PDF形式 - 東京大学|大学院教育学研究科・教育学部

基調講演「教育のバリアフリー化が社会を変える」
東京大学先端科学技術研究センター教授
福島
智
(NHK の番組、爆笑問題のニッポンの 教育「私はここにいる障害学・福島智」ビデオ上映。)
今見ていただいた、映像の中でその指点字という部分、あれはもう一覧表が出来て、完成したような形
で紹介されましたけれども、私の母親が始めたので、最初はなかった訳ですよね。どうやってやったか
っていうと、少しだけ今日お伝えしますと、元々は普通の点字を書くための道具、点字のタイプライタ
ーというのがあって、これですけれども、このキーが 6 つあるんですよね。
右に 3 つ左に 3 つ、この 6 つのキーを使って、点字を打つための道具がこれは以前からありました。
「あ
いうえお」とか「ここは安田講堂です」とか、ちょっと間違ってしまいましたけれども...こうやって点
字を書く。私がね目が見えなくなっているところに、更に耳も通じなくなって盲ろう者になった時に、
母親が最初はこの点字のタイプライターで筆談をしていたんです。だけど、この点字の道具、このタイ
プライターというのは煩いですよね。煩いし、持ち歩いて喋ったり出来ない、空中に浮かして打ったり
はできないので、机に座って、さあ話ししますって状況じゃないと使えないので、不便だなあというふ
うに思っていた時に、たまたま指を使ったということです。
さっきの太田さんとやったスタイルとは、少しスタイルが違うんですが、ちょっと立ってみます。空中
でね、もしタイプライターを打つとしたら、こういう感じですね。例えば「あ」だったら、
「あいうえお」
この打つところから重たいということで、このタイプライターをどける。そしてこの指 3 本と 3 本、6
本にタイプライターを打つようなイメージで、また「あいうえお」と、イメージが私に伝わるというそ
ういうからくりなんですよね。私の名前が「さとし」といいますが、
「さ」
「さとし、わ、わ、わかるか」
という風に母親が、タッチしてくれたのが、たまたま通じたと。
今日、母親の本も玄関の方で置いていただいているようですけれども「さとしわかるか」というタイト
ルは、その時の、たまたまあぁやって指点字の意味が私に伝わったというので、それがタイトルになっ
ています。ただですね、あの、これがドラマとかだと感動するような場面で、そこで、わーっと感動的
な音楽が流れて、母と息子がひしと抱き合うって感じになるんですけれども、実際は全然違っていて、
母親はすごく感動だと自分では言っていますけど、私はあんまりその時は感激もしなかったんですよね。
何故かっていうと、そもそもその時は喧嘩していたんですよ。
母親と私は。喧嘩ね、あんまりドラマになり難いんですけど、これは。もう耳がだんだん聞こえなくな
ってきて、余程大きな声を出してもらっても聞こえないっていう状況で、イライラしてくる。病院に行
く時間が近づいているのに、母親がなかなか用意ができていないというようなシチュエーションで、そ
の台所に行って私がこの文句を言っているような場面だったんですよ。母親が何か声で言っているけれ
ども余り聞こえない。私はブチブチと文句を言う。母親が憎たらしい息子だと思っているけれども、何
か声で言おうとしてもなかなか通じないし、多分イライラしていたと思いますよね。その時に、ふと思
いついて今の指点字をやった。
だから、この指点字の発見の考案の背景には、私と母親の喧嘩をしていた時の腹立ち紛れのエネルギー
があったんではないかな思うんですね。それは、すごく大事かなと思います。これ、毎日泣き暮らして
メソメソしていたら生まれなかった訳で。やはりコミュニケーション取るというのは、此畜生と思って
いても何でもいいから伝えたいって思う気持ちが必要だろうと思います。
君は大学進学が希望なんだろうというふうに言われて、私はそうなんですが、すごく不安だしどうしよ
うかと迷ってると言ったら、君がやりたいんだったら、チャレンジすればいいんじゃないか。我々も手
伝うからというふうに、言って下さった。だけど、私はすごく不安で、先生、だけど仮に大学に行った
としても、そもそも勉強についていけるかどうか分からない。
卒業できるかどうか分からない。更に、卒業できたとしても、その後が将来があるのかどうかも分から
ない、とても不安ですというふうに、当時の私が言うと、先のことは誰にもわからないよというふうに
言われて、前例がないんだったら、君が前例になればいい。先のことはくよくよ考えても仕方がない。
とにかく、やるだけやってみて、まず、上手くいかなかったら、その時考えればいいんじゃないかとい
うふうに言われたんです。私もそれはそうだなというふうに思うので、日本は、やはり前例主義。前例
