徳川みらい学会第4回講演会「徳川時代の人々がみた星空」

万 物 を 支 配 する神がいて、地 上の
空に恐れを 抱いていました。天地・
思 想という 考 えがあり、民 衆は星
古 代 から日 本では 中 国の天 帝
いてお話しいただきました。
員 。徳 川 時 代の天文 学の変 遷につ
立 科 学 館の嘉 数 次 人 主 任 学 芸
館で開催しました。講師は大阪市
は却下されました。予報が外れた
中国元王朝で使われていた授時暦
た。天文暦学者である渋川春海は
際の空 との誤 差 が 生 じて き ま し
わたり使われていた宣明暦では実
徳川 時 代 初 期になると、長 期に
た。
た り 改 暦 され ずに使 用 され ま し
衰 退 などから、
800年 以 上にわ
用しましたが、その後は天文 学の
にも 西 洋 天 文 学の知 識 が 広 ま り
日 食 予 報 が 外 れたことから 申 請 禁 書 令の緩 和により、民 衆の間
で改 暦 を 求めましたが、その後の
ました。豊 後の麻田剛 立は当 時の
ます 。
ましたが志半ばで死去してしまい
を 導 入 して改 暦 を 行 お う と努め
西 洋の天 文 暦 書 を も とに西 洋 暦
ていま す 。ま た 禁 書 令 を 緩 和 し、
内 吹 上 御 庭 などで天体 を 観 測 し
の実用的な観測装置を考案し、
城
いており、自ら簡天儀・測午儀など
宗は天文 暦 学に大 き な 関 心 を 抱
16年に将軍に就いた8代将軍吉
た。中世には唐王朝の宣明暦を採 渋川春海が亡くなった翌年17
算 法︵ 暦 法 ︶を 輸 入 して用いま し れることになったのです。
1872年、明 治 初 頭 まで使 用さ
1844年に天 保 暦に改 暦 され、
を 高めていき ました 。最 終 的には
の書物を直接翻訳し、暦法の精度
洋 天 文 暦 書ではな く 、オランダ語
これまでの中国語に翻訳された西
天文 方に抜 擢された高 橋 至 時は、
いう 暦 法を作 成しました。その後
洋天文 学 を 取 り 入れた寛 政 暦 と
支 配 者が天命を受けるといった考
理由は中国と日本との時差があっ
宝 暦 暦に記されていなかった日 食
天文と暦学
朝廷から幕府に移っています。
の改暦を機に毎年の暦の編集権が
よる改 暦 事 業に招かれ、初めて西
ある高 橋 至 時 と間 重 富は幕 府に
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徳川みらい学 会第4回 講演会
嘉数次人 氏
﹁徳川時代の人々がみた星空﹂
大阪市立科学館 主任学芸員
徳川みらい学会の第4回講演会 日 本では 古 代 から 中 国の暦 計
えですから、星 空 を 見 上 げること
たからで、その後これを 改 良 した
を 独 自の計 算により 予 言 し 的 中
吉宗による西洋天文学の導入
になる天 文 学は支 配 者 が 行 う 学
大和暦を作成し、
見事採用されま
させ、
名声を高めました。
日 ㈬ 、静 岡 市 民 文 化 会
問でした。為 政 者が天空に起こる
した。1685年、
当時の元号から
月
さまざまな 現 象 を 見て吉 凶 を 占
貞 享 暦 と命 名 された 暦は日 本 初
を
う﹁天文﹂と、
月の満ち欠けや太陽
の国産暦であり、渋川春海は初代
要旨は次のとおりです。
の動きで暦を編む﹁暦学﹂が、
近代
幕 府天文 方に任ぜられました。こ 1797年 、麻田 剛 立の弟 子で
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徳川時代初期の改暦
民衆による改暦
の終わり頃までの天文学でした。
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