エコロジと経済 - 日本大学経済学部

エコロジ῏と経済
小 坂 国 継
渇を招来するだけでなくῌ 多くの生物種の絶滅と
ῌ
大気や水質の汚染ῌ 土壌の砂漠化ῌ 人体への悪影
今日ῌ 人類がかかえている最大の課題は地球環
響をもたらす῍
境問題であるといってもけっして過言ではなかろ
しかしながらῌ 化石燃料と熱帯雨林の大量使用
う῍ この問題はῌ 国家間の紛争や災害とは異なっ
と大量伐採にはῌ それ相応の理由がある῍ それはῌ
てῌ 直接にはなかなかその実態が見えにくいがῌ
今日における生産と消費の手段と方法が化石燃料
しかし一歩その対処の仕方を誤ると人類の運命を
に依存する仕組みになっているからでありῌ また
も狂わせかねないῌ きわめて重要かつ緊急を要す
熱帯雨林を伐採しῌ それを輸出資材にしなければ
る課題であるといえる῍
生活していけない発展途上国の経済事情があるか
地球環境問題とはῌ 具体的にはῌ 地球環境の急
らである῍ 自分で自分の首を締めるような行為を
激な悪化に対してどう対処するかという問題のこ
しているということを百も承知していながらῌ な
とであるがῌ この悪化には大きく分けて資源の枯
おかつ今日を生きる糧を得なければならないとい
渇の問題と環境の汚染の問題がある῍ そしてこの
うジレンマがそこにある῍
二つの問題は相互に密接に連関しておりῌ した
このように地球環境の問題はエコロジ῏の問題
がってまた相互に切離しえない関係にある῍ 例え
であると同時に経済の問題でもある῍ そしてῌ こ
ばῌ エネルギ῏源としての化石燃料は非循環型の
の点でῌ エコロジ῏ ῐecologyῑ も経済 ῐecon-
資源であるからῌ その大量消費は不可避的に天然
omyῑ もῌ ともに家を守るものῌ 家事管理人とい
資源の枯渇を招来する῍ その埋蔵量に限りがある
う意味のギリシア語 oikonomos に由来している
以上ῌ 消費したら消費した分だけ資源が乏しく
ことは興味深い1ῑ῍ もともと経済学が家計学で
なっていくのは自明の理である῍ と同時にῌ 化石
あったとすればῌ エコロジ῏は生物の家計学であ
燃料の大量消費は地球の温暖化を招きῌ それに
る῍ しかし正確にいえばῌ このような家計学にはῌ
よって生態系に由῎しき影響をあたえる῍ 地球の
当然ῌ 倫理や規範の問題が入ってくるからῌ 地球
温暖化によって海水面が上昇しῌ また海水面の上
環境問題は人間とその生活環境との関係のあり方
昇によっていくつかの島嶼国家が海面に没すると
についての倫理的な問題でもある῍ 地球環境学は
予想される῍ こうして生息地を失った何万ῌ 何十
万もの生物種は絶滅へと追いやられる῍ またῌ 地
球の温暖化は台風やサイクロンやハリケ῏ン等の
異常気象を誘発すると心配されている῍ 同様にῌ
熱帯雨林の大量伐採は単なるエネルギ῏資源の枯
ῒ ῍ῌ ῒ
1ῑ
エコロジ῏という言葉を最初に用いたのはドイツの動
物学者ῌ 進化論者であるヘッケル ῐErnst H. Haeckelῑ
である῍ 彼は動物に関してῌ 非生物的および生物的環境
ῐUmgebungῑ との間のあらゆる交渉ῌ すなわち生物の家
計 ῐHaushaltῑ に関する学を生態学 ῐÖkologieῑ と呼ん
だ῍
経済科学研究所
紀要
第 33 号 2003
単なる生命現象の記述学ではなく 人間行為の規
浅いタイプのものと深いタイプのものとに分け
範学でなければならない
た シャロエコロジ運動というのは ネス
通常 エコロジは生態学と訳される しかし
によれば 環境の汚染と資源の枯渇に対する取り
生態学とは生物の生活に関する科学であって そ
組みであり 環境の保全 conservation を目指
れは個の生物や生物種および生物群とそれらを
した運動である この運動は人間中心的な an-
とりまく環境に関する科学のことである これに
thropo- centric 立場から とくに先進国の人
対して 今日 エコロジという言葉はもっと広
の健康と物質的な豊かさの維持と向上を目的とし
い意味で用いられており それは単に生態学とい
たものである 現在 自分が享受している高い生
う意味にとどまらず 環境保護や自然保護運動を
活水準を今後も維持し向上させていくには 環境
も含んだ意味で用いられている それは一つの科
の悪化に対してどう対処したらいいかということ
学であるだけでなく 同時にまたその科学にもと
に運動の主眼がおかれている
づいた運動でもある つまりエコロジは単なる
これに対してディプエコロジ運動という
理論であるにとどまらず その理論をもとにした
