591 - 日本ロケット協会

A PUBLICATION OF JAPANESE ROCKET SOCIETY
2014-11
591
MAINICHI ACADEMIC FORUM Inc., 1−1−1 Hitotsubashi, Chiyoda-ku, Tokyo 100−0003, Japan ©2014, Japanese Rocket Society
日本ロケット協会第16代会長 村上卓司さんが平成26年11月 1 日17時 3 分、ご逝去されました。享年74歳でした。
ご冥福をお祈りします。
す。今どこがどうかはさておき、プリンス自動車入社後、戸
弔 辞
田康明部長の下で宇宙航空部に配属された村上君は、「パイ
オニアの時代」を駆け抜けました。
残された者それぞれの立場で、固体ロケットの無二の専門
元宇宙科学研究所長 元宇宙開発委員長 松尾 弘毅
家として、また数々の修羅場をくぐった先輩として言い残し
村上卓司君に先立たれたこと、本当に残念です。
てほしかったこと、書き残してほしかったことがあろうかと
つい先日、日産時代の彼の仲間達と飲み歌って、本来なら
思います。しかし、彼自身そんなことはまだ早いと思ってい
るうちの病変だったのではないでしょうか。
キーパーソンとしてそこに居るはずの彼のことを、話題にし
たばかりでした。官と民、立場こそ違え、宇宙がまだ夢に満
友人たちの去っていくペースが速まっています。辛いこと
ちていた頃に共に歩んだ仲間でした。駒場、相模原はもちろ
ですが、ご冥福を祈るしかありません。彼の吉幾三がまだ聞
んのこと内之浦、能代と、夜も含めてあらゆるところで顔を
こえるようです。いい奴でした。
合せました。
もちろん、彼は産業界の人間でしたが、それでも、昨今の
防衛と産業振興一辺倒の掛け声を聞かずに済んだのは、幸い
村上さんの思い出
だったかも知れません。
最初の人工衛星「おおすみ」、最初の惑星間飛行「ハレー
前IHIエアロスペース・エンジニアリング社長 丸泉 春樹
彗星探査」、そのほか宇宙研の数々の計画を可能にしたロケ
村上さんに、初めて出会ったのは、昭和47年の夏、本川越
ットを支えたのは往時の日産であり、その中心に居たのが彼
から的場の川越試験場に向かうマイクロバスの中でした。
でした。彼が成功に涙ぐんだのは「おおすみ」だったか「ハ
前の席に座っていた、年嵩に見えた男性が急に振り向いて、
レー」だったか、それとも両方だったでしょうか。人のこと
「君が今度の新人か、村上です宜しく」人懐っこいが、どこ
は言えませんが、情にもろい男でした。
というわけですから、仕事の上での思い出が限りなくあっ
か堂々として、覚えた不思議な安心感が、今も残っています。
て然るべきなのですが、思い出すのはプライベートな事柄ば
それ以来40数年、時に濃淡はあっても、常に指導を受け、
後を追って来ました。
かりです。
この間の、日本の宇宙開発の歴史その物とも云える、村上
日産のロケット部門が荻窪にあった頃、よく電話で夜呼び
さんの業績、思い出をお話しさせて頂きます。
出されたものです。西荻窪にある拙宅の宿泊客第一号は彼で
村上さんは、昭和40年東京大学航空学科を卒業され、プリ
した。とにかく独りで帰れる状態ではなかったのです。ここ
ンス自動車のちの日産自動車宇宙航事業部に入社、設計者と
は、例示にとどめておきます。
して活動を始められました。
心筋梗塞と聞いた時はショックでした。何しろ恐ろしげな
病名でしたので、周囲は腫れ物に触るようなつもりでいまし
ただちに実務の中心として活動を始められ、日本初の人工
たが、ご当人のその後の生活は相変わらずの豪放ぶりで、
「見
衛星「おおすみ」を打ち上げたラムダロケットの開発、そし
舞いに行って損をした」とからかったものです。
て本格打ち上げの基盤となったMシリーズへと道を切り開い
て来られました。
私も同じ病を得て、同じ病院に動脈瘤で入院していた彼と、
たまたま退院窓口で出会ったのが最後になりました。同病相
CONTENTS
○ Condolence Message… ……………………………… 1
○ Running Feature Article … ………………………… 3
○ Arianespace en mouvement ………………………… 4
○ Domestic News………………………………………… 5
◯ Overseas News………………………………………… 6
哀れむ、のではなく、互いの健闘を願ったのですが……。