があるかどうかということですごく拘ることが多いですけれども、私はどこに行っても前例がないと言
われるですよね。見えなくて聞こえない状態で、大学へ入るのも初めて。卒業するのも初めて。その後
も初めてばかりがついてくる。そういう時に、だけどよくよく考えたらどんな物事でも最初っていうの
はあるんですよね。昔から全てのことが、ずーっと続いていたんではなくて、必ずはじめがある。何も
ない状態からスタートするっていうことが、必ず歴史的にはある訳で、たまたま自分が第一号になった
ところで、それで尻込みをしていたらどうにもならないというふうに思いました。
とにかく、やるだけやってだめだったら、その時考えようというふうに思ったんです。ところがですね、
私の父親は最初反対したんです。私今でも思い出しますけど、夏休みに実家に帰って、おふくろがゆっ
くりながら指点字で、私と父親との間のやり取りを通訳で話をしたんですが、さっきのこと言って、僕
は大学進学を決めたので、是非認めて欲しいだけれどもというふうに言ったらもうこれまで苦労してい
るんだから、もうこれ以上無理しなくていいじゃないかというふうに言ったんですよね。おまえひとり
くらいなんとか満足に暮らせるくらいのことは父親としてするから無理しなくていいんじゃないかと
いうふうに言われたんですが、私はね、それだと嫌だというふうに言いました。単にぬくぬくと育って
うまいもの食って、ごろごろしているだけだとまるで豚みたいな感じだし、僕は豚じゃないんじゃとい
うふうに言ったんですよ。
最終的に父親はもう、そうかそこまでいうんだったら、好きなようにやればいい。とことん俺はもう協
力してやるからというふうに最後に言ってくれました。この話をするとですね、だいたい私の友達等は、
おまえ豚じゃないのかというふうに言うんですよね。これ上着着ていると分からないかもしれませんが、
私は相当太っておりますので、腹も出ておりますので。今日、ポロシャツ着ていないのは、そういう理
由もあるんですけれども...でも、体は豚かもしれないけども、本質的には豚じゃないということですよ
ね。あるいは豚にはなりたくないと。そこでもし諦めていたら、その先はなかったんですが...とにかく、
やるだけやろうと思って受験志望を送るんですが、今度はところが社会というか大学というか、制度の
壁に阻まれて、目が見えなくて耳が聞こえない、高校生なんて受け入れたことがない、受験生なんて受
け入れたことがないから、うちでは受け入れられないっていうようなことをいう大学が実際にはでてき
たんですよね。
進学を希望したところも、そういう回答がきたところもあって、一次は受けてもいいけど、二次は受け
てはいけない。これは要するに受けられないと同じですけれども。それで一年目は受験が出来なかった。
これなんか典型的はバリアーです。これ、試験受けて落ちたっていうんであれば、まだ納得もしますけ
れども、そもそも受けられないっていうのは、甚だあの酷い話で、実は今でも障害を理由に試験が受け
られないということは、大学やその他の免許や資格試験等でも一部にはあるんですよね。私が受験した
のは、もう 20 何年前になりまして、そういったことが沢山ありました。つまり、大学には入ったけれど
も、大学の近くに住もうと思っても住むところが見つからないっていうことがあるんです。これはもう
大きなバリアーで、つまり、大家さんが、あるいは大家さんの手前の不動産屋で断られることもありま
すけれども、障害があるっていうことで、部屋を貸してくれないという、そういうところが何軒かあり
ました。
色んな人に手伝ってもらって何軒も回った末に、漸く見つかったんですが条件がついて、隣の部屋に誰
か、その友達なり知り合いなりに住んでもらって欲しいという条件がついたんですよね。本当はそんな
条件はのみたくなかったですけども、もう大学も始まるし、仕方がないのでその条件を受けて、暫くは
盲学校の先輩の人に隣の部屋に入ってもらって、繋ぎをしました。そして、大学に入ってそのクラスメ
イトに誰かその隣に住んでもうおうという計画を立てたんですよ。クラスの友達で、あのー私の相談相
手になってくれた男子生徒が出てきて、その男子学生が考えて、全体に呼びかけるだけでは難しいだろ
うから、アンケートを取ったらいいんじゃないか。男子学生を対象に同居人募集っていうアンケートを
しました。僕自身は、女子学生でも良かったですけれども、ちょっとそれはまずいんじゃないかと言わ
れて、男子だけにしたんですよね。あの時、女子学生も対象にしておけば、ちょっとその後の人生も変
わっていたかなーって思ってます。
うまい具合に友達が一人見つかって、下宿に入ることができました。こういうふうにですね、色んな壁
があるんですが、その壁にぶつかる度に苛立ったり、腹が立つこともあるし、すごく困ることもあるん
