程
着色工程
配向膜処理
カラーフィルター
側の製造工程
配向膜処理
セル組立工程
液晶ディスプ
レイ製品
モジュール工程
出所:日本半導体製造装置会社の資料により筆者作成
33本田(2001)236 頁
34社団法人日本半導体製造装置協会
http://www.seaj.or.jp/
18
*カラーフィルター側の製造工程は四つのパターンがある。ブラックマトリクス形成、カラーレジストを使い塗布、露
光、現像する工程を3回繰り返して赤,緑,青のパターンを形成する。着色パターンを形成してから着色工程に入る。
その後、セル製造用装置にも配向処理、液晶滴下・貼合せ、切断、偏光板を貼り付けるセル組立工程に入る。液晶モジ
ュール工程は最後の仕上げ、主にバックライトやドライブ IC の組み立てと検査手続を行う。ドライバ IC 取付け、液
晶パネル上の配線とドライバICの端子を位置合わせし、熱圧着により電気的・機械的に接続する。
・バックライト設
置、液晶パネルとバックライトユニットを所定の位置に位置決めし、組み立てる。・点灯検査、液晶パネルを点灯して、
欠陥、色度、色むら、コントラストなどを検査する。
ガラスアレイ側のガラス基板工程よりカラーフィルター側の製造工程の方が液晶産業の
特徴が強く、日系部材メーカーがこの工程で現在も重要な地位を占めている。カラーフィ
ルター製造用装置製作工程とセル製造用装置が成膜技術や材料、液晶特有な偏光板、配向
膜、カラーフィルターの製造技術が入って、もっとも液晶産業の特徴が見える工程と言え
る。液晶製造の後工程は前工程と異なって、液晶製造専門の工程が入る。特にメインパー
ツの偏光板とカラーフィルターを製造する時に重要な材料と技術は台湾が液晶産業を発展
させる際、足りなかった項目の一つである。しかし、コストや参入障壁で偏光板とカラー
フィルターはガラスより低いので、この二つの日本部品メーカーは 90 年代末期から 2000
年代初期、積極的に台湾に進出する傾向が見える。それと比べて、液晶モジュール工程で
必要なドライバ IC 取付けとバックライト設置には専門的技術というよりも台湾が得意な
電子産業分野に近くて自給率が高い。製造工程を分析すると半導体製造国が液晶産業に参
入するメリットとパソコン製造大国の台湾液晶産業が特にドライバ IC 分野とバックライ
トなどの組立に強い理由を説明することができる。
小括
以上、日本、韓国、台湾液晶産業の発展を明らかにした。半導体と液晶産業の発展初期、
材料面で弱かった台湾と韓国は、日本の材料メーカーの供給がなければ産業が成立できる
わけではなかった。しかし、キャッチアップの成果が出て後発国の製造能力が強化され、
産業の発展が加速した。韓国が液晶産業の早期事業化と国の主導などで優位性を持つ一方、
台湾は日本液晶メーカーからの技術提携があった。液晶生産プロセスの関連性と部材供与
先の類似度が高いウェハー生産技術を持っている半導体メーカーと電子類の部品製造力が
高いパソコンメーカーの努力で 90 年代末から液晶事業に速やかに進出することができた。
特に台湾の液晶投資は韓国より遅かったが FAST FOLLOWER 戦略を実行して常に次の
手を出すため、日本メーカーとの提携は第四世代まで発展し、2000 年から 2002 年まで生
産ラインの建設増資判断が下された。自国の経済状況を読みながら、いちばん参入しやす
い時点を判断し、投資産業転換期の隙間を探してタイミングを狙って投資拡大するのが台
湾がパネルのシェアをつかめたもう一つの理由である。日本液晶メーカーの技術提携と参
入タイミングの把握で 2000 年以降の急成長期では第五世代の液晶パネルの競争において
台湾メーカーが有利であった。
第一章では、半導体産業における東アジア電子産業発展全体の流れと同じ後発国の台湾
と韓国の半導体キャッチアップを比較した。そして台湾半導体産業と液晶産業の繋がりを
説明した。さらに、東アジアの電子産業が発展している国と比べ、台湾の独自な特徴つい
て議論した。技術力と生産プロセスの改良を得意とし、技術者と設備を重視する日本型生
産方式が今でもアジア諸国の工業発展に大きく影響している。半導体産業と液晶産業も高
度なノウハウが埋め込まれた部品や材料、製造装置によって日本から東アジアに広がって
いる。そして後発国がキャッチアップした頃には最新技術の習得や生産設備の導入によっ
て技術面の遅れを克服することができ、利益を享受することができるようになった。特に
半導体産業を基盤として有する台湾と韓国メーカーが半導体産業と繋がりの深い液晶産業
を発展させて来た。
19
一方、後発国の発展の特徴として台湾と韓国には共通点も異なるところもあった。80 年
代半導体産業の発展から総合電子メーカーを目指し、ブランドを打ち出すサムスンに比べて、台
湾メーカーはパネルの製造専門メーカーが多いという特徴が見える。このように後発国のま
まで各自の優位性を発揮し得意な領域で成功を収め、異なる特徴を生み出した 2008 年の韓
国と台湾の液晶ディスプレイの生産能力は各々約 42%のシェアを持つに至った。1999 年
に日本企業からの技術導入で急速に発展した台湾企業は 2004 年までの 5 年間で液晶パネ
ルの世界の生産能力の半分以上を占めるに至り、液晶産業での地位を確固たるものにした。
20
第二章 台湾液晶産業の人材育成と政府政策
第二章では、1980 年から 1999 年に日本の技術提携を受けるまでの間における台湾液晶
産業の人材育成ルートと政府の役割について明らかにする。
台湾液晶産業の人材育成ルートは二つある。一つ目は液晶研究を行う台湾大学院光電所
が育成した液晶専門研究者である。二つ目は TN/STN-LCD 発展時代から台湾民間企業や
日系液晶企業に勤めていた台湾人技術者と半導体産業関連人材である。日本メーカーが液
晶パネルの開発を巡って熱く競争していた 1980 年代に TN/STN パネルの製造が主流とな
った台湾はまだ TFT パネルの実用化はされていなかった。発展は遅かったが液晶知識につ
いての教育と国立研究機構の液晶発展計画が相互に影響し、TFT-LCD 産業の土台となっ
た。このような液晶知識と技術の蓄積によって 90 年代末から推進された日台液晶メーカ
ーの技術提携が早い段階で成果を現わし、2000 年代初期の政府の液晶産業サポート政策に
よって産業の拡大が一気に加速した。一方、日系メーカーの動きによって液晶産業の進化
が加速化され、液晶産業への進出条件が厳しくなった。結局、90 年代に台湾液晶市場で活
躍していたメーカーは殆ど撤退し、日本メーカーとの提携を受けるメーカーしか生き残れ
なかった。
本章は、台湾液晶産業の人材育成と政府政策のまとめである。台湾の液晶研究と政府産
業政策の具体例をまとめることによって台湾液晶メーカーが技術移転を受けた時、驚異的
な受容性を示した原因を探し出したい。そのため、本章の第一節では、台湾液晶産業の人
材育成に関連する学校教育を議論する。第二節では、台湾工業研究院が主導する液晶開発
計画の展開とその影響を検討し、1980 年代末から 1991 年までの台湾液晶産業の実態を分析
する。そして第三節は、80 年代から 2000 年代までの政府の液晶政策について議論し、台湾
の中における液晶産業地位の変化を検証する。第四節では、台湾液晶産業向けの科学パー
クの役割と集積効果についてまとめる。そして、学界や産業界を主体とした技術発展と政
府の補助策が台湾液晶産業の立ち上がりにどんな役割をを果たしたかを検証する。最後に
第五節では、90 年代台湾の液晶市場で活躍していたメーカーが脱落する原因を見い出して、
最終的に 90 年代末以降の台湾の液晶市場について考察する。
第一節 台湾液晶産業の人材育成ルート
本節では、台湾液晶産業の人材育成ルートについて議論する。台湾液晶産業の人材育成
は学校教育と民間企業における技術者に分かれる。後者では、80 年代から日本で TFTLCD 技術を研究した技術者と日系メーカーの STN-LCD 生産ラインで働いた経験を持つ現
場技術者が台湾 TFT-LCD 産業の立ち上がりに大きな貢献があった。
1.交通大学の液晶実験室と光電研究所の設立
台湾が白黒テレビの OEM 事業を手がけて以降、政府の半導体産業発展政策もあって、
電子産業が急速に成長し、1970 年から 1980 年の 10 年間に台湾電子産業製品の輸出が輸
出全体の 28%まで拡大した35。電子産業ブームと理系人材の需要拡大で 80 年代から理工
系が法律学科に代わって一躍大学志願者の第一志望となった。この影響を受け、四年制大
学だけでなく二年制大学も相次ぎ電子学科が設立され、理系学生も大幅に増大し始めた。
その中では電機学科の入学人数がいちばん多かった。
半導体産業の成長に期待する若い学生たちが半導体製造に携わる上で必要知識を学べる
電子学科に多く入学し、半導体産業の人材が次第に飽和するようになってしまった。この
35佐藤(2007)33 頁
21
ような背景の下で大学教育に光電研究所が発足した。第一章の分析で示したように半導体
と液晶の生産プログラムの類似度が高いので、新興産業として期待される光電研究所は理
工系大学生の新しい選択肢となった。1980 年から台湾大学内の実験室では液晶の基礎的な
研究が始まった。そして 80 年代台湾の教育機構で育成された液晶研究者の多くが 90 年代
台湾液晶メーカーのコアメンバーになった。
台湾新竹にある交通大学は台湾最初の電子研究所と最初の半導体研究センターを設立し
た大学であるだけでなく、台湾最初の液晶実験室を設立し液晶の研究を始めた大学である。
交通大学と同じエリアにある台湾国立清華大学とは 70 年代から台湾理系の第一志望校とな
っているが物理化学分野に強い台湾清華大学より電子分野に強い台湾交通大学の方が半導
体分野に強かった。学校側もたくさんの帰国研究者を吸収し研究をサポートしようとした。
80 年代に交通大学電子物理学科の学務長を務めた張俊彦は半導体の専門家で台湾最初の
a-Si–LCD の研究者であった。張は 1964 年張瑞夫、郭双発と台湾最初の半導体研究セン
ターを設立し、交通大学電機学科でマイクロチップ、ヒ化ガリウム、a-Si–LCD の研究を
行った。70 年代に入り、アメリカに渡航経験を持つ張は交通大学に誘われ、行政院国家科
学委員会でも国家級の研究機構(National Nano Device Laboratories)の設立計画の主催
者の一人となった。交通大学で液晶の研究を続けていた張は交通大学電子物理学科の学務
長を担当していた時にも台湾の液晶者を集めた。張が指導した弟子の呉炳昇は 90 年代に
奇美グループが設立した CMO 電子 LCD ドライバ IC 部門の責任者となり、そして張によ
って任用された帰国研究者王淑霞が台湾最初の光電研究所を設立した(図表 10)
。
図表 10 台湾交通大学液晶研究及光電研究発展史
年度別
台湾交通大学光電研究発展史整理
1974
王淑霞教授が国立交通大理学院電子物理学科の講師を勤める。
周勝次教授と台湾国最初の液晶実験室を設立
1980
交通大学が基礎電物系台湾最初の光電プログラム研究所の設立
1986
交通大学光電所の博士課程が開講
1989
台湾国内最初に博士号を取った呉俊傑が国內液晶産業座談を開催
1990
王淑霞が交通大学光電所所長を勤める
1992
王淑霞、台湾代表として国際液晶学会に入会
1994
交通大学が電子情報学院を設立
大学院の光電研究所が理学院から情報学院に所属変更
1999
王淑霞が国際液晶学會台湾学会の理事長に就任
2004
交通大学が台湾最初の光電学科を設立
2008
王淑霞が交大台南分部光電学院院長を務める
出所:台湾の新聞記事と交通大学サイトより筆者作成
王は台湾師範大学物理系学士を取得後、アメリカのノースカロライナ州立大学の物理修
士号とパデュー大学原子力研究修士号を獲得した物理の専門家である。1974 年王は夫の陳
稔とアメリカから台湾に帰国した後、夫婦とも交通大学の教員となり、陳は交通大学情報
プログラム学科で教務を務め、王は電子物理学科の講師になった。液晶領域の研究に興味
を持った王は元智大学電機系教授周勝次とともに台湾最初の液晶実験室を設立し液晶の研
究を始めた。当時台湾の液晶研究は重視されていなかったが王はアメリカから液晶研究の
専門書籍を購入し、工業研究院と清華大学の研究器材で交通大学に液晶研究を立ち上げた
36。王の液晶研究は張に注目され、1980 年交通大学は最初の光電実験室を設立した。国際
液晶学会の活動に積極的に参加する王は京都で開催された第八回国際液晶会議で 70 年代
から液晶の研究を続ける日本の液晶研究者東京理科大学の小林駿介と交流し、日本の液晶
学会との繋がりを作った。これがきっかけとなり、交通大学光電研究所初期の卒業生は卒
2005 年 11 月 22 日王淑霞 台湾交通大学講演
http://photo.ssps.tp.edu.tw/recommend/main.php?g2_itemId=601
36
22
業してから日本で液晶の研究を行う人が多かった。その代表者は日本セイコーで働いた経
験を持ち、その後台北科技大学光電学科教授呉俊傑と東北大学電子工学科液晶研究可科教
授内田龍男の元で研究する経験を持った CMO 液晶テレビ部門責任者の郭振隆であった。
80 年代交通大学が育てた 70 名以上の液晶専門家の中で日本と台湾の液晶研究所や液晶
メーカーに勤めた経験を持つ研究者が多く、90 年代に台湾液晶メーカー管理層に就く研究
者がたくさんいた。液晶専門メーカーを目指した CMO は交通大学の卒業生を大量に採用
した。CMO に採用された郭振隆は台南成功大学電機学科出身で交通大学光電博士号を取
った、典型的な半導体から光電に専攻を変えた理工系出身の研究者である。王の紹介によ
って東北大学で教員と交換研究員の経歴を持つ郭は帰国後当時液晶事業の発展を図ってい
た CMO に誘われ技術開発の職務を担当した。郭の主導で CMO は液晶滴下(ODF)工程
の開発を成功させた。彼は、第四世代工場の責任者やディスプレイ部門の協理などの職務
を経て、CMO 副総経理となった。同じ交通大学卒業生の協理、陳立宜も 2000 年から技術
開発の職務を担当し、2002 年郭と協力して 30 インチパネルの量産化を成功させ、ディス
プレイ事業部門の処長に昇進し、2006 年ディスプレイ事業部門業務総部協理となった。
80 年代の CMO も交通大学光電研究所と産学交流協定を結んで、2002 年から交通大学光
電学科の台南パークの建設に資金を出し、2009 年から新入生を採用し始めた。AUO の前
瞻技術研究センターでも交通大学の卒業生が 50%を占めた37(図表 11)
。
図表 11 台湾液晶メーカー管理層における台湾交通大学光電大学院出身の人物一覧
会社名
名前
職務
CMO
郭振隆
業務総部副経理
陳立宜
業務総部協理
韋中光
技術開発センター協理
李汪洋
技術開発センター拠長
AUO
陳伯綸
前瞻技術研究センター拠長
郝嘉偉
消費電子ディスプレイマーケティング部門 拠長
群創光電
楊秋蓮
LCD 商品拠拠長
立景光電
陳燕晟
工程センター中心 副総経理
廖炳傑
工程センター液晶工程拠 拠長
呉基瑞
品質保証工程拠 RFA 工程部 副理
頼佳成
工程センター電路設計拠設計二部 副理
范姜冠旭
工程センター液晶工程拠技術開発部 副理
出所:各種新聞記事より筆者作成
80 年代から台湾では液晶知識が獲得され始め、研究者の育成は液晶産業が立ち上がるま
でに 10 年以上の歴史を持っている。しかし、その頃液晶の研究は専門的に深化した。80
年代末、台湾電子産業のリーダーたちは液晶人材の重要性と人材が不足していることに気
が付き、液晶産業の立ち上がることが台湾電子産業をさらに発展させると感じる人が多か
った。1989 年 8 月フィリップス台湾副 CEO 許禄宝は王に「台湾液晶学会は学術研究だけ
でなく、液晶産業が立ち上がるのを支えるべきだ」と提案した38。しかし、液晶の学校教
育が大学教育まで普及したのは 2000 年初頭液晶産業が成功した後となった。2000 年以降、
大量の光電人材が必要となり、液晶知識をさらに普及させるため交通大学は 2004 年に光
学と液晶を統合した光電学部を設置した。交通大学光電プログラム研究所や交通大学光電
所など大学研究機構が相次ぎ設立され、清華大学、成功大学など理系に強い国立大学も関
連学科を設置し、光電学科が台湾理系大学の中で主要学科の一つとなった(図表 12)
。
図表 12 2012 年時点まで台湾各大学液晶専門関連学科一覧
交通大学光電工程学科卒業生 AUO 陳伯綸インタビュー
http://www.ieo.nctu.edu.tw/alumni/visit/riki.php?id=%E9%99%B3%E4%BC%AF%E7%B6%B8%E5%B0%88%E8%A8
%AA&CID=1
38同上
37
23
学校名(国立大学)
国立台北科技大学
国立高雄応用科技大学
国立虎尾科技大学
国立彰化師範大学
国立連合大学
国立連合大学
国立成功大学
国立成功大学
国立中興大学
国立東華大学
国立東華大学
国立暨南国際大学
国立清華大学
国立交通大学
国立交通大学
国立中央大学
国立中山大学
国立中山大学
国立高雄師範大学
液晶関連学科
学校名(私立大学)
液晶関連学科
> 光電工程学部
逢甲大学
> 光電学科
> 金型工程学部光電金型学科
輔仁大学
> 物理学科光電物理学部
> 光電工程学科
元智大学
> 光電工程学科
> 物理学科光電学科
亞洲大学
> 光電通信学科
> 光電工程学科/四年制専門学校
明道大学
> 光電能源工程学科
> 光電工程学科/大学全日コース
中原大学
> 物理学科光電材料学部
> 物理学科光電科学科
淡江大学
> 物理学科光電物理学部
> 光電科学工程学科
南台科技大学
> 光電工程学科
> 物理学科光電物理組
崑山科技大学
> 光電工程学科
> 物理学科ナノメートル光電学科
崑山科技大学
> 光電工程科/夜間コース
> 光電工程学部
明新科技大学
> 光電システム工程学科
> 応用材料光電工程学科
萬能科技大学
> 光電工程学科
> 物理学科光電物理学部
遠東科技大学
> 光電工程学科
> 電子物理学部光電
>ナノメートル科学学部
> 光電工程学科
> 光電科学工程学科
> 光電工程学科
> 材料光電科学学科
> 光電通信工程学科
出所:台湾各大学の工学院ホームページを参照して筆者作成
2.民営企業におる技術者
1966 年台湾が輸出加工区を設置して以来、関税の優遇と労働力の提供で外資系企業を誘
致し始め、日系メーカーを含む多数の外資系企業が輸出加工区に進出した。80 年代、台湾
の電子 OEM 事業の拡大により日本の電子メーカーも台中や高雄港加工区、高雄楠梓加工
区に多数の企業が進出したことによって、日立、エプソン、シャープ三社は台湾で
TN/STN-LCD の組み立て工程を行えるようになった(図表 13)
。
図表 13 1971 年日系電子企業の台湾進出
(単位:百万ドル)
社名
所在地
従業人数(人) 資本金 輸出額
2,500
0.5
7.5
台湾ミツミ
高雄EPZ
1,500
3.0
2.5
台北ミツミ
台北県
1,400
0.3
1.5
台湾東光
高雄EPZ
1,200
2.0
7.5
台湾日立
高雄EPZ
1,200
0.3
3.7
船井電気
高雄EPZ
KCK
1,013
1.0
1.8
台中EPZ
FORMOSA
N/A
1,010
2.0
4.4
800
0.3
3.9
スタンダード台湾
高雄楠梓EPZ
632
0.8
2.8
台湾太陽誘電
台北市
600
1.0
10.5
キャノン
台中EPZ
600
0.5
2.5
スタンダード楠梓
楠梓EPZ
566
0.1
2.8
高雄日立
高雄EPZ
TDK Electronics
N/A
520
2.9
3.2
505
0.2
1.3
台湾京三
台中EPZ
500
0.3
2.6
白砂電気
高雄EPZ
350
0.3
0.5
田村電子
高雄EPZ
328
0.2
1.4
フォスター電機
高雄EPZ
301
0.3
4.6
台湾日通工
台中EPZ
205
0.5
0.6
台湾釜屋電機
台中EPZ
202
0.8
2.0
日立化成
高雄EPZ
200
0.5
1.0
日立マクセス
高雄EPZ
186
0.1
1.3
東洋通信
高雄EPZ
N/A
150
0.2
0.5
台湾大橋
44
1.0
1.0
日立電子管
新竹県
41
0.2
0.1
大洋工業
高雄EPZ
16,553
19.3
71.5
合計
出所:水橋(1999)10 頁
24
一方、台湾のパソコンや周辺機械産業の発展も進んでいる。台湾の LCD 産業の発展は
1979 年から始まった。1979 年台湾東元電機が開発したディスプレイが交通大学と通信研
究所に採用されたことをきっかけに台湾はディスプレイの生産を開始した。一方、アメリ
カの Huges 社が TN 技術を導入した後、1980 年台湾のパソコンメーカーの ACER、大同、
東元電機のモニターの OEM 製造を始め、外資企業のエプソン、シャープ、日立などが
STN 後工程工場を設立し LCD メーカーは次第に台湾に根を降ろすようになった。1983 年
IBM やアップルの委託を受け、パソコン OEM 事業を行う電子メーカー大同と東元39、そ
して台湾電卓大手メーカーの金宝工業と合板大手の国豊がモニターの生産を開始した。こ
の時期台湾メーカーが CRT モニターの生産をしている40。同年、高雄日立は既に TN ディ
スプレイを生産しながら高雄 EPZ にモノクロ STN-LCD 後工程工場を建設し始めた。当
時日系電子メーカーは主にパネル付きの電話機と FAX など、台湾で生産した製品を日本
に輸入し、その後世界に輸出した41。シャープの台湾進出は 1986 年に台湾製ノートパソコ
ン用のパネル生産ラインを敷いた。製造プログラムは違うが、日本液晶メーカーで働いた
経験を持つ現場技術者がたくさんいた。1997 年以降、TFT の新興と TN/STN の下落でそ
れらの技術者たちが大量に台湾液晶メーカーに転職する状況が起こった。技術者の転職の
原因は TFT の興起にも関係があるが、液晶メーカーで社員ボーナスを貰えることも転職の
理由となった。
台湾の法令によると外資系の資本が 51%を超えると株式市場に上場できないので台湾で
資金を公募することはできなかった。それに対し、台湾メーカーは技術者となる社員に会
社の株を渡すという対策を出す文化がある。台湾の電子メーカーは固定資産を持たず、人
材と技術を集めるため、初期から社員に株式を持たせることによって継続的な事業の展開
を図るのが台湾の独特な企業文化である。優秀な人材を確保するため「員工分紅」または
「員工分紅入股」と呼ばれるボーナス制度があった42。当時注目されるハイテク産業とし
て、液晶産業に投資する民衆が多かったので、ボーナスを狙って転職する技術者がたくさ
ん出た。実際 2001 年台湾半導体が不況の時、好調の液晶産業に転職する半導体技術者も
たくさんいた43。台湾液晶発展初期の AUO 前身の連友光電と HANNSTAR など電子大手
メーカーが投資した液晶メーカーは、ボーナスで人材を獲得したことによって日系液晶メ
ーカーで働いていた技術者が台湾液晶メーカーでノウハウを提供するようになった。民間
企業で育ってきた技術者が TN/STN-LCD の OEM 事業によって実験室で学ぶことができ
ない知識を得たことで液晶研究者とは異なる形で台湾液晶産業の基礎を支えた。
小括
以上、台湾学校の液晶教育と民間企業技術者の役割を明らかにした。技術発展は日米よ
り遅かったが、80 年代から理工学科の人材を吸収しながら新しい分野の一つとして台湾の
研究者達は大学の研究施設で液晶の研究を始めた。国際活動によって光電知識を吸収する
ことを通じ、台湾の液晶研究者は世界の液晶技術の進化を常に把握していたので 80 年代
後半から台湾の液晶学会は日本に目を移すことになった。当時台湾のパソコンメーカーは
OEM 事業によって重視していたアメリカ発の TN/STN の製造とは異なる方向を目指した
ことが台湾液晶学会の大きな特徴である。そして、日本での研究経歴を持つ研究者が確実
39川上(2012)53 頁
40水橋(1999)15 頁
41王(2003)153、154 頁
42水橋(1999)143 頁
43陳(2004)11 頁
25
に 90 年代末の台湾 TFT-LCD の技術導入に大きな役目を果たした。一方、90 年代日系メ
ーカーから吸収した技術者も熟練の液晶労働力を提供した。液晶研究者と技術者が存在し
なければ、台湾が日系液晶企業との提携を行っても台湾側の人材不足で技術開発が順調に
進まなかったであろう。交通大学が台湾大学の液晶研究の発信地となって、80 年代以降の
液晶産業の立ち上りを支え、CMO などの台湾メーカーの急速な成長につながった。台湾
の研究機構で育った研究者達の努力が TFT-LCD の進化を促進した理由の一つになったと
言えるであろう。
第二節 液晶発展における工業研究院の役割-台湾液晶発展計画
本節では、台湾工業研究院が主導する液晶開発計画の展開とその影響を検討し、80 年代
末から 1991 年までの台湾液晶産業の実態を分析し、液晶発展における国家研究機構の工業
研究院の役割を説明する。
1988 年まで台湾資本の TN/STN-LCD メーカーは U.R.T.(光連)
、Nanya(南亞塑膠)、
Picvue Electronics(碧悠)の 3 社があった。台湾が大量に STN-LCD を生産していた 80
年代末、日本のシャープや松下電器は既にいろんなタイプの小型 TFT-LCD テレビの開発
に成功していた。日本の液晶発展は世界に注目されていたが、当時 TFT-LCD の量産技術
を持っている国は日本しかなかった。一方、台湾政府が 1973 年に工業研究院を設立して
以降、アメリカの技術と人材を導入して半導体の技術開発を行ってきたが、TFT-LCD の
将来性とパソコンメーカーの力を強めるため、1989 年から TFT-LCD 開発のための「平面
顕示器技術発展計画」を開始した44。1989 年から 1999 年末までの間に工業研究院の主導
で大型液晶開発のプロジェクトが二つ開始され、成果として 3 ~6 インチ TFT-LCD パネ
ルの試作に成功し、LCD の IC ドライバの製造も行われた。以下はこの二つの計画につい
て説明する。
1.工業研究院主導の寶晟光電の発展計画