およそ組織たるもの、「パイオニアの時代」に始まり、変
遷の後「官僚の時代」を経て「Aristocratの時代」に至って
衰亡する、と書いた人がいます。「Aristocratの時代」の意
味するところが今一つはっきりしませんが、内容からは、現
場に最も遠い人間が権力をふるう時代を指しているようで
1
故 村上卓司氏 ご略歴
おおよそ昭和50年ぐらいまでに、飛翔計算プログラム、ロ
ケットモーター燃焼性能予測プログラム等々、今では無くて
はならない固体ロケットシステムの設計手法をほぼ開発され
ています。
ふりがな
むらかみ たくじ
氏 名
村 上 卓 司
男
誕生・年月日・ 1940年 8 月 4 日生 (享年74才)
場所
岩手県陸前高田市
私も、川越の研究課から、荻窪での設計実習に行くことに
なり、村上さんたちのチームで指導を受ける中、日々精力的
専門分野
にシステムが構築されて行くさまを見るにつけ、黎明期の高
まりを感じたものです。
ロケット工学全般 特に固体ロケットの設計と性能
解析
学 歴
皆さんはあまりご存じありませんが、日産自動車は昭和40
年代の後半より、当時米国での衝突安全基準の強化に対応す
るためエアバッグシステムの研究開発をスタートしていまし
1959年 3 月
宮城県気仙沼高校卒業
1965年 3 月
東京大学工学部航空学科(機体)卒業
職 歴 等
た。エアバッグを膨らませるガス発生器には、火薬が使われ
1965年 4 月〜 プリンス自動車工業㈱入社(1966年、日産自動車㈱
1973年 と合併)
同社宇宙航空事業部に所属して、ミューロケット
の設計開発業務とロケットモータ燃焼性能予測プロ
グラムの開発に従事
ることから宇宙航事業部が協力する事になり、昭和48年川越
事業所に村上さんをチーフに開発チームが発足し、私も加わ
ることになりました。
第一線の設計者をチーフとして投入した宇宙航空事業部の
1973年 8 月〜 日産自動車中央研究所に協力して、エアバッグシス
1976年 3 月 テム開発に参加し、インフレータ用ガスジェネレー
タ開発を担当しシステムとして完成させる。
トップの決断に驚く一方、日産もある意味社運を左右しかね
ない重要な開発だったから、出来た事だと思います。
実質 3 年程度で基本開発を完了し、米国自動車学会での発
1977年 4 月〜 東大宇宙航空研究所で実施の、ABSOLUTE研究会
1986年 に参加し、将来ロケットのシステム研究を行い、M
−3SⅡ型とその後のM−V型の原型となる。
引き続いてM−3SⅡ型ロケット開発に参加しハレー
探査機「さきがけ」
「すいせい」の打上げにつなげる。
表、国内でのフリートテストが行われました。エアバッグを
装着したフェアレディーZが追浜から荻窪そして川越に到着
した時は、そのロングノーズが一段と華麗に見えたものです。
1986年 9 月〜 宇宙開発事業団で開発中のH−Ⅰロケットの 3 段モー
1987年 タ、アポジモータの開発に参加し、放送衛星BS−3a,
BS−3bの打上げにつなげる。
短い限られた期間で、濃密な開発を行う中では、様々な問
題が生じます。最終形状のつもりで多数手配した部品が強度
不足のため、変更を余儀なくされた事がありました。
1988年〜
日産自動車宇宙航空事業部の技術管理部長(‘88)、
1996年 基礎設計部長(‘ 91)、基盤技術部長(‘ 94)、事業部
長代理(‘ 94〜‘ 96)を歴任
担当である我々は、部品の処置に青くなりましたが、村上
さんからは、責める言葉も、ましてや愚痴などは一切出ませ
んでしたし、試験データ取得にはそのまま使用可能であると
全体システムのチームと調整され、安堵したのを覚えていま
す。リーダーのあるべき姿を垣間見た気がしますし、長い信
頼関係、尊敬の醸成された一コマでもありました。
米国での安全基準の適用が見送りになった為、結局搭載車
は市場には出ませんでしたが、この時期に開発された技術や、
試験設備はその後のH1 火工品他各種の火工品の開発基盤と
なり、宇宙開発に大きく貢献しています。
この間には、折に触れて、村上さんからロケット技術につ
1996年 6 月
日産自動車㈱を役職定年で退社
1996年 6 月
㈱日産エアロスペースエンジニアリングの専務取締役
に就任
2000年 6 月
㈱日産エアロスペースエンジニアリングの社長に就任
2000年 7 月
事業譲渡により㈱ I H I エアロスペースエンジニアリン
グ発足、同社社長に就任
2004年 6 月
社長を退任し、同社の顧問就任
