宮沢賢治とエンデ

賢治とエンデ・・・宇宙と大地からの癒し」
矢谷慈國(やたによしくに)の「賢治とエンデ・・・宇宙と大地からの癒し」(1997
年4月、近代文芸社)から、特に宮沢賢治に関する部分の要点を紹介する。以下を見れ
ば、宮沢賢治が偉大な哲学者であることと、同じく偉大な哲学者であるエンデとの共通点
を理解できるであろう。エンデに関する各論は、私には別途「ミヒャエル・エンデについ
て」という論考があるので、ここでは省略した。
まえがき
エンデは「時間とはすなわち生活なのです、そして生活とは人間の心の中にあるものなの
です」と時間と生活と心の関係を定義し、「思いやりを持って仕事をし、自分の仕事に誇
りを持てるような」時間との関わりこそが本来的なあり方だと述べている。その本来的な
人間的な生きられた時間が、時間泥棒たち(近代資本主義社会に内在するメカニズム)に
よって盗まれ続けていることに、人びとは気付かないでいる。人びとは「経済成長と時間
節約の強制」によって追い立てられるようになり、見かけの豊かさに眩惑され、その生活
そのものの質が、世界や他者との関わりの質がますます貧しいものになっていることに盲
目となっていく。
このような時間泥棒たちの陰謀を見破り、人びとの盗まれた時間を、大冒険の末取り戻す
ことができたのは、ボロをまとったみなし児の少女「モモ」だった。モモにそれができた
のは、少女が「近代的な学校教育」に毒されていない、本来的な「子供の心」「子供の定
見様式の中に存在するU・P(リファインされたユニバーサル・プロジェクション)」を
持っており、それを有効に働かし得たからなのである。
「はてしない物語」でエンデは、近代社会においては、日常生活の現実と、ファンタジー
の世界との関係が、お互いを貧しく惨めなものにする方向に突き進んでいることを指摘し
ている。日常生活の現実の中で近代社会のメカニズムが人びとを支配するために利用する
あらゆる種類の「虚偽」が、ファンタージェンの世界での、「虚無」の増大を生み出し、
ファンタージェンの生き物たちは次々と「虚無」に呑み込まれて消滅していく。その虚無
に呑み込まれてしまった生き物たちは、人間の世界の「虚偽」に生まれ変わり、そこでの
虚偽をますます増大させる。このようにして、二つの世界の関係は、「悪魔の環」に陥っ
てしまいつつある。多元的リアリティ論の観点からすると、同じような「悪魔の環」は
「近代化した我々の日常生活の世界」と「科学の世界」との間にも、「芸術や宗教など
の、他の多元的リアリティの諸世界」との間にも成り立ってしまうことになる。
エンデによれば、このような近代社会が、自ら生み出し展開してきている「悪魔の環」を
解き放ち、「日常生活の世界」と「ファンタージェンの世界」との関わりを、正しいあり
方に導く力を持っているのは、ここでも近代社会の大人ではなく、「真の幼心」を持った
子供たちなのである。この物語で主人公の少年バスチアンが行なったことは、
『 ちゃんと、トータルにファンタージェンの世界に「移行」すること。教務の拡大に
よって危機に陥っているファンタジェンを、女王幼なごころの君に新しい名前を差し上げ
ることによって更新し、再生させること。そこで数々の冒険を経験すること、それによっ
てこれまでとちがった人間となり、ちがった見方をすることができ、人を愛することがで
きる人間へと「成長」すること。その上でちゃんと日常生活の世界に帰還すること、そし
て、自らの日常生活の生き方を、「変革」するに至ること』・・・である。エンデがこの
作品で強調していることは、生きものとしての子供の感受性と行動の力、理念的な意味で
の「幼心」、すべての人間が本来的に持つ、自由でしなやかな創造力と想像力を生き生き
と働かせることのみが、「近代が生み出した悪魔の環」を感じ取り、見破り、それから人
間を解き放つ力を持つということである。
賢治は「春と修羅 序」の冒頭で、「わたくしという現象は仮定された有機交流伝統の一
つの青い照明です」と自己定義している。それは延長する実態としての物質や身体と二元
論的に区別された、延長を持たない、思考する実態としての、デカルト的なエゴ・コギト
ではない。またそれは、人間中心的世界観の中で捉えられた、近代社会のおける個人、個
性的表現主体としての個人でもない。その「私という現象」は「風景やみんなといっしょ
に」あるいは「人や銀河や修羅や海胆(うに)」と生き生きとした交流をもちうるよう
な、自らを実体化することのない「関係存在」としての「わたくし」である。それは近代
的な個人や観念的な「エゴの実体化」を軽々と超越している賢治の「わたくしという現
象」なのである。
