動物との対話 - ヒトと動物の関係学会

動物との対話
グドール、ノルマン、ハーン
における
動物観、生命観、対話観
三人における「動物との対話」
・ 観察・経験の繰り返し、修正
→記録
・ ヒトと動物の共通の言語形式の
構築
1
対話の方法
•
•
•
•
•
•
「対等の関係」を築くための模索
忍耐強さ、時間をかける
出会いの恒常性、安定性
個と個の関係
「 他者 の声を聴く」
新たな領域の創造
ヒトと動物との関係
動物
(生活様式)
→
←
→
←
ヒト
(生活様式)
2
動物との対話:グドール、ノルマン、ハーンにおける動物観・生命観・対話観
ヒトと動物の関係学会
第9回学術大会
一般口演(8)
武者小路澄子(筑波大学図書館情報学系情報メディア社会分野・茨城県)
1.
はじめに
動物と心を通わせる、考えや想いを伝えあうとはいかなることなのか、こうしたことが可能な
ら、そのために動物とどのような関係を結んだらよいかという問いの下に、「異種間コミュニケ
ーション」のあり方を探求してきた(武者小路, 2002)。異種間コミュニケーションについての
既往研究は多いとは言えず、また、この探求自体に対して幾つかの対立する論議が見られる(Crail,
1983)。しかし一方で、動物と通じ合うということは、日常生活の中で多くの人にとって体験的
に理解されることであり、また、多様な領域で動物との深い関わりが報告され、論議されている。
ここでは、動物の能力を科学的に測定することからコミュニケーションの可否を問うのではな
く、実際に動物と対話するという日常的経験を掘り下げて、そこでの動物とヒトとの関係の成立
のしかたや両者の活動の実践の中から、コミュニケーションとして達成されていることを探ると
いう立場を取る。
2.
異種間コミュニケーションの系譜におけるグドール、ノルマン、ハーン
本研究では、動物との深い関わりをもち、その背景としての活動や思索を著しているジェー
ン・グドール(Jane Goodall, 1934-)、ジム・ノルマン(Jim Nollman, 1947-)、ヴィッキー・ハ
ーン(Vicki Hearne, 1946-2001)の三人を取り上げる。
本研究で取り上げるこの三人は、取り組んだ主要な動物も、活動の背景や方向性も様々である。
しかし、「動物といかに対話するか」を考察するという点から、動物と関わった実体験とそれに
ついての思索が卓越していることにおいて、三者を選択した。ハーンが2001年に亡くなったとは
言え、三者の活躍は現代を舞台にしており、三者とも日本でも訳書が出版されていて著名である。
そして、各々の専門領域において動物と深い関わりをもち、自らの実体験において動物といかに
対話したかについて具体的に記録・報告している。また、三者ともその体験から更に動物との関
係を進展させ、同時に、体験に基づいた思索の下に、独自の動物観・生命観・対話観を深め、そ
れを著している。従って、この三人を試験的に選び、今後わたしたちが動物との対話
―「異種
間コミュニケーション」― のあり方を理解する上での大枠を築くことをここでの目的としたい。
以下では、その著作を中心に、活動に関連する資料や批判も参考にしながら、三者の考え方を
活動と共に整理・体系化し、動物観・生命観・対話観という点からまとめる中で、「動物との対
話」のあり方を描くことを試みる。
3.
略歴と活動
1
三人の略歴と主な活動については、第1表にまとめた。
ジェーン・グドールは著名なチンパンジー研究者である。1934年にロンドンに生まれ、生来の
動物好きから高等学校卒業後ケニアに渡った。その後人類学のルイス・リーキー博士に見出され
て、ゴンベ・ストリーム保護区でチンパンジーの研究にあたり、現在に至っている。最初は素人
として研究を始めたが、1962年にケンブリッジでハインド教授の指導の下で動物行動学の博士号
をとった。チンパンジーの行動観察から、現在の人間との架け橋となるような幾つかの行動を発
見した。その後、1977年には、「野生動物の研究と教育ならびにその保護のためのジェーン・グ
ドール・インスティテュート(JGI)」を設立した。また、1986年にアメリカで開催された会
議にてチンパンジーの危機的状況を知ったことにより、若者のための自然・人道教育プログラム
「ルーツ&シューツ」を1991年に発足させた。
ジム・ノルマンは1947年にアメリカ、マサチューセッツ州に生まれた。動物や自然、音楽を愛
好して育ち、タフツ大学にて英文学を学んだ後、音楽活動を行う。1973年には、アメリカ国内向
けラジオ・ネットワークで放送する、感謝祭の音楽の作曲を依頼され、3百羽の七面鳥と歌う、
子ども向けの曲を作曲している。その他、イルカやクジラ、バッファロー、オオカミなど様々な
野生動物との対話を試み、「異種間コミュニケーション」のパイオニアとして知られる。対話の
手段は、しばしば手作り楽器となる。国際的に認められた、コンセプチュアル・アーティストで
ある。その後、ミュージシャンからスピリチュアル・エコロジストとなり、環境活動家として執
筆・編集・環境保護活動を行う。1994には国際イルカ・クジラ会議にて来日もする。”Interspecies
Communication”という組織を創設し、オルカやクジラの保護のためのフィールド・プロジェクト
を受け持ち、そのコミュニケーションを研究している。
ヴィッキー・ハーンは1946年にアメリカテキサス州オースティンに生まれ、残念なことに一昨
年亡くなった。幼い頃からイヌやウマなど「人と暮らす動物(domestic animals)」に親しみ、
1967年そのトレーナーとなった。詩やエッセイなど文学に親しみ、1980年代から多くの作品を発
表する傍ら、カリフォルニア大学、イェール大学にて英文学の教鞭をとる。動物のトレーナーが
語る動物の世界と、文学や哲学の世界との間に橋を架けることが、動物の調教と共に、ハーンの
ライフワークであった。特に、トレーナーの言語領域と哲学における言語領域との間の溝に対し
ての批判的な考察は鋭利なものである。また、動物のトレーナーという立場から、現代の動物の
愛護活動や「動物の権利」問題について論議することも行った。
4.