2005年 6 月
同社を退職
2014年11月
ご逝去
学会、講演、各種委員会等
いての考え方もよく伺いました。特に印象に残っているのは、
「推進薬の種類の統合」という考えでした。
当時は、日々ロケットが大型化していき、それぞれの機体
に合わせ最適な推進薬が開発されていました。それぞれ意味
のある組成であっても、それをそのまま維持するのではなく、
将来使用される何種かの機体規模に合わせ、種類も統合する
という考え方です。
又当時のロケットの点火装置は、特殊な組成の薬剤で作ら
れていましたが、ロケット本体の推進薬と同一のもので作る
1966 〜
日本航空宇宙学会会員
1972 〜
日本ロケット協会会員
1985 〜 1995
日本計測自動制御学会宇宙航行委員会委員
1987 〜 1997
閉鎖生態系研究(CELSS)学会会員
1991 〜 1992
国際宇宙技術と科学シンポジウム(ISTS)プログ
ラム委員
1996年10月
‘96年度九州大学大学院講義の講師
1997年12月
‘97年度早稲田大学理工学部寄附講座の講師
1998年11月
‘98年度後学期 東京工業大学大学院講義の講師
2000年10月
日本工業大学 機械設計の講義の講師
〜 2001年 3 月
−共材−という考えも良く話されていました。
これらの概念は、徐々に現実化し現在の固体ロケットシス
この時期は忙しい合間を縫って麻雀や飲み会も良くやって
1997年 3 月〜 宇宙を材料に小中学生向けに実施した実験的理科教
2002年 8 月 育研究会(コズミックカレッジ)に参加し 5 年10回
実施
いました。車が故障して帰れなくなり、歩いて実験場に戻っ
1997年〜99年 科学技術庁次世代超音速機技術開発分科会専門委員
たり、秩父や奥多摩の保養荘で夜遅くまで意気をあげたり、
2005年〜
結婚前の私は、よくご自宅にお邪魔し、夕食を御馳走になっ
2006年 6 月〜 第16代日本ロケット協会会長
2008年 6 月
テムの基本となっています。
たり、時には談論風発美味しいお酒を楽しませて頂きました。
JAXA固体ロケット技術委員会委員
2007年 9 月〜 子供・宇宙・未来の会(KU−MA)理事
高度成長へ突入する前の楽しい時代でもありました。
2
つかれます。この時私は直属の課長として村上さんの下、推
エアバッグの開発が終わり、村上さんは荻窪に戻り本来の、
進系の開発にあたることになりました。
ロケット開発に従事する事となりました。
M−Ⅴの推進系は、世界最高レベルのものをすべての段で、
秋葉先生、松尾先生、高野先生、的川先生、多くの宇宙科
学研究所の先生方との研究会等も通じ次世代の打ち上げロケ
新開発するというものでしたから、様々な課題、問題は枚挙
ットシステムの検討を重ね、その後の機体システムをほぼ網
に暇がなく、宇宙科学研究所の先生方も、ひやひやされた場
羅する 2 トン級の衛星を打ち上げる構想が提案されています。
面も少なからずあった事と思います。
課題を乗り越えられたのは、ひとえに村上さんの経験と指
このような構想の一環として、数々の科学衛星を打ち上げ
導性の賜物だと思います。
たMシリーズに於いて、その玉成の極致ともいえるM3SⅡ
課題を適切に解決するため、川越の研究部署を統合する等
型の開発が始まります。
の施策はその一例です。
村上さんは、日産のチーフエンジニアとしてその開発に邁
進されます。この機体は日本初の惑星間ミッションとして、
そのような経緯を経てようやく開発の目処も見えてきた平
76年に一度接近するハレーすい星の探査を目的としており、
成 8 年、村上さんは、日産自動車の宇宙航空事業部から、子
昭和60年の限られた打ち上げウインドウまでに、所定の性能
会社である日産エアロスペースエンジニアリング(NASEC)
を満足する機体を完成しなければなりません。
の役員として移籍されました。
失敗が許されない中、既存の技術だけでは、性能は満足で
この会社は、宇宙航空事業部に、設計を中心とする技術者
きません。新開発と既存技術のバランスをどうとるか、決定
を派遣しており、移籍直前まで務められていた事業部長代理
までのご苦労も多かったと思います。
のご経験も合わせ、宇宙開発を基盤から支えていく活動をし
て頂いたと思います。
又設計・開発業務において、予定より性能が上がったので
その後、日産自動車宇宙航空事業部は平成12年、IHIグル
安心という事は、まずありません。いくつもの難所があった
ープのIHIエアロスペースとして再出発し、NASECもその