「賢治という現象」は近代社会がほとんど喪失してしまった「古井師父たち」のU・Pを
保持し、しかも近代の相対性理論や量子力学が開いた新しい科学の視野をふまえた、「新
しい、リファインされたU・P」を持って生きていた。そしてその体験を独自の「心象ス
ケッチ」や「童話」の形で言語化し得た、希有な人間現象である。彼は「エゴの実体化」
とそれにもとづく「近代的私的所有」という、近代社会に至って、人類史上もっとも顕著
となった我々の病と高慢を反省する上で、もっとも身近な、「同時代人」の一人なのであ
る。
1920年代の未熟ではあるがすでに近代に足を踏み入れていた日本で生きた賢治にとっ
て、「宗教は疲れて近代科学に置換され、しかも科学は冷たく暗い。芸術は今我らを離れ
しかもわびしく堕落した」と言わざるを得ない現実があった。「いま(科学者)宗教家芸
術家とは信善もしくは美を独占し販(ひさぐ)るものである」という指摘は今日の世界で
もあてはまる。賢治の時代の東北農民(大多数の庶民)は「ずいぶん忙しく仕事もつら
い、いまわれらには労働が、生存があるばかりである」という生活を強いられ、少数のエ
リート、専門家たちに独占されている真善美については、「われらに購うべき力もない」
と言わざるを得ない状態だった。
ではそれから70年あまり経た「高度に近代化した今日の我々のあり方」はどうだろう。
我々の日常生活の現実と、科学宗教芸術の世界(日常とは異なる多元的リアリティの諸世
界)との関わり方は、「資本主義の成長によって豊かな中産階級となった我々は、金さえ
出せば、いつでもどこでも真善美の世界を専門家たちやメディアから買い、それを自由に
消費できるようになった」と言える。しかしそれは、エンデの描くバスチアン少年のよう
な、真正の深い真善美の世界への「移行」とそれを経験することによる「成長」と日常世
界への「帰還」ではなくなっている。それは大部分、「日常から多元的リアリティの諸世
界への表層的で浅い、それは単に消費するだけの、「ルーティン化され日常化された移
行」でしかなく、日常へ帰還した時に、自らの日常生活を「変革」するほどの深さとイン
パクトももたない、一時的な気晴らしにすぎないものである。
(中略)
日本の近代化過程のこの二つの時代の違いは、人類史的視野の中では、本質的な相違でな
いことは明らかである。われわれは現在の地球上のすべての人類が、限りある地球のエネ
ルギーや資源と、すべての生きものを含む生態系の中で、「共に生きる」道を探さねばな
らないという、これまで一度も人類が直面したことのない巨大な危機を迎えている。その
中で近代資本主義経済の高度に発達した、「北」の社会に生きるわれわれの生活と、19
20年代日本の東北農民の人びとのような生活、あるいはそれ以下の生活を強いられてい
る「南」の発展途上国の多数の人びとの生活を、同じ近代資本主義の病理の異なった表現
形態として見通す目をもたねばならない。
そのような問題意識からすると、1920年代に賢治が「近代という病」を克服する方法
として構想した「農民芸術概論綱要」という考察は、21世紀に向かいつつある我々に
とっても、大きな示唆を与えてくれるものなのである。
「近代という問題」あるいは「病」を克服する試みにおいて、賢治とエンデが我々に提示
している共通の要素は、以下のように列挙することができる。
1、二人は共通して「近代社会が人間を人間らしくなくしていくこと」に対して、「原理
的かつラジカル」な批判を行なっている。
2、それを克服する方向を、「真の幼心、子供の持つ本来的で健康な生きものとしての感
受性」として典型化して描かれる「根源的な人間の創造力と想像力の回復とその活性化」
に見出そうとしている。
3、二人とも「銀河や宇宙」へと拡がる視野と、「地球史、人類史」の中で何が人間の心
にとって本質的なものであり、何が非本来的な「虚偽」なのかと深化していく洞察を踏ま
えて、「人間中心的、近代的エゴや私的所有の観念」を乗り越える、優れた意味での「神
秘主義」と「リファインされた新しいU・P」の創造への「開け」を共有している。
4、近代社会が機能的専門分業という形で分割し商品化し、ルーティン化してしまった、
「多元的リアリティの綜合」という理念と、深い多元的リアリティの経験への移行と帰還
にもとづく「日常生活世界の変革」という理念を共有している。
5、エンデは真正の芸術作品とその経験がもつべき「治癒力」について述べ、賢治は、か
らの作品が読者にとって、その心と生活を豊かにする「まことのたべもの」となることへ
の願いを述べており、芸術の持つ本来の働きについての同様の見解を示している。
6、二人ともその作品の随所で質の高い「ユーモア」と「笑い」を表現している。それは