動物観と生命観
グドール、ノルマン、ハーンは共に、自らが動物と接した経験をもとに、伝統的な科学におけ
る客観主義や行動主義に対して、そこで示されている動物観に疑問を投げかけている。特に、
「擬
人化」の過度のタブー視から動物機械論的な立場を取ったり、そうした立場を前提とした行動主
義的な実験研究について疑問視している。
こうした科学的立場に対して、グドールとノルマンは、動物を理解する上での 共感の科学
2
のあり方を模索する。そこでのグドールの研究方法は、チンパンジーの行動について類推と感情
移入によって理解していこうというものであり、そうした類推・感情移入を行ううえでの自らの
立場
―ヒトであり、女性であること― を否定しないものであった。また、ノルマンは、科学
ではなく「異種間音楽」によって動物と出会い、交流するが、そこでヒトと動物とが対等の関係
を結ぶことを求めた。
一方ハーンにとって、動物はわたしたちの呼びかけに応えてくれる 他者 である。そして、
ウィトゲンシュタイン的な言語観に立つならば、 動物という他者 がわたしたちの呼びかけに
応えてくれるとき、わたしたちに対話の可能性が切り開かれるのである。トレーナーであるハー
ンにとって、対話は「調教(training)」という言語形式を持つものであり、この言語によって
ヒトと動物は一緒に仕事をすることが可能になる。ただし、この言語を基盤としてヒトと動物が
共に対話をするためには、両者は言語を尊重し、互いが自らの生きかたをそこに投じなければな
らない。このような考えの中で、ハーンは、トレーナーにとって、動物は対話能力を持つのみな
らず、善悪の判断もできる存在であると主張する。
三者の動物観について共通項を見つけるとすれば、動物のあり方に対して、ヒトがいかにして
対等の関係を結ぶか、ということが、立場こそ異なれ、各々の課題となっており、三者の活動の
中で繰り返し確認されていることであろう。そして、もうひとつつけ加えるならば、人間にとっ
て、動物の存在にどのような意味があるかについて考えをめぐらしていることであろう。たとえ
ばノルマンは、動物が人間に及ぼすスピリチュアルな(精神的/霊的)働きに注目する。また、
現代文明におけるヒトと動物との関係が、主に 殺す
殺される ことによって築かれてきた
ことに疑問を投げている。
このような動物観は、動物とは何かという問いを越えて、世界や自然、生命のあり方について
思いめぐらす機会を三人に与えている。また同時に、世界観や自然観、生命観の思索を深めるこ
とは、動物とヒトとの位置づけを見出す機会も与えることになった。グドールは、長年にわたり
ゴンベでチンパンジーを観察する中で、進化においても生態系においても生命の繋がりを見出す
ようになった。さらに、幾度かの得難い体験により、そうした生命の繋がりの中に霊性(スピリ
チュアリティ)を感ずるまでになった(付録1参照)。また、アフリカの開発によるチンパンジ
ーの危機に際して、生命の繋がりの中でヒトがいかにあるべきかを問い直し、一研究者から環
境・人道教育者への転身を遂げることになった。
この軌跡をノルマンのものと比較することは興味深い。「異種間音楽」を通して、若くして動
物と通じ合うという感覚をもつに至ったミュージシャンのノルマンは、科学研究者とは異なり、
生命の繋がりや自然との関係のスピリチュアルな側面を認めることがその活動の始まりであっ
たと言ってよい。しかし、生命のスピリチュアリティへの気づきは、動物の鳴き声と楽器による
ジャム・セッションをアートとして展開するところから、彼をエコロジストへと変えていった。
彼が提唱する「スピリチュアル・エコロジー」は、生命の繋がりの測り知れなさ、深遠さや、そ
の聖性を感じ、またそうした感覚の中で他の生命とつながっていた先住民の考え方から学ぼうと
いうことを提唱するものである。そして、自然に対するわたしたちの責任を自覚し、共生への道
3
を歩もうと呼びかけている。グドールとノルマンは、動物と関わる中で、次第にエコロジー、生
命中心主義の立場、霊性(スピリチュアリティ)を尊重する生命観をもつようになり、そのことによって、
動物を、ひとつの生命として、自らとのつながりや生命が一体となっている世界観( all as one”)
の中でとらえるようになっていった。そして両者とも、野生のままの動物のコミュニケーション
の姿をつきとめ、そこにヒトが介入することについて倫理面での心の揺れを表現しながらも、現
実に野生動物の危機に直面し、時には何らかの介入をなさざるを得なかった。
一方、ハーンの生命観・世界観においては、万物は 他者 である。しかし、人であるからに
は、このことを認めた上で尚、他者を愛することができる、とハーンは述べている。グドールや
ノルマンは生命を「繋がり」として捉えているが、ここでハーンの言う 他者 の問題も「生命
どうしがいかに関係を結んでいくか」という問題として捉えるなら、これらが繋がり合っている
という見解として位置づけることができよう。しかも、トレーナーとしてのハーンは、その繋が
りの中でも、ヒトにとって、動物との繋がりこそが最も尊重すべきものだと考える。動物だけが