ですけれども、ただ、そこで尻込みをするか、それともその後に進むかっていうのを考えるとやはり進
むしかない。進まないでいると、いつまでたっても、自分の人生は開けませんので。それで、大学に入
ってからも、その後、進級したり卒業したり、大学院に進んだり、更にその後、研究者の道を歩むんで
すが、そういったそれぞれのステップにおいて、いくつかの壁にぶつかる度に、これは破るしかない。
少なくとも破るように取り組むしかないというふうに腹を決めてやってきました。
今日、パラリンピックの成田さんがいらっしゃっているので、水泳のことを申し上げますと、私水泳は
すごく遅いんですけれども、腹に脂肪がついている関係で、割とよく浮くんですよね。だから、水泳は
好きで、見えなくて聞こえないっていう状況だけど、例えば海に行って海に浮かんで、ぷかぷか浮いた
りするっていうようなことも好きなんですよね。目が見えない時から、もうもちろん海にはよく行きま
したけれども、目が見えないってだけであれば、耳が聞こえるから、例えば友達と離れたりしても、お
いこっちに来いって呼ばれたら聞こえるから分かる訳ですよね。だけど、聞こえなくなったら、もうど
っちが沖なのか、どっちがその海岸なのか分からないですし、かといって、ずっと誰かと手をつないで
泳いでいる訳にもいかないし、なんとかいい方法はないんかと考えたんですよね。
その時に思いついたのが、私は自分の盲ろう者の状態を宇宙飛行士みたいな状態、宇宙にいるような状
態だってよく言うんですけれども、宇宙飛行士はね、宇宙船の外での船外活動をする時みたいに、命綱
を体につないで、母船としてのゴムボートに繋げばいいんじゃないかと考えたんですよね。20 メートル
とか 30 メートル位長いロープを見つけてきて、片方の端を自分の体に巻きつけて、もう一方の端をグ
ーッと伸ばして、そのゴムボートに括りつけて、誰か見えてる人がゴムボートに乗って私がそのゴムボ
ートの周りを泳ぐと。そうすると半径 20 メートルとか 30 メートルの円の中でしか泳げないけれども、
それでもその部分は十分に泳げる訳ですね。例えば流されてきてるから、戻るぞみたいな時は、そのボ
ートに乗っている人がロープを引っ張って、私に合図をするっていう、かなり技術的な部分ではあるん
ですが、なかなかうまくいくんです。
盲ろうになって初めて、千葉の海だったと思いますが、千葉の海に行って、その方法で泳げて、とても
気持ちがよかったんで、私は、盲ろうの友達に僕はロープを腰につないで泳いだんだぞというふうに自
慢したら、私もやってみたいとか僕もやってみたいという人が出てきて、その後に海に行った時に、今
度はね、私を含めて 3 人で泳いだことがあるんです。すると、するとまあその最初は良かったんですけ
れども、泳いでいるうちに、なにしろ盲ろう者なので右か左か分からないし、他の二人がどうするのか
分からないので、だんだんとですね、この 3 本のロープが絡まり合ってきてですね、なんともいえない
状況になってきたんですよね。それで、合図をしようと思って、ボートに乗った人がロープを引っ張っ
ても、そのロープが誰のロープだか分からないとか。私は、これはもう 3 人とも溺れ死にそうになるの
で、これはもうだめだと思って。その後このロープ方式をやる時は、ひとつのボートに一人にしようと
いうルールができました。
こういうふうに色々問題が出てきても、それに対応していくっていうことが大変ではあるけれども面白
い、私もあのーゲーム感覚で、色んな壁にぶつかっていくっていうのは面白いかなっていうふうに思っ
ています。今言った例えば水泳の話っていうのは、もっと社会的な問題にもつながっていて、その後で
すね、私スイミングクラブに入りたいなぁと思ったんですが、またまたそこで壁にぶつかって、私が付
き添いの人間も一緒に入会すると言ったんですけれども、東京のあるスイミングクラブがどうしても入
れてくれないんですよね。何故だめなんですか?二人分払いますよ、付き添いの人がいますよと言っても、
だめだと言う。何故だめなのかって聞いても、理由がはっきりしないんですよね。危ないからとか、責
任持てないからって言う。何が危ないんかって言うと、はっきりとは説明できないんですが、すごく悔
しくて、戦おうかとも思いましたけれでも、こういうなにか差別的な取り扱いをされた時に、すごくし
んどいのは、その差別的な取り扱い自体がしんどいってことだけでなくて、あなたがたの対応は差別的
な対応なんだっていうことを、アピールして、更に戦わなければいけないっていうところに、しんどさ
があるんですよね。
二重のしんどさが出てくる。その時は他のことで、盲ろう者の福祉活動とかでエネルギーを使っていた
ので、個人的なことでは運動するエネルギーもなかったので、いわば泣き寝入り的に諦めてしまうんで
