Inspiring Minds: Peter Wilding インスピレーション

Inspiring Minds: Peter Wilding
Misia Landau
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インスピレーションを与えてくれる人
PeterWilding
1957 年、Peter Wilding は 22 歳で、英国バーミンガム郊外にある建設現場の作業員として働いていた。一度、
雨が降っていた日に、電気ショベルが壊れた。Wilding は、ケーブルに鋤が挟まっていることを見つけ、その
問題を解決した。彼は鋤を取り除き、ショベル作業を再開した。次の朝、クレーンの操縦士が自転車に乗って、
通勤中に落ちて腕を折ってしまった。職長は前日に見たことに感銘を受け、Wilding に注目した。
「職長は『クレーンを運転してみたいですか?』と聞きましたが、私は『クレーンの運転の仕方は知りません』
と答えました。すると彼は『6 つのボタンだけだし、簡単ですよ。それでは気をつけて。』と言ったのです。」
と、ペンシルベニア大学医療センターの病理学と検査医学部門の名誉教授である Wilding 氏は言う。Wilding は、
クレーン操縦士のボックスまで百フィート登ると、ボタンを見つけた。「ひとつは『上』、ひとつは『下』と
書いてあり、ひとつは『外』、もうひとつは『中』と書かれていて、あとは『右』と『左』がありました。」
と彼は言う。1週間以内に、彼は巨大な機械を操縦していたそうだ。
Wilding には、このような話がたくさんある。これらの話はいとも簡単に、情熱的に、そして上機嫌に彼の口
から流れ出てくるのである。今日、最も著名な臨床化学者である Wilding が、話の達人という異名を持ってい
ることになんの不思議もない。 「 Peter との多くの会議に出たけれど、私はいつも Peter が座っているテーブ
ルに座りたいのです。なぜならそのテーブルがつまらなくなることは無いと知っているから。次々に話が繰り
出されるのです。」とペンシルベニア州立大学の MS ハーシー医療センターで病理学と医学の著名な名誉教授
である Laurence Demers は言う。
実のところ、 Wilding の初期の人生は、世界大恐慌、第二次世界大戦、朝鮮戦争といった 20 世紀の決定的な
ドラマの一部によって形作られた。ちょうどオートメーション革命が進行中で、臨床医の手から試験管をもぎ
取り、オートアナライザーのような機械に入れるような 1960 年代、彼は大人になり専門家となる。 免疫学的
手法、ポイント•オブ•ケア•サービス、分子学的診断など、他の技術革新が臨床化学に変化をもたらそうとし
ているまさにその時代、彼はその初期段階にいたのである。
彼は新しいクラスの特大タンパク質、macroenzymes を最初に同定することにより、まだ 20 代だった彼独自の
人生の変遷を開始した。これはまったく新しい研究分野を切り開くこととなる。彼が開拓し、特許を取ること
により、彼の親しい同僚 Larry Kricka とともに、数十年後に臨床検査室におけるマイクロチップ技術の使用を
追求していた。多くはその提案が非現実的な考えだと思っていた時代だった。
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「Peter は、その応用を確信していました。彼はいつでもわたしたちの背中を前に押してくれます。彼はその
点では明確なビジョンを持っていて、そこから雪だるま式にそのアイデアからやることが増大していきます。」
ペンシルベニア大学で病理学および臨床検査医学の Kricka 教授は言った。
「彼が持っていた考えが、ただ幸運だっただけではなかった」と、シアトルのワシントン大学の検査医学の
Michael Astion 教授は言う。 「彼はそれらのアイデアのために戦わなければならなかったのです。」
背が高く、強健で、今では白い髪の波に囲まれた彼の広い顔、Wilding は楽々と健闘しているように見える。
彼は、社交的で面白い、そして誇り高き英国人なのである。 「彼は外国語を話すアメリカ人たちとは対照的
に、自分はキングズイングリッシュを話すと思っています。」と Demers。
「もし、 Peter Wilding と私が両方のコンサルタントとして雇われ、我々の両方がまったく同じ料金と知ってい
たならば、彼はイギリスのアクセントで言うので、彼は 2 倍の支払いを受けるだろうと冗談を言っています。
それに彼は派手なスーツを持っているのですよ」と Astion は言った。Wilding はゴルフ場でも、完璧な着こな
しで、良質のワインや彼の妻 Audrey とのエキゾチックな冒険旅行が大好きである。
しかし彼は洗練されたウィットに富んだ外観で、多くの事に打ち込む。 「彼は成功するのが大好き。彼は小
さな種子のアイデアを、十分に成長した木にするのが大好き。彼は何度もそれを行うのが好きなのです」と
Astion は言う。
「彼は何をするにせよ、どこまでもやり遂げるのです。彼を打ち込ませるのは、完璧さです。何かを完了した
