情報の非対称性 - J-marketing.net produced by JMR生活総合研究所

戦略的マーケティングのためのゲーム理論
第5章
情報の非対称性
5.1
情報の非対称性
情報の非対称性(asymmetric information)とは、あるプレイヤーが知っ
ている情報を、他のプレイヤーが知らないことをいう。一部のプレイヤーし
か知らない情報のことを私的情報(private information)という。
5.1.1
私的情報の分類
情報の非対称性のある状況は、何が私的情報となっているかによって、通
常次のふたつに分類される。ただしこの分類は便宜的なもので、どちらにも
とれるような場合もある。
行動がわからない場合(hidden action) あるプレイヤーがどのような行
動をとったのかを、他のプレイヤーが知ることができないというケース。
情報がわからない場合(hidden information) あるプレイヤーが知って
いる情報を、他のプレイヤーは知らないというケース。情報とは、た
とえばきのうのパリの天気はどうだったかとか、A社の業績は今後ど
うなるかといった一般的な意味での情報でももちろんよいのだが、プ
レイヤーの属性についての情報、たとえば能力とか好みとかいったも
のが私的情報になることが多い。このようなプレイヤーの属性のこと
をタイプという。
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第5章
5.1.2
情報の非対称性
ゲームによる表現
他のプレイヤーの行動がわからない場合
他のプレイヤーがとった行動がわ
からないということをゲームで表現するには、情報集合を用いればよい。他
のプレイヤーが行動 a1 をとったのか a2 をとったのかがわからないという状
況は、a1 をとった後の自分の決定点と、a2 をとった後の自分の決定点とを丸
で囲み、一つの情報集合にあるとすれば表現できる。
他のプレイヤーの持つ情報がわからない場合
他のプレイヤーの持っている
情報がわからないということをゲームで表現するには、「自然」と情報集合
を用いればよい。明日が雨なのか晴なのかわからないという状況は、自然が
「雨」を選んだか「晴」を選んだのかを知らない、と考えれば自然というプレ
イヤーの取った行動がわからない場合として、先ほどと同様に表現できる。
また、 私的情報がプレイヤーのタイプに関するものである場合も、次のよ
うな工夫をすれば表現できる。たとえばプレイヤー1が「山が好き」である
確率と「海が好き」である確率が半々であるとして、プレイヤー1は自分がど
ちらであるかを知っているが、他のプレイヤーはそれを知らないという場合、
• 「自然」が、山好きタイプ/海好きタイプのプレイヤー1を、それぞ
れ半々の確率で生みだす。
• プレイヤー1だけは「自然」がどちらのタイプを生んだのかを知って
いるが、他のプレイヤーはそれを知らない。
と考えれば、不完全情報ゲームとして表現することができる。
不完備情報ゲーム
ゲーム理論では、ゲームが始まった時点で私的情報がある
ようなゲームのことを不完備情報ゲーム(game with incomplete information)
と呼ぶ1) 。不完備情報ゲームは、
「いくつかのタイプのプレイヤーを自然が生
み出す」と考れば、不完全情報ゲームとして表現することができる2) 。現実
1)
より厳密には、ゲームの構造(静学ならば、プレイヤー・戦略の集合・利得関数)の一部を知らないプレ
イヤーがいるようなゲームをいう。
2)
ハルサニ(Harsanyi)は、次のように考えれば、不完備情報ゲームを不完全情報ゲームとして定式化で
きることを示した。まずはじめに「自然」がゲーム参加者にいくつかの「タイプ」を与える。世の中にどのよ
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5.2. 契約理論
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の世界において情報が非対称と考えられる状況は多く、不完備情報ゲームは
応用上重要である。
5.2
契約理論
契約理論とは、近年急速に発展したミクロ経済学の一分野で、情報非対称
な状況においてどのような契約を結べば、あるいはどのような制度を導入す
れば、非効率な状況を回避できるかを研究するものである。
契約理論においては、情報非対称な状況を私的情報の発生時期によってまず 2
つに分類する。契約前に私的情報が生じるケースは逆選択(adverse selection)、
契約後に私的情報が生じるケースはモラルハザード(moral hazard)と呼ば
れる。以下、これらのモデルを極力シンプルなゲームの形で紹介することを
試みる。
5.2.1
モラルハザード
モラルハザードとは、相手方の行動を正確に知ることが出来ないために、
相手方に望ましくない行動をとる誘因が生じる現象をいう3) 。たとえば、雇
用主が見ていないと従業員が仕事をサボるとか、古くなったノートパソコン
をたたき壊して保険金を請求するといった現象がその典型的なものである。
モラルハザードによって引き起こされる非効率は、行動に先だって適切な契
約を結ぶことで緩和される。
例 15. モラルハザード (moral hazard)
経営者(プレイヤー 1)が従業員(プレイヤー 2)に雇用契約を提示
する。従業員は外部機会(このときの従業員の利得は 0 である)よりも
有利であれば契約に応じる。雇用契約を結んだ場合、従業員には努力を
するか、しないかの 2 つの選択肢がある。努力をすると従業員には 3 の
うなタイプのプレイヤーがどのような確率で存在するのかということは知っているが、自分がどのタイプに属
するのかは自分しか知らず、他のプレイヤーがどのタイプに属するのかはわからないとする。各プレイヤーは
自分のタイプに応じて戦略を選択する。選ばれた戦略に応じて各プレイヤーの利得が決まる。
3)
モラルハザードにおける私的情報は、hidden information である場合も hidden action である場合
も考えられるが、通常多く取り上げられるのは hidden action の場合であり、ここでもこちらを扱う。
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第5章
情報の非対称性
コストが生じる。従業員が努力をすると仕事の成功率は 8 割になる一方、
努力をしないと成功率は 2 割になる。
行動
コスト
成功
失敗
努力する
3
0.8
0.2
努力しない
0
0.2
0.8
経営者は仕事が成功すると 10、失敗すると 0 の利益を得る。経営者は従
業員が努力したかどうかを直接に観察することはできないが、仕事の結
果は観察・立証することが可能なので、成功報酬は契約に盛り込むこと