ヒトの呼びかけに応えてくれる 他者 であり、ヒトは彼らを命名し、両者が調教という言語に
従うことで宇宙に感謝を表すことができると彼女は主張する。ここでハーンが目指すのは、調教
によって、ヒトと動物の(美しさ善などの)物語を綴っていくことである。こうした思索と実体
験に基づいているため、ハーンはヒトと動物との生ぬるい関係 ――
たとえば、似非人道主義、
言語に対して責任を負わず誠意を持たない態度、ヒトとは異なる動物の感覚や能力を信頼しない
人間側の思いあがりなど ――
5.
に対して辛辣である。
対話観
三者が動物と成し遂げた「対話」の範囲やそこで自らに課した規律や倫理は一様ではない。三
者が各々、動物とどのような対話を結んだかに関しては、付録1〜3に報告されていることを参
照してほしい。
グドールの研究の目的は、野生のままのチンパンジーの行動の観察であり、動物との対話を求
めることではなかった。しかし、その辛抱強い観察において、チンパンジーの信頼を得てより近
くで観察することを試み、彼らを真似てその行動様式を類推、感情移入、直観を働かせて理解す
るという方法を用いた。その過程では、少しずつ接近し、毛づくろいし合うなど、信頼関係を結
び、真似をして、身体的な接触によるコミュニケーションを達成している。グドールがそこで着
目しているのは、相手との位置関係、声、顔の表情、アイコンタクト、しぐさ、姿勢、互いの身
体的接触、集団としての社会行動など非言語コミュニケーションである。こうした過程を経て、
グドールは、チンパンジーの顔つきなどからそこにある感情を認め、それを察するやり方を身に
つけていった。
、、、、、、、
次にノルマンは、「意思の疎通」という人間にとってのコミュニケーション形式をそのまま適
用するのではなく、動物本来のあり方を尊重し、環境にあるがままの動物を受け入れることによ
って対等の関係を求め、動物と即興音楽を合作するのに成功した。グドールと同様、観察には忍
4
耐と時間をかけ、また、直観や共感を働かせ、それに加えて誠意を払うというやり方をとった。
彼が実現した「異種間音楽」としては、たとえばギターを用いたオルカとのジャム・セッション
がある(口演会場では音楽を再生する)。ノルマンの対話は、音楽・アートであり、これはヒト
と動物にとっての普遍的な言葉であり、すぐれたコミュニケーション形式であるという。このコ
ミュニケーション形式で達成するのは、ハーモニーである。
最後にハーンは、動物との「言語ゲーム」のあり方を模索し、その過程で両者が次第に「意味
の共有」を成立させ、一体となって活動を成し遂げることで、新たな生き方を身につけていくこ
とを示した。ハーンが捉えている「調教」という言語形式は、それを身につけることによってヒ
トと動物とが互いに信頼関係を築くためのものである。この言語のもとに、両者は相手に対して
責任ある行動を期待できるようになるのである。そのためには、両者は、言語に対する尊重 ―
―ウィトゲンシュタイン流に言えばひとつの「生活形式」に従うこと―― をもっていなければ
ならない。また、重要なこととして、この言語は動物が服従するためだけにあるのではなく、ヒ
トにとっても服従すべきものとしてある。ヒトは、動物に命令を与える際にも、たとえば自らが
捉えられないような、イヌの嗅覚による判断力、ウマの皮膚の鋭敏な感受性などを信頼し、尊重
しなければならない。普通こうしたことは人間の認識能力に対する懐疑を与えるものであるが、
ヒトは謙虚さや注意深さをもって、自らがなじんできた世界を捨てる必要がある。
再び付録に載せた記述に戻りたい。グドールがシロひげのデーヴィッドと視線を交わし、ヤシ
の実を手渡し、手を触れ合わせることによって成し遂げた接触、ノルマンがオルカと演奏したジ
ャム・セッション、ハーンとイヌのソルティが「モッテコイ!」の命令のもとにダンベルを取り
に行くという調教を完成させていく過程、そこにある対話は同じものではない。グドールにとっ
て、この接触は「心を通わせる」ということであった。ノルマンは、「互いを信頼し、尊重した
アート」を創り出すことに専心している。ハーンの調教の中には、「言語という規律・秩序に従
い、それを尊重すること」がなければならない。
6.「異種間コミュニケーション研究」の枠組みのために三者が投影していること
上で述べたように、三者にとって動物との対話のあり方は異なっていると言える。しかし、三
者の対話のあり方が見せる幅の中には、幾つかの共通項も見出すことができる。ここではそれら
の中から、動物との対話とは何か、その可能性やその技法、あるべき姿に関わる点を選んで、
「異
種間コミュニケーション」研究の枠組みを見出すことにしたい。
共感 によって動物を理解する方法は、「擬人化」というレッテルを貼られることに、真っ
正面から向き合わなくてはならない。増して、 動物と対話する ということは、擬人化に対し
て過度にタブー視する科学の客観主義や実証主義の立場から見れば大罪を犯すことにもつなが
る。動物から学び、交流する上で、三者はこれを足かせ、あるいは障壁と感じることになった。
しかし、三者は、これに抗して選択した方法