り、結実することを見ることが、彼を駆り立てます。」 Demers は言った。 「それは彼の性格 です。彼はとて
も意欲的な人物なのです。そして彼自身より他に、彼を駆り立てることは誰にもできません。」
彼の物語を伝えるとき、彼はしばしばチャンスの役割を強調する。ある雨の日、電動ショベルが壊れる事故が
あったと。しかし、その瞬間を捉えて、問題を修正したのは他ならぬ Wilding だった。クレーンの操縦士が落
ちて腕を折ったことは幸運だとしても、その役目を任されたことは偶然ではなかったのである。他の人なら拒
否した、または試みて失敗した可能性がある。Wilding はそうではなかったのだ。
運命のねじれを取り除き、それらを曲げ、彼の利点に変えてしまうこの習慣は、Wilding の子供時代にまで遡
ることができるだろう。彼は Wilding 家の長い系譜の一部として、丘陵と農場に囲まれたイングランドのシュ
ロップシャー郡で過ごした。彼らの系譜の記録は 1470 年にさかのぼる。 1934 年、 Wilding が生まれたとき、
イギリスは大恐慌の真っただ中で、戦争の危機に瀕していた。 1940 年代初頭では、緑のシュロップシャー州
の草原が変わってしまった:有刺鉄線がすべての塀に張られていた。鉄柵は、それぞれの家から引き裂かれ、
金属スクラップの山に投げ込まれた。Wilding は金属だらけの風景を変えようとした。彼と彼の友人は柵が植
物の槍だということにした。「別の遊び心ある 8 歳の少年によって投げられた」うちの 1 本が、彼の右腿に大
きな楕円形の傷跡を残した。
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学校の休み時に、彼らは隣の扉を走り抜けて、イタリア人捕虜のための収容所として使われている教区ホール
で、囚人とのおしゃべりをしただろう。自宅では、クロスワードパズルと読書が大好きな、実直で現実的な男
である彼の父親は2交代制の鉄道の仕事に出かけている間、何時間も姿を消してしまった。
彼の家族は、戦争の後でさえも暮らしに苦労した。苦難にもかかわらず、Wilding はのどかな幼年期を送って
いたように見える。強健でエネルギッシュな彼は、水球、長距離走などスポーツのすべての種類をこなした。
彼はラグビーを愛し、後にバーミンガムでプレーする。 「私は最速の男ではなかったのですが、私の全ての
成功経験は、ボールに何が起こっているのかを予想することから始まりました」と彼は言った。
彼が 11 歳の時、彼はボーイスカウトに参加し、イングランド中でのキャンプやハイキングで夏を過ごした。
彼は北ウェールズでロッククライミングを学んだ。 「私はウォーキングやハイキングの喜びと、山の楽しさ
を学んだ」と彼は言う。彼は教会の聖歌隊で歌っていた。 彼の声が出なくなるまで、「私はそこで歌が大好
きになったのです」。ティーンエイジャーとして、彼はサブリナダンスアカデミーで週に一度、彼の友人に会
った。 「当時は踊り方を学ぶ必要があったのです」と彼は言う。
そんなある日、彼が 13 歳の時、近所の大人になった息子が、試験管、ピペット、および硫酸銅のような化学
物質を完璧にそろった化学セットを持ってやって来た。Wilding は、それらを混ぜあわせるのが大好きだった。
「それは、さまざまな色を出すことの喜びだった」と彼は言う。学校では、彼にとって化学は簡単にできた。
彼は化学反応式のバランスをとることに喜びを覚えたのだ。彼は高校の先生に励まされ、化学者になるために
準備し、地元の技術大学で勉強していたとき、非常に少ない収入を彼の母親に残して、彼の父親が亡くなって
しまった。17 歳だった Wilding は、母親を助けるために学校をやめて、バーミンガムの医療技術者として就職
した。
それは、1950 年代初頭だった。彼の友人の多くは、朝鮮戦争で戦うために徴兵されていたので、軍に出頭す
ることを告げる封筒が郵便で来たときには驚かなかった。Wilding にとって、軍隊の経験が大きな分起点とな
った。彼は王立陸軍医療軍団に入隊し、化学、組織学、細菌学、および血液学をカバーする厳格な 6 ヶ月コー
スに従事した。彼は韓国に配属されましたが、彼が行こうとした 24 時間前に、多くの兵士を苦しめていた熱
帯性下痢を研究する研究室で働くために、香港に行くようにと言われ。そこでは、彼は臨床化学のルネサンス
的な訓練を得て、研究者のためだけでなく、完全サービスの病理学研究室のためにあらゆる種類のテストを行
なう。
彼はイギリスに戻ったとき、彼は化学を続けたいとわかっていたけれど、 博士号については考えていなかっ
た。「私は、私は産業界に運命づけられていると思った」と彼は言う。彼は建設現場の労働者として仕事を得
て、大学入試の準備をするために夜のコースを取って 2 年を過ごしていた。彼に 2 つのことが起こったとき、
大学入学の要件としてのフランス語を勉強して 3 年目を過ごしていた。彼はクレーン操縦士に昇進した。そし
て、彼は結婚した。
彼は、彼ら 2 人が医療技術者だった戦前にオードリーと出会い、彼が香港から戻った後、再び彼女に会った。
