愛機と共に永遠に故郷に生きる <2学期始業式 校長講話>

上田市立第二中学校
校長室だより
平成 24 年 8 月 22 日(水)
明倫の学舎よりⅡ
心を磨き
精神を研ぐ
№8
夏休みが終わりました。今年も猛暑の日が続きましたが,皆様,如何がお
過ごしだったでしょうか。特に大きな怪我や病気,事故の報告もなく,元気
に過ごせたご様子,本当によかったと思います。
2学期も,一人一人がより充実した日々を送れるよう,学校職員皆で支援
していきたいと思います。今まで以上のご理解とご協力をお願いいたします。
愛機と共に永遠に故郷に生きる
<2学期始業式 校長講話>
2学期が始まりました。最大の行事と言ってもよい「二中祭」,以後3年生
は高校受検,1・2年生は中体連新人戦に向けて前進する日々が続きます。
今,その2学期に向けて抱負を述べた,1年のHさんのキーワードは「ラ
スト 3 秒まで戦い抜く」。2年のMさんは「内容の濃い提出ノート」。3年の
Tさんは「受検に向けた生活習慣」でした。充実の2学期になるよう,気を
引き締めていきたいものです。
滝澤さんの生け花
さて,昨年のこの始業式にて,私は皆さんに「焼き場に
立つ少年」の話をしました。長崎に投下された原子爆弾の
犠牲となった幼い弟を背負い,その弟が焼却処分される順番を待つ少年の話です。
2・3年生の皆さんは,憶えているでしょうか。
今年も夏休み中の 8 月 15 日に,終戦の日を迎えました。「焼き場に立つ少年」の
写真を改めて見たとき,私は,胸にこみ上げる悲しみと憤りを覚えました。
戦争の愚かさを皆さんに伝え,二度と間違いを繰り返さないようにしたい。そこ
で,今日は,私の故郷「佐久」で起こった話をすることにしました。
先ず写真を見てください。これは「飛燕」と呼ば
れる戦闘機です。前に立つのは,この「飛燕」をこ
写真集「トランクの中の日本」
(小学館)
よなく愛した,特別攻撃隊長(特攻隊長)西川俊彦
中尉 21 歳です。
終戦から3日後,8月 18 日朝8時頃,佐久の上空に突然,飛燕が姿
を現しました。岩村田国民学校の2階スレスレに急降下,その後上昇し
た飛燕は,大きく旋回して三度急降下を始めました。その後フードが開
けられ,中にいた操縦士が,黒い通信筒を投げたのでした。そこには「岩
村田上ノ城 西川たか世様」と,表書きがされていました。
その後飛燕は,佐久の広い上空,特に「中佐都」「浅科」「野沢」の上空を何度も旋回。それからも
う一度国民学校上空に舞い戻り,「岩村田上ノ城」を超低空飛行。翼を振って旋回すると青空高く一気
に舞い上がり,積乱雲に隠れた「浅間山」に向かっていきました。暫くすると「ドーン」という大き
な音が,佐久平一帯に響き渡ったと言います。
この操縦士とは,まさに西川中尉。まだあどけなさの残る 21 歳の若者が,飛燕もろともに浅間山に
激突し,自爆したのでした。何ということでしょうか。
彼は,八日市飛行場で部下5名と共にひたすら特攻訓練をしていました。目標は敵の軍艦。爆弾を
積んだ飛燕と共に激突し,沈没させるのが目的でした。もちろん,生きて還ることはありません。
彼の率いる特攻隊の出撃予定日は8月 15 日。それは奇しくも終戦の日となったのでした。急遽出撃
中止。彼は,その知らせをどう受け止めたのでしょうか。特攻が中止となった今,死ぬ必要はないは
ずです。しかし彼はなぜ自ら命を絶ったのでしょうか。いやなぜ絶たねば
ならなかったのでしょうか。
彼が投げた通信筒の中には,母親に宛てた遺書が入っていました。自爆
の前日,8月 17 日に書かれています。目を通すと,彼の思いがよくわかる
ような気がします。涙が出ます。これから一部を紹介します。難しい表現
は,私の方で簡単な表現に変えてあります。
残念なるかな。ついに敗れました。栄えある特別攻撃隊長を命ぜられて
以来,最愛の部下5名と共に,ひたすら敵艦ごう沈の日を待ちながら,愉
快なる訓練を続けておりましたが,思いもよらず忠節を尽くすことができなくなってしまいました。
私の心中,十分お察し頂けることと思います。大東亜戦争必勝の信念はここに砕かれましたが,私が
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兼ねてから持ち続けてきた世界観は絶対に誤ってはいないと確信しております。
結局私は,この戦争で日本が苦しみ,苦しみ,苦しみ抜いて初めて世界の中心になり得ると考えて
おりましたが,ここに至り,戦争だけでは尚不足であるとの結論に達しました。天の与え給う最後の
試練であるはずです。