のは 生態系中心的な eco- centric 立場から環
実践をも意味している もともと理論と実践は不
境の保存 preservation を目指す運動である
可離であるはずだという点からすれば エコロ
この運動は 人間を土地 環境 という共同体
ジは学問や科学の本来あるべきあり方を示して
community の統治者としてではなく その単
いるともいえるだろう
なる一構成員であることをもとめたアルドレオ
ポルド Aldo Leopold の
しかしながら 一口にエコロジといっても
2
土地倫理
land
種のタイプのものがある 人間中心主義的なも
ethic
のもあれば生態系中心主義的なものもあり 穏健
い この運動は生態系全体という広い全体論的な
なものもあれば急進的なものもあり 地域中心主
holistic 立場から一種の生命平等主義 bio-
義的なものもあれば社会的関係を重視するものも
egalitarianism の原理にもとづいて環境保護を
ある さらにはフェミニズムの立場からのものも
展開していこうとするものである
の精神を継承するものであるといってい
ネスは同論文のなかでディプエコロジの
あればスピリチュアルなものもある
七つの特徴をあげている3 以下 その要点を示
以下においては 筆者がもっとも親近感をもっ
しておこう
ているディプエコロジを中心にして その
ῌ
中心的な理論と現実の経済との関係の問題および
環境のなかに個の独立した人間が存在し
そこで考慮されるべき倫理や規範やライフスタイ
ているというような原子論的な見方ではな
ルの問題を若干検討してみよう
く 世界というものを 網の目のごとく
相互に連関した個の要素の連続体として
ῌ
関係論的に また全体論的にとらえようと
する
ディプエコロジという言葉を最初に用い
῍
たのはノルウエの哲学者アルネネス Arne
Naess である 彼は 1973 年に雑誌 探究 Inquiry に
立場をとる
シャロエコロジ運動と長期的
視野に立ったディプエコロジ運動
人間中心主義ではなく 生命圏平等主義の
2
The
レオポルドの
理の諸問題
土地倫理
研究紀要
については 拙稿
土地倫
日本大学経済学研究会編 第
29 号 1999 年 参照
Shallow and the Deep, Long- Range Ecology
3
Movement という題名の論文を掲載した この
The Shallow and the Deep, Long- Range Ecological
Movement, in Environmental Ethics, ed. Lous P. Poj-
論文のなかでネスはエコロジ運動を文字どおり
man, third edition, 2001, pp. 147- 149.
῍ῌ
エコロジῐと経済 ῑ小坂ῒ
ῌ
῍
῎
生命の多様性 ῑdiversityῒ と共生 ῑsym-
らゆる階級制度に対して反対の態度が示されてい
biosisῒ をもとめる῍
る῍
平等主義という原則から反階級制度の姿勢
さらにはῌ それは生命の多様性と複雑性をもと
ῑanti-class postureῒ を貫く῍ 南北間の経
めるとともにῌ その調和的な共生を支持してい
済格差の問題をも含めた人間社会における
る῍ 近代の精神はあらゆる領域における原理の単
一切の差別や抑圧に反対する῍ この点で
純化῎モノトῐン化を目指してきたがῌ ディῐ
はῌ ソῐシアル῎エコロジῐとも共闘でき
プ῎エコロジῐは反対に自然や社会における多様
る῍
性や複雑性を大切にしῌ またその多様で複雑な諸
環境汚染や資源枯渇に対する闘いを支持す
要素や階級や種相互の調和のとれた共生を目指し
る῍ この点ではῌ シャロῐ῎エコロジῐと
ている῍
も協力できる῍
῏
最後にῌ それは従来の中央集権主義的な発想を
混乱 ῑcomplicationῒ とは区別された意味
否定してῌ 地方や地域にῌ その特徴や特性に応じ
での複雑性 ῑcomplexityῒ を重要視する῍
た政策を実行する権限をあたえるようもとめてい
これは人間社会における断片化され単純化
る῍ この地方分権的あるいは地域分権的な発想
された労働よりもῌ 人間が全人格を傾けて
はῌ 多様で複雑な環境と人間との調和的な共生を
能動的に協同できるような分業を支持する
考える場合ῌ 不可欠の要件であろう῍
ことにつながる῍
ῐ
ῌ
地方自治と分権化を支持する῍ この点でῌ
ΐシャロῐ῎エコロジῐとディῐプ῎エコロ
エコ῎リῐジョナリズムとも提携すること