工業研究院創新センターは、1989 年、済業電子、連華電子、声宝電子、神通パソコン、
光宝電子、倫飛パソコンなど液晶産業に進出意欲の強い台湾電子メーカーと共に総額 50
億台湾元の大規模研究案を作成した。この計画は台湾最初の液晶開発計画であった45。創
新センターと連華電子を主体とした開発計画の技術の拠りどころは日本 Semiconductor
Energy LAB.(SEL)であった。最終的には 14 インチの TFT-LCD パネルの開発を目指し工
業研究院は 2 段階発展計画を策定した。第一段階の目標は STN-LCD の量産化と DTNLCD、FTN-LCD など他種類のパネルの研究で、第二段階の目標は TFT-LCD の開発であ
った。工業研究院が半導体技術の発展をはかった時、アメリカから人材を導入したのと同
じように、工業研究院はゼネラル・エレクトリック社 LCD 部門の羅芳禎、蘇峰正、IBM
の楊界雄などの海外の台湾人液晶研究者を帰台させた。そして、半導体の研究成果を台湾
積体電路に移転した時と同じように、工業研究院は「寶晟光電」を設立し、技術移転をは
かろうとした46。しかし、今回の開発計画は一年で中止された。
計画が中止された理由は、工業研究院の STN-LCD 開発計画が 1989 年 8 月に開始され
た直後、NEC がカラーSTN 型のラップトップパソコンを販売し始めたからであった。シ
ャープも 1989 年に TFT-LCD 量産計画を作って天理工場の建設を始め、1990 年の夏から
さらに大型の液晶テレビを出すという情報が日本から台湾に流れ込んだ。工業技術院と連
華電子の CEO 曹興誠が今更 STN-LCD の開発を行っても優位を取れないとの判断で 1990
44楊(1999)4-74 頁
45洪,呂(2001)176 頁
46工商時報
1990 年 7 月 18 日付
26
年 9 月に研究中止と宣言した。実際、この液晶開発計画中止は工業研究院の発展方向にも
関係があった。1990 年工業研究院は半導体産業の規模と技術をさらにグレードアップする
ため「次世代メモリー製造技術発展 5 ヵ年計画」を作成した。それ故 1990 年度の予算会
議で 1991 年度から半導体開発予算は 70 億台湾元に大幅に増額された。その反面、液晶開
発計画の研究開発経費は 5 億台湾元まで縮小され、開発人員は 30 人まで削減されてしま
った47。この結果、液晶発展に参加していたパソコンメーカー数社が脱落し、メーカーら
によって集められた開発資金も 50 億台湾元から 10 台湾元に大幅に減少になって研究が続
けられなくなった。
工業研究院の液晶発展計画が終了になっても、当時主流となっている STN-LCD と新技
術として期待されている TFT-LCD を巡って台湾液晶メーカーの進む道も二つに分かれて
いた。一つは STN-LCD を生産しながら TFT-LCD 技術を開発するメーカーである。もう
一つは最初から TFT-LCD 技術の液晶産業に参入するメーカーである。STN-LCD を生産
しながら TFT-LCD 技術を開発するメーカーの代表は碧悠電子と元太電子であった。1990
年に元エプソンの技術者によって設立された TN 型液晶パネルメーカー勝華科技と光連科
技2社48は一時好調となって、碧悠と加え台湾の液晶メーカーが確実に増えた。工業研究
院の研究成果と生産ラインを受け取った元太電子も 1994 年から稼動し始めた。
一方、1989 年半導体メーカーの連華電子は液晶産業に進出するために子会社連友を立ち
上げた。連友設立時に TFT-LCD の開発製造に専念すると公表し、連友は台湾最初の TFTLCD メーカーとなった49。1992 年連友光電は台湾最初の液晶生産ラインを台湾新竹に建
設した。連友光電は工業研究院などのサポートを受け、1990 年アメリカ OIS 社(Optical
Imaging System)からの技術導入によって、1993 年第四四半期、連友は 4 インチの
TFT-LCD パネルを正式に量産し始めた50。一方、STN-LCD を中心に発展した中華映管は
1994 年に東芝から STN の技術移転を受けたが、奇美グループも 1998 年奇晶光電を設立
し、華邦電子グループは HANNSTAR を設立、宏碁グループは達碁科技を設立、1999 年
台湾ノートパソコンの大手製造 OEM メーカーQuanta も子会社廣輝電子を設立し、大型
TFT 液晶の生産を始めた。中華映管は 150 億台湾元を投入し、三菱電機と提携して 12.1
インチの TFT-LCD 液晶を生産し始めた。このように台湾の大手メーカーは相次ぎ大サイ
ズの TFT-LCD 生産ラインの建設に投資し始めた。
2.経済部が主導した「台湾顕示器」計画
工業研究院の液晶開発計画に影響され、STN-LCD から TFT-LCD に進化させるため、
パソコン関連メーカーも液晶開発計画を始めた。SOLOMON は 80 年代台湾の電機設備や
電子材料の代理メーカーであった。1989 年積極的に液晶産業に進出する SOLOMON が当
時パソコンモニターOEM 事業を行う大同と台湾電機メーカーの環隆とともに 10 億元の液
晶の投資案を作った。台湾経済部を通じ SOLOMON は欧州及び台湾電機メーカーと連携
し「台湾顕示器」を設立した。「台湾顕示器」は工業研究院の液晶開発計画と同じように、
STN-LCD を開発しながら TFT-CLD も製造という目標を設定した51。しかし、生産メー
カーではない SOLOMON が主導する「台湾顕示器」の開発計画は進んでいなかったため、
1991 年の夏、計画の主導者が大同に変更され、開発予算も 90 億台湾元まで増額された52。
47経済日報
1991 年 3 月 26 日付
48王(2003)115 頁
49鄒(1999)71 頁
50 AUO 会社沿革
http://www.auo.com.tw/?sn=20&lang=zh-TW&c=1
51洪,呂(2001)176 頁
52工商時報
1991 年 5 月 10 日付
27
大同主導の台湾顕示器は技術提携先をイギリスメーカーGEC に選定し、台英間の提携で液
晶を一時進めようとした。しかし、その直後 TFT-CLD の技術提携について GEC 社が高
額な権利金を大同と環隆に要求したため、開発計画が中止となって大同グループも計画か
ら撤退した53。結局、当時台湾材料メーカーの南亜プラスチックが大同の代わりに GEC と
提携を行って STN 型の液晶を開発し、2 年の時間をかけて 1993 年に桃園で正式量産を始
めた54。台湾顕示器開発案の失敗で大同グループは子会社中華映管を設立し、桃園楊梅に
実験室を設置して、液晶産業に進出する準備を始めた。1995 年中華映管は東芝との提携に
より、1996 年 8 月 10.4 インチの STN-LCD の生産を始めた55。STN-LCD の提携により、
中華映管は日系液晶メーカーとの関係を築いたことが、TFT-LCD 提携の基礎となった。
液晶開発計画は電子、物理、化学、光電などの分野の専門家を集めて国内の液晶産業の発
展を促進するものである。1989 年発足した液晶発展計画は失敗したが、液晶産業の人材面
への影響が大きかった。そして、当時の液晶発展計画のメンバーは、2000 年代以降も台湾
液晶メーカーに務める人が多かった。
小括
1997 年工業研究院光電所前副所長呉逸蔚は LTPS‐LCD を開発し、その後統宝光電に
転職した。成功大学の教授呉炳昇は電子機械の教授で液晶研究計画の立案者の一人で 1993
年から元太電子に就職した後56、COM に誘われ開発部門の副総経理を務め57 、最終的に
2009 年、奇景光電に転職し総経理を務めている。同じく液晶産業に参入する電子メーカー
HANNSTAR は工業研究院光電所の専門家呉大剛を起用した。1993 年呉は元太電子に入
社して以降、2000 年から HANNSTAR、中国の龍騰光電へと転職し、2010 年から AUO
の中小型液晶パネル部門の責任者となった。国家主導の液晶開発計画は、最初から当時主
流となっていた STN-LCD 技術の開発と TFT-LCD 技術開発との選択肢に迷った。資金面
と技術の成熟で液晶開発計画は長く続けられなくて、半導体産業ほど大きな成果が出なか
った。しかし今回の計画により、台湾の電子メーカーは液晶事業を重視し始めた。この影
響で連華電子(AUO の前身)のように TFT-LCD 事業を発展させようとするメーカーとさ
らに海外液晶人材を吸収し、STN-LCD の製造を強める碧悠電子が現れた。その結果、
1999 年台湾 STN-LCD メーカーは台湾で活躍していたが、TFT-LCD メーカーも存在する
という二重構造の状態で台湾 TFT-LCD 産業の設立に影響を与えた。
第三節 台湾政府の液晶政策
本節では、政府政策について検討する。1980 年代から 2000 年代まで、液晶産業向けの法
令の変化によって液晶産業の地位の変化を検証する。台湾の電子産業の発展史を振り返る
と産業の育成を目的として政府が実施した政策は二種類に分けられる。一つは、半導体産
業の育成のように公的研究機関が研究開発を行ってからその成果を民間企業へ移転しよう
とするものである。もう一つは、元太電子の TFT-LCD 開発事例のように、政府が公的資
源を使って民間企業と一緒に開発することで特定産業を育成することである。助成策と優
遇策の策定により民間投資は促進されることになる。90 年代前半まで台湾は液晶産業向け
の法令がなかったが、液晶産業の設立により、2000 年以降関連した法令が相次ぎ策定され
た。以下、台湾半導体産業と液晶産業の形成経緯をまとめる。
1.60 年代半ばから 80 年代半ば
53經濟日報
1991 年 5 月 10 日付
54金(1993)16 頁
55金(1993)17 頁
http://80th.ncku.edu.tw/files/14-1271-81688,r1125-1.php(取得日期 2011 年 12 月)
http://www.himax.com.tw/ch/about/group.asp(取得日期 2013 年 10 月 20 日)
56台湾国立成功大学
57奇景光電
28
新興国が産業を育成する時、付加価値が高い産業を選んで発展させるが、二つ以上の産
業を同時に発展させるようとすると結局どちらも失敗することになってしまう可能性が高
いので資源や人材を一つの産業に集中するのが常態である。
「工業技術研究院」が 1975 年
に RCA(Radio Corporation of America)を技術輸入提携先に選定し、半導体の研究を開
始した頃は液晶産業の58具体的な育成策がなかった。その理由は当時台湾の資源が少なく
て、同時に複数のハイテク産業を育成する能力を持っていなかったからである。液晶産業
を発展させるためは液晶関連の製造技術だけでなく化学工業など川上産業のバックアップ
が必要である。しかし、当時の主体としての台湾メーカーはそんなに技術力の高い産業を
持っていなかった。一方、半導体産業を発展させれば、当時台湾で発展していた機械メー
カーや部品メーカーなども一緒に発展させることができるという台湾産業全体の向上のメ
リットがあった。この時期、台湾政府の奨励策は輸入代替から輸出代替に移すことを国家
の発展方向として設定した。製造業が工業化政策の中核部分となっていたが、台湾には液
晶産業を対象とした奨励策がなかった(図表 14)
。
図表 14「奨励投資条例」改正沿革
年度
改正
1960 年
「奨励投資条例」が公表
1977 年
「奨励投資条例」の改正
1980 年
新竹科学パーク設立
「奨励投資条例」の改正
範囲
外国企業の誘致
金属、機械、自動車部品、電機
半導体
電機、電子、一般機械、自動車部品
出所:
「奨励投資条例」により筆者作成
2.80 年代半ばから 1990 年
1980 年代、パソコンメーカーは、モニターOEM 事業の拡大により液晶製造が製造業と
しての優遇策を受けることになった。この時期のパネル生産に「生産事項奨励項目及標
準」、「策略性工業補助施策」という二つの奨励法が適用された。この二つの内容は、以下
のとおりである。
(1)生産事項奨励項目及標準
1986 年 11 月に台湾政府は「生産事項奨励項目及標準」条例の修正により、指定産業に
投資する会社が税金減免の優遇が享受できるようになった。新しい「生産事項奨励項目及
標準」によると指定事業に投資を行う企業は 5 年間の所得税減免は 15%から 30%までの間
で調整した。当時ウェハーを発展させた連華電子、華邦電子も政策の対象メーカーとなっ
た59。
(2)策略性工業補助施策
1982 年、イノベーション産業を奨励するため、政府はエネルギーの依存が低い、低汚染、
ハイテク、高付加価値、産業関連度が高い、将来性があるという六つの基準で次世代産業
を順に選定し、液晶製造は 1987 年 11 月にこの施策に選定された60。「策略性工業適用範囲」
条例によって「策略性工業」審査に合格した企業が設備を購入する時、台湾交通銀行から
低利ローンを借りることができた。ただ「新興」
「重要」
「策略性」という三つの条件で企
61
業を選別した「策略性工業適用範囲」 の選別において、90 年代初頭の台湾が新産業を絞
るのは難しかった。結局、戦略価値がある産業はすべて新産業として定義され、
「策略性
62
工業」には 140 種類もの工業が含まれていた 。
58
「台湾電子工業研究発展中心」は「台湾電子工業研究所」の前身
「生産事項奨励項目及標準」は 1991 年まで施された
60 「中華民國七十八資訊工業年鑑」資訊政策委員会(1989)45-6 頁
61
黄(1996)26 頁
62
同上
59
29
3.1991 年から 1999 年
1991 年以降、台湾政府は電子産業に関する重要な政策を相次ぎ実施した。1991 年から
「鼓勵民間事業開発工業新産品方法」
、「主導性新産品開発方法」、
「66 項関鍵性産品及零組
件生産技術自立開発」が改訂され、
「高科技第 3 類株式上市方法」が液晶産業の補助を明
記した。
(1)
「鼓勵民間事業開発工業新産品方法」
1991 年 9 月工業局によって実施された「鼓勵民間事業開発工業新産品方法」は民間分野
の研究開発を奨励する措置であり、電子情報と金属機械産業を対象に税金を減免する法律
である。当時、液晶産業(光電)、通信、電子、情報処理が電子情報分野に分類され、金
属機械分野の金属、機械、自動車、大型器械と民生化学の石油化学、食品医療、化学と共
に優遇された。「鼓勵民間事業開発工業新産品方法」により液晶技術の開発に行政院は開
発基金と無利子融資の 3 分の 2 を負担する。台湾液晶メーカーの南亞、碧悠、中華映管、
連友光電が「鼓勵民間事業開発工業新産品方法」の適用対象となった。
(2)
「主導性新産品開発方法」
主導性新産品開発方法が 1991 年 4 月策定された。「主導性新産品開発方法」は産官学の
連携を促すための法であり、メーカーは新製品開発計画書を経済部に提出する必要があっ
た。そして、経済部によって選定されたメーカーが優遇対象になれた。主導性新産品開発
方法は 1995 年に一度改正されたが、1995 年に改正される前に選定された企業については、
新製品の開発経費の 50%開発補助金を政府に申請することができた。1995 年「主導性新
産品開発方法」が改正された後、開発経費は無利子の形式で返済する義務があった63。碧
悠と中華映管は STN-LCD を発展させようとした時期に選定企業となった64。
(3)
「66 項関鍵性産品及零組件生産技術自立開発」
1991 年 11 月、台湾経済部は対日貿易赤字の改善策として「66 項関鍵性産品及零組件生
産技術自立開発」条例を制定した。台湾政府は競争力がある機械部品 66 項目を公表し、
液晶産業がその中に入った。
(4)
「高科技第 3 類株式上市方法」
1991 年から実施された「高科技第 3 類株式上市方法」は台湾 LCD 企業の発展に大きな
影響を与えた。
「高科技第 3 類株式上市方法」によって、設立 3 年未満あるいは収益が赤
字になっても経済部の工業局の審査を通過すれば株式上場が可能となった。当時、液晶産
業への期待が高まったのでメーカーの上場による資金募集もうまく進んだ。達碁科技や
CMO、廣輝がこれによって台湾の株式市場に登場した。
4.2000 年以降
2000 年代に入り、台湾液晶産業の急成長で台湾政府は液晶産業を半導体の次の重点産業
に扱い、液晶産業向けの法令もたくさん制定された。
(1)
「産業高度化促進条例」
2003 年 1 月 7 日、台湾立法院で「産業高度化促進条例」が通過した。
「産業高度化促
進条例」の最大のポイントは 2002 年以降の新しい液晶投資は 5 年の税金減免優遇を享受
できることであった。さらに 2002 年以降にメーカーが外国から輸入する自社用機器、生
産設備によって台湾で製品を製造する場合、輸入税金及び営業税の徴収を免除するという
63孫(1989)45-6 頁
64高(1995)792 頁
30
優遇が追加された。この優遇措置は生産設備が重要な地位を占めていた液晶メーカーにと
って、大きなメリットであった。
(2)
「影像顕示器推動弁公室」
影像顕示器推動辨公室は急速に成長した液晶産業のために設置された産業窓口である。
影像顕示器推動辨公室の主な業務は台湾液晶産業の産官学連携の促進と台湾液晶技術免許
の登録である。影像顕示器推動辨公室によって 2003 年 AKT 研究センターが設立され、台
湾の液晶資料庫が建立された65。
小括
以上、台湾政府の液晶政策の役割を明らかにした。モニターOEM 事業の拡大で 80 年代
に台湾が液晶製造を始めたが、その頃台湾の液晶産業は形成されていなかったので液晶向
けの法令はなかった。90 年代に政府は液晶産業に助成することを表明し、液晶産業が新興
産業の範疇に分類されるようになった。この時期の助成各法令の内容を見ると TFT-LCD
産業は半導体産業とともに同じ優遇を享受できるようになった。工業研究院は 2 回の液晶
開発計画で失敗したが、1991 年以降、台湾政府の液晶産業への優遇が拡大され、中華映管、
連友光電など TFT-LCD の開発を目指すメーカーもサポートを得られるようになった。
第四節 「科学工業パーク設置管理条例」と科学パークの役割
本節では台湾液晶メーカー向けに建設した科学パークの役割と集積効果についてまとめ
る。「科学工業パーク設置管理条例」によって液晶メーカーは地方政府のサポートを獲得
できるようになった。土地の取得と資源の取得がさらに簡単となって、台湾液晶産業の集
積が形成された。
1.「科学工業パーク設置管理条例」の制定
2002 年行政院が公表した「挑戦 2008 国家発展重点計画」には液晶産業と半導体産業の
二兆双星計画が含まれていた。科学パークの建設もこの時期から加速し、台中科学パーク
の設立は 2002 年 9 月に行政院を通過し、2003 年 7 月から AUO の建設が始まった。台南
パークは 2 年 3 ヵ月、台中路竹基地は 1 年半、竹南基地は 2 年かけて科学パークを完成さ
せた66。さらに政府は「科学工業パーク設置管理条例」の制定でパーク内メーカーの設備、
原料、燃料の輸入と関税、営業税、貨物税の優遇策を設定し、メーカーを優遇する投資環
境を作った(図表 15)
。
図表 15 「科学工業パーク設置管理条例」による本国及び外国新産業の優遇政策整理
優遇項目
条文
主な優遇内容
外国企業の投資奨励に
科学パーク条例第 3 条
1.パーク内に投資する外国企業は 100%の株を持てる。
ついて
2. パーク内に投資する外国企業には国内企業と同じ投資優遇
を享受することができる。
技術開発奨励について
科学パーク条例第 3 条
1.企業がパーク内で雇用する台湾研究者の人数は毎年増大す
るべきである。
2.国家科学発展委員会がパーク産業メーカーに投資を行うこ
とができるが、その投資額の上限は 49%となった。
3.その産業が開発した商品を正式に生産する 3 年以内研究者
科学パーク条例第 19 条
の人数は開発チームの 50%を占めるべきである。
税金免除について
科学パーク条例第 17 条
1.パーク事業が国外から輸入した自社用生産設備の輸入税、
貨物税、営業税は免除になる。
2. パーク事業が国外から輸入した原材料、燃料、半製品の輸
入税、貨物税、営業税は免除になる。
3. パーク事業が国外に輸出した製品には輸出税、貨物税、営
http://proj.moeaidb.gov.tw/display/
http://www.ndc.gov.tw/
65台湾平面顕示器資網訊
66行政院國家委員會
31
土地について
科学パーク条例第 19 条
業税を免除できる。
1.科学技術が国家工業発展に大きな貢献をすると認証された
産業は5年内の土地税が減軽される。
出所:
「科学工業パーク設置管理条例」により筆者作成
「科学工業パーク設置管理条例」のもう一つの特徴は地方政府の権限を強化することで
ある。政府政策によって新竹科学パークに集中した半導体産業の発展とは異なって、「科
学工業パーク設置管理条例」により地方政府が科学パークを管理する権限を持つというオ
ープンな方針を策定した。工業区の所有権登記と管理機関は直轄市の台南市、台中市政府
が行うこととなった67ので、液晶産業発展により地方政府と液晶メーカーの繋がりが強く
なった。
以下は現在光電メーカーが集まっている台中科学パーク、台南科学パーク樹谷エリアに
ついてまとめる。
2.台中科学パーク
2002 年完成した台中科学パークには空港、高速道路、新幹線、台中工業区、台中精密機
械園区、工業研究院機械研究所、工業研究院金属研究所や公私立大学など、多数が存在す
る。台中科学パークに AUO は多額の投資を実行した。現在科学パーク内の光電メーカー
は 5 社あり、その中の三つは AUO、AUO 材料部門の鴻達、AUO の ITO 導電ガラスメー
カー宸鴻(TPK)である。精密機械や光電メーカーが集まって台中科学パークは台南に次ぐ
台湾第二の液晶集積地域となっている。実際、ニコンとキャノンの他に台湾コーニングも
台中に工場を設立し、AUO と新型ガラスを開発している。日系材料メーカーの JSR も台
中科学パークの雲林県虎尾エリアに生産基地を建設し 68、台中の周辺に液晶メーカーが集
まっている。さらに 2006 年から日本のガラスメーカーの日本電気硝子が台中港加工輸出
区に工場を建設するのを始め、旭硝子も台湾中部の雲林県斗六市に工場を建設した。2009
年台湾政府が提出した両岸総合経済合作協定(Comprehensive Economic Cooperation
Agreement)によって台湾液晶メーカーが生産したパネルが台中港から福建省廈門市や江
蘇省昆山市など貿易港に直接輸出させることになった。
3. 台南科学パーク樹谷エリア
台南科学パークの構想は 1990 年に提出されたが、建設が始まったのは 1996 年であった。
TSMC や連電など有名な半導体メーカーが入園することを公表したので台南パークは建設
初期から注目が集まった。その中の樹谷エリアは「産業高度化促進条例」によって建設さ
れた69。液晶産業を発展させるため、台南市政府は台南県樹谷を液晶パネル専門パークに
指定し 150 億台湾元の公募資金で建設した。HANNSTAR も最初から工場を設立した。
TFT 型のパネル制作時に環境や人への影響もよく議論されている70。その点について台
67第六十四条
工業主務機関が開発した工業区内の公共施設用地および公共建築物・施設について、特別
認可を得て売却を実施するものを除き、その公共利用に供する土地および公共建築物・施設は、中央工業
主務機関が開発した工業区の場合、その所有権登記は国有、管理機関は経済部とする。直轄市工業主務機
関が開発した工業区の場合、その所有権登記は直轄市市有、管理機関は直轄市政府建設局とする。県(市)
工業主務機関が開発した工業区は、その所有権登記は県(市)の所有、管理機関は県(市)政府とする。
かつ当該各工業区管理機関が代行管理を行う。
68経済日報
2012 年 2 月 8 日付
69 例えば第三十二条の工業起業人は環境保護施設、必要なサービス施設および区画認定した土
地総面積の百分の十を下回らない緑地設置に協力しなければならない。第五十三条の工業起業
人は工業の拡充は経済部認定の低汚染事業に限定するなと低汚染の工業に限られる。
70 YASUHIRO SAKAI&TAKASHI SAKAI (2007)880 頁
32
南科学パーク樹谷エリアは環境を配慮しながら建設され、必要な水資源を得られる特徴が
強く見える。2009 年以降、CMO と合併した後、鴻海精密工業も樹谷科学パークで液晶を
生産した。現在、パークにあるメーカーは CMO と合併した鴻海精密工業の群創光電、日
系のガラスメーカー旭硝子と啓耀光電、奇力、奇景、奇美材料など現在でも奇美グループ
の傘下企業である。台南科学パークが液晶産業を発展させるために開設された産業集積地
域であることが強く見える。
小括
以上、台湾科学パークの役割を明らかにした。90 年代後半から半導体とパソコン産業が
大きな成長を遂げた代わりに産業の成熟と政治の自由化で中央政府の役割が薄くなった。
それ故 2000 年以降、台湾産業の発展方式が変わって来た。液晶メーカーが地方政府と結
合することによって産業集積の形成も外国部材メーカーの分布にも影響した。このように
2000 年代初期から台湾北部が半導体産業、台湾中部がナノメートル技術と光電産業、そし
て台湾南部が光電産業の発展に強いという、各科学パークのそれぞれ特徴を生み出した71。
第五節 台湾液晶産業の変化
本節では 90 年代に活躍した台湾 TN/STN メーカーが没落した原因を見いだし、90 年代
初期の台湾液晶産業の特徴と 2000 年代初期の台湾液晶産業の特徴を比較する。この 10 年
間の台湾液晶産業の全体的な変化を把握した。
1990 年代、台湾の液晶代表メーカーは、碧悠電子と元太電子の 2 社である。
碧悠電子は 1970 年に台湾で設立されたガラス製造加工を行う会社であった。監視カメ
ラ用の CDT(Color Display Tube)とカラーテレビ用の CPT(Color Picture Tube)を生産し
ていた碧悠は台湾パソコン産業の成長によって CRT 事業を拡大し、1988 年株式市場に登