ができる。成功したときの報酬を w1 、失敗したときの報酬を w2 とする。
(1) 成功しても失敗しても同じ報酬が支払われる(w1 , w2 = w > 0)場
合、従業員は努力をしないことを示せ。
(2) w1 , w2 に制限がない場合、経営者はどのような契約を提示するのが
よいか。
(3) 従業員に罰金を科すことができない(w1 , w2 ≥ 0)場合、経営者は
どのような契約を提示するのがよいか。
ゲームの定式化
ゲームは次のステージからなる。
t=0 経営者が報酬体系 (w1 , w2 ) を決定し、それを従業員に提案する。
t=1 従業員が契約するかどうかを決める。契約する場合、努力をするかし
ないかを決める。
t=2 仕事が成功するか失敗するかが決まる。従業員が努力したかどうかに
応じて成功確率が変化する。経営者は仕事の成果に応じて、事前に契
約したとおりの報酬 w1 または w2 を従業員に支払う。
ゲームの木で表すと図 5.1 のようになる。
努力をしたかどうかを経営者は知ることができない4) ので、努力をしたら
○○円、努力をしなければ△△円、という形の契約を結ぶことはできない。
4)
観察することはできても裁判所に対して立証不可能(unverifiable)であれば同じことである。
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5.2. 契約理論
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(10- w 1 , w 1 -3)
[0.8]
Nature
success
fail
Worker
work hard
[0.2]
(0- w 2 , w 2 -3)
be lazy
[0.2]
(10- w 1 , w 1 )
success
good bye
fail
(0, 0)
[0.8]
(0- w 2 , w 2 )
図 5.1: モラルハザード
そのかわりに、成功したら w1 、失敗したら w2 という形の契約をうまく提
示することで、従業員の努力を引き出すことを考える5) 。
もし成功しても失敗しても同じ報酬 w を支払うとすれば、努力した場合の
利得は w − 3、努力しない場合の利得は w であるから、当然、従業員は努力
をしない努力を引き出すためには、成功したときの賃金 w1 と失敗したとき
の賃金 w2 に差をつける必要がある6) 。また、賃金が外部の就労機会に比べて
ある程度高くなければ、従業員はそもそも契約に応じてくれないだろう。こ
れらを考慮しながら、利益を最大にするためには経営者はどのような契約を
提示すればよいだろうか。
報酬額に制約がない場合
従業員が努力した場合の期待利得は 0.8w1 +0.2w2 −
3 努力しない場合の期待利得は 0.2w1 + 0.8w2 であるから、このゲームは図
5.2 のように縮約される。従業員の努力を引き出す、すなわち、図 5.2 で従業
5)
従業員が努力しないように報酬を定めることもできるが、その場合の経営者の利得は、従業員が努力する
場合に比べて明らかに小さくなる。なお、 期待総余剰(経営者・従業員の期待利得の合計額)は従業員が努力
した場合には 5、努力しない場合には 2 となることから、社会的に見ても努力を引き出すほうが効率的である。
6)
現実には報酬に差を付けない方が努力を引き出せるという報告も多くある。しかしここでは、ひとまず単
純に、従業員は利得が最大になるような行動をとると仮定して分析をすすめることにする。
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第5章
情報の非対称性
0.8w 1 +0.2w 2 -3
work hard
Worker
be lazy
good bye
0.2w 1 +0.8w 2
0
図 5.2: モラルハザード:第1ステージ
員が「努力する」という選択肢を選ぶようにするためには、w1 , w2 は 2 つの
条件を満たす必要がある。まず、契約を結ばないよりも結んで努力する方が
従業員にとって有利(または無差別)でなければ従業員は契約を結んでくれ
ない。そのための条件は次のようになる。
0.8w1 + 0.2w2 − 3 ≥ 0
(PC)
これを参加制約(participation constraint)と呼ぶ。つぎに、従業員にとっ
て努力しないよりもする方が有利(または無差別)でなければ従業員は努力
をしてくれない。従業員が努力するための条件は次のようになる。
0.8w1 + 0.2w2 − 3 ≥ 0.2w1 + 0.8w2
(IC)
努力する誘因を引き出すための制約条件という意味でこれを誘因制約(incen-
tive constraint)と呼ぶ。経営者は、誘因制約と参加制約とを満たしつつ、期
待利得 0.8 × 10 + 0.2 × 0 − w1 = 8 − w1 が最大になるように、つまり、な
るべく w1 が小さくなるように w1 , w2 を決定する。(IC) から w1 − w2 ≥ 5
を得る。w1 は小さいほどよいので、w1 = w2 + 5 として (PC) に代入すると
w2 ≥ −1 となる。したがって、従業員の努力を引き出しながら、経営者の期
待利得が最も大きくなるような契約とは
w1 = 4,
w2 = −1
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5.2. 契約理論
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であることがわかる。このときの経営者の期待利得は 5、従業員の期待利得
は 0 となる7) 。
負の報酬が禁止されている場合
しかし、負の報酬 w というのは、多くの場
合には現実的でない。従業員に最低限いくらかの報酬を保証しなければなら
ない(ここでは外部機会と同額で 0 とする)とすれば8) 、経営者はどのよう
な契約を提示すればよいだろうか。この場合、先ほどの (IC)、(PC)に、最
低給与条件(minimum-wage constraint)
w2 ≥ 0
(MC)
を加えて利益最大化問題を解くことになる。(MC) のほうが (PC) よりも厳し
い制約となる。これを解くと
w1 = 5,
w2 = 0
となる。このときの経営者の期待利得は 4、従業員の期待利得は 1 である。
情報レント
経営者は、従業員の努力水準を直接観察することができないた
め、余剰の一部を従業員に供与していることになる9) 。逆に従業員は、努力し
ているかどうかを経営者にタダでは知らせないことによって余分の報酬を引
き出すことに成功している。この交渉力の源泉は従業員の持つ私的情報(努
力しているか、していないか)によるものである。このような私的情報によっ
て得られる余剰を情報レントと呼ぶ。一般に、情報を持たないプレイヤーが
