序 論

序
論
本書は、刑事罰などの規制以外の何らかの仕方で表現活動や言論市場に積
極的に関与・参加している現代国家の諸活動のうち、主に表現活動への助
成・援助を念頭に置きながら、かかる国家活動に対して憲法とりわけ表現の
自由はいかなる意味を持ちうるのかを、アメリカにおける判例・学説を主な
検討対象として考察することを目的とするものである。
*
*
*
このような目的を設定するにあたって、あらかじめ説明を要すると思われ
るのが、次の 3 点であろう。
・
・
・
・
・
・
・
・
①そもそも国家はそうした活動を行うことが、憲法上可能なのか。
②国家が表現活動への助成・援助といった活動を行うことが憲法上可能で
・
・ ・
・ ・ ・
・ ・
・
・
・
・
・
・
・
あるとした場合、それの何が憲法上の問題となりうるのか。
③そこに何らかの憲法上の問題が存しているとしたとき、なぜこの問題を
・
・ ・ ・ ・
・ ・ ・
・
・
表現の自由の観点から考察するのか。
この序論では、典型的な国家による表現活動への助成・援助としての「文
化助成」を素材としながら、本書の目的を敷衍することにしたい。なお、叙
述の便宜上、②、①、③の順で検討を行うことにする。
I
1
問題の所在
法と文化との関わり
アメリカの憲法学者ロバート・ポスト(Robert C. Post)によると、法と文
化との関係についての最も素朴な見方は、法は、法以前に存在する文化や社
会規範を体現するものであり、法的強制力を背景にしたそれら規範の執行を
序
通じた社会統合機能を果たすもの、という見方である。もっとも、この見方
論
1
は、法と文化との関係の一面を説明してはいるが、非常に単純化した見方で
あり、現実はもっと複雑である。
まず「法」についていえば、法は文化や社会規範を体現するだけでなく、
とりわけ行政国家化が進んだ現代にあっては、特定の目的達成のための手段
合理性という観点から用いられる場合が多い。また法は、文化や社会規範の
変更のためにも用いられる。南北戦争後に制定された修正 13、14、15 条、
いわゆる再建修正(Reconstruction Amendments)がその代表例である。
「文
化1)」についても、固定的でなく流動的であり、相互に対立しうるような多
様性を抱えているのが一般的である2)。このように法と文化との関係を動態
的、可変的に捉えた場合、両者の衝突・対立は日常事として把握されること
になる3)。
1)
文化とは何を意味するのかもまた問題となる。この点に関連して、第 90 回帝国議会において、
現在の日本国憲法 25 条に登場する「文化」という言葉の意味をめぐって繰り広げられた質疑が
興味深い。佐々木惣一が、
「固ヨリ文化的トカ、文化ト云フコトハ何レノ方面デモ用ヒテ居ツテ、
殊ニ近頃流行リノ言葉デスガ、唯併シ法律、殊ニ憲法ト云フヤウナモノニ於テ之ヲ用ヒマス以上
ハ、其ノ概念ト云フモノハ極メテ明瞭ニナラヌト困ルト思ヒマス」と質問し、金森徳次郎国務大
臣の答弁を受けた佐々木は、
「……其ノ時代、其ノ時代ニ我々ニ與ヘラレテ居リマスル所ノ、
我々自身以外ノ事實ガアル、其ノ事實ニ我々ガ自分ノ社會生活ニ關スル所ノ價値判斷ヲ加ヘテ、
サウシテ我々ノ外ニ存在シテ居リマスル所ノ事實ニ色々ソレヲ我々ノ價値觀念ニ適フヤウニ、サ
ウ云フ風ニ一ツノ力ヲ加ヘテ工作ヲスルト云フヤウナコトヲ、假ニ文化ト言ウテ、サウ云フ文化
的ノ努力、社會ノ状態ト云フモノヲ、我我ノ價値觀念ニ適フヤウナ風ニ我我ガ工作ヲスルト云フ
風ナ、サウ云フ生活ヲ詰リ文化的生活ト云フ風ニ私ハ言ヒタイト思フノデスガ……」と問い、金
森は「大體同ジヤウニ考ヘテ居リマス」と応じている(『第九十回帝國議會貴族院 帝國憲法改
正案特別委員會議事速記録第十七號』
)。この質疑からも、
「文化」概念の捉えどころのなさが伝
わってくる。なお関連して、中村美帆「日本国憲法制定過程における『文化』に関する議論」文
化資源学 9 巻(2010 年) 77 頁以下も参照。