ができる῍
ジῐ῔ を書いたおよそ十年後ῌ ネスはアメリカに
この七つの特徴を見て気がつくのはῌ それらは
おける彼の思想の共鳴者であるジョῐジ῎セッ
いずれも西欧近代の支配的精神に対する異議申し
ションズ ῑGeorge Sessionsῒ と共同でῌ 八ヵ条か
立て ῑアンチ῎テῐゼῒ であるということである῍
らなるディῐプ῎エコロジῐ運動の原則をまとめ
まずῌ それは個体主義的ないし原子論的な世界
観を否定してῌ 一切のものが有機的な相互連関の
た῍ 通常ῌ ΐプラットフォῐム原則῔ と呼ばれてい
るものである῍
なかにあるという関係論的で全体論的な世界観を
1
地球上における人間と他の生命の幸福と繁
とっている῍ 個῏の個体やその部分からῌ その集
栄はῌ それ自体の価値 ῑ本質的な価値ῌ 固有
まり ῑ集合ῒ として世界を考えるのではなくῌ 反
の価値ῒ をもっている῍ そしてῌ これらの価
対に世界の方からῌ その構成要素としてῌ しかも
値はῌ 人間以外の世界が人間の目的にとっ
相互に密接に連関しあっている網目として個体と
て有している有用性とは無関係である῍
2
いうものを考えようとしている῍
またῌ それは人間中心的῎位階制的な考え方を
現に寄与するしῌ またそれはそれ自身で価
否定してῌ 生命平等主義的な立場や反階級制度的
な立場をとっている῍ ここではῌ 人間はもはや
値を有している῍
3
ΐ神の似像῔ ῑimago Deiῒ でも ΐ統治者῔ でもな
人間は不可欠の必要を充足するため以外
にῌ この生命の豊かさや多様性を損なう権
くῌ 世界の一構成員と位置づけられているととも
にῌ すべての生物はそれぞれ固有の価値と権利を
生命の豊かさと多様性はこれらの価値の実
利をもっていない῍
4
人間的生命と文化の繁栄とῌ 人口の大幅な
もっていると考えられている῍ またῌ 社会におけ
減少とは矛盾しない῍ 人間以外の生命が繁
る一切の搾取や抑圧に対してῌ したがってまたあ
栄するためには人間の数が大幅に減少する
῕ ῍ῌ ῕
経済科学研究所
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6
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紀要
ことが必要である῍
ムを否定することはできてもῌ 人道主義という意
今日における自然界に対する人間の干渉は
味でのヒュ῏マニズムを否定することはなかなか
行過ぎておりῌ しかもその状況は急速に悪
難しい῍ というのもῌ それは博愛主義とほぼ同義
化している῍
で用いられることが多いのでῌ それを人口の大幅
それだからῌ 経済的ῌ 技術的ῌ イデオロギ῏
削減という観念ῌῌそれは ῒ間引きΐ という観念
的な基本構造に影響を及ぼすような政策の
を連想させるῌῌと結びつけるのはきわめて困難
変更がなされなければならない῍ このよう
であるからである῍
現在ῌ 世界の人口は 60 億人を突破している῍
な変更の結果もたらされる状況は今日とは
7
8
非常に違ったものになるであろう῍
その数が多すぎることは誰もが認めるところであ
イデオロギ῏的変革はῌ 生活水準の不断の
ろう῍ 専門家の意見ではῌ 世界の適正人口は 5 億
向上への執着を捨てῌ 生活の質を評価する
人から 6 億人だといわれている῍ すると現在ῌ す
こと ῐ固有の価値のなかで生きることῑ が
でに人類はその 10 倍以上の人口を擁しているこ
その主たる内容である῍ ῒ大きいことΐ と
とになりῌ しかも少なくともあと半世紀の間はῌ
ῒ偉大であることΐ の違いが深い次元で自
毎年増えつづけることは間違いない῍ しかしῌ だ
覚されるであろう῍
からといって人口の 90 パ῏セントを間引くべき
以上の項目に同意する人はῌ 必要な変革を
だとはῌ さすがに誰もいわない῍ それは生態学的
実現するためῌ 直接ῌ 間接に努力する義務
には正論であってもῌ 倫理的には賛同を得ること
を負う ῍
のない意見であろう῍ 地球が人間だけの専有物で
4ῑ
はなくῌ 他の生物との共有物であるという単純な
以上の八原則のうちῌ 最初の三つはすでに論じ
られたことでありῌ また原則 5 と 8 はおそらく容
る事実からすればῌ 人間の数が異常に突出してい
ることはけっして好ましい現象ではない῍
易に読者に受け入れられる内容のものであろう῍
しかしῌ それが何であれῌ 何か人為的な手段に
そこで一番問題となりそうなのは第 4 原則であ
よって人口を削減しようとする試みに対してはῌ