我々軍人は,ただ天皇陛下のご命令により行動するのみです。終戦を迎えた今,私の独断で,愛機
(飛燕)を操縦して太平洋,はたまたウラジオに向かい,敵艦を沈没させるのはいとも簡単なことで
す。しかしながら,それは敵兵5,000人を殺しながらも日本国民1億人を苦しめるという,軽率な行為
に他なりません。しかし愛機を焼き捨て,私一人が生き延びたとしても,生まれてから21年間,ただ
戦場に忠節を尽くすためにのみ育ってきた私にとって全く利益はなく,とても耐え得ることではあり
ません。部下の処置も大体決まり,私がいなくても心配はないと思います。しかしながら,最後まで
面倒を見てやれなかったのが心残りです。
ここで私は,日本が再起し,ついには世界の中心となり得ることを固く信じつつ,独断で,愛機と
共に,我が浅間山頂に鎮まることに決しました。
私は朝夕,浅間山頂より,日本,郷里の勃興を静かに見守っております。立ち上る煙を見るたびに,
思い起こしてください。厳として山頂に愛機と共に在ります。
父上,母上には誠に申し訳ないと思っております。何一つ親孝行をしてあげることもできず,尚さ
ら私一人先に死ぬということは,親不孝この上ないとわかっております。私の命は既になかったもの
としてあきらめてください。しかし私は,決して死にはしない心づもりです。日本勃興の暁までは,
浅間山頂に厳として生きております。これだけは信じていてください。
当分の間,母上は一人苦労をなされることでしょう。私は,母上を信じます。必ず,この難関を切
り抜けてください。
以降,幼い4名の弟に,「みんな仲良く心を結び合わせ,お母ちゃんを助けるんだぞ」「将来日本を
背負って立つ人間になるために,しっかり勉強するんだぞ」と書き留め,
「いいな,しっかり頼んだぞ」
「元気にやれよ。さようなら」と締め括っています。
敵艦に激突して死ぬという生き方一点を目標にしてきた西川中尉は,2日間,如何に死ぬか,どこ
を死に場所にするかをひたすら考えていたのではないでしょうか。そして辿り着いた答えは,やはり
お母ちゃんと弟たちのいる,故郷佐久。幼少の頃,いつも眺めていた雄大で優しい浅間山。広大な佐
久平はもちろん,県外をも一望できる懐深い浅間山に愛機もろとも激突して果てることだった。気丈
に遺書を綴りながらも,思いは故郷にあったのではないかと,私は思うのです。
浅間山に激突する前,西川中尉が佐久の広い上空を何度も旋回し,最後に岩村田上ノ城付近を超低
空飛行したのには,理由がありました。中佐都は,自分の生まれ育った故郷。浅科には母親の実家が
あり,野沢には母校県立野沢中学校(現野沢北高等学校)がありました。そして岩村田上ノ城には,
最愛のお母ちゃんと弟たちが住む家があったのです。きっと,貧しいながらも家族・親戚・友と楽し
く過ごした懐かしい思い出を辿り,故郷を心の底に焼き付け,総てに別れを告げていたのではないで
しょうか。
その時母親は,近くの畑にいたといいます。母親は,ザーッという突風に驚き,思わず見上げまし
た。そこには超低空飛行する飛燕,そして翼を振って旋回し空高く舞い上がっていく飛燕の姿があり
ました。母親は確かにその姿を認めたものの,操縦していたのがまさか別れを告げに来た息子であろ
うとは,考えるはずもありませんでした。
しかし,飛燕に乗った西川中尉には,畑で働く母親の小さな背中が見えたのではないか。いや間違
いなく見えていた。だからこそ,少しでも近くでお母ちゃんの顔を見るがために超低空飛行をし,飛
燕の翼を目いっぱい振って「お母ちゃん,さようなら」と言いながら旅立っていったのではないか。
私は,そう思いたいのです。
今年の夏休み,8 月 18 日の朝 8 時。私は,その岩村田上ノ城から浅間山
を望みました。青空が広がる中,ちょうど浅間山には雲が掛かっていまし
た。きっとあの日もこうだったに違いありません。雲がゆっくり東の空へ
流れていくと,一瞬雲間から浅間山頂が顔を覗かせました。その時,私に
は西川中尉の,厳としながらも穏やかな声が聞こえてくるような気がしま
した。
「お母ちゃん,私は今も,朝夕,浅間山頂より,日本,郷里の勃興を 静かに見守っております。立
ち上る煙を見るたびに,思い起こしてください。厳として山頂に愛機 と共に在ります。日本勃興の
暁までは,浅間山頂に厳として生きております。」
西川中尉は,「死に場所」を求めていたのではない。愛機と共に,永遠に故郷に「生きる場所」を求
めていた。その唯一の場所が浅間山だった。ふとそんな気がしました。
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