2) そのため、
「文化」概念に着目した議論の不確定性を指摘する立場もある。石川健治「人権の
観念」全国憲法研究会編『憲法改正問題〔法律時報増刊〕』(日本評論社、2005 年) 194 頁以下、
同「文化・制度・自律衾 “lʼart pour lʼart” と表現の自由」法学教室 330 号(2008 年) 60 頁以下を
参照。確かに「文化」概念は、後述するように、憲法学において「文化」が主題化する局面の多
様性が示しているとおり外延がはっきりしないし、その対象は広い。しかし、その核心部分に何
が含まれるかについては、比較的明瞭であるように思われる。小林真理が指摘するように、
「公
法学において対象となる主要な文化領域は、『国家』が『社会の内部で様々な形態で現れる』人
間の『精神世界ととりわけ密接に結び付いている側面』であり、『その領域は 3 つの重要な領域
である教育、学問、芸術を含む領域』
」である。そして、
「我が国で現在一般に文化行政という概
念が使われる場合の文化は、公法学的文化領域から教育および学術を除いて残る芸術を核にして
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論
2
広がりを持つ概念として捉えられる」といえよう。小林真理『文化権の確立に向けて衾文化振興
法の国際比較と日本の現実』
(勁草書房、2004 年) 33-34 頁。
3) Robert C. Post, Law and Cultural Conflict, 78 CHI.-KENT L. REV. 485, 485-495 (2003).
2
憲法学における「文化」の主題化
法と文化の衝突・対立が日常事だとすれば、憲法もまた文化と無縁ではい
られない。このことは、近年、憲法学において、とりわけ次のようなかたち
で「文化」が主題化していることからもうかがうことができる。
(1) 「文化」闘争
アメリカでは、社会学者のジェームズ・デヴィソン・
ハンター(James Davison Hunter)が 1991 年に上梓した『文化闘争衽衲アメ
リカのアイデンティティをめぐる闘争4)』を 1 つの嚆矢として、「文化闘争
(culture war)」という言葉が市民権を得ており、憲法学でも検討の対象とな
っている5)。ハンターのいう文化闘争とは、具体的な社会問題に対する是非
や善悪、正義・不正義を区別する根拠となる道徳的価値観や世界観の対立が、
私的な領域から公共討論(public discourse)の領域に持ち込まれることで激
化し、国民生活を分断させるような状況を指す言葉である6)。この意味での
「文化」は、同性愛、家族、人工妊娠中絶、芸術、教育、死刑問題、銃規制、
政教分離のあり方、先端生命医療問題など、非常に広範な領域まで及ぶもの
であり、「闘争」の戦線も、それに応じて拡大する7)。
(2) 多「文化」主義
多「文化」主義もまた、憲法学との関連で議論の
俎上に上っているテーマの 1 つである。多文化主義については、法学のみな
らず、政治学、法哲学、社会学、人類学、教育学など様々な学問領域におい
て研究がなされているため、これを定義するのは困難であるが、さしあたり
法学においては石山文彦がいうように、「いわゆる民族、移民集団、非差別
集団、宗教的マイノリティといった集団によってになわれる多様な文化の存
在を前提として、政府が対内的にも対外系にも複数の文化を恒常的に公認す
ることを許容し擁護する立場」と理解できるだろう8)。そして憲法学では、
多文化主義は、文化の内実、憲法上の位置づけ、文化と個人の範囲、差異の
JAMES DAVISON HUNTER, CULTURE WARS: THE STRUGGLE TO DEFINE AMERICA: MAKING SENSE OF
BATTLE OVER THE FAMILY, ART, EDUCATION, LAW, AND POLITICS (1991).