場した。アメリカ液晶会社 Solarex 社の TN 技術を導入したことが碧悠電子が速やかに液
晶産業に参入できた要因であった。一方、Polytronix 社の創立者が台湾人の林文彬であっ
た。林はアメリカテネシー大学の物理博士号を取ってからアメリカ航空宇宙局とアメリカ
国防総省に技術サービスや航空機用電子機器を提供する電子会社 HONYWELL 社に最初
に入社した。液晶産業の将来性を感じ、林は 1980 年 Polytronix 社を創立し小型の TNLCD を生産し始めた72。液晶産業への進出意欲が高かった碧悠電子は Polytronix 社を買収
し、林を碧悠電子の総経理として社内の管理を行わせた。TN 技術を手に入れるとともに
碧悠は、1989 年日本から ITO パネルを導入し、TFT-LCD の試作も始めた。
1992 年、碧悠電子の TN 生産ラインが完成し、月に 16 万枚の生産量でパネルを生産し
始めた。TN 事業の拡大で 1998 年、碧悠電子が台湾新竹新豊で建設した STN-LCD 生産
ラインも稼動した。碧悠電子は小型液晶パネルの専門生産であった。移動通信産業に特化
する中で、一時期碧悠電子のポケットベルパネル世界シェアは日本液晶メーカーOptrex に
次いで第 2 位を占めた。PDA ブームで 1998 年碧悠電子液晶部門の営業額が 28 億台湾元
に達し、1999 年の営業額が 36 億台湾元まで上がった。他に、Motorola、Alcatel、
Qualcomm や Sagem など携帯電話メーカーにも提供した73。2000 年まで碧悠の取引先に
アメリカの携帯メーカーの 3COM、Motorolla、Qualcom があった(図表 16)
。
図表 16 碧悠電子の取引先関係表
収益の単位 :億台湾元
http://www.nsc.gov.tw/(取得日期 2014 年 5 月 30 日)
1999 年台湾東海大学校友会 http://alumnus.thu.edu.tw/story/392/6272(取得日期 2013 年 2 月 15 日)
73 台湾半導体科技
http://csot.acesuppliers.com/meg/meg_1_2402351120051336404900041_4782.html(取得
日期 2013 年 11 月 10 日)
71国家長期科学発展委員会
72
33
取引先
2000 年
2001 年
収益/比率
収益
比率
収益
比率
Palm
27.00
37.34%
44.80
44.23%
Handspring
13.00
17.98%
16.00
15.79%
Alcatel
14.00
19.36%
21.00
20.73%
Sagem
6.00
8.30%
8.00
7.90%
Motorola
6.00
8.30%
8.00
7.90%
6.30
8.71%
3.50
3.46%
その他
72.30
100.00%
101.30
100.00%
合計
出所:科技術産業資訊 http://cdnet.stpi.narl.org.tw/techroom/pclass/pclass_A003.htm
しかし、その碧悠電子は台湾 TFT-LCD メーカーの急成長で 2004 年から業績が悪化し、
2006 年に倒産に至った。その原因はいくつある。まず、投資方向を間違ったことが碧悠電
子が抜かれた最大の理由となった。碧悠電子は STN 大手メーカーで TFT-LCD 業界に進
出して勝利を収めたが、2000 年以後碧悠電子は CSTN パネルを次の世代の主力商品に選
定し開発した。林が創立した Polytronix 社は小型 TFT-LCD 技術を持っていたが、90 年
代後半に TFT-LCD のコストを下げられないと予測し、TFT-LCD と STN-LCD が並存す
る可能性を提唱し続けた。しかし現実は 2000 年から 2004 年の間に TFT-LCD の大型化に
進むことよってパネルの生産コストが持続的に下落した。CSTN の製造は相対的に安いが
それ以外の優位性がなかった。それ故 TFT-LCD の製造が台湾液晶市場の主流になって以
降、碧悠電子の CSTN パネル開発計画は大きな衝撃を受けてしまった。
次に、2002 年から碧悠電子も中国に 100%子会社大陸碧強科技をつくり、技術力が低い
TN-LCD の生産を中国に移した。碧悠電子主力商品の TN-LCD と STN-LCD 事業が後退
していた時に中国メーカーも CRT 製造が増加した。結局全体事業の縮小で碧悠電子の成長
は落ちてしまった。最後に碧悠電子がガラス基板の開発に膨大な資金投入した。他の会社が日
系メーカーとの提携で参入しやすい部品から始めて、自社の力を蓄積していた時、碧悠電子は液
晶産業でいちばん参入しにくいガラス基板を選んで参入した。2003 年 7 月碧悠電子が台湾新竹
に碧悠国際光電を設立し、ガラス基板を試作し始めた。しかし、ガラス生産ラインの開発失敗により
碧悠国際光電は碧悠電子の大きな負担になってしまった(図表 17)。2006 年碧悠電子の総負債
金額は 20 億台湾元に達してしまった。会社発展方向の誤りや技術面の問題が克服できなかった
ため、株主が 2007 年から相次ぎ撤退し、膨大な負債が碧悠電子を倒産に追い込んだ74。
図表 17 碧悠電子生産ライン稼動率
生産ライン
良率
基板寸法
95% 300mm×350mm
第一生産ライン
90% 300mm×350mm
第二生産ライン
ガラス生産ライン
N/A
月産能
6 万枚
6 万枚
300mm×350mm
月産能(面積)
1000 万平方インチ
1000 万平方インチ
正式量産時間
1992 年 4 月
1999 年 3 月
15 万枚
開発期間 2003 年-2006 年
出所:元太投資センター碧悠電子訊息流通(2012 年 12 月)
元太電子は台湾大手製紙メーカー永豊餘が 1992 年 6 月新竹科学パークに設立した液晶
メーカーである。工業研究院の提言によって設立された元太電子の初期構成メンバーは工
業研究院の研究者と政治大学光電研究所の研究者である75。1939 年から紙と段ボールを生
産し始めて、1950 年日本の技術提携でコート紙も生産した元太電子親会社の永豊餘グルー
プは製紙メーカーで、電子産業との繋がりが弱かったので知名度は他のメーカーより低か
った。工業研究院液晶発展計画の研究成果を受け継いたが元太電子の液晶開発は他のメー
カーより遅かった。1994 年 10 月、元太電子が最初の生産工場を新竹パークに設立したが、
74工商時報
75元太科技
2007 年 6 月 21 日付
http://www.einkgroup.com/
34
正式量産したのは 1996 年 10 月となった76。パネル大型化が遅かったことと資金不足のた
め、2004 年元太電子は営業方針変更の決断を下し、電子ペーパー産業に進出することに決
めた。当時電子ペーパー産業の発展が始まったばかりで利潤も少なかったので、大手液晶
メーカーは発展に興味を示さなかった。
2004 年、元太電子はフィリップスの液晶パネル部門を買収し E-Ink を設立した77。
2005 年、フィリップスが電子ペーパーの 技術を元太電子に移転した時、E-Ink はフィリ
ップスの取り引き先も吸収した。その後フィリップスの PDA と電子書籍専用端末の製造
特許を引き継ぐ元太電子が Leading-Edge 技術と反射性モニター技術も開発した。2007 年
元太電子が韓国 Hydis を買収することによって生産能力を 3 倍に拡大し、CMO に製品を
提供するようになった78。リーマン・ショックの頃、元太電子は中国電子書籍専用端末
「漢王」に電子ペーパーを供給したことによって経営を維持した。2009 年後半、液晶市場
から脱落した中華映管、彩晶,龍騰、京東方等の液晶メーカーが電子ペーパー事業に参入
し始めたが、元太電子が 9.7 インチの電子ペーパー生産ラインを持っていたため、他メー
カーの 5 インチ、6 インチ生産ラインより優位となった。その後、元太電子がアマゾンの
Kindle、Kindle touch と Kindle fire など電子書籍専用端末の電子ペーパーを生産し始め、
現在、元太電子は電子ペーパー生産シェアの世界一を占めている(図表 18)。
図表 18 2012 年電子ペーパーの出荷量
メーカー
世界シェア
E-INK
97.4%
LGD
1.4%
AUO
1.2%
出所:「液晶・EL・PDP メーカー計画総覧 2012
年度版」201 頁
以上、90 年代台湾液晶メーカーが没落した理由を明らかにした。碧悠電子と元太電子が
最初に液晶産業に参入した時は、技術面で優位性を持っていたが、2000 年以降、台湾全体
の液晶産業の進化と大量生産により苦境に陥った。日本が注力した TFT-LCD の生産体制
がアメリカの STN-LCD を圧倒したことによって液晶メーカーの勢力消長にも影響した。
半導体産業が発展する頃からアメリカに留学したり研究を行ったりするハイテク人材がた
くさん出た。しかし、彼らは 90 年代から日本を主体にして発展してきた液晶技術に詳し
くなかった。碧悠電子の林は TFT-LCD は主流になれないと断言し、ついに他の液晶メー
カーに抜かれてしまった。元太電子は技術力が TFT-LCD より低い電子ペーパーの開発と
電子書籍のブームで優位性を掌握した。この 2 社のケースはある程度 2000 年以降の台湾
液晶メーカーの変化を反映している。
小括
以上、台湾の液晶産業が 90 年代のアメリカ人材重視の TN/STN の段階から 2000 年代
の日本技術主導の TFT 段階へとどのように移転したかという過程を明らかにした。
パソコン産業の発展と政府の液晶開発計画をきっかけに 90 年代液晶産業が台湾で重視
され始めた。その前に 80 年代台湾が育成した液晶研究者と TFT 技術を開発し続けるメー
カーが台湾液晶産業が立ち上がる養分となった。日本の技術提携により得られた技術力の
他に台湾自体は液晶産業の発展に以下の優位性を持っている。
76同上
77元太科技
78工商時報
http://www.einkgroup.com/
2007 年 5 月 25 日付
35
第一、日本での研究経歴を持つ研究者が 90 年代末台湾 TFT-LCD の技術導入に大きな役
目を果す一方、90 年代日系メーカーから吸収した技術者も熟練の液晶労働力を提供した
第二、1989 年の液晶発展計画は液晶産業の形成への影響が大きかった。この影響で連華
電子(AUO の前身)と中華映管のように TFT-LCD 事業を発展させ続けるメーカーができ
て、台湾の TFT-LCD 事業の先駆者となった。
第三、台湾政府の液晶政策策定は遅かったが、90 年代に入り、液晶産業が半導体産業と
同じ優遇を享受できるようになった。特に液晶産業への助成により、新しい液晶メーカー
の資金の蒐集がうまく進んだ。
第四、2000 年以降、液晶メーカーと地方政府との結合によってメーカーが自社に有利な
投資環境を作れるようになった。
市場の要求によって液晶発展計画が推進された。政府の液晶産業への重視はメーカーが
設立されるきっかけとなって、台湾育ちの液晶研究者がメーカーに入り能力を発揮するよ
うになった。このような教育、産業界、政府政策の相互の影響で、2000 年代、台湾のパソ
コン産業と共に液晶産業も速やかに進化した。これが、台湾が技術提携を完全に発揮しえ
た要因であろう。
一方、1999 年以降、日本液晶メーカーとの技術提携によって TN/STN 液晶メーカーは
衝撃を受けた。ここにアメリカ技術を主体にして発展してきた台湾 90 年代液晶メーカー
の限界が見える。1999 年までに多数の台湾液晶メーカーは TFT-LCD を開発しながら
STN/TN-LCD を生産する方針を打ち出したメーカーが多かったが、実際 TFT-LCD の開発
より STN-LCD モニターを生産することをメインにしていた。その理由の一つは TFT‐
LCD を生産するには高度な技術が必要であり、そして、一部原理性特許が日系液晶メーカ
ーに属しているからである。日系メーカーと提携した台湾メーカーは特許権利金を払う方
式で TFT-LCD 技術を導入しながら国内外に新たに特許を申請し始めた。一方、台湾
TN/STN メーカーは資金の制限と液晶事業を発展する時に回避できない特許問題で、日系
メーカーと技術提携した台湾液晶メーカーに負けた。第三世代の TFT-LCD の製造から液
晶産業に参入する新しいメーカーと比べ、2000 年以降でも小型 STN-LCD しか生産でき
なかった台湾 TN/STN メーカーは競争力を失ってしまった(図表 19)
。結局、台湾 STN
大手液晶メーカーの元太科技、碧悠電子、南亜、中華映管や台湾フィリップスが 90 年代
初頭から資金を投入し、TFT 液晶市場への進出を準備したが、液晶産業の日台提携ブーム
で古い液晶メーカーは半数消えた。2000 年以降、台湾液晶産業の代表メーカーは元太科技、
碧悠電子から、半導体とパソコン事業で成功した台湾電子製造グループによって設立され
た液晶メーカーの達碁、連友、中華映管、HANNSTAR に変わったのである。
図表 19 2000 年台湾液晶メーカーSTN-LCD 生産ライン現況
メーカー
パネル型式
基板寸法
生産能力(K/月)
TN
300*350
20
勝華
36
TN
STN
STN
STN-color
STN-color
STN
STN
STN-color
STN-color
STN-color
STN-color
STN
STN-color
TN
TN
STN
STN-color
STN-color
STN
STN
TN/ STN
TN/ STN
STN
STN
300*350
20
300*350
15
300*350
15
300*400
15
370*480
15
300*350
15
碧悠
300*350
15
370*480
15
300*400
10
南亞
370*470
10
370*470
8
中華映管
凌巨
370*470
10
370*470
10
355*355
15
光聯
355*406
15
400*500
10
370*400
15
訊倉
370*480
15
昌益
300*370
15
國喬
385*300
10
全台
220*336
20
台湾エプソン
220*336
20
370*400
10
400*300
45
高雄日立
(生産ライン三本)
出所: 財経知識庫
http://www.moneydj.com/KMDJ/Report/ReportViewer.aspx?a=9d2bd8b9-513c-4529-b050-2295d9df891e 79
79宝来証券編集(2002)
(取得日期 2014 年 10 月)
37
第三章 日系部材メーカーの台湾進出と部品メーカーの変化分析
液晶パネルの製造技術が技術移転を通じて東アジアに広がってから液晶産業にある程度
のモジュール化が起きた。台湾を例にすると、台湾企業はバックライトとドライバ IC の
製造技術に優れていたので、2000 年代にコア部品の海外進出と材料技術の進化もあって、
台湾や韓国の液晶メーカーに部品が採用されるようになり、自給率が上昇している。その
代わりに競争力を失った日系部材メーカーも現れてしまった。現在部材市場の変化と競争
は更に激しくなっている。本章のポイントは日台間の液晶産業と半導体産業の事例を取り
上げることによって、日系部材メーカーの海外進出と技術伝播の関係を明らかにすること
である。そのため、第一節では日台を中心として、70 年代から 90 年代まで日系部材メー
カーの台湾での発展を分析する。日系部材メーカーの台湾進出の歴史をまとめることによ
って日系部材メーカーが台湾液晶産業の発展に与えた影響を分析する。第二節では、台湾
の液晶産業を中心にして、2000 年代日系メーカーとの関係の変化を部材別にまとめる。台
湾と日本の液晶部材メーカーの盛衰、東アジア液晶部材市場の現状を合せ、現在の台湾部
材メーカーの特徴を明らかにする。まとめに日台液晶部材メーカーの相違を明らかにし、
日本の液晶部材メーカーと液晶メーカーとの関係とは異なることを示す。
第一節 台湾の液晶工程発展と日系部材メーカーの台湾進出
第一節では日台を中心として日系部材メーカーの台湾進出の歴史と半導体部材と液晶部
材との繋がりを分析し、台湾の電子産業の発展が台湾液晶産業に与えた影響を分析する。
1.70 年代台湾進出を始めた日系液晶部材メーカー
台湾の半導体産業は 70 年代から既に始まっていた。注目すべきは、台湾の半導体産業
が発展を始めた時、中央研究院が技術の処りどころにしたアメリカの材料メーカーだけで
なく、当時アジアでもっとも半導体産業に強かった日本メーカーも早い時期に台湾に参入
していたことである80。信越化学が設けた台湾信越、小松製造所と台湾プラスチック、亜
太投資が設けた台湾小松、アメリカヒュ―ス電子材料が設置した中徳材料等、日本やアメ
リカメーカーが、どちらも 70 年代から台湾の半導体メーカーに材料やテストの技術を供
与し始めた(図表 20)
。その中の菱生精密は日本の三菱電機と台湾の大生電子が共同出資
した会社で、1970 年に台北で設立された。台湾通用器材 IT(IT 封止)も事業を開始し、
台湾最初の IT 封止メーカーとなった81。
図表 20 台湾半導体前工程の発展沿革と日本前工程材料メーカーの台湾進出関係時系列表
年代
発展
1971 年
台湾徳州儀器 TI 発光ダイオード 台湾 RCA RCA 華万
1973 年
菱生精密(三菱) 万邦電子 トランジスタ―
1974 年
集成電子 発光ダイオード 台湾琭旦 岡谷 トランジスタ―
1975 年
台湾通用器材 TI (IT 封止) 菱生精密(三菱) 万邦電子 華旭が台湾に進出
1976 年 3 月 アメリカ RCA 社と「集積回路技術移転契約書」に署名
4月
19 名の技術者が RCA 社で研修
1977 年
集積回路モデル工場完成
1979 年
電子工業研究発展センターが電子工業研究所に改組
1979 年
連華電子準備処の設立
1980 年
連華電子が工業研究院最初のスピンオフ企業として設立
1986 年
張忠謀氏が 3 代目院長に就任
1987 年
台湾積体電力製造が設立 スピンオフ企業 2 番目
1989 年
台湾光罩が設立した スピンオフ企業 3 番目
1990 年
光電周辺設備技術研究発展センターが光電工業研究所に改名
1991 年
次世代集積回路実験室完成
出所:台湾工業研究院 https://www.itri.org.tw/の資料により筆者作成
80大西(1994)176 頁
81菱生精密工業
http://www.lingsen.com.tw/
38
日系部材メーカーの韓国と台湾への進出によって台湾と韓国の半導体産業の発展が早ま
った。70 年代から日系部材メーカーが韓国、台湾の半導体メーカーにフォトマスクやフィ
ルムを提供し、海外業務を始めた。日系部材現地生産の深化が進むに従って、液晶ブーム
により業務を拡大した(図表 21)。以下で日系半導体部材メーカーの海外進出によってア
ジア、特に台湾の液晶産業の発展スピードが加速したことを検証したい。台湾と韓国に進
出している日系メーカーの発展過程に見られる日系部材メーカーの現地化と後発国がキャ
ッチアップする段階における日系企業の役割を確かめておこう。
図表 21 2007 年半導体や液晶部品の世界シェア
生産品目
企業名
半導体用体フォトマスク
大日本印刷
凸版印刷
JSR
半導体用フォトレジスト(材料)
液晶カラーフィルター
大日本印刷
凸版印刷
液晶用偏光板
住友化学
日東電工
液晶用偏光板保護フィルム(材料)
コニカミノタル
液晶用ガラス基板
液晶感光性スペーサー(材料)
液晶用位相差フィルム(材料)
液晶用着色レジスト(材料)
世界シェア
約 20%
約 13%
約 30%
約 30%
約 40%
約 12%
約 50%
約 20%
富士写真フィルム
約 80%
旭硝子
約 30%
日本電気硝子
約 10%
JSR
約 80%
JSR
約 24%
日本ゼオン
約 15%
JSR
約 80%
出所:大木博已(2010)88 頁
2. 90 年代台湾進出を始めた日系部材メーカー
半導体産業と液晶産業を比較する時、生産設備の購入や企業提携の事例で証明すること
は難しいが、両産業の前工程部分を対照すると材料を提供したメーカーの一致性が高いと
いう特徴がある。本項では半導体産業と液晶産業、二つの産業の生産工程と材料メーカー
の動きを整理し、そのつながりを検証する。これによって韓国と台湾など半導体製造に強
みをもつ国だけが短い期間で液晶産業を成長させることができた理由を見い出したい。電
子・ディスプレイ・光学の各々の発展プロセスを見るとまず電子材料事業が 80 年初頭か
ら 90 年代半ばに至る日本の半導体産業の急速な発展と共に、他の二事業を大幅に上回る
形で急成長した。ただし、96 年における汎用 DRAM 価格の大暴落を起点にして、電子材
料事業売上高が一転して 2000 年まで数年間停滞した。日本の半導体メーカーが世界市場
における競争力を弱化させていったことによって液晶材料部門の重要性が高くなった。以
下には韓国と台湾に進出している主要な材料メーカーをまとめる。日本にも半導体と液晶
の両方を手がけるメーカーは多い。90 年代半導体材料を作り、液晶領域に進出した大手メ
ーカーは現在、東京エレクトロン、JSR 社、東京応用化学(TOK)の三社である。
(1)東京エレクトロン
東京エレクトロンは半導体関連生産設備事業を初め、コンピュータ設備事業や電子商品
部門及び FPD 関連生産設備事業や物流機械など複数の事業に進出し、開発と製造とも有
名な日本で第 1 位の生産装置メーカーである。2002 年の時点でレジスト塗布装置が半導体
産業に幅広く応用されていたので、最初は半導体製造装置の一つとして統計されていた。
39
2002 年通期の東京エレクトロンの売上を見てみると、東京エレクトロン連結売上が
417,825 百万円、半導体部門の売上げは約 300,000 百万円を占めた。そのうち日本市場で
の売上は 96,724 百万円で台湾市場での売上は 60,473 百万円であった。2005 年になると
半導体部門の売上げは 300,000 百万円を超えた。日本市場での売上は 112,454 百万円で台
湾市場での売上は 110,646 百万円であった82。さらに FPD 製造装置は、短期間に 75,000
百万円の売上げに達した。2000 年代半ばまでに液晶市場の活況による旺盛な投資で液晶部
門の売上が半導体部門の売上の7割に上昇した。
(2)東京応化工業
東京応化工業は 1998 年 1 月に台湾の新竹と苗栗に東応化社を設立し、台湾に直接進出
した。2001 年、東京応化工業のフォトレジストの売上は全体の 34.3%、21,705 百万円を
占めた83。さらに東京応化工業がフラットレパネルディスプレイ、パッケージモジュール
分野での製造材料の需要増加、特に第 5、第 6 世代と投資の進む液晶ディスプレイ分野で
の大幅な需要拡大に対応するため、2003 年 10 月に生産能力の増強を決定し、台湾東応化
社の生産能力は倍増した。その後一時アジアに流行した SARS(重症急性呼吸器症候群)
恐慌の影響で業績が落ちたが、立ち直るのが早かった。さらに台湾液晶産業の成長で台湾
の業績が伸びた。2008 年のリーマン・ショックまで一時売上は 254,972 百万円を超えた84。
(3)JSR
同じ日本の化学材料大手である JSR は、同社が 100%出資で設立した子会社の JSR マ
イクロ台湾(JSR Micro Taiwan)の台湾雲林県中部科学工業園区にある新工場を 2002 年
に立ち上げることを決めた。台湾雲林虎尾に工場の建設地を選んだ理由は雲林県が当時台
湾二大液晶メーカーAUO と CMO の中間地であったからである。JSR は東京エレクトロ
ンと東京応化工業より遅く台湾に進出するが、その投資金額が注目された。2005 年 6 月台
湾における JSR 第 1 期計画の新工場総投資額は約 30 億円であり、2005 年 7 月から本格
的な商業生産を開始し台湾液晶メーカーに対する製品供給を開始した。その後 JSR が台
湾・雲林県の「中部科学工業園区」内にある液晶パネル向け材料工場の第 2 期工事に着手
した。既に生産中のカラーフィルター向け着色レジストに加えて,カラーフィルター向け
保護膜や感光性スペーサーの台湾現地生産を 2007 年秋に開始した。第 2 期工事の総投資
も 30 億円に達した85。台湾工場は JSR 四日市、日本 JSR Micro 九州(Kyushu)、韓国 JSR
Micro Korea に次ぐ第四の液晶パネル材料供給拠点となった。JSR は、着色レジストをは
じめ、保護膜、感光性スペーサー、配向膜、偏光板用位相差フィルム、ディスプレイ用コ
ーティング材料などを台湾現地で生産した。
(1)から(3)より、液晶装置設備メーカーと異なって、東京エレクトロンなどのメーカーは
90 年代後半から半導体設備を提供するために台湾に進出し始めた。液晶産業の急成長がき
っかけで 2000 年代前半から、各社はディスプレイ部門を設置し、中国支社を設立した企
業もあった。それと共に 2000 年初頭の時点からすでに半導体の発展によって、台湾支社
の存在感が欧州と米国を越える傾向が見えた。その後台湾の位置づけがますます重くなり、
主要メーカーの多くも台湾支社を設立し、台湾に進出した(図表 22)
。2003 年以降、台湾
の製造装置の売上だけで各メーカーの売上は各社全売上の 25%以上の割合を占め、さらに
2004 年以降日本国内を越え、もっとも大きなマーケットとなった。2007 年のリーマン・
2006 年次報告書
2000 年次報告書
84東京応化工業 2008 年次報告書
85 JSR 株式会社ニュース JSR、台湾のディスプレイ材料工場第 2 期工事着工-生産能力増強と現
地サポート
82東京エレクトロン
83東京応化工業
40
ショックから立ち直ったのも早かったのである。台湾液晶産業の前工程技術が液晶に応用
でき、部材メーカーが効率的に発展できた理由の一つとなっている。
図表 22 日系部品材料メーカーの台湾進出
項目
主要メーカ
ー
露光
ニコン
清浄、現像、エッチン
グ、レジスト剥離、清浄
清浄、測定
成膜
台湾支社
重要記事
キヤノン
Nikon
Precision
Taiwan Ltd.