ようです。
私は、この時は、川越で、支援する立場でしたが、仄聞す
子会社IHIエアロスペース・エンジニアリング(ISE)とな
る限り、文字通り、骨身を削るようなご苦労もされたようです。
りました。村上さんは平成16年まで、ISEの社長をつとめら
昭和60年「さきがけ」、「すいせい」の成功の喜びは、如何
れ経営者としての、宇宙開発への貢献はもちろん、宇宙開発
技術者の指導育成という面でも尽力され、多くの後輩技術者
ばかりだったのでしょうか。
の育成に努められました。
M3SⅡ型の成功が続くのと前後し、村上さんは宇宙科学
研究所担当の設計課長という立場から昇任され、宇宙開発事
私も、その後ISEの社長をつとめさせて頂きましたが、村
業団で開発中のH−Ⅰロケットも一部担当される事になりま
上さんが構築、育成された、技術体系、人財が、しっかり機
した。H−Ⅰロケットは大型の実用衛星を打ち上げる為、新
能し、活躍するのを幾度となく目にしてきましたし、何度も
開発品であった 3 段モーター、アポジモーターには、大型か
助けられて来たのは、言うまでもありません。
村上さんは、会社外での人材育成、学協会活動にも熱心で、
つ、従来にない高性能が求められていました。当時最先端だ
ったカーボン/カーボン複合材等新材料が随所に、意欲的に
国際宇宙技術と科学シンポジウム(ISTS)他多くの役員等
使用されていました。
ご活躍されました。
ロケット協会の活動では、平成18年から20年会長を歴任さ
このような難度の高い開発が進む中、責任者の方で体調を
れています。
崩される方もいらっしゃいました。村上さんもこのころ短期
平成19年からは子供・宇宙・未来の会(KUMA)の役員
間入院されています。
としても、幅広く活動されていました。
開発の成功には、このようなご苦労の積み重ねがあったの
いろいろお話しさせて頂きましたが、村上さんの活動の広
だと思います。
さは、まだまだ書き尽くせません。
このような経過もあり、難度の高い開発を円滑に行うため
趣味のカード、ライフワークともいえる合唱団の活動、テ
の「設計技術管理システム」の重要性が認識され、昭和63年
クニックを駆使したカラオケ、つぎつぎとエピソードがわい
村上さんは技術管理の担当部長に就任されます。
てきます。
直接の開発からは、一時離れられますが、この時期導入さ
温かい人柄を通じ、多くの業績を上げられ、人財を育成さ
れた「図面管理ネットワークシステム」等は、その後の宇宙
れたことに心より敬意と感謝をお伝えし、ここで筆をおかせ
開発の基盤としてつながっています。
て頂きます。
しばらく宇宙開発の第一線を離れられていましたが、年号
もかわった平成 3 年 村上さんはM−Ⅴの本格開発も期に新
有難うございました。
たに発足したモーター設計を専門に行う基礎設計部の部長に
ご冥福をお祈りします。
病院の病室にナットが落ちるという危機一髪の出来事もあり
ましたが、幸いけが人は出なかったと前回伺いました。その
後は順調に進んだのでしょうか?
垣見:同じ年の 6 月、千葉の東大生産技術研究所で行った 2
段式ペンシルの実験で、指を全部切られるところでした。
発射台に据え付けようと 2 段式ペンシルのうち、まず上段
ロケットを先に発射台に入れました。次に下段のブースタを
連載特集記事
ロケット口伝鈔(16)垣見恒男さん(第 3 回)
○実験中の事故で、あわや指切断の危機
林:ペンシルロケットは荻窪での試験を経て1955年 4 月から
水平発射実験が始まりました。荻窪では燃焼試験で隣の荻窪
3
入れようとそれを持った瞬間に、上段ロケットが点火して飛
んでいってしまったんです。
ブースターをもっていた僕の右手には、燃料の燃焼粒が食
い込んで、大やけどのような状態になりました。荻窪病院で
メスで全部ほじくり出してもらいましたが、一ヶ月は使い物
になりませんでしたね。
林:なぜ、そんなことが起こったんですか?
垣見:本来なら下段のブースタが先に着火し、その後上段ロ
ケットに着火するはずが、作業した糸川研究室の担当者が配
線をミスしたんでしょう。もし、上段ロケットを持っていた
ら、尾翼に指が全部切られていたと思います。そうなったら
日本のロケットはおしまいでしたよ。さすがに糸川さんは、
担当者に怒りましたね。
「おまえは!」と。糸川研の人たちは、
物作りという点では基礎ができていなかった。
東大のロケットの仕事をすればするほど赤字だと。
林:そうですか。それで、どうしたんですか?