す。ただ、その後東京から金沢に一時期移っていたことがあって、5 年間金沢大学の方に行っていたん
ですけれども、金沢に行ってからは、またそのスイミングクラブに入ろうとして、そこでもいったんは
断られたんですが、その時は気持の上でも余裕があったんで、とことん戦おうと決めて、向こうのスイ
ミングクラブの人と、随分話し合いを続けて、場合によっては法的な処置を考えてもいいというところ
まで私が言ったら向こうも折れて、もし何か事故があっても文句は言いませんというような書類にサイ
ンまでして、入会金もですね半分この見栄もあって私は前払いでパッと払って、それで認められたんで
すよね。それで、私とそのー付き添いに行く男性とで二人分 2 か月でもいいですよと言われたんですけ
れども、いや 1 言って二人で 25 万円くらい払ったんですけれども...必死でこう戦って運動してエネル
ギーを使って疲れてしまって、体を動かす方の運動がなかなかできなくて、今から考えると合計で 5 回
くらいしか行けないんですよね。1 回で 5 万円もする高い水泳だったなぁと。そういうこともありまし
た。
私が一番大事だなと思っていることをひとつお話しようと思います。それは、私が盲ろう者になって、
コミュニケーションができなくなって、そのコミュニケーションが復活することで、生きる意欲を取り
戻したっていうことと関係があるんですけれども、結局、バリアフリーというのは異なるもの、異質な
ものがぶつかった時に生じる、摩擦とか対立とかっていうことが大きなポイントなんだろうというふう
に思っています。
例えば、なにか物理的な壁があったり、目に見える問題があって、それを解決すればなんとかなるって
いうことはもちろん沢山あります。例えば、さっきの下宿さがしをした時に、断られたっていう時であ
るとか、スイミングクラブに入ろうとして断られたってこと等も、下宿の場合はガスを使うと危ないん
じゃないかとか、あるいはトイレの使い方がきちんと出来るかとか、そういったことが問題になってき
ますし、スイミングクラブの場合でも、プールサイドが危ないんじゃないかとか、そういったことを向
こうは気にする訳ですよ。そういう目に見えることについても、ひとつひとつ解決するための話し合い
をしていくことと、あとは気持の上ですね。心の問題をいかに突破するかってことが大きなポイントに
なると思っています。
だけれども、最終的には、崩されないバリアー、最後まで残る壁っていうのはあるだろうと思うんです。
世界中がバリアフリーになることはありえないし、人と人との関係を考えても差別的な気持ちの問題、
っていうのは少なくしていけたとしても、人と人との間にある内面の意識と意識の間にある壁っていう
のは、決してなくならない。人の気持ちが分かるとか、相手の立場になるとか、簡単にすることはでき
ないっていうことですよね。どんなに親しい人であっても、どんなにその愛し合っているような関係の、
人間であっても、相手の気持ちに完全に同化するってことはできない。合体はできない。だけど、おそ
らくだからこそ、語り合おうとする気持ちとか、相手と繋がりたいと思う気持ちが生まれるんだと思う
んです。
私はバリアフリーの究極的な方法っていうのは、コミュニケーションだと思うんです。それも、穏やか
な優しい状況での、コミュニケーションだけではなく、時には摩擦が生じたり、対立があったり、誤解
も生じたりということも含めた、広い意味でのコミュニケーションだろうと。私の母親が喧嘩という文
脈の中で、指点字を思いついたっていうのは、ひとつのシンボリックな、象徴的な出来事かなと思って
います。こうやって、私たちが分かり合えないけれども、分かり合えないことを、分かり合えないから
こそ分かり合おうと思う。本当な繋がらない、どこまでいっても完全には繋がらない、一致しないけれ
ども、だからこそ、ただの存在に憧れる。そういうことがコミュニケーションの原動力ですし、それが
おそらく、バリアフリーの根本的な部分を実現する営みなんだろうと思います。私が、盲ろうになった
時の気持ちとか、コミュニケーションのありかた等について、感じたこと、短いポエムにしてますので、
それをご紹介して終りたいと思います。「ゆびさきの宇宙」と言います。
ぼくが光と音を失ったときそこにはことばがなかった。
そして世界がなかった。
ぼくは闇と静寂の中でただ一人
ことばをなくして座っていた。
ぼくの指にきみの指がふれたとき
そこにことばが生まれた。
ことばは光を放ちメロディーを呼び戻した。
ぼくが指先を通してきみとコミュニケートするとき
そこに新たな宇宙が生まれ
ぼくは再び世界を発見した。
コミュニケーションはぼくの命
ぼくの命はいつもことばとともにある
指先の宇宙で紡ぎ出されたことばとともに。