台湾キャノン
東芝
ウォルシンリュウワ社
2000 年後半に液晶産業の不況によって販売
台数が減った
2011 年、台湾キヤノンを設立。規模は世界
最大
液晶産業発展の早期段階から投入している
ガラス基板検査装置 / ウエットプロセスシス
テム / 洗浄装置 / ガラス基板露光装置 / PS 高
さ測定装置 / 基板重ね合わせ装置 / モジュー
ル組立システム等、幅広く進出している
ア ル バ ッ ク 現地法人台湾成膜光電 前工程用検査装置、大面積高輝度有機 EL パ
成膜
(股)有限公司を設立 ネルと製造プロセスを発表、抵抗率透明導電
膜、三層有機 EL 膜形成技術、MRAM 用
TMR 膜形成用超高真空スパッタリング装
置、単層カーボンナノチューブ製造装置、装
置 CNT 成膜装置 CNT 成膜装置の開発
出所:2009 年度~2012 年度「液晶・PDP・EL メーカー計画総覧」により筆者編集
日立
日立 DECO
小括
以上、本節において、日系部材メーカーの役割を明らかにした。液晶産業と半導体産業
の生産プログラムの比較と日系部材メーカーの進出状況を見ると、日系部材メーカーの台
湾電子産業への影響力も分かる。第一章で示したように半導体の生産プロセスと液晶の生
産プロセスの類似度が高い特徴があって同じ材料も使っている。日系半導体部材メーカー
と液晶部材メーカーは重っており、一部の材料メーカーは 70 年代から既に台湾進出を始
めていた。これが日系部材メーカーが 90 年代から速やかに台湾液晶部材事業を開始でき
た理由の一つとなった。この結果、長年の半導体発展の技術蓄積が台湾液晶産業キャッチ
アップの基礎となり、カラーフィルターなど半導体事業と関係がある部材の内製化のスピ
ードが急速に進んだ。
第二節 2000 年代に急速に変化する部材メーカー市場
本節では、台湾液晶市場を中心に 2000 年代前半と 2000 年代後半の日系部材メーカーと
台湾部材メーカーの変化をまとめる。部材供与メーカーの勢力変化と東アジア液晶産業全
体の動きを合せることによって各国部材メーカーの現状を把握する。現在、20 年の発展を
経て液晶製品の発展方向に変化が起こっている。大型テレビ市場が飽和となった 2000 年
代後半、液晶産業を刺激するため、日系液晶メーカーが 3D テレビを打ち出したが、その
ブームの終わりは早かった。その後、部材の進化により高い画質の競争が始まり 2K(解像
度 1920×1080 画素)と 4K (解像度 3840×2160 画素)モデルの解像度が高い液晶テレビの販
売が始まっている。しかし、近年、家電分野の大型液晶テレビ生産よりも 2000 年後半か
ら始まった通信端末の競争によって中小型液晶パネル付きの電子製品市場が現在、液晶メ
ーカーの主戦場となっている。一方、タッチパネルや有機 EL など応用も多様化し、液晶
部材メーカーの競争も激しくなっている。それ故、各国液晶部材メーカー業界に様々な変
化が起こっている。本節は台湾と日本の液晶部材メーカーを中心に、液晶部材メーカーの
現状と変化を検証する。
1.カラーフィルター
2011 年以降、中小型の液晶製品の高画質化ブームも始まった。特に 2012 年以降、HD
41
解像度のノートブックや Retina 技術を搭載するアップル製品をはじめ、解像度が 300DPI
を越えるモデルが市場の標準スぺックとなった。画質と深く関係 したカラーフィルターの
進化によって、一度は液晶メーカーの内製化で売上が落ちたカラーフィルター専門メーカ
ーが、重要性を取り戻した。一方、タッチセンサーも現在カラーフィルターメーカーの発
展方向の一つとなっている。タッチセンサーの技術は iPhone 発売以来、幅広く通信端末
に応用されている。カラーフィルターの工程とタッチパネルのレア工程の類似度が高い特
徴を持っているので、現在中小型のタッチパネル向けの on-cell のカラーフィルター開発
を行うメーカーが多数ある。
(1)台湾カラーフィルター業界の変化
現在台湾の大手カラーフィルター専門メーカーは達虹、台湾凸版、統宝光電、和鑫光電
4 社があって、2009 年から集中する傾向が見える。2011 年達虹が AUO グループに編入さ
れ、会社名を宸鴻先進技術股分有限公司に変更した86。宸鴻はカラーフィルターを生産し
ながら第 3.5、4.5 世代のタッチパネルセンサーの生産も行っている。それ以外、AUO グ
ループは資源整合のため、3.5、4.5、5、6 インチの生産ラインを持っている凸版印刷の現
地法人台湾凸版 39.7%の株を購入した。現在、AUO では台湾でいちばんのカラーフィル
ター生産能力を握っているメーカーとなっている。台湾凸版も AUO を通じ、中国メーカ
ーにもカラーフィルターを提供している。
同じカラーフィルターメーカーの統宝は 2009 年鴻海精密工業の傘下の群創光電に合併
された。HANNSTAR 傘下企業の和鑫光電も HANNSTAR から独立し、2010 年からタッ
チパネルセンサーの生産に専念している。メーカーの動きとともに台湾液晶メーカーの陣
営分けが進むことによって、台湾カラーフィルター業界の統合が起こっている(図表 23)。
図表 23 2008 年と 2012 年の台湾カラーフィルターメー変化の比較
年度別
2008 年
2012 年
経営形態
各社経営
撤退
製品分野
カラーカラーフィルター事業
タッチパネル
事業
メーカー名
和鑫
達虹
凸版国際
和鑫光電
光電
彩光
N/A
世代
第5
第 5 世代
第 5 世代
世代
(原展茂
光電)
N/A
N/A
生産能力
80 万枚
16 万枚
メーカー現状
独立
経営
AUO の
傘下企業
日系メー
カー
全社タッチパ
ネル事業に移
行
AUO 系統
カラーカラーフィルター
事業
達虹
凸版国際彩光
第 5世
代
第 3 世代、第
4.5 世代、第 5
世代、第六世代
AUO のパネル生産能力に
統合された
AUO
AUO が台湾凸
体系に 版最大な株主に
整合さ なった
れた
タッチパネル事業
宸鴻先進技術
第 3.5 世代、第
4.5 世代
18 万枚
達虹を吸収し
AUO が投資した
新しいメーカー。
AUO のタッチパ
ネルを提供する
出所:各年度の「液晶・EL・PDP メーカー計画総覧」と「台湾顕示器産業与応用年鑑」と新聞記事により筆者作成
(2)東アジアカラーフィルター業界の変化
大型カラーフィルターの生産を中心に発展してきた日本メーカーは、2000 年代から東ア
ジア進出を開始したが、台湾と韓国液晶メーカーの部材内製化の成功により一時苦境に陥
った。業務後退により、凸版印刷と住友化学をはじめ、日本の大手カラーフィルターメー
カーは現在生産規模を縮小しながら発展方向を修正している。
2009 年凸版印刷はシャープと連携し、240 億円を投資して、大阪堺市に工場を建設した。
しかしシャープの業績悪化と日本の液晶産業不況の影響で、凸版の堺工場と三重県工場の
86達虹
2011 年次報告書
42
生産量が減少してしまった。現在凸版印刷は中小型パネル向けのカラーフィルターを開発
しながら、滋賀県の 2.5 世代のカラーフィルター生産ラインをタッチセンサーの生産ライ
ンに切り替え始めている。2012 年、凸版印刷は、三重工場をジャパンディスプレイに売り
出し、カシオは新しい会社オルタステクノロジーを設立し、中小型の有機 EL の開発を始
めている87。大日本印刷は 2008 年にモバイルカラーフィルター部門を独立させ、中小型カ
ラーフィルターの事業を始めた。現在、大日本印刷は黒崎、大利根、三原、三つの中小型
カラーフィルター工場を持っている。亀山と北九州工場はシャープに製品を提供しながら、
2012 年から大日本印刷は新技術の曲面カラーフィルターの開発を始めた。住友化学は大量
に対韓国投資を行ったが、サムスンがカラーフィルターを全面に内製化することになった
ので住友化学は重要な顧客を失ってしまった。
2.偏光板
1 枚のパネルに、二枚の偏光板が必要なので、他部材より偏光板の需要は多い。近年、
メーカーを中心に発展してきた台湾や韓国の偏光板事業も成長を遂げた。2012 年、LG が
出光との提携で、偏光板 27.4%のシェアで、日東電子の 25.9%と住友化学の 23.6%を越え
た。一方、AUO 傘下企業の明碁材料が 8.0%で世界シェア第 4 位、奇美グループの傘下企
業の奇美材料は 6.5%のシェアで第 5 位を取り、合わせて 14.5%のシェアをとった。発展
のスピードは遅いが、AUO と旧 CMO が投資した材料メーカーも材料の開発に成果が出て
きた。確かに現在、台湾と韓国の液晶メーカーも偏光板の生産技術を持っているが、シー
ル剤とフィルムを重視する偏光板は、日本の強さが発揮できる部品で、偏光板事業では現
在でも日系部材メーカーのいちばん強い分野である。日東電子と住友化学二大偏光板メー
カーのシェアを合わせれば、日本の偏光板シェアは常に世界の約半分を占めている88。
(1)台湾偏光板業界の変化
明碁材料、奇美材料は近年大きな成長を示している。1998 年 AUO グループは材料メー
カー明基材料を設立したが、偏光板材料の開発は 2005 年からであった。2007 年、台湾桃
園の新しい生産ラインの完成により明基材料の偏光板事業を拡大し、AUO グループは偏
光板技術を強めながら買収を行い、自社偏光板規模を拡大した。2009 年、危機に陥った台
湾偏光板メーカー力特光電を対象に、明碁材料が台南の前工程生産ライン設備を買収し、
2 本の偏光板生産ラインを 6 年間租借するという契約を結んだ89。それによって明碁材料
の偏光板生産能力は、奇美材料を抜いて台湾一の偏光板部材メーカーになった。現在、明
碁材料は AUO と中国液晶メーカー龍騰に偏光板を提供して、3D 光学膜、タッチパネル技
術、OCA 膜(Opital Clear Adhesive)分野にも進出している。
奇美材料は奇美グループが 2000 年に設立した偏光板メーカーである。群創光電との合
併で液晶パネルから撤退したが、奇美グループによる奇美材料の経営が続いている。鴻海
精密工業の大型液晶テレビの製造に牽引され、HANNSTAR と中華映管に偏光板部品を供
給し90、奇美材料の業務が成長し続けている91。現在、奇美材料は台南科学パークに四本の
偏光板前工程生産ラインと、中国寧波に二本の後段生産ラインを持っている。奇美材料は
2011 年から 90 億台湾元の資金に、蘇州昆山に前工程と後工程の生産ラインを建設し、中
国業務を拡大している。現在、奇美材料は、中小型の IPS 型偏光板を量産すると同時に、
http://www.toppan.co.jp/news/2010/03/newsrelease1041.htm(取得日期 2013 年 11 月 20
日)
88精實新聞 2012 年 5 月 14 日付
89工商時報 2009 年 12 月 30 日付
90工商時報 2013 年 6 月 28 日付
91台湾通信 http://www.taitsu-news.com/front/bin/ptdetail.phtml?Part=top13022006(取得日期 2013
年 2 月 20 日)
87日本凸版
43
OCA 膜の製造も行っている。このようにカラーフィルターだけでなく偏光板の統合も台湾
で起こっている。
(図表 24)
図表 24 2008 年と 2012 年の台湾偏光板部品メーカー変化比較
年度
2008 年
別
AUO CMO 各社経
経営
各社経営
各社経
各社経
形態
営
営
営
会社
力特光電
台湾日
住華光
達信
奇美
台湾日
名
東
電
科技
材料
東
TFT/LCD LCD
LCD
LCD LCD
LCD
製品
ライ
ン
N/A
N/A
8,000
N/A
8,000 カット
生産
枚
能力
工場
AUO
所属
CMO
所属
2012 年
各社経営
AUO 系統
住華光電
達信
科技
LCD
LCD
年産量
12000
M²
力特光電
TFT/LCD
AUO のパネル生産
能力に統合された
CMO
系統
奇美
材料
TFT
8,000
枚
AUO
が投
資し
た会
社
AUO によ
製品
って台南
を鴻
生産ライ
海精
ンの設備
密工
を買収、
業に
賃借契約
供給
を作る
出所:各年度の「液晶・EL・PDP メーカー計画総覧」と「台湾顕示器産業与応用年鑑」、新聞記事により筆者作成
メー
カー
現状
日本技術
提携を受
けた代表
的な台湾
企業
日系部
品メー
カー
日系部
品メー
カー
日東電
子世界
二位
住友化学の
シェア
は世界三位
(2)東アジア偏光板業界の変化
偏光板の製造には材料と塗料メーカーのサポートが必要なので、日系メーカーの偏光板
生産は日本国内に集中するという特徴がある。現在日本の代表的な偏光板メーカーは東レ、
日東、住友化学、サンリツがある。東レが 2000 年代前半、尾道と亀山に前工程工場に生
産ライン 13 本も建設した。日東は 2012 年までに亀山事業所に 97 億 5600 万円を投資し、
現在、亀山事業所、広島尾道事業所、堺工場の 3 ヶ所を持っている。日東電工は、現在、
台湾日東、韓国日東、日東電工蘇州、シンセン日東などの子会社を持っているが、海外に
は後工程工場しか建てなかった。それに対して、住友化学は、中国無錫の住化電子材料科
技とポーランドの後工程工場がある。他にも住友化学は、日本愛媛工場、韓国東友ファイ
ンケム、台湾現地法人の住華 3 つの拠点を持ち、年間合計1億 2000 万m²の偏光板生産能
力をもっている。さらに 2013 年から住友化学は中国偏光板メーカー盛波との提携を初め、
OLED 照明事業にも進出し始めた。サンリツは現在韓国の LG に偏光板製品を提供し、韓国
入善の生産ラインでは月 300 万平方メートルの偏光板を現在生産している。一方、偏光板事業
が拡大となり、2013 年から LG は、中国南京に前工程生産ラインを建設し、廣州に後工程
生産ラインの計画を立て、積極的に中国を進出している。
3.ガラス基板
2000 年代末、液晶産業の下落と再編で日本、台湾、韓国に新しいガラス基板の生産ライ
ンの建設計画が立たなくなり、ガラスの成長が一時停滞してしまった。2012 年からガラス
基板の世界生産量がまた徐々に回復しているが、ガラスメーカーの競争でガラス基板の単
価は下落してしまった。ガラス基板メーカーの収益が前より減少したので、営業黒字を確
保するため、ガラスメーカー各社は新型ガラスを開発し続けている。大型液晶テレビの市
場が飽和している現在、ガラス基板生産ラインを建設し続けているのは中国の液晶メーカ
ーしかない。コーニングが開発した強化ガラス「GOGILLA GLASS」はスマートフォン
ブームで大きな成功を収めた。現在、曲面ガラスと有機 EL 向けのガラスなど、新しい技
術の開発がガラスメーカーによって進んでいる。
(1)台湾ガラス業界の変化
44
ガラス基板の製造技術はアメリカと日本メーカーに握られ、ガラスは台湾が液晶産業で
いちばん弱い部品である。現在台湾で台湾コーニング、旭ガラス、日本電気硝子が製造窯
を建設し、ガラス基板を製造している。大型パネルの生産の中心が中国に移動したため、
台湾基板製造窯が生産するガラスも転換しつつある。コーニングは台湾でいちばん力を持
つガラスメーカーである。中小型向けのガラスを生産するため、2012 年からコーニングは
台南工場で新型タッチパネルと携帯向けの強化ガラス「GOGILLA GLASS」の生産に転
換し始めた。コーニングは台湾と韓国に子会社を設立して事業を開始し、2000 年代後半か
ら当地の大手液晶メーカーと様々な形式の連携でガラスの研究を進めている。例えば、コ
ーニングコリアンとサムスンは、現在、曲面パネルと有機 EL 用のパネルを共同開発して
いる。コーニング台湾と AUO との交流も進み、2013 年、コーニング台湾と AUO は、開
発した 5 インチの HD 有機 EL ガラス「Corning Lotus Glass」を公表した。
日系メーカーの旭硝子と AvanStrate は、台湾に基板製造窯を建設し、ガラス生産を行
っている。奇美グループの誘致により、2000 年初頭から旭硝子は台湾で基板製造窯の建設
を開始した。2009 年の時点で、旭硝子は台湾第 7.5 世代の基板製造窯 4 座を持っていたが、
2012 年に、旭硝子の台湾基板製造窯は 6 座まで成長した。現在旭硝子は台湾雲林と台南樹
谷科学パークに基板製造窯と後段研磨ラインを持ち、主な製品を群創に提供している。
AvanStrate は台南に第 7 世代のガラス基板製造窯 5 座を持ち、生産したガラスを群創と
HANNSTAR に供給している。日本電気硝子は台湾に基板製造窯を持っていないので、ガ
ラスを日本から輸入し、AUO や群創に提供している。台湾発のガラスメーカーが存在し
ないため、ガラス基板業界は、カラーフィルターと偏光板のように、業界の整理と合併が
起きていない。2000 年代前半から行われているメーカー間のガラス供与システムが続いて
おり、コーニングや旭硝子等の陣営分けの状況も明瞭である。(図表 25)
図表 25 2008 年と 2012 年の台湾ガラス部品メーカー変化比較
年度別
2008 年
経営形態
会社名
世代
メーカー
現状
各社経営
コーニ
ング
第 7.5
世代
第 8世
代
基板製
造窯を
22 座持
ってい
る。
旭硝子
第 7.5
世代
台湾に
基板製
造窯 4
座を持
ってい
る。
日本電気硝
子
海外から輸
入
AvanStrate
加工ライン
4 本を持っ
ている。
第七世代の
基板製造窯
の建設は他
社より遅か
った。
第 4 世代
第 5 世代
2012 年
各社経営
コーニン
グ
第 7.5 世
代
第 8 世代
台南工場
に新型タ
ッチパネ
ル強化ガ
ラス
ゴリラガ
ラスの生
産を移
転。
日本電気硝
子
海外から輸
入第 7 世代
旭硝子
AvanStrate
第 7.5 世
代
第 7 世代
加工ライン 4
本を持って
いる。
台湾に 6
座の基
板製造
窯持っ
てい
る。
台南に 5 座
の基板製造
窯を持つ。
群創と彩晶
に供給して
いる。
雲林県
にある
製造窯
が群創
に提
供。
出所:各年度の「液晶・EL・PDP メーカー計画総覧」と「台湾顕示器産業与応用年鑑」、新聞記事により筆者作成
(2)東アジアガラス業界の変化
大型テレビの後退とガラス業界の停滞で、2010 年代初頭まで日本のガラス 3 社の業績が
低迷した(図表 26)。それ故、これまで海外業務をあまり展開してこなかった日本のガラ
スメーカーも、積極的に新技術を開発しながら中国進出を検討し始めている。
45
図表 26 2010/2011 年日本ディスプレイ用ガラス 3 社の四半期推移 単位:億円
年度別
2010 年
2011 年
半期別
第一四半 第二四半 第三四半 第四四半 第 一 四 半 第二四半 第三四半 第四四半
期
期
期
期
期
期
期
期
941
985
897
912
918
894
762
738
旭 ガ ラ
ス
832
903
816
814
752
775
720
646
日 本 電
気硝子
710
760
546
614
650
610
633
604
コ ー ニ
ング
出所:谷泉編集「液晶・EL・PDP メーカー計画総覧 2012 年度版」 292 頁
日本コーニングは 2007 年から「GOGILLA GLASS」を試作して以来、その技術が注目
されている。「GOGILLA GLASS」は高硬度で軽いなどの特徴をもっているので、2000
年代後半から通信端末やタブレット、保護フィルムなど幅広く使われている。日本コーニ
ングも「GOGILLA GLASS」を改良し続け、2012 年に「GOGILLA GLASSⅡ」、2014
年「GOGILLA GLASSⅢ」まで進化させた。コーニングは「GOGILLA GLASS」で収益
を増加させたが、他に有機 EL 向けのガラス「LOTUS」
、曲面ガラス「WILLOW」と薄型
ガラス「EAGLE」シリーズなどでガラス業務を多角的に展開している。一方、コーニン
グはサムスンの無錫ガラス製造窯に中小型有機 EL 向けガラスを開発すると同時に自社の
優位性を維持するため、2013 年 8 月、サムスンと共同開発したサムスン精密(Samsung
Corning Precision Materials)43%の株を全て買い戻した。2013 年、コーニング子会社の
中国コーニング独資の北京生産ラインが完成し、中国液晶メーカーにガラスを提供してい
る。コーニング「GOGILLA GLASS」の影響を受け、旭硝子は携帯用パネル「AN Wizus」
を発表し、薄型ガラス「Dragontrai」の開発を行っている。現在、旭硝子は、日本国内に
尼埼、高砂工場の統合計画を進めている。海外進出では、2011 年、洪水の影響でタイ中部
の Rojana 工業団地にあった旭硝子工場の操業が停止した後、旭硝子は中国に新昆山にガ
ラス研磨ラインを設置した92。日本電気硝子も 2013 年、廣州廈門に後工程生産ラインを建
設する計画を公表した。各ガラスメーカーの投資計画を見ると、ガラスメーカーは中国で
新世代ガラスの製造をする傾向が見える。
4.バックライト
発光パーツとしてバックライトは液晶プロセスとの繋がりが少ないという特徴がある。
液晶産業は全体的に 2000 年代後半から下降していったが、バックライトが唯一の例外の
部品となった。その理由は技術の突破によって従来の CCFL(冷陰極管)型の発光方式か
ら LED の発光方式に変更したからである。発光元に LED を導入することで、液晶テレビ
やモニターなど液晶製品の軽量化と薄型化が実現されたため、液晶テレビの体積と厚さも
大幅に減った(図表 27)
。
図表 27 LED バックライトの普及率
2007 年
2008 年
ノートパソコン
モニター
TV
2009 年
2010 年
2011 年
2012 年
3%
16%
62%
91%
99%
100%
―
―
1%
10%
41%
72%
―
0.2%
2%
21%
50%
71%
出所:谷泉編集「2012 年度液晶・EL・PDP メーカー計画総覧」298 頁
(1)台湾バックライト業界の変化
LED バックライトが主流になっている現在、部材進化の成功で 2011 年に台湾バックラ
イトの生産は 5,176.3 百万米ドルに達し、2013 年 5,599.6 百万米ドルとなった。液晶テレ
ビとノートパソコン製造専門の台湾バックライトメーカーが、All-In-One バックライトの
92日経
PB http://www.nikkeibp.co.jp/article/news/20120511/308405/(取得日期 2012 年 5 月 11 日)
46
開発に成功し、現在バックライトメーカー各社は独自技術を発展させている。台湾のバッ
クライトの製造は 2000 年代前半の時点で既に成熟し、現在、世界シェアの 5 割を越えて
いる。瑞儀、中光電、輔祥が台湾の代表的なバックライト専門メーカーである。瑞儀が開
発した LGP 技術(Light Guide Plate)によってバックライトを 0.6mm の薄さまで圧縮
できた。現在アップルの MacBook Air と iPad シリーズに使われている軽量化バックライ
トは瑞儀が生産したものである。LGP 技術の成功で現在瑞儀はノートパソコンのバックラ
イト業務にも進出している93。中国のスマートフォン会社小米へのバックライト供与によ
り、中国事業が拡大しており、瑞儀は全サイズのバックライト事業を行っている。中光電
と輔祥も All-In-One バックライト「Hinge-up」の量産化で業務が拡大している94。
バックライト大手メーカーの輔祥と奈普は AUO にバックライトを提供しているが、
AUO 自体はバックライトメーカー景智を持っている。景智は AUO と台湾電子メーカー
Qisda が 2010 年に設立したバックライトメーカーである。CCFL 型と LED 型のバックラ
イトを両方生産する景智はソニー、サムスン、中国メーカーにもバックライトを提供し始
めた。2011 年景智は AUO グループの達運精密との合併によって生産能力が拡大され、
2013 年景智は新竹科学パークに移転し、LED バックライトの専門メーカーとなった。鴻
海精密工業に所属する群創は古くからバックライトの製造技術を持っている。大億はかつ
て、CMO にバックライトを供給していたが、鴻海精密工業が CMO を合併することによ
って大億と CMO との契約関係は終了となった。スタンレー電気株式会社の技術提携を受
けた大億は、現在、日本と韓国向けのバックライトを生産し、2012 年から中国寧波に子会
社を設立して、生産能力を強化しつつ企業形態を転換し始めた。現在、大億は自動車部品