垣見:糸川さんの要求に「こんちくしょう」と思ってね。と
にかくこのままだと寝ることもできず死んでしまう。そこ
で、あらかじめ考えられる範囲の計算をしてグラフにしてお
いて、設計会議に臨む訳です。設計会議が終わる頃にはその
グラフを基に、できそうだとか自分の中で結論を出しておく。
もちろん、糸川さんにはグラフのことは教えませんよ(笑)。
その方法を使い出してから寝ることができるようになりまし
た。
○防衛庁の仕事はするな
垣見:僕は糸川さんに文句を言うときは徹底的に言いました。
ある時、あまりの糸川さんの言葉に、頭に来て「会社を辞め
ます」と言ったこともありますよ。
林:何があったんですか?
垣見:防衛庁の研究所がロケットをやりたいから教えて欲し
いという要望があった。防衛庁はすぐに打てるように固体燃
料ロケットを研究していましたが、固体燃料の燃焼は大変難
しい。固体ロケットは富士精密が相当なノウハウをもってい
るはずだから、と富士精密の営業を通して頼まれて、話しに
行った。
その間に糸川さんから何回も電話がかかってきて、ようや
く電話に出るなり「どこに行っていたんだ」とえらい剣幕で
した。防衛庁に行っていたと言うと、「なんであんたは防衛
庁のことをやるんですか。東大のことだけをやっていればい
いんだ」と言うわけですよ。
僕は「東大だけでは飯が食えません」と答えました。どれ
だけ会社が赤字でやっているか。防衛庁がちゃんと仕事を出
してくれることになって、東大の赤字を穴埋めして会社の仕
事としてやっていけるというのに。
田村:防衛庁の契約は前の年の工数から一時間あたりいくら
と決めて計算します。東大の場合は働く時間に関係なく、予
算の方から契約額が決まっていましたからね。
垣見:そういう経営的な頭が宇宙研の先生たちには働かない。
「仕事を出してやっている」という意識なんです。「こんなこ
とで文句を言われるなんて馬鹿らしい。やってられないので
会社を辞める」と会社の専務である新川春雄さんや取締役の
中川良一さんに話したら、「お前はロケットのパイオニアだ。
辞めたらもったいない。なんとかしてやる」と説得されてね。
林:どうなったんですか?
垣見:戦争中、海軍の監督官として中島飛行機に駐在してい
た昭和16年12月東大航空原動機学科卒業の方を久留米のBS
自転車から引き抜いて、防衛庁担当にしたんですよ。それで
僕は東大担当として専念することになったんです。(続く)
○せっかちな糸川さん−「このままだと死んでしまう」
林:そんな事故があったんですね。それにも関わらず、当時
はペンシルからベビーへとものすごい勢いで開発が進んでい
たようですね。
垣見:糸川さんはせっかちでね。ペンシルの実験をしている
時はベビーロケットを、ベビーの時はカッパロケットの設計
について相談していました。だから毎日寝かせてもらえない。
林:どんな生活だったのですか?
垣見:荻窪の会社から千葉の生産研に設計会議に出るために
通うのですが、当時は快速電車がないから 2 時間以上かかる
わけです。会議でオーダーを受けて、千葉を出るのが午後の
9 時。会社に帰ると夜中の12時近くです。
ところが、次の日の朝には、糸川さんから「設計会議の宿
題はどうなりましたか?」と必ず電話がかかってくるんです。
「やってません」と答えると「何をしてましたか?」と聞か
れる。「寝てました」というと「何を寝てるんですか。我々
の頃は戦争中で寝る暇なんてないですよ。そんな時間があっ
たらやりなさい」と言う訳です。
例えば、カッパロケットの時に会議でペイロードを積みた
いという話が出る。本来なら飛行経路や振動など様々な計算
で裏付けをしてから「できます」と結果を出さないといけな
いのに、糸川さんは設計会議で簡単に引き受けてしまう。そ
れなのに翌日、「どうなった?」と聞いてくるんです。
仕方がないから帰ってから徹夜で会議の議事録を書く。コ
ピー機もない時代ですからガリ版を使って。朝、できた書類
をもって工場に行って製造を頼むということを繰り返してい
ましたね。
そんなことを毎日やっていたら、残業が月に200時間を越
えてしまった。ある日、経理部長に呼ばれて「給料は差し上
げますから、会社に来ないで欲しい」と言われたんですよ。
た異星生物に攻撃されるエイリアンという映画の印象のほう
が強かったというわけである。
アリアンはギリシャ神話にでてくるアリアドネ(Αριαδνη)
という女神の名前をフランス語読みしたものであるが、フラ