情報を得るためには情報レントを支払う必要がある。原則として、情報はタ
ダでは手に入らないのである。
7)
なお、ここで従業員の期待利得が 0 になるのは、経営者が従業員に対して、契約を呑むか、さもなけれ
ば破談かという再交渉の余地のない形で提案する(後出の take it or leave it offer)という仮定に基づいた
モデルになっているためである。この場合、経営者は従業員の利得を外部機会ギリギリまで抑え、余剰を総取
りすることができる。従業員に再交渉の余地がある場合にはこの分配比率は異なるが、本文にあるように最低
給与条件が存在する場合には従業員の取り分がさらに増すという結論は変わらない。
8)
このモデルは、従業員は報酬が負になるかもしれないというリスクを負担することができない、というこ
とを表していると解釈することもできる。実際、経営者がリスク中立的であり、従業員がリスク回避的である
としてモデルを作っても、同様の結論が得られる。
9)
最低給与条件があっても、経営者が従業員の努力水準を直接観察することができるならば、「努力したら
報酬 3(+ε)、努力しなければ報酬 0」という契約を提示すれば余剰を総取りすることができる。
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第5章
5.2.2
情報の非対称性
逆選択
契約前に生じた私的情報、すなわちプレイヤーの「タイプ」を、他のプレ
イヤーは知ることができない状況では、しばしば非効率な事態が生じる。つ
ぎにあげるのはアカロフ(G.A.Akerlof)による有名な設例である。
例 16. 中古車市場 (lemon market)
プレイヤー1がプレイヤー2から車を買う。買い手と売り手にとっ
ての車の価値は下の表の通りである。まず買い手が売り手に高い価格
(= 50)か低い価格(= 10)を提示する。売り手は提示価格を見て、車
を売るか売らないかを決める。売り手と買い手にとっての車の価値はそ
れぞれ下の表の通りである。
存在確率
売り手価値
買い手価値
良品
0.5
40
60
ポンコツ
0.5
0
20
(1) 買い手が車の品質を知ることができる場合、良品には高い価格を、
ポンコツには低い価格を提示し、売り手は取引に応じることを示せ。
(2) つぎに、買い手が車の品質を知ることができない場合を考える。車
が良品である確率とポンコツである確率はそれぞれ半々であり(こ
のことは買い手も知っている)、売り手は自分の車の品質を知って
いるとする。このゲームの完全ベイズ均衡を求めよ。
ゲームの定式化
ゲームは次のステージからなる。
t=1 自然が「良品」と「ポンコツ」の自動車を半々の確率で生み出す。
t=2 買い手が価格を提示する。
t=3 売り手は提示された価格を見て、売却に応じるかどうかを決める。
情報が対称な場合
買い手が車の品質を知ることができる場合の状況を、ゲー
ムの木で表現すると図 5.3 のようになる。後ろ向き帰納法によってゲームを
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5.2. 契約理論
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解けば、図のように、買い手は良品には高い価格を、ポンコツには低い価格
を提示し、どちらのタイプの車を持つ売り手も取引に応じることがわかる。
このとき、売り手の期待利得は 30、買い手の期待利得は 10、双方の期待利得
の合計は 40 となる。
情報が非対称な場合
つぎに、買い手が車の品質を知ることができない場合
の状況を、ゲームの木で表現すると図 5.4 のようになる。後ろ向き帰納法に
よってゲームを解く。売り手のとる行動は、情報が対称な場合(図 5.3)と同
じである。買い手の決定点はひとつの情報集合に含まれているため、上の決
定点で高い価格を選び、下の決定点では低い価格を選ぶということができず、
どちらかに決めなければならない。高い価格を提示したときの期待利得は
1
1
× 10 + × (−30) = −10
2
2
それに対して、低い価格を提示したときの期待利得は 5 であるから、売り手
は低い価格を提示する。したがって完全ベイズ均衡は、買い手は低い価格を
提示し、ポンコツを持つ売り手だけがそれに応じる、というものになる(図
5.4)。このとき、買い手の期待利得は 5、売り手の期待利得は 25、双方の期
待利得の合計は 30 となる。情報が対称な場合に比べて、双方の期待利得の合
計、すなわち「社会的総余剰」が減少していることがわかる。この非効率は
良品が取引されないことによって生じたものである。
逆選択
このように、契約において片方当事者が相手の「タイプ」を知るこ
とができない場合には、良いタイプは取引に参加しなくなり、悪いタイプばか
りが市場に残るようになる。この現象を逆選択(adverse selection)という。
逆選択が働く場合、市場に出てくる商品の平均的品質が低くなるため、買い
手の提示できる価格はますます低くなる。すると、良いタイプはさらに市場
に出なくなり、いっそう悪いタイプばかりが残るという悪循環が生じ、
「悪貨
が良貨を駆逐する」ことになるのである。たとえば生命保険において、保険会
社が契約者の健康状態を全く知ることができない10) とすれば、不健康な人ば
10)
かつ、契約者は自分の健康状態・余命・必要となる医療費などを正確に把握していると仮定する。
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第5章
Buyer
Good
Nature
情報の非対称性
Seller
Accept
High Price
Reject
Low Price
Accept
[0.5]
Reject
Accept
[0.5]
Lemon
High Price
Reject
Low Price
Accept
Reject
(10, 50)
(0, 40)
(50, 10)
(0, 40)
(-30, 50)
(0, 0)
(10, 10)
(0, 0)
図 5.3: 中古車市場:品質がわかる場合
Buyer
Good
Nature
Seller
Accept
High Price
Reject
Low Price
Accept
[0.5]
Reject
Accept
[0.5]
Lemon
High Price
Reject
Low Price
Accept
Reject
(10, 50)
(0, 40)
(50, 10)
(0, 40)
(-30, 50)
(0, 0)
(10, 10)
(0, 0)
図 5.4: 中古車市場:品質がわからない場合
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5.2. 契約理論