る῍ 世界の人口を大幅に削減しなければならない
誰もがある種の心理的な抵抗を感ずる῍ これもま
というこの大胆な提案はῌ 全体論的な世界観や生
た紛れもない事実である῍ そしてῌ その理由づけ
命圏平等主義の立場からすればῌ 当然の主張のよ
として生への畏敬とか人格の尊厳とかいった理念
うにも思われる῍ けれどもῌ 特定の種の異常な増
を持ちだす人がいる῍ しかしῌ 生物圏平等主義の
加は生態系や食物連鎖に影響をあたえるからῌ 適
立場からすればῌ そうした理念は他の生物にも同
当な数になるまで間引きをしなければならないと
様にあてはまることであってῌ それを人間の場合
いう生態学的原則をῌ そっくりそのまま人類にあ
にだけ適用しようとするのは不当であるというこ
てはめるのは非常な困難がともなう῍ というの
とになるであろう῍
もῌ それはヒュ῏マニズムの精神と真っ向から衝
突するからである῍
このように平等主義と人道主義の折合いはなか
なか難しい῍ 人間は宇宙において特別な位置を占
一般にヒュ῏マニズムにはῌ 人間主義という意
めておりῌ また他のいかなる被造物よりも優越し
味と人道主義という意味がある῍ ディ῏プ῎エコ
ているという意識がῌ 大なり小なりどの人間のな
ロジ῏はこの人間主義という意味のヒュ῏マニズ
かにもあってῌ それが人道主義の原理を平等主義
のそれよりも優先させようとする心理的メカニズ
4ῑ
B. Devall & G. Sessions, Deep Ecology, Gibbs M.
ムを形成しているのである῍
地球環境問題の最大の要因が第二次世界大戦後
Smith, Inc. 1985, p. 70.
῔ ῍ῌ ῔
エコロジ
と経済 小坂
の人口の急激な増加にあることは誰もが承認して
ライフスタイルは いたずらに欲求の量的拡大の
いることであるが しかしこの問題を法律や制度
みをもとめて その質的な充実や向上をおろそか
によって強制的に解決を図ろうとしても実効性に
にしがちであり その結果 生活の真の豊かさを
乏しい 避妊用具の援助をも含め 避妊について
見失わせてしまう 真の豊かさは その量にある
の正しい教育を徹底させること 発展途上国の生
のではなく質にあるのだという単純な事実を わ
活水準を引き上げる努力をすること 各人のライ
れわれに看過させがちである この点は エコロ
フスタイルを確立するよう促すこと等の地道な啓
ジ
蒙活動や援助活動を積み重ねていく以外に方法は
場合 きわめて重要だと思われる
と経済とライフスタイルの相互関係を考える
ないようである しかし そこには 子は授かり
ῌ
ものである という社会通念や 労働力としての
子供への依存意識 趣味や娯楽の欠如等 社会
ネスは
エコロジ
共同体ライフスタイ
Ecology, Community
的歴史的心理的文化的な諸の要因が伏在
ル
しているので このような啓蒙や援助活動の前途
and Lifestyle: Outline of an Ecosophy, 1989 に
はけっして平坦ではない
おいて彼自身のエコロジ 哲学 Ecosophy T5
エコソフィ
概論
を展開している そのなかにいわゆる GNP 信
さて プラットフォ
ム原則の 6 と 7 は現在の
仰 を批判した箇所があるが そこに彼のエコソ
の核心が率直に表明されている6
フィ
経済の体制とライフスタイルに対して その変革
をせまる内容のものとなっている 現在の先進工
GNP Gross National Product 国民総生産 と
業国で実施されている経済政策 一口でいえば
は 一国において一定期間に生産された財
大量生産大量消費大量廃棄 の政策は 持続
サ
的発展 sustainable development という理念
一般に経済指標として広く用いられている とこ
ととうてい折り合うことができない われわれは
ろで 問題はこの財 goods とサ
われわれが現在採用している政策を変更するとと
ある ネスによると 1945 年から 1965 年にかけ
もに 生活水準 をその物質的な量の多寡によっ
てヨ
て量る考え方を改めて 量よりもその質を重視す
意味での経済成長であった この場合 GNP はき
るようなライフスタイルを選ぶよう意識変革をす
わめて適切な指標であった それは一種の流行語
る必要がある というのがこの原則の内容であ
となり 人の間に GNP 信仰が生じた ところ
る
が その内 国家会計のプラスの側に いままで
ビスの総額 広辞苑 のことであり 現在
ビスの中味で