ンスの産業研究大臣シャルボネルは「アリアドネの糸」とし
て知られるこの神話から命名を思い立ったと云われている。
「昔、クレタ島にミノタウロスという怪物が迷宮に住んで
いた。その迷宮に足を踏み入れたものは二度と帰る事はなか
った。クレタ島の王ミノスはアテネの青年男女 7 人ずつを怪
物への生け贄として要求していたので、人々の嘆きは甚だし
Arianespace en mouvement その 4
高松 聖司(アリアンスペース)
「アリアン」という名前は今でこそ有名だが、以前はそう
では無かった。アリアン 1 の初号機が打上げられた翌年に、
宇宙研の修士学生であった筆者の耳に聞こえてきたのが「欧
州がエイリアンという変な名前のロケットを打上げたらし
い」という噂だったくらいである。同じ頃アメリカで作られ
4
かった。ある年、生け贄に英雄テセウスが加わり、ミノタウ
ロスと勇敢に戦ってこれを殺し、無事生還した。」
さて怪物退治の後、テセウスはどうやって出口を見つける
事が出来たのだろうか。それは、「テセウスを愛していたミ
ノス王の娘アリアドネが、彼に一本の糸を与え、迷宮を進ん
で行くときはそれを繰り出し、戻るときはそれを辿って道を
見つけるように教えたのである。」
シャルボネルは、ヨーロッパ・ロケットの失敗で迷宮の中
にいるも同然の欧州が、この神話のように迷路から抜け出せ
るようにとの願いを込め、この計画を「アリアン」と名付け
たのである。そして新型ロケット開発がヨーロッパ11カ国の
計画になってもこの名前はそのまま残った。
話しは変わるが、テセウスに退治されたミノタウロスの名
前は米国の打上げ機に使われている。ミノタウロス以外でも
米国ではロケットにギリシャ神話の登場人物の名前をつける
ことが多く、タイタンやアトラスが知られているが、タイタ
ンもアトラスもゼウスとの戦いに破れている。退治されてし
まう怪物や、戦いで結局は敗れる神の名前をつけるのは不吉
な感じがするが、米国人の解釈を聞いてみたいところである。
このようにして始まったアリアンの開発であるが、当初か
ら静止衛星の打上げを目的としたことが他国のロケットと異
なっていた。欧州は、まずアリアン開発の目的について明確
な方針を立てた。もともとシンフォニー事件をきっかけに開
発がスタートしたアリアンは米ソ両政府と競争することを目
的にするのではなく、いざとなれば「自分の打上げ手段もあ
るから」と、相手の条件を緩和させる戦略という意味合いが
強かった。このため実際に使う事は少ないだろうと予想され
ていて、製造体制も全部で 6 機程度だった。この戦略が有効
に機能するにはロケットが確実に飛ぶ必要があったが、あま
り使う予定がなければ、開発・製造コストを最小にすること
も重要であった。そのため、既存技術をベースにシンプルで
信頼性の高いロケットを目指した。ここで後に商業化が成功
する鍵となる決定がなされた。それは射場に赤道直下の南米
フランス領ギアナを選んだ事である。赤道直下の打上げ基地
はロケットの打上げ能力を高くし、しかも静止衛星打上げに
おいて技術的難度が高くコスト高につながる上段エンジンの
再着火を不要とする。アリアン・ロケットを評して「もっと
軽く作れる」という人もいるし「再着火機能の無い上段部は
古めかしい」と批判する人もいるが、目的は静止衛星を確実
に軌道投入することであるから重くても差し支えないし、再
着火が不要であることは信頼性の観点からはむしろ有利であ
る。アリアンの開発を単なるロケットの開発と考えず、射場
と一体の「打上げシステム」の開発として目的を達成しよう
としたところはコンセプトに強いヨーロッパの面目躍如とい
ったところであろう。もっとも、米国がスペースシャトルで
再利用可能な輸送系で打上げコストを十分の一にしようとし
ていた時に、時代遅れの多段式使い捨てロケットを開発す
る、ということについては欧州の納税者の非難もあったらし
いが、それでもぶれることなく自分たちが定めた目標に向か
って進んで行ったことがアリアン成功の理由であったことは
間違いない。
そして1979年12月24日、クリスマス・イブの日に欧州の決
意をのせたアリアン 1 の初号機はギアナ宇宙センターから打
上げられ、見事に成功した。この成功は本当に嬉しかったと
みえ、極低温ステージが湿気を含んだギアナの空気を冷やす
ことによってできた霜を雪にみたてて、雪合戦に興じた、と
の記録が残っている。その中にはCNES総裁のユベール・キ