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かりが――掛金のモトを取れそうな人ばかりが――契約を結ぼうとする。そ
れでは保険会社は潰れてしまうので掛け金を高くすることになるが、すると
その高くなった掛金でモトがとれる人しか保険に加入しないことになり、ま
すます掛金を上げざるを得なくなるという悪循環に陥り、ついには保険市場
そのものが成り立たなくなってしまう。
逆選択を避ける方法 (1) 目に見える基準でタイプ分け
逆選択を避ける手だ
てはいくつか知られている。もっとも直接的な解決は、相手のタイプをある
程度見抜けるようにすることである。完全にはわからなくとも、目に見える
性質から不確実性の幅をいくぶんでも狭めることができればそのぶんだけ逆
選択の非効率は解消する。たとえば中古車の例であれば、
「○○製・購入後△
年・走行距離□万 km の車の平均的品質」を知ることができれば、取引が成
立するケースが増加すると考えられる。生命保険の例では、契約者を年齢や
既往歴によって分別して異なる掛金を提示することで、逆選択が生じにくい
ようにしている。ただし相手のタイプを見抜くにはその分コストが必要であ
ることが多く、その費用との兼ね合いになる。
逆選択を避ける方法 (2) 情報を知らせる/知らせてもらう
逆選択のもうひ
とつの解決法は、情報を知らせる、あるいは情報を知らせてもらうことで情
報の非対称をなくすというやり方である。私的情報を持つプレイヤーがイニ
シアティヴをとって、自分が持っている情報を相手に知らせる方法と、逆に、
私的情報を持たないプレイヤーがイニシアティヴをとって、相手に情報を開
示してもらえるようにうまく契約のメニューを仕組む方法とがある。前者は
シグナリングやチープトーク、後者はスクリーニングと呼ばれるモデルで表
現される。以下の節でこれらのモデルを紹介する。
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第5章
5.2.3
情報の非対称性
スクリーニング
これは、情報を知らない側のプレイヤーが、情報を知っている側に「契約
のメニュー」を提示して、その中から好きなものを選んでもらうことで、結
果として相手のタイプを把握するという方法である。
例 17. スクリーニング (screening)
酒屋(プレイヤー 1)に一見のお客(プレイヤー 2)がワインを 1 本
買いに来る。ワインには「良いワイン」と「並のワイン」の 2 種類があ
る。またお客には「ワイン好き(以下タイプ A)」と「飲めれば何でもい
い人(以下タイプ B)」の 2 つのタイプがある。酒屋は店にやってきたお
客がどちらのタイプなのかを知ることはできないが、その比率が r : 1 − r
であることは知っているものとする。ワインの仕入れ値、お客にとって
のワインの価値 (willingness to pay) は次の表のようになっている(これ
らのデータは周知の事実とする)。
タイプ A
タイプ B
仕入価格
販売価格
良いワイン
5000
3000
2500
p1
並のワイン
2000
1000
500
p2
お客はワインの種類と値段を見て、自分にとって最も価値が高いものを
1 本だけ買う。ただし、どちらを買っても価値が 0 より小さくなる場合
には何も買わずに帰る。酒屋の利益を最も大きくするためには、それぞ
れのワインの販売価格 p1 , p2 をどのように設定すればよいだろうか。
ゲームの定式化
ゲームは次のステージからなる。
t=0 売り手が、ワインの品揃えと値段を決定して、店頭に提示する。
t=1 「自然」が、確率 r でタイプ A の、確率 1 − r でタイプ B の買い手を
店に連れてくる。
t=2 買い手が、ワインの品揃えと値段を見て、どのワインを買うか、ある
いはどれも買わないかを決定する。
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5.2. 契約理論
31
High quality
(p 1 -2500, 5000-p 1 )
Consumer
Lower quality
(p 2 -500, 2000-p 2 )
[r]
Nature
Not buy
(0, 0)
Type A (Sophisticated)
High quality
(p 1 -2500, 3000-p 1 )
Type B (Coase)
[1-r]
Lower quality
(p 2 -500, 1000-p 2 )
Not buy
(0, 0)
図 5.5: スクリーニング
この状況をゲームの木で表すと図 5.5 のようになる。自然が「味のわかる」
買い手と「飲めればいい」買い手を生み出し、それぞれの買い手は自分のタ
イプを知った上で、自分にとって最も良い枝を選択する。買い手がどのワイ
ンを買うか、あるいは買わないかは付け値次第で決まる。これらを考慮に入
れて、売り手がどのようにワインの値段を決定すればよいかを考える。
分離均衡
後ろ向き帰納法によってこのゲームを解く。常識的には、タイプ
A に良いワインを売り、タイプ B に並のワインを売るのが良さそうである。
しかし値段の付け方によっては、タイプBに売るはずの並のワインをタイプ
Aも買っていってしまい良いワインが売れないとかいうことも起こるだろう。
そこで、タイプAが良いワインを選び、タイプBが並のワインを選ぶために
は価格がどのような条件を満たす必要があるかを考え、その条件の下で売り
手の利得が最も大きくなるような販売価格を求めることにしよう。価格が満
たすべき制約条件は大きく分けて 2 種類ある。ひとつは誘因制約(incentive
constraint)、すなわち、それぞれのタイプの買い手が売り手の意図する契約
(商品)を選択するための条件である。タイプ A が並のワインよりも良いワ
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第5章
情報の非対称性
インを選び、タイプ B が良いワインよりも並のワインを選ぶための条件は
5000 − p1 ≥ 2000 − p2
(ICA )
3000 − p1 ≤ 1000 − p2
(ICB )
である。p1 , p2 が満たすべきもうひとつの条件は参加制約(participation con-
straint)である。各タイプの買い手にとって、売り手の意図する契約(商品)
を選択する方が契約を結ばない(商品を購入しない)よりも有利であるよう
に価格を設定する必要がある。本例では、タイプ A が良いワインを買うとき、
および、タイプ B が並のワインを買うときのそれぞれの買い手の利得が 0 よ
りも大きくなければならないことから、
5000 − p1 ≥ 0
(PCA )
1000 − p2 ≥ 0
(PCB )
となる。これら 4 つの制約を満たしながら、売り手の期待利得
(p1 − 2500)r + (p2 − 500)(1 − r)