5) 邦語文献では、とりわけ志田陽子『文化戦争と憲法理論衾アイデンティティの相剋と模索』
(法律文化社、2006 年)を参照。アメリカ政治における文化闘争の状況について、近藤健『アメ
リカの内なる文化戦争衾なぜブッシュは再選されたか』
(日本評論社、2005 年)も参照。
6) HUNTER, supra note 4, at 32-64.
7) 関連して、文化闘争を「道徳立法」という切り口から検討する、駒村圭吾「道徳立法と文化闘
争衾アメリカ最高裁におけるソドミー処罰法関連判例を素材に」法学研究 78 巻 5 号(2005 年)
83 頁以下を参照。
8) 石山文彦「多文化主義と人権」ジュリスト 1244 号(2003 年) 45 頁。
4)
THE
序
論
3
尊重を求める多文化主義と普遍性を志向する人権観念との両立可能性、先住
民族の権利に関連した団体の権利と個人の権利等との関連で焦点が当てられ
て議論されている9)。
また近年では、後述するように日本国憲法 25 条
(3) 「文化」的生存権
1 項に着目しつつ、
「国民が文化的活動を自由に行い、他人の文化的活動の
成果や文化的遺産を享受し継承し、文化性豊かな環境の下で生活する権利な
いし利益」として、「自由権的基本権と社会権的基本権両者の内容を包摂し
た『文化権』」の確立を目指す議論10)や、第二次世界大戦後に平和国家、民
主国家と並んで唱道された「文化国家」理念の再興を目指し、日本国憲法
25 条 1 項の規定について、「社会国家の理念のみならず、文化国家の理念の
導入を示すものと解する余地がある」と捉えたうえで、「文化的諸活動とそ
の成果の保存およびそれらへのアクセスと享有に対する積極的な援助・助長
を中心とする」国家の義務を論じる立論もなされている11)。こうした議論を
総括して駒村圭吾は、
「憲法学や文化政策学が潜在的に主題化してきた、25
条のこのような側面を『文化的生存権』とさしあたり呼ぶならば、そのよう
な権利の法的性格を憲法上どのように位置づけ得るかは十分議論するに値し
よう」と評している12)。
3
直接規制から間接規制へ
・
・
・
・
・
・
法と文化とが関わる場面が多様であるように、法と文化との関わり方の様
相もまた多様である。法と文化との関わり方については、一方の極には刑事
制裁を、他方の極には税金の免除や補助金の給付、機会や場の提供などの助
成・援助を位置づけることができる13)。憲法学において「文化」が主題化す
9) 佐々木雅寿「多文化主義と憲法衾カナダ憲法を中心として」杉田敦編『岩波講座憲法 3 ネー
ションと市民』
(岩波書店、2007 年) 165-166 頁。なお、憲法学における多文化主義の扱いが、
①人権領域に偏っていること、②「承認」の問題に特化されて論じられていること、③法が想定
すべき人間像の問題として論じられる傾向がある旨を法哲学の立場から指摘するものとして、浦
山聖子「多文化主義と人権衾法哲学から憲法学を見る」憲法問題 23 号(2012 年) 83-85 頁を参照。
10) 小林・前掲注 2) 51 頁。
11) 杉原泰雄「
『文化国家』の理念と現実衾日本国憲法下における『文化と国家』」法律時報 71 巻
6 号(1999 年) 45 頁以下、松田浩「文化国家」杉原泰雄編集代表『体系憲法事典〔新版〕』(青林
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論
4
書院、2008 年) 45-50 頁等を参照。
12) 駒村圭吾「自由と文化衾その国家的給付と憲法的統制のあり方」法学教室 328 号(2008 年)
40 頁。
13) Post, supra note 3, at 495. なお、日本では近年、食育基本法や健康増進法など、「道徳や個人
る局面でも、この両極の関わり方が存在するが、近年、主に争点として浮上
してきているのは後者の局面であるように思われる。この点については、ロ
ーレンス・レッシグ(Lawrence Lessig)の議論が参考になる。
(1) 多様な「規制」の例①衽衲中絶
レッシグは、ある行為を「規制」す
る 4 つの制約条件として、法、社会規範、市場、アーキテクチャ14)(コー
ド)を挙げ、それぞれがある行為に対して別々のコストを課すことで、当該
行為を「規制」するという仕組みを論じている。このことを、レッシグの挙