ュリアンも混じっていて「こんなに嬉しかったのは、バカロ
レアに合格した時以来」と言ったとされている。バカロレア
はフランスの大学入学資格試験のことであるが、東大が度重
なる失敗を乗り越え、苦難の末に日本初の人工衛星の打上げ
に成功した時、齋藤成文教授は「中学校の入学試験に合格し
たような気持ちです」と語っていて日仏の思わぬ一致に両国
の類似性が感じられるような気がして興味深い。
種子島からの旅立」を発売。2011年に米スペースシャトル・
エンデバーで宇宙へ旅立ち、国際宇宙ステーションから帰還
した麹や酵母で仕込んだとのことで、「はやぶさ 2 が無事戻
ってくるようゲンを担いだ。宇宙焼酎で種子島を全国にアピ
ールしたい」と上妻寛大専務。おかざき商店(南種子町茎永)
は「ハブサラーメン」を売り出し、南種子町役場は、人気ア
ニメ・宇宙兄弟の主人公が載ったポスター 700枚やのぼり旗
150本、缶バッチ1000個を作成、町商工会は打ち上げ当日「は
やぶさ 2 弁当」を見学所で売り出すとのこと。(11/23 南日
本新聞)
国内ニュース
内閣府は、安全保障を重視した新たな宇宙基本計画の素案
をまとめ、公表しました。新計画の期間は10年間。 8 日から
2 週間、国民の意見を募り、年内に決定し、来年度からの実
施を目指します。頭打ち状態の宇宙関連産業の成長が安全保
障に欠かせないとして、衛星の打ち上げ予定時期を明記し、
企業が事業計画を立てやすい環境を整え、宇宙探査では10年
間に計 8 機の衛星や探査機を打ち上げます。ロケットや衛星
などの輸出を増やし、官民の事業規模を10年間で現在の約
1.6倍にあたる 5 兆円に引き上げることも目指すとのこと。
(11/8 朝日新聞)
千代田区などは30日、区役所 1 階区民ホールで小惑星探査
機「はやぶさ 2 」を搭載したH 2 Aロケットの打ち上げをパ
ブリックビューイング(PV)でライブ中継します。ゲスト
に2010年 6 月、オーストラリアの砂漠で「はやぶさ」のカ
プセルを回収し「はやぶさ 2 」のカプセル開発を担当した
JAXAの山田哲哉准教授を迎え、科学ジャーナリストの寺門
和夫氏との対談形式で「はやぶさ」の軌跡を振り返りながら
わかりやすく解説します。(11/24 産経新聞)
防衛省は12日、弾道ミサイルの発射を宇宙から探知する
「早期警戒衛星」に必要な技術である赤外線センサーを開発
し、JAXAが2019年度に打ち上げ予定の人工衛星に搭載する
計画を明らかにしました。(11/13 朝日新聞)
小惑星探査機「はやぶさ 2 」を載せたH 2 Aロケットの打
ち上げを30日に控え、種子島宇宙センターの地元の種子島は、
はやぶさフィーバーに沸いています。見学ツアーの他、記念
商品も次々登場。上妻酒造は20日、新焼酎「HAYABUSAⅡ
名古屋大学航空宇宙工学専攻電離機体力学研究グループの
佐藤宗章教授は、三菱重工業と共同で、宇宙での大量輸送を
目的とした新方式の電気ロケットエンジン「ヘリコン静電加
5
る天文愛好家らでつくる「会津そらの会」は、はやぶさ 2 の
成功を祈り、折鶴の画像で作ったアート作品を27日にJAXA
に贈ったばかり。会長の地元陽子さん(44)は「メンバーから
『残念』という声が次々と届いた。延期によってトラブルが
避けられたと考え、打ち上げ後は何の問題も起こさずに帰っ
てくることを期待したい」と話しました。(11/29 毎日新聞)
速推進機」の作動実証に成功しました。ヘリコンプラズマと
呼ばれる高周波電波で加熱したプラズマを、地場と電極を組
み合わせて加速させる方式は世界初。2015年度中に宇宙での
作動を想定した試験機を開発、20年の実用化を目指します。
(11/24 日刊工業新聞)
内閣府宇宙戦略室は、2024年度までの10年間の宇宙政策基
本方針を定めた「新・宇宙基本計画」の素案について、日本
版の全地球測位システム(GPS)の「準天頂衛星」や新型固
体ロケット「イプシロン」などの打ち上げ計画機数などをま
とめた工程表・素案を公表しました。宇宙予算として財務当
局との調整分も含めて計45基を計画、最初の同基本計画を策
定した09年度以来、10年先の工程表を公表するのは初めて。
基本計画とともに年内に正式に決定します。工程表・素案に
よると、今後 5 年間に、準天頂衛星は 3 機(17年度に打ち上
げ予定)を打ち上げ、現在の運用中の 1 機と合せて18年度か
ら4機体制の運用を始めます。23,24年度をめどにさらに 3 機