が最大になるような p1 , p2 をさがせばよい。PCB が等号で満たされるとすれ
ば11) p2 = 1000 となる。これを ICA に代入すると p1 ≤ 4000 となる。売り
手にとっては、タイプ A が良いワインを買ってくれる限り p1 を高く付けた方
が儲かるので、結局 p1 = 4000,
p2 = 1000 とするのが最適である。これは
PCB も満たしている。このときの売り手の期待利得は 1000r + 500 である。
スクリーニング
売り手は買い手がどのタイプか知らなかったのに、買い手
が商品の選択を通じて自分のタイプを表明して、結果としてそれぞれのタイ
プに応じたワインを販売することができた。このように、私的情報を持つ主
体と契約を結ぶときには、相手のタイプに対応したいくつかの契約を併記し
たメニューを提示して、相手に好きなものを選んでもらうことによって、相
11)
各タイプの選好について単一交差性条件が満たされている場合、最低タイプの利得が 0 であることは、利
益最大化の必要条件であることが知られている。
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5.2. 契約理論
33
手がどのようなタイプであるかを知ることができる場合がある。この方法は
スクリーニング(screening)と呼ばれる12) 。本例では、買い手がワインにつ
いてどのような好みを持っているかわからないことが「私的情報」にあたり、
いくつかのワインを品揃えして値段を付けて店に並べておくことが「契約の
メニューを提示」することにあたる。
情報レント
このケースでは、タイプ B の買い手の利得は 0 である一方、タ
イプ A の買い手は自分にとっての価値 5000 のワインを 4000 で買うことがで
きるので 1000 の利得を得る。一般に、分離均衡においては、
• 最低タイプの買い手の利得は 0 になる。
• それより高いタイプの買い手は、タイプの高さに応じて利得を得る。
ことが知られている。高いタイプの得る利得は、自分が高いタイプであると
いう私的情報を有していることによって得られたもの13) であることから、情
報レントと呼ばれる。逆にいえば、売り手が買い手の持つ私的情報を引き出
すためには、高いタイプの買い手に対しては情報レントを支払う必要がある
ということになる。
一括均衡
タイプ A・タイプ B 共に同種のワインを買うように価格を設定す
ることもできる。両タイプ共に良いワインを買うように値段をつけるとすれ
ば、p2 を十分に高くする(あるいは並のワインを扱わない)ようにした上で、
5000 − p1 ≥ 0
(PCA )
3000 − p1 ≥ 0
(PCB )
12)
契約で相手を選別する(screen)という見方による。買い手が自分のタイプに適した契約を自ら選ぶと
いう見方から、このメカニズムを自己選択(self selection)と呼ぶこともある。
13)
もし自分が高いタイプであるということが私的情報でないならば、売り手はタイプ A に対しては良いワ
インを 5000 で、タイプ B に対しては並のワインを 1000 で提供することで買い手の余剰を全て吸収するこ
とができる。なお、これは売り手の独占力に由来する力である。同じ商品を提供する売り手が他にもある場合
には、売り手の間で競争が生じるため、売り手の得る余剰は逆にきわめて小さくなる。
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戦略的マーケティングのためのゲーム理論
34
第5章
情報の非対称性
を満たすように価格を設定する。p1 = 3000 が売り手にとって最善であり、そ
のときの期待利得は 500 となる。しかし分離均衡の方が常に利得が大きくな
るので、この戦略は有効でない。
ターゲティング均衡
実はこのゲームにはもうひとつ有力な戦略がある。そ
れは、どうせ並のワインしか買ってくれない、しかも安い値段でしか買って
くれないタイプ B に売ることをあきらめ、顧客をタイプ A に絞るという方法
である。p2 を十分に高くする(あるいは並のワインを扱わない)ようにした
上で、
5000 − p1 ≥ 0
(PCA )
だけを満たすように価格を設定すればよい。p1 = 5000 が売り手にとって最
善であり、そのときの期待利得は 2500r となる。分離均衡の場合と利得を比
較すると、
2500r > 1000r + 500
より r > 1/3、すなわち、タイプ A が市場に 1/3 以上存在することがわかっ
ているのであれば、安いワインは売らずタイプ B を切り捨てるほうがかえっ
て利益は高くなることがわかる。
スクリーニング:まとめ
以上、スクリーニングのモデルから得られる示唆
をまとめると次のとおりである。
• 私的情報を持つ「良いタイプ」には、悪いタイプにくらべて高い効用
が発生する。これは情報レントによるものである。
• 最適な価格設定は、悪いタイプの余剰を全て吸収し、良いタイプにレ
ントを与えるものである。
• 悪いタイプが少ない場合には、悪いタイプには売らないほうがよい場
合がある。
【発展】単一交差性条件
本例において、タイプ A の買い手にとっての良い
ワインと並のワインとの価値の差は 5000 − 3000 = 2000 であるのに対し、
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5.2. 契約理論
35
High quality
(p 1 -2500, 5000-p 1 )
Consumer
Lower quality
(p 2 -500, 2000-p 2 )
[r]
Nature
Not buy
(0, 0)
Type A (Sophisticated)
High quality
(p 1 -2500, 3000-p 1 )
Type B (Coase)
[1-r]
Lower quality
(p 2 -500, 1000-p 2 )
Not buy
(0, 0)
図 5.6: スクリーニング:分離均衡
High quality
(p 1 -2500, 5000-p 1 )
Consumer
Lower quality
(p 2 -500, 2000-p 2 )
[r]
Nature
Not buy
(0, 0)
Type A (Sophisticated)
High quality
(p 1 -2500, 3000-p 1 )
Type B (Coase)
[1-r]
Lower quality
(p 2 -500, 1000-p 2 )
Not buy
(0, 0)
図 5.7: スクリーニング:ターゲティング均衡
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36
第5章
情報の非対称性