げる例のうち、文化闘争の典型とされる人工妊娠中絶の例を通して見てみよ
う。
Roe v. Wade 判決15)以来、法廷は女性が中絶を受ける憲法上の権利があるこ
とを認知している。しかしこの権利があっても、政府は中絶の数を減らす努力
をやめていない。ここでの政府は中絶を直接規制するのではない(Wade 判決
以来、これは憲法違反となる)。だが、同じ目的を果たすために間接的な手段に
頼れる。Rust v. Sullivan 判決16)では、「政府出資の」クリニックで働く医師が、
家族計画手法として中絶に言及するのを禁止して、家族計画アドバイス提供を
歪めようとする政府の力を肯定した。これは社会規範(医療ケアの社会構造内の
規範)の規制によるふるまいの規制だ。Maher v. Roe 判決17)では、法廷は政府
が中絶に対しての医療資金提供を選択的に止めるという政府の権利を支持した。
これは市場を使ったふるまいの規制だ。そして Hodgson v. Minnesota 判決18)
の価値観に絡むような問題に法律が関わる例が増えて」おり、「……それらにおいては、訓示
的・抽象的な規定を通じてではあるが、国民の意識などに積極的にかかわろうとする傾向が見受
けられる」と指摘されている。川﨑政司「立法をめぐる昨今の問題状況と立法の質・あり方衾法
と政治の相克による従来の法的な枠組みの揺らぎと、それらへの対応」慶應法学 12 号(2009
年) 46 頁。こうした法もまた、新たなかたちでの法と文化との関わり方の一面を示す例として挙
げることが許されよう。
14) アーキテクチャについての論稿は多いが、さしあたり邦語文献では、有賀誠「『アーキテクチ
ャ』の問い直しと民主主義衾レッシグとアンガー」有賀誠=伊藤恭彦=松井暁編『ポスト・リベラ
リズムの対抗軸』(ナカニシヤ出版、2007 年) 104 頁、松尾陽「アーキテクチャによる規制作用
の性質とその意義」法哲学年報 2007 年 241 頁以下、東浩紀=北田暁大編『思想地図 Vol. 3 特
集・アーキテクチャ』
(日本放送出版協会、2009 年)所収の各論文、成原慧「情報社会における
法とアーキテクチャの関係についての試論的考察衾アーキテクチャを介した間接規制に関する問
題と規律の検討を中心に」情報学研究 81 号(2011 年) 55 頁以下等を参照。
15)
16)
17)
18)
Roe v. Wade, 410 U.S. 113 (1973).
Rust v. Sullivan, 500 U.S. 173 (1991). 本判決の詳細は、
〔第 2 章〕参照。
Maher v. Roe, 432 U.S. 464 (1977). 本判決の詳細は、
〔第 1 章 III-1 (1),(2)〕参照。
Hodgson v. Minnesota, 497 U.S. 417 (1990).
序
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5
では、法廷は未成年女性に対して州が、中絶を受ける前に 48 時間強制的に待
たせることを支持した。これは実空間コード(時間制約)を使って中絶へのア
クセスを規制するものだ。Wade 判決を含めこれらすべての方法で、政府は中
絶を求める女性のふるまいを規制できる19)。
(2) 多様な「規制」の例②衽衲NEA による芸術助成
このような「多様な
規制」の別の例として、1989 年後半に始まった、連邦芸術基金(National
Endowment for Arts, NEA)をめぐる論争衽衲もう 1 つの文化闘争の戦線衽衲
も見てみよう。この論争は、見ようによってはハードコア・ポルノともいえ
るような写真を数多く撮り物議を醸してきた写真家、ロバート・メイプルソ
ープ20)(Robert Mapplethorpe)の回顧展や、前衛写真家アンドレ・セラーノ
(Andres Serrano)による「キリストに小便(Piss Christ)」と題する作品等に
対して、NEA の助成金が用いられたことに端を発する21)。
19) LAWRENCE LESSIG, CODE VERSION 2.0 (2006)(山形浩生訳『CODE VERSION 2.0』(翔泳社、
2007 年) 186 頁。ただし、訳は一部改変している).