を製造し始め、バックライトの比重を減らしている 95。台湾バックライトメーカーはそれ
ぞれ液晶連携先を持っているが、カラーフィルター、偏光板、ガラスと比較すると、発光
パーツとしてのバックライトは液晶プロセスとの繋がりが少ないという特徴がある。AUO
と鴻海精密もバックライト事業を持っているが、バックライト専門メーカーは、パソコン
メーカーと液晶メーカーの両方に部品提供しながら独立した経営の状況が多く見られる。
それ故メーカーの統合や合併がバックライト業界には見えていない(図表 28)
。
図表 28 2008 年と 2012 年の台湾バックライトメーカー変化比較
年別
2008 年
2012 年
経営形態
会社名
各社経営
中光電
瑞儀
輔祥
大億
各社経営
中光電
瑞儀
輔祥
大億
経営方式
独立経営
独立経営
独立経
営
独立
経営
独立経営
独立経営
AUO 系統
CMO
の傘
下企
業。
中国生産ライ
ンを増やし、
台湾工場の規
模を縮小して
しまった。
自社の技
術でアッ
プルの、
iPad を生
産。
Ultrabook
の hingeup の量産
化を進め
ている。
元 CMO 傘
下の群創か
ら独立
鴻海精密と
の契約関係
はない。
バックライ
トの比重が
減少。
メーカー
現状
台湾メーカ
ー、ソニ
ー 、サム
スン、 LG
に製品を提
供。
台湾メー
カー、サ
ムスン、
LG に製
品を提
供。
AUO
と強い
繋がり
を作っ
た。
出所:各年度の「液晶・EL・PDP メーカー計画総覧」と「台湾顕示器産業与応用年鑑」、新聞記事により筆者作成
(2)東アジアバックライト業界の変化
90 年代以降パソコンの組み立て事業を台湾に委託してから、日本のバックライトメーカ
93財訊周刊オンライン
http://udn.com/NEWS/STOCK/STO3/8183252.shtml#ixzz2hmNkZVKw(取得日
期 2011 年 5 月 14 日)
http://www.coretronic.com/products03-1.html
95経済日報 2013 年 7 月 4 日付
94中強光電
47
ー技術は CCFL で止まってしまった。パソコン事業や周辺機器の開発より日本のバックラ
イト応用開発は LCD 照明に集中しているため、バックライトを CCFL 型から LED 型に
切り替えて、いちばん衝撃を受けたのは CCFL 製造専門の日系メーカーであった。日本の
CCFL 専門メーカーのパナソニック、NEC ライティングが市場から撤退し、CCFL の製
造で日本シェア 1 位を取った東芝も生産量を減らし、LED バックライト工程に切り変えた。
現在日本にある LED バックライトは、オムロンと茶谷産業、ライツ・アドバンスト・テ
クノロジーの専門メーカー3 社がある。韓国の大手バックライトメーカーは Heesung
Electronic 、 NewOptics 、 Taean の 3 社 で あ り 、 そ の 中 は Heesung Electronic と
NewOptics が LG に製品を提供している。Taean は AUO からの提携を受け、All-In-One
バックライトを開発するとともに自社ブランドの液晶テレビを打ち出した。
5.ドライバ IC
ドライバ IC の製造は、バックライトの製造より液晶パネル製造との繋がりがさらに薄
く、液晶産業より半導体製造のエレクトロニクス産業に近い。それ故ドライバ IC の製造
で台湾メーカーの存在感は大きい。
(1)台湾ドライバ IC 業界の変化
材料面に弱い反面、台湾電子メーカーは半導体ドライバ IC を製造するノウハウを応用
し、最初から液晶ドライバ IC の製造能力を持っている。台湾ファブレス企業が 80 年代末
から液晶ドライバ IC の生産を開始し、世界 IC ファウンドリランキングを見ると台湾半導
体メーカーの半数は液晶ドライバ IC を生産していることが分かる(図表 29)
。台湾企業が
半導体産業から液晶産業に進出している事例が多い。台湾経済部のデータによると連電
(UMO)、連詠(UMO 傘下企業)、茂矽(MOSEL)、華邦(Winbond)、奇景光電などが台湾
の主な液晶ドライバ IC メーカーである。その中の、UMO、連電(UMO)、連詠(UMO 傘下
企業)、茂矽(MOSEL)、華邦(Winbond)は液晶産業や半導体産業の両方に進出してい
る。DRAM 中心に展開した台湾パワーチップも、近年は LCD ドライバ IC を製造してい
る96。以下は主に台湾液晶産業と緊密な関係を持っているドライバ IC メーカーの現状を整
理する。
図表 29 2012 年の台湾ドライバ IC メーカーの生産項目
単位:億台湾元
メーカー名
売上
製品項目
773 携帯電話、光学ドライブ
連發科技
270 液晶パネルドライバ
連詠科技
255 液晶パネルドライバ
奇景光電
245 フラッシュメモリコントローラ
連群電子
203 ネットワークコントローラ
瑞昱半導體
83 IC 設計
創意電子
80 電源管理 IC
立綺電子
78 液晶パネルドライバ
瑞鼎科技
74 DVD、STB、テレビ向けコントローラ
凌陽科技
73 メモリー、DRAM
鈺創科技
出所:2011-2012 年版「半導体産業計画総覧」と
台湾ドライバ IC メーカー各社のホームページと資料より筆者作成
2012 年世界 IC ファウンドリランキングを見ると上位を占めるファブレス企業の連詠、
奇景、華邦、凌陽が液晶ドライバ IC の製品を投入している。その中の連詠科技はファブ
レス大手企業連電 UMC のスピンオフ企業であり、UMC は半導体製造専門メーカーで、
連詠科技は主に液晶ドライバ IC を生産している。AUO が株主の連友光電も UMC の関連
96台湾経済部電子組工業局影像顕示産業辨公室
http://proj.moeaidb.gov.tw/display/
48
企業なので AUO と UMC 二大メーカーが連詠科技を通じて連携を行っている。一方、奇
美グループ傘下の奇景光電はドライバ IC メーカーで、CMO の合併案により奇景光電は鴻
海精密工業と連携している。奇景光電は 2011 年以降、CMO から独立し、プロジェクトの
開発と小型の携帯用ドライバ IC など、新しい分野の技術を開発し続けている。2012 年、
奇景のドライバ IC の世界シェアは 12%で第三位となり、中小型ドライバ IC は 10%で第
四位を取った。2013 年 Google が公表した Google Glass は奇景光電が開発した微型顯示
技術 LCoS(反射型液晶)を使用した。それ以外の華邦と凌陽はドライバ IC の専門メーカ
ーとして、液晶パネル向けのドライバ IC の生産をしながら、ノートパソコンとテレビ向
けコントローラのドライバ IC の設計も行っている。他のメーカーも液晶産業でなく電子
産業を中心に製品を提供している。ドライバ IC は液晶パネルに必要パーツだが、実際は
電子産業の一環として独自な位置を持っているので、部品会社の整理と合併は発生してい
ない。
(2)東アジアドライバ IC 業界の変化
電子産業を主に発展させた台湾にとって、ドライバ IC メーカーの支援を受けるのは簡
単だが、現在液晶技術と材料開発を発展の方向にしている日本の電子メーカーのドライバ
IC 生産は減少となっている。日本のドライバ IC 大手メーカーのルネサスエレクトロニク
スは 2013 年に業務終了となり、現在、日本のドライバ IC メーカーはルネサスエスピード
ライバとラピスセミコンダクタ 2 社しかない。その中で、中小型ドライバ IC 生産向けの
ルネサスエスピードライバの製品の 85%は台湾のパワーチップに委託生産している97。
6 液晶生産設備
台湾はパネル量産化能力とノウハウを持っていなかったため、90 年代後半まで台湾の
TFT-LCD 産業は形成されなかった。2000 年以降、台湾液晶メーカーは技術の購入でよう
やく生産ラインを建設した。その後、2000 年代後半、半導体生産設備メーカーの液晶事業
参入によって、台湾の液晶設備の自給率が上昇し、台湾生産設備メーカーの製造能力が強
くなった。
(1)台湾液晶生産設備業界の変化
2000 年代半ばの台湾の生産設備の製造レベルはまだ低かった。生産プロセスにおいて複
雑な生産設備の製造に参入すると製品の良率に影響すると、当時の台湾生産設備メーカー
が判断した結果、検査装置と自動化装置の製造に参入するメーカーが多かった。当時台湾
生産設備の生産はガラス清浄、切断、偏光板貼り付け、点灯検査 などの設備に集中し、他
の液晶生産設備は日本から輸入していた。この頃の台湾メーカーは成膜、レジスト塗布な
ど、高度な生産設備を製造する能力は持っていなかった(図表 30・31)
。
図表 30 2006 年台湾液晶生産設備メーカー業務範囲
97泉谷編集(2012)308 頁
49
アレ
イ工
程
台湾
メー
カー
日本
メー
カー
ガラス
清浄
亜智
群録
敘豊
揚博
韶陽
芝浦電
気
成膜
清浄
レジス
ト塗布
露光
現像
エッチ
ング
レジス
ト剥離
ULVAC
Unaxis
芝浦電
気
日立
DECO
TEL
Nikon
TEL
TEL
TEL
東京応
化
Canon
芝浦電
気
芝浦電
気
芝浦電
気
YAC
島田理
島田理
化
化
出所:中華民国台湾投資通信 vol.127 2006 年 3 月号 4 頁
図表 31 2012 年台湾液晶生産設備メーカー業務範囲
セル
ガラス
配向膜
清浄
シール
スペー
工程
清浄
印刷
サ散布
日本
メー
カー
亜智
群録
敘豊
揚博
韶陽
芝浦電
気
日立
DECO
日本写
真
亜智
群録
敘豊
揚博
韶陽
芝浦電
気
日立
DECO
液晶注
入
真空注
入
信越、日立テクノ、富士通
芝浦電
気
Nisshin
飯沼
島田理
化
芝浦電
気
日立
DECO
日立
DECO
Takano
島田理
化
切断
均豪
群録
飯沼
島田理
化
測定
東捷
日立
DECO
台湾
メー
カー
清浄
島津
常陽光
学
常陽光
学
日立テ
クノ
丸紅
偏光板
貼り付
け
群録
韶陽
億尚
点灯検査
Takatori
Toray
大崎
Tokyo
Cathode
東捷
群録
Micronice
JP
出所:台湾液晶生産設備各社ホームページと新聞記事により筆者作成
2006 年以降、北儒、均豪、志聖などの新しいメーカーの参入により、台湾の生産設備メ
ーカーが進化してきた(図表 32)
。2000 年代後半、液晶設備メーカー群録を吸収された代
わりに、均豪と志聖の新参メーカーが液晶事業を開始した。均豪と志聖 2 社が液晶生産設
備に参入できた理由は、2 社とも 70 年代から半導体生産設備の生産を行っていたからであ
る。IC 封止、LCD 検測設備、LED 製程設備、焼成炉装置、乾燥装置、PV/Solar 生産設
備金型、風力発電など複数の液晶設備を生産する均豪は台湾液晶生産設備メーカーの中で
もっとも業務範囲が広い設備メーカーであり、AUO の関連企業であった。均豪は露光、
レジスト塗布、成膜やプロセスなど、パネル製造と新分野の設備製造に資材を投入し、設
備メーカーの北儒は生産設備以外に太陽光電池の製造も行っている。志聖は 1998 年、日
立化成から技術提携を受けた台湾資本の設備メーカーである。STN-LCD の時代から液晶
製造設備に参入した志聖は、2005 年、台湾晶研科技を合併しながら業務を拡大し、TFTLCD とプラズマ設備を製造した。一方、下降する台湾設備メーカーもあった。CMO と繋
がりが強かった亜智が、CMO の後退で 2008 年ドイツのモジュールメーカーに買収された。
鴻海精密工業は現在設備メーカーの東捷と連携している。
図表 32 2012 年の台湾大手液晶生産設備メーカー
50
メーカー
均豪
設立時間
1978 年
2002 年
(東華半導体と合併)
2006 年
(群録自動と合併)
志聖
1978 年
北儒
2005 年
発展設備
IC 封止
LCD プロセス自動化
及び検測設備
LED 製程設備
焼成炉装置
乾燥装置
PV/Solar 生産設備金型
風力発電
露光工程
レジスト塗布
清浄工程
LCM 検査設備
焼成炉装置
乾燥装置
切断工程
成膜工程
特徴
最初は半導体産業の金型
を生産していた。
位置
新竹科学パーク
台中科学パーク
台北土城
1999 年から TFT 産業に
参入
1989 年日本部材メーカー
HI-TECH と技術提携開
始
1997 年中国進出開始
2006 年 TFT に参入
新竹科学パーク
台中科学パーク
台北林口
太陽光電池の製造
台南科学パーク
出所:各社ホームページと新聞記事より筆者作成
現在、台湾北部に 70 社、中部 30 社、南部 40 社の生産設備メーカーがある。北部液晶
生産設備メーカーは新北市工業区に集まって、中部と南部の生産設備メーカーは新竹、台
中科学、台南科学パークのエリアに工場を設立している。この現象は第二章に整理した科
学パークの設立により形成された、台湾中南部の液晶集積地域の特徴と矛盾している。し
かし、これは均豪と志聖など、半導体産業の集積地域の生産設備メーカーが成長してから
液晶生産設備メーカーに変身した証拠となっている(図表 33)
。
図表 33 台湾液晶生産設備メーカーの地理分布
エリア
代表メーカー
北台湾
均豪 志聖 帆宣 広運 盟立 由田 陽程 宏瀬
中台湾
旭東 高僑
南台湾
北儒 億尚 東台 東捷
出所:刘編集(2013)8-11 頁
(2)東アジア液晶生産設備業界の変化
2000 年代後半から、液晶産業の停滞と液晶不況の影響で、液晶設備メーカーは後退して
しまった。2009 年以降、生産設備メーカーだけでなく、専門メーカーの業績も一時悪くな
った。例えば、露光工程設備を製造するニコンとキヤノンと成膜設備を製造する主力メー
カーの ULVAC、芝浦電気や TEL(東京エレクトロン)の成長が鈍化した。芝浦電気は、
2010 年からの中国市場の大型パネル設備の投資を延期すると発表した。露光工程設備のニ
コンとキヤノンが大型パネルの投資減速の影響で、液晶用露光装置の販売実績が悪くなっ
た。液晶生産設備の市場規模は、2011 年の生産額が 2010 年世界より 13%減少し、11,000
百万米ドルになったが、2012 年さらに 47.3%減少し、6,000 百万米ドルを下回ってしまっ
た。現在、日本メーカーは、まだ世界の液晶生産設備シェアの七割を占めている 98。韓国
メーカーに牽引される有機 EL 生産設備の拡大も、従来の液晶設備メーカーが一時下降す
る理由の一つとなった。現在有機 EL に参入している設備生産メーカーは TEL とキヤノン
トッキ(キヤノンの子会社)などの既存メーカーがあり、その他に、日立造船、大日本ス
クリーン、アルバックと、2007 年設立のデジタルサイネージも有機 EL 事業を開始した99。
台湾と韓国の生産設備メーカーの新興と日系部品メーカーが相次ぎ、有機 EL の研究に投
入したことによって、液晶生産設備業界の後退はしばらく続くであろう。
小括
98刘編集(2013)7-15 頁
99泉谷編集(2012)311、312 頁
51
電子部品の製造は得意だが、材料メーカーの支援が少ない台湾メーカーは材料と生産設
備の製造にまだ時間がかかるであろう。工程能力指数(CP 値)を追求する傾向が強いた
め、台湾メーカーは材料面で LG 化学ほどの成長ができなかった。しかしコア技術を持っ
ていなくても、日本部材メーカーの供与と提携で、台湾液晶メーカーは足りない分野を補
完し液晶産業を立ち上げた。実際、液晶部品の供与により東アジアの液晶技術の拡散にも
日本部材メーカーが重要な役割を演じた。以下、第三章で分析した日本部材メーカーの特
徴についてまとめる。
以上、現在の日本と台湾部材メーカーの役割と変化を明らかにした。液晶部品を分析す
ると、カラーフィルターや偏光板、ガラス、液晶生産設備など光学と材料を重視する部品
とバックライトやドライバ IC など電子を重視する部品がある。日本は光学類の部品に絶
対的な優位性を持っているが、半導体とパソコン産業の後退で、電子類部品の製造力が落
ちている。それに対して台湾の電子部品の製造は、80 年代の OEM から EMS 事業まで製
造技術をグレードアップし、長年の発展を経て現在、ガラス基板以外のパーツの自給率が
上昇している。台湾の液晶部品メーカーの収益性は、日系部品メーカーより薄いが、電子
類部品の技術と量産化で優位を取っている。10 年の発展を経て、台湾液晶メーカーは中国
進出によって市場規模が強くなった上にパネルの大型化と部材生産で大きく成長した。韓
国に比べて、台湾の液晶材料メーカーの進出はやや少なくなっている。その理由は韓国が
設備と材料の自給率を意識的に高めることを目指しているからである。韓国は自国の検査
設備を強化し、台湾の部材メーカーも 2000 年代初頭に比べ自給率が上昇しているので、
日本部材メーカーの海外進出は 2000 年代より若干難しくなるかもしれない。
1.日本の大手部材メーカーは液晶メーカーと同じレベルの発展史と技術力を持つ
日本の部材メーカーは、現在でも世界の電子産業で重要な位置を占めている。化学老舗
メーカーのゼオン、総合商社の丸紅、信越など、半導体部材で有名な企業をはじめ、旭硝
子、露光装置製造で有名なニコンやキヤノン、印刷外車で凸版印刷、大日本印刷などのメ
ーカーは世界中の液晶産業を支えている。偏光板の発展で成功した LG と AUO も、現在
出光興業の力に頼っている。しかし、これは部材メーカーが何十年の発展を経た結果であ
る。例えば旭硝子は 1907 年に設立され、凸版印刷も明治時代から発展しデジタル部材に
事業を移行した。資源を統合し、パネルを生産する韓国メーカーは、部材メーカーの吸収
と合併で、一つのグループで液晶部材事業を発展させている。台湾の部品メーカーとは異
なる、大手日系部材メーカーは日本の液晶メーカーに部品を提供すると同時に、自社の技
術でカメラ、ガラス、化学など、それぞれの領域で不動の地位を持っている。大手専門メ
ーカーの液晶産業参入により、日本は現在でも一部の部材面で圧倒的な優位性を持ってい
る。それに対して、台湾韓国の液晶メーカーは、一社の力で全ての材料分野の製造技術を
極めているのではない。したがって、サムスンは積極的に有機 EL を開発しているが、ア
メリカコーニングの協力を求めなければならない。AUO は自社で材料を生産しても、15
年間で世界シェア 10%にも至らない。強力な部品メーカーのサポートを得ることは、これ
までの日本の液晶メーカーが強い理由の一つである。
2. 部材メーカーは海外進出と同時に技術の伝播者として液晶技術移転を加速させる
液晶メーカーに依存する必要がない日本部材メーカーは、海外進出によって東アジアの
液晶産業全体に影響を与えた。2000 年代以降から日系部材の海外事業はさらに拡大した。
部材メーカーの海外進出で技術移転のスピードが加速され、日本液晶産業の発展に影響す
る一方、部材メーカーのグローバル化にはっきりとした影響がある。2000 年代の部材メー
カーの動きの変化を見ると、日本の液晶メーカーよりも部材メーカーが、積極的に海外進
出したことが見える。2000 年代前半、部材メーカーとの提携によって、海外メーカーが速
52
やかに製造プロセスを掌握した部品の代表例は、カラーフィルターであった。そして、
2000 年代後半、液晶産業の不況で今まで日本で主に事業を行っていた日系ガラスメーカー
と偏光板メーカーは東アジアの投資を拡大している。例えば光学設備生産のニコン以外、
2010 年以降キヤノンも 2011 年に 110 億台湾元を投資し、嘉義大埔美精密機械パークに東
アジアの拠点を作っている100。旭ガラスは、液晶メーカーとの提携事業を行うコーニング
と競争するため、台湾だけではなく、中国への投資を増加させたなど日本の部材メーカー
は 2000 年代末から海外で活躍している事例がたくさんある。
それに比べると、日本の液晶メーカーの投資方針がいちばん強い時でも、生産ライン投
資は日本国内に限られる場合が多かった。2000 年代台湾が生産能力を高めるため、相次ぎ
中国に進出した時にも中華映管と CMO のような失敗事例があった。しかしこれによって
液晶メーカーの中国工場生産体制が完成した。そのため、2000 年代後半、液晶不況となっ
ても AUO の生産能力拡大が順調に進行できた。Chung も冒険家精神を持って世界に飛び
出したことが台湾と韓国が液晶産業で成功した要因と述べた101。一方、シャープは 2009
年中国の熊猫光電との連携で古い生産ラインを中国に移したが、進出時期が遅く、中国新
興液晶メーカーとの競争に苦闘している。液晶メーカーより積極的に海外拠点を作る部材
メーカーは、早い段階から当地メーカーと技術提携しながら事業を始め、そのことにより
台湾と韓国の液晶部材製造も加速された。そして部材メーカーのグロバール化と共に、東
アジア液晶産業の進化が加速することになったである。
100台湾通信「カメラ用レンズの台湾キヤノン、嘉義工場の建設開始」
http://taitsunews.com/front/bin/ptdetail.phtml?Part=top11092701(取得日期 2011 年9月 27 日)
101 Chung(2014)93 頁
53
第四章 液晶産業の再編と台湾液晶産業の特徴
2000 年代前半、液晶製造技術の成熟と販売好調で東アジアの液晶メーカーは大型化競争
を開始した。その中でいちばん成長率が高かったのは台湾メーカーであった。政府の対中
国投資政策の開放で一時台湾メーカーの液晶パネル生産能力とシェアが世界一となった。
しかし、各メーカーの競争激化によって 2006 年から液晶パネルの需給バランスが次第に崩
れ始めた。2008 年のリーマン・ショックによって多数の液晶メーカーが経営破綻に陥った。
衝撃を受けた各液晶メーカーは 2009 年から大型パネル製造の大量投資を中止し、企業再
編を開始した。一方、2007 年以降アップルの iPhone によって急速に普及し始めた、中小
型液晶製品が販売の主力商品になった。90 年代の液晶テレビを主体とした発展モードと異
なって、現在、液晶産業は激しく変化している。
本章では 2000 年代後半から起きた液晶産業の再編と世界の液晶産業の構造変化及び技術
成熟期に入る東アジアの液晶メーカーに起こった変化について議論する。まず、本章の第
一節では、2008 年リーマン・ショック以降の日本、韓国、台湾東アジア諸国液晶メーカー
の再編状況をまとめる。第二節では液晶不況の中で AUO と鴻海精密工業が台湾液晶産業
の代表メーカーに成れた理由及び現在の台湾液晶産業と 80 年代に台湾液晶事業を発展さ
せようとしたパソコンメーカーを比較することによって台湾液晶産業の位置付けを明らか
にする。第三節では、中小型液晶製品の普及によって重要となっているタッチパネル技術、
有機 EL、電子ペーパー技術の発展の現状を掴みながら現在の台湾液晶メーカーの優位性
を検討する。最後に、80 年代後半から 2000 年代の各国液晶メーカーの発展方向の変化を概
観し、それらを比較しながら液晶産業の変化について考察する。
第一節 液晶専門メーカーが消えた 2000 年代
本節では 2008 年リーマン・ショック以降の台湾液晶市場の変化と各国液晶メーカーの
再編状況をまとめ、現在の各国液晶メーカーの現状と位置付けを整理する。
1.2000 年代前半の液晶産業の急速な成長
1999 年から日本の液晶メーカーの対台湾投資が急速に進んだことによって、台湾の
TFT-LCD 生産が飛躍的に成長し始めた。さらに 2002 年から台湾政府の対中国投資解禁と
Ga-N 系 LCD の開発成功で台湾の液晶パネルシェアが大きく拡大した。この時期から台湾
の液晶メーカーは日本の液晶部品メーカーからの調達比率を増加させながら液晶パネルを
安定的に生産するようになっている。TFT メーカーの技術進化の影響を受け、STN メー
カーの淘汰が加速する一方、台湾の液晶メーカーの勢力図が変わり始めた。2003 年、台湾
LCD 産業の総生産額は 328 億台湾元に達した上に、2004 年、パネルは大量にアメリカ、
日本、中国、マレーシアに輸出され、台湾 LCD 産業の生産額は 450 億台湾元まで増えた
102。同年「二兆双星国家発展重点計画」103という政策が発表され、政府は 1 兆円の公的資
金で液晶産業の発展をサポートすると公表し、台湾の液晶産業が注目され始めた。液晶パ
ネルの急速な進化が 2000 年代前半台湾の TFT-LCD 産業の進化を促した。1999 年第 3 世
代パネルが市場に出たが、技術革新によって 2004 年には第 5 世代のパネルの開発に成功