「残りは歴史だよ」と彼は言う。彼が彼の研究を追求し、彼の家庭生活を営むために、彼女は Wilding の頼み
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の綱だった。彼らには 3 人の子供、スチュアート、エリザベート、そしてマシューがいて、キャリアも持って
いるのだ。 「彼は本当に彼女の判断や彼女がどう思うかを尊重します。」 Demers は言う。
そのキャリアは、学問から産業界に Wilding を連れて行き、また行き来を繰り返した。それはまた、彼をイギ
リスとアメリカの間で行き来させた。この往復を見てみると、彼が運命の風に吹かれたように思えるかもしれ
ない。実のところ、Wilding は機会を作り出す才覚を持っている。たとえば、彼の学部の研究を終えた後、産
業界で働いていたが「地獄のように退屈」だとわかった。そこで彼はバーミンガム総合病院の主任臨床生化学
者としての職を得た。ある日、アミラーゼの異常に高いレベルを示す患者がクリニックに来たが、通常は酵素
を分泌する彼女の膵臓は、正常であるように思われた。Wilding は難問を精査し、女性がアミラーゼを排泄し
なかった理由は、それがグロブリンに結合していたため、あまりにも大きかったからだということを発見した。
博士号の基礎となった発見は、世界中の研究室で再現できる。また、それは Wilding のために扉を開いた。ロ
サンゼルスの南カリフォルニア大学医学部で 2 年間を過ごした後、 1972 年に彼はバーミンガムに戻った。彼
はそこで Wolfson 研究所、当時はまだ駆け出しの組織に加わった。彼の最も大切な指導者である Tom
Whitehead と協力し、彼との発展的な哲学を共有することにより、研究所を学際的な活動の拠点に変えた :
「大きく、創造的に考えろ。アバンギャルドであれ、冒険的であれ」と Kricka は言った。彼の最も創造的な活
動の一つは、Wolfson に Kricka が来ることを支援したことだった。
1977 年に彼は去り、アメリカにやって来た。彼は業界で、一連の地位を得た。まずは Technicon 社で、その後
Smith Kline Beckman だ。1986 年に、彼は数年前に会っていたレナード•ジャレットに招待され、ペンシルベニ
ア大学で病理学と検査医学の部門に移動した。もう一度、Wilding は Kricka を呼び寄せた。このペアが Jay
Zemel や同僚たちと働くことで、彼らのマイクロテクノロジーの仕事、臨床化学の歴史の中で最も生産的なパ
ートナーシップの一つが始まろうとしていた。
「通常彼の立場では、自分より愚かな人を選ぶでしょう。彼は頭のいい人を選び、その協力から利益を得るこ
とを恐れていませんでした。彼はおそらく単独で はマイクロチップを行わなかったでしょう。これこそチー
ムワークです」と Astion は言う。良いアイデアを見極め、良い人々を見極める。Wilding の成功の秘訣がまさ
にそれかもしれない。
Wilding はすぐに同意するだろう。 「私の成功は多くの学生やポスドクを含め、一緒に仕事をする人々のおか
げです」と彼は言った。
彼は、彼と彼の同僚がいまだローヤリティを稼ぎだす約 20 の特許を申請していた驚くべき 10 年が終わり、
2003 年に引退した。彼とオードリーは、馬の牧場とメインライン(フィラデルフィア)に面した美しい芸術
に満ちた家に住んでいる。彼らは南米やアマゾン川上流の東岸のように、エキゾチックな場所への旅行、また
はブルックリン、フロリダ州、イギリスのオックスフォードに散らばっている 5 人の孫を訪問していないとき、
Wilding は午前 7 時ごろに起床し、新聞を取ってくる。数独パズルを終えた後、彼は仕事に向かうかもしれな
い。彼はまだペンシルベニア大学のコンサルティングをしており、病理学部門の専門医学実習生を教えている。
米国臨床化学会の歴史部門の議長として、彼は彼が作っている映画に出演するよう同僚の襟首を捕まえている。
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日によっては、彼はさらに早起きして、彼のトレードマークであるエネルギーと熱意を示しにゴルフコースへ
向かう。 「彼はまだゴルフコースを歩く。私たちのほとんどがカートに引退しているので、非常に偉業です。
Peter が彼の胸を突き出して歩くようになりました。」と、Demers は言っている。 「それで私があなたに言
えることは、彼はまだ非常に、非常に競争好きということです。私は人生でずっとゴルフをしています。彼は
その後人生で始めたから、私は彼より良いゴルファーです。でも彼にこのことをいってはいけません。まあ、
我々がゴルフコースに出たら、結局、彼はあなたに 2 インチのパットを与えることはないでしょう。彼がショ
ットをミスしたとき、それは世界の終わりのようなものです。彼はそういう人間です。彼を最大限に駆り立て、
動かしている何かがあります。それは素晴らしいことです。」
(訳者:陣内 瑶)
謝辞
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