「実体化されたエゴの観念」から自らを解き放ち、自らを世界と他者との関わりの中に関
係化することのできる、「エゴ無しの立場」でのみ成り立つ「関わりの自由さ」の産物で
ある。
7、賢治もエンデも共に、「言葉の実体か、固定化のもたらす疏外」に対する深い洞察を
共有している。そのような洞察にもとづいて、「まことのことばの創造や表現」へのあく
なき探求と努力を自らに課す点でも共通している。それは、「ことば(象徴)のもつ疏外
性への洞察と、U・Pの体験をふまえたことば(象徴)の能動性、創造性への信頼、まこ
とのことばの追求への献身」と名付けるべき「志」なのである。
第1章 ユニバーサル・プロジェクションと宮沢賢治の『「春と修羅」序』
について
ユニバーサル・プロジェクション(U・P)とは、もともと1970年に、T・ルックマン
が「社会的世界の境界について」と題する論文の中で初めて用いた概念であった。この論
文でルックマンはフッサール、シュッツに直接連なる現象学的な生活世界論の文脈におい
て、生活世界の拡ガリの中にどのように「社会的世界」が位置づけられるかについての、
時代差や文化差を検討した。その時に、未開社会や子供の思考に共通する世界観を要約し
て表現するために、「U・P」という概念を用いたのが最初の用例である。
そこでは「U・P」は多くの未開社会や子供の思考に見られる「前論理的心性レヴィ・ブ
リュール)」世界全体を社会的宇宙として取り扱う思考様式としての「トーテミズム(レ
ヴィ・ストロース)「外的世界の生命的把握(ゲーレン)」「外的世界への感情移入」
「人格的統覚(ヴィント)」「生命化された宇宙観の系統発生的先行性(シェーラー)」
などという形で多くの人類学者、民族学者、心理学者、哲学的人間学の論者が論じている
諸概念を要約するものとして定義されている。
筆者は、このようなルックマンの定義を、より明確にし、人間の経験可能性の全体にまで
視野を拡大しても使用可能な概念とするために、以下のような再定義を行なった。それは
「U・Pとは人間と自然、個人と社会(共同体)、精神(主観)と身体(客観)の間を二
元論的に実体化して分割するのではなく、それらを一体連続として把握する体験様式、思
考様式である」というものである。
「有機交流電燈、因果交流電燈のひとつの青い照明です」という表現は、メターファーで
ある。有機はすべての生命との連帯を、因果は、自然科学的原因結果関係を超えた仏教的
善因善果、悪因悪果の考えや、禅の不昧因果を、交流電燈は、一方的な原因結果の関係で
はなく、「風景やみんなといっしょに関わりつつ生きている」弁証法的相互規定関係を表
現している。「ひとつの青い照明」の「照明」は限りある人間としての賢治のいのちをし
めしており、それは、みんなのまことのしあわせを求めようとしながら、親や社会を始め
とするあらゆる障害に妨げられ、悩み苦しみ怒り悲しんでいる修羅のいのちであるゆえに
青い(Blue=憂鬱、苦しみ、悲しみを示す)のである。
「人や銀河や修羅や海胆(うに)」は、人間、宇宙、人間と畜生の間の存在としての修
羅、ウニ(人間以外の生きもの一般の代表)をあげることによって、大乗仏教でいう「一
切衆生」古代中国哲学でいう「天地万物」、ありとし、あらゆるもの、生きとし、生ける
もののすべてを表現している。
その宇宙の中のすべての存在が自分の心象スケッチについて「宇宙塵をたべ、または空気
や塩水を呼吸しながら それぞれ新鮮な本体論も考え」るだろうと賢治は思う。それらす
べては、食べる、呼吸するという生命のメタファーで捉えられると共に、「本体論を考
え」るという精神のメタファーで捉えられている。ということは「それらすべては、いの
ち、精神としての無差別」のものとして、とらえられているのである。と共に、それら8
人や銀河や修羅や海胆)が心象スケッチについて考える本体論も、「畢竟こころのひとつ
の風景です」と言い切る。ここでは賢治はひとまず「三界唯心」の仏教的世界観に立って
いる。
(すべてがわたくしの中のみんなであるように、みんなのおのおののなかのすべてですか
ら)とは一体何を言っているのか。仏教哲学ではこれは、華厳経の「重々交映や事事無礙
法界の考え方」や法華経の「十界互具」の思想を示している。主観であれ客観であれ、す
べての実体化を否定する大乗仏教的な無の観点に立てば、一つの玉はすべての玉をお互い
の中に映しあうのであるし、一つ一つの波は共に海の現象形態であり、しかも波と波がぶ
つかってもお互いに障りがない、地獄から仏に至る十界のひとつひとつがさらに十界を供
えている、その十界の一切の衆生が成仏するという、弁証法的な相互内在、相互神道の関