した。液晶の技術転換期に参入した台湾液晶メーカーは、速やかにタイミングに合わせた
生産ラインの新建設がうまくいったことによって、シェアは急速に拡大した。
102台湾産業研究所編集(2005)226 頁
「二兆双星」とは 2002 年から経済部工業局が主導した 2006 年の台湾における生産額が 1 兆元
台湾元に達すると見込まれる半導体及びディスプレイ産業(二兆産業)と将来の台湾の有望産
業と期待されるデジタルコンテンツ及びバイオテクノロジー産業(双星産業)への国家産業育
成計画である。
103
54
さらに 2003 年から 2005 年までは台湾全体の電子産業の景気が良い時代であった。アメ
リカの対イラク戦争と SARS の終息によって、2002 年後半から台湾の半導体産業とパソ
コン周辺産業も活気を取り戻した。パソコン産業をはじめ、民生用電子製品と当時新しく
興った携帯電話部品市場に牽引されたことで、台湾電子製造業の 2004 年の市場規模は
2003 年より 18%伸び、5552 億台湾元に達し、ピークを迎えた104(図表 34)
。電子産業の
好調により当時台湾液晶メーカーも大量の資金で新しい生産ラインを建設したり、既存ラ
インのグレードアップに資金を投入し生産面を整えた。
図表 34
2003 年、2004 年台湾 LCD 産業の輸出比較 単位:億台湾元
2003 年
2004 年
328
450
電子産業総生産額
213
307
LCD 輸出額
102
132
輸入額
出所: 2004 年、2005 年度「機械工業年鑑」のデータより筆者作成
2.2000 年代後半リーマン・ショックによって下落した液晶産業
2006 年台湾液晶産業の市場規模は 157 億台湾元に達し、パネルも第 6 世代から第 7.5
世代へと進化した。しかし、日本、韓国、台湾の液晶生産力の急拡大で 2006 年以降、液
晶市場は成長の鈍化が始まった。対中国投資の解禁政策が進展しなかったため、台湾液晶
メーカーが中国のライン建設によって獲得した中小パネル市場も少しずつ韓国メーカーに
奪取され始め、2006 年から苦境に陥った105。
2006 年からパネルの値段が下落し始めたため、各メーカーは新世代パネル工場の建設を
抑え始めた。台湾の AUO は第 6 世代と第 7.5 世代生産ラインの生産能力を強化し、第 8
世代の建設を停止した。当時、赤字になった CMO は第 7.5 世代の生産ラインの稼働を中
止し、中華映管と HANNSTER は第 5 世代、第 6 世代生産ラインの稼働を維持し、新しい
投資計画を見送った。韓国の LG は第 7.5 世代と第 8 世代生産ラインの建設を中止し、サ
ムスンも第 8 世代生産ラインの建設を延期することを公表した。結局、第 8 世代、第 10
世代の生産ラインを建設し続けたのはシェアを取り戻そうとしたシャープだけとなった。
さらにメーカーが投資を抑え、液晶産業全体の発展が停滞していた時、リーマン・ショッ
クが起きて液晶産業に大きな衝擊与えた。この影響で 2000 年代前半に始まった液晶パネ
ルの大型化競争が終わり、これまでの膨大な資金による生産ラインのグレードアップで苦
況に陥ってしまった液晶メーカーは、連続赤字で相次ぎ破たんに追い込まれてしまった。
2009 年から東アジアの液晶メーカーの再編と統合は始まり、液晶業界に大きな変化が起
こった。以下の項で各国液晶メーカーの再編状況をまとめ、現在の液晶メーカーの現状と
位置付けを整理する。
3.韓国液晶メーカーの再編
液晶パネル世界シェアの 1 位を長年取っているサムスンがリーマン・ショックによって、
受けた衝撃は、他の液晶メーカーより軽かった。液晶産業の後退でサムスンは、液晶事業
をサムスン電子から独立させることを決め、2009 年にサムスン LCD を設立した。自社技
術の開発と市場戦略を合わせるため、サムスンは携帯電話、タブレットで、有機 EL 技術
を発展させることを決めた。この時期にサムスンとソニーの関係も変わり始めた。2000 年
代前半からサムスン電子は、日本側の連携先のソニーを抜いて、テレビ市場で独走してき
たが、サムスン電子とソニーは大型パネルの供給関係を続けていた。しかし、液晶市場の
低迷でサムスン側は、既存戦略では競争力の確保が難しいと判断したことによって、二社
104台湾産業研究所編集(2004)225 頁
105台湾産業研究所編集(2006)265 頁
55
の連携体制が変化し始め、結局ソニーはサムスンとの合弁法人から手を引いて、サムスン
電子からの供給関係を解消した。
4.日本の液晶メーカーの再編
80 年代、日本は電子産業の強かった時代からメーカー間の開発競争によってポケットテ
レビやノートパソコンパネルも生産していた。そして 90 年代以降、日本の液晶発展の重
心は家電の大型テレビに移行した。さらに 2000 年以降台湾が TFT-LCD の製造に力を入
れた時、日本の液晶メーカーは TFT-LCD、プラズマテレビの陣営に分かれ、資源の分散
した大型テレビ新しい映像競争が起こった。最終的に TFT-LCD パネルが大型テレビの主
流になったが、勝者のシャープとソニーも台湾、韓国との激しい競争にさらされている間
に液晶不況となった。さらに企業を主体に競争し合う日本の液晶メーカーは自社ブランド
で自社の液晶事業を支える特徴が強かったため、パネルの在庫率が増えるとメーカーの大
きな負担となった。リーマン・ショックで起きた資金面の問題と新興国液晶事業の拡大に
よって、日本の液晶メーカーは 2000 年代後半に撤退し始めた。
生産ラインの稼働率を維持しながら量産化システムを確立し続ける台湾と韓国メーカー
に対して、日本のメーカーは 2008 年から液晶事業の撤退を開始した。AV 映像メーカーの
ビクターによるテレビ市場からの撤退をはじめ、日系液晶メーカーの液晶テレビの国内生
産撤退が相次いだ。さらに 2010 年から日本の複数の大手液晶メーカーが苦境に陥ってし
まった。ソニーは、2009 年から 2011 年までの 7 四半期連続の赤字によって、2011 年末、
サムスン電子との合弁事業を解消し、2012 年から生産縮小を公表した。日立製作所も
2012 年 1 月、液晶テレビの自社生産を停止すると発表した。さらに 2011 年、東日本大震
災時のエネルギー供給問題で電子産業全体の製品供給にトラブルが起こった。電力制限で
一時パネル供給が縮小となったため、シャープは 2011 年 4 月亀山工場と堺工場の大型液
晶パネル減産を発表し、NEC、日立、東芝など電子メーカーは不足する部品を各自の海外
提携会社に求めた。日立化成はドライバ IC を台湾メーカーに委託し、日立ディスプレイ
ズパネルはパネルの製造を連携の CMO に委託した106。ソニーは 2014 年 7 月、テレビ部
門を完全子会社として運営することを公表した。パナソニックもプラズマの生産を停止し
た。生き残れたシャープは他の液晶メーカーと異なって、2013 年から IPS パネルをアッ
プルに供与するとともに自社の新型パネルの IGZO を中国の新興携帯メーカー小米に提供
し始めた。
現在日本の液晶産業は、シャープを代表する液晶メーカーと日本政府によって設立され
た液晶連携組織「ジャパンディスプレイ」の二つの流れに分かれた。日本の液晶メーカー
の力を結集するため、産業革新機構(INCJ)はメーカーと交涉しながら 2011 年 9 月 31
日、ディスプレイ事業を統合する「ジャパンディスプレイ」の基本合意を発表した。「ジ
ャパンディスプレイ」はソニーモバイルディスプレイ、東芝モバイルディスプレイ、日立
ディスプレイズなどの日本の電子メーカーの中小型ディスプレイ事業を統合するために、
INCJ が 2,000 億円を投入することによって設立した産官連合機構である。INCJ を中心に
して、ソニー、東芝及び日立の子会社等の契約締結が 2012 年に完了し、高精細化技術を
競争力とする中小型パネルの生産開発を現在行っている(図表 35)
。
Innolux)、日立ディスプレイズから小型 IPS 液晶パネルの製造を
受注」http://www.taitsu-news.com/front/bin/ptdetail.phtml?Part=top11040704 (閲覧日期 2011 年 4 月号)
106台湾通信「奇美電子(Chimei
56
図表 35 2011 年日本中小パネル生産ライン分布
メーカー
工場名
基板寸法
NEC
370×470
秋田
550×660
550×650
京セラ
野州
550×650
シャープ
三重 1
680×880
三重 2
730×650
三重 3
650×720
天理 Fab1
405×515
米子
パネル型式
a-Si TFT
a-Si TFT
LTPS
a-Si TFT a-Si
TFT LTPS
a-Si TFT
LTPS
660×720 LTPS
東浦
680×880 a-Si TFT
鳥取
550×670 a-Si TFT
東芝
深谷
730×920 LTPS
石川 2
5~5.5G LTPS
石川 3.4
650×830 a-Si TFT
日立
茂原 V2
730×920 LTPS
茂原 V3
410×520 a-Si TFT
三菱電機
メルコ泗水
出所: 2011-2012 年度「液晶・EL・PDP メーカー総覧」のデータより筆者作成
ソニーディスプレイ
第三章で一部の日系部材メーカーが現在でも東アジアで独走していることを明らかにし
た。ただ、活躍している液晶部材メーカーと比べると 2000 年代後半以降の日本の液晶メ
ーカーは、市場シェア後退と再編など厳しい問題があって優位性を維持できなくなった。
日本の液晶メーカーの優位性は、80 年代からの技術開発によっていったんは確立した。し
かし、液晶市場の成熟で技術イノベーション効果が低下したため、2000 年代前半まで新製
品を出し続けた日本の液晶メーカーは優位性を失ってしまった。一方、韓国の液晶事業の
発展によって、生産コストが高い日本企業は 1999 年から台湾との提携を始めたが、2000
年代台湾の中国液晶事業の拡大で、日本の液晶メーカーのシェアが後退した。結局リーマ
ン・ショックで液晶テレビの海外依存が多かった日本の液晶メーカーは自社ブランドで自
社の液晶事業を支えられなくなった。2000 年代後半から撤退し始めた他の日本液晶メーカ
ーと比べ、シャープは強い液晶製造技術を持っていた。しかし、パネル単体をメーカーに
提供する利潤は、自社ブランドで商品を売り出すよりも少なかった。自社業務の縮小で、
シャープは基幹部品の製造からテレビの組み立てまでを一貫して行う垂直統合モデルから
他社にパネルの販売を開始せざるをえなくなるという変化が起きている。
2012 年設立のジャパンディスプレイは液晶メーカー数社の力を集め、80 年代日本の官
民共同で行っていた新技術研究の姿勢が強く見えていたが、実際には液晶メーカーが昔の
ように積極的に動く様子が見えていない。日本は 80 年代から TFT-LCD、プラズマ、有機
EL 技術を開発したが、サムスンと比べると、近年日系液晶メーカーの存在感は薄くなっ
てしまった。
5.台湾の液晶メーカーの再編
日本の液晶メーカーが撤退したほぼ同時期に、台湾液晶メーカーの中華映管と
HANNSTAR も大型パネル事業から撤退し始めた。液晶専門メーカーCMO が鴻海精密と
の合併によって消え、2011 年以降、液晶事業に大量投資を行うメーカーは AUO と鴻海精
密 2 社だけになった。
資金難と市場の後退は、台湾液晶メーカーが液晶事業を縮小する理由になったが、日本
の液晶メーカーは、これとは異なり、台湾 EMS メーカーが生産するパネルと自社の電子
製品を統合し、パネルを電子製品と結びつけることによって液晶事業を維持している。
ACER グループは AUO のパネルを自社ブランドの BENQ と ACER に提供し、鴻海精密
工業は群創光電のパネルを自社ブランドの携帯電話に使わせ、シャープの大型パネルを液
晶テレビの OEM 業務で使っている。中国市場を狙いながら、2000 年代末から台湾の液晶
メーカーと同じグループの電子製造事業の連携がさらに緊密となっている。2008 年リーマ
ン・ショックによってダメージを受けた後、液晶産業の生き残りの道を切り拓くため、台
57
湾政府は投資方針を大きく変更した。そのきっかけは 2010 年 11 月にサムスンの告発によ
り、EU の貿易委員会が 2006 年の台韓メーカーによる液晶パネル価格カルテル疑惑事件に
対し、台韓メーカー5 社に 6 億 4890 万ユーロの罰金を科す事を発表したことである。液
晶産業と電子産業の競争優位性を保持するため台湾経済部はその直後、液晶パネルや半導
体ウェハーなどハイテク産業の対中国投資解禁案を通過させた107が、この事件の影響で台
湾液晶メーカーの中華映管と HANNSTAR が、大型パネルの競争市場から脱落した。次に
台湾液晶メーカーの再編を整理する。
(1)中華映管と HANNSTAR(瀚宇彩晶)の大型パネル事業撤退
台湾最初の第 3 世代 TFT-LCD 生産ラインを持っていた中華映管は、2000 年代前半まで
順調に成長したが、AUO グループや CMO グループよりパネルの大型化が遅かった。自社
の液晶事業を強化するため、中華映管は 2006 年経営難に陥った中国国営の廈門廈華電子
の株 30%を購入することよって、新しい事業の開拓を試みた。これは台湾液晶メーカーと
中国液晶メーカーの最初の提携事例で、当時台湾の液晶産業界の話題となった108が、ブラ
ウン管テレビメーカーの廈華電子が中華映管からの技術導入を行っても、廈華電子の経営
は数年連続赤字となって結局、中華映管の対中国投資も進められなかった。リーマン・シ
ョックの影響で中華映管は 2009 年にパネル投資を 60.59%縮小することを公表した109。
2011 年、中華映管はマレーシアの生産ラインと現地の CRT 工場と土地を Dijaya
Corporation Berhad に売却、TFT-LCD 中小型パネル事業とタッチパネルの生産に専念し
始めた。同じく経営状況がよくなかった HANNSTAR は 2008 年から既に私募で 1.8 億台
湾元の株を韓国の LG に売却しながら、台湾工場の人員を削減し始めた110。2010 年、パ
ネル価格操作の疑惑事件により HANNSTAR は自社の第 6 世代のカラーフィルター生産ラ
インを台湾カラーフィルターメーカーの東貝光電に売却111し、現在は液晶ウエハーパッケ
ージとタッチパネル事業を主に行っている。
(2)AUO(友達光電)の中国投資
2008 年、台湾の政権交代が起きてから、AUO は政府に更なる中国投資の解禁を要求し、
中国に新世代のパネル前工程工場の投資計画を経済部に出した112。第 2 次対中国投資解禁
が公表された直後、AUO は中国拠点の蘇州昆山で 7.5 世代の液晶パネル工場を作る計画を
宣言した。その後、AUO は当時中国第三の液晶メーカーの龍飛光電(出資者の一つは台
湾系の建築グループの宝成)と接触し始め、AUO が 12 億米ドル、龍飛光電と中国昆山市
金融機関が 18 億米ドルを投入し、合計 30 億米ドルの新工場投資が始められた113。
CMO の買収で自社の規模を拡大する鴻海精密工業と異なって、AUO は台湾で部品メー
カーを育てながら対中国投資を拡大し続けている。それと同時に AUO は台資企業との連
合によって自社の枠を拡大させようとする特徴を持っている。中国以外の市場でも AUO
は、企業連合によって世界でモジュール工場を建設している。現在、AUO は台湾 OEM メ
ーカーTPV テクノロジーと連携を行い、ポーランド市、ブラジル市に会社を設立しながら、
2010 年 11 月 10 日記事のまとめ
http://homea.people.com.cn/BIG5/41392/3869720.html(取得日期 2013 年 10 月)
109 THE WALLSTREEST 中国版 http://chinese.wsj.com/big5/20100408/BCH003435.asp?source=MoreInSec(取
得日期 2013 年 10 月)
110 THE WALLSTREEST 中国版
http://chinese.wsj.com/big5/20081003/BCH014618.asp?source=rss(取得日
期 2013 年 10 月)
111鳳凰科技 http://big5.ifeng.com/gate/big5/tech.ifeng.com/digi/ehome/detail_2010_09/28/2655882_0.shtml(取得
日期 2013 年 10 月)
112経済日報
2010 年 3 月 4 日付
113華夏經緯網
http://big5.huaxia.com/tslj/qycf/2011/06/2470039.html(取得日期 2011 年 6 月 27 日)
107経済日報、工商時報
108人民網
58
台湾ウィストロンと広東省東莞市に会社を設立することによって、パネルモジュール工場
拠点を増やしている。
(3)CMO(奇美光電)の再編
CMO と鴻海精密工業の合併は、台湾液晶企業再編の代表例であった。奇美グループの
創立者許文龍は、台湾液晶産業を推進する重要な人物である。2002 年、日本企業との繋が
りが深い許の誘致で、大手日系メーカーが台南科学パークに工場を建設することが決まっ
た。電子産業の背景を持たない CMO は部品調達と「南科光電群落」の産業集積の優位性
で台湾第 2 位の液晶メーカーとなった。しかし、奇晶光電や奇美材料を設立し、自社開発
を重視しながら自社ブランドの液晶テレビを打ち出す CMO は、許の政治的立場によって
2004 年まで中国進出を行わなかった。2004 年、当時の台湾総統陳水扁の汚職疑惑で李登
輝前総統に親しかった許は CMO の中国進出に関して、当時の民進党政府に不満を示して
いた。しかし 2005 年、CMO の中国進出は許文龍事件114で大きな挫折にあった。中国進出
の失敗とリーマン・ショックの影響で CMO は、2008 年第三四半期まで 500 億台湾元以
上の連続赤字を負ってしまった。結局、奇美グループが 2009 年に CMO の経営権を他の
液晶メーカーに譲渡することを公表し、サムスン、AUO、鴻海精密工業が獲得の意欲を示
した。最終的に、供給先が重なる AUO よりも企業相互補完性が高いということで、奇美
グループは CMO の譲渡対象として鴻海精密を選んだ。
(4)鴻海精密工業の液晶事業拡大
2000 年以降、鴻海精密工業が台湾新興メーカー代表として、自社の規模を拡大し続けて
いる。鴻海精密工業は、パソコン部品の OEM 事業を強化しながら、ソニーのメキシコの
液晶テレビ生産ラインを買収し、アメリカ液晶メーカーVIZIO を対象に、パネルと液晶テ
レビを提供することによって液晶事業を開始した。その後、鴻海精密工業はさらに自社の
力でアメリカと中国の通信会社やマスコミ会社と結合して、キャリアとハードウェアを結
合することに力を入れ始めた。
2009 年、鴻海精密工業は中国で“萬馬奔騰”計画を打ち出して、2000 軒のデジタル家電
量販店を設置することを宣言した。自社の液晶事業を拡大するとともに傘下企業の群創光
電による高度な液晶製造技術を手に入れるため、鴻海精密工業は CMO を買収することを
決めた。2009 年 11 月、鴻海精密工業と CMO の 2 社合併は株式交換という形で行われ、
「New CMO」115が設立された。しかしその後、銀行融資付け替えの問題で、両社の経営
陣は資金の奪い合いが起こってしまった116。一方、鴻海精密工業は第一世代の iPhone シ
リーズからアップルの依頼を受け、2007 年から全世界の iPhone の生産を行っている。鴻
海精密工業は、CMO の IPS 技術と LTPS 技術によって、子会社の群創が iPhone のディ
スプレイ供与メーカーになれると予測したが、CMO の力を得た「New CMO」はアップル
のパネル供与メーカーに選ばれなかった。この結果、資金面と技術面で葛藤が生じ、結局、
鴻海精密工業が CMO を吸収し、日本企業の協力を求め始めた。
シャープは 2007 年から iPhone のディスプレイ供与メーカーに選ばれ、自社ブランド
の液晶製品を生産しながらアップルにパネルを提供している。しかし、iPhone ディスプレ
年中国政府は CMO の工場長らを捕え、工場建設用地の取得に不備があった
との理由で懲役 10 年を科した。また奇 美グループヘの原材料供給に支障が出るような圧力も
加えた。動きがとれない中で 2005 年 3 月 26 日、許の「声明書」なるものが台湾紙に掲載され引
退することを宣言した。奇美グループが中国に注入してきた工場や施設、従業員のため許は産
業と関係のない政治の話も誓約書の中に書いた。
115 「New CMO」は正式な会社名ではない。
116 郭(2012)38 頁
114許文龍事件-2005
59
イを生産している亀山第 1 工場の稼働率は確保されたが117、 液晶不況で堺にあるシャープ
の第 10 世代工場の稼働率が低くなった。2012 年 9 月、成長の鈍化で、シャープが銀行に
借りた融資額は 3625 億円まで増加し118、返済難で経営危機に陥った。
その時、鴻海精密工業がシャープと接触し始めた。稼働力が低下した第 10 世代工場と
巨額赤字で監査法人の減損処理時期が迫ったことで、シャープが鴻海精密工業に 9.9%株式
を売った結果、2012 年 3 月鴻海精密工業がシャープの筆頭株主となった。さらに鴻海の郭
は、個人の名義でシャープ第 10 世代の堺工場の 46.5%の株を 660 億円で買い取ったので、
シャープの堺工場は、堺ディスプレイプロダクトに名称を変更し、2012 年 8 月から運営を
始めた。液晶事業を拡大する意欲が強い鴻海精密工業は、2013 年に液晶研究センター「フ
ォックスコン日本技研」を立ち上げた。鴻海精密工業は台湾事情に詳しいシャープの液晶
専門者を起用したことによって、日本の液晶人材を吸収しながら自社の開発力を強化する
ことができるようになった119。現在、中国と台湾の学会と連携している鴻海グループは、
シンセン龍華、台湾竹北、北京フォックスコン清華大学ナノメートルセンターとの提携に
加え120、「フォックスコン日本技研」の設置によって、鴻海精密工業は、関西エリアと関
東の新横浜研究センターの統合も行った。
小括
以上、2009 年以降の台湾液晶メーカーの再編を明らかにした。2000 年代初頭、液晶メ
ーカーの大量投資と生産ラインの一斉稼働によって、台湾液晶産業の地位が確立されたが、
液晶産業への進出は大量の資金と技術力が必要であった。このため、日系メーカーからの
提携と政府の補助政策を得たが、ようやく手に入れた優位性を維持するため、2000 年代前
半から液晶台湾メーカーは常に当時の最新世代へとアップグレードしなければならなかっ
た。そして、持続的投資を行いながら安定した稼働率を維持することは、台湾の中型液晶
メーカーにとって大きな負担となった。さらに 2006 年から液晶パネルの需給バランスが
崩れたこととリーマン・ショックが発生したことに加え、2003 年に開始された「産業高度
化促進条例」の 5 年の税金減免優遇が 2008 年に終わったため、複数の液晶メーカーが資
金破綻を起こし、液晶産業から撤退した。
第二節 2000 年代以降の台湾液晶産業の変化
本節では、液晶不況の中で台湾メーカーAUO と鴻海精密工業が液晶産業の中核メーカ
ーとなった要因と、80 年代から台湾液晶産業の中に存在する OEM の特徴との繋がりを見
い出すことによって、台湾全体の産業における液晶産業の位置付けを探る。
液晶産業は 20 年以上東アジアで発展し、TFT-LCD の製造は、90 年代日本が独占する
高度な技術の結晶から現在の東アジアで液晶メーカーが林立する現状へと変化した。一方、
市場競争を経て、生き残るメーカーは全て高度な製造技術を持っている。液晶パネルの品
質が均一化している現在、消費行動に影響していた液晶メーカーのブランドの影が薄くな
って、消費者が自由に液晶製品を購入できるようになった。台湾液晶メーカーはこの変化
を掌握し、2000 年代後半からのパソコンディスプレイや液晶テレビの製造によって、パネ
ルを安定的に売り出している。そして、液晶事業の OEM 事業という特徴は最初から台湾
http://diamond.jp/articles/-/38937(取得日期 2013 年7月 18 日)
日本経済新聞電子版「シャープ株が午後に一時急騰、鴻海が出資比率引き上げ報道-東京市