タイプ B にとっての価値の差は 2000 − 1000 = 1000 である。これは、タイ
プ B が良いワインの方が買い得だと思っているのに、タイプ A がそう思わな
いということはない、ということを意味する。一般に、高いタイプのプレイ
ヤーにとっての高品質の商品と低品質の商品との価値の差は、低いタイプの
プレイヤーにとってのそれよりも大きい、という仮定のことを単一交差性条
件(single crossing property)あるいは Spence-Mirrlees 条件という14) 。こ
れは、「もののわかる」タイプのプレイヤーの方が、商品の品質向上を「常
に」高く評価するということを意味する。この条件が満たされる場合には、
高いタイプの買い手は、もし商品を買うのであれば、必ず低いタイプと同じ
か、それよりも高品質の商品を買うことが示される。これはそれほど自明な
ことではなく、現実にも常に満たされる条件とはいえない。しかし多くの場
合には妥当と考えられ、またこれを受け入れると分析が非常に簡便になるた
め契約理論においては広く受け入れられている。なお本例では、並のワイン
についてもタイプ A のほうがタイプ B よりも高く評価しているので、タイプ
B が何かワインを買うのに、タイプ A は何も買わないということはない。こ
れらを総合すると、
• タイプ A はタイプ B と同じかそれよりも良いワインを買う。
• タイプ B がワインを買うならば、A も必ず何かワインを買う。
ということがいえる。これを用いると、ゲームの木の枝の全てを比較する必
要がなくなり、大変便利である。
5.2.4
チープトーク
つぎに、情報を知っているプレイヤーが主導権をとって情報の非対称を解
消する方法を考えてみよう。単純に考えると、情報を知っているプレイヤー
14)
この条件を一般的に書くと次のようになる。プレイヤーのタイプを θ 、商品の品質 q が連続的に存在し、
プレイヤーの効用関数 u(q, θ) が q, θ につき微分可能であるとき、
∀θ, ∀q,
∂2u
(q, θ) > 0
∂q∂θ
単一交差性条件とは、横軸に品質 q 、縦軸に効用 u をとってグラフを描いたときに、高いタイプ θ̄ と低いタ
イプ θ のグラフは一度しか交わらないということを意味する条件である。
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5.2. 契約理論
37
が、相手に自分がどんなタイプの人間であるか、あるいは自分がどんなタイ
プの情報を持っているかを知らせればよいのではないかと思われる。実際、
それで十分な場合も多々ある。次の例を見てみよう。
例 18. チープトーク (cheap talk)
とある欧州の国に旅に出かけた F 氏(プレイヤー1)、ある晩、小
腹が空いてバールの扉をくぐった。幾種類かの前菜が大皿に盛られてカ
ウンターにおかれている。F 氏はカニやタコやエビをこよなく愛する一
方、内臓料理が苦手である。F 氏は好物が食べられることに喜びを感じ、
バールの主人は F 氏が好物を食べてくれることに喜びを感じる――その
ほうがきっと儲かるだろうし。遠来の客を歓待すべく、次々と前菜をよ
そって勧めるバールの主人(プレイヤー2)にうまく好みを伝えるには、
どうすればよいだろうか?
ゲームの定式化
ゲームは次のようなステージからなる。
t=1 「自然」が F 氏のタイプを決定する。
t=2 F 氏は自分のタイプに応じて何らかの行動を取る。
t=3 主人は F 氏の行動を見て、前菜をよそうか止めるかを決める。
バールの主人は、一見の客である F 氏の容姿をみても、何が好きで何が嫌い
な人なのかを知ることはできない。F 氏は、自分がどういうタイプのプレイ
ヤーであるのかという私的情報を、なんらかの行動を通じて主人に伝える必
要がある。
自分の気持ちを伝えるシグナル
こういう方法はどうだろうか。
バールの主人が前菜の大皿を指したときに、それが好物であれ
ば首をタテに振り、それが苦手ならば首をヨコに振る。
この国がスペインであったとする。大皿を前にしての両者のやりとりをゲー
ムの木で表したものが図 5.8 である。スペインのバールの主人は、F 氏がそ
の料理を好きなのかどうかはわからないが、
「首をタテに振るなら、それはプ
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38
第5章
情報の非対称性
Master
(1, 1)
Master
Traveler
盛る
盛らない
100%
(-1, -1)
タテに振る
ヨコに振る
(1, 1)
盛る
盛らない
0%
(-1, -1)
魚好き
Nature
魚嫌い
(-1, -1)
盛る
盛らない
0%
100%
タテに振る
(1, 1)
ヨコに振る
Traveler
(-1, -1)
盛る
盛らない
(1, 1)
図 5.8: チープトーク:ある信念のもとでの均衡
レイヤーがその料理を好んでいるということである」という信念を有してい
る。F 氏は、バールの主人がそのような信念を有していることを知っている
ならば、それを利用して、自分の好みを首の運動をシグナル(signal)とし
て伝達することができる。首を動かすことのコストは無視できるものとすれ
ば、F 氏は自分がどのようなタイプであるかという私的情報を、コストなし
でバールの主人に通知できたことになる。
チープトーク:タダで情報を伝える
このように、全くコストがかからない
メッセージを送ることによって、相手に自分のタイプを知らせることをチー
プトーク(cheap talk、無駄口)と呼ぶ。人は日常のコミュニケーションにお
いて、いちいち情報レントを支払ったり、手間のかかる契約を結んだりして
いるわけではないが、うまく意思疎通を行い、非効率な事態の発生を避ける
ことに成功している。チープトークがうまくいくためには、自分と相手の利
害が一致していることが重要である。バールの主人がわざとシグナルを取り
違えて F 氏に嫌がらせをしたり、F 氏がバールの主人の信念を逆手にとった
りする誘因は何もないのである。
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5.2. 契約理論
Master
(1, 1)
Master
Traveler
盛る
盛らない
39
タテに振る
0%
(-1, -1)
ヨコに振る
(1, 1)
盛る
盛らない
100%
(-1, -1)
魚好き
Nature
魚嫌い
(-1, -1)
盛る
100%
盛らない
0%
タテに振る
ヨコに振る
Traveler
(1, 1)
(-1, -1)
盛る
盛らない
(1, 1)
図 5.9: チープトーク:異なる信念のもとでの均衡
異なるシグナルを持つ文化
つぎに、この国がブルガリアであったとする。
両者のやりとりをゲームの木で表したものが図 5.9 である。ブルガリアでは
「はい(Да)」というときには首をヨコに振り、