ロッパで起こったのは 建設と前進という
それはまさしくそのとおりであって この原則
見慣れなかった項目があらわれ始めた 例えば
は八つの原則の内でももっとも重要な原則であ
産業界が汚染の除去に費やした費用 交通事故の
り ディ
の精神をよくあらわし
犠牲者に対する救急処置にかかった費用 刑務所
ているものと思われる 大量生産大量消費
で要した費用等 要するに成長自体にかかった費
大量廃棄 は地球の貴重な資源をまさに食い潰し
用が GNP 会計のプラスの側に算入されるように
て生活していこうというやり方 ケネスボ
なった
プエコロジ
ル
ディング Kenneth E Boulding のいわゆる
フロンティア倫理 ないしは カウボ
イ倫理
5
6
にあるものといわなければならない また より
多く より速く より便利に をモット
ネスの環境哲学の名称 T は彼の山小屋トヴェルガス
ティン Tvergastein の頭文字
の精神であって それは循環型の経済政策の対極
Arne Naess, Ecology, Community and Lifestyle: Out-
line of an Ecosophy, Cambridge Univ. Press, 1989, pp.
とする
110- 116.
ῌῌ
経済科学研究所
第 33 号 ῐ2003ῑ
紀要
すると GNP はもはや経済成長の純粋な指標だ
ことになる῍ これらの項目はいずれも個人や社会
とはいえなくなる῍ 価値には無関係な単なる数値
にとって望ましくῌ またその個人や社会の健全さ
にすぎない῍ たしかにῌ それは経済活動に関する
を端的に示しているはずなのにῌ GNP という観
一つの尺度ではあるけれどもῌ 価値ある活動に関
点から見ればῌ むしろマイナス要因と見なされ
する尺度ではない῍ 生産された財やサ῏ビスが価
る῍ 反対に煙草の広告費を増やしῌ せいぜいレス
値あるものであるということを保証するものでは
トランで高価な食事をとることを心がけῌ 毎日 1
ない῍ GNP の大きさは社会の活動の ῒ激しさΐ
時間半も 2 時間もかけて通勤しῌ 適度に交通事故
ῐfiercenessῑ を示す指標ではあってもῌ その ῒ激
を起こして病院や保険会社のお世話になればῌ そ
しさΐ が社会と個人にとって真に望ましいもので
れだけ GNP の成長に貢献したことになる῍ この
あるか否かについては何もいわない῍ あきらかに
一事を見ても GNP がけっして ῒ豊かさΐ の指標
それは ῒ生き方の質ΐ とは無関係なものである῍
とはなりえないことは明らかであろう῍
経済学者の目から見ればῌ それは当たり前のこ
第二にῌ GNP は社会における非常に重要な部
とでῌ ネスの主張はいかにも素人くさい議論のよ
分の仕事を無視している῍ 例えばῌ 家庭内におけ
うに映るかもしれない῍ けれどもῌ もしそうだと
る主婦 ῐ主夫ῑ の仕事はきわめて重要であるにも
したらῌ 逆にそれを当たり前のこととして少しも
かかわらずῌ その仕事に対する賃金が支払われて
不思議に思わない神経というのはῌ 何だか末恐ろ
いないという理由でῌ GNP には加算されていな
しいもののようにも思われる῍ およそ価値中立的
い῍ またῌ 内外のボランティアによる各種の福祉
な経済学なんてものが存在しうるであろうか῍ そ
活動や奉仕活動もῌ 同様の理由でῌ GNP には加算
んなものが存在しうるはずがなかろう῍ 経済成長
されていない῍ もしそれらの仕事に対して標準的
自体にかかった費用が GNP 会計のプラスの側に
な水準で賃金が支払われたとしたらῌ その総額が
算入されているということはῌ とりもなおさずわ
いくらになるかῌ 計算しようと思えば割合簡単に
れわれの内に GNP 信仰が根強く残っているとい
計算できるはずだがῌ そうしようとする動きや気
うことのῌ したがってまたῌῌたとえそれが虚構
配はまったく見られない῍ 要するにῌ それらの仕
や幻影にすぎないとしてもῌῌそこに GNP に対
事は経済的に価値のあるものとは少しも考えられ
する肯定的な価値観や信仰があったということ
ていないのである῍ ここにῌ 支払明細における数
のῌ 何よりの証左であろう῍
値しか念頭にない GNP 信仰の不健全さがある῍
ネスは GNP が経済指標として信頼できない理
そこではῌ 賃金や消費の数値が唯一の関心事で
由をいくつかあげている῍ 第一にῌ それは必ずし
あってῌ その仕事の内容ῌ やりがいῌ 充実感や満
も社会の健全さや望ましさを示す指標とはなって