20) 周知のように、メイプルソープの作品は日本の裁判でも何度か問題になったことがある。第
1 次メイプルソープ写真集事件(最 3 判平 11・2・23 判時 1670 号 3 頁)では、アメリカの美術館
で開催されたメイプルソープ回顧展の展示作品を収録したカタログとして刊行された写真集につ
き、
「その描写の画面全体に占める比重、画面の構成などからして、人間の裸体を自然な状態で描
写したものではなく、性器そのものを強調し、性器の描写に重きが置かれているとみざるを得な
い写真が含まれており、それらが一冊のものとして編てつされているというのであるから、本件
写真集は関税定率法 21 条 1 項 3 号にいう『風俗を害すべき書籍、図画』等に該当」するとされた。
また、既に日本で公刊もされていたメイプルソープの写真集に対し、入国検査時に関税定率法
21 条 1 項 4 号(当時。現在は関税法 69 条の 11 第 7 号)所定の輸入禁制品に該当する旨の通知
をしたこと衽衲同写真集の中には、上記の平成 11 年判決で問題となった写真の一部が含まれて
いた衽衲の合憲性が争点となった第 2 次メイプルソープ写真集事件(最 3 判平 20・2・19 民集
62 巻 2 号 445 頁)では、
「我が国において既に頒布され、販売されているわいせつ表現物を税関
検査による輸入規制の対象とすることが憲法 21 条 1 項の規定に違反するものではない」とした
が、
「本件写真集における芸術性など性的刺激を緩和させる要素の存在、本件各写真の本件写真
集全体に占める比重、その表現手法等の観点から写真集を全体としてみたときには、本件写真集
が主として見る者の好色的興味に訴えるものと認めることは困難といわざるを得ない」として、
同写真集は、
「本件通知処分当時における一般社会の健全な社会通念に照らして、関税定率法 21
条 1 項 4 号にいう『風俗を害すべき書籍、図画』等に該当するものとは認められない」として、
本件通知処分を取り消した。もっとも、
「本件通知処分をしたことは、国家賠償法 1 条 1 項の適
用上、違法の評価を受けるものではない」としている。
21) 一 連 の 騒 動 に つ い て の 詳 細 は、see CULTURE WARS: DOCUMENTS
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論
6
FROM THE
RECENT CON-
ARTS (Richard Bolton ed., 1992). 邦語文献では、小倉利丸『アシッド・キャピ
タリズム』
(青弓社、1992 年)第 4 章、奥平康弘「芸術活動・作品鑑賞の自由を考える衾R・メ
イ プ ル ソー プ の ば あ い」時 の 法 令 1455 号(1993 年) 36 頁 以 下、大 橋 敏 弘「米 国 芸 術 基 金
(NEA)訴訟を通じてみた芸術支援の一側面衾芸術への公的助成と議会統制」総合政策論集 6 号
TROVERSIES IN THE
これらの表現内容や方法が気に入らないからといって、それを理由に処罰
したり禁止したりすることは表現の自由を保障する修正 1 条により許されな
い。しかし、多くの有権者衽衲すなわち平均的アメリカ人衽衲に不快感を与
える芸術作品に税金が使われるのは我慢ならない。そのため、ノースカロラ
イナ州選出の共和党保守派の古老上院議員、ジェシー・ヘルムズ(Jesse
Helms)らを中心に、NEA の予算削減や廃止を含め、様々な提案がなされ
たのであるが、紆余曲折を経て最終的に、NEA が助成を行う際に「一般的
な品位の基準並びにアメリカ公衆が有する多様な信念および価値観を考慮に
入れること」を要求するという、いわゆる「品位と尊重」条項が定められる
こととなった22)。
これを先述したレッシグの議論に従って整理すれば、「品位と尊重」条項
は、法による直接的な「規制」衽衲これは修正 1 条により容認されない衽衲
ではなく、助成金を得られなければ流通しないような芸術作品に対する援助
を拒否することで、市場による「規制」を加えようとするものである。そし
て、品位を欠くような芸術作品に対する補助金を認めないことで、社会規範