「いいえ(Не)」というとき
には首をタテに振る。もし F 氏が、バールの主人がそのような信念を有して
いることを知っているならば、図 5.9 のようにスペインの時とは逆のシグナ
ルを発することによって、バールの主人に自分のタイプを伝えることができ
る。もし知らなければ、そのことに気づくまでは意思疎通はうまくいかない。
シグナルの恣意性
上の2つの例において、各プレイヤーは全く逆の行動を
とっているが、結果的には、好物はたくさん食べ苦手なものは避けるという、
同じ均衡に到達している。嫌なものに顔をしかめて見せても、コトバを発し
ても、両プレイヤーが適切な信念を共有している限り、同じ均衡に到達する
ことができただろう。選好を伝えるためのシグナルとして、どのような行動
が用いられるかは、均衡選択には影響しない。どのような信念――あるいは
記号と意味との対応関係の体系――が共有されているかだけが問題となる。
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戦略的マーケティングのためのゲーム理論
40
第5章
情報の非対称性
シグナルは「記号」として用いられるのである。
5.2.5
シグナリング
チープトークのモデルでは、情報の送り手と受け手の利害が一致していた。
そのため、私的情報を伝えるためのシグナルはどんなものでも良く、なるべ
くコストのかからないもので十分であった。しかし、情報の送り手と受け手
の利害が対立する場合には、情報の送り手が自分のタイプを偽って申告する
おそれがある。このような場合には、コストがかからないシグナルでは信用
してもらえないことがある。次の設例をみてみよう。
例 19. シグナリング
企業が従業員を雇うかどうか考えている。従業員には能力が高いも
のと低いものとが半分ずつの割合で存在する。能力の高い従業員は企業
に 10 の粗利益をもたらし、能力の低い従業員は 3 の粗利益をもたらす。
能力の高い従業員は、企業に雇われなかった場合には他で働き口を見つ
けて 6 の利得を得ることができる。能力の低い従業員が雇われなかった
場合の利得は 0 である。従業員は自分の能力を知っているが、企業は従
業員の能力を直接知ることはできない。従業員は望めば「資格」を取得
することができる。資格を取得するためには、能力の高い従業員は 1、能
力の低い従業員は 7 のコストを支払う必要がある。なお資格を持ってい
るか否かは、従業員の生産性とは無関係であるとする。
生産性
資格取得コスト
外部機会
能力高
10
1
6
能力低
3
7
0
企業は従業員に高い賃金(= 8)、低い賃金(= 2)のいずれかを支払う
とする。このゲームの(純粋戦略)完全ベイズ均衡を求めよ。
ゲームの定式化
ゲームは次のようなステージからなる。
t=1 「自然」が従業員の能力を決定する。
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5.2. 契約理論
Manager
(7, 2)
Manager
Worker
高給
薄給
41
b1
(5, 0)
資格取得
能力高
資格なし
(8, 2)
高給
薄給
b2
(6, 0)
[0.5]
Nature
能力低
(1, -5)
高給
[0.5]
1-b 1
薄給
1-b 2
資格取得
資格なし
(8, -5)
高給
薄給
Worker
(-5, 1)
(2, 1)
図 5.10: シグナリング
t=2 従業員は自分のタイプ(能力)を知って、資格を取得するかどうか決
める。
t=3 企業は従業員が資格を持っているかどうかを観察して、高給・薄給の
いずれかを提示する。
t=4 従業員は企業の提示を受けて、就職するか否かを決める。
能力の低い従業員は必ず就職するが、能力の高い従業員は高給を提示しない
と就職しないことに注意すると、ゲームの木は図 5.10 のようになる。もし能
力を自己申告させる(コストのかからない「自己申告」というシグナルを用
いる)ことにすれば、従業員はネコもシャクシもみんな、能力が高いと自己
申告して高い賃金を得ようとするであろう。このような場合には、従業員は
「自分の能力は高いから高い給料をくれ」とただ言うだけでは経営者に信用し
てもらえない。嘘をついているかもしれないからである。
分離均衡
このような状況でも、コストのかかる「資格」というシグナルがう
まく機能して従業員が経営者に自分の能力を伝えることができる場合がある。
それを以下に示す。いま経営者が、
「資格を持っている者は能力が高く、そう
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戦略的マーケティングのためのゲーム理論
42
第5章
情報の非対称性
でない者は能力が低い」
(b1 : 1 − b1 = 100% : 0%、b2 : 1 − b2 = 0% : 100%)
という信念を有しているとする。この信念のもとでは、
• 能力の高い従業員は資格を取り、低い従業員は資格を取らない。
• 経営者は、資格を持つ従業員には高い賃金を、持たない従業員には低
い賃金を提示する。そして、どちらのタイプの従業員も提示された賃
金を受け入れて仕事に就く。
という戦略の組が完全ベイズ均衡となることを以下に示す。
t=3:経営者の戦略 経営者にとっては、能力の高い者には高い賃金を提示す
るのが合理的である。高い賃金を提示したときの利得は 10 − 8 = 2 で
あるのに対し、低い賃金を提示すると従業員は就職しないので利得は
0 になるからである。それに対し、能力の低い者には低い賃金を提示
するのが合理的である。したがって、このような信念を有する経営者
は、資格を持っている者(すなわち、経営者が能力が高いと信じてい
る者)には高い賃金を提示し、そうでない者には低い賃金を提示する。
t=2:従業員の戦略 各タイプの従業員は、経営者の信念と戦略を前提として
行動を決定する。能力の高い従業員は、資格を取った場合 8 の賃金を
得るが、資格取得には 1 のコストが生じるので純利得は 7 となる一方、
資格を取らない場合には外部機会を利用して 6 の利得を得ることにな
る。したがって、能力の高い従業員は資格を取って就職する。能力の
低い労働者は、資格を取った場合 8 の賃金を得るが資格取得には 7 の
コストが生じるので純利得は 1 となる一方、資格を取らない場合の賃
金は 2 であるから、資格を取得しないで就職する。
信念と戦略の整合性 最後に、上記の従業員の戦略と、経営者の信念との整
合性を考える。資格を取るのはすべて能力の高い従業員であり、取ら
ないのはすべて能力の低い従業員であるから、b1 : 1 − b1 = 100% : 0%
、b2 : 1 − b2 = 0% : 100% という信念は上記の従業員の戦略に整合的
である。■
このように、異なったタイプが、異なった行動をとり、私的情報が開示され