足感等ῌ 数値で表示できないものはすべて無視さ
いない῍ 例えばῌ 禁煙教育のための促進費を 100
れている῍
万ポンド増やしῌ 煙草の広告費を 800 万ポンド減
第三にῌ GNP すなわち国民総生産とはῌ 上述し
らすとῌ GNP は合わせて 900 万ポンドの ῒ悲し
たごとくῌ ῒ一国において一定期間に生産された
むべきΐ 減少となる῍ またῌ レストランでではな
財῎サ῏ビスの総額ΐ のことであるがῌ その際ῌ
くῌ 家庭で食事をしたりῌ 遠距離ではなく近くの
財やサ῏ビスがどのような仕方で分配されている
職場を選択するとῌ これまた GNP の ῒ悲しむべ
かということは問われていない῍ したがってῌ た
きΐ 減少となる῍ さらにはῌ つねに安全運転に心
とえ GNP の総額がどれほど大きくともῌ それが
がけῌ 交通事故を起こすことなくῌ したがってま
きわめて偏った分配のされ方をしているような場
た病院や保険会社の御世話になることのない人
合があることは十分に考えられる῍ 例えばῌ 国民
はῌ GNP の増加に何の貢献もしていないという
の 95῕がまったく貧困に喘いでいてῌ 残りの 5῕
῔ ῌ῍ ῔
エコロジと経済 小坂
が極端に富裕な生活をしているという場合もある
ルを回転しつづけなければ自転車は倒れてしまう
であろう また これに対して 国民の一人一人
ように この悪循環は それを悪循環だと知りつ
に財やサビスが公平に分配され すべての人が
つ なお循環しつづけなければ経済は破綻してし
同等の生活水準を享受しているという場合も考え
まう こうして徐に より短い周期で またよ
られるであろう 両者においては 人の 生き
り大なる規模で 大量生産大量消費大量廃
方の質 や満足感はまったく異なっていると考え
棄 という悪循環を繰り返していくよう強いられ
られるが しかし GNP の総額自体はまったく同
る
じであるという場合もありうる すると その場
しかも このようにして生産される商品は必ず
合 両者は経済的には同じ豊かさであるというこ
しも人間の必要を満たすものとはかぎらない 企
とになってしまう
業家にとっては ただその商品が売れて儲かりさ
このように GNP は必ずしもその国の経済的な
えすればいいのであり また技術者にとっては
豊かさの指標とは見なされえない そこには 収
技術的に可能なものは何でも作るべきなのであ
入と支出の欄に組み入れられるべき項目 財や
る そこにはいかなる倫理的な規範的意識も存在
サビスの配分のされ方 数値ではあらわせない
しない かつてカント Immanuel Kant は 自
質的な豊かさの評価方法等 なお検討されるべき
己の内なる義務意識に対する尊敬の念から 汝
多くの課題が残されている しかし 今われわれ
為すべきがゆえに為しあたう Du kannst, denn
が論じようとしているエコロジとの関係で特に
du sollst
重要なのは GNP の成長と持続的発展や環境保護
だから そうできるはずだというのである
との両立の問題である
こでは行為の前に義務の意識がある 最初に 義
7
と揚言した 君はそうすべきであるの
こ
上述したように 今日の経済のシステムを端的
務意識があって そこから行為が導かれる これ
にあらわす言葉は 大量生産大量消費大量廃
に対して 技術の論理は それは技術的には可能
棄 である 商品を大量に生産し それを大量に
なのだから それを作るべきだと主張する ここ
消費し そして大量に廃棄する また新しくより
では義務の意識は行為の後から人為的に作られ
便利な商品を大量に生産し それを大量に消費
る 技術的に可能なものはῌῌそれが本当に人間
し そして大量に廃棄する こうして次から次へ
にとって必要であるのか否かにかかわらずῌῌま
と絶えず商品を大量に生産しつづけ それを消費
ず作っておいて あとからその製品に対する需要
しつづけ そして廃棄しつづける しかし この
や欲求を惹起させればよいというわけである ま
ように商品を大量に生産しつづけるということ
ことに本末転倒もはなはだしいというべきであろ
は それだけ貴重な天然資源を食い潰していくと
う8 いうことであり また商品を大量に廃棄するとい
うことは それだけ地球環境を汚染していくとい
7
Immanuel Kant, Kritik der Praktischen Vernunft,
Der philosophischen Bibliothek, Bd.38, Felix Meiner,
うことである これを一言でいえば 環境を悪化
S.182.