―― 動物に共感して彼らから何かを感じたり、
5
直観として受けとめること ―― において、無秩序なやり方を取っていたわけではない。彼ら
は、動物の反応の読みとりの解釈の修正を辞さないことで正確さを維持し、また慎重さ、謙虚さ
を重視することによって、安易な擬人化を克服しようとしている。そのために、観察を繰り返し、
経験を蓄積し、「繊細かつ客観的な記録」(グドール)をとどめている。
三者にとっても、動物のこころや意識は不可知である。しかし、だからと言って動物機械論や
単純な刺激−反応という理解図式を取る必要はない。動物とヒトとの相互作用について、三者の
言語に対する立場を一言でまとめるならば、言語能力の実在の証明可能性の点からではなく、共
通の言語形式を構築できるか否かというウィトゲンシュタインの言語観に基づくものだと考え
ることができる。ハーンは明らかに、ウィトゲンシュタイン的な視野から調教を他者との「言語
ゲーム」の成立とみなしている。また、これほど明確でないにしろ、グドールもノルマンも動物
を 他者 と認め、ヒトと動物に共通の架け橋や言語形式を模索した。そして、それが自由発展
的なものか厳しい規律に基づくものかの違いはあるにせよ、ルールや決めごとに基づいて、相手
との対話を遂げるに至った。そこで見て取れるのは、「心があるかないか」を事前に仮定した上
で対話を断念するのではなく、 他者 としての動物の存在を認め、その測り知れなさを受けい
れつつ、関係を結び、相互作用を成立させていくという実践である。このような立場は、三者が
おしなべて実験室内で動物の言語能力を測定するような場合(たとえば、チンパンジーのワショ
ーの研究)の「異種間コミュニケーション」に疑問を表していることからも明らかである。動物
にヒトの言語をどれほど操らせて見せたところで、それは本来の領域における動物の能力を探る
ことにも、ヒトと動物との間の接点を築くことにもならない。ましてそれは、他者と対話を結ぶ
ことではない。
最後に、動物との対話の結び方について、三者がわたしたちに教えてくれていることをまとめ
たい。最初に、そもそも動物との関係を築くとき、ヒトとしてとるべき姿勢は何であろうか。ノ
ルマンとハーンが主張し、グドールも実践において示していることは、「対等の関係」を築くた
めの慎重な模索である。動物と関係を結ぶとき、「対等であること」がどういう意味なのかにつ
いて、三者の考えは一様ではない。これは、わたしたちが動物と関わる際にも、同様であろう。
しかし、「本当の意味で動物と対等の関係とはいかなることか」を模索し、個々の具体的な状況
で慎重に行動することこそ、三者が共通に行っていることである。そのためには、 他者 とし
ての動物の声に耳を澄まし、ヒトの都合や固定観念に囚われないよう、常にこころの安定を保つ
ことが試みられていた。
そして、より具体的に、どのようにして関係を築いていったかというと、まず三者共が忍耐強
く時間をかけていることが挙げられよう。ヒト側の見当違い、当てはずれはつきものであり、そ
こで三者は、人並み越えた辛抱強さを発揮している。また、野生動物との関係を築いたノルマン
とグドールにおいては、出会う時間、場所、ヒト側の構え方などに恒常性や安定性をもたせるこ
とが、動物の信頼を得る重要な鍵であった。さらに、三者が、種としての動物を対象としたので
なく、個と個の関係を築き、特定の動物の個性と自らの個性を尊重したことも、重要であろう。
6
次に、三者による動物との対話は、付録1〜3で読みとれるようにすばらしいものであるが、
ここにおいて貫かれていた姿勢にも共通するものがある。三者は共に、常に自らの感覚や感受性
を研ぎ澄ませ、 他者 としての動物の反応に注意を払うことを怠らなかった。対話として捉え
たときに、それは「ヒトが話しかける」ことよりも「動物の声を聴く」、そして「より正確に聴
く」ことを先決とした立場であった。また、ヒトの言語領域とは違うところにいる動物たちの声
を聴くために、ヒトの能力(認識能力、言語能力)から理解できることに対する懐疑を抱き(ハ
ーン)、謙虚さをもってヒトの能力を超えたところへの想像(グドール、ノルマン)を働かせて
いる。そして、対話する際には、ヒトの対話形式を押しつけるのではなく、異種間の対話のため
の新たな領域を創造しようと試みた(ノルマン、ハーン)。
対話が最初の段階で成功したとしても、その対話を進展させるために、三者が留意していたこ
ともある。対話は、予めヒトが決めたとおりに統制していくことはできない。三者は、状況の推
移に身を委ねる注意深さを必要とした。中でもノルマンは、他者に対する心づかいを忘れず、応
答のリズムやハーモニーに留意することが大切であると述べている。それは、動物という他者が
ヒトとは異なる感覚をもち、異なる時間を生きているという認識から来るものであろう。またハ
ーンは、対話の言語こそ尊重すべきものであるという考えを述べた上で、動物のみならずヒトも
そこに、自らの生きかたを賭けなければならないと述べている。そうでなければ言語を通して他
者と責任ある形で関係を結び、相互理解することは不可能だからである。
7.