衽衲NEA の社会構造内の規範衽衲の規制によるふるまいの「規制」として、
また、助成を受領できる作品を、平均的アメリカ人の想定する「品位」を有
する作品に限定することで、アーキテクチャによる「規制」としても機能す
る。
これらの例に代表されるように、近年の国家による「文化」への介入の仕
方は、刑事制裁に代表される直接的な規制から、支出権限や助成・援助によ
る、間接的でより巧妙な手法へとシフトしているといえるだろう23)。本書が
(2003 年) 15 頁以下等を参照。本論争も含め、アメリカの芸術文化政策を包括的にフォローする
ものとして、片山泰輔『アメリカの芸術文化政策』(日本経済評論社、2006 年)を参照。
22) 「品位と尊重」条項の問題点については、see Robert M. OʼNeil, Artists, Grants and Rights:
The NEA Controversy Revisited, 9 N. Y. L. SCH. J. HUM. RTS. 85, 103-109 (1992). この条項の合憲性
は、National Endowment for Arts v. Finley, 524 U.S. 569 (1998) で確認されている。同判決の詳
細は、
〔第 4 章 II-1〕参照。関連して、表現の自由論における「品位」ないし「品格」について
検討する、平地秀哉「『品格ある社会』と表現」駒村圭吾=鈴木秀美編『表現の自由 I衾状況へ』
(尚学社、2011 年) 317 頁以下も参照。
23) このことは、近年、憲法学でも言及されている「排除型(規制型)権力」から「操作型(環
境型)権力」という統治手法への注目とも重なる。この点については、ジョセフ・ラズ(Joseph
Raz)の卓越主義的リベラリズムを検討し、ラズの「強制および操作」による統治手法と「援
助」による統治手法との区別を批判する、小泉良幸『リベラルな共同体衾ドゥオーキンの政治・
道徳理論』
(勁草書房、2002 年) 174-178 頁をはじめ、同「国家の役割と共同体論」憲法問題 16
序
論
7
検討対象として設定した国家による表現活動への助成・援助は、直接的には
市場による「規制」を軽減させようとする試みとして記述可能であるが、そ
れにとどまらない意味を有することは明らかだろう。すなわち、助成によっ
て公権力の「お墨付き(endorsement)」を与えることにより、何が価値ある
衽衲助成を受けるに値する衽衲文化であるかという「社会規範」にも影響を
及ぼすだろうし、特定の表現のみを対象として助成するようなプログラムを
創設するような場合には、
「アーキテクチャ」による規制としても機能する
のである。
(3) 積極国家と消極国家
それでは、このような統治手法は、憲法学に
おいてどのように把握されるべきなのだろうか。
アメリカは、いわゆるロックナー期(Lochner era)の終焉以降、積極国家
として、市民生活の様々な領域へと介入するようになり、またそうした広範
な役割が衽衲程度の差はあるが衽衲期待されてもいる。こうした現代積極国
家は、刑事制裁のみならず、支出・各種免許の付与・雇用・許認可・助成金
分配などを通じて、経済的自由・精神的自由に対して多大な影響を及ぼして
いる。かような現代積極国家という現実社会において、「政府が有する最も
強力な力は、希少な資源へのアクセスを制限する権力に存する24)」
。すなわ
ち、積極国家・福祉国家においては、政府による助成・援助の拒否や撤回は、
場合によっては刑事罰と同様の強い効果を持つのである25)。
他方、18 世紀に制定された合衆国憲法は、近代立憲主義の精神を体現し
た世界最古の成文憲法典である。近代立憲主義とは、「……国により相当事
情は異なるとはいえ、各個人の自由かつ自律的な活動の中にこそ人間の幸福
の鍵があり、各個人の競合のうちに“見えざる手”の働きにより社会的調和
号(2005 年) 31-32 頁、駒村圭吾「自由な社会の二つの憂鬱衾操作と制御」世界 2007 年 2 月号
72 頁、同「警察と市民衾自由と権力の構造転換」公法研究 69 号(2007 年) 113 頁、同「『視線の
権力性』に関する覚書衾監視とプライヴァシーをめぐって」慶應義塾創立 150 年記念『慶應の法