させていくということである このように現在の
8
シュマッハはこれを目的と手段の関係の逆転現象
としてとらえている その
経済システムは 環境の漸次的悪化という代償に
目的より手段を尊ぶこと
ῌῌ引用者 欠点は 人が本当に望んでいる目的を選び
よって かろうじて維持されている
とる自由と能力とを失わせる結果になることである 手
こうして 大量生産大量消費大量廃棄 と
段を開発することが いってみれば目的の選択を一方的
いう経済システムは必然的に悪循環を繰り返すこ
に決めてしまう そのよい例が超音速機の開発であり
月に着陸するための膨大な努力である このような目的
とになるが しかしこのシステム自身は自らこの
を思いついたのは 人間が本当に必要とし 望んでいる
悪循環を断ち切ることはできない あたかもペダ
もの 技術はその実現の手助けをする
ῌ῍
が何であるかに
経済科学研究所
紀要
こうした技術の論理と結託した企業の論理に
第 33 号
2003
い成長とはいえないであろう
よって 本来 それが人間にとって必要なのか否
大量生産大量消費大量廃棄 は経済の持
かの議論を抜きにして 次から次へと新製品が生
続的発展という観点からは否定されなければなら
産される そして われわれはまるで魔法にでも
ないし また世代間倫理 intergenerational eth-
かかったかのように 衝動的にそれを買いもと
ics の観点 すなわち未来の世代にできるだけ良
め 消費し たちまちそれを廃棄して また新し
好な環境を残してやるべきだという倫理的観点か
いものをもとめる 見方によっては愚劣としかい
らも否定されなければならない 現代の世代が資
いようがないが しかしいわゆるバブルがはじけ
源を消費すれば消費した分だけ 未来の世代が活
るまで営としてわれわれがやってきたのは ま
用できる資源が乏しくなっていく 同様に われ
さしくこのような愚行であったのである 消費
われが地球環境を汚染すれば汚染した分だけ 彼
は美徳である と煽動され それが自分にとって
らはより劣悪な環境のもとで生活していかなけれ
本当に必要なのかどうかを反省し吟味することも
ばならなくなる それはわれわれの子孫に対する
なく こぞって 大量消費大量廃棄 の御先棒
責任の放棄であるが 同時にまた すべての人間
を担いできた
は公平であるべきである という正義の規範原則
1960 年代の初頭に 電通の子会社である電通
にも抵触する どの人にも自分の生活を享受する
PR セ ン タ が 出 し た 悪 名 高 い 電 通 PR セ ン
基本的人権があたえられているように 良好な環
タ十訓 は 高度に発展した資本主義社会にお
境を享受する権利があたえられてしかるべきであ
けるこのような異常な大衆心理を巧みについたと
る この点で 時代によって運不運や不公平が
いうよりも 巧みに操作しようと企図したもので
あってはならない
ある 曰く ῌもっと使用させろ ῍捨てさせ
ῌ
ろ ῎無駄使いさせろ ῏季節を忘れさせろ ῐ
贈りものをさせろ ῑコンビナトで使わせろ
われわれはそろそろわれわれの 生き方の質
ῒキッカケを投じろ ΐ流行遅れにさせろ ῔気
を変えるべき時ではなかろうか 今日のような生
安く買わせろ ῌ混乱を作り出せ 活水準の量的向上はけっしてわれわれに真の満足
9
まことに戦慄すべきキャッチフレズの洪水
感や充足感をもたらしはしない むしろシュ
であるが 当時は誰もこれを異常であるとか 反
マッハ Ernst F. Schumacher のいうように
社会的であるといって批判したりはしなかった
ますます貪欲と嫉妬心をあおり 法外な欲望を解
企業としての道義心や社会的責任を喪失した た
き放ってしまうだけである10 年収がいままでの
だ儲かればよい ただ売れればよい といった企
二倍になれば その人はいままでの二倍幸福にな
業の論理は 痛烈に批判され弾劾されるべきだと
れるわけではなかろう むしろ更なる年収の増大
思われる このように自然を破壊し 資源を食い
をもとめて齷齪し 神経を磨り減らして疲弊し困
つぶしていくような成長はとうてい真にのぞまし
憊するのが落ちである 衣食足りて礼節を知る
とか 衣食足りて栄辱を知る
管子 という言
葉があるが われわれは 衣食足りて自足を知る
ついて熟考した結果ではなくて ただ技術的手段ができ
ようにならなければならないのではなかろうか
たからなのである E. F. Schumacher, Small is Beauti-
昔 エピクロス Epikuros は パンと水さえ
ful: Economics as if People Mattered, Harper Perennial, 1973, p.54.