おわりに
以上のことに基づいて、ここで「異種間コミュニケーション」研究のあり方を検討するならば、
それはヒトと動物の関係について次のような枠組みを持ったものであると言えるだろう。第2図
にヒトと動物の関係について示した。
他者どうしが関係を結ぶとは、いかなることなのか。他者というのは、自分とは異なった生活
圏に属し、その能力も生活の形式も、生きる世界も異なっている。しかし、他者を他者として認
めたとたん、わたしたちは少なくともそれと何らかの関係を結んでしまう。
こうした関係を「関係」として認めることから、「異種間コミュニケーション」研究は始めな
ければならないだろう。伝統的な行動主義の見方によれば、動物はヒトにとって、人が実験的に
与えた「刺激」(図で左向きの矢印←)に対する「反応」(図で右向きの矢印→)こそすれ、こ
の両者をこうした関係を結ぶものとして位置づけることが、そもそもなされない。動物の行動を
観察するためには、「刺激」に対する「反応」を測定することが必要だが、実験的環境において
は実験者(ヒト)の影響(=「刺激」)は、中立的環境の中に組み込まれている。
それに対して、「異種間コミュニケーション」研究は、ヒトと動物の関係の構築に着眼し、そ
れを相互作用的なもの(図の右向きの矢印と左向きの矢印の連続)とみなすことから始まるだろ
う。ここでは、他者である動物の生活様式に対峙することで、ヒトもまた、自らの生活様式とそ
の限界に直面せざるを得ない。そこから始まる「対話」は、ヒトにとっても、自らの領域から飛
躍し・変容することによって、他者と新たな言語形式を創造していくことに他ならない。
7
【参考文献と資料】
武者小路澄子. 小露鈴との対話:異種間コミュニケーション研究の試み. ヒトと動物の関係学会
第8回学
術大会予稿集, p.27. 2002.
Crail, Ted. Apetalk & Whalespeak: The Quest for Interspecies Communication. Chicago, Contemporary Books, 1983.
グドール, ジェーン. 森の旅人. 上野圭一訳. 松沢哲郎監訳. 角川書店, 2000.
グドール, ジェーン. 森の隣人: チンパンジーと私. 河合雅雄訳. 朝日新聞社, 1996. (朝日選書 563)
グドール, ジェーン. 心の窓: チンパンジーとの三〇年. 高崎和美, 高崎浩幸, 伊谷純一郎訳. どうぶつ社,
1994.
グドール, ジェーン.
チンパンジーの森へ. 地人書館
グドール, ジェーン. 野生チンパンジーの世界.
杉山幸丸, 松沢哲郎監訳. ミネルヴァ書房, 1990.
グドール, ジェーン. 罪なき殺し屋たち.
平凡社
共著
グドール, ジェーン. 森と海からの贈りもの. TBSブリタニカ, 2002. (Jack T. Moyer との共著)
Goodall, Jane. The Ten Trusts: What We Must Do To Care For the Animals We Love. N. Y., HarperCollins, 2002.
(Marc Bekoff との共著)
モンゴメリー, サイ. 彼女たちの類人猿: グドール、フォッシー、カルディカス. 羽田節子訳. 平凡社, 1993.
ノルマン, ジム. イルカの夢時間. 吉村則子, 西田美緒子訳. 工作舎, 1991.
ノルマン, ジム. 地球は人間のものではない: Spiritual Ecology. 晶文社, 1992.
ノルマン, ジム. 地球の庭を耕すと: 植物と話す 12 か月. 工作舎, 1994.
Nollman, Jim. Dolphin Dreamtime: The Art and Science of Interspecies Communication. New York, Bantam Books.