を打ち上げ、米国のGPSに依存しない体制を整え、14年 9 月
に 1 号機を打ち上げたイプシロンは、今後毎年 1 機をめどに
打ち上げます。また情報収集衛星 3 機(16年度に 2 機、17年
度に 1 機)、温室効果ガス観測技術衛星 1 機、国際宇宙ステ
ーション(ISS)向け物資輸送船を打ち上げる大型ロケット
「H 2 B」5 機、20年度以降、24年度まではイプシロンを除い
て財務当局との調整中の衛星や探査機を計15機程度となって
います。(11/24 日刊工業新聞)
海外ニュース
11月 6 日、ISCコ ス モ ト ラ ス 社 は、RS-20型 ド ニ エ プ ル
ロケットによる、経済産業省の技術実証衛星「ASNARO
(Advanced Satellite with New system Architecture for
Observation)-1」など、計 5 機のペイロードの同時打上げに
成功しました。(11/6 Kosmotras)
11月14日、中国は、長征 2 Cロケットによる、地球観測衛
星「遥感23号」の打上げ及び軌道投入に成功しました。
(11/14
NASASpaceFlight.com)
11月20日、中国は、長征 2 Dロケットによる、地球観測衛
星「遥感24号」の打上げ及び軌道投入に成功しました。
(11/20
NASASpaceFlight.com)
11月21日、中国は、快舟ロケットによる、地球観測衛星
「快舟 2 号」の打上げ及び軌道投入に成功しました。(11/21
NASASpaceFlight.com)
東京ドームは30日、種子島宇宙センターで小惑星探査機
「はやぶさ 2 」の打ち上げに合わせ、宇宙ミュージアム「TeNQ
(テンキュー)」でライブビューイングを実施します。打ち上
げ前後と、H 2 Aロケットからはやぶさ 2 が分離する前後の
様子を200インチの大型スクリーンでライブ中継します。は
やぶさ 2 のプロジェクトメンバーで、テンキュー内に研究室
を構える東京大学の総合研究博物館の宮本英昭准教授のトー
クイベントも開催します。(11/24 日経M J )
11月30日、ロシアは、ソユーズ2-1b/フレガトロケットに
よる、航行測位衛星「グロナスK」2 号機の打上げ及び軌道
投入に成功しました。(12/1 FSA)
《編集室より》
より良い紙面作りのため、会員の皆様の建設的なご意見や
投稿希望の原稿等をお待ちしておりますので、今後ともよろ
三菱重工業とJAXAは28日、小惑星探査機「はやぶさ 2 」
を搭載したH 2 Aロケット26号機の打ち上げを、当初予定の
30日から12月 1 日以降に延期すると発表しました。30日に悪
天候が予想されるためで、ロケットやはやぶさ 2 に異常はあ
りません。予報では 1 日も悪天候の見通しで、打ち上げは 2
日以降にずれ込む可能性も。はやぶさ 2 計画の責任者を務め
る国中均・JAXA教授(54)らが28日、打ち上げ場所となる
種子島宇宙センターで記者会見をし、延期の理由として30日
は、雷の発生しやすい雲が、ロケットの進路にかかるとの見
通しを示しました。雲の厚さは、打ち上げの安全基準(1.8km
未満)を上回る 6 kmと予測され、ロケットに雷が落ちると、
電子機器が故障する恐れがあるとのこと。国中教授は「天候
はどうしようもない。気持ちを引き締めて準備し、数日以内
には打ち上げたい」と述べました。JAXAによると、はやぶ
さ 2 が、目的地の小惑星「1999 JU 3 」と地球の間を効率よく
往復するには、今回は12月 9 日までに打ち上げる必要があり、
打ち上げを見送った場合は、来年以降、改めて適切な日程を
検討するとのこと。(11/29 読売新聞)
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宇宙航空研究開発機構 宇宙科学研究所
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No. 591
ロケットニュース
発 行 ©2014
日本 ロケット協会
編集人 嶋 田 徹
発 売 三 景 書 店
打ち上げを心待ちにしていた全国の天文ファンらからは残
念がる声も上がりました。福島県会津若松市を中心に活動す
印 刷 愛 甲 社
6
平成26年11月30日発行
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