ル
9
39
邦訳
スモルイズビュティフ
講談社学術文庫 67 ペジ
戸 田 清 環 境 的公正をもとめて
新曜社 1994 年
10
40 ペジ 参照
E. F. Schumacher, op. cit. p. 38.
ペジ
῍ῌ
前掲邦訳書 48
エコロジῐと経済 ῑ小坂ῒ
あればῌ ゼウスと幸福を競って見せる῔ と豪語し
てしか考えられてこなかった῍ 要するにῌ それは
たと伝えられるがῌ われわれが生きていくうえで
手段的῎道具的存在にすぎなかったのである῍ そ
本当に必要なものというのはごくわずかなもので
してῌ このような自然の支配の思想ないし人間中
あろう῍ そこに種῏の贅沢や奢侈が加わり始める
心的な思想によってῌ 人間と自然との間の緊密な
とῌ われわれは却って真の幸福や満足というもの
紐帯は失われてしまった῍ 自然はわれわれの外に
を見失ってしまってῌ ΐもっともっと病῔ に罹って
あってわれわれに対立しているものでありῌ それ
しまうように思われる῍ 洋の東西を問わずῌ 賢者
は利用と支配の対象以外の何ものでもないと考え
がこぞって清貧を説きῌ また自ら清貧に徹したゆ
られた῍
これはベῐコン ῑFrancis Baconῒ やデカルト
えんであろう῍
たしかにῌ ある程度の物質的な富は豊かな生活
ῑRené Descartesῒ 以来の自然支配の思想と二元
にとって不可欠であるがῌ しかしそのような富が
論的世界観の必然的帰結であるけれどもῌ 本来ῌ
いくら増大してもῌ それが個人に心理的な満足を
われわれは自然の支配者として自然の外にあるの
もたらすわけではない῍ 心理的な充足感は生活の
ではなくῌ むしろその一構成員として自然の内に
量からではなくῌ 生活の質から生ずる῍ この点か
あるものである῍ またῌ それは色や香りや音を欠
らすればῌ 現在の先進国の生活水準はすでに適正
いた機械的な物質界ではなくῌ われわれの心情を
レベルを超過しておりῌ この度を過ぎた物質的豊
穏やかにしῌ 和ませῌ ときめかせる生命的世界で
かさがῌ 却って真の豊かさをわれわれから遠ざけ
ある῍ われわれは自然を支配し統御するときに真
見えないようにしているようにも思われる῍ 実
に心の満足を得るのではなくῌ むしろわれわれが
際ῌ われわれは未曾有の豊かさのなかでῌ 何不自
自然のなかに抱かれῌ 自然と融和したときに真の
由のない安楽な生活をしているわけではない῍ む
心の満足を得るのではなかろうか῍ 春には桜の花
しろ日夜ῌ 寄る辺ない不安と孤独と疎外感に苛ま
を愛でῌ 秋には紅葉を愛でる日本人の心性にはῌ
れているのである῍ 真に自足的な充実した生活と
まだこのような自然との一帯感や連帯感をもとめ
はおよそ懸け離れた生活をしている῍
る性向が根強く残っているように思われる῍ われ
またῌ このような物質的な豊かさはῌ もっぱら
われは真の ΐ豊かさ῔ とはいったい何なのかを虚
自然を搾取し収奪することによって築かれてき
心に反省してみるとともにῌ 人間と自然とのかか
た῍ 自然はῌ われわれがその一構成員であるよう
わり方はどうあるべきであるのかをῌ もう一度検
な共同体として見られたことは一度もなくῌ もっ
討しなおしてみる必要があるように思われる῍
ぱらそこから何か富や利益を引き出す対象界とし
῕ ῍ῌ ῕
ῑ日本大学経済学部教授ῒ