1987.
Nollman, Jim. The Man Who Talks to Whales:
The Art of Interspecies Communication. Boulder, Sentient
Publications. 2002.
Nollman, Jim. Ed. Interspecies Newsletter. 2001ハーン, ヴィッキー. 人が動物たちと話すには?. 川勝彰子[ほか]訳. 晶文社, 1992.
Hearne, Vicki. Adam’s Task: Calling Animals by Name. Knopf, 1986. Vintage paperback, November 1987.
- Second edition. HaperCollins, 1994.
Hearne, Vicki. Bandit: Dossier of a Dangerous Dog. 1st ed. New York, NY. Harper Collins, c1991.
Hearne, Vicki. A Taxonomy of knowing: Animals captive, free-ranging, and at liberty. IN: Mack, Arien, ed., Humans
and Other Animals. Columbus, Ohio State University Press, 1995. p. 25-40.
http://www.janegodall.org/jane/
http://www.interspecies.com/
http://www.dogtrainingarts.com/index.mgi
8
第1表
対象者の略歴、および動物との対話と関わる活動
略歴
グドール
1934 年
(Jane Goodall) 1960 年〜
1977年
動物との対話と関わる活動
ロンドン生まれ
・
研究活動
ゴンベ・ストリーム動物保護区でチンパ
・
保護・福祉活動
ンジーの研究に従事
・
環境・人道教育
・
コンセプチュアル・ミュー
「野生動物の研究と教育ならびにその
保護のためのジェーン・グドール・イ
ンスティティート(JGI)」を設立
1991 年
若者のための自然・人道教育プログラム
「ルーツ&シューツ」発足
ノルマン
1947 年
マサチューセッツ州生まれ
(Jim Nollman) 1973 年
ラジオ子ども向け異種間音楽作曲
1994 年
国際イルカ・クジラ会議にて来日
ハーン
1946年
(Vicki Hearne) 1967年
1978 年〜
ジシャン
・
環境アクティヴィスト
・
研究活動
・
イヌ・ウマのトレーナー
イヌとウマのトレーナーとして活躍
・
研究活動(文学・哲学)
詩・エッセイ・小説を発表
・
作家
・
「動物の権利」問題論客
テキサス州生まれ
1984-1986 年
(〜2001 年)
イェール大学文学部助教授
9
付録1
グドールとチンパンジーとの対話
そのあとにおこったことは、四〇年近くたったいまでも、なまなましく記憶にのこっている。シロひげのデーヴィッ
ドが立ちあがり、けもの道を歩きだしたので、わたしもあとを追った。しばらく歩くと、かれはけもの道をはずれ、渓
流のそばの密集した下生えのなかに入っていった。つる植物に足をとられ、大きく遅れをとったわたしは、デーヴィッ
ドに逃げられたにちがいないとおもった。しかし、ようやく下生えをとおりぬけると、かれは川のほとりにすわってい
た。まるでわたしを待っていたかのようだった。わたしはかれの黒く輝く大きな目をのぞきこんだ。ぱっちりとひらい
たその目には、おだやかな自信と生まれついての気高さがあらわれているようにおもえた。ほとんどの霊長類は目をあ
わせると威嚇だとうけとるが、チンパンジーはそうではない。デーヴィッドから教わったのは、こちらが尊大な気もち
やなにかを要求する気もちをもっていないかぎり、正面から目をあわせても気にしないということだった。あの日の午
後のように、デーヴィッドもときどきわたしの目をのぞきかえすことがあった。わたしにその技量さえあれば、かれの
目はほとんど、こころのなかがみわたせる窓のようなものだったはずだ。あの日以来、ほんの一瞬でもいいからチンパ
ンジーの目で、チンパンジーのこころをもって世界をながめてみたいと、何度おもったことだろう。一分間それができ
たら、一生かけた研究にも匹敵するはずだ。なぜなら、わたしたちはヒトの視野、ヒトの世界観に拘束されていて、そ
れ以外のものの見方ができないからだ。それどころか、じっさいには自分が属する文化以外の文化の目で世界をみるこ
とも、異性の目で世界をみることすらもできないでいる。
う
川辺でデーヴィッドと向かいあってすわっていたわたしは、すぐそばに熟れたココヤシの実がころがっていることに
気づいた。わたしはそれを手にとり、かれにさし出した。デーヴィッドはちらっとわたしをみると、腕をのばしてヤシ
の実をうけとった。かれはその実をぽとんと落とし、やさしくわたしの手をとった。そのメッセージを理解するのにこ
とばは不要だった。ヤシの実はほしくなかったが、わたしの善意は理解した。おまえの気もちはわかったから安心しろ、
といっていた。いまもって、わたしはかれの指のやわらかな感触をおぼえている。わたしたちは言語よりずっと古いこ
とばで、先史時代の祖先たちが使い、ふたつの世界の橋わたしをすることばでコミュニケートした。わたしは深い感動