係としてとらえられるのである。筆者のことばに翻訳すれば、これはまさに、「リファイ
ンされたU・P」の賢治的表現であり、賢治は、人間と自然、個人と社会、精神と身体の
ウチュ的な一体連続感(観)に立って、上記のような言葉を確言的に述べているのであ
る。
第2章 多元的リアリティの統合と宮沢賢治「農民芸術概論綱要」について
賢治の思想は大乗仏教の世界観(カプラ流にいえば神秘思想)と相対性理論の四次元時空
禹の考え方が、独自に綜合されたものであり、1926年の段階ですでにそのような思想
的立場を確立していた賢治の思想と表現を知れば、1975年に「タオ自然学」をは@@
要したカプラは、大いに共感すると共に、その先見性に驚嘆するであろう。そして賢治が
カプラの著作を読めば、彼の時代よりもはるかに進んだ現代物理学の側からの知己を得て
喜ぶことだろう。その意味において賢治の思想は、人類の思想史上の画期に刻印する先見
性を持っているのである。
賢治の思想における四次元時空の宇宙、銀河へと拡がる広さと、ブツダの悟りと救済の教
説へと沈潜する深さの綜合は、日本の近代以降の作家には類例を見出せない性質のもので
ある。
注:カプラ:フリッチョフ・カプラ( 1939年2月1日 生まれ)は、オーストリア出身のア
メリカの物理学者。現代物理学と東洋思想との相同性、相補性を指摘した1975年の
「The Tao of Physics」が世界的なベストセラーとなり、その名が広く知られるように
なった。
老子の神秘主義的なタオイズムの思想は近代以降にも生き残り西欧世界にも伝播して、哲
学者・宗教者・科学者など広汎なジャンルの人たちに大きな影響を与え ている。宗教理
念や神秘思想から最も遠い位置にあると思われている現代科学の研究をする科学者の中に
も、精神主義的な東洋思想(老子の思想)の影響を受け た人たちは少なからずいる。
その代表的な人物が、素粒子物理学・システム論などの研究をしていたフリッチョフ・カ
プラ(Fritjof Capra, 1939-)である。フリッチョフ・カプラはニューエイジやディープ・
エコロジーの思想潮流において重要な役割を果たしたが、東洋神秘思想と現代物理学を架
橋する内容になっている『タオ自然学(1979年)』はニューエイジ・ムーブメントの流行
の中で高い人気を得ることになった。
フリッチョフ・カプラは『タオ自然学』の著作の中で『人は地を規範とし、地は天を規範
とし、天はタオを規範とし、タオは自然を規範とする』という老子の言葉を引用している
が、ヒンドゥー教の主神であるシヴァの踊る原子レベルまで振るえるようなダンスを経験
したという神秘体験(超常現象)についても報告している。
カプラは東洋神秘思想が説く『あらゆる事象の相互連関性(相即性)』を、現代物理学が
明らかにした不確定性原理などと結びつけて考え、運動エネルギーと質量の交換可能性に
ついて示唆している。ニュー・エイジそのものは非科学的な観念性を指摘されて下火に
なっているが、カプラの神秘主義と現代物理学をイメー ジで結び付けようとする試みは、
実証的科学性にこだわらない東洋古来の精神性の観点からは興味深いものである。
カプラ曰く。「物質は実在するものではなく、ただ素粒子間の関係性のみが存在するだけ
である。」「クォークなどパタンに過ぎなくて実在じゃない」「物ごとは相互依存によっ
てその存在と性質を引き出すのであって、それ自体は無である」。
賢治が自らの芸術を「第四次元の芸術」と規定したことは、ニュートン物理学の絶対時間
空間や、デカルト的な仏心二元論のレヴェルにおける西欧近代化学を超えて、相対性理論
の「時空」四次元連続体、主観と客観がもはや二元的に分割できない秩序を示す量子論の
レヴェルに視座をおいて、「近代科学の実証と求道者たちの実験とわれわれの直観の一致
において」構想したものであることを示している。筆者が、宮沢賢治「農民芸術概論綱
要」において肯定的に述べられている科学と「冷たく暗い」と否定的に述べられている科
学、を区別すべきだと述べたのはそのためである。カプラの言うように、相対性理論、量
子論のレヴェルの現代物理学は、東洋の神秘思想と「万物は一体連続であり、相互に関連
しあっている。究極的実体としての物質も精神も存在しない」という洞察において、「一
致」を示しているからである。この点で賢治とカプラの考え方は驚くほど似ている。
第3章 日常的生活世界とファンタジー世界・・・多元的リアリティ論とエンデ
「はてしない物語」からの考察 (省略)
第4章 生きられた時間と希少剤としての時間・・・現象学的時間論とエンデ
「モモ」からの考察 (省略)
あとがきにかえて (省略)