るような均衡を分離均衡(separating equilibrium)と呼ぶ(図 5.11)。この
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5.2. 契約理論
43
モデルでは、資格は自分の能力が高いことを相手に伝えるためのメッセージ
として機能している。これは、能力の高い者は資格を得るのにそれほどコス
トがかからないが、能力の低い者はコストがかかりすぎて割に合わない、と
いう性質によるものである。
このモデルでは、資格自体は何の効用も生まない。つまり、資格取得のた
めの苦労は社会的にはまるっきり無駄なコストであるが、従業員は自分の能
力を示すために資格取得に励むことになる。
シグナリング
このように、自分にとってはそれほど困難ではないが、他の
タイプにとってはコストがかかりすぎて困難な行動を取ることによって、自
分のタイプを明らかにする方法をシグナリング(signalling)という。あるタ
イプのプレイヤーが他のタイプであると騙ることで得をするような状況では、
何のコストもかからないようなシグナルでは、他のタイプのプレイヤーに容
易く真似られてしまうので、受け手に信用してもらえないのである。このと
きシグナルを発信するために必要なコストは、一見全く無駄なものに思える
が、情報の非対称を解消するためにはやむを得ないものであるといえる。こ
こでもまた、情報はタダでは伝わらない、のである。
シグナリングが利用されている例として、次のようなものがよく知られて
いる。
• 企業が配当を沢山出すことで、財務の健全性をアピールする。
• メーカーが高価な広告キャンペーンを打つことで、新製品の品質が高
くヒット間違いなしであることをアピールする。
• 宝石店が立派な店舗を構えることで、売ってる品が偽物ではないこと
をアピールする。
• 鹿が大きな角を持つことで、健康であることをアピールする。
一括均衡
このゲームには他の均衡もある。経営者が、
「資格を持っていよう
がいまいが能力には関係ない」
(b1 : 1 − b1 = 50% : 50%、b2 : 1 − b2 = 50% :
50%)という信念を有しているとする。この信念のもとでは、
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44
第5章
情報の非対称性
Manager
(7, 2)
高給
薄給
Manager
Worker
100%
資格取得
(5, 0)
能力高
資格なし
(8, 2)
高給
薄給
0%
(6, 0)
[0.5]
Nature
能力低
(1, -5)
高給
[0.5]
0%
薄給
(8, -5)
100%
資格取得
高給
薄給
資格なし
Worker
(-5, 1)
(2, 1)
図 5.11: シグナリング:分離均衡
Manager
(7, 2)
高給
薄給
Manager
Worker
50%
(5, 0)
資格取得
能力高
資格なし
(8, 2)
高給
薄給
50%
(6, 0)
[0.5]
Nature
能力低
(1, -5)
高給
薄給
(-5, 1)
[0.5]
50%
50%
資格取得
資格なし
(8, -5)
高給
薄給
Worker
(2, 1)
図 5.12: シグナリング:一括均衡
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5.3. まとめ
45
• 従業員は、能力が高くても低くても資格を取らない。
• 経営者は、資格を持つ従業員にも持たない従業員にも低い賃金を提示
する。
という戦略が完全ベイズ均衡となることを以下に示す。
t=3:経営者の戦略 能力の高い者に高い賃金を提示したときの利得は 10−8 =
2、低い賃金を提示すると就職してもらえず利得は 0 となる。能力の低
い者に高い賃金を提示した場合の利得は −5、低い賃金を提示した場
合の利得は 1 となる。経営者は資格の有無にかかわらず能力が高い者
と低い者の確率は半々だと信じているので高い賃金を提示した場合の
期待利得は (2 − 5)/2 = −1.5、低い賃金を提示した場合の期待利得は
(0 + 1)/2 = 0.5 となる。したがって、経営者は資格の有無にかかわら
ず低い賃金を提示する。
t=2:従業員の戦略 各タイプの従業員は、経営者のそのような信念と戦略を
前提として行動を決定する。資格があろうと無かろうと提示される賃
金は同じなので、どちらのタイプの従業員にとっても、資格は取らな
いのが合理的である。
信念と戦略の整合性 最後に、上記の従業員の戦略と、経営者の信念との整
合性を考える。資格を取らない従業員の中には、能力の高いタイプと
低いタイプが半々に含まれているから、b2 : 1 − b2 = 50% : 50% とい
う信念は上記の従業員の戦略に整合的である。なお、均衡において左
側の情報集合にはどのプレイヤーも到達しないので、b1 も戦略と齟齬
を生じることはない。■
このように、行動によってタイプが判明することのないような均衡を一括均
衡(pooling equilibrium)と呼ぶ。シグナリングでは、分離均衡は存在する
場合もしない場合もあるが、一括均衡は必ず存在する。
5.3
まとめ
• 情報が非対称である状況には、大きく分けて、相手の行動が分からな
い場合と、相手の持っている情報が分からない場合がある。前者は情
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46
第5章
情報の非対称性
報集合を用いれば、また後者は「自然」がいくつかのタイプのプレイ
ヤーを生み出すと考えれば、こうした状況をゲームで表現することが
できる。
• 他のプレイヤーの行動を正確に知ることができない場合、相手方に望
ましくない行動をとる誘因が生じることがある。これを モラルハザー
ドという。
• 他のプレイヤーの私的情報を正確に知ることができない場合にもさま
ざまな非効率が生じる。たとえば相手の持つ財の品質を正当に評価で
きなくなるために市場に良品が供給されなくなることがある。これを
逆選択という。
• いくつかの契約のメニューを提示することで、相手の私的情報を知り、
それに応じた取引をする方法をスクリーニングと呼ぶ。私的情報を引
き出すために必要な対価を情報レントという。
• 自分と相手の利害が一致する場合には、両者が適切な信念を共有して
いれば何らコストのかからない「無駄口」によって自分の意思を相手
に伝えることができる。これはチープトークと呼ばれる。
• 他のプレイヤーがタイプを虚偽申告する誘因があるときには、自分に
とっては可能だが他のタイプにとってはコストがかかりすぎて困難な
行動を取ることによって、自分のタイプを明らかにできる場合がある。
これをシグナリングという。
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