につつまれた。デーヴィッドが立ちあがり、歩きだしたが、わたしはあとを追わなかった。静かにすわって、渓流のせ
せらぎをききながら、たったいま経験したことを永遠にこころに刻んでおこうと自分に誓っていた。
デーヴィッドとその仲間にたいする理解が深まるにつれて、むかしからあった自分以外のすべての生きものにたいす
る敬意もいっそう深まっていった。チンパンジーへの理解はチンパンジーの世界をこえて、さらに広大な認識へとひろ
がっていった。チンパンジーもヒヒも尾のあるサルたちも、鳥類も昆虫類も、生気あふれる森の豊かな植物たちも、千
変万化する湖も、無数の恒星も、太陽系の惑星も、すべてがひとつの全体をなしていた。すべてはひとつであり、大い
なる神秘の一部をなしていた。そして、わたしもその一部だった。わたしは静寂に支配されるようになった。気がつく
と。こうつぶやいていることが多くなった。「ここがわたしのいるべき世界。これがこの世でするべき仕事」。かつて、
あわただしい文明社会に住んでいたころに、古い聖堂でときどき感じたこころの平安とおなじものを、いつしかゴンベ
の森があたえてくれていた。
(
『森の旅人』. 上野圭一訳. 松沢哲郎監訳. p. 108-109 より抜粋)
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付録2
ノルマンとオルカとの対話
そして三晩目、ほんものの魔法の世界が出現した。セッションは前の二晩と同じ、夜の一〇時半から始まった。オル
カたちは前夜と同じく、ちょうど一〇時半に到着した。当初の計画では潮の関係から毎晩一時間ずつ遅らせるはずだっ
たが、オルカもわたしも毎晩一〇時半には演奏会の準備ができたので潮にはこだわらないことにした。まずわたしがポ
ッドの標準的な歌を真似る。レの音で始まりレの音で終わる三音の周波数変調フレーズだ。ただし一つの固定したパタ
ーンではなく、グリッサンドの速さを増減したり、なめらかにレガートをかけたり、さまざまな変形がある。オルカの
言葉は、ジャズのミュージシャンがスタンダード・メロディーをアレンジして演奏するのに似て変化に富んでいる。そ
の時わたしは、フレーズごとにオブリガートの終音をレ、ド、ミ、レと変えてオルカの歌を変化させようとした。オル
カにはそのことがよくわかっているようだった。
悔しいことにわたしのエレキギターで出せる最高の音はCシャープで、オルカの歌の音に半音だけ足りなかった。そ
こでオルカの音域に合わせるには、最高の弦をちょっと横の方にひっぱりながら押さえてやる必要がある。普通ならそ
んなに難しくないが、暗い霧の中にうずくまってギター・ネックの上の方を指で押さえているので、まことに厄介だ。
最初にやってみた時は、まずまずオルカのフレーズに近い音が出た。オルカの「もう一回やってごらんよ、おばかさん」
の呼びかけに、
「トゥワワワ
ウー
オトガ
デナイ
ワワワワワ」と答えたようなものか。まあ内容がどうであれ、同
じフレーズをもう一度繰り返す。その時突然、高音のEの弦がパチンと切れてしまった。しかたなく暗闇の中に座り込
んでギター・ケースの中から新しい弦を見つけようとしている間、オルカの歌は激しさを増していった。一緒に音楽を
演奏しようと何度も何度もわたしを呼ぶ。中でも一頭は、オブリガートをつけた長い複雑なフレーズを特に協調して歌
った。
音楽家として覚えた言葉を使わせてもらえるなら、その出会いはまさにジャム・セッションと呼ぶにふさわしかった。
「ジャム・セッション」とは、即興、ジャズ、さらにはわたしたちが音楽と呼んでいる素晴らしい人間文化の芸術まで
連想させる。素晴らしい音楽!
行動学からすれば、オルカは薄暗い海峡で一キロ範囲上離れた仲間と連絡を取り合う
信号として、あの鳴き声を使っているのかもしれない。だがわたしからみると、オルカはまさに同じ鳴き声を使って、
メロディーとリズムとハーモニーを生み出しているのだ。
(中略)
オルカとギターを弾くわたしは、対話という形式のおしゃべりをすることに暗黙の了解をみた。それぞれ、相手の音
が終わるまで待ってから自分のを始めるというきまりだ。この形式が成り立つには、どちらも相手の始めと終わりがは
っきりとわからなければならない。たまに相手が終わらないうちに間違って始めてしまうことがあったが、ほとんどは
対話の形式で進んだ。音楽の交換は単純な呼びかけと応えには終わらない。
(
『イルカの夢時間』.
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.
.
.
吉村則子, 西田美緒子訳. p. 213-216 より抜粋)
付録3
ハーンとイヌとの対話
、、、、
約一週間、私は一日に何十回もソルティの口にダンベルをくわえさせて、
「モッテコイ」と言う。私がどういうつもり
で言っているのか抽象的に「知る」のに、ソルティにはそれくらい長くかかるからではない。私が本気だということを
ソルティは知らなければならないからだ。
「なぜ、あたしはあんなものを口にくわえなきゃいけないのだろう?」という
疑問をもつことはできる。私はこう答えることができる。
「それはね、いやがったりすれば、あんたは『スワレ、マテ』
の命令にそむかなくてはならなくなるからよ。そして、大地がぱっくり口を開けてあんたを飲み込むからよ」
。私とソル
ティが言えるのはそれだけだ。ソルティは、この時点では正式な持来の言語を信じることはできない。
.