場」http://www.bloomberg.co.jp/news/123-M8VW7E6K50XU01.html(取得日期 2012 年8月 17 日)
119週刊ダイヤモンドンライン第 445 回 http://diamond.jp/articles/-/38937(取得日期 2013 年 7 月 18 日)
120 DisplayBank http://www.displaybank.com/_jpn/research/markettrack_view.html?id=6749& (取得日期 2013 年 7
月 2 日)
117週刊ダイヤモンドンライン
118
60
の液晶産業に内在している。
1.OEM 的色彩の濃い台湾電子産業の液晶産業への進出
Hung は台湾の液晶産業が、バイクの生産、ハードディスク製造、パソコン製造、機械
製造、システム統合が完成してから発展してきたことを述べた121。台湾液晶産業をハード
ディスク製造と比較すると、台湾の液晶製造は、台湾の材料、生産システム、LCD プロセ
ス、パッケジー技術が発展してから始まったことを説明した。第二章に示したように 80
年代から台湾パソコンメーカーはアメリカや日本など海外からの生産委託を受けたことが
液晶産業の発展するきかっけとなった。台湾の液晶産業がバイクの生産、ハードディスク
製造、パソコン製造、機械製造、システム統合が完成してから発展してきた。
90 年代前半、液晶産業に積極的に参入する意欲を示した企業の中連華電子以外のパソコ
ンメーカーは大部分 OEM 事業を行っていた。90 年代後半の時点で液晶事業に成功した韓
国液晶産業とは異なり、当時台湾の電子メーカーは液晶産業に参入しようとする意欲が強
く見えたが、2000 年代初頭まで台湾の液晶製造レベルは低かった。2000 年代初期の台湾
液晶産業には二つの特徴があった。一つ目は 90 年代前半までにアメリカやイギリスなど
複数の国の液晶メーカーから技術を導入していたのとは異なり、全ての台湾液晶メーカー
が日系メーカーのサポートを受け TFT-LCD パネルを生産するという、一つの国に技術を
全面的に依存していたことである。二つ目は日台液晶提携と部品メーカーの動き見ると台
湾が生産した液晶パネルを日系液晶メーカーに提供する体制であったことである。つまり、
台湾液晶メーカーは技術提携よって成長したが、生産プログラムが揃っていない台湾の液
晶産業が自立しているとは言えなかった。この時期台湾は 80 年代のパソコンのモニター
OEM 事業を行った時期と同じように、下請の位置付けでパネルを生産していた。ただ製
品を NT パネルから TFT パネルに変えただけであった。
2.EMS メーカーと台湾液晶メーカーの関係
2000 年代前半まで、パソコン産業をサポートして発展してきた台湾液晶産業は、液晶テ
レビを出しているシャープやパナソニックなど家電メーカーとは異なって最初からはっき
りとした位置付けがなかった。しかしこのような OEM の特徴が強い液晶事業が 90 年代
後半以降、自社のブランドを立ち上げた台湾パソコンメーカーと自社の OEM 事業を EMS
事業に進化させた台湾電子グループと共に成長し続けている。90 年代末から台湾電子
EMS メーカーは、半導体、パソコンの EMS 分野に集中している(図表 36)
。特に 2000
年以降、台湾パソコン産業の版図の拡大によって、電子メーカーがパソコン製造から通信
端末、電子製品の委託生産まで、幅広く海外メーカーからの注文委託を受けている。大手
電子メーカーが大量な資金を投入し、自社ブランドを経営しながら、製造専門の EMS メ
ーカーとして海外ブランドも生産することが、2000 年以降台湾電子産業の大きな特徴とな
った122。
図表 36 台湾 EMS メーカー業務範囲と業務対象
121
Hung(2002)183 頁
122日本の液晶研究者中田行彦は台湾や韓国が日本を追い抜く理由を分析した時、2000
年以降日
本の液晶メーカーは大量投資をやめてガラスの大型化を中止したが、韓国メーカーは不況の損
失を最小限にして投資し続け、台湾は液晶産業の将来性を予測し新しい生産プログラムを作っ
たという意見を述べた。
61
パソコン EMS
代表依頼メーカー
アップル
デル
HP
東芝
レノボ
通信産業 EMS
電子製品 EMS
代表依頼メーカー
代表依頼メーカー
アップル
マイクロソフト
HTC
ソニー
ノキア
シャープ
サムスン
フィリップス
ソニー
パナソニック
出所:台湾の新聞記事により筆者作成
現 在 、 台 湾 で 有 名 な EMS メ ー カ ー は 鴻 海 精 密 工 業 、 ASUS、 ACER 、 Quanta 、
Compal、Tatung (大同)
、LITEON、という 7 つのグループがあり、これらのグループ
が電子産業の発展を支えている。
(図表 37)それぞれ得意な領域が若干異なるが、パソコ
ン専門の ASUS と CD ドライブなどの自社ブランドを持ちながら 2000 年以降 LED を生
産するパソコン部品専門メーカーの LITEON 以外、残りの 5 社は全て液晶事業に参入し、
自社の業務範囲の拡大を図った。日系家電メーカーの三洋やタイガー、象印との繋がりが
強く、80 年代からパソコンの OEM 事業で積極的に液晶産業に参入した Tatung(大同)
は中華映管を持っている。ACER グループは 90 年代からパソコンブランドを立ち上げ、
子会社の達碁科技で液晶産業に参入し始めた。2001 年、工業研究院液晶開発計画の民間主
導メーカー連友光電と合併し、台湾最大の液晶メーカーAUO(友達光電)となった。そし
て 2001 年からのパネル生産をきっかけにして AUO は自社の商品ラインを大幅に拡大し、
BENQ というブランドを立ち上げた。半導体 EMS 専門メーカーの Quanta と Compal は
90 年代から台湾パソコン産業の拡張と共に製造技術を進化させ、Quanta が子会社広輝、
Compal が仁宝光電を設立し液晶産業に進出した。規模が他のメーカーより小さかったた
め、2006 年広輝は AUO と合併し、仁宝光電は鴻海精密傘下企業の群創と合併したが、そ
れによって、AUO と群創の技術力がさらに強化された。2004 年、液晶産業の大量生産体
制が完成してから、CMO 以外の液晶メーカーは台湾パソコン産業と周辺産業の拡大で、
モニター、携帯、ノートブックなどパネルの販売ルートが多角化している。自社電子事業
で液晶産業の発展を支えたのである。
図表 37 2000 年以降の台湾大手 EMS グループ
グループ名
傘下企業
ACER
AUO、BENQ、建基、偉創、啟碁、均豪、威力盟、達龍、達虹、達信
Quanta
廣輝、鼎天、廣明
鴻海精密
Foxconn、群創、廣宇、鴻準、正崴、普立爾
Tatung
中華映管、美斉、福華、大世科
ASUS
華碩、景碩
Compal
金寶、仁寶、飛信、建榮、康舒、金宝、華宝、太金宝、智邦
LITEON
光寶科、閎暉、敦南、興建南
出所:メーカー各社のホームページの資料と新聞記事より筆者作成
さらに 2005 年以降、AUO は液晶メーカー広輝の資源を統合した。液晶産業の新参者と
して 2009 年、鴻海精密は傘下企業の Foxconn の OEM 事業や半導体産業に進出しながら
携帯と液晶テレビの製造を始め、通信産業と液晶産業への進出を果たした。仁宝光電と
CMO を統合することによって鴻海精密は自社の技術力を蓄積している。2009 年末以降、
パソコン産業に支えられた台湾液晶産業はさらに拡大し、現在 EMS メーカーの液晶産業
への進出によって、同じグループのパソコン部門と通信部門とコミュニケーションをはか
り、品質、商品の値段と機能を考え、バランスを取って液晶パネルを生産している。最初
から OEM 事業の特徴が強い台湾液晶メーカーの事業が EMS メーカーの手によってさら
に拡大した123。このように 2000 年代前半、日本の液晶メーカーのようなブランドを持っ
ていなかったので、台湾液晶メーカーの大型液晶テレビは上手く発展しなかった。2000 年
代末から大型テレビの下落と液晶電子製品の新興で台湾液晶産業はその力を発揮できる舞
台を見つけた。
123
Liao, Kuo (2014)303 頁
62
小括
以上、台湾 OEM メーカーの変化と液晶メーカーの繋がりを明らかにした。2009 年以降
多数の液晶メーカーが撤退した。サムスンは液晶事業を自社の通信事業と組んで発展させ
ている。シャープはパネルディスプレイ事業とパネル製造業務の区別で垂直統合モデルか
ら距離を置いている。一方、現存の台湾液晶メーカーは積極的に中国で生産ラインを強化
しながら電子製品の製造と EMS 事業によってパネルの販売ルートを確保している。90 年
代、多数の液晶メーカーの参入により形成された台湾液晶産業に CMO や広輝光電、仁宝
光電のようなパネル製造専門メーカーを目指した企業が出た。しかし、2000 年代後半、液
晶不況で台湾電子グループが EMS 事業を行いながら液晶事業を発展させるモデルが主流
となって、台湾液晶産業の OEM 的な製造の特徴が再び強調されている。台湾電子製造グ
ループが業務を統合しながら技術力を強化することによって、80 年代から台湾パソコンメ
ーカーが主張してきた電子製品の製造とパネル事業の同時進行は、現在、さらに進化した
形で実現している。
第三節 2000 年代末からの液晶市場の多様化
本節では大型競争が終わった後、新興してきた中小型の新型タッチパネルと有機 EL な
ど液晶産業の新しい方向を掴みながら、台湾液晶メーカーの優位性を引き出す。アップル
の成功で、現在タッチパネル付きの中小型液晶製品は 2000 年代末から急速に普及してい
る。自社の優位性を活用し、台湾パソコンメーカーと繋がりが強い液晶メーカーも現在バ
ックライト、静電容量型タッチパネルや光学式タッチパネルの開発に力を入れている。
1.タッチパネル
タッチパネル技術が 90 年代から応用開発され始めたが、最初のタッチパネルはセンサ
ーを直接液晶パネルの上に付ける抵抗膜式タッチパネルタイプであった。輝度の低下や表
面反射によって外光認識性が低いという欠点があったので、ATM、切符自動販売機にしか
応用されなかった。2000 年代半ばまでデジカメやビデオなど、タッチパネル付きの電子製
品が発売されたが、スマートフォンのブームで技術が進化した 2000 年代後半からタブレ
ットやパソコンモニターが一気に普及してきた。製造工程の進化で透過率やセンサー形式
が改良され、現在タッチパネルは、抵抗膜式タッチパネル、静電容量型タッチパネル、光
学式タッチパネル、Cell パネルなど、四種類に分かれている(図表 38)
。
図表 38 タッチパネル技術説明
技術名
タッチパネルの特徴と発展現状
Resistive type
いちばん安いタッチ装置であり、圧力でモニターを反応させるタイプ
抵抗膜式タッチパネル
である。タッチパネルの発展初期には電子辞書や低価格の携帯に搭載
されたが、技術の進化によって少なくなった。
Capacitive type
表示と入力の二つの機能を融合したデバイスである。スマートフォン
静電容量型タッチパネル をはじめ幅広く使われ、今主流のタッチパネルである。ディスプレイ
部にタッチ操作検出用のセンサーなどを統合することで、画面に接触
した指やペンの位置を感知し、コンピュータに指示を与えることがで
きる。OGS(one glass solution) など技術の進化で厚さと光透過率が改
善された。
Optical type
Cell パネルを内蔵することによって、透過率や外光視認性が高いなど
光学式タッチパネル
のメリットがある。新世代のタッチパネル。
Cell パネル
1.On-Cell
TFT-LCD や AMOLED と一体化したモニターである。
2.In-Cell
代表製品
銀行 ATM、
切符自動販
売機
iPad シリー
ズ
なし
Galaxy シリ
ーズ。
静電容量型タッチパネルと同じく現在主流的なタッチパネルタイプで
iPhone 5。
ある。現在ジャパンディスプレイとシャープと韓国メーカーLGD が
In-Cell パネルに力を入れている。
出所:2012 年度「液晶・EL・PDP メーカー計画総覧」のデータや新聞記事により筆者作成
液晶の大型化戦争に負けた台湾液晶メーカーは、自社の中小型の生産ラインを埋めるた
63
め、2000 年代後半から事業を転換し、タッチパネル生産に参入し始めた。それをきっかけ
に台湾のタッチパネル製造が拡大され、急速に普及した。現在大手メーカーの AUO と群
創だけでなく、大型化競争から撤退した中華映管と HANNSTAR もタッチパネルの生産を
行っている。特に HANNSTAR は新世代生産ラインの建設を諦め、事業を中小型のタッチ
パネルに切り替えている。台湾のタッチパネルの特徴は、産業チェ―ンが揃うことである。
TFT-LCD の発展経験により台湾メーカーがタッチパネル生産で川上、川中、川下メーカ
ーを統合している様子が強く見える(図表 39)。現在大手メーカーもブランドを強調しな
がらタッチパネル関連商品の生産をし、AUO、HANNSTAR、Innolus(鴻海精密工業の
携帯部門)はタッチパネル事業の垂直統合を完成している。
図表 39 台湾タッチパネル産業チェ―ン
部品製造
パネル製造
組み合わせ
垂直統合(メーカー)
垂直統合
企業連合
AUO、HANNSTAR、Innolus
勝華 凌巨
勝華 凌巨
恆穎 劍揚 宇辰
中華映管
勝華 凌巨
恆穎 宇辰
合資と投資
宸鴻
達鴻 揚華
なし
製品/ランド
なし
仁寶 COMPAL 緯創
WISTRON
宸鴻 揚華
光寶
出所:刘編集「2014 顕示器産業年鑑」6-21 頁
台湾のタッチパネル専門メーカーは現在、ITO 導電ガラス、ガラス基板、ITO フィルム、
タッチパネルドライバ IC、光学テープなどの部材の製造に進出している。タッチパネルへ
の需要が拡大しているため、台湾タッチパネルメーカーは抵抗膜式タッチパネルと静電容
量型タッチパネルの両方ともを生産している事例が多い。2013 年、タッチパネルの製造が
拡大した中華映管は、5 型 On-Cell タッチパネルの出荷を開始し124、AUO と群創 2 大メ
ーカーも 6 型の On-Cell タッチパネルの量産を開始した125。これに対して日本メーカーが
タッチパネル市場に参入する事例は少なかった。現在タッチパネルのセンサー部分を生産
する日本メーカーはアルプス電気、グンゼ、日本写真印刷 3 社である(図表 40)。
図表 40 タッチパネルに参入した中小型台湾部材メーカーと日本部材メーカー
部品名
参入メーカー(台湾)
ガラス基板
なし
ITO 導電ガラス
正達、冠華、安可
ITO フィルム
卓委、迎輝、嘉威、郡宏
タッチパネルドライバ IC
光学テープ
Cover Lens
璟正、奇景、連詠、矽創、奕力、義隆、矽統、晨
星、禾瑞亞
達興、杜邦、台湾 3M
正達、晨豐、兆邦、勝華、群創、友達、宸鴻、坤
輝、宏益永輝、熒茂、台龍、清惠、雅士、
HANNSTAR
抵抗膜式センサー
洋華、介面、安可、熒茂
参入メーカー(日本)
旭硝子、日本電気硝子
なし
尾池工業、カネオ、積水
ナノコートテクノロジ
ー、帝人化成、東レ、日
東、日立成化
なし
日本 3M
なし
アルプス電気 グンゼ
AUO、中華映管、勝華、達鴻、寰鴻、和鑫、熒
日本写真印刷
茂、全台晶像、HANNSTAR
明興光電、凌巨、介面
組み合わせ
寰鴻、群創、AUO、明興光電、憶尚、華映、凱 なし
崴、永美、全台晶像、金運、中日新、凌巨、和
鑫、良奕、全台晶像、致伸、HANNSTAR
出所:
「台湾顕示器産業与応用年鑑 2012」、「台湾顕示器産業与応用年鑑 2013」、
「液晶・EL・PDP メーカー計画総覧
2012 年度版」のデータにより筆者作成
静電容量型センサー
2013 年 7 月 15 日付
EMSOne http://www.emsodm.com/html/2013/07/16/1373944460531.html(取得日期 2013 年 7 月 16 日)
124工商時報
125
64
2.有機 EL(EL AMOLED)
(1)韓国の有機 EL 投資
TFT-LCD 技術が成熟期に入ってる現在、有機 EL テレビへの関心が高まっている。有
機 EL は AMOLED と PMOLED に分けられ126、幅広く使われているのは AMOLED であ
る。有機 EL 技術は 2000 年代前半、日本メーカーのソニーによって発明された。2007 年、
ソニーが世界初の 11 インチの有機 EL テレビを発売したが、その後開発を停止した。ソニ
ーに代わって、当時ソニーと液晶テレビの提携を行っていたサムスンが有機 EL 技術に目
を留め、2010 年からサムスンが日本からの人材吸収と大量投資を行ったことにより、韓国
メーカーの有機 EL 開発と投資が進み始めた。他の液晶メーカーを引き離すため、サムス
ンの有機 EL 投資金額は 2010 年の 1.4 兆ウォンから 2012 年の 5 兆ウォンにまで増加し、
コーニングと EL 向けのガラス基板合弁会社を設立した。サムスンは、自社の携帯やテレ
ビの生産で有機 EL を世界に流行させる意欲が強く見える。同じ韓国メーカーの LG も
2009 年から有機 EL 材料の生産で出光興業の提携をうけ、2013 年から 55 インチの有機
EL を量産化し始めている。
(2)日台の有機 EL 投資
韓国メーカーとは異なり、日本と台湾メーカーは TFT-LCD 生産プログラムの進化と改
良を中心に液晶事業を行いながら、有機 EL への投資を行っている。現在、ジャパンディ
スプレイは中小型のディスプレイ市場に向け、東芝の茂原工場で有機 EL の生産計画を作
っている。サムスンが有機 EL を発展させようとした影響を受け、AUO は、2012 年、シ
ンガポールにある東芝の第 4.5 世代有機 EL 工場を購入し127、有機 EL の生産を拡大させ
始めた。同年、AUO は有機 EL 材料メーカーの出光興業との提携を開始した。CMO グル
ープ傘下の奇晶光電は、2008 年まで有機 EL を開発していたが、企業再編の影響で 2009
年以降開発は中止した。群創が台湾竹南に第 3.5 世代、台南に第 5.5 世代 2 本の有機 EL
生産ラインを持っているが、鴻海精密工業は、現在、大型 TFT-LCD 液晶テレビの生産を
主な業務にしているため、現在量産計画がない。
3.電子ペーパー
携帯端末の流行でタブレットが急速に普及すると同時に電子ペーパーもこのブームに乗
って大幅に成長した。電子書籍の出荷量は 2009 年から 2011 年まで、2 年間で 119%の成
長率で 2767 万台まで増加した。本を簡単に持ち運びできるメリットを持っている液晶パ
ネルの応用商品電子ペーパーを製造するメーカーはたくさんある。その中でいちばん市場
シェアが高いのはアマゾンが読書、教育、購買などを統合する専用端末 Kindle である。
そして、Kindle の生産依頼を受けたメーカーは、一度台湾 TFT-LCD 市場を撤退した元太
電子である。2006 年からソニーの依頼をきっかけに元太電子は、電子ペーパーの投入を開
始し、その後、フィリップスの EPD 事業を買収し、電子ペーパーOEM の比重を増やした。
2009 年、元太電子が電子ペーパーメーカーSiPix Imaging の 31.6%の株を購入したことに
よって、9 インチの電子ペーパーの製造技術を手に入れた。2011 年までに元太電子は既に
300DPI の高い解像度の表示技術を獲得した。現在、元太電子が設立した E-INK が、電子
ペーパーシェアの 97%を握っている(図表 41)
。
図表 41 電子書籍端末メーカー2011 年のパネル調達量シェア
メーカー
世界シェア
126有機
127日経
EL 部分の数値は泉谷(2012)、刘、趙(2013)を参照
NET http://www.nikkeibp.co.jp/article/news/20100402/218984/(取得日期 2010 年 4 月 2 日)
65
Amazon
64.6%
Barnes&Noble
15.4%
Kobo
7.2%
Hanvon
4.8%
Sony
3.1%
Asus
0.1%
その他
4.8%
出所:「液晶・EL・PDP メーカー計画総覧 2012 年度版」201 頁128
以上、現在多様性を示している液晶産業の現状を明らかにした。液晶産業の標準を決め
た日本の材料メーカーが液晶材料の技術も持っている。サムスンが 2011 年からの「新成
長動力装置協競争力強化事業」計画で自国の有機 EL 技術と生産設備の自給率を強化しよ
うとしても、化学材料技術は日本からの提供に頼らざるをえない。しかし、現在、日本の
部材メーカーは新分野参入で遅れている傾向が見える。その代わりに、一部のメーカーは
継続的な技術の進化で液晶舞台に戻ってきた。他のメーカーは自身が強い分野に進んでい
る。大型の競争が一旦終わった現在の液晶製品は 、更なる多様性を示している。
GOOGLE メガネと E-INK の電子ペーパーの開発によって、台湾企業はソニーの技術を再
開発するサムスンとは異なって、液晶技術で違う領域の商品を創出するオリジナル性を持
っている。
小括
東アジアの技術伝播は同じ流れを繰り返しているものが多い。自動車産業、電子産業、
液晶産業の技術移転のケースを見ると、日本の技術が韓国、台湾、中国に広がるパターン
は変わらない。しかし、現在、液晶市場は激しく変化している。20 年の発展を経て、液晶
製造技術の普及と単価の下落で、パネルの品質で市場を区別する発展方式は利益性が保証
されない。成熟期に入った液晶産業で専門メーカーの生存空間は圧縮され、その代わりに
電子産業のスピード重視と応用的な変化重視という特徴も含んでいる。以下はこの 20 年
間の液晶産業構造の変化である。
1.大型化から多角化
2000 年代初頭から各液晶メーカーによって争われたパネルの大型化競争が 2007 年の第 8
世代の辺りで止まった。近年、第 9 世代以上の工場建設計画を立てることはあまり見られ
なかった。実際、シャープは、膨大な投資で第 10 世代工場を建設したが、結局その利益
性はあまり見えなかった。その代わりに液晶産業は資金重視の大型化から、多様性や機能
性を重視する方向に変わる傾向が見える。2000 年代後半から東アジアの液晶メーカーは違
う道を歩き始めている。韓国メーカーの有機 EL 発展計画のような、分野を限定し、大量
投資する液晶発展の一つの道のように、液晶産業全体の発展方向は大型化から多角化へと
変化してきた。液晶テレビの成長が鈍化している現在、新市場の開拓が重要となっている。
宋は韓国の半導体の構造変化を議論する時、韓国メモリー産業は携帯電話、PDA、デジタ
ル機械、MP3、ゲーム機など、メモリー製品の多角化を押し進めた要因を分析した。そし
て 90 年代末から 2000 年以降の市場の急激な変化、メモリー用途の急速な多様化、高付加
価値製品の追求があったことを示した129。近年、パネル製造技術の成熟と応用範囲の拡大
で、半導体と同じように液晶製品の多角化傾向も強くなっている。それ故事業の変更によ
り、中小型パネル生産ラインしかもっていなかった液晶メーカーが意外にその活路を見つ
けることができたのである。
128泉谷編集(2012)201 頁
129宋(2012)146 頁
66
2.製造本位の液晶専門メーカーからパネル事業と統合する電子メーカー
テレビ市場の飽和は、2000 年代後半、家電中心に液晶事業を発展させてきた日本液晶メ
ーカーが市場を撤退する要因となった。台湾液晶専門メーカーの CMO も 2011 年に実質
消滅した。もっとも液晶製造力の強いシャープが液晶パネルを海外メーカーに売り出し始
めているが、その収益性は自社ブランドの AQUOS を販売するよりも低くなっている。90
年代以降、サムスンと一部の台湾液晶メーカーは液晶事業と電子産業を結合し、発展して
きた。サムスンは自社事業と携帯電話事業を結合し、台湾液晶メーカーは自社の液晶事業
と同じグループのパソコン事業を EMS 事業に結合し、液晶テレビ以外のパネル製品を大
量に生産して、パネルの販売ルートを活用したビジネスを創出している。電子産業とパソ
コン産業を一体化する液晶事業モデルの拡大によって、伝統的な専門液晶パネルメーカー
の地位が脅かされている。
3.技術の取得方式の変化
2010 年代に入り、東アジア新興国における液晶産業の発展方式はかなり変化してきてい
る。台湾を例にすると、90 年代、台湾液晶メーカーの発展方式は、日本企業の提携を受け