律学 公法 I』
(慶應義塾大学出版会、2008 年) 283 頁、座談会「憲法 60 年衾現状と展望」ジュ
リスト 1334 号(2007 年) 31 頁〔棟居快行発言〕、大屋雄裕『自由とは何か衾監視社会と「個人」
の消滅』
(ちくま新書、2007 年) 113 頁以下等を参照。また、
〔終章 II-2〕も参照。
24) Seth F. Kreimer, Allocational Sanctions: The Problem of Negative Rights in a Positive State,
132 U. PA. L. REV. 1293, 1296 (1984). See generally DANIEL C. KRAMER, THE PRICE OF RIGHTS: THE
序
論
8
COURTS, GOVERNMENT LARGESSE, AND FUNDAMENTAL LIBERTIES (2004).
25) Laurence H. Tribe, Sticks and Carrots: The Doctrine of Unconstitutional Conditions, in REASON
& PASSION: JUSTICE BRENNANʼS ENDURING INFLUENCE 125 (E. Joshua Rosenkranz & Bernard
Schwartz eds., 1997).
と発展が形成維持されると措定した。国家は、個人のこのような自由な活動
と社会の自律的運行の外的条件の必要最小限度の整備にその役割を限定され
るべきで、さらにいえば国家権力の活動の場が少なければ少ないほどよいと
観念された26)」考え方である。いわば、消極国家観を前提としており、基本
的に、刑事制裁や強制力を背景とした国家権力の行使から個々人の自由を保
障することに主眼が置かれている。
かような「現実としての積極国家」と「憲法構造としての消極国家」との
間に生じた齟齬に、多くの憲法問題が存在するのであり、表現活動への助成
等を通じた国家関与という問題も、その 1 つの表れである。キャス・サンス
ティン(Cass R. Sunstein)が指摘しているように、今日、「我々を当惑させる
憲法上の問題の多くは、憲法上の権利に対し、刑事的制裁ではなく、支出や
免許、雇用を通じて影響を及ぼすことが許される現代規制国家の興隆に起因
している27)」のである。そして、このような問題を前にしたとき、我々には、
「……18 世紀におけるリベラルな政府の模範の一部として理解されていた、
荘厳な普遍性を有する権利章典を、20 世紀の問題[そして 21 世紀の問題衽衲引
用者]を扱う政府に対する具体的な制約へと翻訳するという課題28)」が課さ
れているのである。
II
助成の義務と権限
以上の論述から、助成・援助といった仕方での表現活動への国家の積極的
関与の問題は、憲法学的な考察から無縁ではいられないということが明らか
になっただろう。しかし、そもそも、憲法上、文化助成はどのように位置づ
けられるものなのだろうか。
1
なぜ文化助成が憲法上容認されるのか?
まず、文化助成がいかなる理由により憲法上正当化されるのかを見ておく
26) 佐藤幸治『日本国憲法論』(成文堂、2011 年) 8 頁。
27) Cass R. Sunstein, Why the Unconstitutional Conditions Doctrine is an Anachronism (With
Particular Reference to Religion, Speech, and Abortion), 70 B. U. L. REV. 593, 593 (1990).
28) West Virginia State Bd. of Educ. v. Barnette, 319 U.S. 624, 639 (1943). See also LAURENCE H.
TRIBE, AMERICAN CONSTITUTIONAL LAW 769 (2d ed. 1988).
序
論
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