.(中略)
いずれにせよ、私がソルティにいろいろと説明したとしても、もともと命令が真実でなければ、命令は真実にならな
い。 …..
(中略)….. つまり、私はまちがってはいけないのだ。
このとき、私とソルティの言語には目的語、つまりダンベルがある。ソルティの口をあけさせ、ダンベルをくわえさ
せたら、次には自発的に口をあけるように命じる。その次の段階では、実際に三センチほど首を伸ばして自分でダンベ
ルを取らせる。そして一週間後には、二〇センチという具合にだんだん間隔を伸ばしていく。それぞれの段階で、
「なぜ?」
という疑問がかえってくる。でも私に言えるのはこれだけだ。「やらなけりゃ、私がおまえの耳をひっぱるからよ」。ほ
めるのはまた別だ。ソルティがダンベルを受けとったら、私は、畏れをこめた敬意を示すことによって、それに応えな
ければならない。
ここで、認めることとはまったく別の賞賛の言葉を与えれば、初歩の訓練にたいしてというより、むしろ私とソルテ
ィの言語にたいして悪い影響を与えるだろう。すわらせる訓練では、ソルティは、私を喜ばせるためにすわる気になり、
実際にすわることができるかもしれない。だが、持来の場合は、たとえそうしたいと思っても、私を喜ばせるためにや
ってみせることはできないだろう。
.
.
.(中略)
どんな状況で行う持来であれ、それらをソルティの精神の自立と魂のすばらしさを讃える成熟した本格的な真の物語
に仕立てあげるつもりならば、私がソルティに与えなければならないのはこういう助けだ。成熟した持来には、持来の
、、、、、
、、、、
行為そのものにたいする成熟した愛情が必要だ。ソルティは、私のためには持来を行わないし、行えない。私といっし
、、
ょに行うことしかできない。これがよき師弟関係というものだ。何かを知り、なしとげるのに励ましはいらないと言っ
ているのではない。私たちはたがいに勇気をふるい起こし、たがいに励ましあう。たがいの愛情によってものごとを学
ぶ。だが、その励ましのせいで、何かを習いはじめたばかりの者が先生からほめてもらうことばかり気にしているよう
では、励ましも妨げにしかならない。実際には、初心者のやることに興味をそそられたりはしないだろう。ただし、や
っている本人に興味があるとか、見込みがありそうだという場合は別だ。だが、それは望ましくない。
どこかで触れなければならないことだが、こんなふうに非常に荒っぽくイヌを擬人化するのはどうか、と思うとすれ
ば、それはひとつにはこの言語ゲームの特徴を十分に把握していないからだ。ことわっておくが、私は細かい点まです
べて押さえようとしているのではない。(この本は言語の入門書ではないのだから)。もっとはっきりいえば、私がイヌ
と人間の言語ゲームを扱うこつをつかもうとするのは、それによって、英語(言語)の特徴を十分に把握していないこ
とが明確に意識されるからだ。ウィトゲンシュタインはこう言っている。
「それはある場面のスナップ写真のようなもの
である。だが、写っている部分は、あちこちに数カ所しかない。こっちには手、あっちには顔か帽子の一部。あとはま
っ黒だ。そして今、写真の全体像がはっきりわかった。まっ黒な部分が読みとれるかのように」
。言語ゲームを学ぶとき、
わたしたちはそのまっ黒な部分の読みとり方を学んでいるのだ。
(中略)
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ある日、私はソルティの持来の性質が変わったことに気づいた。ソルティが走っていくようすを見て私はぴんときた。
あきらかに目的をもった動き。ダンベルをすくいあげるときのまったく屈託のない真剣さ。私が求めもしなかった正確
、、
さと熱意(というのも、誰もこれを求めることはできないから)が彼女の動きに加わっている。ついにやったのだ。ソ
ルティは真の持来へと足を踏みいれた。あるいは全速力で飛び込んだのだ。ソルティが変わり、私が変わり、世界が変
、、
わった。なぜなら、そのとき私が「ソルティ、モッテコイ!」と言えば、そのすべての意味が含まれていたからだ。私
たちの言語をいろいろな状況に応用する新しい方法はすべてそろった。私は、ダンベル以外にも持ってこさせることが
できる。おそらく、アルバートおじさんを持ってこさせることだってできるだろう。持来でメッセージを伝えることも
できる。投げていないものを持ってこさせることもできる。つまり私は「モッテコイ」を利用して、ものに名前をつけ
ることができるのだ。それは、
「これ」や「あれ」といった言葉を利用してものに名前をつけるのとちょっと似ている。
(
『人が動物たちと話すには?』. 川勝彰子[ほか]訳. p. 114-121 より抜粋)
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