ながら、自社開発で技術力を蓄積することであった。2009 年以降、鴻海精密工業と中国の
一部の新興液晶メーカーが液晶生産ラインの買収と合併を行い始め、液晶の発展方法が変
わり始めた。そして、2012 年から中国新興携帯メーカーの小米が直接日本のパネルを購入
し始めた。かつて部品製造の技術の蓄積から少しずつ進化してきた液晶産業キャッチアッ
プの型が、新しい液晶メーカーによる買収と合併によって加速された。液晶専門メーカー
が売リ出した生産ラインは最先端の技術を含んでいないことと新興液晶メーカーが生産ラ
インの買収とメーカーとの合併を行うだけで完全に技術を吸収できるかどうか等の問題が
残っているが、この現象と液晶専門メーカーのパネル販売事業が拡大したことによって、
東アジア液晶産業に激変が起こっている。この二つの現象も現在中国系のタブレットと格
安スマートフォンメーカーのシェア急拡大の間接的な要因となった。
以上、2000 年代の 10 年間の東アジア液晶産業の変化を明らかにした。再編期を経て、
現在市場に残っている液晶メーカーは、レベル以上の技術力を持っている。パネルの製造
が均一化された現在、液晶事業の発展要素は、90 年代後半から 2000 年代前半までに強調
されたパネルの製造技術と量産化から、液晶製品の活用と新分野の開拓に転換した。一方、
液晶製造技術の普及とパネル単価の下落によって、液晶専門メーカーの地位は揺らいだ。
さらに買収やパネルの直接購入によって、現在液晶技術の移転と企業の立ち上げが容易と
なってしまった。それ故資金を持っている新参メーカーはより簡単な方法で液晶製造技術
やパネルを手に入れられる。液晶パネルの位置付けに変化が起こっている現在、パネルの
差別化をはかるために、液晶パネルの応用と液晶事業と他事業との連携について力を入れ
ないと液晶製造企業は次の段階の液晶市場競争で脱落する恐れがあるであろう。
最後に、急成長した台湾液晶産業についての理論的な位置について、検討を行っておき
たい。
本論文において目指したものは、従来の液晶産業研究に見られる対象の狭さ、対象時期
の短さを克服し、台湾液晶産業の発展過程を総合的に明らかにしようとしたものである。
台湾の PC 産業が急成長したことに関しては、すでに「はじめに」で指摘しておいたよう
に、川上の実証的な研究がある。川上は、PC 産業の「圧縮型産業発展」を理論づけるため
に、産業発展の「プロセス圧縮的な性格」についての研究史の整理を行っている。川上は、
国レベルの経済発展については、大川らの見解を取り上げ、
「西欧諸国に比べて圧縮され
た成長過程をたどった日本経済の歩みが、韓国・台湾においてはさらに圧縮されたものと
67
なったことを論じた」130とし、また、朝元が 90 年代前半までの台湾を、渡辺が韓国の経済
発展を手がかりに、
「圧縮型産業発展パターン」「圧縮された発展」と言っていることを指
摘し、次のように自らの研究の意義をまとめている131。
「本書が分析する台湾ノート型 PC 産業の急激な発展は、先進工業国の企業の戦略的な
行動と後発工業国企業の学習が結びつくなかから実現されたものであり、その圧縮性は、
大川や渡辺らが分析単位とした国レベルのマクロな経済分析ではなく、国境を越えて広が
る産業内分業のダイナミクスとその中での企業間の相互作用に光をあて、よりマイクロな
企業レベルの分析を行うことではじめて把握できるものである。
」川上(2012)7 頁
本論文で明らかにしたのは、液晶産業の急速な発展(=「圧縮型の産業発展」)には、
台湾での半導体産業の発展がまずあったが、その前提には、強力な国家の産業育成策が存
在したことである。他方、液晶産業の発展は、半導体産業と比較すると、直接的な国家の
サポートは少ないが、教育や産業集積を助ける地方政府の施策やサポートのおかげで、発
展できた側面のあることが明らかとなった。液晶産業の発展を速めることができたもう一
つの側面は、台湾企業と日本のメーカーとの技術提携と液晶産業発展における日系部材メ
ーカーの果たした役割の大きさである。最後に、台湾液晶産業の発展にとって、重要な要
素であったのは、PC 産業を初めとする圧倒的な電子産業の発展であった。川上は、PC 産
業を、台湾企業、ブランド企業、インテル三者の関係として捉え、台湾企業の「情報の受
け手」から「情報の出し手」への発展過程を分析した。本論文での分析に登場したプレイ
ヤーは、川上の PC 産業分析とは異なり、同一産業内の国境を越えた国際分業として理解
するのではなく、一見無関係に見える半導体産業の発展、PC 産業で鍛えられ EMS にまで
進化した電子産業の発展と戦略転換、半導体産業・液晶産業における部材産業、このよう
な広がりと深みを持つものであった。とりわけ、半導体産業において、部材および製造装
置できわめて大きな力を有するようになった日系メーカーが、世界の半導体産業と液晶産
業の発展に、きわめて重要な役割を果たした。
131
川上(2012)6 頁
川上の理論いついて、批判的な検討は、中川(2013)で行われている。本論分は、中川と問題
意識を一部共有している。
68
おわりに
1970 年代から 1980 年代末の戒厳令下の台湾では、国民党があらゆる資源を握っていた
ため、中央政府には国の方向を決められる権力があった。中央政府は、工業研究院設立後、
国家科学委員会は台湾新竹に科学パークをつくり、アメリカとの提携により半導体産業を
中心に産業を発展させようとした。このような国家主導による経済開発モデルは「開発独
裁」と呼ばれている132。
1980 年代、国の支援を得て半導体技術が発展させられようとしていた時、アメリカに渡
って電子工程の知識を習得しようとする台湾留学生と技術者が増えてきた。80 年代前半に
ACER と ASUS も設立され、台湾国内のパソコンの OEM 事業が拡大した。成長し続ける
台湾パソコンメーカーは電子部品の組み合わせをしながら TN モニターの OEM 事業を受
けて液晶事業を開始した。90 年代に入り、TSMC(Taiwan Semiconductor
Manufacturing Co. Ltd)と UMC(United Microelectronics Corporation)の成功によっ
てファウンドリー産業ができ上がった後、台湾のパソコン産業もブランドの成功とシェア
の拡大によって全体的に大きく発展した。一方、液晶産業に投資するメーカーも、大同、
東元電機、金宝電子など 80 年代台湾大手パソコン OEM 会社から半導体を製造する
TSMC やヨーロッパで成功を収めた ACER グループなどに至るまで、90 年代後半に台湾
電子産業の代表メーカーへと拡大した。日本メーカーが液晶革命と技術突破に基づき
TFT-LCD の開発を行ったこととは異なり、利潤の追求とパソコン産業の拡大が台湾パソ
コンメーカーによって液晶製造技術が求められた背景となった。
かつて台湾は、外資投資政策の整備と加工出口区(=輸出加工区)の設置という海外メー
カーの導入を目指す政策で、電子製品 OEM 事業を発展させてきた133。そして、電子製品
の生産も台湾電子産業の生成と台湾液晶産業の確立に間接的に影響した。
ただ、1987 年戒厳令下の時期が終わって、国家資源を使う発展計画の効果は減少した。
90 年代から資本主義の原則に従って台湾電子産業は独立した政府の企業育成と民間資本企
業を主体に産業を発展させてきた。それ故、国家主導を元に発展してきた成功モデルの半
導体産業と異なる、台湾の液晶産業の生成は国家の発展方向と工業研究院との繋がりも持
ってはいるが独自な特徴を持っている。
本論文の第一章では、台湾液晶産業と半導体産業の繋がりについて考察した。以下、順
に、台湾で液晶産業が成立した内部要因、部材メーカーの役割、この 10 年間の世界液晶
産業の変化と台湾液晶産業の特徴についてまとめ、台湾の液晶発展モデルを明らかにした。
最後に、電子製品製造を中心に発展してきた台湾の液晶産業の特徴と東アジアでの位置付
けについてまとめた。
第一章では、まず、東アジアの電子産業発展について議論した。80 年代前半、日本が
DRAM の開発製造で世界一位のシェアを取ったのと同時期に、台湾と韓国も半導体技術の
キャッチアップ成功で自国の電子産業の基盤を整えた。サムスンは日本の東芝を目指し、
DRAM 技術を模倣しつつ、海外人材の吸収によって半導体事業を強めた。これに対し台湾
は 70 年代末よりアメリカから技術を受け入れながら集積回路の製造と生産に専念してい
た。両国で同じように半導体産業は発展しているが、韓国は DRAM の製造で成功を収め、
台湾は 90 年代電子産業の国際分業の影響によりファウンドリー分野で自国の位置付けを
見い出した。
132石田(1999)123 頁
133台湾経済部輸出工業区管理部
http://www.epza.gov.tw/japanese/page.aspx?pageid=16fccf54be7fe091
69
液晶パネルの生産プロセスと半導体生産プロセスを比較すると、部材と生産プロセスの
類似性が高いことが証明された。半導体製造技術を持っている国が液晶産業に進出するの
は容易なので、韓国は半導体産業の次に積極的に液晶技術を導入した。1997 年サムスンが
日本に代わって液晶市場シェアの1位を取った後、ソニーと連携しながら日本の液晶研究
者の力で自社の液晶事業を発展させようとした。一方、半導体産業の発展とともに 80 年
代台湾のパソコン産業も発展し続けた。半導体産業の発展により蓄積された製造力が台湾
液晶産業発展の優位性であり、パソコン産業の拡大は、台湾のパソコンメーカーが液晶産
業を発展させる背景となった。
90 年代台湾の液晶産業には二つの特徴がある。一つ目の特徴は液晶製造専門メーカーが
多かったこと。もう一つの特徴は TN/STN のモニターの生産が主流となったこと。当時、
台湾液晶メーカー代表の碧悠と元太は液晶製造専門メーカーであった。アメリカ企業の技
術を持つ碧悠と工業研究院の移転成果を受けた元太 2 社とも製造難易度が低い TN/STN の
生産をしていた。一方、UMC が設立した連華電子と家電メーカーの大同グループが設立
した中華映管などのメーカーは TFT-LCD の発展を地道に追求していたが、この頃まだ成
果は出ていなかった。90 年代後半に入り、台湾企業と日本企業の連携が始まった。液晶産
業を発展させる上で、韓国は早期事業化と国主導で資源を集中できる優位性を持っていた
ことに対して、台湾は日本液晶メーカーからの技術提携があった。さらに、ノートパソコ
ン製造でコストをコントロールすることができれば直接利益を得られるのと同じ理由で、
台湾パソコンメーカーは TFT-LCD の生産におけるコストコントロールで、液晶産業の成
立を大きく後押しする力となった。それ故、この時期から新規液晶メーカーが多数現れた。
CMO 以外の HANNSTAR、ACER グループの広達は全てパソコン事業を持っている。国
家主導による半導体産業の発展から総合電子メーカーを目指し、ブランドを打ち出すサムスンに
比べ、企業主体に発展してきた多数の台湾パソコンメーカーが液晶事業を発展させることがで
きたという特徴がここに見られる。
第二章では、台湾液晶産業の発展史を振り返ることによって日系液晶メーカーとの技術
提携以外に、台湾液晶産業が短期間で立ち上がることができた内部の要因を探った。その
結果は以下のとおりであった。
一つ目は、研究面において、学校教育、国家研究機構、メーカーの研究など、複数のシ
ステムの動きが台湾の液晶産業の成立に大きな影響を及ぼした。
70 年代から研究員をアメリカに送りながら半導体産業を発展させようとしたのと比べ、
台湾の液晶産業の人材育成は異なっていた。80 年代、半導体産業の成長とともに台湾の理
系の学生が増加していた時、教育機関と民間液晶学会の設立によって液晶人材の育成が既
に開始されていた。特にその頃から台湾液晶研究者が日本で研究経験を積んだケースが多
数あった。それらの専門家は 90 年代後半の液晶産業の日台提携によって、自分の力を発
揮できる舞台を見つけた。そして、日系 TN/STN-LCD の後行程工場で働いていた台湾従
業員の移入も、液晶産業の成立を加速した。
液晶学会の発展と比べ、国家研究機構の液晶発展計画は、半導体を中心に産業を発展さ
せようとする国家の方向性の方が強く、長く続かなかった。それ故 90 年代に入り、新竹
パークにおける液晶と関連した光電研究の比重は急速に増えてきたが、その規模は半導体
と比べられるほどのものではなかった。中央研究院が液晶の将来性に気付き、2 回の開発
計画を作っても、結局予算と研究開発の重点を半導体に集中させるという理由で計画は中
断された。しかし、工業研究院の計画をきっかけとして、TFT-LCD の研究に資材を投入
する台湾メーカーが増えてきた。このようにメーカーを主体にして発展してきた台湾液晶
産業は、国が育成する半導体産業と異なって、最初から市場経済の原則に従って発展して
70
きたという特徴が見える。
二つ目は、液晶産業の発展について、台湾政府は、直接的な政策と科学パークの建設の
ような国費で液晶技術を開発するのではなく、ハイテクメーカー育成政策と奨励法の作成
で液晶産業の成立を間接的にサポートした。特に 1991 年以降、台湾政府による液晶産業
投資への投資奨励条例の改正と補助金制度が開始された。対象メーカーが政府の補助を受
け、液晶研究を行う時には負担が軽くなった。特に「高科技第 3 類株式方法」により新会
社が株式市場に登場できるようになったことによって、液晶メーカーの資金蒐集ルートを
広げた。一方、2002 年、対中国の投資解禁と台湾政府による二兆双星計画という液晶産業
への支援策により、液晶産業が急速に成長した頃、液晶産業向け科学パークの建設も相次
ぎ完成した。地方政府の権力を背景とした科学パークの成立完成と地方政府中心に行われ
たメーカーの誘致行為が外国部材メーカーの拠点選択に影響し、液晶産業集積の形成につ
ながった。
このような中央及び地方政府が積極的にバックアップしたことと日本側との技術提携に
よる台湾メーカーの進化で、台湾液晶産業が TFT-LCD 製造を発展させるスピードが加速
した。その反面、90 年代アメリカの技術頼みで発展してきた台湾 TN/STN-LCD 液晶メー
カーは、技術力の限界と特許問題で日系メーカーと技術提携する台湾液晶メーカーに負け、
潰れ始めた。2000 年以降、OEM 事業を行うパソコンメーカーを主体として発展してきた
台湾 TN/STN メーカーは、競争力を失って半数以上市場から撤退した。これに代わって、
台湾液晶産業を代表することになるメーカーは、半導体とパソコン事業で成功した台湾電
子製造グループによって設立された液晶メーカーの達碁、連友、中華映管、HANNSTAR
となった。
第三章では、まず台湾半導体メーカーとパソコンメーカーが液晶産業の発展に貢献した
理由を説明した。これらのメーカーは 1999 年から日本メーカーとの提携が始まり、液晶
の開発では半導体メーカーに有利な展開となった。液晶産業と半導体産業の生産プログラ
ムの比較と日系部材メーカーの進出状況によって、日系部材メーカーが台湾電子産業に与
えた影響力も理解できる。第一章で示したように、半導体の生産プロセスと液晶の生産プ
ロセスには類似度が高いという特徴があって、同じ材料も使っている。日系半導体部材メ
ーカーと液晶部材メーカーは重っており、一部の部材メーカーは 70 年代から既に台湾進
出を始めていた。半導体と液晶材料の両方を生産する日本の部材メーカーは半導体メーカ
ーとの提携経験があったので速やかに台湾で液晶事業を始めることができ、台湾の液晶産
業発展に大いに貢献した。これは日本の部材メーカーが 90 年代から速やかに台湾で液晶
部材事業を開始できた理由の一つとなった。こうして長年の半導体発展の技術蓄積が台湾
液晶産業キャッチアップの基礎となり、カラーフィルターなど半導体事業と関係がある部
材の内製化のスピードが急速に進んだ。
東アジアの液晶産業の発展によって、2000 年代の世界の部材メーカーの市場にも変化が
起こっている。1980 年代から発展し始め、現在まで強さを示してきた日系部材メーカーは
相変わらず全体的な優位性を誇っている。液晶部品は、カラーフィルターや偏光板、ガラ
ス、液晶生産設備など光学と材料を重視する部品とバックライトやドライバ IC など電子
を重視する部品の二種類に分けられる。日本は、光学類の部品に絶対的な優位性をもって
いるが、半導体とパソコン産業の後退で電子類の部品の製造力が落ちている。これに対し
て台湾の電子類の部品の製造は、長年の発展を経て、現在、ガラス基板以外のパーツの自
給率が上昇している。そして製造重視の台湾では液晶部品メーカーの収益性は日系部品メ
ーカーより薄いが、電子類の部品の技術と量産化で優位に立っている。一方、韓国は、設
備と材料の自給率を意識的に高めることを目指している。韓国は自国の検査設備を強化し
71
ているので、日本部材メーカーの海外進出は 2000 年代より若干難しくなるかもしれない。
資源を統合しパネルを生産する韓国メーカーは、部材メーカーの吸収と合併によって一
つのグループで液晶部材事業を発展させようとしている。同時に台湾韓国の部品メーカー
とは異なり、大手日系部材メーカーは日本の液晶メーカーと部品で提携関係にあるが、自
社の技術でカメラ、ガラス、化学などそれぞれの領域で不動の地位を持っている。日本の
大手液晶部材メーカーは次の二つの特徴を持っている。
1.液晶メーカーと同じレベルの発展史と技術力を持つ
2.大手部材メーカーは海外進出と同時に技術の伝播者として液晶技術移転を加速させる
大手部材メーカーの液晶産業参入により日本は現在でも一部の部材面で圧倒的な優位性
を持っている。それと同時に日本の液晶メーカーに依存する必要がない日本の大手部材メ
ーカーは、海外進出によって 2000 年代以降、液晶部材の海外事業がさらに拡大した。こ
れにより液晶部品製造技術移転のスピードが加速され、日本の液晶産業の発展にマイナス
の影響を与えたが、部材メーカーのグローバル化には明確なプラスの影響があった。2000
年代の部材メーカーの動きを見ると、日本の液晶メーカーより部材メーカーの方が積極的
に海外に進出したことが見られる。それに比べると日本の液晶メーカーの投資方針は保守
的でいちばん力を持っていた時でも生産ライン投資は日本国内に限られる場合が多かった。
日本の液晶メーカーが、台湾と韓国より海外進出が遅かったことは、中国市場の競争で不
利な局面に陥る原因の一つとなっている。
第四章では、リーマン・ショックによって一度後退した東アジア各国の液晶メーカーの
対応によって変化する各国液晶産業の特徴と現状をまとめた。液晶業界の変化と他の液晶
メーカーとの比較で台湾液晶メーカーの特徴を洗い出したことによって、2008 年リーマ
ン・ショック以降、日本と韓国の液晶メーカーに撤退と合併が起こり、液晶市場が激しく
変化したことがわかった。韓国は液晶事業を自社の携帯事業と結合し、有機 EL 技術を優
先しながら液晶事業を拡大した。これに対し、海外進出で活躍している液晶部材メーカー
とは対照的に、日本の液晶メーカーの撤退が多数起きた。液晶テレビ市場の飽和で技術イ
ノベーション効果が低下し、家電中心に液晶事業を発展させてきた日本の液晶メーカーは
2000 年代後半にその優位性を失った。そして、日本でいちばん液晶事業が大きいシャープ
は基幹部品の製造からテレビの組み立てまでを一貫して行う垂直統合モデルを離れ、パネ
ルの販売も開始している。一方、家電中心に液晶事業を発展させてきた日本メーカーと比
較した時、台湾液晶メーカーは液晶テレビブランドの確立で成功とは言えないという問題
があった。しかし、2000 年代半ばから台湾液晶メーカーの合併が始まり、構造変化が起こ
った。さらに 2009 年以降、台湾唯一の液晶製造専門メーカーが市場から撤退した。パソ
コンの製造から始まり、EMS 事業と液晶製造に至るまで進化した台湾電子製造グループ
は、資金難と液晶市場の飽和の問題に直面した時、液晶パネル製造と自社の EMS 事業を
統合する傾向が強くなった。現在、台湾の AUO 鴻海精密はグローバル化と液晶製品の
EMS 事業を行うという特徴を持っている。このような、技術が発展の中心にあるのでは
なく、製造重視で OEM 色彩を帯びた産業的な特徴が、台湾液晶産業成立 10 年後の現在、
再び強調され始めている。そして、現在流行している中小パネル向けの技術発展について、
一部部材メーカーは新分野参入で遅れている傾向が見えるが、一部のメーカーは継続的な
技術の進化で液晶の舞台に戻ってきた。大型の競争が一旦終わった現在、各メーカーは自
身が強い分野に進んでおり、韓国は有機 EL、日本は新しいパネル技術、台湾はこれらと
は違う領域の商品を創出するという多様性を持っている。
再編の時期を経て、現在市場に残っている液晶メーカーは、レベル以上の技術力を持っ
72
ている。一方、液晶製造技術の普及とパネル単価の下落によって、液晶専門メーカーの地
位が動揺した。さらに企業買収やパネルの直接購入によって、現在、液晶の技術移転や企
業のこの分野への参入が容易になってしまった。それ故資金を持っている新参メーカーは
より簡単な方法で液晶製造技術やパネルを手に入れられるようになった。90 年代の液晶産
業発展とは異なって、現在、1.大型化から多角化、2.製造本位の液晶専門メーカーからパネ
ル事業と統合する電子メーカー、3.技術の取得方式の改変という三つの構造変化で、液晶
パネルの位置付けに既に大きな変化が起こっている。今後、液晶製造メーカーは、液晶パ
ネルの差別化をはかる以外に、液晶パネルの応用範囲の拡大と液晶事業と他事業との連携
について力を入れることも、もっと必要になってくるであろう。
以上の本論文の分析により、台湾の液晶産業の発展は、国家の関与は限られていたもの
の、いくつかの重要な政策によって、発展の土台が築かれた。また、台湾の液晶産業は、
同一産業内の国境を越えた国際分業として理解するのではなく、半導体産業の発展に裏打
ちされ、PC 産業で鍛えられて EMS にまで進化した電子産業の発展によって加速化され、
電子産業のいくつかの戦略転換の結果として最近の興隆を迎えたものである。このような
複合的重層的な関係の中で液晶産業をとらえることが必要となっており、今後の発展も、
これら相互の関係の中で、複雑に絡まりながら進んでいくであろう。
本論文にはいくつかの残された課題がある。
まず、本論文では、従来よりも対象を広げたことによって、いくつか研究の薄い部分が
含まれていることである。一つは、韓国に関わるものである。台湾に先行して、韓国液晶
産業は「圧縮された産業発展」を達成したが、その内実は強力な国家のサポートの下で、
一企業による垂直的な統合を実現する方向で行われたものであった。世界を代表する韓国
企業サムスンの成功は、韓国経済の根幹でもあり、半導体や液晶産業の分野にとどまるも
のではない。サムスンの成功の詳細な分析により、「圧縮された産業発展」について台湾
との比較を行うことができれば、本研究にとっても、大きなプラスになるであろう。もう
一つは、日系部材メーカーの分析である。日系部材メーカーは、それぞれ長い歴史を持っ
た老舗企業でありながら、革新的な事業転換をなしえ、早くから国際化も果たしてきた。
本論文では、日系部材メーカーと半導体産業及び液晶産業との関わりの中で、日系部材メ
ーカーがいかに成長を遂げてきたのかについては、分析することができなかった。新興国
の半導体産業や液晶産業の発展に、日系部材メーカーの果たした役割がいかに大きかった
かは本論文で指摘したが、日系部材メーカーの詳細な分析により、急速な産業発展につい
てさらに豊富化できる可能性がある。次の機会に、これらを果たしたい。
本論文の残された課題の二つ目は、中国における急速な産業発展についてまったく触れ
られなかったことである。たとえば、中国における自動車産業の急激な拡大は、本論文を
発展・豊富化させる上で、格好の事例となるであろう。裾野が広く、数多くの部品産業を
抱え、様々な要因で急速に発展してきた中国の自動車産業の分析を行い、本研究と比較す
ることが必要と考えている。
残された課題の最後は、台湾企業のダイナミズムについて、さらなる研究の余地がある
ことである。本論文で一部触れた、台湾企業と中国との関わりは、様々な産業の台湾企業
が得意とするところであった。台湾企業のダイナミズムを液晶産業にとどめるのではなく、
あらゆる産業について明らかにすることによって、結果的に液晶産業の発展もより客観化
することができるであろう。
73
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